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カテゴリー: ______自分とは

クラシックで寝ついた0歳児が69になったこと

2024 FEB 4 21:21:09 pm by 東 賢太郎

家内からメールがあった。

大森のおばあちゃんがお手伝いに来てくれて冷たいお水でオムツを洗ってくれたと生前話していました。今日は、あなたを産んで上手に育ててくれたママを思いだして一日過ごして下さい。夜寝なくて抱っこして小さな音でレコードをかけて聴かせていた事は知ってましたか?

はい、知りませんでした。おばあちゃんのことも(ごめんなさい)。

レコード。親父のSP(78回転盤)に相違ない。鬼畜米英の時代になんでそんなものを持っていたのかよくわからないが、とにかく好きだったんだろう。それを2,3歳ぐらいからきいていた記憶はあり、だからこうして一生の宝物になってるとは思っていた。

0歳児がクラシックで寝ついた。俄かに信じ難いが、長じて思いあたることはあった。大学時代の下宿でのことだ。勉強に疲れるとコタツで横になってヘッドホンで音楽をきき、そのまま寝てしまった。はっと目が覚めると朝であり、カセットテープがループになっていてシューマンの交響曲が耳元でがんがん鳴りっ放しでびっくりする。「それで熟睡なんだ」といっても誰も信じない。今でもパソコンで音楽つけっぱなしがある。目覚めはすっきり、原因不明だ。レム睡眠、ノンレム睡眠の比率がどうのとは無関係に僕の脳味噌はできているらしい。

最期の床で、好きだったチャイコフスキーの4番をどうしてもと思い、ヘッドホンできかせた。すると眠っていた母はぱっちりと目をあけた。言葉は話せず僕が誰かもあやしくなってはいたが、「うんうん、これだね」と、あたかもわかっていた頃の合点かのようにじっと目を見てうなづいてくれた。僕は驚き、あっ、良くなってるぞと喜んだ。

母を悪くいう人はまったくいないし想像もできない。まさに慈母であった。こういう両親の家に生まれたことを神に感謝する。

69才

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ようすけ君はビッグバン理論より正しい

2023 OCT 23 8:08:25 am by 東 賢太郎

ジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡が133億光年のかなた、すなわちビッグバンからわずか5億年後という領域に大質量銀河を6つも発見した。

従来の宇宙論ではこの年代の宇宙には小さな赤ちゃん銀河しか存在しないはずでありビッグバン理論に修正が迫られるという驚天動地の事態が物理学、天文学の世界で起きている。

シロウトのドタ勘だが、全宇宙の原子が1点に集まっていたなんて信じ難い。そもそもなんでそんなものがあって、なんで爆発したんだ。てんびん座にあるメトシェラ星の年齢は144±8億年と計算されており、つまり、宇宙よりも古いということになる。ということは宇宙はもっと前からあったことになる。地球から最も近い星まで約4光年だが、現在もっとも速いボイジャーで行っても7万年かかる。ネアンデルタール人の宇宙飛行士を乗せれば着くころにはホモサピエンスに進化している。写真の銀河はその30億倍も遠い。行くのに2百兆年かかる。ビッグバン理論は修正すれば誤りでないかもしれないが計算は数学でする。そもそもどうしてそんな遠くでも数学がワークしてるんだろうという素朴な疑問がわく。

科学は突きつめると宗教に似てくる。数の単位も兆のずっと先は不可思議、無量大数だ。そこまで行くと仏教の世界に踏みこんだかと思うが、銀河系にある原子の数は1無量大数個と聞くとまた科学の世界に戻った気になる。畢竟、このふらふらした感じは人間の脳の処理限界に由来しているだろうが、処理を代替してくれる数学という言語も全宇宙的にユニバーサルかどうか証明はされていない。

数学的に証明できるということは “プログラム可能” ということだ。我々は三次元宇宙にいると思っているが、ブラックホールの研究を通じて、常識に反して、ある空間領域のエントロピー(情報量)は領域の体積ではなく表面積によって決まることがわかった(ホログラフィック原理)。さらにそれに時間という四次元要素を加味して過去、未来があると思っているが、それは脳の設計上の認識にすぎず、時間は存在せず過去、現在、未来は同時に存在しており(アカシックレコード)、五次元の仮想的な時空上の重力の理論は重力を含まない四次元の場の量子論と等価だ。つまり我々は五次元宇宙という極小の偶然性(量子ゆらぎ)が支配する並行した世界にいる(パラレル・ワールド仮説)。

この「重力を含まない4次元の場」は意味深だ。

物心がつくかつかないかの頃、僕はとても病弱で毎週のように熱を出して医者通いだったらしい。母がおぶっていたからまだ歩けない頃だ。リンゴを擦って食べさせてもらい、寝入る。すると必ず見るおそろしい夢があった。どこかに書いたと思ったらこんなところだ。

僕が聴いた名演奏家たち(アーリン・オジェ)

宇宙空間のようなところにぷかぷか浮かんでおり、何か、目には見えないが「重たいもの」を持たされている。とっても重い。見渡すと何人かの人も浮いている。そして僕は「それ」をどこか別なところへ運ばなくてはならないのだ。誰の声も命令も聞こえない。でも、厳然とその「義務」だけが僕にずっしりとのしかかっていて絶対君主の指し図みたいに逆らえないのだ。おかしなことだ。無重力の宇宙空間に「重たいもの」なんてあるはずないのに・・・。

そんなの無理だよ、僕にはできないよ!うなされて泣き叫んで、母の声で我に帰っていたそうだ。これ、「重力を含まない4次元の場」だったんじゃないか。僕は何かを背負ってこの世に生まれてきたんだろうか?ビートルズ(ポール・マッカートニー)のアビイ・ロードに「Carry That Weight」(あの重たいものを運べ)という曲がある。彼もひょっとして・・・。

ご存知の方もおられるかもしれないが、youtubeに「宇宙に行くこども」という番組があり、僕はかわいい語り手である「ようすけ君」の大ファンだ。彼は胎内記憶のある6才の男の子で、とても賢いなあと感心する。確信ある語り口に台本があるとも思えず聞き入るしかないし、お母さんもやさしくて癒されてしまう。

胎内記憶というのは3才ぐらいまではある子がけっこういるが、会話できる年ごろになると記憶が消えてしまうらしい。それでもようすけ君のように話せる子は世界中にいて、ほとんどが「お母さんを選んで空から降りてきた」という話をするそうだ。僕はそれは全然ないけれどあの夢は何度も見てはっきり覚えてる。その頃の記憶はそれ以外にはほとんどないのだから不思議なものだ。

スペイン人だったようすけ君は死んでからどこに行ってたんだろう?空のうえで神さまがたくさんいるところだ。神さまは彼の「魂ちゃん」にやさしく指導してくれたようだ。きっと仕事なんだろう。何のため?何百世代も生きさせて遺伝子の進化実験でもしてるのか?

数学?それ、神さまのパソコンのプログラムのことだよ、だって人が見てる宇宙はホログラムって名前の動画なんだよ、終わっちゃったらまた雲の上にぴゅーって行ってね、望遠鏡で見つけた新しいママのおなかにぴゅーって入るんだよ・・

ようすけ君、こんな感じかな?大人になったらまた教えてね。

これを書いたのは2017年だ。5月に母がいなくなって、どこへ行っちゃったんだろうとパソコンの前で考えてたときだ。

座右の書と宇宙の関係

 

この写真を撮るのに現人類は地球に出現してから500万年かかった。宇宙船に乗って写真の銀河に行き着くまでにその進化を4千万回できるが、それは気が遠くなるほど無理だろう。人類がそこへ行くことは想定されてない、つまり、我々とそことの間には越えられない透明な壁があるに等しいということだ。それがガラスであって、我々は金魚鉢の中で泳いでるお魚だとしても矛盾はない。

「この銀河はみんなCGなんだよ。きれいでしょ、宇宙っぽいでしょ。ときどきプログラムにバグが出てね、メトシェラ星みたいにバレちゃうんだけどね、まあ楽しんでちょーだい」

「光速?ああそれね、僕のパソコン画面の処理速度の限界なの。CGはその速さで『観測』はできるけどね、ちょっとモデルが古いんで133億年もかかっちゃう。でも死ぬとね、魂ちゃんは画面の外に出てぴゅーってここに来れるよ」(神さま)

 

 

 

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唐の都、長安を旅して考えたこと

2023 JUL 29 7:07:53 am by 東 賢太郎

唐の都、長安。いい響きだ。いまは陝西省西安市になっているが、中国の京都、奈良であろう。司馬遼太郎の『空海の風景』は貪るように読んだが、いよいよ旅が長安までくると、街のこまごまを描写する司馬の筆のリアリティが少し鈍ってもどかしかった。何事も百聞は一見に如かずだ。やはりそこに立ってみて自分の五感で感じ取るしかない。あれは1998年のこと、香港からの出張で初めて西安に降り立った。三蔵法師ゆかりの大慈恩寺で大雁塔の前に立つと、遣唐使として派遣された阿倍仲麻呂や空海もここに立ってこの眩しい姿を仰ぎ見たに相違ないと思えてくる。自分にとってはペンシルベニア大学の校舎群がまばゆく、よし思いっきり勉強するぞと奮い立った若き日の青雲の志に重なる。しかしながらその一方で、なにやら見慣れぬ曲線を描く大雁塔の外縁の輪郭には異国を強く感じており、いとも不思議な感覚に迷いこんだことを覚えている。

西安の北東にある始皇帝の兵馬俑は圧巻である。写真の総勢は約6000人(桶狭間の信長軍勢の倍ぐらいだ)。2200年前の兵士ひとりひとりの顔が写実されているリアリズムには驚嘆しかない。そこまでさせた権力にも、しようと執着した執念にもだ。漢の時代に土中に埋もれて発見されたのは1974年。空海はこれを知らないが、彼が入唐した時点で1000年前の遺跡であった。東を向いているのは秦が当時の中国の最西端で敵は東だからとされる。不老不死の薬を求めて徐福を日本へ派遣し、子孫は秦氏になったという説は虚構とする否定派が多いが、来てないという証拠もない。証明されてないからなかったことに、という説は非科学的でしかない。

私見を述べる。現在シルクロードと呼ばれるユーラシア大陸の交易路網は西洋人のセンスで脚色されたコンセプトにすぎない側面もある。交流、交易は紀元前2世紀、つまり秦王朝の時代からあったのであり、人間も文物も混じり合っており、はるばるローマやペルシャから中国まで来る体力、気力、資産、技術、理由のあった異人と接していた秦国の人間が朝鮮半島、九州に足を延ばすことを躊躇したとも思えない。兵馬俑の人面も物語る。こんな微細な箇所まで強烈な執念で覆いつくす皇帝に薬を探してこいと命じられた徐福に逃げ道はなく、見つからなければ殺されるから戻ってこなかったのは納得でしかない。といって日本各地の徐福伝説を支持できるわけではない(そのどれかが正しかった可能性はある)、一行は来日してそのまま日本に土着し混血していったと思料する。

西安で食事を済ませて隣町の宝鶏市に向かった(下の地図)。当時は国道しかなく車を飛ばして2時間はかかったと思う(今は高速がある)。道はあっけらかんと一直線である。大学時代に、あまりに一直線で居眠りしかけて危なかったアリゾナ砂漠の道路を思い出していた。行けども行けども、道の両側は地平線の果てまでトウモロコシ畑である。うたた寝して目が覚めたらまだトウモロコシだ。「中国人はこんなに食うの?中華料理で見たことないけど」と運ちゃんに聞くと「豚のエサです」(笑)。宝鶏に着くと仕事だ。味の素みたいなグルタミン酸の調味料を作っている会社に増資を勧める。社長に工場を案内してもらった。ベルトコンベアが続々と白いものを流している。目を凝らすと首を絞めた鶏だった。

宝鶏は日本ではあんまり有名でないが、周王朝、秦王朝の発祥の地である。「岐山」がある(信長はここから「岐阜」の名をつけた)。古くは青銅器の発祥地であり、諸葛孔明が陣中に没した「五丈原の戦い」の舞台でもあり、太公望が釣りをしていた釣魚台もこのへんだ。三国志の頃に漢方薬(本草学)のバイブル『神農本草経』が書かれた地でもあった。戦国武将は中国史を学んでいたが、信長は安土城の天守の装飾絵を中国の故事にならったほどで、始皇帝を理想にしたかどうかはともかく両者は似たものを感じる。西安にあったはずの安房宮は完成せず、安土城は完成したが主は死んだ。歴史好きの方は西安とセットで訪問する価値のある処だ。

宝鶏から西は僕は未踏だが、甘粛省蘭州まで行くとイスラム系の回族が多い。始皇帝は目が青かったともいわれるが、これを知るとそうかなと思わないでもない。何をいまさらではあるが、西安(長安)はシルクロードの終点であり、中央アジア、ペルシャ、トルコを経てローマにつながっている。トウモロコシ畑の宝鶏~西安はマラソンならラストスパートの200キロだったのだ。中国の主要都市はだいたい訪問しているが、西安はもとより行きたかった場所であり強く心に残っている。たぶん春節の前だったのだろう、縁起物であるのと感動をとどめたいのとで、この丸っこいのを2個買った。

灯籠だ。でっかい。直径30センチはあってみな「本気ですか」と驚いたが本気に決まってる。家ではもっと驚かれたが、玄関に飾ってもらって満足だった。

西安、宝鶏を旅してみて、自分はなぜこんなにローマ好きで地中海好きでもあり、誰に教わったわけでもないのに狂信的西洋音楽マニアなんだろうと考えるようになっている。未踏のトルコ、中央アジアは文化も食べ物も興味津々で女性も綺麗に見え、料理はというといま熱烈にガチ中華にハマってる。幼時に鉄の匂いが好きだった趣味はレアだろう(線路と車輪に魅かれて小田急の線路に侵入していたが、鉄オタの息子によると僕は鉄オタとは呼べないらしい)。鉄といえばシルクでなくアイアンロードというのもあった。ヒッタイト発スキタイ(タタール)経由であり、技術を持った異人集団が出雲に来ると「たたら製鉄」と呼ばれた(タタラ場として「もののけ姫」にも登場)。出雲は何度か旅して惚れこんでしまい、コロナで頓挫したが映画の舞台にしようとタタラ場だった絲原家にお邪魔もした。なぜか磁石みたいに鉄に惹かれるのだ。地球上に存在する金やウランなど鉄より重い元素は中性子星合体によってつくられたものである可能性が高い(理化学研究所と京都大学)。鉄を通して僕の関心は宇宙へと広がっている。

結論として思う。こういうものはまぎれもなく本能だ。生まれてから後付けで覚えたわけでは全くない。DNAに書いてないと絶対にこうはならないと自信をもって言えるレベルに僕はある。両親はそんなことないから隔世遺伝ということになる。アズマはアズミでもあり海洋族安曇氏の説がある。神話時代から人種の坩堝(るつぼ)だった北九州から海流で出雲に土着し、さらに海流で能登にぶつかり安曇野、諏訪にも下った。父方は輪島だから可能性はある。性格は農耕型でも定着型でもなく、海洋族であって何の違和感もない。

いまはささやかに北池袋の「ガチ中華街」でもめぐっておれとDNAが命じている。そこで火焔山蘭州拉麺に行った。前述したイスラム系の回族が多い蘭州のラーメンだ。一番上の地図を見ると甘南蔵族(チベット)自治州、臨夏回族自治州(回族、チベット族、バオアン族、ドンシャン族、サラール族他の少数民族が居住)が蘭州の近郊で、そこだけでも人種の坩堝。父系遺伝子ハプログループDが相当な頻度で存在するのは日本とチベットおよびアンダマン諸島のみという興味深いデータがある。

 

西安では何種類か麺を食べた。名前は忘れたがゴムみたいに伸びるビャンビャン麺やら刀削麺だった。火焔山のラーメンも味の坩堝だ。イスラムは豚は食べないので牛肉麺であまり辛くはなく、パクチや香草(漢方と書いてあったと思う)が効いていてエキゾチックなスープだ。たかがラーメン1杯だが歴史と地理を知れば何倍も味わい深い。東京~西安の3倍ほど行けばシルクロードは走破できそうだがまあ池袋でやっとこう。

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クライン孝子さんの訃報を知って

2023 APR 29 15:15:40 pm by 東 賢太郎

クライン孝子さんにお会いしたのはフランクフルトにいた1993年のことだ。3回ほど夕食をご一緒した。こちらは70名のノムラ・ドイツ現法のトップに昇格したばかりの弱冠38才。(若さ✖地位) の値でいうなら人生最高のトップギアに入っていた。当時のドイツというとベルリンの壁崩壊そして東西統一という未曽有の事態のごたごたで国情は騒然、そこで経営の責任を負ったのだから未知の危険でいっぱいだった。しかし若さに勝るものはない。これって百年後の世界史の教科書に太字で載ること確実だなと意気揚々、経営もビジネスの怖さも何もわかっていない初心者マークのドライバーにすぎなかった。

どういう経緯でそうなったか記憶にない。とにかく孝子さんのお名前も著書も知らずに会食という段取りになった。仕事に直接の関係はない。ドイツの日本人社会で著名人であり、見聞を広めろという意味で誰かがセットしてくれたのだろう。実は気が重かった。僕は知識人の年上女性と聞いただけで苦手意識がある。何といってもドイツだ。気難しい方でドイツ語もできないでよくやってるわねなんて感じだったら早々に退散しようと身構えていた。ところが、あにはからんや、実に明るくやさしく気さくな方だったのである。聡明な知識人ということはすぐ分かったが、キンキンして冷たいインテリではなく人間味にあふれている。こういう人は男女を問わず奥が深いことは必定の理である。すぐに魅かれてしまい、きわめて初歩的な質問をしてもなんでも答えて下さり、しかも物言いがストレートなのでわかりやすいときている。ドイツ語漬けの日々で悶々としていた僕にとって後光がさして見えたものだ。

2度目の会食は自分からお願いしたと思う。仕事に慣れてもきており、だんだん舌も滑らかになり、「日本人とドイツ人」「日独の戦後復興政策の巧拙」「アメリカと欧州の背後にある権力構造」「日本国憲法」などについて議論させていただいた記憶がある。そこで教えてもらった話の数々は忘れたくとも忘れようがない衝撃的なものだ。昨今の日本メディアや言論界の、チャラくてうわべだけで反吐が出る人工甘味料みたいなものではない。口ばかりの人とは根っこから人品骨柄が違うからだ。自分で見ないと気がすまないとおっしゃるのはご性格なのだ。地に足のついたジャーナリストという生き方には共感があり、自分もこんな仕事があり得たかもという気持すら懐いた。だから孝子さんは当然のこととして「また聞き」の話はされない。「欧州ペンクラブってのがあるの。50人ぐらいで全員男性、全員ユダヤ系なのよ、すごいでしょ。主人がメンバーでね、必ずついていくのね、するとだんだん私も仲間に入れてもらっちゃってね、だからいま唯一の女性会員なのよ。で、女だから皆さん警戒しないでしょ、いろいろ深いこと教えてくれちゃうのよ」とお茶目に笑われ、「ローマクラブがあってね、ヨーロッパの大事なことは実はみんなそこで決まってる。ドイツの処分もイスラエルの建国もそこで決まったのよ、だからドイツは許されてるの」なんてことが次々に出てくる。それにひきかえニッポンは、という主題の数々のご著書、言論はそれが通奏低音となっているのだ。

生々しい話の一部はここに書いた。僕が世界情勢を見るうえで今でも考え方の骨格になっているし、この4年後に僕も自分の足でダボス会議に参加してみて、ジャーナリスト的な意味でも追認している。

私見”ディープステート”の正体

いま振り返ると実に感慨深い。ひとことで丸めれば、ドイツの政治はプライドの捨て方まで戦略的でしたたか。役者もしたたか。かたや日本は策すらなく役者もおぼこくて下手くそ。ワールドクラスの上級者の域に達した政治家は安倍晋三だけだったというのが確固たる事実だ。その証拠にだからこそ狙われたのであり、岸田首相は鉄のパンツの女みたいに永遠不滅かつ盤石の安心安全であり、だからこその国難であることを知識人はみな知っているにもかかわらず誰も何も言わず何もおきないという重層的な国難に日本国は陥っているのである。誰が救えるんだろうという問いの前に誰がなっても何もおきないという悲しい確信しか浮かんでこない。この悲哀は救い難く、僕はもはや政治を論じる気にさえならない。有権者の10%の得票で当選するなんて選挙は「鰯の頭も信心から」の詐欺師の宗教みたいなものであり、クルマに喩えるなら、我が国で大事にしてる民主主義などパンクを通り越してもはや大破し、廃車寸前であるとしか言いようもない。こんなくだらないものの滑った転んだをああだこうだ放映して飯を食ってる草野球の実況中継みたいな輩が業界と化して膨大に生息しているのは異形ですらある。いっそ、超一流の男であり外国人がひれ伏して黙る天下の大谷翔平さんが引退したら総理をお願いしたらいい。よほどシンプルに低コストで国民的信心が得られるのではないか。

そして3度目の、孝子さんとの最後の会食でのことを以下に書く。ありがたかったなと思うのは民間人だったことだ。あれから時がたってもうドイツの経営は手の内に入っており、特段の事情もなかった。もろもろ諸事のお話がしたかったので会食をお願いしたが、野村證券の株主も上司もそんな会食は趣味か遊びだろうなんてことは言わない。官僚は接待じゃないのかと痛くもない腹を探れられる。政治家も自腹ですなんて気を遣う。この自由度こそ民間の経営ポストの特権であろう。古来より人間、深い話を腹を割ってするのにそうした気のおけない会食の場は不可欠なのだ。証券業という仕事のおかげでものすごく若い頃からこういう場で人生の達人たちから本音の話を伺い、僕がどれほど人間として成長させていただいたかわからない。

この日、お酒もたっぷり入った僕は日本の国家プランにつき自説をぶった。とにかく気持ちよくしゃべらせてくれる。そうなると2時間でも3時間でもしゃべる。アメリカの留学体験、ロンドンでの勤務体験からこのままじゃ日本は駄目だ潰されるとああだこうだを延々と説き、酔っぱらいがくだを巻いたみたいだったろう。海外から長年日本を眺めるに、とてつもなくだらしない、主権国家とは言い難い、サンフランシスコ条約調印はなんだったのかみたいなことになる。だから教育、徳育はこうやれ、政治家かくあるべしから当然軍備の話もしたはずだ。青くさい書生論だったに相違ないが、本音をぶつけてみたかった。

孝子さんがそれになんとおっしゃったかは覚えがない。あまり反論も論評もなかったかもしれない。とにかく飽かずにじっくり目を見て真顔で聞いて下さった。普通の女性ならあくびの十回もするところだ。なんて素晴らしい。うんうん、そうだねみたいな感じが端々にあり、人生でこんなにウマが合う人に会ったのは初めてだという手ごたえだけが強く残った。そうしたら帰り際に、ひとこと、こう言われた。

「東さん、ワタシと共著で本を書かない?」

何ということだったろう。人生最大の悔いの一つはこれをお受けする勇気がなかったことだ。悲しいほど気が小さい。何度も拙稿に書いてきたが、サラリーマンになるなんてのは僕にとっては人生最低の消去法的選択だ、他に能がないからこんなものをやってると思っていた。それがちょっと良いポストを与えられると地位にしがみついてる自分がいたわけだ。妻帯者は留学させない決まりだった。選ばれてから結婚しますと言い出して人事部にルールを変えさせた攻めの自分はもういなかった。それどころかこんな奴がいるから日本は駄目だとさっき力説していた、お前がそれではないか。でも、もうできない。あの頃のキレはもう僕にはない。ブログを書きだしたのはいいジジイである57才だ。絶頂期の38才で何をぶち上げて孝子さんがそう思ってくれたのかは闇の中だ。それだけでも残したかったと切に思う。

海外から日本を見ていると右に寄る。そこが共通だったのだろうが、西部邁さんに近いというのもそうだ。歯がゆい日本かくあるべし。最高のインテリジェンスをもってしてもこの国は変わらん、もうあかん。そう思われたのだろうか。右翼でも何でもない。野球場で起立して「星条旗」を歌うアメリカ人と同じ、当たり前の愛国者ではないか。もういちど、孝子さんとは議論したかった。属国の日本。当時の何倍も、否、それを旗幟鮮明にしてしまうことにさえ恥も外聞も感じないのに一流国だといえてしまう意味不明の精神構造になり果てた今の日本を。かつては経済一流政治三流だったが経済も三流に向けて地盤沈下する我が国を。

いつかどこかでお会いできるだろうと甘く考えているうちに30年もたってしまった。僕は何をしてたんだろう。そしてきのう、この水島総氏のyoutubeチャンネルで悲しい知らせを知った。2週間ほど前に来日されてこんなにお元気だったのに・・・。

クライン孝子さん、多くの時間を下さって、たくさんのことを教えて下さって、感謝に堪えません。ほんとうにありがとうございます。教えは今も僕の中で脈々と生きていて、血肉となっています。心よりご冥福をお祈りします。

 

(追記)

さっき台所に行ったら本稿を見た家内が「クラインさん亡くなったのね、ドイツの家に彼女から電話があったのよ、お宅のご主人、選挙に立候補しないかしらって」と教えてくれた。知らなかった。そういう人生があっても面白かったかな。

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モリソン教授講演会と成城学園

2023 MAR 28 19:19:39 pm by 東 賢太郎

ここに来たのは恐らく56年ぶりだ。母校、成城学園の正門である。

それにしても変わってないなあ・・・幼稚園から小学校卒業までの7年間、ここを毎日毎日、雨の日も雪の日もてくてく歩いていたのだが、半世紀前の光景そっくりそのままだったのには大いに驚いた。夢で見たデジャヴというものはよくあるが、これは現実のそれなのだ。いや、これって、現実というか、前世のデジャヴだよと神様に言われればなるほどねと納得しかねない完成度にある。毎日現れるお月様が、56年前に見たのと同じものだろうかという感慨に似たものかもしれない。

今年に入って僕の周囲はいろいろ新しい波が起きつつあるが、これもその一つだろうか、東京芸大の音楽学博士、菊間史織様からプリンストン大学のサイモン・モリソン教授がご自身の講演において僕のブログを引用したいので許可が欲しい旨のご依頼があった。同講演は日本音楽学会の後援とのこと、同学会は音楽学関係では国内最大規模を誇り、日本学術会議にも登録された純粋にアカデミックな場であることから素人のブログ引用は不適ではないかと僕も一考し、また菊間様側でも教授にその指摘はされたようだが、「先生は論の流れでどうしても引用なさりたかったようで、それで東さんにご連絡させていただきました」とのことであり、承諾することとした。

教授のことは寡聞にして存じ上げなかったが、プロコフィエフ研究の世界的権威であるとお見受けした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%82%BD%E3%83%B3

僕の側ではというと、まず講演の場所が成城大学というのが大いに目を引いた。これが奇縁でなくて何だろう。こういうことでもなければもう二度と行かないのではという考えが頭を巡り、お招きを有難く受け、聴講もさせていただくことにあいなった。

成城学園前の駅についた。出てすぐ、自然に右の小路に足が向いたのは目当てのあの店があったからだ。2, 30m先の右側にひっそりと開いていた小さいレコード屋で、ベンチャーズのウォーク・ドント・ラン’64やペダルプッシャーがはいったEP盤を買ったのは10才の時だったか。もう店は跡形もないが、あの天にも昇るような嬉しさは鮮烈に残っている。このレコード、かけてみると全くの期待外れで大枚500円も払ったのがいまも悔しい。でも買うと決めるまでの「きっといいに違いない、それを味わえばどんなに幸せになれるだろうか」という一種無謀なワクワクたるや何物にも代えがたいものだったのだ。あの日を手始めに僕は世界中でクラシックのレコードやCDを1万枚も買い集めて家には専用の収納室まで作る羽目になり、いまだって、何事に対しても、仕事にだって、日々そういう期待に揺り動かされて生きてるではないか。

時間があるので、池の方へ下っていく坂へ向かって歩いた。昔はここは玉砂利だった気がするが舗装されている。かように構造物や建物こそ様子が違っているが、地形だけは何も変わっておらず、何となく覚えている坂の勾配の塩梅までそのまんまだ。そう、この池だ。こんなきれいでなく周囲は草ぼうぼうの湿地だったが、帰り道に先生の目を盗んで決まってここに寄り道し、泥だらけになりながらマッカ(アメリカザリガニのこと)を釣った。スルメでひっかけるのだが僕は腕前が良かった。バケツで3,4匹家に持ちかえって、エビみたいなもんだから母が喜ぶと思ったわけだが、これは食べられないのよと捨てられてがっくりだった。しばらく佇んでいると、帽子に半ズボンの悪ガキたちが奇声をあげながら足元を駆け抜けていく幻影を見た気がした。

テニスコートを超えて川沿いに初等科の方へゆっくり歩いていると、なんとなく背中が重い感じがしてきた。何だろう?しばらくはわからない。だんだん小学校へ渡る小橋が近づいてくる。そこで電光石火のひらめきがあった。そうだ、これはランドセルだ!そう、ここを歩いてたんだ、重たいランドセルを背負って。そういうものをしょっていたことすらまったく忘れていたが、それがやけにでっかくて真っ黒に光っていて皮の匂いがして、あけると教科書がどっさりおさまっていたぞというビジョンがくっきり浮かんでくる。肩掛けがずっしりと食いこんできたことを体が思い出していたのである。

なにやらキツネにつままれたようになっていた。1時半からまず澤柳記念講堂でプロコフィエフが日本で弾いた曲等のミニ・コンサートがあり、ソナタ第10番(断片)を初めてきいた。浜野与志男の演奏は含蓄に富んでおり、スクリャービンの投影、「束の間の幻影」のロシア的でない響きの洗練(ドビッシーの前奏曲を思わせる)の発見をもたらしてくれたことは特記したい。講堂は当時はたしか「母の館(かん)」と呼んでおり、色々行事があったし、嫌々やらされていたカブ・スカウトの点呼もたしかこの中庭あたりでやっていた。コンサートが終わるといよいよモリソン教授の講演だ。参加者は大学の大教室に移動し、オンライン参加もあった。教授が引用された我がブログはこれである。

プロコフィエフ ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 作品26

2017年の8月に書いたもので、どういう動機で書いたかは覚えがない。母が亡くなったすぐ後であり、能を見た影響があったかもしれない。というのも「土蜘蛛」に言及しており、理論的なものはまったくふれておらず印象記だけになっていることが曲名タイトルにした稿では異例だからだ。

たぶん今なら僕はプロコフィエフは越後獅子をモデルにしたのではなく、エキゾチックにきこえた日本の陰旋法(都節)の音階から和声、旋律を再構築したと書くだろう。ブログは自分の思考史として残したく、時がたってからは手を入れないことにしているので以下本稿に付記しておく。

この音階は琴の調弦であり、作曲家が初めて見る楽器のチューニングに興味を持つのは誠に自然だと考える。

彼は日本に約2か月滞在した後、船でアメリカへ渡ったが、その地では成功できずパリへ行った。以前にディアギレフに『アラとロリー』をロシア風でないとケチをつけられた経緯があり、ロシア民謡さえ引用しない作風だからどんな語法をパリで確立するかには迷いがあった。ピアノ協奏曲第3番をブルターニュで、新妻リーナとのひと夏の滞在中に仕上げたのはそういう状況下であり、ドビッシーが交響詩「海」で東洋の音階を素材に、聴衆にそうと知られないように独自の語法を生んだことをモデルにしたのではないか。ドビッシーはペレアスの成功を断ち切ろうと新しい語法を模索する必要があり、プロコフィエフも、ロシア風で旋風を巻き起こしたストラヴィンスキーの二番煎じにならず、交響曲第2番のように前衛の角が立ちすぎても受けが悪いパリで成功しなくてはいけないという切羽詰まった共通点があったのである。ドビッシーは「海」をジャージー島、ディエップでエンマ・バルダックとの不倫旅行中に書いたが、どちらも英国海峡の海風の中で愛する女性と過ごしながら書かれた曲であることはとても興味深い。交響詩「海」における先人の非西洋的音階による語法構築はプロコフィエフが得意とする抽象的、概念的思考法(例えば20世紀の語法でハイドン風交響曲を書く)に難なくフィットしただろう。

ドビッシーの「海」は雅楽である

3番は第1,3楽章の全音階的主題に白鍵を、第2楽章の半音階的主題に黒鍵を多用してコントラストとしているが、ドビッシー「海」も同様に主題は第1,3楽章が全音階的、第2楽章は半音階的(かつ旋法的)だ。彼が「海」を模倣したと主張するわけではないが、抽象的、概念的思考法として方法論を試行した可能性を指摘したい。

例として3番の第2楽章第4変奏の伴奏和声をご覧いただきたい。

h-c-e-fis-(g)-hであり陰旋法(都節)である。京都のお茶屋遊びでなじんだ陰旋法の影響は第1,3楽章の白鍵旋律にも認められるが、第2楽章の黒鍵部分にもある。越後獅子のメモリーが混入したという単純なものではなく、プロコフィエフはその種の評価を許容する人でもなく、あたかもドビッシーがガムランや雅楽の影響を一聴してもそれと知れぬほどに抽象化し、発酵させ、消化して自己の語法にせしめた領域に至らんとする試みの一環であったのではなかいかと思料する。

以下、講演のテキストにあるモリソン教授が引用された僕のブログ部分である。

印象記的部分ばかりであり、こうして立派な英文に翻訳されると些か面はゆいものではあるが、本稿はそういうことをあまり書かない僕としてはレア物としての愛着を感じるもののひとつだったことは事実だ。よくぞ引用して下さったと膝を打つと同時に、その背景にはモリソン教授の我が国文化への深い造詣と素晴らしく柔軟で視野の広い精神があることを講演から感じた。本文に書いたように、越後獅子説はその正誤の検証以前に西欧では全く無視されており、wikipediaでも日本語版を除いて言及した言語はひとつもない。文献なきところ真実なしという姿勢からはそれが妥当ではあるが、クリエーターが自作につき常に真実を語るわけではない。妥当性に執着すれば証明しようがないゆえに証明されないだけであり、それが真実だというならば真実の定義は変更すべきであろう。

3番という楽曲はプロコフィエフの作品としてはentertainingな部類に属する音響によって構築されていると考えるが、その由来の一部は訪日前に萌芽のあった全音階的な白鍵による旋律の平明さ、一部が「(何らかの)日本による影響」であるという私見は凡そ教授の論考に合致している(その範疇である)と拝察させていただいた。ただ、後者を「象徴主義詩人コンスタンチン・バリモントが阿倍仲麻呂の和歌から日本的要素を取り去って宇宙的、普遍的な詩に再構築したのと同じことをプロコフィエフは音楽でした」として展開される「垂直的な詩」の概念、および、第3楽章セクションCの嬰ハ長調からホ長調への移行の分析は愚考の及ぶところではなく、非常にinspiringであった。このことで、この日の第1部で『束の間の幻影』(同曲タイトルはバリモントの詩行に由来)が演奏された意味が明かされ、プロコフィエフが3番をバリモントに捧げた意図が整合的に解明されるのである。これを知ったことで彼の楽曲への理解が深まったことを感謝申し上げたい。

この日、残念だったのは夕刻で門が閉まっていて初等科と幼稚園の敷地に入れなかったことだ。この地で勉強した覚えは実のところあまりないが、ありとあらゆる遊びの英知がここにはぎっしりある。だから僕は遊びの精神の延長でその後のすべてを乗り越えてこられたのである。それを涵養し伸ばしてくれるおそらく日本広しと言えども成城学園にしかない環境、そうであってこそ育まれるであろう真の意味での「自由な精神」という、僕を東賢太郎として成り立たせているもののルーツがまさしくここにあったことをこの日の散策で強く感じた。56年は束の間であったが、素晴らしい学校に入れてくれた両親に感謝あるのみだ。

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99.9%の人には言わないこと

2022 SEP 5 19:19:08 pm by 東 賢太郎

学園祭の天文学科でわくわくしながらお話を聞いた。「これの名前わかるひと」とクイズがあって、「アンドロメダ大星雲!」と図鑑どおり答えたらお兄さんがびっくりして(7才だったんで)、「ボク、これをあげよう」と星雲メシエ83の展示写真をくださった。よし、ここの一員になろうと思った。なれたらこの話は尾ひれがついたろうがなれなかった。

帰りに父が望遠鏡を買うかときいたが、いらないと言った。恒星はパロマ山の大望遠鏡で見ても「点」だからだ。土星の環とか月食とか、太陽系のチマチマしたそういうのは興味ない子だった。最近、ときどきテラスで本を読みながら、夕暮れになって、雲の中の太陽が “目視” できるときがある。「やばい、恒星があんなにでかい!」。これ、99.9%の人には、言わない。頭おかしいと思われる。あれ触ってみたい、メスで切り取って成分を調べたいなんて思ってることは、あの日のお兄さんなら分かってくれるかなと思う。

恒星写真といえばいまやハッブルという時代だ。しかし個人的には、あのときの思い出があるから日本を代表する望遠鏡を応援したい。それが2つある。ハワイ島の「すばる望遠鏡」とチリの「アルマ望遠鏡」だ。

「すばる」は世界最大級の8.2メートル口径を誇る。オリオン座の三ツ星の下にあるオリオン星雲はすばるで見るとこうなってる。

オリオン星雲

次は電波望遠鏡「アルマ」の画像。

おうし座HL星まわりの塵の円盤

なんか危ない感じがする。これは450光年先に確かに存在する。この世かあの世かもう分からないが、宇宙船の窓からこんなのが見えたらぞっとする。

きれいなのもある。この写真など、額に入れれば白壁に似合うおしゃれなモダン・アートだ。これは460光年。

おうし座DH星

きれいというならマリンブルーだ。ダイビングしてそれを美しいと思ったが、あれは先祖が海にいたころの記憶だろうか。では空はどうなんだろう。460光年かなたの景色を先祖はどこで見たんだろう?

人体解剖図も7才あたりで好きだった。「腑分け」だ。レオナルド・ダ・ヴィンチは筋肉と骨だったが僕は肝臓で、たくさんの肝臓が渋谷の交差点をぷかぷか浮いてるダリみたいな絵が見えた。

楽譜も解剖図だ。一青窈の「ハナミズキ」(ホ長調)のサビでE₇ 挿入は「ロング・アンド・ワインディングロード」、E,  D#m₇-₅, G#₇, C#m₇は「イエスタデイ」に見える。なんだ、ビートルズだった。

「弦チェレ」の第3楽章は宇宙空間にゼンマイ(植物の)が浮んでいると日記に書いた。ライナーのレコードだ。チェレスタがぱらぱらと雪を降らす。

兼好法師というと素敵であって、宇宙的だ。この世に変わらぬものはなく、すべては幻で仮の姿に過ぎないなんて、ショーペンハウエルと双璧である。

うちの猫も素敵だ。芸もなにもしない。いるだけでありがたられ、エサが出る。ときどき、見おろされて、宇宙最強の生物じゃないかと思う。

ちなみに、漱石にあれを書かせたのは黒猫だ。人なつっこさで異色の威力を放つ最強の部族。彼は書いたつもりだろうが、気がついてない。

アインシュタインも金魚鉢の金魚。光速は宇宙劇場を上映してるコンピューターのメーカーが決めた限界。CDの限界が「第九の入る72分」みたいなもん。

でも、こういうことは99.9%の人には、言わない。

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果てのないオマージュ(東家の歴史)

2022 JUL 12 2:02:13 am by 東 賢太郎

本郷西片に下宿していたころ、東大正門前の銭湯にずいぶんお世話になった。冬の寒い日、勉強に疲れるとタオル片手にぶらっと出る。ひとっ風呂あびて行きつけの飯屋で瓶ビールに中華丼なんてのがささやかな楽しみで、世間様のイメージとは大違いで当時のあの界隈は日が暮れると大いに庶民的であった。

東京の銭湯というと「富士山のペンキ絵」と相場が決まっているが、これは我が父の祖父が明治17年にJR水道橋駅の近くの猿楽町に開業した「キカイ湯」が日本初である。もう廃業したが跡地にこんな案内板がある。

これを記した東堯氏は京大物理学科から東芝に入り、日本色彩学会会長をつとめて勲四等瑞宝章をもらった人だが、我が父のいとこである。子息の実氏は東大工学部から東芝の専務(最高技術責任者)となり、退職後は中国の清華大学顧問教授、東京理科大大学院教授といった具合であり、父の兄弟もその子供である僕のいとこもみなガチの理系という一族である。

東由松は石川県能登から上京した。一度父と故郷を訪ねてみたが、穴水に近い鹿波という半農半漁の寒村である。わけは父も知らなかったが、由松が能登を去ったのはキカイ湯を創業した32才より以前だ。田舎にくすぶるのは嫌だったのだろうと推察するが、明治時代初めに近場の金沢や富山でなく一気に東京都心をめざした心意気は我が心に響く。聞く話によると当時は風呂屋というと北陸出身者が多かったそうで、朝4時からの重労働であるから東京人がやりたがらない仕事だった。僕から見て曽祖父にあたる彼が裸一貫で銭湯を立ち上げ、旧態依然のビジネスをエンジニアリングで省力化し、富士山の絵でマーケティングに成功したこの話は大いに気に入っている。

幼い頃の我が関心事はというと、幼稚園で描いた絵を見るに電車の床下の機械と車輪、それからねだって買ってもらった人体解剖図、全天恒星図、鉱物標本を子細に眺めることといった風で、音楽の方も夢中だったのは音よりもSPレコードの音溝になぜ音が入っているかの謎ときであった。だから小学校にあがっても友達とは話がまるで合わず、仲間に入れてもらおうと野球少年になったのだ。父は医者か科学者にしたかったようで、文系を余儀なくされてしまったのはこうして家系を俯瞰するとやはりつらいことだった。いっぽう母方には理系はおらず、根っからの商人の家だ。そっちの血に頼って何とか生きてきたが、父から見れば期待外れの大失敗。まさか証券マンになろうとは夢にも思ってなかったろう。

かように水と油である父方、母方のブレンドは戦後の見合い結婚の産物だ。三井物産にいた母方の祖父が三井銀行にやってきていい男はいないかと掛け合い、支店長の白羽の矢が立ったのが父だった。初デートは歌舞伎座だったそうで、どっちも歌舞伎が趣味という形跡はないのだから微笑ましい話である(母は宝塚のほうが好きなのだ)。僕は父の実家があった板橋区清水町の富士見病院で昭和30年2月4日に生まれた。3才までいたこの家はもうないがよく覚えている。命名は祖父で、後に東京都知事となる東龍太郎にあやかったらしい。

祖父は優しかったが気骨ある明治の男であり、事業をしていたがそのころはもう楽隠居で、将棋をさし株を買い悠々自適だった。関東大震災で家が焼け、板橋の家は庭に池まであったが借家で裕福ではなかった。祖母は九段下の大店だった鮮魚店の娘で、両人とも常に和服で物静かだった。大森の千坪のお屋敷で洋風に気ままに育って嫁いだ母はギャップに苦労したようだ。大正13年生まれの父は4人兄弟の次男で、戸籍名の由之助はキカイ湯の由松から来ているが、どういうわけか清隆なる通名があって祖母にはいつも「キヨ」と呼ばれていた。僕の会社「ソナー」は母の名「園子」を宿しており、もうひとつの会社「レイゾン」は「由」のフランス語、raisonである。

僕の「賢」は学業への期待だろうと子供ながらに荷が重かったが、成城学園でのびのびやりなさいという母の教育とは大きな齟齬があり、それにかまけて好きにのんびりやってしまった。激務で毎日帰宅が遅かった父は勉強してるふりだけでごまかし、成績は上がらないわ受験は落ちるわで不義理してしまった。だから幸か不幸かケガをして野球を断ち切り、高3から真剣に勉強路線に転じたのは、キャリアが戦争の犠牲になった父の仇討をせねばと思いたったからだ。現役で受かった私立に入学金40万円を払ってくれたが、御免と捨てて浪人したのは一生裏切ったまま済ます気になれなかったからだ。東大の合格発表の掲示板の前でも嬉しいという感情はあまりなく、やれやれ一仕事終わったという安堵があった。

証券会社のサラリーマンとしてくだらない処世術を弄するにあたって父方の能力は無用だった。あほらしくなって会社を辞めようと思ったが、母はそれを予期したかのように「きっと縁があるのよ」と田中平八の話をして励ましてくれた。結果として辞意は若気の至りで、その訓練を我慢したことが後々の修羅場をくぐりぬける屋台骨になった。しかし人間の造った物に興味のない僕には証券業も単なるお仕事だ。そっちの僕だけを知るほとんどの人たちはブログを読んで意外だろうが、それがほんとうの我が姿なのだ。白鳥座で6,900光年離れたケプラー19bの公転周期が約5分ほど変化しているなどと科学誌で読むとムム!と居ても立っても居られない。これとハンマークラヴィール・ソナタにブラームス4番の冒頭主題を発見したワクワクは僕の中では同じ質感なのであって、どちらも紛う(まごう)ことなく父方由来のものだ。

我が父、東由之助(1924-2022)

父は神仏に信心が厚く、文学的で俳句短歌を好んで詠んだ。早寝早起きのリズムは最後まで微動だにせず、整理整頓は水も漏らさぬ完璧さで、不要と見るや即廃棄する究極のミニマリストであった。銀行員の几帳面さで何事も達筆で細かに記録し、96才になっても孫や猫のことをあれはどうなったと聞かれてこっちが忘れていることもよくあった。健啖家で95才までスエヒロのステーキをぺろりと平らげていた。運動がうまいイメージはなく車の免許はとらず母まかせだった(母は名人クラスのドライバー)。気難しくはあるが基本は陽性であり、長男の重荷をずっしり背負った僕からすると次男の気軽さがあったかもしれないと思う。誰に何を言われようと自分のスタイルを巖のごとく守る人だったが、猫が悟って逃げるほどの猫嫌いを母が押し切って3匹も飼わされたのは気の毒だったのかもしれない。陸軍では高射砲兵で爆弾に吹っ飛ばされて左耳が聞こえなくなったが、戦争は嫌ったもののそれを気に病んだり恨んだりしたのは聞いたことがない。

こうして書いてみると、僕とはかなり違う人だ。96才でも施設で英語の勉強をしていた博覧強記の勉強家だが、施設の女性看護師さんたちに囲まれ、先生と呼ばれて楽しくやっていた。人柄としては教師か神主、お坊さんでも似合った気がする。一家でただひとり2,30年も長寿だったが、同じ遺伝子でそれというのは楽観的な性格の恩恵があったのではないかと思えてくる。どんな難事にあっても神仏に祈って難なく1%の可能性に本気で期待をかけてpositiveでいられる能力において、僕は父以上の才能の人を見たことがない。そして、僕を知る人はみな知っているが、その能力はほぼ正確にそのまんまDNAに組み込まれて僕に遺伝しており、何があろうと何とかなるさでジタバタしない得な性格を与えてくれた。それがなければ絶対にここまで来ていない、最大の遺産である。

最近は体重が増えているせいか、5月8日の父の旅立ちの日の朝、いつもは大丈夫だった喪服が窮屈であることが発覚した。「仕方ないわね、お父さんのがあるわよ」と家内が出してくれたそれは、どういうわけだろうか腹まで見事にぴったりではないか。「おかしいね、俺よりずっと細かったのにね」。5年前に代々木上原の斎場で父はこれを着て母を天国に送ったのである。それを今度は僕が着て、妹といっしょに父を骨壷に納めた。葬列でもちあげてみると、可愛らしい骨壺だった母の時よりずっしりと重い。ああこれが父という存在だったんだ。膝にかかえて車で帰宅する道すがら、僕は茫然としていたが、ふと気がついた。その斎場はというと、まったくの偶然なのだが、あの板橋であった。

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亡き父に捧げる五月五日のこどもの日

2022 JUN 28 23:23:12 pm by 東 賢太郎

スミノフをグラス2杯、ジム・ビーム1杯を一気にあおった。酒はいたって弱いのだから息がなんだか荒くて速い。目にちかちかと色とりどりの星が花園みたいに瞬いている。ここはどこだろう?わからないが、とにかくきれいだ。

3才で七五三に行った登戸稲荷社の景色はくっきりと脳裏に焼きついている。子供ながらに親の熱い期待を肌で感じていたっけ。去る五月五日のこどもの日の朝、父はそんな僕に我が家のすべてを託し、花園を愛でながら静かに逝った。

去年の9月のこと、入っていた川崎市の施設で倒れ、目黒の病院に搬送する道すがらたまたま多摩川を渡る鉄橋の手前にあるその稲荷社の前を車が通った。もう意識はなかったが、手を握り、耳元で何度も「ありがとう」とくりかえした。

端午の節句。団地なのに立派な鯉のぼりが舞った。僕はというとお内裏様の刀がうれしくて、それを抜いては叱られながら、親の目を盗んでチャンバラごっこに興じていた。親の心子知らずのまま大人になってしまった自分が申しわけない。

銀行員だったせいか規律と勉強には厳しかった。だから高校にあがって「硬式野球部に入りたい」と告げるには勇気が要った。「そうか、やるなら徹底的にやるんだよ」。返ってきた思いがけない言葉が、生涯にわたる僕の金科玉条になる。

16歳で開戦。秀才だったが学徒動員で大学は夜学。悔しかったろう。よし、ならば俺がやってやろうと決心した。それを意気に感じたのだろう、お前はできると背中を押してくれた。こどもの日が命日とはそんな親父らしくもある。

まだ施設で元気だったある日、僕の幼時のアルバムに達筆で「賢太郎 健康と幸運を祈る」と大きく書かれているのに気がついた。さらにあった「おだやかな老後をおくりなさい」には心底参った。起業してからだ。涙が止まらなかった。

父が無言の重荷だったこともいま知った。それが取れた。でも30代40代だったら怠惰な僕はきっとだめになっていたろう。晩年まで心身とも壮健で97才まで生きてくれた父。彼を一言で表すなら、『世界一の教育者』以外にない。

いま目の前に忽然と開けた新しい世界。宇宙のどこかにいる両親が「あの七五三から64年の歳月がたったね、もう一人でできるよ」と言ってくれている。もちろんだ。また逢える日まで、最後までやりきるのが不肖の息子の責務だろう。

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拙稿の閲覧数700万回の御礼

2021 JUN 3 1:01:23 am by 東 賢太郎

アメリカの歌手、B・J・トーマスが亡くなった記事を見てバート・バカラック「雨にぬれても」をYahooで検索したら拙稿が出てきた。

http://バート・バカラック「雨にぬれても」の魔力 | Sonar Members …

この曲も古くなっちまったってことだ。気がついたら拙稿のPVは7,000,000回をこえていて僕もけっこう古手ブロガーに数えられており、古い者が古い物をほめているという図式を古い人が面白がってくれてるということが背景なんだろう。

そう思ったがGoogle Analyticsを見るとそうでもない。以前からその傾向があったが現在の僕の読者は43%が44才以下、うち22%が34才以下だ。ざっくり半分が40半ばより若い学生、働き盛りということになる。とても嬉しい。SMCは50才以上をイメージして始めたが老人クラブではない、若年層に知恵と勇気をつけてあげたいという思いだけでやってきたから本望だ。僕はインフォメーションを書く気はさらさらない、そんなのは自分でググりなさい。書くのはインテリジェンスのみだ。僕自身それしか興味ないからそうなるしかない。勉強や世渡りを教えることはできないが、拙文に長くつきあってくれれば思考回路は似てくるという気がしてならない。現にそう言った若者がいた。そうなれば自分でユニークな思考ができるようになる。ただし普通で平穏な人生が良い人にとっては害かもしれないとも思う。そういう方はここでやめたほうがいい。

ちなみに、誰に会っても「若いですね」といわれる。66はないですね、50ぐらいですと。お世辞半分としても、精神年齢は若いと自分でも思う。たとえば去年はコロナ環境に適合した会社「アルカ」を作って今年は利益が出るし、先月はある会社の買収に成功した。金融とは程遠い業界の顧問にもなる予定で、もはや僕にとってビジネスは金儲けより好奇心の充足である。面白いと思わないと儲かってもやらない。だってそんなものに憂き身をやつすのはカネに隷属するということで人生の空費以外の何物でもない。若者は「面白いこと」に時間を使いなさい。そしてそれを極めなさい。仮にそれで食えず、やむなく一時の隷属生活になってもめげないことだ。そうしていれば、極めてない周囲より評価される日が来る。そこでまたそれを極めなさい。これが成功のスパイラルになる。

面白いと思う事柄は年齢と共に変わっていくが、そこに節操なんてものはかけらもない。持つ気もない。心の移ろいというのは自然の摂理だと思っている。自然に逆らってもいいことはない。「不動心」とか「軸がぶれない」なんてのは、変化する能力も勇気もない者があみだした念仏である。そんなもので戦争には勝てないし、なによりダサい。人間その時々にやりたい事をやれば集中力もパフォーマンスも上がるのであって、業績もお金も自然についてくる。だからそれに徹するのが幸福な人生であり、やりたくもないくだらない仕事に時間を使うのは奴隷である。英語でドンキー・ワーク(ロバの仕事)というものをくだらないと思うかどうかはあなたのセンスとポリシーによる。僕は絶対に奴隷にはならない。なぜならみっともないし格好悪い。格好悪いのは耐えられない性格だからだ。

女性読者は30~40%だったのが45%に増えている。これもとても誇らしい。男は何才になっても女性にもてたいのである。僕は先祖が九州と能登で陽と陰、動と静、アバウトさと緻密さ、気まぐれと集中、飽きっぽさとねばり強さが同居した珍しい人間だ。「南国君」と「北国君」のどっちでもある。でも自分でどっちが好きかというと北国君であって、実は僕の内なる南国君も彼には一目置いている。おカネを増やしたのは南国君なのに北国君はあまり評価しない。困ったのは若いころだ、女性とデートすると優位に立つ北国君が出てくるが話題がさっぱりないのである。で、すぐふられる。ぜんぜんもてない。それはもはやトラウマになっている。

しかしである。なんということだ。実はブログ執筆は、もてない北国君がもっぱら引き受けているのである。彼を女性が45%も支持して下さっているとは天変地異の予兆でないことを祈るばかりである。そうなるとできれば80%ぐらいにしたいと欲も出るが、北国君にそういう才覚はない。なぜなら、彼は昔も今も変わりがなく、何がうけてるかさっぱり見当もつかないからだ。

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エリザベス女王の酒壺

2021 MAR 15 0:00:47 am by 東 賢太郎

上海の豫園が好きで行くと必ずお茶に寄るのが「湖心亭」だ。何度訪問したか、からっきし覚えてないが10回は下らないだろう。どうということない定番の観光スポットだし、お茶もそういう所なりにちょっと高くて、特におすすめの場所でもない。

中はこんな感じだ。上海で一番古い茶館で創業は1855年とある。当初は豪商の集会所として使われたらしい。

あれが何時だったか、そのときなぜ上海にいたか、さっきから考えてるがわからない。同行した面々の顔は思い出すのに、どうしてあの人たちと?というのが不明だ。上海雑技団で盛りあがったのしか覚えがないのだから気合の入ってない仕事だったのか早く帰りたかったのか。

たぶんランチの後で酒も入ってぼ~っとしてたんだろう、店の人がいろいろ由来を説明してたがうわの空だった。「はい、そのときお酒をお注ぎしたのがあれです」と骨董品らしいのが並んだガラスのショーケースを指さしていた。別に興味もなくそこから記憶は飛んでいるが、「エリザベス女王」と聞こえた気がした。

帰り際にそのケースを眺めていて、ちょっと気をそそる形のものが目に入った。紅茶を注ぐポットを小ぶりにした感じで、いいな、欲しいなと思った。「すいません。これなんですか?」「ああ、さっきお話しした女王陛下の・・・」

そう、それで、家にこれがある。それはまちがいない。酒壺らしい。

どうも、即決で買っちまったらしい。いくら払ったんだろう?覚えてない。だまされたか?絵柄はあんまり高級にも見えない。売ったらいくらだろう、なんでも鑑定団かな。

ここから推測になる(自分のことだ、情けない)。

まず確実にいえるのは、僕は女王様にはあんまり興味ない。するとなんだろう?唯一考えられるのは、明治生まれの爺様が三井物産の上海支店長だったことだ。豪商の集会所・・・これでお酌されたんじゃないか?空想もいいとこだが、いまこいつを自宅の仕事机に置いているが、なんかほんわかと豊かな気持ちにしてくれてうれしい。

まあ僕が2才で逝っちまったから写真でしか知らないし、お通夜の枕もとで赤堂鈴之助を歌って踊った(らしい)のは喜んでくれたんじゃないか。たぶん、買っとけよとささやいてくれたんだろう。ともあれ子孫にはお願いしておく。食うに困ってもこいつはメルカリに出さないでくれよな。

なぜかわからない、僕にとって上海は不思議な気分になるところだ。

湖心亭の夜景

判官贔屓と広島カープ

 

 

 

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