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カテゴリー: ______オルフ

僕が聴いた名演奏家たち(小澤征爾)(1)

2024 FEB 11 11:11:38 am by 東 賢太郎

長いことご病気ときいていたが、とうとうこのタイトルを書かされる日がきてしまった。急な出張で京都に一泊し、2月9日に静岡に寄った。悲しいニュースを知ったのは帰りの新幹線が新横浜に着くころだ。2月6日というから東京は雪だった。ご自宅は成城らしいから同じ国分寺崖線のうえで我が家から遠くない。そういえば小澤さんも成城学園の先輩であり、田村正和さんはバスケットボール部だが彼はラグビー部だった。学校のあの景色が好きな人が多い。

最後にお姿を見たのはサントリーホールで、たしか2006年、ユンディ・リとのラヴェル、そしてチャイコフスキーか何かだったかと思う。あんまり覚えてないのは、僕にとって小澤さんというと、なんといってもあの若かりし頃のシカゴ響やトロント響とのシャープで運動神経抜群でエッジの立った快刀乱麻が強烈だからだ。僕自身、近現代物からクラシックの森に入っていった人間なのでどうしてもその辺のレパートリーに来てしまう。ウィーンに行ったあたりからの重鎮ぶりを知らないわけではないが、「世界の」がついていた頃の日の出の勢いがオーケストラに伝播してただのきれいごとでない音楽が生まれてしまう若々しい熱量というものは、本質的にそのままの形では大御所的になりにくいものがあった。僕はウィーンという街も歌劇場もウィーン・フィルハーモニーも大好きだが、政治と商売の “ウィーン” は嫌いだ。

はっきり目と耳に焼きついているのは1984年2月に本拠地ボストン・シンフォニー・ホールできいたシェーンベルクの協奏曲(Pf.マウリツィオ・ポリーニ)とR・シュトラウスの家庭交響曲だ。たぶんウォートンの期末試験が終わってのことだったのだろう、家内とハーバードの友人の家に遊びに行った折に幸運にも遭遇した二人の旬の競演は手に汗握った。小澤の手にかかると普通は混濁してしまう不協和音までが透明だ。彼はピーター・ゼルキン(CSO)と、ポリーニはアバド(BPO)とシェーンベルクの協奏曲を録音したが僕は断然前者を採る。シカゴ時代の小澤は無双無敵で、5年ほど後にジェームズ・レヴァインが同オケでやはり若々しいタクトをふるうが近現代物に関しては小澤を凌駕する者なしだ。

ルトスワフスキの「管弦楽のための協奏曲」(CSO)は見事な一例である。生まれてまだ16年の同曲のスコアから多彩な生命力と色彩をえぐりだす。それに米国最高峰のオーケストラが敏捷に雄弁に反応する。これを読譜力などという干からびた言葉で形容して何の意味があろう?

小澤征爾はバーンスタイン、ブーレーズが録音しなかったトゥーランガリラ交響曲を1967年に録音した。これの重みは増している。この曲、いまや春の祭典なみにポップスとなったが当時は現代音楽であり、その過程を僕はつぶさに見てきている。こういうことで、自分が「あの時代の生き証人」として未来の人に見られると感じるのは、プロコフィエフの権威であるプリンストン大学の学者さんに我がブログが引用されたからだ。書いておくのは意味があろう。トロント響はCSOよりアンサンブルが落ちるが小澤の若さ炸裂の前には些末な事実になってしまっているという意味でもこれは出色の演奏であると評しておく。今もってそれだけ規格外の指揮ということであり、立ち合ったメシアンがそれを気に入ったから32歳の日本人に北米初録音が託された。これが歴史だ。

かように小澤征爾の指揮は一言で形容するならinspiringである。なんたってメシアンまでinspireしたのである。この英単語は一週間前の2月3日に書いた前々稿(「若者に教えたいこと」を設けた理由)  にまったくの偶然で書いているが、僕自身にとって人生のキーワードみたいに大事な言葉だ。いま、こうして若者・小澤征爾を聞き返し、またまた大いにinspireされ、改めて彼を好きになっている。

ベルリン・フィルハーモニーでのオルフ「カルミナ・ブラーナ」のビデオはだいぶ後年(1989年12月31日)だが、54歳でも若者だ。速めのテンポにBPOの奏者たちが乗せられ自発的に反応しており、全盛期のキャスリーン・バトルも気持ちよさそうに歌って楽員たちが聞き惚れている。それが理想の指揮でなくて何だろう。この曲の最高の演奏のひとつである。

軽めの急速部のテンポが速い。これは思慮のない効果狙いの無用な速さではなく音楽の生理的欲求と奏者の肉体的限界とのせめぎあいでぎりぎりのところに成り立つ究極のテンポであって、それを小澤は計算というよりも蓋し本能的に成し遂げている。奏者たちはその快感に引き込まれて火がつき、己の肉体の限界をも越えようかというパフォーマンスを発揮している。即ち、この演奏者あってこそのまさに一期一会であって聴衆には途轍もなくスリリングだ。

そうしたことまでが斎藤秀雄に習った指揮技術なのかどうかは素人に知る由もないが、とにかく技術なくしてコンクールで優勝するはずはない。ただ、僕が感じ入るのは、英語もできずスクーターで単身ブザンソンに乗りこんで、それでいきなり優勝した人だという事実だ。もぎとったその結果の方である。それこそが何物にも代えがたい彼の才能を雄弁に語っている。そもそも、成否はともあれ今も昔もそんなことをしようと企てる日本人が何人いるかということだ。それだけでもレアな人なのだ。技術は大勢に教えられる。しかし、inspiringであることは持って生まれた資質であって教えようがない。だから小澤征爾は他に出ようがない。そういうことだと僕は強く感じる。だから彼は指揮者に向いていて、だからそれになったのだろうし、大成もした。それが宿っている彼の音楽が聴く者の心を揺さぶるのはもっともなことなのだ。

(続く)

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カール・オルフ 世俗カンタータ 「カルミナ・ブラーナ」

2016 APR 9 7:07:11 am by 東 賢太郎

a0057280_1505056カール・オルフ(1895-1982)はミュンヘン生まれのドイツ人作曲家ですが器楽曲はほとんど書いていません。音楽史の系譜でどこにいるのか、未だに僕はよくわかりませんし先人も後継者も不明。「フーガやソナタといった純音楽を書くことは不可能」として劇場音楽に専念した人です。「音楽と動きの教育」の理念を持った人で教育者でした。

子供もできる動き(リズム)と音楽の融合の理念を持っていて、というと確かにフーガやソナタとは遠いですね。シンプルでリズミックで同じ音型のくりかえしが多い曲になります。しかも劇場音楽だから歌がついてくるし、歌詞も小難しいものでなく人間の原初的なもの。頭でなく体で感じる音楽。そこが現代のロックに通じる要素の根っこかもしれません。

僕はドイツに住んでいてドイツ人に囲まれて仕事をして、なんともいえぬ「規律正しさ」を感じました。ドイツのイメージとしてあたりまえのようですが、日本人のように道徳観とか社会常識としてのそれよりも動きや行動様式の規律ですね。もっと人間の性質、本能としてのメカニックな律動があって、たとえば体操選手が体型も性格もちがうけど演技ではみな同じ動きになる、ああいう感じです。

やや危険なことを覚悟で書きますが、政治的意図は皆無なのでご容赦お願いしたい。ナチスが出現しやすい国民性がそこにあったかもしれない。現代のドイツ人はそれを了解し、戦後の困難を乗り越えましたが、その復興プロセスにもその特質は発揮されたわけであり経済的にちゃんと強い国になっている。

オルフの音楽の本質にこのドイツ的なものがあることは大いに感じます。カルミナ・ブラーナの解釈にはその立脚点がオリジナルであることも。しかしそれをわかったのははるか後年であり、大学時代に強烈な洗礼を受けたこの曲は僕にとって格好いいロックであり、ビートルズとクラシックを橋渡しする重要な存在でした。

d36c411a-f568-40ba-a779-3c645fc8f25eなんといっても、この曲はあらゆるクラシック音楽の中でも最も麻薬的なものを含むと断言してしまいたい要素に満ち満ちています。空想する限りの媚薬、向精神薬、抗うつ薬、麻酔薬みたいなものが混然となって、あなたの疲れた頭も体も癒し、場合によってはぐにゃぐにゃにほぐしてくれ、最後はちゃんと元気にしてくれます(右は魔力にハマって買ってしまったショット社のピアノ版スコアです)。

ラテン語、中高ドイツ語の歌詞がついてます。11~13世紀の学生や修道僧が書いた詩歌集で、まじめに考えたら大間違い。若者の怒り、恋愛、酒、セックス、パロディなどてんこもりで、わが国における落首のお下劣版のイメージですね。ローマやポンペイの遺跡の壁画のセックス表現も凄いがこちらも大変にストレートにエッチであり、それが修道院から発見されてしまうところがまさに人間くさい。いつの世も人間は変わらんことを納得させてくれます。

この曲にはカトゥリ・カルミナなる姉妹曲がありますが、そっちにいたってはポルノ小説でもここまでやると発禁だわなという超絶ド迫力であり、皆さまのお上品なクラシック音楽のイメージを粉々に打ち砕いてくれるでしょう。とてもここには書けませんのでご関心ある方はぜひ検索してみて下さい。

この性的なものにあけっぴろげというのもなんともドイツ人で、サウナやバート(公衆浴場)に行くと堂々たる混浴でびっくりします。もちろん素っ裸で若い女性も平然と闊歩。目のやり場どころかこっちがあせる。これはドイツ人だけスケベだというのでなく、立派な文化です。でもこれを目撃するとアングロサクソン人やラテン人とドイツ人が混じり合うなんてありえねえ、ユーロはやっぱり仮想通貨だなと思う僕なりの人間の根源的瞬間でもあるんですね。

ともあれラテン語、中高ドイツ語ですからわけがわかりません。ヤマモレ ビギナリ トトサレオーとかアッター レンコン  スミレーとかきこえて時に日本語回路を刺激することはあるのですが基本的に僕にはどうでもいいことを歌ってるのであって無視。とにかく音楽の鮮烈な素晴らしさだけで1時間があっという間にたつのです。

素晴らしいのが我が小澤征爾さんが若かりし頃(89年)にベルリン・フィルを振った、ベルリン・フィルハーモニー・ホールでのジルヴェスター(大晦日)コンサート。冒頭の誰でも知ってる『おお、運命の女神よ O Fortuna(オー・フォルトゥーナ)』、主部が遅くてがっかりのが多いですがこの速さですね、これしかない。ソプラノのキャスリーン・バトル、まさしく素晴らしい!2曲のソロ、僕が知る限り、最高の歌唱であります!

そしてこの指揮、すごいです。天下のBPOを振り回してる。振らせてもらっただけで満足みたいなのが多い日本人。甲子園に出れただけで幸せですなんて1回戦で負けてくるチームみたいだ。小物ですね。そもそも指揮者で小物なんてのは定義矛盾だと思うのです、悪いけど。

小澤さんはやりたいことやりまくってます。甲子園、出るのは当たり前で初戦から優勝狙ってますね。それがオーラになってオケにびんびん伝わってるからベルリン・フィルが本気モードになってる。今日は気が乗らねえな、日本の金づるのお客さん指揮者におつきあいだ、早く終わって焼肉食おうぜみたいなのとちがいますね。だから出てくる音楽がホンモノだ。

彼がボストン交響楽団の常任指揮者になったのって、日本人がIBMやアップルの社長になったみたいなもんなんです。それだけでもすごいのにそれを29年もやった。オケ団員じゃないんです、マネジメントですからね、天と地ぐらい格が違う。我が国として業界を問わず歴代筆頭格の真の意味でワールドクラスの日本人です。ちょっとバーンスタインにかわいがられたとか、彼はホモですからね、そんな連中とわけが違う。

さてカルミナですが、全部いい曲で困りますが、僕は21番のIn trutina 「天秤棒に心をかけて」(ソプラノ独唱)(上掲ビデオの51分43秒から)が大好きです。体じゅうがとろけますね。22番の子どものオーオーオーもかわいいし木魚みたいにポコポコ鳴る打楽器がくせになります。23番の Dilcissime「とても、いとしいお方(ソプラノ独唱)」のソプラノがこれまたしびれるんです。このバトルの声はエクスタシーみたいなものをくれますね。そしてその次、BLANZIFLOR ET HELENA(白い花とヘレナ )の合唱、これはピアノで弾くのが最高なんです。快感ですね。

youtubeにすごいのがありました。僕がファンである名ソプラノ、故ルチア・ポップの歌うIn trutina です。紅白の小林幸子じゃありません。

まあ、ドイツ人にとってもこういう歌だということですね。ご記憶に焼きついたのでは。

という感じでこれを聴くのは僕にとってロックやポップスと同じ。次々と新しいナンバーが出てくるというのもアビイ・ロードやサージャント・ペッパーズを聴いてるのと何ら変わりません。それも一度ハマルると常習性はずっと高いです、なんせ1時間のヴォリュームありますからね性質悪いですよ、ちょっとやそっとじゃ抜け出せなくなるからご注意を。

 

マイケル・ティルソン・トーマス / クリーブランド管弦楽団

最高に鮮烈、痛烈な快演です。僕はこのLPで曲を覚えたので後から聴いた作曲家お墨付きのヨッフム盤がダサくて笑ってしまった。ドイツ保守本流?カンタータの流儀?文科省推薦と同じぐらいどーでもいいですわ、そんなの。権威主義の評論家のジイさんたちがヨッフムばかりほめるんでアンチテーゼのこれは冷や飯っぽくなりましたが、とんでもないです。この曲のリズムと和声の妖しい魔力をシャープにえぐり出してロックにしてしまったMTトーマスの瑞々しくてしなやかな感性は天才的。これとボストンSO(DG盤)の春の祭典は彼の最高傑作です。ちなみにこれはCDも買ってみましたがどうも録音レベルが低く、音量を上げると音質が落ちるという困ったものでした。もっとまじめに作れといいたい。LPは最高ですがSACDなどまともなフォーマットでの名演の復活をのぞみます。これは大学時代に買ったLPから録音したものです。

 

レオポルド・ストコフスキー / ヒューストン交響楽団

41NE9T06D1L歌が合唱がとても前面に出てサ行の発音が団員個人レベルまでよく聞こえ(!)低音楽器とティンパニはひっこんであんまり聞こえず、高音楽器は高感度で聞こえる、というかなり妙ちくりんな録音バランスにおいて「そそる」ものがあります。Full Dimensional Soundとうたった58年当時のEMI自慢のハイファイ録音方式のご利益でしょうかとにかくいろんな楽器がきこえるんですね。O Fortunaの「na」の短い切り方、軽めで速い感じからしてあっさりしてて、伴奏のピッチカートや高いクラリネットが聴こえるのがいい。胃にもたれないサラサラ系ですね。オーオーオーのポコポコの音は魅力的だなあ。ストコフスキーはカラフルな味つけがうまいんです。名人ですね。歌はうまくはないですがなんとも人間味があって曲に合ってます。この曲に飽きた人のお口直しにおすすめ。

 

クルト・アイヒホルン / ミュンヘン放送管弦楽団

720ドイツに敬意を表しあげておきます。まさにドイツ人らしい。腰の重い管弦楽、走り出すと止まらない重戦車のような質量と頑固さをもったリズム。これを僕は大学時代に下宿でFM放送からカセットに録音し、数えきれないほど聴いた、トーマス盤と並んで心のふるさと的存在であります。ルチア・ポップとヘルマン・プライの起用もあたっており、合唱も含めて歌の音圧がアンサンブルの基盤にあるのは、これがロックでなくカンタータであり、ベートーベンの第九に近いのだということを教わります。名曲は多面的で奥が深いものです。

(こちらへどうぞ)

モーツァルトはポール・マッカートニーである

 

 

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ウォルフガング・サヴァリッシュの訃報

2013 FEB 25 23:23:14 pm by 東 賢太郎

強いていえば、何かアブストラクトな高貴なものに触れた心の衝動だ。それはブラームスが産んだものであり、ナヌートが目の前で再現したものだ。久しぶりにそこで音楽が産みだされ、生成されているのを感じることができた。こういう音楽を、僕たちの時代人はいつまで聴くことができるのだろう。

つい一昨日、こう書いた。そうしたら今日、そういう音楽を聴かせてくれたドイツの巨匠の訃報を知った。

1984年にフィラデルフィア管弦楽団とハイドンの104番、ヒンデミット「画家マティス」、ドヴォルザークの8番、エルガーVc協(ポール・トルトゥリエ)、ブルックナー交響曲第2番、85年にロンドンでフィルハーモニア管弦楽団とカルミナ・ブラーナ、2004年にN響とベートーベンの7番。これが僕がサヴァリッシュを生で聴いたすべてだったと思う。

カール・ベーム亡き後、ドイツの保守本流をいった人だが、ベームよりさらにレパートリーはドイツ中心だったように思う。奇をてらわず常に正攻法であり、風貌もまじめな銀行員というお堅そうな印象のためだろうか、壮年期の日本での評判はいまひとつだった。しかし大学時代の当時LPで買ったシューベルトの交響曲やメンデルスゾーンのイタリアやモーツァルトの魔笛を僕は愛聴したし、何といっても、ドレスデン国立歌劇場管弦楽団を振ったシューマンの交響曲全集こそは、今になっても凌駕するもののない逸品として僕のLPレコード棚に君臨し続けているのである。

このシューマンでサヴァリッシュが産みだしている造形は信じがたいほど堅固であり、ドレスデンのいぶし銀の光彩を放つ弦、蠱惑的な木管が生み出す歌、朗々たるホルン、ヴァイオリンにユニゾンで重なるフルートの極上の愉悦感、ティンパニのはじけるようなリズム感と古雅な音色、どれをとっても「最高級のオーケストラ演奏」であると言ってまったく過言ではない。僕はこの演奏によって、ドレスデン・シュターツカペッレという天下の名器とでも表現するしかない老舗オーケストラに、永遠に魅惑される運命に陥った。演奏の細部がどうのという次元の楽しみではなく、シューマンの音楽そのものにひたっている幸福感がひたひたと心に満ち溢れ、それこそそれが永遠に続いてほしいと願うしかないような喜びを与えてくれる。

これはシューマンのシンフォニーのような音楽の演奏としてはあまりない体験であり、優れたバッハの演奏でしかおそらく経験のない、要は演奏者の個性はあまり印象にない、しかし聴いた後にずっしりとした音楽的充足感が残るという稀有の性質ものだ。何かドイツ音楽というものだけが醸成している固有の完結した世界、一つの有機体とでもいうべきロジカルな存在、それに明快で簡潔な数学的な解を与えられたような印象がある。こういうことはベームでもカラヤンでもないことであり、僕はそういう印象を、こともあろうにロンドンで聴いた彼のカルミナ・ブラーナでも抱いたのである。

CDになっている彼のブラームスとベートーベンの交響曲全集もそれに近い成果を上げている。特に、アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団という、これもドレスデンSKと性格は違うが同じほど素晴らしい個性を持つ名門オーケストラを振ったベートーベンは、演奏としては何一つとして変哲ないが、僕が世界で最も愛するコンセルへボウという音楽堂のそれ自体が芸術品である音響を見事に活かした演奏であるという点において、特筆すべき価値を有している。

こういう本道の演奏が、妙な変哲を売り物にした奇演に駆逐されていくとすればクラシック音楽はいずれグレシャムの法則にのっとって質的に衰退していくだろう。僕が世界第1号機を買った米国ホヴランド社製のパワーアンプ「ストラトス」は、某オーディオ評論家が誉めながらも「音楽的で本格派だから売れないだろう」と書いていた。まったくその通りだろうが、そこで「だから」となってしまうのが日本の悲しい所だ。このアンプで鳴らしたサヴァリッシュのベートーベンは、まったく皮肉なことに、最上級の意味において音楽的で本格派なのである。

2004年11月、最後の来日となったN響とのベートーベン7番は忘れられない名演で、もう耳にタコができてしまっているこの曲にもかかわらず、まさにそこで音楽が生成されているという現場に立ち会う幸福感にひたらせていただいた。余分なことは何もしないということのぎりぎりの美しさを教えていただいた。ほんとうに、これからは世界のどこの誰が、あんな風な立派なベートーベンを聴かせてくれるのだろう?

昨日のように思い起こすかなりご高齢だったお姿と、生気に満ちあふれたその日の7番の感動の記憶が、どうもひとつの点においてうまく交差いたしません。

 

心よりご冥福をお祈り申し上げます

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

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