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カテゴリー: Jazz

差別はする方が猿なみである

2020 JUN 8 12:12:54 pm by 東 賢太郎

僕がラヴェルやモーツァルトが好きだからといって、白人至上主義に組しているわけではないことを示すのが本稿の大きなテーマである。

ジョージ・フロイド事件は南北戦争以来くすぶっている米国の黒人差別問題がオバマ時代を経ても収まっていない現実を世界に知らしめ、社会問題として各地に伝播しつつあるが、実は多民族国家の米国だけの話ではなく、「多勢に無勢」が「いじめ」に発展するのは実は人間の万国共通の悲しい性(さが)であるというもっと根深い本質が背後にある。形を変えて大なり小なりどこの国にだってあることなのだ。わが国では古来より「長い物には巻かれろ」と教える。「長い物」に正義があるかどうか哲学的に論じようではないかということではなくて、単に少数派になるといじめにあうからやめとけという処世術だ。

「白人」という言葉は「東洋人」がそうであると同じほど曖昧であるので、ここでは「キリスト教徒である白人」と限定しよう。19世紀から現代に至るまでの2世紀をその白人が(他の白人の力も使いつつ)実質的に地球を支配したと考えるのは、事実か否かを問うのは困難としても否定してかかることも同じほど困難だから認めるしかない。その2世紀はアメリカ合衆国の台頭、隆盛の歴史とほぼ重なり、どの国であれそれ抜きに歴史の教科書が地球史として客観性を保つとは思えないという妥協でもある。しかし中世の暗黒時代の白人にはその片鱗すらないのは皆さまが世界史で学ばれた通りだ。高度に知的なギリシャ文明はアラビア語世界に知識、文献として保存されていたし、武力ではモンゴル人が戦火を交えた白人をことごとく殺戮してロシアを征服し現在のバルト三国の地域まで死の恐怖に陥れていた。古代に遡れば中国文明に羅針盤、紙、印刷術、火薬など現代文明の利器の源流があり、智においても力においても白人が絶対優位だなどという証拠はどこにもない。

ではなぜ今そうなっているかというと、ルネッサンス運動による哲学と科学の探求、それを個人にミクロ化することを可能にした市民革命、そしてそれらの最大の果実となった産業革命による資本の蓄積において未曾有の成功を遂げたからだ。それは疑う余地もなく人類史における白人の巨大な業績ではあるが、といってそれだけで永遠に優位で居続けることを保証する能力の優位性の証明にはならない。多くの白人は否定すると想像するが、その自意識に合理性がないことは上述のとおり歴史が証明しており、白人支配が続くことに正義を認めるのは白人だけである。ということは、後述するが、合理性、正義なき優越感は差別を生む元凶であるということを論理的に意味しており、彼らにとってジョージ・フロイド事件が不幸なアクシデントだったのは、それが満天下に証明されてしまい、世界の隅々に殺人場面までが放映され、格別の反差別主義者ではないが人道主義者だ平和主義者だという世界の広範な思想の人々をも動員してのムーヴメントに発展してしまう兆しになりかかったことだ。

ここで僕が歴史の視点を学んだ本をご紹介する(既読の方も多いだろう)。人類はひとつの生物種ホモ・サピエンスであるという歴史観から世界史を宇宙の創造からの地球史として書いたハーバート・ジョージ・ウェルズHerbert George Wells, 一般にはH.G.ウェルズ、1866 – 1946)のA Short History of the World (1922)(邦題『世界文化小史』、講談社学術文庫)である。一言で評するなら小説みたいに易しくエキサイティングな世界通史だ。我々が学校で教え込まれている民族や国家という視点が実は矮小であり、「日本は小さな島国」なる思い込みも自信の欠如も実はご無用であり、宗教がかった「世界国民」的思想ではなく、独善的利益追求のための醜怪なグローバリズムでもなく、ともすれば理論的な共産主義に近いがサイエンスに足場があることで同化はしない。ウェルズは英国人だが下層の出でオックスブリッジでも既得権益者でもなく、市民革命の恩恵で平等に得たサイエンスの知識でファクト(事実)に忠実に世界観を構築したと僕は想像する。

この書物が第1次世界大戦前に書かれなお命脈を保つばかりか新鮮ですらあることは、彼が1891年に四次元の世界について述べた論文『単一性の再発見』を上梓し、『タイム・マシン』を1895年に、『透明人間』を1897年、『宇宙戦争』を1898年に書いたSF小説の父であった豊かな想像力と無縁でないだろう。その視点は学問の府における歴史学の主流にはなっておらずこれで受験勉強することはあえてお勧めしないが、いずれ気づかれることだが、学校が教科書で教える世界観や知識は皆さんが現実の社会で生きていく羅針盤としては甚だ不十分なのである。歴史は人間が生存を希求した1万5千年余りの生々しい足跡であって、歴史学なる方法論だけで探れるものでなく、物理学、心理学、生物学、社会学、経済学、法学、医学、疫学、哲学、考古学、気象学、地質学、天文学、建築学、芸術、料理、軍事における戦略論、兵器の進化などを横断的に包括的に理解しないと全貌は到底理解も把握もできないことは留意されたい。

私事になるが僕が最も詳しい西洋史はクラシック音楽史だが、それとて作曲家の楽譜や手紙や文献だけをいくら研究しても全面的に「一面的」であり、例えば「モーツァルト家が借金まみれだが貧困ではなかった」証拠があるが音楽学者は合理的な説明を見つけていない。彼が戦時のオーストリア通貨の大インフレで「意図的にBSの負債勘定を増やす高レバレッジ戦略を採っていた」と僕が解釈するのは証券マンの眼で当然だよねとしか見えないからである。それが合理的なのだ。音楽学者に経済学や為替理論を学べという気はない。貧困に追い込まれて死を悟り悲愴なレクイエムを書いたという通説を否定しようと思えば職業的リスクの伴う人たちだから仕方ない。ましてモーツァルトは親父譲りで徹底して数字に細かく利に聡く、そもそもあの楽譜が書ける人がそんな馬鹿であるはずもないと主張すれば音楽学者という職業には就けないだろう。レクイエムを教科書通りに聞いて涙したい人の邪魔をする気はないが、都市伝説で自分史が塗りこめられたモーツァルトが気の毒だと同情するばかりだ。

歴史学を軽んじる不遜さは持ち合わせていないつもりだ。その学問ひとつをとっても人間が一生で習得できる時間はそれでいっぱいであり、上述のすべての学問の専門家であることは物理的に不可能だから横断的包括的アプローチは主流にはなり得ない。それだけだ。ただ我々は自分の学習と知恵でミッシングリンクを埋めていくことはできる。その日々の作業こそが「生きる」ということだし、そうして生きれば人生はいつも新鮮な発見に満ちているのだ。宇宙の創生から俯瞰すれば、自分という卑小な存在の生き様も人類史という壮大な大河ドラマもH.G.ウェルズ流に「理解」するのが自然と思うし、なにより素晴らしいのは、その視点に立ちさえすれば、誰もが、学校で赤点だろうが落ちこぼれようが、古めかしい学問という鎧をまとうことなく簡単に歴史を咀嚼して自分なりの歴史観、ひいては世界観、宇宙観を所有することができるということだ。

肌の色で能力が決まるわけでもなく人類史へのこれからの貢献には、人種によって参加資格を隔てる優劣があるとも思わない。

と僕が結論する勇気を持てるのは同書を楽しんで読めたからであり、そうであるならば、産業革命の余韻が終焉を迎えつつある21世紀初頭の今、もしかすると長く続いた白人優位は風前の灯火なのかもしれないという考えに、ヘーゲルのアウフヘーベンとして至ることも可能となる。ポスト・コロナは日本の時代などという卑小な手前味噌の話ではなく、5万年のホモ・サピエンス史のスコープで眺めてそう思えてしまう。進行しつつある米中のヘゲモニー闘争はその端緒かもしれないし、北朝鮮という人口2千5百万の貧しい東洋の小国が核保有しただけで覇権国アメリカと対等に渡り合い脅かしている情景は第2次大戦はおろかベトナム戦争時点でも想像できなかった。太平洋戦争時点で日本が核保有できていたという想像は、米国の核爆弾開発が同盟国ドイツから亡命した科学者に多くを負ったものであったことからして決して空想ではなく、白人の覇権というものがそう予定調和的でも盤石でもないことは明白だということだ。

すなわち、人種や国の優位性はその時々に変遷するもので、たまたま優位にある者が下位の者に懐く差別という感情には何ら合理性もなければ正義もないのである。まして自己の便益で奴隷として連れてきた人たちを200年もたってなお差別するような利己的で理性を欠く心性の者は、これから21世紀に生きていく人類が幸福に共存していく方向に逆行する人たちではないかと思う。人間や国家や条約や法律や規則の存在の合理性、正義というものは、個人でも一国でもない、ホモ・サピエンス全体の繁栄という視点でしかとらえられなくなるだろう。なぜなら我々はすでにポスト産業革命という新たな歴史の入り口にいるからだ。「合理性」と「正義」。このどちらも持ち合わせずに生きている者、いわば動物的な原理で動く者はものの必然として猿と変わらないという結論に達することを妨げないというのが僕の立場である。

駒場の教材だった「価値の社会学」(写真)は東大生になったと実感した難解さだったが、半分も理解できなかったものが今はわかる。名著であり娘に与えて読ませている。筆者、社会学者の作田啓一氏は後に我が国特有の「自虐史観」への対抗イデオロギーとして「侵略戦争の開始も含めて、何でもかんでも日本の戦前のあり方は正しかった、反省などする必要は全くないと主張する史観」を「自大史観」と呼んだが、「安倍晋三はこの史観を全面的に打ち出すイデオロギー内閣を作り出した」と第1次安倍政権時のご自身のブログに書かれている。第2次政権も作田氏の慧眼どおりに物事を進めているように思われる。ここでその是非は論じないが、そこに合理性と正義があるかどうかは皆様のお考えに委ねることにしたい。

差別者の発想のベースは、しかし、自大史観であろうと書いてもほぼ異論の余地はないだろう。そうでなければ他者を差別する自我に内的根拠がないことになるからである。どんな歴史観であれ100%合理的でないとまでは言い切れないが、それが正義か否かはいかなる文明においても不分明であるが故にどこでも差別は起こり得るのだ。長い物(強い者、戦争の勝者、ジャイアン)が歴史を書けるのは絶対的正義なるものは世のどこにも存在しないからで、宗教の戒律とて信者にとっては正義に近似的だが絶対普遍ではないから十字軍の虐殺は異教徒には正当化はされないし、原爆投下もしかりである。ジャイアン視点のドラえもんは書かれていないし、書いても共感されないだろうし、産業革命の余熱が冷める21世紀においては更にその傾向が強まるだろう。

私見では安倍政権が何をしようと国家の正義と合致し合法的であれば良しとするが、後者に該当しないと思われる事例が現れ(アンリ事件、検察官定年延長)、まして、国家の正義と政権の正義との乖離が客観的に観測され、政権がすべて正しく反省などする必要はまったくないという史観が暗にではあるが表明された時点において(男にはそれをやっちゃあお終いの一線がある)我が身の正義しか念頭にない政権として認識せざるを得なくなってしまった。このこと(国家正義に合致した正義のなさ)はノブレス・オブリージュが欠落しているということを自動的に意味し、貴族の資格のない者が貴族然と君臨している腐敗臭と不快感に富んだ印象を必然として与える。支持率低落の原因は、支持者だった穏健な保守層がその臭いの悪さを感じてのことだ。比較的アッパーなインテリであるこの層の去就が無党派浮動票の動静に影響力があることは2009年衆院選や都知事選の小池の乱で実証された。

ジョージ・フロイド事件が米国の極右、極左に利用され、暴徒が法を犯して更なる差別が助長される。それを連邦軍が武力で抑圧するのが正義ならトランプは習近平を批判できなくなる。政治の正義とはそれほど重たいものなのだ。その矛盾を解こうと聖書を持ち出したが、彼に宗教は似合わないばかりか選挙用パフォーマンスと見抜かれ、自由主義、共産主義を問わず長い物が正義という超イデオロギー的なガバナンス正当化ドクトリンにすがるしかない事においてはプーチンも金正恩も交えて似た者同士であることが露呈しつつある。彼らの視点はますます内政に向き、資本主義下ではせいぜい貧富の二極だった(それでもリーマン後の10余年で急速に進んで歪を生んだ)が、さらに変質して差別、被差別のニュアンスで二分される方向に行きかねない様相を呈してきたことを危惧するばかりだ。

皆さまが人種の壁の高さをどれほどご存知かはわからないが、16年海外でそれを俯瞰し体感した経験からするに、総じて日本人は性善説的であり害を及ぼさない限り外国人には優しい国民性だ。ただアジア人に対しては特別な感情があり、確たる理由なく日本人が上だという目線を持っている。明治時代の洋学修得と富国強兵の先行で国民がそう考えても仕方がない外形的実体があったことは事実だが、早い遅いと能力とは別個であり、目線の高さは遥かに度を越している。我が父親も世代一般程度にはその傾向はあり、僕もその影響と無縁に育ったわけではないが学問で理性は獲得できた。理由がないのだから自分は非合理であり、日本人が民族的に優位という考えを論拠とした正義は更に根拠がない、従ってそれで差別するなら俺は猿と変わらないと結論されることになり今はそうではなくなっている。

黒人(ケニア人)がルームメートだったことがある。一時のことで親しくつき合ったとまでは言えない。ありとあらゆることに驚いたが、KFCのチキンの食いっぷりは忘れない。白い大きな歯でかぶりつき、バキバキと骨ごと噛み砕き(その壮絶な音は今も耳に残る)、こっちが半分も終える前にショーみたいに数本の骨片が皿にきれいに並んだ。同じホモ・サピエンスといえ我々はあの野性を失って1万年はたつのだろうかとたじろぐ迫力であり、アフリカには棲めないと観念した瞬間だった。それでも我々は20万年前にアフリカにいた一人の女性(ミトコンドリア・イヴ)から地球上に生まれ、枝分かれして日本列島に来た者の子孫なのだ。科学がそう証言する以上日本が神話の説く特別な国ではなく、アジアの中で格別に神に愛でられ特別に優勢な遺伝子を持つこともなく、同胞への優位を示す上から目線には合理性も正義もないことを知るのである。

音楽の話に戻ろう。楽才はホモ・サピエンスだけが持っている才能の一部分である。白人の優位を否定してかかる僕の中でモーツァルトやラヴェルへの敬意も偏愛までもが解かれるかというと、それはない。その音楽に絶対普遍の価値があると思うことが必要十分条件で、そのことと彼らの肌の色や女癖やホモの性癖は何の関係もないという判断と一緒に白人優位否定は処理されるからだ。それは犯罪において「罪を憎んで人を憎まず」(罪刑法定主義)と同じ思想で「音楽を愛しても人は必ずしも愛さず」である。といって作曲家の属性を調べているのは人の脳への唯物論的関心からで、脳と曲との相関性の要因分析である。おそらく同系統の人たちがハイドンの遺体から頭部を盗みアインシュタインの脳を切り刻んだりしていたと想像するが僕は大学の法医学で見せられた変死体の写真で食事が困難になったからそっちへは行かなかった。

黒人が音楽でモーツァルトに劣るかというと、そればかりは何とも言えない。モーツァルトのような音楽を書き、演奏し、しかも彼に影響まで与えた黒人ジョゼフ・サン=ジョルジュがいたという雄弁な事実はこの稿にご紹介した。

クラシック徒然草《音楽家の二刀流》)

だからといって、彼がモーツァルト級の作曲家であったとは作品を聴く限り断言する自信はないが、古典派の時代でも肌の色が才能の優劣を決定的に左右したのではなかろうというぐらいは表明できると思う。それが200年の時を経てジャズの時代ならどうか?今度は逆にモーツァルトが モントルー・ジャズ・フェスティバルでピアノ即興できますかという問いになる。

どちらも故人となったが、マッコイ・タイナーとボビー・ハッチャーソン(ヴィブラフォン奏者)のビデオをぜひご覧いただきたい。

このドイツでのライブ演奏会の楽興に、ジャズ好きであろうとなかろうと、二人の巨匠の尋常でない能力を否定できる人はいないだろう。ご両人とも「象牙の塔」仕込みでない叩き上げで、どうやってこの破格の作曲、演奏能力を身につけたかは謎だ。モーツァルトのそれは父親仕込みだが「学校は秀才を作るが天才は作れない」を地で行っている事に関して3人は同等に思える。もしも、この1時間22分の「JazzBaltica 2002」のチケットとウィーン国立歌劇場のドン・ジョバンニのチケットと、どっちかひとつあげるよといわれたら僕は真剣に迷う。

 

 

 

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マッコイ・タイナー追悼(アフロ・ブルー)

2020 MAR 14 17:17:50 pm by 東 賢太郎

世の中を右も左も知らぬ駒場の学生のころ、ホテルの予約もなく、レンタカーの契約書1枚でロサンゼルス空港に飛んでしまった。羽田からパンナムという時代だ。「外国に行ってみたいの?」「行きたい」。おふくろはそれでいっさい言わなかった。用心深い銀行員の父は「この人に会え」とロス支店長さんの連絡先をくれた。

動機は憧れ。それだけだ。そんなもので行けてしまうのは若かったからたが、今になってみると、その1か月の放浪で僕はその後の人生、誰もナビゲーターのない未知の塊であった人生を無事生き抜く「五感」をすべてもらった。これがなかったらアメリカンな証券業界に入らなかったし、生きてもいけなかったろう。

タラップを降りる瞬間に息を吸って「日本と同じだ」と安心したのが五感の第一歩だ。笑ってしまうが、本気で空気が違ったらどうしよう、呼吸できるだろうかと心配で、月旅行並みの覚悟であった。肌の黒い人はだっこちゃんとインド人もびっくりしか知らないというひどい時代だったからアフロアメリカンを見たのは初めてだ。バーで酔っ払ってきいたバンドに圧倒され、憧れていたアメリカのいち部分は黒人の血に由来したことを知った。

のちに今度は東海岸でジャズを見た。聞いたか見たか微妙というところだ。嗅いだというのもある。ヴィレッジかブルーノートか、妙なにおいがたちこめていて「なんだ?」ときいたらダチ公、何のこともなく「ハシシ」だ。凄い所へきたとテーブルに座って、すぐ目の前でドラムたたいてるおっちゃんがやたらにうまい。誰?と目で奴にきいたらアート・ブレーキーだった。もうひとりといえば全盛期だったジャック・ディジョネットにわけわからずぶちきれた。

こうしてライブから入ったジャズは僕にとっての異界、あちらの世界だ。あんなのはとてもシラフじゃきけない。レコードで知ったビル・エヴァンスやキース・ジャレットの白人モノはこちらの世界である。一番聞きたかったのはジョン・コルトレーンとマッコイ・タイナー。別々の個性として好きなのだが、もとはいっしょだからそのルーツがストライクゾーンで、リオ・デ・ジャネイロできいたアフロ・キューバンのバンドもそっちに入る。

自分の中の二人。ひとりはきっちりしたクラシック派だが、もうひとりはアフロ派で素朴で粗暴で原始的で孤島で素っ裸で生きていたいみたいなところがある。日本国の日常ではそうもいかないので真面目にしているが、ときに全部ぶち壊して滅茶苦茶したくなる。そういうときのこころの友であり、非日常への解脱がジャズである。なぜクラシックが好きかが普通のパターンと違うのは説明したが、ジャズにおいてもそれはいえる。

西洋のそもそも粗暴な連中が桃源郷を見るのが東洋というのはよくある。マーラー、ドビッシーやジョージ・ハリスンがそうだが、そうして異界とのハイブリッドとして血縁なく生まれた大地の歌、版画、ノルウエーの森みたいな世界に近いジャズもあれば、脈々と通じる父祖の血を肉体で感じ取った原色的なものもある。日本人である僕は奴らよりは慎ましく生きてるので逆に原色の肉体派に惹かれてしまう。

クラシック界で異界と交信したぶっ飛んだ作品なら春の祭典とトゥーランガリラ交響曲をあげたいが、僕がそこから入門しモーツァルトやベートーベンからしなかったのは異界の方にも同じほど愛着があるからだ。異界ってよくわからん、何なんだそれは?と思われるだろうから、その最たる例をお示ししよう。ジョン・コルトレーンのフリー・ジャズ路線を示すこのビデオの5分45秒あたりからお聴きいただきたい。

馬でも絞め殺してるかというサックス。これがジャズかという人もおり、現にマッコイ・タイナー(pf)とエルヴィン・ジョーンズ(ds)はこのシアトル・ライブのあとグループを去る。しかしハルサイ、トゥーランガリラ好きにとってこれは子孫のようなものであって、先祖の方も異界だけどまだかわいいもんだったと思わせてくれる。

このアフロ・ブルー(”Afro-Blue “)は自作でないがコルトレーンの看板ナンバーだった。冒頭のシンプルなメロディーを縷々インプロヴァイズしていくだけだが、マッコイのピアノがエルヴィンのドラムスとパーカッシヴな灼熱の興奮を盛り立て、和声のヴォイシングの変幻自在のぶりはそこで音楽が生まれるようだ。モーツァルトやベートーベンの即興演奏もこうだったろう。どんな音楽だったかは重要でなく、音楽したいぜという貪欲なスピリットこそ聴き手の心に響くからだ。これをクラシック音楽と区分けする理由は僕には見当たらない。

こういうものを前にすると、日本人の作品はジャンルがなんであれ「ぶちこわし」がない。先人の話題作を巧みにきれいにマネしただけ。マネがうまいだけではだめで、マネなんだけどいかにマネっぽく見せないかの非創造的でくだらない技を競ったりする単なるつまらない秀才。天才は滅多にいないが秀才なんて毎年何千人といるよ。クラシックしてます、ゲンダイオンガクやってます、ジャズってます。そんなものは物マネ芸人大賞しか取れない。マネできないほど置いてかれてしまうと、こんどは巣ごもり、ひきこもりになる。

枠を破壊して先人を凌駕してやろうというギラギラした凶暴さなどかけらもない。和を以て貴しとなしてますね、お上手お上手パチパチ・・・なんてものはどぶに捨てなさい。そんなもの世界で競争に勝てないよ、時間の無駄で気色悪いだけ、糞くらえだ。黒人は凄い、白人にあれだけいじめられても、奴らの音楽なんか気にもしてない。東洋人?中国人も白人など屁とも思ってない。お・も・て・な・しだけお得意の下僕みたいな日本人、なさけない。

アフロ・ブルーは複数バージョンあって、この1963年11月2日のベルリンライブはまだアバンギャルドがかってない原形に近いものだ。ピアノの和音のモードが良く分かる。

こちらは1965年5月7日のニューヨーク「ハーフ・ノート」でのライブ。マッコイのソロが凄い。凶暴に叩きつける左手、目にもとまらぬ右手パッセージ。最後ほうで無調になるところのピアノの和声の浮遊、「世の終わりのための四重奏曲」みたいだ。メシアンもびっくりだ。マッコイ・タイナー、かっこいいばかりじゃない、白人が崇め奉る最高級の音楽までぶち飛ばしてる。この火を吹くような演奏がラジオ放送でフェードアウトとはもったいない。

最後にマッコイ・タイナー・カルテットのバージョンである。2007年のリリース。コルトレーンの狂気はかけらもなく、フライ・ウイズ・ザ・ウインドのタッチになっている。この路線ならフリージャズのコルトレーンとおさらばしたのは道理だろう。

13才からピアノを始めてここまで行ったという人は知らない。奇跡のようだ。コルトレーンと組んだことは幸運だったが、サックス奏者なのに和声に興味があってセロニアス・モンクから楽理を学んだ彼との音楽のマッチングは最高だったと思う。

しかし天才同士は最後は天才であるがゆえに地金の違いを修復できないのだ。マッコイの路線で最高傑作は僕はフライ・ウイズ・ザ・ウインドと思う。そしてコルトレーンの一番琴線に触れるのは、別れる直前の1965年の数本のライブ録音だ。天才二人の最後のスパークは、ビートルズの最後の2枚を思わせる。マッコイ・タイナー、2020年3月6日没、享年82才。ご冥福をお祈りします。

 

マッコイ・タイナー「Fly With the Wind」

 

メシアン 「世の終わりのための四重奏曲」

 

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アンドレ・プレヴィンの訃報

2019 MAR 26 0:00:05 am by 東 賢太郎

プレヴィン指揮ロンドン響、RCA盤

ラフマニノフの交響曲第2番は、「古今東西の最もロマンティックな音楽」のコンテストがあればぶっちぎりで優勝でしょう。何度聴いても本当に素晴らしい音楽であり、僕は高校時代にぞっこん惚れてしまいました。お断りしますと音楽の授業は全然関係ありません。1年の時クラスの K君が学園祭でかけたチャイコフスキーP協1番の出だしがやたらゴージャスで気になって仕方なくすぐレコードを買いましたが、本命のそれよりもB面のラフマニノフP協2番がぐっと来てしまい、何だこの聞いたことない作曲家は、掘り出し物だ!となって買ったのが写真のプレヴィン盤だったという笑える出会いです。当時はこの曲は無名で東京で手に入るレコードはRCAのプレヴィン盤しかなかったのです。プレヴィンは2番を3回録音しますが、後にこの曲のオーソリティとなる彼のこれが初回という時代でした。冗長と思われる部分をカットする短縮版が幅をきかせていると知って、まがい物を覚えるのは嫌だなと思いましたが、このレコードはジャケットの解説(左)に「しかしプレヴィンによるこのLPは、オリジナルどおりの演奏です」と W氏という当時著名だった音楽評論家が書いているので安心して買い、覚えこんでしまいました。ところがそれはとんでもない大ウソで、後に全曲版を聴いて第1楽章コーダの直前と第3楽章でのけぞってしまい、このLPが短縮版だったことを知るのです。評論家というのは曲を記憶もしてないのに偉そうなことを書いてるのかと唖然とし、世の中こんな程度かと大人の世界をナメるきっかけになったという点では有意義な事でした。

しかし評論家にも本当に偉い人がいて、レコード芸術に交響曲の月評を執筆されていた大木正興氏は骨がありました。critic(評論家)とはcriticizeする(批判、酷評する)人ですから本来、いい加減な太鼓持ちや観光ガイドじゃないわけです。若かったバーンスタイン、レヴァイン、プレヴィン、ムーティ、アバド、メータを赤子扱いして一刀両断だった彼は評論家そのもので、ドイツ人以外はだめというのはないだろうとは思いましたが、主観を貫き通して西洋人をあそこまでめった切りできる日本人はどこの世界でもなかなかいない。欧米人のポチみたいな似非知識人ばかりの中で凄いなと思ってました。音楽だけでない教養あってこそと思い知って勉強しようとインセンティブになったし、その影響をもって後に欧米に行って仕事で位負けするということがなかったから彼の評論は一流の教材でありました。

その大木氏の文章というと僕はプレヴィンを思い出すのです。彼のみならず当時の日本のクラシック論壇はジャズあがりのお兄ちゃんがロンドン響(LSO)のシェフなんてジョークも休み休み言えとばかりにぼろかすであり、特に大木氏の舌鋒は鋭かった。前任が押しも押されぬ大家モントゥー様であったことも災いし、ベートーベンの5番だったか7番だったか、こんなものを買って聴く奴は馬鹿であるという強烈な刷り込みが僕の中に今でも残ってます。ちなみにそれは日本だけでもなく、wikipediaによるとロンドンでもプレヴィンはLSO就任当初は “a first-rate conductor of second-rate music.”(二流曲の一流指揮者)と評されていたようで、そんな空気のおかげで僕も彼のモーツァルトやブラームスを聴こうなどというモードにはおよそなく、せいぜい三流のロシア、アメリカ専門の色モノ指揮者という認識であったのです。

しかし、ジャズの兄ちゃんであれ何であれ、このラフマニノフいいじゃない!というのが僕の単純なリアクションでありました。大木氏にそこまでズブズブに洗脳されながらも是々非々であったというのはちょっぴり誇りでもあります。ストラヴィンスキーやバルトークと、とんがった音楽ばかりだったあのころ、それも硬式野球部で毎日泥まみれになってたあのころ、2番なんてウルトラ・ロマンティックな曲にハマってしまったのも自分のハートの一面であり、いまもこのレコードを聴くと自分はこんなにやさしい人だったのか?という気分になれるのです。レコードに何月何日にかけたとメモった紙切れを入れる習慣があるのでわかるのですが受験に落ちたその日にこのLPに慰められていたことを知って、たかがレコード、されどレコード、音楽の記録だが我が人生の記録でもあって、一生の宝です。

プレヴィンなくしてこれはなし。彼に感謝です。後に海外で接することになった彼の演奏についてはまた書くことにします。

 

ラフマニノフ交響曲第2番ホ短調 作品27

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イリアーヌ・イリアス- Made in Brasil

2018 OCT 24 0:00:48 am by 東 賢太郎

どんな職業につくか、どこの会社に入るか。自分で決めたようで実はそうでもなかったように思うのです。運命といいますか。入ってしまって想定外のこと続きでしまったと思ったし、まじめに辞めようと考えたことは書きました。よかったのかどうなのかということですが、ほかの人生はやってないのでわかりません。

あれが良かった悪かったと昔をふりかえっても終わったことにそう意味があるとも思えません。単に、絶対に確かなことは、そういう昔があったから今があることです。だから、今がよろしければ結果オーライでそこまでのことは全部正解じゃないの?というのが僕の人生観です。

「あの時にああして失敗でした」という人がいたので「じゃあいま不幸せなの?」ときくと「いえ」という。「なら成功だったんでしょ?」となるのですね、誰でも。だから、いま、毎日を楽しく過ごしてああ幸せだと思ってしまえば人生は無敵なのです。オセロみたいに全部ひっくり返って「成功」になります。

ブラジルに行ったのはたった1度、たしか1991年の2月、真夏のリオのカーニバルの少し前でした。36才です。リオ、サン・パウロ、ブラジリアでしたが、正直のところ、これは凄いところに来てしまったと思った。人生観が北極と南極ぐらいひっくり返ります。

なにせ空気も大気も違うわけで、ビーチは見わたすかぎり美女美女。なんだここは??竜宮城の浦島太郎でした。そこで思ったのです。ああいい会社に入ったなあ。なんのことない、俺はなんで辞めようなんて思ったんだ、馬鹿じゃないか?人生こんなもんなんですね、だから少々苦しくてもめげてはいけません。

そこからも、もっともっとつらいことがあって、いや、やっぱり辞めといた方が良かったじゃないかと思ったことがあるからさらに馬鹿なもんです。でも辞めなかった。49になって遂に辞めて、今度は遅すぎたと後悔しました。でも、結果的にはそれがドンピシャのタイミングだったから、もう笑うしかありません。つまり、自分の浅知恵で「熟慮」なんかしても、結局今はなかったのです。

そういう愚かな自分をほんとうに愚かだなと笑いとばすことは今の僕にとってけっこういいストレス解消なんですね。今だって迷うことはいくらもありますが、そんなの明日の天気といっしょ、考えて晴れてくれるわけじゃないしとなってきます。健康なのはあんまり迷わないからでしょう。思えば、僕はブラジルで北極と南極ぐらいひっくり返ってこういう人間になったのです。

ブラジルで大蔵省と中央銀行へ行ってひっくり返った。それは書きました。今回は連れていかれたリオのクラブみたいなところで初めて聴いた音楽についてです。セクシーな褐色の肌をしたカリオカのお姉さんがピアノとバンドをバックに歌っていたあれはいったい何だったんだろう?

ボサ・ノヴァが素敵なのはクラシックには出てこないハーモニーなのです。ジャズかというと近いようでもあり、まあ僕はジャズの定義をよくわかってないからさし控えますが、完全な和声音楽なのに不思議な浮遊感があってとてつもなくオシャレ。そして、ここが大事なんですが、ポルトガル語がぜんぜんわからない。これがまたいいんです、意識もぶっとんで浮遊してしまう。つまり、あの竜宮城に戻るのです。

最高のリラックセーションになるアルバムがこれです。イリアーヌ・イリアスの ”Made in Brasil” であります。この人、ブラジル出身のジャズ・ピアニスト、ヴォーカリストでニューヨークで活躍。なんといってもジュリアード音楽院卒で音楽能力は筋金入りであり、バックにTake 6とロンドン・フィルハーモニーのストリングスを従えて洗練の極致。和声の最高の高級感。ジョビン、自作などが入ったこのアルバムのレベルの高さは凄いものです。みなさま、ぜひ竜宮城に遊んでください。

 

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『気』の不思議(位牌とジャズの関係)

2017 SEP 26 0:00:35 am by 東 賢太郎

高野山延暦寺の番組を見ていた。周辺の村で伝統的につくられる高野位牌の職人さんにTVアナウンサーが「戒名の彫り方にも気持ちをこめられているんですね~」と、マックの店員みたいにお馬鹿な質問をする。

するとその職人さん、困ったように、「いや、気持ちはこめませんね、戒名はあくまで故人さまのものなんで、私が気をこめてしまってもよくないんで」と答えていたのがとても印象に残った。

 

気とはそんなに強いものなのか・・・。

 

名曲とされる音楽には実はどっぷりと作曲家の気がこもってるのかもしれない。チャイコフスキーの悲愴なんかどうだ。あれを聴くといつも心にずっしりと重たいものをかかえて帰路につくではないか。それをチェリビダッケぐらい気のかたまりみたいなおっさんがやったら尋常じゃ済まされない。

それでいうならフランクフルトで92年に聴いたユーリ・アロノヴィッチの幻想交響曲だ。あれこそ指揮者の気だったんだろう、おとなしいイメージのバンベルグ響が燃えまくって物凄い演奏になってしまった。こわい。完全ノックアウトを食らった、あんなのは何度もあると体に良くない。

7月7日に神宮球場で遭遇した広島カープの世紀の大逆転事件もそうだ。9回表を迎えて5点差の負けがひっくり返ったあれ、客席で鳥肌が立った。カープ選手の「絶対やったるぜ」の気だ、今年の強さの縮図だった。きのう引退試合だったロッテの井口が現役最終打席に立った。これも打つ前から何かあった。同点ツーランホームラン、恐れ入った。試合はそのままサヨナラだった。

我がことではサンフランシスコの野犬事件だ。野っ原で夜陰にひとり、5,6匹の獰猛そうな野犬と向き合ってしまった。ヤバいも何もない、殺られると思って咄嗟に工事の土管に隠れた。先頭の怖そうなヤツが土管のむこうの出口でこっちをのぞいて目が光った。5メートルぐらい。びびっと視線が合ったら、ヤツがなぜか回れ右して、ケツを向けて全員去ってくれた。あれって気だったんだろうか。

毎月打ってもらってる神山先生の鍼(はり)。あれも不思議だ。肩から腰あたりまでの背中に8本打つが、毎回場所が違う。「ここ気が流れてないね」だ。そういう場所を選んでいて、ツボということもない。日本人の鍼灸医の技術では背中は打てない。肺に刺さって気胸になる事件が最近もあったが、危険なのだ。だから鍼灸医が患者になって来ている。

『気』の存在について

気という語は

気持、気合、気分、気候、気功、気色、気質、気長、気品、気心、気楽、天気、気温、気象、気圧、気味、正気、狂気、邪気、陽気、陰気、産気、運気、根気、生気、短気、人気、呑気、勇気、色気、空気、本気、気配、気骨、気だて、意気、気まま、気構え、気安い、気難しい、気を許す、気を寄せる、気が良い、気がねする、気をそそる、気を吐く、気を落とす、気が抜ける、気が利く、気がふれる、気が進む、気がせく、気をそぐ、気に召す、気が立つ、気になる、気にする、気にかける、気負う、気をやる、気に入る、気がひける、気をつける、気が張る、気を抜く、気を使う、気が付く、気を付ける、気を持たせる、気に障る、気を良くする、気が散る、気がある、気を引く、気が滅入る、気が移る、気色が悪い、気安い、気が置けない、気を回す、お気軽に・・・

まだまだあるだろう。いかに我々日本人が気を気にかけていることか。

ストレスで気が重いとき、ちょっとリラックスしてジャズをきく。これがたまらない。ピアノが好きだけどクラシックの回路に入ってしまうので、そういうときはサックスだ。なんたって展覧会の絵かアルルの女ぐらいしか出てこないし。

ジャズの人には邪道なのかもしれないが、コルトレーンじゃない。どうも彼のは「気」が入りすぎてる。

まずはウエイン・ショーターのこれか

スタン・ゲッツのこんなバラードのコンピレーションはもっと邪道なんだろう。しろうと色丸出しで気がひけるが。

でもこれはうまい。旋律の歌いかたが絶品、軽い、大好きだ。Loverでなくたってうっとりしてしまうではないか。彼のサックスはあんまり「気」がこもってないんだ、気が抜けてるわけじゃなくって。気が置けないし気をそそるね。

 

(いらん、といったものですが・・・)

ジョン・コルトレーン「A Love Supreme」

アントニオ・カルロス・ジョビン 「イパネマの娘」

安土城跡の強力な気にあたる

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Thundercat 「Drunk」の衝撃!

2017 MAY 22 1:01:23 am by 東 賢太郎

昨日は用事で早朝5時に車で家を出ました。一人だし朝は弱い。まだぼ~っとしていて運転やばいなと思い、ラジオを適当につけました。すると tvk という横浜の放送が入って、なにやら妙ちくりんな音楽が流れだしたのです。

 

10秒たたないうちに耳がくぎ付けに

いかん、これはボリューム全開だ

なんにも聞こえなくなっちまった

こりゃかえって運転危ねえや

でもしょうがないぞ

こりゃ天才だ!

 

後で調べると、これでした。

 

なんだこれは?

なんでもいいや

超和声感覚!

音楽ってやつは、こうやって、どこのどいつともわからんのがビシッと琴線に触れてくるのがあるんだ

ジャズなんかフュージョンなんかヒップポップなんか、さっぱり知らないが、もうそんなの関係ないすね

アメリカはこういうのが出てくる

和声もモードもインプロヴィゼーションも

彼はきっとジャズ語法をぜんぶマスターしてるだろう

それがこういうわかりやすいのになる

美しい!

サンダーキャット、ぜんぶ聴いてみよう

現代のモーツァルトは、いわゆるひとつの「クラシック」でなく、

こういうところに現れる気がします

 

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メシアン 「世の終わりのための四重奏曲」

2017 FEB 17 0:00:23 am by 東 賢太郎

330px-Olivier_Messiaen_1930メシアンは常習性のある媚薬のようなもので、一度ハマるとぬけられません。彼は11才でパリ高等音楽院に入学し各科のプルミエプリ(首席)を総なめにした神童中の神童ですが、それは伝統作法下での評価です。ドビッシーもラヴェルも異端とされたり自らクラスを抜け出したり、旧来の流儀とは何らかの断絶があったのですがメシアンは徹底して彼の時代での優等生であった。優等生は秀才であって、だいたいがその評価にあぐらをかいて凡人で終わるのですが、彼はその殻を脱ぎ捨ててしまった。そこが凄いと思うのです。伝統作法下での作曲法の枠を打ち破って色彩、リズム、旋法、音価に新しい道を開いた、それは技法のための技法として理性でひねり出したというよりも感性に導かれた産物と感じられ、ドビッシーも彼の時代においてそうだったように、自分があるがまま自然に本能と直感に従って突き進んだ結果と感じられます。そうやって何か新しいことを「やっちまった」人を、後世は天才と呼ぶのだということならば、彼は稀代の秀才でもあった本当の天才だったのです。

「世の終わりのための四重奏曲」のピアノパートには伝統的な室内楽書法としてあたかもオーケストラのように他の楽器と主題によって対位法的に絡んで有機的に展開する部分はほとんどなく、対等の独奏楽器として、または単なる伴奏として和声付けの要素が目立ちます。それはこの曲だけでなくメシアンの音楽の匂い、クオリアそのものでもある際立った個性なのですが、ここにおいては付けている和声の魅惑が群を抜いています。この世のものと思われぬ神秘的な、尋常でない美しさであります。

常習性のある媚薬と書きましたが、その根源は和声にあるのです。これはどんなに強調してもしきれない重要かつシンプルな事実と思います。色彩、リズム、旋法、音価と理論体系にして彼は弟子に教えたがそれは神を見た教祖が一般人に説き理解させるための普遍化した経典であって、彼の頭脳の中では鳥の声もおそらく対位法でなく和声要素として響いており(この曲の第1曲はその驚くべき実例である)、ある一瞬の縦に切った音塊ではなく、横に急速に流れる音群全体が和声要素となる。それを彼は色彩という言葉で呼んでいると僕は解釈しています。彼は和声音楽の大家なのです。

とすると、彼の時代に、つまり同時代のライバルがドデカフォニーのセリーの技法を探求する時流の中で書いていた時代にそれで大家を成したというのは音楽史の流れの中で特別なことではないでしょうか。ストラヴィンスキーの三大バレエはれっきとした和声音楽ですが、しかも新奇であったから事件となり天才と騒がれた。それと同じことを30年も後にやってしまった、これは作曲をされている方だれしも特異な現象と認められるのではないでしょうか。ちなみに弟子のブーレーズもクセナキスも、はっきり和声を認識させる作法は踏襲できませんでした。

この四重奏曲は1940年に第二次世界大戦でドイツ軍の捕虜となり、ゲルリッツ収容所で書かれたいわく付きの曲です。ヴァイオリン、クラリネット、チェロ、ピアノの編成で数千人の捕虜を前に収容所で初演。メシアンのこの時のことを「私の作品がこれほどの集中と理解をもって聴かれたことはなかった」と語っていますが、そういう状況下で書いた方も書いた方、聴いた方も聴いた方であり、特異な環境で産み落とされた奇跡の産物と思います。

天地創造の6日間、安息の7日目、そして不変の平穏な8日目という8曲から成ります。天国へいざなうような神秘的、蠱惑的な音楽で、僕には深いこころの静寂と安定を与えてくれる不思議な精神作用を持った音楽であります。楽章にはキリスト教の神秘主義的な名称が与えられていますがこだわる必要はなく、モダンジャズが好きな方は違和感なく聞けるのではないでしょうか。メシアンの代表作の一つであり、クラシックのレパートリーとしてマスト・アイテムといってよい名曲中の名曲です。

第1曲「水晶の典礼」の鳥の歌とピアノの和音からいきなり異界に引きこまれます。メシアンの鳥はベートーベンやマーラーのそれとはちがい協和音にデフォルメされず実音記譜に近いものを高度に抽象化しています。楽音としてではなく無意識に(意識を切って)聴けばいいのです。何度聴いても鳥と和音の調和は天才的としか言いようなし。

第2曲「世の終わりを告げる天使のためのヴォカリーズ」ヴァイオリン、チェロの不思議なユニゾンは弦チェレの第3楽章を連想させます。やはり伴奏のピアノ和音が凄い。これぞメシアン。

第3曲「鳥たちの深淵」。クラリネットのソロです。速度記号レントで深々と歌い、やがて鳥の声に。静けさと緊張の支配する世界。僕はここに尺八の音像を聴きます。

第4曲「間奏曲」。ピアノが休み。この曲に現れる三和音的進行は別の色彩を放射します。クラリネットの鳥はクロウタドリでポール・マッカートニーのBlackbirdはこれのこと。

第5曲「イエスの永遠性への賛歌」で、チェロのモノローグがピアノの和音に乗って何かを歌いますがこの異様な美しさは一度聴いたら忘れ難い。チェロの独奏曲として最高のもののひとつ。

第6曲「7つのトランペットのための狂乱の踊り 」、トランペットは色彩を暗示する記号として。この曲はメシアンの旋法の特色が出ますが旋法そのものに匂いを感じ、もしオーケストラであったならどういう音彩がついたか想像してしまう。ずっとユニゾンですが楽器の組み合わせで色を変化させる、見事な変容の技法です。

第7曲「世の終わりを告げる天使のための虹の混乱」は再度チェロとピアノの二重奏で不思議な色気の和声が展開します。中間部で激しい曲想となりチェロのグリッサンドが異界を描く、そして今度はクラリネットが加わってまた静やかな虹色の不思議ちゃん世界に。これぞメシアンの媚薬です。そしてやってくる鳥と混乱。

第8曲「イエスの不滅性への賛歌」。ヴァイオリンとピアノによる天国への賛歌です。何と素晴らしい和声!これが天空に消え入る感動は巨大であります。マーラーの9番が好きな方はこれも共感されるのでは。この曲、Quatuor pour la Fin du Tempsでありend of time、つまり時の終わりです。収容所で終わる時とは何だったのか。「世」ではないだろう、「戦争」かもしれない、「今」かもしれない。慣習に従って標題は世としましたが・・・。

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これを真に知り、学んだのはタッシ(TASHI)の演奏によってです。Piano : P.Serkin、Violin : I.Kavafian、Cello : F.Shelly、Clarinet : R.Stoltzmanという名手たちが1973年に、この曲を演奏するために結成したグループでこのLPは僕の大学時代に出てきた衝撃の1枚でした。TASHIはチベット語で吉兆の意味。end of timeの次に来るものを示唆している洒落たネーミングでしたね。

 

 

(ご参考)

アンタッチャブルのテーマ(1959)The Untouchables Theme 1959

クラシック徒然草-僕は和声フェチである-

 

 

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ジョン・コルトレーン「A Love Supreme」

2016 SEP 13 0:00:56 am by 東 賢太郎

ジャズのスタジオ・アルバムは60年代あたりからレコード芸術となったようで、クラシック界でおきたことと平仄があってる。アートのムーヴメントとしてそうなった側面とステレオの登場など録音技術の進化を含めた制作側の事情がジャンルを超えてあったとしたら面白い。

レコード芸術の完成度でどかんとしたインパクトを与える。そこにクラシックもジャズもない。片っ端から聴いているが、中でもシンフォニー級の手ごたえを感じたのがこれだ。これはきいてるとクラシック耳になっちまう。

A Love Supreme

このツンときどった語順がいいね。A  Supreme Loveだぜ、ただの英語は。キャラメルプリンが Crème caramel (クレム カラメール)になったら上等だみたいなもんも感じる。

4部構成の交響詩みたいだが主題の循環がある。クラシックじゃサックスはおまけの楽器だから耳新しい。呪文が聞こえたりティンパニが鳴ったり、重い。この重みがたまらなくいい。

マッコイ・タイナーはソロよりバックの方がいいな。4つの楽器がウエル・バランスの録音で定位して「アンサンブル」になってる。サックス左、ドラムス右、これレコード芸術だなあ。文句なくカッコいいアルバムだ。調べたらジャズの定盤らしい、なあんだいいの見っけたと思ったのに。

 

マッコイ・タイナー「Fly With the Wind」

 

 

 

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マッコイ・タイナー「Fly With the Wind」

2016 AUG 18 1:01:09 am by 東 賢太郎

ジャズを書きついでに、サーフィンじゃなく大昔から聴いてたやつを。

僕は音楽に限らず食い物も酒も本も旅も・・・、いや世の中の楽しみと思しきものは何であれ雑食、悪食?であります。ストライクゾーンは広いです。小学校でベンチャーズから入って中学でストラヴィンスキーに行きついたように先は読めませんが・・・。

41GRRGVDX3LこのCDはたしか85年あたりにロンドンのコヴェントガーデンで買いました。毎週末に家内と街に車で出て、まだ子供いませんでしたから身軽でイタリアンや中華を食べてLP、CDを買って帰るのがルーティーンでした。これ買った理由は中古で安かったから。目新しかったCDというフォーマットでジャズを鳴らしてみたかった、それだけです。それでも8ポンドは2000円ぐらいでしたから高かったですが。

 

ところが、Fly With The Wind、いいじゃないですか。これ以外は僕の趣味としてぜんぜんどーでもいい曲でしたが、とにかく 一曲だけがめちゃくちゃ気に入りました。

そこからどうなったかというと、こうです。

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LPを片っ端から4つ、2枚組あるので計6枚。オタクでした。興味なかったJazzでこれですから、クラシックはこの10倍のペースで増えてました(このぐらいバカじゃないと1万枚は行きません)。あんまりカネなかったですから家計は大変で家内には迷惑かけました。

 

ところがです、なんのことない、こんなに聞いたのにやっぱり Fly With The Wind 以外はどーでもいいやということが発覚します。マッコイお好きな方には申し訳ないが僕的にはもういらないLPで、思い出でとってある。こういうのを捨てられないタチなんです。

さて、そこからどうなったかというと、こうです。

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やっとこさ、これ探し出しました。ピアノ、習ったことないんで、インチキのおためごかしですが・・・。なんでも自分でしないと気がすまない性格でした。しかしこの和音、カッコいい!

 

スタン・ゲッツ 「Voyage」

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チャーリー・ヘイデン/ケニー・バロン 「Night & The City」(1996)

2016 AUG 17 0:00:11 am by 東 賢太郎

アマゾンのプライム・ミュージックはかつての結構な名盤がタダで聴けてしまう。いい時代です。我々オヤジはそういうLPって、批評を丹念に読んでこれはいいに違いないぞとレコード屋(そういうのがあった)に出向いて、2000円(当時は大枚だ)はたいてエイや!と買ったもんです。

音楽に入れ込むというのはそういうハラハラと裏腹だったのです、若い人は知りませんよね。僕なんかもう何百回もそれやって失敗してます。家で聴いてみるとハズレが 7,8割なんですよ・・・カネ捨ててるみたいなもんでした。

そこまで騙されて買う方が馬鹿なんですが、エイや!⇒ハラハラのスリルがたまらなかったりしたんです。いいんだろうなと妄想が膨らんで、手にして、ターンテーブルにのっけてみる。たまに当たりが出ると一気に取り返した気になれました。だからそういうレコードは宝くじの当たり券みたいに大事にしてるのです。

ジャズをサーフィンしていると時々いいのに当たります。僕はこのジャンル、まったくの素人だから単に趣味ですが、よし買うぞとクリックしようと思ったらプライムだ。あり難いが、なんかもったいない。ハラハラ世代のオヤジとしては何が大事なものがなくなっちまった感があるんですね。51NquY9aYaL._SS500_PJStripe-Robin-JP-Large,TopLeft,0,0_SS280

そのひとつがこれ。「チャーリー・ヘイデン/Charlie Haden」と、「ケニー・バロン/Kenny Barron」のアルバム「Night & The City」(1996)です。プライムのタグ付きです。

こりゃめちゃくちゃいいライブだ。あんまり高くないハバナに安バーボンなんかで最高。大学のころニューヨークで遊びほけてたのを思い出すなあ、う~ん若かった。

ジャズのいいのは疲れをほぐしてくれます。聴くじゃなくて聞く、流れる感じですね、アタマが麻痺、何も考えないでぼ~っとできるとはなんて貴重な。このアルバム、バラードばっかりです、渋い抒情、オトコの世界です。

 

オスカー・ピーターソンを聴く(Oscar, the Great)

 

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