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「女性差別はいたしません」の謎

2021 FEB 23 1:01:12 am by 東 賢太郎

まず、去年の正月に映画を作ると書きましたがあれは何だったかについて書きます。あの時点ですでに監督さん、脚本家さん、カメラさんと某地に飛んで2泊してご挨拶、シナハンを済ませており、ロケハンやるぞという段階であり、キャスト、配給会社も概ね決まって脚本が完成する直前まで行ってました。無念ながらコロナで中断してしまいましたが、それでも未知の世界だから何もかもが新鮮で仕組みが良くわかりました。通行人役でも訓練が要るとは意外で、素人はカメラが向いただけで無意識に硬くなって動作に出るそうです。それなのに東さん出て下さいと監督に言われて映画が売れなくなると断りましたが実はそっちよりテーマ音楽を作って指揮したかったのです。

ジェンダーレスが主役に内定していました。彼女?を見てびっくりし、これはいけるかもと一瞬思ったものの、あまりに別世界で心の準備がなく、ストーリーを読んでもヒットする自信がありません。おいどう思うとオヤジ連中に写真を見せるとニヤニヤしておおいいぞいいぞだ。こりゃいかん、信用できんと今度は20代の女性に見せました。えー、すごぉぉい、でも違和感ありませんよぉ、えっ?つきあえるかって?ぜんぜんOKですよ。ええっ、ほんとか、そんなもんなのか???  ここでまた唖然でびっくりで、我が世代のジェンダー感覚はネアンデルタール人とかわらんかもしれんと衝撃を受けたのです。

これがあるから、森さんの女性差別発言とされたあれは思う所もあります。軍人だった森さんの父上は終戦をミクロネシアのトラック島(現・チューク島)で迎え、酋長・相沢氏(日本から渡り酋長の娘と結婚、戦前の漫画「冒険ダン吉」のモデル)に助けられて帰還したと同国政府要人に聞いたことがあります。息子の彼も敗戦で焼け野原だった日本を背負って国を建て直した世代です。あれはその世代の男の典型的な思い込みでそのこと自体を否定しても始まらないでしょう。隔絶した世代にそれをソンタクしてもらえないという現実にお爺ちゃんになって直面したというのは気の毒に思いました。戦争は男しか行きませんし組織だって軍隊式上意下達しかあり得ません。上が決めたんだからごちゃごちゃ言うなとなり、それが「会議で話が長い」になる。たぶん彼は女性に限らず男も女もそれが嫌いなんです。じゃあ会議は何ですかとなる。民主主義の場でしょと。ところがあの世代にとっては忖度、追認の場なのです。

それが密室政治といわれるものです。日本のまつりごとは古代より御簾の向こうで決まってきた。ここは難しい所です。この件は自民党がそれをまだやっていることにルーツがあり、それに国民が大いに批判的だという背景があるわけです。王侯貴族や宗教勢力の支配を打破した欧米からすれば御簾の向こうにいるのが王であれ総理大臣であれ同じです。つまり、密室政治と見られてしまう限り日本人の精神構造に刻まれている古来よりの支配形態と西洋の近代政治思想にはそもそも大きな矛盾があるということになってしまう。中国のようにそんなものは関係ない、ここは中国だと言い切る国力もない。さらに日本的な特徴として政教分離、信教の自由を謳いながら天皇は神道という宗教の祭祀を行い、国民はそれを敬い税金を拠出しています。いや、法的には象徴だからねという理屈はあっても、天皇の認証や叙勲のように、それがまつりごとの権威のバックボーンであると国民が無意識に感じている政治的行為はたくさんあります。

つまり、皇室にこそ政治の権威の源泉があると国民が感じている。この「感じ」はまだ国民という概念すらなかった時代、徳川家康が関ケ原で天下をとって武士の頭領になっても、朝廷(後陽成天皇)から征夷大将軍に任命してもらうのを3年も待ったことに現れています。家康は任命されると息子の秀忠にその地位を譲ることを認めてもらい、徳川氏による将軍職世襲を確実にして自分は隠居しました。ということは、子孫が少々頼りなくとも将軍職さえ世襲できれば永く徳川の世は続くと家康が考えていたということであり、当時の天皇に武力も財力もありませんでしたが諸大名もそう思っており、現にその世は260年も続いたのです。隠居した家康の尊称「大御所」が今も使われているように、天皇の権威も日本人の心に脈々と伝わっています。

武家社会ですら治まった天皇制の伝統をマッカーサーは温存しました。矛盾の種はGHQが撒いたわけですが、その判断は重かった。英国にも国民の税金が拠出される王室が存在しますが、それがあったおかげで国家が占領される存亡の危機を生き延びることができたという歴史はありません。現在の日本人がその重みを軽々しく消せるものではないし、そんなことになれば日本は犯し難い無言の権威を喪失し、ややもすれば容易に侵略され破滅の道を行きかねないと僕は思っています。だから日本は神の国だと言う気は毛頭ないですが、天皇制、神道という伝統と西欧の発明した民主主義との日本的な調和は模索しなければならないと考えます。森さんの問題は、しかるに、その調和はないんだ、伝統は壊してでも民主主義、自由主義なんだという方向に民意が振れ、女性蔑視というクレームがそのトリガーになったと見えなくもありません。

昭和30年生まれの僕も森さんとほぼ同じ空気で育っています。ほぼというのは成城学園は初等科(小学校)から自由闊達、リベラルな校風で軍国調を冷めた目で見る教育だったからです。あの時代に映画、舞踊、演劇、彫塑の授業がカリキュラムにあり、児童劇や音楽会のイベントがあったし、英語は5年生ぐらいから教えてました。スクーターでブザンソン・コンクールに乗り込んだ小澤征爾さんも成城の校風から出てきたのではと思いますし、僕はいやいやでしたが幼いころにそういうものが身の回りに自然にあったから今のようになったのではと感じないでもありません。ただいま振り返るとこれはやや特殊な世界で、官であれ民であれこの世代の男でヒエラルキーの階段を登ろうという者は学生運動に残滓があった軍国調の渦に表だって逆らうのは難しかったと思います。

だから森さんを女性がやり玉にあげたのは分かるとして、テレビで私はそうじゃないと言いだす中高年の男が相次ぐのには驚きました。「これは今どきいけません」「やっちゃいましたね」「日本の恥にもなります」「弱者の目線に欠けてますね」「私はちょっと立場が違いまして」「国際社会は許しませんよね」・・・まあ言葉はどうあれ「エンガチョ切った!」「MeToo、MeToo」です。こういう男どもを心ある女性はどう見るか聞きたいものです。よっぽど本流から外れて育ったか、何であれ長い物に巻かれる日和見でしょう。僕は「ああ森さんは昭和の体育会だなあ」それだけです。よっぽど問題なのは80のお爺ちゃんを倒してのし上がる者が出てきてないほうでしょう。政治家は男も女も森さんのちょうちん持ちの座を競う小物感満載の人だらけになっちまった、そっちのほうです。そんなのを選んでる我々の民度の問題でもある。本当に日本人は劣化してきています。

僕は「会議で話が長い」のは歓迎です。僕が一番長いし、むしろ黙ってる人は何も意見ないのかとなる。男女は水平分業と考えるので男に向いた仕事を無理に女性に振っても非効率だしその逆も真です。クォータ制は完全に男女に適性の差がない組織の話で、オーケストラは70年ごろまでどこも男ばかりでしたがクォータ制がなくても今は半分女性の楽団もあります。経営に民主主義はありませんが、女性の方ができる仕事は任せた方が効率がいいし、従来は男専門だった仕事もやる気があればやりなさいと言ってます。男女比の問題はそれを発見できない経営者が無能なだけです(ちなみにソナーは3人に1人が女性)。僕が作った組織には階級の上下もありません。真ん中にいる社長も社員です。全体をバランスさせてパフォーマンスを上げる指揮者という配役にすぎず、偉いということはない。指揮がうまいかどうかだけです。

 

チック・コリア逝く

2021 FEB 15 19:19:20 pm by 東 賢太郎

さあLINNのプレーヤーKlimax LP12が家にやってきたぞ、何をきこうかなとレコード棚をしばし物色し、千枚以上ある中からチック・コリアの “シークレット・エージェント(Secret Agent)” をとりだした理由はさっぱり記憶がありません。確かなのは、それが2月9日の夜だったことです。

チック・コリアの訃報を知ったのは12日、ブログを書き終えたあとのことでした。ええっ、なんてこった!いつだ???

2月9日でした

こういうことは皆さんもあるでしょうが、 “Secret Agent” ってロンドンにいたころ、35年も前に買ったレコードですよ、ひょっとしてあれ以来きいてないんじゃないかな?そんなぐらいで、曲については何も覚えてません。なんでまたこれを。。。??

チック・コリアが凄いと思ったのはアルバム “Now He Sings, Now He Sobs” (1968年)で、これジャズに詳しい人はみんなほめてるわけですが、僕はどうだったかというとどんなクラシックより上かもしれないという驚き方をしたのです。そのショックでコリアをあれこれ渉猟し、La Fiestaは悪くはないな、ゲイリー・バートンのCrystal Silenceにぶちあたってこれだこれだと舞い上がったり、やがてElektric Bandなんてのに出くわしてあれれ?となり、かたやSpainなんて軟弱なので完全にわけがわからなくなるのです。Secret Agentはあれれの部類だったのでお蔵入りしたんでしょう。

まあ僕のジャズはこんなもんでフュージョンに入りそこねたのですね。おもえば我が高校時代、音楽好きで女にもてるというとロックかフォークが相場で、同じ西洋かぶれなのにジャズは暗いしクラシックは論外でした。楽器もできないクラシック・オタクは不遇で、ちくしょうとジャズに憧れたのもあります(笑)。でもジャズに行ってもおかしくなかった。というのは、どなたも音楽趣味の棲み家みたいなものをお持ちでしょうが、僕は “Now He Sings, Now He Sobs” やらいくつかの衝撃でそれをいっとき見失なって、本当はこういうのが本命じゃないかと迷った時期があったからです。

コリアのアルバムはほぼ自作ですし即興と変奏の名手であることは折り紙つきです。現代にモーツァルトがいればこうなったに違いないと確信してしまったこともあります。例えば、Steps-What Wasのピアノのモードなど和声を超越してドラムス、ベース三つ巴の対位法!の域に突入している。和声はあるが無機的な4度系であって意識から消え、唖然とするプレストに目がくらみ思考停止します。何が乗り移ったかという即興感みなぎる発狂レベルなんですが形もちゃんと整っているという、これってアイガー北壁のてっぺんの稜線を歩いたらこんなかというぎりぎりの均衡ですね、何度聴いても手に汗握るしかないです。

それでいてその後70年代からは硬派のフリージャズの道でも突き進むかといえばそうでもなく、『クリスタル・サイレンス』 等でぐっと和声音楽的でクールな抒情を漂わせる方向に行くのだからもったいないといえばもったいない。この多才さは功罪あったのかもしれませんが。

そのゲイリー・バートンのヴィヴラフォンとのデュオは管弦楽法の魔法のようなもので、1979年のCrystal Silenceのチューリヒ・ライブはホール・アコースティックとのブレンドが絶品で完全にクラシック的鑑賞を許す域に入ってます。会場はLimmathausとあり市内を流れるリマト川のLimmatでしょうが2年半住みましたが知らないですね、でも素晴らしい。

これが2008年にはこう進化してオーケストレーションが施され、原形をとどめぬほどクラシック化しています。ストラヴィンスキー並のカメレオン的変化ですね、それともピエール・ブーレーズのWork-in-progressのコンセプトと同じ思想があったのでしょうか。

電子楽器のサウンドは彼の音色感覚でオーケストラの色彩領域を拡大するものとして使われます。僕は素人だから間違っているかもしれませんが、それがジャズ・フュージョン・バンドのElektric Bandに進化したように思います。The Chick Corea Elektric Bandではこれが凄い、先祖返りした曲ですね。

彼がクラシックも弾くといって、ジュリアードに行ったんだから当然と思ってましたが調べたら半年で中退ですね。disappointingだったようです。まあ音大卒の人の何百倍もの偉業を成し遂げてますからね、ビートルズもそうですが技術は教育できても音楽はできないということでしょう。

それでも彼はモーツァルトもショパンもバルトークも弾いてます。Secret AgentにはバルトークのバガテルOp. 6 no. 4がそのまま入っていて、それが理由でCD化が遅れたともききます。モーツァルトはk.332Mov2を録音するほど愛奏してます。キース・ジャレットとのPC10はブログにしましたね。これです。

閑話休題 -ジャズとモーツァルト-

工房でPC24番を練習するビデオがyourubeにありますが、3曲とも僕の愛好曲ですし、k.332Mov2は自分でも弾いてますから他人とは思えんですね。

彼に音楽の垣根はありませんでした。深く共感します。僕もまったくないからです。こういうのを是々非々といい、ちょっと多めにクラシックを聞いてるぐらいの感じで、その中でもハイドンも良ければブーレーズもいい。チック・コリアとバッハを分け隔てる理由もありません。あるのは驚嘆すべき才能への畏敬かもしれません。

まだまだ僕は彼の音楽に追いつけてないので、追悼はしても付き合いはこれからです。人は逝っても魂は残ります。2月9日はそういうことだったんだと思うことにします。

 

ワクチン接種をどう考えたらいいか?

2021 FEB 14 1:01:19 am by 東 賢太郎

「円周率が3.05より大きいことを証明せよ」 (東京大・2003年)

う~む、美しい問題だ。20字だ。数字が一つしかない。昔どおりなら文系は100分で4問だからこれを25分で解かなくてはならず、けっこう大変だ。

それにしても実に刺激的だ。ならば僕ならこういう出題をしてみたい。

「太陽が地球を回っていないことを証明せよ」

数字はない。アンチョコを見ない限り、おそらく人類の99%は25分どころか1年かけても解けないだろう。かくいう僕も1%に入る自信はない。数学のような積み上げの学問で円周率が3.05より大きいことを証明できない人がこれを解くことは考え難く、2003年の問題は科学の素養のふるい分け機能を果たす良問と思う。クイズ王になるのとこういう問題を解くのとはぜんぜん別の話である。

僕の問題を解いた人がいる。「コメンタリオルス」を著したドイツ系ポーランド人のニコラウス・コペルニクス氏だ。時は1510年あたりとされている(そのころ日本では織田信長が生まれている)。

それから500年。地球の方が回っていることになって今に至る。でも、宇宙飛行士にならないとそのシーンを目視することはできないし、宇宙から撮った写真だってヤラセかCGでない保証はない。

つまり、それを信じるよりどころは数学(天文学)しか存在しないが、99%の人は数学がわからないのだから、地動説というものは、

「そういうことになってる」

だけなのである。皆さん、お正月は神社に詣でて願掛けをされるだろう。「こうなりますように」と。本当に「こう」なる証明はないが、国民的にみんなやってるんだから効果はきっとある。そう信じるから初詣に行く。なぜなら、

「そういうことになってる」

からだ。これが宗教というものだ。

従って、有意に高い確率でもってこういうことが言えるだろう。

「99%の人にとって科学は宗教である」

回るのが太陽だろうが地球だろうが我々の渡世には何の関係もない。それより酉の市で去年より大き目の熊手を買うかどうかの方が、99%にとってはよっぽど大事なのである。

縄文時代の日本は今より2度暑かったし、1300~1850年の地球は下のグラフのLittle Ice Age(小さな氷河期)にあった。現在はその極寒期から脱して3千年の平均気温に戻りつつある回復過程であって、「温暖化」の正体は自然現象であるというのが科学的な視点だ。

少女を使ってポリコレと化した「地球温暖化説」は過去100年だけのチャートを都合よく切り取って「危機だ」「原因はCO2だ」とする。では百歩譲ってその100年だけを見てみよう(下のチャート)。ご覧のとおり、原因はむしろ太陽活動である(Tが地球気温、Sが太陽活動、CがCO2排出量)。

化石燃料から代替エネルギーに転換させると都合のいい人がいるのであり、世界の学者を巻き込んで99%の人には科学に見える「宗教」を作っているのだから裏で巨額のカネが蠢いていることは論じるまでもない。既存の大手メディアはその教義を巧妙に真実にまぶして世界を洗脳し、異端の教徒の声は抹殺する。最近は「地球温暖化」を「脱炭素」と言い換える風潮が顕著だが、なぜならウソがバレたからであり、科学でないことを人類をあげて頑張っても何も起きない。

職業投資家として僕はポリコレだろうがディープステートだろうが脱炭素だろうが、そういうものは単なる商材と見做して勝つ方に投資するだけだ。しかし人間としては別である。許せないのは、カネで科学をねじ曲げる腐敗した精神である。そんなことを許していればやがて科学も退廃するし、一部の勝ち組が人類の命運を狂わせてしまうのだから言語道断だ。このスタンスを読者はSTAP細胞事件でご存じであり、僕の中で常に一貫している。

さて、だいぶ回り道したが本題に入る。東京五輪だ。実のところ、ロゴでもめて国立競技場の設計で多額のキャンセル料がどぶに捨てられ、緊縮のふれこみだった総予算が予定されていたかの如く膨れあがり、福島の復興は隅に追いやられ、そして夏の東京は暑いとわけのわからん理由でIOCがマラソンを札幌に持って行った、あのあたりから気分は冷めてしまっていた。

首相曰く「人類がコロナに打ち勝った大会にする」らしいがどうやって打ち勝つつもりなのだろう。常識的にはワクチンに頼るしかないが、そもそも見込んだ本数がちゃんと日本に来るのか?最も危険にさらされる都民全員に7月までに接種は間に合うのか?重症化は抑えるが感染抑止はしないのだから病床数は足りるのか?医療関係者は?東洋人が射っても安全なのか?そもそも効くのか?未知数だらけだ。

この点については、科学者である医療ガバナンス研究所理事長・上 昌広先生のブログ(2021/02/08付)から引用させていただく。

「ノルウェーでワクチンを接種した高齢者23人が死亡した。接種したのはアメリカ・ファイザー、ドイツ・ビオンテックのワクチンで死者13人は剖検されており、ワクチン接種との関連が示唆される。私は、現状では高齢者に一律にコロナワクチンは推奨できないと考えている。それぞれの状況に合わせた個別対応が必要だ。少しでも不安をお感じの方は、是非、主治医に相談してほしい」

上先生の説明

まったくその通りと思う。僕が昨年今ごろから厳戒態勢に入ったのはまさに無症状感染者が出たからだ。上先生にお会いしたことはないが、わかる、この方は素晴らしく頭がいい。コロナは科学でしか解明できないし、科学は頭が良い人しかできない。ならば素人の僕は最高の頭脳の先生の言うことをきくしかない。それでも保証はないが他に手はない。彼が指摘している厚労大臣は精一杯頑張っているとは思うが、頭の問題はどうしようもない。そういう人が語る宗教の信者になってワクチンを射つことは僕にはあり得ない。

高齢者の感染数は増えていて優先してくれるのは有難くはあるが、約半分は若者が持ち帰った家庭内感染と聞く。僕はそれはなさそうだし外へは出ないし、むしろ若者優先で射っていただいて迅速に集団免疫を作ってもらったほうが安心だ。厚労省はファイザー社のワクチンの「承認を了承した」と発表している。治験で日本人への効能と安全性を確認したのではない。問題があれば省として責任をとることを認めましたという意味だ。ノルウェーのようなことがあれば誰かの首ぐらいは飛ぶのかもしれないが、だからといって、その程度のことで安心して摂取しようという気がおきるわけでもない。

もしワクチンによる免疫バリア作りが思ったほどワークしないならば、ここから五輪開催を決定するだろう3-4月までのコロナの感染動向は当のウィルス様にお伺いをたてるしかないことになるというのが本稿の趣旨だ。要するに、御意のままということだ。これは、地球温暖化は実は太陽活動という自然現象のせいであって、人間がCO2削減をいくら頑張ろうがおてんとうさまの御意のままにしかならないのとよく似た現象ということになるかもしれないことを意味している。にもかかわらず、最後の命綱であるはずのワクチン供給契約の時期と本数の詰めが甘かったという、政府は何を考えているのか(ひょっとして何も考えてないんじゃないか)と見える事態が発覚した。民間企業なら担当役員の首が飛んでいる。

ではそもそも、科学的知見からして、政府が五輪開催に向けてやるべきことは何か?上先生曰くPCR検査をやりまくるしか手はない。彼以外にもそう主張する科学者はたくさんいる。しかし、政府と厚労省は当初からずっと真逆の策をとっており、37.5度の発熱がなければ検査しないというお触れで岡江久美子さんを含む何人もの方が自宅で様子見を強いられ命を落とされたのは記憶に新しい。政治の暴走とも言い切れないのは、尾身氏の率いる専門家会議もPCRを増やすと医療崩壊を招くからやらないほうがいいとの見解を出したからだ。無症状感染者は気にしませんという世界でも希少な戦略であるが、この科学的根拠は何だったのだろう?それは去年の今頃に僕が感じた恐怖が何だったのか、なぜそれが政府に共有されなかったのかという疑問でもあり、いまだに理解できない。その恐怖を救うのが上先生の策だったから心から納得した。しかし政府には都合が悪かったのだろう、彼のような学者ではなく、忖度してくれる御用学者が登用される。是々非々である台湾の蔡英文とは政治力が雲泥の差と言うしかない。

コロナウィルスである風邪もインフルエンザも感染力には季節性があって統計的に2月にピークアウトするが、新型も同じであり、ここから4月にかけて感染者は自然に減り、6,7月にやはり季節要因で増えると上先生は言っている。だから目下の数字が減少しているのは緊急事態宣言の効果ばかりではない。さらに、今年に入り、知人の親族が勤務する保健所は事務職でも帰宅が午後9時という激務ぶりだそうで、保健所ルートという日本固有の仕組みのもたらす物理的な制約から検査数が減っているという原因もある。検査しなければ感染者が減るのは当然だ。それで安心して都内各所の人出が大きく増えているからいずれまた感染者は増え、検査しないから無症状者はカウントされず、結局は陽性者が増えるだろう。つまりウィルス様と「いたちごっこ」しているだけなわけだが、何も今に始まったわけではない、去年の今ごろから一貫してそうだったのだ。

緊急事態宣言発出の効果を高める法改正をしたではないかという声もあろう。それは政治のイニシアチブで策を施したように見える唯一の手だ。ステイホーム、三密回避を促すという意味で科学的根拠もあるから有効であることは確かである。しかし、宣言にプロパガンダ効果を期待する政治的側面においては、温暖化におけるCO2削減が経済減速を招くのと同様の副作用がある。すなわち、”緊急事態” が長引けば、そんな危ない国に五輪の選手団は自動的に来なくなるのである。従って、宣言を撤回するしかなく、残る手はPCR検査をやりまくるしかない。ところが、それをすれば無症状感染者を拾って新規感染者数が激増してしまい、やはりそんな危ない国に五輪の選手団は自動的に来なくなるのである。

すなわち、昨年のコロナ対策の初動において何度も書いたことだが、五輪は意識するが科学は無視していいだろうという「PCR検査回避大作戦」の結果、なんのことないその五輪が大手飛車取りに追い込まれて国中がてんやわんやという大ヘボ将棋だったことが発覚したわけだ。しかしそんな失態はなんのその、季節性要因で4月ごろ感染者数が自然にもっと減り、緊急事態宣言は補償と経済への目配せで早々に打ち切られGoToまで復活してしまうのではないか。しかし6月から数は自然に増える。従って、ワクチン接種は政治的に不可避な唯一の神頼みとなり、世界の趨勢だからを免罪符に、あれほど新薬許認可に腰の重かった厚労省がぎりぎりになって、世界で誰も投与されたことのない未知のワクチンの「承認を了承」した(させられた)のである。そこは神の国だ。ええい、何とかなるだろうと。

しかしよく考えて欲しい。そのワクチンだって我が国は自国で開発したわけじゃない。他国さんの努力でたまたま「神風」の如く現れただけだ。去年の今頃、ダイヤモンド・プリンセス号騒動で我が国はコロナで注目をあびた世界最初の国になった。そこから今に至るまで頑健に「神の国」でありつづけたその一途さ?を世界が日本らしいと見るか日本も墜ちたと見るかは様ざまだろうが、そこでワクチン供給契約の問題で神風すら逃げかける失策を演じているのだ。外国はそれを知らないし、いまだに科学的解明がない「死者数の少なさ」も外国人にはミステリアスだ。よって日本はうまくやっているように見えているだろうが、単なる結果オーライである。日本が未来永劫「神の国」で存続していける確率は低い。国民が政治を直視して選挙で理性を働かせないと、国は危険水域に来ている。

そんなさなかに発生した森会長辞任騒動は、日本は「神の国」を自認される元総理で自身もスポーツ界の神と仰がれる教祖様がお倒れになったということだから五輪宗教界がてんやわんやなのは道理だろう。しかし、科学とはいささかの縁もないどうでもいいことである。なぜなら、それがなかりせば開催がうまくいったわけでも何でもないからであり、もはやワクチンが集団免疫をつくるしか五輪開催の芽はないことに寸分の変わりもない事態に追い込まれていたからである。僕は東京都民であるので、ワクチン投与ばかりが関心事ではない。1万人の外国人が大挙して同時期に押し寄せ、東京にバラエティに富んだ変異種をお持ち込みになるのが非常に怖い。選手は隔離しますというが、そういいつつ英国、南ア、ブラジルのウィルス様がすでに空港検疫をすり抜けて遠い地方にまで達している。誰が信用するのだろう?

そのリスクを負わされ、高い都税を払わされて、しかも無観客だからテレビで見てくれって何の意味があるんだ?こう思う都民は増えているのではないか。

ドナルドもシンゾーも、コロナなかりせば政権が続いていたと思う。「賭けてもいいが、政治としてのコロナ戦争にアクセルのふかし勝ちはまずない」とだいぶ前のブログに書いたが、やっぱりそうなった。さてここからどうなる?小池百合子はいじめを逆手にとってうまい立ち位置で国にアクセルをふかさせ、「都民はステイホームを」と呼びかけるにとどめた。コロナ様には極めて都合が悪い、すなわち科学に基づいたメッセージの発信だから素晴らしい。彼女が科学を理解しているとはまったく思わないが、ズレを感じさせないセンスは感じる。僕はもともと女性積極登用派であるし、パフォーマンスが過ぎるというが政治家はどうせ全員そうなのだから下手よりうまい方がましだ。プーチンはワクチンを射たないが小池さんはどうかな。

 

LPレコード回帰計画が再スタート

2021 FEB 12 18:18:03 pm by 東 賢太郎

昨日は久々にLP漬けの一日でした。昨年浸水で中断していたレコードプレーヤー選びを再開することにしたのです。これから何機種か自宅のシステムとつないで試聴しますが、最初に届いたLINNのKlimax LP12にすでに度肝を抜かれています。ひとことでいうなら塩ビの盤を針が擦ってる感覚が消え、マスターテープを回している感じですね。まったく、66にもなって何を今さらなんですが、音盤にこんな膨大な情報が入るものかとですね、子供みたいに物理現象として改めて感嘆している自分が情けなくなります。驚くべきは三次元に広がる音場感、音の立ち上がりのキレと速度、低音にブーミーさが皆無で締まり良く、クリアな音像追求派と思いきや耳元にリッチに伝わる倍音はハモった我が声を包み込んで聞こえなくしてるし、このクオリティは尋常でありません。

OSCAR PETERSON、
At The Concertgebouw

まずはチック・コリアのSecret Agent。こいつはショック。初めて値打ちを知りました。オスカー・ピーターソン・トリオのアムステルダム・コンセルトヘボウのライブ(これはシカゴだったらしい)。唸り声がリアルで、客の拍手の粒立ちまでわかる。すると奏者の定位がおぼろげに出てきます。でもあり得ないんです、だってモノラルなんだからね、あまりにリアルなんで頭がそう変換して聴いてるんですね。ディスクが生き返るとはこのことだ。

カーペンターズは楽器音のクリアネスは言うに及ばずコーラスのざらっとした質感、クオリアまでわかる。そして何よりカレン・カーペンターの声にはまいりました。これぞ肉声。SACDもかなりのレベルですがこっちの方が上でしょう。僕は微小な舞台ノイズに喜びを覚える趣味はありませんが、それが歌手の心の気配を感じるレベルともなるともう別である。写真や動画でも人の喜怒哀楽はわかりますが、目の前にいる人に喜んだり泣かれたりしたらその比ではないわけです。ライブ感とはフェイクが前提の言葉ですが、ここまでいくと機器の存在が消えてもはやライブになってます。伝わってくるのは彼女の心の動きで、これは音楽演奏が人を感動させるエッセンスなのかもしれません。

この3人はみな自作を演じてます。作曲家でもあって、おざなりでない何かを伝えたい意思と力を感じます。そういうエネルギーは音を超えたもので、言葉や演技でも、いや、時に料理にだって感じることがあるんです。それを我々は目や耳や舌で受け取るわけですが、それが何かを言葉で説明するのはとても難しい。「気」とでもいうものでしょう。3人にそれを初めて感じたのだからレコードプレーヤーの威力です。業界のレファレンスの呼び声高いKlimax LP12、見てくれの割に半端でないお値段なんですがこの音ならどこからも文句など出ようがない。実力がよくわかりました。

オーディオは奥が深いと思ったのは、この最上級の名器でも、クラシックでは少々僕の趣味とずれがあることです。それがどうしたんだ?というぐらいほんの少々なのですが、ヴァイオリンの高音域がですね、スピーカーがスタジオモニターにもなる位そのまんま出てくるB&Wなんで、そのダイヤモンド・ツィーターが解像度の高いLP12だとキツめに反応していると思われます。これは僕にはダメなんです。ジャズ、フュージョン、ポップス系ではこれを凌ぐ音を聴くことはまずないだろうと思うレベルですが、オーケストラは難しい。ただし歌はいいですね、ルチア・ポップのモーツァルト・アリア集、僕は彼女が好きなんで至福の時を過ごせました。きれいなだけの声じゃありません、喜怒哀楽も色香もあってね、ポップはキャリアのスタートは演劇だったんです。そんなことまで伝わってくる、恐るべしです。

もうひとつ、感動したのがケルテス / ウィーン・フィルの「魔笛」です。64年8月12日のザルツブルグ音楽祭のライブで、63年に僕が愛聴するクレンペラーのEMI盤で夜の女王を歌ったルチア・ポップがここでは第一童子です。なんと贅沢な!クレンペラーは侍女にシュヴァルツコップを起用していてそういうことに見えますが、実はそうじゃない。ポップはこの時まだ25才の小娘だから分相応なのです。ケルテスの夜の女王はベーム盤の同役をつとめたロバータ・ピーターズです。ポップは元々スーブレットで強い声質ではなくピーターズの方が一般論的には向いてますが、申しわけないがポップの方が数段うまいです。そう、だからこそですね、老クレンペラーが、それもこのザルツブルグの前の年にですね、ぽっと出のお姉ちゃんだったポップを夜の女王に抜擢している。これはヤクルトが20才の村上を4番にすえたようなもんですが、そんな程度の話じゃない。巨匠にとって人生最後の大事な録音となることがわかっていた「魔笛」だったのです。クレンペラーの慧眼には凄みすら感じますね。というわけで貴重な全曲盤なのですが、このイタリア盤、モノラルは仕方ないとしても録音がボヤッとした音であまりに冴えません。完全に諦めてましたが、ひょっとしてと思いかけてみました。結果は合格。初めて楽しみました。ありがとう。

Klimax LP12、大変な威力です、なにせお蔵入りを次々と蘇生させるんだから悩ましい。手放したくないなあ・・でも来週はドクトル・ファイキャルトが来るんだっけ。困りました。

 

(PS)

なんと、チック・コリア氏が死去?ついさっきニュースで知りびっくりしました。本稿執筆時はつゆしらず、彼のレコードを取り出したのも虫の知らせか・・・?

ハイドン交響曲第100番ト長調(さよならモーツァルト君・その2)

2021 FEB 2 0:00:22 am by 東 賢太郎

(1)モーツァルトからの引用か?

僕にとって『ハイドンとモーツァルトの関係』の研究はライフワークであります。ご両人の主だった作品を頭にインプットしないとできませんから道半ばなのですが、年齢的にデリートもされてゆくことを考慮すると、不完全でも仮説は公表すべきという結論に達しました。今回は前回書いた、

モーツァルト「6つのドイツ舞曲」K.600

とハイドン作品との関係です。ではさっそく本題に入りましょう。

K.600の第2曲のトリオはこうです。

そして第3曲の第2トリオはこうです。

譜面だと分かりにくいので音で聴きましょう。上がこのビデオの2分45秒、下が5分11秒です。(ビデオ1)

どうでしょう。これ、クラシック好きなら「そっくりさん」を思い出すのではないでしょうか?そう、これですね。(ビデオ2)

交響曲第100番「軍隊」の第3楽章 Menuettoの冒頭です。3拍子で弱起から始まるタラララ・タンタンが似ているわけですが、それだけではありません。

まず、何でもないメヌエットに見えるこの楽章にいかにハイドンが卓越した匠の技を駆使しているかご説明します。3部形式A-B-A(Bがトリオ)ですが、Aがまたa-b-a’、Bがb-b’と複合3部形式(入れ子構造)です。繰り返しがあるため、

aba’ba’|bbb’b’|aba’

と演奏します。

前稿で「K.600では第2曲(ヘ長調)の主部後半でやはり主音 f の長三度下の c# が非常に印象的なバスとして初めて出てきます」と書きましたが、100番Mov3主部の主題も、冒頭(aの部分)でコードがG→Dへ進むとバスが半音上がって d# になる(第7、15小節)。これは主音 g の長三度下で、K.600とまったく同じことが行われているのです。

凄いなあと思うのは、a’ではd#に上がらずdのままなんですね(第48小節)。つまり、aのふしはdのままだとまさに何でもないドイツ舞曲なんですが、d#になってにわかに様相が変わる。おやっ、なんか起こりそうだぞとなるのです。この “おやっ” がK.600に3回も出てくる。素人の僕でさえ気がつくんですからハイドンが聴き逃すはずないのです。

bがただの中間部と思ったら大間違いです。むしろaをソナタの提示部とした展開部で、目がくらくらするほどの作曲技法の粋が凝らされた箇所です。四分音符3つの新しい素材、冒頭のタラララ、結尾のタタタタタタという3つの短い素材が組み合わされ、精巧なパズルのように組み変わっていく様は万華鏡を覗いたようであり、最後に、聴き手は拍子もわからなくなります。あまりに技のレベルが高いのでスコアごと挙げさせていただきます(ビデオ2の0分43秒からです)。

Vcのよく響くA線とVn,Vaで同じ音型を拮抗させ、3拍子→2拍子のへミオラを形成して聴き手のリズム感を幻惑します。カルテットではありでしょうが、管が重なるので聴こえにくいVcをオクターブ下のCb+高いFgで補強します。対位法と楽器法をリンクしたこの部分を実演で聴くたびに凄いと感嘆します。この手法はベートーベン、ブラームスに継承されますが、ここの技の決まり方は金メダル級と思います。

このすぐあと、僕の耳にズキっとくる部分があります。ピアノ譜になりますがここです(ビデオ2の0分52秒から)。

この翳りを帯びた半音階和声進行、モーツァルトの戴冠式ミサのクレド、PC24番にもあり、ジュピター第3楽章のob、fgの下降ラインにつく玄妙な和声をも想起させます。非常にモーツァルト的でハイドン的ではなく、プロとしてこれを書くのには勇気が要ったのではないでしょうか。いわば形態模写ですから。

そしてこの部分の後半のオーケストラスコアはこうなっています。

タラララがタララ・タララの3連符になってゆっくり降りてきます。ドミナント(d)に落ち着きますがまだ熱が残っていてバスが2度タラララの断末魔の脈動を見せてこと切れます。ご覧のとおり、効果を高めるためチェロをc線の最低音粋に下げコントラバスとユニゾンにします。ハイドンの欲している音がよくわかります。ここで場面は暗い闇となり、やおら光が差し込んでa’が始まります。この感じはオラトリオ「天地創造」の劇的な “Licht” の部分を思い出し、フリーメーソン的です。これもモーツァルトに通じるものがあります(ハイドンも会員)。

たかが5分の第3楽章にこれだけのものが詰まっています。僕の愛読書、「管弦楽法(ORCHESTRATION)」(ウォルター・ピストン著)の教材にハイドンの引用は2例のみです。多いのはR・シュトラウス、ドビッシー、ラヴェル、ストラヴィンスキー、マーラーで、彼らはピストン教授の教科書だった人たちということでしょう。しかしオーケストラを意のままに鳴らす技法でハイドンはすでに頂点に達していると思うし、それを後世が独立した学科のごとき概念で「管弦楽法」と呼び始め、近代音楽においてそういう技法も聞きどころであるという新たな通念で作曲が為されるようになったわけです。しかし我々がそれを知ったからといって、ハイドンの魅力や技法の価値が微塵も下がるわけではありません。

作曲家でない僕にとっては楽譜という記号から作曲家の意図を読み解く”文法” のひとつにすぎませんが、ハイドンのスコアは意図にきわめて合理的で無駄がなく、数字でいえば「素数」のもう割れないという感じに近い。だから、リバース・エンジニアリングで彼の頭脳にほぼ正確にたどり着くことができると僕は直観しています。『ハイドンとモーツァルトの関係』は、長く生きたハイドン側から探索することになるので、ハイドンのスコアにそういう特性を見出さなければ「さよならモーツァルト君」は与太話にすぎず、その手のものに僕が情熱を傾けることはありません。もちろん、前提には、ハイドンさんの物凄い頭の良さへの敬意があるのですが。

 

(2)ダビデ像のジレンマ

第3楽章の次は、僕の知る限り、考えうるひとつの完璧なソナタ楽章」で、古典派の簡素さと規律の範囲でダビデ像に匹敵する美しさを見る第1楽章について述べてみます。言葉にするのは難しいですが、ハイドンには誰にもない天才的な「音色感覚」と「プロポーション感覚」のようなものがあって、前者の一例が上述の第3楽章の “Licht” なのですが、第1楽章主部の冒頭にもぱっと明るい光がさして金色に変わるところがあります。

ロンドン交響曲は95番以外すべて序奏がありますが、100番では転調を重ねて暗いトンネルに入り込みます。それを抜けると予期せぬフルートとオーボエ2本の合奏がこう始まります。

あるのは楽器音ではなく、あたかも天界から降り注ぐ金銀の光線のようで、聴く者は一気に未知の世界に引き込まれます。この高音のフルートは軍楽隊パレードで鼓笛隊が吹くピッコロを想起させます。「見事なオーケストレーション」と評しても空しいだけですし、ハイドンをそう誉めた人は聞いたことがありません。しかし、これはベルリオーズ、R・コルサコフにも勝る独創、プロの技で、音大でFl,Obの音域や奏法を習って、さあ書いてごらんといって書けるものでもないでしょう。これもオラトリオ「天地創造」の “Licht” の部分を思い出す一例で、ハイドンはそれを意図し、完璧に合理的で無駄はゼロな3重奏でそれを書いた。プロでなければ上の楽譜を見て音響も音色も想像できないし、結果として出てくるスタッカート、トリルのもたらす楽興は信じ難いほど素晴らしい。前言に矛盾しますがこれを「見事なオーケストレーション」とせずして何と評するのでしょう?

「プロポーション感覚」というと、わかりやすい例は八頭身美人です。でもなぜ七、九でなく八なのか?知ってる人は誰もいません。ソナタ形式というプロポーションも、聞く誰もが「美しい」と感じたから後世の作曲家も追随したのです。ミケランジェロがこの像で成し遂げたのと同じことです。どうして美しいかは細部までスペックを定規で計れば解る。しかしその「数値の羅列」のどこに美が宿るのかはいくら数字を眺めても解らないです。つまり美の実体は計測できず、従って、「式」にならないのでコンピューターでも解析できません。ルールが式で書ける将棋やチェスとは違いジレンマがある。例えば「AIがいずれハイドンの曲を作る」という主張には賛同できません。「いや、ハイドンの作曲法にはルールがあるからスパコンならできる」と思われる方には次の事実をお示ししましょう。

百歩譲ってハイドンの作曲法にルールがあったとしても、AIには無理と思うのです。なぜなら「1と自分でしか割れない整数」という数学的ルールがある「素数」に「最大のものがあるか?」「あるならその数は?」という問題をまだコンピューターは解けていません。2018年12月の時点で確認された最大の素数は ”2の82,589,933乗 − 1” で、インターネットを介した分散コンピューティングによって最大の素数を探すプロジェクト「GIMPS」があり、発見者には3000米ドルの懸賞金が出ますが、そこまでやってもまだ解けていない。OK、ではいつの日か、解けて見つかったとしましょう。しかしその素数は、現時点の最大素数が十進法表示で 24,862,048 桁あって400字詰め原稿用紙に書き起こすと5万8000枚になるので、それ以上になります。その「数字」を眺めて「美」を感じる人は稀でしょう。そこには「ダビデ像のジレンマ」が立ちはだかるからです。

ソナタ形式にはルールがありますが、それを守るところに美の根源を追求したのがハイドンです。ルールそのものに、彼だけが発見できた「均整」なるジレンマを超えた解答がある。それが八頭身の「八」ですね。八なる数字に我々の理解が及ぶ意味は見つからないけれど、上述のFl、Obのオーケストレーション同様に「書いてごらんといって書けるものでもない」。僕が書ける言葉は、『彼には天才的な「音色感覚」と「プロポーション感覚」のようなものがあった』ということだけです。一方、後世では主題を3つにしたり提示部を展開させたりとルールを破り、ごてごての管弦楽法の装飾と巨大轟音で聴かせる作曲家が出ました。落語や歌舞伎の「古典」と「新作」にもある問いですが、ダビデの均整のスペックをいじってデブやノッポのダビデも愛でましょうという運動に僕は参画する趣味はありません。

ミケランジェロやハイドンが “感知” したスペックは「誰か」が宇宙の組成に書き込んだもので、人間もそれに従って造られているので、見聞きすればドイツ語で言うStimmt(鍵穴にキーが合ってカチッと音がした気持ち良い状態)となり、その感情を「美」(Schönheit)と呼ぶことにしたのです。僕にはそうとしか説明できない。その「誰か」を神と呼ぶかextraterrestrial life(地球外生命体)と呼ぶか、いずれにせよ、そのようなもの(being)であり、アルベルト・アインシュタインも量子力学が突きつけたジレンマに対して「神はサイコロを振らない」と述懐して亡くなりました。僕はキリスト教徒ではありませんが、何度も書いておりますが後者の信奉者であり、スパコンも人間の創造物である以上extraterrestrialの創造物に属する「ダビデ像のジレンマ」は解けません。ハイドン100番の第1楽章は、バルトークが神かextraterrestrialの創造物である黄金分割に美の根源を求めた方法論から学究的、数学的に検証する価値があるかもしれないと考えます。

その第1楽章をコリン・デービス指揮アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団の演奏でお聴きください。

 

(3)なぜ軍隊交響曲は書かれたか

話題を歴史に変えましょう。ハイドンが「軍隊」という名で呼ばれることになる交響曲をなぜ書いたかです。後期ロンドン交響曲の第1作である99番変ホ長調は1793年の第2回渡英の前にウィーンまたはアイゼンシュタットで書かれています。フランス革命政府が対オーストラリア開戦に踏み切り「フランス革命戦争」が開始された翌年で、当初は優勢だったオーストリア・プロイセン・ドイツ諸侯の軍の形勢はナポレオン軍の侵攻によって劣勢に傾きつつありました。そして革命の火元であるパリでは1月に国王ルイ16世が、そして10月に王妃マリー=アントワネットがコンコルド広場で処刑されます。全欧を震撼させたその1793年に作曲していたのが第99番と第100番でした。

訪英第1期で大成功し期待が高まるロンドンへ乗り込むには何を持っていくか、ハイドンはもちろん周到に考えたでしょう。前回までの路線の曲と、時の時事ネタである戦争を象徴した曲をというのは名案でした。1794年2,3月にハノーヴァー・スクエアで各々を初演し、再登場の挨拶がわりにしたのです。殊に100番の方はハイドンの誕生日であり重みがあったでしょう。彼は神聖ローマ帝国が消滅する3年後の1809年まで生きますが、ナポレオン軍の侵攻でウィーンが陥落する日にも弦楽四重奏曲第77番ハ長調「皇帝」の第2楽章(ドイツ国歌)をピアノで弾き続けて国民に訴えかけていたといわれます。エステルハージ家に長く仕えたオーストリア愛国者であり、体制反逆派であるモーツァルト、ナポレオンに取り入ろうとさえ企てたベートーベンとは真逆の人だったのです。

ハイドンはオスマン・トルコ軍楽隊である「メヘテル」風の楽器(トライアングル、シンバル、バスドラム、ドラムロール)を第2楽章に使います。その響きはこんなものだった。

余談ですがその昔のTVドラマ「阿修羅のごとく」がこれをテーマ曲に使ってましたね。ドラムの粗野で強烈なリズムとシンプルなメロディーは癖になり、だんだん快感になるから不思議です。オーケストラ付きでコンサート風になるとこうなります。ダッタン人の踊りや春の祭典の快感と共通したものがある。

ハイドンがこれを実際に聞いたかどうかはともかく、ウィーンを包囲したハプスブルグの危機は1529年、1683年と二度ありましたが、18世紀末にはその記憶は我が国でいうなら元寇のようなもので、最も直近の墺土戦争(1787-91)もオーストラリアが辛勝しています。だからモーツァルト、ベートーベンがトルコ行進曲、Vn協奏曲5番、第九にそれを使用する頃にはエキゾティシズム喚起が目的だったかもしれません。ただ、ハイドンのロンドン再訪時の欧州大陸の情勢は前回に帰国した1792年とは様変わりの戦時であり、トルコとは関係ありませんがその軍楽をもってフランス革命戦争を象徴することは容易でした。イギリス聴衆が待ち望むエンターテインメントの意味もあったでしょうが、彼らはもちろん凄惨なニュースは知っており、軍楽の部分に大きく反応したという初演時の新聞記事が残っています。

この楽章は1786年作曲の「2つのリラのための協奏曲ト長調」Hob. VIIh-3そのもの(5分47秒から)に軍楽部を付加したものです。これが原曲です。

なんとも意味深ですが、この楽章の題は戦争とは最もかけ離れた「ロマンス」なのです。主部は実に優美でシンプルなメロディーですが何と素晴らしいバス・ラインがついているか!ぜひチェロパートを一緒に歌ってみてください。これに軍楽隊がついてくる。最後のトランペットの前に、すでにですよ。上掲のトルコ軍楽隊の行進の重々しく威圧的なビデオとシンクロさせて聴いてください。笑うしかないでしょう?ハイドン一流の最高のパロディではないですか。

プレストの終楽章は喜遊のムードにあふれ翳りは一切なく、コーダはトルコ楽器を従えて凱旋するように勇壮に終わりますが、それだけにふと短調になってモーツァルト「魔笛」の第2幕で二人の武士が歌う「苦難もてこの道をたどり来るもの」の入りの所が流れる瞬間がとても印象的です。しかしそれもしばしのことですぐ曲調は陽性に転じます。太平洋戦争での大本営発表とまでは申しませんが、この楽章に戦争の悲壮感はありません。オーストラリアを鼓舞し、勝利を確信するようです。

 

(4)コンセプトごとモーツァルトの引用

さて、モーツァルトの引用があるとした第3楽章です。類似点は98番・ジュピターが和声進行だったのに対し主題の音型、リズムです。前者が他人の空似である確率は非常に低いと断言できますが、こちらはそこまでは言えません。弱起でタラララと入る3拍子の曲はあり得るからです。ただ、訪英第1期(1791-1792)と第2期 (1794–1795)の間にウィーンにいたハイドンは盟友モーツァルトの最後の年、自分が不在中だった1791年作曲の楽譜をくまなく観たはずです。そこに 1791年1月29日作曲のK.600 が入っていなかったとは考え難い。98番で論じたようにモーツァルトをロンドンに連れて行かなかった贖罪の意識があるとすれば、畏敬の念をこめて自作に取り込んでダイイング・メッセージとして後世に気持ちを知らしめたいと思って不思議でないと思うのです。

ハイドンにトルコ軍楽を明示的に使った曲はなく、100番は異例です。彼が常駐したエステルハージ公の領地は西部ハンガリーですからオスマン帝国の脅威と隣り合わせで被害もあり、エキゾティシズムでは済まない心理があったのではないでしょうか。かたやザルツブルグ、ウィーンのモーツァルトにとってそれは「トルコ風(アッラ・トゥルカ)」にすぎず、『ピアノソナタ イ長調 K.331』の第3楽章(「トルコ行進曲」)にはずばりそう表記され、『後宮からの誘拐』(1782)は丸ごとトルコ風オペラです。太守の宮殿の番人オスミンのアリア「おれは勝ち誇った気分だぞ」は、恐怖どころかこんなにコミカルになってしまうのです。

「トルコっぽさ」をギャグネタにして笑いまでとってしまう。真面目なハイドンには逆立ちしても真似できない境地ですが、後世にはきっと「これぞモーツァルト!」になるはずだ。そこで彼には異例の「トルコ風(アッラ・トゥルカ)」の持ち込みをして丸ごとトルコ軍楽風交響曲を書いてしまおう。折からの「フランス革命戦争」で聴衆はざわつくだろう。居眠りしてる連中をびっくりさせる効果もあろう。そして、ロンドンの聴衆は気がつかないかもしれないが、後世は100番は丸ごとモーツァルトの形態模写だと気づくだろう。それで彼も浮かばれるだろう。

そう考えることで、なぜハイドンが第1楽章を「軍楽隊パレードで鼓笛隊が吹くピッコロ」でスタートさせ、終楽章のコーダを「トルコ軍の楽器を従えて凱旋する」ように閉じたかがわかります。そして第3楽章には「6つのドイツ舞曲」が聞こえるのです。祖国ドイツの戦勝を祈念するハイドンの祈りの象徴でもあったと思います。

お薦めの演奏ですが、前回に書きました

オイゲン・ヨッフム / ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

モーゲンス・ウェルディケ / ウィーン国立劇場管弦楽団

に加えておきます。

 

コリン・デービス / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

第1,3楽章をすでにお聴きいただきました。僕はロンドンセットをCDで買いましたが、一部LPを持っていて断然そっちが良いのです。長年探してオランダからLP全曲セットをネットで買いました。演奏は「何も足さず何も引かず」です。こういうハイドンをコンセルトヘボウの特等席の音で聴ける。何の不足がありましょう。ヨーロッパにはわかる人だけわかる特級品があります。ぜひ多くの方にじっくりと味わっていただきたいと願います。100番でいうならMov1コーダ、Vnが音階をジェット・コースターよろしく3度跳ねあがって着地した直後のティンパニの梃でも動かぬ泰然自若のリズムに唸るしかありません。ああ苦労して買ってよかった。もうこれだけでアルバムのクオリティが計り知れるというもの。大人の演奏です。

 

フランス・ブリュッヘン / 18世紀オーケストラ

2007年に東京で新日フィルとモーツァルト39番を楽しませてくれた故ブリュッヘンのハイドン。当初は彼のベートーベン、モーツァルトのCDを大事に思っていたのですが、どういうわけかだんだんピッチの低さが気になりだして敬遠してました。今回改めて軍隊を聴き、慣れるよりない、もったいないと思い至ったのです。彼の良さは表現意欲ですね。とても強い。音楽演奏には根源的なものです。僕も100番を愛するので本稿が長文になる、同じことです。ピリオド楽器ですがハイドンの前衛的な所を無用に掘り返さず、トルコ軍のシンバルは派手に鳴らし、僕の書いた仮説の趣旨をよく示してくれると思います。

 

ヘスス・ロペス=コボス / ローザンヌ室内管弦楽団

スペインの指揮者コボスは95年にフランクフルトのアルテ・オーパーで、シンシナティ交響楽団を振ったエロイカが記憶に焼きついています。棒の底でなく上がった所で音が出る指揮法でしたがこのビデオでもそう見え(ハンス・スワロフスキーの弟子)、そのせいなのかエッジが明確でクリアな音造りは一言でいうなら清潔な音です。味気ないわけではなくピッチが良く和音も透明。ラテン的ものを感じ、音楽の造形が立体的。こういう音をオーケストラから引き出すのはとても難しいのではないでしょうか。これらすべてが僕の好みなので彼の指揮ならいつでも聴きたいと願ってましたが3年前に他界されました。この100番もそうですね、オケがいま一つうまくリアライズできていませんが彼のコンセプトは素晴らしく、悔やむしかありません。

ハイドン交響曲第98番変ロ長調(さよならモーツァルト君)

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モーツァルト「6つのドイツ舞曲」K.600

2021 JAN 30 21:21:20 pm by 東 賢太郎

昨夜はヘッドホンでダフニスとクロエを聴いて寝ました。どっぷり仕事モードで来ていて音楽に集中するのは久しぶりです、ひょっとして今年初めてかな。youtubeでエサ・ペッカ・サラステがケルンWDR交響楽団を振ったライブを見つけ、第2組曲と思ったら全曲で全部付き合うことになったのです。

今朝、目覚めると、音楽が頭の中でくっきりと鳴っています。ダフニスではない。あれ、これなんだっけ?

しばし、じっと耳を澄まします。でも名前が出てこない、でも、たぶんモーツァルトだ・・・。

トリオの所まで何度かリプレイして、やっとわかりました。たぶん。youtubeで “それ” を探します。K.600、K.600、え~と・・・・。

プレイ。まちがいない、これだ。この1曲目、しずしず、そろりそろりと半音階で宙に舞ってゆく、なにやら実体のない不思議なメロディーがそれでした。

こういうことは、そうはないのですがたまにある。それで驚いて、5年半前にこのブログを書いたのです。

朝きこえてる音楽の謎

しかし、今回はちがう。ダフニスのどこにも、このメロディーに似たものは出てきません。あの長いフルートのソロかなあ、半音階だらけだしとも思うのですがちょっと飛躍がある。

結果として、今回の犯人捜しはギブアップでした。

K.600は「6つのドイツ舞曲」です。ドイツ舞曲とは何かというと、宮廷舞踏会で2人1組で踊る3拍子の舞曲のことです。1814~15年のウィーン会議がなかなか決着せず「会議は踊る(Der Kongreß tanzt)されど進まず」とフランスの代表タレーランが皮肉を込めて語った言葉はどなたも世界史で習いますね。ナポレオン戦争後の領土ぶんどり会議でなぜ踊ってばかりいたのか理解できていなかったのですが。

現代のダンス・レッスン書

ヨーロッパに住んでわかりました。tanzen(踊る)というのは実に大事なんです(ゲルマン語のそれが訛って英語のdance、つまりダンスになる)。フンパーディンクのオペラ「ヘンゼルとグレーテル」で留守番の二人が ”Tanzen! Tanzen!” と喜々として踊りだしますが、この場面、曲想がにわかに活気づいて頭に焼きついてます。グリム童話が描く農民や木こりの子供たちもダンスは日常の娯楽だったということですね。もちろん現代だって、場違いの僕ですらミュンヘンのオクトーバー・フェストでしこたま飲んで民族衣装のお姉さんたちや見ず知らずのドイツ人酔客とワイワイ騒いで踊ったりはぜんぜん日常の風景です。そして、こういう庶民の娯楽は貴族だってやりたいわけで、宮廷ではそれがどんどん洗練されて作法が確立し、楽曲ができ楽隊が伴奏する舞踏会(Ball)になるのです。

グルックが亡くなって後任の宮廷作曲家になったモーツァルトはその「楽曲」を作らされます。天才にダンス音楽なんて!とモーツァルティアンは怒りをこめて語りますが、彼は踊り好きだったしグルックより安いとはいえ宮廷作曲家は名誉はあるし、しかもそこそこ高給でした。彼が住んだ贅沢なフィガロハウスの家賃が年450グルデンですよ、ちょいちょいと書いて年俸800グルデンもくれるんだから僕ならうれしいですね。彼なら1日で書ける、そのひとつがK.600なのです。さあて、そういう仕事をモーツァルト君はどう仕上げたのかな?どれどれ?僕はいつも彼の書いた音符を音楽家や学者様とは違う目で見ているのです。邪道?でも彼は発注がないと書かないプロ・ミュージシャンですよ。金銭感覚はカネにマニアックに厳しかった父親譲りでバリバリに鋭いことは手紙で明白なのです。この目線だと、発注なしのハイドン・セットと三大交響曲は即座に「異質」だとピンとくるのです。

高校時代にわからなかったウィーン会議に戻ります。この会議はフランス革命とナポレオンが滅茶苦茶にした中世以来の欧州ガバナンス秩序を元に戻そうぜという、いわば王政復古会議だったことを忘れてはなりません。シェーンブルン宮殿で日夜くりひろげられた舞踏会は王政の象徴だったのです。本当に決着がつかなかったのはもちろんですが、そこでじたばたしない。貴族の余裕と風格を見せよう。そこには勝手にぶんどりあいした会議結果を民衆に理解させ、もう革命をさせないぞというメッテルニヒの渾身の策謀があったと思います。ラインラントの貴族で代々外交官の家に生まれたプレイボーイです。手練れの策士ならではの手腕でしたが「ナポレオンが島を出てきたぞ」の知らせで一同びびりまくって、そのムードはあえなく吹っ飛びます。やっぱり貴族制の落日を垣間見せてしまう。そして1848年に、そのウィーン体制は崩壊するのです。

モーツァルト君がお仕事で書いた楽曲はウィーンのホーフブルク王宮内にあるレドゥーテンザールで流れました。これがその1812年の風景です。

Redoutensaal(レドゥーテンザール)

K.600、K.602、K.605を合わせて「12のドイツ舞曲」としてアルタリア社から出版もされたので人気もあったのでしょう。モーツァルト君は受注があればプロの職人として顧客ニーズ次第でどうにでも、まるで仕立て屋が客の体にぴったりの服を作るみたいにTPOにあわせて書けたのです。「カナリア」「ライエル弾き」「そりすべり」なんてニックネーム付きもあって、これらがレントラーやワルツになってヨハン・シュトラウスが出てくるわけです。そしてさらに後世にアメリカのヨハン・シュトラウスであるルロイ・アンダーソンが「そりすべり」を書くわけですね。

踊り手は貴族です。ウィーンに出たて、26才のベートーベンも「6つのドイツ舞曲」を書いていますが、彼もモーツァルトも貴族社会におもねって人気を得ようと思えば避けて通れないジャンルでした。しかしモーツァルト君、いい加減な仕事はできない性分です。しかも、つい1月ほど前に天国的な神品、弦楽五重奏曲 第5番ニ長調 K.593を書いています。だからではないでしょうか、第1曲はこんな風に半音だらけになってしまう(K.593の終楽章ロンド参照)。これぞ、今朝、僕の頭にしつこく鳴ったメロディーだったのです。

たった8小節に g# 以外の12音がぜんぶ出てくる、こんなシェーンベルクみたいなメロディーを書いてしまうのです(ト短調交響曲K.550参照)。モーツァルトの曲は難しくてわからんと敬遠気味だったミーハーの貴族たちにはあんまりなメロディーですがそんなことは意に介さないのです。ちなみに、g# は主音 c の長三度下で、この三度関係は後にベートーベンが偏愛します。欠落したg#は第2トリオのバスに初めて出てきますが、K.600では第2曲(ヘ長調)の主部後半でやはり主音 f の長三度下の c# が非常に印象的なバスとして初めて出てきますし、第3曲でも主部後半に f# が初めて出ます。曲想にインパクトを与えたい場面で、調は違うが主音から同じ周波数比の意外性ある音を初登場させる。モーツァルト君は意識下に調性の均衡感覚があったのだなあと感じ入ります。

このK.600の第2曲、トリオで僕はある発見をしています。まあ、第2の「さよならモーツァルト君」かと。これは次回にします。

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私見”ディープステート”の正体

2021 JAN 26 19:19:36 pm by 東 賢太郎

ロンドンと3回ビデオ会議をしました。毎回2時間ですから昔なら通信費が相当かかったものが今はほぼタダです。こうなると出張は最低限でいいですね。飛行機嫌いなので有難いし、同時に別の案件が走ってますがロンドンへ行ったら物理的にそちらは断念していたでしょう。コロナはライフスタイルも変えましたが、ビジネスシーンも様変わりになっています。

米国大統領選はずいぶんな結果でしたが、これほど背後に見えない力を感じたのは初めてです。トランプの敗北をディープステート論で説明する人たちは、チャイナと左派が米国を乗っ取り世界覇権奪取を目論むのだとしますが、事はそう簡単ではなく、おそらくほとんど誤りに近いと言ってよろしいでしょう。習近平は今回のバイデン政権成立ではしめしめと思ってもこのことでプーチンに勝ったとは思っていないでしょう。ソ連の共産主義をパクった毛沢東を理想とする習政権のチャイナが凌駕できないロシアが、では世界の覇者かというと、ロシアのGDPは日本の3分の1で韓国と変わらず、軍事力と知力(インテリジェンス)はあるかもしれないが経済力なしの国にそれは不可能です。つまり、現状は不完全で過渡的ながら米<中<ロ<米の三つ巴の構図に落ち着きつつある。それはチャイナがGDP世界第2位の経済大国になって完成した、いや、このバランスが都合の良い背後の見えない力が完成させたのです。オバマの8年にわたる「戦略的忍耐」がそれであり、それを継承するバイデン政権が早くもそれを言いだした。これが何なのかという日本国の安全保障にとって極めて重大な示唆を本稿で読み取っていただければ幸甚に思います。

「背後の見えない力」とは、米中欧ロに君臨するスパーパワー(大きな力、以下SPと表記)とでも書くべきものです。それが正確に何かは僕も知る由がありませんが、自分で経験した数多の現象から推察するにそれは確実に存在する(しなくては説明できない)と思っております。本稿の標題は「ディープステート」としましたが、羊頭狗肉と誤解されぬようお断りしておくと、巷に言うそれは存在せず、SPと表現するしかない超国家的(従って超法規的、従って超独禁法的)な利益集団が存在し、トランプがその名称で「敵」としたのは米国内に投影されたSPの影にすぎません(彼は選挙用にそう言いましたが、もちろん全貌を知っている)。その実存を描写しようと試みたのが本稿です。その存在の前にトランプは自身の思いと政治生命とを天秤にかけ、最後の最後に自ら引いたと今のところ僕は思っており、SPにとってはチャイナも米国も手駒であり、共和党、民主党どっちが勝ってもよく、卑近な喩えでなぞらえるなら、巨人と阪神のオーナーが同じ人なら客さえ入れば優勝がどちらだろうと構わないがリーグ全体のバランスは球界の集客には最重要であって、それゆえに世界は米国大統領選挙にまつわる数多の不可解な場面に遭遇したということです。

1月6日の米国議事堂乱入事件は、トランプ大統領が扇動したことにされてしまったため、我が国の二・二六事件のごとき様相を呈することになりました。この事件では雪の日に決起した陸軍青年将校たちの政治訴求を昭和天皇が否定され、結果として彼らは暴徒と見做され、扇動の嫌疑をかけられた皇道派の真崎大将は軍法会議、東京裁判にかけられます。無罪となった理由の詳細は不明ですが陛下にとっては陸軍も海軍も我が軍だったということかもしれません。真崎と同様の立場になったトランプの弾劾裁判はどうなるのか、上院で17名の裏切り者が出るのかどうか。問題の6日の直前に「ペンスは裏切ると彼に確報を伝えたが、彼は何もしなかった」という情報をもらいましたが、これは確かと思われます。

SPをロスチャイルド等のユダヤ財閥やフリーメーソンと憶測する人もいます。ドイツ時代に親しくしていただいた作家のクライン孝子さんからローマクラブ、欧州ペンクラブについて教わりましたが、ドイツ人のご主人がその一人であるペンクラブの会員は彼女以外みなユダヤ系の男性だったそうで、そこだけで語られた話として、ドイツはイスラエル建国に10兆円拠出し、首相交代があると全閣僚にベンツが贈られているそうです。ロスチャイルドは分家していて、僕がロンドンで取引させていただいた時点ではN.M-ロスチャイルド、J-ロスチャイルドに分かれていました。ドルの信用創造権のある米国FRBの株主であり、ロックフェラーと共に世界の金融界を左右する影響力を有すると言うなら誇張でありません。

彼らイコールSPではありませんが主要メンバーではあり、アラブ諸国の資金も関わっていることを僕は事実として知っています。即ちプロテスタント、イスラムもメンバーということであって、これだけの事実からでもユダヤ陰謀論のような単細胞な図式でその存在を解き明かせないことはご理解いただけると思いますし、イスラム原理派と米国が目的さえ共有すれば水面下で共謀可能なこともご納得できましょう。そして、SPに何らかの階層でチャイナが加わったことを今回の米国大統領選で我々はまざまざと見せつけられたわけです。指摘しておきたいことは、SPにはジョージ・オーウェルが『1984年』で描いた「ビッグ・ブラザー」的側面がありますが、単体の存在ではないことです。

すなわち、SPはべつに陰謀や秘密クラブのようなもので意図的に成立したのではなく、カネ+知恵を備えた者たちが権力と利益を追求すれば自然と同じ立ち位置にたどり着き、人種も宗教も関係なくその時々のアドホックな力関係に応じてくっつき合ったものと理解されます。ビジネス界でそのようなことは日常茶飯事であり、人間の習性に起因するのですから国家のレベルでも起きない方が不思議なのです。従ってカネを生む力を持てば仲間に入るか敵対するかしかなく、ちなみに1990年前後の時点でSPにその選択対象と認められた唯一の本邦金融機関は野村證券です。当時僕はロンドン現法の一員でしたから自画自賛になってしまいますが、経常利益が日本企業トップ(5千億円)となった野村が米国を、その経済力の看板である「株式時価総額」で他国(日本株)に抜かれる(歴史上唯一の事例=米国の汚点)ところまで追い込んだことは当時の証券界で否定する者はなく、必然的にそうなったとご理解いただいて間違いないです。

その背景には幸運がありました。高度成長期を経てテクノロジー分野の技術水準と業績が急伸した日本企業の躍進はその規模とインパクトにおいて世界に前例なし。そして、打ち出の小槌となったその株式を類のない規模で輸出する業務も世界に前例なし。僕はその本丸である野村ロンドン現法で、まさにその時点で輸出部門のヘッドだったのです。その流れに乗って野村の国内部門が破格の営業力で株式ブームを先導した日本では「外人買い」と国民的に囃されて株高に拍車がかかり、すべての日本企業が好条件のエクイティ・ファイナンス(株式資金調達)が可能となる結果として小槌の威力を倍加するという無敵のスパイラルを生んだのです。アイデアとして新奇ではないでしょうが、世界で初めて大成功したという意味では「野村モデル」と呼ぶべき手法でした。

その頂点が1990年でした。80年代までの米国の株式ビジネスは、今では信じられないと思いますが「自国中心主義」でまったくグローバルではなく、我々の輸出先は欧州でした。当時の野村でニューヨークの株式部門収益はロンドンの1割もなく、ヘッドの僕が競争相手と思ったことは一度もありません。ところが、日本の株高は不動産価格高騰に火をつけて企業の信用力が飛躍的に増し、銀行が巨額の与信を競争するに至ったことで、ついに米国民の度肝を抜くニュースが駆けめぐります。ロックフェラーセンター、エンパイア・ステート・ビルの日本勢による買収です(1990-91年)。不幸な事件だった9-11の標的にもなったようにニューヨークの摩天楼というものは米国の象徴であり誇りなのです。ロックフェラーを買ったのは三菱地所でしたがエンパイアの方は個人(横井秀樹氏)だったことも時の勢いを象徴していました(ちなみにエンパイアを買い戻した米国人がドナルド・トランプです)。

米国が日本の株高に起因する資金力膨張に危機感を覚えたという指摘がなんら絵空事でないことはお分かりいただけるでしょうか。政府をあげて日本の流動性供給の火元を断つためにBIS基準変更で銀行による信用創造力を破綻させ、ありとあらゆる手を使って経済全部を潰しに来たのはそこからです。それには別の伏線があって、89年のベルリンの壁崩壊、冷戦終結を経て米国は国内最大の問題である双子の赤字に国民の目が向き始めていました。同年に就任した共和党の父ブッシュはパナマ侵攻、湾岸戦争と軍事力による外征に舵を切り、日本を貿易赤字の元凶と見立てて自動車産業の輸出の大幅規制など経済戦争を仕掛けて国民の目を外に向ける戦略を採っていたのです。

日本を円高政策と高圧的な市場開放で壊滅的打撃に追い込んだのは次の民主党クリントン政権(1993-2001)です。かたや日本の政界はバブル崩壊で自民党が迷走し、正念場だった1994-96は社会党・村山内閣になる体たらくであり、米国の圧力に無力でありました。その中で野村が総会屋事件に巻き込まれ社長が3度交代します。証券界全体の不祥事となった損失補填事件は実は野村が沈んだための大幅株安の結末であって、同じ余波として野放図な与信で巨額の不良債権を抱えることとなった銀行がいくつも消え、経営統合による金融再編が起こります(1997-)。思えば1989年に昭和天皇が崩御され平成となった1990年に火種ができたことは時代の転換点として象徴的でした。なぜなら、そこから2000年までの10年間で米国は復活し、日本は凋落したからです。「バブル崩壊」とは株価と不動産の下げだけがズームアップされた国難の日本的な描写名ですが、崩壊したのはバブルでなく日本国でした。その10年をフランクフルト、チューリヒ、香港で送り、英米日の主戦場を離れて弾に当たらなかったのは幸いでしたが、外から眺める母国の景色は灰色でした。

その10年で俄かに勃興したゴールドマンの手法は英国に始まり世界に伝播した民営化の波に乗って、そのIPO株式を打ち出の小槌として世界に売ることです。米国内ではモルガンに勝てなかった会社が他国の株を他国に売って儲けたのです。おそらく皆さんが持たれている米国=グローバルビジネスというイメージの原型はここで生まれました。それは単に、二国間取引だった野村モデルを多国間に転用したものです。金融覇権はシティからウォールストリートに移りつつあったということです。今回の選挙でCCPの大学教授がチャイナとウォールストリートの癒着を語るビデオが明るみに出て、やれディープステートの買収の証拠だと巷で騒がれましたが、中国株IPOを打ち出の小槌として両者が儲ける野村モデルをやってくっついただけのことで何ら特別のことでもありません。法外な貢物をくれるチャイナが仲間としてウェルカムだっただけのことで、SPとはそうした性質のもので、我々は今、その生成の一断面を観察しているということなのです。

トランプ大統領も2016年時点のSPの支持を受けて登場したと考えています。分断を生んだのは彼でなくオバマです。そこを「中国ビッグバン」の大波が襲ったため、ギリシャの労働者と同じくラストベルトの低所得の白人が失業したのです。欧州の移民排斥、英国のBrexitと同じ原因から、米国はアメリカ・ファーストのリーダーを望んだと思われます。そしてプロの政治家ではなく強いアマチュアを選んだのです。トランプは期待に応え公約を次々実行し、まさかと思ったメキシコ国境の壁も造り、毎日ツィートで発信しました。職業政治家、オールドメディアは尊厳をふみにじられます。巨人軍が素人監督率いる阪神にこっぴどくやられたと考えればいいでしょう。「こいつを成功させてはいけない」の機運が高まったのは当然のことです。そして、4年かけて、憎き素人を有無を言わさず監督の座から引きずり下ろす計略が練られたと思われます。

その手口について多くを語るのはやめます。白を黒と何百回も報道して黒にしてしまう、敵の悪口は千回言うが自分に都合悪いものは言わず「なかったことに」で闇に葬る。敵の報道は妨害して同じ手口の反撃手段を封殺する。この手法はチャイナが脱線した電車を土中に埋めてしまうのといっしょという指摘だけで充分でしょう。アメリカ合衆国で起きたこととはとても思えません。感じるのは、トランプを政治的に抹殺するほど憎むおぞましい悪意です。彼を弁護する気はないですが、そこまでの殺意という害毒をバイデン側は世界に撒き散らし、いったい何を目論んだのだろうという気色の悪い疑問符だけが脳裏に残っています。両軍のオーナーであるSPがそこまでの害意を懐いたとは思えませんがトランプ独自の政治意図の拡大が意に添わなくなった可能性は考えられると思います。まあグラウンドの乱闘に背広組がグラウンドで加勢することはありませんが。

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プロコフィエフ「ロメオとジュリエット」作品64

2021 JAN 17 21:21:19 pm by 東 賢太郎

アメリカ大統領選のごたごたはついに人間の持つ畜生にも悖る残忍さ、おぞましさまでもをえぐり出してしまったようです。誰もが知る元大統領や権力者たち、富豪、ハリウッド・スターらが、エプスタインなる狂人の所有したカリブ海に浮かぶ小島へプライベートジェットで飛び、行なったとされる悪魔の所業が真実なら、その忌まわしさはどう文字を書き連ねても形容できるものではありません。

その報道で思い出したのが1980年のアメリカ映画「カリギュラ」です。まだ海外に出る前でショックは大きく、強烈なエログロと狂気に圧倒され吐き気を催しました。「西洋人は上品面してるが仮面を剥げば鬼畜」が第一印象。でも三国志の中国人や織田信長の残虐さも劣らないではないかと思い至り、民族に関わらず、人間は富と権力を握るとそうなるのでなく誰しもその種を持っていると考えるようになりました。のちに5か国でビジネスを取り仕切ることになりますが、カネをやり取りする仕事には目には見えない獣性の闘いのようなものがつきものです。本作がどんなスパイ映画よりリアリズムという側面で人間を活写したという理解は邪魔になるものではなかったように思います。

だた、ひとつだけ困ったことがあったのです。

この音楽、僕にとってしばしの間「カリギュラのテーマ」になってしまい、のちにローマのフォロ・ロマーノでカエサルの神殿の前に立ったとき、いきなり頭の中で誰かがスイッチを入れたようにこれが鳴り出して自分で驚くという体験をします。それ以来、レコードやコンサートで聴くたびにローマを思い出し、その数奇体験が蘇り、また行きたくなり、憑かれたように3回も行ってしまうことになります。

フォロ・ロマーノはいろんな音が聞こえる特別な場所です。現実でなく、頭の中にです。進軍ラッパ、群衆の雄たけび、断末魔の悲鳴、演説、葬送、祈り、そして凱旋門のファンファーレ。血なまぐさく、血の騒ぐ音です。それらは自分の奥深くに潜む秘密のものに共鳴して己の一端を垣間見せます。カリギュラの曽祖父アウグストゥスの別荘から見おろしたこの景色が、なぜだか、強烈に骨の髄から好きで、結局こういう視界の所を東京で探しまくって暮らす羽目になりました。

これに惹かれる自分は、こうでない場所には興味もなく、少なくとも住む気にはならず、きっとそれには何か理由があると思うのです。忍者漫画の殺し合いに熱中して育ち、野球は打者との決闘だけが楽しく、職業はディールに明け暮れてもう40年になります。それと無縁でないのでしょうか。選んでそうなったのでなく、血が騒いで導かれたということかもしれません。

「中国で犬を連れて散歩すると『おいしそうですね』と誉めてくれる。四つ足を見るとまず食べられるかなと考えるんだよ」と話す北京大学に留学した先輩に驚きましたが、東京にこんなにカラスや鳩がいるのは「きっと不味いからだ」と結論する自分もいたのです。英国ではBBCのアニマル・プラネットが好きでした。獲物を横取りし子供を殺すハイエナを雄ライオンが捕らえて嚙み殺すと、バットを持てばライオンに助太刀できると思う自分もおりました。

セルゲイ・プロコフィエフが「ロメオとジュリエット」のバレエに着想したその音楽はところどころロマン派の残照の仮面を被っており、1935-36年という作曲年代からすればこの人が前衛の道に入りきれなかったことを後半の交響曲と同じく開示しているように思います。しかし、その仮面の裏にはおぞましき獣性が潜んでおり、仮面の表情にも暗部が滲み出て能楽の面が死を暗示するかのような二面性を帯びている、そこに僕は強く引きつけられます。こういう背筋の凍るような音楽を書くことにおいてプロコフィエフほど長けた人はおりません。

シェークスピアの戯曲「ロメオとジュリエット」はベルリオーズ、グノー、チャイコフスキー、ディーリアスらの作品からフランコ・ゼフィレッリの映画まで数多の芸術家を魅了しており、文学的な評価は他に譲りますがインスピレーションに富む題材であることは否定できません。ロマンスに悲劇の暗示を盛り込む手法はチャイコフスキー作品(1869-70)に萌芽が見られ、レナード・バーンスタインも本作に着想したミュージカル「ウェストサイド・ストーリー」(1957)でライトモティーフを駆使してコラージュ風にそれを達成しています。

一方でプロコフィエフはロマン派風に見える仮面に死相を暗示してバレエ全編に闇の影を投影します。誤解を恐れず書けば「ホラー的」なのです。その恐ろしさは独特で、安物のホラーが恐怖を与えるユニークな媒体を作ろうと腐心するのに対し、彼は陳腐な媒体(例・古典交響曲のガヴォット)がお門違いな所に置かれ、どこにいて何をしていたか錯乱する「認識の裁断」を恐怖に仕立てます。聴くものは瞬時には解せず暫くして鳥肌が立ち、映画なら「猿の惑星」や「シックス・センス」のラストシーンを想起させます。ロマン派風楽想が思わぬ音階、奇怪なリズム、和声で転々とし、構造に革命はないが劇場的であるという意味で21世紀になってもなお現代的です。

多くの方はカリギュラに使われた音楽を、作曲者が1937年に編んだ第2組曲(Op. 64ter)の第1曲「モンターギュー家とキャピュレット家」として知っておられましょうが、原作のバレエでは違います。まず組曲版冒頭は原曲では第1幕第7曲「大公の宣言」(The Prince Gives His Order)であり、下のロシア語版スコアではThe Duke’s Commandとなっています。僕も第2組曲から入りましたが、他の何よりこの17小節が強烈なインパクトとなって今もそのまま残っています。バレエ版で中世的なガヴォットや優美なバルコニー・シーンがこの後に出てくる「お門違い」ぶりを体験していただければ言っていることがお分かりいただけると思います。

『ロメオとジュリエット』 作品64 第1幕第7曲 大公の宣言

ホルンのF,E,Dにトロンボーン+チューバのCが加わったクラスターがクレッシェンドし、Cis,Disを除く忌まわしい10音クラスターの爆発となり、それが消えるや影だった弦5部のロ短調の清澄な和声がpppでひっそりと残ります。これが「認識の裁断」で、爆発のおぞましい残像だけが人魂の様に宙を浮遊します。類似して聞こえる春の祭典に複調はあっても意外にクラスターはなく、これはプロコフィエフ的発想の和声です。

音でお聴きください。

この後に、プロコフィエフは皆さまがテレビCMなどでおなじみの第1幕第13曲「騎士たちの踊り」の中間部を少々削って接続し、第2組曲第1曲「モンターギュー家とキャピュレット家」としたのです。こちらはピアノ譜でいいでしょう。

マニアックな事ですが、これを繋げて違和感がないのは秘密があります。ご覧のとおり旋律がEm、Bmで続きますが「大公の宣言」の10音クラスターはEm+Bmのポリトーナル(複調)にC、F、Gisを各々短2度で衝突させたもので、つまり既にホ短調、ロ短調を含んでいたのです。まるで高精度半導体の集積回路を紐解くようで、プロコフィエフがそう意図したどうかはともかく良いものはよくできていると思います。

この曲、シンプルで無性格な分散和音の旋律(右手)をドスの効いたチューバの最低音域の「単三度悪辣パワー」(参照:春の祭典の生贄の踊りのティンパニ)全開のバス(左手)が突き上げ、複雑な音も不協和音もないのに両者のミスマッチが際立っているために一度聴けば忘れない狂気が生まれているのです。これをカリギュラに使ったセンスは抜群でまぎれもなく悪党の音楽に聴こえるのですが、バレエではこういう場面でロメオもジュリエットも舞うのです。

ではいよいよ第2組曲の「モンターギュー家とキャピュレット家」です。組曲としておすすめしたいのはリッカルド・ムーティ/ フィラデルフィア管弦楽団のEMI盤で第1組曲も入っています。1981年2月録音で、その翌年から2年間僕は定期会員としてこのコンビを聴きました。この演奏は当時の彼らのベストフォームを記録した録音として、レスピーギの三部作と並び1,2を争うものと断言できます。

カリギュラがした放縦は過去ですし、現代であっても芸術に狂気は許されましょう。しかし、無尽蔵のカネと権力にあかせて現実に何でもできると考える連中は人間の形をした悪魔です。全員ひっとらえてグァンタナモ米軍基地収容所にぶちこんで頂きたいと存じます。

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日本のテレビニュースは天気予報ばっかり

2021 JAN 15 9:09:10 am by 東 賢太郎

昔から不思議だなあと思うのですが、日本のテレビニュースは天気予報ばっかりやってる感じがする。スマホで5秒で見られる時代にどの局もそうです。だからどこかで大雪でも降ろうものなら世界の一大事かぐらい大変なことになる。

もちろんそれが知りたい方もおられるし、平和の証としては良いことなんでしょうが、問題はコロナ対策も似た感じがすることです。

緊急事態宣言が遅いだの範囲はどうするのとやってますが、菅総理の会見を聞いていると関心は休業補償と政権支持率であって科学的根拠の理解度というと天気予報の延長ぐらいしかないだろう。専門家の意見を聞いて慎重にというが、桜の開花宣言を国交省の外局である気象庁にやらせるのと同じノリに見えるのです。

やらされる気象庁は役所だから根拠とデータの一貫性が必要で、東京は靖国神社の特定の木で決めてる。でも桜なんか何万もあるのに何故その一本?と聞かれても科学的根拠などあるはずもないし聞くのもあほらしい。でも「専門家が決めました」にはなるわけで、テレビはそう報道してお茶の間は満足するのです。

コロナはそうはいかんわけです。

緊急事態宣言を発出したのでビジネスの入国も制限します

桜の開花宣言を発出したので千鳥ヶ淵の車の乗り入れは制限します

おい、ほぼおんなじじゃないか、こりゃあいかんぜよ。

コロナウィルスは日本起源じゃあないわけで、要は、国に入れなければ緊急事態宣言もいらなかったわけです。こんなことは猿でもわかる。

英国で変異株のウィルスが出てきている。これは去年の12月19日に英国政府が発表していて、もう世界にそこそこ蔓延していると思われます。また、中国政府の発表によれば北京に近い河北省でコロナ騒ぎとなっていて、2万人も集団隔離し全市民1100万人への強制PCR検査をしてます。

こういう重大な情報があるのに「国内でまだ患者は出てないでしょ」と入国は禁止せずザルのままにする。日本人は締め付けておいて「ビジネス客」の外人が浅草で観光してる。よって時間の問題で患者は必ず出るわけですが、出たら「専門家の意見を聞いて慎重に対応」するんです。この「出たら」のノリの羽毛のごとき軽さですね、すごいもんです、科学的知見のかけらのニオイもない。

つまり緊急事態宣言を発出するような状況を待って役所が確認してということであり、逆に「出たら」すぐに緊急事態宣言を発出しますよということでもあり、ということは要するに、本来まったくどうでもいい桜の開花宣言となんも変わらんということなのです。それで休業させられる飲食業は気の毒でしかなく、怒るのは当然でありましょう。

休業補償と政権支持率(要は国民の顔色)で出たり出なかったりする緊急事態宣言で入国制限を決める。この犬でもわかる本末転倒は科学的知見なんてレベルの話じゃない。国民が血相変えて「入れるな」と怒ってるのに入れてるわけで、だからしっかり菅政権支持率も落ちてるわけで、そこまでしても入国させたいのか、その理由は何なんだ?という国民的詮索が進んでいる。

いまアメリカの政治に「大変調」がおきてます。民間企業であるメディアとGAFAが現職大統領のアカウントを削除するなどの言論封殺をする前代未聞の場外乱闘状態であり、独禁法を厳格に適用して各社を分解すべきである。日本のメディアもその下請けだからどこも報道しません。しかし、日本はさらに特殊事情があって、もともとニュース番組は天気予報ばっかりだからそれが目立ちすらしないという恐るべきお花畑状態であるのです。

そんな情報しかない国民が今年の選挙で事態を変えられるのだろうか?このまんま行くと50年後に日本国はあるんだろうか?本気で心配です。

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脳と宇宙の構造は似ている

2021 JAN 11 18:18:13 pm by 東 賢太郎

こんな記事がニューズウィークにあるよと教えてもらいました。

 

やはり、脳と宇宙の構造は似ている……最新研究(2020年11月20日(金)12時00分、Newsweek日本語版、松岡由希子)

<宇宙網と脳の自己組織化は、同様のネットワーク力学の原理によって形成されている可能性がある、との研究が発表された……>伊ボローニャ大学の天体物理学者フランコ・バッツァ准教授と伊ヴェローナ大学の脳神経外科医アルベルト・フェレッティ准教授の研究チームは、宇宙学と神経外科学の観点から定量分析を行い、銀河がつながる水素ガスの大規模構造の宇宙網とヒトの脳の神経回路網(ニューラルネットワーク)を比較した。

(同記事より引用)

 

これは僕が2017年12月10日に書いたブログです。

座右の書と宇宙の関係

 

「絵柄もそうだし、目ん玉のビデオまでついてますよ、パクリでしょ」

「科学者が真面目に研究してるようなことを素人が思いつくってのはたまにあるらしいよ」

「中身じゃないんです記事ですよ、”脳 と 宇宙” が似てるのとおんなじぐらい似てますが」

「あっそう、ならその人いいセンスしてるじゃない、うれしいね」

というやりとりでございました。まあどうでもいいね。

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