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予想屋ではないけれど

2018 APR 24 0:00:15 am by 東 賢太郎

僕は予想屋ではない。仕事ではわからないことはいっさいやらない主義だから予想というものは不要だ。いっぽうブログは仕事でないので気軽にたくさん予想するが、下手な鉄砲でどれかは当たるという仕組みになっている。

しかし、昨今、その「当たり」が有難くないほうばかりに偏ってきていてどうもよろしくない。例えば今年の3月25日に東京ドームで巨人対楽天のオープン戦を観戦したブログにこう書いた。

オープン戦は当てにならないが、見る限り中日も良さそうで、去年お客さんだったこの2チームが復活するとカープは場合によってはAクラスも危ない。今日SBに逆転負けして5連敗だが、投手がいない。僕は去年は岡田、薮田が出来過ぎだったと思っており、それは黒田効果の余熱だったと考えている。熱は残ってるのだろうか。大瀬良も打たれ九里もだめで先発はジョンソンと野村だけだ。中継ぎもジャクソンが危ないしカンポスはどうも中途半端だ、もっといいのがいなかったのか。抑えも中崎だけだがサファテ、カミネロのウルトラ・パワーに比べるとどうだろう。打線は鈴木誠也次第でそれなりに点は取るだろうでが、投手力は大いに不安があるのである。

きのう、カープはついに中日に3連敗を喫し、薮田は3連続四球でKOだ。岡田もパッとしないし大瀬良は3点は覚悟のピッチャーに落ちた。野村は打撃投手みたいに打たれ、ジョンソンもかつての勢いなくジャクソンは中継ぎ失敗続き、カンポスは影すらない。故障者が復帰すればソフトバンク並みと思われるDeNAが走りそうだし、お客さんの巨人、中日に食われれば4位がいいところだ。

まあ野球などかわいい。問題は北朝鮮だ。去年の5月22日に書いたこれが当たってしまいそうでぞっとする。

金正恩のさらなる高笑い

こっちは去年の5月26日の投稿だ。そのころ、まさか天下の財務省にまで飛び火しようとは思わなかったが・・・。どうしてこういうことが起きたか、ここに書いたことが巷で言われだしている。

加計学園問題を注視すべき理由

最後に、ひとつだけ明るい話題。これがこんなに早く適中するとは!!!大谷君、日本を背負ってるぞ、頑張って。

「エースで4番」とはなにか?

 

マーラー 交響曲第9番

2018 APR 22 23:23:54 pm by 東 賢太郎

マーラー9番というと、ロンドン時代にバービカンでクラウディオ・アバドのを聴いて感銘を受けた。87年1月のことだから31年も前だ。そこからカラヤン、ジュリーニ、クーベリック、ワルター、セル、バルビローリ、バーンスタイン、ノイマンを買っているから聴きこみはしたようだ。

第九の死の呪縛を大地の歌のフェイントでかわしたマーラーは、ついに正面から取り組むことになった9番を謳ったこれの終楽章をersterbend(死に絶えるように)と書いて終えた。そしてそのとおり、彼は聴くことなく亡くなった。

9番を書いていたころ、ニューヨーク・フィルの指揮に専念した彼は欧州を飛び回って7,8番の指揮で多忙でもあり、アルマとの関係は微妙になり、心身共に交響曲を作曲できたとは信じ難い状況にあった。そこで「狂ったように大急ぎで、あわただしく、ほとんど書きなぐられた」9番になにか秩序を求めても仕方ないと思っている。

この曲は形式論理が一見ありそうでなく、熱病にうかされたように散文的だ。緩-急-急-緩の4楽章をフランス風序曲に倣ったとする人がいるそうだが、この時のマーラーがこの重いテーマの狂ったような曲でそんなものに倣う必要がどこにあろう。理解不能の説である。チャイコフスキーの悲愴に倣ったのだと思う。だからersterbendであり緩-急-急-緩なのだ。彼がニューヨーク・フィル定期公演で振ったプログラムに悲愴を見つけてそれを確信した。

スコアを見て思い浮かべるのは曼荼羅、タペストリーだ。狂ったようにではなく、狂っている(特に第3楽章)が鳥瞰するとまとまった図柄に見えるという性質のものだ。だから、ここからは毎度のマーラー批判になるが、僕は人間の恣意ばかり感じて神性をいささかも感知せず、分析しようという意欲に着火しない。ピエール・ブーレーズが晩年にブルックナーを振ったのは何とか理解するがワーグナー、ましてマーラーに行ったのはわからない。ワーグナーの音楽は図抜けているが僕は彼のがなった朗読を聞きたいと思わないし、マーラーは楽器でそれをやっているとしか思えない。

マーラーはワーグナーと同じく鳥瞰的な天与の和声感覚、バランス感覚があり、ミクロの整合性には一向にこだわりがないのに終わってみるとまんまと強引な計略にはまっているという音楽を作ったが、しかし僕は神様は絶対に細部(ミクロ)で手は抜かないと思っているから、うまく書けている作曲技巧に敬意を表しつつも、人為的な押しつけがましさに辟易するぐらいならお付き合いはやめておこうと思うに至って久しい。

金曜にこういうプログラムを聴いたが、以上書いた心象が特に変わるものでもない。アイヴズは実演を初めて聞いた。前から苦手の最右翼だが、一音たりとも良いと思う音は感知しなかった。

 

指揮=シルヴァン・カンブルラン

アイヴズ:ニューイングランドの3つの場所
マーラー:交響曲 第9番 ニ長調

(サントリーホール)

 

 

 

「謙虚」と書いた貼り紙(O先輩への感謝)

2018 APR 21 1:01:31 am by 東 賢太郎

新入社員のころ、メンターだったO先輩に口ごたえして「お前は生意気だ、自信過剰だ、ばかか、学生じゃないんだ、社会はそれじゃ生きられないぞ」と叱られ、寮の部屋の壁にマジックで「謙虚」とでっかく書いた紙をバーンと貼られてしまった。社会に出て面と向かってばかといわれたのは2度しかない。

4年上だから人事制度上はインストラクターではない。当時の支店は大変なところで、入社してすぐの離職が多く、あいつはすぐ音を上げるかもしれんという含みで唯一の同窓同学部だったOさんがそんな役をされていたかとも思うが、仕事もできる人で尊敬してなついていたし、人生相談にも乗ってもらっていた。後にも先にもそんな人はOさんしかいない。

あることで悩み、「そうか、そういうのはな、瘡蓋(かさぶた)になってはがれるのを待つしかないな」と、暗にあきらめろというアドバイスだったが、彼はそうは言わない。瘡蓋、はがれる、待つ、あまりの言葉の見事さが心に焼きついて、それがかえってなぐさめになった。その時だ、この人は天才だと思ったのは。僕が海外赴任中に若くして他界され、貼り紙は今になればなんと有難いことだったかと万感の思いだが、それで謙虚になったかというとだめだった。

これはどうしても自分と野球の関係に逃げざるを得ない。プロに行くようなスポーツ万能の図抜けた人やO先輩のように抜群の知力のある人はそうではないだろうが、ほかに本当に何のとりえもなかった小心者にとっては、野球の微小な成功体験をプライドのよすがにすごすしかなかった。社会人になってもその余勢でつっぱっていたのだということがあの貼り紙事件でわかるが、自分の中では恥ずかしい記憶として消されかかっていることに気づいてはっとする。

おまけに物心ついたら家にネコがいたという事実が重なる。何の関係があるんだと思われるだろうが、就職するまでに多くのネコと兄弟のように育ったというのも人格形成に影響があったとまじめに考えている。ネコはハンターであり攻撃型動物だ。野球でいうと打撃や守備は来た球を迎え打ったり捕球したりの受け身だが、唯一投手だけは一方的に打者に球を投げつけ攻撃一点張りなのだ。ネコに野手は似合わない。その2つが少年期に根深く重なるとこういうことになる、という人間になったとしか考えようがない。

謙虚?なんだって?「いや~僕の投げる球なんてへろへろですよ、ハエがとまりますよ」みたいなこと言えってのか?そんなのは卑屈ってことじゃないか?先輩の張り紙はそう見えていたので、1週間ぐらいではがしてどこかに消えた。

31年の長いサラリーマン生活は、O先輩の警告があって、瘡蓋、はがれる、待つ、の言葉のずっしりとした重みとともに深層心理に焼きついていて、なんとか無事に切り抜けられたのだったと思う。僕は謙虚で優しいのに強い男を何人か知っている。それはある意味で男の完成形だ。攻撃し続けるなんてのは吠えるスピッツであって実は弱い。弱い者の謙虚は卑屈ととられかねないからそうする勇気もない。強い者の謙虚は木鶏のようであり、静かであっても強い。そうなのかもしれないと思いだしたのは、ドイツに不承不承の落胆の中で、心に矛盾を抱えて赴任をした37才のことだ。だからそこで生まれた息子の名には「賢」ではなく「謙」の字をつけた。

 

 

マリア・ジョアオ・ピリス最後の公演

2018 APR 18 2:02:47 am by 東 賢太郎

4月17日 19:00 サントリーホール

モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第12番 ヘ長調 K.332
モーツァルト:ピアノ・ソナタ 第13番 変ロ長調 K.333
シューベルト:4つの即興曲 Op.142, D935

モーツァルトK332。10年ぐらい前に第1,2楽章を練習してよく弾いた大好きなソナタ。第1楽章アレグロがやや速めかなというテンポで入るが、オペラ・ブッファのいそがしい場面みたいに次々とあれやこれやエピソードが急転する楽章なのに不思議と饒舌よりエレガントにきこえる。アダージョはもっとロマンに深入りできる楽章だが古典的均整を見せ終楽章は流麗に美音がかけめぐる。K333は典雅に始まり、まったく清楚だ。第2楽章はK332にも増して暗い陰を投影する謎めいた部分が出てくるがここも深い。素晴らしいニュアンス、若鮎のように流れるフレージングの絶妙の伸縮と間。これぞピリスのモーツァルトであり一世を風靡したのがもっともである。

僕にとってモーツァルトのピアノ曲を聴くということは、旋律の隅々まで、律動のゆらぎや無音の間や和音の一音一音の細部までに研ぎ澄ませた意識の光を照射してコクを味わうことだ。鑑賞というより観察に近いかもしれないが、耳がそうなるのはモーツァルトだけであり、それで味わうに足る演奏などそんなに存在しない。神経がそうなるとこちらも疲労するのであって、その労に報われない演奏とわかるとすぐ集中が切れてしまう。

ピリスのものはどこの細部に神経の光を照射しても、そこにそれを上回る彼女の神経がまわっており、わずかなほつれも見つからず、こちらが苦労すれば喜びが倍にもなって帰ってくる。これはミスタッチがあるないという卑俗なレベルのことではない、本当にすごいことだ。頭によるコントロールと指の訓練による人工的な、よく遭遇する、モーツァルトは珠を転がすような美音で弾かれるべきだという空疎な勘違いの観がいささかもなく、正に天衣無縫である。前回に音楽は演奏者の人格と書いたが、この人はきっとそういう人で、そう生きてきてそう生活しているのだろう、だからああいう音楽になるのだろうとしか考えられない。

カサドシュ、ハスキル、ヘブラー、クラウス、アンダ、カーゾン、グルダ、ゼルキン、モラヴェッツなど心をとらえるモーツァルトを聴かせてくれた人がみんな鬼籍に入ってしまった。ピリスまで引退してしまうとモーツァルトをきかせる人は内田光子しかいなくなってしまうということなのだろうか。ショパンをうまく聞かせる人はいくらもいるが、僕はその良い聴き手になりようがない。

後半のシューベルトD935。これは最晩年の少し怖いところを含んだ音楽で第1曲の主題に半音がまとわりつくところは未完成交響曲第1楽章第1主題を思わせる。演奏はしかしそのような外縁に意識を押しやることなく、ひたすら高い集中力で内に向かう。この世のものと思われぬバランスのとれた美しいピアノの音(ね)。過度に煌めかず楚々と光る高音。フォルテはその音域でささやくピアニシモがそのままの質感で大きくなったもので、いささかも粗暴に響かない。アンコールの3つのピアノ曲より変ホ長調はピアノ演奏として未曽有の聴体験だった。

ベートーベンのときと同じく、心がえもいえぬ満足感に満ちていて食欲すら感じない、帰途についても体が芯からから温まっていて涙が自然に溢れる。頭には「ありがとう」という言葉しか浮かばない。きっと曲目のせいではないのだろう。生まれてこのかた彼女の2度の演奏会にしか経験すらなかったことだが、これはもう二度とやってこないのか。ピリスさん、ほんとうにありがとう。

ブロムシュテット/N響の幻想交響曲を聴く

2018 APR 16 0:00:14 am by 東 賢太郎

幻想交響曲を久々に聴いた。ブロムシュテット(N響)ということで、これはどうしてもという気になった。この曲がドイツ語圏(ハプスブルグ王朝支配圏)で どう扱われてきたかはフルトヴェングラー、クナッパーツブッシュ、コンヴィチュニー、シューリヒト、E・クライバー(息子も)、ベームが振っていないことで推察できる(トスカニーニも然りである)。フランス人がベートーベンを敬意をもって受容した裏返しのことは100年たってもなかったという風に見える。

ラテン系、ユダヤ系が得意としている事実を知ると上記のワグナー、ブルックナー、シューマン、ブラームスをうまく振る人たちとの断層を感じないだろうか。理由は不明だが、独仏の文化的相違と言っては巨視的に過ぎる。フランス器楽音楽への軽視(蔑視)、和声や対位法やバスの扱いがドイツの作曲法の文法で書かれていないこと、楽器法が斬新極まりない(ドイツ的には妙である)こと、題材が不道徳であること、フランス革命を連想させること等々いくつも論じられようが、総じてこの音楽が作曲当時として、あらゆる意味でいかに特異な音楽かという点に行き着く。

その視点からスコアを観て、4年前にこう記した。こんなブログはもう書けない、愛着あるもののひとつだ。

ベルリオーズ 「幻想交響曲」 作品14

これをスウェーデン系のブロムシュテットが振る。彼はなにやらドイツ物の巨匠とされてしまったが、僕としてはN響とやって心から畏敬の念をいだいたのはシベリウスだけだ。

前半にベルワルド交響曲第3番という自国の作品を置いた。正直なところ僕にはあんまり面白い曲ではなかった。これを50手前で書いた人と27才で幻想交響曲を書いた人を並べてどうのという気には到底ならないが、この配置は指揮者がスウェーデン系という立ち位置で幻想を振るよという宣告なら意味深い。

幻想は1、4楽章の繰り返しありで筋肉質のアンサンブルだがあまり湿度を感じないのはブロムシュテットのドイツ物、チャイコフスキーと同じ印象だ。テンポやフレージングで特にユニークなことはなく正攻法。第4楽章冒頭のミュートのホルン、終楽章のフルートの妖怪風グリッサンドなどは普通に強調され、そういう奇天烈を抑え気味にする傾向のドイツ系指揮者の伝統回帰センスとは異なるものを見せる。

1830年、ベートーベン死後すぐの27才の若者の奇天烈が、188年後の63才の耳を驚かせる。耳にたこができるほど何度も聴いているのに!そのことこそが驚天動地でなくて何だろう。

曲想と調性感は女に狂った若者の心をなぞって時々刻々と変転し、第1楽章の終結部と第3楽章を除いて一時も平静に収まることがない。それが古典派の大枠をぎりぎり超えることがなく、完璧な均整と調和で書かれた三和音による調性音楽となんら遜色ない盤石の満足感を残すのは奇跡というしかない。文法は異なっても、それはベートーベンの音楽が残すそれと対比しても良いのではという思いをもって帰路についた。

これは聴きに来てよかった、ブロムシュテットとN響に感謝。そして何より、ヴィヴァ・ベルリオーズだ。

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ソナーの移転と採用について

2018 APR 15 2:02:41 am by 東 賢太郎

オフィスの移転は昨年末に決めたが、いよいよ14日(土)にホテル・ニューオータニのガーデンコートに引っ越しを行った。会社の移転作業は初めてだが大仕事に社員が頑張ってくれ、慣れないIT環境のセッティングにはネクサスの3人、SEパートナーのH社長も駆けつけていただき大変頼もしかった、全員に感謝したい。そして来週16日(月)には新しく4名が加わり、ソナーは名実ともに新しいスタートとなる。

創業地の旧オフィスには思いがたくさんあって、卒業できたうれしさもあるが寂しくもある。

新オフィスへの移転

移転と採用に踏み切ったのは、創業から7年たって伊賀の影丸型経営の「本丸増強」が必要となってきたということに尽きる。アウトソース優先で案件ごとに最も必要・有力なワークフォースとパートナーシップを組むのがそれだ(パートナーシップ型アメーバ経営)。業務を固定化・硬直化して変化に対応できないリスクを背負う上に無用な固定費を増やすという二重の愚を回避したいからだ。

「伊賀の影丸」型組織論

本丸は極小がベストだが、いくつかの理由からそこを増強することにした。当ソナー・メンバーズ・クラブ(SMC)の社長を長らく任せてきた西室にソナー経営全般に参画してもらい、また、実務レベルの部門リーダーとして執行役員を設けることにする。次世代のソナー経営者はそのリーダー役を経てもらうことになるだろう。といって影丸経営をやめるわけでは毛頭ない。本丸は極小である。それによってゼロからここまで来たのであり、考え方と経験則は僕の中で確立している。

ソナーが今日あるのはまず株主のおかげである。どこの馬の骨かわからん時期に出資して下さった信用に勝るものはない。報いるのが道理であり人の道だ。社員にはみな幸せになってもらうが、それも同じ理由からだ。信用には信用で返す。影丸経営はそこまでの信用なきところにも一定の関係は保つわけだが、それは代替可能な一介のディールとしてだ。ウチ、ソトでいえば、本丸だけがウチであり、アウトソース不能なものということになる。

ディールとは収益機会であり、そこにあらゆる微細な部分まで(算術的な意味で)経済効率を求めるのは当然である。一方で本丸の目的は収益機会創出の最大化だが、より本質的な意味で、存続である。存続はソナーの信用力の関数であり、それを信用資本主義なる言葉で説明してきた。

ソナー・アドバイザーズの人材募集

収益率の算術と存続のための算術は異なる。両者は大局的にはミクロ、マクロの関係を成すがどちらが優位ということはない。ミクロ(収益率)に合理的に経営資源を結集しておればマクロ(存続)が達成されるという考えは、ミクロ単位での失敗リスクを吸収するある一定の資本というバッファーの蓄積があって可能である。まだそこにない我々が資本を信用で補完するのは当然である。

ということは両者の連立方程式の解を求めることが合理的であり、その帰結が影丸経営ということである。式の係数は日々変化するから解も変わる。それを解き続けることが我々の経営の本質であり、「解なし」の場合はどんなに魅力的に見えてもその行動はおこさない。そこで否定するのはミクロであるというこの一点においてのみマクロが優先する。簡単に書けば、もうかるからといって信用の持続ができないことは一切やらないし、排除するし、ウチには入れないということである。

この数か月種々のことに遭遇したが、それは僕のリスクマネジメント力のストレステストであった。乗り越えたことでお客様の信用はむしろ増した。教訓はソナーの本来の生命線をはずれないこと。自分の考えに合わないことはしない、最悪の場合に自分で完結できないことは最初からやらない、引受けない、である。

 

PS

ネクサスの動画は配信100本を超えてから、このページの下方に3つのサンプルがあるが順調に新しいコンセプトを切り開いている。ネクスター(NEXTAR)という称号とともに撮影、配信させてもらう未来のスターも70人ほどになったが、出演者はこちらの基準で選ばせていただいており、この選別こそがネクサスの目利き力であり、個性だ。こちらから全部が視聴できる。

NEXTYLE

制作、配信は上記の社員3名を中核にソナーと同様に影丸型で進めるが、制作工程は金融と異なり手作りであるからより製造業に近く、ウチ、ソトの関係はソナーより密接だ。アルバイトも戦力であり社員予備軍であり、自分でサイトを観て応募してくるケースも出てきた(東大生もいるときく)。そう遠くない将来、出演者もそうなるだろう。

ソナーはアドバイザーであり特定の顧客の利益に供するという意味ではプライベート(私的)な存在である一方、ネクサスは誰でも有望な若者に接して元気をもらえる番組を配信するパブリック(公的)な存在である。僕のクラシック音楽に関するブログはネクサスのコンセプトの一部であり、やがてそこに包含されるだろうから、金融会社の経営をしながら音楽ブログを書くということは僕の中で私的・公的のバランスがとれていることであり、ビジネスのためにも僕個人の人生観としても極めて重要なことだ。

ビジネスは自分や一部の人だけの金もうけではだめである。それでは存続しない。既述のとおり存続はソナーの重要な経営視点であって、ネクサスは一個のビジネスとして収益化、存続をしなくてはならないが、高次の接点でソナーと表裏一体の発展が可能だ。これは僕が目指すところであり、だれも考えたことのない展開をする。オンリーワンこそ存続へのベストのストラテジーである。

 

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マリア・ジョアオ・ピリス演奏会を聴く

2018 APR 14 1:01:13 am by 東 賢太郎

あの32番は名演として語り継がれるだろう。

目には見えない何か偉大なものに接している感覚というのは、人生そうあるものではない。息をひそめた聴衆の尋常でない気配と空気がサントリーホールに満ち、最後のピアニシモが天空に吸い込まれると、自分が何に感動して涙まで流しているのかわからない。音楽を聴いてそういうことは、長い記憶をたどってもあまりない。

第一曲の悲愴はあれっという感じだった。引退を決めたのはこういうことかと落胆し、今日はそういう思いに付き合うことを覚悟した。それが第3楽章あたりから波長が音楽と合いはじめる。次のテンペストはぐっと集中力が増し、無用な力感や興奮は回避してこういうレガートなタッチでもベートーベンになるのかと感嘆する。

休憩があって、さて32番だ。聴くこちらも集中力が高まり、どんどん俗界から音楽に没入していく。こんなことは久しぶりだ。いかにピリスのオーラが強かったかということであり、この人は日本のラストコンサートにこれを弾くためにやってきたのだ。最晩年のベートーベンが書いた神のごとき音符がこんなものだったとは・・・。これは天から降ってきた啓示のようなものであり、僕は初めてそれをはっきりと感じた。

音楽というものは演奏するその人の全人格を投影したものだ。舞台を歩く姿が、その表情の変化が、もっといえば存在が音楽そのものに感じられる彼女が弾くと32番はああいう姿になる。人格とは性格だけのことではない、育ちであり経験であり思想であり教養であり信仰であり主張でもある。32番のような音楽はそういうものをすべて包含した人格が熟しきらないと弾けない、弾いてもいいが熟した聴衆にメッセージが感受されない。

なんという恐ろしい音楽だろう。

彼女の名前表記はマリア・ジョアン・ピレシュとされる傾向があるようだが、こういうことはあんまり意味がないように思う。ベートーベンをベートーヴェンと書く人もいるが、そんなに表音の正確性を期したいならビートホーフェンと書くべきである。日本語のphonetic notation(音声表記法)は限界があり、マックダァーナルドゥと書いてハンバーガー屋をイメージできる人はあまりいないだろう。マクドナルドは単なる認識上の「符号」なのであり、そんなものを不正確に気どったところで所詮なんちゃっての域を出ない。

我々昭和人類にとっては彼女は断じてマリア・ジョアオ・ピリスである。そうでないとしっくりこないのでそう書く。ピリスのモーツァルトは大好きでLP時代から持っており、高純度の美音に惹かれてきたから僕はファンといえるだろう。レコードできくあの繊細なピアニシモやコケットなスタッカートは見事なレガートを生地に生み出され、ベートーベンを弾いているとは思えない脱力したポスチャーが音色に効いていることを舞台で見て初めて知った。

来週のモーツァルト、シューベルトが本当の最後、楽しみだ。

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サンサーンス 交響曲第3番ハ短調 作品78

2018 APR 10 22:22:56 pm by 東 賢太郎

この曲のレコードを買ったのは高3の時で、当時「オルガン付き」と呼ばれていた。「オルガン付き」とはなんだ?「オルガンなし」もあるんか?それならマーラー6番は「ハンマー付き」だ、幻想は「法隆寺の釣り鐘付き」なんて凝ったのがあってもいいな。友人と高校生にしては結構ハイブロウなジョークで笑っていた。第九の「合唱付き」が最たるもので浅はかなキャッチコピーなのだが、売れないクラシックを何とか売ろうという営業努力は認めてあげたかった。

まず目をつけていたのが、火の鳥で味をしめていたアンセルメ / スイス・ロマンド管のDecca盤だ。そこまで大人界をなめていたのに、アンセルメ盤の帯に「地軸を揺るがす重低音」とあるのに参ってしまったのだ。この曲は音が命だろう。Deccaは音がいい。そんな先入観があった上に「地軸」まで持ち出されたらイチコロだった。パイプオルガンの可聴域外(20ヘルツ以下)音を体感できるという意味だが、うまい表現をしたものだ

オーマンディのCBS盤

アンセルメが欲しいが2000円のレギュラー盤だ。かたやオーマンディの廉価盤(右・写真)は1500円で音も悪くなさそうである。試聴などできない時代だ。安いし帯に何も書いてないし、もしかしてこっちは地軸が揺るがないのではないかと迷った(笑)。500円は今ならコンビニ弁当の値段だが当時の高校生には大差であって、結局、さんざん悩んでオーマンディーに落ち着いた。もうひとつ笑える話がある。ええい、こっちにするぞ、と決めたのはオルガニストの名前が「パワー・ビッグス(Power Biggs)」だったからだ。パワーとビッグなら地軸も揺らぐだろう。これと500円残るということで、散々迷ってしまったなさけない自分を納得させる必要があった。僕のクラシック入門はそんなものだった。

今ならアンセルメもオーマンディーもネットでタダで聴ける「コンテンツ」にすぎない。コンテンツ・・・なんて塵かホコリみたいに軽薄な響きだろう。それに僕らは大枚をかけて、何日もかけて、批評家の意見などを読みまくって真剣に迷ったのだ。意思決定に迷うというのは脳がいちばん疲れると本にあったが、いってみれば筋トレと同じことであって、クラシックは僕の成長過程で最高の脳トレであった。そしてそれだけ迷えば、当然のことながら、真剣勝負で聴くのだ。どれだけ耳が集中したことかご想像いただけようか。こうやって僕のクラシック・リスナー道は筋金がはいった。おかげでサンサーンスの3番は、どのベートーベンよりモーツァルトよりブラームスよりも早く、新世界と悲愴とともに「完全記憶」して脳内メモリーで再生できる交響曲となった。

アンセルメ盤

もちろんアンセルメ盤をあきらめたわけではない。大学時代にいわゆる「(並行)輸入盤」というものがあることを知り、欧州プレスは日本プレスよりも音が生々しいという評判でもあったからあちこちで探した。日本プレスで地軸が揺らぐなら輸入盤は地割れぐらいできるに違いない。そこでついに発見した3番の英国プレス(右、London、Treasury series、STS15154)は神々しく輝いて見え、しかも新品であるのに価格は1200円(!)と800円安く、キツネにつままれた気分であった。ここから僕は輸入盤をあさっていくことになる。アメリカへ行きたいと思ったのは、レコードが安いかもしれないと思ったせいもある。ともあれ初恋の人を手に入れた喜びは格別でわくわくしてターンテーブルに乗せた。地軸はおろかテーブルの花瓶が揺らぐこともなかったのは装置が貧弱だったせいもあるが、フランス風の上品な演奏だったからだ。

この交響曲は2部に分かれた2楽章形式だから実質4楽章である。魅力はなんといっても心をかき乱す出だしの小刻みなハ短調主題だ。スパイ映画に使えそうで最高にカッコいいではないか。スケルツォに当たる第2部前半の主題もティンパニが効いてイケてる。緩徐部も実に分かりやすいロマンティックな音楽で、オルガンの派手な効果もあいまってどなたも2,3回聞けばおおよそのところは覚えられること請け合いのやさしさだ。

そう思ってすぐにDurand社のオーケストラスコアを買うが、冒頭主題のトリッキーなリズムの1拍ずれが薬味になっているなど高度な隠し味が満載で解読は一筋縄ではいかなかった。僕はサンサーンス(1835 – 1921)の熱心な聴き手ではない。ピアノ協奏曲はほとんどあほらしいと思っており、室内楽も頭と指が勝った作り物に感じてしまう。ただこの3番だけはその才能がスパークしてぎゅっと詰まった天才的な部分があることを認めざるを得ない。

特に和声が面白く、後年にピアノスコアを手に入れた。第1部後半緩徐部のオルガンが伴奏する弦の主題は初心者でも初見で弾けるが、バッハのようで実に気高く気持ちが良い。第2部前半のピアノが活躍する部分が静まったあとモーツァルトのジュピター主題がフガート風に現れ、後半のコーダ、まさに終結に至らんとする快速の部分は幻想交響曲のフィナーレそっくりだ(しかも、どちらもハ長調トニックで終結)。バッハに始まりモーツァルトのハ長調、ベートーベンのハ短調を通って自国の先輩ベルリオーズに至るこの曲は1886年にロンドンで初演された。フランス器楽曲振興のためセザール・フランクと「国民音楽協会」を立ち上げたサンサーンスの面目躍如で最後の交響曲となるが、1885年初演のブラームスの最後の交響曲である第4番がバッハのカンタータ第150番、ベートーベンのハンマークラヴィール・ソナタを辿ったのを意識していないだろうか。

第1部前半の第2主題。白昼夢のように麻薬のように美しい。提示部ではまず変ニ長調で現れ、ハ長調に行ったり来たりふらふらしながら徐々に展開していく部分は見事だ。再現部ではヘ長調になっているがすぐに半音下のホ長調に転調する(!)。こういうことはドイツ系の音楽では聴いたことがなく、半音ずつファからシまで6回下がるバスなどチャイコフスキーなどロシア系、特に同世代のボロディン(1833 – 1887)に近い(楽譜のSubordinate Themeがそれ。上掲オーマンディーの8分49秒から)。

後にいろんな演奏を味わってみるとオーマンディーCBS盤はこのオケにしてはアンサンブルの精度がいまいちで、第1部後半の甘ったるいポルタメントも趣味ではないし全体の解釈のメリハリも薄く平板に感じる。曲の魅力をばしっと教えてくれたのはアンセルメでもなく、シャルル・ミュンシュ / ボストン響のRCA盤であった。彼の幻想に通ずるものがある融通無碍の流動感とメリハリ。フルトヴェングラーのブルックナー解釈のフランス版といったところで、楽譜の読みは主観的だがツボにはまった時のインパクトは大変に強い。米国で最も欧州っぽい音がするボストン響を乗せまくったこれはいま聴いても心をつかむ最高の名演だ。

この3番という交響曲、そんなに愛してたのに、どういうわけか僕の心はすきま風だ。好きな方は多いだろうし申し訳ないが、書いたように細部は非常に優れたところがあるものの、全体として聴後の印象はフランス3大交響曲の幻想、フランクのニ短調と比べると格落ち感がある。立派に知的に書けた曲なんだけど、感情の表層を心地良く撫でてくれるが、あれこれ小道具が満載な割に体の芯があったまらずポップスみたいに通り過ぎてしまう。クラシックファンを名乗るなら知らないことはあり得ない必修曲だし、喜びを返してくれることは保証付きだからまずは完全記憶することを強くお勧めするが、無責任なようだが新世界と同じく僕にとってはもう特に聴くことはない思い出のなかの音楽だ。

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「エースで4番」とはなにか?

2018 APR 9 23:23:20 pm by 東 賢太郎

子供はみんなプロ野球選手をみて「速いたまを投げたい」、「遠くまでかっ飛ばしたい」と憧れて野球を始めると思う。でも高校あたりまでくるとどっちか得意な方に落ち着くことになるのがふつうだ。そこでまだ両方がんばれるスーパーマンの子だけが「エースで4番」になれる。

甲子園でエースで4番がいるのは3,4校ぐらいか。強豪校になるとスーパーマンはたくさんいるから分業したほうが有利である。さらに上の大学・ノンプロではスーパーマンがふつうであり、分業が常識でエースで4番はもはやゼロだ。さらに上の野球エリート集団であるプロ野球は超スーパーマンしかおらず、完全分業制でそういう人はいないことになっている。

高校までは投手は打者でもあるから打席に立ってガンガン打つこともある。しかし野手がマウンドに立って10個も三振を取ることはない。それができるなら彼は最初から投手登録されるからだ。だから「エースで4番」になるにはまず投手であるのが条件ということになるだろう。

プロ野球でそれがいないのは超ウルトラスーパーマンはそうはいないからだが、職業野球ならではの理由もあると思う。打撃の良い投手を打線に加えるということは打者の職場をひとつ奪うことだ。打撃にプライドと人生をかけている男たちが一人の野球少年のわがままにつきあってくれるほどプロは甘い世界ではないだろう。

日本ハムで大谷翔平がそれをやったのは本拠地お別れ試合だけだった。この試合のビデオを僕は特別な感慨を持って眺めた。4番中田翔は大阪桐蔭高校のエースで4番だ。自分よりうまい者がいるなど辞書になかったろう。彼は投手を捨てて打者にかけた。その中田が昨年、二刀流大谷の2016年よりも5割多い打数を重ねながら打率、打点、本塁打どれも上回れなかった。大谷はNPBでエースで4番定着もありだったと認めていいだろう。

メジャーで大旋風となっている彼の映像は別世界の出来事だ。何の世界であれ力でこれほどアメリカ人をねじ伏せた日本人がいただろうか。7回1死まで完全試合で12奪三振の男が3試合連続ホームランを打ったら野球の世界ではベーブルースを持ち出すまでもなく天変地異だ。相手は土下座させられて文句もいえぬ、二の句もつけぬ完敗だ。

それを「すごい!異星人だ!」と認めるアメリカのファンもさすがだ。初本塁打のボールを拾った子が「どうするの?」ときかれて「大谷にあげるよ」とこともなげに答える。道行くおばあちゃんが「12三振は凄いわね」と熱く答える。イチローもダルビッシュもきっとそうだったろうが、本当に野球を知っているファンに観てもらいたいというのはわかる気がする。

大谷は国宝だ。お願いがある。ひとつ、メジャーで「エースで4番」、ぜひやってほしい。ふたつ、怪我だけはしないでほしい。

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米朝首脳会談の真相

2018 APR 8 21:21:27 pm by 東 賢太郎

日本の男が日本の女性・子供を護る本能はどこへ行ったんだろう?国を護る責任すら放棄するメンタリティーはどこから来たんだろう?

ふっふっふ、マッカーサーのウォーギルトプログラムはついに収穫期に入ったな。スパイを学校から国会までたくさん送り込んだからな。朝鮮戦争で漁夫の利を得た日本にはそれを吐きだしてもらおうぜ。こりゃあうまい手なんだ、中国もロシアも賛成だからな。そこで朝鮮戦争は終結だ。日本を講和条約と憲法で縛ったままをにしたのは上出来だったぜ、殴っても動けないからな、今のうちにむしり取るんだ。モリカケ?安倍を引きずりおろすためさ、憲法改正させたくないからな。我らのポチの財務省には苦労かけるが、ちゃんと守ってやっからよ。

米朝、米韓、米中、首脳会談の話題だらけだ。日本なんかお呼びでない。何のことはない、基軸は北朝鮮だろ?米国は軍事オプションをきれいな口実で放棄して半島統一させて恩を売って在韓米軍を引き揚げる「ソリューション」を目指しているぜ。日本が永遠に「しゃぶれる」おいしい豚なのは米も朝も同じだ。利益は一致している。北朝鮮と国交がある国は164ヵ国、全世界の80%強、イギリスもドイツもイタリアもスイスもカナダもオーストラリアもだ。世界世論は北を認める。国交のないマイノリティーの米国は「半島の非核化」を手土産に引く方が賢明さ。そんなもんできるはずないことは知ってるさ、でも口実は大事なんでな。安倍君、すまんが君は置き去りだ。

核放棄じゃないのか?お前馬鹿か?放棄するわけねえだろ。それは金王朝の終わりを意味する。終わる覚悟あるなら核なんか持たない。ないから持ってるんだよ。朝鮮半島の非核化?隠す面積が増えて好都合って意味さ。文ジェインが北のスパイなのは韓国で常識だ、母親は北にいる、攻撃なんざするはずもない。ということは米軍はもういらないんだよ。北に吸収合併された南は米軍は出て行ってほしい、北の核が守ってくれるからな。その傘の下で大朝鮮国は中国型の疑似資本主義をやって日本から富と技術を吸い取って日本を属国にするんさ。国民はみな幸せになれる、誰が反対する?おっと、アメリカにも恩恵はあっからよ。半島の裏世界だね、それをだんだん学んだトランプ様はそんなものを覆す情熱なんてない。選挙に関係ねえからな、だから持ち前のディールに入ったんだ。俺の評価はカネだからね。それが去年の「ロケット花火ショー」の真相さ。

金くん、頼んだぜ、テポドンぶっ放して日本をびびらせてくれよ、イージス艦とオスプレイ売りつけたいんでな、利益率めちゃ高いんよこのふたつ。鉄とアルミの関税?あれはジャブだよ。安倍が我が国からボりまくってるってフェイクニュースで悪者にしないと俺の支持者は教養ないんでね、中間選挙やばいのよ。しかもこのカードだしときゃ日本人は人がいいからな、負い目に感じて高い武器でボられてるって誰も言わないのさ。ムンは6月に統一地方選挙だったな、お互い様だ、お前のメンツたててやるぜ。南北統一した朝鮮民族史に残る英雄になれるんだキミは。

金くん、いいか、この寸劇は最後まで世界を騙し通さにゃいかんのだ。一応「このちびのロケット野郎」ってツイッターしとくからな、「この老いぼれジジイ」ぐらい返しといてくれ。ICBMだけはやめときな、それなら核はパキスタン方式で半島統一後に「かわいい韓国のため」ってことでなし崩しに認めてやっからよ。俺んちまで届かないの寸止めで撃っときな、世界に怪しまれないようにな。

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