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ブーレーズ 「主のない槌」(ル・マルトー・サン・メートル)

2017 OCT 23 1:01:27 am by 東 賢太郎

ブーレーズの代表作である当曲についてとなるとやや話がこみいってしまうがお許しいただきたい。これを初めて聴いたのは大学の時に借りたレコードだった。いきなりなんじゃこりゃで最後まで聴いたかは記憶がない。

ル・マルトー・サン・メートル(Le marteau sans maître)の邦訳は当時「主のない槌」だったと思う。槌とはなんだろう?見たことない。打ち出の小槌を連想し、そんなものを置き忘れてくる奴がいるのかと思った。というのは僕は生来の忘れ魔で、考え事をしていて電車に野球のネット用の鉄柱を忘れ過激派と間違われた前科があるから槌ぐらい忘れるのはなんでもないと思えていた。

この題はルネ・シャールなるシュルレアリスム作家の詩か何からしいが知らない。現代詩というのは読んだことぐらいはあるが、僕にはネコにイタコの呪文をきかせる未満のものであって、大変失敬とは思うがああいうものを愛でる方々とは人種はおろか生物種すら異なるのではないかと感じいるしかない。人間の作ったものに関心がないこっちの方がきっと異種なんだろうが。

音楽だって人間の作ったものじゃないかといわれそうだが、音階や和音の心に与える効果はそうではない。ドミソは明るい、ラドミは暗いと誰かが決めたわけじゃない。聞こえるのは純然たる自然現象の音波であり神様が人間の心の方をそう作ったのだ。だから僕は音楽は物理学、生理学、心理学のどれでもないが、ちょっとづつそれらと「かすっている」サイエンスだと思っている。

和音というのは美しい(少なくとも僕には)がその各音は倍音による音階から生まれたもので、ということは美しさの根源は自然倍音(上)に存在していることになるだろう。右の図は平均律と自然倍音の差異を示すが、ここでは64個目の倍音までのうちで各音の出現回数にご注目いただきたい。Ⅰ(基音)は6個、Ⅴ(完全5度)は5個である。ド(6)、ミ(4)、ソ(5)は出現回数で第1位~3位であり「ドミソが美しい」のは神様が決めた理に適っていると思えないだろうか。第4位のシ♭(4)を加え、各々の5度上(完全調和する)のシ、レ、ファ、その5度上のラを得ると、オクターヴ(2倍の周波数)を12分割する「音階」が得られる。出現回数ランキング上位の倍音を並べて、それが「美しい」となるように人間は神様によって作られていると考えるしかない。

言いたいのは出現回数は物理的に決まっており、誰か人が決めたものではないということである。だから12分割も宇宙の理であり10でも11でもいけない。それが「調和」の根源だ。縦(和音)であれ横(旋律)であれ、それが無調だろうが12音音楽だろうが不協和音であろうがである。協和音、不協和音とはミスリーディングな誤った用語である。ピッチの悪い音は他の音と一切調和しない。だから神の原理にはずれていて、そもそも音楽の素材として美しくない。「音程の悪いドミソ」(協和音)は不ぞろいの真珠をつないだネックレスであり、「音程の良い不協和音」はばらばらに配置した粒のそろった真珠である。

お母さんが近未来的には子守唄を12音で歌うようになるとは思わないが、そういう美というのはまだ動物に近い赤ちゃんに訴えかける力はない(千年後の赤ちゃんはわからないが)。数学が美しいとは僕ごときが言うのはおこがましいが、数ⅡBでもある日突然そう思えたのは厳然たる事実であり、しかしそれは赤ちゃんにとっては今のところやっぱりネコに呪文未満ということになるだろう。

僕がさわる楽器はピアノであるのはそれが理由だ。平均律なる近似値とはいえ耳に不調和と聞こえないぎりぎりで踏みとどまった不調和で、ピッチの心配がなくどのキーをたたいても許せる調和があるからだ。即興でアトランダムのキーを弾いて(たたいて)楽しむが、それが曲といえようがいえまいが楽しい。アッ今のはいいなと思う瞬間があるが、それを譜面に書きとるのはめんどうくさい。即興してればまた来るさで済ますし、無限の可能性がありそうでわくわくもする。

以下、2016年1月16日に書いたブログから「ル・マルトー・サン・メートル」について書いた部分の要旨を引用する。

 

9曲のセットである同曲は曲順を1-9とすると{1,3,7}{2,4,6,8}{5,9}に三分類され、個々のグループに12音技法から派生した固有の作曲原理が適用されていることがレフ・コブリャコフの精密な分析で明らかになっている。総体として厳格な12音原理のもとに細部では自由、無秩序から固有の美を練り上げるというこの時点のブーレーズの美学はドビッシー、ウエーベルン、メシアンの美学と共鳴するのであり、それを断ちきったシュトックハウゼン、ベリオ、ノーノとは一線を画するとコブリャコフは著書「A World of Harmony 」で述べている。興味深いことに、例えばグループⅠの作曲原理は(3 5 2 1 10 11 9 0 8 4 7 6)の12音(セリー)を細分した(2 1 10 11) 、(9 0)の要素を定義し、それらの加数、乗数で2次的音列を複合し、

(2 1 10 11) + (9 0) = ((2+9) (1+9) (10+9) (11+9) (2+0) (1+0) (10+0) (11+0)) = (11 10 7 8 2 1 10 11)

のように新たな音列を組成する。その原理がピッチだけに適用されるのではなく音価、音量、音色という次元にまで適用が拡張されて異なるディメンションに至るというのがこの曲の個性でメカニックな方法であることに変わりはなく、その結果として立ち現れる音楽において、それまでの12音音楽にないaesthetic(美学)を確立したことこそがこの曲の真価だった。聴き手が感知する無秩序はあたかもフィボナッチ数がシンプルな秩序で一見無秩序の数列を生むがごとしである。これの審美性は数学を美しいと感知することに似ると思う。

「主のない槌」の自筆譜

ブーレーズは自ら自作の作曲原理を明かすことはせず、むしろ聴き手がそれを知ることを拒絶したかったかのようである。しかし原理の解明はともかく聴き手の感性がそこに至らないこと、この美の構築原理がより高次の原理を生む(到達する)ことがなかったことから12音技法(ドデカフォニー)は壁に当たり、創始者シェーンベルグの弟子だったジョン・ケージがぶち壊してしまう。僕自身、12音は絶対音感(に近いもの)がないと美の感知は困難と思うし全人類がそうなることはあり得ないので和声音楽を凌駕することは宇宙人の侵略でもない限りないと思う。

しかし、そうではあっても、ル・マルトー・サン・メートルは美しい音楽と思う。その方法論でブーレーズが読み解き音像化した春の祭典があれだけの美を発散する。ある数学的原理(数学は神の言語であるという意味において)がaestheticを醸成して人を感動させる、それは必ずモーツァルトの魔笛にもベートーベンのエロイカにもあるはずの宇宙の真理であり、それは人間の知能には解明されていないだけで「在る(sein)」。僕はそれを真理と固く信じる者だ。

 

固く信じるとどうなるか?僕は「主のない槌」に、特にアルトが入る章に美を感じるのであって、それは魔笛やエロイカに感じるものと何ら変わりがない。ライブを聴いて帰宅する時の充足感の質は同じだ。とすると、それを生み出した何物かが3つの音楽のスコアに共通して隠れているはずなのである。これが「音楽をサイエンスと考える」ということだ。

例えば太陽(The Sun)をどう考えるか?まったく相いれない2つの道がある。ひとつはスペクトル型はG2V、表面温度約6000度、推測年齢は約46億年で中心部に存在する水素の50%程度を熱核融合で使用し主系列星として存在できる期間の半分を経過している銀河系の恒星の一つと考える。もうひとつは、「おてんとうさま」「おひさま」「朝日」「夕日」であり、信仰の対象となり、女性を「君は僕の太陽」などとたたえたり詩の題材ともなるがスペクトル型は気にしない。僕はその前者ということになる。

「主のない槌」はピッチの美しさ、曼陀羅、ガムランのイメージを混合したタペストリーのような音色美を根源とした音楽である。その質感はドビッシー、メシアンの、セリー合成はシェーンベルクの遺伝子を継ぎ、必要とするアルト・フルート、ヴィオラ、ギター、ヴィブラフォン、シロリンバ、打楽器でピッチが可変的なのはヴィオラだけ(フルートもある程度)であり、ピッチは基本的に固定的環境で成立する。そこに声(アルト)という可変的な音が加わるため、そのピッチが厳密に問われ、それが達成された時の美しさは誠に格別だ。

こういう質の美の世界の住人であるブーレーズがマーラー全曲を振ったというのは僕には青天の霹靂だった。今もって謎だが、本当に彼は共感したのだろうか?それとも僕の方がマーラーを誤解してるのか?

ダリウス・ミヨー 「男とその欲望」(L’homme et son désir)作品48

M君の訃報

2017 OCT 22 1:01:28 am by 東 賢太郎

去年の10月20日に西室から中村順一君の訃報を聞いた。俄かには信じ難いことだった。彼が今いてくれたら話したいこと相談したいことが山ほどあった。そろそろ一周忌と思っていたら先週にお世話になったT社長が逝去され、一昨日は会社の後輩M君が急逝したとの連絡があった。

ロンドンで仕事した6年間で格別の記憶に残っているのがM君だ。僕が部門のヘッドになって初めて東京から転勤してきた新人で、長身で礼儀正しく、好青年を絵にかいたような男だった。なにより仕事のセンスも性格も良くてキャラクターは明るく、異例なことだが僕自身がインストラクターになっていちから仕事を教えたのは進んでそうしたくなる俊英だったからだ。大変有能でありやがて著名な投資家にコネクションを作ってきて、同伴してアカウントを開いて乾杯したり、忘れられないエキサイティングな思い出がある。

大出世して野村の役員になっても連絡をくれ、時々食事などした。こちらの仕事のことにも真摯に耳を傾けてくれ、東スクールの生徒ですからとつい先日もロンドン時代に僕が言った言葉など披露してくれてひとしきり思い出話になった。それをブログにしたほどうれしかったし、人柄も人物も並とはちがうと深く感じ入った。まだ50半ばだがいずれ定年になっても何かしたいというので、そうなったら俺もトシだからウチに来て社長やってくれよと話した矢先のことだ。冗談ではなく、それを言ったのはM君だけだ。どうしてこんないいやつがと無念でならない。お別れに行くのがつらく、まだお悔やみの言葉すら現実味をもって出てこない。

あまりにがっくりきていたので、そういう年回りなのだと周囲には慰められたが、寂しいばかりかどんどん孤独になっていく気がする。5月に母がいなくなってしまってまだ心に空洞ができたままなのに、自分のことを良く知りわかっていてくれる方々がいなくなってしまう喪失感はあまりに大きすぎる。

 

 

 

選挙のプラセボ効果について

2017 OCT 20 22:22:09 pm by 東 賢太郎

まずはお薬の話だ。AとBとCという錠剤があってAは効き目があり、Bの効き目はAの半分で、Cは中味が砂糖で効き目ゼロとする(3種とも副作用はなし)。厚労省はないものとして、A社、B社、C社が効能書をばらまいて宣伝して市場でセリにかけたら値段はどうなるだろう?

1回目のセリでは宣伝の巧拙だけで値が決まるだろうから順位は不明だ。2回目では患者への効き目を見てA>B>Cとなるだろう。3回目では差がさらにわかるのでA>>B>>Cとなろう。

Cの効能書きはウソだからC=0のはずだが、そうならないことがプラセボ効果(偽薬効果)として知られる。Bを半分サイズにして片方はAの成分、もう片方は砂糖にして「1回2錠」を飲ませると、A×1/2+C >Bとなるから価格は

A:B:C = 100:50:0

とはならず、100:70:20ぐらいの感じになるだろう。プラセボ効果とは何かというと「未開地で薬というものを知らない人に病気が治ると信じさせて歯磨きを飲ませたら本当に治った」という話が昔あったが、そういう思い込みだけで薬が効いてしまうとされる効果だ。

クスリの価格の決まり方を選挙の得票数に置き換えれば衆院選の話になる。Aが普通の候補、Bは泡沫候補、Cは非適格候補で、A社、B社、C社がA党、B党、C党である。「薬の効能書がわからなければ信用ある弊社の薬をオマカセでお飲みください」というのが比例代表制だ。

これがビタミン剤の話ならばプラセボ効果でBやCを買っても損だが害はない。しかし降圧剤ならどうか。砂糖で血圧は下がらないからCを売るのは未必の故意による殺人に近いだろう。ビタミン剤や健康食品なら許されるものが医薬品ではそうはいかないのである。

それを防ぐため医薬品、医療機器等の品質、有効性及び安全性の確保等に関する法律(通称「薬事法」)があるが選挙にはそれに当たるものはない。公職選挙法があるが、日本国籍があって選挙違反しなければほぼOKで「薬効」の審査はかけらもない。日本語さえ読めれば合格の試験のようなものだから有権者の目が問われる。ウソの効能書きで立候補している砂糖玉の「プラセボ候補」は落とさないといけない。

そのために我々が考えなくてはいけないのは

「このクスリ、ほんとに効くの?」

なのだが、それ以前に決定的に重要なことがある。若い有権者はこれを肝に銘じてほしい。それは、

「ところで私は何のクスリを選んでるの?」

である。

「ビタミン剤なのか降圧剤なのか?」

である。

あたりまえだが国政選挙は国を良くしてくれる人を選んでいる。国は没落しても私は良くなりたいという議員は不要なのだ。今の国はリセットして私が好きな国にしましょうよといわれても、あなたの好きな国が私も好きかどうかわからないのに投票しようがない。

国は関係ないでしょ、私の生活が第一だしと思うかもしれないし誰でも生活が大事なのは当然だが、国がだめになって私の生活だけが良くなる確率は宝くじでも当たらない限りゼロに近い。英国グローバル情報誌「MONOCLE(モノクル)」の「世界で最も住みやすい都市ベスト25」(2017年版)で東京が1位に選ばれているが、日本はすでに国際的にいい国、外国人が憧れる一等国なのだ。

ただ問題はある。高度成長期に元気な若者だった日本国もそろそろ熟年メタボの兆しが見えており、著名大企業は兆しだけでなく崩壊しかかってきており、自分の血圧だけでなく近隣の暴れ者のとばっちりだって心配しなくてはいけない。「一強政治はいかがなものか!」は大変結構だし、一強に思い上がって脇甘の事件で世間をさわがせてもらっては困るが、では、

「一強でなくなるとどうして血圧が下がるの?」

「どうして暴れ者がおとなしくなるの?」

と子供電話相談室にきいてみたらいい。なんにもむずかしいことはいらない。物事は本質に添って、子供みたいにシンプルな疑問をもって考えればいいのだ。僕は一強でも三強でも何でも構わないが政権執行能力が論点と思う。そうでないと血圧は下がらないし熟年メタボは治らないからだ。もしその薬が効かないなら?それは困るから、国民が国会、行政を監視して薬を替える制度を作るしかない。

 

若者のための政治用語辞典

 

 

 

 

 

 

日本のかかえる非合理について

2017 OCT 19 0:00:08 am by 東 賢太郎

多くの人が指摘するように日本の「リベラル」という用語はミスリーディングだ。概観すれば欧州では各国の良き伝統を尊重するのが保守だが、市民革命(欧州の保守の否定、自由・平等・博愛)に建国の起点を置いた米国ではむしろそれが元々の保守だ。米国から言葉だけ輸入してリベラルを名乗り、「保守でない=リベラル=左翼+反自民(護憲)」にすり替えるのはおかしい。

希望は自民の対立軸を目論んだと思うが反自民ではなく反安倍であり、「(いわゆる)リベラル」の排除宣言で立ち位置が曖昧になってしまった。そこを突いたリベラルでない=保守というすり替え方程式の逆用によって安倍政権の補完勢力だと批判した共産党が希望の新鮮味を削ぐことに成功したように見える。しかし、その方程式は元から変なのだ。こういうレトリック(横文字がもっともらし見える等)で有権者が騙されると、安倍でない誰の一強になろうと同じことの繰り返しになって日本は停滞するだろう。

SMCは政治信条を述べる場ではない。僕が言いたいのは「真実でないこと、詭弁、まやかし、なりすまし、嘘の主張はやめましょう」である。それは政治に関わらず僕の好き嫌いだ。嘘をつくことの善悪、倫理ではなく、(いわゆる)保守、リベラル(or 単細胞な右・左)のどちらに与するかでもなく、まともな人物にまともな国家運営を委ねないと子孫に禍根を残すと思っている。現状アメリカの属国に等しいがそれが良いわけではなく中国のそれが望ましいわけでもない。しかしサンフランシスコ講和条約、朝鮮戦争休戦協定のまま歴史が止まるわけでもない。

そんな人はいないのが残念な真実であるならそう行動するしかないように立法府と行政府への国民の監視の目を強めることだと思う。それと改憲論は矛盾しない。そんな人はいるけれど多くはないというなら、その人たちだけ残した数まで議員定数をばっさり減らせばいい。「そういうことになってるんで」というのは「なんちゃって保守」であり、小池百合子が都議会でそれをぶっこわしたのはむしろ保守だと思った。これは安倍政権にも自民党にもできないだろう、そこにレゾンデトルを求めるならまともな支持者はいるだろうし希望も持てるだろう。

 

 

ドヴォルザーク 交響曲第7番ニ短調 作品70

2017 OCT 17 17:17:19 pm by 東 賢太郎

香港の2年半でおいしい中華料理は食べつくしていて日本でなかなか満足ということがない。中華といって何種類もあるが結論としては広東料理が一番であって、となると恵比寿ウエスティンの「龍天門」がいい線いっていて坦々麺など格別に美味だが値段もそれなりだ。横浜中華街の聘珍楼も高いがここのフカヒレ姿煮は香港であっても一級品だから時々そういう所で食するしかない。

そういう極上な美味を堪能してしばし仕事から開放されたときの心境にぴったりなのがドヴォルザークの7番だというとえっと思われるかたが多いだろう。

7番がブラームスの交響曲第3番初演から霊感を得て作曲されたというのが事実かどうかともかく良く知られる逸話だ。たしかに第1楽章冒頭に現れる暗い趣の第1主題からしてブラームス3番の第4楽章のそれを髣髴とさせる。

僕が大好きなのはそこからしばらくして現れる第2主題である。2本のクラリネットと低い音域のフルートが奏でる変ロ長調のこれだ(in tempoから、上のビデオの2分59秒)。

fpで強調される和音!(E♭Ⅲon C)なんて素晴らしいんだろう。冒頭の漆黒の闇からここへ到る旅は短いが、心に戸惑いを秘めたような経過句をさまよって辿り着いたこの主題の歓喜はこの溜息のような和音で確信にかわるのだ。それを慈しむように繰り返すのは、想像だがドヴォルザークもこの和音に痺れていたんだろう。ブラームスは理性の人で、やりたくてもこういうことはしない。

先日美味しい料理とワインで幸せになって、娘に「いまどんな気分と思う?こんなだよ」とこれを鼻歌できかせる。そうするとfpの和音を出す伴奏の第2クラリネット、ファゴット、第2ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバスにどう吹いて、弾いてもらったら僕の欲しい「あの音」が出るんだろう?と考えもする。いろんな演奏を聴いてきたが、ここが満足いくのはあまりない。

この和音がどうしてこんなに好きなんだろう?ピアノを前に考えているとわかった。これはメンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲のここ(赤枠の部分)と同じだったのだ。

好きなわけだ。音楽の好き嫌いはこうして因数分解すると理由が見つかる場合がある。第1楽章展開部はいよいよブラームスっぽくなっていくがfp和音直前のソ・ファ・ソのリズムがベートーベンの運命音型に変容して峻厳さを加える。7番はスメタナ、ヤナーチェクと異なってドイツの形式音楽に道を見出したドヴォルザークの最初のシグナチャー・ピースであり先人を刻印している。

翳りを含んだ第2楽章は曲想も管弦楽法もさらにブラームス的だが終結に至るパッセージはいささかワーグナー風だ。第3楽章はスケルツォでブラームス3番のロマンよりスラヴ舞曲の世界に近接する。第4楽章は第1楽章冒頭の世界に回帰してニ短調の暗色が支配するが、第2主題がここでも抒情を添えることも、トゥッティで楔を打ち込むような跳ねるリズムの印象も非常にブラームス的だ(後者は特に3番の終楽章と近似する)。

ブラームスの影響を聴感上濃く感じる作曲家としてエルガー、作曲法上はシェーンベルクがいるが、ドヴォルザークが作曲家としてそうだと言い切ることは難しいだろう。しかし全編に満ちる情緒でそれを体感させる楽曲として彼の第7交響曲を凌ぐ音楽は存在しない。僕は彼の交響曲の中でこれが一番好きだ。

 

カレル・シェイナ / チェコ・フィルハーモニー管弦楽団

数多あるチェコPO盤でこれが一番いい。モノラルで音はやや古く現代の縦線の揃ったアンサンブルでもないが味わいに満ちるから困ったものだ、オーケストラ演奏が失ってしまったものは根深い。木質の管のなかでもフルート、クラリネットの音程の良さは特筆もので、それが欠けたら7番は成り立たないと確信してしまう。第2楽章の弦の歌いまわし、これが正調と思う。第1楽章、fpは増音はなくすぐ減音するのがまったくユニークだが作曲者の狙った効果はこれでも出ているように思う。シェイナの秘儀だ。展開部の加熱は見事、うまいオケとはメカニックなことではなくこういう演奏ができるかどうかなのだ。速めの終楽章はホルンが割れたりアンサンブルがやや雑然となるが、それでいて堅固な音楽になってしまう。

 

ジョン・バルビローリ / ハレ管弦楽団

はっきり書くとオケの技術、特に弦が劣る。なぜこれを好むかというと、指揮のロマンの息吹がヴァイオリンの歌に切々とこもり、緩急も思い切ってつけるなどライブのような感情の起伏があるからだ。fpのため息も感じ切っていて良い。英国人がエルガーをやる風な愛情を感じるという意味で7番の最もエモーショナルでメリハリのある、ドイツ寄りではない表現だろう。バルビローリはブラームス全集は構え過ぎだがドヴォルザークは自然体である。

 

オトマール・スイトナー / ベルリン国立歌劇場管弦楽団

東欧のいい音だ。このオペラハウスで何度もワーグナーを聴いたがS席で3千円ぐらいなのに感動したのを思い出す。目の前のピットから響いてくるこのオケの古雅な音はふるいつきたい魅力があった。この木質の弦とピッチの良好な木管(うまい)という特性はドヴォルザークにぴったりでありスイトナーの指揮も独欧系の解釈の本道を行くものと思う。モーツァルトが抜群の人だったが音響にポエムを作れる故で、第1楽章はfpの馥郁たる味わいも展開部の高潮も文句なし。

 

カルロス・パイタ / フィルハーモニック・シンフォニー

アルゼンチン人のパイタ(Carlos Païta、1932年または1937年ー2015年)は金持ちのボンでフルトヴェングラーのファンだった。自分のレーベル(Lodia)を作りメジャーなオケを商売抜きで指揮して録音を残した、ある意味カルロス・クライバー並みの謎の男である。好きな曲しか振らないのだからうまい。8,9番だけじゃない、7番に愛情持って振っているのに好感。激した部分に個性があるがfpのバスの鳴らし方、悪くない、金の力かもしれないがオケを乗せていて脱帽。

 

メンデルスゾーン ヴァイオリン協奏曲ホ短調 作品64

 

モイツァ・エルトマンさん、まいった

2017 OCT 15 17:17:36 pm by 東 賢太郎

指揮:下野竜也
ヴァイオリン:クララ・ジュミ・カン
ソプラノ:モイツァ・エルトマン

モーツァルト/歌劇「イドメネオ」序曲
ベルク/ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出のために」
モーツァルト/歌劇「皇帝ティートの慈悲」序曲
ベルク/「ルル」組曲

 

以上のプログラム。下野はいつもながら研究心があり指揮も手堅くてはずれがない。ベルクを持ってきたのは高く評価。僕においてはモーツァルトは楽しむための条件が複数あり、そもそもNHKホールはそれを満たしていないからここで練習が充分でないのを聞く意味がない。

ベルクはヴォツェックとルルが眼目だ、はっきり言ってヴァイオリン協奏曲はあんまり好きでない。何度もライブを聴いてるが意識がさまよって集中しない。クララ・ジュミ・カンは良かったのだが。

ヴァイオリンというロマン派の残照のある楽器が「ある天使の思い出のために」なるストーリー造りに資するのだろうが、僕はベルクの作る音響のベースに例外なく血のような恐怖を見るのでルルみたいな極道女にこそぴったりだ。いくら天使を模ろうが意識の中で同期しない。お母さん、ヴォツェックで赤ちゃんを寝かしつけますかというところ。

さて「ルル組曲」だ。ブーレーズのCBS盤で散々聴いたからちょっとうるさい。ルルはそこでのソプラノ、ジュディス・ブレーゲンが最高と思っているが、今日のモイツァ・エルトマンには参った。写真まで載せてオヤジしてしまうが、ルルが魔性だったのはこうかというもの、たいへんきれいな人である。ドイツ人だから当たり前だがドイツ語のディクションが美しく、「誰かが私のために自殺したって、私の価値は下がったりしない」で瞬殺だ。そりゃ貴女ならばたしかにそうでしょう。オケ演奏中に歌のパートだけ登場したが、右の衣装(たぶん)で光り輝いて舞台を独占、オケが楽隊になってしまう。女王蜂状態。やっぱり黒づくめの男は働き蜂か、むなしいなあとため息をつく。オケが元来は男社会だのどうのとアナクロの意見を書いたが、音楽が教会を出て爾来厳然たる女性の居場所がある。ソプラノだ。これだけは男は手も足も出ない。この人、声質、役柄はゾフィー、スザンナ、ツェルリーナ、デスピーナ、マルツェリーネというところだがなんとも抗いがたい。観てみたい。アトーナルの音程はブレーゲンともども完璧だった。凄い知性と音感。神が二物を与えてしまっている。

 

シェーンベルク 「月に憑かれたピエロ」

J.S.バッハ モテット「主に向いて新しい歌を歌え」BWV225/1

2017 OCT 14 16:16:03 pm by 東 賢太郎

このモテットをライプツィヒの聖トーマス教会で初めて聴いたモーツァルトが驚嘆したという記録が残っている。1789年の5月、死の2年前で三大交響曲を書いた後である。残した輝かしい音楽に使われている技法はすべてマスターしていた年齢なのに「ここには学ぶことがある」と写譜した譜面が遺品の中に見つかっている。

モーツァルトはウィーンで庇護者スヴイーテンの蔵書にあったバッハ作品を知っており、平均律を四重奏に編曲もしていた。それでも未知なものがこの曲にはあった。カソリックの彼が見たプロテスタント音楽の側面もあったろうが、バッハの8声部対位法技法の凄みが耳をとらえたと考えるべきだろう。

この音楽は教会での残響と音響の空間放射なくして成り立たないだろう。ハリウッドボウルなど野外で映えるか想像すればわかる。キリスト教徒ならバッハを知らなくてもCDの音だけで教会をイメージするだろう。教会文化で育っていない僕が別なもの、それも奇想天外なものを想像してしまうのは経験論の帰結としてお許し頂くしかない。

むかし、アメリカ映画でミクロの決死隊というのがあったが、僕はこれを聴くとああやってミクロの小さな体になってバッハの脳の中を探検し、こんなものを見た感じがする。

見たのは脳みそではない、鍾乳洞の自然の驚異だ。なぜそこにそんなものがあるのか?知らない。神様に聞いてほしい。これをご覧いただきたい。

人間の中には宇宙があって、空を見てその彼方にあると感じている宇宙とそれとは実は同じものだ。それをバッハの脳が見つけて音に書きとった。前稿の「数学美とアートの美は同じもの」という感覚は僕流に表現するなら、そんなものだ。バッハの書いた音符に数学的秩序があるという人もいるが数学者にそんな人はいない。もちろん僕にはそれは証明できない。

このモテットを初めて聴いた時の驚きは忘れることがない。なんだこれはという思考停止に陥り、あっという間に終わってしまった。母の胎内で進化の歴史を超特急で経過しておぎゃあと生まれてくる、それがあっという間というなら、10分の音楽に呆然として1分に感じるのもあっという間だ。

音楽の聴き方は人それぞれだ。

 

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教養のすすめ

2017 OCT 12 11:11:39 am by 東 賢太郎

僕は自分の子供に「教養」だけは身につけてほしい。父親としてそれ以外のことを教えることもできないし、人生は自分のものだ、幸せに生きてくれれば専攻も職業も趣味もなんでもいいと思ってきた。教養とは何の専門でもないし、それ自体が生活の足しになるわけでもない。しかし、人間としてより良く生きて、学問にしろビジネスにしろ社会福祉にしろ何か事を成して社会に貢献しようと思えば必須となるものだと固く信じているからだ。

僕は高校まで文学や人文系の科目に皆目関心がなく、受験はご都合戦略で数学だけで切り抜けたことは書いた。教養がかけらもないと気づいたのは大学で哲学、科学史、英語を習ってからだ。東大が全学生を1,2年次に駒場で教養学部に学ばせるCollege of  of Arts and Sciencesという思想は全くもって正鵠を得た教育である。いまこの年になって経験を経てそう思う。Artは人間が、Scienceは神が作ったものを学ぶ学問というのが西洋の概念だ。理系、文系という区分はない。

文系だから数学はいらない医学部だから世界史はいらないというのは教養と雑学を取り違えた誤解と同根のナンセンスな考えだ。日本一頭の良い高校をクイズ王で決めようという番組はエンターテインメントとしては面白いかもしれないが国民を誤解させるもとであり、子供にはTVを見れば馬鹿になるから消しなさいと言うしかない。

僕がここに書いたのは文系学部廃止論ではない。

理系の増員なくして日本は滅ぶ

暗記は大事だが思考回路を持たなければクイズ番組と同じであり、数学を入試に課さない大学廃止論であり、文系などと呼ぶ明治時代の遺跡みたいな教育は改めないといずれ国難を招きますよという警鐘だ。

僕は駒場で井上忠の哲学概論の「パルメニデスの有」がさっぱり理解できなかった。わからないものがあるのは不快で図書館で随分調べたが日本語なのにわからない。実のところ今もわからないし、生きていく上で理解してどうということもないが、それはわからないことに意味があった。自分の知力より上の智、数学みたいにすっきりと解けない智がある、それこそ「有」であるという画期的かつ原初的体験であったからだ。村上陽一郎の科学史でのケプラー第三法則発見物語はあまりにわかりやすいゆえに天地がひっくり返るほどの衝撃で、思考の仕方に決定的な影響を受けた。それがなければこういうブログも書けなかったしSMCという試みもなかっただろう。

思うに、そういうものが積み重なって「教養」のベースというものができあがる。僕に教養があるというのではない、前稿のT社長のことでそのことに思いあたって書いている。彼は経営で苦労もされ成功もされた。「僕は子供みたいで好奇心の塊りなんです」とよく言われたが、「正規の教育を受けて好奇心を失わない子供がいたら、それは奇跡だというアインシュタインの言葉に重なってきこえた。彼は旺盛な好奇心と多難だった経営、万巻の書から実体験を経て優れた教養人となられ、経営で成功されたのだ。

教養とは知識ではない、知識のないことでも包括的に咀嚼して理解、判断できる思考の素地であり、食べ物で言うならピザの生地だし、数学で言うなら大域的最適解の発見能力のようなものである。クイズ王能力などAIどころかスマホで十分で一文の価値もなくなる。そんなもので東大だ京大だと甘やかしていれば世界大学ランキングで中国、シンガポールに抜かれるのも当然だし、そういう学び方をした学生は21世紀の世の中では教養人に淘汰されるだろう。学歴など何の足しにもならない時代が来ているのだ。

余談だが村上先生がここで数学の簡単な証明が美しいという感覚とアートが美しいというエステティックな感覚は共通するという趣旨のことを語っている。

http://hive.ntticc.or.jp/contents/interview/murakami

両者は僕にとって共通どころか同じものだ。こういう結論は単一のいかなる学問からも物知り博士の知識からも導き得ないもので、クロスボーダーのトッピングを許容する「ピザの生地」、強いて言うなら脳の中のイギリス経験論的領域で二つの既知の認知の共振したものが感じられないと認識できないだろう。ただし先生は独り歩きする科学に批判的だが僕は違う。原爆開発に科学者がエステティックな美を見ることを自制するなら科学はどこかで人類を豊かにする発明の原動力であるフロンティア精神を喪失するだろう。私見では歯止めは社会に制度的、構造的に求めるべきで、それは軍におけるシビリアンコントロールと同等に市民の最低限の常識、教養なくして成り立たないものだと考えている。

バルトーク 弦楽四重奏曲第4番 Sz.91

クラシック徒然草《フルトヴェングラーと数学美》

テレビを消しなさい

ホリエモンの「多動力」と「独りぼっち」の関係

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T社長、ありがとうございました

2017 OCT 11 20:20:10 pm by 東 賢太郎

昨日、お世話になったT社長の訃報に接して心底がっくりきている。もっともっと聞いていただきたいことやご一緒にやってみたいことがあった。心からご冥福をお祈りします。

58歳にもなって出会った方々の中で、社長ほどインパクトのある方は断じてひとりもいない。僕のような者のアイデアを真面目に取り合ってくださるのも極めて稀だが、そういう異次元の理解力を持った凄い人とそんな年齢になって会えるということも奇跡に思える。

日本人なら誰もが知る大企業を立ち上げた立志伝中の方で社長ほど人の心をつかむ達人もいないだろう。発想はいつも驚くほど豊かで既成概念にまったくとらわれがなく、それがビジネスになる段階に至ると逆に手堅かった。商売の極意はこういうものかと実地で学ばせていただいた。

初めてお会いしたのはミクロネシアだ。強烈な3日間だった。まことに数奇なご縁でありお互いに未知の場所だから印象に残るあれこれがあって、ちょっとした会話、食事にいたるまでがまるで昨日のようにリアルだ。僭越なことだが、たったそれだけの短い間に、性格は違っても気質が合う方だと感じ入ってしまった。

ミクロネシア連邦ポンペイ島の初日

故郷の奥出雲にご一緒させていただいた時は、普通あり得ない体験を忘れないようにと戻ってすぐブログに書き留めた。それをお知らせしたわけではないのにいつの間にか細かくお読みになっていて、あれだけたくさんのことを覚えてこんなに描写できる人はいないと各所で話題にされて恐縮した。そういう角度から僕を評価してくださった人は人生で社長だけだ。ほめられたということよりもそれが物凄く嬉しく、この方は普通じゃないと確信した。

奥出雲訪問記

顧問を拝命することになった箱根での株主総会が3年前。吟遊という素晴らしい温泉旅館だった。お役に立つことができたかというと、まったくの力不足だったことは否めない。社長は大変な読書家で顧問に頼るどころか足元にも及ばぬほど無尽蔵に知恵がわいてくる方であり、僕はむしろ人間学の雑誌をとっていただいたり蔵書をたくさん貸していただいたりと、逆に顧問していただく側だった。人間を磨けということだったのだろう、その一冊一冊にその時々の熱い会話と情がこもっていて忘れることができない。

箱根吟遊と旧吉田茂邸にて

綱町の三井倶楽部での株主総会はほんの2年前のことだった。

綱町三井倶楽部にて

人が逝くとはもう二度と会えないということだ。しかし社長とは一対一で普通ではない長い時間を社長室で過ごさせて頂いた。信じていただけないだろうが丸12時間に及ぶこともあった。だから、こういうことがあれば多分こうおっしゃるだろうということが想像できるようになっている。それは僕のかけがえのない心の財産となっており、今となれば人生の貴重な最後の時間を頂戴していたということなのだ。

あれほどお元気で頭脳明晰であられても来るものは来る。人生歩いていけば順番でやがて誰にも来る。だから悔いのないだけのことをしておこうと思う。社長に頂いた財産は使わなくてはいけないし、使うならばそれはこの会社さんの幸福のために使う。僕は社長に教わった通り、人の道を行きたいと思っているからだ。

社長、欲をいえばお互い20年若い時に出会いたかったですね、きっと物凄いことができたでしょうね。必ずやり遂げてご報告いたしますのでゆっくりとお休みください。本当にありがとうございました。

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小池の焦りの馬脚か

2017 OCT 9 17:17:15 pm by 東 賢太郎

前から書いてきたようにモリカケ問題の本質は小池が言う「しがらみ政治」でも「隠ぺい体質」でも「安倍一強政治」でもなんでもない。首相官邸が高級官僚の人事権を握ったことだ。これが幹ならそんなものは葉っぱにすぎないのである。葉っぱなど摘んでも何もリセットなんかしない。

人事権⇒ヒラメ官僚のソンタク大会開始(=出世のルール変更)⇒総理令夫人様とご友人様へのヨイショ合戦+宦官政治(総理は言えないから俺が言う)

こそが決定的な本質であり、行政府の変質なのだ。人事は生殺与奪権だからこのことで官僚を批判はできない。サラリーマン原理として当然の行動である。しかし変質が木っ端役人レベルですんでればよかったが最高ポストの事務次官が反旗を翻したのは官邸には大打撃だった。一般には事務次官がどのぐらい偉いかわからないだろうが知る者は知る。知る者たちの世論への影響は陰ひなたに大きいから「数」でなく「質」で利いてしまったのが政権支持率の暴落だ。本質は国民には分からないから野党は「葉っぱ」の連呼でごまかしてきたのである。

小池が「フェアウェーのど真ん中」などとオジサマ向けの比喩を飛ばしてくすぐる笑顔を見せる。どこかで既視感あるなあ。「知る者たち」の属性を見事に読んでいる、この人、ほんとはただの女優なんじゃないか。究極の狙いはその層の支持で新保守としての「質」を獲得することなのだろう。それさえ取れば初めはともかくいずれ政権担当能力を認められて保守連立で首相になれるという読みだ。これはそれなりに賢い。モリカケを当初あまりネタにしなかったのはカミツキガメやスピッツみたいな顔した、要は「知る者たち」が毛虫のように嫌うこわっぱと一線を画して質の差を見せたかったからと思われ、だから左を踏み絵で「排除」もした。それなのに公示前日にチープな「葉っぱ」を出してきた。焦りの馬脚が出た気がする。失敗じゃないかな。

仮に小池が衆議院に鞍替えして首相になっても、この「変質」した行政府にそのまま乗っかって「小池一強政治」のできあがりになるだけである。当面のところを観察する限りとお断りするが、僕にはそれが狙いなのだろうとしか見えない、やることはそこから考えればいい、だって閣僚も官僚もアタシに人事権があるのよ、みんなヨイショヨイショですり寄ってくるって。ということは彼女を幹として同じ葉っぱが出るだけなのだ。それなら政権交代のリスクだけ残るじゃないか、首相候補どころかロクな大臣候補者すらいないのに。まあおそらく「知る者たち」は一遍にそこまで見ぬいてしまっているだろう。

僕がこのブログを上梓してしばらく晒しておいたのは安倍首相続投にNOを言うためではない。

加計学園問題を注視すべき理由

官僚の忖度とヨイショを見分けろよと、やってることあまりにアホだよと言いたかったからだ。彼は第二次政権では所与の厳しい条件下で80点の結果を出したと評価している。誰でもできたとはまったく思わないし、あのまま民主党だったら日本国はおぞましい姿になっていた。首相が全部をハンズオンでできるはずはないしするべきでもない、正しく意図を忖度できる者に判断と執行を委ねるのはあまりに当然のことで、忖度できない者に頼むなどあり得ないのだ。しかし人事権が強大になればなるほど「おれの生活が第一」を唯一の人生の信条とするヒラメ・サラリーマンたちの盛大なヨイショ大会が始まって、実務執行に必要不可欠なキーマンであるソンタク・スナイパーと唐揚げにでもするしかない無用のヒラメの見分けがつきにくくなるのである。

多忙ゆえ愛する奥方が放し飼いになるのも仕方ない。それほど忙しいのだと同情するし誰にも他人に言えない家庭の事情はあろう。僕は海外赴任者の「日系大企業村」の多様なおつきあいの中で、旦那の役職=自分の地位と大きく勘違いした奥方をたくさん拝見してきたが、狭い村でそういう噂になってしまうと被害者は仕事に励むあまり家にいられなかった旦那でしたという可哀想な結末を迎えるのがほとんどであった。日本にいれば奥方は目立たなかったのだろうが、首相ほどになるとそうはいかないということは銘記したほうがいいということだ。

お友達の学校だろうがどこだろうがキャンディデートがなければ特区法案は通らないし、腑抜けの学校にやらせれば事後に批判されるだろう。文科行政が無意味の鉄板で風穴を開ける必要があったなら周到に「加計さんはたまたま友人だから、より厳しく審査してくれ」と文科省に事前に文書で厳命しておくべきだったのだ。それを受け取って、そう致しましたが合格しましたと忖度があれば何の問題もなかった。まあ今更もう遅いんだろうが。

 

(これを書いたのは9月28日)

世の中で大事なのはEQである

(これが9月30日)

若者のための政治用語辞典

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