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自由が丘を走っての軍事的雑感

2024 SEP 16 1:01:15 am by 東 賢太郎

人間ドックで体重を5キロ落とせと言われた。2年ご無沙汰だったのは採血と胃カメラが嫌なのもあるが、コロナ入院から解放されて安心してしまっていた。その間にあれだこれだの数値がメタボ級になっており「このままだと糖尿まっしぐらですよ」と脅かされ、「5キロ落とせばみんな戻るでしょう」と励まされる結末に至った。ものぐさなのでシンプルな解決が好きである。よし、それならという気になった。

土手で転んだ傷もきれいになった。夜の9時ごろからのジョギングを再開したが、川は懲りたのでとりあえず自由が丘を目ざすことにした。この街、通過はすれどよく知らない。故中村順一が近くなので詳しく、行きつけの緑道沿いのナポリタンの旨い店とバーに行ったぐらいか。通りの表裏に居酒屋、ショットバー、あまり気取ってないイタリアン、フレンチもあったりと、世間ではこじゃれたイメージがあるが、江戸の老舗や個性的な中華などはないからあんまり興味ないというのが本音である。

駅前のロータリーから東横線のガードをくぐる。ラーメン屋、てんぷら屋のあたりにかけて看板やチラシを手にした男女がずらっと並んで客引きに忙しい。このごちゃごちゃした小路、「美観街」とあるがウィットだろうか。「自由」ってのも「なんたらが丘」ってのも、この辺は東急が開発するまで野っぱらだからで、良くも悪くも毒がない。新宿、渋谷、池袋あたりの裏路地のヤバそうなムードはないが、水清くして魚棲まずの感無きにしも非ずである。新しい街の住人はみな「移民」である。地縁がないからつき合いも希薄で共同体より個の意識が強い。ざっくりいえば、徳川時代の江戸だった東京の北東は村社会的で、南西は都会的だ。都会は個を気ままに貫けるが助け合いより競争的である。

自由通りの方に進むと、やおら高校生らしき男女が道にあふれ出てきた。9時半を回ってる。線路のあたりに駿台、河合塾、四谷学院、Z会などがこうこうと明かりをともしており、一斉に授業がはねたものと思われる。あたりに幼稚園の予備校まである。一緒に祭りの神輿をかつぐなんて土地柄でなく、都会の住民の子たちであろう。クモの子を散らすように猛スピードで暗がりに散っていった彼らは、本当に勉学が好きなのか親の管理下でそうなってるのか。ふと思い浮かべたのは「猫カフェ」だ。あんまりじゃれない猫たち。奔放にお客に嚙みついたりひっかいたりすると営業に向かないのだ、可愛そうにともう行ってない。

面白そうなのも見つけた。朝8時閉店までどうぞ、気絶するまで営業します!という人情居酒屋だ。こういうのがあるだけで元気をもらえる。それにしても徹夜で焼酎飲んで朝飯食って帰る奴ってどんなだろう、よほどの時差ボケか昼夜逆転した人か、いやいやそれでも普通は朝まで飲まないだろう。あんまりまじめなイメージはないが人間は面白いんじゃないか。イタリアみたいだなあと思う。奴らは明るくて遊び好きだ。クソまじめなドイツ人より面白いと思っていたらそのドイツ人だってアルプスを越えるとなぜか明るくなると自分で言ってたっけ。オペラやサッカーが11時ぐらいにはねてから騒いで朝帰りなんてあたりまえで元気であり、それでも優秀な奴がたくさんいたし、そんな中からヴェルディもプッチーニも出た。間違いない。人間力をつけるのは断然遊びだ。

このあたりに住んだのはプライベートは静かな処でと思ったからだが、転んで死んでても朝まで発見されないぐらい静かである。時に人恋しくなる。そういえば浅草は良かったぞ。演芸やお笑いが好きで仕方ない連中がたむろす人情味どろどろの世界で、恋も喧嘩もいいじゃないか、人間は持って生まれたものを全開にして生きた方がパワーも出るし幸せだ。落語、義太夫、見世物、そんな地酒、どぶろくの中にワインみたいなオペラを持ってくるとスッペのボッカチオが「ベアトリ姉ちゃん」に化ける。種子が根づいたのは鹿鳴館じゃない、パワー全開で人間くさい浅草だった。いやスッペなんてウィーンのどぶろくみたいなもんで、そういうかっこつけない生き方こそ正統派と思う。

明治の大衆はエネルギッシュだった。これがあったから日本は強国になれた。廃藩置県で幕藩体制が壊れ、刀もちょんまげも取り上げられたのだから武士の剣術でそうなったわけではない。ただ武士の子は藩校という世界に例のないエリート養成学校で幼時から文武を叩きこまれ、文にも武にもインテリジェンスのある傑物がいた。米英仏の口車で再三そそのかされても内戦をせず、無血開城で江戸を火の海にしなかった西郷と勝はそれであり、植民地にされる瀬戸際で命を賭したからそうなれたのであり、こういう者をエリートという。ガリ勉していい地位について国を売ってでも私益だけは守ろうなどという者を大量生産するなら、それは教育と呼ばない。

日本は西洋から船で来れば最も僻地である。米国からも遠い。外圧を防ぐ地の利はあったが、それでも薩長は大変にアウエーである英国と戦火を交え、ホームで大敗を喫した。弱かったからではない。徳川の世で戦さがなくなり、種子島の火縄銃を数日でコピーする知恵と器用さがありながら技術を進化させるには欧州に周回後れをとっており、気がついたらアームストロング砲の時代だったからである。だから両藩のインテリジェンスに攘夷などという言葉は最早ない。公武合体派の薩摩は薩長同盟で倒幕に切り替え、そこに「尊王」という定冠詞をまぶし国民国家の宣言となる王政復古の大号令を発して慶喜を賊軍に押しやった。我が国に王政の時代などなかったからこれは官軍の旗と同じくフェークであったがこういうことはやったもん勝ちである。

欧米は日本の何倍も大きい中国の解体を狙い、日本はそのための闘犬に仕立てるべく開国させて不平等条約で囲い込む戦略で一致した。明治新政府の「富国強兵」とは武器開発の後れをリカバーし、犬でなく人に昇格するインテリジェンスであり、これなくして不平等条約のタガがはずれることはなかった。その証拠に、英国が条約改正したのは日清戦争に勝って軍事力を認めてからである。これを愛国ともいえるが、犬扱いされた人間の当然のプライド、自尊心である。それを勝ち取るには軍事力が必要。きれいごとではないこと、実効性があることを北朝鮮が実証している。さらに闘犬は猛々しく露西亜も破り種子島での能力が伊達でないことを見せつける。これは欧米を恐怖させ、ワシントン海軍軍縮条約で主力艦の総トン数比率を米・英・日・仏・伊の軍縮に至り、対英米6割という屈辱を甘んじて受けたものの三大列強の一角になったのだから驚くべきことだ。戦後の高度成長は朝鮮特需であって新技術、新製品があったわけではない、まったくのアメリカさんの都合、棚ぼたであり、それを短期に供給できたことぐらいだ。我々が真に世界に誇るべきは近代国家の創成期に、短期間に軍艦建造大国になった工学力、つまり理系の技術である。

戦艦大和(左)と武蔵

この過程で米国が将来的な仮想敵国となるであろう事を軍部は強く意識した。統帥権干犯問題を盾に単独行動を強化し、国際連盟脱退、ロンドン海軍軍縮会議脱退から巨大戦艦の「大和」と「武蔵」の建造を開始、そして、その行く末に対米戦争に至るのである。この戦争の終結において米国は総トン数から核弾頭数へと武器のフェーズを更新し、英国を蹴落として世界覇権を奪取した。それをもたらしたのは核開発に枢要な理系人材の確保であり、敵国ドイツでナチに殺されかねなかったアインシュタインらユダヤ人物理学者を迎え入れアメリカ国籍も与える戦略をとった。同じことが音楽界でもおき、ユダヤ系のワルター、クレンペラー、シェーンベルクなどが続々と米国に亡命した。日本は法律も科学も欧米から輸入しひたすら翻訳、コピーした。だから東大という富国強兵のための官僚を作る大学の学部は法医工文の序列になり、法は不平等条約改正、工は軍艦や兵器の製造(工学部が大学に入ったのは日本だけだ)、文は洋書の翻訳だった。いまだに序列はそのままだ。東大法学部卒は海外へ出ると何でもないが国内では幅を利かすルーツはここにある。

政治家に理系がおらず、そうでなくとも思考訓練をしていればいいのだがそれもなく、ド文系が国を支配しているルーツも無縁ではない。これは「世の中は理屈じゃない」と神風を信じる日本人の精神構造そのものにも膾炙しており、政治家に理系が揃う中国はそれを是非とも温存させたいだろう。日本は欧米の科学を迅速にコピーして世界をあっといわせたが、それにかまけて最先端の基礎理論から自らの手で新技術を生むことを重視しなかった。ナチスに迫害されていた多くのユダヤ人にビザを発給し、彼らの亡命を手助けしたことで「東洋のシンドラー」と呼ばれた外交官、杉原千畝がいたのだからドイツ人物理学者は日本が保護する可能性もあっただろう。核爆弾はドイツも日本も研究しており、先に開発すれば広島・長崎は救われた。こういう手は奇策でも謀略でも何でもない、いわば喧嘩に勝つ悪知恵を考えて巧妙に手を回すインテリジェンスであり、米国ならCIAが堂々としてることで、だからその “I” が名称に入っているのである。杉原の善行を汚すことにはならない、なぜなら外国との虚々実々の立ち回りはそういうもののオンパレードであることは外国に住んで厳しいビジネスをした者にとっては常識であって、それでこそ国も助けた、国益に資する行為だったとなり、日本人は侮れぬと一目置く国際評価になるのである。「日本人はいい人だ」ではなんにもならないのだ。

くりかえす。米国にあって日本になかったのは情報(information)以前に諜報(intelligence)だ。真のインテリがいなかったのである。こういうことは学校でも塾でも教えない。わかるのは喧嘩や野球をしたり麻雀をしたりの「遊びの場」であると実体験から僕は確信する。秀才だけ何人いても国はだめなのだ。神国日本を信じ、理屈が嫌い、欧米が嫌いで反知性主義に傾きがちな保守的国民もそれで良しとした。そして、その嫌いな最先端科学技術で無抵抗に殺されたのである。無学の大衆は仕方ない、これは文系エリートの大失策である。最強の武器を持てば襲われることはない。自ら襲うことをせず日本人が古来より誇る賢さと謙虚さで生きていけば国民は安寧に生きていける。保守的国民、大いにけっこうだ(僕もその一部ではある)。しかしこれぞ幕末の「尊王攘夷」なのである。薩長は幕府に先駆けて英国と殴り合いの喧嘩をし、勝てないと知った。これがintelligenceであり、勝てない喧嘩をするのはただの馬鹿である。半藤一利氏は薩長史観を否定し尊王攘夷は倒幕の口実とする。その結果起きた戊辰戦争は暴徒と化した新政府軍の東北、越後への侵略戦争になってしまったという部分は同意するにせよ、薩長が動かねば国ごと英米の謀略と武力でじわじわと侵略され、明治維新などと美名がたつ国造りなどおぼつかなかった可能性がある。

「大和」と「武蔵」。僕は英国のヨークにある鉄道博物館で、新技術だった電気機関車にとってかわられる前、1938年に時速203キロを記録した最新式蒸気機関車マラード号を見た。この数字は驚愕だった。

ヨークの国立鉄道博物館に展示されているマラード

マラードの速度記録銘板

ひとめで「戦艦大和」だと思った。奇しくも大和の起工は1937年である。英国の凋落、米国の勃興の象徴。新幹線ができる26年前に200キロ出した機関車を生む技術、安全走行させる保線技術もが世界一でないはずがない。きかんしゃトーマスのスペンサーとして今も愛されており、現在もマラード号の記録は破られておらず、ギネス世界記録にも「世界最速の蒸気機関車」として認定されている。しかし、電気機関車の出現で1963年に消える。時代遅れの技術で最先端に立っても意味ないばかりか、依存してしまえば自信をこめて国運を過つのである。世界に冠たる大和、武蔵は世界一のスペックを誇る戦艦であったが、完成したその頃に海戦の主役は戦艦から空母機に代わり、沖縄へ向かう途上に多数の米軍艦載機による攻撃を受けて鹿児島県の坊岬沖で撃沈された。だから国民を安寧に生活させるためには常に最先端で競って勝っていなくてはならないのは自明であり、なぜ2番じゃダメなんですかという馬鹿な女が政治家をやり、1番は保安官におまかせなどという精神構造が国民にできてしまえば、それだけで国家の滅亡は予定されたようなものである。

いま海軍軍縮条約は核軍縮条約になり、国際法はあっても拘束力は何もない。無法者が何千発でも核弾頭を装備しいつでもミサイルをぶっ放せる中で核保有なしというのは、西部劇で「殺し合いはいけません」と銃を持たない処女ばかりが住んでいる清廉な街のようなもので、それが今の日本である。守ってる保安官は実は自分たちを襲った奴であり、そいつは他の街で喧嘩を煽って何十万人も殺してる。こんなお人よしの街はないだろうというと、世界史上に前例がひとつだけある。カルタゴだ。案の定、いちゃもんをつけられ保安官のはずだったローマに撃ち殺されて歴史から消えた。いま総理になるとかならないとか言われてる連中はカルタゴの名前ぐらいは知ってるんだろうか、いやそれも危なそうだと不安になるのがちゃんと総裁候補に用意されているではないか。イケメン俳優で台本どおりにもっともらしくセリフを吐くのだけがうまく、何も考えずに保安官が飲み食いしまくった領収書を経理部である国会に通すだけ、それでも国民から人気をとる芸がうまい。すばらしい。保安官からすれば、日本国民から税金を巻き上げて何も考えずに自分に貢いでくれる、そういう壮絶な馬鹿をおだてて総理に祭り上げてもらうのが何よりありがたい。幸い国民はそこまで馬鹿でない。そんな職業に就きたくないから傑物が政治家にならない。政治は互助会みたいなファミリービジネス化して、ビジネスだから株主利益追求が目的となり国民の命などどうでもよい。これを変えるに派閥潰しなどは国民の目くらましで何の意味もない。我々は真剣に選挙制度を根底から変えないとだめだ。西郷や勝のような傑物が政治家を志し、金も地位もない身でも総理大臣になれる制度を作ろう、そういう国会議員、まずそれに命をかける議員を選べばいい。

自由が丘で夜の9時半まで塾でがんばってる子たち、勉強は大事だよ、塾通いも結構。しかし勉強は偏差値を上げるためじゃなく、インテリジェンスをつけるためにするのだ。ぜひエリートになってください。

 

読響 第641回定期演奏会

2024 SEP 12 7:07:27 am by 東 賢太郎

9月5日にこういうものを聴いた。

指揮=マクシム・エメリャニチェフ
チェンバロ=マハン・エスファハニ

メンデルスゾーン:序曲「フィンガルの洞窟」作品26
スルンカ:チェンバロ協奏曲「スタンドスティル」(日本初演)
シューベルト:交響曲第8番 ハ長調 D944「グレイト」

二人の若い演奏家の嬉々とした音楽を楽しんだ。生年を見るとフルトヴェングラーやバックハウスのちょうど100才ほど下だ。1世紀たって演奏スタイルや聴衆の好みは変わるがメンデルスゾーンやシューベルトの音楽の本質は微動だにしていない。これから1世紀たってもしていないだろう。2、30年もすれば彼らは先人と同様の大家の列に加わっているだろうが、その若き日の一端をここに記しておくことは何がしかの意味があるかもしれない。

エスファハニが弾いた楽器は何だろうか実に心地よい音で、これならゴールドベルクで眠れるなと悟った。バッハは楽器指定がないから現代ピアノでも許されようが、この音を聴くとやっぱり別の流儀のものだ。スルンカはチェンバロの構造上の音価の制約に着目しているが、その楽器と音価をペダルでコントロールできる楽器では別物の音楽というべきだろう。同曲はチェンバロの機能の極限まで、弦をはじかないカタカタという極北の音響までをコンチェルトという古典的器に盛り込んだ意欲作だ。頭脳で作った即物感はあるものの、12音というデジタル情報で出来た音楽が甘い旋律となって人を酔わせるいかにもアナログ的な効果というものは、ゲノムにあるAGTC4種のデジタル記号から人間というどう見てもアナログ的な存在ができる現象に似ていると思っているのだからメンデルスゾーンのあのコンチェルトが彼の頭脳の産物であって違和感を持ついわれはない。エスファハニがアンコールで弾いた古典も見事でいつまでも聴いていたい嫋やかさだったが、スルンカで開陳した技術、技法の極北的理解は凄みすらあった。

エメリャニチェフはベルリンフィルに登場もして欧州楽壇の寵児らしい。オケは厳密に古楽器奏法かは知らないがアプローチはそれに近い。それでグレートを聴くのは初めてであった。12型でコントラバス4本だと聞きなれたピラミッド型のバランスより弦合奏に透明感が増し、2管編成ではあるが交響曲ではベートーベンが5番で初めて使用したトロンボーンを3本も使っており薄めの弦に対しとても目立つ。使用法も和声ばかりでなくバスラインをなぞったりする場面は極端にいうならトロンボーン協奏曲のようで、同様の印象をショパンの第2協奏曲で1本だけ投入されているバス・トロンボーンで懐いたことがある。両曲はほぼ作曲年代は同じである。

グレートが「グムンデン・ガスタイン交響曲」という説が有力になっているが、スイス時代に母と家族でそのグムンデンに一泊したことがある。ザルツ・カンマーグートの湖畔の愛らしい陶器の街であり、この曲にはその想い出とウィーン楽友協会アルヒーフでシューベルトが提出したそのスコアを眼前で見せてもらった想い出が交錯する。

グムンデン

エメリャニチェフの演奏がシューベルトの意図した音に近いなら新しい経験であったが、Mov1提示部の入りにかけてアッチェレランドがかかるなどロマン派由来と思われる解釈も混入し、博物館の指揮者というわけではない。溌溂とした生命感をえぐり出してみせ、同曲ではかつて覚えのない興奮、高潮で会場を沸かせたのは個性と評価する。この曲は死の兆しが見え隠れする内面世界が希薄で、それに満ちたゆえか放棄してしまった未完成交響曲とは対照的な陽性が支配する。形式的な対比としての短調主題はあるが病魔のおぞましさの陰はないのだからそれでよい。もちろん死の3年前の作曲だからなかったはずはなく、ベートーベンを意識し「大きなシンフォニーへの道を切拓かなくては」と芽生えた大義へのこだわりと気概がそれに蓋をして封じ込め、束の間の躁状態を生んだと思われる。彼はモーツァルト、ベートーベンの全国区的スター性はなくアマチュアと認識されていたから大規模管弦楽作品である大交響曲を権威の殿堂である楽友協会に提出し、受理されアルヒーフに保管されたいという願望があった。寿命が尽きることを悟っていた彼にとって謝礼は少額で演奏もされなかったことは大きな問題ではあるまい。ただ、僕が見た自筆スコアがそれなのだろうが、シューマンが発見しメンデルスゾーンに送って彼の指揮でゲヴァントハウスで初演がなされたそれは兄が管理する「シューベルト宅の机の上」にあったのだ。大規模への拡大の象徴が3本のトロンボーンであるが、この楽器は教会音楽においては死の象徴だ。

 

ケイスケくん、天国に帰る

2024 SEP 11 3:03:29 am by 東 賢太郎

柏崎家の愛猫ケイスケが旅立った。8年前に初対面でいきなり意気投合したのがお互いの猫のことである。写真を見てピーンときて「いい猫ですね!」とだけ言った。悪い猫はいないが、僕のいい猫は最上級の賛辞である。

いい猫ですね!

ケイスケが発端で話が盛り上がってこの話題になった。

イリオモテヤマネコ

そこで山猫が見たくなり、年末に猫好きの娘たちと本当に行ってしまった。

西表島(いりおもてじま)紀行

新しい人には毎年たくさんお会いするがこれは珍しい。ケイスケの写真が猫モードにいざなってくれたからであり、そこから柏崎氏とは関係が深まり、その延長線上で今年に紹介してくれた大きな案件に一緒に取り組んでいる。こういうのは計画でも理屈でもなく「もってる」という。ケイスケは神様に大仕事を託され、よくやったと呼び戻されたのだろう。ありがとう、天国から見ていてください。

僕が聴いた名演奏家たち(テオ・アダム)

2024 SEP 2 3:03:46 am by 東 賢太郎

オペラは劇でもある。だから配役の人物像はとりあえず役者(歌手)のイメージからできることになる。聴くだけの人としては万人がたぶん同じであり、どうやってその作品を知ったかという各人の自分史だから全部同じということはまずない。LPの時代はオペラのレコードは高価だったし、どれを買うかとなればいっぱしの投資であって、レコ芸の高崎保男さんの意見は大きかったから読者は似通った選択にはなったろう。個性が出るポイントはそこからで、じゃあ別な盤はどうだろうと浮気する好奇心にあかせてあれこれ録音を渉猟し、実演もきいたりして耳が肥え、フィガロや椿姫は誰々じゃないとだめだなんてことになってくる。

これはなにも難しいことでもお高くとまったことでもない、僕の親父が大石内蔵助は長谷川一夫、平清盛は仲代達矢だったし、僕は財前教授は田宮二郎であり、黒革の手帳の原口元子は米倉涼子、金田一耕助は古谷一行じゃないと感じ出ないよねなんて言って爺扱いされ、いまの子は紫式部はきっと吉高由里子なんだろうねってのとまったく同じである。僕は日本一仕事がきついと言われた会社にいて朝から晩まで狂ったように働いたが、幸いなことに7年間も海外の拠点長であったからレコードばかりでなく日本の金融機関の現法社長、要するに同じお立場にある経営者や現地のお客さんとの交流・情報交換、そして日本から来られるお顧客さんの接待などでいくらでもオペラハウスに行く機会を設けることができた。

その結果、僕のオペラレパートリーの人物像は今のものになった。例えばミレラ・フレーニがミミであり、ルチア・ポップが夜の女王で、エディット・マティスがツェルリーナ、ペーター・シュライヤーがフェルランド、ルチアーノ・パヴァロッティがネモリーノであり、ゲーナ・ディミトローヴァがジョコンダ、ヴァルトラウト・マイヤーがイゾルデ、アグネス・バルツァがカルメン、アンナ・トモワ=シントウが元帥夫人という風なものである。最後の5人はステージを観てのことだから贅沢なものだった。そして、決定打はスイトナー / DSKのレコードのザラストロである。どんな大歌手であれ、あの深々とどすが利いているが、それでも伸びやかで格調の高いテオ・アダムの低音と比べられる羽目になっている。

ドレスデン生まれのテオ・アダムの本拠はゼンパー・オーパーだ。ドレスデンというと、「ばらの騎士」が初演されたことよりも第二次大戦末期に英米軍の空襲で無差別爆撃で街の85%が破壊されたことが先に来てしまうのは不幸だ。市の調査結果は死者数25,000人とされるが、不思議なことに、連合軍側において死傷者であれば13万5千人に達するという説が根強く語られている。爆撃は1945年2月13日、14日であり、「東からドイツを攻めるソ連軍を空から手助けするため」という名目に対しては、殺戮を行った側である英国で「戦争の帰趨はほぼ決着しており戦略的に意味のない空襲だ」という批判があった。ひるがえって、ほぼ同時期3月10日の東京大空襲、半年も先である8月の原爆投下はいったい何だったのだろう。ポツダム宣言受諾への国内事情により、国家消滅、分割、永遠の占領・信託統治等の悪夢を無辜の国民の命の犠牲によって贖う結末に陥った経緯を日本人ならば頭に焼きつけておくべきであろう。

Theo Adam :1926.8.1-2019.1.10

ワーグナーが楽長をつとめ、リヒャルト・シュトラウスがそのオペラの大半を初演したこの劇場も瓦礫になるまで無残に破壊され、1985年2月の同じ日に再建された。その記念公演がハンス・フォンク指揮の「ばらの騎士」で、テオ・アダムはそこでオックス男爵を歌っている。ドレスデンのことを書こうとすると、まず僕にとって1994年は音楽人生の豊穣の年だったことから始めねばならない。フランクフルトのアルテ・オーパーでオーケストラ演奏会は定期会員になって毎週何かを聴いており、フランクフルト歌劇場はもちろん近郊の都市も車でアウトバーンを飛ばせばすぐなので、マインツ、ヴィースバーデン、ダルムシュタットで普段はあんまり食指が動かないイタリア物やロシア物のオペラを小まめに聴いた。大きなものだけをかいつまむと、ベルリンでブーレーズのダフニス、カルロス・クライバーのブラームス、ポリーニのベートーベン、シュベツィンゲンでジェルメッティのロッシーニ、ヴィースバーデンでオレグ・カエタニのリング全曲、ベルリン・ドイツ歌劇場でルチア・アリベルティのベッリーニ、ベルリン国立歌劇場でバレンボイムの「ワルキューレ」とペーター・シュナイダーのマイスタージンガー、8月はバイロイト音楽祭でルニクルズのタンホイザーを聴いて帰途にアイゼナッハのバッハ・ハウスに立ち寄り、翌月9月12日に憧れだったドレスデンに行き、この歌劇場で「さまよえるオランダ人」を聴いたのだった。社長を拝命して2年目で尋常でないほど忙しかったが幸い39歳で元気であり、ピアノの練習やシンセサイザーでの作曲も含め、この年に一気に吸収したことが僕の音楽人生の土台になっている。いずれにせよどこかのサラリーマンにはなったわけだが、野村でなければこんな恵まれたことはなかったろうし、とはいえ社内ではいろいろ不遇、不運なことが重なって、恐らくそれがなければドイツに赴任することはなかったとも思っている。陳腐ではあるが人生糾える縄の如しだ。

ゼンパー・オーパー

指揮者はハンス・E・ツィンマーでオランダ人役が写真のクレンペラー盤と同じテオ・アダムその人であるという信じ難い一夜となった。クレンペラーがフィルハーモニア管と残した唯一のワーグナー全曲スタジオ録音(写真のLPレコード)である同曲をゼンパー・オーパーでシュターツカペレ・ドレスデンで生で聴ける。夢のような話だったが、夢というのは叶わないから夢である。現実になってしまうとこういうものなのかと感じる経験はたくさんある。歌劇場の雰囲気はさすがのものだが、世界中のそれと比してどうというものでもない。肝心のアコースティックはいまいちであり指揮のせいかオケも僕の知るDSKではなかった。この楽団、フランクフルトでコリン・デービスのベートーベン1番だったか、あんまり乗ってない感じの時の音はだめだ。68才だから今の我が身とほぼ同じ高齢者のテオ・アダムを拝めたということに尽きるが、声は散々きいたあのバスであった。コヴェントガーデンでパヴァロッティを後ろの方の席で聴いて、あのレコードの声なんだけど頭のてっぺんからクリーミーな彼特有の高音がピアニシモで飛んできて耳元で囁いたような、およそ平時の現象として想像もつかないような、こういうのはロストロポーヴィチのチェロぐらいだなと感嘆した、そういうものではなかった。ステージで観たロストロやパヴァロッティはいわば超常的な天才であって何が出るかわからない。アダムはそういう人でなく、かっちりした芸風を守り、その中で常に通人を唸らせる最高のパフォーマンスを出せる人で、まさしく「宮廷歌手」の称号にふさわしい。僕はそうしたことができない自堕落な人間である故、ひときわ大きな敬意を懐く。このレコード(ドレスデン初演版)、いまの家で初めてかけてみたところ、装置とアコースティックのせいもあって当時のクレンペラーとして聴いたことがないほど音が良く、42才で全盛期のアダムの声はもちろんのこと圧倒的であり、微光の彼方に徐々に薄れつつある記憶の喜びを倍加してくれることを発見した。

テオ・アダムの声が焼きついてアイコン化しているレコードはオランダ人以外に幾つかある。ベームとヤノフスキの「ニーベルングの指輪」(ヴォータン)、同「フィデリオ」(ピツァロ)、カラヤンの「マイスタージンガー」(ハンス・ザックス)、スイトナーの「コシ・ファン・トゥッテ」(ドン・アルフォンゾ)、同 「ヘンゼルとグレーテル」(父)、ケーゲルの「パルシファル」(アンフォルタス)、カルロス・クライバーの「魔弾の射手」(カスパール)、ペーター・シュライヤーのモーツァルト「レクイエム」、サヴァリッシュのエリア、コンヴィチュニーの第九、マズアの第九、そしてマウエルスベルガーの「マタイ受難曲」(イエス)という綺羅星のようなレコード・CDに録音された彼の伸びやかで強靭なバス(バスバリトン)を聴き、僕は声楽というものの味わいを知った。

とりあえずつまみ食いで美味しいものをというならモーツァルトのアリア集だろう。彼の全盛期をスイトナー / ドレスデンSKのバックを得て良い音で記録したこのLPは宝物になっている。

堂々と厳格で格調高い。モーツァルトにしては遊び心に乏しいという声も聞こえようが、これぞ様式をはずさぬ千両役者、歌舞伎なら團十郎、菊五郎であろう。彼亡きあと世界に何人いるんだか、もう僕は知らない。

マズア / LGO黄金期の第九は懐かしい方も多いだろう。

2019年に92才で亡くなったのを存じ上げず5年も遅れてしまったが、ドイツオペラに導いてくれたことに感謝の気持ちしかない。

あなたの年代の男がいちばん危ないの

2024 AUG 28 0:00:25 am by 東 賢太郎

最近、夕食後に2~3キロ走っている。9~10時あたりだとそう暑くもなく、なにより暗くて人通りがなく、昼間の俗事を忘れて空っぽになれる。坂道が多いので汗をかく。時に全力疾走も入れてみたりするが心肺ともに問題なく、俺はまだまだいけると自信がわいてくる。

ところが昨日、その自信を粉々にする事件があった。多摩川台公園下まで何事もなく走り、公園脇の坂を登ろうか、それとも川辺の歩道に降りようかと迷った。べつにどっちでもいいのだが、たまたま伊藤貫さんのyoutubeを見ていたら西部邁さんと仲が良かったと語っていた。両氏とも思想的に割合近くて僕は敬意をもっており、西部さんが自裁されたのがそのあたりであったのでなんとなく手を合わせていこうという気持ちになった。

そこで、多摩堤通りの信号を横切って、3,4メートルの高さの堤防から川辺に下る土を削った階段を降りた。足元は暗い。数段を下ると思ったより急勾配であり、足が疲れてるせいかけっこう勢いがついてしまった。まずいと思ったがもう止まらず、前方は草むらでよく見えず、やむなく、この辺で地面だろうとぴょんと飛んだら全然そうでない。つまづいて前のめりになって砂利道に叩きつけられ、ぶざまにひっくり返ってズルズルと体側で路面をこすってやっと静止した。

要するに、半ズボンでヘッドスライディングしたわけで、左足の脛(すね)と左ひじを盛大に擦りむいた。電灯に照らすと血まみれ泥だらけである。電話して車で来てもらい、家内に応急処置をしてもらったが、まだずきずき痛い。おかしいなと田園調布病院に電話しておしかけ、「遅くにすいません、みっともないこって」と頭をかくと、若い医師とふたりの看護師さんがやさしく対応してくれ、ピンセットで線状の傷口にめりこんでいた小石を除去し、消毒ガーゼを貼ってぐるぐる巻きにし、念のためにと破傷風のワクチンまで打ってくれた。コロナのときの聖路加もそうだったが、日本の医療は実に安心だ。

楽しみだった週末の温泉は問答無用で没になった。家族は大騒ぎになり、箱根で一緒の予定だった従妹に電話して謝ると、旦那も何日か前に階段で落ちたらしい。「ね、ケンちゃんわかる?あなたの年代の男がいちばん危ないの、そうやってみんな過信して病院行きになるんだから」と懇々と説教された。

それはそれでありがたかった。僕は何事も前向きにしかとらない。能天気でも楽天家でもないが、とにかく後向きにはとらない。だからこの怪我もきっと良い予兆であるか、あるいは、凶事を避けられた、守られたんだと思えてしまう。医師が「骨は大丈夫ですか」と心配した傷だ、あの勢いで頭を打ってたら死んだかもしれないが、死んでないんだから良かったと思える。そうでない人も、この性格は無理してでも作るべきだ。なぜなら、本当に人生で得をするからだ。僕には思い出したくないたくさんの禍々しい失敗や不遇や凶事があった。しかし、後になってみると、実は、それがなければあのラッキーはなかったじゃないかということが非常に多いのだ。なぜかは知らない。たぶん、そういう風に生きていると勝手にそうなる。それがはた目にはツキがあるね、持ってるねということになる。

多くの国の多くの外国人と働き、どういう人たちかを知っている。断言するが、彼らを基準としてみれば日本人の9割は心配性であり、はっきり書くと、ビジネスの世界においてそれはうつ病や心神耗弱に近い。大きなリスクに対してなら結構だが、ちまちまとくだらないことに気をもんだり批判を気にする空気に負けて「石橋をたたいて渡らない」なんて寂しいことになってる。国中が国民的にそうであり、本来あまり気をもまなくていい国家がプライマリーバランスをたてに金を使わないと民間は委縮して失われた30年などとクソくだらない小言を垂れてる。その間に先端技術や半導体で世界に大きく後れをとってしまっても他人事のようにやばいと思わない民間の「石橋わたらない根性」というものは、棒で突っついても飛ばない死にかけのカラスみたいなもんで、こっちを誰も批判しないことの方も、世界の目線からすると病気である。株や土地を中国人が買い占めて怪しからんと騒ぐのが保守だなんてわけのわからんことを言ってる。経済安保とそれは全然違う。死にかけの獲物は簡単に捕獲できるからジャングルでは食われるのが当たり前であって、それが嫌なら彼らは江戸時代に戻って鎖国しろと主張すべきである。

食われんようにちゃんと経営して株価を上げろが世界の常識だ。実体価値より値段の高い株など犬も食わぬ。ビジネスのビの字も分かってない連中が馬鹿の一つ覚えみたいに財務省、日銀が悪いって、自由主義国家で役所が頑張って経済を成長させるべきだなどと言う議論は、国が女性の少子化担当大臣を任命すれば子供がたくさん生まれるというおバカな議論といい勝負だ。人間は平等にできていて、青い鳥は誰にも同じだけ飛んで来る。心配性の人は確実にぜんぶ取り逃がす。前向きな人は十回来れば九回は逃がしても一回ぐらいはつかまえる。人も国も、成功者になるかどうかはそれで決まると言ってまったく過言ではない。ユニクロの柳井さんが著書「一勝九敗」でおっしゃるのはそういうことだ。少数精鋭で経営しろとも語ってる。その通りだ。多数の馬鹿の空気と合議制でやってればいずれ全部のカラスが外資に食われる。

「あなたの年代の男がいちばん危ないの、みんな過信して病院行きになるんだから」。そうだけどビジネスマンに過信は大事なんだ。だって取れると思わないと鳥は取れない。危険だから取らなくていいと細く長く生きる人生と、取りに行ってすっころんで早死にするかもしれない人生なら、僕は後者を選ぶ。ただ、みんなに迷惑をかけないように、暗い階段を走るのだけはやめよう。

 

何十年ぶりかの「新世界」との再会

2024 AUG 26 0:00:20 am by 東 賢太郎

気晴らしが必要で、ピアノ室にこもってあれこれ譜面をとりだした。すると、こんなのを買っていたのかという新世界交響曲の二手版があった。この曲、興味が失せて何十年にもなっていて、クラシック音楽は飽きがこないよと言いつつ実はくると諦めた何曲かのうちだった。

ところがだ。ざっと通してみると、これはこれでいい曲ではないかと思えてきた。完全に覚えたのは高1で、コロムビアから出ていたアンチェル盤(左)を買って夢中になった。さきほど聴きなおしたが、まったくもって素晴らしいの一言。数年前にサントリーホールで聴いたチェコ・フィルはこの味を失っていたが、こんなに木管やホルンが土臭くローカル色満点の音がしていたのだ。

とはいえ田舎風なわけではなく、アンサンブルは抜群の洗練ぶりでティンパニは雄弁。トゥッティは筋肉質であり、花を添える管楽器のピッチの良さたるや特筆ものだ。背景でそっと鳴っているだけなのに木管群の pp のハモリの美しさに耳が吸い寄せられ、金管はアメリカの楽団のようにばりばり突き出ずに ff でも全体に溶け込む。録音は年代なりの古さはあるが、見事なルドルフィヌムのホールトーンの中で残響が空間にふゎっと広がり、楽器音のタンギングの触感まで克明に拾っていて鑑賞には何ら支障なし。以上は共産時代の東欧のオーケストラ一般の特色でもあるが(ロシアは別種)、ドレスデン・シュターツカペッレ、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管と並んでチェコ・フィルハーモニーはAAAクラスであり、それでも各個の際立った味が濃厚にあって個人的には甲乙つけ難い。そのハイレベルな選択の中においてでも、アンチェル盤は「新世界はこういうものだ」と断言して反論はどこからも来ないだろう。

つまり優雅と機能美が高い次元で調和したのがこの新世界の魅力なのだが、僕はどういう風の吹き回しか一回目の東京五輪を小学生の時に見てびっくりした体操のチャスラフスカ、あの金メダルをとってチェコの花といわれた女性の演技を思い出している(これが録音されたのは1961年だからその3年前だ)。花であり鋼(はがね)でもある。女性が強そうだというのはソ連も東独もそうで共産国のイメージとなったが、共産主義をやめたら普通の女性になったように思う。オーケストラも1990年を境に以前の音が消えた。顕著だったのがソヴィエトで、レニングラード・フィルはムラヴィンスキーが亡くなって名前も ST.ペテルブルグ・フィルになって、以来あんな怜悧な音は一切きけなくなった。

Karel Ančerl
(1908 – 1973)

チェコ・フィルの常任指揮者はターリヒ、クーベリックから68年までアンチェルで、次いでノイマンが89年まで率いた。その伝統が93年にドイツ人のアルブレヒトになって途切れたのは大変に驚いた。彼は読響で聴いて良い指揮者と思ったが、それと伝統は違う。新世界で例をあげたらきりがないが、例えば、Mov2のいわゆる「家路」の「まどいせん」の処が和声を替えて3回出てくるが、僕は1度目が大好きであり、なつかしくてやさしい弦の包容力はアンチェルが最高だ。こういうものは表情づけとか思い入れの表現とかではなくシンプルに音のブレンド具合の問題で、誰がやっても音だけは鳴るのだが、京料理の板長が特に気合を入れてる風情でもないがちょっとした塩加減、昆布、鰹節の出汁の塩梅で旨味が俄然引き立つようなものであり、外国人シェフに即まかせられるようなものではなかろう。

ついでに書くが、マニアックな方には一つだけ指摘しておきたい。Mov4第1主題のティンパニは、スコアはE、H(ミとシ)だがコントラバスとチューバに引っ張られて後者がG(ソ)に聞こえ、耳がそう覚えてしまったことだ。Hを叩いていると思うが何度きいてもわからない。もしGでやったらそれはそれでいいんじゃないかと思わないでもなく、ままあるのだが一度疑問が生じてしまうと他の演奏を聴くたびにここが気になってしまう。まあこれは余計なことだ。

チェリビダッケに移る。新世界を振っていることは2017年に野村君がコメントをくれて知った(ドヴォルザーク「新世界」のテンポ)。録音嫌いで有名な指揮者で、メジャーレーベルに録音がないから彼の新世界はこのyoutubeのミュンヘン・フィルハーモニーの1991年のライブ演奏しか良い状態のものがない。全演奏を記録したサイトによると、ドヴォルザークはアンコールピースのスラブ舞曲等を除くとチェロ協奏曲と交響曲第7、9番(新世界)しか振っておらず、中でも9番は1945年から最晩年まで長期にわたってレパートリーになっている。8番がないのは不思議だが、彼は新世界にこだわっていたようだ。

7年前はそこまで認識してなかったが、このたび、まず、自分で弾いて思うところがあった。次いでフルトヴェングラーの著書「音楽を語る」を味読していろいろ知った影響があった。彼の言葉は重い。重すぎて初読の時はわかっていなかった。チェリビダッケのカーチス音楽院の講義もしかりで、10代の学生に語ったので言葉はやさしかったが20代だった僕はよくわかっておらず、フルトヴェングラーの大人向けの言葉で得心した。それは先日8月4日にこれを脱稿する契機になった(フルトヴェングラーとチェリビダッケ)。

ということで、アンチェル=「新世界はこういうもの」のアンチテーゼを見つけてしまった。ドヴォルザークはこの遅いテンポを意図しておらずAllegro con fuocoと記した。しかし、理性がいくら否定しても、作曲家も許容したかもしれないと思わされてしまうものをチェリビダッケの演奏は秘めている。このたび、心から楽しみ、2度きいた。アンチェルを覚えた人はヘッドホンで、良い音で、じっくり耳を傾けてみてほしい。フルトヴェングラーは同曲を振った記録はあるが録音せず、悲愴交響曲は録音はしたが悲劇の表現としてベートーベンに劣るとし、スラヴ音楽を高く評価しない言葉を残した。ドイツを不倶戴天の敵として殺し合いをしてきたロシア側のルサンチマンがちらりとのぞくが(プーチンがNATOの裏に見ているものもそれだ)、ルーマニア人のチェリビダッケにそれはなくむしろフルトヴェングラーが手を出さない空白地帯の両作品で強い自己主張ができた。

チェリビダッケの晩年のテンポは物議をかもしたが、これをきくと(あのブルックナーも)、ミュンヘン・フィルの本拠地ガスタイクの残響が関係あった可能性をどうしても指摘したくなる。Mov4曲頭。シ➡ド(二分休符)、シ➡ド(二分休符)。緊張をはらんだユニゾンの短2度の残響が空間を舞うのにご注目いただきたい。B(B-dur)の音列が上昇して、そのままトニックのホ短調になると予測させておいて、最後にぽんと、まったく不意を突いて想定外のE♭(Es-Dur)に停止する。誰もがあれっ?となるその一瞬の間。残響。ドヴォルザークは意図をもって次の小節の頭に四分休符を書き、「不意」のインパクトを聴衆にしかと刻印したかったと思う。ちなみに彼はMov1の第2主題、提示部ではフルートの1番に吹かせたのを再現部では2番に吹かせたり、ほんのひと節だけピッコロに持ち替えさせたり、細かい人である。

そして、チェリビダッケも細かい人である。ガスタイクの残響だと恐らく速いテンポの楽句は音がかぶる。テュッティの和声は濁る。それを回避し、かつ、ドヴォルザークの休符の意図を盛り込むとすればこのテンポになろう。そう考えれば理屈は通り、現に講義ではピアノに向い、2つの音の間隔を例にチェリビダッケは「曲に絶対のテンポはない、その場の音の響きによる」という趣旨の発言をした(フルトヴェングラーも同じことを述べている)。彼は、当然、聴き手にも細かく聞いてもらうことを想定している。残響のよく聞こえない装置や、ましてパソコンなどで聞けば「間延びしたテンポ」になる。それは聴き手のせいではなく、わかる設定になっていないのである。

チェリビダッケはこのテンポで、そうでなければ語れないことをたくさん語っている。即物的にいえば情報量が多い。そして、彼はそれを饒舌に散発的に提示はせず、意味深く感知させ、二重の意味で他の人にはない、まさしく “新世界” を見せてくれる。彼は「新奇なこと」をやろうとしたのでもボケたのでもない。描き出した情報はひとつの無駄もなく、いちいち懐かしい欧州の田園風景に包まれている心象風景を喚起することに貢献をさせ、ホールで耳を澄ませている人たちが「ああ、いいなあ」と微笑む麗しい空気を醸し出すことに専念している。これこそが、彼が講義で主張したこと、すなわち、「音楽は聴衆の心に生じたepiphenomena (随伴現象)」だということを如実に示している。演奏はそれを発生させる行為であり、演奏のテンポはそこの情報量で決まるとも言っている。音が鳴ってから聴衆の脳にそれが発生するまで間がある。だからテンポはそれに十分なものである必要があり、ホールの残響も情報の大事な一部なのである。

ドヴォルザークは米国で3年間ニューヨーク音楽院のディレクターを務め、ニューヨーク・フィルハーモニックから委嘱を受けてこれを書いた。先住民達の歌、黒人霊歌に興味を持って「両者は実質的に同じでありスコットランドの音楽と著しく類似している」「私は、この国の将来の音楽は、いわゆる黒人のメロディーに基づいている必要があると確信しています。これらは、米国で発展する真面目で独創的な作曲の学校の基礎となることができます。これらの美しく多様なテーマは、土壌の産物です。それらは米国の民謡であり、貴国の作曲家はそれらに目を向けなければなりません」と述べた。これも興味深い。彼はブラームスを師、先人と仰いでおり、ここにもドイツに対するスラヴのルサンチマンがあったかもしれないが、新興国のアメリカからは師と仰がれる関係だった。ハンガリー舞曲集を範としてスラヴ舞曲集を書いた彼は同じフレームワークにアメリカ音楽を積極的に取り入れることで師にとっての空白地帯で強い自己主張ができた点で先述の両指揮者の関係と相似したものがないだろうか(実際にブラームスはチェロ協奏曲には素直に羨望を吐露している)。

類似点が五音音階にあることは通説だが、「アメリカで聞き知った旋律を引用した」とする説は本人が明確に否定した。しかし、このことは少し考えればわかるのだ。作曲は高度に知的な作業である。そうでない人もいるがその作品は残らないという形でちゃんと歴史が審判する。ブラームス、コダーイ、バルトークの場合は民謡を意図的に素材とする作業と認識されるがドヴォルザークの場合はそれを意図した渡米ではないから、真実はどうあれアドホック(ad hoc、行き当たりの)に見られる。彼は既に勲章も名誉学位も得た大家であったが高給を提示されて音楽的に未開の国に来てしまったことに認知的不協和があったと思われ、その地で重要な最晩年の3年も費やせば自分史の締めくくりのシグナチャーピースになる交響曲、協奏曲を書くことは必要であり、それを残そうと身を削っていたはずだ。来てしまったゆえに妻の姉(自身の最愛だった人)の最期を見送れなかった罪の意識がチェロ協奏曲のコーダに彼女の好きだった歌曲の引用をわざわざ書き加えるという形になっている。

つまり、知的な人の「引用」とはそういうものだ。それが現世の特別な人への秘められた暗号だったり、後世へのダイイングメッセージのような意図がいずれ分かるという特殊な場合でない限り、常に試験で満点を狙っている人にカンニングを指摘するようなものだ。だから、その説というものは、はいそうですと本人が認めるはずもないことぐらいもわからない、要するに非常に知的でない人たちが発したものであるか、ドヴォルザークの招聘元だったサーバー夫人なる人物が夢見ていた、アメリカにおける国民楽派的なスタイルの音楽の確立が成功したと歴史に刻みたい人たちの言説かと推察せざるを得ない。ドヴォルザークにとっても、プラハ音楽院の給料の25倍ももらえる仕事なのだから、何らかの貢献の痕跡は残す必要があっただろう。

そういう仮定の下で、彼がアメリカの素材とスコットランドの音楽に「実質的に同じ」要素を見つけ、ハプスブルグの支配下でスラヴ舞曲集を書いた彼の民族意識はその素材に何分かの愛情をこめることを可能とし、教える立場にあった自らが国民学派的米国音楽の範にすべしと意図したのが新世界の作曲動機のひとつとするのが私見だ。音階は和音をつくり、根源的な効果、即ち、なぜ長調が明るく短調が暗いのかという神様しか理由を知らない効果と同等の物を含む。日本でスコットランド民謡が「蛍の光」になったからといって両民族に交流や類似点が多かったわけではないが、五音音階を「いいなあ」と思う感性はたまたま両者にあった。ドヴォルザークとアメリカのケースはそれであり、そこに郷愁も加わった。日本民謡を引用して交響曲を書くスコットランドの作曲家がいても構わないが、ドヴォルザークはそういう人ではなかったということだ。

米国で書いた弦楽四重奏曲第12番にもそれはあり、僕は五音音階丸出しの主題が非常に苦手で、実はこの曲を終わりまで聞いたことが一度もない。「アメリカ」というニックネームで著名だしコンサートにもよくかかるが、だめなものはだめで、3小節目のソーラドラからしていきなりいけない。ところが、チェロ協奏曲もMov1のあの朗々と歌う第2主題だって裸だとソーミーレドラドーソーの土俗的な五音音階丸出しなのに、ぞっこんに惚れているという大きな矛盾があるのだ。なぜかというと、単純だがここはこれ以外は絶対にありえないと断言したくなる極上のハーモニーがついていて、これが大作曲家は歴史に数多あれど、こればっかりは後にも先にもドヴォルザークにしか聞いたことのない真に天才的なものであって、始まると「高貴であるのに人懐っこい」という、もうどうしようもない魅力に圧倒されてしまうのだ。「私が屑籠に捨てた楽譜から交響曲が書ける」とブラームスが彼一流のシニシズムで褒めたドヴォルザークの才能ここにありという好例である。

では新世界はどうか。両端のソナタ楽章の外郭はホルン、トランペットが勇壮に吹きティンパニがリズムを絞めるという交響曲らしいもので、第2楽章と真ん中の緩やかな部分に五音音階が出てくる。僕は両端は好きだが真ん中に弦楽四重奏曲第12番と同様のリアクションがあり、だんだん縁遠くなってしまっていた。それを目覚めさせてくれたのがチェリビダッケだ。彼は五音音階のもっている暖かさ、人懐っこさは人類一般のものと抽象化し、ドヴォルザークはそこに民族意識だけではなく大西洋の向こうからの望郷の念もこめて作曲しており、もとより故郷や父母を思慕する気持ちというものは文化、人種を問わず、世界中の人の心を打つものと見立て、あえてチェコ色を排し、どこの国の人も「いいなあ」と思うバージョンをやってのけた。新世界は作曲された瞬間からインターナショナルな音楽だったが、ボヘミア情緒が濃厚である交響曲第8番はそれができなかったのではないかと考える。

それでは最後に、チェリビダッケの新世界の楽章を追ってみよう。Mov1第2主題の入りの涙が出るほどのやさしさ。コーダのティンパニ強奏は父性的な峻厳さと宇宙につながる立体感で背筋が伸び、この演奏がなよなよ美しいだけのものと一線を画すことを予感させる。Mov2冒頭の金管合奏。前稿を思い出していただきたい、トロンボーンの学生3人を立たせて歌わせた、そういう人でないとこんな音は出ない。「まどいせん」はアンチェルに匹敵するのを初めて見つけた。中間部のオーボエ。この遅さだと普通はだれるが弦合奏に移るとにわかに濃厚になるのは驚く。飽きて退屈だったここのスコアにこんな秘密の音楽が隠れていたのか。フルートの鳥。緻密なリズム、見事な対位法の綾。上品の極みのトランペット。カルテット。なんと素晴らしい弦!なぜ「止まる」のか僕はわかってなかった。これは息継ぎの間なのだ。人と自然。ゆっくり流れる極上の時間である。

Mov3は粗野なだけと思っていたが、普通は弦とティンパニしか聞こえない部分が木管の百花繚乱である。僕にとって半ば故郷であるドイツ、スイスの5月を思い出す。そして、きりっと彫琢されているのにずしっと腰が重いリズムのインパクトは並の指揮者とは全くの別物。その威力が全開になるのがMov4 だ。ホルンとトランペットの吹くこの主題、体制に抵抗する軍楽に聞こえないこともないが、何度聞いても音楽として格好良い。それにかまけてスポーティに駆け抜ける演奏が多い。チェリビダッケはそうしない。これだけ鳴らしてこの残響で音が混濁しない。結尾は通常はすいすい流れる水平面の音楽にティンパニが渾身の力で最後の審判の如き垂直の楔を打ち込む。勿論テンポはさらに落ちる。そして終局のホルンソロではほぼ止まりそうなところまで落ちる。そこに弦がユニゾンで第1主題を強く、レガートで再現し、くっきりと起承転結をつけて曲を閉じるのである。何十年ぶりかの新世界との再会だった。

 

思い出となった第100回夏の甲子園大会

2024 AUG 23 15:15:29 pm by 東 賢太郎

第100回の夏の甲子園大会が終わった。昨年の慶応旋風がつい先日のようだが、今年は京都国際高校と関東第一高校の息詰まる素晴らしい決勝戦となり、0-0でタイブレークとなり、2-1で京都国際が優勝した。

ネット裏のすぐ目の前で初戦を見た関東第一高校が接戦をどんどん勝ち抜いて決勝に進出したのも嬉しかったし、応援した北陸高校が強かったこともよくわかった。最高の思い出になった。

京都国際高校。おめでとう、強かった。僕はピッチャーしか興味ない。それもストレート。それも球速でなく球質である。毎年見てるが、あ、これはいいな、打てないなと思うのは大会で一人か二人しかいない。それがこの高校は二人いた。

どの試合だったか、背番号11番の西村投手を見た。9回になっても135キロにみんな差し込まれており、いつまでも見ていたいピッチャーだと思った。彼はチェンジアップばかりが評判だが、そもそも直球が速くないと通用しない。

ところが決勝で初めて見た1番の中崎の135キロはもっと凄かった。空振りを見て元巨人の杉内を思い出した。4番高橋を空振り三振に取ったインローのクロスファイヤーは球威も制球も鳥肌ものだ、あれはプロでも打てんと見た。

関東第一高校は先発・10番の畠中。走者を出して押されながらも断ち切って6回零封した胆力が見事。救援の1番・坂井の148キロは打たれなかった。タイブレークの押し出しで坂井を替えなくてもよかったかなと思うが、まあ結果論だ。

両校、プロがあり得る京都国際の両左腕、関東一高の坂井とサード高橋はいたがスターは他チームもいた。その中で両校は投打のバランスが良く、ここぞの場面の走塁、堅守で精神力も鍛え抜かれていた。いい野球を見せていただいた。

甲子園に行けた、感動、感謝!

お彼岸の浅草で考えたこと

2024 AUG 17 18:18:52 pm by 東 賢太郎

浅草へ行った。不思議な処だ。神田育ちで下町好きの親父に連れられてよく来たが、にぎにぎしい仲見世通りのこの風情たるや、テキ屋がずらっと並んでうきうきするやすぐ閉じてしまうお祭りや縁日を年中やってくれている贅沢感がたまらない。当時、ハイカラだねという日本語があった。世田谷も成城あたりで育つとこれのことかと思い込まされている種の言葉で、だからここは異界である。長じて知ることになった異国情緒なるものに似た気分さえ味わっていたのだから、いまそこいらじゅうから聞こえてくる異国の言葉の人々がこれをどう感じているのかは想像すらつかない。日本らしさ東京らしさを覚えているならばそれは正しくもあり、誤解でもある。

浅草寺の北のほうはさらに馴染みがないがその昔は吉原あたりで、いまも猥雑さが残る。飯はだいたいがそうした界隈のほうが旨いというのは大阪でもそうだった。単に自分がB級好きということかもしれないが、香港やタイやベトナムでも、さらにはニューヨークでもロンドンでもフランクフルトでもそれは思ったからインターナショナルな法則かもしれない。せっかく来たから弁天山美家古鮨はどうかなと馬道通りに向かった。まあ盛夏に寿司なんてろくでもねえと思いきやちゃんとお盆休みだ。じゃあ趣向をかえて洋食だねということで、これも老舗であるリスボンと相成る。10分ほど待ってありついたのはカツレツだ。ソースはケチャップで、衣のカリッとした歯触りが実にいい。

満腹で外に出たところが、くそ暑いなかで一気に飲んだビールがいけなかった。隅田川に出たあたりでだんだん足どりが重くなり、視界が青黒くぼやけてちらちら星が見えだしたからいけない。向こう岸に東京スカイツリーがそびえるあたりで手すりにつかまってじっとしていると熱中症だといわれたが、その病気はどこがどうなってどうすれば治るのか知らない。そういえばペットフード屋の策略なのか猫に甲殻類をやると死ぬとか騒ぐ。てんでおかしい。うちのチビは天丼の海老のシッポなんかばりばり食って長生きした。素人の分際で熱中症もそのたぐいとはいわないが、日本人が国民的に弱体化したのでなければいわゆるひとつの暑気あたり、関西ではあつけがはいるというもので、平均気温が上がった分だけ数は増えたのだろうが昔から亡くなる人もいたし平気な人もいて、いま甲子園でやってる子たちは平気な部類であり僕もそうだ。

休み休み川沿いの公園を上流の方に歩く。すると道端の句碑らしきものが目にはいり、

羽子板や 子はまぼろしの すみだ川

と読めた。水原 秋桜子遠い記憶がよぎる。高浜虚子と同様、教科書で見覚えて気に入った俳句があったが忘れた。まだぼーっとしておりその場はそれだけで去ったが、後で調べると秋桜子(1892 – 1981)は神田猿楽町の産院の息子で、我が曽祖父のキカイ湯の客人であったかもしれないと想像すると楽しい。獨協、一高から東大で医学博士、それで俳人になった。普通でない人は実に興味深い。東大医学博士の文人は森鴎外もいるが、個人的には音楽の方が好きであるのは理系確率が高く双方に親和性あるアートであるからかもしれず、れっきとした学位がある数学者のアンセルメ、ブーレーズ、クセナキス、化学者のボロディンはみな根っからの好みだからけっこう正しいと思ってる。

羽子板の句が気になっていた。帰宅して調べると、まぼろしであった亡き子はあの梅若丸のことだ。公園から少し上流の対岸にある木母寺に梅若念仏堂がある。この寺には伊藤博文揮毫の先祖の石碑があって無縁でない。ホームページに『梅若の死を悼んで墓の傍らにお堂を建設し、四月一五日の梅若丸御命日として、梅若丸大念仏法要・謡曲「隅田川」・「梅若山王権現芸道上達護摩供を開催します』とある。「隅田川」というと、1956年に訪日してこの能に感銘を受けたベンジャミン・ブリテンは2度も鑑賞した。その印象をもとに作曲したのが教会上演用寓話『カーリュー・リヴァー』である。ピーター・グライムズが大変な曲であることに気づき、ブリテンの歌劇、声楽曲はぜんぶ聴こうと思った矢先だ。

さて、そろそろ酔いも覚めたなと先に進むとほどなく言問橋(ことといばし)に至る。1945年3月10日の東京大空襲で米軍のB29が無辜の民を一晩で10万人殺したとんでもない惨禍がこのあたりだった。橋は焼夷弾で狙われて真っ赤に燃え上がり、浅草側(写真手前側)から逃げる人と、向島側(写真奥側)から逃げる人が身動きが取れないまま焼かれた。れっきとした戦争犯罪である民間人の殺戮は原爆だけではないことを、日本人であるならば記憶しておかなくてはいけない。

政治家の靖国参拝にかまびすしい者があるが、参拝はおろか僕はその隣の敷地にある九段高校で3年間の時をすごした。父方の親類はガダルカナルで戦死、母方の方はあわやA級戦犯でそこに祀られていたかもしれぬ。そんなに長くその場におれば英霊の魂もついて居ようというもの、79年前のことで済んだ話ではない。それでいて、米国の建国の地の大学院で2年の時をすごしてグローバリストの教育を受けたというパーソナル・ヒストリーは分裂的で、社命であったという以外に自己弁護の隙間がない。多くを学ばせてもらったことに相違はなく、みなが原爆投下を支持したわけでないことも理解した。米国のまともな人と真剣につきあう。大いにビジネスもする。そうしてジレンマを解き、英霊に報いる道を探る。それは両国をよく知る者しかできず、自分が最後の最後にやるべきことではないかと考えている。

戦争責任は布告なしの開戦にあり、その行く末に特攻により自国民に命の犠牲を強いるまで追い込まれ、よって米国が戦争を終結させるためやむなき無辜の民の殺戮へと至ったという大義のストーリーによって戦後の日本が独立国に戻り得ないよう囲い込まれ、無条件降伏による絶対服従のくびきに今もって甘んじ続けているという事実。その屈辱を全国民に分かりやすく開陳したことは、岸田内閣が日本のためにした唯一の功績である。これほど戦略思考のしたたかな米国および背後の勢力に対し、我が国は政治家にその程度の人材供給しかない。ならばいっそ米国の州になれ、それなら大統領を選挙できるという冗談がまともに響く。

伊藤博文(1841-1909)

明治から大正にかけての日本は日英同盟によって囲い込まれ、収奪したい清国、邪魔者であるロシアに闘犬の如くけしかけられた。勝ってしまった熱狂の陰でほとんどの日本人が気づいていないが、英国東インド会社は同じ手で薩長に武器を与えて倒幕させ、まやかしの同盟という美名をもって日本全土を囲い込むのに成功したのである。その英国に密航、留学し、手先として取り込まれて内情を知り、明治維新と呼ばれることになるクーデターを推進して初代日本国総理大臣になった伊藤博文は日英同盟締結に懐疑的だった。相手を魑魅魍魎と熟知していたからだ。だから日露開戦に反対であり、むしろ同盟すべきと考えていた。よって邪魔者となりハルビン駅頭で射殺されたのである。犯人は朝鮮独立運動の志士、安重根ただひとりということになっているが伊藤に命中した弾丸は複数の狙撃手から発せられたものであることが判明している。2年前、そしてつい先日に聞いた話は1909年から現実だったのである。

 

 

 

甲子園に行けた、感動、感謝!

2024 AUG 13 17:17:48 pm by 東 賢太郎

このブログは8月6日。北陸高校と関東一高の組み合わせを縁だと書いた。

夏が来れば思い出す はるかで遠い高校野球

そうしたら10日に「チケット取れました」とメールが。

きのう、おっとり刀で新横浜を朝8時の新幹線に。12時について昼飯。今年から暑さ対策で前半、後半で開始時間の間をとる。皆さんと喫茶で時間調整して前の試合の5回あたりに球場に入る。なんとバックネット裏の一番前だ、ちょっと良すぎねえか。

すぐそこで野球やってる。というか、あっというまに自分もやってる感に没入。シューっとボールが空気を切り裂き、パーンとピストルみたいなミットの音が炸裂。ボールやバットの重さまで伝わる。蔵の奥に50年眠っていた宝ものが出てきた。

関東一はでかい。モモと尻がすごい。現場の人間はまずそういう処に目が行く。

この子が友人の子息、大地くん。

くるぶしの骨折で背番号が14になったが試合には出てたというから立派である。本番は4でよかった。レギュラーで甲子園だけでも全国100校で1校、関東一高のプロ注目のエース坂井投手から快心のヒットは一生ものの勲章である。野球センス抜群と見たが親父さんによると大学では野球やらない。金融界の大物を目指すか。

ずっと三塁ベンチにいたような錯覚に陥ってしまい、仕事が慌ただしいので日帰りしたが一晩寝ても心がざわついてる。親父さんと大地くんに感謝しかない。

 

PS

行きも帰りも南海トラフ地震のおそれとやらで新幹線が遅れ、帰宅は0時を回った。そういえば去年の今頃は岐阜に出張し、初めての名古屋バンテリンドームで広島対中日を見たっけと思い出して日記を見ると、この甲子園と同じ8月12日のことだった。

 

広島カープついに阪神・大竹の牙城を崩す

2024 AUG 11 2:02:22 am by 東 賢太郎

去年から8連敗していた阪神の大竹。一人の投手にこんなにやられるのは珍しいが、とうとう5-1で勝った。普通の勝ちの10倍ぐらい嬉しく大層気分が良い。大竹の真骨頂はコントロールと緩急で、変化球は遅いが切れが良く、80キロの山なりまで操られるから130キロ台のストレートに長身からスピンがかかって手元で伸びるとほとんどの打者が差し込まれる。しかし彼の防御率は3なのだ。他チームには打たれてる。なぜ広島だけ打てないか謎だったが、ともあれ昨日はやっとこさで攻略した。これは今後の阪神戦に意味を持つ勝利だろう。

目下カープは巨人と阪神に2ゲーム差をつけて首位だ。いつまで続くかと思うが僅差を守り勝つパターンが板についてきたのは投手が頑張っているのが大きい。先発は大瀬良、森下、床田、九里の4枚が盤石で、残り2枠にアドゥワ(巨人を完封)、玉村(DNAに完投勝ち)がはまったと思ったら、野村、森が5回を零封して見せ、ハーンを加えてなんと先発は9枚になった。毎年、夏に息切れしたのが12球団でもトップクラスの贅沢な布陣だ。後ろも左が森浦、ハーン、塹江、黒原は盤石、右は島内、矢崎、河野、益田、コルニエルと左よりは落ちるが十分だろう。そしてクローザーに栗林だから強力だ。

セリーグで得点は5位、ホームランは6位と貧打は相変わらずで、外人2人が大外れだったフロントの責任は大きいが、新井は逆手にとってミート率の高い打線と機動力を鍛え上げ、取った少ない得点を守り勝つ野球に徹している。何事も極めれば武器になるのだ。投手陣のスペックで失点は1位(最小)、防御率も1位に現れているが、これは守備の充実が極めて大きい。キーマンはなんといってもショートに定着した矢野 雅哉だ。菊池、矢野の二遊間、これは文句なく12球団最高である。2021年にこう書いた。

新人の矢野にすごく期待している。今日も大道が2本打たれて1,2塁にして、代打デスパイネのショートゴロのさばき方が良かった。ちょっと嫌な所にぼてぼてが飛んだが、うまいというより二塁トスのあの手慣れた感じは投手目線で頼もしく感じた。野球頭が良くて足も速そうで、ああいうのが敵にいるだけで圧を感じるタイプと思う(新人の頃の菊池がまさにそうだった)。

広島カープの新人4人は当たりである

矢野は打撃も進化している。きのうも大竹の遅球を流して2塁打にした。運動神経が半端でなく育英高-亜細亜大で鍛えまくられているが、おそらく大変な努力家であるのだろう。菊池と矢野、ここまで超絶的にうまいと守備だけでレギュラーが取れてしまう異次元の人達で、ノーヒットでも美技ひとつでピッチャーを鼓舞するから打点1ぐらいの価値があると思う。逆に、プロでもアマでも、守備の下手なチームで強いというのはあんまり見ない。球場に出かけてポカーンとホームランが出れば楽しいが、僕が金払ってきてよかったといつも思うのは守備だ。

菊池が出てきた2013年ごろに強いカープを予感した。16年から3連覇した。矢野にそう思ったのは3年前。ひょっとすると期待できるかもしれない。

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