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クラシック徒然草-モーツァルトの3大交響曲はなぜ書かれたか?-

2014 MAY 25 18:18:55 pm by 東 賢太郎

Johannes_Chrysostomus_Wolfgangus_Theophilus_Mozartモーツァルトの最後の交響曲のうち、39番(変ホ長調)、40番(ト短調)、41番(ハ長調)を俗に「3大交響曲」と呼びます。こんな傑作群が誰からの依頼もなくたったの6週間で書かれて忽然と現れたと言われても我々は唖然とするしかなく、いろいろ憶測はなされてきましたがどれも確証はありません。モーツァルトの死因と同じく解かれていないミステリーであるのです。

人間だれも進歩しますから最後の方の作品が初期のものより評価されるのは普通でしょう。ドヴォルザーク、シューベルトの交響曲がそうです。しかし彼らの極めて有名になった最後の2、3作がまとめて「2大」「3大」と呼ばれることは通常ありません。ブルックナーの7-9番はそう呼ばれておかしくない偉業ですが、それでもそれを「3大」と呼ばれるとちょっといい加減な定義のように感じるのです。4番、5番も偉大だからです。

ではモーツァルトの3大以外は「小交響曲」なのでしょうか?中でも有名である35番(ハフナー)はセレナードの改作、36番(リンツ)は3日で速成、37番K.444とされていたものは他人の作品と判明、38番(プラハ)はメヌエット楽章を欠くという具合ですから、たしかに、仮に「3大」がなければモーツァルトは「交響曲も書いたオペラ作曲家」という位置づけになった可能性もあります。僕は制作過程はともかく出来上がった作品としての35-38番がブルックナーの交響曲系列における4,5番以上に偉大であることを通常以上に認めています。それでも3大は3大と呼んで違和感がありません。それほどこの3曲のクオリティは図抜けていると感じるからです。

ハイドンの最後の12曲、ベートーベンの9曲を知ってしまっている我々は、シンフォニー(交響曲)というのは重みある確立したジャンルとイメージしています。しかしモーツァルトが「3大」を書いた1788年にはそのどれ一曲としてまだこの世にありませんでした。だから「3大」を考える時、我々の頭にある交響曲という概念は一度とりはらって考えた方がいい。そう思わされたきっかけは、1985年ぐらいに出たクリストファー・ホグウッドのモーツァルト交響曲全集でした。そこにはモーツァルトの交響曲がなんと71曲もあったからです。どうしてそういうことになるかというと、当時の交響曲の概念からするとセレナーデやオペラ序曲に使った楽曲もその一部ということになるからです。解釈論が大事なのではなく、モーツァルトの頭の中がそうだったということが大事なのです。

交響曲というのは元来イタリアオペラの序曲です。序曲の役目は前座、前口上で、ガヤガヤうるさい聴衆にオペラが始まるよと告げて静めて集中させることでした。それがだんだん独立してオペラ以外の機会、つまり演奏会や貴族邸宅での音楽会などで登場の場を得ましたが、それでも聴衆の耳目を舞台に引きつける前座にすぎず主役はあくまで歌でした。ハイドンが1791年に書いた交響曲第94番は静かな第2楽章で突然大音量の和音が鳴るため「驚愕(びっくり)」というあだ名になりました。普通に聞いていれば別に驚きません。寝ているから驚くんです。これは交響曲の元来のお役目もにおわせるハイドン一流のユーモアです。

37番は1784年頃の楽譜が残っていてケッヘルがK.444という番号を与えていましたが20世紀はじめにミヒャエル・ハイドン(ヨゼフの弟)の作品にモーツァルトが序奏部を加えただけということが判明しました。これが当世流行の「コピペ・使いまわし事件」だったかどうかはともかく、当時の交響曲は他人のを拝借してもわからない、かまわない、その程度のものだったわけです。歌やピアノ独奏という「ショー」がメインである公開演奏会で35番ハフナーが開演前と終演後に分割されて演奏された記録もあります。まじめな顔をして通して聴くものではなく、良くいえば機会音楽、要は添え物だったことがお分かりいただけるでしょうか。

さらに興味深いことがあります。モーツァルトは83年にリンツで滞在したトゥーン伯爵邸で3日後に演奏会を開いて新作交響曲を披露することを快諾してしまい、「手持ちの交響曲が一つもないので、いまから急いで作曲しなければならない」(その日に父に書いた手紙)という事態になってしまいました。ここで彼が「交響曲」と呼んでいるのが上記の程度のものだったことは注意を要しますが、そこで書いたのが36番だろうとされます。しかしいくら天才とはいえあの名曲を3日で書いてオケの稽古までしたとは信じ難い。そこで37番がそれだったのだという新説が出てきた。リンツで書いたのは序奏だけだった、それなら辻褄が合う。伝説のリンツ交響曲は37番だったんだということで一件落着していた時期がありました。

ところがアラン・タイソンという音楽学者が五線紙のX線写真から作曲時期を調べると、序奏部を書いた五線紙は84年にしか使われていないものであることが発覚し、やっぱり36番が3日で書かれたことになってしまいました。ここで思い出すべきは彼がシスティナ大聖堂の秘曲を一度だけ聴いて後で書き取ったことです。彼は「音楽のピクチャーメモリーの持ち主」なのです。36番はおそらく頭の中ではもっと前から作曲されていて「ピクチャー(画像)」になっていた、それを彼は3日で紙に書き取った(写譜した)だけなのです。この特異能力は「3大」を考えるのに非常に重要なポイントになります。

ウィーンに出てきてからのモーツァルトはフリーランサーであり、お金と名声のためだけに作曲していましたからわずか6週間で一気にこの3曲を書いたのは何かの目的があったはずです。それも、3曲の信じ難いクオリティの高さからして相当お金と名声が得られそうだという期待がこもった巨大なものだったはずなのです。それは一般にウィーンの90年の予約演奏会等ではないかとされていますが、そのような場で演奏された記録は残っていませんし、彼という人間はその程度のインセンティブであれだけの労作を書くような性格ではないと僕は思います。

ヨゼフ・ハイドンには、パリの新設オーケストラであるコンセール・ド・ラ・オランピックから6曲の交響曲(今では「パリ交響曲」と呼ばれています)の委嘱がありました。1785-86年のことです。ちなみに、この時点でモーツァルトはまだ38番「プラハ」も書いていません。この6曲は大ヒットして楽譜はウィーン、ロンドンでも出版されました。ハイドンは大儲けした上に名声も手に入れたのです。同業者の大成功をウィーンにいたモーツァルトが知らなかったはずはなく楽譜も見たでしょう。その6曲に含まれる82番「熊」がハ長調、83番「めんどり」がト短調、84番が変ホ長調という事実が偶然だったとは僕にはどうしても思えないのです。

パリ交響曲といえば、モーツァルトはハイドンのそれに先立つ1778年に交響曲第31番 ニ長調 K.297 (300a)を書いていて、パリ初演時の自信満々ぶりは父親への手紙に赤裸々に残っています。しかしこの興奮と強がりの背景には彼が花の都でも通用するという自信の裏腹に、父レオポルドの、一家の命運を託す強すぎるほどの息子への期待がありました。

モーツァルト「パリ交響曲」の問題個所

しかしこの交響曲はパリの聴衆に一時の話題ぐらいは提供したかもしれないが、結局世渡りの下手な彼はコンセール・スピリチュエルの支配人ジャン・ル・グロにいいように利用され、あしらわれ、挙句の果てに同行した母親まで病死してしまった。パリは散々な目にあって鼻をへし折られた、人生最大の因縁の都市だったのです。彼がそのパリでのハイドンの成功を知らなかったはずはなく、心に荒波もたたず無関心であったはずはないのです。

話は飛びます。メンデルスゾーンの母親の親戚で、ロンドンに移住して成功したヨハン・ペーター・ザロモン(1745-1815)なる興行師(音楽プロモーター)がおりました。彼はハイドンを91年-95年に2度ロンドンに呼び寄せて「ザロモン・セット」なる交響曲を12曲書かせて大ヒットさせたことで歴史に名を残しています。ちなみに、この時点でモーツァルトはもうこの世にいません。モーツァルトの41番に「ジュピター」というあだ名をつけて畏敬したのがこのザロモンであったろうと言われているのをどう考えたらいいでしょう。もしモーツァルトが91年に突然死しなかったら彼の「ザロモン・セット」があったのではないかと想像するのは僕だけでしょうか?

またまた話は飛びます。3大交響曲を書く1年前の87年2月、ナンシー・ストーラスという英国人女性ソプラノ歌手がウィーンを発ってロンドンへ帰りました。彼女はオペラ「フィガロの結婚」のスザンナの初演歌手です。この役の重要さはフィガロを知っている人ならご存知でしょう。音楽学者アルフレート・アインシュタインが「コンスタンツェが嫉妬する権利を有していた唯一の女性」とまで言ったナンシーをモーツァルトがどれだけ好きだったかは、「どうして あなたを忘れられよう”Ch’io mi scordi di te ? – Non temer amato bene”」 K.505というピアノ協奏曲が歌を伴奏するような豪勢な曲を書いてあげて、彼女の告別演奏会で自分でピアノを弾いたことでもわかります。

帰国後にナンシーは兄と一緒になって何度かモーツァルトをロンドンへ呼び寄せようとしましたが彼はなぜか断っています。息子を父レオポルドが預かってくれなかったからだという説がありますが、生後間もなくの息子を乳母に預けて妻とザルツブルグへ行ってしまった男ですからどうも説得力がありません。それで息子は帰ったら死んでいましたし、一人で行くとなるとコンスタンツェの嫉妬も怖かったかもしれません。ではもしザロモンのようなプロモーターの強力な誘いだったら?だから彼はそれを待っていたのではないかと思うのです。強い動機が自分自身にも妻にも必要だった。そのために「ハイドンと並び称されるような作品」が必要だったのではないでしょうか。

ではそれは何でしょう?彼のお得意はピアノ協奏曲とオペラです。逆に、ハイドンのお得意は交響曲と弦楽四重奏曲です。ピアノ協奏曲とオペラは主役、プリマがいます。前者はシンガーソングライターであるモーツァルト自身、後者では彼お気に入りのソプラノ歌手でしたが、どちらも音楽だけでなく主役のワザや美貌までも含めて客を楽しませるショービジネスです。しかし88年当時、ピアニストとしての彼の人気はウィーンでも下火であり、86年の「フィガロ事件」でオペラの方も暗雲がたちこめ始めていたのでした。

ショーマンではない地味な男であったハイドンはモーツァルトの得意分野にはあまり手を出していません。一方のモーツァルトには決して得意科目ではなかった交響曲と弦楽四重奏曲ですが、82年に出版されたハイドンの作品33「ロシア四重奏曲」を知ってそれではいかんと一念奮起して書いたのが弦楽四重奏曲の「ハイドンセット」であったことはご紹介しました。その作曲は天才にしては珍しく推敲に推敲を重ねる苦難の道だったことを本人も認めていますが、そこまでエネルギーを傾注しても「やっておかねばならない仕事」だった。このハイドンセットが誰にも依頼されていない例外的な曲集だったことは特筆すべきです。

40番は最初クラリネットなしでしたが改訂版でそれが2本入りました。演奏機会がないのに改訂する必要はないので40番だけは彼の生前に演奏されたことはまず確実であり、91年のウィーンの音楽家協会の演奏会であのサリエリが指揮した「モーツァルト氏の新しい大交響曲」が40番だとする説があります。しかしそうであったとしても3曲全部を演奏したわけではありません。そういう場で演奏されることを想定したなら40番だけで用は足りたのです。それなのに彼はどうして3曲も書いたのでしょう?

楽器編成の違いからも同じ機会に3曲がセットで演奏されることを目論んだとは思えません。41番と改訂前の40番はフルート1、オーボエ2でクラリネットなし、39番はオーボエなしのクラリネット2です。41番には40番にないトランペット、ティンパニがあります。つまり、39-41番をセットで演奏するのは無駄な楽器と奏者が出て不経済です。1曲でも演奏機会はなかなかないのにそんな不経済をおして狭いウィーン音楽界で誰かが演奏してくれると妄想するほど彼は現実離れした男ではありません。やはりどうして3曲も書いたのでしょう?という疑問がどうしても頭をもたげます。

結論へ至るもうひとつ重要なカギがあります。こんな傑作群がたったの6週間で書かれて忽然と現れたという事実です。ここでリンツ交響曲を思い出す必要があります。3曲を6週間、つまり1曲2週間です。36番を3日で書いたのに比べれば5分の1の速度なのです。頭には3曲分のピクチャーメモリー(画像)がほぼできていてそれを写譜するだけだったならゆっくり目とさえいえます。僕は41番の直筆譜の全曲ファクシミリを持っていますが、直した後はほとんどなくまるで写譜の清書版です。彼がピクチャーなしで書いた、つまり作曲推敲しながらいきなり書いた貴重な楽譜がレクイエムでそれも所有していますが、見比べれば両者の差は歴然であります。

主役やプリマのいないハイドンの得意分野は楽譜さえあればアマチュアレベルの音楽家たちでも演奏できるいわば「民主的な」ものでした。音楽が宗教世界から離れて俗世界に出てまだ1世紀程度であり、上演にカネのかかるオペラが王権を離れて民主化されるにはまだ半世紀ほど要する時期です。富裕市民が広く音楽をたしなむようになったロンドンで音楽への新規需要が生まれましたが、ザロモンのようなプロモーターが歓迎したのが宗教、王権とは遠い交響曲でした。入場料だけでなく楽譜も売れるという収入が大きかったのです。英国の産業革命と民主革命そして印刷術の進歩という3つのマクロ的潮流がその背景にありました。

プリマや天才が舞台に出てきて喝采を受けることで客を呼ぶスタイルだと売上連動でギャラを払う必要があります。こういう市場成長期には興行師からすれば売れる楽譜を買い取ってコストを限定し、増えた売上は全部自分のものになる株式投資型の方が圧倒的にうまみがあるのです。ハイドンが人気があったのはそのせいです。モーツァルトをロンドンに呼べば当たった可能性はあります。彼が反王権的においのぷんぷんするフィガロをリスクを取って書いたのもそれを当て込んでのことです。しかしロンドンは歌舞伎者の彼を出資者、パートナー(共同経営者)にするよりハイドンを支払額が決まっている業務委託契約で使う方を選びました。我欲の強くない彼もそれで満足でした。カネにうるさい強欲のベートーベンが呼ばれなかったのも同じ理由と僕は思っています。

「3大交響曲」がどうして3曲書かれる必要があったのか?作品を3,6など3の倍数のセットで発表するというハイドンの確立したスタイルを模倣、踏襲するためです。人気の落ちた彼の交響曲を1曲でもウィーンで買う者がないことは明白でした。しかも彼の耳は進化して大衆受けしないピアノ協奏曲24番まで書いてしまっている「心の中の声」は後戻りできないところに来ていました。それならその自己最高水準の曲を3つ、ハイドン先生の流儀に習って発表し、ロンドン、パリのアンテナにかかることを期待しよう。86年になってパリ、ロンドンではハイドンの得意ジャンルの方が大当りしたというのっぴきならぬ事実に直面した彼がそう思って不思議でないのではないでしょうか。

結論を書きます。3大交響曲は「交響曲のハイドンセットである」というのが僕の仮説です。

繰り返しになりますが、ウィーンで売れっ子ならばそんなことは気にもならなかったでしょう。ところが86年の「フィガロ事件」で形勢が変わってきた。それをこのブログで詳述いたしました。

モーツァルト ピアノ協奏曲第25番ハ長調 K.503

3大交響曲の構想、彼の頭の中での作曲は87年ごろ、ナンシーが英国に帰ってしまったあたりから強い動機となって目に見えず進んでいたのだと僕は想像しています。彼は王権の失墜と市民革命は見事に予見していましたが産業革命と印刷術の進化によるマクロ的な音楽需要の流れにのることができませんでした。しかし彼のその焦りのおかげで我々は変ホ長調、ト短調、ハ長調の3つの小宇宙とでもいうべき大傑作を手にしたのです。

「さよならモーツァルト君」のプログラム・ノート

 

(こちらへどうぞ)

モーツァルト都市伝説

 

モーツァルト交響曲第39番変ホ長調 K.543

モーツァルト交響曲第40番ト短調 K.550

モーツァルト交響曲第41番ハ長調「ジュピター」K.551

 

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