Sonar Members Club No.1

since September 2012

ラヴェル 「ステファヌ・マラルメの3つの詩」(1913)

2021 AUG 5 1:01:41 am by 東 賢太郎

1996年の夏休み、遠路はるばるスイスまでやってきた母を連れて、レマン湖に近いクラン・モンタナ(Crans-Montana)まで車で家族旅行した。チューリヒからはそこそこ遠いのでそうでもなければ機会がなかったろうが、懇意にしていただいたご夫妻が別荘(ホテル)にご招待してくださったのだ。それはレマン湖の東、ツェルマットの北に位置するスイスでも有数の山岳リゾートで富裕層の避暑地でもあり、冬はスキー、夏はゴルフでにぎわう。スイスの山はどこもそうだが、盛夏なのに朝夕はひんやりした快適な気候だった。そういえば当時、ちょうどゴルフの「キャノン・オープン」があって有名選手がやってきていた。

先日、その時のビデオが出てきて家族そろって “鑑賞会” となった。夕食後にすっかりくつろいでラウンジでご夫妻と歓談しているシーンだ。長女でも9才であり、子供たちは覚えていない。しかし、何ということか僕も何も覚えておらず、画面のこの人たちは誰だろうに近い気分だ。ご夫妻とはもっぱら家内が話し、僕は撮影係に徹している。画面は何やら盛り上がっている。まだ小さかった娘たちがピアノを弾き、少し英語がわかったお袋も楽しんでいる。ビデオが終わると子供たちから「お母さんすごいね!」と歓声が上がる。家内の株が大きく上がったのである。お相手はスイス中央銀行総裁のツヴァーレンご夫妻だったからだ。

スイスの2年半はそんな楽しい思い出が尽きない。でもけっこう、いろいろ忘れてきてもいるという悲しい事実がこうやってわかる。記憶力は自信あったし高々25年前だし、どう考えても覚えていてよさそうな場面なんだけど、なぜか消えている。やっぱり新しいインプットがあればデリートされていく運命なのだろうか・・・。スイスだけではない、家内にきいて、へえ、そんなことあったっけどころか、そんな所に旅行したっけというのすらあるのだから情けない。100%そうなってしまったら「ボケた」ということなんだし、仕事や音楽会やゴルフのことはまだそこそこ覚えてるし、気合の入り方の問題だったと慰めるしかない。

我が家が住んでいた家はクスナハト(Küsnacht) というチューリヒから湖沿いに東へ30分ほど離れた1万4千人ほどの美しい町にある。そういえばフランクフルトで住んだケーニヒシュタインも、ロスチャイルド家の夏の居館がある人口1万6千ほどの小さな丘陵の町だった。がやがやうるさい都会の喧騒が苦手なのは生まれつきなんだと思う。今だって昼間歩いても人をほとんど見ない処に住んで、ステイホームでも満足している。クスナハトもそういう場所で、「魔の山」の小説家トーマス・マン、心理学者カール・ユングが晩年を過ごした、チューリヒ湖とその先にアルプスを臨むこんな感じの所だ。

クスナハト近郊の眺め

家はリッチなおばあちゃんの所有で、丘の中腹に敷地が500坪ぐらいあって庭でゴルフの練習ができた。そこがいいと思ったのは、景色がレマン湖のモントレーにほど近いやはり丘の中腹の小さな村、クララン(Clarens)にちょっと似ているからだ。クラランはチャップリンやオードリー・ヘップバーンが終生住んでいたヴェヴェイのお隣で、景色も似ているが、言葉や文化圏を度外視すればスイスに来た芸術家や学者が好むのは決まってこんな感じの景色、ロケーションといっていい。チューリヒ、ジュネーヴ、ルガノ、独仏伊どの地域でもこういう所が理想郷になっている。

スイスのクララン

僕にとってクラランは特別に重要な村だった。ストラヴィンスキーが「春の祭典」をそこで書いたからである。チャイコフスキーもそこでヴァイオリン協奏曲を書き、フルトヴェングラーが戦後に静養し未亡人が住み、画家オスカー・ココシュカが眠り、そして、モーリス・ラヴェルが「ステファヌ・マラルメの3つの詩」を書いた。そういう人たちに霊感を与えたようなロケーションに身を置いてみたいと思ったわけだ。結局、そうこうして我が家はクスナハトで1年半を過ごさせてもらい、スイスの大地の恵みを心にたくさんいただいた。そんな時間があったなど今や他人様の話のように思えるが、きのう自由が丘で買い物をしながらふと「引退したら日本はもういいよな」と家内に言った。ああいうところに住んでまた地中海・エーゲ海クルーズに行きたい、死ぬまでいてもいいなあと。

「ステファヌ・マラルメの3つの詩」はラヴェルの作品で最も好きなものの一つだ。第1曲「溜息」(soupir)がクラランで書かれているが、あの雰囲気を彷彿とさせるものがある。音楽にはエーテルというか、香気、アロマのようなものを喚起する何ものかが確かにある。ラヴェルにもそれがある。それを搔き立てないような演奏は物足りない。僕にとって、これしかないという演奏がひとつだけある。ジル・ゴメスの歌、伴奏はピエール・ブーレーズとBBC SOのメンバーの演奏である(CBS盤、1979年2月4日録音)。ゴメスは聞いたことがない。youtubeにもあまりなく、ネヴィル・マリナーが振ったヘンデルのアリアは音程もアジリタもまるで感心しない。そのソプラノのラヴェルが、どういうわけか別人のように凄いのだ。この曲、はじめはアンセルメで聴いたが、ヴィヴラートが大きすぎるダンコの歌の音程がひどく、暫く僕にとってこの音楽は訳が分からなかった。かようにピッチの悪いのは僕には罪悪なのだ(アンセルメの指揮はいま聴いても素晴らしいが)。かたや、ゴメスのピッチの素晴らしさは現代音楽に起用したいレベルで、この演奏で初めて曲がわかった。しかし彼女はこんなにいいのにブーレーズが同じCBS盤のウェーベルン集に選んだのはヘザー・ハーパー(ラヴェル集ではシェラザードに起用している)だ。

Jill Gomez

いや、まったく素晴らしい。思えばゴメスはハーパーの知的な切れ味こそ薄いが、この曲にむしろふさわしいどこか肉感的で白昼夢みたいな反理性の趣を漂わせている。ところがそのイメージとは相反して、鋭利な刃物のようにピッチがピタピタと決まっていく “理性の極み” が併存するのはブーレーズCBS盤の牧神の午後への前奏曲にも感じる超現実的世界に似る。ダリやキリコのような不思議感すらある。すべてはブーレーズの一点の揺るがせも許容せぬ神がかったコントロール下にある。彼はその研ぎ澄まされた細密な壁画の構図に、肉感の一筆を求めた。ゴメスは寸分狂わぬ入神の歌唱でその要求に応えた。こういう録音というものはそれ自体が一個の芸術であり、これを凌駕することは後世の演奏家にとって大きなチャレンジであろう。

ラヴェルは1913年、クラランで春の祭典を作曲中のストラヴィンスキーの家でムソルグスキーの『ホヴァンシチーナ』の編曲および終幕の合唱の作曲を共同で行う誘いをロシアバレエ団のディアギレフから受けていた。そこでストラヴィンスキーから『3つの日本の抒情詩』を聴かされる。これだ。

我々日本人に日本を想起させるものは欠片もないが作曲者はそう思ったのであり、春の祭典と同時期の着想というのは興味深いがそちらとも類似性はない。ところがラヴェルはこの曲に触発されて「ステファヌ・マラルメの3つの詩」を着想し、クラランで第1曲「溜息」(soupir)を仕上げたのだ。その後、シェーンベルクのピエロ(1911年出版)と3本建ての演奏会を企画もしている(実現せず)。ストラヴィンスキー31才、ラヴェル38才。若い2人ともがシェーンベルクの前衛を意識していた(シェーンベルク 「月に憑かれたピエロ」)。

前者において日本はアヴァンギャルドに抽象化する素材に過ぎない。失敬なと思うなかれ、春の祭典のロシアは彼の母国だがやはりそうなのだ。一方、マラルメの詩は国籍不詳だがラヴェルは第1曲をギリシャ・テ―ストにして、抽象化を施している。バスク系仏国人の彼においてギリシャはオリエントであり、マダガスカルもしかり、浮世絵のコレクションも所有していたジャポンもしかりだ。それでも彼においてギリシャは特別の位置にあると僕は思う。その証拠に、晩年に住んだパリの45km西にある(人口3千人の小さな村だ)モンフォール=ラモーリーの家には、彼の趣味に厳密に支配されて収拾された調度品、美術品、装飾品、絵画、写真、書物が整然と並んでいるが、昼食を毎日とっていた椅子の背もたれにこんな絵がある。

ラヴェルの椅子の背もたれ

僕には古代ギリシャの女性が笛を吹く姿に見える。彼はこれが好きだったのだ。そして、この笛は、「ダフニスとクロエ」や「シェラザード」、「マラルメの3つの詩」で涼し気に響いている。クラランで書いた第1曲「溜息」はストラヴィンスキーに捧げられ、その伴奏は前年に書きあげていたダフニスの「夜明け」になり、歌は16年後の「左手のための協奏曲」になっていくのである。1913年のクララン。ラヴェルに天から降りてきたものの不思議さ、それは僕も夏のクスナハトの庭先で湖を眺めてぼうっとしながら肌で感じることがあったような気がする。実は僕もこの女性は好きであり、いつまでも見とれるし、風に乗って遠くもの悲しい笛の音が聞こえてくる。マラルメの詩がギリシャになり、地中海の群青色の生ぬるい大気にむせかえり、焦げるように熱いオレンジ色の太陽がウルトラマリンブルーの洞窟に差し込む。その瞬間に、僕はラヴェルとひとつになれる。

 

デルタ株の水際対策はトップの大失敗だった

2021 JUL 30 13:13:26 pm by 東 賢太郎

そもそも自分の性格がディファクトでどうだったかは今や正体不明になってしまったが、わからないことはしないし興味もないというのは子供時分から一貫してきたように思う。従って言ってることがロジカルにわからない人は信じないし、育ってきた証券市場はそういう人種が多く経験的に詐欺師ばかりと思っていて、他人の言うことはまずウソだと思って聞く悪い癖がついてしまっているかもしれない。悪気があるわけではない、ビジネスで生きていくための積極的性悪説とでも呼ぶべきものだ。ウソは5秒で分かるし向き合っただけでウソつきを見抜く場合もある。つまり、仕事でなければ全く普通の人のつもりだが、ビジネスではとても嫌な奴であって、自分で自分を議論や商売をしたい相手と思わない。

ビジネスワールドは、あらゆる業界、大なり小なりが方便、ポジショントークというマイルドなウソで成り立っている。コップ半分の水を「もう」「まだ」はどっちも真実であり、どっちもウソだ。我々の用いるのは邪悪な意図によるものではなく、心理学の領域のマウントの取り合いという一種のゲーム技術である。真っ正直な「良い人」はいないことになっており、それがディファクトだからあとはワルの度合いの問題。証券界は幅が大きめだからスプレッド(利ざや)も大きいわけだ。業者同士はプロだから合法的なら何でもあり。ボクシングでいくら殴ってもいいのと同じである。やられたほうが馬鹿なので訴訟は恥だからしないし、馬鹿と思った奴のいうことを真に受けるなどあり得ない。頼れるのはファクトと数字だ。断言するが、それしかない。役に立つのは哲学と歴史と数学。それ以外の教養もあったほうがいいが必須とは思わない。

この世界で42年やって、近頃とくに面白いと思うのは政治家の言説だ。言葉が商売道具であるのは我々と全く同じだが、彼らは売るのは商品でなく自分、自説だからもっとわかりやすい。大臣、議員の演説や国会答弁を聞いているとウソにもうまい、へたがあると思う。国民、国会はウソを百も並べて騙せばいいのであって、売り込む必要など毛頭ないという態度の民主主義をはき違えた者もいる。「責任は私にあるが、責任はとればいいというものではない」。これはあらゆるウソを蒸発させる大ウソであるが、それなりの大物が堂々と言わなくては逆襲されるから弁の立たない小物が言うには向いてない。ちなみに政府の代弁者である日本のマスコミの言説を僕はのっけから信じていない。大事なことはほぼウソであり、報道しないという搦め手のウソもばらまいて世論誘導するからだ。そんなものは百害あって一利ないので知る必要すらない。真実は自分で探しだして知る。なるべく数字で。それで初めて、何十年もこの業界で所場を張って生きていける。この人が言うならと信じる人はいるにはいるが世界で10人ぐらいだ。

 

5月28日にこれを書いた。

五輪中止でも危ない日本(IOCは潰せ)

これが2か月前の我が予測だった。なお、書いたことで修正すべき点が1つだけある。「突撃一番」が「おもてなし」から「おみやげ」に変わった点である。

大変意味深いのはこの東京都感染者数の予測だ。

すでに感染者は3865人も出ており大ハズレである。しかしそれをもって東大の予測はいい加減だったと結論することはできない。何故ならこれは東京五輪の開始(7月半ば)を起点として感染者数が増え始めるという「モデル」(関数)であって、それ自体は当面の所は正しい。大ハズレの原因はデルタ株(当時インド株)の影響を含んでおらず、人流上昇を6%と甘めに見過ぎている2つの前提条件だったのである。

ちなみに、その稿に書いた僕の結論は

10月の1日の東京の新規感染者数は1601人より多い。どこまで多いかは人流とインド株の暴れかた次第である。

だった。ハズレではないが今となっては何の価値もないステートメントになってしまった。こんなに早く、こんなに高い山が来るほど暴れまくるとは思っていなかった。

東大の作成時点の前提は、①緊急事態宣言の発出はなし ②ワクチン接種は1日60回 ③来日外国人の50%がワクチン接種済、である。その後の現実は ①7月12日に再発出 ②概ね100万回 ③概ね80%と、前提より「抑制的」になった(グラフを押し下げた)にもかかわらず、グラフは跳ね上がってしまった。「8月第1週で4000人」をプロットすると勾配はほぼ垂直(指数関数的)になることはお分かりだろう。

このシミュレーションにはNHKの補足がある。人流上昇は当時から20%と都が発表していたにもかかわらず、

(東大は)当初、NHKの取材に対し、人流が10%増えた場合のシミュレーション結果を示していましたが、その後の検討でより妥当なシミュレーション結果として6%増えた場合に修正しました。

というものだ。「より妥当なシミュレーション結果」とは、「これはウソですよ」という赤裸々な告白以外の何物でもなく、何だこれはと仰天するしかない。「より妥当なシミュレーション」ならわかるが、それは関数(モデル)の設定が順当かという意味で、そう思わないならNHKは放映しなかったはずだ。そうではない。導き出す「結果」(東京都の新規感染者数)が妥当かどうかなのだ。つまり、変数(人流上昇の数字)に何を代入するかで感染者数はいかようにも変わるのであって、”お好みの結果” を出しましょうと変数を操作するなど科学者をよそおった詐欺師でしかない。こんなものを放映しておいて煙に巻けるだろうと思ってる、国民がそこまで馬鹿だと思ってるとは驚異である。

東大の学者がそこまで馬鹿なはずはない。彼らは馬鹿な人にそう思われては叶わないから「より妥当な・・」の補足をNHKに加えてもらい、「政府の圧力がかかりました。不本意ですが、人流の10%は6%に変更して低めの感染者数が出るように忖度しました」とリスクヘッジして不名誉を免れているのである。発注も忖度もNHKがして、NHKが結果が意に添わないといちゃもんを付けた可能性もある。しかしその場合も、放映して官邸からお𠮟りを受けないように忖度したわけで、科学へのリスペクトは皆無だ。こんなのが国営放送で受信料まで取っている。『政府の代弁者である日本のマスコミの言説を僕はのっけから信じていない。大事なことはほぼウソであり、報道しないという搦め手のウソもばらまいて世論誘導する。(見ても)百害あって一利ない』と書いた意味がこれでお分かりだろう。直接間接を問わず気にした相手は官邸だ。東大の箔をつけて「五輪をやっても感染者はこの程度で安全安心ですよ」と印象操作したかったのだ。そして、リスクヘッジに官邸は気がつかず、より妥当だと思った「結果」は恥ずかしいほど大ハズレであったことが、東大の名前でより箔がついてバレてしまったのである。

この「結果」は国民を騙すためであったが、もしそれ以前に、これなら総理が妥当と思うだろうという曲がった意図の「忖度の数字」であったとすると問題は非常に根深い。「10%では感染者が2千人になってしまうからきっと通らない。適当な所で6%でいこう」と、ウソの報告をすることが確信犯化してしまい、これまでの言説から判断するに科学は無知で関心もさらさらない菅総理の意思決定をコントロールすらできてしまう。そう思うのは、もうひとつ、こういうのもあるからだ。

赤恥ものの、マグニチュード10倍の豪快な大ハズレである。こんなひどいものに官邸はいくら税金を払ったのか?マスコミ公表は東大モデルは5月24日だ。三菱総研モデルは6月11日で約3週間の後だしジャンケンであったのだから、東大に比べて出来が悪いと指摘されてプロとして反論の余地はかけらもない。はっきりと「国が三菱総研に委託」とあるから、菅総理がこれをブリーフィングされたことは間違いない。彼にこのシミュレーションにあった科学的根拠の脆弱さなど理解できるはずがない(現に、脆弱だったから大ハズレしたのだ)。これを丸ごと信じてしまった可能性は大いにあり、持ってきた部下は「よくやった」と愛でられ、「よし、大丈夫だ。五輪は目をつぶってやっちまおう」となるのは無理もないことだと同情さえ覚える。曲がった忖度の産物であるなら国家の道を誤らせる重大事件であり、万事において事程左様に、忖度まみれの裸の王様への道を歩んでいるのではないかと心配する。総理に悪気はなくとも、このままでは独裁制に陥る危険を秘めていると国民に恐れられてしまう日が来るだろう。

更に、科学的に重大な問題はグラフの「山の高さ」よりも「形状」である。つまり予測と違って指数関数的に飛び跳ねたことだ。前提にないことが起きたからである。2つある大ハズレの原因となった前提条件のうち、人流上昇は「形状」に織り込まれているから原因ではない。従って、原因はデルタ株への置き換わりであった、それが大爆発を引き起こしたというロジカルな結論に至るのである。

5月12日にアップしたこれ 世の中の謎(安心安全の大会)に、

国会で蓮舫議員がインド、パキスタン、ネパールからの入国者のデータを質問したら田村厚労大臣が答えられなかった。あの姿を見てぞぞっとしてしまった。

と書いている。厚労大臣が知らない。つまり気にもかけていない。デルタ株の増殖は指数関数的というのはインド、パキスタン、ネパールのデータで、この時点で素人にさえも周知の事実であった。指数関数グラフというのはほぼ直角に「立っている」。対応が1日遅れればドンと数値が増えるのは高校ぐらいは出ているんだろうから習ったろう。それを気にかけてもおらず、いたずらに時を空費したことは田村厚労大臣の重罪であり、まだ対応できた5月時点でデルタ株の水際対策を何もしなかった官邸の大失敗だったのである。もう一度書くが、ロジカルな結論として、この失敗が今日の3865人の数字を招いている。後世に記憶されるべき事実としてここに記す。

それに加えての人流上昇だ。東大のシミュレーションは「五輪中止」のケースでも右肩上がりではある。だから五輪があってもなくても第5波は想定されている。しかし「五輪中止」より「五輪あり」のケースの方がグラフが上になる(感染者は増える)となっており、政府はこっちの方はより妥当なシミュレーション結果のために修正させていないのだから「五輪開催で人流が増える」ことは認めていたのである。よって、五輪がなくても感染拡大はあったのだ(五輪は犯人でない)という主張はあり得ない。「選手も選手村もバブルで遮断したパラレル・ワールドにあった。都民の感染とは関係ない」という組織委員会、IOCのお気楽なウソを信じる者はもはや誰もいない。米国体操チームがバブルもプレーブックも完全に無視して選手村から “脱出” し勝手に外のホテルに入っている、この事実だけでその十分な証拠である。ルールというものは一人でも破って懲罰されなければ、なかったことになるからだ。つまり、バブルはもう存在すらしない。いや、ウガンダの空港事件で発覚したとおり、最初からなかったのだ。

それでも五輪のせいでないと力説する御仁がいる。凄いものだ。デルタ株を読み間違えましたでは済まない。水際対策が大失敗だったのだから、入れてしまったウィルスをPCR検査で調べ上げ、無症状者まで徹底隔離するぐらいの緊急対策をとるべきだったのに何もやってない。何も焦っていなかったのである。それで?ワクチン接種で大丈夫ですなのだ。国民の5~6割が “2回接種” を完了しているイギリス、イスラエルで、デルタ株感染者が再増加しており、イスラエルは3回目の接種を始める。つまりワクチンは変異株には思ったほど効かないことが、ワクチン先進国による先陣を切っての人体実験でわかってきているのである。この “まぎれもない真実” を前に、どうしてワクチン打てば大丈夫なのか、学者までもがそう言い切ってしまうことにファシズムの不安すら覚える。

僕は医学の専門家ではないが誰が言おうが真実を無視するのは科学ではない。科学的理解はこうだ。「感染対策aと経済対策bのバランスの最適解を求める」ことはあらゆる国で不可避で両者はトレードオフ関係にあり、仮にa+b=100として最適解を{a,b}と書くと {100,0} 、{70,30}のようになる。問題は 0<b<100 だが、0<a<X<100 であることだ。最極端のケースは{X,0}で、即ち、経済対策をゼロにしても満点の感染対策(重症者、死者ゼロ)はない。そこで便宜的に「Xを最大にする解決」が最適とされる。例えばGoToキャンペーンを30やれば旅行業界が救えるとしよう。そこで{70,30}は無理でも{50,30}ならいいだろう、しかしそれで感染対策が手薄になって{10,30}になるなら国民が納得しないな、というふうになる。これが政治判断だ。

以上のことはコロナでなくインフルでもただの風邪でも成り立つ。風邪はa=0でも構わないので{0,100}だ。インフルはワクチンとタミフルが出たおかげで{10,90}ぐらいで回せているのが現状だろう。それが世界はこの1年半、コロナに{X,20}ぐらいを強いられており、もう長くはもたない。そこで集団免疫が出てくる。例えば、完全な策ではないが満足度80%のa+b=80なら国家安泰だから{50,30}で行こうとなる。20%減は暗に重症者、死者を増やす意味だが経済の損失はそれより大きく、B=30を得るには80%の国民にワクチンを打てばよいという場合にそれは起こる。これが議論の本質であることは重要だ。ワクチンの副反応の死者数よりも重症化が防げて助かる人の数のほうが多いという議論は、集団免疫策にワクチンを用いることを正当化する “サブの議論” でしかない。血栓ができやすいとされるアストラゼネカでも確率1万分の1だから米国でも日本でも「ワクチン接種」は正当化はされよう。しかし、それを全国民にメリットがあると訴えて集団免疫を得ることを目的とした政策を執行しようとするならば、60万人死んでいる米国ならいいが1万5千の日本ではどうかというメインの議論を尽くす必要があるはずだ。それをせずに学者、医師までが接種は当然という論調に振れていくのは非常に危険と思う。

いま英国のジョンソン首相がやろうとしているのは{0,100}だ。彼は昨年から集団免疫策を信奉しており、失敗して自ら罹患している。その延長線としての第2ラウンドがこれなのだ。英国の夏は短く冬は長いという特殊事情もある。冬に季節性で次の波はまた来るが、現状の国民50%の接種率では集団免疫に至らず防げない確率が高い。であれば夏に更なる抑圧を強いて国民の怒りを買うより、感染対策を全面解除して休暇を思いっきり楽しませた方がトータルで国民の満足度は高いという判断だろう。ポピュリズムに過ぎないが為政者としては上手なことは英国に住んで夏冬ギャップを経験した者ならわかる。しかし僕は失敗すると思う。先日の朝ナマで医療ガバナンス研究所理事長・上 昌広氏がこれを参照しろという趣旨の発言をしていたが賛成できない。日本でするなら厚労省の抜本的改革が前提で、氏のような最もまともな部類の学者が集団免疫を推すと、それが科学的知見だと官邸があらぬ方向に舵を切り、非接種者の差別に至りかねない。集団免疫策を採るか否かはあくまで政治判断であって、政治家の責任と裏腹にあるべきだ。

これも凄いことだが、今年の元旦から8月22日までの約8か月で、緊急事態宣言かマンボウが「出ていない日」は30日ほどしかない。8か月中、7か月間 ”出っぱなし” なのである。マスコミがいう「宣言慣れ」なんてかわいいものではない、「そっちがむしろ平時」になっているのだからやる意味はなく、やめたときのバックファイヤーが炸裂するだけになってしまっている。怖ろしいことに、それが「常態」なのだ。それに輪をかけて、五輪開催がこんなイメージを生むメッセージになってしまっている、

緊急避難警報でスマホがピーピー鳴っているが、窓の向こうからはドンドンピ~ヒャラと楽しそうな夏祭りのお囃子が聞こえてくる

緊急事態宣言下で五輪をやる。国民の感じはそんなものだ。「お祭りやってるんだからそんなに緊急でもないんだろう」「見ろ、村長のツイートもお祭りバンザイ、おめでとうばっかりだぜ」「私はワクチン打ったし、これでもう死ぬまで安全安心よね、他人にも移さないし」「私もよ、やっと元の生活に戻れたね」「菅さんもワクチンでオッケーって言ってるしね」「そうね、総理大臣が言ってることだもんね、大丈夫だよね」。こうやって緊急避難警報はやすやすと無視され、歓声と祝杯があがり、お祭りに興味のない人も気がゆるんで外出、外食、旅行する。それで死人、ケガ人が出てもお祭り委員長であるバッハ氏は何の関係もない。雨が降ろうが槍が降ろうが「お祭り決行だ!」と命じた村長と、土地を提供した庄屋の責任であることに異を唱える国民はもうあまりいないだろう。

五輪中止派は「反日」だ。これも驚いた。君が代拒否に結びつく短絡単細胞思考はまずい。不幸なことに、この発言は、天皇陛下が宮内庁長官を通してコロナ対策へのご懸念を表明され、開会宣言の「celebrating」を「祝い」ではなく「記念する」と訳したことで「反日はお前だろう」になってしまった。女系天皇、女性宮家、KK問題への民意とからんでくるとこれも根深い。「選挙といえば自民」の30%はともかく、「とりあえず自民」だった中道保守の中高年層はどう思うだろう。僕は金メダリストはいちいち讃えているが、それは自分がガチで野球をしていた親アスリート族だからである。金メダルが何十個になろうがそれは100%アスリートの功績であって、その後ろで政治家が浅ましいピースでもしようものならバッハとおんなじ絵にしかならない。東京都で何ら実質的なコロナ有効策を打たず出たり引っ込んだりでポーズをとるだけの小池も同罪だ。この辺の民意は実にアンビバレントなのである。ただでさえ感度の低い官邸、運命のすべては言説にかかっている。当然だ、政治家なのだから。

感染者が増えても重症者、死者が増えてないから大丈夫だと言ってる者がいる。上の2つのグラフを信じて大ハズレしておいて今度は当たると思ってる御仁の相場観のなさと根拠不明の胆力には舌を巻くしかないが、それは大ウソだ。重症でなくとも、軽症、中等症でも病床は埋まり、ベッドがありませんと自宅療養で待たされている間にたくさんの家族に広がり、入院するころには重症化してしまうか亡くなってしまう人がすでに複数出ている。ところが一方で、だからまずいでしょという方向にあらぬ話が進んでロックダウン可能な法改正の話まで出ている。馬鹿も休み休みにしろ。自分がデルタ株対策に大失敗して危機を招いておいて、だから私権制限をする?それなら先にお前らが責任取って内閣総辞職してからやれという話に進んでいくだろう。火に油を注ぐだけの五輪は始めてしまった以上はもう中止という手はない。もう手の施しようがない。

僕のブログをフォローしてくださっている皆様は、昨日の記者会見での菅総理のこの発言を聞いてどうお考えになるだろう。

「(デルタ株の)水際対策っていうのはきちっとやっています。今このオリンピックというのは、まさに海外の選手の人たちが入ってくる方たちと完全にレーンを分けてますから、そこは一緒にならないようにしております。そうしたことでしっかりと対応させていただいているというふうに思ってます。私がこの感染対策を自分の責任のもとにしっかりと対応することが私の責任で私はできると思っています」(発言のママ)

五輪を中止していても危なかった日本国は、この総理大臣に全面的に運命をおまかせの事態なのだ。

 

 

 

 

 

ラヴェル 「高雅で感傷的なワルツ」

2021 JUL 26 6:06:13 am by 東 賢太郎

ラヴェルが欲しくなる時は調子がいい時と決まっている。3つあった大仕事の2つが片づき、ラヴェルがやってきている。昨日はレパートリーをピアノでさらっているうちにぐいぐいのめり込んでしまい、なんていい曲なんだと感嘆する。こうやってラヴェルを骨の髄まで愛していることを確認するのだが、これを何回やっているんだろうと思うとぞっとする。もう麻薬の域だ。

「高雅で感傷的なワルツ」(Valses nobles et sentimentales1911年にパリのサル・ガヴォーで作曲家ルイ・オーベールのピアノ独奏により初演された。このホールはプレイエル、エラールに次ぐフランス第3位のピアノメーカーだったガヴォー社が1906年に自社のピアノを宣伝するために建てたもので現存する。

サル・ガヴォー

下の写真は同ホールで1913年11月6日行われたカミーユ・サン=サーンスの最後のコンサートだ。ガヴォーピアノが使用され、指揮者は風貌からピエール・モントゥーではないだろうか(写真の半年前のパリで春の祭典が初演されている)。

1911年5月9日、「高雅で感傷的なワルツ」の初演は写真の2年半前ということになるが、主催の独立音楽協会(SMI)は作曲者の名を伏せておき、演奏後に誰の書いた曲かを当てるという企画を催した。同曲に対してはラヴェル票もあったが、サティ、ダンディ、ケクラン、コダーイの名もあったらしい。

ということは当時、ラヴェルやドビッシーはもちろん、現代ではそれほどでもないその4人の作曲家もそれなりに「売れっ子」であり、新作を続々と発表し、聴衆はそれを楽しみにして生きていたわけであり、そういう “土壌” がパリに定着していたという証明になろう。ストラヴィンスキーの「春の祭典」初演スキャンダルは “響きが新奇だったから” という側面ばかりが語られるが、それは同曲ほど新奇でサブスタンスのある楽曲が以後現れていないという創造の希少性を知ってしまった現代の視点が入り混じった解釈だろう。1913年の当座はそうではない。古き良き “土壌” への攻撃をあえて仕掛けるロシアの若僧に対し、 “土壌” を愛していた写真の聴衆やラヴェルの曲の当てっこに興じていた愛好家の側が “アヴァンギャルドな反逆” を仕掛けたという事件でもあったというのがむしろ音楽史の客観的な解釈ではないだろうか。

その土壌を総称して「ベル・エポック」(Belle Époque)なる、パリが繁栄した華やかな時代の雅称に象徴させることは可能だろう。そしてそれは、写真の半年後に勃発したサラエボ事件(1914年6月28日)が引き金となった第一次世界大戦によって、ヨーロッパから根こそぎ吹っ飛んだのである。その事件だって旧オスマン帝国だったバルカン半島にじわじわと「火薬」が積みあがっていた、そんな危険な均衡の上にあって、パリのそれを知らない人々がベル・エポックの虚構の繁栄を謳歌していたという両面性があることを忘れてはならない。しかし、こうしてそれを「虚構の」と書いた瞬間に結末を知った「ネタばれ」の味気なさが漂う。歴史というものは叙述によってしか伝わらないが、それを補うものは読み手の教養と想像力しかない。

ストラヴィンスキーという男が音楽史上に革命児と位置づけられるのは、三大バレエの和声やオーケストレーションの奇矯さによってではなく、音楽に限らずあらゆるジャンルにおいて地球上から19世紀的な「良き(Belle)」ものが粉々に破壊される予兆を音によってタイムリーに、万人がわからざるを得ないようなインパクトをもって呈示し、しかもそれが、結果的に見事に正鵠を得ていたと思われるからである。これも味気ないネタばれなのだが、彼がたまたまその時代に生まれて成し遂げたことが「ここぞの場面で技を決められたアスリート」のように偉大なことであったかもしれないと信じるかどうかは、読み手が自らなにかそういう経験をしており、補って感じ取ることができるかどうかに依存する。

三大バレエが書かれているころ、パリでラヴェルという男が書いたのが「高雅で感傷的なワルツ」だった。題名はシューベルトの連作ワルツから取っているが、僕の主観では「高雅」「感傷」「ワルツ」というより「15分間の暗く混沌とした和声の迷宮」に他ならない。1919年の「ラ・ヴァルス」も渦のような暗さが支配するが、ワルツの3拍子がラヴェルの創造に何らかの関りがあったことは確かと思われ、それは意識下にある19世紀的な「良き(Belle)」ものの残像を象徴化した存在だったのではないかと僕は思う。

ストラヴィンスキーは作曲経験のあまりない、弱冠20代の新人の壊し屋だった。1911年にパリの空気を吸っていた彼に世の崩落を予知させた何物かが降臨したが、キャリアの無さが幸いしたかもしれない。それはやはりパリにいたラヴェルも訪れて「高雅で感傷的なワルツ」を書かせていたが、ラヴェルはキャリアがあった。ベル・エポックの甘美な夢にも浸っていた。それがやがて誰かに打ち壊される(それが無残な戦争によるとは知らなかったろうが)。不安が投影され、甘美な夢とダブル・フォーカスになったのが同曲だったのではないか。ラヴェル自身にとっても本意ではなく、他人事でありたく、作曲者の名を伏せておくゲームの場で聴衆の信を問うてみた。その心理は彼固有の人をトリックで煙に巻く趣味にうまく紛れてはいるのだが。

第1曲 Modéré の幕開けは、素人の指ではつかみにくい和声で跳躍する強打で、ラヴェルなりの “土壌” 崩壊への狼煙だ。しかしこれをストラヴィンスキーの投じた異界の音響と比較することはできない。歴史は必ず主役がいるが、彼らもその当座は脇役かもしれず、雪崩の崩落はどの氷の一粒がトリガーになったのかは誰にもわからない。主役に祭りあがった者たちもきっと知らないし、ネタを知った後世の我々も実は往々にして知らないのである。

この曲には弾いてみたい魅惑がある。最もそうである第7曲は素人には到底無理で何とかなるのは第2曲だけだが、それでも和声を辿っていくとまったくもってラヴェルであり、無調ではないし調性が聞こえるのだが音は理屈をはみ出している類例のない不思議さである。この感じはビル・エヴァンスの譜面をなぞってみたときの感じに近い。

同曲にはラヴェルの自演とされる録音が存在する。危なっかしい部分があるがテンポは安全運転ではなく、これだけ弾ければピアノがうまくなかったという評にはならなかっただろうから俄かには信じ難い。

第7を最高のセンスで弾いているのはサンソン・フランソワである。導入は霧の中を彷徨う暗い幻想、ワルツの主部は即興的なルバートの嵐だがニュアンスの塊りであり、煌めく高音の洒落た品の作りはうっとりするばかり、終結の高潮するクライマックスはぎりぎりまで溜めに溜めたエネルギーの奔流に体が揺さぶられる。全曲として僕が第1に推すのはこのフランソワ盤である。

あまり知られていないが米国のアビー・サイモン盤は最高度にプロフェッショナルな演奏だ。スコアのリアライゼーションでこれを凌ぐものはない。単に指回りがどうのという次元ではなく、複雑に音が絡む部分のテクスチュアがガラス細工の透明さで解きほぐされ、声部ごとに弾き分けられる音色、ニュアンスのパレットの多彩さには驚くしかない。万事が自在なだけにサイモンの解釈の個性が浮き出ており、この点だけはフランソワに軍配を挙げるが、看過されるべき演奏ではない。

フランソワに迫る面白さで技術的なキレも備えるのがアレクシス・ワイセンベルク盤である。この人も天才肌だったことが刻印された見事な録音だ。晩年にカラヤンとのつまらない協奏曲などに駆り出されたのは不幸だった。ラヴェルは適性があり、全曲を残して欲しかった。

ポゴレリッチは僕には謎のピアニストになってしまったが、この頃はまだ許せる。ラヴェルの自演からは遠いが逐語訳的演奏よりずっと面白く、この読みは本質を逸脱していないと思う。

ロジェ・ミュラロのピアノは知的だ。リズムもニュアンスも考えぬかれており、勢いに任せた部分がない。

マルセル・メイエの48年盤は文句なく素晴らしい。マルグリット・ロン、アルフレッド・コルトー、リカルド・ヴィニェスの弟子でありラヴェル直系であるが、直系がいつも良いというわけではない。むしろ規律に縛られずテンポとルバートが自在で感性にまかせる部分に魅力を感じる。

周知のように同曲は管弦楽版が存在する。しかしラヴェルには申し訳ないが、僕にとってこの曲のソノリティはピアノ以外には考えられないので割愛する。ドビッシーはそういうことをしなかったが、ラヴェルは管弦楽の音響を常にイメージしながら作曲していたと想像する。ふたりの脳の構造の違いが興味深い。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

4分間はもうバッハでいくしかないだろう

2021 JUL 21 16:16:27 pm by 東 賢太郎

①「アスリートは85%、IOC関係者はほぼ100%、メディア関係者も70~80%の高い割合でワクチン接種を終えている」(IOCバッハ会長、外務省「人の交流」より、2021/7/14)

②「国民の52.64%がワクチンを2回打ち終わり、1回打った人は68.1%に達したイギリスで新規感染者が7月16日に1日5万1870人出ている」(Our World in Dataより、比率は2021/7/19時点)

②というデータ(事実)を前にして、①だけを根拠として「大会の安全安心」を主張して正しいという結論を導くのは、少なくとも地球上においては不可能である。昨年に集団免疫作戦で大失敗しているポピュリストのジョンソン首相は規制全解除という蛮勇とも思える再チャレンジに踏み込むが、英国民の半分が危険すぎると反対している。それを日本国でやればもはや「殿ご乱心」の域だ。総理は椅子から引きずり下ろされるだろう。

バッハ氏は同じ発言の後半でこうも述べている。

③「加えて、日本の極めて厳格な感染対策により、過去に例を見ないほど万全の準備が整ってきており、安全・安心な大会開催に向けた日本の取組を高く評価する」(①に同じ)

つまり、日本の「安全安心」への取り組みを高く評価はするが、準備に加担はしない。「選手にワクチン接種を促して感染を回避させることはIOCの責務だが、強制はできないし全員が打ったところで感染しない保証はない。あとは日本(菅総理)におまかせするので頼みますよ」と述べているだけだ。

バッハ氏は緊急事態宣言下での歓迎会に批判があることに対して「我々はゲストだ」と答えたが、まさしく、客人はホストの家でパーティの最中に何が起きようと責任は問われないからその姿勢は一貫している。IOCは大会中に感染した選手に訴訟されないように免責条項付きの同意書にサインさせており、日本からも訴訟されず、国際世論からも叩かれにくい伏線をそうやって張っている。

では菅総理はというと、共産党・志位委員長の質問に対してこう述べている。

④「国民の命と安全を守るのは私の責務ですから、そうでなければ(五輪は)できないということを私は申し上げているんじゃないですか。守るのが私の責任であります。守れなくなったらやらないのは、これ当然だと思いますよ」(菅総理大臣、「党首討論」、2021/6/9)

この発言も巧妙ではある。「五輪をやったせいで国民が何人感染した」と実証するのは困難だからだ。東京の新規感染者が仮に5千人になっても「五輪前に入っていた変異株が想定を超えた猛威を振るった」と主張すれば反証は難しい。すなわち、私の責務とは「安全安心の呪文を毎日お唱えしてさしあげます」という意味にすぎないのだ。バッハが逃げ、総理が逃げ、都知事は隠れ、感染の責任は誰も取らない。東京都民はIOCに場所を貸してやるのに都税を巻き上げられ、競技は地球の裏側の人と一緒にテレビでバーチャルに見る。リアルで起きることというと、新種の混合変異ウィルスか何かが都内に漏れ出してきて、コロナはおろか他の病気で倒れても病院をたらい回しになるのではないかという不安の拡散だけだ。何が安全安心だ。五輪が憎いわけではない、いち都民としてふざけんなという怒りしかなく、やり逃げは絶対に許さんよということだ。

バッハ氏が過去に例を見ないほど万全の準備と持ち上げて見せた、安全安心の守護神である「バブル」は、ウガンダ選手団の空港検疫からして早々に穴があいていたことが発覚し、南アのサッカーで内側ですでに陽性者が2人出ている。英語ができない現場の職員に百カ国を超える何をしでかすかわからない外国人の指揮、統制、監視させるなどのっけから無理で、気の毒としか思えない。東京都民の心配をする以前に、まずバブルの中こそ危ないだろう。外部と遮断されていたという意味では選手村より完成度の高いバブルであったダイヤモンド・プリンセス号では、陽性者たった1人が2か月で712人に増えた。日本の防疫体制は完璧だろうと国民も当初は思っていたが、ふたを開けてみると、現場は必死に真剣に作業に当たりはしたもののウィルスに対して打つ手がなく、加藤厚労大臣が「万全の態勢で臨んでいる」とした政府の対策はというと「左手が清潔ルート、右側が不潔ルートです」程度の恥ずかしいものだった。

天皇陛下がご心配されたのもそのようなことかもしれないし、ご心中は拝察すらできる立場ではないが、開会式のスピーチだけお一人でされて競技観戦は皇室は一切しないというご判断は国民に寄り添われたさすがのものと思料する。日本国のあるべき正義と良識を決然と体現されたメッセージには、国を愛するいち国民として清冽な湧水で渇きを癒したかのような心からの慶びを禁じ得ない。それを感じるのがほんとうに久しぶりである。何という浅ましく汚れた世情を我々は何年も見せられてきたことなのだろう。さらには、トヨタをはじめ日本の錚々たるスポンサーが五輪CMの放映を軒並みキャンセルし、開会式すら出席しないという決定を続々と発表しているのも、理由は数多あろうがそういうことも一抹の背景にあるのではないだろうか。企業にとって世論は生命線である。当然ながらそれに対する感度は鋭い。いくら損をしようとも「強行派」の一味だと思われるよりましだという判断に至ったのは、世論の大勢は五輪にアゲインストという雄弁な証拠であろう。

双子姉妹のきんさん、ぎんさんも訪れた

この風景で思い出すことがある。1989年に竹下内閣がバブル経済の狂乱に乗じて挙行し、国民を驚かせたふるさと創生事業だ。国が全国の市町村に1億円を配って好きに使えという大判振る舞いの「村おこし」国家プロジェクトである。何が起きるかと思いきや、「村営パブ」の開店や「純金の除夜の鐘」を鳴らすなど想像を絶する驚愕の事態のオンパレードに至る。当時ロンドンで日々プライドを持って世界に冠たる日本経済、株式市場を英国金融街の要であるシティの顧客に語っていた僕はこの事実を説明するのをためらった。こんなみっともないことをやってる国の国民と思われるぐらいなら、ニュースを伝えなかったと文句を言われた方がましと思ったのだ。青森県某市が特産のこけしを宣伝しようと純金、純銀の特大こけしを特注した。後の財政難で市はこけしを売却し、展示品はレプリカになったが、この事例だけはずっと後になって外国人に「日本は実はそんなもんだ」という一例として説明した。「金価格の下落から2~30%の損切りだったと思われる」という部分を加えると、ばかばかしさの中にも証券マンとして何がしか語る意味を感じることもできたからである。この国史に刻まれる記念碑的政策によって、東京生まれ・東京育ちの僕は日本国の諸地域における経済や伝統文化風習の奥深さというものをまじまじと思い知らされたわけである。

しかし、今になってその村おこし政策は効能もあったことがわかる。例えば、全米ヒットチャート1位でメンバー各人の年収が10憶円を超えるといわれる韓国の超売れっ子7人組グループ「BTS」のライブ公演はどこでやっても売り切れで、招聘するのがとても大変なことで有名だ。ちなみに日本トップの人気グループだった「嵐」のyoutube再生回数はせいぜい4,5千万回だが、世界トップのBTSは新曲を出すとあっという間に5億回だ。異例のスーパーぶりがわかる。ところが、そんな韓国にとって宝のようなスターのライブ公演は自国より日本の方が回数が多いのである。国民に叩かれるのになぜそうなるかというと、韓国は大都市しか音響の良いホールがないが、日本はどんな田舎にも立派な村おこしホールがあるから縦断ツアーができ、回数が増えるのは仕方ないという事情があるのである。日本側はカネは落ちるし郷土自慢になるし、地元政治家はやってる感が出せる。是が非でも来てほしいから韓国の興行主に表で裏での「お・も・て・な・し」攻勢になるのである。

そう、それの巨大バージョンが、3兆円をばらまいた東京五輪であったのだ。

興行主であるIOC様への貴族並みのおもてなしはもちろんのこと、フランス検察が調査中の裏金も渡ったろうし、あらゆる究極の手を使って奪取した開催都市指名である。大会成功をお約束しますと思いつく限りのポジティブ思考で美辞麗句をふりまいたことだろう。バッハ、コーツ両氏が日本国民の感情を逆なでする発言をしているように見えるが、それは官邸、組織委員会がぶちあげたヨイショを鵜呑みにしてしゃべっただけだ。彼らにはお客さんである日本を貶める悪気などあるはずがない、官邸、組織委員会らのセールストークが頭に刷り込まれていただけなのだ。森友事件で佐川長官の忖度精神に満ちた「文書は隠滅しました」を信じて国会で「総理も国会議員も辞める」と啖呵を切って大炎上に追い込まれた安倍前首相とおんなじだ。「コロナ禍に至って1年延期してからも「バブルは完璧で安全安心です」「国民はちょろいもんです。反対の世論なんて池江璃花子が金メダルをとればコロッと変わりますよ」ってなもんであったろう。しかし、それを言ってる上から目線の面々が世論の機微を読む能力はほぼゼロであり、作業は下請けに丸投げで責任は取らない連中だということをIOCは来日するまでは恐らく知らなかったろう。

バッハ氏は昨日のIOC総会で「東京オリンピックの開催に実は疑念を持っていた」「開催はごり押しと見られたかもしれないが、疑念があることを外部に悟られたら五輪はバラバラになっていた」「だから選手のためにもそれは隠していた」という趣旨のことを記者の質問で語った。これは驚くべきコメントだ。普通は「不安はあったが日本の力を信じていた」ぐらいのリップサービスで済ませるところであり、現にスピーチ自体ではお世辞を並べていたのだから非常に違和感がある。つまり、ついにここで抑えに抑えていた本音が暴露されてしまったのである。不安どころか疑念があったというのは、まぎれもない、官邸の美辞麗句を「実は信じていなかった」という意味である。「私は中止でも良かったが、菅総理がどうしてもやる、安全に出来ると言い張ったのだ」「だから不安で眠れない夜もあったけれど、IOC会長として責任は尽くしたことを明言しておく」というニュアンスを感じる。

この発言が出たのは、恐らく、来日して次々と目にした “不幸な現実” が、官邸や組織委員会の楽観的な説明とあまりに乖離しており、天皇陛下までがもろ手を挙げての歓迎ではなかったからだろう。菅総理の「内奏」を聞いて陛下が懐かれたご懸念というものは、バッハ氏にとって異議があるどころかむしろその通りと思えてしまったのではないか。ちょろいと聞いていた反対世論がここまで頑強なのはバッハ氏の想定外だったろう。総会に参加しているIOCの幹部たちも、選手村のバブルがワークしていないという批判的な国際報道はもちろん、菅内閣の支持率が五輪のごり押しで暴落して29%だぐらいのことは知ってしまっているはずだ。そんな総理の言葉を信じてましたでは万一大会が失敗に終わった場合にIOC内部で反バッハ派に攻撃されるだろう。五輪の看板を毀損したとでもなれば会長続投すら危い。そこで弁護士の彼は日本側に全責任を押し付けるアリバイ作りに舵を切ったという風に僕には見える。

かたやリスクを押し付けられた総理はというと、「長いトンネルに出口が見え始めている」と彼以外の誰にも見えていない出口を幻視した気持ちにさせるという非常に成功率の低い試みからスピーチを始める。次いで、その出口はワクチンがもたらしたのだと、最も打てていない国の総理であることをものともせず「ワクチン一本足打法」への強固な自信を披露して見せる。今更そんなことはIOCもバッハ氏もどうでもいいのだが、それがどうしたんだという以前に、冒頭の②の英国やイスラエルのデータが明白になった以上、現行のワクチン接種のみでコロナに打ち勝てる可能性は高くないというのが今や世界の科学者の常識なのだ。それの一本足だって?こいつ正気か? それを開会式の3日前に言われて、IOCの人間はみな思ったろう。「ならばもっと早くワクチン打っておけよボケ。無観客はお前のせいだ」と。後手後手、行き当たりばったり、事が起きてから “慎重に” 検討する。そして、その世論からのズレを感知さえしないセンス。おい本当にあいつに騙されたのか?バッハもそこまでアホだったかと思ってるだろうし、バッハ氏もそれを察知して焦ってる。国際社会という場は言論によるガチンコで動く。忖度政治なんてものは田舎の日本でしか通用しないのである。

小山田圭吾の騒動で穴があいてしまった開会式の最初の4分。「もうバッハで行くしかないだろう」(官邸)。大賛成だ。僕のおすすめはこれしかない。

「マタイ受難曲」

受難の官邸はこの曲を誰も知らないだろうけれど、天下の名曲である終曲「われら、涙流して ひざまずき」は速めのテンポなら4分で収まるよ。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

アラジンの魔法のランプはなぜ二つない?

2021 JUL 17 9:09:36 am by 東 賢太郎

ディズニー映画にもなってる「アラジンと魔法のランプ」。擦ると魔人が出てきて「お望みのものは何でも出してあげます」というあれだ。「じゃあ宮殿でお姫様と結婚したい」といってそれが叶うが、魔人にランプを奪われて宮殿ごと略奪されてしまう。これを絵本で読んだ時に「『ランプをもうひとつ出せ』といえばよかったのに」と思ったからマセたというか、どうも夢のないガキだった。

そんなランプがもしあれば、世界の富は独占できてしまう。した者はいないから、したがって、そんなものはこの世にないのである。

ところが、あると思ってる人がいる。「仮想通貨をAIで運用すると4か月で2.5倍になります」ともちかけた詐欺集団が投資家を騙して60億円集めたというニュースでそれを知った。よく考えていただきたい。そんなAIがあるならアラジンの魔法のランプと同じだということは、どんなにお金や運用に疎い方でもお分かりいただけるだろう。だからまず「そのAIを持てば無限に儲かるね?」と詐欺師に質問してみればいい。次に「ならば自分のカネでやるよね、どうして見ず知らずの僕に儲けさせてくれるの?」ときけばいい。尻尾をまいて退散するだろう。

TVで政治家がこの事件を解説して「リターンがあるならリスクもあることを知るべき」「教育がいかん」と話していた。それはそのとおりだが、そんなことを言っていたら永遠にリターンは得られない。投資は「虎穴に入らずんば虎子を得ず」なのである。しかし虎穴に入って母トラに襲われるリスクは不明というのがこの故事のシチュエーション設定なのだ。遠くにいるとわかれば虎の子は安全に得られるだろう。とすれば親をあらかじめ追跡しておけばいいではないか。ドローンやGPSでそれをやると想像してほしい。それを「リスク分析」という。

すなわち、「リタ―ンの裏にはリスクがあるよ」ともっともらしいことをいくら覚えても、詐欺には引っかからなくなるかもしれないがそんなものはインテリジェンスにならない。「リスク分析」を行い、そのリスクに見合うリターンがあるか否かを比較すべきなのだ。例えば親が穴から10mの所にいるなら誰がどう見ても危険だ。でも100mならどうだ?しかも虎の子が2匹いたら?3匹なら?こう考えるのだ。リスクの許容量は人それぞれで正解はない。10匹で500mでもやらない人もいれば1匹で100mでも挑む人はいるだろう。こうした人それぞれの判断を「相場観」という。それが多様だから、同じ値段で売る人と買う人が出てきて、取引所で相場が立つのである。

それを知れば「リスク分析」こそが投資成功の鍵であることがお分かりだろう。では「リスク」とは何か?ほとんどの皆さん「損する事」と思ってる。その答えは零点だ。零点の方法でリスク分析して勝つはずがない。もし勝ったらビギナーズラックだから、長くやればその利益は吐き出してしまうだろう。合理的予測がどのぐらい外れるか、その外れ方の大きさ(標準偏差値)がリスクなのである。説明は省くが、ここでの本題はその合理的予測についてだ。それがあるか否かが株式投資とそれ以外のすべての投資の分水嶺なのである。株式というのは会社業績等(ファンダメンタルズという)という、ある程度までは「合理的」と多くの人が納得する「価値の数値的説明(ヴァリュエ―ション)」が可能である。その前提となる変数は複数あり、相互に相関もあるから多次元多変数関数の解析であるが、どんなに複雑であろうと関数関係という合理性はある。それでも完璧な株価の予見に誰も成功していないのは関数自体が時間と共に変化するからだというのが僕の解釈だ。

それが株だ。そして、それ以外のすべては、ファンダメンタルズの存在しない投機(バクチ)である。投資とバクチの区別がつかない人は多いが、実はそれはほぼ正しい理解であって、株式投資だけがそうでないと覚えておけばよい。だからプロ投資家であることが成り立つ唯一の投資対象であり、僕はその一人としてリスクを合理的に解析してリターンより少なく取る専門家であり、それでも想定する関数が完全でないから失敗することはある。しかし、外科医と違って我々は失敗してもその確率が想定内であれば構わないのだ。プロ野球選手が10回打って7回失敗するのはOKで年俸1億円もらえるのと同様のことある。そして、僕に原油や仮想通貨の予測を行うすべはない。株式ほど多次元多変数でないのは結構だが関数関係が導けない。つまり「リスク分析」が不可能である。可能なように語っている者は多いが、数学的に無意味であり、従ってリスクがわからない。合理的にわからないものに投資はしないのは僕の根本哲学だ。以上を絶対真理とまで言うつもりはないが、それを実践した結果として資産は作ったから少なくとも個人的真理ではある。

この方法論(インテリジェンス)をテキストとして書いてどこかで90分×10回講義で教えれば少しは世の中の役に立つだろう。詐欺師に騙されることなど絶対になくなるから社会正義にも資することになろう。僕は中高大と税金で勉強させてもらったのでリタイアしたら社会にお返ししたい気持ちは大いにある。そのためにはセミナー会場やyoutubeで料理番組みたいに具体例を使って投資シミュレーションをお見せし、机上の空論でないことをお見せするのが一番なのだが、それができないのだ。その株に投資したいと言われても金商法にひっかかり、それを合法にするにはコストと人数の上限が発生して視聴者に不公平が出てしまう。となると理論だけを教えることになるが、それを理解して実践できる人は少数だろうから「社会にお返し」にはならないと思う。投資信託を作って「おまかせで儲けたい」人を儲けさせるのは本旨ではない。自分の頭で考える投資を教えたいのであってお助けマンになる気はないし、それで手数料を稼ぐ必要ももはやない。

「そのAIを持てば無限に儲かるね?」「ならば自分のカネでやるよね、どうして見ず知らずの僕に儲けさせてくれるの?」という詐欺師撃退の質問を思い起こしていただきたい。この2つを問われたなら、①AIだろうがインテリジェンスだろうが「儲かる」ノウハウがあり、②儲かる証拠にそれは自分だけのために使いますというのがパーフェクトな回答なのである。運用者が社会福祉や公共政策を考えることはないしその必要もない。善人ぶっていても競争に勝てなければ存在する意味もない。まだ完成度は高くはないが質問1はほぼ達成しており、質問2は未達だ(資本が少ないと案件を取逃がすし、投資してもリターンが少ない)。だから15人のお客様にリターンをシェアしてさし上げる代わりに助けていただいている。それが150人、1500人となると手数料は増えるが技術やサービスが落ちるのでやらない。行列のできるラーメン屋がチェーン店にすると潰れるのはその本末転倒のせいだ。

悩ましいのは、そのポリシーで経営して事業に成功する自信はあるが、社会へのお返しという「人生のバランスシートの均衡」という動機とはどうしても矛盾が生じてしまうことだ。ノウハウは誰のため使うかというと「社会」ではなく少数の人たちだ。どうしてかというとアラジンの魔法のランプも幸福にしてくれるのは拾った人だけである。それが何万個もあって何億人もがお姫様やお城を手に入れるならランプの価値は無に帰すだろう。そして運用ノウハウを維持して合法的に使うためには相応の経費が掛かる。それを少人数で負担してもらうには、どうしてもお客様は富裕層になってしまうのだ。運用という行為に特許はないが、広く公開して皆が同じことをすれば利益は出なくなるという宿命を逃れられない。すなわち、その職業を選んでしまった以上、万人から愛されたり御礼をいわれることは諦めるしかないという結論に至る。しかし、いずれそれを後進に委ねる時は来る。そこで自分という人間の原点に立ち返ったなら何ができるんだろう?何をやりたくなるんだろう?来月は大いに「社会」を相手にする某社の顧問に就任する予定だが、ちょっと楽しみである。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

ええじゃないか、ええじゃないか

2021 JUL 15 0:00:39 am by 東 賢太郎

天からたくさんの御札がひらひら降ってくる。見ろ、「安心安全」とご祈祷の文字が書いてある。これは慶事の前触れじゃ、おどれ、おどれ。

バッハ氏については5月28日の稿に書いたとおり。東洋人なんてのはみんなおんなじで、お金くれたらよいしょしとこうかって、白人はそんなもん。日本の台頭でそれは変わらなかったが中国の台頭で明らかに変わったからああなる。

厚労省医系技官感染村。PCRしたくない(保健所守る)。感応度30~50%しかない抗原検査で無症状者は野放し。その弥縫策がクラスター対策。そしてクラスター探すと必然的に「酒を出す飲食」に至る。よって、政府はそこを叩く。

また緊急事態。しかも五輪で異例に長い。飲食にオモテでご協力求めながらウラで金と酒を絞る。従っても従わなくても潰れる非業のイジメ。飲食、酒業の激怒はあまりに当然。びっくりしてカネを配るらしい。それ、誰のカネだ?

西村大臣。責任は自分と総理をかばう代償に「朝から夜までコロナ対策で頭がいっぱい」と総理も西村をかばう。朝から夜まで考えて頭いっぱいになった結論がそれならば大臣の能力の問題という結論に至るんだけどこの内閣、大丈夫か。

東京都議選、世田谷選挙区で僕が投票しなかった自民党の土屋美和さん。ニューヨーク大学経営大学院修了ってMBAだよ。「学校に記録がないが」「そりゃそうですよ、留学生枠でやってないので」って、なにそれ?わけわかんねえ。こんなホラがバレないと思っちゃう頭の人はMBA無理だよ。

「東京五輪の新型コロナウイルス感染予防策として表彰式では選手自らがトレーに載せられたメダルを首に掛ける」。バッハさん、なにを気にしたんか自虐ネタなのかあれもこれもきれいに的外れだ。マスクとシールドあればそこまでしなくてもいいと思うがそんな空気の中でやるなら選手が気の毒だ。

「来日中の米国と英国籍の東京五輪スタッフ4人が麻薬取締法違反容疑で逮捕されたが、4人は逮捕前、東京・六本木のバーで飲酒していた」。まあ、捕まったしええじゃないか。でもコカインはどこにあったんだろう?

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

ブリテン 歌劇「ピーター・グライムズ」- 4つの海の間奏曲 Op. 33a

2021 JUL 13 8:08:10 am by 東 賢太郎

宵っぱりなので朝は弱い。夜明けの光景はあんまりなじみがないが、印象に残っているものが二つある。

ひとつは島根県奥出雲。11月の朝、6時前に車で宿を出た。曲がりくねったでこぼこの山道を辿って丘陵を登る。外に出るときーんと澄み切った空気が鮮烈で、仲間と「いよいよだ」と雲海を見おろしながら迎えた日の出。古事記や日本書紀の神話が生まれた古代もこうだったのだろう。

奥出雲、2019年

こちらは網代の某旅館から見た相模灘の日の出。天気予報は雨だった11月の朝、運よく拝めた太陽が雲間をぬって現れてはすぐ隠れる。すると、みるみる洋上の光彩が変化し、遠く、まあるい別な光が落ちていた。やがて光は数条の筋に拡散して「天使の梯子」となる。見たことのない神秘の祭典だった。

網代、2020年

日の出を描いた音楽というとラヴェルの「ダフニスとクロエ」の第3場「夜明け(Lever du jour)」、グローフェの「グランドキャニオン組曲」の第1曲 「日の出 (Sunrise)」が著名だが、奥出雲で僕の頭に流れたのはラヴェルだった。そして、網代では、自分でも意外だったがそのどちらでもない、ベンジャミン・ブリテンの歌劇ピーター・グライムズより組曲4つの海の間奏曲第1曲「夜明け」(Dawn)をまじまじとイメージしていた。この曲にこんなにふさわしい光景を目にしたのはそれが初めてである。

さきほど、なぜこの曲だったんだろうとネットでブリテンが長く住んでいた英国サフォーク州にある海沿いの街オールドバラの風景を検索してみた。そこで見つけたのが下の写真だ。歌劇「ピーター・グライムズ」は架空の漁村が舞台だが、この地の記憶から霊感を得たという説は有力のようだ。当時それを知っていたわけではないが、網代の日の出の光景が僕の中で同曲を呼び覚ましたとするとそう的外れな事件でもないように思う。景色を介して作曲家と通じ合った気分になるのは素敵な経験だ。欧州に住んで、それが生まれた土地との関係を意識し始めたのは実は「食」が先だった。フランス料理にもチェコ料理にもそれはある。食が大地のエキスを吸ってそうなるなら、音楽もそうだと思う。

オールドバラの帆立貝の彫刻(ここをよく散歩したブリテンに捧げられた)

第1曲「夜明け」(Dawn)はオペラでは第1幕の始めの方で、Vn、Flのユニゾンが無から生じたようにひっそりと立ち昇ってくる。このイ短調の旋律、もの悲しげだが何かを訴えるようでもあり、夢で聞いているローレライの歌のように生命の息吹を感じない冷たいものなのに耳にまとわりついて離れない。英語でお化けが出ることを haunted というが僕にはそんな感じがする。邪悪な意味ではない、精霊というか神性というか、何物かの歌がきっとブリテンに降ってきたのだろう。それがこちらにも響いてくる、そんなものだ。

そこに不意に立ち上がるCl, Hp, Vnのアルペジオ(下の楽譜の3小節目)には本当に驚かされる。 “生命の息吹” の闖入だ。ブリテンは h にあえてトリルをかけイ短調の調性感を安定させる。そこでヘ長調に7, 9, 11, 13度が載るこれ!クラリネットにハープを重ねる周到な音色設計。びっくりするのは感性というものなのだろうが、調性や音色への少々の耳の訓練は要るのかもしれない。だから何度もじっくり耳を澄ましてほしい。必ずわかる。僕も初めの頃はあっさり聞き流していたが、いまや聴くたびにぞくぞくする。音楽が秘める魔性の効果というなら、その一例として僕はこれを真っ先に挙げるだろう。

このアルペジオは何なのか?鳥の群れが舞い上がったのかもしれないし、魚群が水面をジャンプして水しぶきをあげたのかもしれないが、そういう現実的な風景ではなく、僕には一種抽象的な「何やら命あるもの」であるように感じられる。海には何億もの命が満ちていて、日の出とともにはじけるように蠢(うごめ)きだす。彼はそれを掴み取ってこの音に封じ込めた。作曲の神秘である。背景に銀色の波しぶきのようなシンバルが聞こえている。するとティンパニに乗って金管にイ長調のコラールが最弱音(ppp)で悠然と現れ、陽光が灰色の雲間に隠れて空を荘厳なオレンジに染めるのである。まことにシベリウス的な音響世界ではあるが、その展開たるや唯一無二のブリテンだ。こんな楽譜を書く。天才でなくて何であろう。

6年も英国に住んでいてブリテンに開眼しなかったのは痛恨だ。彼のオペラはいくらも聞けたが、聞かなかった。というのは、1940年に我が国は海外の作曲家に皇紀2600年奉祝曲の委嘱をしたが、ブリテンは『シンフォニア・ダ・レクイエム』を送ってきたという事実がある。若気の至りでこれに反感を持ってしまっていた。知ったのは大学4年の2度目の渡米で買ってきたコープランド「レッド・ポニー」のオデッセイ盤(アンドレ・プレヴィン指揮)のB面にそれがあって、解説を読んでいたからだ。戦後世代すらそうだったのだから、戦中派の音楽評論家がブリテンに冷淡だったとしても仕方ない。不愉快であり、曲もつまらないと思った。それ以来、ロンドンに居ながらもブリテンはおさらばになっていたのだからもったいないことだった。しまったと思い始めたのはほんの10年ほど前だ。

組曲《4つの海の間奏曲》はバーンスタインが最後の演奏会でプログラムに入れておりどこかで聞いた気がするが、そういう事情だったし覚えてもいない。彼はピーター・グライムズの米国初演を振っており思い入れがあるのだろうか、そういえばオペラにはどことなくキャンディードに受け継がれたものがあるように思うのは僕だけだろうか。

演奏だ。第1曲「夜明け」に僕は大いなるこだわりがある。上記のアルペジオ、「何やら命あるもの」だ。多くの演奏はクラリネットがいけない。楽譜通り鳴らすだけで、音色が裸で出たりレガートの粘着性が弱くてデリカシーがない。フォルテが強すぎて石ころみたいで「命」がない。楽譜をそのまま鳴らすというのがいかにだめな事か。この音は作曲家に降ってきた “天才の証し” なのである。いい加減に済ましてしまう指揮者はそれを感じ取っていないわけだ。アーティストとして二流であり、交通整理の技術者に過ぎないと判じざるを得ない。

素晴らしいのはエドゥアルト・ファン・ベイヌムがアムステルダム・コンセルトヘボウ管を振ったものだ。冒頭、Vnに重なるフルートの金色が見え隠れし、アルペジオのクラリネットはシンバルに至るまで控えめな音量と滑らかさで核心をつかんだ明滅を見せる。指揮者の品格だ。第2曲『日曜の朝』(Sunday Morning )の生気あふれる金管、色彩を振りまく木管の見事なこと。第3曲『月光』(Moonlight )の音程の良さは音楽性の高さのエキスとなり、第4曲『嵐』(Storm )は快速でACOの名技の真髄を見る。全曲に渡り音楽が、各パートが生き生きと脈動し、そこで音楽が生まれているかのようだ。現代にテクニックに優れたオーケストラはいくらもあるが、この有機性の前には無機的でしかない。ショルティ・CSOやムーティ・PHOの名技には何度も圧倒されたが、ACOというオケの醍醐味は無比であり、どちらが上かと問われれば迷うかた無しである。現代はインスタ映えならぬ録音映えのため、欧州の伝統を継ぐACOやDSKの音調、色調がアメリカ化して久しい。大衆人気のためカネのため。まったくもってばかげたこと、文化財の破壊である。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

昭和的思考をぶっ壊した大谷翔平

2021 JUL 9 13:13:48 pm by 東 賢太郎

大谷翔平が高く高く翔んでいる。メジャーで活躍した日本人選手は何人もいるが大谷は一味違う。体格も見劣りしないし成績も破格だが、そういうフィジカルな事ではない。あそこまでメジャーリーガーにあっけらかんと同化した選手はいなかったという意味で、僕の目にはとても新しく、すがすがしく写るのだ。

英語をペラペラ操るわけでないのに愛され方が半端でない。野茂もイチローも松井も図抜けた野球選手だったが、あっ日本人が混じってやってるな、頑張ってるなという感じがあった。それが大谷にはまるでないのである。アメリカ人になりきっていて、観る方だって日本人として誇らしいという感情を超えている。

彼の性格の良さも大いにあるが、やはり二刀流だろう。渡米の年に「投手はやめた方がいい」と書いたし今でもそう思っているが、懸念は吹っ飛ばした。「エースで4番」は全ての野球少年の夢だ、否定するすべはない。最高峰まで昇りつめてそれが叶ったのは世界にベーブルースと大谷だけ。尊敬されるのは当然だ。

そんなことを考えたのも、アメリカ人のフェアな素晴らしさに何度かジーンときたことがあったせいだ。特に、たかが野球、されど野球だ。あの国で野球をやったことない男子はまずいない。昭和の日本もだったが、到底その比ではない。だから野球をすれば何国人であれ、男にも女にも認めてもらえたと思う。

ニューヨークの企業対抗野球大会。アメリカ人たちとのチームワークは一生忘れない。5番を打った。高校では6番だったから ”エースで4番” 気分を何となく味わえたのはこの時だけだ。大会45チームのMVPに選ばれたから運もあって、子孫に何で記憶して欲しいかというとこの受賞だ。我が人生のぶっちぎりNo1だ。

色々思い出がある。名捕手で名リードしてくれたドン。ただ、カーブのサインでミットを左右にビシッと構えられるのが困った。あの球はタイミングを狂わすドロップで曲がりは計算しない。そこでお願いして全部ド真ん中に構えてもらい、無視してぜんぶ彼の顔をめがけて投げたら面白いほどうまくいった。

練習でチームメートがあの球はなんだ?とカーブの握りをききにくる。5本の指で深めにベタに握って親指と人差し指の間から抜く。抜き具合はアバウト。直球もスピンのかけ具合で伸びが変わる。球種は2つでも多種になる。これで草野球レベルならぜんぜん打たれない。試合でやってみせたらみな激賞してくれた。

ああして野球少年に帰ったら日本人もへったくれもない。僕もタイムリーを打ってくれたアンディやトムをぶっ叩いてやった。こうやって初出場だったチームは準決勝まで勝ち進み、知らぬまに誇り高い日米連合軍となり、comradery(戦友)という言葉を教わった。自衛官になってもやってけたかもなあと思った。

大谷に戻る。オールスターでオリックス・仰木彬監督の「ピッチャー、イチロー」のコールに「打者(松井秀喜)に失礼だ」と代打に投手高津で応酬したノムさん。もしそうなら大谷は投手にも打者にも失礼ということになってしまう。最高峰の選手にそれこそ失礼だ。こういう思考はとっても昭和的で狭隘だと思う。

大谷に「投手はやめた方がいい」と思うのは、自分が高2で肩を壊して投手人生を断たれてしまったからだ。昭和思考ではない。高校野球の投手がプロの打者を打ち取ったら「失礼だ」なんてどう考えてもおかしいし、このエピソードはノムさんほどの知恵者でも昭和思考から抜け出せなかった、根深いぞという教訓だ。

日本の政治はお見事なほどに、セピア色の写真みたいに “昭和” 一色である。そんなことをしているうちに国はどんどん世界に遅れてしまう。敏感でなくてはいけない企業すら、もう遅れ始めている。やがて世論は鎖国に傾くだろう。そこで焦っても遅い。また御一新をめざすことになるが、その先は暗いと思う。

東京五輪。なんともいえない不毛の悲しさが漂う。僕は世間の反対派の一員ではない。でもコロナに勝つ確率ゼロという “科学” は世界の誰にも変えられない。五輪があってもなくてもゼロ。「負けでも万歳突撃だ」と昭和思考むき出しで進む光景は戦争から何も学習していない姿と写る。そう思ってなくてもそう写る。

どこか明治維新の前の「ええじゃないか」騒動に似てきた。あれは民衆だったがいまや政府が追いこまれてやってる。それ見て民衆も「ええじゃないか」と街に踊り出る。まずい。開催中の宣言発出は致命傷だと早々に飲食が犠牲になる。協力金に税金が投入され、みんな五輪のせいだと選手にまで怒りが向いかねない。

もう今回は国民の生活も気持ちも持たないだろう。金メダル幾つ取ったでどうなるものでない不幸なスパイラルが歴史に刻まれる。僕は野球で育ち、野球で子孫に覚えておいて欲しいという人間だ。スポーツが政治や金銭欲のネタになる愚行はこれでもう勘弁していただきたい。政権にもIOCにも等しくそう言いたい。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

ショパン バラード第2番ヘ長調 作品38

2021 JUL 6 1:01:03 am by 東 賢太郎

僕は寝付くのに苦労したことがない。電車だろうがオフィスだろうがバタンキュー、猫より早い。自分で分からないがたぶん3分あればOKだ。周囲は気にならないし、そういえば頭痛、胃痛を知らない。部屋の寒暖もだいたい人に言われて気がつくという塩梅であって、すなわち、かなり鈍感なのだろう。

睡眠は不思議なもので、8時間寝てもすっきりしない日があれば3時間で充分という日もある。学生時代にこたつでラジカセをループにしたまま寝付いてしまったことが何度かある。最近は音楽でなくyoutube番組でそれがある。ずっと音楽や言葉が聞こえているわけで、2~3時間で夜中に目が覚めてしまったりするのだが、どういうわけか普通に7時間眠った時よりもすっきり感があるのだ。

ネットに「前半3時間の間にノンレム睡眠(深い眠り)に達することが出来れば、脳も身体も休めることができ、ぐっすり眠れた満足感を得ることが出来ます」とある。これだったかなとは思うが、音楽や言葉を脳がどう処理していたんだろう?いちいち理解していたら眠れないので左脳はオフになり、虫の声や電車のレール音のように右脳が雑音と同様に扱っていたかもしれない。

面白い体験が先日あった。うちの猫が横たわって寝ている夢を見たのだが、気がつくと体が冷たくなっていて動かない。のいが死んでしまった!僕は大慌てになって、抱きかかえて毛布でくるむと、幸いに電気毛布である。スイッチを入れて懸命に温めると、むっくりと起き上がってくれた。そこで目が覚める。ああ夢か、よかったなあ。少し肌寒かったようだ。そのあたりで、ふと頭の中で流れているピアノに気がついた。つけっ放しのyoutubeなどではない、例の脳内自動演奏である。そういえば、そう、これは夢の間ずっと聞こえていたぞ・・・。

その曲は、全く不可解なことだが、ショパンのバラード2番だった。

なぜ不可解かというと、僕はショパンは苦手でほとんど聞かない。バラード2番はきれいだなと思ってゆっくりの所だけ弾いてみたことはあるが、それは大昔のことで、昨日今日はおろか、それ以来まともに聞いた記憶もない。どうして倉庫の奥の奥から無意識がそんなのを拾い出してきたんだろう??

聞こえていたのはそのきれいな所だ。ゆっくりと、ぽつりぽつりと。

フランソワのを引っ張り出して、なかなかいいなあと思う。といって、がちゃがちゃ鳴る部分じゃない、両端のきれいな所だけだ。コルトーのも聞いたが、がちゃがちゃで崩壊してるし、フランソワだってけっこう危ない(きっと難しいんだ)。ショパンがだめなのは、あんないいメロディーにこれはないだろうと思ってしまうのがある。いやそれがポエムなんだ、彼はピアノの詩人なんだよとショパン好きに諭されたことがあるが、確かに、これから交響曲は書けそうにない。

しかし「ポエム」というのはどうも違う気がする。このメロディーは何か意味を含んだりほのめかしたりする詩ではない。なんというか、絵にも文字にもならない気品、例えば「高貴」というものを煮詰めて結晶にしてみたらチンチロリンとああいう音がするだろうという感じのものに思える。メロディーだけでそうなってしまうのだからソナタ形式みたいな面倒なものは不要だし、長調が短調で終わってもちっとも構わない。そういう理屈っぽさからフリーな音楽という意味でポエムであるというなら賛同はできるが、それは「人生は旅だ」の如きメタファーに過ぎないから語ってもあんまり意味はない。

ショパンが自作に標題を付けなかったのは、詩人じゃないからだ。文学の視点で「音楽新報」に評論を書いて讃えてくれたシューマンを無視した。狂乱の響きを孕んだ「クライスレリアーナ」を献呈されて、お返しに送ったのがバラード2番だったが、シューマンはこれをあまり評価しなかった。彼こそ詩人なのだ。ショパンはおそらくワーグナーやリストも自分と同類の音楽家とは見なかっただろう。彼らはあんないいメロディーを書きたくても書けなかったから文学や小理屈や、実にくだらない標題に走ったのだと僕は思う。ショパンをなぞらえるなら、宗教臭くないJ.S.バッハしかいない。雨だれやら子犬やら、そんな曲をバッハが書くか?ショパンがそんな風に弾かれることを意図していようか?どうも違う。だから僕はそう弾かれるショパンも、ショパン好きの人も苦手なのだ。

しかし、あの夢は何だったんだ?

のい

のいだ。もう来て5年になるか。あとから3匹も増えて、どれとも気が合わない。いろいろ事情があって、元の居場所を取られてしまった。この猫は僕を正しく認知している。賢い。人間の1日は猫には1週間だ。遊んでやらなくちゃ。何となく、バラード2番のメロディが似合う。そういうのがひょこっと出てくるんだ、夢は。フロイトには詳しくないが、やっぱり睡眠は不思議なものだと思う。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

強い者は生き残れない(広島カープの法則)

2021 JUL 4 12:12:50 pm by 東 賢太郎

広島カープの応援というのは気力と忍耐力がいる。好きになったのが小学校2年で、そこから初優勝するまでの13年間は忍従の日々だった。元はといえば早実の王貞治と日大一の大羽進という両左腕の対決が夏の甲子園大会の東京予選であって、大羽は決勝で1-0で王に惜敗した。その因縁が両者のプロ入り後にも持ち越されて、判官贔屓なので大羽のカープを応援していた。はっきり覚えてるのはそれだけだ。

高校に入って初めての夏の甲子園大会東京予選、その日大一と当たって何という偶然かと身震いしたが、エース保坂も大羽と同じ小柄な左腕であった。僕は1年生で補欠だったが、神宮第2球場の1塁側ベンチから眺めた彼の球は忘れもしない。自分の野球メモリーで巨大な位置を占めるこの試合がカープ好きの原点とコラボするのは不思議なものだ。カープファンを離れられない縁がこの時からあったのだろうと思う。

1975年に初優勝してからカープは何度か優勝するそこそこのチームになった。強いのだから判官贔屓という磁力は消えかけたが、1992年から25年間優勝なしの氷河期がまたやってくる。長いトンネルだった。特に1998年から2012年まで万年Bクラスで14年中11回は5位という初優勝前より長くて絶望的な暗黒期に突入していた。そうして迎えたのが、あの輝かしい2015年だったのだ。黒田帰国!マエケン・黒田とメジャー級の先発2人がそろった。日本中のカープファンが待ちに待った “優勝できるぞ” という年は、緒方監督の就任1年目でもあった。

その期待はあっけなく裏切られ、予想だにしない4位に終わった屈辱は筆舌に尽くし難い。拙攻拙守、素人でもわかる采配ミスのオンパレード。夏まで我慢に我慢を重ねたが、緒方に対する怒りは積もるばかりで、ついに1安打完封負けでCS出場すら逃した10月7日、ブログでカープファン終了宣言を発出するに至ったのである(カープファンはやめようと思う)。53年も愛したカープとの離縁は自分史上の重大事件で、同年のブログは緒方や選手への “罵詈雑言の嵐” である。愛憎は裏腹というが本当だ。選手時代の緒方は特に贔屓で、最初は愛の鞭の気持ちも半分あったものだが、秋になってそれがとうとう憎さに変わってしまった。

その緒方カープが翌年に優勝し、3連覇までしてしまうのだから穴があったら入りたいとはこのことだ。どうやって宣言を撤回したのかは書いてない。采配が格段に向上したわけではないが選手が育った。前任の野村謙二郎監督が手塩にかけた選手たちだから彼との共同作業ではあったが、勝手にそうなったのではないと感じ入ったのは優勝を逃した5年目にこれがあったからだ(緒方監督が野間を殴った気持ち)。緒方は選手一同に本件の謝罪をしているが今どきの世に衝撃だった。これが宣言の完全撤回になった。古いと言われようが体育会といわれようが、そういう風土で育った僕の歴史を変えることは誰もできない。監督を辞めてネット番組で熱く語る彼の素顔は、現役時代に神宮で先頭打者初球ホームランを何本も打って留飲を下げてくれたあの緒方だった。1年目は監督業「仮免」だったのだと思い直すしかない。

殴られた野間はそれからぱっとしなかった。佐々岡時代の1年目になると冷遇され、尻を向けたみっともない見逃し三振に僕は「こいつは二度と出すな!」と大声で怒鳴ってTVを消したぐらいだからそれも当然と思う。ところがその野間が今年、グリップをひと握りあけて開眼したように見える。いやいや、去年そう思った堂林が今年は「行って来い」になってるんだから即断はできないが、先日、メジャー帰りの巨人・山口に8回までノーヒットの試合、2年ぶりのホームランで1-0で勝ったのは讃えたい。たかが1勝だし翌日はまた負けたが、僕は野球に限らず物事をストーリーで見ているので、これは我が事のように嬉しい。

佐々岡の采配は2年目になっても相変わらずでおよそ原や矢野の域になく、楽天戦ではやはり双葉マークの石井監督になめられ、意表を突いた2連続スクイズで内野が草野球みたいにぼろぼろになった。悲しかった。あれは本来カープがするべき野球である。走塁も極めてまずい。2桁安打なのに1,2点しか入らない。盗塁は少ないし技術的にまずいのもカープと思えない。そして佐々岡のお家芸のはずである投手陣はというと、アホみたいな腑抜けの変化球が高めに行って全球団にまんべんなく長打を浴びている。なぜ叱り飛ばさないか不思議で仕方ないが、それが彼の流儀なのだろう。

このままだと最下位も十分にあり得る。ネットは緒方の時のように佐々岡やめろの大合唱だ。仮免だからという容赦などなく、鈴木誠也はスタンドから野次でなく声援が聞こえて嬉しいと勝利インタビューで苦笑した。鈴木君、そうじゃない、野次ってくれるだけ有難いだろ、本気で怒れば球場に来ないしテレビも観なくなる。カープファンの熱い愛情を感じないのか?4番の君がチャンスで打つしかないんだ。打たないなら君もいつの間にかひっそりと野次られなくなり、不要になるだけだ。

僕は主力がコロナ離脱のすきに小園、林、宇草、玉村が出てきたのを評価する。監督のためではない、若手は貪欲なのだ。何がいいって、面構えだ。相手をぜんぜん怖がってない。ビビりがないからボール球の見逃し方がいい。こういうのは技術じゃない。誰とは言わないが怖がらずに高めに投げて何度も同じ失敗をする馬鹿でもない。そういうのを一口にセンスと言ってしまえばそれまでだが、高校野球であれほどセンス抜群だった根尾や藤原が苦労しているのだからプロのレベルでそれをやるのは大変な俊英たちなのだ。それを引き出したのは監督だろう。黒田、新井がいてタナキクマルが旬でエルドレッド、ジョンソンがいた緒方2年目とはちがう。緒方から引き継いだのは黒田、新井、丸が抜け、3連覇で疲弊した投手陣だったのだ。それは緒方のせいでもない。

今年は最下位でもいいので見守ってあげるしかない。これは筆のすさびでなく本当にそう思っている。そしてそう書きながらずいぶん優しくなったものだと自分で思ってもいる。カープと付きあって59年、ずっと怒れるファンだったが、まあいいやと認めてしまった方が自分の心の安寧を保てることに気がついてきた。これを身をもって学べたのはカープファンの特権だったとすら考えている。弱いのが平常。それを恒常にする心のホメオスタシスを自然とするマインドセットを具備すると、常勝巨人の1勝よりたまに勝つカープの喜びのほうが大きい。限界効用価値逓減の法則が正しくワークする。しかるに人生の喜びの総和が増えて、長丁場ではカープファンの方が得なのである。

このことは「強い者は生き残れない(環境から考える新しい進化論)」(吉村仁著、新潮選書)に書いてある。何事もそこそこがいい。3連覇は心地よかったが、1/6× 1/6× 1/6の確率という際どいことが既に起きているのであり、そう続くはずがないことは計算しなくてもわかる。つまりカープが勝ち続ければ続けるほど環境が変わったら脆い喜びという性質が増すのであり、いつかは消える不安というマイナスの方が大きくなってきてQOLが下がる。企業経営や家族や友人関係の安定だって同じことだろう。勝ち過ぎは良くないし、良い事づくめはかえって良くないのである。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

たむらあやこ
久保大樹
深田崇敬