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道三と信長の破天荒を見たり

2019 APR 21 1:01:55 am by 東 賢太郎

県庁でとあるプレゼンテーションがあって、岐阜市に一泊した。ここに前から関心があったのは信長の城があるからで、安土山は登ったが金華山はまだだったからである。その程度でファンを語るのはおこがましいが、彼が企てていた(と思われる)プランは実に破天荒である。魅力的以外の何物でもない。日本の支配者にこんな男がいたためしはなく、まずもう出ない。秀吉は人たらしの天才だが、たらす相手がいなくなるとだめなNo2男だった。家康は相手が官僚タイプの光成だったから勝てたが、信長が生きていたらどこかで殺されたろうと僕は思う。

金華山の頂から信長が見た城下の眺望はこんなだ。周の文王の気分になったとしてそう不思議ではない。岐阜とはいい名だ。

この写真は実は前回訪問で撮ったもので、今回は城に登ったわけではなく、老舗の十八楼に宿をとってふもとの鏡岩水源地や護国神社あたりを歩いた。そして、常に信長に見張られているかのように、山のてっぺんに城を認めた。

東京から来ると、この感じは得も言えぬ奇妙なものだ。

思った。あそこに家を建てる奴はいないだろう。この感覚は、北京の北方で万里の長城を歩きながら懐いたものにまぎれもなく近い。

先人の道三もそうだったことになるが、破天荒ここに見たりだ。家臣や人夫の気など知ったことではない、防御と威嚇のためのラショナールを瞬時に貫通する電光のごとき発想。天下を取るとはそういうことなんだろうか。ふたりが息子や家来に襲撃されたのも世の中はちゃんとお釣りがくるようにできていたのかもしれないが、いつしかわが身も平穏になってしまったなとふと考えた。

 

安土城跡の強力な気にあたる

読響定期(エルツとフラング、最高!)

2019 APR 18 10:10:14 am by 東 賢太郎

今日は行ってよかった!まずなんて見事なプログラム。そしてストラヴィンスキーのコンチェルトを弾いたヴィルデ・フラングの最高級の純度と暖かい木質感を兼ね備えた美音(アンコールのハイドン!)。この曲はプルチネルラや小管弦楽のための組曲の感じをヴァイオリン主役のディヴェルティメントに仕立てた風情の新古典主義時代の作品で大変に面白くフラングの名技と品格あるセンスに脱帽。トゥールの「幻影」は日本初演で作曲者臨席。コリオランとの関連は聴き取れなかったが何やら暗く重い影がよぎる曲だ。武満の「スター・アイル」は音楽の作りがさすが。メシアンのごとく荘重に開始するが、不協和な和声が何とも不思議に美しい。それにしても、どうしてだろうか、今日の読響の音は格別に良い。最後のシベリウス5番、これは特筆ものだ、かつて聴いたうちでベスト3に入る。オラリー・エルツというエストニアの指揮者、初めて聞く名だが只者でない。非常に活舌(アーティキュレーション)が明確で弦のごわごわまではっきり聞こえる。Mov1の主題の再現前のそれは pppp (!)まで音量を落としておいてコーダ前で fff まで行くが、このダイナミックレンジの最大量の変化にテンポの加速が絶妙に呼応。ここはなかなか良い演奏がない難所であり、かつての最高。完全にノックアウトを食らった。Mov2は透明でロマン派に傾斜しないのも好ましい。耳鳴りみたいに響く増4のファ#があまり鬱陶しくないのもユニーク。Mov3のハ長調に転調した部分、Cbの十六分音符のバチバチという弓音が通常以上に響きわたって驚くがこれも活舌の内なのだろう。Vnの pp からコーダに向けて徐々に木管が入るが、このあたりの楽器群のパースペクティヴ(遠近感)は舞台の奥行きの空間感覚まで表現の一部とした全く耳慣れぬものであり、唖然として印象に残った。読響・エルツでシベリウスを全部聴きたいなあ。今期は仕事と体型改善(ジム)でコンサートは時間がなく、迷ったが読響定期だけsubscribeする結果になった。

タイガーとモーツァルトに見る「男の悲哀」

2019 APR 16 23:23:51 pm by 東 賢太郎

タイガー・ウッズのマスターズ制覇はニュースで知った。彼が例の事件で2年前に世界ランキング1199位まで落ちていたことも知ってこの復活劇は大変なことだと思ったのだが、こういうことがどのぐらい大変なことなのかは数字を見ないとわからない。僕の場合、世の中のことはどうしても「定量化」してわかりたい性分であって、「これは難しいことですよ」といわれても「どのぐらい?」が数字で返ってこないものは言った人の経験と主観に過ぎないわけで、僕は「難しくないかもしれない」と思って聞いている。

このケースでは、彼の後に1199位になった選手がいるわけで、ではその人がマスターズ制覇する確率はどのぐらいだろうかということを材料にして考えればいい。1199個の球が入っているガラガラポンの1個だけが赤玉とする。それが出れば優勝で賞金は2億3千万円だ。ランキング1-10位が赤玉を出す確率が5割、11-100位が3割、101-500位が1割5分、501-1199位が5分に調節できるガラガラポンということでどうだろう?この率は大体の方がご納得いただけるのではないか。すると最後の699人で5%だから、少し甘めに均等に割ったとしても1199位が優勝する確率は0.007%、10万回やって7回だ。1万回に1回もない。タイガーがやったことは、そのぐらい「大変なこと」だった。

しかし、こうやって数字を示しても、特に女性は「ふ~ん、タイガーってすごいのね」で終わりだ。何がすごいのかと思っていると「だって優勝でしょ!」だ。そんなことは最初からわかってるのであって、となると会話にならない。作戦を変えて、「そんな彼がなぜそこまで落ちたと思う?」と我慢して尋ねると卑近な人生模様の話になって会話が続くのである。僕も優しくなったもんだ。タイガーは勝利インタビューで「今までで一番ハードな勝利だった」「子供が自分の全盛期をネットでしか知らないことがモチベーションになった」と語っていたが、彼もマシーンでなく人の子だったとどこかほっとするところがある。2001年の全英で全盛期のプレーを見たが、まさにマシーンみたいに強かった。「でも、色々あって、彼は人間のプレーヤーになったんだね」なんて言うときれいに収まるのだ。

女性の前でその「色々あって」に深入りするのはちょっと憚られるが、熾烈な競争の中で20年近くランキング世界1位でいることがどういうものなのかは下種の勘繰りすらしようもない天上の話だ。だから何をしてもいいわけはないが、彼は女に狂ってドン・ジョヴァンニみたいに地獄に落ちてしまったわけで、このことに下種の僕としては「男の悲哀」をどうしても感じてしまうのだ。競走馬みたいに突っ走れと父に育てられ、親の期待どおりに走って1700億円も稼いで歴史に残るほどの大成功を遂げてみたら、自業自得とはいえ奥さんは去って行ってしまい、到達点には我が世の春なんてなかったのだろう、そこから薬、事故ときてゴルフのプライドまでズタズタになってしまう。

ジャンルは大きく変わるが、それとよく似た「男の悲哀」を僕はウォルフガング・アマデウス・モーツァルトの生涯に見てしまう。彼もまた父親がびしびし鍛えて育てた息子であることがタイガー・ウッズと共通しており、天与の才能もあって頂点に上りつめ、女性関係は死ぬまで華やかでそれが死因に関係しているという説もある。奥さんのコンスタンツェとは気持ちはつながっていて別れはしなかったが、最後は別居状態でいろいろあった。頂上にいる男はきっとつらいのだ。もちろん女の子だってスパルタ教育で突っ走ることはあるんだろうが、それで頂点を極めて男に狂って奈落の底に落ちましたなんて話は僕は知らないし、やっぱり、この悲哀は男に似合う。

モーツァルトは1788年あたりから極度に売れなくなって、ところが1791年の最後の年に、何が起こったのか突然ものすごい勢いで傑作を量産し、12月にころっと死んでしまった。この年のいっときの復活劇にはなんともいえない、どうしてか理由はわからないが深い深い哀感を覚えるのであって、ウィーンの彼の亡くなった場所に僕はまるで先祖の墓みたいに何度も詣でて手を合わせている。それにグッときて魔笛やクラリネット協奏曲を心から愛でている僕は、きっと世の女性とはぜんぜん違うところでモーツァルトのファンなのだ。彼の女性関係は後世がうまく葬ってむしろコンスタンツェが悪妻にされてしまっているが、葬れたのは彼女の尽力によるところもあるのだからその評価は気の毒だと思う。

タイガーも、メジャーでいくつ勝とうが、永遠に女性の敵なんだろう。でもあれだけの才能の男たちに女性が群がってくるのは動物の摂理としてどうしようもないと言ったら叱られるのだろうか。オスは本来メスに選ばれる存在だ。なんだかんだいって人間だけ動物の宿命を免れているわけではないんじゃないかと思わないでもない。女性が「かわいさ」で男に選ばれるよう教育されるのはハンディだとフェミニストの方は主張されるが、そうやって作られたかわいい女に群がって男も激烈な競争をくりひろげなくてはいけない。しかもその男だって能力を磨けと教育されるのであって、その結末を女性にシビアな目で選別されている。男と女は地球上に同数、いや、むしろ男の方が多く生まれるのだから、女がその気にならなければ男は確実に余るのである。

タイガーが軌道に戻ったのは子供がいたからだと思うにつけ、子供を産めない男は弱いと思う。1700億円稼いでも幸福な人生という一点においては実は弱者かもしれない。男は縄張りやカネや名誉を求める生き物だが、それをあれほど手中に収めても青い鳥は逃げるんだということを彼は教えてくれた。

 

 

 

 

 

“賢い女性”を持て余す日本(上野千鶴子さんの東大入学式祝辞)

2019 APR 14 10:10:06 am by 東 賢太郎

上野千鶴子さんの東大の入学式スピーチが話題らしい。読んでみると、

知を生み出す知を、メタ知識といいます。そのメタ知識を学生に身につけてもらうことこそが、大学の使命です

とたしかに良いことをおっしゃっている。知識は知ではない。

東大ブランドがまったく通用しない世界でも、どんな環境でも、どんな世界でも、たとえ難民になってでも、生きていける知を身につけてもらいたい

これも、まったくその通りだと膝を打った。海外に出ればそのブランドは無きに等しい。僕は16年外国で苦労してみて、ブランドは自分なのであって、それなしではどこの国でも通用しないことを知った。ということは、実は日本でもそうであって、最後に助けてくれるのは「知」しかない。

東京大学入学者の女性比率は長期にわたって「2割の壁」を越えません。今年度に至っては18.1%と前年度を下回りました

これはどうか。女性が少ないのは別に東大のせいではなく、門は万人に開かれている。学生に言っても仕方ないと思う。

それは世間一般にほぼ普遍的に存在するジェンダーの問題で、どっかの医大が女子と浪人を差別していた動機はそれだったようだが、東大の場合は単に志願者の男女比が1:1でないだけであって今に始まった話でも何でもない。受験しないのだから増えるはずもない。その底流にジェンダー問題が潜むというご趣旨であり、未来のリーダーとして心してかかれというなら、それはそれで同意するが。

しかし、桃太郎はこう始まるのだ、「おじいさんは山へしば刈りに、おばあさんは川へ洗濯に行きました」。500年も昔の話である。なぜおばあさんが洗濯なんだ、しば刈りではいけないんだ、男女差別だろうと目くじら立てる人はあまりいないのも事実であって、差別なのではなくそれが古来からの男女の好ましい分業の姿であり、自然にやってきたことだと思うしかない。日本人の主食がなぜ米だといって、自然にそうなったとしか説明できないような性質のものなので、東大生の目くじら程度でそう簡単に変わるとも思えない。

日本という国がいかに変わらない、変われない国かを痛感した経験がある。僕ら1980年代の留学組は「これからはグローバル時代だ」といわれて尖兵の気持ちで米国へ行った。日本企業もやがてそうなった。しかし、あれから35年、日本は「なんちゃってグローバル祭り」の残務整理にさしかかっているのだ。千年たってもあのころ夢想した国にはならないと今は確信を持って言える。だから僕は海外派の道はばっさりと捨て、国内で「ちょい英語うまいオヤジ」になる軌道修正をしたわけだ。流れに逆らうより環境適応。それはシンプルにsustainableな人生を送りたいと思ったからだが、隕石衝突後の恐竜と哺乳類の運命という中学生でも知ってる「知」に従ったと言えないこともない。おかげで生き延びた。

上野さんは東大の男子学生はもてますというが、時代が違うのかそんないい思い出はなくてずっと慶応のほうがもてたし、東大女子とつきあったことはない。そもそも文Ⅰには20人もおらず駒場のクラスはゼロで男子校状態だったし、片山さつきや福島瑞穂みたいな面々に太刀打ちできたとも思えない。しかし、彼女らは優秀なのだ、とてつもなく。なるほどそうか、一つだけ手があったかもしれない。ヒモになることだ。東大女子は学歴を隠す必要なんて毛頭ない、堂々と社会に進出して稼いで、男は養ってやる。格下でも優しくて尽くしてくれて、精神的安寧をくれるようなタイプを探すといいのかもしれない。まあ僕にそのメはなかったが。

ちなみに東大の女子比率はこうだ(2019年)。歴史的にほぼこうであり違和感はない。

理系:文系が57:43で人数は理系のほうが多く、最も多い理Ⅰの8.1%が全体を下げていることを見ると、数学が難しいから女子は敬遠してるのだという巷の推測が的を得ているように思う。僕のころ4問中1問解ければオッケーといわれた文Ⅲだけ3分の1が女子と突出して多いのもそれで納得である。上野さんによると理Ⅲは男女各々の合格率比の値が1.03(男が僅差で上)だそうである。ということは、全国模試一桁クラスの、数学もめちゃくちゃできる優秀な女子志願者が男子志願者の18%ぐらいいたということを意味するが、18%「も」いたと考えるか、18%「しか」いなかったと考えるかは何とも言えない。以下論考する。

ジェンダー(gender)とは単に性差の意味であり、それが「問題」かどうかを問題にされているようなのだが、僕自身は個人的に知っている範囲という限りにおいて、女性に学業で勝てないと思ったことは駿台予備校にいた1人の女性を除いてないし、成績順に並ぶ周囲に女子はひとりもいなかった。その背景には「女だてらに勉強なんて・・・」という日本の社会風土の影響が色濃くあるという現象的には不平等なものが存在していることは理解しているし、むしろ、社会で “賢い女性” を持て余すような男がバカなだけなのだというご趣旨ならば100%賛成である。僕自身、女性の社会進出は徹底推進派だし、それが国益にもなると信じるし、我が社は優秀な女性たちの支えなくして存立しない。

しかし、女性は差別されている、犠牲者だ、だから・・・という論調には組することはできない。その議論は18世紀からあるが、人種差別と同様に万人が納得する解決が得られたという証拠はなく、ジェンダー(gender)とは本来はニュートラルな定義であり、我々は男女が相互に補完する本来的な人間関係のあり方から自由であることはできないと考えるからだ。男は子供を産めない。社会というフレームワークの中では女性の産休が出世のハンディだといえないこともないだろうが、家庭というフレームワークの中ではずっと家にいて授乳や育児をすることのできない男性は子供との1対1の愛情を形成するのにハンディがあると言えないこともない。仕事と家庭とどっちが大事なの?と問い詰められるのは常に亭主だが、その選択肢を持っているのは実は女性だけである。

僕は女性しかできないことにおおらかな敬意を持っているし、同様の青年男子は増えているように感じる。もしそうならば、これからの世の中では、ハンディは男女の「創造的分業」で解消できるのではないかと思っている。「女子は子どものときから『かわいい』ことを期待され、愛される、選ばれる、守ってもらえる価値には、相手(男性)を絶対におびやかさないという保証が含まれている、だから東大女子は校名を隠すのだ」と上野さんはいわれる。東大女子は入れないのではなく、今は知らないが、正確には特定の他校女子と設立されたサークルがあったことも事実であるし、校名を言うとひかれてしまい女子はそれをハンディと思うのはわかる気がする。

しかし、それを認めつつも疑問が残る。もしご説に従って、①女子の東大志願者が少ない理由が親や社会の性差別による制約であり、②統計的には偏差値の正規分布に男女差はないと仮定するならば、理Ⅲを狙える学力があるのに受験しなかった82%の女子が日本国のどこかに存在するはずであるが、①を特段に差別とは思わず「かわいく生きたほうが得だもんね」という女性の特権的かつ環境適応的に合理的選択をした人を含んでいるという結論に何故ならないのかをどう説明されるのだろうか。それ以前に、そもそも「82%の女子」は本当に存在するのだろうか?顕在化していない学力(能力)を、理由は何であれ、「あります」といっても相手にしないのは差別でなく世の中の常識であり、努力に対する公平性を担保する厳然たるルールでもある。

それだけで愛され、選ばれ、守ってもらえる保証があるなら相手の足の裏を舐めてでも『かわいく』したい男は世の中に掃いて捨てるほどいる。豊臣秀吉でさえ出世の手管とはいえそれをした。しかし、子どものときから『男らしい』ことを期待され、愛し、選び、守れと教育される男にはそんな道はルーティンとして用意されているわけではない。仮に、一部の特殊なアノ道があるではないかというマイノリティー・オピニオンを最大限に尊重してみたとしても、『かわいい』志願の女性の18%もの数の男が夢をかなえるほど需要があろうとは到底思えないのである。そういうあふれた男にとって女性の進出は脅威以外の何物でもない。東大女子であろうがなかろうが「男を絶対におびやかさないという保証」などないのだからパスポートとしての学歴ぐらいは持っていて悪くないし、まして隠す必要などない。

だから女性は、理Ⅲに受かるような人は堂々と正面突破すればいいし、どなたもが女性しかできないことを男との分業としてプライド高くハイレベルのパフォーマンスでやれば男は手も足も出ないのであって、要は、家庭でも職場でも、「創造的分業」のメリットを男に認識させればいいのである。同じことをしているのに女性だと評価されないと嘆くのではなく、評価されるに違いない違うことをするのである。

男子学生には、上野さんの言葉を引用しつつこう伝えたい。

あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだけに使わないでください。あなた方を待ち受けているのは、これまでのセオリーが当てはまらない、予測不可能な未知の世界です。

まさにそう思うし、さらに加えるが、東大を出たぐらいで未知の世界で一生安泰に暮らせるほど世のなか甘くないよ。男も学校名を言うとひかれるよ(女だけではない)。東大がいない組織に入ると暗黙のいじめにあうよ。それがこわいなら官僚になるしかないがブランドはなくなるよ。女性は弱者のままで尊重されたいというフェミニズムも理解しないといけないし、男はつらいよ。やさしいだけのエリートなんか世界史上ひとりもいない。世界のエリートと伍して生きるには絶対的になにかで強いことが必要条件だから、本当に大変だよ。徹底的に突っ走ってください。

最後に提唱したい。男も女も会社も国もwin-winになる「創造的分業」について。何が創造的かは千差万別だが、例えば僕の会社は秘書を2人採用し、各々の能力と個性で男ができない部分をバックアップするフォーメーションが1年かけて自然にできている。それは実務的なものだけでなく安心感という精神的なものもある。そのおかげで会社のパフォーマンスは上がっており万事うまくいっているのだから「後方支援」「お手伝い」という階級的視点はない。1+1が3になって全員がハッピーになるから創造的な分業であり、男女なく同等な評価をさせていただいている。国中の男がこう考えるようになれば日本国だって1+1が3になって何も悪いことはない。

 

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投手の本分「完全試合、最低が完封でしょ」

2019 APR 13 9:09:52 am by 東 賢太郎

広島カープが5連敗。昨日はDeNAの今永投手に屈辱の1安打完封を食らった。手も足も出ず、ノーヒットノーランじゃなくてほんとによかったねというもの。これで1イニング12失点の究極の投壊に次いで打壊も極限に達していることが判明した。「どうも投打の歯車がかみ合いませんね」と解説者はいうが、氷河の彼方で見事にかみ合ってきた現状を良かったねという人は一人もいないだろう。昨年OPS2位である鈴木誠也まで20打席ノーヒット。統計値どおりに活躍しているOPS1位の丸に比べ、広島にはそれを崩すほどの強い外的要素があると考えるしかない。

DeNAは先日の浜口投手に続いて1安打完封である。これはやった人しか絶対わからない。やった者として書かせてもらうが男の快感、天上天下唯我独尊でありドラえもんでいえば完璧なジャイアン状態である。平時ではありえないことだがその時だけはそこにいる数十人がそんな思い上がりを許してくれる竜宮城だと言っていい。プロという頂点の野球で1週間にその境地の投手が2人も現れるDeNAも異常だ。ここに昨年の新人王・東投手が戻ってきたら、彼も巨人相手にあわやノーヒットノーランを演じた男だ、投手王国まちがいなく優勝があり得る。1安打やったら人生安泰というわけではないが、チーム内で見る目が変わるのはまちがいない。

メジャーで「オープナー」なんてのが出てきてアメリカかぶれのアホが褒めてる。先発が2回まで抑えて代わる(これがオープナーだ)。そこからブルペン陣が毎回ひとりづつ投げる。先発は名投手でも立ち上がりがふらつきやすいから、そこだけ全力で投げて抑える専門家がいてもいい。その先も毎イニング目先が変わるから打者は嫌がる。完投できるエース級一人の給料でブルペン級は5人雇えるから安上がりだ。この作戦は先発が一人しかいないタンパベイ・レイズがあみだしそこそこはうまくいったようだ。僕は「クローザー」には敬意を持つ。勝敗を一手に背負う激務だろう。三者三振がのぞましいから剛球投手である。しかしオープナーに三者三振は不要だし、そんな能力があればクローザーだろう。要は、投手としてのクオリフィケーションが訳が分からないの一言に尽き、そんなのを僕はとうてい尊敬などできない。

そもそも「先発だ。2回まででいいぞ」なんて言われたら前の日はどんな心構えで居たらいいんだろう。仮に2回を6人で抑えたら、「おお今日は完全試合できるかもしれない」と舌なめずりするのが投手の習性だ。プロだから、お仕事だからといって、ブルペンの彼らも高校時代はエースであってその習性だったはずだ。解説者・江本さんの「投手は完投でしょ」は当たり前、というか彼なりに抑えた表現であって、プロから少年野球に至るまで投手の本分は「完全試合、最低が完封でしょ」が鉄則なのである。そうじゃない奴はできないしさせてももらえない。勝利投手の権利なんてけち臭い話でない、「2回まででいいぞ」は「所詮おまえはその程度のピッチャーよ」にきこえる屈辱の響きなのである。

日ハムがやっているが、その程度のピッチャー未満であるハンカチ王子を使えと上に言われて困った国立大学卒の栗山があみだしたのが、メジャーというと黙る日本人を手玉に取る「オープナーの逆利用」だろう。先発がそこそこいるあの球団がそんなことをやる必要などない。投手の本分vs投手生命(=生涯所得)を賢く天秤にかけて移籍してくれた金子という名投手が「3回からロングでいいですよ」とたぶん大人の解決をしたので、5回までは絶対もたないハンカチ用のきれいな「ポスト」ができた。札幌空港限定販売品のパンダで客を呼んでおいて大量失点する前に堂々とひっこめて波風たたない。「名オープナー」などともてはやせば彼は将来は監督パンダもありだろう。広島のプリンス堂林やカープ女子戦略と同様に、経営の視点からはメーク・センスである。

しかし僕は選手の本分を曲げてまで芸能事務所まがいの選手や監督の人選で集客するのは嫌いだ。カープ女子で埋ずまった神宮球場内野席も勘弁してほしい。それなら札びら戦略の巨人のほうがよほど選手の本分からはすっきりしている。丸はカープでたぶん水が合わなかったろうが我慢して本分を磨き、それを時価で評価してくれた巨人で開花している風に見える。つまり、いきなり巨人に入って潰されるより、広島のような球団にドラフトされてレギュラーにのし上がって、オールスターチームを作ろうとしている原監督のお眼鏡にかなって30億円でFA採用してもらうのが今後の球界のエリートコースになるのではないか。それで結構。東京人である僕はドームで日本最高レベルの野球が見られるようになる。身内選手だけどへたくそ、でもかわいいなんて野球を金を払って見ようという趣味はない。

しかしここ数試合、負けるのは仕方ないが許せない。打つ気がまるでない投手を四球で歩かせた広島カープの島内、野村、岡田。おまえらなにやってんの?毎日野球しかやってねえんだろ?なに練習してんの?丸だ新井だ地元だ新人だ、そんなもの関係ねえよ。投手の本分「完全試合、最低が完封でしょ」の浜口、今永とはキミたちは別な人類だよ。オープナーにでもなれや。

 

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広島カープの1イニング12失点に思う

2019 APR 11 11:11:24 am by 東 賢太郎

プロ野球が始まると忙しい。BS、CSで全6試合を同時にチェックしながら見るからだ。きのうは3-2で原・巨人を倒した中日の又吉の中継ぎ1イニングが印象に残った。なにがというと、彼の顔だ。「おまえにゃ絶対打たせねえ」という気迫の形相。そしてもうひとり、阪神を1安打完封したDeNAの浜口投手だ。前夜に右翼手ソトが少年野球でもありえない落球、骨折中の捕手・梅野にサイクル安打まで決められて12-8の屈辱的な大逆転大敗を喫した阪神相手に「マウンドが楽しい。なで斬りにしてやるぜ」というあの顔。

打席で嫌だったのはああいう形相のピッチャーだ。投げる以前にこわい。鬼に見える。特に浜口だ。四球を7つもくれてほっとさせるが、1塁で2度もけん制で殺されてしまう。ああなるともう大王状態で手がつけられず、相手は蛇ににらまれたカエルで完全に試合は支配され、往々にしてノーヒットノーランなどやられる。前日12点と打ちまくった阪神もあわやだった。甲子園なのになんと阪神ファンから「すごいぞ。浜口」と声がかかったそうで、そりゃそうだ、野球をわかる人はわかるのだ。

野球というのは実に残酷なスポーツで、27人全員三振でねじ伏せてもいいし、27アウト取られるまで打ちまくって何百点とってもいい。やられた方は男として、去勢されたぐらいの屈辱とトラウマをもらう。ささやかな体験で申し訳ないが、1年生で高校初先発だった東京都秋季大会、運悪く当たってしまった強豪、国学院久我山打線の3巡目につかまり、ぼこぼこに打たれて9-0で7回コールド負け。あんなに打たれた経験はかつてなく頭が真っ白になった。

甲子園に出る高校と都立高校がやってもそんなもの。きのうの広島カープのヤクルト戦1イニング12失点というのはプロ同士の試合として明らかに異常なものだった。延長10回に中崎、中田2投手が血祭りにあがってしまったが、ふつうなら「お前ら何やっとんだ」とTVに向かって吠える。ところが、もうあまりに残酷で、バレンティンの代走のきいたことない奴に3塁打されたところで「おい、タオルを入れたれ」だ。史上初らしいがもう生きてるうちに見ることはないだろう。

カープについて大きな不安があることは開幕直前のブログ(OPSで見る今年のセリーグ予想)に詳しく書いた。ところが実態はその程度のことでなく、開幕10試合でこんな事件が起きるとは夢にも思わなかった。元はといえばオリックスからFA移籍してきた阪神・西投手に9-0で完封負けを食らった2試合前の甲子園から打者と守備がおかしくなった。この試合、先発は九里であり、期待もないので打たれてもショックはなかったが、打線は主審の判定も味方につけた西の妖術に翻弄されて手も足も出ず。これは残ったと思う。

そして前日のヤクルト・原投手。西とはタイプが違うが明らかにシュートに手こずっており後遺症と思う。これに幻惑されて10-1の大敗だが、最悪だったのが先発が期待のジョンソンだったことだ。これが3回でぼこぼこに打たれて6失点ノックアウト、頼みの綱がぶちっと切れ衝撃が走った。すでにおかしかった打線はさらに深みにはまって原投手の揺さぶりに凡打と三振を重ね、3巡目で疲れの出る7回になんと三者三振を食らう。これはもうねじ伏せのダメ押しであり精神的ダメージがある。案の定、次の守備でショート田中がエラー、投手中田の悪送球で10点目が入る。

きのうの惨劇の伏線はそうやってひかれていた。そこで先発の野村ユースケがDeNA浜口のごとく仁王立ちで閻魔大王のようになで斬りにしてほしかったが、あえなく4回3失点で沈没。前から思うのだが、顔がこわくない。やさしい体操のお兄さんみたいだ。球威がないなら懐にエグく投げろよ。ヤクルトは大下とかいう2年目が鈴木誠也の顔面あわやというのを投げて、あれは清原だったらマウンドまで殴りかかったなという険悪な一幕があった。そんな獰猛なのはカープにはいない。それでも5回からはアドゥア、一岡、フランスアと、その中ではいい面構えが出てきて押し返し気味だったが、中崎の10回の回またぎで万事休した。中崎は顔がこわくないのでヒゲを生やしたやさしい男だ。中田はあんなじゃない、いい投手だ。完全にビビった顔を見るのがつらかった。立ち直れよ。

投手コーチの佐々岡は緒方監督の1年上だが会話があるんだろうか?野村監督の後継は佐々岡だとある人から聞いていた。ところが黒田が帰ってくるかもしれないという事態になって相性の良くない野村を切って、そこに同業で格下の佐々岡じゃあ帰ってこないと踏んで、毒にも薬にもならない緒方という人事になったと推測する。現にその作戦がうまくはまって黒田が20億円捨てて来てくれたのだから広島カープはそんなに凄いのかと世の中が騒然となった。何が凄いのかは誰もわからなかったがそれは男気という昭和くさいワードで報じられた。株もそうだが、よくわからない方が仕手株は上がったりするものなのだ。それならと男気と護摩行の新井さんも加わって、その2人の「メジャー大権現+いじれるお兄ちゃんパワー」でタナキクマルセイヤら若手が伸び伸びと暴れまくる空気ができた。そこに「カープ女子観音パワー」が乗っかってマツダスタジアムに尋常ならざる妖気がたちこめ、他チームは戦う前からビビっていたのだ。

黒田、新井とともに妖気は去った。残ったのはマエケン、黒田とメジャーのエース級先発投手ふたりを擁していながらNPBセントラルリーグの堂々第4位だった監督、コーチだけだ。移動の新幹線でベートーベンの交響曲を聴いている丸佳浩の心中を察する者などフロントにもベンチにもいたはずもない。彼は提示条件も子供の教育も大事だが、野球人として、妖気が去るときが自分が去るときと思ったろう。そして彼とプライベートに情報交換していないはずがない、同じ関東人であるタナキクセイヤアイザワも時間の問題で全日本名誉監督サマである原タツノリ大権現のもとへ参集し六本木で遊ぼうぜとなっているのは想像にかたくない。菊池のメジャー宣言はそれ。4人はいなくなるよ、センターラインごっそり。みんな知っている。それじゃあ守備も呼吸合わなくなるさ。

カープファンの方は是非ともこのブログをじっくり読んでほしい。2014年4月25日、神宮球場3塁側スタンドにカープ女子などというものは未だ大発生しておらず、こうやって当日券で観戦できていたのが今は昔だ。まだ弱かった広島カープのこの「胎動」をご覧いただけば、かならずや共感いただけるはずだ、「我々はなんと幸せな時代に生まれ合わせたか」ということに。タナキクマルの出現、黒田・新井の出現という神に頂いた3年間の僥倖に手を合わせよう。スタンドのお祭りやベンチとは何ら関係ない所で奇跡は静かに起きていたのである。

広島vsヤクルト(神宮)観戦記(菊池のタッチアップに驚く)

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クラシック徒然草《エドリアン・ボールトのエロイカ》

2019 APR 8 1:01:33 am by 東 賢太郎

録音には演奏会では得られないアトゥモスフィアがあります。atomosphereとはatmo(蒸気、大気)+sphere(球面、球体)であり、ある物を中心に球状に囲みこむ湿気を持った気体ということで、日本語訳は雰囲気とされます。「」は大気、気配、霧だから見事な訳と思います。

我々は常にアトゥモスフィアの球の中心点にあって、ある物である。すなわち、雰囲気とは自分というセンサーで感じ取った周囲の大気の状況です。演奏会場で五感を働かせて感知するものはそれである。ところが、スタジオで録音された演奏というものは、ホールの「ある座席」で感知した雰囲気ではなく、ミキシングによって合成された実在しない雰囲気がそこにあります。ある物が複数点となりそれを人工的といってしまえばそれまでですが、指揮者、プロデューサー、エンジニアの合作による一個のアートと考えることは可能で、演奏会がTVの生放送なら、スタジオ録音は映画に相当するでしょう。

指揮者が映画監督であって出来上がりに満足し、自分の名前をクレジットして世に問うているのだから、それが彼であり、彼がある物である。ブーレーズの春の祭典を東京とフランクフルトで2度実演で聴きましたが、始まる前から大きな期待はなく、というのはあの「複数点のアトゥモスフィア」を拾っているCBS盤以上の演奏が本人とはいえできるはずもなく、どこに座ろうが座席にあの分解能の高い音が物理的に届くはずもなく、映画のメーキングを見る関心のほうが勝っていました。そして、そこで聴いたものがレコード以上のものであるとは、どの部分をとっても思うことができなかったのです。

我が家のレコード棚

50年もレコードを聴いて育ってきますと、曲名を見れば「ああ、あのレコードね」ということになります。僕にとってあらゆる曲はまずレコードという物体として存在しているのです。半世紀前に1枚2千円(今なら1万円ぐらい?)も払って買ったものだから重い。記録を見ると、もったいなくて5回もかけていないものが多く、それで曲を記憶したというのはよほど耳を澄ましていたということでしょうか、レコードの盤面にあったスクラッチ(傷音)まで覚えているため曲がその個所に来るとライブなのに傷音が聞こえます。ということは、当然のごとく、曲はレコードのアトゥモスフィアごと記憶しているのです。そのこと自体はどれを最初にたまたま聴いたかということで重要ではありませんが、それをベンチマークとしてきき比べているうちに自分の好みのアトゥモスフィアが形成されることは看過できません。それが積み重なってバッハはこう、ブラームスはこうという趣味が出来上がる。新しいその曲の演奏を聴けば、その趣味に照らして好悪の判断が自然に出てくるというものです。

例えば、僕はベートーベンのエロイカをトスカニーニで入門し、それがベンチマークとなりました。そのせいかタイプの全く異なるフルトヴェングラーはいいと思わなかった。それが一気に変化したのはクーベリック/ベルリンPOのレコードによってです。演奏もさることながら、サウンドの重み等まさにアトゥモスフィアがこれしかないというもの。思ったのは、このBPOの音はやはりフルトヴェングラーが造ったのだろうなということ。そこで彼のを聴きなおすとやっぱりそうかもしれない。彼の時代の録音技術では低音が十分に捉えられていないのでしょう。そうやってだんだんと視野が広がっていきました。

僕はスコアをシンセで演奏して音としてはエロイカをずいぶん知ったしピアノでもさらいましたが、音符だけでは理解できないのがアトゥモスフィアだということを知ったのはだいぶ後のことでした。独奏楽器やオーケストラの固有の音の質感(クオリア)とホールの空気感が混然一体となって醸し出すatmo(蒸気、大気)ですね。言葉には変換できません。音の質感は倍音成分の混合で変化しますからatmoは実に複雑な音響要素のアマルガム(合金)であるといえます。クラシックを聴く最大の悦楽はこのアマルガムの煌めきを愛でることだと僕は信じています。煌めきは時々刻々と質感、色を変え、それが聴く者の感情を揺さぶります。和声やテンポやフレージングや歌と呼ばれるものはアマルガムの変容を引き起こすいち要素の名称です。

そう確信するに至ったのは、ホールの空気感がどう作用するかを自分で確かめる経験をしたからです。一昨年にライヴ・イマジン祝祭管弦楽団の前座で300人のホール(豊洲シビックセンター)でピアノを弾かせていただいた時に感じたのですが、舞台でのピアノの音は客席で聴くものと違うのです。練習で空っぽのホールで弾いた時とも違う。それが演奏に影響するだろうし、録音でミキシングするには重要な規定条件となるのは確実と知りました。個人的にはそこで音を奏でるよりも録音技師として好みの音を作る方が興味あるなと思いましたが、アマルガムの変容とはそれほど魅力あるものですね。

511EHXWVZKL__SL500_AA300_エロイカに戻ると、それ以来「聴衆なしの舞台の音」がふさわしいなという趣味になってきていて、いま一番好きなのがこれになりました。このVanguardの録音は実に素晴らしい。ロンドン、ウォルサムストウ・タウンホールが空のムジーク・フェラインかアムステルダム・コンセルトヘボウかというアトゥモスフィアであり、見事に juicy(ジューシー)で rich(豊穣)で transparent(透明)で sexy(セクシー) で noble(高貴)だ。舞台で押したピアノのキーに導かれた楽音がふわっとホールの空気に乗って心地よく天井までぬけていくあの様が出ています。これだけの録音が1956年6月と63年も前になされていることを皆さんはどう思われるでしょうか

この演奏、常設でないオーケストラのアンサンブルが完璧ではありませんが、エドリアン・ボールトの滋味あふれる演奏はそれを目指していません。内声は克明な弦のきざみで彫琢され、木管は清楚で金管は浮き上がらずホルンは常にものをいい、ティンパニは皮の質感まで見え、第1楽章コーダが内側から熱量を増してくるところなど外面的な効果は何も狙っていないのに強いインパクトがあります。エロイカの勇壮、快哉、悲愴を語ってくれる演奏はごまんとありますが、僕はもうそんなものに飽き飽きして疲れています。ベートーベンの本質をふさわしいアトゥモスフィアで描いてくれることが何より重要で、この作曲家が訴えたかったものは人間を根っこから震撼させ、揺さぶるのです。それを表出するのにテンポをあおったり金管を狼の遠吠えみたいにふかす必要はないんだよ、とボールトは最小限のことをしているのですが、オーケストラがこれだけの音を出しているというのはそれは彼の人としてのアトゥモスフィアなんだろう。それを録音技師が理想的な音響でとらえた、一流のアートであります。

 

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財務省キャリアに東大法学部ゼロ

2019 APR 6 0:00:59 am by 東 賢太郎

「おい、財務省キャリア入省に東大法学部がゼロだったらしい、財界に激震が走ってるぞ」と一昨日ある経済団体トップの方からききました。逆に増えたのはコンサル系、ファンド系だそうです。そのど真ん中にいて言うのも些か自虐的ですが、「日本の屋台骨が年々おかしくなってきましたね」とお答えしました。

そのココロはというと、「万人は万人に対して狼」(または「万人の万人に対する闘争」)という自然状態を克服するため社会的な契約を結んで国家に主権を委譲している(ホッブズ「リヴァイアサン」)と、単なる教養やお題目としてではなく、真剣に考えているからです(僕の人生哲学(イギリス経験論)の起源)。僕は政治、行政にプロフェッションとしての関心も能力もないので、平穏な市民生活を送れるよう狼、闘争から守ってもらうために政府と官庁に税金を納め、優秀な人たちにその責務を負っていただき、それならば主権が制約されることをやむなしという契約をしているのだという観念をもって日本国で生きています。だから税金が下がらないのに官僚の質が劣化するとしたら俄には認容し難いのは当然のことなわけです。

ホッブス『リヴァイアサン』表扉

官邸主導も結構だが、官僚の頂点の財務省でそのまた頂点の次官や局長にまで登りつめても政治の人身御供でああいうことになり、お茶の間の下世話な勧善懲悪ネタに飢えたマスコミの格好の餌食になって国民の理解も得られないどころか悪玉として記憶されてしまう。苦労して勉学しながら入省した挙句に大臣が人の税金で勉強したまで言ってくれる。 後輩たちは優秀なんです。たくさんの選択肢をもっています。想像するに、漢字も読めない上司にそんなことを言われて辞書に書いてない人生航路を行くのはアホらしい、それならば税金を払って守ってもらう側で能力を活かしたいということなのでしょうし、そう考えるならそれがいいよ、税金をたくさん払って「お釣りはいりません」というぐらいに国と貸し借りない人生を歩めばいいよと先輩として賛意を送りたい。読んでない人は「リヴァイアサン」をお読みなさい。

森友決裁文書改ざん問題の真相

昨日は韓国のソウルで中村修二先生にファイナンスのコンサルとして助言を申し上げていましたが、人の税金で勉強するのがいかんなら「税金を1円ももらわないでノーベル賞を取ったのは私だけです」との中村先生のお言葉をここでお伝えするので官邸は麻生大臣の論旨を真摯に受け止め、先生に国民栄誉賞を検討すべきでないか。ところがその先生は「日本に事実に基づいた正義など存在しない、正義は既得権者の保護という落としどころありきで決まり、彼らはやったもん勝ちだ」と本質を看破してすでに米国市民になっておられ、「茹でガエルの日本は一度ぶっ壊れて沈没したほうが長い目で見ればいい、そうしないといずれ茹であがって滅びる」と愛国心、老婆心でおっしゃる。世界の熾烈な競争環境にいる者は皆同じ気持ちで、鈴木一朗氏(イチロー)が茹でガエルのNPBの栄誉も国民栄誉賞もいらないのも同根のことではないかと拝察しております。

池田信夫氏が「『葉隠』で印象的なのは「釈迦も孔子も鍋島家に仕官しなかったので家風に合わない」という言葉だ。ここでは佐賀藩(鍋島家)が、仏教や儒教などの普遍的な価値を超える絶対的な存在だった」と書いています。日本人の精神構造を考えるとき武士道は避けて通れませんが、それは影響のプロセスにおいて韓国の「国民情緒法」とファンクションはあまり変わらない。韓国のそれは、国民が騒げば、そんな法律はないが時に憲法にも優先して大統領や財閥トップが有罪になってしまうinvisible law(見えない法)ですが、「家風に合わない」で真理や正義を葬れる国なら韓国を法治国家にあらずと笑うことはできないでしょう。

普遍的な価値を超えた存在」で日本国の「家風」を決める存在になろうとしているように見える官邸の主導という政治は、平成初期に雲霞のように大量発生して大企業の根幹部門に巣くい、会社を軒並みダメにした茹でガエルの集団に乗っかって命脈を保っているだけであり、お湯が熱くなってきて大きめのカエルが次々と茹であがってきたのが平成という世でした。その間に時価総額という企業の通信簿で日本の全大企業は米中はおろか韓国にも大負けであり、これは野球なら20対0のノーヒットノーラン負けぐらいの大屈辱敗戦なのに「株価なんて尺度は家風に合わない」という空気がいまさらのように残っている。個社として本気でそう思うなら構わないがそれならば自ら上場廃止すべきであって、それもしない。つまりなぜ株式を公開しているか意味すら分かっていない。

買収というのは、レバレッジド・バイアウトを除けば原則として時価総額の大が小を食うものです。捕食者か獲物かは株価で決まると言って過言でない。ある朝に出社したら会社は食われて今日から外資系でしたという可能性は世界に普遍的に存在するし、そうなっても個人としては生きていける人たちはそれを何とも思っていないのですが、それを「リスク」だと一番思わなくてはいけないのはサラリーマン社長を含むそうでない社員であり、皮肉なことに、「家風にこだわっている茹でガエル」であり、「株を理解していない人たち」なのです。カルロス・ゴーン事件の本質はそこというアングルでマスコミはほとんど報じないが、彼らは茹でガエルの代表選手で放送法の外国人株式保有規制(20%)でそれが起きえない業界に生息する最も感度の低い人たちなのです。そんな低次元の報道ばかり見ていれば、英国で移民に職を奪われたくない一心でBrexitにこぞって賛成投票したらホンダが工場移転して自分が失業しましたというようなことがあり得るのが日本の現実です。

後輩たちにアドヴァイスするとすれば、日本というplay groundはこれから悪くはないよ、ただ良いとすればそれは外資にとっても同じく良いよ、だから引きこもりの茹でガエルはいずれ全部死ぬしそこにいる君も死ぬよ、世界の最先端技術(deep tech)にフォーカスしたほうがいいよ、大企業がへたる環境は隙間ができるということだから君らの世代には大チャンスだよ、という簡単なことです。コンサル、ファンドがいいよとは言いませんが、有能な人がビジネス界に入ってくるのはウェルカムだ、皆さんの「未来アンテナ」は結構いい線いってるな、日本のビジネスパースンの未来はずいぶん明るいなという印象を持ちました。

 

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ラヴェル 「亡き王女のためのパヴァーヌ」

2019 APR 3 1:01:15 am by 東 賢太郎

ラヴェル好きの僕ですが「亡き王女・・」だけは馬鹿にしていて、高校の頃はこんなものは女子供の砂糖菓子と切り捨てていたのです。パリ音楽院在学中にピアノ曲として作った段階では評価されず、後に人気が出ると自分で「形式が薄弱」「シャブリエっぽすぎ」と自虐的な批判をしている天邪鬼ぶりも喝っ!だったのです。男らしくねえな、こりゃオカマだなと。自虐ネタにしたけど彼は実はこれが好きだった、後で管弦楽版を作ってますからね。

バスク地方の位置

曲名は実は後から考えたんで特に意味はないとラヴェルは語ってます。しかしPavane pour une infante défunte(亡き王女のためのパヴァーヌ)のインファン(infante)とはスペイン王国、ポルトガル王国の王族の称号ですから、ヴェラスケスのマルガリータ王女にインスピレーションを得たかどうかはともかく彼は何かを契機として母方(スペイン系バスク人)の血を意識したのではないでしょうか。バルトークのトランシルヴァニアのケースを連想させます。ラヴェルが1932年にこの曲をペドロ・アントニオ・ダ・フレイタス・ブランコというポルトガル人指揮者に録音させているのも連想がふくらみませんか?

曲の形式はA-B-A-C-Aとコンビニのサンドイッチ型で、3枚のパンにハムとレタスが別層にはさまってる、あれです、単なるロンド形式で薄弱もへったくれもないのであって別なサンドイッチを作れるリッチなレシピでなかっただけです。それより何より、B→Aのブリッジ部分の和声が強引でウルトラダサい。ドビッシーの型破りにある洗練のかけらもない。C→Aのブリッジ部分は入れなくていいGmをフェルマータでわざわざ伸ばしたりして、ト短調からト長調(G)への同名調の変わり身は安手のマジックショーのレベルに感じます。

まあ、それは高校生のガキの偏見に満ちた感覚だったのですが、今でもやっぱりそう思ってしまいます。ラヴェルにダサいという言葉は無縁だしそうあって欲しいという願望のほうが大事であり、「なかったことに」で結構な曲という位置づけでありました。しかし、後に多少ピアノが弾けるようになってこれをつま弾いていると、急に分かったのです、ダサさとマジックショーの原因が。

A→B(ロ短調)、A→C(ト短調)、つまりハムとレタスに突入する部分ですね、この転調がクールで異様に美しいわけです。転調はジャンプですが、1度目のBは関係調で控えめにちょっとだけ、2度目のCは同名短調でハイジャンプと順を追って遠くへ旅立つのが心憎い。Cの「入り」は管弦楽版だとフルートが月の光のように冷ややかな音色でアルカイックなメロディ(楽譜)を吹きますが、これぞラヴェル!!というハイライトでいつ聴いてもゾクゾクものなのです。

そうか、ラヴェルはこの瞬間に命を懸けたんだ、凄いのが書けたぞと。そして後悔した、どうやってト長調に戻ろうか?

wikipediaによるとラヴェルはこれをとても遅く弾く意図を持っていたらしく、彼自身の演奏も甚だ遅く、現代のピアニストの誰より遅かった。ただ重ったるくとぼとぼ歩くような演奏は褒めなかった。自作自演の1922年のピアノロール録音が残っていますが、そんなに遅くはないですね、でもこれは録音機器の制約のせいかもしれません。まずはそれからお聴きください。

僕は管弦楽版をクリュイタンス / パリ音楽院管弦楽団で知りました。そして感じていたのです、最初のホルンのメロディ、ヴィヴラートがきつくて好みじゃないな。お聴きください。

これはクリュイタンスの趣味と思っていたのですが、wikipediaによるとラヴェルは手で音程を調節するナチュラルホルン2本をスコアで要求しており、この方式の楽器は他のヨーロッパ諸国より長くフランスでは使われていてパリ音楽院ではその技術をまだ教えていたそうです。クリュイタンスがその奏法で吹かせているのは、より古い1932年の同管弦楽団の演奏で確認できます。この録音が上述のペドロ・アントニオ・ダ・フレイタス・ブランコの指揮で、作曲家は録音に立ち会い監修したとのことです(ちなみにこの速さは録音の制約と思います)。

感心したのはこれでした。ピエール・モントゥーがロンドン響を振ったものです。このオケのホルンはフランス管と違いドイツに近い重く暗めの音がしますしヴィヴラートもない。だからA-B-Aの部分は音彩が暗く華やぎは皆無です。ラヴェルなのにどうしたのかというぐらい。ところがCの「入り」になってフルートがたおやかに響くとあたりにパーッと光がさす。そこからの色彩の嵐と音楽のうねりというものはもう神技の粋であり、誰がいまこんな指揮ができるだろう?モントゥーがラヴェルの核心をとらえていた証を聴くことができます。

もうひとつ、完全に凍りついたのはブーレーズがクリーヴランド管とやったCBS盤(旧盤)です。録音は1969年7月21日だから同じオーケストラであの春の祭典を録音をする1週間前です。この録音は管楽器の倍音の色彩までブレンドする、まさにあの春の祭典と同じ高度な次元のミキシングがなされている一個の芸術品だ。それにしてもあの彼がこんなポップな曲をやるとは!ボレロを録音したのと同じほどの衝撃を受けました。しかしブーレーズはブーレーズだったのです。このオケのホルンもドイツ的で明るさもヴィヴラートもありません。だから A-B-A はモントゥー同様に静謐で暗色が支配するのですが B の pp のバスが(なんと効いていること!)どっしりとしかしまろやかに全部を包み込み、湿度のあるねっとりしたクオリアを生みます。そこにルバートをかけて入ってくるト長調の乾いたフルートが金色の微光で辺りを一閃する様はダフニスの夜明けのパンの笛に似てる、そう連想を飛翔させる刺激的な音がしています。そこで回り舞台のように空気が変わるが、ブーレーズはモントゥーと違って音彩を散りばめることはなく徹底してクールで通します。僕がこの曲を一音符たりとも逃さず張りつめて聴いたのはこの録音が初めてでした。

ブーレーズは後にドイツ・グラモフォンに同じオケで録音し、大変ゴージャスで非の打ちどころない名演に仕上がっています。しかし、耳あたりは良いですが旧盤とは指揮者、録音技師の音のブレンド感覚がちがう。ブーレーズはだんだん音を心地よく整えるようになり鋭利な神経をむき出したような挑戦的な音がなくなりました。低音の混ぜ方のすごみはなくなり、C は旧盤のマジカルなものが消えて、きれいなオーケストラだなあと感心する普通の美演に落ちてます。

 

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なまけものにつける薬は恥とショック

2019 APR 1 23:23:43 pm by 東 賢太郎

東京は肌寒くて桜は満開という感じではありませんが、いよいよ新元号も発表されたし当方も心機一転といきたく、トレーニング・ジムのお世話になることに決めました。メタボ状態が進捗し、人間ドックの数値は悪いはヒザは痛いはで前代未聞の危機的状態となってしまったからにはやむなしです。

まずボディチェックで体脂肪と筋肉の重さがほぼ同じ。ショックであります。ついてくださったトレーナーのSさん、「皆さんこんなものですよ」と慰めてくれるがここは平均年齢が高いのです。説明書を出されて「小さくて読めないね」というと「ご安心ください!」と次のページに老眼用巨大サイズで同じものが出てくるぐらい。しかしこの説明はいい、「有酸素運動はおすすめですが、そればかりやってもだめです。脂肪も減りますが筋肉も減るので、まずマシーン筋トレで筋肉を増やして基礎代謝を活発にしましょう。すると脂肪はさらに減ります」。It makes sense! さすが日本女子体育大、Sさんにお願いすることにしました。

そこでまずこれを、ということでマットでやった10分体操がこれまた衝撃的にダメ。鏡に映る姿は隣の女性と同じ体操をしてると思えず、赤恥でひやひやものでした。「これは効果ありますよ。これだけやって帰る方もおられますから」ということなので何回もチャレンジですね、恥ずかしいけど。次に「ヒザがやばいんです。布団で寝てるけど、痛いからどっこいしょって『つかまり立ち』なんです」「そうですね、たぶんこれがいいですよ」というのでやってみたのが写真の手前のやつでした。

クロストレーナーという名のこのマシンはやったことがなく、最初は2分でぜーぜーとなってアウト。あまりの情けなさに呆然とするばかりです。「こりゃ僕にはキツいや、無理だね」「大丈夫です、もっとゆっくり、自分のペースで」と尻を叩かれて再挑戦したところ、ヒザの負荷はそれほどないのに筋肉はつきそうなイメージが持ててだんだんコツがつかめ、結局23分で3km、200カロリーで本日終了。短時間でこれだけ汗だくになれるのはいいですね。初回にしてはすごいですねとハナマルをもらい、女性に褒められると舞い上がる習性もあってさっきの恥はすっかり忘れて気分よく戻りました。「よし、今年はこれを週3回ノルマでやるぞ!」これに筋トレをくっつけてSさんにご指導いただけばカンペキだ。

思えば僕は万事になまけものなのです。強制されないとやらない。されても予習、復習なんてしなかったし、野球も練習はきらいで適当に手抜きしてました。試験だとか試合だとか急場の馬鹿力で生きてきてますから、ちょっとメタボぐらいでは運動というモチベーションがわかなかったのです。それがこうなったのは「ストレス高すぎ、数値めちゃくちゃ」と森嶌先生に即刻の点滴を打たれたこと、人生初のインフル罹患、人間ドックの数値もめちゃくちゃで自律神経を疑われ胃カメラ強制、とにかく複数の医師から「運動しなさい」命令が下されており、そして、踏んだり蹴ったりの今日の恥ずかしい10分体操でありました。そこに、爽快だったクロストレーナーの達成感が加わった。

そうなんです、練習はサボりたいくせに試合やってみると「野球やっててよかった!」となる。でも翌日から、やっぱり練習はサボりたいが復活する。だから野球も勉強もso-soで終わりました。でも今回の一連の試練でわかった。なまけものには恥とショックを与える。そして大きなご褒美を用意する。ひとつ学びました。

 

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