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カテゴリー: ______ラフマニノフ

反田恭平のラフマニノフ3番は大満足

2023 JUN 29 23:23:36 pm by 東 賢太郎

昨日はサントリーホールでこれを聴いた。ヘビー級のいいプログラムだ。ご馳走であっても体調や気分で歓迎しない時があるが、このところ仕事でやや鬱々としてるので望むところだ。ショパンコンクール2位の反田を聴くのはこれが初めてである。

 

第663回名曲シリーズ

指揮=アレクサンダー・ソディ
ピアノ=反田恭平

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第3番 ニ短調 作品30〈生誕150年記念〉
チャイコフスキー:交響曲第4番 ヘ短調 作品36

 

反田は良かった。3番にないと話にならない深くて強靭なタッチ、素早く動く重たい和音、高音の透明な輝き、エッジの立ったクリアなリズム、運指のアジリティ、正確さ、そしてラフマニノフらしい抒情。ぜんぶある。フレージングはルバートの谷を深く取って歌う。これも納得だ。ロシア正教会の大伽藍の如き巨魁なコンチェルトで、これがヴィルチュオーゾ風にうまく弾けるから他がどうのというたたき台にはまったく向いてない曲だが、どういうわけか僕はこれが飯より好きであり、身近でやっていればいつでも聴きたい。いちおう頑張って弾きましたと格闘しただけのピアノも何度もあって、それがどうあれその汗まみれのグッド・ファイターぶりにブラボーなんかが飛んでしまうというトライアスロンみたいな曲でもあるのだが、これは終楽章大団円に向けてオケと相俟ってじりじりエネルギーが増すくだりなどライブならではの格別の熱量をもらった。久々に聴いた大満足の3番だ。

指揮のソディは英国人。マンハイム国立劇場あたりが中心でまだ第一線のキャリアではないが、オペラから作っていくのは王道だ。チャイコ4番の第1楽章はンパーパの頭欠けリズムの嵐で実に前衛的。僕はシンセで作ったが大変な苦労をした。ソディの指揮棒を見ていたが流れの良さ重視だろうか。弾きやすいのかもしれないが、作曲家にとって悩ましく重たい楽章なのだからもう少し構造を掘り下げた解釈が欲しい(ゴツくて暗くなるので今時は流行らないのかな)。pizzだけのMov3もこれまた前衛的。終楽章コーダの当時の耳を裏切る和声連結の目も眩む乱舞も前衛的。そういうことにはあまり意を用いず、俊英による周知の名曲のスマートで若々しい熱演に徹して終わった感じだ。まあいい。曲が物凄いので、とにかくハイレベルな技量でリアライズさえしてくれれば誰もが満足。そういう意味で良い演奏会であった。

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ラフマニノフに回帰した今日このごろ

2022 APR 13 0:00:55 am by 東 賢太郎

ラフマニノフの第2協奏曲を弾こうと思った。ピアノに初めて触ったのはバッハの二声のインヴェンション1番とドビッシーのアラベスク1番で独学で何とかなった。バイエルもハノンもやってない。なんだ、大したことないな。それで2番に立ち向かったのは「高尾山に登れたのでエベレストに行くぞ」ということだ。馬鹿と思わない人は世界にひとりもいないだろう。

それは高1のころのことだったと思う。レコードでメロメロになってしまい、寝ても覚めてもそれだけ。要は2番のストーカーみたいになっていて、たまらない部分を何百回も弾けるまで練習した。好きこそものの上手なれとはよく言ったものでだんだんそれらしくなる。大音量で行く。おお、すごい、ラフマニノフだ!そこで満足して野球に熱が行ってしまい僕のピアノの成長は止まった。

それでも2番への愛は途切れなかった。ところが浪人することに決め、やがて数学にはまってバルトークを知って趣味が一変する。大学ではその勢いで現代物にはまってしまい、ラフマニノフは「二級の映画音楽」の地位に転落するという反抗期のようなものがやって来たからいけない。それ以来、あんなものに熱中していたのは何かの間違いだったという自己否定にまで至ることになるのである。

19世紀のウィーンの批評家ハンスリックがチャイコフスキーのヴァイオリン協奏曲を「悪臭を放つ音楽」とまで言い放ったドイツ語圏のロシアへの侮蔑。それへの憎悪はレーニンにもスターリンにもプーチンの行為の根底にもある。英米独仏は露を半分アジアと見下し異質と扱っていることを知らないとNATOの成り立ちも、ユダヤ系のゼレンスキー大統領がプーチンにあろうことか「ナチ」呼ばわりされてしまう理由はわからないだろう。

英独仏の影響を受けて誕生した明治政府。それが招いたお雇い外国人による西洋音楽教育。東京音楽学校、東京大学の創立。その官製の流れをくむ日本の論壇。そこに露の入りこむ余地は微塵もなかった。僕の世代は戦後教育によってその世界観を教え込まれ、洗脳されていた。しかし受験に失敗して真っ暗になったその日に僕が取り出していたのは露西亜人ラフ様の第2交響曲のレコードだった。魂が必要なものしか受け付けない、どんな慰めも無意味な日の選択は実に重い。

最近、その想いが復活したのか、彼のピアノ協奏曲第3番には畏敬すら感じるようになっており、ホロヴィッツがメータとやったニューヨーク・フィルとのライブビデオなどあらためて感動している。2番も復活だ、こっちは甘酸っぱいまるで初恋の相手である。そんな気分に戻ることは最高のストレス解消だし、同時に、この憂愁とロマンのたぎりは尋常じゃない、書いた男は何者なんだという新たな好奇心がめらめらと湧き起こるのを感じる。

まず、こういうものを恥ずかしげもなく20世紀のドイツ人やフランス人が書くことは想定できない。イタリア人はあってもカラッと乾いた陽性のテンペラメントだ。ラフ様のロマンは沼に沈んだような湿度のある陰性と背中合わせで、いつも救われず満ち足りない。足りないままマグマが盛り上がるから熱くはなるが、いつも暗示は悲劇であり優しい夢想もほんの一時である。そして最後の最後に至って負の陰影は去り、想いは成就する。これが2,3番の共通の精神構造だ。

つまり沼の暗闇、欲求、否定、反抗、否定、夢想、否定の弁証法が手を変え品を変えうねうねと展開し、コーダで昇華して成就、快哉となるエネルギーの開放感たるや甚大なのだ。ベートーベンが全曲を通しての短調→長調、闇から光への猛烈な直進という新機軸で創造した運命交響曲の興奮だが、それがもたらすカタルシスの解消をラフ様はメランコリックな旋律と和声の迷宮で増幅しているわけだ。その「うねうね感」にロシアを感じると言ったら間違いだろうか?

そう言い切る自信がないのは、僕はロシアへ行ってないからだ。しかしホロヴィッツの演奏を聴いていると3番のうねうねは日本人にも通じると大いに感じる。僕は日本のクラシック受容は「サブカル型」と思っている。歌舞伎、浄瑠璃、講談、落語は武家の能・狂言に対する町人のサブカルチャーだった。明治の文明開化によってハイカラを競うニューアイテムになったクラシックは、鹿鳴館を離れそのサブカルのスペースにうまくもぐりこんだというのが僕の持論である。

歌舞伎の醍醐味は「千両役者」「十八番」「大向うをうならす」という3拍子がそろって「成田屋!」と声が掛かる場面にある。フルトヴェングラーのバイロイトの第九が日本で売れたのはその3つともあるからである。逆に、寄席で彩りとして演じられる漫才・曲芸・奇術などは「色物」と呼んで軽く見る。「カラヤンは色物だ」と識者ぶる馬鹿馬鹿しい風潮が1970年代はあった。江戸時代からある「鋳型」にあてはめてクラシックの受容が進んでいった痕跡である。

ホロヴィッツのラフマニノフ3番。クラシックの演奏史で「歌舞伎型」の音楽に千両役者をあててこれほどハマり、大向こうをうならせたドキュメントはそうはない。このビデオを見ている聴衆を相手にするこれからのピアニストは大変だと思う。しかし皮肉なもので、こういう人が現れたといってもそれは「稀有の場面」であったからこそビデオが残って珍重されているのであって、西洋のクラシック鑑賞にそういう要素がリクワイアメントとして求められるわけではない。

2020年に倒産したコロンビア・アート(CAMI)はスターを囲い込んで歌舞伎モデルによる業界支配を狙った会社だったが、ホロヴィッツやパバロッティだからチケットを買おうという人は、彼らが出演しなければ奥さんや恋人を劇場に誘う口実はなく、レコードはブロマイドだからスターが死ねばもう売れないのだ。1990年頃に肝心の千両役者が相次いで世を去り、モデル化は終焉した。わかった教訓は、クラシックにマイケル・ジャクソンは不要だったということだ。

日本の音楽産業はCAMIのマーケティングに乗って「巨匠」「名演」「定盤」の概念を生み出し、鹿鳴館のハイカラをうまく大衆化するのに成功した。歌舞伎の3拍子に欠けると「平板である」「無個性だ」と大根役者扱いされてしまう我が国の批評文化は欧州のそれとは似ても似つかないものだが、CAMIの米国流には偶然の親和性があり、ドル箱の日本はそれこそ神であったろう。しかしカラヤン、バーンスタイン、ホロヴィッツら御本尊が世を去ればそれも続かなかった。

その日本の「サブカル型」受容は「舶来品のプレミア・イメージ」と相まっていたが、水と油の矛盾を内包していた。「鹿鳴館のハイカラを競うアイテム」になったクラシックの輸入盤をまだ戦後の闇市、どや街の臭いが漂っていた秋葉原の電気屋街に買いに行く。舶来品は三越、高島屋の時代だ。この違和感は高校時代の僕にとって強烈だった。ラジオがオーディオ装置になり、それをハードとするならソフトであるレコードも同じ店で売る。理にかなってはいたのだが・・。

もっと凄かったのはオペラ、オペレッタだ。歌舞伎座はでんと銀座の真ん中にある。ところがオペラ座はなぜか浅草であって、当初はカルメンや椿姫もやっていたようだがその界隈というと僕にはストリップ小屋のイメージしかなかった。オペラ後進国の受容は特に「お国柄」が出る。パリではムーランルージュのキャバレー文化になり、ニューヨークではスタイリッシュなミュージカルになり、東京では「天国と地獄」のカンカン踊りを代名詞とする浅草オペラになったわけだ。

我が世代のクラシック入門書だったレコード芸術誌の新譜評の順番が交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲そしてオペラ、声楽曲であったのは受容がドイツ至上主義であった表れだろう。英国に赴任してグラモフォン誌の筆頭が声楽曲であるのをみて日本の特異性を知ったわけだが、当時の執筆陣の東大文学部美学科の先生方においては器楽曲は銀座、オペラは浅草の順とするのがレコ芸、すなわち日本のクラシック受容の権威にふさわしいコンセンサスだったのではと思う。

この目に見えぬ意識の呪縛を解くのに僕はヨーロッパに住んで10年の時を要した。そしてそのコンセンサスは、器楽、オペラのいずれにせよ闇市で売っていて違和感なしという本質的イメージギャップの上に成り立っていたのであって、権威の威光が剥げ落ちていけばプレミア・イメージも消えていく運命に元からあった。先日、渋谷のタワーレコードへ立ち寄ってみると、現代曲コーナーは消えてディズニー・コーナーになっていた。他は推して知るべしだ。

サブカルであれ何であれ、1970年代のクラシックは熱かった。ブーレーズのペトルーシュカやベーム / ウィーンフィルのブラームス交響曲全集という「新譜」を購入したワクワク感! あれは小学生のころ毎週待ちわびていた少年サンデーが家に届いて袋を開く歓喜の瞬間そのものである。ともすればお高くとまった舶来の嗜好品、辛気臭い骨董品になってしまうクラシック音楽をそこまで大衆化して楽しませてくれた日本の音楽産業の遊び心は偉大だ。敬意と感謝を記したい。

そんな時代になってしまったようだが、いまも僕は50年前に指に教えこんだラフマニノフ2番のつまみ食いを弾くことができる。その都度、ああなんていい音楽なんだろうと感謝する。これを覚えたアシュケナージのレコードに感激する。そして、このホロヴィッツの神がかった演奏に震撼しているのだ。ラフマニノフが二級の映画音楽であろうがなかろうが、プーチンのロシアにどんな制裁がくだされようが、この喜びは1ミクロンも減ることはない。

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アルゲリッチのラフマニノフ3番

2019 JUN 4 2:02:06 am by 東 賢太郎

5月末の稿にアルゲリッチのチャイコフスキーを書いたが、実はそれには続きがある。ただ、本稿は「思いこみ」というものが怖いもので、ときに理性を曲げてしまうことについて書いている。

アルゲリッチのラフマニノフ3番についてだが、彼女は2番はひかず3番も知る限りこれしか録音がない。だからコンチェルトとしては唯一のものになるが、たぶんそうだという理由から、それをきくために買ったのが左のCDだ。今回のブログのためにチャイコフスキーのついでにラフマニノフもきいたのだが、これが大変にききもので驚いた。

自分の書いたもの(http://ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番 ニ短調作品30)にこの演奏への言及はない。聴きおぼえていてそれというのはちょっと考えづらい。買ったのは2004年6月で、野村をやめてみずほに移籍してすぐ(1か月後)だから音楽どころではなかったのだろうが、もうひとつ思い浮かぶことがあって、チャイコフスキーMov3のミスタッチのことなのだ。そのショックでアルゲリッチが何となく苦手になって来ていて、このCDもそのバイアスで聴いていた可能性が高い。

以前書いたが完全主義というのは困ったものである。もともとショパン1番、ラヴェル、プロコフィエフ3番のレコードでアルゲリッチにハマっていたのが、一つのミスで吹っ飛んだ。ミスをしたからではなく、それを気にせず発売にOKしたことに我慢がならなかったわけで、「この人はそういう人だ」という烙印が押されてしまった。そうなると以後は烙印が判断することになってしまい、それでこのラフマニノフ3番は不合格になったのだと思う。3番にも少々のミスタッチはある。それでも彼女はOKした。それがどうした。ここが重要なのだが、これ以上の演奏はもう自分にはできないと3番を弾くのをやめてしまったそうだ。なんということだ!「この人はそういう人だった」のである。

不覚を恥じなくてはいけない。1982年のこの演奏にはビデオも残っていて、41才のアルゲリッチの手指と表情が見てとれる。この2年後にニューヨークのカーネギーホールで彼女のプロコフィエフ3番を聴いたが、不世出のピアニストの全盛期に出会えたのはひとつの「事件」だった。あれはもう35年も前のことなのか。

何故だろう、最近ラフマニノフ3番がますます好きになってきていて、Mov2の出だしのオケをピアノで弾くのは無上の喜びだ。この演奏、29才のリッカルド・シャイーがこちらも乗っていたころで、その部分、遅めのテンポで良く感じていて歌がききものだ。オーケストラもピアノの熱気に巻き込まれて一期一会の快演を成し遂げている。目のまえでこんなピアノを弾かれたら抵抗なんかしようがないだろう。

このピアノ、ただうまいというのではない、3番をうまくやる人は多く出てきたが、アルゲリッチのはただ事ではない。速くて錯綜したパッセージを何事もなく粒がそろったレガートで解きほぐす目にもとまらぬ運指、それも丸い指だったり立てて鍵盤を引っ掻いたりタッチは百変化、重い和音ごと旋律を弾くラフマニノフ特有の書法での信じられないほどの深く強靭な打鍵とそれなのに流麗にきこえる歌、静かな部分での秋空の様に清澄でクリアなフレージング、体が揺れるほどエモーショナルな緩急と音量の波、どれをとっても凄まじいのひとことでそこいらへんのテクニシャンとは完全にモノが違う。こう書いては元も子もないが、野球をしていてどうしようもないと思った球速と飛距離、ああいうものは猛練習でどうこうなるものではないが、これもまぎれもなく天性のものだろう。

それに加えてビデオだと実に面白いものが見られる。Mov3のクライマックスにピアノとオケが歌い上げるところ、楔を打ち込むような和音の強打でオーケストラを鞭打ち、いっしょに和音を重ねて登っていって「絶頂」に至って歌は揺れながら斜面を転がり落ちるが、その直前にアルゲリッチがシャイーをきっと睨みつけ、「いいわね」という感じでテンポを少しだけアップする。しばし手元を見つめるが、また要所要所で鋭い視線でシャイーが歌おうとテンポを落とす誘惑を断ち切る。やや怖い顔だが、最後に一瞬だけ微笑んだように見える。いやはや、ものすごいテンションであり、個人的にはこういう女性は恐ろしくて近寄れない。

天性のものとは性格にまでと感じてしまう。しかし彼女を月並みに天才だどうだと言っても仕方ない、奔放な男遍歴と同様こういうことは男にはできない、やれば指揮者と喧嘩になるだけだという正直な印象を書かせていただいた方がよほどしっくりくるという見解をお許し頂くしかない。コーダに至ると目線はずっとシャイーであって、指揮者を指揮してしまっているのだからピアノも男も変わらぬしもべの猛女だ。それでなんら彼女を貶めることにはならないと思う、だってそうでもなければ、普通の草食系の女性では、こんな演奏は逆立ちしてもできません、天才とはそういうことも包含してともあれやって結果を出してしまった者への贈り名にすぎない。

最高の快感が得られるこの演奏をもう何度聴いただろう。ラフマニノフ3番の演奏史に冠たるものとして、この流儀ではまず凌駕されることのない奇跡的な記録だ。本人がこの録音を一期一会の生涯ベストと考えたのもわかる。

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ジョルジュ・プレートルの訃報

2017 JAN 9 3:03:39 am by 東 賢太郎

img_4cc4a846a588e0814797b713984c1063151842ジョルジュ・プレートルは大正13年うまれだ。親父と同い年だからどこかで聴いていたかなと記憶をたぐるが出てこない。僕はフランス語圏にはあんまりいなかったし、すれ違いだったようだ。

どういうわけか僕の世代では「おフランスもの」はクリュイタンス、ミュンシュ、マルティノンの御三家ということになっていて、ドビッシー、ラヴェルはこの3人以外をほめると素人か趣味が悪いと下に見る空気があった。「おフランス」は"中華思想"なのである。今だって、「ラヴェルはやっぱりクリュイタンスですね」の一言であなたはクラシック通だ。

「おフランス原理主義者」にいわせれば、ピエルネ、アンゲルブレシュト、デゾルミエール、ツィピーヌ、ロザンタルは保守本流だけど音が悪いよね、パレ―、モントゥーの方が良いものもあるけど英米のオケだからだめ、アンセルメ、デュトワはスイス人でしょとなってしまう。ブーレーズは異星人であり、フルネ、ブール、ボド、デルヴォー、フレモー、プラッソン、クリヴィヌ、ロンバールはセカンドライナーである。

ところがクリュイタンスはベルギー人、ミュンシュはドイツ人、マルティノンもドイツの血を引くのだが、そんなことは関係ない。最初の二人はパリ音楽院管弦楽団の、マルティノンはコンセール・ラムルーのシェフ。JISマーク認証すみだ。おそらくだが、パテ・マルコニを買収してフランスに地盤を持ったEMIがうまく3人をフランス・ブランドで売りこんだことと関係があるだろう。同じ英国のライバルであるDECCAはウィーン・フィルはものにしたがフランスは弱く、スイス人のアンセルメを起用するしかなかったから独壇場だった。

プレートルはそのEMIのアーティストであり、同社内に3人の強力な先輩がいてフランスのメジャーオケによるドビッシー、ラヴェル録音のおはちが回ってこなかったのか、その印象が僕にはまったくない。後に浮気はしたがクラシックはドイツ、イタリアのレパートリーが大黒柱なのだからそっちで勝負となればフランス人であることはあんまりメリットはなかっただろう。晩年にウィーンフィルを振ってドイツ物への適性を天下に見せたが、第一印象とはこわいものだ。

pretre高校3年の5月に大枚2千円を払ってラフマニノフの第3協奏曲のLP(左)を買ったがその指揮者がプレートルだった。ピアノのワイセンベルクは後にバーンスタインと同曲を再録するが、この若々しい演奏は今でも大好きでときどき聴いている。ブルガリアンとフレンチのラフマニノフ、なんて素敵だろう、ピアノが微細な音までクリアに粒だってべたべたせずオケ(CSO)もカラッと薄味なのだが、第3楽章の第2主題なんかすごくロマンティックだ。プレートルの名前はこれで一気に頭に刻み込まれた。

 

106彼を有名にした功績を最もたたえられるべきはマリア・カラスだろう。不世出のソプラノ歌手唯一のカルメンを共にした栄誉は永遠だがこの歴史的録音が発散するはちきれるような音楽の存在感も永遠だ。プレートルが並みの伴奏者ではなくビゼーのこめたパッションやエキゾティズムをえぐり出して歌手を乗せているのがわかる。バルツァ好きの僕だがカラス様はカラス様だ、よくぞここまでやる気にさせてくれたと感謝である。気に入って真珠とりも買ったがこれもいい味だ。

pretre1サン・サーンスの第3交響曲にはまっていた時期があるが、どういうわけかすっかり飽きてしまった。フランス人に交響曲は向いていないという思いを強くするのみで、ピアノスコアまであるし音源は22枚も買ってしまっているがもはや食指が動くのはプレートルの旧盤(64年)、クリヴィ―ヌ、バティスぐらいだ。モーリス・デュリュフレ(オルガン)とパリ音楽院管弦楽団なんて泣かせるぜ、このテの音は絶滅危惧種トキのようなものだ。こういうあやしくあぶないアンサンブルを録音する趣味はもう絶滅済みという意味でも懐古趣味をくすぐるし、サンテティエンヌ・デュ・モン教会の空間の音響がなんともいいのだ。第2楽章の敬虔な深みある残響は音楽の安物風情を忘れさせる。終わってみると立派な曲を聞いたと満足している演奏はこれだけだ。

dindyこちらもつまらない曲だがダンディの「海辺の詩」、「地中海の二部作」である。モンテカルロの田舎のオケからこんな鄙びたいい味を出す。オケをコントロールして振り回すのではなくふわっと宙に舞わせてほんのり色あいを出す。そうだね地中海の香りがする。この音でドビッシーを全部やってほしかった。

「おフランス」ものはその「いい味」というのがどうしても欲しい。というよりもそれがないのはクズだ。香水やワインのアロマのように五感に作用してなんらかの感情や夢想や情欲さえも喚起する、御三家のうちドビッシーでそれができた人はマルティノンだけだ。ドビッシーの管弦楽というのは意外にもいいものがないのである。

poulenqプレートルだったらというのはない物ねだりだが、その分、プーランクを残してくれた。このEMIの5枚組は主な声楽曲が入っている宝物だ。「人間の声」はデニス・デュヴァルとプレートルによってパリのオぺラ・コミークで初演されたが、それがプーランクを喜ばせたのがもっともだという感涙ものの名演である。

ガブリエル・タッキーノとのオーバード、P協、2台のP協(CD左)、オーセンティックとはこのことだ。作曲当時の息吹が伝わる。管弦楽曲集(CD右)は録音も鮮明でまったくもって素晴らしい演奏が楽しめる。プルチネルラみたいな「牝鹿(可愛い子ちゃん)」の軽妙、「フランス組曲」のブルゴーニュの空気(パリ管がどうしたんだというくらいうまい)、 「典型的動物」のけだるい夜気。あげればきりがない耳の愉悦の連続である。プレートルのプーランクは世界遺産級の至宝だ、知らない方はぜひ聴いていただきたい。

聴くことは能わなかったし意識したわけでもないがプレートルは僕のレコード棚のけっこう要所なところに陣取って存在感を発揮してしていた。知らず知らず影響を頂いた方であった。心からご冥福をお祈りしたい。

 

(こちらへどうぞ)

プーランク オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲 ト短調

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

 

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ポゴレリッチのラフマニノフ2番を聴く

2016 DEC 13 23:23:12 pm by 東 賢太郎

デュトワのカルメンと前後してしまうが、今日の読響について。指揮台に立ったオレグ・カエタニはフランクフルト駐在時代によく聴いていて、ヴィースバーデンでのリング全曲は彼の指揮だった。なにせあのマルケヴィッチの息子だ、もっと硬派なプログラムだったらよかった。

いつも感じることだがボロディン2番はライブだとオーケストレーションに空隙を感じ粗野な原色ばかり目立ってしまう。かと思えば終楽章のあの素敵な第二主題の伴奏になにもトロンボーンを重ねなくてもいいのにというベタ塗りがあったりもする。シンセでたくさん演奏するとスコアを見てヤバいなあというものを感じるようになって、これはやってないがきっとトロンボーンは超弱音か無しにするだろう。

カエタニはまったくその辺を気にしてない風情であった。チューバまで入った金管群であるわけだしこれがロシアの感性と言われれば仕方ないが、そうであるなら男同士がキスする感性など日本人の僕にはわかりようもないというものだ。フランス系のアンセルメやマルティノンは薄口でうまくやっているし、人工的であってもミキシングでうまく化粧した録音で聴く方が僕はずっと楽しめる。カエタニは低音を鳴らすので特にそう思ってしまった。

交響曲が先でトリが協奏曲というのも珍しいが、ポゴレリッチあってのことだろう。

ラフマニノフの2番だったがこれはproblematiqueだ。強めに始まる鐘の音は途中で弱まり、再度強くなる。こんなのは初めてだ。テンポは不可解に遅いと思えば第2楽章の主題は無機的に速く、つづく右手の単音の旋律はなんとフォルテに近かったりする。遅い部分はルバートがかかりまくり、終楽章のピアノの入りのアルペジオは真ん中の数音符だけ突然フォルテで弾いたり、まったくわけがわからない。

それでいてフォルテは強いだけでちっとも美しくなく、細かいパッセージは弾けていないしミスタッチもある。アンコールの第二楽章がほぼ同じだったから即興でもなさそうであって、つまり考えぬかれた解釈のようなのだがではどうしてそうなるのか理解に苦しむばかりだ。演奏家の感性や哲学は尊重するしありきたりの美演より僕はそっちを採る主義なのだがこの曲にそんな深い哲学があるとも思えない。

グールドのモーツァルトはなにくれかのirritationを聴衆に与える意図が隠されていて、彼はそういう屈折した心理を持つ天才だったと思っているが、ポゴレリッチもそうなのか推察するほど僕は彼をよく知らない。記憶にあるのはあの流麗で瑞々しく神のgiftを強く感じさせるスカルラッティやガスパールなのだが、彼のその後の人生には何があったのだろう?拍手をする気分ではないままそういう疑問ばかりが心を占めてしまいサントリーホールをあとにした。

 
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オスモ・ヴァンスカ/読響のシベリウスを聴く

2015 NOV 22 1:01:59 am by 東 賢太郎

きのうは北の湖のニュースでショックを受けてしまい、コンサートの感想どころではありませんでした。

こういうプロでした。

指揮=オスモ・ヴァンスカ
ピアノ=リーズ・ドゥ・ラ・サール

シベリウス:交響詩「フィンランディア」 作品26
ラフマニノフ:ピアノ協奏曲 第2番 ハ短調 作品18
シベリウス:交響曲 第2番 ニ長調 作品43

東京芸術劇場は日本へ帰って来てから6年ぐらいずっと読響の定期(マチネ)をきいていましたが、N響に移って以来8,9年は行ってません。改修もしたようで楽しみでした。

結果として、このホールは東京ではベストと思います。残響が適度にあるわりに後方の楽器まで分離よく細部が聞こえ、低音楽器は倍音が豊かです。ヨーロッパ的な音がしますが欧州の有名ホールに似たものはないかもしれません。よく似てるのは香港文化中心(Hong Kong Culture Center)大ホールではないでしょうか。

さてラフマニノフを弾いたリーズ・ドゥ・ラ・サールですが、冒頭鐘の音の響かせ方から個性があります。ソノリティをじっくり聴き分けながら和音をならす。主張を持ったピアノでとても良かった。ただテクニックではやや苦しい所もあり、こういう曲がいいのかどうか・・・。アンコールのドビッシーは非常に高雅で、彼女の音響、ソノリティへの趣味が良く出た名演でした。低音の弦の微細な振動まで聞こえる芸劇の音響、いいですねえ。彼女はフランス物を聴きたいです。

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余談ながら、この人、ビジュアルで得してますね。むかし(今もあるか?)フランス人形というのがありましたが、まっさきにそう思いました。これはオジサン族はイチコロですね。

 

 

 

シンフォニーの2番。ヴァンスカはCDでもそうですが、ザッハリヒなシベリウスをやります。無味乾燥ということではなく、原典主義というか。第4楽章の第1ヴァイオリンのフレージングなど彼の読みへのこだわりでしょうが耳慣れないのがややわずらわしい。音量があがると速度も増す傾向があり、音楽のテンションは非常に高いです。第2楽章はppへのブリッジの休符が長く緊張感が増幅します。大きな起伏にオケがついていけずにバスとずれがあったり、完成度を求める指揮でありながら熱量の方に耳が行ってしまう演奏でありました。ひとつの強い主張を持った解釈であり感銘は受けましたが、僕の好みの2番ではないというところです。

 

 

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クラシック徒然草-ホロヴィッツのピアノ-

2015 JUN 17 0:00:55 am by 東 賢太郎

クラシックのジャンルで僕が長く付きあっているのはピアノ曲です。習ったわけでもないし理由は自分でも明らかでないですが、好きな楽器の最右翼であるのです。

ピアノの名曲はかなりしぼりこんで少なめに見ても50-60曲、ベートーベンのソナタを全部数える程度の広さでいえば150-200曲ほどでしょう。50-60のほうあたりはぜひ聞いていただきたいものですが、その中でも主要なレパートリーを占めるショパン、リストは僕の守備範囲でありません。ほとんど聞き知ってはいるがなじまないという点でマーラーと等しいものかもしれません。

220px-HorowitzBainそのショパン、リストを主要レパートリーとする系統のピアニストは、従って僕には感性の合う人ではない場合が多いわけですが、ひとりだけウラディミール・ホロヴィッツ(1903-89)は別格的に思える人です。好きではないですが気にはなる。それはひとえに彼の超人的な技巧が現代ピアノという楽器の表現力の極限をフロンティアのように拡大したからにほかなりません。

ホロヴィッツは、自分よりひと世代(30才)上のラフマニノフが「君の方がうまい」と椅子を譲った伝説のピアニストです。しかもそれが自作の協奏曲第3番でのことというのですから、ロマン派を弾きこなす当代最高峰の技術をもったピアニストであったといってよろしいでしょう。

しかし彼の演奏ビデオを見ると、指を曲げずに平べったい手のままで弾いている。今の日本ならこういう子どもはたちどころに先生に矯正されるでしょう。それが彼の出す音にどう現れているのかはピアニストの方におききしたいものですが、それにもかかわらず彼の紡ぎだした音は誰にも真似できぬ特別の個性を誇っており、その個性によって歴史に名が残っているのです。

彼のショパンやシューマンやスクリャービンについては多くの人が語っており、屋上屋を重ねる意味もありますまい。そこでは彼の個性が正面から作品の扉をたたき、それが正統派の演奏ではないにしても有無を言わさぬ成果を示していること議論の余地はありそうもありません。そこで、俎上に上げてみたいのはモーツァルト協奏曲第23番のジュリーニとの演奏です。

なんとも共感なさげな雑然とした開始の第1楽章がジュリーニのテンポなのか?たぶんそうではないでしょう。速いです。物理的にではなく、なにか拙速な感じであり、遅めにするとこの音楽を語りきれないかのような速さです。ジュリーニはこういうことをしない人だから、これはピアニストの感性なんだろうという感じがします。

ピアノはバスが常に強すぎ、ショパン風にトニック、ドミナントでの強調グセがあるのは滑稽なほどで、ときおり現れる左手の意味不明の強調は僕には神経に触るばかりです。フレーズ切り上げの見栄はまことにモーツァルトらしくなく、オケがそうしたホロヴィッツ風アクセントをなぞってみせるのも健気なものですが、お笑い芸人のモノマネを想起しないでもない。

第2楽章、感じてないインテンポに皮相なルバートがのる。音価に対する節操はなし。デリカシーゼロのピアノに合わせてオケも各パートが野放図に鳴りっぱなし。終楽章、モーツァルトのアレグロだけにある、軽さの中に飛翔する精神の高貴さはきっぱり消し飛んでいます。こんなモーツァルトを堂々とやったのはあとにも先にも彼だけです。

技術の難点を探すのは無駄です。そういうことはほとんどない。しかし、ファンにはお許し願いたいが僕にとってはまことに聞くに堪えないモーツァルトになっているのです。センス、テーストが別物だということでしょう。終楽章で興が乗って指揮までしている彼がモーツァルトが好きなのはわかるのですが、それでもなぜこれを弾いているのかまったく釈然としません。

ところが、ベートーベンとなると話は変わってきます。フリッツ・ライナーとの協奏曲第5番「皇帝」です。

実に豪放磊落。早いパッセージがグリッサンドに聞こえるほどの名技が似つかわしいかどうかはともかく完璧に弾ききっており、間然とするところなし。モーツァルトで気に障る強靭な左手が生き、終楽章のバスは補強され、オケが気迫にあおられてこれまた強靭に受けて立つ。

先のジュリーニと反対にライナーはこういう気風の人であり、ピアノとがぶり四つの横綱相撲になっています。5番は元来こう弾かれるべき曲ではないかもしれませんが、ベートーベンが現代ピアノのバスを聴けばこういう解釈を許容してしまうのではと思わせる説得力を持っているように思います。

ホロヴィッツの師はセルゲイ・タルノフスキー(1882-1976)とフェリックス・ブルーメンフェルト(1863-1931)というロシア系ピアニストです。ウィーン直伝のモーツァルト、ベートーベンを師から仕込まれたということは考えづらく、ロシア系ないしは自分流の解釈でしょう。

現代のコンクールで頭角を現したピアニストがホロヴィッツのような23番や皇帝を披露するということはないでしょう。これは19世紀の伝統の脈絡に深く根ざした、おそらく最後期の演奏であります。20世紀半ばまでこういう演奏はコンサートホールに響いたでしょうが、ホロヴィッツの名をもってして初めてレコードに刻まれたでしょう。

クラシックというのは音楽そのものを形容する言葉ですが、こういう歴史的遺産を聴くにつけ、「録音のクラシック」というものもあるのだと思えてきます。今のクラシックの風潮はなにやらポップス化してきて、美形の演奏家がもてはやされ気味のようです。なにもイケメン、美女でいけないことはないのですが、世を去ればどんな大家も忘れられてしまうというのでは寂しい。

僕の世代のファンが聴いて育った名演奏家の訃報、それも若手と思っていた人のそれに接することが多くなってきましたが、彼らが受け継いで残していった19世紀の伝統のうえに現代の演奏家は立っているのです。聴く側の我々もその立脚点をそれなりに知った上で耳を傾ける、そういう伝統へのリスペクトが新しい文化創造への架け橋になるということではないでしょうか。

ホロヴィッツの演奏はまさにそういう、世紀をまたいだパースペクティヴで今も聴き継がれるべきですし、僕が彼のモーツァルトをまったく支持しないのは既述の通りなのですが、それでも彼が学び、吸収した19世紀の音楽界の息吹というものを極上の技術で再現してくれることの価値はpricelessとしか表現できません。

その最たるものの一つ、作曲家がお前の方が上手いから自分は弾かないと言ったラフマニノフの協奏曲第3番。最も弾くのが難しいと言われる3番のこのオーマンディーとの演奏は歴史の証言であり、人類文化遺産と言って過言でないと考えます。

 

(こちらもどうぞ)

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番 ニ短調作品30(N響Cプロ感想を兼ねて)

 

 

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ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番 ニ短調作品30

2014 JUN 20 0:00:01 am by 東 賢太郎

ピアノ協奏曲の王はベートーベンの皇帝だろう。では女王は?シューマンといいたい気もするがこれの前には王女かもしれない。王もひれ伏すしかない豪壮さとメランコリー。ピアニストが最も攻略にてこずるが、籠絡したら未曾有のパンチ力で聴き手を打ちのめす恐るべき音楽である。

ライブでこの3番の良い演奏を聴くことは僕のクラシック鑑賞の無上の喜びの一つである。終わった瞬間、我々聴衆はまるでフルマラソンの優勝ランナーをゴールに出迎えるように、能力と体力のかぎりを尽くして走りぬいた勇者を讃えるかのような熱い感情に包まれる。そういう曲はあまり心に浮かばない。

第1楽章再現部前にある大カデンツァのように素人目にも空恐ろしいアクロバティックな印象から狂騒曲の評価を下す人もいるだろう。しかしそうではないように思う。第2楽章冒頭のオーケストラ部分を聴いてほしい。世に数多ある「悲しみの音楽」の中でもこれは優れた部類のものだ。

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ラフマニノフの書いた緩徐楽章、第2交響曲や第2協奏曲のアダージョもすばらしく美しいものだがこのどうにも胸が絞めつけられるようなものは聞こえない。3番のアダージョは切々と訴える和声が悲しいが涙をさそうわけではない。何かを諦めたようであり、切なく期待してみるようでもあり、悲しみは結晶化して澄んだ冬空みたいに透明である。僕はこれを聴くたびに耳に残って離れなくなる。気になって仕方なくなる。こんなにウェットな音楽はほかに記憶にない。

ピアノパートのヴィルトゥオーゾ的なものの価値は弾けない僕にはわからない。ラフマニノフ自身がこれをニューヨークで初演したが、渡米する船の中でサイレントピアノで練習して臨んだという。ラヴェルのように自作を弾けない人もいたが、弾かずに書いて他人の作のように練習するという順番になる脳の構造が凡人には想像できない。なお2度目の演奏の指揮者はグスタフ・マーラーであった。慣れないオケにこれは名曲だと時間を超過して練習させラフマニノフを感動させた。

youtubeからお借りするイェフィム・ブロンフマンのピアノは見事。メタボ気味のご体形だがこのぐらい体重がのった強い音がないともの足りない、ピアノを壊すんじゃないかというほどのffだ。速いパッセージも深い音でよく弾けていて、ゲルギエフがあおる終楽章の快速テンポからさらにアップしていくコーダの鬼神のような終結!人間ってこんなに凄いことができるんだね、人に生まれてよかったね、なんて見知らぬ人とハグしてしまうかもしれないなあ。これを聴いたラッキーな方、うらやましい。

N響Cプロ、アシュケナージ指揮でアルプス交響曲の前半にベフゾド・アブドゥライモフというまったく初めて聞くウズベキスタン出身23歳の若者が弾いた。冒頭主題の微妙なテンポの揺れによる主張と完璧なコントロール。只者ではない雰囲気に会場が息をのむ。この曲を何度か録音したアシュケナージだがハイティンクとやったDecca盤ではもう(ほんの微妙にだが)テクニックに苦しさを感じる。それほど超弩級に高難度の曲だ。ところがこの若者、難しいパッセージに一切のほつれもなく、だから難しく聴こえない。普通の野手だとファインプレーに見える難しいゴロが、名手がさばくと普通のゴロに見える、そんな感じだ。だから汗だくで弾いて完走おめでとうのヒーローに拍手をする感じではなく、余裕含みで良い音楽をありがとうという感謝の拍手を送った。大物候補だ。

アシュケナージの指揮について一言。彼がコンセルトヘボウ管と録音したラフマニノフ交響曲全集は名盤である。曲の勘所をこれほどつかんだものはない。この日の伴奏もその例で、コーダでのピアニストと第1ヴァイオリンによる盛り上げの山を両者のシンクロをキープしながら引っぱって全オーケストラが爆発へ向かう興奮はさすがと思った。

 

ウラディーミル・ホロヴィッツ / ユージン・オーマンディ/ ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団

4193-NNyMTL__SL500_AA300_自身大ピアニストでもあった作曲者が3番の免許皆伝を与えて自分は弾くのをやめたというホロヴィッツ最晩年の歴史的記録である(78年1月8日カーネギーホールのライブ)。このLPが鳴り物入りで発売され自宅でかけた時の衝撃と興奮は今も忘れない。聴きかえしてみると今や伝説の人となったホロヴィッツは一流のショーマンだったと思う。オーマンディーは唯一残る3番のラフマニノフ自作自演盤の指揮者だ。この人と会って話をしたなど今となるとうそのようだ。もっとその時の話をきけばよかったなあと後悔の方が先に立つ。

 

(補遺、3月12日)

ニコライ・ルガンスキー / イワン・シュピレル /  ロシア国立アカデミー交響楽団

608917201222ロシアの正統ヴィルトゥオーゾの快演。ルガンスキーは新しい録音もあるが若い感性とエネルギーに満ちたこっちが好きだ。シュピレルという指揮者はまったく知らないが、曲想に生気があり、音楽の山の作り方も実にうまい。ピアニストが伸び伸びと力を出し切っており、ff でのタッチのキレと輝きのある高音、深く鳴りきった低音、澄んだ抒情、コーダの豪快な爆発など3番に求めたいものがすべてある。万人におすすめしたい。

 

アレクシス・ワイセンベルグ / ジョルジュ・プレートル / シカゴ交響楽団

51ys-x0oq0L大学時代に買ったこれのLPで3番を覚えた、僕にはおふくろの味みたいな演奏。まず、ピアノがオンの録音でトゥッティでも全部聞こえるという点で稀有である。これがあまりに「ちゃんと」弾けているのでゾクゾクするほど凄い満足感が得られる点でも稀有だ。和音がつかみきれなかったり指が回らなかったり弾き飛ばしたりペダルでごまかしたりというのがないのは3番においてはめったにないことなのだ。タッチはクリスタルのように硬質で、その意味でもこの3番は稀有だ。プレートルの指揮も透明で暑苦しくなく抒情も深く、最高の満腹感を与えてくれる今もって僕の愛聴盤だ。

 

ゾルターン・コティッシュ / エド・デ・ワールト / サンフランシスコ交響楽団

317Y8HKRR3L作曲者の自演盤も速いがこれはいい勝負である。録音を含めて自演の完成度をストレートに高めた演奏という意味で、僕はこれを3番のベストと讃えたい。コティッシュは大学時代にカセットで聴き込んだドビッシー、ラヴェルで気脈が合致するのを感じる。クープランの墓も全曲をオケに編曲してしまう。安物のセンチメンタリズムに無縁で楽譜のリアライゼーションに徹するなど音楽に対する原理主義者の姿勢がとても趣味に合う。ここでのピアノのメカニックもハイレベルで、それなくしてそういう趣味は達成できないのだが、それをこれ見よがしに売り物としない節操も好ましい。持ってる人と持ってない人の差だ。

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

 

 

 

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ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番の名演

2014 FEB 23 0:00:34 am by 東 賢太郎

前回のフォローアップです。曲にはおなじみという方にお薦めしたいCDです。世評の高いリヒテル、ルービンシュタインは好みでなくコメントは世の中にいくらも出ているので控えます。今後も良いと思ったものは日々追加してコメントしていきます。また、過去に書いた他のすべての曲についても同様でCDリストはだんだん長くなっていきますので、僕のブログページの右下の方にある「カテゴリー」から検索して適時ご覧ください。

セルゲイ・ラフマニノフ / レオポルド・ストコフスキー / フィラデルフィア管弦楽団

mzi.hggxgout.600x600-75作曲者のピアノによる自作自演盤です。1929年、僕にとっては2年通った思い出のアカデミー・オブ・ミュージックでの録音です。このテンポの速さはSPの収録時間かあの残響のないホールトーンと関係があるかもしれません。あまり粘らないロマンにひたらない演奏であり、下記ヴァ―シャリ盤はこの対極です。和音のつかみには手の大きさを感じますし、指の回りと打鍵の強さからは大変なヴィルトゥオーゾだったことがわかります。彼のピアノのフレージングは音が高く登ってまた降りてくる場面で、登りはだんだん遅くなり下りはだんだん加速するという傾向があり面白いですね。重力加速度のイメージです。こういうことは楽譜に書けないのでこの録音は非常に貴重です。

 

タマス・ヴァーシャリ / ユーリ・アーロノヴィッチ / ロンドン交響楽団 uccg5270-m-01-dl

アーロノヴィッチが熱くうねるようなフレージングでこの曲のロマンを徹底的に味あわせてくれる名演です。この曲にひととき身をゆだねたい人に強くお薦めします。雄大な起伏で盛り上がった頂点から崩れ落ちてくるかのような第1楽章展開部はカタストロフィー寸前のものすごさ。終楽章第2主題の登場にいたるリタルダンドと一瞬の静寂の間など、これはもうマーラーの世界です。気迫をこめて低音を打ち込むヴァ―シャリのピアノも感情の振幅を押さえる気配すらなく、オケとのバランスなどものかは感じるままの起伏で対峙します。それでいて第2楽章中間部の叙情、細かいパッセージの切れ味とも一級品。これがライブだったら! 第1楽章です。

 

アレクセイ・スルタノフ / マキシム・ショスタコーヴィチ / ロンドン交響楽団 41GSRXWNMFL._SL500_AA300_

これは多くの人に聴いていただきたく、ここに取り上げます。ピアノのスルタノフはウズベキスタン生まれで89年にヴァン・クライバーン・コンクール優勝、95年にショパン・コンクールで1位なしの2位、オリンピックなら2大会で金メダルという人でしたが2005年にくも膜下出血のため35歳で亡くなりました。これは19歳の演奏で若々しい詩情とデリカシーに満ちており、ショスタコーヴィチの息子マキシムの指揮も貴重で大きな流れを作って感動的です。

 

ベンノ・モイセイヴィッチ / ヒューゴ・リグノルド / フィルハーモニア管弦楽団 761

モイセイヴィッチ(1890-1963)は作曲者自身が「精神的な後継者」と折り紙をつけ、ヨゼフ・ホフマンにも称賛されたユダヤ系ロシア人ピアニストです。55年録音のこの演奏は独自の緩急とアクセントのあるピアニズムで弾きとおした個性的な演奏です。作曲者自身がショパンの楽譜を自由に解釈して演奏していますから自作に対してもこういう解釈であれ何の問題もなく許容していたと僕は思っています。これぞ19世紀のピアノ演奏であり、自演盤よりずっと録音のいいこの演奏はラフマニノフ存命の時代の空気を濃厚に感じることのできるタイムマシンです。

アビイ・サイモン / レナード・スラットキン / セントルイス交響楽団 MI0000977943

ホロヴィッツのようにそれが前面に出る奏法ではなく録音も地味なので目立ちにくいのですが、最もピアノの技術が高い演奏の一つであること間違いないと思います。弾きながら歌う声が聞こえますが、恐らくこの人は実演でもミスタッチをするイメージのまったくないピアニストでしょう。本当にうまい。野球でいえば井端や宮本の守備のようなもので、あまりにうまいので難しいゴロをさばいても一般の人にはファインプレーに見えず、野球をやった人は鳥肌が立つという。幸いこれは音楽だから心して聴けば誰にもわかります。スラットキンの指揮もサイモンの呼吸にぴったりと合ってシンフォニックなメリハリが最高です。僕は愛聴しています。

 

セシル・ウーセ / サイモン・ラトル / バーミンガム市交響楽団

unnamed (55)ウーセはヴァン・クライバーン・コンクール優勝のフランス女性です。今年まだ78歳ですが残念なことに病気で引退され、後進の指導や世界のコンクールの審査員をされているようです。僕は彼女のフランス物を愛聴していますが、ブラームスの2番を弾いてグランプリを受賞するほどの剛腕でもある。この2番の男勝りのタッチでばりばり入るバスの効いた第1楽章、いいですねえ。僕は第1主題の伴奏ピアノが聞こえる方が好きです。第2楽章も速めでさらさら流れ、ラテン的感性でいっさい粘りません。同じフランス人のグリモーも以前はこんな風だったかもしれません。終楽章はラトルの指揮がやや僕の感性とは合いませんがメリハリは充分で、ウーセのピアノを聴いているだけでなぜか気持ちがいいのです。スイス勤務時代に車に入れて毎日聴いていたほど気にいっています。

 

フェリシア・ブルメンタール / ミヒャエル・ギーレン / ウィーン国立歌劇場管弦楽団

51GvxNRLVbL__SS2801958年録音。ポーランドのピアニスト、ブルメンタール(1908-91)はLP時代に廉価盤の常連で、レパートリーは広いがその程度のピアニストと思ってました。しかし彼女はシマノフスキーの作曲の弟子で、ヴィラ・ロボスにはピアノ協奏曲第5番を献呈された20世紀前半の需要なピアニストである。このラフマニノフ、ギーレンの硬派の解釈と曲をやり慣れてないお仕事風情満載のウィーン・フィルの伴奏が実に面白く、ピアノは弾けてしまって流してる感じの所もあるが、最後は帳尻があっていい音楽を聞いた充実感を残してくれる。曲ができたころの息吹があり、演奏者がつまらん小技など弄さなくても偉大なものを聴いたと感動できる。ラフマニノフの作曲能力の高さがおのずと語る演奏であり、彼の自演がまさにその見本であり、合成甘味料フリー。マニア的視点からは完璧主義でないスタジオ録音というのが希少品で、最近のいたずらなお上手主義で大仰にプレゼンされた、実は何の主張もない「大演奏」に飽き飽きしているのでこれは高級なお茶漬けの味であり、時々聴いてます。 i-tunesで600円です。

 

ラフマニノフ交響曲第2番ホ短調 作品27

ラフマニノフ ピアノ協奏曲第2番ハ短調作品18

2014 FEB 22 16:16:34 pm by 東 賢太郎

浅田真央のフリー、何度見てもいいなと思い、今日もまた見てしまいました。キム・ヨナさんのオリンピック最後の演技も大拍手を送りたいし、優勝のロシアの子のジャンプも凄かった。しかし、それでも、真央さんのあの試合直後のインタビューには演技と同じほどの驚きと感動と涙を何回もいただいているのです。あの心の底からでてくる数少なくて重たい万感のこもった言葉にはもう年齢など関係なく、畏敬の念しかわいてきません。修羅場をくぐって何かをやり遂げた人は静かで美しい。

彼女がこの曲にのって劇的リカバリーを演じたというのはとても意味があるように思います。というのはラフマニノフも彼女と同じ24歳のときに大失敗をしてどん底まで落ちこんだ人だったからです。それは自信満々だった交響曲第1番が評論家から想定外の低評価を受けたためでした。ショックから作曲不能に陥った彼を救ったのはニコライ・ダーリという精神科医で、快方に向かったラフマニノフが書き上げた起死回生の一曲がこのピアノ協奏曲第2番だったのです。

そういう生い立ちのせいでしょうか、この曲は切ないセンチメンタリズムに聴く物を酔わせ、暖かくハグしてくれるような包容力に満ちあふれ、勇気と生きる力を与えてくれて鼓舞してくれます。圧倒的に素晴らしい「第1楽章展開部の終わりの数ページ」はいつ聴いても血沸き肉躍りますし、夢うつつのように安らぐ第2楽章。最後の1~2ページ、秋空の夕焼けが広がってこころに希望と深い平安が訪れます。終楽章はロマンスと歓喜の嵐であり、全曲を締めくくるコーダの興奮となにか難事を達成したかのような充実感!修羅場をくぐりぬけた人だからこそ書くことができた音楽に、生きる喜びがぎっしりと詰まっているのです。本人のピアノです。

この曲との42年のつきあいは17歳の時、チャイコフスキーPC1番の稿に書いたヴラディーミル・アシュケナージ盤(コンドラシン指揮モスクワ・フィル)によって始まりました。そのLPで知って、こっちの方が好きになってしまったのです。すぐに夢中になってしまい、第3楽章のエキゾチックな第2主題、あの変ロ長調をそこだけ何度も何度も練習してついに弾けるようになった快感といったらありませんでした。そのアシュケナージの絶妙のテンポ・ルバート!今これを聴いても初恋の記憶がリアルによみがえります。

3番は技術的にはより難しいといわれます。その2と3を両方弾く人が多いのですが、どちらかだけというこだわり派の人もいてなかなか面白い。リヒテル、ルービンシュタインは2番だけ、ギレリス、ホロビッツ、アルゲリッチは3番だけ、ですね。ミケランジェリは4番だけという変人ぶりを発揮していますが。ラフマニノフは弾かない人もいます。アラウ、バックハウス、ケンプ、ゼルキン、カサドシュ、ブレンデル、ポリーニなどです。

いろいろ聴いたライブでは01年にオペラシティでテミルカノフ/ザンクト・ペテルブルグ・フィルとやった中国人のラン・ランのテクニックの冴えには驚きました。アメリカでFM放送で聴いた故アリシア・デ・ラローチャのサンフランシスコ響(エド・デ・ワールト指揮)での84年のライブは忘れられません。彼女は一度香港でリサイタルを聴きましたが小柄で手が小さい人でした。しかしそれを補ってたおやかで優しく、ツボを押さえた名演が非常に印象に残っています。第2楽章の夕焼けはこれを凌ぐ演奏を知りません。

それを髣髴とさせる美しさがあったのが、N響で聴いたアンナ・ヴィニツカヤでした( N響 フェドセーエフ指揮アンナ・ヴィニツカヤの名演!)。これも正統派の名演ですね。タッチの折り目正しさがいい。これでスケールを身につけていったら将来非常に楽しみと思います。

最後にもう一つ。花ごよみさんに教えていただいたカティア・ブニアティシヴィリです。まずお断りしますが、僕はこの演奏を買いますが全面的には支持できません。テクニックはけっこうラフであり、第1楽章提示部の最後や終楽章コーダの入りの加速などあまりに唐突で僕は到底ついていけない。前者など満場あ然の急発進でオケはマンガ的スピードにされたまま置き去りとなり、再現部冒頭は指揮者がわけがわからなくなってピアノとばらばら。この楽章の白眉がぶちこわしです。局部的にかきたてる興奮、最後は前代未聞の超特急ぶりで聴衆はロックコンサート並みに湧いてますが、この曲は真っ当にやってもっと巨大な感動を生み出せるのです。

そうは思いつつも、このお嬢さんの天衣無縫のじゃじゃ馬ぶりはいとも抗しがたき魅力がある。この人は他人を理屈でなくオーラで巻き込んで説得し、えいっとねじふせて支持者にしてしまう何かを持って生まれているのです。そういうものを肯定してしまうDNAを持って生まれているらしい自分として、理屈でなく感性で賛成票を投じている。人間とは不思議なものです。

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