『黒猫フクの人生観』 (第十六話)
2026 JUL 26 0:00:21 am by 東 賢太郎
僕はじっと見てるんだ。主人はいま、証券関係じゃないビジネスを進めてるよ。これはね、僕が毎晩主人といっしょに居間でビデオのミステリーを見ていた去年の3月ごろにふってわいたような話でね、業務知識もなければ得意なジャンルの仕事でもないんだ、だからその頃はあんまり真面目に取り合ってない感じもあったんだ。
確かに投資のビジネスは神経使うしものすごいエネルギーがいるんだ。心構えがポジティブじゃなきゃいけないし、うまくいかない時の心のメンテナンスも難しいし、若かったからできたってところがあるんだね。もう子供も面倒見ないしこんな難儀なビジネスやってる必要あるんだっけっていう気持ちになるのもわかるよ。「フク、俺もいい歳だ、あと何年できるかな」なんて柄にもなく弱気を吐いたくらいだから、ちょっとは別な系統の事もやろうっていうふうになって不思議じゃないね。多摩川の崖から落ちたのと、ついには神保町の何でもない歩道でケッつまずいて転んでケガしたのは元高校球児を心の支えに生きてきた主人にはこたえたみたいだね。
天国にはその人の一生のビデオがあるんだ。だから僕は主人のを見てぜんぶ知ってるんだ。その大もとは宇宙のどっかに字で書いてあるらしい、何語か知らないけどね、宇宙は3次元に見えてるけど2次元の字のホログラフィーだって先週にホーキング博士が教えてくれたんだよ。天国に来てよかった、思ってた通りだったって喜んでたよ。主人がブログで書いてたけど、小学校に通ってた駅前の道路を歩いてたらその頃の半ズボンで帽子かぶったちっちゃい自分が見えたような気がしたって、それって気がしただけじゃなくて本当のことなんだけどなあ。時間ってものはなくて過去も現在も未来もみんなその場所に一緒にあるんだ。レコードをかけると音楽が流れて時間がある気がするけど、あるのは2次元の溝で音はそこから3次元世界に立ちのぼってるだけでね、いつだって昔だって未来だってそこにあるでしょ。そういうことだよ。
そんなこんなでね、新しいビジネスには従妹の旦那にひと肌脱いでもらおうって魂胆もあって食事奮発したんだ。「神山先生の日でそっちへ行くんだ、和洋中なんでもおまかせだよ」ってメールしたら、近場の鰻屋とってくれて大喜びさ。「ケンちゃん、だって日曜が土用のウナギでしょ、人気店だし大変だったのよ予約。10時開店だけどお年寄りの店だから早いかなと思って10時40分に電話したのがラッキーだったの。ドンピシャで一席だけ空いてたのよ」。主人も土用のウナギぐらいは知ってるけど、なん日かなんておよそ知らない。そういうのは疎くて正月とクリスマスぐらいしか知らない。よくそれでサラリーマンがつとまったもんだよね。「ありがたい、俺ちょうど食いたかったんだ」。飢えてたみたい。食い物ごときであんなに喜ぶのも珍しいね。
そこは江戸一って雑司ヶ谷の老舗だったよ。従妹はちょっと多すぎって主人にご飯をあげてさ、今どき上うな重にキモ焼きとヒレ焼きと酒でイチナナはお値打ちじゃないかな。「今日ね、神山先生にくぎ刺されちゃったんだよ、オナカ引っ込めないと膵臓が腫れてくるよって」「そりゃまずいな、糖尿コースだ」。医療器具メーカーで親戚も友達も医者だらけの旦那がうなづいた。「うん、この腹なのに体重変わってないから筋肉が落ちてる。努力はしたいんだけどさ、参ったよ、だって明日から朝と晩にキュウリ一本ずつで二日過ごせっていうんだからさ」「絶食ってこと?」「絶食はダメらしい」。従妹は意味が分からない。「じゃマヨネーズたっぷりかけないとね」「それもダメなんだ。塩ふってもダメって。キュウリの皮に成分があってそれが消えちゃうらしい」。僕も良くわからないけど、焼酎片手にこんな話してるんだから平和なもんだ。
「最近俺ね、なんだか歩幅が狭くなってきて速く歩けなくってさ、ズボンはく時ふらついたりもするし」「そりゃ片足立ちはみんな問題だって」。同期の旦那はこともなげにおばちゃんにビールお代わりしてる。そこで主人が新しいビジネスの展開の話題を切り出すと二人とも身を乗り出した。といっても旦那は理系の技術者だからノリはそこそこで、同じ血を引いてる従妹のほうが興味しんしんだ。要件は簡単に伝わった。「ということで頼んだよ」。さすがに猫界でこういうことはないなあ、ウナギ屋で酔っぱらって社長が任命されちゃうなんてさ。
「寄ってってよ」ってことでお宅にお邪魔すると毎度のワンちゃんの熱烈なお出迎えだ。プードル×チワワのメスだ。「知らない人にこんなに行かないのよ、モテすぎじゃない」ってぐらい、飛びつかれるわ顔はナメられるわ大騒ぎだ。コーヒーを入れてもらったのにだんだん話についていけなくなって寝ちまってる。いくら弱いったって中ジョッキと焼酎1杯なのに、こりゃ相当疲れてるぞ。株が上がってるのは結構だけど7月はいろいろ難所もあったからストレスがやばい。それで従妹たちとご飯食べたかったんだね。もろにお金が絡む仕事ってのはね、そういう意味で普通の堅気の仕事じゃない。滑った転んだでものすごく切実な部類のやつは人生に何回かはあって家になんかとても持ち帰れないんだ。心配させるだけだからね。そこでなじみの飲み屋で聞いてもらうんだよ。業界の人しかわかんないだろうけど周りの管理職みんなそうだよ。女性たちはそんな事は見事にどうでもいいからお安い御用でね、口は固くてふんふん大変ねって阿吽の呼吸で聞いてくれるだけで深入りしない。だからいいんだ。そんなのでちょっとは気が軽くなるってもんさ。主人の先祖の田中平八さんにはお倉さんがいた。それでもってたからああいう大それたことができたんだね。
酔いが覚めてなかったけど主人は大丈夫だと強がって10時ぐらいに地下鉄で帰宅したんだ。けれどヘロヘロだ。さすがに途中で降りてタクシー乗り場に行ったらなんと20人ぐらい並んでてね、仕方ねぇってんで歩いたんだけど、ほんと、亀みたいにのろのろなんだ。最後の力を振りしぼって手すりにつかまって家の階段を上るのがやっとだよ。もうそのまんま布団に入ってバタンキュー。若い頃はしょっちゅうだったけど、この歳でそれはやばいよね。
心配なんで翌朝も見てたんだ。そしたら何のことはない、しゃきっと起き上がって顔を洗うと冷蔵庫からやおらキュウリを取り出してペロッと食っちまった。パンやらご飯には見向きもしないでね。人の言うことはとってもきかない困った人だけど、神山先生だけは絶対なんだってよくわかったよ。だってシノホノいわず言われた通りやってたら本当に20年も病気しなかったって事実は絶対だ。その前では理屈もヘチマもないさ。そうやって信用したらとことんする、なくしたらとことんしないって主人は分かりやすくってね、相手がどこの誰だろうとどんなに地位の高い人だろうと例外なしってのは痛快なぐらいさ。僕は最初のうちはシャーシャーしちゃったんでしっくりいってなかったけど、毎日ビデオ見てるうちに男同士ってのもあって気心が知れてきたんだ。そこからはもうベタベタさ。
何のことない、階段昇るのもひょいひょいって、昨日の亀歩きは何だったんだってくらいめちゃくちゃ元気になってる。そうかあれは栄養失調気味でガス欠だったんだ、ウナギが効いて一気に戻ったんだ、めでたしめでたし。
歓喜のリンデマン再臨
2026 JUL 24 15:15:32 pm by 東 賢太郎
ダイナミック・オーディオのSさんからメールがありました。「お預かりしてるリンデマン820ですが、SACDは残念なから部品がありませんがCDのみの再生は可能です」。リンデマンはドイツのCDプレーヤーです。もう20年も前のこと、自宅であれこれ聴き比べさせてもらい、一目惚れで決めた愛着ある品です。半年ぐらい前に電源が入らなくなってしまい、「メーカーがもう倒産してしまっていてどこへ頼んでも断られました」と言う返事をもらった時はお先真っ暗。仕方なしに買い替えようと、とりあえず代用品でまかなっていたのですが音質の差は歴然だったのです。もう弔いの気持ちになっていたのが復活!
Sさんが届けてくれ、まずはレファレンスとしてKenny Barronのアルバム「Night & The City」を。いや、良かった、戻ってる・・・劇的な差です。ライブ録音のピアノがたまりません。楽器の “物体感” がスピーカーから現れ、触れればほんの少しざらっとした触感がわかりそうな音像が骨太で大きくなり、絹ごし豆腐のようにアナログ的なのに芯がある。単体でもそういう傾向なんでしょうが、僕は世界最高のプリと評価してるブルメスターを通しているのでそれが倍加された印象です。いや、ドイツのメカのこだわりはすごい。次いでかけたクルト・マズア指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管のエロイカ。いやいやこれぞドイツの音ですよ。本物のベートーベンにちょっと疲れてた僕も生き返りました。
このメーカーが倒産。まずSACDにコストかけて勝負に出たのが失敗。ストリーミングが隆盛になって同じフォーマット内の進化は霞んで価格倒れになった。オーディオ業界は腕の良い技術者もAIに流れてると聞くし、かつてのLPとCDの関係にあるのかもしれません。マクロ的にはリアルとオンラインの戦いで、オールドメディアと同様にリアルは分が悪い。でも僕はモノを所有しないのはだめですね。テレビがオンディマンドになるのは結構、元から番組は所有してませんからね。でもオーディオの音源がそれってのはいけません、所有してるって満足感は重い。だからそれに深い愛着がわくという因果関係も重大です。引っ越すと飼えなくなるからペットもそうなるかもと聞いてますが、レンタル猫なんてそんなのはありえません。まあいずれ彼氏も彼女も旦那も奥さんもそうなるのかもしれないがもうその時はいないでしょう。
そういえば、これも溺愛品のパワーアンプStratosのメーカー、米国のホヴランドも倒産。なんでだ?不条理としか思えません。発売時にオーディオ評論家の菅野氏が手放しで誉
めながらも「でもこれは日本であまり売れないのかな」とステレオ誌の記事で半ばあきらめのタッチで独白してたっけ。この発言だけでも、心から氏はプロだと思います。そう。日本のオーディオマニアには「HiFiっぽい音」こそ大事で、こういうナチュラル本格派は500万も払ったのに普通の音じゃないかとなっちまうらしいのです。これは野球に例えるなら、回転のいい伸びるストレートなんです。150キロ出るとか出ないとか数字じゃなく、130代でもゾーンで空振りが取れる。自分もそれにこだわってたし、フォークだシンカーだナックルだってにぎやかなのね、ああいうピッチャーは好みじゃないんでいくら防御率良くても全然興味なし。そっちが日本のオーディオマニアの世界です。これ、美学なんで理由も理屈もないです。
これも書きましたが、日本で最初の客だったのですぐにホヴランドのCEOからお礼の手紙が届きました。でも問題は中身でね、どうして僕が “オーディオマニア” じゃないと分かったのかは知らないし、感想を伝えたわけでもないんですが、買ってくれてありがとうだけじゃない、わかってほしいところをわかってくれてありがとう、どうしても伝えたいの趣旨だったんです。同好の士と認め合ったということでね、こういうのが一番うれしいんです。子供の時、みんなおもちゃは飛行機、船、車で電車は少なく、いても安っぽいプラレールみたいなどうでもいいやつで、鉄製の電車一本槍ってのは自分しかおらず寂しい思いをしたのを思い出しました。CEOは一度お会いしてみたいものです。
まだ2日だからあまりきいてませんが、とりあえずマルク・スーストロ指揮ボン・ベートーヴェン・ホール管弦楽団のドビッシー/ラヴェル、シノーポリ指揮ドレスデン・シュターツカペレのシューマン3番、アラウのベートーベン月光・田園ソナタ、モーツァルト生家のピアノフォルテによるアンドラーシュ・シフのモーツァルト集を。シノーポリのライン、あんまり印象なかったけど見直しました、これいいですよ。週末は時間があるのでオペラをいきます。本来はサバリッシュかレヴァインでリングが魅力ありますが、ワーグナーはいま気分的にちょっと重い。モーツァルトもいいけど、ここはヤナーチェクかな。
音楽家と完全主義
2026 JUL 22 0:00:50 am by 東 賢太郎
初めて聴いた演奏家に夢中になることは稀ですが、もうだいぶ前のそのひとり、ヴァイオリニストのユリア・フィッシャーは終焉後に楽屋までおしかけてツーショットしてもらったぐらい気に入ったものです。前稿のチェリスト、ダニエル・ミュラー=ショット(以下ダニエル)も感銘はそのクラスだったと思います。
チェリストといえば、昨年10月21日の読響定期でハチャトリアンを弾いた北村陽(左)も良かった。ブログで「圧巻!リサイタルを聴いてみたいと思った初のチェリスト、いや、いつまでも聴いていたいと思った稀有の人と書くべきだ」と最大級の賛辞を送っています。ではダニエルと比べてどうだったか?感銘という点で甲乙付けがたいですね。同じ曲ではなかったし音楽を聴く側の印象というものは振幅がありますし、そもそも22歳の北村を円熟期50歳のダニエルと比較してもフェアでないのですが、同じチェリストとしてそう思わせたということは書いておく意味が大いにあった。期待あるのみです。
ダニエルについて特筆すべきは、演奏のありようもさることながら、曲は違うのにロストロポーヴィチの40年も前の記憶を呼び覚ましたことです。もっと正確に
記すなら、演奏中に「あれ?これどこかで知ってるぞ」とひらめき、しばし考えてその結論が浮かんだのです。ロストロで覚えていて言葉にできるのは、チェロをとても寝かせる構え、それだからできるのだろうヴァイオリンのように緻密なハイポジション、会場の奥まで届くピアニッシモ、シューマンの歌の朗々たる艶やかな伸び、フォルテの凄まじい集中力でしょう。しかしそのどれかが似ていたのか総体的なものかははっきりしません。
音楽は “生もの” です。なま音はマイクに入りきらないといいますが、もっと入らないものがあります。聴衆です。劇場には聴衆の「気」が満ちています。いや、もっと科学的に記述しましょう、満ちていると仮定するのです。空気からは計測できませんが、人体からはできる。なぜなら、音楽の起伏につれて聴衆の心は動いています。興奮すればアドレナリンが出ます。フィナーレで高潮すると心拍数、体温、血圧が上がり、消えるように終わる音楽なら平静になるでしょう。興奮や沈静は脳波という電磁波になり、それが同期し伝播して巨大になると何物か劇場に満ちている感じになる。それが「気」と呼ぶものの正体であり、どなたか数値を計測していただければ仮定は証明されたことになるでしょう。
気は人間に影響を及ぼしており、それを言語で表現する需要が多いから日本語に「気」のつく単語が山ほどあるのです。劇場とは、大勢の観客の前で何かを演じ、「気」をひとつにした相乗効果で爆発的な効果を生むことを目的とした装置です。ルネッサンス期にフィレンツェでギリシャ悲劇を再演しました。やるうちにセリフを歌とし、楽器で伴奏することで相乗効果の爆発が増幅されることに気づきました。これがオペラの起源です。リブレットは同じですから、観客の「気」を増幅するものは音楽であることが発見され、やがて音楽だけが独立しコンサートとなったのです。すなわち、劇場の成果とはどれだけ観客の気を高めたかということであり、演奏家の評価もチケットの売上もそれにつれます。
気は画像にも録音にも入りません。2千人の劇場なら、歌手、オーケストラが百人として気の95%は聴衆が発していますから、CDやストリーミングで再生して耳に入ってくる情報は5%でしかないのです。これは「光や電波で観測している物質は宇宙の4%しかない」というダークマターの存在に似ています。神は無駄なものを造らない(イザヤ書 45章18節)なら96%も無駄でしたという結論はないのです。劇場の場合、我々はリアルな現実として録音の何倍もの感動を味わえることを体感しています。気合といいますが、気は合一してパワーになる。嵐ファンの娘はライブのため北海道まで行きましたが、その歓びの 95%は気かもしれないよということです。もちろん5%が優れていないと感動は生まれませんから、観客の「気」はレバレッジ(てこ)にほかなりません。僕もロストロをはじめパバロッティやクライバーの凄まじいスタンディングオベーションはそうだったと思わないでもないのです。
であるとすれば、音楽を愛する我々は天から重要な示唆を受け取ったことになります。音楽は聴衆が作っているということです。第九のベーレンライター版は好奇心を満たしますしサイモン・ラトルのウィーンフィル盤は見事な演奏なのですが、最後の最後、ゴッタフンケン(Götterfunken)に至ってとうとう僕はズッコける。これがベートーベンの意図なら、死後のどこかで誰かのミスで我々の慣れ親しんだテンポになって誰も異議を唱えなかった。だから150年も誤りが続いてそれが記憶されてきたことになります。なぜなら、聴衆が支持したからです。フルトヴェングラーの凄まじいアップテンポも多分ベートーべンの意図ではないでしょうが 20世紀の聴衆に圧倒的に支持されて定番になってしまいました。同様に、北村陽の弾いたハチャトリアンやダニエルのショスタコ1番も、演奏が説得力に富んでいたため解釈上の定番を作っていくかもしれません。僕は古楽器演奏を好みませんが、同じ理由で原典版もケースバイケースだなと思います。理由は明白です。僕もそうした聴衆のひとりだからです。
ということで本稿ではダニエル・ミュラー=ショットのグリーグとラヴェルを取り上げます。グリーグではヴァイオリン・ソナタを弾く試みも聞け、それがまるで元からチェロ・ソナタであるかのような見事な演奏になっています。彼はドイ
ツ人ですから母国語でない音楽を自分の世界に引き込んで新たなワールドを作っている。グリーグがこれを喜んだかどうかはともかく、保守的なクラシック界においては斬新な試みといえます。だってショパンはショパンの流儀があって、代々伝わる創業家の秘伝みたいな方法を先生に習ってコンクールに出る。ポゴレリッチのように自己流が入ると不合格で審査員のアルゲリッチ先生は怒って退場してしまいました。ショパンコンクールも少しは変わってきたとされますが、クラシックというのは基本的に古典芸能だからそういう世界です。動画の再生回数やファン投票で決まるなんてことは絶対にありませんからダニエルの試みは革命的と言えます。そして僕はそれを支持します。
古楽器は否定するのになぜか?演奏家の真実の声が聞こえるからです。古楽器だってそういう演奏家はいるでしょうが、古楽器だから意味があるでしょという演奏家もいます。バッハの時代はこういう音だったんだねふうんというだけなら博物館の展示品のお披露目会みたいなところでやればいいのです。僕らはバッハの時代の聴衆ではありませんからそれを聴いて良いと思う自然な道理はありません。歴史学的に正しいからと無理矢理感動するいわれなどまるでありません。思いおこせば、僕が中学まで学校で受けた音楽教育はまさにそういう姿勢のもので、死ぬほど退屈であり通信簿はいつも2でした。演奏家はまず作曲家が作品に封じ込めたパッションを共有し、それが強いから演奏したい、それをぜひ聴いてほしいと熱望し、そういうものこそ聞きたいと熱望する聴衆が集まる。すると劇場で両者の気が合体し、大きなパワーとなり、聴衆に一生忘れぬ思い出を刻印するのです。長く生きてきたおかげで僕はそういう場に何度も立ち会いました。たくさんあるので何年たっても熱が冷めやらず、文章ではありますがそれを共有していただいて、皆さんなりにこれからの感動のよすがにしていただきたいと願って14年前にブログを始めることになったのです。
しかし忘れてはならないのは、以上のすべては作品が良いからいえることです。そうでない作品にいくら有能な演奏家が気合を込めても無から有は生まれません。だから演奏する側も聞く側も、感動したということはまず第一にそれが作品の中に存在していたという証左ですから、作曲してくれた人への深い感謝があるべきなのです。それを一律に形で表すために印税を払うという義務があるのですが、 法律の効力は50年も経つと切れてしまいます。それを無料で使って1億枚もレコードを売ってカラヤンは富豪になりましたが、彼は自分の力で曲の魅力を大衆に折伏(しゃくぶく)した有能な伝道師だったということです。これは彼の才能と努力の成果です。問題は、ではベートーベンは何を得たのかという甚だバランスの悪い気持ちを押さえられないことなのです。天国に行った人だから墓前に何かそなえるしかなく、記念館に寄付という手段は多くの人がやっています。自分なりのやり方。それはブログで感動の証を書き残し、ひとりでも多くの方にその作品で感動していただくこと。楽器のできない僕にはそれしかありません。
きのう時間ができたので彼のユーチューブを検索していたら、これを見つけました。ダニエルがアンコールでユリア・フィッシャーとデュオを弾いてる。この組み合わせというとブラームスのドッペルをやったのではないでしょうか。
お話した印象ですが、彼女は知性とプライドとリーダーシップのある妥協のない人とお見受けしました。プロとして当然ではありますがなかなか彼女のレベルの方はいないのではないでしょうか。たとえばピッチです。他人に教わるまでもなく自分の中で当たり前のようにコンプリートされている感じがします。アンサンブルでも完璧を目指す人のように思います。それを完全主義と言ってしまっていいのかどうか迷いますが、一定のジャンルにおいて僕はまさにそれでありますし、こと音楽に限って言えば彼女はそれに近いのではないかと思います。
この曲、ハルヴォルセンの『ヘンデルの主題によるパッサカリアとサラバンド』はヴァイオリンとヴィオラのための二重奏曲であり、ダニエルはそれをチェロで弾いています。いわばアルト歌手がソプラノのレパートリーを歌うようなもので、高い技術がなければできることではないでしょう。この試みも、先生に習ったからやりましたというものではなく、彼の中にある欲求がつくり上げたものでしょう。ルーティーンで妥協しない。自ら高いところを目指す。それはまさしく完全主義です。ですからフィッシャーとは馬が合い、お互いに認め合って、高いレベルで理解しあえるものがあったのではないでしょうか。だとすれば、それは大変なことなのです。
フィッシャーの知性とは勉強ができる程度の意味ではありません。父は数学者、母はピアニストであり、ドイツ最年少の 23歳でフランクフルト音楽大学の教授に就任したレベルの話です。曲を書いたり演奏したりは疑う余地もなく高度にイ
ンテリジェントな作業なわけです。それを持ちあわせない人が歴史に残る作品を書くなど微分積分を解く猿が現れる以上に有り得ませんから大作曲家と呼ばれる人たちは例外なくそういう人なのであり、必ずしもそうではない学者や伝記作家が自分の目線で彼らの性格や日常生活をどう描写しようが、彼らは音楽においては例外なく完全主義者なのです。演奏家は譜面を通じてそうした超人である作曲家と対峙する作業から入るわけですが、それが音符を音にするメカニックな作業と同次元のことであるはずがありません。演奏以前の膨大な形而上学的部分、すなわち、音楽をつむぎ出した作曲家の知性という言葉でしか表わせない「土台」を理解せずに演奏するという行為はその演奏家ご自身の評価のためにもミスリーディングです。超絶技巧でベートーベンの熱情ソナタをバリバリ弾いて大向こうをうならせる。そういうものが好きな聴衆もいるでしょうし、クラシックが敬遠され衰退するよりはマシという考え方もあるのでしょうが、僕にとっては大道芸です。
指揮者で圧倒的に知性が高いと感じた人がピエール・ブーレーズ、セルジュ・チェリビダッケです。彼らはオペラハウスたたき上げの親方キャリアでなく大学で数学、哲学も学んだ人です。音楽は理屈じゃない。感性だよハートだよという方も多いだろうし否定する気はないのですが、感性も十人十色です。ひとくくりにそれが音楽のエッセンスだと言うには広すぎるというだけでもそれがエッセンスでないことはお分かりいただけると思います。ちなみにおふたりはレパートリーからして別々の感性の人たちです。でも、ひとつだけ共通点があるのです。知性の高さが音に現れていることです。おふたりは音楽に投入した知性の総量でも、音でそれを具象化する技術においても優れたパフォーマーでした。
それは料理に例えられるかもしれません。料理は化学でもあるから感性だけでするのでなく確立したメソッドがあります。それを生み出したインテリジェンスは知性以外の何ものでもありません。ブーレーズもチェリビダッケも知性によるメソッドを音にする “名シェフ” でしたが、それではカラヤンはどうでしょう。僕の世代には保守的な評論家たちをはじめアンチが沢山おられ、彼を否定することが上級者の証しみたいな空気すらありました。大衆迎合の故の人気だというのです。だとすれば僕にとっても大道芸のたぐいです。当初はそう思っていましたが、誤りと気づいたのは1983年にザルツブルグ音楽祭で聴いた「ばらの騎士」でのことです。総合芸術としてリッチでゴージャスに楽しませるための知性のオンパレードは大衆迎合などとはほど遠く、ああこれを否定することはリヒャルト・シュトラウスでもできないだろうと感服したのです。カラヤンがブーレーズと違う唯一の点は、知性をマーケティングにも使ったことです。
話を戻せば、ダニエルの演奏は豊かな感性の賜物ではありますが、そのベースにはフィッシャーと対等な知性の裏打ちがあるわけです。それが技術と高い次元で結びついていると感じました。前稿の通り彼の楽器はハー
ヴィー・シャピロから譲り受けたフランチェスコ・ゴフリラー「サフィール」(1727)という名器で、サントリーホールで類い稀なる音色を楽しませてくれたのですが、演奏は体全体から発散するオーラに満ちている。それはサフィールが与えたものかもしれないし、楽器はオーラを受けてますます良い音でこたえるという幸福な関係にあったのかもしれません。2006年、最晩年のシャピロがラジオで若き日のダニエルの演奏を聴き、サフィールの引き継ぎを持ち掛けたことは重要でしょう。長年ジュリアード音楽院のチェロ教授をつとめロストロポーヴィチが「世界で最も偉大なチェロ教師」と敬意を表し、アルトゥーロ・トスカニーニがNBC交響楽団の主席に据えた人の耳だけの判断だからです。
ダニエルのユーチューブをひと通り聴きましたが、とても印象に残ったのはグリーグのソナタです。ヴァイオリン・ソナタに比べて知名度が低いのは自身の兄を想定して書かれており、演奏者に恵まれてなかったのだろうと感じます。
このピアニスト、ヘルベルト・シュフは初めてですが、やはりユリア・フィッシャーとツアーをした仲間のようです。 つまり3人とも同じ次元で知性、感性がぴったり合ってる。それが触発しあって相乗効果で良い演奏が生まれる。とてもわかりやすいですね。さらに言えば、聴衆である僕もそれを心地よく感じるタイプの人間だからこうして皆様にご紹介することになる。真剣に読んで下さってる方が日本だけでなくたくさんおられることを存じ上げていますから、生半可な好き嫌いだけで書いてはいけないと常に戒めてますが、この3人については手放しでほめても問題ないように思います。
余談ですがレストランのミシュランやワインのパーカーもこうやって星や点数をつけていると思われ、判断の最後に感性の混入は避けられませんから結局は評者それぞれなわけで、万人に絶対的に旨い食事やワインが存在するわけではありません。商業的な底流として、旨いと思わない人は一流の大人でないというアンコンシャス・バイアス(unconscious bias、無意識の思い込み)がちらつき、なんで寿司屋の良しあしをフランスの本に決められなきゃいけないのという感じがします。西洋の音楽についてああだこうだ書いてる日本人の僕にも同じことが言えるわけですが、僕は自分の趣味が正しいという思いこみは意識的に消しています。煮物が苦手な僕が日本人だからと言ってその良し悪しを論じてもナンセンスであることも自覚しています。良識あられる読者の皆さんはそういう読み方をしていただいていると信じております。唯一真理があるとすれば、僕と同じ系統の好みの方にとっては結構いい線いってるかもしれないということです。
最後に、フィッシャーもダニエルもドイツ人ですが、古き良きのタイプではなくインターナショナルでフレキシブルでレパートリーが広い。彼らのラヴェルをぜひお聴きください。パリ音楽院流儀ではないかもしれませんが、ラヴェルの書き記した音の抽象的な部分を咀嚼してお見事なフレンチ・ディッシュに仕上がっていますす。 30年ぐらい前からドイツのオケのフランス物は進化していて、ベルリン・フィル、シュトゥットガルト放送交響楽団が素晴らしかった。 1994年にベルリンのフィルハーモニーでブーレーズが前者を振った神々しいばかりの「ダフニスとクロエ」はこれまで人生で聴いたライブの筆頭格ですし、後者がジェルメッティとやったCapriccioのラヴェル集はユーチューブにアップ
しましたが、永遠の愛聴盤の1つです。その昔、レコード芸術誌はフランス物といえばクリュタンス、ミュンシュのパリ音楽院管、パリ管でなくてはというまさしくアンコンシャス・バイアスに満ちており、馬鹿正直にそれを珍重して聴きこんでましたが、ブーレーズやチェリビダッケの洗礼を受けてしまうとどう考えてもオーケストラがうまくないんです。いやいやそのアバウトな所がフランスなんだよ、あの頼りないホルンじゃないと感じが出ないんだよなんて識者のもっともらしいご説が飛びかい、確かに色気はある木管の音色にそんなもんかと思ってましたが、それは「おフランス」に憧れ高級と信じこんだジャパンワールドの片想いの幻想であって、エッフェル塔で恥ずかしいポーズで悦にいる女性議員がいまだにいる国の顛末だったなあと思うのです。
ヨーロッパに住んでみるとフランスの位置づけは全然そんなことはないわけです。隣国のドイツで、極東の日本人が崇拝した如くクリュタンス、ミュンシュのフランス物が神格化されるれるなどありえない。なぜならライン川を挟んで2千年も隣にいても、ドイツ人は日常的にフランス料理を食べさえしないのです。EMIのマーケティング戦略を見ればわかります。ミュンシュは血統は両国が混合したアルザス系ドイツ人ですし、クリュタンスはというと独仏文化が交叉するベルギー人であった彼をEMIはベルリン・フィルに押し込んで交響曲全曲録音をさせました。ドイツグラモフォンの牙城であるドイツマーケット進出を目論んだのです。なぜならオペラ作品が数えるほどしかないフランス音楽が、中規模都市にもオペラハウスがあるドイツのローカルな音楽文化に自然な形で浸潤するはずもないのはフランス料理と同じなのです。だからカラヤンのオーケストラであるBPOのシェフに、レコード録音だけとはいえフランス語話者の指揮者を送り込んだ。そこにはナチスにパリを占領され強姦略奪でめちゃくちゃにされた遺恨もあったかもしれないし敗戦で経済力が弱ったドイツを征服したい意欲すらあったかもしれません。
その策略は完全に失敗に終わりました。クリュタンスの起用はパリ音学院管弦楽団とのフランス物が日本でアイコン化したことで元は取れたでしょうが、彼もミュンシュも血統は辺境で「おフランスな人」などでないわけであって、こちらの成功は仏EMIと日本のレコード業界、評論家の見事なマーケティング戦略だったと感嘆するのみです。ラヴェルはジュネーヴのスイス人とマドリッド育ちのバスク系スペイン人の混血で、生後3ヶ月してパリに移住した移民の子です。そんなことはトリビアになってしまうぐらい彼はフランス音楽の代表格になっていますが、伝統を守るパリ音楽院の教授連は彼にローマ賞を与えていません。代表格になったのは一にも二にも彼が世界に認められたからで、同じ現象はサッカーWCフランス代表チームの血統豊かなメンバー選考にも見てとれ、フランスという国家のお家芸ともいえましょう。音楽の優位性が彼ほど「完全主義」に起因した人はいないでしょう。ダフニスやボレロのオーケストラスコアをご覧になったことのある方は、それ自体が精巧な美術工芸品であるという僕の主張も肯定してくださるでしょう。しかしそれがフランス文化に起因したと考えるのは大きな誤りで、何度フランスへ行ったか数えきれませんが、趣味においても精密度においても何を見聞きしてもラヴェル的なものはみつからず、とてもがっかりした自分がいたのです。納得したのは、その後にスイスに2年半いて、工芸品として精巧きわまりないスイス時計を見て回った時です。ラヴェル的なものは、工学を学び土木技師で発明家で、紙袋を縫う機械、機関銃のモデル、アセチレン動力の2ストロークエンジン、ガソリン車用の蒸気発生器を発明し自動車産業の先駆者とされるエンジニアであった父親ピエール・ジョセフ・ラヴェル由来だったのです。アバウトな演奏など作曲家本人のコンセプトからしてのっけから論外であり、緻密に精密に演奏すればするほど香気が漂うふうに書かれています。けだし、若い俊英のドイツ人演奏家たちにとってラヴェルはそういうもので、リアリズムの観点からしてそれは正しいことを確信させてくれる卓越した演奏です。
読響定期 ダニエル・ミュラー=ショット讃
2026 JUL 17 16:16:53 pm by 東 賢太郎
指揮=セバスティアン・ヴァイグレ
チェロ=ダニエル・ミュラー=ショット
ジークフリート・マトゥス:怒り狂う女(Furien-Furioso)(日本初演)
ショスタコーヴィチ:チェロ協奏曲第1番 変ホ長調 作品107
ルディ・シュテファン:交響的楽章(1910年)(日本初演)
R.シュトラウス:交響詩「死と変容」 作品24
毎度何の先入観もなく聴いている読響定期。この日も直前に入場しプログラムは一瞥だけ。時間の制約ということもあるが、あえてこのスタイルで楽しんでいるのは、30分前までの喧騒から音楽の世界に切り替わるのが非日常、心の滋養になるからだ。クラシック音楽はどれも作曲家、演奏家の強烈なパトスが封じ込められており、俗世間を瞬時に断ち切れ、別世界に遊べる。それは同時に誰も立ち入れない自分だけの空間である。そして入ってしまえば30分も1時間も出てこれない。パトスを浴びた後、自分がどうなっているかは予想もつかないのだ。
日本初演が2つもありまさに一期一会。このシリーズの贅沢な点である。 60年も聴いているわけで、何を今更という曲よりありがたい。「怒り狂う女」(1999)は、「外見上の愛想の良さや親切心の陰に潜む不誠実で狡猾な存在を音楽の魔力でお祓いしよう」という含意の作品だ。ラチェット、フォレクサトーンいう打楽器は通常は隠し味で使うものだが後者は曲の終結で主役級の扱いだ。Vn群の音がとても良かった。コンマスのソロを含め最高レベルの音だ。マトゥスは東独の国宝的存在の作曲家で基本的にオペラの人のようだ。静寂の後、金管の咆哮から全管弦打楽器が錯綜する部分は呪術的で春の祭典のイメージになる。
シュテファンは処女オペラがフランクフルト歌劇場で初演された俊英だったが、第1次大戦で28歳で戦死した。出身地のヴォルムスはマインツの南、マンハイムの近くでありバーデンバーデンの行程で通った馴染みの地だ。ヴァイグレは元フランクフルト歌劇場指揮者であるから思い入れがあるのは自然だろう。彼はプフィッツナーのカンタータ「ドイツ精神について」 作品28の日本初演(2026年1月20日)も行ったが、この作曲家もフランクフルト出身であり、僕にとっても思い入れがある。交響的楽章はオルガン付きの大管弦楽の音楽で後期ロマン派のタッチをとどめつつシェーンベルクに向かっていく和声音楽という点でシュレーカーの先駆を思わせる。 23歳でこれを書いた人が生きていればと誰をも嘆かせる内容の濃い音楽だった。
最後の「死と変容」。R・シュトラウス25歳の作品であるこれを交響的楽章の後に置く。23歳のルディ・シュテファンの後に。もし彼が生きていれば!無言のメッセージはすべての聴衆の心の奥底に届いたのではないか。前半2曲を共産主義政権下の作品でまとめ後半はそれだ。なんという周到なプログラムだろう。「死と変容」はクレンペラー、ケンペ、チェリビダッケなどが耳にあるのでなかなか評価は難しい。「私が作曲したことは全て正確だったと、今こそ言うことができる。私は今しがたそれを文字通り体験してきたのだよ」という作曲者の死の間際の言葉があるのでもっと幽玄な音を求めてしまうところが好みの問題だ。
あえてショスタコーヴィチを最後に書くのは、ダニエル・ミュラー=ショットのチェロがあまりに素晴らしかったからだ。僕は1984年にロンドンでロストロポーヴィチを聴いたが(シューマンとボッケリーニ2番)、もうあんな豊潤でエネルギーのある音には二度と出会えないと思っていた。それ以来あまたのチェリストを聴いてきたが、確かにそうだった。ところがこの日、これこれ、これがロストロの音だった!というのに出会ったのだ。
僕が聴いた名演奏家たち(ムスティスラフ・ロストロポーヴィチ)
調べてみたところ、ミュラー=ショットの楽器はNBC交響楽団の出席チェリストだったハーヴィー・シャピロから譲り受けたフランチェスコ・ゴフリラー「サフィール」(1727)だ(ちなみにお値段は200万ドル、今のレートで3億円)。GPTによるとロストロが1984年にロンドン公演で演奏していたチェロはストラディの「Davidov」だったと出てくるがGPTはあんまり当てにならない(それ以前に並行して使った楽器にゴフリラーもある)。ロストロはシャピロを「世界で最も偉大なチェロ教師」と呼び、ミュラー=ショットはロストロを「恩師」と呼んでいるので同じ流派と考えていいのかもしれない。このへんは西村さんのご意見を伺いたいところだ。
この日のショスタコーヴィチ。音の美感と動感のバランスがとれ、Sym5番の第3楽章を思わせる緩徐楽章のハーモニクスの神秘感も良かった。ロストロの特徴でもあったエネルギーポテンシャルの高いハイポジションの音が今も耳に残る。終了後に、大学オケでトランペットだった友人と「ヴィオラコンチェルトを聴いた感じだったね」とうなずきあった。暖色系で太目でまろやか、それでいて雄弁な音質はホルンと融和する。モーツァルトは好きなヴァイオリンの音色を「バターのよう」と形容したがミュラー=ショットの音にも当てはまるだろう。C弦の低音もハイポジと連続性ある柔らかみがあり隆々と伸びる。アンコールのJ.S.バッハ無伴奏第3番ジーグも全曲を所望したい魅力があった。美音の嵐でお腹はいっぱい。至福の夕べだった。
「カープ女子」はどこへ消えたのか?
2026 JUL 12 12:12:33 pm by 東 賢太郎
【一軍】
広島 1-10 中日
広島 1-8 中日
【二軍】
広島 1-12 ソフトバンク
広島 1-12 ソフトバンク
直近2試合の結果だ。20連敗ぐらいしてるチームかと見まごうほどの腰の入った負けっぷり。なぜか二軍まで同じ日に仲良く2試合連続のボロ負けである。
一軍は前のカード(ヤクルト)の勝敗は〇〇✕であり、〇〇は「サヨナラの2連勝」である。このところスタンドはガラガラだったのだが1戦目でサヨナラ2ランの4番坂倉がインタビューを「満員にしてください!!」と叫んで締めくくり、なるほど明日からはきっとそうなるだろうと思ったものだ。
ところが翌日もガラガラだった。地元ファンの目はそう甘くない。しかし、この2試合目も選手は奮起した。モンタナが押出しの四球を選んでサヨナラ勝ちだ。ヤクルト星投手は泣いていた。そして迎えた第3戦、観客は少し増えた感じである。
ところがここでヤクルトの外人投手3人に継投ノーノーを食らってしまう。
負けたのはいい。腑に落ちないのは、「昨日まであんなに元気だったのにね」という事故のお悔やみのような複雑な感情なのだ。そして、その感情が選手にもシェアされてたかの如く、続くカードで最下位の中日にブルドーザーのように押しつぶされてしまったのが上掲の2試合なのだ。するとさらに不可解なことに、兄貴が名古屋でボコボコにされると弟まで同じ日に広島でソフトバンクに粉砕されているではないか。いったい何が起きたのだろう?
ちょっと私見を入れよう。ノーノーはきつい。ボクシングでゴングから5秒でKO負けしたみたいな、相撲で立ち会って2秒で電車道で吹っ飛ばされたみたいな、屈辱でしかない圧倒的な負け、全人格的にすべてを否定されたような仕打ちだ。やった方はその逆だ。僕は1安打をしたことがあるが、マージャンで言うなら今までヘボだったのが役満あがって上級者になった気がした。やられた方はその逆なのだ。彼らはプロだ。それで飯を食ってる。そのショックで無残な連敗になってしまったのだろうか。
さらに細かく見るならば、ノーノー食らった翌日のバンテリン初日で先発森下ってのは微妙と思ってた。 3年前に名古屋で初回に5連続ヒットを打たれて負けた不甲斐ない姿を新井は覚えてないのかな。エースが投げて1番から5番までヒットなんて人生初だ。森下は名古屋は嫌いに違いない。大瀬良がいない中、森下を立てての10失点は精神的被害が甚大だ。そしてその大瀬良までもが同じ日に二軍戦で4回8失点、これまた信じがたいほど酷い。ソフトバンクが強いんだという意見もあるかもしれない。しかし2日目は秋広に1回と9回に2度満塁ホームランを打たれるという珍事に等しい屈辱を味わってるのである。もうこんなのプロと認めがたい。日々何を練習してるんだ?二軍監督・コーチは何をしてるんだ?お前ら野球選手以前に男として恥ずかしくねえのか、もういい加減にせえだ。
カープの一軍はここ3試合で2点しか取れていない。当然と言えば当然だ、先発メンバーを見れば、坂倉と小園以外は二軍みたいなものである。名原が出てきて多少元気が出たが、それを除けば元々その程度の打線なのである。百戦錬磨の涌井にすれば赤子の手をひねるようなものだったろう。
外野にも飛ばない打線がホームランなど出るはずがない。原因は簡単だ。小兵を好んで採ってる。岡本、村上、佐藤輝、牧、清宮、浅村、柳田、山川みたいなガタイのいいのを採らない。年俸が高いからだ。例外だった2017年の丸、鈴木誠也、バティスタのクリーンアップは3人ともOPS1の超ド迫力で、東京ドームで原監督が青ざめるほどのホームラン攻勢で巨人を粉砕したあの試合は一生忘れない。もしあの打線が今あったなら、僕は休日返上でマツダスタジアムまで足を運ぶだろう。つまり、そういう補強をすればスタンドがガラガラになどなるはずがないのだ。
小兵でかき回して少ない得点を守り勝つ。昭和の広島カープだ。判官びいきの僕はそこが好きでファンになった。しかし昨今の「投高打低」現象は一時の現象ではない。最近の子は大きい。大柄な投手たちが筋トレでマッチョになり、高校生でも150キロを超えるのがザラになった。昨日のゲームであんまり知られてない阪神の育成ドラフト出身の工藤があっさり163キロを記録した。少々コントロールが甘くてもそこまで出れば打たれない。今年の交流戦でそうしたパワーピッチャーがそろうパリーグがセを圧倒して証明したことだが、デカくて筋肉モリモリの奴が160キロで打者をねじ伏せにかかり、ボディービルダーみたいなマッチョマンがその球を180キロのスイングでバックスクリーンに叩き込むなんてスポーツに野球は進化しつつある。大谷だって顔はやさしげだが裸になればマッチョマンだ。投手の球が速くなれば打者のスウィングだって速くなり、観客はスーパーマンとスパイダーマンの戦いみたいなスリルを期待して球場に足を運ぶだろう。これは自然なことだ。 2000年前のローマでコロッセウムの観衆は剣を持った屈強の奴隷が猛獣と戦うのをワクワクして観ていたし、スペインの闘牛場ではいまもそれが行われている。来年からセリーグも指名打者制になり、日本でもその傾向に拍車がかかっていくであろう。それが良い悪いではない。ここでの論点は観客動員数だ。サッカー、バスケ、テニス、ラグビーなど他のスポーツに比して現状の野球人気がこのままである保証はないことを念頭に、ショービジネスとしてのエンタメ性の変化には敏感であるべきだということだ。
従来よりカープは交流戦を不得意としており今年も10位に終わった。パリーグの投手の速くて強い球を遠くに打ち返すにはカープ打線は火力が足りず、 5000ccの大型車が居並ぶレースに軽自動車が入ったみたいなものだった。それでも勝てばいいではないか、「小よく大を制す」だし日本の美学であるという声もあろう。しかし世の中は動いている。小が大を制しきれない時代になった。アメリカに逆らえばあっさりと元首を殺され、NATOとて潰されかねない。アンソロピックのミトスを野放しにすれば世界の銀行口座はハッキングし放題だ。大を大でも制せない時代だ。そこに勝率ゼロである「小よく大を制す」を掲げてコストをセーブするモデルは国家戦略として根本的に無意味となる。野党の皆さん、国民が日々の生活に苦しんでいる時に国防予算増額なんてなどと言ってる場合ではない。ミサイルが飛んでくればあなた達も死ぬのだ。そういう空気に連れてスポーツにファンが求めるものも変わっていくと僕は確信している。スポーツを戦争のシミュレーションとして始めたのが五輪だ。そんな時代ではないが、ボクシングのリング上で殴ってけがをさせても傷害罪にはならないしパンチがもろに入って死んでも殺人罪にはならないだろう。競技であってその故意がないからだが、行為は同じでも故意があって国家が罰しなければ戦争になる。そうした戦争と接点がある力と力の戦いで「小」が何しても勝てない時代になり、毎日そうしたニュースを眺めていれば無意識に人間の思考回路も変わっていく。やがて日本においても勝てない戦略など支持する者はいないリアリズムの時代がくるだろう。昭和の美学で野球をやり今もそれを愛する僕が望むことではないが、いずれ金を払う側に昭和生まれはいなくなる以上それで飯は食えないし生きてもいけない。だから興業主である球団もそれについて行かなければあっという間に倒産するリスクがある。こうしたマクロ的な視座がこの球団にはないから現状に至っているのであって、経営陣に変わる様子がない以上今後も気づかないだろう。よって、本稿の最後に論じるような危機に陥る可能性はある。経営者の心配をする気は毛頭ないが、いち野球ファンとしては困るのである。
広島カープの問題は新井監督の采配ばかりにあるのではない。ピッチャーが少々打たれようが後半戦でひっくり返して2016~18年の3連覇を支えた丸、鈴木誠也、バティスタの長打力はオールドファンの山本浩二、衣笠、ホプキンス、シェーンへのノスタルジーをかき立てた。それを知らぬ若い女性ファンも2014年に田中広輔が入団してタナキクマルが揃った年から増え始め、「カープ女子」という言葉が流行を始めた。ついに優勝した2016年、鈴木誠也とバディスタの出現で攻撃の破壊力がMAXとなるとカープの観客動員数は2018年に223万人と最大になり、 2019年の丸の巨人移籍とバティスタのドーピング疑惑で破壊力が減衰すると観客動員数もピークアウトした。スタンドを真っ赤に染めた「カープ女子」の増減とカープの興亡はシンクロして象徴的ではあるが、 経営は数字であって男も女もない。球団の収入の根幹である観客動員数は「攻撃の破壊力」を指数化して回帰分析をすれば有意に高いRスクエアが得られるはずである。したがって、数学の示す所はクリアだ。ガタイのいいスラッガーを採らないという戦略は誤りなのである。
知らない方もおられるかもしれないと思い「カープ女子」の写真を探したのだがない。あるにはあるのだが、この語は僕にとってsheep、 fish、deerと同様に単複同形名詞と理解される。「five sheeps」といわないように「fiveカープ女子s」ともいわない集合的な概念である。したがって、誰かひとり、あるいは数名の女子が目立っている写真はそれに該当しない。ところが探してもそれしか見当たらないのである。仕方なく下の写真が候補になったが、今度は男性が入ってしまっている。さてどっちがマシだろうという究極の消去法的判断に至り、熟慮の末これに落ち着いた。ご覧のように、市民球場で酔っ払って汚いヤジを飛ばしてたオジサンたちとはサマ変わりの様相で、「女子」と銘打つだけあって女性客の猛烈なエネルギーが先導するムーヴメントであった。昭和のオジサンは刺身のつまなのだ。
ちなみにグッズの売上の方も繁盛していたようだ(観客動員数の関数である)。女性ファンたちはそれを身にまとうことでカープ女子の一員となり、人数が増えるにつれて社会現象となり、グッズはその一員のトークンとなるのだ。選手と一体感を持てる、集団に属していると安心する、どこか誇らしい、誰かに見て欲しい、ああ、あの強いカープね、あんたも元気はつらつでいいね、なんて隣のおばちゃんに声かけて欲しい。これは10年後の今だったら「推し活」的な側面も指摘されていただろう。ねえねえユニフォーム着てタナキクマル、セーヤを推してるワタシって素敵じゃない?かように野球のことはなにも知らないがファッションやエンタメには興味ある女性たちを中心に、広島ローカルであった波がナショナルブランドにまでなった歴史的事件だったのだ。 64年前の東京で、クラスで仲間はずれにされながらすでにそれを誇らしいと思っていた僕は何という先見性のある子どもだったのだろう。しかしこのたびの波の中で僕はそれを声高に誇れなかったのだ。男だから。共産党さん、立憲民主党さん、それっておかしくないか、差別なんじゃないの?そうか、でも「LGBT理解増進法」ができたっけね、岸田さんと稲田朋美さんのご尽力で人格的尊厳が守られる。素晴らしいことだ。ヒゲオヤジが女風呂に入っていけると同様、僕もカープ女子をブログで堂々と名乗ればよかったのだ。
しかし実はそれを横目で見ながらロッテファンのほうがすごいぞと思っていた事実がある。こっちは女子などと料簡の狭いことは言わない。18連敗しても止むことがない野球が好きな人たちだ。カープは立ったり座ったりだがロッテはジャンプだ、必要とされるエネルギーは10倍もあろうか。スタンドを揺るがすオーケストラみたいにシンクロされたすさまじい迫力はマリンスタジアムに行かれてみれば度肝を抜かれると思う。
でも神宮球場の熱量だって半端じゃなかった。10点以上取って大勝した試合で、ホームランが出るたびにスーツ姿の僕も立ち上がって後ろのお姉さんに背中をバンバン叩かれるという熱狂の渦の中にあった。思えばカープ戦は楽勝で当日券が買えたものだ。仕事が早く終わるとぷらっと3塁側の33列目に座ったが、 2016年ぐらいから嵐のライブより入手困難となった。それはこんな具合だ。スタンドの強烈な圧で敵軍は畏縮し、カープのホームゲームでの勝率は圧倒的だった。
このスタンドが昔の川崎球場みたいにスカスカになったのだから選手はやりきれないだろう。それどころかオーナーの怒りの顔が浮かんできて、来年は俺もそろそろ戦力外かと、ただでさえ打てない選手がさらに萎縮してパコーンと力のない内野フライを打ち上げ、右打者は何回やっても懲りる事なく外角のスライダーを追っかけてくるくると空振り三振し、左打者は振り遅れることを前提にレフトに向けてチョコンと走り打ちで当て逃げする。そんな非力な男たちと同じユニフォームを身にまとって、女性たちが誇らしいと思うだろうか?
女性の大群は跡形もなく去っていった。残るのは寒々しく荒涼とした裸のスタンドである。敵軍は安心して元気になり、昔と比べてしまう選手はマツダのホームゲームなのに劣勢の空気をまとう。ああたぶん今日もうちの打線は打たないな、3点取られたら負けだな。始まる前から肩に力の入った先発投手は先取点を取られる。すると打線は打たねばと焦ってリキむ。そしてますます敵の投手の術中にはまって赤子の手をひねるようにタイミングを狂わされ力ない内野フライを打ち上げる。毎日これ。すべてが悪循環。当地のファンのみならず、そんなつまらない試合に誰が金を払うのか。年俸が高いから岡本、村上、佐藤輝、牧、清宮、浅村、柳田、山川みたいなガタイのいいのを採らない。だから4番がいない。元凶はここにある。坂倉はいい打者だが打球が上がらない。良いコーチがいればホームラン30本は軽いだろうが16本が最高だ。カープにいる4人の打撃コーチの生涯本塁打数は4人足してたったの82本だ。ここにいても坂倉の進化は無い。
その坂倉がいよいよ危機の中心人物になる。今年中に床田、森下、島内、坂倉が国内FA権を取得するからだ。この4人が出て行ったら外人と菊池、小園、秋山を除けばつい最近まで二軍にいた人と新人ばかりになる。ということは、ソフトバンクの二軍と2試合やって2試合とも12対1で負けるレベルのチームに成り下がる可能性があるのだ。ツケが回ってきたのである。そもそも素人であるオーナーが口を出すなど論外だ。その証拠に、同じことをやってる楽天イーグルスもおかしくなって、12球団ドベで交流戦を終えている。逆に何年か前に交流戦を優勝で終えた今江監督をあっさり1年でクビにしている。訳がわからない現場は士気が下がるのである。それでも口は出したい。そこで楽天はヤクルトにいた石井をGMにしている。ジェネラル・マネージャーとは何やらもっともらしいが、要するにオーナーの言葉を選手言葉に翻訳する役目、いわば江戸幕府の「側用人」である。カープの場合、ここでも経費節減の思想は貫徹され側用人はベンチに置かれている。それが新井監督だ。GMか監督か、オーナーにとってそんなのはどっちでもいいのである。しかし石井と新井は決定的に違う。石井はダメなら監督の首をすげ替えればいい。新井は自分のを差し出すしかない。
オーナーにとって最も、というより唯一大事なのは客の入りだ。経営者だから当たり前だ。つまり新井がいくら負けようと客さえ入ればいいのである(中日ドラゴンズがそれ)。ということは、川崎球場化しつつある現状は死刑宣告が近づいているということになる。しかし、ここが非常に重要だが、12球団で唯一大企業の後ろ盾のない「ファミリー経営」であるカープのオーナーには固有の弱みがある。経営の切り札といえる「監督手形」の価値が低減することだ。将来の監督ポストという手形を切って有力な選手の年俸高騰を抑止し、FA流出を食い止めて球団に留め置くビジネスモデルの根幹だからである。去年新井をクビにすれば手形の値打ちが下がると踏んだのだろう、延命させた。首がつながった新井がシーズン終了のあいさつで、「来年以降もこの苦しみは続いていくと思います」と、ファンにとっては耳を疑うが、正直者の新井には赤裸々の事実である痛ましい言葉を吐いてしまい、球場内は騒然となって怒号が飛んだ。こんなことが阪神タイガースのシーズン終了挨拶で起きたらケガ人が出て警官隊が出動していたに違いない。そしていま、心優しい広島カープファンたちは「この苦しみ」が想像を上まわる根深いものであり、「続いていく」のは来年以降どころの騒ぎではないだろうと半ば絶望していると思われる。だからスタンドは坂倉が呼びかけてもガラガラなのだ。これを選手のせいにするのは酷だ。金をかけてチームをパワーアップさせるのは球団だ。コーチングして鍛え上げるのも球団だ。 新井がひとりで護摩行と家族野球で頑張っても仕方ない。力のない選手はそれでも残る。稼げる選手はそんなチームの監督手形などいらない。だから、予定調和的にカープは力のない選手ばかりの集団になっていく。ファンはそれを悟っていた。だからすでに数年前から「カープ女子」は絶滅種になっていたわけだが、これからの危惧は球団がそうならないかということだ。
世界のうまいもの(19)「鴻元食坊」のレバニラ炒め
2026 JUL 11 0:00:28 am by 東 賢太郎
レバーという食材が大の苦手でした。あのぐにゃっとした内臓の舌触りと生臭さがたまらずに泣いて嫌がったのですが、それでも食べなさいと母がめげずに何度も出してくる。半ばトラウマになってしまい、これだけは一生食べなくても悔いがないと目をつぶってむりやり水で胃に流し込んだものです。男子厨房に入らずの家で問答無用。出されたものを粛々といただく。母のルールに背向く選択肢はありませんでした。しかし無理もなかったのです。女の子と腕相撲やって負けるぐらいガリガリで虚弱な子だったのですから。
解放されたのは大学3年になって本郷西片に下宿をさせてもらってからです。台所なし。昼は生協か森川町食堂。夜も外食。最高でした。すぐ近くにあった大鵬という超庶民的なカウンターの町中華に通い詰め、ナベ振ってる職人肌のお兄ちゃんと仲良くなります。毎日好きなものを食える!フランス革命が勝ち取った自由というものの価値を知りました。そしてある日、ふと気づいたのです。選んでるつもりが実は同じものばっかり食べてることに。成長期にそのアンバランスがまずいからお袋はああしたのか。そのぐらいの物心はつく年齢でした。そうこうして半年ぐらい経ったでしょうか、今になっても覚えてるあの日が来ます。大事件だったのです。
中華料理といえば香港の 2年半で否応なくどっぷり浸かっており、もはや外国の料理とは思えない体になってます。立場上、仕事ではひと皿何万円なんで品が並びます。高級品は基本的には珍品です。だからといって毎日食べて喜ばしいかというとそういうものでもないわけです。僕は近場の町中華のてんや物であるラーメン、餃子、チャーハンで育ちました。だからB級C級の方が好きなんです。香港でも公務でない時に九龍あたりでカエルから蛇から屋台のC級メシまで何でも食べました。しかしどういうわけか肝心のレバニラは記憶にない。もう食べられるようにはなっていたので忌避したわけではありません。ひょっとしてあれはオリジナルは中国でも日本流の町中華アレンジなのだろうかという疑問は今になっても残っています。
家の近くの大岡山駅前に東京科学大学があります。東工大がこの名前になった時はちょっと気の毒かなという気がしましたが杞憂でした。今の世の中、工業大学ではなく科学大学です。日本を代表するサイエンスの学校ですから。そんなことを考えながら夕刻に一人でぶらぶらして、校門を出入りする学生さんたちを見ていると、だんだん年齢感覚がワープして勉強したいという気持ちに駆られます。ここで宇宙物理なんかやったら楽しいだろうなあ、下宿でもして2、3年どっぷりつかってなんて突拍子もない考えが浮かんで来るのです。このトシで何でと思われましょうが、シリウスやべテルギウスでなにが起きているんだろうという好奇心に10歳も70歳もない。それだけのことです。
勉強はずっと嫌いでしたが、実はそうではなく、興味ないことばかりやってきたというのが真相でした。興味のスイートスポットが何ミクロンぐらい極小の人間がそれ以外のものを専攻しても非常につらいわけです。ど真ん中にある音楽だって関心はエンジニアリング的な和声や対位法に行ってしまい、そこに「特質」がないと退屈な音楽ということになります。ところが極めてまれですが、「それがないのに面白い音楽」というものが存在し、「なぜ面白いのかエンジニアリングできない事実」に夢中にされられてしまうそれはワンダーランドかパラダイス、寝食を忘れちまう。僕にとってモーツァルトがまさにそれであります。学問にもしそれがあるとすれば宇宙物理だったかな・・・わかりにくいかもしれませんがそういう感じであります。
ある日、そんなことをつらつら考えながら大岡山駅から北に向かう商店街を歩いていたら、そうかこの辺にもアレあるかなと探す気になりました。ずっと行ってみるとえらいケバい「鴻元食坊」というのを見つけました。 60席ぐらいの大型店で町中華のイメージとはちょっと違うがまあいいか。
席について迷うことなく頼んだら、片言の日本語で「タッチパネルお願いします」と愛想なし。水もセルフ。最近はコンビニまでレジが無人になってきて、自信ないので有人の店にしか入らない僕として不如意ではありましたが、あれこれやって無事「注文する」にタッチしました。客は学生らしいグループが何組かワイワイやっており、親子連れがひと組、少し後からスーツを着た中年の男性がひとり。夕食時なのにそんなに流行ってるという感じでもありません。奥に目をやると厨房に中国人らしい料理人がふたり鍋を振ってます。日本人の街中華ではないな、こりゃダメかなとぜんぜん期待しませんでした、なにせ香港で食べられなかったという経験がありましたからね。しかも普通の店だと定食で千円はするのにここは880円です。商売柄、何でも数字で判断する癖がついてもいたのです。ところがどっこい、ひと口食べて、これは熱々のうちに全部平らげねばとうならされました。レバーという食材がこんなに旨かったとは。今さらながら母に申し訳なかったと懺悔の気持ちさえ発してきて、こんな料理を作れる人がいるのか、大事にしなきゃいけないと痛感しましたね。
昨今は政府レベルで中国とだんだん距離ができてしまったようです。そこにあれこれ口をはさむ気はありません、政治はあくまで政治であります。一方で、我々庶民には庶民の生活というものがあります。神山先生のような人は別格としても一般の方は住みにくくなってきてるんじゃないか。僕は香港に2年半いて日本人として嫌な思いをしたことは一度もないし、欧米の大衆のほうがよっぽど不愉快なことが多かったという経験があります。ですから愛国者ではありますが一概に外国人は出て行けみたいな運動には反対です。しかもこうして市井で我々の生活に深く溶け込んで貢献してくれてる人たちもたくさんいる。思いおこせばドイツではすでに90年代前半にクルド人移民問題は大きなニュースになっており、それが今の悲惨な事態に至ってます。ひとつボタンを掛け違えると根深い問題になってしまうのです。もともと外国人が多く英語さえ話せば寛容だったあのロンドンだって、生まれた男子の名前で1番多いのがモハメッドになったと、ここまでくると放置した政府に責任転化されるのかもしれません。でも繰り返しますが、あくまで政治は政治なんです。
食べ物の好き嫌いがなくなって僕は健康になりました。体も強くなりました。何が多くても足りなくてもいけません。過ぎたるは及ばざるがごとし。何事もいちばん大事なものはバランスです。
シャルル・ルルー『陸軍分列行進曲』
2026 JUL 7 11:11:00 am by 東 賢太郎
M不動産の方が来社され、ブラジル戦残念でしたとこれを頂きました。ゴルフボールです。今の腕前だとワンラウンドで全部なくなる。使うのやめとこう。Tグループ長さん、初対面だったのですが、「もしかしてやっておられます?」と聞くと図星である。「僕はサッカーの人は結構当たるんです。ちなみに業種でもね、銀行と証券、外れなしです」。スポーツ人類学、職業人類学です。
「僕なんかほかの業種はあり得ません。証券マン以外の何者でもありませんよ。パワハラなにそれ?っていう全盛期の野村証券で毎日もまれてこうなりましたから努力しましたなんて綺麗ごとじゃないんです、強烈に仕事のできる先輩に数字でつめまくられて、そこから逃れようともがいてたらこうなったんです。野球界ではPL学園、亜大、駒大がすごかったと聞きますがサラリーマンでそのレベルときたら当時の野村しかないです。もちろん他の会社は知りませんよ、でもあれ以上やったら死人が出ますから業種不問で断言できます。ライバル会社に負けるわけねえだろって、心の底からですね」。
そうはいったものの、プラモデルはもっぱら軍艦と戦闘機だったし、今になってみるとひょっとして自衛隊に入る道もあったかなと思えているのです。文官でなく武官としてです。軍服姿の祖父の乗馬写真に憧れて育ったし、問題なかった気がします。東郷平八郎、乃木希典将軍は軍神と思ってますし米国海軍兵学校のメダルも宝物でして、ナポレオンも曹操も好き。あっぱれな大将は国籍問わず男の本能で好きなんです。ちなみに野球も戦場と思ってやってまして、ぶつけちまったり危険球でやばいこともありました。
米国海兵隊といえば楽団の第17代リーダーだったのがジョン・フィリップ・スーザでした。「星条旗よ永遠なれ」は1896年作曲。日本は日清戦争を終えた翌年でしたね。
各国に行進曲は数多ありますが、明治政府がフランスから呼んだシャルル・ルルー作曲の『陸軍分列行進曲』(1886年)こそ僕は世界最高峰と思っております。軍歌『抜刀隊』と『扶桑歌』を元に編曲したもので、前者は西南戦争で西郷軍と戦う官軍を鼓舞したもの。初演は鹿鳴館というから「君が代」と並んで日本における西洋音楽のルーツの1つです。異なる曲を接合する無理があるのですが、あえて転調しておいて絶妙な和声で縫合し、何度も聴くと慣れてしまうパリ音楽院卒のプロの技を見ます。現在では、防衛省陸上自衛隊が行進曲の一つとして使用しているほか、警察庁でも警視庁機動隊をはじめ、戦後に創設された警視庁音楽隊および各都道府県警察音楽隊により演奏されている。誠に誇らしいことです。
ベートーベン/ピアノ協奏曲第3番の悦楽
2026 JUL 6 0:00:26 am by 東 賢太郎
最近3番をよく聴きます。ひょっとすると5曲のうちこれがいちばん好きなのかもしれない。作曲はハイリゲンシュタットの遺書を書いた時期に重なりますが、唯一の短調作品であることとそれがオーバーラップしているかどうかは軽々に論じられない。なぜなら同じ境遇下で作曲され同じ日に初演された交響曲第2番がニ長調、続く3番、4番も長調だからで、主調の長短で作品を類型化するのはあんまりインテリジェンスを感じません。また、誰が言い出したのかモーツァルト24番との類似が必ずといっていいほど指摘されますが、ベートーベンがそれを演奏したという記録は存在せず、両者に同名調である以外は構造的にもハーモニックにもポリフォニックにも特筆するほどの関連性、共通点はないように思います。
1つあるとすれば、どちらもいきなり主題が出てくる点で、24番冒頭の第1主題に、旋律をなしてはいませんが十二音が出てきます。
これとの類似性というなら、第1楽章提示部に楽器は分散するがやはり十二音が織り込まれているハイドン交響曲第95番ハ短調を挙げるべきで、3番におけるベートーベンに同等の先進性への関心や執着を見出すことは困難であります。作曲順は24番(1786)、95番(1791)、3番(1803)であり、人生の命運をかけたフィガロ作曲に没頭しながらおよそ性格の異なる24番を着想していたという凡人には想像もつかぬ構造の頭脳に17年たってもベートーベンが到達できていないというコンテクストでモーツァルトの先進性が語られるなら一理ありましょう。
和声的には24番は最初の3音c、e♭、a♭が変イ長調を成しますから出だしはハ短調に聞こえない。3番のc、e♭、g、f、e♭、d、cのくっきりとハ短調である音列に近いのはむしろ変ロ長調のこれ、ピアノ協奏曲第27番第一楽章第一主題(楽譜)を短調(変ロ短調)に転調したものです。第184小節でこの主題はピアノによって短調で出てきます。
モーツァルトにおける特徴的な長調短調の変転がビジュアルにも分かりやすいのはパパゲーノの自殺の場面です。ベートーベンはこのオペラを愛好し「魔笛の主題による変奏曲」を作曲しています。
逆に3番主題は何度もハ長調に変容して登場しますが、その音列は運命交響曲第4楽章主題c、e、g、f、e、d、c、d、cになります。そして、3番第1楽章コーダ(カデンツァ直後)でピアノと低弦が運命動機のリズムを交差させます。
この音列c、a♭、f、gは僕が名づけた「アマデウス・コード」の短調版(Cm、A♭、Fm、G7)のバスに他なりません。
モーツァルト「魔笛」断章(アマデウスお気に入りコード進行の解題)
以上の意味するところは、3番は初期作品から運命交響曲に至るブリッジに位置する大作エロイカの手前の、しかし同等の危機的土壌から絞り出された作品であり、生んだ触媒はというと3番は憧れの星モーツァルトであり、エロイカは期待の星ナポレオンであった。だから3番の主題はモーツァルト主題とアマデウス・コードの悦楽から成り、運命交響曲終楽章の凱旋の主題に連なる。その勝利を脳裏に浮かべることで彼は精神崩壊の危機を乗り越えたのだと思います。内面におけるその第1歩の踏み出しはモーツァルトにこそあったのであり、外面に向けては、魔笛を思わせる長短調の交替とアマデウス・コード(これも露骨にそのままでなく短調バージョンにして)高らかに歌いあげて自分が後継者だと宣言し、ウィーンの聴衆はそのメッセージを理解したのだと思われます。
吉田秀和氏だったか(間違っていたらごめんなさい)、 3番と24番の冒頭を比べて両者の才能の差だとしている評論を読んだことがあります。ベートーベンが24番を意識して3番を書いたことを大前提としていますが、既述の通りその保証はありません。ベートーベンにとって主題は素材ですからそこにプライマリーな芸術性を求めているわけではなく、むしろアイコン性、可塑性、分解可能性が重要であることはエロイカや運命を挙げるまでもなく一生の作品を通して一貫しています。だから仮に24番を研究し模範としていたと仮定しても、目指していない点で比べて才能を論じるのは実証性に欠けます。 3番の主題は21世紀の感性からすれば洗練とは程遠いものですが、この作品で意図している独自の和声語法、たとえばトニックc、ドミナントgの半音上下へバスの拡張と転調などには十全の適性を発揮しています。結果として得られている迷宮のような和声の効果はそれまでのいかなる作品でも見られない魅惑的なもので、その着想はフランスのエラール社から贈られた新しい構造により重厚な⾳が出るピアノによる重量感を与える筆致が生んだものでしょう。緩徐楽章のホ長調は主調ハ短調と一音(b)しか重ならない遠隔調で、第2楽章が始まった冒頭の印象はそれだけでもロマン派への息吹を感じ、これぞハイドン、モーツァルトには無いものです。
というわけで3番は好きなものですからレコードとCDを36種類持ってます。このCDのPilzというレーベルは1991年に創業者が野村證券に出資の売り込みにやってきて僕が応対しました。お断りした顛末はここに書いてあります。 ブラームス ピアノ協奏曲第2番変ロ長調 作品83
結局彼は放送局などから安く買った録音を偽名で売ったことで有名になり、コピーライトは所有して法的に問題はなくてもアートにおいて購入者を欺く行為は道義的には問題でした。このPC3番に何の思い入れもなく買った場所も覚えてないのは間違いなく二束三文の値段だったからです。ところが、くっきりと覚えていることが1つだけあります。「このピアノうまいな」と思ったことです。そのギャップがずっと喉に刺さった小骨のように気にかかっていたのです。なにげなくCD棚でこれを見つけ、いよいよ聴いてみて感服した。それが先日のアントン・ナヌートの稿につながったのです。
ピアニストはDubravka Tomšič(ドゥブラフカ・トムシッチ)。初耳です。なのに調べなかった。それどころか、女性名なのに「若い男だろう」と何の根拠もなくつい先日まで思い込んでた。どうせ廉価盤の人だ。いかにも安手で深みはまるで感じさせないCDジャケットのイメージも加担してとんでもない過ちを犯していたのです。
この演奏、何度聴いても良いです。曲頭いきなりスタッカート気味に小股の切れ上がったフレージングにナヌートのリズムとテンポへの厳しい目線を感じ、フォルテで重ねるホルンに身が引き締まります。オーケストラは弦など決して上質ではありませんが、第3楽章のメリハリ、クレッシェンド、楔を打ち込むティンパニの熱量などこれが本物だと説得されてしまうオーセンティシティに満ちています。トムシッチのピアノは、現代の演奏に散見される、音楽の本質には無用である安全運転に徹する完璧さへの執着は微塵もありません。角を取って優雅に傾くこともなく武骨でさえあり、足すものも引くものもなくただただベートーべンの音楽に奉仕。そこに保たれる古木による民芸品のような味わいはこの曲の愛好者として飽くことがありません。来日したワルシャワ国立歌劇場によるドン・ジョバンニを思い出します。こういう商業主義と無縁の芸術家たちはスターダムに登ることも2千人の大ホールでブラボーの嵐を呼び起こすこともないでしょうが、そういうものは真の芸術性とは何の関係もありません。こういう隠れた名品を探し出すことに喜びを覚えます。
この録音と並行したと思われるライブがあります。ミスタッチを意にも介していないトムシッチには圧倒されるばかりで、ベートーベンの弟子カール・ツェルニーの言葉を思い出します。
「パッセージを弾きそこなったり、際立たせたい音符や跳躍をミスタッチしても、ベートーべンはほとんど何もいわなかった。しかしクレッシェンドなどの表現や作品の性格づけに関して足りないところがあると、彼は激怒した。前者はただの事故だが、後者は知識や感性、注意深さを怠っているからこそ起きる––そう彼は言った」(カール・ツェルニー著 岡田暁生訳『ピアノ演奏の基礎』春秋社より)
人生の鉄則「信頼は信頼にしか返ってこない」
2026 JUL 3 7:07:44 am by 東 賢太郎
アメリカから5人が来日。まる一日かけて大企業トップへの紹介外交。かつてはこんなのはお安いルーティーンだったが、朝8時半からずっと英語はさすがに疲れ、ランチはサラダしか喉を通らなかった。
彼らの日本での企業訪問を依頼されたのはアメリカのパートナーからだ。パートナーとは契約関係だ。案件は協力して仕上げて利益の取り分も半分ずつみたいな取り決めが書いてある。厳密に対等にやるにはジョイントベンチャーを作って株式を50%ずつ持つが、パートナーは出資不要で業務委託と違って対等な関係であり、お互いに異なった強みがあるから1+ 1が2以上になってウィンウィン関係になるという両者の認識が大前提である。難しいのは協力といっても努力目標だから、相手に2倍働かされるようなことが続けば簡単に打ち切れる。つまり信頼関係なしではうまくワークしないのだ。
相手として僕は英国人と米国人しか経験がないが、商取引の法体系が整備されている先進国ならまず問題はなく、あるとすれば法律とは関係のない信頼関係の部分だけだ。例えば今回の5人のテイクケアだ。僕は商売の当事者でないからアポ入れして同行して通訳程度のサービスをすれば最低限オーケーなのだが、それなら事務作業ができる人で充分だ。僕を使えば依頼者は儲けの半分をふんだくられるわけだからめちゃくちゃ高い。したがって、利益総額が大きいからそれでもいいよという場合に限って来るのであり、当方も総額が小さい場合は遠慮する。これは億単位が当たり前の金融取引だから成り立つビジネスモデルである。
ソナーが長年かけて国内のお客様と多様な取引実績を積んでいるという信頼で外国からパートナー依頼があり、彼らは商品やサービスを日本に持ってくる。それを日本の大企業に持ち込んだり、日本のお客様が投資したりすると、今度はそれが新たな国内取引実績という信頼となり、さらに海外パートナーの呼び水になるというプラスの循環になる。といっても金融は黒子であって地道な1つ1つの案件の積み重ねである。大元はファウンダーの僕が米英独スイス香港にいた経験から発したものではあるが、創業から16年の信頼はもう僕のものではなくソナー・アドバイザーズという法人のものである。
ビジネスのエッセンスは信頼関係だ。それを築くには時間がかかるが失うのは一瞬だ。信頼はメンテナンスが必要だということも意外に知られていないが、お世辞や贈り物は役に立たない。信頼は信頼にしか返ってこないからである。信じてくれた人には信頼でお返しする。これは自分が信頼するに足るまともな人間であるという雄弁な証明であり、信じてくれた人を裏切るような人間は世界中で誰も信用しない、これはイエスキリストを裏切ったユダに代表される地球上例外のない人間界の公理である。
例えば、
①先日高市総理を裏切ってポストをやめた女性がいたが、信頼して投票してくれた国民までをも裏切っている。理由は何であれこういう人間に対して信頼を返すことはあり得ない。よって、国会議員はありえず政治生命は終わりである。
②自衛隊は貧しい家の子が行くと国会で堂々たる差別発言をした者がいた。隊員は国民の信頼を背負って国を守る仕事についてくれている。災害の時、ミサイルが飛んできた時、信頼に差別を返しているこの女性を隊員が守りきれない事態が発生しても誰も批判しないだろう。
③少数野党。意見が通らないからといって国会に出てこず審議をボイコット。わけわからん理由で総理が悪いとごねる。悪いのは選挙でボロ負けした自分たちでしょ。テストが赤点でむくれて不登校になった「困ったちゃん」だね。君たちはこのまま有権者の信頼を裏切って終業式まで家で寝てたらいいよ。全員退学処分でも学校は困らないから。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
今の子は憧れは憧れで終わり『推し活』する
2026 JUL 2 1:01:25 am by 東 賢太郎
どういうわけか先週あたりに書いたブログが消えてます。仕方ないので記憶に頼って再現します。
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「今の子は憧れは憧れで終わり、そこからは『推し活』するんです。これって新興宗教みたいなものです」
思いつきのビジネスプランをふた回り以上も年下の後輩が軽々とぶち壊してくれました。生半可でやると大失敗するリスクがあるんです。こういうことについては彼は僕よりもずっと知見があります。ありがたいことです。
「アイドルを神格化しちゃうってこと?」
「いえ神様みたいにあがめるんじゃありません。ファンではあるんだけどただのファンじゃないんです。願望や夢をアイドルやスポーツ選手に託して実現すると自分は正しい、意味があるって思えますよね、それが自己の存在確認になるんです。実は自分のためなんです。おひとり様化が進む社会の中で、心から信じられる何ものか、大事な自分というものを投影できる何ものかに所属していたいんですね、けっしてそうではない組織とか会社じゃなく」。
「新しいアイデンティティの出現かな。ファンの法人化というか」
「経済的利益を求めないからNPOですね。でも達成感という心の利益は求めてますから思いの実現には積極的で多大なエネルギーも投入します。だから似た者たちが自然に結びつくんです。誰かが布教してるわけではなく自発的なものだから、宗教には近いんですが既存のどれでもない。だから新興宗教ってわけです」
「なるほど、合点がいきました、ありがとう。俺もビートルズファンだしカープファンだけど、それで知らない人と結びつくってことはなかったな。 SNSの影響は大きそうだね」
「ありますね。それと結びついた新しい現象ですね」
「でもそれがあるから憧れは憧れで終わっちゃうってのは人生ちょっと寂しくないか?俺だって団地っ子だったし両親は普通の人だ。家に金もなかったしコネや引きもなんにもなかったけど」
「わかってます。でも、こう言っては何ですが、東さんの頃は時代がそれを許したってのはあるんです。だって一億総中流だったじゃないですか。いまは生まれつきディバイドの世の中です。たくさんの子が夢や憧れを実現しようと頑張ってますが、アッパーじゃないと100m競争でスタートラインの10m後ろから走るみたいなもんなんです」
「確かに俺の頃はスタートラインは一緒だった気はするね」
「でも推し活じゃ社会的な影響力はないですよね」
「あるよ。高市推し活がいい例じゃないか。自民党が330議席取ってぶっちぎり勝利した異例のエネルギーは背後でそれが後押ししたからかもしれないよ。若者は選挙カーで名前を連呼しても動かないよな。インフルエンサーがSNSで発信するとたちまち10人が読む。それをまた10人が読んであっという間に100だ。都会だけの現象じゃない、全国津々浦々でそれが起きたんだろうね」
「SNSの威力ですね」
「まあそうだけど、その言い方は軽い。ネット上の波動と呼んだ方が正しいね。 SNSなら何でも広がるわけじゃない。最初の発信者が波を起こすんだ。倍々ゲームで伝わるけど末端ではだんだん減衰もするから、最初の波が大したことないと掛け算した値は小さい。だから最初の波が高い時だけ、君の言うSNSの威力が出現するんだ。高市推し活の最初の発信者は高いエネルギーを持っていたから波動がでかく減衰もしにくい。だからバズーカ砲ぶっ放したみたいなど迫力の威力があったんだと思うよ」
「そこを政治家はわかってませんね」
「見事なほど全然わかってない。ただSNSに載せればいいって盲信してる。それってね、田舎の田んぼにコンサートホール作ってウィーン・フィルに来てもらえば文化都市だって思ってる箱もの行政みたいなもんでね、もうそれだけで文化の香りのかけらすらない」
「高市秘書が誹謗中傷メールを送ってとんでもない!って国会で騒いでる連中もそうですね。中身はともかく効果があるんだと盲信してるからその手を使ったわけでしょ?」
「効果を信じてないと『とんでもない!』って結論にならんからな。しかもそれが週刊誌の記事ごときであって、おまけにおおウソでしたというんだ。これから逆バズーカ砲炸裂になるぞ。実は頭もバカでしたと永遠に語り継がれるお笑い事件になっちゃうという意味で歴史的なスキャンダルだね」
「なるほど、悪いレッテル貼って敵を貶めるのは伝統的な共産党の手法として世界的に有名ですが、推し活やってもらってる人にそれをやるのは危険なんですね」
「うん、推し活なんてものは歴史的になかったから効果もリスクも検証されてないという意味で危険だな。リスクっていうものがわかってない人たちが国会議員で国のかじ取りをしてるっていうのは国民のリスクだってことを有権者が気づいたろう」
「もっと危ないのは、そのわかってない連中が自分がそうやって痛い目にあったからといってSNSは危険だと規制することですね」
「そういうことだね。推し活にレッテル貼るもう1つのリスクはね、推し活してる人たちは信者だから敵に回すと怖いってことだ。日本人は喉元過ぎれば熱さを忘れる国民性だけど信者は違う。末代まで呪われるよ。次の選挙で落選運動ぐらい平気でやられる」
「それ何となく体感あります、だって偽メールでいじめられたら支持率上がってますからね高市さん(笑)」
「そうだろ。新しい総理大臣ってな、国会であーだこーだやられて会期が終わる頃には支持率が下がってるもんなんだ。高市さんはその前例に逆行してるってこと。ということは前例のないものが支えてるってことだよ、論理的に」
「やっぱりSNSの乗数効果じゃないですか」
「そうね、10×10×10ってべき乗で増えるからな」
「でも偽情報も混ざりますよね」
「関係ないよ。発信者も受信者もノーコストだからね、総数は膨大になるでしょ。だから受信者の目はすぐ肥えてきて真贋を見抜く。受信者には賢い人、インテリジェンスのある人がたくさんいる。すると自然に選別が進んで質の悪い発信者ははじかれ良質のインフルエンサーだけが残る。今のインフルエンサーはね、それで飯を食おうっていう不純な輩や業者まがいも多いんだ。そんなのはオールドメディアの化身に過ぎないからいずれ金で政治に取り込まれて汚れてきたりする。利害関係ぬきで無料奉仕で真実を発信しようという人が増えてくると価値がなくなる」
「それは必然でしょうね、なんたってノーコストはでかいですよ。総数が増えるってことは読者数や視聴率が増えるってことです。すると広告主もそっちに流れます、これ経済原理ですから止めようがありません。プラットフォーマーはノーリスクで儲かるから永遠に発信者、受信者フレンドリーでノーコストにします。したがってこの流れは止まりません。止める法律も作れません。オールドメディアはどうあがいても運営に巨大なコストがかかります。だから広告主が逃げるのが致命傷になってゲームオーバーの日が来ます」
「明快なロジックだね。その通り。いずれ経営破綻で身売りするか不動産屋に鞍替えするよ」
「政治家もそうですよね」
「そういうことだね、有権者に対する不断の発信が求められるね、選挙期間中だけじゃなく。くだらない飲み会やってる暇があるならそれをやれと言うこと。SNSで眼力が鍛えられた国民は当然にそれを求めるよ、3000万円も給料払ってるんだからね。したがって政局だけで食ってる奴はカンブリア紀の原始生物みたいに選挙で全滅するよ。化石が出てきてね、おお昔はこういう変な生物がいたのかみたいに歴史に刻まれるさ。生き残るモデルケースが高市早苗だよ、徹底的に勉強して官僚より政策通で自分で法律まで書けて秀逸な外交力がある。フランシス・ベーコンの『知は力なり』さ。女性総理がどうのこうのなんて誰も言わなくなったでしょ、国内でも海外でも。あたりまえだよ総理大臣に能力以外の何が要るの?」
「東さんのその主張が一貫していることはよく存じております。 20年前から変わりませんね」
「変わろうたって変わりようがないんだよね、だって俺はそれが真実だと思ってるからさ。ひと晩寝たらオリオン座の形が丸くなってましたなんてことないだろ」
「はい、自分も信ずるものはあります」
「まあ灘高で2番だった君の前でおこがましいけどさ、ご存知の通り俺は帰納法で考えるように生まれつき頭ができてるみたいだからさ、正確に云うと反証が見つかるまでは変わりようがないんだよね」
ご参考までに、こういう問答の末に、この極めて優秀な後輩は思いつきのわがビジネスプランを粉々にぶち壊してくれたのです。僕にとってのビジネスは共産主義の方と違って資本家が労働者から搾取して利潤を生み出すものではなく、いとも簡易な方程式なのです。それは常に正しい(というか、それが正しくないようなものはそもそもビジネスと呼ばない)から問題点はそこではない。式にくっついている係数が間違ってますよという指摘、それが本稿のタイトルである「今の子は憧れは憧れで終わり『推し活』する」だったのです。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。















