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野村證券・外村副社長からの電話

2018 DEC 10 23:23:02 pm by 東 賢太郎

外村さんと初めて話したのは電話だった。1982年の夏のこと、僕はウォートンに留学する直前で、コロラド大学で1か月の英語研修中だった。勉強に疲れて熟睡していたら、突然のベルの音に飛び起きた。金曜日の朝6時前のことだった。

「東くんか、ニューヨークの外村です」「はっ」「きみ、野球やってたよな」「はあ?」「実はなあ、今年から日本企業対抗の野球大会に出ることになったんだ」「はい」「そしたらくじ引きでな、初戦で前年度優勝チームと当たっちゃったんだ」「はっ」「ピッチャーがいなくてね、きみ、明日ニューヨークまで来てくれないか」「ええっ?でも月曜日に試験があって勉強中なんです」

一気に目がさめた。この時の米国野村證券社長は後に東京スター銀行会長、国連MIGA長官、経済企画庁長官、参議院議員を歴任しニューヨーク市名誉市民にもなられた寺澤芳男さんだった。寺澤さんもウォートンMBAで、ニューヨークにご挨拶に行く予定は入っていたが、それは試験を無事終えてのことでまだまだ先だ。しかし、すべては外村さんの次のひとことで決した。

「東くん、試験なんかいいよ、僕が人事部に言っとくから。フライトもホテルも全部こっちで手配しとくからいっさい心配しないで来てくれ」

コロラド大学はボールダーという高橋尚子がトレーニングをした標高1700メートルの高地にある。きいてみると空港のあるデンバーまでタクシーで1時間、デンバーからニューヨークは東京~グァムぐらい離れていて、飛行機で4~5時間かかるらしい。しかも野球なんてもうやってないし、相手は最強の呼び声高い名門「レストラン日本」。大変なことになった。

その日の午後、不安になり友達にお願いして久々に肩慣らしのキャッチボールをした。ボールダーで自転車を買って走り回っていたせいか意外にいい球が行っていてちょっと安心はした。いよいよ土曜日、不安いっぱいで飛行機に乗り午後JFK空港に着くと外村さんが「おお、来たか」と満面の笑顔で出迎えてくださった。これが初対面だった。午後にすぐ全体練習があり、アメリカ人のレベルはまあまあだった。監督の外村さんが「東、明日は勝てる気がしてきたぞ」とおっしゃるので「いえ、来たからには絶対に勝ちます」と強がった記憶がある。そう言ったものの自信なんかぜんぜんなく、自分を奮い立たせたかっただけだ。ご自宅で奥様の手料理をいただいて初めて緊張がほぐれたというのが本当のところだった。

いよいよ日曜日だ。試合は朝8時開始である。こっちがグラウンドに着いたらもうシートノックで汗をかいて余裕で待ち構えていたレストラン日本は、エースは温存してショートが先発だ。初出場でなめられていたのを知ってよ~しやったろうじゃないかとなった。板前さんたちだろうか全員が高校球児みたいな髪型の若い日本人、声出しや動きを見れば明らかに野球経験者で体格もよく、こっちは日米混成のおじさんチームで27才の僕が一番若い。初回、1番にストレートの四球。2番に初球を左中間2塁打。たった5球で1点取られ、天を仰いだ。コロラドから鳴り物入りでやってきてぼろ負けで帰るわけにはいかない。そこから必死でどうなったかあんまり記憶がないが、僕の身上である渾身の高め直球で4番を空振り三振にとったのだけは確かで、なんとか2点で抑えた。

勝因は外村監督の「バントでかき回せ」「野次れ」の攪乱戦法に尽きる。これがなかったら強力打線に打ちくずされていただろう。全員が大声を出してかき回しているうちに徐々に僕のピッチングも好調になって空気が変わってきた。第1打席で三振したので外村監督に「次は必ず打ちますと」と宣言し、次の打席でファールだったが左翼にあわやホームランを打ち込んだとき、投手がびびった感じがして四球になり、勝てるかなと初めて思った。そうしたら不思議と相手に守備の考えられないミスも出て、流れは完全にこっちに来た。後半はまったく打たれる気もせずのびのび投げ、大番狂わせの11対2で大勝。翌日の日本語新聞の一面トップを飾った。甲子園でいうなら21世紀枠の都立高校が大阪桐蔭を倒したみたいな騒ぎだった。

午後の飛行機でコロラドに帰ったが外村さんのご指示で持ちきれないぐらいのインスタントラーメンやお米をご褒美にいただき、学校でみんなに配ったら大評判になった。これで大仕事は果たしたと安心したが、それは甘かった。翌週末の2回戦も来いの電話がすぐに鳴り、三菱商事戦だったがまたまたバント作戦でかき回し、10対0の5回コールド、僕は7奪三振でノーヒットノーランを達成した。また勝ったということでこの先がまだ3試合あってフィラデルフィアからも2度「出征」し、日系企業45チームのビッグトーナメントだったがいちおう準決勝進出を果たした(プロの投手と対決した思い出)。

 

コロンビア大学ベーカー・フィールドのマウンドに立つ(1982年8月29日)

準決勝で敗れたがそこからが凄かった。決勝戦と3位決定戦はルー・ゲーリックがプレーしたコロンビア大学ベーカー・フィールドで行われたからだ。そんな球場のマウンドに登れるだけで夢見心地で、けっこう普通のグラウンドだなと思ったがアメリカ人の主審のメジャーみたいなド派手のジャッジがかっこよくてミーハー気分でもあった。ベースボールってこんなものなのかと感じたのも宝物のような思い出だ。この試合、まずまずの出来で完投したが、相手投手陣が強力で攪乱戦法がきかず4対2で負けた。思えばこれが人生での最後のマウンドになった。本望だ。甲子園や神宮では投げられなかったけれど、すべてが外村さんのおかげだ。

外村監督が4位の表彰を受ける

残念ながら初陣は優勝で飾れず申しわけなかったが、この翌年、ウォートンで地獄の特訓みたいな勉強に圧倒されていた僕は外村さんがアリゾナ州立大学の投手とハーバードの4番でヤンキースのテスト生になった人を社員に雇ってついに念願の優勝を果たされたときき、おめでとうございますの電話をした。我がことのようにうれしかった。アメリカで仕事する以上は野球で負けられんという心意気には感服するばかり。遊びの精神がなかったら良い仕事なんてできない、こういうことを「たかが遊び」にしない、やるならまじめに勝つぞという精神は、仕事は本業だからさらに勝たなくてはいけないよねという強いスピリットを自然に生むのだ。僕みたいな若僧を委細構わず抜擢して火事場の馬鹿力で仕事をさせてしまう野村のカルチャーも素晴らしいが、それをああいうチャーミングでスマートな方法でやってのけてしまうなんて外村さん以外には誰もできなかった。

大会委員長から「最優秀選手賞」のトロフィーをいただく

試合後の表彰式で4チームの選手がホームベース前に整列した。各監督への賞品授与式が終わって、いよいよ選手一同のお待ちかね、今大会の「Outstanding Player賞」(最優秀選手賞)の発表になった。緊迫したプロ並みの投手戦となってスタンドがかたずをのんだ決勝戦、1-0の完封で優勝した神山投手(甲子園選抜大会で岡山東の平松政次に投げ勝った人)に違いないと誰もが思っていたらマイクで呼ばれたのは僕の名前だった。一瞬あたりがシーンとなる。各チームのエースの方々の経歴は優勝が阪急ブレーブス、2位がヤンキース、3位が読売ジャイアンツで素人は僕だけ。しかも4位だ。何かの間違いだろうとぐずぐずしていたら、その3人の大エースがお前さんだよ早く出てこいと最後尾にいた僕を手招きし、そろって頭上であらん限りの拍手をくださった。ついで周囲からも拍手が響き渡り、あまりの光栄に頭が真っ白、お立ち台(写真)では感涙で何も見えていない。

それもこれも、外村さんの電話からはじまったことだ。このことがその後の長い野村での人生で、海外での証券ビジネスの最前線で、独立して現在に至るまでの厳しい道のりで、どれだけ自信のベースになったか。後に社長として赴任されたロンドンでは直属の上司となり、英国では英国なりにゴルフを何度もご一緒しテニスやクリケットも連れて行っていただいた。国にも人にも文化にも、一切の先入観なく等しく関心を向け、楽しみながらご自分の目で是々非々の判断をしていくという外村さんの柔軟な姿勢は、ビジネスどころか人生においても、今や僕にとって憲法のようなものになっている。

そこからは仕事の上司部下のお付き合いになっていくわけだが、常に陰に日向に気にかけていただき、ときに厳しい目で苦言もいただき、数えたらきりのないご恩と叱咤激励を頂戴してきたが、誤解ないことを願いつつあえて本音を書かせていただくならば、僕から拝見した外村さんの存在は副社長でも上司でもなく、すべてはあのコロラドの朝の電話に始まる野球大会での絆にあった気がする。だから、まず第1にグローバルビジネスの酸いも甘いも知得され相談できる大先輩であり、第2に、延々とそれだけで盛り上がれる、野村には二人といない野球好きでもあられたのだ。

きのう、外村さんの旅立ちをお見送りした今も、まだ僕はそのことを受け入れられていない。9月10日にある会合でお会いし、ディナーを隣の席でご一緒したがお元気だった。その折に、どんなきっかけだったか、どういうわけか、不意に全員の前で上述のニューヨーク野球大会の顛末をとうとうと語られ、

「おい、あのときはまだ130キロぐらい出てたよな」

「いえ、そんなには・・・たぶん120ぐらいでしょう・・・」

が最後の会話だった。11月1日にソナーが日経新聞に載ったお知らせをしたら、

東くん
何か新しいことに成功したようですね。おめでとう。
外村

とすぐ返事を下さった。うれしくて、すぐに、

外村さん
ありがとうございます、少しだけ芽がでた気がしますがまだまだです。これからもよろしくお願いします。

とお返しした。これがほんとうに最後だった。この短いメールのやり取りには36年の年輪がかくれている。おい、もっと説明してくれよ、でもよかったなあ、という「おめでとう」だ。でもわかってくださったはずだ。そして、もし説明していたら、外村さんはこうおっしゃっただろうということも僕はわかってしまう。

12月5日の夜、外村さんが逝去される前日に、なんだか理由もきっかけもなく、ふっと思いついてこのブログを書いていた。

寺尾聰「ルビーの指環」

あとになって驚いた。1982年だって?このブログはコロラド大学に向けて成田空港を出発し、外村さんからあの電話をいただく直前の話だったのだ。どこからともなくやって来たなんてことじゃない、あれから36年たってかかってきた、もう一本の電話だったのかもしれない。

外村さん、仕事も人生もあんなにたくさん教わったんですが、野球の話ばかりになってしまうのをお許しください。でも、きっとそれを一番喜んでくださると確信してます。ゆっくりおやすみください。必ずやり遂げてご恩返しをします。

寺尾聰「ルビーの指環」

2018 DEC 5 21:21:22 pm by 東 賢太郎

先生と「サインは V !」のジュン・サンダースは范文雀(はん ぶんじゃく)だ、台湾美人だという話になり、そういえば蔡英文の民進党が国民党に大敗したのは彼女は法学博士でインテリだが人の心がわからんからという話になり、帰宅して僕は范文雀は寺尾聰の奥さんだったことを思い出していた。

調べると「ルビーの指環」が世に出たのは1981年2月のようだから僕はまだ梅田支店にいたはずだが、ぜんぜん大阪とイメージが重ならないのは人事部から「留学だ」と辞令があってもう心が飛んでいた、というより、ウォートンに行けということになったはいいがあまりの英語力のなさに顔面蒼白だったからと思う。アメリカに一緒に来てほしいと家内にプロポーズして、6月に異動で本社に戻った。大阪に別れを告げるのは寂しかったが、2年半ぶりの東京は嬉しかった。

ちなみに当時の野村證券は妻帯者の留学は認めていなかった。なのにプロポーズしてしまった愚か者だったわけだが、妻をとるか留学をとるかという二択の頭はからっきしなかった。両方とる、なんとかなる、そういう超楽観主義だった。人事部長のGさんに馬鹿者と叱られ問題になったが、留学取り消しにはならず翌年2月に無事に式を挙げさせていただいた。もう転勤してるのに梅田支店の先輩同期後輩がたくさん東京まで来てくださったことは忘れない。

しかし留学のほうは大変に問題だった、当時ウォートンの入試はTOEFLの足切りが600点だった。大学入試の英語はちゃらんぽらんだったが社内の選抜試験は2番だったらしく、まあ平気だろうと世の中をなめて何の準備もなく受けたら480点だ。やばいなと思った。たしかもう2回受けてなんとかすべりこんだ。GMATは代々木の予備校に通って、こっちもぎりぎりのセーフだった。

なにせ全米最高峰だぞと先輩に脅されており、エッセイを必死に書いて祈るように願書を封書で送った。それを審査して合否発表は手紙で来るのだが何か月も待てど暮らせど音沙汰もなく、実家で悶々としていた半年はほんとうに辛かった。その間、所属は人事部付で仕事は英語のレッスンである。支店営業からすれば天国だったが、だからこそ不合格だったら支店だぞという思いがあった。

合格を知らせる封書が来たのは何月だったか忘れたが年明けだ。まずはやれやれの安堵、やがて、アメリカに行けるという歓喜、そしてしまいに、MBAなんか俺が取れるのかという恐怖が襲ってきた。「ルビーの指環」は、そのあたりで大流行していたはずだが、曲はよく覚えているのにそういう現実と結びつかないのは不思議だ。

38年ぶりに聴いて、感嘆する。なんてかっこいいんだろう。

寺尾聰は昭和22年生まれで8才上、まさに我々世代をノンポリと馬鹿にしてゲバ棒振ってた団塊のアニキ世代だ。彼に憧れてでっかめのレイバンをかけたっけ。でもこっちはアメリカへ行くんだぜなんて粋がってた。

歌がプロっぽくないのがいい。カラオケできまってる等身大レベル。ビートルズだってそうだし、ユーミンの男バージョンという感じだ。歌詞もいいね。女は別れた男なんか「上書き」しておしまいだが男はこんなもんだ。

枯葉ひとつもない命、あなたを失ってから・・・

それにしてもこの曲、なんでこんなに耳に残るんだろう?何度聞いても飽きない。音楽的な秘密があるわけだが、それは次回にする。

ワインを飲みながら学生時代に帰る

2018 DEC 4 23:23:19 pm by 東 賢太郎

顧問のK先生とワインを飲みながら伊賀の影丸の話に熱中してあれこれやってるうちに「横山光輝は影丸を中性的に描いたのが偉い」という鋭いご指摘があった。「敵役は醜怪な面相ばかりで女性っぽいのが善玉らしい」と。なるほどと思ったが、さらに「由井正雪もね」とくるものだから感動もひとしおである。

先生は1学年上で非常に有能な官僚、政治家、大学教授、将棋4段であられるが、影丸で盛り上がれるうえに「サインは V !」の戦後世代的考察があり、団塊世代から見下されるわが世代を論じつつ「宇宙少年ソラン」と大阪万博の「こんにちは」はそらで歌い、古関裕而作曲の東京オリンピックマーチを唱和される(これは名曲だ)。

吸った空気は同じということだが社会に出るまでに乗り越えてきたものが同じということでもあり、そういう中においてなかなかこういう方は知らない。漫画を子供時代にそう見ているということは生身の人間もそう洞察してきておられる。わが身と似たものがあるのであってこういう部分で通じ合えるのは心強い。

通じ合えるというのは何でも話せるということでもあって、僕がここまで来たモチベーションは受験、出世のトラウマで今に見てろの馬鹿力だなど全部お話しし、狭い所がだめで飛行機も床屋もアウトでどう対処しているかなど「う~ん、けっこうめんどくさいね」となり、かなり酔って中村案件+ディズニーランド構想など経済産業省の規格外の大草案をぶってもなるほどとうなずかれる。

そこまで東北のルサンチマンなんてことから「東京もんだってある」となり、大阪赴任はカルチャーショック、『ええかっこしい』言われ、やってもないのに『にいちゃん、二度づけ禁止やで』だと反論、でもこれは言えない、言っても嫌われるだけ、でもいまや都鄙感覚は地理的ばかりじゃないとなり、ネット時代はどこにいようが知識で「都に勝てる」となり、地方創生は教育だとなる。

思い起こせば大学時代に下宿でこんなことを、はるかに低次元だが毎日のようにわいわいやっていた。いわば原点、心のふるさと。社会に出ると現実に締め付けられそういう馬鹿げた議論ができない。僕はそれを化石のようにまだ持っているが、誰もわからないから大変に寂しいし、ときに非常に疲れる。そこでアライアンスを組めた先生の存在は、精神の深い所で、実に大きいと思う。

 

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広島カープは来年も勝つ

2018 DEC 3 23:23:03 pm by 東 賢太郎

広島カープにとってFAは受難の歴史だ。大好きだった江藤、川口が、それも巨人に盗られるとなってどれだけ憤慨したか。だから今回の丸騒動で彼のグッズがユニホームからサインボールまで「売り気配」になったのもよくわかる。

あれから年月を経て、いまの気持ちをというと、野球人としての丸の思い切りを見守ってあげたいのが半分、カープの奮起を楽しみにしたいが半分だ。

前々回のブログを書いていて、なぜ僕が幼くしてカープファンになり、54年もそれであり続けたかわかった。「10倍になる株」探しが生来のライフワークだからだ。タナキクマル、誠也、松山、中崎、会澤、西川、屋台骨のセンターライン・クローザー・クリーンアップにドラ1はひとりもいない。みな「10倍になった株」なのだ。これぞ僕にとって魅力の源泉だったし、これからも変わってほしくない。FAで「すっ高値の株」をつかんで大損するなど、僕の美学からは最も恥ずかしいことである。

丸が出て行ってもこの「目利き力」が健在ならまったく問題ない。若い芽を見つけ育てて大輪の花を咲かす。こんな夢のある球団はない。芽は良いのにほとんど枯らしている巨人は常勝というノルマで集客を運命づけられた球団だからそれができない。だから今回はヒールになってでも丸が欲しかった。広島はたたけば全国でスタンディングオベーションしてくれる大物悪役が現れて、むしろラッキーと思ったらいい。

丸は悪役にしてほしくない。というのは巨人の提示内容は彼が一度しかない人生でのリスクテークを促すに足るものだったと思うからだ。プロである以上、残留したとしても、毎年やることはいっしょである。ぎりぎりの努力を重ねた選手だからどこでやろうと同じという割り切りがあったと思う。ならば野球に集中できる環境が大事であり、そこを巨人は担保したということではないかと愚考する。

田中は原監督、菅野の東海大相模だし、菊池、誠也、岡田、中村祐太は東京出身、会澤も茨城だ。丸の選択の影響がないとはいえないだろうし、黒田、新井が盛り上げてくれたカープ愛だがそれだけでは難しいというのが今回の教訓でもある。私事で恐縮だが僕も入社すぐ大阪に配属になって、今も第2の故郷、仕事の原点と感謝の思いが非常に強いが、終生そこに住むかどうかは別だ。

カープの「10倍になる株」探しは続くと信じるし、ドミニカ共和国に作った日本球界史上初のアカデミーなど、その育成システムは真の意味で堂々たるグローバル戦略だ。おためごかしの海外進出ではなく、少ない資金で最大の結果を得ようという血のにじむような努力、まさに僕らが野村證券で営々とやってきた「地に足の着いた、真にリターンのある海外戦略」である。徹底的に応援したい。

 

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僕が聴いた名演奏家たち(オイゲン・ヨッフム)

2018 DEC 2 21:21:14 pm by 東 賢太郎

1983年にフィラデルフィア、1986年は1月にロンドン、12月にアムステルダムでのことだったが、最晩年のオイゲン・ヨッフム(Eugen Jochum、1902年11月1日 – 1987年3月26日)の欧米でのライブ演奏に接することができた幸運を音楽の神様に感謝するしかない。彼はドイツ王道のレパートリーを二キッシュ、フルトヴェングラー、カイルベルト、ベームらと同様に19世紀の演奏解釈に深い脈絡のある伝統と格調高い様式で演じ、眼前で体感させてくれた。あの経験なくして僕のモーツァルト、ベートーベン、ブルックナーへの理解が現在のようになることはなかったろう。いわば双葉山、大鵬、北の湖の巨峰の列であって、こういう格の人の音楽を聴いてしまっていると、昨今の相撲界と同様で誰が出てきても小物感が否めなくなってしまう。加えて、日本はホール事情の問題がある。「本場の巨匠」やオケが来ても、ウィーン・フィルもドレスデンSKもチェコ・フィルも、あれでは彼らに出稼ぎ感覚になるなと言っても人間だから難しいだろうと思う。ギャラも食事もホテルも客席も。僕はひとりでドイツの歌劇場を普段着でめぐっていたが、モーツァルトやワーグナーやR・シュトラウスがああいう風に日本のホールで鳴るとは到底信じがたい。双葉山、大鵬、北の湖は地方巡業でなく国技館で観ないといけないのである。

ちなみに、事情は後述するが、ヨッフムはフルトヴェングラーの葬儀の際にベルリン・フィルでモーツァルトの「フリーメイソンのための葬送音楽」(K.477)を演奏し(ハイデルベルク聖霊教会)、生誕百年記念演奏会をフィルハーモニア管弦楽団で振っている(ロンドン、ロイヤル・フェスティバル・ホール)。この人の演奏を聴くというのは司祭の典礼に列席する趣で、ヨッフム自身が儀式めいた重みを漂わせたということではなく聴衆と舞台の音楽家たちの醸し出す深い敬意がどの名演奏家の演奏会とも違う雰囲気を作っていた。

初めて聴いたフィラデルフィア公演の印象は鮮烈だった。ただし、上述の文脈からすればこれは出稼ぎの地方巡業だ。しかし、なにせ定期会員だったフィラデルフィア管弦楽団の演目が指揮者ムーティーの好みかドイツ物が少なく、会場の音響もデッドで僕の趣味からほど遠く、ヨッフムが連れてきたバンベルグ響のオール・ベートーベン・プロは選曲も音もまさに天の福音だった。レオノーレ3番が鳴るや否や、ああこれだ、これぞドイツの音だと電気が走り、ピアニストのベロニカ(令嬢)が4番の協奏曲を弾いたがインティメートな好ましさがこれまた脳天を直撃し、これを毎日でも味わいたいとないものねだりの渇望に襲われてしまう。7番はVnのボウイングにいささか驚いたが、砂漠のオアシスの如しで楽の音が五臓六腑に染み渡るとはこのことだった。このオーケストラは後にフランクフルトのヤーレ・フンダート・ハレで何度も味わって至福の時を過ごさせてもらうことになるが、この1983年10月9日を思い出さないことはなかったように思う。外国でいくつの演奏会に足を運んだか数えようもないが、これほど待ち望んで満ち足りたものはひとつもない。ヨッフムは大学時代に買ったギレリスとのブラームスPC、カルミナ・ブラーナのイメージが強くベートーベンは認識がなかったが一気に僕の中ではドイツ物の巨匠の地位になった。

 

ロンドンに赴任していた3年後にヨッフムがロイヤル・フェスティバル・ホールにやって来た。フィルハーモニア管弦楽団がゆかりの深かったフルトヴェングラーの生誕百年演奏会にロリン・マゼールを呼んでいたが、体調不良でヨッフムが急遽代役になったのである。その旨がプログラム右上に記載され、ヨッフムから「急なことで準備の時間がなく、予定されていたブラームスの交響曲第2番をモーツァルトのジュピターに差し変えることをご了解いただきたい」ともある(僕としてはブラームスを残してベートーベン7番を変更してほしかったが)。面白かったのはフィルハーモニア管でも7番第4楽章第1主題の第1Vnを各プルトがスラー有りと無しに分かれて弾いたこと(この効果はLPOとの録音ではよく聞き取れないが)。ヨッフムのジュピターは良かった記憶がある。81年にウィーンフィル定期演奏会の初日で振ったライブ録音(下)があるが、こちらもかように素晴らしい演奏になっている。

この年、ザルツブルグ音楽祭の最中にカール・ベームが逝去し、9月20日のオープニング公演はヨッフムにゆだねられた。最初の「フリーメイソンのための葬送音楽」の最後に1分間の黙とうがありそれも録音されている。彼は期せずしてフルトヴェングラーとベームの生誕百周年と追悼を任された指揮者となったが、ウィーン・シュテファン大聖堂におけるモーツァルトの命日ミサ典礼も指揮しており(1955年12月5日)これは僕の生まれた年だ。

最後にヨッフムを聴いたのは1986年12月4日木曜日、底冷えのする真冬のアムステルダム・コンセルトヘボウでのことある。僕はロンドン赴任時代にオランダの投資家も担当しており、月に一度はオランダに出張していた。ところが丁度この頃にアムステルダム現法に日本人担当者を置くことが決まり(オランダは膨大な年金の運用資産があり野村にとって重要なマーケットだった)、その引継ぎで後任を紹介する出張の折にこれを聴いたのだ。

これはヨッフムの生涯最後のコンサートでもあったようだが、僕にとっても生涯忘れがたいコンサートになった。「ようだ」というのはTAHRAの解説にin his last but one concert on 4 December 1986とあるからで、とするとこのCDの演奏は12月3日のものということになり、CDの記載は「3&4 December」だから2日間の録音を編集したものだが3日がメイン(少なくともこの解説者はそう思って書いている)ということになる。僕が聴いたのは4日で、だからそれはヨッフムの生涯最後のコンサートであったということになるのだろう。

聴くほうも集中しており疲れていたが、足がおぼつかず階段を登れなかったヨッフムが最後の力を振り絞ったアンコールが終楽章とは驚いた。ヨッフムはスコアにない金管を増強(記憶ではHr4,Tr3,Trb3,Tuba1)していたが、そうしないと奏者は肉体的負担が大きく終楽章のコラールが天界に響き渡るほど豪壮に鳴ることはない。彼らには受難だったかもしれないが、オーケストラにとってもヨッフムにとっても、もしかしてこれが最後という思いはあったと思料する。そうでなければこんな音楽は生まれないだろうというほど稀有な演奏で、こういう質のものは「聴く」という言葉では浅く、「参加する」「体験する」とでも書くしかない。ヨッフムはこの3か月後に亡くなった。

TAHRAのCDはコンセルトヘボウの音響を見事にとらえており、あの日の情景がよみがえる(彼の顔をちょうどこのビデオの写真の角度からみる位置の席であった)。

この演奏のCDはそこかしこで絶賛されているが異論はない。よい装置でかければ「体験」を実感していただけるにちがいない。

 

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ソナーは自分が買わない株はすすめません

2018 DEC 1 15:15:37 pm by 東 賢太郎

「自分が買わない株はすすめません」というとたいがい嘘だろうという顔をされる。無理もない、そんな会社は僕の知る限りない。しかし、どんなに世の常識に反していようとそれは本当だ。ソナーは自分の資金でお客様と一緒に買って持っているし、そうでなくてはプロでないし、そういう株を探し出してくる自信があるし、実際できているから会社が8期目に入っている。宝を探す「ソナー探知機」になぞらえて「ソナー」を名のらせてもらっているのはそのためだ。

証券マンとしての僕の原点はこのブログにある。HPのブログ第1号だ。

ソナー・ファイル No1 (10倍になる株を探す楽しみ)

僕は金利が1%だ2%だ何ベーシスポイントだというボンド(債券)の世界には何の関心もない。そんな誤差みたいなものに感応するセンサーはついていない。株も1割2割上昇ではなく、10倍になるかなというのに出会うと初めてセンサーが作動し、全神経が集中する。これは理屈でない、本能的な反応である。自分はネコ科なのでハンティング感覚なのかなと思う。追っかけても疲れるだけだからだろう、ライオンはモグラやネズミは見向きもしない。そんなのを追っかけるのはハイエナでライオンではない。僕はハイエナは好きでない。

「10倍探し」は学校で習った技能ではない。生まれつき好きな嗜好のようなものであって野球やクラシック音楽と同じだ。しかしそこでは僕は素人だがこっちはちがう、というのは「好き」の度合いがちがうからで24時間寝ても覚めてもそれを考えてるわけだが苦痛と思ったことは一度もない。野球や音楽でそれは無理である。やり直せるなら大学は不要で高卒で野村に入りたい。東大やウォートンで習ったことは趣味だ、10倍探しには全く不要であった。野村と他は比べものにもならない、野村でないとだめだ。

ソナーのHPをご覧になって立派な経営理念ですねなどと言って下さる方があるが、あんまりそう思っていない。ハンターとして獲物を捕らえる自信あります、それに便乗(共同投資)しませんか?という経営だから理念というほど立派でもなく泥臭い。血の匂いすら意識すると書けば、まず99%の方は理解できないだろう。それが「ソナーは自分が買わない株はすすめません」の意味であり、経営のコミットメントなのだから嘘でない。並の会社のHPにある芳香剤の匂いのする美辞麗句とはちょっとわけが違う。

なぜ便乗者が必要か。まだ投資資金が少ないから獲物のサイズが限られてしまう。そうなるとハイエナになるしかないがモグラやネズミは10倍にならない。だから「仲間」が必要なのだ。ただし僕は買収する気はない。経営リスクを負う気はないからだ。「買収者に近い発想と分析」で対象を選別し、モノが言える程度には株を持って経営はあまり口出ししない。100%取得した社のCEOを呼んで「君の定年退職は100歳だ」と告げるウォーレン・バフェットに近いと思う。当然ながら彼同様に、日々売った買ったのトレーダーではまったくない。もしこれからうまくいけば、いずれソナーは共同投資者は不要になるだろう。

こういう考えに至った経緯は簡単だ。証券会社勤務で一番いやだったのはモグラやネズミを「大物」のように売ることだったからだ。そのくせライオンのようにふるまっている。なぜそれが嫌いかは、僕の書き貯めた1915本(12月1日現在)のブログをお読みになればどなたもわかっていただけると思う。性格は変えられないし、自分の本性に逆らったことを毎日するほど苦痛な人生はない。何でも好きにできる自分の会社でいやなことをする理由などなく、それを理解されてない方を共同投資者にお招きする気も必要もないし、顔の見えない不特定多数の人の資金を運用する投資信託をやる気もない。

お金をタダでくれる人はいない。だから株を買ってお金が増えるとすると、その知恵をタダで教えてくれる人などいるはずがない。それっぽい本を書いている人は、それができないから印税で食いたいのだ。その知恵というものは、自身のリスクをかけた、体を張った勝負の見返りである。投資信託を買っている方は、運用しているサラリーマンのファンドマネージャーに「自身のリスクをかけた、体を張った勝負」をたったの1~2%の手数料でお願いして「わかりました」とやってくれるかどうかよく考えてみればいい。

「いや、彼はがんばってくれている」と思っている人もいる。それが本当だとしよう。すると可能性は二つある。一つ目、彼は1~2%の手数料で本気でがんばれる人なのだ。そういう人は根っからサラリーマンに向いていて、ハンティングには適性がないから職業を変えたほうがいい。二つ目、運用会社が羊頭狗肉(モグラやネズミを「大物」のように売ること)をポリシーとしている。日本の老舗の大手金融機関は例外なく後者の商法をやっている。

彼らにきっと悪気はないだろう、なぜなら、経営陣にハンター気質の人は一人もいないからジャングルでどうハンティングが行われているかなど誰も知らない。巨人軍のフロントが誰も野球を知らないのとまったく同じ図式だ。それでも十分利益は出るし、お客に売っているのは結果ではなくて「ブランド品を買っている」という安心感だけである。それでも買ってしまう国民がごまんといる。だからそれが自分たちの「守りの経営」だと信じ、「守りの運用」などと恥ずかしいキャッチコピーが堂々とTVで流されるわけだ。

とんでもない。運用は野球やアメフトではない。「守りながら攻めましょう」ということはリスクを取らずにリターンを得ましょうという意味で、そんなことは全宇宙空間において理論的にあり得ない。もしそんな神業ができるなら、そのファンドマネージャーは自分のお金を運用してあっという間に大富豪になれる。その道を捨てて1~2%の手数料でその能力を生かして銀行や保険会社に就職しようという人を探し出すことは、30億円くれる巨人に移籍するかどうか迷っていた広島カープの丸選手をクラブチームに来ませんかと勧誘するよりも難しいことだろう。

日本人はブランド好きで老舗や大手の羊頭狗肉に騙される傾向が強い国民だ。たしかに獲物はジャングルにいるし、そこは生き馬の目を抜く危険な場所なのだ。しかし、ハンターはいわれなくてもそもそもライオンに食われたりしない。そんな人はハンターになれないし、資質もないし、なろうとも思わないのだ。ところがそのことは生まれつきハンターではない性質の99%の人には理解できないし、この洞察は僕だって証券会社で育って途中で銀行系に移籍したからわかったことだ。

新人時代にタバコ屋のおばちゃんに日立の株をすすめたら「で、にいちゃんは何株買うの?」と返された。立派な質問であった。世界に出てみるとまともな運用者はみなおばちゃんと同じ質問を想定して、自分で自分のファンドに投資している。その質問がいかに的を得ているかを示している。日本ではその質問を僕にしたのは40年間であの大阪のおばちゃんだけであったというのは危惧すべきことだ。丸選手はお金でなく男気で広島カープに残ってくれるだろう、信じてるよ、マルちゃん!という気質のまま、そういうほっこりしたゆるキャラみたいな情緒でもって、水と油である運用の世界に足を踏み入れてしまう人が国民のほとんどだということを示しているからだ。

高邁な理論なんか使わなくても真理は誰でもわかるシンプルなものだし、それにシンプルな解答を用意できるのが真のプロだと信じる。そもそも僕は部下が「がんばります」というと「がんばらなくていいよ、結果だけだしてね」という人間だ。プロ野球選手は去年の実績やら毎日素振り千回してますとかはぜんぜんどうでもいい。「わかったから、結果だけだしてね」だ。あたりまえだ、僕らは学者や評論家やセラピストじゃない。プロの評価は、結果だけなのである。結果は数字だ。あたりまえだ、結果とは利益であり、利益は数字だ。自らに利益が出たのにお客さんが損しているという企業はいずれ必ず滅びる。お客さんと利益を一致させるのが「自分が買わない株はすすめません」という経営だ。

 

 

 

 

究極の二刀流「ベートーべンの交響曲は1番から9番まで」(!)。

2018 NOV 28 0:00:45 am by 東 賢太郎

最近聴いているのは、ショパンのピアノ協奏曲1番と2番。ラフマニノフのピアノ協奏曲2番、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲、ベートーべンの交響曲は1番から9番まで……。

こう言った人がいる。彼は日々のことをきちんとノートに記録する勉強家でまじめな青年であり、それだけでなく、スポーツマンで野球も上手だ。だからこの言葉はとても僕の心にささった。

僕はクラシックと猫がバロメーターのところがあって、どんな人でも「猫好きです」と言われると好きになってしまう困った人間だ。殺人犯が実は猫を飼っていたなどときくとつらい。クラシックもそうで、誰であれ好きと聞けば話しをして見ようかなとなる。

この人があげたショパンのピアノ協奏曲1番と2番。ラフマニノフのピアノ協奏曲2番、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲、メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲、ぜんぶ名曲である。しかし、ぜひ会って見たいと思ったのはそれが理由ではない、

ベートーべンの交響曲は1番から9番まで……。

と語ったところがズシンと響いた。これでわかった、この人は本物のクラシック・リスナー、インテリだ。

この言葉の主は広島カープの丸佳浩選手である。セリーグの2年連続MVPであり、FA宣言をして巨人、ロッテが熱烈ラブコールしているあの丸だ。彼が登場曲にラフマニノフの2番を使ったことがあることは聞いていた。選手はもちろん球場ぜんぶでもそれが何かわかった人はほんの一部だったろう。それだけでもレアだが、ベートーべンの交響曲1番から9番までは凄すぎる、東大のクラスメートでも、あの当時に9曲全部知ってる人はいなかったろう。

丸選手に巨人が5年で30億、ロッテが4年で20億と監督手形を提示したと報道されている。巨人で単年6億だとエース菅野を上回り、生え抜きのスターで選手会長の坂本の倍ほどにもなる。原監督の三期目の初陣を優勝で飾るにはFA補強も大事だが、目の上のたんこぶであるカープの弱体化も目論みたい。丸の獲得はプラマイで効く劇薬なのだ。だから巨人は丸がロッテに行っても目的の半分は達成で、値段を吊り上げてロッテをあおり、それについて来れないカープ残留の道さえ封じれば成功なのである。

ここで丸が残留を決めれば丸は広島で黒田なみの英雄だろう。将来の監督候補にもなるだろう。丸の個人の幸福だけでない。やがてFAの俎上に登るであろう菊池、田中、會澤、大瀬良、鈴木誠也らの判断にも処遇にもプラスの影響があるから効果は絶大だ。すべてのカープファンがそう願っているのは当然のことだ。しかしご家庭の事情があるかもしれないし、自分だけの幸せで人生を決める男ではないようにも感じる。そしてプロ野球選手の評価は男気ではなく、まぎれもなく、お金なのである。

きっと丸も悩んでいるだろうがファンも複雑だ。なぜなら丸の今季の成績評価が並大抵ではないからだ。彼の実績で驚くべきは本塁打数でも打率でもない、OPSだ。メジャーで新人王の大谷がベーブルース以来と騒がれたが、丸のOPSもベーブルース並みの群を抜いたハイスコアで異常値ともいえる偏差値80ぐらいだ。もろに得点力に関係する指標であるからカープ3連覇の原動力であったことは統計的に明白であって、巨人の提示額ぐらいはまったく納得である。

しかし僕はロッテファンでもある。巨人ならあきらめるがカープとの争奪戦となってしまうと断腸の思いでとても困るのだ。もし関東に戻ることが前提ならロッテに来てくれればマリンスタジアムに応援に行くし、どこかでお会いする機会が作れるかもしれないからうれしいが。ベートーベンの7番と言わなかった丸選手に大変関心があるし、同じ二刀流でも文武両道のそれの究極であって、心からの敬意をお伝えもしたいという気持ちがある。

プロ野球選手でピアノを弾く人はいたが、ベートーベンの2番や8番を楽しむ人は一人もいないと思う。丸くん、人生一度の決断だ、どこで活躍しようと貴君なら立派に野球人生をまっとうすると信じるし、ご決断を徹底的に応援します。

 

クラシック徒然草-カープの丸選手とクラシック-

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シマノフスキ ヴァイオリン協奏曲第1番作品35

2018 NOV 26 1:01:06 am by 東 賢太郎

カロル・マチエイ・シマノフスキ

カロル・マチエイ・シマノフスキ(1882 – 1937)は母国ポーランドのみならず、音楽史上のすべての作曲家の内でも最上位に属する天才である。ポーランドにはシュラフタ(Szlachta)という、ローマ帝国におけるローマ市民に相当する貴族階級があった。その階級にあった、現在はウクライナに属するティモシュフカの大地主であった父の家に彼は生まれた。

大作曲家の出自をみるとプロレタリアートが多い。貴族の末裔はグリンカ、ムソルグスキー、ストラヴィンスキーなどロシア、東欧圏に多いが中でもシマノフスキとボロディン(皇室の非嫡出子)は経済的、芸術的に恵まれた環境で育った。演奏家にはユダヤ系が多いが、18世紀までの音楽家の地位を考えると頷けるものがあろう。シマノフスキ家は両親が音楽を愛し、家は芸術家が集まるサロンになっており、カロルは父にピアノを習ったが脚に大怪我を負ったため学校へは行かず家庭で教育を受けた。

その後ワルシャワ国立音楽院に入ったが故国の音楽機会は限られており、ベルリン、ウィーン、パリなど欧州主要都市ばかりか北アフリカ、中東、米国まで楽旅をしてイスラム文化、ギリシャ古典劇や哲学にも熱中した。富裕でなくてはできないことで、今流にいえば欧米各地に留学して自由に国境も超え、当代の最先端の音楽はもちろんあらゆる文化的素養と教養を若くして身に着けた人だった。

だからポーランドの作曲家と言ってフランス人移民兵の子であったショパンと並べて称賛することはあまり腑に落ちない。カロルはコスモポリタンであり、晩年になって祖国に戻ってタトラ山地の民謡を ”発見” しているわけだ。私生活も、ピアニストのアルトゥーロ・ルービンシュタインによれば、リッチな友人たちに招かれて2度シシリー島に遊んでホモになってパリに帰って来たとされている。

余談だが、僕はロンドン時代にウィグモア・ホール(Wigmore Hall)によく行ったが、あの19世紀の貴族のサロンに招かれたような雰囲気に包まれるのは格別の喜びだった。シマノフスキはヴァイオリニストのパウル・コハンスキと1921年に出演しており、さぞかし素敵だったろうとその演奏が偲ばれる。彼の室内楽、「神話」やヴァイオリン・ソナタ、ピアノ曲はこのホールで聴いてみたいと強く思わせるコハンスキは2曲のヴァイオリン協奏曲を献呈されカデンツァも書いたが、1番の初演はロシア革命の混乱等でできず、ニューヨークでストコフスキー指揮の米国初演での独奏者となった)

シマノフスキに駄作はない。作風は年を追って変転したが、それは彼が各地で吸収したものの豊饒な多様さの恵みであって、音楽語法を彼独自のものに発酵、凝縮していく過程であった。それを一言で表すならmystique(神秘感)であって、ワーグナーの和声語法に発してスクリャービンの神秘和音の発想にまで近接している。どの作品も淡いグレーの凛と張った空気に満ち、ワーグナーのごとき俗界とは隔たりを有する気高い世界であることはシベリウスにも通じるものがある。

ヴァイオリン協奏曲第1番は1916年の傑作であり、その時点で交響曲4曲のうち3番を書き終えていたことから管弦楽法も熟達を感じる。ドビッシーの全音音階、R・シュトラウス「ばらの騎士」の管弦楽法などが聞こえるが語法はすでにオリジナルであり、旋律は旧来の旋法であっても和声的にはどの三和音にも依拠しないという意味で無調的であるが12音音楽のように完全なatonalではない。冒頭の和声的リフレインはペトルーシュカ、春の祭典を想起させ、ヴァイオリンは神秘的かつ肉感的であり、他に類似のないシマノフスキ・ワールドを形成している。20世紀初頭にこれだけの個性を確立した人が何人いただろうか。

ロシア、東欧圏の音楽というと強靭なブラスを伴った風圧と泥臭さというイメージがぬぐえないが(そこが魅力でもあるが)、先述の神秘感のみならずシマノフスキV協1番の感覚的な洗練、透明感、民族色の希薄さ、比重の軽さはフランス音楽に近いと思えるほど異例であって、質感としては僕はどのポーランドの作曲家よりプーランクのそれを思い浮かべる。その彼も化学会社ローヌ・プーラン創業家のボンボンであって若くして自由に国境を越えて多様な文化に親しみストラヴィンスキーやプロコフィエフとも親交を結んだコスモポリタンであった。

地続きの欧州大陸の中でアーティストとして生きるならば、戦時を除けば何国人であるかよりもどの文化圏でアッパーの人たちとどういう交友関係を結んだか、すなわち帰着するのは「育ち」(クラス)の影響が非常に大きい(今でもそうだ)。わが国ではそのような視点が忌避される傾向があるが好き嫌いでは現実は見えてこないし、それを才能で打ち破るのがどれだけ困難であったかを知ることなしにモーツァルト、シューベルトの音楽を語ることもできないだろう。

音楽文化の頂点が王室(つまり富)のあるパリとウィーンにあったことは勿論だが、そこにバレエ・ルスをはじめロシアという異質な文化の波が押し寄せて新たな渦となり20世紀を迎えた。シマノフスキはそこで決定的な影響を与えたわけではないが民族色で勝負しなかった唯一の地方出身者であり、ユニバーサルな語法を確立して全作品を高いレベルで書きとおした。「音楽史上のすべての作曲家の内でも最上位に属する天才」と評した所以である。

 

イリヤ・カーラー(Vn) / アントニ・ヴィット / ワルシャワ・フィルハーモニー管弦楽団

ロシア人のカーラー(Ilya Kaler、1963年 – )はパガニーニ国際コンクール(1981年)、シベリウス国際ヴァイオリン・コンクール(1985年)、チャイコフスキー国際コンクール(1986年)という世界的に重要な3つのコンクールにおいて第1位を受賞した稀有のヴァイオリニストながらあまり知られていない。理由は不明だが全く不可思議な事態だ。この演奏をお聞きいただきたいが、同曲のベストと言って過言でない。ポーランドの指揮者ヴィットが同曲を初演したオーケストラで自家薬籠中の演奏を展開しており録音も良いということで文句のつけようもない。2番も収録した(こっちも素晴らしい)このNAXOS盤はAmazonで見当たらずこれまた不可思議だ。見つけたら購入されることを強くお勧めしたい。

 

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交響曲を書きたいと思ったこと(2)

2018 NOV 25 0:00:03 am by 東 賢太郎

ビジネスは弁証法的に進化する。それが利潤動機であり、資本の論理であると性悪説(かどうかは議論があろうが自分の立場からは)に立脚するのは人権に基づくプロレタリアート概念を創出したいマルクス経済学のイデオロギーに過ぎない。ロジックとしての弁証法に性善も性悪もないのである。マルクスは弁証法による唯物史観をとった。私見では宇宙はその原理で生成発展しており、宇宙の一部である人間社会がその原理で解明されてなんら違和感はない。

しかしそこには大きな論点の欠落がある。ビジネスは大阪弁の「オモロい」でも進化し、資本はそれでも成長することを大阪人でないマルクスは完全に見落としている。平等なユートピアはオモロい人を殺してしまうことは論じていない。そもそもオモロいことをしている人は「搾取されました」なんて争議はしないのである。オペラを受注したモーツァルトが残業代の計算をしただろうか。過労で倒れて労災申請をした大作曲家がいただろうか。

僕は365日休みはないし三六協定もないし土日も仕事している。事業主、資本家だからではない、オモロいからだ。だからオモロくなくなったらやめる。労働は悪だというのはキリスト教思想であって仏教徒の僕には毛頭関係ないが、もとよりこれは宗教、思想の話ではないという所が核心なのである。むしろ人間の生来の属性、ケミストリーであり、性格、生き様、信条、モチベーションの話であって、そういう類型化できないことを学者は採用しないが、その姿勢は実務家である僕にはまったくのナンセンスでしかない。

しかし、宗教であれ教育であれ人間の生来の属性を造り変えることは尊厳にかかわることだから無理だと思う。したがって、ここに必然的に、仕事が「オモロい」「オモロくない」で地球上の全人類は二分されるのだ。資本論は後者の人類の福音書であり、明示的には消えたが精神だけは世界の左派に残っている。特筆したいのはこの二分法こそマル経が予期せず生んだ『階級によらない人間分別法』であるということだ。マルクスは狩猟採集の原始社会が本来の平等社会(無階級社会)であって階級社会を克服した上で実現する無階級社会は極めて生産力が高く、「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」としたが 「能力に応じて」「必要に応じて」の部分にこの二分法の用意がある。これを論理の穴と上げ足をとるか、さすがマルさん逃げ道あって頭いいねととるかは勝手だがどっちでもいい。

強固な持論として僕は「オモロくない」派は時給いくらで残業代をしっかりもらうべきだし、「オモロい」派は成果連動報酬で青天井スキームでやればいいと思う。日産のゴーン元CEOは明白に後者の契約だったわけで、それを前者と比べてけしからんというのは二分法からしておかしい。株主がOKといえばいいわけで、その株主を欺いたから拘留されているのだ(当面の理由としてだが)。野球でいえば球団職員がエースの給料が高すぎだと言ってるようなものでマスコミのマル経的たきつけに徹している観がどうも解せない。「高級マンション」がどうのというのも、高級かどうかが論点ではなく取締役会で決議したかどうかだ。しないと会社の金の振り込みなんかできるはずがない。なぜその時点でOKだったのが今は横領まがいなのか(本件は今後注視したい)。

ソナー・アドバイザーズは、基本的には、「オモロい」派だけの会社だ。「オモロくない」派は外注で足りる。なぜそうするかというと、ビジネスはマルクスの見落とした大阪弁の「オモロい」でこそ進化こそするという強い信念があるからだ。だから秘書にも費用は会社持ちで資格試験を受けてもらいバリューアップしていただいているし、会社の業績の進化に影響ない人は採用しない。これはラーニング・オーガニゼーション(学習する組織)という経営哲学で、僕はダボス会議でGE(ゼネラル・エレクトリック)のCEOだったジャック・ウェルチから習った(既述、「伊賀の影丸経営」の原型だ)。

僕が法律と何の関係もない対位法や和声法の勉強をしていたのは大学在学中だ。「人の税金を使って学校へ行った」(麻生財務大臣)からけしからんことだったのは謝るが、それをしながら作曲家にはなれないと思い知ったのは効用だった。できると思ったのは写譜屋ぐらいで、それなら1枚いくら、1小節いくらで請求するだろうし時間外の追加料金も計算するだろうと思った。さらに意外だったのはオーケストラに労働組合があることだった。これが意味することは、つまり団員は堂々たるプロレタリアートだという厳然たる事実なのである。基本はオモロくない派の人々なのだ。

いやそんなことはない、音楽は私の人生だ、だから音大を出て生涯の仕事にしているではないか、という声はあるはずだ。それを否定する権利は誰にもないが、それは日産の工場で現場を支える方々がクルマが好きだから汗を流しているという主張とおんなじだ。トヨタは食堂にまで意見箱を設置して工員の声でカイゼンしているが、だからといって労働組合が消えたわけではない。このことはプロスポーツと労働組合との親和性の議論と照合すれば理解が容易だ。サッカー選手がPK戦になったといって残業代を請求するかということだ。NPBに選手会が存在しストライキをしたことはあるが賃金交渉には無力である。オモロくない派ならやめればいいではないか、やって成功すれば収入は青天井だよという世界なのだ。

理系頭脳のオモロい派である作曲家は労働組合を形成する労働者とは別の惑星の人たちなのであって、両者の間には「音楽への愛」で結ばれることができるはずだなどという宗教がかった博愛ユートピア思想では越えようもない二分法による深いキャズムが存在することを僕は大学時代に学んだ(東大が教えてくれたわけでないが)。だから、そこまで異星人ではないものの「オモロい」派には属する指揮者が作曲家の宣教師としてインスパイアして引っ張らないと良い演奏など出ない確固たる道理があるのだ。音楽をマルクス経済学的側面から理解したし、それを通じて現在の経営観に至ってそこそこ税金を払っているのだから遊んだわけではなかったと思う。

この視点に立つと、指揮者と経営者の役目は同一であるというドラッカーの経営学も肌感覚の裏打ちが持てる。会社を進化させる経営を僕は「オモロい」に求めるわけだが、それは業界に40年生きてきて培った信用と人脈を素材として交響曲をcomposeする作業であることは前回述べた。これを僕はcompositionの本来の思考形態である数学的センスでずっとやって来たしこれからもそうする。数学が計算だと思ってる文系の人に説明するのは時間の無駄だから一部にしか言わないが、そういうことだ。

(こちらをどうぞ)

オモロい人たち

安藤百福さんと特許

「伊賀の影丸」型組織論

 

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交響曲を書きたいと思ったこと(1)

2018 NOV 24 16:16:28 pm by 東 賢太郎

時々とてつもない願望がわくことがあって、大学のころ不意に交響曲を書いてみたいと思ったことがある。さっそく対位法、和声法、管弦楽法の書物を買い込んで受験勉強みたいに読んだ。大変まじめにやったと自負する。クラシックがクラシックに聞こえる秘密は対位法にあることを知ったし、機能和声の原理もそうなのだがとても数学に近いということは発見だった。というより、交響曲であろうとなかろうと、数学に必要な能力なしにまともな音楽を書こうというのはあり得ないことであろう。

一般のイメージでクラシックの作曲家というと、ひらめいた美しいメロディを書き留めた文人、詩人みたいなものだろうが僕はジェームズ・ワットやトーマス・エジソンやフランク・ロイド・ライトに近いと思っている。少なくとも理系である。文学や絵画や、音楽でもポップスは文系でも書けるが、クラシックの作曲(composition)は非常に理系的作業であって、モーツァルトもショパンも、文学青年のイメージとは遠く数学、音響工学に長けたエンジニアの基盤があって、そこにあの音楽が「降って来た」からナイスキャッチできたのである。

シンプルに書けばクラシックの作曲は「数の秩序」の支配する王国を作り出すことだ。数の秩序と人間の美醜の感覚は関連があり(これは神の領域で人は作れない)それが感動(聞き手の心の動き)の源泉である。楽音が周波数(ヘルツ)であり和声がその比率値であり、音の強さはデシベルであり長さは時間であるから、音楽の要素はすべてが数である。それに秩序を与える追唱、模倣、反転、シンメトリー等々のミクロ構成原理がマクロとしての形式論を形成するのはフラクタル構造を思わせる。

ダビデ像(ミケランジェロ作)

音楽はそれだけで美しいのであって作曲はだから絵画より彫刻、建築に近似するはずだ。フィレンツェのアカデミア美術館で見上げたダビデ像にはJSバッハのフーガの技法の均整を感じて圧倒されたが、あの感動に彩色は無用でありむしろ肌色に塗れば卑猥なものに貶めかねない。管弦楽法はヘルツを変えずに色を持ち込む技法であって、従って音楽の本質ではない。それはJSバッハの多くの曲に楽器指定がないことでわかる。フーガの技法をどの楽器で演奏しようがよいのはダビデ像があえて白色のままにおかれているのと同じだ(僕は或る調性に色のイメージが出てしまうが、そのこととドビッシーをきいてモネの絵を思い浮かべるような人がいることは別な話である)。という結論に至ったので僕はそれ以来交響曲をピアノで弾いてみる習慣がついた。僕のピアノは乙女の祈りやショパンを弾くためでなくブルックナーの9番などを探索するために存在する。ピアノリダクションを弾かないでスコアの構造を理解するということはよほどの天才でない限り難しいように思う。ショスタコーヴィチは管弦楽曲を聴くそばから頭でピアノに置き換えていたというが、それは作曲家なら誰でも普通のことだろう。

さてそこまで来て、作曲とはそういうものではないのだという至極根本的なことにも気がついた。僕の願望は、仮免でF1レースで勝てるだろうというほどのかけ離れた妄想でしかなかった。しかし逆説的ながら「書ける」と思ったことも事実だ。というのは「交響曲を書くノウハウなんてない」ということだけは分かったからだ。何であれ「交響曲」と表紙をつければその日から交響曲である。誰でも書く権利はあるし著作権だって取得できる。問題はそれが演奏されて世間が良い交響曲だと思ってくれるかどうか、それだけなのだ。

作曲する(compose)という動詞はcom-(いっしょに)+pose(置く)というラテン語が起源だ。「一緒に置く」である。音楽の能力がないならそれをビジネスでやればいい。演奏されて世間が良い交響曲だと思ってくれるかどうか?それはオンリーワンであるかどうかにかかっている。そう切り替えたらどうだろう。というより、幸か不幸か、頭の構造が元からそうなっているようで「これとあれを組み合わせると面白い」ということを寝ても覚めても考えているしそれが飯より好きでもある。

ビジネスでこれを第1主題に、あれを第2にという作業は字義通りcomposeすることに他ならない。この人とあの人でもよい。両方にコネクションがあるのはこの世で僕しかいない、ということはそれをすれば勝手にオンリーワンになるのである。それを発表したら世間は驚くだろうと思うとぞくぞくする。それを構想段階で他人に話して報われた経験はない。この人大丈夫かという顔をされるだけだから説明する意味もない。しかしそういうものほど価値があるのだ。僕は他人のすることをもう少し小賢しくやろうなどということには微塵の関心もない。

 

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