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僕が聴いた名演奏家たち(アルフレート・ブレンデル)

2025 JUL 5 23:23:47 pm by 東 賢太郎

ブレンデルは我が世代のクラシックリスナーなら誰しもが若いころからお世話になった人だろう。1931年生まれの彼は20世紀を代表するピアニストの一人として活躍し、クレンペラーもそうなのだが当初は米国Voxからレコード(LP)が出ていた。ベートーベンのピアノ独奏曲全曲を録音した最初のピアニストであり、ピアノソナタ全曲を3度録音している。日本で絶対の人気を誇るバックハウスが2度であり、だからなんだということかもしれないが、美学的なことをぬきにしても確実に欧州、米国で絶大な需要があったというわけだ。十八番はハイドン、モーツァルト、ベートーベン、シューベルトとされている。このレパートリーは彼の血脈の引き寄せでもあり、その証拠に彼はラテン系、スラブ系(特にショパン)には寄らなかった。欧米のクラシックリスナーはそれが多数派といえ、ちなみに米国でもシカゴはドイツ系が多い。それも血脈なのだから両者は引きあって当然、それゆえの需要なのだ。そうしたこととはまったく無縁である日本では彼を中庸の知性派と意味不明の言葉で評し、裏を返せば羽目を外さず凡庸で面白味がないと見る評論家が多かった。ロンドンではどうかとケンブリッジ主席の知の巨人に尋ねたところ、Well, he’s not tedious but discreet. とシンプルに答えられた。思慮深い。何に対してか?そりゃ作曲家だよと、いとも当たり前のごとく。

私見ではそれはなかんずく感情があてどもなく彷徨するシューベルトにあてはまると思うが、知の領域ではベートーベンのともすると無機質になる形式論理をあるべき姿に中和して提示するバランスに現れていた。彼が70年代にPhilipsのアーティストになったことは幸運だったろう。同社による芯があって暖色系で、丸みと光輝がブレンドした音は彼の芸術に親和性がある。80年代にDeccaも参入したが、僕においてはブレンデル=フィリップスは揺るぎようもない。

ドイツ系が多いズデーデン地方の生まれだからチェコ出身ということにはなろう。父はホテル経営者で、音楽への興味はレコードやラジオを通して育まれ、ザグレブ、グラーツと移住した末に第2次大戦終戦を迎え、16才で音楽教員の資格を取得するためにウィーンへ行くが正式なピアノのレッスンを受けたことはない。神童でもコンクール優勝者でもなく、技術は独学で磨き、作曲家、評論家、エッセイスト、詩人でもある。1931年という生年を見るとホロヴィッツ(1903)リヒテル(15)ギレリス(16)リパッティ(17)ミケランジェリ(20)に続く世代である。グルダ(30)グールド(32)アシュケナージ(32)あたりが近く、アルゲリッチ、バレンボイムは10才ほど下の1940年代になる。そして彼らが1955年である僕の10才ほど上になるわけだ。ちなみに以上名を挙げた人達で親が音楽に関わっていないのは数学者の娘であるアルゲリッチだけで、音楽家というものは歌舞伎のような家柄継承はないのに血統が明らかに関係していることはバッハの例が著名であり、ここでも明らかだ。両親までは才能が発現していないが突然に開花した例としてハンガリーの靴職人の家に生まれ、銀行員を経て独学で作曲の頂点に登りつめたシェーンベルクを想起させる。偶然かもしれないがブレンデルはレパートリーからは異質であるシェーンベルクの協奏曲を弾いている。

僕がウォートンでMBAを取ってそのままロンドン勤務を命じられたのは1984年4月だ。そのころブレンデルは50代半ばで、83年にライブ録音したベートーベンのピアノ協奏曲全集が話題になっていた。このLPは録音メディアがCDに切り替わる最終期のもので、85年8月、ロンドン郊外のイースト・フィンチリーに家内と居を構えた翌年に購入したが、正直のところ関心の的はRCA、Decca専属だったレヴァイン/シカゴSOがPhilips録音のベートーベンでどう響くかという、ブレンデルにも美学にも関係のないマニアックなものだった。僕は同社のオケ録音が好みでありワクワクして1番から聞いたが、Philips感は皆無のデッドなライブで、まあシカゴのホールもそんな程度なのだろうと米国のプアなホール事情を想像してしまい、まったくの期待外れで即刻レコード棚の飾りになってしまったのだ。フィラデルフィアの超デッドなホールでの2年間に心底辟易していた矢先でもあり、当時、ソフトが出始めて「CDの方が音が良い」とレコ芸(海外でも定期購読していた)が喧伝した挙句の洗脳もあった。前年4月まで留学生の安月給でピーピーだったのが5月のロンドン着任からはノーマルに戻り、音のよさげに見えるブラックのDenon製CDプレーヤーと、憧れだったお膝元タンノイのスターリンに切り替えたのもそのころだった。ブレンデルのせいではないのだが、当時、この5曲というとバックハウスやギレリスで事足りており、どうしてもこれでなくてはとは感じなかった。先ほど聴き返してわかった。ブレンデルはライブだからといって格別に燃える人ではない。コンサートホールでも十分にdiscreetなのだ。それなのにライブならではの微細なほつれはオケにはあり録音は好きでない。したがって何もいいことないよね、というのが当時の僕の結論だった。

それもあってか、僕はブレンデルのレコードをあまり持っていない。ヴァンガードのモーツァルト集、Voxの同2台ピアノ協奏曲(wクリーン)、Philipsはモーツァルトのピアノ協奏曲代20番・23番(マリナー)、ベートーベンのディアベッリ変奏曲、リストの巡礼の年・第2年イタリア、シューマン協奏曲(アバド/LSO)、ブラームス協奏曲1番(イッセルシュテット/ACO)で、CDに切り替わってからもバッハコレクション、ベートーベンのソナタ8、14、23、24、29、シューベルトの鱒/モーツァルトのピアノと管楽のための五重奏曲、シューマン協奏曲(ザンデルリンク/PO)だけだ。彼の美質をつかみかねていたわけであるが、それは無理もない。当時の僕の音楽への、とりわけピアノ曲への教養はまるでお粗末なものであったからだ。

ところがライブはけっこう聴いている。左はやはり85年、上掲のベートーベン全集を買う半年前の2月に行われたロイヤル・フェスティバ(RFH)でのリサイタルで、プログラムはハイドンのアンダンテと変奏曲ヘ短調、ソナタ52番、シューベルトのさすらい人幻想曲、ムソルグスキーの展覧会の絵だった。実はいま、本稿のために日付を確認して意外だった。もっと後年だと思っていた。細かいメモリーは飛んでいて、覚えてるのは展覧会の絵のどこだったか、たぶん挿入のプロムナードのエンディングと思うが、ブレンデルの記憶違いがあり、同じ小節を弾いたのに冷やりとしたぐらいだ。そのメモリーの生々しさからもっと後だと思っていた。当時、赴任から1年たったとはいえ、初めて働く海外拠点での膨大な作業量に気が遠くなる毎日であった。よくわかった。音楽どころではなかったのだ。

同年に録音されたハイドン52番だ。ブレンデルの真骨頂といえる素晴らしい知的なアプローチであり、これと同じものを聴いたはずだが猫に小判であった。

これは1987年12月でオールシューベルトのリサイタルだ(やはりRFH)。曲目は楽興の時、さすらい人、ソナタの15番、14番である。株式市場史に残る大暴落となったブラックマンデーの直後でありきれいに忘れてしまった。今なら垂涎のプログラムをブレンデルが弾くなんて夢のようだが、これが記憶に残ってないということは並の騒ぎではなかったのだろう。東京市場が開くのはロンドンの夜中だ。社員全員が明け方まで会社に残って本社への電話にかじりつき、お客さんも心配で相場を見にフロアに来てしまい、歴史に残る大混乱を経験した。思えば僕は天下のブレンデルによる「さすらい人幻想曲」を二度も目の前で聴いたのだ、ああもったいない!演奏会場、日にち不明の1987年のライブ演奏がyoutubeにあったのが救いだ。これだったと思いたい。

次は1989年7月のRFHだ。ブラックマンデーから2年。日経平均は持ちなおし、3万8千円の最高値に登りつめる直前、後にバブルと揶揄されることになる興奮と熱狂の最中にあったが、ロンドンではそんな世俗の喧騒とは無縁のオールモーツァルトプログラムがみやびに奏でられていたのである。演奏者にフィッシャー・ディースカウ、ブレンデル、ハインツ・ホリガーとネヴィル・マリナー / アカデミー室内管の名が見える。この演奏会は英国の哲学者イザイア・バーリンの80才の誕生日を祝うもので、誰かは知らねど、この贅沢の極みはよほど偉大な学者さんだったのだろう。白眉はブレンデルの協奏曲19番 K.459、ホリガーのオーボエ協奏曲 K.313、F・ディースカウのアリア「おお、娘よ、お前と別れる今」 K.513だ。まさしくモーツァルト祭りであり、名人たちによるフルコースを心底楽しんだことをよく覚えている。F・ディースカウもマリナーも、そしてブレンデルまで故人になってしまったが、ロンドンでのベスト10にはいる最高のコンサートだった。ブレンデルはもうひとつ、バービカンだったろうかリストの協奏曲第2番を聴いている(プログラムが見つからない)。ここでは終楽章のコーダ前でアクシデントがあった。フォルテで腕を振り上げたはずみに指でひっかけた眼鏡が客席まで宙を飛んでしまい、彼はレンズの厚さからして強度の近視だろうから音楽が止まるかとホールに緊張が走ったが、さすがである、ミスタッチのひとつもなく難なく最後まで弾ききって大喝采に包まれた。おまけだが、ミケランジェリがロンドンにやってきてバービカンでドビッシーとショパンを弾いたとき、前の席にいた男性が彼だった(前者だけ聴いて席を立ったが)。20世紀を代表するピアニストの一人だが、6年も同じ場所で、同じ時代の空気を吸っていたという愛着はひとしおだ。

ブレンデルをヴィルトゥオーゾと呼ぶ人はあまりいないだろう。規格外の新機軸や強い自我を盛り込むことは一切なく、作曲家が封じこめた楽興を無理、誇張なく紡ぎだし、初めて聞いた音楽なのにああそういうことかと自然になり行きが見通せ、身をまかせているうちに体の内から喜びを覚えてくるという風情であり、知的で穏健なのだ。知的というのは怜悧、冷たさではなく、タッチに切れ味や凄みを利かせることも劇的な感情の起伏で聴き手を引き回すこともないから穏健に聞こえ、面白みがないとした評論家もいた。形式のバランスはもちろん感情の起伏まで均整がとれているということだ。それは即興でなく理性で設計されてるのだが、そう聞こえないところが知的、インテリジェントなのである。彼の十八番はハイドン、モーツァルト、ベートーベン、シューベルトとされているのはその流儀が活きる楽曲だからで、僕はその4人各々にエッジをもったピアニストを好んではいるが、公約数として統一できるブレンデルの流儀は一家言ある個性的なものでなんらの優劣もない。中庸でないことに面白味を見出し、興奮してブラボーを連呼するのも結構だが、僕はストレス解消のために音楽を聴くことはない。

そこにシューマン、ブラームスを加えてもいい。ハイティンク/ACOとのブラームス2番は彼をヴィルトゥオーゾと呼ぶべき名演で同じ伴奏者のアラウ盤に並ぶ。シューマンではK・ザンデルリンク/POとのイ短調協奏曲を高く評価する。ああいい音楽を聞いたなあと静かな満足感で包みこんで体の芯まで熱くしてくれる。どちらもともに伴奏が素晴らしく、まさに名品とはこういうものだ。

最後になるが、所有している中で好んでいるのはリストの巡礼の年・第2年イタリアだ。冒頭からヨーロッパの春の大気が香る。ブレンデルが仄かに加える精妙なアゴーギクは、楽譜をご覧になっていればわかるが音楽の時空を支配している。そこに投じられるふくよかな光彩を放つ和声がこの世のものとは思えぬ神の物語を掲示する。僕は西脇順三郎の『Ambarvalia』にある “天気” という詩を思い出す。

(覆された宝石)のような朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日

ドビッシー、ラヴェルはこの楽曲を知ったに違いなく、名技性ばかりに目が行くフランツ・リストの音楽の深みと斬新さを僕もこれで悟った。ブレンデルは詩人でもある。印象派を弾かないが、そう弾いている。それが知性でなくてなんだろう。こういうものをロンドンの畏友は discreet と語った。日本の音楽評論家が形容した「中庸の知性派」はあながち間違いではなかろう。知性派の聴き手が感知し、奥深い感銘を心に刻むメッセージはいつも中庸(golden mean)の姿かたちをしているからだ。写真はロンドンで入手した極上の84年のオランダプレス盤で、Philipsの美質が満点だ。中古レコード屋で見つけたら迷わず購入をおすすめする。

ブレンデルはもっと聴きたい。無尽蔵に教わることがあるだろう。それがご冥福をお祈りする僕なりの方法だ。

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

 

幸福とは分泌されたドーパミンの総量である

2025 JUL 4 8:08:27 am by 東 賢太郎

脳内に出てくる快感ホルモン、やる気物質である「ドーパミン」は年齢と共に減ってしまうが、新しい刺激や報酬があると増える。しかも報酬があると記憶力も強化されると説くこのビデオは勉強になった。

株式投資には新しい刺激、報酬の両方がある。ある株に投資し、売却する行為は科学と同じく仮説と検証による。結果は明白に出るし、正解なら脳内ではドーパミンが大量に放出されて快感とやる気が倍増し、記憶力まで良くなって、おまけとしてお金も得られる。投資先の企業が読みどおり上場したが、こうしてお客様の運用益があがることはアドバイザー冥利に尽きる。

ソナー・アドバイザーズに営業マンはいない。投資案件も探して手に入れたことはない。嘘のような話だがみな紹介だ。僕に人気があるからでも、貸しがある人がたくさんいるわけでもない。人脈という言葉は何の中身もないが、いま周囲にいてくれる人たちでサラリーマン時代の “人脈” だった人はほとんどいない。ではなぜかというと、僕は「人生の幸福の定義は分泌されたドーパミンの総量である」とまじめに信じている。それに尽きる。幸福というふわふわしたものを定量的に捉えるにはそれしかなく、幼時にたくさん失敗して「分泌=リカバリー」という効能の味をしめているから、おそらく、僕は普通よりもそれが出やすい人間になってる。一般的な表現なら、美点凝視で常に前向きで、明るい未来の到来の熱烈な信者である。宗教っぽいと思われても仕方ないが、人は理屈でなく本能的に、ドーパミンが大量に出ている人間に寄っていくのだ。

ブログを始めたのは、クラシック音楽の評論で、自分が読みたい類いの文筆が世の中にないと思ったからだ。だからその種のものを自分で書く以外に飢餓感を埋める手がなかった。なるべく簡明にしようとは試みたが、面白くしようと思ったことはない。その流儀が音楽以外のエリアにも広がって千百三十万回読まれているが、蓋し、これもドーパミンの引き寄せの法則と解釈する。例えばメシアンの『我らが主イエス・キリストの変容』を聴いて僕より分泌量の多い人は世界広しといえどあまりいないだろう。従って、同曲に関してのそんな流儀の文章は恐らく世界のどこにもなく、好きな(ドーパミンが出た)曲しか僕は書かないから、好きな人だけが僕の高揚感に共鳴してくれる。このことは、プロコフィエフ研究の権威であるプリンストン大学のサイモン・モリソン教授から、ご自身の論文に僕のブログを引用したいので許可が欲しいとご依頼があったことで確信した。

先日、大手出版社から本を出しませんかとご提案をいただいた。2度目であり、つまり最初の会社さんはお断りした(10年ぐらい前でこちらが未熟だった)。ビジネスや投資のノウハウ本の類いは、そもそもそういうのを読んだ経験もないし効能があるとも思えないので書きようがない。読んだ人が幸福になれる本なら大いに執筆したいが、困ったことにそれは2,668本のブログにもう書いてしまっている。どの一稿にそれがあるわけでもないし、どこにどう表現したかは覚えてもいないが、13年前からのなんだかんだがそこにはあり、レコードみたいに順次再生してもらえば僕のドーパミンはきっと伝わる。本稿は2,669本目だが、こうやって進化している。この方式で、我が尊敬するピエール・ブーレーズ氏は「プリ・スロン・プリ」を作曲し、Work in progress(漸次作曲型作品)と呼んだ。彼の逝去と共に漸次は終結したが、それは中断でなく、天が決めたコーダなのだ。僕のも同じだ。

 

人生の目的は音楽 - H J リムの場合

2025 JUN 28 21:21:20 pm by 東 賢太郎

僕が運用アドバイスの仕事を好きなのは、うまくいけば文句を言う人は世界にひとりもいないからだ。つまり結果を出すことだけに全身全霊を集中でき、権謀術数を弄したり他人の評価を気にしたりお追従を言ったりというくだらないことは一切いらない。好きなことに没頭してるとボケない気がする。いまでも周囲に記憶力いいといわれる。もちろんトシなりに短期記憶は落ちてるが、夕食を食べたのを忘れてて「あなた大丈夫?」とまじめに心配されるのはそれではない。子供のころからそうなのだ。

円周率を覚えたりする記憶術みたいな技があるらしい。そういうのは知らないが自分はピクチャー型っぽい。パッと見て画面をバンと覚えてる感じだ。単語や公式はじっと見て目をつぶって瞼に見えればOK。音楽もそれだ。そのかわり画像も音も興味ないものは瞬時にデリートしていそうだ。父は趣味で97才まで英語を勉強していて記憶はまずまずだったが継いでいる部分はあるかもしれない。

それにしてもピアニストの記憶力は並尋常でないといつも思う。平均律やハンマークラヴィールを暗譜で弾くとなると複雑な多声のフーガを10本の指で弾き分ける運動の記憶だから受験勉強のようなものとは違う。僕は野球のコントロールも同じ感じがする。変化球をコーナーに投げ分ける指先の記憶に近い。要は、体で覚えてるという奴であり、意識なく自然に体が動くまで練習するとバッターをごまかしてうち取れるようになる。

韓国の女性ピア二スト、HJ リムのyoutubeが面白かった。この人はパリ音楽院卒でものすごくピアノがうまいが、良い意味で無手勝流であって、ショパンコンクールで優勝するようなことは目ざしてない稀有なクラシックアーティストだ。音楽家でない普通の家の子だがピアノが好きで12才で単身パリの音楽学校に入学し、16才でパリ音楽院に最年少入学し、4年の課程を3年で終えて最年少で首席卒業という実績は異論をはさむ余地もない異才である。

ベートーベンのソナタ全曲録音がある。親にパリでがんばってるよとアップしたyoutubeがEMIの目に留まり、栄誉ある全集録音に至った。なぜ栄誉かというとアルトゥール・シュナーベルが世界初で成し遂げて以来、ベートーベンのソナタ全曲録音を残したピアニストはたぶん50人もいない。ちなみに過去300人ほど遭難で亡くなっているエベレスト登頂を成し遂げた人は1万人ぐらいだ。

それはこのリムスキー・コルサコフ「熊蜂の飛行」だったらしい。

ベートーベンのソナタ全曲を世界メジャーレーベルであるEMIに29日で録音し終えただけでも超人的(つまり全部覚えている証明)だが、さらにバッハ平均律、ショパン、プロコフィエフ、ラヴェル、ラフマニノフのピアノ曲全曲、メジャーなピアノ協奏曲(ブラームス2番含む)がいつでも弾けるという記憶力は我々凡人に想像のつく次元の話ではない。平均35時間かかるエベレスト登頂を最速記録の8時間10分で成し遂げたようなもので、ビデオで本人が語っているが、曲を自分のものにするには「夜中の3時に不意に叩き起こされて弾けと言われてすぐ弾けるようになってないとだめ」なのだそうだ。

それはもちろん訓練の賜物だ。なにやら昭和の漫画「巨人の星」やゴルフのタイガー・ウッズを思い出すが、数字だけを競うアスリートと決定的に異なるのは、ピアノは速弾き競争でなくフィギュアスケートや体操のいわゆる芸術点(アーティスティック・インプレッション)で評価される点だ。それが難しい。そこだけとればアスリート的である世界レベルのテクニックなくしてコンペには参加もできない。スケートは超絶難度の技を決めれば勝てるが、ピアノの場合、それだけだと馬鹿テクといわれ芸術点で評価されないことがある(デビュー当時のポリーニがそう)。

素人の空想になるが、「夜中の3時に・・」の喩えは、テクニックが完全に自分の体に同化した状態、つまり「意識なく自然に体が動くまで練習するとバッターをごまかしてうち取れるようになる」感じと思う。とすると、それは記憶力なのだ。球は速いがコントロールが悪い投手は短命が多い。球速はアスリート能力で30才で落ちる。しかし記憶力であるコントロールは40才でも残る。リムのベートーベン録音デビューは25才で、アスリート能力優位の速球勝負だった観はあるものの40代のいまからは芸術点を高めればいい。並はずれた記憶蓄積はそれのユニークな土台になる。

しかし謎は残る。なぜにこの人は「夜中の3時に・・」に至る特訓に耐えられたのだろう?巨人の星の主人公も、タイガー・ウッズも、さらにはモーツァルトもベートーベンも、強烈なスパルタ親父に鍛えまくられた。ところがリムの両親は音楽家でなく、彼女はひとりで12才でパリへ旅立ってしまったのだ。

ヒントはあった。これだ。

何とラフマニノフの2番を自身編曲の「ひとりピアノ」でやっちゃう!それにパリっ子が大熱狂である。オーケストラの伴奏で満足感を得られるようにできている曲をピアノ1台でどこまで再現できるかはチャレンジングだが、オケパートまで弾く苦労を考えるとビジネスマンの僕としてはコスパがあまり良くないと思う。弾ける人は普通にオケとやればいいのであり、聴き手も2番を聴きたいなら欲求不満になるこれを家であえて聞こうとはしないだろう。という事はEMIは商売にならないから録音しない。つまり宣伝にも名誉にも生活にもあんまりならないのだ。じゃあなんで?それもインタビューにある。彼女はそういうことのために音楽をしてない。とにかく音楽が好き、人生の目的は音楽というのが唯一のモチベーションのようだ。つまり、この人はたぶん、先生にやれと強制されて、苦悶し涙を流して「夜中の3時に・・」のレベルに到達したのではない。やれと言ったのは自分の後ろにいるもう一人の自分なのだ。

となると、この人はひょっとして自分と似た人間じゃないかと思うのは、はるかに低次元ながら実は僕もそうなったことがあるからだ。あるどころか、僕がピアノに触れるようになったのはそれが契機だ。高校のころ見よう見まねで妹のハノンやツェルニーをひっぱりだして独学し、初めてなんとなく弾けるようになったのがこの「2番ひとりピアノ自分版」の最初の3分間ぐらいだ。動機は自分の手でやりたくて仕方ないから。リムの音符数の半分もないけれど、とにかく初めて弾いた曲がラフ2のサワリというドンキホーテみたいな人間は世界中にそういないだろう。だから全曲やってしまったリムの熱量は完璧にシェアできるし、なにより、誰が何といおうが好きを貫く彼女の意気と度胸と集中力には人間精神の崇高さと無限の可能性をみて心の底から元気をもらえる。伊達や酔狂ではない、彼女はラフマニノフのコンチェルト4曲ともひとりピアノ版を作り韓国で演奏会で弾いている。尊敬しかない。

彼女のベートーベンの評価は二分した。アレグロを快速で飛ばし、大きな緩急とダイナミズムを端から端まで使う解釈には流儀を知らない自己流だ、こんなのはベートーベンではないと否定的な意見が多かった。しかし、彼女は宣伝、名誉、生活のために弾いてない。流儀におもねって自分が後退したら意味ないとはっきり主張している。ベートーベンのソナタでそう述べるのはクラシックそのもののレゾンデトルともいえる “伝統” への挑戦だ。しかし、彼女はこう言い放っている。「楽譜を研究し、作曲家と時代背景を研究していくと、やがて自分がその時代、その音楽に入りこんでしまう時がやって来ます。すると、ベートーベン本人が現われ、『キミ、そこは気に入らないね』なんて言ったりします。でも「先生、私はそう感じるんです、あなたはそう書いていますし、そう弾かないと自分が自分でなくなるんです』と言います」。彼女はそのとき彼に自分の父親と同じ匂いを感じたらしい。こういう人に評論家がどんな御託を並べても無力だ。

たしかに僕も彼女の演奏と伝統のコンフリクトが気になる曲はある。自己流で突っ走ってしまうとどうしても表情が平板になり、緩徐楽章はもの足りなくなる。伝統にこだわる深い意味はここにあるのであって、いかなる演奏家よりその曲の魅力を知ってるのは作曲家だ。その演奏法が伝統となるのだから天才演奏家といえどもリスペクトするに越したことはない。また、これは技量の問題であるはずはないので重視をしてないということになろうが、リムは打鍵の均一さという美感にはやや欠け、これだとモーツァルトは難しいなとも思う。しかし、だからといって没にしていい人ではない。それら欠点は録音時に弱冠25才のピアニストの若さであって個性でもある。音楽はナショナリズムとは無縁だが、日本人にリムのような人はいるのだろうか?教科書的な解釈に服従した範囲で正確に徹し五十歩百歩の競争をするのと、人間としての作曲家に立ち返ってそこに自分という人間をぶつけ、オンリーワンの解釈を創造していくこととどっちが価値があるだろう?人生の目的は音楽だという人であっても、音楽する目的は宣伝、名誉、生活になっていないだろうか。

リムのリサイタル。舞台にぽつんとピアノ1台。その禅寺のように寂然とした光景がラフマニノフのコンチェルトを演じる場に見える人はいない。それをお構いなしにやる。やりたい衝動があるからだ。そしてその衝動こそを、人間らしい尊い姿として愛するパリの人達が集まり、楽しみ、感動し、心をこめて称賛する。音楽というものが神々しく輝く瞬間だ。

本稿に引用したインタビューはこれだ。

石丸新党の都議選に思った重大なこと

2025 JUN 25 16:16:41 pm by 東 賢太郎

このところ多忙であり、我が家のあたりは選挙カーも来ないのか気づいてないだけなのか、東京都議会議員選挙日であることを午後に知った。すぐに投票所にでかけ、いままで投票するなど夢にも考えたことのない政党の候補者名を、字をまちがえないように慎重に書き込んだ。そして、ついでに成城石井で7千円ぐらい買い物し、そうか、いま俺は消費税700円も払ったのか、こりゃ高いなと感じながら帰宅中ずっと「すでにそういう時代なのかなあ」と反芻していた。投票しておいてそれはないが、夜に、その人が当選したのを知って大いにびっくりした。

過去の権威も既成概念もヒエラルキーもしがらみも、日本では音をたてて崩壊しつつある。月曜に選挙結果の全体を見ると、注目していた石丸氏の新党は42人を立てて当選ゼロだった。偶然と説明するには確率が低すぎる。都知事選で彼は台風の目であり僕も氏に票を入れたが、それは他候補のあまりのひどさに怒りを感じたことが大きかった。氏はスペックも地方分散の政策も良かったと思うが、少なくとも僕においては「バカヤロー」が大きかったわけだ。

ところが、今回はそうではない。「このままでは日本がヤバイ」が大きい。だから石丸新党を横目に見ながらも、積極的にそう発信する別の党に入れざるを得なかった。僕の政治信条はさんざん書いたのでご興味あれば検索いただきたい。共感して下さる方の多くは僕のように選択肢の狭さに追い詰められた「無気味な閉塞感」を懐いているのではないか。

党はちがっても候補者全員がファシストだったら、その国は選挙をしようがしまいが、民主国家を名のろうが名のるまいが、確実にファシズム国家になる。この3年ほどで、もの凄い勢いで左傾化する自民党を嫌って野党に投票したら、選挙後にあっさり看板がすげかわって、「これからは『共に自民党』と呼んでください!」なんて党首ふたりが抱き合ってキスする。そんな国家による詐欺みたいな悪夢があっておかしくない現実を多くの方が怖れていると拝察する。いい日本語がある。おぞましい。

打ち壊されたベルリンの壁

石丸氏の42人のスペックは比較的高く、よくそろえたと思う。しかし「本人は出馬せず党の政策はなしで各人が決める」では何の迫力もない。都知事選の彼は高学歴で海外経験のある普通の銀行員のストレートな物言いが新鮮で、それがうまくネットで拡散されて評価された部分もあろう。しかしそれだけではなかった。僕がそうだったように「行き場のないバカヤロー票」も盛大に乗っかっての2位だったのだ。多くの東京都民はスペックなんかで仕事ができるわけでないことをよくご存じであり、何でもかんでもネットで拡散すれば売れるなんてこともない。「ヤバイ」票は実行力を求めている。どぶ板を踏んででも**をやり遂げますという強力なコミットメントが必要だ。

7月の参議院選挙は大事だ。そこから3年は国政選挙がなく、我々は2028年までその結果に縛られてしまうからである。3連休の真ん中が投票日ってところに、政権が投票率を低めたい魂胆が透けて見える。いい日本語がある。あさましい。

世界のうまいもの(18)熱海編

2025 JUN 22 2:02:19 am by 東 賢太郎

先月、神保町の歩道で蹴っつまづいて派手にころび、とっさに地面についた右手親指の先が折れ曲がるケガをしてしまった。地下鉄の入り口に近いなんでもない平らな歩道で、不可思議ですらある。多摩川の土手から落っこちてスネとヒジをざっくりやったのは去年。あれに比べればたいしたことないと高をくくっていたが一月半たってもまだ痛み、以来、利き手で物が握れず、字が書けず、歯が磨けず、ボタンが閉められず、フタが開けられず、背中が掻けずという困った事態になっている。そんな中、だいじょうぶかなと思ったが熱海までテスラを運転して行った。従妹の旦那に事業参画してもらうことになりいろいろ詰める必要があったからだ。従妹の友人で投資もしてくれているYご夫妻もいっしょである。

集合は婦人方ごひいきの御殿場アウトレットだった。何度か引き連れられて来てるが興味ない。仕方なしにつき合うが、ドルガバに入ったとたん、入り口にあった黄金色に輝くSORRENTO ラインストーン スニーカーに目が吸いついた。梶井基次郎が「檸檬」を書いた光景はこれだったんじゃないかと思うほど僕はキラキラには弱い。周囲はびっくりし、皆さんもそうかもしれないが、従妹だけは平然としたもので、ケンちゃん、それはおばちゃんの遺伝なの、だって光り物に目がなかったんだからとなる。手に取ってひっくり返しているとすぐ若い女性の店員さんが寄ってきた。さすがにお似合いですよのひと言は出ようもないんだろう、驚くべき想定外の爺さんにどうプッシュしていいものか迷ってる風情が初々しい。君、この辺の人?どっから?ときくと秋田だ。そうかい、じゃあ秋田美人だね、秋田弁は青森でわかるのときくとう~んたぶん無理ですねでこれは意外だ。そうか、どっちも行ったことないんでね、東北は田沢湖ぐらいでさ、あの~田沢湖って秋田なんですけど・・。完璧なボケ老人である。これいくら?17万です、そうか、すると上司らしいお兄ちゃんがすっ飛んできて11万になりますときた。僕は会社のデスクに飾りたくなったの、飾りにゃあちょっと高いなあといったがそれっきりだった。いい感じのオレンジもあった。まじめにいいと思った。いくなら両方だな、今度ねでバイバイした。

講談社のレポーターだった従妹のキャラで全員あっさりファーストネーム呼びとなり、男3人は同期という奇遇もおおいに手伝った。翌日の昼飯のことだ。並ぶ覚悟で予定していた評判上々である蕎麦あさ田が夜オンリーに変更になっておりがっかりだ。まあいいよ、行ってもたぶんカレー蕎麦だったしね俺は、もう時間も時間だからラーメン、餃子でいいよねと三々五々ブラっと歩くと誰かが派手な門構えの中華を見つけた。おお、もう面倒だ、これにしようと扉を開けると「開店まで5分です」と中に入れてくれない。愛想のない店だ。ところが誰も外にいなかったのに席について10分もすると地元の常連さんと思しき客であっという間に満員となる。Y夫人がまず僕の糖尿スパイク予防ということで豆苗を注文してくれ、みなさん手当たり次第に餃子もワンタンメンも野菜そばも冷やし中華もチャーハンもたのむ。すると順番通りにほやほやの豆苗がやってきた。なんと、これが劇的に旨い。「香港の陸羽茶室以来のベストだ!」となり、店の内装まで香港に見えてくるではないか。すべて一級品だった。強くおすすめ。

次いで予定はバラ園のようだ。僕は花と木は5種類ぐらいしかいえない。階段がきつい。1時間1本だけど回覧バスがあるぞ、となって安心して喫茶室で待ち、5分前に停留所に戻るとバスは跡形もなく去っていた。なんだこれは?貼紙をみると、22人になると出発しますとあってあ~あだ。じゃあっちに行こうよとなって向かったのは思いもよらぬ熱海城なるものである。おい熱海なんかに殿様いたか?となるが、まあいいや。てっぺんまでエレベータで登ると港と初島を高所から一望できる。これがどういうことか実に心が洗われる。ここで飯食ったら圧巻だろうねなんていいながらワンフロアごとに展示物を見ていく流れのようだが、殿様のトの字も出てこないどころか頓智の絵文字やら春画やらばかりで、まったくもってしょうもない。1階に戻ると「建造昭和34年」とありなるほどだ。しかし、しょうもなければないほど非常に有難味を覚えた。バラ園のバスが来てたら登ることは一生なかったことは100%確実であり、思い出ができた。夜はまたバラ園のところでイタメシらしい。新しいカジュアルなピッツェリアだがコースが質量とも気合が入ってる。熱海檸檬のパスタが絶品。さあいよいよ主菜だ、真鯛と富士山麓ポークか、けっこうあるなというところでY氏が突如としてピザが食べたいといいだし店員さんビックリ。こういうの、わがままジジイめと若いころは思ってたが、いざやってみるとこよなく楽しい。旅の醍醐味とさえいえる。どれどれとピザをひと切れ頂くと、これが生地まで絶妙に美味でふた切れ行ってしまうのである。結局、満腹のツケはポークにまわり、通常であればふた切れは残したものだが「豚に申しわけない」という気分がむくむくと巻き起こり完食した。血糖値もへったくれもない。シャンペン、そこそこのワインが入ってひとり1万は見まちがいかと思った。CODA ROSSA、味も雰囲気もいい店でおすすめだ。

宿泊はハーヴェスト。伊豆山の海辺でごちゃごちゃしておらず、落ち着ける。仕事のあれこれもできたし、終われば温泉でゆっくり和めたし文句なし。午前中は銀行振込でイライラしたが、午後にこういうところでひとりぼーっとできると生き返る。もうそろそろここに移住してビジネスやるかとまじめに思ったものだ。

帰りは老舗の釜鶴ひもの店であじ干物5枚セット、とびうお、真いわし、漁師飯、わさびのり、わさび漬け、くさやを土産に。これは昔から熱海観光の定番であろうが、海外に長くおって飢えていたもののひとつだから特別な感情がある。帰りは小田原で蕎麦の名店の予定だったが、従姉が車で爆睡して通り越してしまい、かわりにだるま料理店へ。明治からある料亭で結構だ。僕は地魚の鮨と鰺のたたきが食いたかったからだ。鰺は自分で船で出て釣ったもんだ。朝どれの真アジは東京のスーパーで売ってるのとは別な魚で、これを知ったらあんなのは臭くて食べられない。大満足だった。この素晴らしいメンバー全員の健康を祈る。

今回、予定通りいったのは見事なほどにほとんどなかったが、まさにビジネスもそういうものである。箱根でまったくの偶然から従妹夫に話し、彼はその役割に判で押したようにドンピシャなキャリアの人だったということが徐々に判明し、今回の熱海で話はほぼ固まった。きっと不測のことがいろいろ起きようが、今回の旅のことを思い出せばうまくいくだろう。

 

モンテヴェルディ「聖母マリアの夕べの祈り」

2025 JUN 17 10:10:26 am by 東 賢太郎

今回ひっぱり出したレコードはモンテヴェルディだ。とても懐かしい。これについてはまず愛読していたレコード芸術誌について述べる必要がある。同紙の柱は評論家による新譜月評であり、順番は、交響曲、管弦楽曲、協奏曲、室内楽曲、器楽曲、オペラ、声楽曲、音楽史、現代曲だった。ちなみに英国のクラシック専門誌グラモフォンの月評は声楽から始まっていたように記憶するが、2000年以降は管弦楽、室内楽、器楽、声楽、オペラの順番で、2番目に映画音楽が入ったりもしてあまり後先にこだわっていないように思える。英国は世情に柔軟であり日本は規範に硬直的なのだ。だからオンラインの波でCDが売れなくなって新譜が減るとレコ芸は廃刊になり、グラモフォンは生き残っている。日本の代表的企業であるシャープや東芝が2000年あたりからITの波に乗り損ね、台湾に買われたりファンド傘下で上場廃止になっているのを思い浮かべる。

長年購読するうちレコ芸の順番が英、数、国・・のように刷り込まれ、「交響曲が一流、オペラは二流」と長らく思っていた。レコ芸はドイツの学者によるイタリア無視の音楽史を信奉していたことになるが、君が代の和声付けをドイツ人がした国だから仕方なかろう。それはいいが、末端に位置する音楽史、現代曲とはなんだ?現代曲にも交響曲、管弦楽曲はあって定義の混交があるがなぜか?それもない音楽史とはいったい何物だ?となり、そもそも楽曲の形態で分類しているのになぜ歴史という異質が出てくるんだ?という不可解さは消えなかった。その結果、音楽史なるもの(境界がアバウトな補集合としての「バロック以前」と思われる)は日本史でいうなら縄文時代みたいなもんだろうというとんでもない結論に至ってしまう(つまり試験に出ないから無視)。

恐るべき愚考であった。西洋音楽は、最古の楽譜史料(グレゴリオ聖歌)として音がわかっているものでも9世紀後半までさかのぼる。それ以前の聖歌は古代から口頭で伝承されており(新約聖書には、最後の晩餐で賛美歌を歌ったことが言及されている)、そこから中世、ルネサンス期にかけて教会の残響の中で旋法と和声が産まれ今に至る。現代の西洋音楽はまぎれもないその子孫である。つまり、僕の「縄文時代」の思い込みは愚考であったものの、1万6千年あった縄文時代に比べてたった150年なのが近代日本だという図式はたしかに似たものなのである。教会の残響に対する我が嗜好だけは捨てたものでもなかったが、仏教の読経を百人の僧侶がサン・マルコ大聖堂でやっても壮大な音響ページェントになろうから東西の優劣という話ではない。日本は木、西洋は石が建造物のスタンダードになった、その違いだ。西洋は家も石だから残響がある(ドイツで最初に住んだ家の居間に置いたステレオの音響が衝撃的で、それが今の家のリスニングルームの発想に至った)。障子と襖の日本家屋は残響ゼロだ。両方に住んだが、子細な音まで明瞭に聞こえる家で育つ日本人の耳は虫の音まで聞き分けるほど繊細になったことは古典文学に記された。音楽におけるこの文化的差異は重要だろう。

従って、西洋音楽という文化を演じるにせよ鑑賞するにせよ、ルーツが教会にある事実は知識だけでなく耳で知っておくことは役にたつ。西洋人は千年以上も前から、それが「良い音」と感じているからである。教会の音は小さくても遠くまで響く。コンサートホールでもそれが良い音だ。実演に接して驚いた演奏家が二人だけいる。ルチアーノ・パバロッティとムスティスラフ・ロストロポーヴィチだ。どちらも座席は後ろのほうだったが小さな音がまるで近くにいるように軽々と響き渡ったのが記憶に焼きついている。良い音は誰もが求める。だからチケットはいつでも完売になり値も高い。ワインテースティングでは「まず一番高いのを飲んで覚えろ」といわれたが同じことで、「有名だから」で群がる成金趣味とは異なる。音楽を分かっていれば、実演のパバロッティのテノール、ロストロのチェロの音が良くないという人は、いくら好き好きを認めてもひとりもいないだろう。というより、そういうものを「良い音」と呼ぶのであって、そうでないといういかなる個人的感想も劣後する。でも、教会の音は誰が発しようと小さかろうと遠くまで響くのだ。

「音楽史なるもの」の誤謬が解けるにはヴェネツィア訪問の実体験を要したことはここに書いた。ずっと日本にいたら知らないままだったかもしれない。百聞は一見にしかず。言うは易しいが僕はそれから42年たってこれを書いている。

ヴェネツィアの残照

サン・マルコ大聖堂で気づいたというなら格好いいのだがそうではない。ガブリエリのレコードやその後の数々の教会体験で大空間のサウンドの魔力を覚えてからのことだ。広く宗教音楽という意味で決定打だったのは2006年クリスマスにウィーンのシュテファン大聖堂で偶然に行事としてやっていたブルックナーのミサ曲第2番ホ短調を耳にしたことだ。51才であった。恥ずかしながらそんなに長くクラシックを聴いていながら、僕は巨匠モンテヴェルディすら知らなかった。いや、というよりも、まさしく「音楽史」を知らなかったのだ。

写真のLP、色に年季がにじむが、これを買ったのは30才を過ぎたロンドンである。バーゲンで3ポンドだったからだ。大いに得した気分だったが実はそういう買い方は良くない。針を通してもさっぱりだったのは未熟者で仕方ないとしても、以来、やっぱり3ポンドなりの扱いになってお蔵入りした。ミシェル・コルボ指揮ローザンヌ声楽・器楽アンサンブル、1966年録音。令名は日本でも轟いていたエラートの看板アーティストであったが、ジャンルがジャンルゆえ耳にしておらず、これ以後も買っていないから空前絶後の一枚になってしまったわけだ。

これをひっぱり出そうという気になったのは理由がある。ヴェネツィアで無知を悟ってから延々と、暇をみてはルネサンス以降の世界史の勉強をし直してきたことだ。音楽のためではない。12年もヨーロッパに住んでいれば自然に湧きおこる好奇心だ。日記を書くのもそうだがそういう何気ない努力はしてみるもので、いまになって有難味がじんわりと出てきている。音楽史はそこから孤立した特殊ジャンルではない。政治史であるいわゆる世界史の一断面であり、百年後の人類は、放送自粛にまでなったジョン・レノンの「イマジン」をベトナム戦争、湾岸戦争を知らなければ味わい尽くすことは難しいだろう。そういう側面を述べてしまうなら、クラシックは難しい、インテリ趣味だというのはあながち間違いではない。なぜなら、世界史に通暁しておればよりよく味わえるからで、高校で誰でも習う世界史をそれなりに知っているとインテリ呼ばわりされるならクラシックがお高くとまってるというより日本の高校教育が間違っていることになろう。それは単に、歴史を知らずに京都やローマへ観光にでかけてビーチがない、ゴルフ場がないと嘆くようなもので、ならばハワイにでもという話だ。

歴史を知れば楽譜を知らなくても構わないように、キリスト教徒でなくても宗教音楽は味わえる。「聖母マリアの夕べの祈り」(Vespro della Beata Vergine)はカトリック教会の典礼に使用されてきた聖母マリアに関する複数の聖書のテキストから構成されている。現在でも書かれた動機は分かっておらず、音楽学者たちの議論が続いているそうだが、その辺の事情には僕は疎いモンテヴェルディの生没年(1567洗礼 – 1643)はガリレオ・ガリレイ、独眼竜・伊達政宗とほぼ重なる。この音楽が出版された1610年頃にはまだ世界は太陽が地球を回っていると信じており、日本では江戸幕府が開かれ家康は最晩年だ。興味深いのはその3年後の1613年に政宗が支倉常長ら「慶長遣欧使節」を送り、一行は翌年10月にセビリアに入り、12月から翌年8月までマドリッドに滞在してスペイン国王フェリペ3世に謁見。10月にローマに至って教皇に謁見し、1616年1月まで滞在して帰国したことだ。日本人初の海外渡航、1年3か月の欧州滞在。教会の式典でかような驚くべき音響世界を体験し、打ち震える機会もあったに相違ない。そこから400年、文明は劇的に変わったが、音楽はそうは変わってない。

 

フォーレ「夢のあとに」作品 7-1

2025 JUN 15 8:08:40 am by 東 賢太郎

先月書いた「詩人の恋」は僕にとっては平静に聞けない音楽だが、それはシューマンが封じ込めたアウラが心の奥底に深く忍びこんで共振してくるからだ。シューマンの音楽のなにもかもがそうなのではなく「詩人の恋」だけの持っている特別な味だ。それをくみ取って、余計なことをせずに直截に演じてくれる音楽家を探す。クラシック音楽という無尽蔵の宝を渉猟する楽しみはそれに尽きる。

その稿にヴンダーリヒとシュライヤーの歌唱をあげたが、共振という意味で最もインパクトを感じるものをあげろというならシャルル・パンゼラとアルフレッド・コルトーになる。これをあげなかったのは、録音が古いからでもコルトーのピアノが技術的に弱いからでもない。フランス語圏の(パリ音楽院の)パンゼラのディクションがどうかと思ったからだ(ドイツ人に聞かないとわからないが)。しかし、仮ににそうだとしても演奏の魅力をいささかも減じない。39才の彼も伴奏のコルトーもハイネの詩心を深く読んでいると感じるからである。詩人の憧れ、夢、恐れ、怒り、動揺、焦燥、虚勢、諦めを音楽的技法で “解釈” し、その完璧さや知性の透徹を愛でる、フィッシャー・ディースカウがドイツ・リートで成し遂げた歌唱の到達点へのスコアでは計れない魅力がそこにはある。人肌の感情、情動に入りこんで音に堂々と、切々と発露する、こういうことはロマン派の音楽といえども、昨今の演奏家はどういうわけか、古いと思うのか禁欲的になったのか、あまりみられなくなっているようだ。しかし、この曲に関する限り、シューマンはそれを求めている。その起伏の波が心を揺さぶらないはずがない。コルトーが弱いと書いたが、1935年当時、楽器演奏に完全主義を称揚する哲学もまだない。

恋をした男が夢のなかに奇麗な彼女を見て心が動く。ところがある日、彼女は心も姿も変容しており、恋は夢と共に消えてゆく。このモチーフはベルリオーズが「幻想交響曲」で用い、シューマンがこの曲で用い、メーテルリンクが「ペレアスとメリザンド」で用いて4人の作曲家が音楽をつけ、近代ではベルクが「ヴォツェック」で用いた。4人のひとりであったガブリエル・フォーレは「夢のあとに(Après un rêve)」を書いたが、彼は奇麗な女性が大好きな男だった。この詩もそれをモチーフとしている。

君の姿が魅了するまどろみの中
ぼくは夢見てた 幸せを、燃え上がる幻影を
君の瞳は優しく、君の声は澄んで響き
君は光り輝いてた、朝焼けに照らされる空のように

君はぼくを呼び、そしてぼくはこの地上を離れて
君と一緒に飛び立ったのだ 光に向かって
空はぼくたちのために雲の扉を開き
未知なる栄光が、神々しい閃光がほのかに見えた

ああ!ああ!悲しい夢からの目覚め
ぼくはお前を呼ぶ、おお夜よ、ぼくに返してくれ お前の偽りの幻を
戻れ、戻ってくれ、輝きよ
戻れ、おお 神秘の夜よ!

「詩人の恋」の稿に書いた我が夢を思いおこさせる。個人的にそんな経験はないが、夢が去ってしまった後の喪失感は肌身でわかる。去ってしまったすべてのものへの深い深い哀惜の念である。

20代半ばだったと推定されるフォーレがつけた音楽は神々しいばかりの見事さであり、様々な調性でチェロをはじめ様々な楽器で奏でられ女性も歌う。2010年にパリに行った折、オペラ座で来歴の展示をしていた故レジーヌ・クレスパンの歌唱は記憶に残る。

こちらはチェロ。ミッシャ・マイスキーだ。とろけるように美しい。

つぎに、「詩人の恋」をきいたシャルル・パンゼラである。彼はパリ音楽院在学中に当時の院長であったフォーレと出会い、声楽、室内楽を指導された。そこで学生ピアニストのマグドレーヌ・バイヨに会い、彼女は生涯を通じて彼の妻であり伴奏者となった。この録音はパンゼラ、バイヨのものだ。

ほとんどの方に速く聞こえるのではないか。フォーレの指定はAndantinoであるからメトロノームで80ぐらいであり、パンゼラは直伝の解釈だから当然であるが、ほぼ80である。このテンポでこそ、「詩人の恋」とまったく同様のことだが、憧れ、夢、恐れ、怒り、動揺、焦燥、虚勢、諦めを音楽にこめることができると思う。フォーレは歌曲を書いたのであり、だからAndantinoと記したのであって、詩との関連を無視してはいけないのである。

現代の演奏はほぼすべて遅すぎる。多くはただ美しいだけに淫しており、音楽の持つ人間の心に根差した深い内実や重たい心の軋みのようなものをきれいさっぱり洗い流しているように思う。歌曲を楽器でやれば詩とは遊離していき、こういうことになりがちで、大衆はそれに耳が慣れてどんどん淫した快楽を欲するようになる。そういうものはその名の通りポップスであってクラシック音楽ではない。前稿「ペレアスとメリザンド」であげたバレンボイムとBPOの演奏は抗い難い弦の美しさであるが、それは恐らくBPOの高度な技術と鍛錬が生んでいるもので、ライブで聞かないと心が欲して必然として生まれものかどうかは判断できない。音楽界が美音主義に向かうのは悪いことではないが、それが目的となれば演奏会はどんどん空疎となり、名技と音響の展覧会になる。スーパーに並ぶ、本来の香りも味もないが、形と色だけは一律に整ってきれいな野菜みたいにならないだろうか。

 

シューマン「詩人の恋」作品48

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フォーレ「ペレアスとメリザンド」作品80

2025 JUN 14 2:02:35 am by 東 賢太郎

誰かさんの住居からの眺望というなら、圧巻の最右翼であるのは「ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスの邸宅」から見おろしたフォロ・ロマーノであろう。絶景ではない、紀元前8世紀 〜 後5世紀のローマである。初めてそこに立って眼下を一望したその刹那、電気に撃たれたようにここに住みたいと思った。28才の夏だった。以来、懸命に働いて会社を移籍したりなんだかんだあったが、一貫したモチベーションはそれだったように思う。そんな場所を東京に見つけたのが52才。1秒で買うと決めた。3階の夜景はローマだ。しばし浸ってから地下室へおり、何かレコードをきこうと思う。レコード/CD収納棚の1万枚から目についたものを好き嫌いなくひっぱりだす。これが日常だ。日常だから平常であるが、人生はその積み重ねである。

先日はフランス音楽が無性に欲しかった。これと思ったのがシャルル・ミュンシュがフィラデルフィア管(PHO)を振った唯一の録音、フォーレのペレアスとメリザンドだ。シシリエンヌもいいが僕は第1曲プレリュードを熱愛する。この家に越してから未聴のレコードがたくさんあるが、そのひとつだった。陶然とするほど素晴らしい。世評は高いが昔の装置では価値が知れなかった。第2曲のVnの伴奏をきくだけでもPHOが一流どころの中でも「超」がつく理由がわかる。当録音は1963年。オーマンディ全盛時代であり派手さだけが喧伝されたが、アメリカにフィラデルフィアサウンドなんて言葉はない。あれはコカ・コーラの日本用キャッチコピー「スカッとさわやか」のようなもので、日本家屋の音響事情に合わせたマーケティング用語だった。何事もそうであるように基礎技術が抜群でなくして一流にはなり得ない。このアルバム、ラヴェルの「高雅で感傷的なワルツ」、ベルリオーズの「ファウストの劫罰より」とフレンチものをミュンシュという名シェフが調理した逸品だ。ただしデジタルで再生してもいまひとつ。LPの音は替え難い。

この曲は1898年6月21日にロンドンで行われたメーテルリンクの戯曲「ペレアスとメリザンド」の英語公演の付随音楽だ。多忙だったフォーレはオーケストレーションを弟子のシャルル・ケクランに委ねたが、そこから編んだ「前奏曲」「糸を紡ぐ女」「メリザンドの死」の組曲版は自身がオーケストレーションに手を入れ二管編成とした。

フォーレの音楽は驚くべき和声の迷宮だ。とにかく展開が予想できぬ、ちょっと苦手なタイプの女性と話してる感じが近い。しかしその崇高で玄妙なさまはお見それしましたとついていくしかなく、不思議な充足感を約束してくれる。第一曲、第二楽節からそれは全開である。彼はリストの導きでワーグナーのリングをきいて傾倒したが、識者の間では影響はあまり受けていないとされている。そうだろうか?終結でト長調の増三和音(G⁺)のEsをホルンソロが信号音で引っ張り、変ホ長調に転調してから冒頭のメリザンドの主題が回帰するまでの部分は僕にはワーグナー的にしかきこえない。

ワーグナーにないのは、雲間から青空が顔をのぞかせて微光がさしたと思えば暗雲が遮って小雨の気配になるといった塩梅で明暗つかみかねる心の綾だ。語法も感性も異なるがシベリウスを思い浮かべる(彼の初期もワーグナーの影響が顕著だ)。メリザンドは城の男を惑わす不思議ちゃんであり、ドビッシーはドビッシーなりの方法で彼女のとらえようのない曖昧模糊を描いたが、フォーレは特段のことをせずとも、もとよりそうした語法の人だった(シベリウスも同作品の付随音楽を書いたのは偶然ではないかもしれない)。終曲「メリザンドの死」はショパンの葬送行進曲のように始まる。予想外のバスの動きが織りなす滋味深い和声も五臓六腑に染みわたり大変に魅力的である。この味を覚えてしまうとフォーレは抜けられなくなる。

ヴィルトゥオーゾ・オーケストラだから良いという音楽ではない。僕はどうしても一種の「おごそかさ」「しめやかさ」が欲しい。それもゲルマン的な湿気は無用で、ラテン的な乾いたものが望ましいから難しい。

いきなり学生オケがトップにくるが、ジェームズ・フェデック指揮サンフランシスコ音楽院管弦楽団。まったく知らない指揮者だが、細かなニュアンスまでオケが訓練され、指揮の意図をとらえて学生オケが大健闘している。僕は演奏家の知名度やグレードなどどうでもいい、聞こえてくる音楽だけが命だ。第一曲など実に素晴らしい、音楽性満点でベストと言っていい。

もうひとつ気に入ったのはこれだ。クリスティーナ・ポスカ指揮バスク国立管弦楽団。ポスカはエストニア人。この作品への愛情が伝わる。作品をよく研究して知っていることと愛情は別だ。もちろん両方あるのが望ましいがそれが伝わってくる演奏は意外に少ない。終曲の木管の低音の音程がやや苦しいがしめやかで趣味が良い。

書いたことにいきなり反するが、ダニエル・バレンボイム指揮ベルリン・フィルハーモニーは捨て難い。当楽団の湿り気がありバターのごとく滑らかさ極致の弦の魅力ゆえだ。この曲にどうかと思うのだがどうしようもなく美しい。第1曲はまるでワーグナーだが指揮の力だろう、しめやかさの限りを尽くすからなにも文句はない。世界最高峰のオーケストラ演奏が聴ける、なんてゴージャスなCDだろう。

ジェームズ・ガフィガン指揮オランダ放送フィルハーモニー管弦楽団。米国人の知らない指揮者だがこれもいい。細部までデリケートでバランスが良く、欲しいものを欠いておらず才能を感じる。僕はロンドンからオランダを担当しており、ユトレヒトにアメフという大手の保険屋さんがあって何度も行ったが、この「チボリフレデンブルグ」というホールはなかったと思う。このビデオできく限り音響は非常に良さそうだ。

久しぶりにミュンシュのレコードを取り出し、本稿を書くに至った。偶然の産物だが、日々おきていることなんて実はこんなものだ、その集大成の人生だって。

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書いておきたいプロ野球雑感④

2025 JUN 12 2:02:41 am by 東 賢太郎

千葉ロッテマリーンズのもと4番打者、畏友のサブローが交流戦から一軍ヘッドコーチに就任した。実にめでたいが、たまにメールする僕としてはカープ戦は困るではないか。目下のところロッテは最下位と低迷しているが新陳代謝の時期にあると見ている。ちなみに今日のカープ第2戦、オーダーはこうなった。

2番 寺地 2年目(明徳義塾 24年ドラ5)

素晴らしい素材だ!ハーンの剛速球を打ったセンター前など並の打者でない。捕手だが阪神の近本ぐらい打つようになるか。キャッチャーとして佐藤とどっちが上かはわからないが、何せ20歳だ。

3番 池田 新人(習志野高 国士舘大、新人 ドラ2)

4番 山本大 2年目(開星高、2020年育成3位)

どっちもサブロー好みだなぁ。安田がクリーンアップを打たなくてはいけないが、このままだともうお前いらなくなるぞってことだろう。愛斗もいるしね。

もしも、この3人が、阪神の近本、森下、佐藤輝みたいになったら、またロッテの黄金時代が来るかもしれない。その頃に新球場ができてればドンピシャ。

唐川投手。36歳。12球団で最も投球フォームが美しいピッチャーだ。若い子は真似た方がいい。4点取られて負けたがカープが打てるってことは球にパワーがない。しかし元々そういうピッチャーじゃない(だから好みだ)、ちょっと球の伸びが落ちたかな、力いれない球はそう見えた。研究して頑張って下さい。

ライオンズ戦、カープは3つ勝ったが相手では長谷川選手だね、打席の構えが実に嫌だ。こういう感じは新人の時の阪神の大山にあった。カープの打線の波は救い難い。このカード第3戦で10点取った次のロッテ初戦はあわやノーノーの1安打。球威あるピッチャーが出てくると力負けしてほとんどいいあたりが飛ばない。速い球が打てないと変化球も打てないんです、と王貞治さんは言っている。

今日は勝ったけど坂倉はひどかったね、暴投はするわ、見逃しゃ一死満塁なのに高めのクソボールを凡打するわ、次の落とされた空振り三振なんか全然目がついていってないよ。君がだめだと勝てないんだ、頑張ってくれ。カープの打者は引きつけられない。差しこまれるので始動が早く、体が前に動き、外角に落とされて三振。大竹みたいな投手には手玉に取られて前後に崩され手も足も出ない。馬鹿もほどほどにしろだ、もっと頭使えよ。左打者はへっぴり腰でチョンと流してまっしぐらに走る、いわゆる「当て逃げ」。そんなの相手ピッチャーは怖くもなんともないと思うよ。これが芸でいいのは矢野ぐらい。せっかくいいのを連れてきたファビアンとモンテロ、珍しく協調性がありそうないい奴らだけに当て逃げを修得しないか不安で仕方ない。今日は唯一、中崎の球威が戻ってるのが嬉しかった。

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長嶋茂雄さんと重なったあの17年

2025 JUN 9 15:15:17 pm by 東 賢太郎

長嶋茂雄さんが現役だったのは1958~1974年の17年間だ。これは自分が物心ついてから大学に入学するまでの期間に相当する。その17年がどんなだったかというと、クラスで一二を争うチビでケンカも弱く、勉強は何らの興味もなくいい加減で教室の記憶はほとんどない。劣等感の塊で中学まで良い思い出がなく、書きながらあれが俺かと思うぐらい虚弱で影の薄い子だった。何があってこうなったかというと、思い浮かぶのは野球ぐらいだ。好きで好きでとことん没入してしまい、気がついたらその17年がたって劣等感は吹き飛んでいたからだ。

最近よく人にいうのだが、「俺はツキだけなんだ。はっきりいって能力はぜんぜんたいしたことない。でもツキだけはあったんだ。自分の力じゃないからね、たぶん、誰かが後ろに憑いていて助けてくれてる」。こうまじめに言うのだからぶっ飛んでると思われてるだろうが全然かまわない。だってほんとにそう思うわけであり、どう思われようがなんだろうが、あるがままに「後ろの人」におまかせした方がベターということなのだ。17年の色々もそういうことだったと思う。

野球への没入がどこから来たか?それもよく覚えてないが、毎日8時からテレビで見ていたのがそれしか放映されない巨人戦だったことは間違いない。カープファンになったからONは天敵で大嫌いだったことも間違いない。見始めたのはV9のはじめごろで巨人は本当に強くて憎たらしく、念力を送ってでも負かしたいと熱望していたことも間違いない。この「憎たらしい」という強烈な感情が野球への情熱を呼んでいたのではないか。

といって、アンチ巨人でもない。それは巨人ファンの一種だが、巨人見たさでテレビを毎日見たわけではなく、愛していたのは「プロ野球」というユニバーサルなものだ。だから行ったこともない遠隔地の広島カープを何の違和感もなく応援できた。当時、森下仁丹のガムで「あたり」が出ると12球団旗がもらえた。小遣いをもらうたびにガムを買って大まじめに集めており、10ぐらいそろったが球団名は書いてあるから最後の2つあたりになると当たってもかぶってしまい、そのうち企画が終わってしまった。

この雑誌「週刊ベースボール」は小学生時代に細部に至るまで熟読・精読しており、選手や球団の事情を知ったどころか国語の教科書よりもこれで日本語を習得したのではと思うほどだ。このおかげで巨人が広島がというより名選手に憧れるようになり、ということは選手になってプロ野球に入りたいと本気で思っており、いわゆるひとつの熱い野球少年ができあがっていたことも間違いない。中1までクラスで一二を争うチビであったのにそう思えてしまう。それほどに当時の男の子にとって野球は魅力だったわけだが、僕にとってはそんな程度ではなく人生の本気の目標であり、それにはまず甲子園だと高校野球まで意識した。だから中3では野球の強い高校に入りたいと思いひとりで黙々と走り込みをしていた。もしそうしていればその17年はどうなっていただろう。落伍してグレたかもしれないが、体ができるまで試合に出られなかったろうから肩も壊さず、大学まではできたのではないかと思う。

ちょうどその17年間、プロ野球界で燦然と輝いていたのが長嶋さんだった。記憶に残るここぞの場面で打ちまくり、国民的スターの地位に登りつめていた。その独特な言葉までが話題になり、単なるマッチョでなく愛されキャラだったことも人気のうちだったが、僕は彼のビュンとかバーンとかいうオノマトペ(擬音)が変だと思ったことは一度もない。言いたいことが巨大だと通常のボキャブラリーを超える。それを使わなくても通じるのは普通のことだ。彼が伝えたいのは普通じゃないことであり、それを笑うのは普通の人なのだ。彼は普通の人であるお客さんを喜ばせるプレーを意識してやっていたようだが、オノマトペもそれだったかもしれない。

当時、人気絶頂だったON砲の長嶋派、王派がよく話題になった。僕は派というより長嶋さんに基本的な共感があった。というのは、後に証券マンになって、「こういうディールはピンとはねたらバーンとやんなきゃできねえだろ、なにやってんだこのボケが」なんて発言を僕は若いころ日常茶飯事のように部下にしていたからだ。当時の証券会社が体育会的職場だったことはあるが生まれつきそういう人間であり、怒ったのでなく部下を一人前にしたかった。昨今だって、たぶんこれ誰もわかってねえだろうなあというのがいくつもある。擬音は幼児のものだが、大人がボキャブラリーを超越したものをリアル感で伝える役にも立つ。それをわからせてあげたいという無報酬の情熱があるかないかに尽きるのであって、僕は「ある派」だから当然のように長嶋派だった。

結局、野球はだめで、というよりケガで突然奪われてしまい、人生最悪のどん底に落ちたのが17年の結末だ。真っ暗だった。大学にそこまでこだわる気はなかったがプライドを奪還できそうな手は他になく、初めて勉強に没頭した。そして長嶋さんが1974年に現役引退し、翌年、僕は合格し広島カープは初優勝をとげた。かように、人生のピースでど真ん中にあったのは野球であり、プロ野球選手になりたいという本気を馬鹿げているほどの年齢まで持てたというのが僕の個性であり、「後ろの人」の判断で僕は27才でニューヨークに呼ばれ、もとプロ野球選手たちと対戦し、MVPのトロフィーをもらって人生の帳尻を合わせてもらった。そう信じるしかない。

長嶋さんにお会いしたわけではないし、もとより熱烈なカープファンなのだからここに拙文をのせるいわれもないのだが、あの17年、彼の太陽のようにめざましい現役時代とぴったり重なった奇遇に手を合わさせていただいている。パフォーマンス(結果)に対するまっすぐな情熱があれほど人生をドライブしたような人を他に誰ひとり見たことがなく、野球はその内だっただけではないかとさえ思え、オーラは相手ピッチャーだけでなく日本人1億人を包み込んでしまう。そのひとりになれ、最悪のところからやる気を出させていただいたことには感謝しかない。心よりご冥福をお祈りします。

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