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グラウンドで出る「男の器量」

2017 AUG 17 12:12:04 pm by 東 賢太郎

ネットに「カープ福井、インスタで炎上」とあって何かと思ったら、福井投手が巨人戦のきわどい判定に不満を示すような写真をインスタグラムに投稿して「女々しい」などと批判されたらしい。

久々の先発で満を持して臨んだその試合、4回までは素晴らしい投球だったが、たしか坂本へのナイスボールを「ボール」と判定されて次に打たれた。そこから一気に崩れだして大量失点してしまったのがよほど悔しかったのだろう。

でも勝負はキレた方が負けだ。僕は人に言う権利はない、「歯を見せるな」と先輩に厳命されたのはすぐ顔に出るからだ。30年ぶりの高校の同窓会で二塁手だったOくんに「東、あの時悪かったな」といきなり謝られたのがそれだった。

あの時といっても大昔だ。1年の秋季大会、背番号1で初の公式戦マウンド。ショートゴロで楽勝ゲッツーのトスを彼がぽろっとやって、その時僕ががっくりきてなんだよという顔をしたらしい。らしいというのは、覚えてないのだ。

相手は甲子園クラスの強豪校(国学院久我山)で、たしか3、4回まで0-0だったが結局打たれて9-0で負けた。あのエラーでと思っていたからOくん、30年も気になって「ゴメン」だったんだろう。

キレて打たれた僕の方が圧倒的に悪いじゃないか。しかもそこまで怒っておいて完全忘却してるとはなさけない。申しわけない。審判に怒った福井も反省だがチームメートにそうした僕は重罪だ。

そういえばきのうの広島・阪神で久々に先発した藤波がおかしかった。ええっ?というほど。春夏連覇で高校生は誰も打てなかったあれほどの投手がどうしちゃったんだろう。投球動作に入ってタマを落っことすし、右打者に2回も顔面に向けてデッドボールだ。イップスでもなったか?ハートは大丈夫か?心配だ。

2回の表。手元が定まらない藤波は143kmの直球を投手の大瀬良の左肩にぶつけてしまう。あやうく顔面の球だった。倒れこんだ大瀬良。投手に当てちゃいけないのは不文律である。両軍、スタンド、異様な雰囲気になり、乱闘の緊張が走った。ところが大瀬良は起きあがるとすぐに藤波に笑顔を見せた。呆然とする若い捕手・梅野まで大丈夫だよとねぎらって一塁へ行った。

2か月半も二軍調整だった期待の藤波を「選手生命をかけて投げろ」と送り出した金本監督は、5回の途中で彼を降ろした。被安打7、与四死球7だが失点はまだ3で、しかも次打者は9番大瀬良。あと1死でひと区切りの5回完投だ。それなのに、8番石原に顔のあたりの抜け球で四球を出した、その瞬間に見限った。「ああしてくれた大瀬良に当てたらいかん」の男の心遣いを感じた。

たかが野球というなかれ、人間の生き様はこういう真剣勝負の中で浮きぼりになる。福井は女々しいと言われてほしくないし、藤波はあそこで替えられた生涯の屈辱をばねに復活してほしい。そして、大瀬良、金本を「立派な男だ」と思ったその僕はというと、問答無用で、二人ほど器量のある男ではないということになるのだ。中学から一緒に戦ってきたOくんの美技で助けられたことが何度あったか。グラウンドとはそういう所だ。

 

「オズマ」に戻った九段高校同窓会

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ホリエモンの「多動力」と「独りぼっち」の関係

2017 AUG 16 18:18:45 pm by 東 賢太郎


堀江さんには悪いが僕はこの本を買ってない。僕はバカな人の本は読まないがそうではない、本屋でさっと目次を見てそれでわかってしまうぐらい僕が日々していることで、これからやろうとしている大計画でもあるからだ。

「多動力」とは何か。それは、いくつもの異なることを同時にこなす力のことを言う。IоTはありとあらゆる「モノ」がインターネットとつながっていくことを意味する。すべての産業が「水平分業型モデル」となり、結果〝タテの壁〟が溶けていく。この、かつてない時代に求められるのは、各業界を軽やかに越えていく「越境者」だ。そして、「越境者」に最も必要な能力が、次から次に自分が好きなことをハシゴしまくる「多動力」なのだ、と彼は書く。まったく同感だ。

昭和世代の特に役所や大企業のエリートでなるほどと思う人はいても実践してる人は少ないだろう。僕がこう書いたのは伊達や酔狂でも独りよがりでも何でもない「独りぼっち」が独り勝ちの時代)、意図してではないが気がついたらネット社会の恩恵をフル活用していたのであって、自分が管制塔になって指示を飛ばすという「経営という作業」にこれが最も効率的だった。それは、書いたように、便所掃除をしながら経験的、実験的に、帰納的に知った。

僕の仕事はスマホさえあればワイキキ・ビーチでも野球場でもトイレでもどこでもできる。だから「会社」や「事務所」は実は要らない。ということは通勤時間が無駄だから理想的なのは家であり、自宅の一部は執務室にして朝方と土日休日はそこで仕事している。「独りぼっち」と書いたが弁護士、会計士、税理士らがいて、彼らはパートナー(社員ではない契約でつながった仲間)と呼ぶ。各々の専門分野で彼らが信用できるから僕は構わず大事な部分に鋭く集中できるというWIN-WIN関係だ。

第1章 1つの仕事をコツコツとやる時代は終わった
第2章 バカ真面目の洗脳を解け
第3章 サルのようにハマり、鳩のように飽きよ
第4章 「自分の時間」を取り戻そう
第5章 自分の分身に働かせる裏技
第6章 世界最速仕事術
第7章 最強メンタルの育て方
第8章 人生に目的なんていらない

以上が目次。まったくその通りだ。重厚長大企業で儒教にそまって論語だ師の教えだで育った人には宇宙人だろう。しかし宇宙は物凄い勢いで膨張する。

・自動運転が進めば、もはや自動車の形である必要はなくて、ただの移動するイスになるかもしれない。そのとき、自動車業界もインテリア業界もタテの壁はなくなる

・フジテレビのライバルは日本テレビではなく、恋人からのLINEになる

・あらゆる産業のタテの壁が溶けていけば、今までの経験や肩書きは通用しなくなる

・「越境者」に最も必要な能力が、次から次に自分が好きなことをハシゴしまくる「多動力」

・「1つの仕事をコツコツと」では負け組になる

・80点取れるものをいくつももっている人が強い

・一流の寿司店になるための情報や技術などは専門学校でちゃちゃっと身につけてしまうことができる

・これからは旧態依然とした業界に「オープンイノベーション」の波が来て、情報それ自体の価値はなくなる

・僕の代わりをしてくれる人はどこにもいない。だからおもしろい仕事があちこちから舞いこむ

彼も「お独り様」なのだ。

 

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「さよならモーツァルト君」のプログラム・ノート

2017 AUG 15 23:23:29 pm by 東 賢太郎

去る5月7日、午後2時より豊洲シビックセンターにて行われたライヴ・イマジン祝祭管弦楽団第3回演奏会「さよなら モーツァルト君」のプログラム・ノートを公開させていただきます。あれから3か月あまりたち、当日来場できなかった友人にこれを差し上げてますが、クラシック好きとはいえ自称?でありまじめに読んでるかどうかあやしい。それならもっとお詳しいであろうブログ読者のお目にかけたほうがいいと思った次第です(クリック3回で拡大できます)。

本演奏会は評判が良かったようです。動画会社NEXUSのスタッフ3名が完全収録しておりますのでyoutubeへのアップロードも考えられましたが、奏者全員のご許可は得られなかったということで断念しました。僕のトークとピアノはこれが最初で最後なので動画は保存してもらいます(見ませんが)。

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世界のうまいもの(その11)-スパゲッティ・ナポリタン-

2017 AUG 14 13:13:11 pm by 東 賢太郎

スパゲッティ・ナポリタンという料理がナポリにないのはよく知られている。ナポリどころか、イタリア料理にはそもそも砂糖入りのスパゲッティは存在しないそうだ。アメちゃんの甘ったるいケチャップをオラが誇りのパスタにかけるなんてハンバーガーと混ぜこぜだぜ、許しがたい暴挙だよとイタリア人がテレビでけっこうマジメ顔でいっているのをききながら、僕はむかし香港で見かけた「ウナギ・ラーメン」を連想していた。もっとも注文する勇気はなかったが。

80年代にマンハッタンの寿司バーで初挑戦したカリフォルニア・ロールなるものに複雑な顔をしていたんだろう、「お若いの、ここはニューヨークなんでね、でもロスのは絶品なんだよ、行ったら食いねえ食いねえ、なんたって本場だからね」と隣の席でマグロのニギリをナイフ・フォークで食ってたカリフォルニアンとおぼしきおっちゃんが教えてくれた。食文化というのは面白い。面白いけど他人のセックスといっしょでジェントルマンは笑っちゃいけない、みんなそれなりにマジメにやってるんだ、奥深いと書いておこう。

スパゲッティ・ナポリタンなる料理は終戦後に米国から横浜に入ったときくが、詳しいことは知らない。アメリカン・パウダーがメリケン粉になった流れだろうか。英語の分際で素直に「ナポリタン・スパゲッティ」でいいのに何を気取ったのかちょっとハイソ感だしたかったのか、形容詞を後にするラテン語風の語順だ。そこまでオスマシしながら日本で思いっきりB級フードに定着していったなんて素晴らしい、ビートたけしがコマネチをお笑いネタにしたようなもので江戸庶民を源流とする我が国のサブカルチャー精神のしたたかさを感じるが、米国東海岸でもスパゲッティなんてのは貧しくて英・独・仏移民にいじめられてたイタリア移民の食い物であって、その昔スペインが支配してたナポリにトマトが上陸した、その流れの末裔と思われるから、遠い東洋の異国でお里に帰ったと思えないでもない。

ご存知かどうか、隣国に「ブテチゲ」(部隊鍋)なるC級フードがあって、朝鮮戦争で米軍と韓国軍の兵士が共同生活の中で手持ちのレシピを一つの鍋にぶちこんだものといわれる。唐辛子スープに肉、野菜、豆腐がはいり、米軍のウィンナーソーセージそして韓国軍のインスタントラーメンが合体するが、それはないだろみたいな無粋なことは誰もいわない。おいしいからだ。いまやB級ぐらいにはランクアップしていて、かく言う僕だってソウルへ行くと必ず一度は食べ、ラーメンは替え玉する。そうか、ナポリタンは伊国、米国のレシピぶっこみの合作みたいなもんだ、そう思えばいい。

そうやって何だかんだいいながら、僕はナポリタンの根強い愛好家である。いや、この下町風情のサブカルフードを愛することに誇りすら覚える。子供のころ「お子様ランチ」が出てくると国旗の立ったライスの横にそれが小さく盛り付けられていて、そのケチャップがライスになじんだ部分が好きだった。家は必ず朝にパンと紅茶で一日が始まる洋食系で、魚が苦手だったせいかナポリタンはお袋の定番のひとつだった。のちに和食を覚えたが、だからといって忘れるはずがない。今日はおごるよ、九兵衛の寿司とどっちでもいいよとなって、迷うことなく駅地下食堂のナポリタンを選択する可能性が三度に一度ぐらいはありそうなハイレベルな所に位置している。

そこまで惚れこむには根強い刷り込みのルーツというものもあって、学生の頃、衝撃を受けたこれ(右)だ。宙に浮くスプーン!持ち上がったアツアツの麺から湯気が立ちのぼっているようで、味はもちろんケチャップの甘い芳香、ハフハフいいながら口に放り込んだ食感までがよみがえって、そそり方が半端でない。このリアリティーへのこだわりたるや、英国の名器で原音再生への高忠実度を売りとするB&Wのダイヤモンド・ツィーター付きスピーカーの精神を彷彿とさせるものである。大阪では喫茶店にまでこれがドドーンとあって、朝から外交に出ても昼が待てずにモーニングセットに釣られてふらふらと足が向いてしまう罪な奴であった。

さて、きのうは従妹がビジネスの相談にのってよと旦那様と家にやって来て、ワインとつまみだけで中途半端な時間に帰ったものだから夕食はどうしようかとなってしまった。そこで天啓のようにひらめいた(というより急に食べたくなっただけだが)のがナポリタンであり、どうせなら自分で作ってみようという意欲がむくむくとわいた。きっとそれがどうしたのというほどのものなのだろうが、恥ずかしながら僕はインスタントラーメン以外は自作したことがない、いまどきレアな男である。

娘の指導で玉ねぎ1/2個、ウインナーソーセージ2本、ピーマン1個を切り、フライパンでオリーブ油で炒めた。これが感動ものだった。この炒(チャオ)という強い火力で水分を中に残しつつささっといためる行為は中華料理の基本ときいたことがあって、そこに秘儀の如き奥深いものさえ感じており、人生で初めてやった手ごたえはひとしおである。ハムは使わない。ウインナーのブテチゲを思わせるB級感が望ましいからだ。あとはスパゲッティ130gを5分ゆでて水を切ってそこに入れ、ケチャップをかけてまぶして10分ほどでおしまい。


結論として、我ながら満足な出来であり(左)、これなら駅地下で出てきても文句は言わんと最大級の自画自賛を娘に送りつつ、10分で皿は空になったのである。ナポリタンは偉大だ。米国に敬意を表しつつこれからはスパゲッティ・アメリカーナと呼ぼう。

 

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時間が足りない

2017 AUG 13 12:12:35 pm by 東 賢太郎

きのうは久しぶりに拙宅のピアノ2台の調律をお願いしました。僕は忙しくて何か月も触ってなかったのですが、娘の要望でいつもお願いしている調律センターの白田さんをお呼びしたものです。白田さんはライヴイマジン吉田さんのこのブログにある宇都宮先生のお弟子さんですね(調律師 宇都宮さん)。

試奏は指が覚えてたモーツァルト・ジュピターとハイドン98番の引用部分など。なるほどと「さよならモーツァルト君」の話にも興味を持っていただきました。豊洲のファツィオリは調律がフラットぎみだ(高音部の上りが少ない)ともおっしゃっていて、田崎先生のご指摘に符合してました。

さてせっかくだからとその辺を見渡して、たまたま椅子にあったブルックナー7番を適当にやってみるといいわけです。これさっぱり弾かなくなっていたのは難しいのもあるけれど調律のせいかもしれません。いかん、ここでまたブルックナー界に迷い込んでしまうと時間が・・・なんせ長いから聴くだけでやばい。

甲子園はなるべく見たいしカープ戦は必須だし仕事は9月が千秋楽だし、きのうは家族で自由が丘のエル・ペスカドールでいつもながらマダムのおすすめ料理で束の間のスペイン気分になってもみますが、できればどこか1か月ほど絶海の孤島に引きこもってもみたいところにきています。時間がないです。

 

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トスカニーニはパワハラか?

2017 AUG 12 7:07:42 am by 東 賢太郎

昭和の昔にパワハラなどというものがあったら僕は真っ先に会社をクビになっていたろう。しかし仕事で罵倒したり罵声ぐらいはいくらも飛ばしたということであって、職場の地位・優位性を利用して人心にもとるよからぬことをしたことはないし、仕事では自分に対しての方がもっと厳しかったという苦しい言い訳ぐらいはある。

元々そういう性格だったわけではなく、中学あたりまでは他人には強くいえない弱っちい情けない子だった。そうでなくなったのは高校で体育会に入ったせいかと思っていたが、先輩の問答無用の命令と服従、あんなもんがそんなにいけないか?と疑問に思わないでもない。いかなる戦うための組織においても軍規は必要で、それがあそこでは長幼の序であっただけとも思える。

高校あたりから弱い子でなくなったのは、多分、早生まれで体が小さいコンプレックスがずっとあったのが身長が追いついて吹っ切れたからだと思う。要は喧嘩をしても負けない気がしてきて、しかもすぐエースになったから心持ちが大逆転もした。逆に投手はつきあう野手は捕手だけで周囲はあまり関係なく、上級生になっても後輩に命令した記憶もなければもちろん体罰などしたことはなくて、体育会だからパワハラ的性格になったということは多分ない。俺は弱くないと思えたことこそが大きかった。

ただ軍規は染みついた。「グラウンドで歯を見せるな」という相撲界みたいのがあったが、昨今の甲子園を見ているとよく選手が笑ってる。戦場感覚はかけらもなくなって、プロ選手が「いい仕事しましたね」などとほざく感覚に呼応している。昨日など打席でにやにやっとしたのがいて、「次のタマ、あいつの顔面狙うな、俺なら」と口にする。そんなの僕には条件反射である。すると「そんな時代じゃないわよ」と家内におこられる。そういうのまで今やパワハラまがいになっちまうんだろうが、軍規違反に対する制裁はこっちだってやられるから弱い者いじめとは全然違うのだ。

吾輩は化石のように古い男なんだろうし女性軍を敵に回すのは本意でもないが、パワハラにはどうもフェミニズムの男社会への浸食を感じるのだ。軍規の第1条でレディ・ファーストにせいみたいな感じで、母親目線でウチのかわいい子に規律は少なくしてちょうだい!なんて勢いでゆとり教育が出てきてどんどん子供をバカにしてしまう。そのうち軍規に人殺しはいけませんなんて書かれるだろうと隣のミサイルマニアが待っていそうな気がしてくる。

「職場の地位・優位性を利用」するのがパワハラの要件らしいが、それはそもそも、それ自体が男原理の本筋を踏みはずしているというものである。近頃は女も猛猛しくこのハゲなどと罵倒もするようだが、女の気持ちは代弁する自信がないのでここは男に限定させていただくなら、パワハラは地位や優位性を手にして初めて強くなった気がしているような、要は力のない恥ずかしい男がするものであって、モテない男がセクハラといわれやすいのとお似合いのものだろう。男の嫉妬は女より凄まじいとよく言うが、それの裏返しともとれる。男原理で動く男は地位があっても弱い者いじめなどしないし、嫉妬はするかもしれないが負けて悔しければ自分もやろうとするだろう。

横浜DeNAベイスターズは契約でそういうことにでもなってるんだろうか、負けても必ず監督のTVインタビューがある。あれは軍人に無礼極まりない。「敗軍の将、兵を語らず」は立派な大将の不文律であって、戦況をべらべらしゃべるような軽い奴に兵隊は誰もついてこないのは万国共通の男原理というものなのである。これは理屈ではない。アメリカは勝ったってしない、まして怒り狂っている敗軍の将にマイクなんか向けようものなら殴られるだろう。あのテレビ局のお気楽な「お茶の間至上主義」、「局ごと女子アナ感覚」は平和ボケニッポン独自のものであって、フェミニズムの浸食に力を貸している。

僕は指揮者アルトゥーロ・トスカニーニの作る音楽を好んでおり、ミラノへ行った折、敬意を表して息子と墓参りをした。演奏家より作曲家がえらいと信じてる僕として、プッチーニ、ヴェルディの墓は参ってないのだから異例なことだ。彼のプローべは戦場さながらであり今ならパワハラのオンパレードである。これをお聞きいただきたい。日本のかたはどこか既視(聴)感があるが、「このハゲ~!!」ならまだかわいい、「お前ら音楽家じゃねえ~!!」だ、これを言われたらきついだろう。

この戦果があの音楽なのだ。プロとプロのせめぎあい。何が悪い?彼が指揮台を下りても楽団員を人間と思ってなかったかどうかは知らないが、棒を持ったらきっと思ってなかっただろう。こんな男の人間性ってどうなの?と女性やフェミニストに突き上げられそうだが、しかし、それと同じぐらいの度合いで、他の指揮者は僕にとってメトロノームとおんなじだと言いたいのである。ベートーベンの交響曲第1番は彼以外にない。ほかの指揮者のなど聞く気にもならず、全部捨ててしまってもいい。そんな演奏ができる指揮者がいま世界のどこにいるだろう?

僕はレナード・バーンスタインのカーチス音楽院のプローべを彼のすぐ後ろで見ていて、和気あいあいにびっくりした。客席にぽつんと一人だった僕がコーク片手に彼のジョークを一緒に笑っても問題なかった。同じ位置で見たチェリビダッケのピリピリはトスカニーニさながらで、目が合っただけで睨みつけられた彼にそんなことをしようものなら大変だったろう。そして、そこで緊張しまくった学生たちが奏でた音!あれは一生忘れない。カーネギーホールの本番で評論家が今年きいた最高の管弦楽演奏とほめたたえたドビッシーが生まれていく一部始終を見たわけだが、細かいことは覚えていないが、そういうテクニカルなことよりもあの場の電気が流れるような空気こそがそれを作ったのだろうと感じる。

トスカニーニは男原理の最たる体現者である。そういえば彼の時代のオーケストラに女性はいなかった。彼は理想の音楽を作るためにすべて犠牲にして奉仕し、だから、今日のボエームがお前の一つのミスで台無しになったと本番の指揮台を下りても怒りが収まらずにホルン奏者を罵倒した。立派なパワハラ事件になり得るが、ホルン奏者はそれで頑張って次はいい音を出して納得させた。ボスの完全主義と美に対する執念には団員の理解があり、そういう言動は彼の個性であり強権による侮辱やいじめと思ってなかったからだろう。それはきっと、トスカニーニの世紀の名演のクレジットはオケの団員だって享受して、名誉と生活の安定を手に入れられたからである。男原理の男はこうやって職場の地位・優位性ではないところで人を動かせるからパワハラ事件にはならない。人事権がないと何もできない男、女々しい奸計でポストを登った男はボスにはなれないのである。

ベートーベン交響曲第1番の名演

 

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ショパン 練習曲集 (作品10、25)

2017 AUG 11 2:02:25 am by 東 賢太郎

自分の音楽史を回顧するわけではないが、最近、若いころ聴いた録音を聴きかえす機会が増えている。そこにはおふくろの味のような、遠い記憶にそっとよりそってくる暖かいものがあり、どこか生き返った心持ちを覚えるのだ。

いまの僕がショパンの熱心な聞き手でないことは何度か書いたが、クラシック入門したてのころはもちろんショパンの門をくぐっている。ソナタ3番やスケルツォ2番に熱中もしたし、ほとんどの曲は耳では覚えているかもしれない。


初めて惹きこまれた、というより衝撃を受けたのはDGから出たマウリツィオ・ポリーニのエチュード集(Op.10&25)(72年盤)だ。大学時代か。この演奏を何と形容しよう?フィレンツェのアカデミア美術館でミケランジェロの最も完璧な彫刻と思う「ダヴィデ像」を見て、ポリーニ盤の印象とかぶってしまい、それ以来これ(右)が浮かんできてしまう。彗星のように現れた若手によるピアノ演奏として、これとグールドのゴールドベルク変奏曲55年盤は東西の横綱、人類史に残る文化遺産だろう。

一時期、これとホロヴィッツのスカルラッティ、リヒテルのプロコフィエフなどが僕の「うまいピアノ」のスタンダードを形成していた。といって僕がピアノを弾けるわけではないのだからそれは単なる印象だ。印象というものは時により変化するものであって、決して何かを判断する基準にはなり得ないと思う。だからメカニックな技術に耳を凝らしてみることもずいぶんやった。

今回、ポリーニのエチュードを聴きかえして、やはり「うまい」と思った。作品10の第1番ハ長調でいきなり脳天にシャワーを浴びる。第5番変ト長調(黒鍵)や8番ヘ長調の指回りは唖然とするしかないし、第7番ハ長調のクリアな声部の弾き分け、作品25の第6番嬰ト短調のトリル、第10番の両手オクターブなど、ピアノ演奏の技術を体感できるわけではない者にだって何か尋常でないものを悟らせる。

しかし、ポリーニはもっと若いころの録音(1960年盤)があって、それと聴き比べると思う所があるが皆さんいかがだろうか?

彼は12年前からうまかったのだ。但し「革命」の左手など彼にしてはどうして?というレベルでもあり、72年盤に至ってすべての部分でテクニックはさらに凄味を増してくるのだ。しかし彼の進化のベクトルの方向性はそちらにあり、例えば「別れの曲」や第6番変ホ短調の抒情、哀愁、歌心において特に深みが増したようには思えない。

ちょっとちがう。純水のように磨かれているが無機的、無色透明であって、いまの僕は水に澱(おり)が欲しいなと思う。音楽の養分、有機物とでもいうか、そんなものだ。作品10,25を練習曲という側面から突き詰めるとここに行きつくだろうという意味でそれは長所でこそあれ何ら欠点ではないわけでミケランジェロに浪漫を求めても仕方ない、単にこちらが年齢を重ねてしまったということなのかもしれない。

もう一つ、僕がアメリカにいたころ聴いておなじみになった演奏がある。1976年録音のアビー・サイモン(左、1922-)の演奏だ(VOX)。試しにこれをかけると、やっぱりこれだ。技術のキレ味はポリーニと異なって誰の耳にも容易にアピールする鋭利な感触はまったくなく(しかし同じほどの妙技が秘められている)、さらには心にじんわりと迫る歌と抒情があって、こういうショパンならもっと聞こうかなとなる。アビー・サイモンが日本で知名度がないのは驚くべきことで、批評家は何を聞いていたんだろう。思うに彼が米国人でありVOXも廉価レーベルであり、スターダムに縁がなかったため安物の先入観に染まってしまったのだろうか。ホロヴィッツをあれほど神と崇め讃えた連中が、技術で劣ることなくひょっとしてもっと音楽的に神ってるサイモンを完全無視できた理由を僕はまったく考えつかない。

変ホ短調のグレーな世界を聴いてほしい。彼の演奏には特に遅めの曲に不思議な色調の変化を感じる。別れの曲の絶妙なテンポの揺らぎと心の深層にまで触れてくるタッチや強弱の変化(こんな素晴らしい曲だったのか)、黒鍵や7番ハ長調や10番変イ長調のペダルを控えたタッチの羽毛のような軽さ(こんなにペダルを使わず多彩なコクのある表現ができるなんて奇跡的)、11番の歌の指によるレガート、8番の指回りと高音の粒立ちの両立、革命の左手!

彼の技巧はニューヨークタイムズで辛口で有名な批評家ハロルド・ショーンバーグに「スーパー・ヴィルチュオーゾ」と評され、そういう外面にばかりフォーカスしがちな「外タレ好き」の米国聴衆の眼がロシア系で19歳上のホロヴィッツに向いたのはいたしかたない。カーティス音楽院でヨゼフ・ホフマンの弟子だったサイモンの美質はしかし超絶技巧ではない。詩的情感、音色、想像力にそれはあるのであってテクニックはそれに奉仕するものと感じられる。ちなみにホフマンはショパンの知己でチャイコフスキーの友人、同胞だったアントン・ルービンシュタイン(1829-94、チャイコフスキーの協奏曲初演を拒否したニコライは弟)の弟子だ。

この人が鍵盤上でしていることはおそらくピアニストにとって看過できないことでマルタ・アルゲリッチが師事したし、ニューヨークでリサイタルを開くと同業者がたくさん席を埋めたのは伝説である。僕がそれを目撃した例でいうとロンドンでリヒテルの会場に内田光子がいたしミケランジェリのにはブレンデルがいた。サイモンは優にそのクラスのピアニストなのである。しかしそうしたプロ目線を離れても、技術とコクが高次元で一体化した、いわば心技体のそろったピアニストとしていくら高く評価してもし足りない気持ちが残る。

テンポや間の取り方、バスの打ち込み方には個性があり人によって好き嫌いはあると思うが、ルービンシュタイン、ホフマンから伝わるショパン直伝のピアノであり、19世紀のロシアン・スクールの息吹がクリアな音で細部まで聴けるVOXの彼の録音は宝だ。耳の肥えたピアノファンはぜひ彼の録音に耳を傾けてみていただきたいが、彼の精妙なタッチはオーディオ装置を通してでないとわからない。CD(廉価盤だ)に投資することをおすすめしたい。

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広島カープにマジック33が点灯

2017 AUG 9 1:01:44 am by 東 賢太郎

早いものです。もう出てしまいました。マジックナンバーそのものはいいです、単にカープの勢いの象徴ですから。負けないですね、それが勝負強いということでしょうね。2年前まで勝負弱さの見本みたいだったチームがどうしてこんなことになるのか、謎です。僕の想像できる域を超えてる。ハーバード・ビジネススクールの教材にしたらどうかとまじめに思います。

思えば2年前の黒田、マエケン、新井を擁しての弱さも想像を絶するもので、あそこで落っこちた謎の要因が今年はプラスのベクトルに転じて倍返ししたということかもしれません。いずれにせよ、どっちも謎であります。

強打線といいますが今日の中日戦、先発の22才、鈴木翔太に7回1死までノーヒット・ノーランでした。今年はキャンプ中継をこまめに見てこの聖隷クリストファー高の鈴木は嫌だなと思ってた一人で危なかった。1点取ったはよかったがゲームは1-1で延長になって結局引き分けでした。でも結果はいいのです。

凄いと思ったのは8回の中崎から1イニングずつ投げた今村、中田、一岡、ジャクソンで5回を1安打完封9奪三振だったことです。延長に入っての3人は2,2,3三振(9アウト中7個が三振)、この3人のストレートは強烈だった。これで中日は負けてないのに「フォール負け」した感じになったでしょう。

猛暑で打高投低が定番の時期です。それも大島のような絶対三振取れなさそうな打者から2つ、こういうのを目撃してしまうともうどうしようもないとプロでも相手はビビるんだろうなあ。それが積もり積もって相手はカープ戦というと心理的に引いてしまいミスするから勝てる、好循環ですね。

夏の甲子園も開幕しました。今年は6,7月と仕事が山場で、暑くなってからここまでやけに長く感じました。例年ここに至ると高校球児の姿に元気をもらって暑気をはらうのですが、もうカープに十分もらってしまってお釣りがきそうであります。

追記

この試合、中日森監督が前日に娘さんを亡くしての指揮とは知りませんでした。同じ62歳。言葉がありません。

 

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ドヴォルザーク「新世界」のテンポ

2017 AUG 7 17:17:21 pm by 東 賢太郎

西村さんの投稿に楽譜の読み方のことがあった。僕自身、耳で覚えていたのを後で楽譜と見比べて変だなと思ったケースがある。例えばドヴォルザークの新世界だ。第1楽章に何か所かあるが、第4楽章のコーダの前のテンポは曲全体の印象を変えてしまうほどインパクトが大きい。

そこはこういう流れになる。

①ホルンのソロで悲しげに冒頭の勇壮なテーマが回想される②すると弦が16分音符で駆け上がり③ffで決然とテーマを弾く(弦、ホ短調)④和音が3つ続く⑤ホ長調になる⑥トランペットが朗々とテーマを吹く⑦コーダ

この①→⑦の流れでテンポが揺れ動くのはどれも同じだ。僕はアンチェル/チェコPOで覚えたので①やや遅くなる②冒頭のテンポ③その半分の速さで④さらに遅く⑤冒頭のテンポ⑥その半分の速さで⑦急に速く、に慣れている(38分40秒から)。

Dover(Simrock,1894)のスコアのテンポ指示がこれに近い。チェコの巨匠、ターリヒ、クーベリック、ノイマンはほぼこのやり方だ。各々の部分の比率はまちまちだがその他の指揮者もこのパターンである。⑦に飛び込む「タメ」をどこに置くかであって個性は多様だ。⑥で大きく減速するスヴェトラノフはユニークだが、チェコ派のプロポーションのデフォルメだから奇異には聞こえない。

ところがこれを聴いてひっくりかえった。コリン・デービスがアムステルダム・コンセルトヘボウ管を振ったフィリップス盤だ(9分34秒から)。

お聞きの通り、⑤以降は冒頭のテンポのまま突っ走る。つまりチェコ派のプロポーションの完全否定といえよう。これはPetrucchiにあるOtakar Šourek 編集のスコア(⑤でAllegro con fuocoになり最後までそのまま)ではないかと思われるが確証はない。あまり関心がなく根拠までは知らないが、ピアノ編曲譜を見ると速度表示がまた違う。in pempoと a tempoの混乱もあるように見受けられる。これは異例のことだ。新世界が出版される時にドヴォルザークはアメリカにいて校訂はブラームスら第三者が行ったそうで、そこに原因があるかもしれない。

やはりチェコ派の基本を逸脱して奇異に感じるのは、③が速くて⑤⑥がデービスと同じで⑦はさらに速くなるシルヴェストリ、③だけ速いショルティだ。根拠は不明。何が正しいのかはドヴォルザークにきかないとわからない。全員が指揮の歴史的巨匠である。それがこんなに違う。コリン・デービス盤はACOの音響、録音とも素晴らしく非の打ち所がないが、初聴にしてこの最後の最後、Allegro con fuocoでショックを受けてしまい、以来このLPをターンテーブルに乗せる勇気はもてなかった。

初めて聞いて覚えてしまった演奏には一生呪縛される。それがベーコンの示す「洞窟のイドラ」であることをわかってはいるが、僕も洞窟から抜け出せない。人間の思い込みとはいかに罪深いものだろうか。

 

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僕の人生哲学(イギリス経験論)の起源

2017 AUG 5 17:17:37 pm by 東 賢太郎

「リヴァイアサン」を書いたトマス・ホッブズ(1588 -1679)の政治哲学は気に入っており、去年だったかこういうブログを書いた。

いや~、そうはいっても、オカマもいますからね

東大は文Ⅰに入ると駒場の教養学部でまず法学概論という必修科目があって、定年退官する教授が後進に法とは何ぞやを説くことになっている。僕らの先生は国際法の高野雄一(1916 -2004) で、だからだろうか国際法の起源となる自然法の法理のようなものから習った。法学にはさっぱり興味がわかなかったのは僕の罪で先生には申し訳なかったが、読んでみた書物ではホッブズの人間(ミクロ)の悪しき習性を人工的な国家(マクロ)で統御する原子論的、理系的な考え方だけは大いに気に入り、影響を受けることになった。

リヴァイアサンは国家とは何ぞやを論じる。簡単に書けば、人間の自己保存欲は本能と認めよう(自然権)。すると生存に必要な物の奪いあいで喧嘩(暴力、戦争)がおきる。そこでみんなで自然権を我慢して(自然法)、一人に主権を委ねることを契約して国家を作ろうよというものだ。近代国家理論のルーツだ。自然法はオランダ人のグロチウス(1583 -1645)が基礎を作ったがこれは現代の国際法のルーツである。ローマ法に起源のある欧州の法理が神学と政治を断ち切ったのはほぼ江戸時代初期にあたる。

この自然権、国家(社会)契約説、ミクロの人間の平等主義が啓蒙思想の底流を成し、絶対君主制を突き崩してフランス革命、アメリカ独立など市民革命、英国の責任内閣制という政治制度に至るのは言うまでもない。革命というのは市民による権力者の大量虐殺の美名だが、それだけ血を流しても是とされた(消去法的ではあるが)のが近代以降の西洋の政治システムなのである。日本国はそれを採用しているのだから、妙なことがおきたら粛々と血で血を洗った基本原理に立ち帰ってモノを考えればいい。

政治家は我々国民が契約して主権を委ねているだけだ。馬鹿なことをしたら契約を解除する、要は即刻クビにすべきである。その仕組み(法律)と馬鹿かどうかの監視、情報開示機能こそが国民の平和で自由な生活ために必要なのである。日本の政治システム(法制)の最大の問題はそれがないことであるというのが僕の強い主張であり、法律を作る唯一の機関である国会にそれのできる議員をどう送り込むか、つまりそれをやるという人を当選させないとモリカケ事件は繰り返し、国家による隠ぺいや筋違いの国民監視社会化はだれが首相になろうが永遠に避けらないだろう。

1697年(65才)のジョン・ロック

トマス・ホッブズの路線にいたのがフランシス・ベーコン(1561- 1626)とジョン・ロック(1632-1704)だ。ロックのイギリス経験論(人間は生まれたときは白紙である)は僕の人生哲学のルーツといえる。人間は経験してないことはわからない(わかるはずがない)。よって軽々に語ったり判断してはいけないが、それでは社会で生きられないから、経験のない物事に対しては「類推」をするのだ。類推力は科学的思考力で補うのが合理的だが、そうする知力(インテリジェンス)を持てばよい。ロックはそこまで言ってないが、より良く人生を生きたいならばそうすべしがだんだんに僕の独断流となっていった。

だから大学や学部なんかなんでもいい。要諦は何かを本気で深く、徹底的にやるかどうかである。学問であれスポーツであれアートであれ何であれ、人並みでない深さ、例えば地面に100メートルの地下まで「穴」を掘ってみることを想像してみていただきたい。すると、その深さに到達しないと知り得ない温度、気圧、匂い、地層、音響、閉塞感、恐怖感などの未知なる発見があるだろう。あらゆる苦労と創意工夫をしてでも掘るという行為自体にも忍耐力にも替え難い経験があるし、大事を成し遂げた達成感が壮大なことはイメージできるだろう。それは10メートルしか掘ってない人には絶対にわからない。10メートルの穴を10個掘ってもわからない(イギリス経験論)。ジャンルは問わず、そこまで何かをやった人たちだけの特別なセレブ・ソサエティ「100メートル会」があると思ったらいい。学生時代はその会員になることを目指せばいい。

社会に出ると深い穴を掘る日々になる(それを世間は仕事と呼ぶ)。100メートルの経験がある人は、別な場所に穴を掘らされても、つまりその仕事に経験がなくても10メートルの人よりは「類推力」があるから20,30,40メートルではどうか、その先ではこうなるだろうとヨミが働く。だから失敗にも競争にも強いのだ。そこに、事例の個性を削ぎ取って一般化して論考する(そういう頭脳回路を作ってくれる)数学という「類推の最強の武器」があればさらにいい、若い人は徹底的に勉強することをお薦めする。

私事でいえば僕は野球と数学だけは自分の限界を見るまでやった。2つを比べれば野球であり、猛練習を死ぬかと思う寸前までやったのは僕の持って生まれた素材としては100メートル経験だった。その経験による類推によって、今度は証券業で100メートル掘った。そして今は、そこからの類推でアドバイザーをやっている。「仕事と野球と何の関係があるんだ?」という声が10メートル会から聞こえてくるのは自然なことだ。だから「100メートル会」の入会をお薦めするのである。

ちなみに音楽は好きだが経験がない。だから楽譜を読みピアノを下手でも弾いてみることで作曲家、演奏家について類推の小さな手がかりを作ってみる。聴くだけというのはどんなに高尚を気取ろうが印象という感覚的で皮相な理解しか導かないので、それを書物や評論やブログで文字にしたところで料理屋の食べ歩き記程度のものだ。英国人の本格的な音楽評論に比べると、日本のそれは哲学不在のサブカルチャーの域を出ない。

万事そうやって徹底してイギリス経験論的に生きているから、僕の思い込みだけのことかもしれないが、自分の思想はうわべのものではない体に染みついたものだと自信をもって言えることは言える。「それが政治的な大人の意見というものさ」とはロンドン時代に僕に「穴掘り」の話を教えてくれた二回り年上のファンドマネージャー氏の言葉だ。オックスフォード卒。ちなみにベーコンはケンブリッジ、ホッブズとロックはオックスフォードに学んだが、彼によると英国のエリートにその思想は当たり前ということだった。

フランシス・ベーコン

ホッブズはフランシス・ベーコンの助手だったことがある。ベーコンは「知は力なり」の言葉で有名だが、彼がシェークスピアだったというそれなりに有力な説がある。シェークスピア氏は実在したが名前を貸しただけで、真の作者は何らかの理由で名乗れなかったと考える「シェイクスピア別人説」で、ベーコンのほかにクリストファー・マーロー(劇作家)、オックスフォード伯爵が候補とされる。知識人が寄ってたかって血眼に論争しているのは九州か畿内かの邪馬台国論議を思わせるが、こっちは4通りの仮説があるということだ。

このベーコンこそがイギリス経験論の開祖だ。経験論とは演繹法(一般論)の否定である。法則と信じられるものにはウソがあるかもしれない。だから観察と実験で確かめなさい、ひとつでもそうでない例が見つかれば法則なんかじゃない、単なるウソだ、捨てなさいということだ(帰納法)。それで正しかったら、それを法則と見る。それが論拠のある「類推」だ。ところが日本人は演繹に弱い、低学歴の人は世界的に弱いがそれを勘案しても先進国では世界最弱クラスだというのは、長いものに巻かれる社会性に加え、科学的(数学的)思考を重視しない(むしろ積極的に嫌う)国民性によると思う。

「常識」「井の中の蛙(かわず)」「昔からそうだ」「テレビでやってた」「みんな言ってる」「偉い先生の意見だ」でコロッと思考停止に陥る。科学的論拠より偉い先生を信用する(学歴詐称かもしれないのに)。テレビが解説に専門家やエセ科学者を呼んでくるのはそれにつけこもうとする計略だ。だいぶ前のこのブログに僕がイギリス経験論者である証拠がある(NHKスペシャル「STAP細胞不正の深層」の感想)。株の世界に40年いるので僕は人の言うことはまずは全部ウソかもしれないと思っている。帰納法で自分の中で観察と実験によって証明して初めて信じる。嫌な奴だが人生哲学は好かれるために持つのではない。

ベーコンは細密にロジカルで慎重な人で、信じるための観察と実験にだって誤解、先入観、偏見がつきまとうことも否定できないことを指摘した。それを「イドラ(idola)」と呼ぶ。英語だとアイドル(idol)だ。人間の認識の誤謬の元でそれににまどわされると思い込みや偏見ができてしまい、帰納法によっても真理や法則にたどり着くことは難しい。しかしそれを排することができれば科学は自然を支配することができるとしたのである

イドラは4つある。①種族のイドラ(人類一般に共通してある誤り。地平線にある太陽や月は「大きい」など)②洞窟のイドラ(個人の性癖、教育、狭い経験からくる見方の歪み)③市場のイドラ(社会の中で伝聞によりできる偏見、噂)④劇場のイドラ(権威や伝統を無批判に信じることから生じる偏見)である。これらがあれば帰納法もワークしない。詐欺師は全部を計略に使い、つけこむプロだ。政治家とテレビCMは②③④、いや最近の政治家は③(印象操作)か。マスコミは④文春砲は③を有効に使っている。ベーコンの類型化はイドラに騙されないための賢人の知恵だ。自分の判断に①-④が忍び込んでいないか考えるためのレファレンスであり、ちなみにこれがないという自信の持てない人は少なくとも株には手を出さないことをお薦めする。

ウィリアム・シェークスピア

「シェイクスピア別人説」の候補者3人の提唱者による議論(論拠)はwikipediaに詳しくあるのでご興味があれば読まれるといいが、さすがインテリ連中の議論で証拠らしきものもそれぞれあって説得力がある。しかし、確実なことは、そのうち2人、あるいは3人全員が偽物で論拠は大嘘なのだ。どれにイドラがあるか不明ということだから、結局はベーコンのイドラ論も実用性は疑問になってしまう。僕はシェークスピア=ベーコン説に惹かれるが、そうなると「彼ほどの頭脳の持ち主だ、何か暗号を残しているに違いない」と思ってしまう。これと一緒だ(エルガー「エニグマ変奏曲」の謎)。僕も②(洞窟のイドラ)の餌食になっているのかもしれない。

 

(こちらへどうぞ)

なんでもいいから井戸は深く掘れ(僕の教育法・その2)

 

 

 

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