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ロイヤル・ハウスホールドは最高級オーケストラ

2021 NOV 27 11:11:28 am by 東 賢太郎

我が職種はアドバイザーだが頭でっかちのコンサルではない。「成功請負人」、つまりビジネス、投資で顧客を勝たせてナンボの仕事である。ということは自分が勝つ力がないと役に立たないし大きな報酬も戴けない。顧客は内外の企業、超富裕層でみなプロ、セミプロだから、いってみればプロ野球のコーチに当たる。プロのバッターが自分は三振ばかりのコーチの言うことなどきくはずもない。

先週は目まぐるしい日々で、某社の会長をお引き受けする契約に調印してスピーチをし、別々な外国の要人と重要な会食を二度行った。

僕は日本の政治に興味もパイプもない。立憲の代表選は候補の名前も知らない。日本の政局はワイドショーネタには面白いが僕の仕事に1円の影響もない。

武器はインテリジェンスのみだ。情報や理論や教養ではない。そういうものすべての集大成として、勝つために必要な行為をいつやるか、それだけだ。

きのうあるクラブでロイヤル・ハウスホールドを飲んだ(というかご馳走になった)。知る人ぞ知るロイヤルワラント(英国王室御用達)のブレンド・ウィスキーだ。昭和天皇が皇太子時代に英国訪問して国王より授かり、友好の印として日本でのみ販売許可が下りたいきさつから英国外で飲めるのは日本だけだ。

この口当たりの滑らかな芳醇さと、のど越しの最後に仄かに残る「甘さ」は上品としか書きようがない。ブレンドの良さは最高級のオーケストラに似る。上品でないロイヤルというのは定義矛盾でしかない。

こういうものを一度でも味わうと、値段はともかくまたこれを注文することになる。ソナーのサービスもこういうものでなくてはいけない。

 

 

 

「航海派」の男が減れば国は衰退する

2021 NOV 23 11:11:10 am by 東 賢太郎

いま仕事の不安は何もないのに、森嶌医師の診断によると疲れている。それも体でなく頭(脳)がである。脳は疲れないと教わっていたが先生によるといま直接の害はないが過労状態を放っておくと老化が進むらしい。ということは認知症になるということで、それは恐ろしい。先生が免許を持つドイツ製の診断装置バイオレゾナンスはそこまで数値で出てしまう。ちなみに3年前は「自律神経、免疫のバランスが悪化」と出たら、ちゃんと人生初のインフルエンザにかかった。彼の指示で今回はハーバード大学の作った薬を2週間ごとに3回点滴することにあいなった。

どうして疲れてるかという問いには思いあたることがある。自分の会社を持てば社会的にはフリーランスである。法律を順守して儲かってさえいれば何も怖いものがないし、誰にも何にも気を使うことがないからサラリーマン時代のようなストレスもない。僕が儲かるということは同じものに投資していただいているお客さんもであり、宣伝や営業トークやおべっかも無用である。しかし、世の中はうまくできている。その自由の代償は疲労なのだ。何をしてもいいよという究極の自由は、会社や社員の一刻一刻の命運が自分に100%かかっているということであり、知らぬまに「重いものを背負った男」になってしまっている。週末でも休日でも風呂でぼ~っとしている時でもその重荷は頭のどこかにのしかかって、結果、疲れているのだろう。

それは頭の中で不断に起こっている現象だから死ぬまで逃れることができない。逃れるにはただ休んだり寝たりと受動的なことをいくらしても足りず、なにか自発的に行動して、たとえば無理して走るとか部屋を意味もなく歩き回るとかして意識を拡散させるしか手はない。そうこうしているうち、ある事に気がついた。「利害関係のない人」と「どうでもいい話」をするのがいいと気づいたのだ。しかし、それには高いハードルがあることも知った。利害関係のない人と話す機会というのは意外にないものなのだ。探せばできるというものでもないのである。こういうときは普通ならつべこべいわず居酒屋のカウンターで大将と隣と飲んでだべってとなろう。しかし僕は酒が弱いし盛り上がるような話題もないし、ガンモの注文の順番にうるさいおカミさんも苦手なのだ。

そこで思いおこすものがある。ロンドンは独りになりたい男の居場所がちゃんとあった。シガーバーである。顔なじみだが絶対に話しかけてこないバーテンの前に座ると、目くばせだけでいつものラフロイグのダブルとタンブラーが出てくる。干渉ゼロ。ひとりでぼ~っとできる。パイプも買った(写真)。シガーのいいものは高くて何度もというには懐が寂しかったからだが、といってバーテンがどうこう口出しすることもない。酒さえ2,3杯注文してくれれば「今日もお疲れだね」という無言の優しさみたいな空気が流れるのである。英国の個人主義の象徴だ。何も話さず、頭を空っぽにできる場。社会にここまで個人のスペース、空間を尊重する文化があるから巡り巡って名誉革命が起きたのだと僕は真剣に思っている。

タバコは吸わないが今でも時々これはやる

かたや我が国はというと、男が独り飲む古来からのパブリック・スペースがない。「国家」がなかった以前に「個人」(individual =divideできないもの)という概念すらなかったからそのような場所は需要もなかった。ということは個人の集合である「市民」もなく、従って、百姓一揆はあったが市民革命は起きなかったのだ。大石内蔵助みたいに重たいものを背負ってしまった男が居酒屋で八つぁん熊さんと飲み明かすなんて図はない。といって宿の一人酒は暗くて気が滅入る。そこで出入りしたのが祇園だ。お茶屋は遊郭ではない。大石には討ち入りのカムフラージュ説があるが、昔から気晴らしは花街と相場が決まっているから隠せた。そういう場合、相手が男であれ女であれ胸襟を開いてくつろげない。男は信用できないし女も年をとれば世情も理解して口に戸は立てられない。だから年端もない舞妓が安全で、お好みなら「とらとら」で馬鹿になっても決してみっともなくはないよという京都的大人ルールのもとに時間を過ごして「重たいもの」からひとときの逃避ができる。この文化はそれはそれで奥が深い。

つまり「シガーバーとお茶屋は共通点がある」のだ。ちなみにそういう場所を英語ではセーフ・ヘイヴン(safe haven、安全な逃避地)という。ヘイヴンは港だ。男は時に航海を休んで停泊する必要があり、そこは嵐からも海賊からも絶対に安全でなくてはならない。なにも気取って格好をつけているわけではない、疲れた脳はそうやってクールダウンして休めるに如くはないということを言いたいのである。そんな面倒なことをするなら家でいい、それが家庭というものだろうという人も多そうだ。そうかもしれないが、そうであるならシガーバーはなかった。嫌煙で家を閉め出されたお父さんのためにできたのではない。古来から家族とも離れて独りで、あるいは気のおけない男仲間だけと時を過ごすソーシャルスペースを英国の男は大事にしたのだ。ゴルフ場という空間がまさにそれであり、「クラブ」という法律には書けないが反すると社会的地位を損ないかねないコンセプトができ、「あいつは仲間に入れてやる」という意味あいの重たい言葉である clubbable (club+able)まで生まれたのである。

273年目に初めて女性会員を認めた世界最古のゴルフクラブ、ミュアフィールド

ゴルフ場の女人禁制はここにルーツがある。家庭を避けるのでなく女性を差別するのでもない。男が家でくつろいでいても一銭にもならない。だから稼ぎ場としての社会ができる。するとドメスティックなものを持ちこむことを禁じるべき種々の “社会的” な理由が発生し、古来より男だけの集会場ができたということだ。投資した船が東洋から持ち帰った希少品の丁々発止の取引を行ったコーヒーハウスは起源からしてそうであり、教会、オーケストラもそうだという文化的、宗教的、商慣習的な素地があった。フリーメーソンに英国王室のメンバーはいるがエリザベス女王は入会していない。メーソンは元来が男だけの石工組合だからだが、船乗りにも女性はいない。農作に適さない国土ゆえ航海術を発達させ、ついに命懸けの海戦でスペインを追い払って七つの海を制覇した誇り高き船乗りの国民が「男だけのソーシャルスペース」を容認したのは誠にごもっともなことだと僕は思う。人間には「農耕派」と「航海派」がいる。私見では日本人の99%は農耕派だが、僕自身は完璧なる航海派であり、農耕派的なるものには資質も関心もないからあんまり交じりあえる感じがしない。だから居酒屋は落ち着けず、ドイツ人より英国人とウマが合ったと思うし、英国の政治思想、哲学には抵抗なく馴染めて大きな影響を受けている。

信長は明らかに「航海派」で商業を振興させ非農本主義的であるゆえに多大なシンパシーを覚える。宣教師に地球儀で世界の物理的成り立ちを教わって航海の重要性を理解し、貿易が巨利を生むことを見抜いて明国に接近を図った。先生格だった宣教師を配下として手なずけてもいた政治力においても秀逸な男というしかない。秀吉はそれをまねて失敗してバテレン弾圧に転じ、家康はスペイン、ポルトガルの布教侵略に怯えて禁教に完全に舵を切り、鎖国した。江戸は百万都市になり文化はオーガニックな成熟を遂げたが、科学は進展しなかったため武器、武力は中世のままだった。徳川政権は国内のガバナンス掌握と運営を確固たるものとして戦乱の世を収めた点では見事だったが、能動的な外交の断絶によって科学技術の停滞が約束され、啓蒙思想と産業革命で武器、武力を飛躍的に進化させた西洋の出現の前では “予定調和的に長期衰退する道” に嵌っていたのである。

徳川家は権力永続と子孫繁栄の視点からすれば大成功したのだが、ファミリーのネポティズム(縁故主義)を支配原理とした長期独裁政権が確定したということであり、「航海しなくなった国」としての視点からはグローバルスタンダードから大きく後退してゆくことが政権樹立の時点で約束されたのである。そのツケが19世紀に黒船の砲撃と共に一気に降りかかってくる。英国の最新兵器で武装したゲリラ集団である薩長軍によって徳川家はなすすべなく権力の座から引きずり降ろされた。世界の常識として最高権力者がそうなればまぎれもなく「国が戦争に敗けた」のであるが、格別に “啓蒙” されていた慶喜は降参してゲリラに殺されず生き延び(インテリの彼は英国の名誉革命を知っていたろう)、「藩はあっても日本国という概念はなかった」、「君主は滅びた徳川ではなく万世一系の天皇だったのだ」と議論をすり替え(大政奉還)、無血開城で御一新(維新)による建国だったのだと正統化してできたのが明治政府である。

この政府は非常に頑健な一夜城だった。それを作り得たことが日本人固有の能力だと司馬遼太郎が美化した気持ちは多くの日本人が共有している。しかしそれができた要因としては、青年であった元勲の多くが懐いた高い志と愛国心もあるにはあるが、それはどの国の革命家にも表向きはあるものだ。中核となった薩長藩が自力で欧州まで行く能力を蓄えた「航海派」であったという “即物的事実” こそがその真因だと僕はストレートに考える。開国までの日本は江戸や堺に商業の発展はあったものの全体としては農本主義、重農主義の支配する中世的国家であり、そこに啓蒙思想、産業革命による先進科学で武装した英国、オランダ、米国、フランスが入りこみ、国内の「航海派」であった薩長に武器と民主主義国家の理念を供与して「教唆犯」として徳川幕府をひっくり返した。中国がタリバンを支援してアフガニスタンのガニー政権をひっくり返し駐留米軍を追い出したという説が真相であるなら、彼らは明治維新での英国の役を演じたことになる。

富国強兵の過程での我が国の叡智、活力は世界史上でも特筆されると思う。北アフリカの肥沃な農業地帯に海洋民族フェニキア人がカルタゴを建国し海洋商業国家として出現したそれを思わせるほどだ。しかし時は産業革命期だ、鎖国で3世紀も航海をサボったことで生じていた近代科学への「知見」の遅れは一夜漬けでは回復できず、第二次大戦でついにそのギャップに決定的に屈した。これがおおまかな僕の歴史観だ。「知見」とは即物的な知識・技術だけではなく思想を含むことが極めて重要である。卓越した技術によって大和や零戦は作れたが、ベースとなる「科学的な思想」に欠けた。だから核爆弾ではなく情報インテリジェンスで負けたのである。この欠落は今も続く。算数もできない大半の大学生が社会を動かし有権者の多数を占める。その事実も震撼すべきだが、「それでいいのだ」、「世の中理屈だけじゃない」と信じこんでいる空気は徳川時代さながらだ。敗戦を認めないどころか何も学んでいない。だから、他山の石から学んで対極を行く科学重視国家の中国に予定調和的に追い越され、その原因は「人口が多いから」と非科学的に信じているのである。

政治家の無学、超小物ぶりを目にするまでもなく、この病につける薬はないというのが我が結論だ。徳川が260年も支配して手塩にかけて作り上げた99%の国民のメンタリティーは変えようにも変わるはずがないし、1%は外国に移住するか99%に同化してつまらない人生を送るしかない。信長が生きていたらという仮定はとても魅力がある。自由な航海により情報収集に長けて交易で栄え、戦争はあったろうがそれゆえにも科学は西洋に遅れなかったろうし、一向宗を弾圧し叡山を焼き討ちしたのだからキリスト教にアレルギーもなく、明国との交渉への橋頭保として利用した可能性すらある。自分がこの世にいたかどうか危ういほど日本は別な国だったろうが、そんなスケールの空想を許す男は日本史上他に一人もいない。

「航海派」の男が減れば国は衰退するのである。

 

 

 

大谷の満票MVPに見る日米比較文化論

2021 NOV 21 14:14:11 pm by 東 賢太郎

中島さんの「大谷翔平選手、ありがとう!」に心から同感。毎日毎日、日本国は姑息な計略や裏技で世をにぎわせる「超小物の連中」のニュースばかり。いつからこんな屑みたいな国になったのか、国民的に精神衛生上悪く、子供の教育にも暗澹たる思いだ。それをぶちかまして日本どころかアメリカでバズーカ砲級の大技を決めてくれた大谷君。救世主だ。ほんとうにありがとう!

もうひとつ爽やかな気持ちにさせてくれたのは30人の「満票」だったこと。イチローですらない日本人初だ。僕はアメリカの学校に2年いてたくさんの  Yes/No の場面に出会ったが、何であれアメリカ人が「全員賛成」というのを見た記憶がない。3人いれば1人はノーのイメージで、日本みたいに安易なme-tooの満票であれば裏でイカサマさえ疑われるだろう。国民投票なら反対派もいたろうが、記者30人の間ではオッケーだったわけだ。記事のユナニマスリー、

これが「全員一致」「満票」である。これが度肝を抜く「凄さ」なのである。

30人は新聞 、雑誌、ウェブサイトなどの野球記者で組織された団体で1908年10月14日に設立された全米野球記者協会The Baseball Writers’ Association of America, BBWAA)の会員である。

東洋人がベーブルースの聖域を脅かす。そういうアンチはあったと聞く。終盤で四球四球になった。MVP阻止のためタイトルを大谷に取らせたくなかったのだろうが、日本でもアメリカ人が王貞治の55本の記録を抜きそうになった時の四球責めがあったから非難もできない。

そういう姑息な計略や裏技を無視して満票になったのは、アメリカ人の野球への深い愛情とプライドあってこその大谷翔平の図抜けたオールラウンドな野球能力への評価だったと僕は思う。大谷がナイスガイでアメリカに溶け込んだのもプラスではあるがそれでMVPにはなれない。ホームランを46本も打って100打点あげて26も盗塁を決め、130回1/3投げて9勝して防御率3.18で156個も三振を取ったことに尽きると思う。「二刀流」と日本では言うがアメリカ人に「刀は二本」という頭はまったくない。

思えば日本だって高校生までは全員が多刀流だ。投・打・走・守、全部やる。全部うまい連中がいてうらやましかったが彼らも大学、プロでは投か打に分かれていった。僕は長らく、それは理系文系に似てあんまり意味がないのではと思っていた。例えば桑田、松坂、マエケンは打者でもレギュラーだったと思う。たまたま投手ができたから打者の道が封じられた。オールスターでイチローを登板させると「打者に失礼だ」といって投手が代打に出る。実力の世界に「失礼」なんてものが何で出てくるんだ、わけわかんねえ、ずっとそう思っていた。

アメリカはそうじゃなかった、よかった。記者の方々も野球少年の時代があったんだろう。そこでは投・打・走・守、全部できる奴は天才で、誰がどこからどう見たって凄いのだ。そこに失礼とか嫉妬とか派閥とか家柄とか学歴とか、そんなくだらないものはないのだよ。

諸君脱帽したまえ。 天才だ」

ショパンをこう讃えたシューマン。言えた彼も天才だった。そういうことだ。

30人の記者諸氏の決断には頭が下がる。僕が日本人だからということではまったくない。野球を愛し、誇りを持つアメリカ人に心から敬意を表したい。

 

我が家の引っ越しヒストリー(7)

2021 NOV 18 18:18:37 pm by 東 賢太郎

一枚の写真を見て、ガツンと殴られたような気がして、それにまつわるたくさんの記憶が怒涛のように蘇ることがある。ネットを検索していて発見したこれが、まさにそれだった。

この駐車場、フランクフルトのダウンタウンやや北に位置するBörse(証券取引所)の前にある。ぜんぜん変わってないぞ。

我が家は毎週土曜日のお昼前に、ここに車を停めていた。取引所といってもべつに仕事がらというわけではない、食事や買い物をするツァイル(銀座通りみたいなもの)に近いからだ。いつもここだった。いちど帰りに画面の左奥の窓口で清算したおりに、4,5枚買ったCDを袋ごと忘れてしまい出てこなかったことまで思い出してしまった。

いまは知らないが当時ドイツは日曜日はお店は全休で、土曜も午後2時で見事に閉店してしまう。ランチもおちおちしてられない。ロンドンも日曜はだめだったが土曜はゆるめで午後も開ける店があったのでショックだった。ある日のこと、靴を買おうとしてサイズが合わない。「在庫を見てきます」と奥に消えた女性店員がいつまでたっても戻ってこない。おかしいなと思い時計を見るとちょうど2時である。まさかと思ったが、「閉店です」と追い出されてしまって唖然とした。5時ジャストに帰るドクターXの大門未知子ばりなのである。だから買い物も早く早くと慌ただしい。いちど、果物屋であれこれ物色しているうちに雑踏に紛れて次女がいなくなってしまい本当に焦った。以来必ず手をつないだが次女はだっこが定番になった。

ここから5分も歩くと高級ブティック街のゲーテ・シュトラッセがあり、その先がハウプトヴァッヘだ。下の写真の真ん中の建物がそれ(中央警備所)で、自治自衛の都市国家時代に警備本部として建てられた。後方にドイツ銀、コメルツ銀などの本社ビルが立ち並び、現代と中世が共存している風景はこの都市の特色だが、週末まで仕事場の気分が抜けず鬱陶しい時もあった。

Hauptwache Frankfurt Am Main Germany City

写真の左手にあるのがカタリーナ教会だ。1712年からゲオルク・フィリップ・テレマンがこの教会の楽長をつとめ、 1749年にヨハン・ヴォルフガング・フォンゲーテが洗礼を受け、1790年にレオポルド2世の戴冠式が行われた際に売り込みにやってきたウォルフガング・アマデウス・モーツァルトがここでオルガンを演奏している。

1778 年にシュタムが製作したオルガン。モーツァルトはこれを弾いた。

ハウプトヴァッへは現在はカフェになっており、歩き疲れてここで何度も「お茶」をした憩いの場所だ。

昼はツァイルを右に1ブロック入ったソウルという韓国料理店によく行った。ジンギスカンがおいしく、うちのように赤ん坊がいるのは珍しかったのかマダムが子供たちをかわいがってくれて贔屓にしていた。外国に住んだ人しかわからないだろうが和食にはいつも飢餓状態だ。当時のドイツは外国の食文化において甚だ後進国で、和食は “すしもと” という寿司屋を除くとしんどかったものだから中華、コリアン、タイ、インド料理というと砂漠のオアシス的存在だった。

その南にレーマー広場がある。ゲーテハウス(生家)とともに街の代名詞で観光客は欠かさずここへ連れて行かれる。

歴代の神聖ローマ皇帝の戴冠式は後方に見えるバルトロメウス大聖堂で行われ、手前の美しいファサードのレーマー(市庁舎)で祝宴が行われた。モーツァルトは公式には呼ばれていないから中に入ってないが、戴冠したレオポルド2世の晴れやかな行列がここを通るのを眺めていたに違いない。

Schweinshaxe

休日のランチはたまにドイツ料理店にも行った。ビールがおいしいからだ。英語で「俺は関係ねえよ」は It’s none of my business. だがドイツでは Das ist nicht mein Bier.(それは私のビールではない)という。黒はドゥンケル、白はへレスといえばいい。代表料理である写真のシュバイネハクセ(豚の膝肉)は見かけほどゲテモノではなく、フライドポテト、ザワークラウトとビールのコンビでなかなかいける。

5月末~6月はシュパーゲル(白アスパラ)が出てきて、ラインガウの景色の良いレストランでランチをすると心からドイツに住んで良かったと感激する。肉の方が付け合わせであって、アスパラだけで満腹になるという幸福感は他では味わえないだろう。この場合はビールでなくワインがおすすめだ。ここに書いたクロスター・エバーバッハのトロッケンベーレンアウスレーゼは日本だと3,4万円するが、飲んでみれば納得する。人生一度は味わうに足る逸品である。

世界のうまいもの(その8)-アスパラとラインガウのワイン-

ドイツで一番感動したレストランはハイデルベルグ郊外のヒルシュホルンである。写真のお城の右下に見えるデッキのようなところで、まるで天空に浮かんだようなテーブルでネッカー川を見おろしながら食事する最高の贅沢である。高所恐怖症はあまりの景色の美しさに忘れる。ドイツ恐るべしだ。

フランクフルトの街の遠景はこんなものだ。高層ビルがそびえる欧州最大の金融街で、欧州中央銀行はここにある。手前がマイン川であり、マンハッタンにひっかけてマインハッタンだ。川は写真の左手に流れてゆき、隣町のヴィースバーデンでライン川に合流するのである。後方の丘陵に最初の家のあるケーニッヒシュタイン、右手のタワー(オイローパ塔)の近くに二番目の家があった。

仕事の話になるが、官庁はボン、商業はデュッセルドルフで商社はそっちにある。フランクフルトが金融のハブになったのはユダヤ人のゲットーがありロスチャイルド家がここで発祥したことと深い関係があることは前稿で書いた。その後、ユダヤ系富裕層の多くは写真後方の丘陵に居を構え、銀行家の御曹司フェリックス・メンデルスゾーンはそこでヴァイオリン協奏曲を書き、病気になった指揮者オットー・クレンペラーは湯治をしていた。

だから我々証券マンはフランクフルトにいる。ドイツの法制上銀行の形をとっているが、日本の銀行がドイツ銀行を差し置いて融資業で食うのは難しい。戦えるのは「日本企業の株式資金調達に関わる証券業」だった。だからノムラが強く、先輩方には生意気で申しわけなかったが30代の小僧が金融村でデカい顔ができたのだ。ちなみに、このように銀行が証券業を包含して経営する方式が、いまや死語となった「ユニバーサル・バンキング」であり、大蔵省(当時)が米国のグラス・スティーガル法による銀証分離行政を合体型に転換するモデルとなった。

94年に来独した元社長の田淵義久顧問(通称コタブチさん)と2泊でバート・クロイツナッハにゴルフにでかけた折、ホテルのサウナで「東、大蔵省のユニバーサル・バンキング案を潰す手はないか?」ときかれた。じっくり考えたが良い回答はできなかった。そうこうして5年ほど後、興銀、富士、第一勧銀が合併してみずほフィナンシャルグループとなり、傘下のいわゆる銀行系証券会社であるみずほ証券ができる。当時、そこにお世話になろうとは夢にも思わなかったが、バブルが弾けて3,4年たったこの頃に欧州、米国で予兆のあった後の金融界の激変、再編、合従連衡の波がこの5年ほど後に日本をも襲い、巡り巡って自分にも及んでいたのだという整理はつく。

まず当時のドイツだが、東西統一のごたごたとバブル崩壊による信用収縮が相まって不良債権処理の猛烈な嵐が襲っていた。ドイツ銀行は役員が2,30社の事業会社の顧問を兼任し全産業を支配したが、その体制で切り抜けるには銀行自体も体力がもたず、資本市場からの資金調達やM&Aを手掛ける投資銀行業務への進出が不可欠になっていた。そのために銀行はマーケット部門(証券業)の強化に走ったのだ。僕がスイスに行ってからだが、その動きを象徴する人事が97年にドイツ銀行から発表された。頭取に投資銀行部門出身のブロイヤー副頭取が就任したことだ。氏は温厚な方で僕がドイツ証券取引所会員になる時に推薦状をいただいたが、ロンドンでキャリアを積まれた英語族であり副頭取止まりというのが当時の常識だったのだ。

それと軌を一にしてもう一つの常識が崩れた。同行の取締役会の公用言語が英語になったことだ。証券業は英語ビジネスであり、ドイツ銀の証券部門にプロパーの人材が不足しており、外部から英米人を幹部に迎え入れるためプライドを捨てたのだ。「おい、四苦八苦したドイツ語口頭試問、あれは何だったんだよ?」と思ったわけだが、僕が95年にスイスに異動して引き継いだやはり英語族の後任者はBAKでの面接は英語でオッケーですぐに社長になれた。その波がいよいよドイツ金融界の頂点であるドイツ銀行まで及んだということだったのだ。実は僕自身も赴任してすぐ「来年から英語になるから心配ない」と前任者にいわれており、それで安心して遊んでしまった。それが1年たって「悪い、やっぱりドイツ語らしい」といわれてひっくり返ったという経緯があった。

2004年にみずほ証券が僕を株式引受部門長という幹部職で受け入れてくれたのは、ドイツと同じ方向に日本の金融庁が舵を切って銀証の垣根を低くする「ユニバーサル・バンキング構想」が不可逆的に始まっていたという背景があったからだと思う。採用して下さったみずほの横尾常務(後に社長)は現在は我がソナー・アドバイザーズ(株)の取締役会長であり、経産省の官民ファンドである産業革新投資機構(JIC)の代表取締役社長CEOでもある。人の出会いというのはまったくわからないものだ。野村の田淵さんは銀行系証券の進出を阻止したく、だから前述の質問があったわけだが、こちらは真っ只中にいたのに一晩考えても解決策が浮かばなかったのだから流れはもう止められなかったのだろうと思う。

僕はドイツ銀幹部に「最後は資本の勝負だから銀行が勝つぞ」と教わっていた。彼らが証券業進出に舵を切ることが英米人の立場からいえばユニバーサル・バンキングなのであり、英米といっても資本家はほとんどがユダヤ系である。どっちが勝っても負けがないポジションを取る人たちであり、もちろんそうなっていたから米国を使ってドイツ当局に圧力をかけ、特にスイスへは「ナチ・ゴールド」でいちゃもんをつけて半ば強引に金融市場を「開国」させた。まさに、下田にやってきた黒船と同じことを仕掛けたのである。株式業務にキャリアのある英米人にとっても、ドイツやスイスの大銀行が幹部として高給で雇ってくれるのだから悪かろうはずがない。だから僕はこの趨勢は「不可逆的」だという読みに賭け、みずほ証券に移籍させていただいた。リーマンショックで投資銀行は管理の名目でみな銀行傘下に組み入れられてしまい、ドイツ銀幹部が予想した通りの結末になった。ドイツに赴任しなければそんな深い理解はできていたはずもなく、みずほ移籍も恐らくなかったから人生の分岐点だった。

同銀はモルガン・グレンフェル(1989年)、バンカーズ・トラスト(1998年)を買収し、2005年までに収入の75%を投資銀行部門から出すようになった。第2次大戦中はナチスに融資しヒトラーの経済アーリア化に協力した銀行がユダヤビジネスに転換して成功したのだ。経営力もあったが、まさしく「最後は資本の勝負」でもあった。

写真はドイツ銀行本店のツインタワーで、最上階にはプールもあった。完成は1984年で新宿の高層ビルより遅く、40階建てで高くもないのだが、いま見ても美しく格好いいビルだ。毎月ここで日本企業のマルク債発行市場の情報交換をしていたが、引受部長のフォークト氏は渋めでウィットの利いた大人であり、いろいろなことを教わった。上組の400億円起債はその素地があったから恙なく消化できたともいえる。

一言付け加えておくが、資本があるといって銀行が勝ったわけではなく、当座をしのいだだけだ。邦銀に至っては何もやっておらず、メガが3つもある意味すら不明である。その陰で往年の輝きのかけらもない証券会社は言うに及ばずだ。

ドイツでの最後の年になる1995年2月、ドイツニュースダイジェストに僕の記事が載った。もう忘れていたが、アセットマネジメント子会社、営業部門を増強するなどしたので社員数は112名になっていたようだ。

読むのも恥ずかしいが、思いっきり肩に力が入っていて微笑ましい。いまなんか「一度会ってみたい人物」は米倉涼子だし、モットー / 座右の銘は「毎日楽しくやろう ♪ 」になってる。

39才でヴィースバーデンの音楽監督になったオットー・クレンペラーは晩年に『ここでの3年が人生最高の時だった』と語っている。37才からの3年をここで過ごした僕も全く同じ言葉を綴ることになるだろうが、そんな日がすでにこうして来ていることに少々戸惑わないでもない。

 

(つづく)

僕の職業は「ファミリーの長」

2021 NOV 17 2:02:50 am by 東 賢太郎

きのうは帝国ホテルでTくんと食事した。彼が手掛ける仕事に僕なりに興味があり、できる範囲で後見人になろうということである。

ちょっと早く着いたのでぶらぶらした。ニューオータニもそうだがこのホテルも変わっておらず、基本的に僕らが結婚式をしてもらった39年前のままに見える。店は新しく「なだ万」がやっている「讃アプローズ」で、アラカルトの品数があって好きなものを選べるのがいい。

Tくんは40才になるがつきあいは長く、僕がSBIホールディングズの取締役のときのメリルリンチの担当者で当時25,6だ。東大の後輩であり性格が良く数学オリンピックの灘校代表だが文系チックな柔らかいこともわかる。速い会話ができ気に入っていたら、今や雑誌にのる大物になった。

国内でちょろちょろやってる雑魚なんか相手にするなとロスチャイルド家のヒストリーを教えた。雑魚にはわからない話を彼は8割がた分かってリアクションがあった。何も説得したわけではない、創始者マイアーは5人の息子がいたが俺は3人しかいない、もう一人になれと言ったのだ。

彼の世界のことは門外漢の僕にはできない。だからバックファイナンスを数百億円つける。それに着火すれば更に大きいエンジンに点火できる。全部のシナリオは僕が書く。実行部隊は全体を見られなくなるから見なくていい。だから集中して必ず成功させろ、そういうことだ。

こういうのは仕事というより趣味だから苦痛も疲労もない。サラリーマン時代はゴルフと音楽が命で仕事の儀式はついでにしていたようなものだが今は逆だ。畢竟、僕の職業は何かというと「ファミリーの長」になることだった。血縁の家族だけでない、マーロン・ブランドのコルレオーネ家みたいなものだ。

5人の息子プラス5人で10人ぐらいで充分。やれと言ったらやるスナイパーしか要らない。大金持ちにするし一生面倒を見る。それをやって死ぬときに会社がどうなっているかはわからないがこの楽しみがあれば少なくともボケないだろう。Tくんもチャレンジャーだが、僕も最後の最後までチャレンジャーである。

 

僕が聴いた名演奏家たち(アルトゥーロ・ミケランジェリ)

2021 NOV 14 23:23:13 pm by 東 賢太郎

音楽を聴くという作業の本質は、人間がどういうわけか保有している極度に緻密で繊細に造られた感覚、無神経な者が傍にいるだけで壊れてしまうぐらい神秘的なその感覚を探し求める永遠の旅である。少なくとも僕にとってはそうである。

だから、旅先のほのぼのした夕餉の席や温泉のように他人と一緒にそれを楽しむのは経験的に無理と判っている。究極は自分で弾き、それを聴くしかない。著名な演奏家であっても探索には足りないことがほとんどで、だから僕はシンセサイザーによる理想の演奏の製作に没頭したのだ。そうしないと、音楽というものはアラジンの魔人のようにランプから立ち現れてはくれない。

アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ(1920-1995)にとってシンセサイザーは不要だった。ピアノがうまく弾けたからだ。彼は初見が遅いが何でも弾け、他人に聴かせるのはほんの一部だけだった。どう見られるかについて極度に敏感でクールな完全主義者だった点で、僕は俳優の故田村正和に近いイメージを懐いている。完璧を求める人は一種のナルシストでもあり、自分にも厳しい。田村は私生活を一切明かさず、箸を持つ手までこだわり他人の前では決して食事をせず、自らF1観戦に赴くカーマニアで、台本は完全に記憶しNGを出すのを嫌い、NGを出す役者も嫌い、「田村チェア」と呼ばれる自前のデッキチェアを常にロケ現場に持参する人だったようだ。

ミケランジェリもNG(ミスタッチ)をせぬまで弾き込んだ曲だけを披露し、演奏会場には自分のピアノを2台持ちこむ。レパートリーが少ないのは完全主義者ゆえに、完全な自分だけを外に見せるためのミニマリズムだ。カーマニアで自身がレーサーでもあり、医師、パイロットでもあったが私生活は限られたことしか明かさず、ちょっとしたプライベートについて口外されただけで気の合っていたチェリビダッケと絶交した。基本的に両人とも自己愛が強く、自己が愛するもの以外は受け入れず、浮世離れしたオーラがある人だったように思える。こうした性質はやはり完全主義者である僕も幾分かは理解できるものである。

ドイツ人は緻密、綿密というイメージがあるが、フランクフルトの新人面接で試験するとまったくそんなことはない。イタリアにも中国にもそういう人はいる事を自分の眼で確認し人種は無関係と悟った。チェリビダッケは明らかにそういう人だったが、彼ほどの人ですら、開演30分前に気温変化でピアノの調子が狂うとキャンセルしてしまうミケランジェリの緻密、綿密な感覚は誰にもわからないと述べている(BBCインタビュー)。調律は勿論メカにも及び、ある時は2台のピアノを4人の技術者で調整したがOKしなかったという。それはとりもなおさず、彼の音楽を求める基準が恐ろしく緻密、綿密だから楽器がその要求を超えていなくてはならないということだ。そうでなければ彼の完全主義が演奏を許さない。入念に準備したものを披露しないのも完全主義者には辛いが、基準に満たない演奏を聴かれることの方がもっと不完全なのだ。キャンセル魔は気まぐれのせいではないのである。

ショパン・コンクールのビデオをぼちぼちチェックしながら、さてミケランジェリはどうだったっけとOp.22を聴いてみる。ピアノというものはこういうものだと逆定義を強いられるような涼やかな音色で開始され、ポロネーズのリズムになっての速い重音パッセージは全部の音が完璧に均等かつ滑らかなレガートで弾かたと思うやスタッカートで羽毛に乗ったようにフレーズと共に歌う(!)。聞いたことのない異国の言葉で何かをダンディに訴えかけられ、アイボリー色の左手に金粉を散らす右手高音の信じ難い高速パッセージ。この「音符の多さ」が無駄な装飾に聴こえたらショパンではない。それが饒舌にならずパックの如く踊る様は、何が眼前で起きているのか思考を乱されで茫然とするしか術がない。

弾いている人間の存在はなく、書いたショパンもなく、天空から降ってきた何者かが美しく舞い、なにか切なるメッセージを残して消える。人為という人間の苦労の痕跡を感じないのだ。これを舞台でやってのけた男は、だからこの音楽とともに生まれ、練習などという人間臭い行為と無縁である。そう見える。そういう男をミケランジェリは演じて生き、ひょっとしてショパンもそうだったのではないかという残像を聴衆に残して天才と一体化するのである。非常に役者的なものを感じる。田村正和でないならマーロン・ブランド、高倉健といってもよい。

ジョルジュ・サンド(1804 – 1876)

これがショパンというものか。仮にこんな男が今の世に現れたらどうか。社会でどうなるか想像すら及ばないが、ひとつ約束されそうなことは世界の知的なセレブ女性が放っておかない事だろう。そして19世紀のサロンでもまさにそういうことがおきた。ただの馬鹿なイケメンにジョルジュ・サンドのような貴族の血をひく正統なインテリ女が惹かれるとは思えない。

ショパンはポーランドの没落貴族の母を持つが父はフランスの車大工の息子である。6歳年上のサンドは恋人兼保護者であり彼がサロンでどうピアノを弾いたのかは興味深いが、ミケランジェリのようなマッチョな男ぶりではなかったろう。パリのサロンの雰囲気は知り様がないが、こんなものかと時代をワープしたような数奇な経験を一度だけしたことがある。ロンドンのウィグモアホールで、ヴラド・ペルルミュテール(1904 – 2002)のリサイタルを聴いた時だ。ミケランジェリのショパンにあの味はなく、香水と軽妙なお喋りにはいま一つそぐわない。しかし、矛盾するのだが、彼のように弾いてこそショパンは甘ったるさのない紫水晶の如き輝きを放って人を魅了すると思う。このショパンの二面性ゆえに僕はいまだ彼をつかみかねている。ポロネーズのリズムだってポーランドの田舎踊りの拍子なのだが、それがパリのサロンに出て洗練され、別格の音楽になる。そこに燦然と輝いて君臨する場を得たのがミケランジェリなのである。

彼もペルルミュテールも貴族の血筋でないが、紡ぎだした音楽は aristocratic であった。aristo- は古代ギリシャ語の best だ。しかし最高権力の座にある者(貴族)がベストの趣味を持つとは限らず、始祖は概ね武勇のみの野人だ。それが時と共に持つようになるワイン、イタリア美術等の造詣を経て緻密、繊細を愛でる精神(エスプリ)を具有するに至る。5~10代はかかる。例えば徳川家だ。家康は思慮深い野人だったが、慶喜に至って趣味も思想も貴族になった。つまり、出自は関係ない。あくまで、その人の精神が緻密、繊細を愛でるかどうか、その為には日々の生活を気にしなくて済む程度の経済の余裕や教養は必要だろうが、精神の気高さの方が余程重要である。若くしてそれがあったショパンはパリのエスプリというテロワールに磨かれ、鄙びた素材から頂点に通ずる高貴な音楽を書いたのだ。

時はロンドン赴任して1年たった1985年5月26日の日曜日。悪名高い当日のキャンセルを誰しもが心配したが大丈夫だった。ロンドンに6年、その後もドイツ、スイスに5年半いたが、結局、伝説のピアニストを聴く機会はこの一回だけだった。カラヤンの「ばらの騎士」、カルロス・クライバーのブラームス4番に並ぶ僥倖だった。バービカン・センターはシティに近く、バーンスタイン、アバド、ハイティンク、アシュケナージ、メータ、C・デービス、若杉など多数の演奏家を聴いた。座席は舞台の左袖に近い前の方、通路の後方2列目でピアニストの背中を見る位置だ。席に座るとやがて左手からミケランジェリが現れ、目の前をゆっくり歩いて行った。これが当日のプログラムだ。

僕の前の席にやや座高の高い男性が座っていたが、前半のショパンプログラムが終了して休憩になると立ち上がって中央の階段を後方のロビーへゆっくりと登っていき、もう戻ってこなかった。アルフレート・ブレンデルだった。

ここで聴いたピアノ演奏は、レコード録音を含めても僕の知る最も緻密、繊細なものだ。今に至るまで、これを凌ぐ経験はなない。それは鳴っている音がそうだというだけでなく、ゼロから音楽を作っていくピアニストの精神のあり様がそうであり、凡庸なスピリットを何年かけて何重に研鑽して積み重ねようと到達しそうにない高みの音楽が鳴ったからである。これに近い経験は、やはりロンドンでめぐり合ったスヴャトスラフ・リヒテルのプロコフィエフのソナタだけだ(この日も偶然すぐ後ろの席に内田光子さんがいた)。全盛期のポリーニ、アルゲリッチ、アシュケナージ、バレンボイム、ワイセンベルク、ルプー、ペライアらを、そして勿論ブレンデルも内田も聴いたが、ショパンに関する限りミケランジェリは別格だ。プログラムの4曲とも自家薬籠中のもので、既述の如き天界の完成度というよりもバラード1、スケルツォ2はライブなりの熱があったと記憶する。以下に当日の演奏順に同年のブレゲンツでのライブ録音を並べてみた(Op.22のみ1987年ヴァチカン)。バービカンにいる気持ちでお楽しみいただきたい。

後半のドビッシーは次回に、著名なグラモフォンの録音を中心に述べる。

(つづく)

オリックス「うっちゃり」で日本シリーズへ

2021 NOV 13 12:12:26 pm by 東 賢太郎

近ごろ大相撲の決まり手で「うっちゃり」が少ない。もとより然う然う出るものではないが、大勢が決したと見た瞬間に予想を覆す技は満場をどよめかす。目撃すると忘れられるものでないが、僕が覚えてるのは千代の富士が北の湖に決めた一番だ。いつだったのかまったく記憶はないが、今は便利なものでyoutubeで検索していたら見つかった。昭和55年の秋場所だった。

「うっちゃり」に思いが往ったきっかけは、きのう疲れて帰宅して、いったん仮眠してから眠気まなこで観ていたオリックス対ロッテ戦だ。CSファイナル第3戦である。

この試合を勝たないとロッテは敗退。同点でも負けという背水の陣である。

7回に足を痛めたマーティンがヒットで出塁、気合の二盗(!)を決め、代打佐藤が執念のタイムリー(同点)。8回は中村が左翼席にホームラン(逆転)。ロッテの怒涛の寄りにあい、オリックスは土俵際に詰め寄られた。

そして9回裏。ロッテのマウンドには絶対の守護神・益田があがり必勝の構えである。

打席はT-岡田。初球、外角のシュート(シンカーか)はどう見てもボールだったがなぜかストライク・コール。

バッターは外角が広くなって嫌だ。バッテリーは儲けた感があるだろう。

2球目も同じ球。ファウル。最後はもっとはずして打ち取る布石だ。

3球勝負で低めに落とす(フォークか)。平然と見逃してボール。

布石を岡田が逆に読んだかどうか・・・やっぱりシンカーが来て、拾われてライト前に・・・この勝負は結果的に天下分け目だった。

次の安達はこの日3タコである。そりゃそうだろうなというバントの構え。それを失敗。2球目はバスターだったと思っていたが、ビデオを見ると普通に構えているからそうではない。しかし、当然またバントに違いないとサードが猛然と突っ込んでいるのだ。

益田もそう思ったのだろう、力の入ってない球が高めに行く。安達は難なく芯でとらえてガラ空きの三遊間を抜き、事実上、バスターみたいな結果になった。このシーン、新庄が敬遠球を三遊間に打ったあのサヨナラ打を思い出した。

無死一二塁である。1点取られたらCS敗退だ。ロッテ内野陣がマウンドへ。いちど散って、また集まる。投手コーチも来る。

次の小田は守備要員で途中レフトに入っていた。今シーズンわずか1安打で打率6分7厘である。こりゃもうバントしかない。ロッテは腹をくくったのだろう。

ファースト、サードが突っこむ。小田は初球から迷いなくバスター。ひっぱってファーストの右を抜け、打球はゴロでライト線へ。一瞬にして勝負がついた。

一気に目が醒めてしまった。これぞ「うっちゃり」だ。

中島監督おそるべし!秋田県出身。そういえば今シーズンは2ランスクイズも決めていたっけ。まるで3年前に金足農業が近江にサヨナラ勝ちした試合だ。

僕はキャッチャー中島を思い出している。何をするかわからない。あの「星野のカーブ、素手で捕球事件」だ。

星野は「あの日は調子悪くて、逆玉ばっかりで怒ってたんでしょう」と別のチャンネルで語っている。「おまえ、ええかげんにせ~よ、こんな蠅がとまるクソボールでストライクも入らんのか」という無言の鉄拳だと僕は思う。星野に返した中島の球の方が速かったという伝説もある(注)。

いや、素晴らしい。野球に思いがこもっている。やることなすことに人柄が出ているから憎めない。

こういう熱いものが無言で伝わって、オリックスの若手の元気の良さになってる気がする。付け焼刃ではないだろう。

ロッテにとってオリックスは去年の開幕から6連勝したお客さんだ。それが今や別のチームである。中島は名将になってきたと思う。来年はやっぱり何をするかわからない新庄監督との対戦が楽しみだ。

ロッテの井口監督も今年は良いシーズンだった。佐々木朗希が育ったし、打線も破壊力はないが勝負強さが際立った。安田、藤原を育てて、ぜひ来年は優勝して欲しい。

 

(注)そんなことはない。星野の130キロ少しのストレートは速かった。

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僕が聴いた名演奏家たち(ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ)

2021 NOV 12 17:17:23 pm by 東 賢太郎

本稿を書いていたら、ロスチャイルドの広告につられて途中からそっちに筆が向かってしまったのが前稿だ。ロストロポーヴィチの母方もユダヤ系だというのがアドの背景なのだろうか。上掲のコンサート、ロンドンの激務に翻弄される中でどうしてもこのチェリストだけは聴いておきたく半ば無理して行ったものだ。だから眠かったと思われリットンの指揮は何も記憶がないが、ロストロの音には驚き、はっきりと耳に残っている。楽器を寝かすように構え、音は信じられないほど大きい。ソロが出るとまさに千両役者のお目見えでオケが可哀想なほどに霞んでしまう。音質はというと中音部はバターのようにトロリとし、低音は深々とロイヤル・フェスティバル・ホールの奥まで圧するが如く響き渡る。驚いたのは高音部だ。まるでヴァイオリンである。

オーボエのレッスンに立ち会った時、「高音は小さな笛を吹いている感じで」と先生が言っていた(N響の池田昭子さんだ)。ロストロのハイポジションはそういう意味でヴァイオリンを弾いている感じであり、出てくる音までそうだった。こういうチェロは後にも先にも、今に至っても聴いたことがない。2曲もやってくれたのは大サービスだった。シューマンを聴いたのはこの時が初めてで、一気に引き込まれた。最晩年の危うさが刻まれているのが痛々しいが、ほぼ同時期に書かれた交響曲第3番にはそんなものは微塵もない。デュッセルドルフの人々に囲まれて一時だが心の宿痾から解き放たれたに違いない。

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ロスチャイルド家のヒストリーに学ぶこと

2021 NOV 10 12:12:02 pm by 東 賢太郎

本稿を書く発端は、ロンドンに赴任した年の12月に行った20世紀最大のチェリスト、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチのコンサートのプログラムにある。きのうこれを書庫で見つけなければ本稿はひょっとすると永遠に存在しなかったから偶然に感謝する。左のページに広告している「NM ROTHSCHILD & SONS LIMITED」にご注目頂きたい。ROTHSCHILDは日本語でロスチャイルドと表記されるが、ドイツ語のロートシルド(赤表札)を英語読みした姓である。財閥の始祖であるマイアー・アムシェル・ロートシルト(1744 – 1812)はフランクフルトのユダヤ人居住区(ゲットー)の住人で、赤表札は市が所有した貸家の通称であり、後にグリューネシルド(緑表札)に移ったが姓は変えなかった。彼が丁稚奉公人から金融帝国を築いて19世紀における世界一の資産家になった出世譚は有名だが、ビジネスの教材として大変示唆に富むので将来のある若者のために、私見ではあるが、僕がそこからどういうインテリジェンスを得て実践してきたかを書いておきたい。他人のヒストリーをどう自分の糧にするかという方法論でもあるかと思う。そしてもうひとつのもっとプライベートな動機は、このページを開いてみた時、即座にええっと思ったことだ。その驚きの一つの理由は本稿の最後に明かすが、もっとインパクトがあった理由は、この8年後にロスチャイルド家の発祥の地フランクフルトに赴任する自分の運命が透けて見えていたと思ったからだ。

話はナポレオン軍が神聖ローマ帝国の自由都市フランクフルトを占領し、支配者(ヘッセン選帝侯)を追い出して財産・債権を没収した1806年に始まる。この前後のヨーロッパを覆う空気を幾分かでも体感していただくために、その年がベートーベンのエロイカ初演の翌年だったことを記すのは意味があるだろう。ナポレオンを崇拝し自筆譜に名を記したとされるその表紙の実物をウィーン楽友協会図書館のご厚意で特別に見せてもらったことがあるが、俗に言われる「怒って破りとった跡」は存在せず、献呈者名の部分に穴は開いていたが字は読めなかった。左の写真は、同曲を初演し、改めて(?)献呈されたボヘミア貴族、ロブコヴィツ侯爵の宮殿(プラハ城)にある初版スコアであり、表紙にはSINFONIA EROICAとある。エロイカは形容詞(英語ならheroic)で、「英雄」と名詞に訳す日本語はミスリーディングだ。Pastoral(田園的)同様に「交響曲」を形容している。ニールセンは3番をSinfonia Espansiva(拡張的交響曲)と命名し4番は形容詞を名詞化してThe Inextinguishable(不滅なるもの)としたが、エロイカは定冠詞がなくSinfoniaに呼応した女性形であるため、明らかに後者ではない。ナポレオン=英雄と見たなら名詞(ザ・ヒーロー)でよかったがそうでないのは、英雄的だったのは彼という人物ではなく、彼のしたこと(行為)だったのではないかと考えられる。大衆が待ち望んだことをやると日本なのに「いよ、大統領!」と掛け声が飛ぶが、ベートーベンはそれをやってくれたナポレオンに「いよ、英雄!」と、彼が英雄的と讃えるべきものをイメージした音楽で叫んだのだ。では「それ」とは何だったのだろうか?

1883年のゲットーの絵画

フランクフルトのユーゲン通りにもうその面影はないが、19世紀までユダヤ人を隔離して住まわせる「ゲットー」があった。一神教の信徒にとって他に神はいない。異教徒は “必然” として迫害するのである。西洋人は横暴、凶暴、無慈悲であり、日本人は温和で優しい民族だと考えるのは表面的だ。多神教が寛容なのである。同様に一概にキリスト教徒が悪でユダヤ教徒が善でもない。少数派で定住地のない異教徒は人類の必然としてマイノリティーの扱いになる。その良し悪しは別として、それが人間の本性に巣食う一面であることは現在のアメリカ合衆国を見ればわかる。そうした “人間の原理” が200年たっても変わっていないのに、1806年ごろまで左の絵のような場所に住んでいたロスチャイルド・ファミリーが19世紀における世界一の富豪になった背景は、キリスト教徒が寛容になったからでもユダヤ人が良からぬ陰謀を計ったからでもない。ナポレオンの出現というジャイアント・インパクトがあったからである。フランクフルトのマイアー・ロートシルトとウィーンのベートーベンは、その意味で同じころに同じ匂いのする空気を吸っていたのである。

欧州大陸を制圧したナポレオンはフランツ2世を退位させ、名実ともに神聖ローマ帝国を壊した。まさにその年こそが1806年であった。野蛮な武力制圧ではあったが、フランス革命の自由・平等・博愛を反映したナポレオン法典がカトリック教会による宗教権力支配のレジームを法的に崩す端緒となった。ふたりが大きな期待を懐いたのは顔を拝むこともない支配者の交代ではなく、階級社会の崩壊という質的変化が民法典で具体化され、担保されることだろう。能力に自信のあるふたりとって願ってもない社会だ。フランツ2世は替わりにオーストリア皇帝になってガバナンスを失うことはなかったため、ウィーンにいたベートーベンにとっては『「神聖」でも「ローマ」でも「帝国」でもない』(ボルテール)と揶揄されるほどに形骸化していたレジームが終焉しただけともいえ、その逆にナポレオンは皇帝として戴冠したことで失望させられる。一方で、ユダヤ人マイアーにとって帝国の崩壊は絶大な意味があった。忽然とブルーオーシャンが現前に出現し、後の欧州を股にかけた一族の飛躍が可能になったからである。

Mayer Amschel Rothschild

帝国での地位を失ったフランクフルトのヘッセン=カッセル方伯(以下、選帝侯)はナポレオンに没収される資産の一部がフランス当局に見つからぬよう、御用商人マイアーに諸侯への債権回収と資産の管理をまかせることにする。ここで選ばれたことはマイアーがユダヤ系のオッペンハイマー銀行で研鑽を積み、古銭の造詣が深かったからだが、金融業(金貸し)を禁じられたキリスト教徒にはそこから派生したお金を扱う様々な技術がなくユダヤ人に頼るしかなかったからでもあった。もとより貨幣経済が浸透すれば王族といえども資金が必要で、フランクフルトにゲットーができたのは自由都市ゆえ宗教の縛りが比較的緩く、商業・金融に長けたユダヤ人に付加的な徴税ができ、緊急の時にはその徴税権を売るか担保にして融資が受けられたからだ。そうして居住権と生活の安全をかたにいわば「みかじめ料」を搾取されるだけだった彼らが自由に金融業に進出し、圧倒的な知識・ノウハウの格差でキリスト教徒からリベンジ搾取する契機をナポレオンが与えたのだ。

マイヤーがゲットーの頭領格であったことは勿論だが、選帝侯に指名させるほど絶大の信用を得ていたことが分かる。この状態を我々は「食い込んでいた」と表現するが、それが伺える人事だ。金融業とは元は銀行(融資)だけを意味したが、彼の出現以降はもはやそうではない。銀行システムは国益をかけた通貨の番人である中央銀行のもとに統合され、インベストメントバンク、プライベートバンク、ファミリーオフィスという証券、運用、銀行、信託、保険を融合した「カネを商品として扱うサービス業の総称」の原型ができ、金融技術において多様な進化を遂げて現代に至る。しかし、製造業や商業とは決定的に異なる点がある。命の次に大事なお金を扱い、任されるのだから業務執行に必要な資質は知識、学歴、経験ではない。絶対の必要条件は信用である。僕は「信用資本主義」を経営のテーゼとしているが、マイヤーの行動に学んだことである。以下に述べるが、彼が創業した複合的金融ビジネスこそ、僕が現在依って立つものだ。フィンテックの時代になっても、金を動かすのは人間であり、そこで働く原理は200年前と変わっていない。

選帝侯の抜擢に応えるべくマイヤーは5人の息子を使ってフランス当局の監視を巧みにかわしつつ、諸侯への債権を秘密裏に回収して選帝侯へ送り届けて更なる信用を得た。これだけでも十分に金持ちになったことは間違いない。しかしそれでは終わらないのである。ここからが只者でないのでよくお読みいただきたい。

彼は以下の2つの手を矢継ぎ早に打った。①「フランス当局の監視を潜り抜けて殿下のもとまで送り届けるのは難しくなった」と選帝侯に納得させて回収財産をロスチャイルド家に信託(運用委託)させ、②同時にゲットーのユダヤ人というドイツ人でもフランス人でもない第三者の立場を逆手にとってフランス側にも取り入り、息子をフランクフルト、ウィーン、ロンドン、ナポリ、パリに置くことで全欧州に独自の通商路と通信網を築いた。実に素晴らしいとしか評価のしようがないが、これははっきりいえば自分を抜擢してくれた主君への背任にもなりかねない行為であり、ダブルエージェントである。現代でも双方代理を無断で行った場合、一方に損害を受けたと訴訟されれば負ける。選帝侯をどう説得したかは商売がら大変興味のある所だ。失業するのだから債権回収は死活問題であり、マイヤーの馬に乗るしかない。その立ち位置を利用し、今流なら「私のエクイティストーリーに投資すべし」(私も儲けるが、あなたも儲かる)と説き、納得させたのだろう。

つまり、彼のしたことは選帝侯とフランスとの「仲介」ではない。どっちも「代理」するということである。とすると両者のスパイになる危険性もある。軍事や金融という国家の命運や自分の生命にも関わる信用商売においてこの芸当ができるというのは只事ではない。二枚舌、三枚舌や八方美人のごときチャラい小手先の技で100年頑張ってもあり得ないことは肝に銘じたい。そんなものは手練れの人間たちには一発で見抜かれてしまい、昔なら殺されるだけなのだ。ひとことで言うなら、「この男なら大丈夫だ」と両側から自然と思われてしまう「人間力のようなもの」が問われるのである。では人間力とは何かといって、ひとことで言えるものではないから矛盾するが、複合的要因が混然となるジャイアント・インパクトの結果、出来上がった結末が格別に立派だった場合にのみ、あとだしジャンケン的に理由として語られるのが「彼の人間力だね」という賛辞だという定義の仕方しか思い浮かばない。だからこれを学校で教えたり、本に書いたりはできない。学校の成績はあまり関係ない。こう言っては元も子もないが残念ながらできる人はでき、できない人はできないのである。

我が国でダブルエージェントに成功して男をあげたのが坂本龍馬だ。英国人グラバーの後ろ盾で不倶戴天の敵同士だった薩長を同盟させ名誉と大金を手にした。命も金も奪われたが、歴史がそう語るからではなく実感として、僕は彼が大層の大物だったことを確信する。しかし、マイヤーはその何倍も大物だった。戦費で財政が苦しいフランスに選帝侯とは別なエクイティストーリーをアピールし、②の通商路と通信網の確保もやったからである。全欧州をほぼ独占した郵便会社であるフランクフルトの「帝国郵便」に出資していたことは有利に働いたろうし、ナポレオン法典のユダヤ人開放政策によりゲットーから出て自由に動き回れ、選帝侯の寵愛だけに依存した不安定な状態から脱却できたからそれに成功したのだ。強い追い風が吹いたのであり、こういう運の強さは事業家には大事ではある。今風には「持ってるね」ということになるのだろうが、僕はこの点については少々異論がある。風は大なり小なり誰にも平等に吹いているのであり、それに気がつくか、それに乗ろうと思うか、乗るための瞬発力があるかどうかだけが人生を決めると思うのだ。そのどれもがあって首尾よく成功した場合にのみ、あとだしジャンケン的に理由として語られるのが「持ってるね」という賛辞の定義だと思う。

さて①と②がうまくいった。カネ、通商路、情報網が手に入った。ここでマイアーがぼ~っとしている人ならばここまでは来ていないから次に打った手はある意味で必然であり、それを見すえてのことだったと思う。まず、③1798年に21才で英国に送り込んだエース格の三男ネイサン(1777-1836)に選帝侯から預かったカネで綿を大量に仕入れさせる。ナポレオンが敵国イギリスとの貿易を禁じた大陸封鎖令で綿は禁輸品になり、市場を失った英国では価格が暴落したが、逆に大陸では品不足で暴騰していた。フランスと通じて築き上げた特別のルートで大陸に持ちこみ、②のルートで大陸の4人の息子が売れば巨利が得られる。資金は流用ではなく選帝侯の了解を得た信託財産の運用だから選帝侯にも利益が出るが、マイヤーの視点からは他人の褌(カネ)でレバレッジをかけて巨利を得たわけだ。短い人生でデジタル的に資産を増やすにはそれしかない。東インド会社が成功した古典的な市場間アーブ、制度アーブであり、わが国では開港した横浜で英国人相手に生糸産地の農家の倅である僕の先祖が同じことをやって成功したが、貧農だからファイナンスに苦心している。生糸は掛け売りになったが株式なら信用取引だからハイリスクだ。選帝侯を口説いてリスクフリーにしたロスチャイルド家の知恵と営業力は半端ではないと思う。

Nathan Mayer Rothschild

普通のファミリーならここで大金持ちになって終っていただろう。そうでなかったから今がある。④ロンドンにいるネイサンは築いた情報伝達網を駆使して1815年のワーテルローでナポレオンが敗けた情報を市場に先駆けてつかみ、本来は上がるはずの英国国債に売りを仕掛けて市場を狼狽させ(今の株式市場で「外人売り」の声だけで株価が下がるのと同じ)、暴落した所で大量に買って更なる巨利を得た。風説を流布したわけではなく、周囲が早耳筋と認めるロスチャイルドの行動を注視して勝手に売っただけだ。カネ・情報の強者だけができるトレーディングの揺動作戦である。①~④のどれもが見事だが、どれも目新しくはない。凄いのは4つの大技を1806~1815年の9年間で連続で繰り出していることだ。まるで大横綱が格下を立ち合いで吹っ飛ばし、つっぱって土俵際に追い込んだ挙句に上手を取って最後は土俵の真ん中に豪快に投げ飛ばした相撲を観たようである。ビジネスを「戦略」で語る人はよく囲碁、将棋に例える。そういう業界もあろうが、相場を相手に生きてきた僕は違う。ビジネスは動的なものだ。チャンスの時に戦略を練っている暇はない。そういうものはむしろ条件反射で体が動くようにしておけばよく、決定的に大事なのはただひとつ、「やる」ことだ。

ロスチャイルド家の先祖の姓はバッハラッハ (Bacharach)といい、ライン川(ローレライの南)にある地名だ。英語読みするとバカラックで、「雨にぬれても」のバート・バカラックの姓だ(彼もドイツ系ユダヤ人)。ユダヤ人と聞くと陰謀論に頭がワープして思考停止する人が日本には多いが、それではナチスに騙された当時のドイツ大衆とかわらない。マイアーは13才で銀行の丁稚になった。25才年長のモーツァルトの父は大学に入ったが彼はそれもない。あったのはのは想像するに目から鼻に抜ける才と人間力、機を見るに敏な爆発的な行動力だ。それがなければ何も起きなかった、それだけのことだ。そのような能力が求められる仕事は何か?営業だ。営業にガク(学)はいらない。マーケティング理論もまったく無用だ。そもそもそんなものを教えてる学者は営業などしたこともない。僕はいろんな部署、階層で仕事をしたが、一番面白かったのは社長職でも部長職でもなく梅田支店にいた末端の営業マン時代だ。その2年半でお金に関わる仕事の酸いも甘いも恐ろしさも全部を体得した。昔も今も、そういうものは仮に言葉で教わったとしてもできるとは限らない。やった者が最強であり、それがまた自信を呼ぶのである。営業とは人に好かれ、説得し、商品を買っていただくことである。シンプルにしてとても難しいが、これができれば他の立場の仕事は何でもできる。これ本当である。

冒頭のロストロポーヴィチのコンサートのプログラムに宣伝を出したN・M・ロスチャイルド&サンズのN・Mとはいうまでもなく三男坊ネイサン・メイアー・ロスチャイルドの頭文字で、これが「ロンドンのロスチャイルド」である。日露戦争の戦費調達が難航した明治政府は日銀副総裁の高橋是清を同盟国・英国に派遣する。高橋はここを訪れ日本国債の引受を懇願したがすげなく追い返された。ロスチャイルド家はフランスからカスピ海油田に投資しておりロシアを敵に回すわけにいかなかったからだが、米国に置いた番頭格ジェイコブ・シフのクーン・ローブ商会を通じて引受けを受諾した。九死に一生を得た明治政府は狂喜し、教科書では日本を助けてくれたことになっているがそんな人の良い話を信じているのは商売を知らない人たちで、ここまで読まれた方にはすでに自明だろう。どっちが勝っても損のないダブルエージェントはロスチャイルドのお家芸なのである。

同社は今もM&Aの助言を中心とした投資銀行業務と富裕層の資産運用(プライベート・バンキング)を行う世界有数の金融アドバイザーである。これも偶然だが僕はロンドン在任中、同社アカウントの担当者を命じられており、出入りして大きな商売をさせていただいた。ソナー・アドバイザーズを創業する時に何となくイメージしたのはそのことだった。

 

 

 

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ジャイアント・インパクト説で張った大勝負

2021 NOV 7 12:12:37 pm by 東 賢太郎

僕は長いこと「科学教」の信者だったが、いまは宗旨替えしている。科学は大事だが、人生を良くしてくれるわけではないからだ。

むかし、飲み屋で何かの拍子に「猫に科学はいらない」といった。一瞬の沈黙があり、「そうよそうよ、人間だってそうじゃない」「だよね、だってサイン、コサイン、見たことないもんね!」と一連の盛り上がりを見せた。何となく敬遠されていた僕の好感度が急上昇したらしい。

「そうじゃない。科学は大事だけど、人生を良くしてくれるわけじゃないのは猫も人もおんなじだといったんだよ」。またまた一瞬の沈黙があり、「え~っ、なにそれ」「ってか、わたしたち猫なみってことぉ?」「ひど~い」。君たち、それは猫に失礼ってもんだ。好感度は急降下した。

こういうのが国中で盛りあがると反知性主義というものになるが、それで人生が悪くなるわけでもないということも言っているのだから急降下はアンフェアだ。百万都市の繁栄があった江戸時代の人はそれなりに幸せだったが、たしかにサイン、コサインは知らなかった。だから彼女たちは正しいのだ。

いま自分の半生記のために色々むかしの資料を引っぱり出して読んでいる。ああなるほどそんなことがあった。もう他人事のように冷静だ。住んだ家の情景からいろんな記憶もよみがえってくる。ほんとうにうまくいったなあと思う。しかし困ったことに、そのどれもが「たまたまだけどね」と語っているのである。

僕が「科学教」の信者だったのは実証主義者だからだ。これは生まれつきの性格だから変えようがない。今あるのは意思や能力のおかげじゃなく単なる偶然の結末だとなるが、綿密な調査、検証の結果なのだからそれが正しいのである。つまるところ、それを認め、認知的不協和を乗り越えるのに僕は2年もかかった。

2年半前の野球の記事が、その萌芽が現れたことの証拠になっている。

カープはなぜ5月に強くなったのか

「乗り越えるのに2年もかかった」という部分には一抹の誇りを感じないでもない。「おお、ケプラーが楕円運動を仮定するのに30年かかったことの1億分の1ぐらいは同じじゃないか」とうぬぼれたからだ(参照:http://教養のすすめ)。そう自分を慰めて認めさせたといったほうが近い。

ジャイアント・インパクト説。いま僕はそれの強固な信者になっている。月の生成。これが純然たる物理現象であることを否定する人はいない。蓋しこういうのを解明するために物理学という学問があるのだろう。しかし、月ができた理由は長らく解明できず、最近になってコンピューター・シミュレーションで再現できることからジャイアント・インパクト説が有力になってきたのである。

このことは「麻酔がなぜ効くかいまだにわかってないんですよ」と某大学の麻酔科の教授に聞いて驚いた記憶とすぐに結びついた。月の生成と麻酔のメカニズムの両方を研究する人はいないから両者が「似ている」と素人が主張しても何も起きないが、そのことから、「科学には限界がある」もしくは「科学の方法論に限界がある」と主張しても科学的な反論はたぶんないだろうと思う。今の人類が手にしている物理学、数学、化学、生物学、生理学、薬学という理論では説明できない二つの現象があり、別々の理由でそうなのかもしれないが、人類には見えない同じ理由があって、そこから二つどころか多数の「不可解な」現象が現れていて、各界でばらばらに研究されている。その統一原理を見つければ全部が一発で解決されてしまう。そういう何ものかがあるのではないかという仮説に僕は途方もない魅力を感じている。

科学が万能でないことを認めた瞬間に僕は「科学教」の信者から宗旨替えしたのだ。決定的だったのは素人用(数学の出てこない)量子力学をかじったことだ。さらに、コロナで興味を持ったのでウィルスの本を読んでいるうちに、なんでタンパク質がA,D,T,Cの組み合わせで生成されるのか(つまりアナログがデジタルからできるのか)不思議に思って調べたらドンピシャの本に出会った。非常に面白いのでお薦めする。アミノ酸という単なる物質の組み合わせがゲノムという生命の設計図になり、「命」という超物質が生成される。唯物論とメタフィジックス(形而上学)の垣根という哲学上の議論が物質界で展開されるのは痛快というしかない。

ここから先は我が空想だが、古代に知的生命体が地球にやってきてゲノム設計図を作り、アフリカの類人猿(ミトコンドリア・イブ)の遺伝子にそのプログラムを書き込んで初の人類が “生成” された。その猿の子孫がさらに進化し、先祖の記憶をたどって聖書なるものを書く。始祖はアダムとイブという名前になった。各国の神話で知的生命体(=神)は空から降りてくるし、神殿はピラミッド状の形をしており、蛇、狼、熊などヴァリエーションはあるが人類第1号誕生に関わる “他者” (神の関与を示唆)が存在するという共通項がある。通信手段のない時代に複数個所に偶然にそれが起こる確率は非常に低く、アフリカの実話が人類の拡散とともに各地に広がった結果と考えたほうが納得できる。

「ジャイアント・インパクト」は超多元連立方程式の解としても、計算力があれば解けないわけではないだろう。しかし科学の有意性は後から解いて納得することではなく、月にロケットを命中させるように未来を予知することにある。「人生を良くしてくれる」とはそういうことだ。超多元式の組成がわからないと、事後的にそれを知って解けたとしても予知は永遠に無理だ。そして、我々の見ている世の中には予知できないこと、たとえば、地震、台風、太陽フレア、気温上昇、自分の寿命、ウィルスの出現、経済成長率、株価、ウナギの進路、サンマの水揚げから女心と秋の空に至るまで、予知できないことはいくつもある。

冒頭の「宗旨替え」の理由がおわかりいただけたろうか。サイン、コサインはいま我々が享受している生活の利便性を与えてくれた大事なものなのだが、それは結果であってここから人生を良くしてくれるわけではない。知っている人と知らない人で幸せの量が変化するとは思えない。それは各人が求める幸せのキャパ(容量)により、その大小が人間の価値に関わることはまったくない。小さめの人はサイン、コサインの学習など無縁でもキャパいっぱいの幸せを得ることで素晴らしい人生が送れるだろう。であれば無理して大学など行く必要もないし、その時間を自分なりの幸せの追求に向けたほうがよほどいい。

僕自身も物欲、権力欲は大きめに生まれついていないからそういう学習に無縁な人生は充分にあり得たと思う。ところが、人間の熟成にもワインと同じで、 “テロワール” というものが存在するのだ。

世界のうまいもの(その14)《エシェゾー》

僕の場合、種子はいたって慎ましいものだったが植えられた畑の土地柄、つまり、学校や友達や競争環境が影響して幸せキャパが大きくなってしまい、こういうワインになった。父が中学で公立に転校させテロワールが激変したのがきっかけであり、それが大学、MBA、海外勤務とますます想定外の方向に行ってしまい、子供時分のちいちゃくて大人しいケンちゃんからは誰も空想だに出来ぬ人間になった。一番驚いているのは自分だという処にこそ、このストーリーを書いておく意味合いを感じている具合だ。

「ジャイアント・インパクト」を信仰することで僕は広島カープが強くなったり弱くなったすることに耐性ができたし、自分にも他人にも何に対しても人間が寛容になったと思う。科学教のころは何でも自分で解けると信じていて、実は解けないのだから当然なのだが、実にたくさんの失敗をしていた。そこで個々の敗因を探るのをやめてばっさり宗旨替えすることで、どうせわからないことは考えない、頑張らない、結果を見てからやって意味のある事だけしっかりやろうという考えに転換した。実は日本人の大多数はそういう人である。いたって普通のことで何をいまさらに聞こえようが、僕は見事なほどそうでなかっただけに勇気のいることだった。

自分が得意でない分野では専門家の意見に頼るが、その分野の中だけで解決できる問題はその人が解いていてすでに過去である。彼が解けないのはクロスボーダーの複合的な問題で、それを解かないと「良い人生」はない。そこで「メタ認知」という視点が大事になる。僕は受験で数学の訓練をそこそこしたので異分野の理論や事象に相似形を見つけ、あるいは因数分解し、メタ(高次)の原理をみつけるのが比較的得意だ。ジャイアント・インパクト超多元連立方程式がそれで解けることはあり得ないが、正解ではなくても「だいたいこのへん」という直観を交えて他人より “少しだけ正解に近い数字” を見つけられるかもしれない。ビジネスではそれで全くもって充分なのである。他人より失敗確率が減ればロングランでは勝つからだ。

この考えはゴルフ、麻雀、猫に近い。常勝も圧勝もいらない。長丁場で負けなければ企業は存続できる。投資のチャンスはたまにしかない。従って、潰れずに、その時を猫みたいにじっと待って、勝てると踏んだ時にエイッと勝負をかけるのがポイントなのだ。「わたし、失敗しないので」は危険であり、「わたし、致命的な失敗はしないので」が良いスタンスだ。そしてチャンスと見たらダブル・リーチをかけて「来た、見た、勝った」で仕留める、その爪をいつも研いでおくことだ。僕はゴルフ、麻雀、猫遊びに習熟し数学/哲学アタマだからこの仕事にたまたま向いていた。しかしそれは業界に飛び込んでから偶然に知ったことだ。

ジャイアント・インパクトでひも解くと株式相場がどうなるかはもうだいたいわかっている。テーパリングは中央銀行界がやってる感を出すための議論でOPECの増産・減産の表向きとかわらない。リーマンの時に流動性が流れたデリバティブは兆の上の京に至ったが、いまは仮想通貨がそれになり総額はもっと大きくなる。これは潰せない。メタバースという三次元スペースの値段はそれでつくから京を超えるかもしれない。現状の経済運営に通貨はそんなに要らないが、要らないものに価値を感じるように人類が進化するのだからその「要らない」という概念は要らない。ざっくりしか書けないが、そういうジャイアント・インパクト説で僕は勝負をかけ、おそらく勝つだろう。

僕には生糸貿易で大儲けして横浜、熱海の水道、ガス燈を私財で作った先祖がおり、その血が流れている。科学者や大学教授や陸軍大将もいるが、体内感覚で誰より彼の血が濃いような気がしている。50才で亡くなったのでもう負けてるが、70でいいから抜いたらきっと喜んでくれると思う。「相場は騎虎の勢い」が座右の銘であったが、おんなじだ、食われるので背中から降りられない。

 

 

 

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