Sonar Members Club No.1

カテゴリー: ______ロッシーニ

僕が聴いた名演奏家たち(ジャンルイジ・ジェルメッティ)

2023 FEB 2 1:01:07 am by 東 賢太郎

我が家が引っ越したフランクフルト➡チューリヒは南北に約300kmで東京~名古屋ほどの移動だった。かたや、モーツァルトのパリ就活旅行(ザルツブルグ➡パリ)は東西に約900km、東京~広島ぐらいのデコボコ道を馬車で進んだ大移動であり、さらにそれを往復となると気が遠くなる。この地図はその4都市の位置を示している。

この地図の中で我が家は5年暮らした(息子は生まれた)。モーツァルトもコンスタンツェも代々この地図中の家系だったわけで、同じ空間にいたと思うと感慨深い。アロイジア、コンスタンツェのウェーバー家はバーゼル近郊の黒い森の町が故郷だから彼女たちはほぼスイス人といってよく、そこはチューリヒから車であっという間だ。

出張は別として、フランクフルトから旅行をしたのは、ローテンブルグからミュンヘンに下るロマンティック街道、ストラスブールとその近郊のバーデン=バーデンは2度滞在し、ハイデルベルグは数回、バンベルグ、ニュルンベルグはX’masに、ザルツブルグは音楽祭など。ところが北は家族で行ったのはベルリンだけで今となると意外だ。どうしても南に足が向いてしまったが、プロイセンよりバイエルンが好きなのだということがこうしてふり返ってみると分かる。

そのひとつにシュベツィンゲンがある。マンハイムの近郊でハイデルベルグの南西10kmにある街で、プファルツ選帝侯の夏の宮殿と桜のある庭園が有名だ。「選帝侯」は神聖ローマ帝国の君主(ローマ王)に対する選挙権を有した諸侯でドイツに7人しかいない。他の帝国諸侯とは一線を画した数々の特権を有し、当然ながらリッチであった。マンハイムが音楽の都であったのは権力者がここにいたからで、シュベツィンゲンは王の別荘地だったのである。

7才のモーツァルトは1763年7月18日、父レオポルトと姉と共にシュヴェッツィゲンを訪れ、選帝侯が宮殿で開催した演奏会に登場して喝采を受けた。毎年その城内劇場(「ロココ劇場」)で行われる「シュベツィンゲン音楽祭」はクラシック音楽ファンには著名だ。ちなみにドイツ最大の美味のひとつシュパーゲル(白アスパラ)の栽培を始めたのはここであり、開催はドイツ中がアスパラに舌鼓を打つ4~6月である。

ドイツ圏の音楽祭は会場が分散する所がある。近場でやっていたラインガウ音楽祭がそうだし、ザルツブルグ音楽祭もしかりだ。ここもそうで主会場はロココ劇場だが宗教音楽はシュパイアー大聖堂で行われる。1994年はリヒテルが来ていたがそれは聞けず、5月6日に大聖堂のジャンルイジ・ジェルメッティ指揮シュトゥットガルト放送交響楽団によるロッシーニ「小荘厳ミサ曲(Petite messe solennelle)」を聴いた。僕は教会の音響が好きでリスニングルームは石壁にしている。典礼は何度か聴いたことがあったが演奏会は恐らくこれが初めてだったと思う。印象に強く残っている。「小」ではなく70分の大作。ロッシーニ最晩年の傑作で、同曲はジュリーニでロンドンでも聴いた。

シュパイアー大聖堂の内部

ジェルメッティ(Gianluigi Gelmetti, 1945年9月11日 – 2021年8月11日)は知らない方も多いだろう。僕もこの時に聴かなければそうだったと思うが、セルジュ・チェリビダッケ、フランコ・フェラーラ、ハンス・スワロフスキーの弟子で、指揮姿は無駄がなく美しい。歌、リズム、ニュアンスとも最高。当代イタリアを代表するロッシーニ指揮者としてアバド、サンティを継げる人だったと思う。ラテン系のレパートリーは水を得た魚だがドイツ物もシューベルトのグレート、ブルックナー6番がyoutubeにあり、ヘンツェの交響曲第7番を初演するなど現代の音楽にも適性が非常にある素晴らしい指揮者だった。シドニー交響楽団のシェフを最後に76才での訃報を最近になって知った。惜しい。1度しか聞けなかったことが痛恨の極みだ。

きかなくても彼のボエームがいいのはわかる。ああ劇場で体験したかった。

ローマ歌劇場の「ヴォツェック」をUPしていただいたのは嬉しい。ここではジョコンダを聴いたことがあるがこれは貴重だ。非常にいい。ジェルメッティの半端でない守備範囲をお分かりいただけるだろう。

春の祭典。見事な演奏。指揮が運動神経抜群なので手のうちに入ったオケが確信をもって弾けている。サントリーホールでこれを体験した方がうらやましい。

最後にラヴェルを。これまた極上、本当に素晴らしい。このCDは僕の宝物だ。買うかどうか迷ったが、ドイツのオケというのが気になったからだ。まったくの杞憂であった。冒頭の地図をもう一度見ていただけばシュトゥットガルトがほぼフランス文化圏でもあることがわかる。ラテン的なクラルテで硬質な響き、たっぷりと夢見るように歌う暖色の弦、涼やかに青白いフルート、きれいなアクセントで明滅する木管、流れるようにからまる油質の横糸、決然と刻むリズムで赤く熱していくアタッカ。これだけ多彩な絵の具を弄して描いたラヴェルはそうはない、まさしくセクシーだ。

5年前に同CDから「クープランの墓」だけ切り出していた。

これを墓碑としてお見送りすることになった。素晴らしい音楽を有難うございます。ご冥福をお祈りします。

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LPレコード回帰計画2(オーディオはエロスである)

2021 FEB 28 10:10:25 am by 東 賢太郎

オーディオショップのSさんには教わることが多い。先日のLINN Klimax LP12だけの設定にあった点を補正しようとLINNのフォノイコライザーをはずしてBurmester 100 Phono EQに、カートリッジはEMT JSD VMに替える実験を行った。素人なので個々の機材の特性はまったく知らない。

僕の趣味は「教会の音」であり、石を感じる音響である。シュヴェツィンゲン音楽祭の教会でロッシーニのスターバト・マーテルをきいてこれだと思った。音響もさることながら、俗世間から隔絶されてちょっと厳粛で背筋がピンとする異空間。そこに入ったぞという気分の変容は「精神のスパイス」とでもいうべきもので、それをふりかけると音楽をリッチなものにしてくれる感じがしたのだ。それを再現したい。

とすると、日本家屋の木の壁がオルガンに共振するイメージは懐きがたい。リスニングルームの壁面、床は石材にした。部屋に仄かな残響がありスピーカーから7mの距離で聴く。残響は音源に入っているからHiFiに取り出せばいいというのがオーディオの本流なら僕はぜんぜん別人種だ。残響が前方からしか来ないなんて非現実に忠実なHiFiなど存在意味不明である。そこで5chが出現するのだろうが、サラウンドを人工的に作ったところでまだ音源依存だ。部屋の残響に包まれたほうが自然なのは、そこでピアノを弾いてみれば誰でもわかる。

ただし、それをするには2つのリスクを覚悟する必要があることを経験的に理解した。低音がブーミーになり、中音が混濁することだ。従って、それを可能な限り減殺してくれ、低音と倍音の振動を耳元と身体で感じれば仮想現実としては満点の機材だという思想に行きつくのである。オーディオ好きには邪道なのだろうが、僕は音源に完全依存して残りの音楽人生を委ねるほどレコード会社のプロデューサーやミキサーの耳を信用していない。だから部屋も鳴らして全部の音源を好みの音世界に引き込みたい我田引水リスナーなのである。結論から言うと、この実験で2つのリスクはかなり減った。良い装置ということと思う。

オーディオは面白いとだんだん思うようになった。ZOOMとこの装置でリモート飲み会をやったらけっこうリアル感出るだろうなあ、いや、満員の居酒屋のガヤガヤにまじって「大将、あと熱燗3本追加ね」「へ~い、シシャモはどうします?」なんて聞こえてくるCDはどうか。『日本めぐり一人酒』新橋編、歌舞伎町編、北新地編、道頓堀編、栄編、中洲編、すすきの編、流川編なんてあって、銀座編は「あ~らあ~さん、いやだわおひさしぶりで」から入る。買ってもいいかなあ。

前にSさんに「オーディオはエロスだ」と言ったことがある。教会からいきなり飛んで面食らったろうが、非常に少数派だがブーレーズの春の祭典はエロティックだという人はいる。第2部の序奏でバスドラのどろどろのところ、その後で弦のハーモニクスにフルートの和音が乗っかるところなど物凄く妖しく色っぽく、高校時代から参っていた。これはエロスの本質が何かという大命題にふれるからここでは書かないが、あのレコードに何を聴きたいかということではあり、それがうまく出るのが良い装置だという意味において、僕にとって、まぎれもなくオーディオはエロスなのである。

もっというならミュージックの語源ミューズ(ムーサ)は女神だ。これをなんとしよう。ショパン弾きは美女がよくてむさくるしいおっさんはいかんとかいう芸能話ではない、良い音楽というものには隠し味としてエロスが潜んでいて、だから常習性があるんですかねっていう類のことだ。リスニングルームに教会トーンを持ち込んだ僕としては、カトリック教会が女性司祭を認めないことに厳粛に思いをいたしているし、だから少年合唱団やカストラートがいたのだと知ってもいるが、18世紀に教会を出るやいなや音楽がむくむくとミューズの本性を露わにし、エロスのパワーで男も女も席巻した驚異に圧倒されてもいる。

だから演奏家に求めるのはそれを解き放つ司祭の役なのだ。四角四面に譜面を読んで、コンプライアンスは万全ですみたいな演奏があまりに多い。そんなもの色気などあろうはずもないし、そもそも司祭に役人や評論家みたいな毒にも薬にもならない人種は向いてない。イエスが意図的に男のみを弟子に選んだことに対しローマ法王フランシスコは「完全に不適切」ではなく「司祭に女は永遠にだめだ」と言った。森さんは改宗すればいい法王になるだろう。クラシック音楽の司祭はそのぐらいのアクの人の方がふさわしい。ブーレーズの祭典はコンプラだと思う人がいてもいいし、バーンスタインやカラヤンの方が盛り上がっていいという人がいても結構だが、僕は話が合うことは永遠にないだろう。定型などない、合うか合わないかだけのエロスが潜んだ話だからだ。

そしてオーディオに求めるのは司祭のパッションを伝えることだ。熱いかクールかは別として、それのない司祭は用がない。パッションがアトモスフィア(atmosphere)となったものが東洋でいう「気」であり、会場を包み込んで聴衆の「気」を導き出してこの世のものとも思えぬ感情の奔流を生む。これを僕はベルリンのカルロス・クライバーで体験し、NYのプロコ3番で恐山の巫女が失業しかねない昇天ぶりであったアルゲリッチ、フィラデルフィアのシベリウスで涎を垂らしそうなほどピアニッシモに恍惚となったクレーメルで味わった。そういうものはもはや楽器の音だけが生むのではないし、ビデオで視覚情報を付加すれば伝わるものでもない。会場で目を閉じていても伝わる「気」というものを我々は空気振動という物理現象で耳だけでなく身体ぜんぶを使って感知していると思われる。

良い装置と教会的密閉空間で「精神のスパイス」として効いてくる鑑賞体験が可能かもしれない。まだそこまで経験していないがそのうち出てくるかもしれないという期待はしたい。

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E.T.Aホフマン「牡猫ムルの人生観」

2020 FEB 29 0:00:47 am by 東 賢太郎

序論

世の中は新型コロナで騒然としてきた。僕はウィルスのメカを医師に教わったり本やネットで調べたり、大昔からそういうことが好きであり、その結果で腑に落ちた世界観に忠実に2月から行動してきたのがコロナの一連のブログだ。世間がいまさらになって何を騒いでるかなんてことにはからっきし興味がない。唯一あるとすると、KOVID-19が特異だということだ。ウィルスはこわいし徹底して忌避しているが、それはそれとして、ぎょしゃ座エプシロンの伴星ぐらい知的好奇心を喚起されるものがある。この星に子どもの時からずっと興味があるが行ってみたいとは思わないのと一緒である。

人も物事も、齢65にもなると大事なのは興味あるかどうかだけだ。それは、僕の場合は「特異かどうか」なのだ(特異点さがしこそ僕の本質)。「特異」の意味を定義しておくが、「普通でない」ということだ。ではまず普通とは何か。ここでそれを表す日本語が少ないことに気づく(古語だと「つね」)。英語はcommon、usual、normal、average、ordinaryなど盛りだくさんだが、それらの否定語がすべて、ニュアンスの異なる「普通でない」になる。僕の言う「特異」はそのどれでもないからそもそも特異なのである。では何かというと、ある一点をもって偏差値80以上ほどのスペックが明確にあり、そのことが奇異だという、なにか秘境を見つけたようなワンダフルな特別のエモーションを喚起するものであって、英語はそれに対し、普通の否定形でない独立の形容詞を用意している。それはeccentricだ。

言葉は民族の感性と思考が生む。日本人は普通に重きを置かず西洋人は置く(だから分別する語彙が豊富)が、それはそもそも人間に同じ人はいないというギリシャ的視点からは同質の集団が珍しく、名前を付けて区別する動機があったからで、逆に日本人は人間は(庶民は)同質で、いわば羊が不加算名詞であるに似て、区別する動機がなかったから語彙が少ないのだと思う。西洋はその反作用として「普通でない」ものの普通でなさを細かく認識する語彙も豊富になったという気がするのだ。日本ではそれは「変な」「妙な」「けったいな」で感情的に否定して思考停止で終わってしまい、主知的な観察は放棄してしまう。つまり、根っから異質を嫌うそういう民族だということが語彙で分かる。

eccentric(エキセントリック)を多くの日本人は否定的な形容詞と思っているだろうが、むしろとんがった所を肯定するニュアンスだってある。ところがそれをうまく表す日本語がない、だからそういうことになるのである。僕においてはクラシック音楽は、常人が書けるものではないeccentricな音楽であり、したがって、そう定義した非常にピンポイントな意味において「特異」である。そう書きながら自分で馬鹿だと思うのは、特異な曲しかクラシックとして残らないトートロジーではないかと感じるゆえだ。つまりそれは長い時を経て西洋人が、それもとんがりを「なにか秘境を見つけたようなワンダフルな特別なエモーションを喚起するもの」として愛でることのできる美的素養、教養のある人たちが愛好してきたものだけのクラスターだ。だから「クラシック音楽」というジャンルは一曲一曲、特異を生むわくわくするような秘密があるのあり、僕のような習性の人間には楽譜を解剖してそれを解き明かす無上の喜びの宝庫である。

そのことは音楽だけでなく人間にも当てはまる。クラシックにまつわるすべての人物の内でもとりわけ特異な男がいる。eccentricだがもちろんその言葉のポジティブ・サイドの極だ。作曲家はみなとんでもない男ばかりだが、格別に特異であるのが本稿の掲題ホフマンである。能力というもの泣いても笑ってもアウトプットしたものでしか他人にわかりようも認められようもがないが、この男のそれは質も量も巨大だ。量だけならワーグナーに軍配が上がるが、それは音楽いち教科のこと。ホフマンは三教科で全部80越えだから異質の異能、二刀流どころか三刀流の達人であり、僕にとってあらゆる角度から興味を引く人間の最右翼である。いま邦訳で手に入る彼の小説を片っ端から読んでいるところだ。

 

(1)法律を学んだ音楽家たち(才能の二面性について)

E.T.A.ホフマン(1776 -1822)は法律家の家に生まれた。彼がどういう人であったはわかりずらい。ケーニヒスベルクの陪席判事、プロイセンのワルシャワ市首席行政官、バンベルグの劇場支配人、ライプツィヒの音楽新聞の評論家、プロイセン大審院判事というところが給金を得るための公の職業であったが、後世は彼をまず幻想文学の小説家として、次にくるみ割り人形、コッペリア、ホフマン物語の原作者として、そして、作曲家ロベルト・シューマンに文学的影響を与えたマイナーな作曲家として記憶している。僕はというと、オペラ、宗教曲、交響曲、室内楽、ピアノ・ソナタが200年後にCDになっている人類史上唯一の裁判官として評価している。大酒飲みでパラノイアであり、反政府の自由主義者としてメッテルニヒに処分されそうになったが、うまく逃れてベルリンで梅毒で死んだ破天荒の男だ。

総合音楽新聞(1808年)

彼の「公の職業」はパンのためで、ライフワークは文学、なかんずく音楽であった。著名な音楽評論家でもあって、Allgemeine musikalische Zeitung(総合音楽新聞)の執筆陣に名を連ねている。この新聞は最古の楽譜出版社で今に至るブライトコプフ・ウント・ヘルテル社(https://mag.mysound.jp/post/491)のオーナー、ヘルテルらがドイツを中心とした音楽界の事情を発信するメディアとして立ち上げたものだ。19世紀になると作曲家は楽譜を印刷して収入を得ることで自立の道が開けた。そのため彼らは出版社と運命共同体であり、出版社は新聞に識者による評論を掲載して彼らの新作をプロモートし円滑に売ることができる。その良好な関係がワークするには執筆陣の質的な優位性はもちろんだが、同時に中立性が求められた。同紙が「御用新聞」でないことは、例えば、後に金の卵となる若きベートーベンが1799年の同紙で「モーツァルトの『魔笛』主題による変奏曲」を始めとする初期の変奏曲の変奏技術を同紙の複数の論者に酷評されていることで証明されている。

ところが同じ年のピアノ・ソナタ作品10(第5-7番)のレヴューで評が好転し、彼の作曲スタイルが初めて認知された。その後数年で、彼の初期作品の複雑さが同紙で重ねて議論されるようになり、それなら再演して確認しようという声が上がりだした。その例として1804年に同紙の発起人で主筆のヨハン・フリードリヒ・ロホリッツ(ゲーテ、シラー、E.T.Aホフマン、ウエーバー、シュポーアの友人)が交響曲第2番ニ長調(1803)の再演を求めていることが挙げられる。2番が難しいと思う人は現代にはいないだろうが、当時、初演だけでは専門家にも理解が充分でない “現代音楽” だったことが伺える。かように出版と評論が表裏一体を成して新作の理解と普及に能動的に関与していた。ロマン派に向けて準備していた時代のダイナミズムを感じられないだろうか。

Hoffmann’s portrait of Kapellmeister Kreisler

その最も著名な例だが、E.T.Aホフマンは評論家として今日あるベートーベンの評価に貢献している。それは1808年(上掲写真の年)に同紙に発表した交響曲第5番、コリオラン序曲、ピアノ・トリオ作品70(第5,6番)、ミサ曲 ハ長調 作品86、エグモント序曲論考であった。それが大きな影響力があったことはベートーベン自身が謝辞を述べたことでわかる。これぞホフマンの審美眼と文筆力のあかしだ。ちなみに本稿掲題の「牡猫ムルの人生観」に登場する楽長クライスラーのポートレートはその際に同紙に初めて登場している。ベートーベンもこの絵を眺めたのだろう。なおクライスラーという空想の人物はホフマン自身の分身、カリカチュアであることは後述する。

ホフマンの音楽はyoutubeで聴ける。廣津留すみれさんに教えていただいたクララ・シューマンのピアノ・トリオも良かったが、もっと前(1809年)に書かれたE.T.A.ホフマンのトリオもこの出来である。

お気づきと思うが、第4楽章はジュピター音型(ドレファミ)を主題としている。ペンネームのE.T.A.を使用しだしたのがやはり1809年であり、その “A” の由来を「Amadeusから」と述べている彼が音楽でモーツァルトへの敬意を示したのがこれだろう。

更に素晴らしいのは「ミゼレーレ、変ロ短調」である。

1809年の作品であるが、ここにもモーツァルトのレクイエムの和声や書法を想起させるものが聴こえる。

これだけの作曲ができる人がプロイセン大審院判事として判決文を書いていたという事実は一応の驚きではあるが、論理的な作業に人一倍すぐれた能力があるという理解でくくれないことはない。しかし、一転して、感性の領域である「砂男」などオカルト文学、幻想文学の作家でもあるという二面性の保持者となると、そのどちらもが人類史に作品が残る水準にあったという一点において非常に異例だ。ワーグナーは楽劇の台本も自分で書いたが、音楽のない指輪物語でどこまで彼の名が残ったかは疑問に思う。

ホフマンに限らず、音楽と法学をやった人は意外に多い。テレマン 、ヘンデル 、L・モーツァルト、チャイコフスキー 、ストラヴィンスキー 、シベリウス 、シャブリエ、ショーソン、ハンス・フォン・ビューロー、ハンスリック、カール・ベームなどが挙げられるが、このことをもって僕は「二面性」と言うのではない。比喩的に極めて大雑把に丸めればどちらも論理思考を要する点で理系的であり、この名簿にロベルト・シューマンも加わるわけだが、同時に、文学者、詩人というすぐれて文系的な資質も開花させる才能を併せ持つのは異例だという意味で二面的なのである。そして、以下に述べるが、名簿の内でもシューマンだけはE.T.A.ホフマンに匹敵する才能の二面性の保持者であった。それが本稿の底流に流れるもうひとつのテーマである。

シューマンがハイデルベルグ大学で法学を学んだアントン・ティボー教授も上記名簿のひとりだろう。同大学は1386年創立。ヘーゲルやマックス・ウェーバーが教授を勤め33人のノーベル賞受賞者を出したドイツで1,2を争う名門大学だ。ティボーはパレストリーナをはじめとする教会音楽の研究家でハイデルベルクを代表する楽団 “Singverein” を創設、運営していた音楽家でもあるが、ドイツの法典を「ナポレオン法典」に依拠させるか否かの「法典論争」の主役を張った法学界の大家である。ローマ法を基盤とする汎ドイツ的な民事法を「一種の法律的数学」とした主張は、キリスト教徒がルネッサンス以来懐いてきたアポロ的理性で諸侯が群立する神聖ローマ帝国に啓蒙の光を投じようという啓蒙思想的、自由主義的なものだ。中産階級市民の子であったシューマンが共鳴しそうな議論だが、しかし、教授は教え子に関しては「神は彼に法律家としての運命を与えていない」と審判を下し、シューマンは20才でライプツィヒに戻ってフリードリヒ・ヴィークに弟子入りする運命になるのである。

(2)フリーランスの音楽家

外科医の娘であったシューマンの母親が息子に法律を学ばせたのは、絶対王政末期から国民国家の揺籃期の当時、ガバナンスのツールである法典の専門家に権力側の需要があったからだ。法学は中産階級が確実に食える実学だったのである。かたや音楽家はミサを書いたりオルガンを弾く教会付きの職人でしかなく、宮廷に職を得てもモーツァルトですら料理人なみの待遇だった。「フリーランスの音楽家」などというものはベートーベンが出現するまで存在しなかったのである。19世紀に大学に通う子弟の家庭は地位も財力も教養もアッパーである。好んで息子を音楽家にする選択肢はなく、息子の方も教会と貴族によるアンシャンレジームに取り入る方が人生は楽だった。かような時代背景の中、神童ではなかったシューマンはピアノ演奏を覚えはしたが、20才まで作曲家になるレベルの訓練を受けていない。

日本語のシューマン本はほとんど読んだと思うが、その彼の思春期について音楽家か詩人かで迷う文学青年のごとく描くのが馬鹿馬鹿しいほどステレオタイプと化している。独語の種本のせいなのか日本人特有のセンチメンタルなパーセプションなのかは知らないがどっちでも構わない。本稿で本当にそうだろうかという反問を呈したい。僕は独語の原書が語学力不足で充分に読めないしその時間もないが、日本語になった充分な根拠があると思われるピースを推論という論理の力を借りて組み合わせるだけでもその反問は成立する。天才的作曲家であったという結果論から推論を逆行するのは学問的にナンセンスで「天才」という思考停止を強いる言葉は危険ですらある。音楽家の道を推してくれた父を16才で失い、20才で法学に挫折して国に帰ってきた青年である。本当に音楽、文学で食っていける自信があったの?というのが自然な疑問であろう。

その証拠に、なかったからピアノに人生を賭け、同い年のショパンにコンプレックスと焦りを覚え(それは評論家の仮面で巧みに隠している)、だからこそ自ら大リーグ養成ギブスばりの機械を作って星飛雄馬みたいに特訓し、ついに指を故障してその道すら断たれてしまったのである。夢見る詩人のシューマンはそんな悩みと無縁だったという類の仮定は否定する論拠はないが、現実性がないという反論を否定する論拠もない。最も身近にいた母は亭主が残したそこそこの遺産を相続したが、息子がそれを食い潰して終わる懸念を強く持ち、だから名門大学に進ませ、彼もそれにこたえるだけのギムナジウムでの優等な成績をあげていた。音楽の道と別の何かとを迷ったとすれば、それは法律家だったに違いない。彼のその道での生まれ持った能力が、その時点での意思に現実性を与えていたかどうかは別としてだが。

そう考える根拠は2つある。まず、彼が作品を愛読して強い思想的影響を受けたアイドルであるE.T.A.ホフマンが、まさにお手本のようにそれに成功した人だったからである。そしてもうひとつは、指の故障でピアニストを断念したおり「一時はチェロに転向することや音楽をあきらめて神学の道に進むことも考えた」(wikipedia)ことだ。彼はハイデルベルグ大学に進む前にまず父の母校であるライプツィヒ大学の法科に入ったが、彼が心酔したもうひとりのアイドル、ジャン・パウルは同大学神学部に在籍して1年で文壇に転身して成功した。法学の道もすでに断たれ自信も指針も喪失したシューマンが作曲でなく神学の道に向きかけたことは、彼にとって何が「現実的」だったかを雄弁に証明してくれる。

現実性がない、という主張は歴史の大局を眺めない人にはピンとこない。時はナポレオン戦争後のウィーン体制下だ。そこで再びパリで革命の狼煙が上がる。靴屋だろうと音楽家だろうと法学者だろうと、シャルル10世がギロチンで斬首かという隣国の暴動に無縁、無関心でいられた人はいない。音楽史というのは戦争、政治力学、貨幣経済によほど鈍感、無知な人が書いているのか、とてもナイーブな、宝塚のベルばらのノリの説が堂々と真面目に信じられている。ウィーン体制が全面的に崩壊するのは1848年だが、その端緒となった七月革命は遠くポーランドにまで飛び火して、蜂起した祖国がロシアに蹂躙され悲嘆したショパンは『革命のエチュード』を書く、それほどの重大事件なのだ。20才のシューマンの精神状態はそのパラダイムに規定されていたという世界的常識に基づいて思考するというインテリジェンスなくして語れないものである。

音大の学生で七月革命とは何だったか正確に知ってそれを弾いている人がどれだけいるか?知らなくても音符は弾けるが、ショパン・コンクールのような舞台で満場を唸らせる演奏をしようというなら、カール・ベームが指揮者の条件とはと問われて「音楽の常識です」と答えたその事を心したほうが良い。その年にショパンと同じ20才だったシューマンが無縁であったはずはない。彼はビーダーマイヤー期の旧態依然たる人々を「ペリシテ人」と名づけて揶揄し、それに対抗する「ダヴィッド同盟」なる彼の革命のための脳内結社を作るが、フリーランスの音楽家に挑むも指を怪我してしまった不安な彼にとって心の要塞のようなものだったろう。『ダヴィッド同盟舞曲集』はもちろんのこと、『謝肉祭』や『クライスレリアーナ』を弾こうという人がそうした常識を身に備えていないというなら、僕には少々信じ難いことである。

(3)ベートーベンの後継者

その時代においてベートーベンこそ貴族にも教会にもひれ伏さず、群れを嫌い、権威を嫌い、束縛を嫌う叩き上げのスキルの持ち主だった。難聴だったことで彼の音楽に価値を認めた音楽家はいない。それは楽譜の読めない後世の信者が神殿に奉納した「天才伝説」という聖者の冠であり、モーツァルトの借金伝説と同様のものである。音楽家はまずピアノの即興演奏と変奏の技量で、そして何より名刺代わりの交響曲の作曲で、彼を人生の目標とした。新時代にフリーランスの音楽家として食っていくためにはベートーベンの正統な後継者だというレピュテーションを得ることが出世のパスポートだったからである。20才で法律を捨てて音楽で身を立てる決意をしたシューマンは、名誉もさることながら、それを得るコミットメントを自らに課したのである。

アントン・フリードリヒ・ユストゥス・ティボー(Anton Friedrich Justus Thibaut, 1772年1月4日 – 1840年3月28日)

神童でありティーンエイジャー期に職業音楽家としての特訓を受けたモーツァルト、ベートーベン、ショパン、クララ、リスト、メンデルスゾーンらに比べ、作曲家としてのシューマンの心のありようには別種の立ち位置があるように思えてならない。私事で誠に恐縮だが、都立高校出で受験技術の訓練を積んでいなかった僕は大学で出会った有名難関校出に根本的に違う資質を見たが、ああいうものが20才まで作曲素人だったシューマンにあるように感じてしまう。10代の思考訓練は一生の痕跡を残すが、20を過ぎてからのは必ずしもそうならない。彼が根っからのロマンチストであるなら若くして十分に達者であったピアノでショパンのように詩人になり、交響曲やカルテットは書かなかったろう。しかし、彼はそういう人ではなかったのだ。町名(ASCH)を音化したり、ABEGGの文字を変奏したり、クララの文字や主題をミステリー作家のようにアナグラムとして仕掛けを施す論理趣味があり、バッハの平均律への執着、ベートーベンのピアノソナタ、交響曲のテキスト研究は文学青年の作曲修行などではなく、10代の思考訓練の賜物としての内面からの欲求であろう。その精神が青年ブラームスにも伝わり、ハンス・フォン・ビューローの「バッハは旧約、ベートーベンは新約」の言葉に受け継がれていったのではないだろうか。

ここでもう一つ、背景を俯瞰しておく。興味深いことだが、神学と哲学と法学と音楽はテキスト研究、解釈の方法論の厳格さにおいて科学に比肩する。神学についてあまり知識はないが、科学と神学は中世では同義であり、聖書の厳格なテキスト研究がマルティン・ルターのプロテスタンティズムを生んだと理解してる。音楽と法学は、明白に人間の書いたものなのに、あたかも神の法である科学の如く扱うという姿勢を、少なくともドイツ語圏ではとっていた。それはア・プリオリの法則ではなく、かくあるべしという「心理的態度」に過ぎないのだが、アントン・ティボー教授の「民事法は法律的数学」という比喩に見事に表象されている。後に音楽を数学的に扱う作曲家が現れるのもこの観察に整合的だろう。

音楽先進国イタリアには左様な心理的態度が芽生えなかった。「歌」に理屈はいらないだろうが、さらに本質的な理由として、カソリックが宗教改革と無縁であり続けたことと軌を一にするように思える。それは真にドイツ的な、ドイツ語世界での現象である。シューマンがとった態度を見ると、北イタリアを旅はしたが、ロッシーニを酷評し、オペラ等の歌は器楽の下に見る地点からスタートしている根っからのドイツ人である。アリアのように感じたまま気の向くままに心をこめて音楽すればいいという姿勢は程遠い。彼は評論家としてベルリオーズの幻想交響曲を医学の検体のような眼で眺め、第1楽章の自らによる子細な分析スタンスを「解剖」という言葉で端的に述べている。

(4)シューマンのファンタジーの深淵

一方で彼には、二面性の他方である、先達にはない非常にオリジナルな側面があった。文学からのインスピレーションである。文学者を志しライプツィヒ大学に学んだ父アウグスト、詩作を嗜んだ母ヨハンナから受け継いだ資質だろうが、彼の楽曲が生き残ったのは解剖、解析による堅固で論理的な要素の貢献よりも、その資質による詩的な要素の魅力によるところが多いというのは衆目の一致する所だろう。彼自身も、名人芸を浅薄としイタリア風を否定したが、同時に、規則にがんじがらめの対位法家を糞食らえとしている。「根本的に勉強したあとでなければ規範を軽蔑しないように。これ以上危険な反則はない」と述べている(「音楽と音楽家」38ページ)のに、「わたしはナイティンゲールのように、歌がつぎつぎとあふれてくる。わたしは歌って、歌って、歌い死にしそうだ」(同248ページ)とも書いているのが二面性の裏面だ。理性と情緒。その両方がバランスを時々に変化させながら、後にも先にも類型のないシューマンの音楽というものを形作っている。

『新音楽時報』(Die Neue Zeitschrift für Musik)

彼は評論においても、ホフマンに負けず劣らず理性と情緒を駆使して美文調だが本質を鋭利に見抜く眼で音楽を語っている。シューマンの音楽評論はそのほとんどが、冒頭の「総合音楽新聞」(1798年創立)と同じライプツィヒでシューマン自身が発起人として1834年に創立した「新音楽時報」(Die Neue Zeitschrift für Musik)にて展開されることになる。「総合音楽新聞」の確立したベートーベン崇拝の伝統を受け継ぎ、シューベルトを発見し、ショパンの天才、ベルリオーズの新しさ、メンデルスゾーンの新古典主義を讃えるなど、ロマン派幕開け期の作曲家と作品の評価を高める貢献があったと評されているが、読んでみた僕の感想は、主情的、感覚的な人間と思われているシューマンが公平で客観的な眼を持っていることだ。ここにも二面性が現れている。

同年生まれのライバルでもあるショパンの持ち上げ方は理性を超えているように見えるが、彼の理性は科学のように客観性を内包した性質のものなのだ。シューマンにベルリオーズを称賛すべき何があるのか?「最高の力を持っているのは女王(旋律)だが、勝敗は常に王(和声)によって決まる」と述べている事実がある。そこで彼の幻想交響曲の第1楽章の子細な「解剖」を調べてみると、ブログで僕が展開部ではさらに凄いことが起こる。練習番号16からオーボエが主導する数ページの面妖な和声はまったく驚嘆すべきものだ。と書いた第1楽章のその部分に何の反応もコメントもしておらず期待外れだ。彼の称賛は和声も標題も形式も包含した新しい音楽(ノイエ・ムジーク)への情熱からベルリオーズをダヴィッド同盟の同志と見たものだと解するのが説得力があろう。マーラーが「私はシェーンベルクの音楽が分からない。しかし彼は若い。彼のほうが正しいのだろう」と評価したのと似たスタンスかもしれない。

「新音楽時報」の2019年4月号

「新音楽時報」は一時の中断を経て現在も刊行されているが、19世紀初頭から脈々と続く「ドイツ語世界」での批評家精神は畏敬に値する。批評、評論というものは主観に照らしたその物の形であるが、評者の思考プロセスに一定の普遍性、客観性が備わっていなくては説得力がない。評論にフロレスタンとオイゼビウスという ”二面性キャラ” を登場させ、知的に戯画化した文学的創作(ドビッシーが ”クロッシュ氏” によってそれを模倣しているが)がシューマンの評論を乾ききった理屈の干物にしないばかりでなく、自己の心のうちに潜む対立する2本のナイフによってその物の形をクリアに彫琢する。この手法は敬愛した文学者であるジャン・パウル、E.T.Aホフマンから継承したものであった。

バッハ、ベートーベンに習った「一定の普遍性、客観性」という入れ物のなかに、持ち前の詩情、ファンタジーの泉がこんこんと湧き出ているという様相が僕にとってのシューマンの楽曲の特性だ。

(5)「牡猫ムルの人生観」

『牡猫ムルの人生観』2巻。

E.T.A.ホフマンの長編小説「牡猫ムルの人生観」は学識のある猫による自伝である。ムルは上述した楽長クライスラー(ホフマン自身だ)の自伝のページをちぎって下書きやインクの吸取り紙として使用したが、製本ミスでそれが挿入されたまま両者が交互に現れる形で印刷されてしまったという誠にトリッキーで実験的な構造を持っている。当然ながら、章ごとに場面も人物もガラッと変わるが、その様はミステリーのカットバック手法かと思う程だ。何か深い意図があるか?と思ってとりあえず身構えて読むと、実は単なる印刷の失敗でしたというタネは落語的でもある(それでも捨て猫のムルが引き取られるのがクライスラー自伝の始めに来ているので時間的連続性は担保)。

ジャン・パウル(1763 – 1825)

シューマンは自己の精神の内奥に潜む二面性を知り、まったく同じものをE.T.A.ホフマンに見た。ホフマンはこの小説で自己を楽長クライスラーに投影し猫ムルとの裏表の二面性を描いたが、クライスラーという自分のカリカチュアは、ジャン・パウルが自作に登場させたドッペルゲンガー(Doppelgänger、自己像幻視である。10代のころジャン・パウル(マーラーの「巨人」の作者)を精読し、その世界に浸りきっていたシューマンは自己像をひとつ提示するのでなく、アポロ的人物(フロレスタン)とディオニソス的人物(オイゼビウス)に分割した。ふたりの対話で評論は書かれるが、実は彼らはそれを記述しているシューマンに対するドッペルゲンガーであり、シューマンは文面に出ないがシャーロック・ホームズに対する記述者ワトソンとして存在している。

同書は「そもそも猫が執筆なんて」というところからホフマンの術中にハマれない頭の固い御仁はお断りでございという軽妙洒脱とハイブロウな粋(いき)がスマートで格好良く、愛猫家の必読書である(ただし岩波の日本語版は絶版だ。独語、英語は入手できる)。そこはソフトバンクのお父さん犬と同様だ、それってアリだよねと楽しんでしまう姿勢がいいねという暗黙知が世間にあるからそのキャラが成り立つのであって、見た者は死ぬと伝わるドッペルゲンガーの不気味さはないが、何せ未完だから本当はどういう構想だったかは謎だ。

フラクタル図形ツリー

シューマンはこれを読んだインスピレーションで「クライスレリアーナ」を書いた。本作は漱石の「吾輩は・・」と歴史的名作をふたつも生んだ偉大な作品ということになる。E.T.A.ホフマンは生涯の業績をマクロ的に見てもお化けのように巨大だが、こうして細部をミクロで見てもやっぱりお化けであるというフラクタル型巨人である。漱石は作中で本作に軽く言及している。知ってるけどパクリでないよというスタンスだが、どう考えてもパクリだろう。それでも上質のパロディではあるから不名誉どころかお見事と称賛したい。ただ、漱石は猫に自分の言いたいことを語らせただけであり、ドッペルゲンガーの闇はない。

 

自分という他人( ロベルト・シューマンの場合)

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僕が聴いた名演奏家たち(ヘルベルト・フォン・カラヤン)

2019 DEC 20 22:22:03 pm by 東 賢太郎

昭和のころ、「巨人・大鵬・卵焼き」というミーハーを揶揄する言葉があった。そのクラシック版は?というなら「巨人・カラヤン・卵焼き」だろう。「外車はベンツ、第九はカラヤン」でもいい。クラシック通を自認していた御仁たちはそんな初心者と俺はちがう、ミーハーと一緒にするなと「カラヤン嫌い派」を形成していたように思う。もっと上級者の領域では様相はやや違う。カラヤンはたしかにベルリン・フィルを率いるだけの腕達者であって、新譜が出てくれば悔しいけど聴かずにはいられない。聴きたい。それは否定し難い。しかし、それでも私はイケメンで才能があって富豪で権力者などというのは許し難く認め難いのだ、要は、そういう奴は無条件に嫌いなのだという層もあった。識者であるその連中は「欠点はあるぞ、彼の華美な作り物の音楽だ、あんなものは低級な俗物だ」という方向に攻撃材料を作った。ある評論家は、あれは年増の厚化粧と書いた。なかなかうまい表現だが、要は、男の寂しい嫉妬である。

しかし、日本人よりもっとカラヤンを嫉妬した人がいた。ウィルヘルム・フルトヴェングラーである。どこにもある、強力な若手の台頭にじいさんがビビる話だ。あいつは優秀だ、イケメンだ、正妻のベルリン・フィルを寝取られると怯え、そのとおり取られた。浮気相手のウィーン・フィルも取られた。もう彼は死んでいたけれど、それは非常に正鵠を得た予見であったといえる。カラヤンが権謀術数としてそうしたかどうか知らないが、ライバルのトスカニーニを範としたスタイルでフルトヴェングラーの盤石の牙城に切り込んだのは正解だった。速めの爽快なテンポや流麗なレガートだけではない、レパートリーからしてそうだ。ロッシーニのウィリアム・テル序曲をトスカニーニほど痛快にカッコよく指揮した指揮者はいないが、唯一肉薄したのはカラヤンだ。

我々はフルトヴェングラーはおろかクナッパーツブッシュ、カイルベルト、ベームというドイツの保守本流がスカラ座で蝶々夫人なんかを振る姿を想像もできない。そっちが本家だったイタリアのマエストロ、トスカニーニはベートーベンもワーグナーもブラームスも得意としたが、オーストリア人のカラヤンはその路線を逆輸入して踏襲したと思えばわかりやすいだろう。ドイツ音楽の保守本流ど真ん中に鎮座しながらイタリアオペラでも名をあげた指揮者は彼しかいない。

僕はチャレンジャー時代のカラヤンを聴けた世代ではないが、レコードは彼の才能を雄弁に語ってくれている。中でも最も好きなのが、1963年ウィーン国立歌劇場でのラ・ボエームのライブ録音だ。これはこの名オペラの数ある録音の中でも白眉としての地位を占める特筆すべき記録である。全曲を、ぜひ聴いていただきたい。

このビデオにいただいたコメントにこう返信した。

カラヤンはこの公演直前にスカラ座で新人フレーニをミミに起用して当たり、自信満々でそのプロダクションごとウィーンに持ってきたのです。彼はイタリア語上演にこだわりスカラ座のプロンプターを連れてきたことが発火点になってウィーン国立歌劇場の組合のボイコットにあい、プレミエはストライキで中止になります。数日後にプロンプターなしで合意してやっと幕が開いた初日がこの録音です。労働問題としての理解はできますが、我々日本人はたかがオペラ、たかが娯楽と思ってしまう部分もあります。歌手は外人OKでもそれ以外は国家公務員だし、スイトナーがフィガロをドイツ語で録音したのはこの翌年で、イタリア語上演がそうすんなりいく雰囲気でなかった時代背景も読み取れますね。

モーツァルトがイタリア語で書いたダ・ポンテ・オペラだけではなく、イタオペをドイツの諸都市でドイツ語版で演奏したドイツの指揮者はいる。カール・ベームのオテロ(1944年)、シュミット・イッセルシュテットは運命の力(1952)、ホルスト・シュタインやクルト・マズアもヴェルディを録音したし、フランス語のカルメンのドイツ語版はヘルベルト・ケーゲル盤(1960)やオイゲン・ヨッフム盤(1960)がある。ドイツ語圏で需要があったからだ。上記コメントで「スイトナーがフィガロをドイツ語で録音したのはこの翌年で」と書いたのは、1963年はそれがちっとも不思議でなかった時代だということをお示ししようとしている。

そんな時代に、「スカラ座イタリア語上演」で天下のウィーン・シュターツ・オーパーに乗り込んだのがヘルベルト・フォン・カラヤンだったのである。その歴史的記録こそが上掲ビデオのラ・ボエームなのだ。その試みが伊達や酔狂ではないことは、いまどき、ボエームをどうしてもドイツ人のプロダクションでドイツ語で聴きたい人がドイツにだっているだろうかと問うてみればわかる。しかし、1960年代当時は、まだたくさんいたのだ。だからウィーン国立歌劇場にその専門のプロンプター(歌手が歌詞や出だしを忘れたり間違ったりしないようキューを出す係)がおり、カラヤンが本場スカラ座のプロンプターを連れてきたら俺たちは失業するじゃないか、ふざけんな!と組合に提訴して大騒動となり、なんとオープニング公演がストライキで飛んでしまったのである。

このストライキ事件は元々火種があった歌劇場と裏方従業員の労働時間問題に油を注ぎ、翌1964年に行政裁判所に提訴される。カラヤンのイタリア人プロンプターの起用が与えたオーストリア人プロンプターの経済的損失が争点となったが、ウィーン国立歌劇場はミラノ・スカラ座と互いの最高の制作を交換し合う契約があったのだからおかしいだろうというカラヤンの主張が認められた。理屈からして当たり前であるが、サラリーマン時代に国際派だった僕は「理念だけのグローバル」が純ドメ派のナショナリズムでいともたやすく曲げられるこんな場面に何度も遭遇したのでカラヤンに同情してしまう。そこで宗教裁判に陥らなかった1964年のオーストリアの裁判所は少なくとも現在の隣国のそれより立派である。しかし、その法の裁きが6月出る前の5月、カラヤンはウィーン国立歌劇場の運営ポリシーに愛想をつかし音楽監督を辞めてしまう。

ちなみに、プロンプターが大事ということは上掲ビデオの第2幕で子供の合唱が大きく乱れる部分でわかる。スキャンダルの数日を経てやっとこさで初日を迎えたこのライブ録音は喧嘩両成敗の妥協策としてプロンプターなしで強行されていたのだ。子供はかわいそうだったが、パネライ、タッデイ、ライモンディ、フレーにら大人たちだって我々素人にはわからない数々の難所を迎えていたろう。このビデオにコメントをくださった指揮者の方は「ボエームは指揮するのが最も難しいオペラ」とされている。この演奏で聴けるイタリア人たちの歌はまさにホンモノだ。まだ28才だったミレラ・フレー二はこれに先立つ同曲スカラ座公演デビューで大成功し、彼女の代名詞となったミミはここからスタートしたのである。

イタオペは嫌いだと何度も書いた。ヴェルディの曲はかけらも興味ないし、プッチーニもほとんどはどうでもいい僕が、唯一、ラ・ボエームだけ例外というのは不可思議だ。なぜなら、スコアを見ずに頭の中で全曲リプレイできるオペラといったら魔笛とカルメンとこれしかない。ということは客観的ファクトとして「座右の3大オペラ」に99%以上の曲が嫌いなイタオペが堂々と入っているのだ。なぜそういうことになるのかは「楽譜に即物的根拠があるはずだ」というのが僕の合理主義者としての譲れぬ態度だが、未だに自分の内面を解明できていないというのは少なくない認知的不協和を発生させることになる。不可思議という語をここに置くしかない。

ともあれボエームの全音符が好きであり、全部を一緒に歌いたい。そうすると、若返った気がする。これを振った55才のカラヤンは若くはないが、気概は若かった。わが身と重ねて恐縮だがそれは僕が独立した年齢であり、ギリシャ系の血がそうさせたのだろうか彼はドイツ純ドメ派ではなく国際派だった。「カラヤンは低級な俗物」、「年増の厚化粧」と断じてしまう一派とは高校時代からどうも肌が合わないと感じていたのは血なんだろうか。

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

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クラシック徒然草《音楽家の二刀流》

2018 MAY 6 1:01:11 am by 東 賢太郎

そもそも二刀流とはなんだろう?刀は日本人の専有物だからそんな言葉は外国にない。アメリカで何と言ってるかなと調べたら大谷は “two-way star” と書かれているが、そんなのは面白くもなんともない。勝手に決めてしまおう。「二足の草鞋」「天が二物を与える」ぐらいじゃあ二刀流までは及ばない。「ふたつの分野」で「歴史に残るほどの業績をあげること」としよう。水泳や陸上で複数の金メダル?だめだ、「ふたつの分野」でない。じゃあ同じ野球の大谷はなぜだとなるが、野球ファンの身勝手である。アメリカ人だって大騒ぎしてるじゃないか。まあその程度だ、今回は僕が独断流わがまま放題で「音楽家の二刀流判定」を行ってみたい。

アルバート・アインシュタイン

まずは天下のアルバート・アインシュタイン博士である。音楽家じゃない?いやいや、脳が取り出されて世界の学者に研究されたほどの物理学者がヴァイオリン、ピアノを好んで弾いたのは有名だ。奥さんのエルザがこう語っている。 Music helps him when he is thinking about his theories. He goes to his study, comes back, strikes a few chords on the piano, jots something down, returns to his study.(音楽は彼が物理の理論を考える手助けをしました。彼は研究室に入って行き、戻ってきて、ピアノでいくつか和音をたたき、何かを書きつけて、また研究室へ戻って行くのです)。

アインシュタインは紙と鉛筆だけで食っていけたのだと尊敬したが間違いだった。ピアノも必要だったのだ。たたいた和音が何だったか興味があるが、ヒントになる発言を残している。彼はモーツァルトのヴァイオリン・ソナタを好んで公開の場で演奏し、それは「宇宙の創成期からそこに存在し巨匠によって発見されるのを待っていた音楽」であり、モーツァルトを「和声の最も宇宙的な本質の中から彼独自の音を見つけ出した音楽の物理学者である」と評している。案外ドミソだったのではないかな。腕前はどうだったんだろう?ここに彼がヴァイオリンを弾いたモーツァルトのK.378が聴ける。

アインシュタインよりうまい人はいくらもいよう、しかし僕はこのヴァイオリンを楽しめる。曲への真の愛情と敬意が感じられるからだ。というわけで、二刀流合格。

アレクサンドル・ボロディン

次も科学者だ。「だったん人の踊り」で猫にも杓子にも知られるアレクサンドル・ボロディン教授である。教授?作曲家じゃないのか?ちがう。彼はサンクトペテルブルク大学医学部首席でカルボン酸の銀塩に臭素を作用させ有機臭素化物を得る反応を発見し、それは彼の名をとって「ボロディン反応」と呼ばれることになる、まさに歴史に名を刻んだサイエンティストだ。趣味で作曲したらそっちも大ヒットして世界の音楽の教科書に載ってしまったのである。この辺は彼が貴族の落し胤だった気位の高さからなのかわからないが、本人は音楽は余技だとして「日曜作曲家」を自称した。そのむかしロッテのエースだったマサカリ投法の村田兆治は晩年に日曜日だけ先発して「サンデー兆治」となったが、それで11連勝したのを彷彿させるではないか。「音楽好きの科学者」はアインシュタインと双璧と言える。合格。

ユリア・フィッシャー

巨人ふたりの次にユリア・フィッシャーさんが来るのは贔屓(ひいき)もあるぞと言われそうだが違う。贔屓以外の何物でもない。オヤジと気軽にツーショットしてくれてブログ掲載もOKよ!なんていい子だったからだ。数学者の娘。どこかリケジョ感があった。美男美女は得だが音楽家は逆でカラヤンの不人気は男の嫉妬。死にかけのお爺ちゃんか怪物みたいなおっさんが盲目的に崇拝されてしまう奇怪な世界だ。女性はいいかといえば健康的でセックスアピールが過ぎると売れない観があり喪服が似合いそうなほうがいい我が国クラシック界は性的に屈折している。フィッシャーさん、この容貌でVn協奏曲のあとグリーグのピアノ協奏曲を弾いてしまう。ピアノはうまくないなどという人がいる。あったりまえじゃないか。僕はこのコンチェルトが素人には難しいのを知っている。5年まえそのビデオに度肝を抜かれて書いた下のブログはアクセス・ランキングのトップをずっと競ってきたから健全な人が多いという事で安心した。そこに書いた。゛日本ハムの大谷くんの「二刀流」はどうなるかわかりませんが “。そんなことはなかった。若い才能に脱帽。もちろん合格だが今回は音楽家と美人の二刀流だ。

ユリア・フィッシャー(Julia Fischer)の二刀流

ちなみに音楽家と学者の二刀流はありそうなものだがそうでもない。エルネスト・アンセルメ(ソルボンヌ大学、パリ大学・数学科)、ピエール・ブーレーズ(リヨン大学・数学科)、日本人では柴田南雄(東京大学・理学部)がボロディン、アインシュタインの系譜だが、数学者として実績は聞かないから合格とは出来ない。ただ、画家や小説家や舞踏家に数学者、科学者というイメージはわかないが音楽家、とくに作曲家はそのイメージと親和性が高いように思うし、僕は無意識に彼らの音楽を好んでいる。J.S.バッハやベートーベンのスコアを見ると勉強さえすれば数学が物凄くできたと思う。一方で親が音楽では食えないと大学の法学部に入れた例は多いが、法学はどう考えても音楽と親和性は薄く、法学者や裁判官になった二刀流はいない(クラシック徒然草《音大卒は武器になるか》参照)。

ハンス・フォン・ビューロー

よって、何の足しにもならない法学を名門ライプツィヒ大学卒業まで無駄にやりながら音楽で名を成したハンス・フォン・ビューローは合格とする。ドイツ・デンマークの貴族の家系に生まれ、リストのピアノソナタロ短調、チャイコフスキーのピアノ協奏曲1番を初演、リストが娘を嫁にやるほどピアノがうまかったが腕達者だけの芸人ではない。初めてオペラの指揮をしたロッシーニのセヴィリアの理髪師は暗譜だった。ベートーベンのピアノソナタ全曲チクルスを初めて断行した人でもあるがこれも暗譜だった。”Always conduct with the score in your head, not your head in the score”(スコアを頭に入れて指揮しなさいよ、頭をスコアに突っ込むんじゃなくてね)と容赦ない性格であり、ローエングリンの白鳥(Schwan)の騎士のテナーを豚(Schwein)の騎士と罵ってハノーバーの指揮者を降りた。似た性格だったグスタフ・マーラーが交響曲第2番を作曲中に第1楽章を弾いて聞かせ「これが音楽なら僕は音楽をわからないという事になる」とやられたがビューローの葬式で聴いた旋律で終楽章を完成した。聴衆を啓発しなければならないという使命感を持っており、演奏前に聴衆に向かって講義するのが常だった。ベートーヴェンの交響曲第9番を演奏した際には、全曲をもう一度繰り返し、聴衆が途中で逃げ出せないように、会場の扉に鍵を掛けさせた(wikipedia)。これにはブラームスもブルーノ・ワルターも批判的だったらしいが、彼が個人主義的アナキズムの哲学者マックス・シュティルナーの信奉者だったことと併せ僕は支持する。

リヒャルト・ワーグナー

ちなみにビューローはその才能によってと同じほどリヒャルト・ワーグナーに妻を寝取られたことによっても有名だ。作曲家は女にもてないか、何らかの理由で結婚しなかったり失敗した人が多い。ベートーベン、シューベルト、ブルックナー、ショパン、ムソルグスキー、ラヴェルなどがそうで後者はハイドン、ブラームス、チャイコフスキーなどがいる。だからその逆に生涯ずっと女を追いかけたモーツァルトとワーグナーは異色であろう。モーツァルトはしかしコンスタンツェと落ち着いた(というより何か起きる前に死んでしまった)が、ミンナ(女優)、マティルデ・ヴェーゼンドンク(人妻)、コジマ(ビューローの妻)とのりかえたワーグナーの傍若無人は19世紀にそこまでやって殺されてないという点においてお見事である。よって艶福家と作曲家の二刀流で合格だ。小男だったが王様を口説き落としてパトロンにする狩猟型ビジネス能力もあった。かたや作品でも私生活でも女性による救済を求め続け、最後に書いていた論文は『人間における女性的なるものについて』であったのは幼くして母親が再婚した事の深層心理的影響があるように思う。

モーリス・ラヴェル

ボレロやダフニスの精密機械の設計図のようなスコアを見れば、ストラヴィンスキーが評した通りモーリス・ラヴェルが「スイスの時計職人」であってなんら不思議ではない。その実、彼の父親はスイス人で2シリンダー型エンジンの発明者として当時著名なエンジニアであり、自動車エンジンの原型を作った発明家として米国にも呼ばれている。僕はボレロのスコアをシンセサイザーで弾いて録音したことがあるが、その実感として、ボレロは舞台上に無人の機械仕掛けのオーケストラ装置を置いて演奏されても十分に音楽作品としてワークする驚くべき人口構造物である。まさにスイスの時計、パテック・フィリップのパーペチュアルカレンダークロノを思わせる。彼自身はエンジニアでないから合格にはできないが、親父さんとペアの二刀流である。

アメリカの保険会社の重役だったチャールズ・アイヴズは交響曲も作った。しかし彼の場合は作曲が人生の糧と思っており、それでは食えないので保険会社を起業して経営者になった。作曲家がついでにできるほど保険会社経営は簡単だと思われても保険業界はクレームしないだろうが、アイヴズがテナー歌手や指揮者でなく作曲家だったことは一抹の救いだったかもしれない。誰であれ書いた楽譜を交響曲であると主張する権利はあるが、大指揮者として名を遺したブルーノ・ワルターはそれをしてマーラー先生に「君は指揮者で行きなさい」と言われてしまう(よって不合格)。その他人に辛辣なマーラーが作品に関心を持ったらしいし、会社の重役は切手にはならない。よってアイヴズは合格。

日本人がいないのは寂しいから皇族に代表していただこう。音楽をたしなまれる方が多く、皇太子徳仁親王のヴィオラは有名だが、僕が音源を持っているのは高円宮憲仁親王(29 December 1954 – 21 November 2002)がチャイコフスキーの交響曲第5番(終楽章)を指揮したものだ。1994年7月15日にニューピアホールでオーケストラは東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団である。親王は公益社団法人日本アマチュアオーケストラ連盟総裁を務め造詣が深く、指揮しては音程にとても厳しかったそうだ。お聴きのとおり、全曲聴きたかったなと思うほど立派な演奏、とても素人の指揮と思えない。僭越ながら、皇族との二刀流、合格。

米国にはインスティテューショナル・インベスターズ誌の創業者ながらマーラー2番マニアで、2番だけ振り方をショルティに習って世界中のオケを指揮しまくったギルバート・ キャプランCEO(1941 – 2016)もいる。同誌は創業51年になる世界の金融界で知らぬ者はない老舗である。彼が指揮したロンドン交響楽団との1988年の演奏(左のCD)をそのころロンドンで買った。曲はさっぱりだったがキャプランに興味があった。そういう人が多かったのか、これはマーラー作品のCDとして史上最高の売り上げを記録したらしいから凄い。ワルターよりクレンペラーよりショルティよりバーンスタインより素人が売れたというのはちょっとした事件であり、カラオケ自慢の中小企業の社長さんが日本レコード大賞を取ってしまったような、スポーツでいうなら第122回ボストンマラソンを制した公務員ランナー・川内 優輝さんにも匹敵しようかという壮挙だ。これがそれだ。

彼は私財で2番の自筆スコアを購入して新校訂「キャプラン版」まで作り、他の曲に浮気しなかった。そこまでやってしまう一途な恋は専門家の心も動かしたのだろう、後に天下のウィーン・フィル様を振ってDGから新盤まで出してしまうのである。「マーラー2番専門指揮者」なんて名刺作って「指揮者ですか?」「はい、他は振れませんが」なんてやったら乙なものだ。ちなみに彼の所有していたマーラー2番の自筆スコア(下・写真)は彼の没後2016年にロンドンで競売されたが落札価格は455万ポンド(6億4千万円)だった。財力にあかせた部分はあったろうが富豪はいくらもいる。金の使い道としては上等と思うし一途な恋はプロのオーケストラ団員をも突き動かして、上掲盤は僕が唯一聴きたいと思う2番である。合格。

マーラー2番自筆譜

かように作曲家の残したスコアは1曲で何億円だ。なんであれオンリーワンのものは強い。良かれ悪しかれその値段でも欲しい人がいるのは事実であるし、シューマン3番かブラームス4番なら僕だって。もしもマーラー全曲の自筆譜が売りに出るなら100億円はいくだろう。資本主義的に考えると、まったくの無から100億円の価値を生み出すのは起業してIPOして時価総額100億円の会社を生むのと何ら変わりない。つまり価値創造という点において作曲家は起業家なのである。

かたやその作曲家のスコアを見事に演奏した指揮者もいる。多くの人に喜びを与えチケットやCDがたくさん売れるのも価値創造、GDPに貢献するのであるヘルベルト・フォン・カラヤンは極東の日本で「運命」のレコードだけで150万枚も売りまくったその道の歴史的指揮者である。ソニーがブランド価値を認めて厚遇しサントリーホールの広場に名前を残している。大豪邸に住み自家用ジェットも保有するほどの財を成したのだから事業家としての成功者でもあり、立派な二刀流候補者といっていいだろう。しかし没後30年のいま、生前にはショップに君臨し絶対に廉価盤に落ちなかった彼のCDは1200円で売られている。22世紀には店頭にないかもしれない。こういう存在は資本主義的に考えると起業家ではなく、人気一過性のタレントかサラリーマン社長だ。不合格。

加山雄三

作曲家を贔屓していると思われようがそうではない。ポップス系の人がクラシック曲を書いているが前者はポール・マッカートニー、後者は先日の光進丸火災がお気の毒だった加山雄三だ。ポールがリバプール・オラトリオをヘンデルと並ぶつもりで書いたとは思わない。加山は弾厚作という名で作ったラフマニノフ風のピアノ協奏曲があり彼の母方の高祖父は岩倉具視と公家の血も引いているんだなあとなんとなく思わせる。しかし、いずれもまともに通して聴こうという気が起きるものではない(少なくとも僕においては)。ポールのビートルズ作品は言うに及ばず、加山の「君といつまでも」

ポール・マッカートニー(右)

などはエヴァーグリーンの傑作と思うが、クラシックのフォーマットで曲を書くには厳格な基礎訓練がいるのだということを確信するのみ。不合格。ついでに、こういうことを知れば佐村河内というベートーベン氏がピアノも弾けないのに音が降ってきて交響曲を書いたなんてことがこの世で原理的に起こりうるはずもないことがわかるだろう。あの騒動は、記事や本を書いたマスコミの記者が交響曲が誰にどうやって書かれるか誰も知らなかったということにすぎない。

サン=ジョルジュ

こうして俯瞰すると、音楽家の二刀流は離れ業であることがわかるが、歴史上には多彩な人物がいて面白い。ジョゼフ・サン=ジョルジュと書いてもほとんどの方はご存じないだろうが、音楽史の視点でこの人の二刀流ははずすわけにいかない。モーツァルトより11年早く生まれ8年あとに死んだフランスのヴァイオリン奏者、作曲家であり、カリブ海のグアドループ島で、プランテーションを営むフランス人の地主とウォロフ族出身の奴隷の黒人女性の間に生まれた。父は8才の彼をパリに連れて帰りフランス人として教育する。しかし人種差別の壁は厚く、やむなく13才でフェンシングの学校に入れたところメキメキ腕を上げて有名になり、17才の時にピカールという高名なフランス・チャンピオンから試合を挑まれたが彼を倒してしまう。その彼がパリの人々を驚嘆させたのはヴァイオリンと作曲でも図抜けた頭角を現したことである。日本的にいうならば、剣道の全国大会で無敵の強さで優勝したハーフの高校生が東京芸大に入ってパガニーニ・コンクールで優勝したようなものだ。こんな人が人類史のどこにいただろう。これが正真正銘の「二刀流」でなくて何であろう。宮廷に招かれ、王妃マリー・アントワネットと合奏し、貴婦人がたの人気を席巻してしまったのも当然だろう。1777年から78年にかけてモーツァルトが母と就職活動に行ったパリには彼がいたのである。だから彼が流行らせたサンフォニー・コンチェルタンテ(協奏交響曲)をモーツァルトも書いた。下の動画はBBCが制作したLe Mozart Noir(黒いモーツァルト)という番組である。ぜひご覧いただきたい。ヴァイオリン奏者が「変ホ長調K.364にサン・ジョルジュ作曲のホ長調協奏曲から引用したパッセージがある」とその部分を弾いているが、「モーツァルトに影響を与えた」というのがどれだけ凄いことか。僕は、深い関心をもって、モーツァルトの作品に本質的に影響を与えた可能性のある同時代人の音楽を、聴ける限り全部聴いた。結論として残った名前はヨゼフ・ハイドン、フランツ・クサヴァー・リヒター、そしてジョゼフ・ブローニュ・シュヴァリエ・ド・サン=ジョルジュだけである。影響を与えるとは便宜的にスタイルを真似しようという程度のことではない、その人を驚かし、負けているとおびえさせたということである。サン=ジョルジュが出自と容貌からパフォーマーとして評価され、文献が残ったのは成り行きとして当然だ。しかしそうではない、そんなことに目をとられてはいけない。驚嘆しているのは、彼の真実の能力を示す唯一の一次資料である彼の作品なのだ。僕はそれらをモーツァルトの作品と同じぐらい愛し、記憶している。これについてはいつか別稿にすることになろう。

黒い?まったく無意味な差別に過ぎない。何の取り得もない連中が肌の色や氏素性で騒ぐことによって自分が屑のような人間だと誇示する行為を差別と呼ぶ。サン=ジョルジュとモーツァルトの人生にどんな差があったというのか?彼は白人のモーツァルトがパリで奔走して命懸けで渇望して、母までなくしても得られる気配すらなかったパリ・オペラ座の支配人のポストに任命されたのだ。100人近い団員を抱える大オーケストラ、コンセール・ド・ラ・ロージュ・オランピックのコンサートマスターにも選任され、1785年から86年にかけてヨゼフ・ハイドンに作曲を依頼してその初演の指揮をとったのも彼である。それはハイドンの第82番目から第87番目の6曲のシンフォニーということになり、いま我々はそれを「パリ交響曲」と呼んで楽しんでいるのである。

ロッシーニ風フォアグラと牛フィレステーキとトリュフソース

ゴールデン・ウイーク・バージョンだ、長くなったが最後にこの人で楽しく本稿を締めくくることにしたい。サン=ジョルジュと同様にフランス革命が人生を変えた人だが、ジョアキーノ・ロッシーニの晩節は暗さが微塵もなくあっぱれのひとこと。オペラのヒットメーカーの名声については言うまでもない、ベートーベンが人気に嫉妬し、上掲のハンス・フォン・ビューローのオペラ指揮デビューはこの人の代表作「セヴィリアの理髪師」であったし、まだ食えなかった頃のワーグナーのあこがれの作曲家でもあった。そんな大スターの地位をあっさり捨てて転身、かねてより専心したいと願っていた料理の道に邁進し、そっちでもフランス料理に「ロッシーニ風フォアグラと牛フィレステーキとトリュフソース」の名を残してしまったスーパー二刀流である。

ジョアキノ・ロッシーニ

 

ウォートンのMBA仲間はみんな言っていた、「ウォール・ストリートでひと稼ぎして40才で引退して人生好きなことして楽しみたい」。そうだ、ロッシーニは37才でそれをやったんだ。ワーグナーと違って、僕は転身後のロッシーニみたいになりたい。それが何かは言えない。もはや63だが。ただし彼のような体形にだけはならないよう注意しよう。

クラシック徒然草ー 憧れの男はロッシーニであるー

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クラシック徒然草ー 憧れの男はロッシーニであるー

2016 SEP 10 0:00:57 am by 東 賢太郎

うろ覚えだが、メジャーに行きたての頃のダルビッシュ有がこんなことを愚痴ってた気がする。

「みんなでっかいんすよ。筋トレでバーベルふーふーいってあげてると、なんにも考えてない奴が隣に来てひょいっと持ち上げて帰っちゃう。このやろーと思いましたね(笑)。」

ロッシーニのセヴィリアの理髪師をきいて「キミはブッフアに専念したほうがいいよ」とほめたベートーベンは、実はダルビッシュの心境だったのではないか。

「あんな何も考えてないお気楽な奴がどうしてこの俺より客が入るんだ、このやろー」。「ブッファで食ってくれよな、それだけは俺は書かねえからさ」。

rossini_01ロッシーニは自作をお気軽に使いまわしたり同じメロディーをコピペしたり。理系的細部執着型のベートーベンからすると信じ難いおおらかな文系ぶりだったに違いなく、敬意を表しつつもどこか、ダルビッシュいわゆる「何も考えてないでかい奴」に見えたんじゃないか。でも、くやしいがメジャーリーガーだ。くだらない曲だが湯水のように流れ出る凄い才能だ。なにせ当時のウイーンではベートーベンが嫉妬するほどの売れっ子ぶりだつたのだから。

彼のオペラは39もある。そのスコアを筆写するだけで何十年もかかりそうだ。ヒット作を連発し、それで一生食えるほど大金持ちになった。37才で最後の「ウィリアム・テル」を書いてキャリアの絶頂となったらさっさと作曲家を廃業し、パリで会員制レストラン「グルメのための天国」を作ってオーナー経営者となってしまったのだ。

実に痛快な話だ。それが彼の念願、天職であったということのように見える。そういう表面的な理解のなかでこのエピソードは、彼の音楽を詳しく知らない人、むしろグルメ系の人々のうんちく話としてつとに有名になっている。

しかし音楽をよく知っている人はそれを本気で信じていない。というよりも、彼の音楽を知れば知るほど、どうしても信じられなくなってくるのである。

彼はハイドンの「天地創造」、モーツァルトの「フィガロ」「魔笛」のスコアを借りてきて全部写譜したが、当時は楽譜が簡単には手に入らなかったからそれは珍しくはない。興味深いのは、彼は最初は歌のパートだけ写し、それにまず自分でオケの伴奏を書き、「正解」と見比べてからそれを書き込むというまるで受験勉強のような学習をしていることだ。

その果実が彼の異例のアウトプット速度になったが、実はモーツァルトの学習プロセスもそれと似たものだと思われる。そこまで過程が明示されていないのは親父という有能な家庭教師が常に隣にいたからだが、成人してからのバッハ、ヘンデルのスコアの学習はそれに近かったと考えられる。

受験勉強もおんなじだが、学習は誰もがする。差がつくのは試験会場での正確なアウトプット速度と言って過言ではない。ドン・ジョバンニの序曲を一晩で書いたといわれるモーツァルトの作曲の速度は異例であったが、ロッシーニも負けていないことはとても重要である。

モーツァルトの音楽は、性格的にまったく異質の人間であるベートーベンをもひれ伏させるものを持っていたが、おそらく性格はずっと近かったロッシーニが魅了されたのはまったく不思議ではない。

僕が彼を評価するのは、ベートーベンの同時代人であった彼が、作曲家のプロの眼で、ベートーベンを含む誰よりもモーツァルトを畏敬し、音楽の真実を見事に聴き取り、「フィガロ」の前編(セヴィリアの理髪師)まで書こうとしたことだ。モーツァルト・ファンの大先輩であることだ。

イタリア人の彼がまだ音楽では田舎だったドイツの声楽曲を筆写までして学ぶのは僕には奇異だ。イタリア人のサリエリが殺人犯に仕立て上げられてしまったのも、ウィーンではドイツ人は出世できずモーツァルトは差別されていたという見立てがあるからだ。

その作品をサリエリと同じイタリア人が参考書にして懸命に学んだというのはどうだろうか?そこに学ぶべき真実を見て取ったということと僕は解釈している。ドイツの音楽に憧れたわけではないだろう。もしそうならモーツァルトの後継者でまだ存命中だったベートーベンを筆写したか、うまくいけば弟子入りでもできただろう。

しかし彼はそうしなかった。会ってみて心が乱れたのはベートーベンの方だった。ノーベル物理学賞の学者が最年少で数学オリンピック金メダルの子に恐怖を感じ、キミは数学で行った方がいいよと言ったかのようなちょっと寂しい感じがしないだろうか。ロッシーニにそんな気はさらさらなく心配ご無用だったのだが、彼の才能はそのぐらい図抜けた水準だったということだ。

ロッシーニは晩年に革命後のパリに住んだ。彼の住居はオペラ座から最初の角を左折した次のブロックの左角の、今はカフェになっている建物の4階だ(わかりにくいがプレートが張ってある)。旧体制で人気者だった彼に新政府は冷たく、年金を切られて訴訟までしている。彼は幕藩体制の功労者に明治政府がしたような仕打ちを受けていたと思われる。

ナポレオンを支持し政治犯でつかまった男の息子である彼が政治に鈍感であったはずがない。多くの音楽愛好家もグルメ道の大家も、お金や政治には比較的疎い人が多いからそういう視点で見る人は少ない。だからモーツァルトのフィガロ事件は僕があれだけ書いても反論も反応もないし、ここでロッシーニの「お隠れ事件」の真相が革命後の政治環境に起因したと書いても同様のことになろう。

私見では、彼はアンシャン・レジームのスターが生きていく環境の限界点を知ったのだと思う。市民階級の音楽趣味がやがて変わることも。その新しい世で人気取りをしながら憧れのモーツァルトを希求することは矛盾なのだ。とすると今の人気がピークになろう。やめるなら今だ、ということだったのではないか。

二人のちがいは、モーツァルトが死ぬまで本業で闘争したのに対し、ロッシーニはそこから本業にしたっていいもう一つの道を持っていたということだ。まあ第一の人生は捨てちゃってもいいや、どうせ怠け者のオレなんだし、第二の人生はグルメ道で行っちまおう。

勝ち組だった男にはなかなかできるものではない。何というカッコいい人生だろう!

先日のブログにRookさんからいただいたコメントにこうあった。

「ビジネスに邁進してきた後、自己実現をどのようにするかは難題ですね」

これは宮仕えをしてきてそろそろ定年という僕らの世代は避けて通れない、まさしく難題である。どうやってプライドを保つのか(少なくとも女房の手前ぐらいは)、そしてもっと切実には、どうやって余生を楽しむかだ。

ロッシーニは見事だ。

彼は稀代のワイン通でもあり、ロスチャイルド家からシャンペンの目利きを依頼された。創作料理はフレンチの「**ロッシーニ風」として名を残している。トリュフとフォアグラを使った牛のフィレ肉料理がその名を冠す条件である。トリュフへのこだわりは掘り当てる豚を飼育していたほどだが、彼のこの名言でもわかる。

トリュフはきのこのモーツァルトである

なんとすばらしい。合点がいく。そしてこの言葉も最高だ。

私は今までに二度泣いたことがある。最初はパガニーニを聴いた時。二度目は船遊びの折にピエモント産のトリュフが詰まった七面鳥が船から落っこちてしまった時だ

このユーモアのセンスは日本人的ではないが、僕はこういう笑いのテーストが大好きだ。ベートーベンの口から出ることはおよそ想像もできないが、モーツァルトは少なくともこれを笑える男だった気がする。

「セビリアの理髪師」や「ウィリアム・テル」をどう言おうと勝手だが、マカロニ料理の調理法について私に意見できる者はいない

すごい。圧巻である。座布団10枚級の至言としか評しようもない。その辺の料理自慢のオヤジの戯言(ざれごと)ではない。自分の考案したマカロニ調理を皇帝ナポレオン3世に食べさせるようテュイルリー宮殿の給仕長に命じた男の言葉だ、う~ん参りました。

しかし、彼のプライドと愛情の注ぎ方がマカロニ以下であった可哀想なオペラ作品たちは、なんとあのワーグナーの憧れのまとだったのだ。なんということだ。

家にやって来たワーグナーが楽劇における歌劇場のありかたについて熱弁をふるうと、ロッシーニがちょっとごめんとしばし席を立ってしまう。また熱弁。またちょっとごめん・・・「先生どちらへ行かれてるんですか?」「うん、なに、隣の部屋で鹿肉を焼いていてね、ときどきタレをかけんとうまく焼けんのだよ。ところでキミ、どこまで聞いたっけ?」

こんな奴に本業の作曲で負けたら末代の恥だ。おいキミ、わかってる?おれ、ベートーベンだよ。交響曲とかカルテットなんか間違っても書くなよ。キミには向いてないからな。ブッファだブッファ。それこそ君が輝くジャンルだぞ。

そうだ。まったくもって正しい。彼のブッファは本当に輝かしい。ジュネーヴ歌劇場で見た「アルジェのイタリア女」、21才の時に18日(!)で書き上げたオペラ・ブッファは笑いころげる面白さだった。しかしこの曲の合唱などにはコシ・ファン・トゥッテが聴こえたりするのだ。

この動画は私事ながら僕が家内と2年間通ったフィラデルフィアのアカデミー・オブ・ミュージックでの演奏。ここがフィラデルフィア管弦楽団の定期演奏会の本拠地だった。このピットはオペラ・カンパニーのオケで、首席チェリストのお姉さんに1年習ったっけ。お世話になりました。

 

モーツァルト「魔笛」断章(第2幕の秘密)

 

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モーツァルト「魔笛」断章(モノスタトスの連体止め)

2016 APR 27 22:22:01 pm by 東 賢太郎

パパゲーノが主役なら表のわき役とでもいう存在がモノスタトスです。

夜の女王からザラストロに寝返るのがタミーノ、寝返ったようで靡(なび)かず中立なのがパパゲーノ、ザラストロから女王に唯一寝返るのがモノスタトスであって、アリアは二つしかないがなかなか強いインパクトのある役です。

ムーア人という設定だからイスラム教徒で色は黒い。オテロのタイトルロールもそうですが、前回書いたように魔笛には後宮からの誘拐という伏線があるのであって、オスミンに原型があると考えてよいのではないでしょうか。僕はモノスタトスにパパゲーノと同じほどの人間味を見てしまい、主人のザラストロから77発のむち打ち刑を食らったあげくに寝返った先の女王と一緒に滅ぼされてしまう哀れな運命には同情さえしてしまうのです。

肌の色が黒いというだけで、身も心も無く、血も通っていないというのか?醜いので恋をあきらめ、女なしに暮さねばならないのか?

といい、眠っているパミーナに「白いってきれいだなあ!この娘にキスしてやれ」と劣情をたぎらせる。このアリア「誰でも恋の喜びを知っている」はピッコロが旋律を吹くなどトルコ音楽の風情があり、「音楽が遠くから聞こえてくるように静かに演奏され歌われる必要がある」とト書きに指示があります。そりゃそうだ、獲物をねらう猫みたいにそ~と近寄って、パミーナが起きてしまったらこまる。この歌は狼藉をはたらこうとするモノスタトスの内面で鳴っている音であって、音量だけでその息をひそめた感じが聴衆にわかる。それがアレグロである。彼の心臓の鼓動が伝わってくる。こういう風に音楽が書けるからモーツァルトのオペラは200年も聴衆のハートをつかんでいるのです。

この短いアリアには驚嘆してやまない和音が一つあります。ピアノ譜の青色部分です。

monosta

ハ長調の急速平明なクープレ、話すように軽い声で歌う、その流れの中にそっと置かれたEm!!モーツァルトは何度も何度も各所で僕をノックアウトしているが、これはその最たるもの、瞬間に通り過ぎてしまうのでお気づきになりにくいかもしれませんが、この曲の色合いをさっと変え、どきっとさせ、モノスタトスの人物像まで変えてしまう最も高貴で繊細なやさしさに満ち満ちたもののひとつです。

醜いので恋をあきらめ、女なしに暮さねばならないのか?

モノスタトスの悲しさがこの和音ひとつに滲み出ている。粗暴で野獣のような男でないぞという、パパゲーノを見つめる彼の人間賛歌の目がモノスタトスにも注がれているのです。

これは偽終止というやつで、ハ長調CだとドミナントGからトニックのCに戻らずAm等にいく。これは「アマデウスの連体止め」と僕が勝手に名付けているモーツァルト必殺の得意技で、みなさん国語で習われた和歌や俳句の連体止め、あの効果によく似ているのです。これは別に彼の発明ではないですが、彼はAm(6の和音)に行くのがお好みで、作品の随所に出てきます。

下のK.581だと青色部分でバスがc#に行けばトニック(A)なのにf#に上がってF#mの和音になってます。のちに繰り返しの場面ではAになるので、このF#mという6の和音は明らかに代用で偽終止、これぞ連体止めです。

(例) クラリネット五重奏曲イ長調 K.581 第1楽章冒頭

clarinet

ところがモノスタトスのアリアはDsus4、Dと来てG(ト長調)に収まると思わせつつ(偽転調だ!)、なんとそこに6の和音であるEmの偽終止を置くという驚くべきダブルの騙しで完全に僕の脳髄を狂わせる。もう凄すぎて語る言葉もなし。魔笛という言葉を聞いて僕にまずひらめくのがこのEmであって、今回、少し気が変わってブログを書いて、とくに、どうしても書かなくてはいけない魔笛にしようと思い立ったのは、このEmのことを残しておかなくてはと思ったからなのです。僕がモーツァルトの信者であるのはこういうことです。細部に宿る神の証し!細部が証明しているのです。なぜといって、こんなメガトン級の威力で耳を直撃する音を書いた人はいない。少なくとも僕にとってはです。

200年近くにわたって、モーツァルトを天才と呼び、賛美する人が世界中にいました。今もきっとたくさんおられます。ケッヘル何番のあそこがいい、ここが天上の調べだという類の書物も手当たり次第に読みました。どれを読んでもピンと来ないのは、僕にはたぶんそういうレセプターがないのであって、それは色覚とおんなじように人それぞれの受容器が脳についていて、僕のはこういう部分に反応してしまうということだと思います。このEmに感動している人はいまだかつて見たことないという一抹の寂しさはございますが、唯一救いに思っているのはそういう人がかつて一人だけは確実に存在した、すなわち、それがこのEmを数多ある音の中から選び取ったモーツァルトだったということです。

このアリアが布石になったかどうか、あんまり興味がないので知りませんが、ロッシーニのセヴィリアの理髪師にフィガロのこういうアリアがあるのですね。

モノスタトスに似てる気がするが、和声的に何の事件も起きないお気楽さ・・・まあ、これがフツーの天才の音楽です。

 

クラシックは「する」ものである(4) -モーツァルト「クラリネット五重奏曲」-

 

モーツァルト「魔笛」断章(第2幕の秘密)

 

 

 

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ボローニャ歌劇場オペラ・ガラを聴く

2015 SEP 23 16:16:32 pm by 東 賢太郎

昨日はオペラ・ガラ・コンサート(ボローニャ歌劇場)にお招きにあずかり、イタリアの旬の歌手たちの美声を堪能してまいりました。

指揮の吉田裕史さんは東京音大卒、ウィーンで学ばれイタリア各地の歌劇場で修行を積んだ本格派で今年同歌劇場の首席客演指揮者に就任されたとのこと。イタリア人にとってオペラは我が国でいえば歌舞伎のようなもので、その地で長と名のつくポストを務めるのは半端なことではないでしょう。日本公演を積極的に率い、それも二条城、姫路城など歴史のある舞台を選ばれているのは、ご自身がローマのカラカラ野外劇場でデビューされた経験が生きているのでしょうか素晴らしいアイデアと思います。

曲目は前半がレオンカヴァッロの歌劇「道化師」ハイライト、後半がイタリア・オペラ名曲集でした。

ロッシーニの「セヴィリアの理髪師」から「私は街の何でも屋」がよかったですね、弾きこんでいるんでしょうオケが精彩にあふれており、ぜひ全曲聴いてみたい。「ボエーム」の「馬車だって・・ああミミ、君はもう帰ってこない」、男は別れた女が忘れられない、女はそうでもない、ところがその大法則に反してミミは病んで帰ってくる。ボエームが悲しいのはそこだよなあ、なんて妙に納得しながら楽しみました。「トゥーランドット」の「誰も寝てはならぬ」。これを歌われたら実は誰も寝れない(笑)。ニコラ・シモーネ・ムニャイーニのテノール、やっぱりこれはイタリア男が歌わないと。

僕はガラ・コンサートはあまり行った経験がなく、女優の渡辺早織さんが演目を紹介していくスタイルでしたが、プログラムが終わって歌手4人の晴れやかなカーテンコールになって舞台と客席が「イタリア歌劇場モード」にひたったところで彼女が拍手をさえぎり歌手4人にインタビューを始めたのはびっくりしました。

彼女は実際にボローニャまで行ってこの歌劇場で「世界ふしぎ発見」の収録までしたそうで、吉田さんも「そうですね、あれは蝶々夫人のリハーサルの時でしたね、この会場にもテレビを見てくださった方がいらっしゃるのかな・・・(拍手)」と軽く応じるなど、「題名のない音楽会」モードに。これはシェフが日本人だからできることで、歌手もオーケストラ団員もここは日本なんだと一気に我に返って相好を崩して喜んでインタビューに答えていたいたのがとてもさわやかでした。

これだけ舞台と客席が近くなるのは、お高くとまりがちな本場モノのクラシック演奏会では稀と思います。「日本に本物のオペラ文化を」という趣旨にかなったやりかたであり、両国の文化交流という意味合いも感じられますね。これからも楽しみにしたいと思います。

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メシアン トゥーランガリラ交響曲

2015 JUL 6 13:13:53 pm by 東 賢太郎

行った場所で好きなところはどこかと問われれば、バンコックのワット・プラケーオ(エメラルド寺院)は筆頭格だ。初回は95年ごろで、スイス時代にアジア株式業務の会議でタイに行ったおりに寄ったが、その時の衝撃はあまりに強烈で忘れるということがない。

タイというのは不思議な国で、時間がゆっくり流れている。どうしてそう感じるのかなといつも思うが、理解が及ばない。ワット・プラケーオはその権化のようなことろで、あそこは磁場のせいで時空が曲がっていて時計が遅く進むんだよなどと説かれれば信じてしまいそうだ。

確実に覚えているだけでも5回は訪れているが、たぶんもっとだ。なにしろ強烈な陽ざしでいつも頭は虚ろだから覚えてない。黄金に輝く巨大な仏塔、無数の極彩色のガラス片が陽光を反射してきらめく寺院の壁面、奇怪なガルダの像など視界に入るものすべてが「異界」で、意識が飛んでしまう。

Kinnon_Wat_Phra_Kaew_02西洋の(キリスト教の)教会だって、巨大な空間、光と闇、ステンドグラスの色、香のにおい、オルガンの音響など五感に訴える充分な異界ではあるのだが、それでもまだ現世とアナログ的につながる延長にある。一方で、ワット・プラケーオの異界ぶりは凄まじい。幽界や異星の光景のような超常的なものではなく、人や鳥や火のモチーフやら我々がなんでもなく地上で目にするものをパーツとしていながら、突出して霊妙で野趣に満ちたミステリアスな空間を形成している。それらが醸し出す一種のオーラがあたりの空気をつつみ、まったりしたゆるい時間のながれに溶けこんで、黄色に熱く眩しい太陽と完璧な調和をみせている。

450px-Rama9insigwpk0609金、青、赤、黄、朱しか僕にはわからないが、それでも痛烈に眼につきささるどぎつい原色の嵐。それを台風一過みたいに建物という建物の内と外にぶちまけたような広大な寺の敷地内の光景は、しかし、トータルに見るならいっこうにけばけばしさを感じない。実に不思議だ。この寺の歴史については読んだと思うが詳しくは忘れてしまった。色と形のオーラに脳が麻痺して思考停止になっていて、残るのは漠然とした輪郭の信仰心のようなものだけだ。日本の倍は強かろうという陽光のせいだろうか、そういえば京都の寺社仏閣も創建当初は朱色だったと聞いたことがある。この色彩が伝播したのかもしれない。ここの方がずっとインドに近いのだから。

Emerald_buddha右が本堂のエメラルド仏(プラ・ケーオ)である。この仏体の奪い合いで戦争になった。正面の祭壇の高い位置に鎮座し、仏を見上げる暗い床には何十人もの人が香をたいて座り、平伏し、寝そべり、祈りながら静かな時を過ごす。僕はこの特別の空間に満ちた密度の濃い粘着質の時間にひたるのが快感で一人で行って1時間もいたことがある(いや、時計は見てないから2時間だったのかもしれない)。ああいう麻薬的、蠱惑的状態を瞑想というのだろうか、一期一会の体験だった。こころが空白な分だけ感覚は冴える。そこで耳に響いていた音楽、まずシャワーのごとく降ってきて僕を驚かせたのはオリヴィエ・メシアンの「アーメンの幻視」であり、そして、そこからわんわん鳴り響いたのがトゥーランガリラ交響曲である。

この部分だ。第6楽章 愛のまどろみの庭 Jardin du Sommeil d’Amourである。理屈はいらないので、写真を見ながら(光景を想像して)ゆったりと、自分の体重を感じないぐらいリラックスした気持ちで聞いてみていただきたい。

この地が東洋のタイ国であること、この曲がカトリックと深く結びついたものであることは、僕が感じ取ったものの前では本質的なことではない。Turangalîlaはサンスクリット語を合成した言葉であり、「愛の歌」や「喜びの聖歌」、「時間」、「運動」、「リズム」、「生命」、「死」などの意味があるとされる(トゥーランガリラ交響曲 – Wikipedia)。

メシアンの作曲概念で重要とされる「移調の限られた旋法」と「非可逆リズム」について僕は充分に理解していないが、メシアンは、これを聴く者は移調が限られている不可能性の魅力に囚われ、その調的遍在性がカトリック思想における「神の遍在性」と結びついて、「神学的な虹をもたらす」としているから、けだしこの曲はカトリックの教義や神性そのものを描出したものではないだろう。

東洋哲学的な概念の「森羅万象」とその部分を成す人間の根源的本性である「愛」というものを表層に二軸として置き、宇宙の存在、人間の存在を聴く者の感性に浮かび上がらせることをもって唯一無二の造物主(キリスト)の存在を感知せしめるという構想から成った音楽と思う。従って確固たる西洋音楽ではある。ビートルズのアルバムでジョージ・ハリソンがシタールを使ったナンバーが、そう聞こえるかどうかはともかく東洋になりきろうとしているのとはまったく違う。

しかしながら、旋法・リズムという構成パーツの内在的な作用が神の遍在性を感知させるという「構造面」だけでは語りきれない非西洋的な要素をこの交響曲が色濃く持っているのも事実であり、メシアンがどういう発端でそれを着想したかは知らないが、R・コルサコフやラヴェルがオリエンタリズムの香りとしてシェラザードを持ち出してきたのとは次元の異なる、もうすこし思想的要素に踏みこんだものであり、マーラーが大地の歌で試みた文学的要素の関わるアプローチよりも身体的だ。西洋人が嗅いだ東洋の香りでなく、西洋人が合体を図った東洋であり、だがその彼のいる天空にはキリストがいる。

構成パーツがインド音楽のリズムパターンであったりする。ピアノは鳥の声を模す。無調でありながら調性(嬰へ長調)が混在する。旋律と伴奏和音というホモフォニックな作りである。個々は明確な三和音であるF#,B,Bm,F#,C,F#,Bという和声連鎖が音列として通奏低音の如く頻出する。これらの特徴は上記の「人や鳥や火のモチーフやら我々がなんでもなく地上で目にするものをパーツとしていながら、突出して霊妙で野趣に満ちたミステリアスな空間を形成している」というワット・プラケーオの個性と見事に共鳴している。

この曲は20世紀に書かれた管弦楽曲として、破壊的な革命効果を音楽史に及ぼしたという点において春の祭典と天下を二分する重要な作品だろう。ストラヴィンスキーのこの革命的作品に触発されて書かれたと思われる諸作品、バルトークの「中国の不思議な役人」、プロコフィエフの「スキタイ組曲」等は、上記の表現を借りれば「充分な異界ではあるのだが、それでもまだ現世とアナログ的につながる延長にある」と思う。

トゥーランガリラ交響曲を初めてライブで聴いたのは85年ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールでエサ・ペッカ・サロネンがフィルハーモニアを振ったものだ。僕はオンド・マルトノ恐怖症で楽しめてなかった。しかし頭の中にかつてない鮮烈な色彩がはねるのを感じたので興味を持ち、サロネンのCDは買った。これは今もって僕の持つ同曲の最高の演奏かつ最高の録音のひとつである。

覚えやすさが突出して霊妙で野趣に満ちてミステリアスなことによるのが春の祭典と双璧だ。これは最も有名で一度聴いてもう忘れるのは無理という第5楽章 星たちの血の喜悦 Joie du Sang des Étoiles。耳に残ることこの上なしだ。

打楽器が12種類も出てくるが(奏者は8人)、春の祭典で主役級のティンパニを欠く。そこに両曲の性格の根本的相違を見る。祭典のオケは弦に至るまで打楽器的であるのに対し、こちらはオケ全体が旋律的であり、その性質をオンド・マルトノが補強している。弦は徹底して愛を歌いピアノは鳥の声で森羅万象を象徴する。上掲の第6楽章がその典型だが複調ではいるピアノが楽園の蓮の花にやってくる小鳥のようだ。

全曲をチョン・ミュン・フン指揮フランス放送管弦楽団で。チョンはメシアンに可愛がられた。トゥーランガリラ交響曲の改訂版をメシアン立会いのもとで録音したのは彼である。最後の嬰へ長調の無限につづくとも思われる長さなどオンリーワンの確信で振っている見事な演奏だ。

こちらは愛聴しているモーリス・ラ・ルー指揮フランス国立放送管弦楽団の演奏。イヴォンヌ・ロリオのピアノ、ジョアンヌ・ロリオのオンド・マルトノで、これも名演である。

5年前にパリに行ったおり、サントリニテ教会(Église de la SainteTrinité de Paris)にお参りした。オペラ座の正面を右に入ると左の角にカフェがあるが、その上の部屋に住んでいたのがロッシーニである。その角を左折して、遠くに真正面に見えるのがそれだ。ロッシーニの葬式はそこでやった。

これがその内部だ。メシアンは1933年から亡くなる1992年までこの教会のオルガニストだった。ここに彼の有名な即興演奏が流れた。異界からトゥーランガ・リラに迫ってみたが、この傑作への僕の愛情の印しであるとご容赦いただきたい。最後にここに戻しておくのが礼儀というものだろう。

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サントリニテ教会におけるメシアン自演の「キリストの昇天」

 

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メシアン 「世の終わりのための四重奏曲」

クラシック徒然草 ―ドビッシーとインドネシア―

 

ブーレーズ作品私論(読響定期 グザヴィエ・ロト を聴いて)

 

 

 

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ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(3)

2015 MAR 27 1:01:07 am by 東 賢太郎

ハンス・シュミット・イッセルシュテット / 北ドイツ放送交響楽団

110第1楽章は微妙に速めのテンポでコクのある表現だ。本物の手触りがある。オケは弦がトップクラスとは言えないが自然体で立派なブラームスになってしまうという風情。第2楽章ももたれずテンポは曲想に添って自在に変化する。第3楽章のオーボエは歌うというより何か主張している。終楽章もトスカニーニのように速いが無機的な響きにならない。筋肉質で武骨に聞こえるが第2主題に絶妙なギアチェンジなど細かい芸が見え隠れしている。コーダはやや加速して熱く締めくくる。オケは素晴らしい集中力で弾ききっており破綻は一切なし。録音がややくぐもっているのが実に惜しく0.5減点するが、これは純正北ドイツ流かつ達人の一筆書きの勢いある誠に立派な2番である。厳しい男性的なブラームスとしては最右翼の演奏だろう。(総合点 : 4.5)

 

カルロ・マリア・ジュリーニ / ウイーン・フィルハーモニー管弦楽団

510冒頭のゆったりしたテンポからジュリーニの世界に引き込まれる。全楽章にわたるこの特異な遅さについていけるかどうかで好悪が分かれるだろう。晩年のジュリーニはロンドンやアムスで何度も実演に接したが、バッハもロッシーニもフランクもそういうテンポでなくては語れないことを語る指揮者であったしそれをVPOがやらせてくれる指揮者は当時数人しかいなかっただろうと思う。細部にまで考え抜かれ神経が通った演奏は満足をくれるがそのアプローチが最も成功したのは4番であり、この2番は個人的には求める物とちがう。(総合点 :  3)

 

ホルスト・シュタイン / バンベルグ交響楽団 (July 1997、ライブ)

51hxQfCYaZL95年にフランクフルトでこのコンビのベートーベン「田園」とブラームスピアノ協奏曲第2番(ルドルフ・ブッフビンダーpf)を聴いて大変感動した。郊外にあるヘキストの体育館みたいなホールで日本人は僕しかいなかったかと思うほどドイツの奥座敷みたいな所。そんな中でブラームスを聴く幸せは人生格別の思い出のひとつになた。このKochの全集も地味だがあのときの音がしている。何も肩ひじ張らない、ドイツ地方都市の普段着のブラームスはこういうものだと思って聴いていただきたい。2番のコーダでこんなにゆったりと慈しみ、興奮をあおらないのは見識だ。これをベルリンPOやシカゴSOの名技やらデモーニッシュな指揮者の切る見栄に欠けると批判するのは簡単だが、逆にそういう演奏のほうがよく出会えるのだ。(総合点 : 4)

 

エンリケ・バティス / メキシコ国立交響楽団

429シュタインとは対照的な速さ。湿気のないラテン的な音。指揮は実にメリハリに富み、旋律をじっくり歌うというよりリズミックな音型をすべてスタッカート気味に処理するというブラームス演奏においてあまり意味を感じないことに力点が置かれ、句読点を切った早口言葉にきこえる。と思えば意外なところで内声部が浮き出たりする変幻自在さを持ちあわせ先が読めない。第2楽章冒頭チェロ旋律はもうModeratoの別な曲だ。普通は9分ほどかかる終楽章が上記のシュタインは10分半と最遅クラスで、一方このバティスは7分台と超快速のショルティよりさらに1分近く速いというウルトラぶりである。初めての人にこれとシュタインを連続して聞かせたら同じ曲と思わないだろう。クラシックの面白さだ。マニア向き。(総合点 : 1)

 

ヤッシャ・ホーレンシュタイン / チェコ・フィルハーモニー管弦楽団(8 Sep 1966、ライブ)

SOMMCD037モントルー音楽祭のライブ。ホーレンシュタインはロシア系ユダヤ人で現代音楽に強く、GHQ憲法草案制定会議のメンバーとして日本国憲法の起草(特に第24条)に関わったベアテ・シロタ・ゴードンは彼の姪である。チェコPOは主席アンチェルの指揮のようには好調ではない。ホルンソロがこのオケ特有の音で第2楽章のヴィオラ、チェロとの絡みは美しい。指揮者のブラームス演奏への適性は感じるがなにせオケが不調で終楽章コーダの第一トロンボーンはよれよれだ。(総合点 : 1.5)

 

エーリッヒ・ラインスドルフ / ボストン交響楽団

leinsdorf客演が好評だったスタインバーグをBSO理事会はミュンシュの後任として音楽監督に据えるつもりだったが、レコード会社のRCAがリストのトップに持っていたラインスドルフを押し込んだのだった。そうでなければこれはスタインバーグのCDになっていただろう。しかしこれは前任者ミュンシュをさらに正統派にしたような名演でオケがウィーン・フィルだったら歴史的名盤ものだったのだからRCAの独断には感謝しなくてはならない。BSOも大変見事な演奏をしておりまったく文句はつけようがない。カセットを留学中に愛聴したせいもあり耳に焼きついて僕の2番の原型を形成している演奏の一つで、右のCDは89年にロンドンで買って夢中で聴いたもの。ラインスドルフは最晩年にNYでブルックナーの3番を聴いた(NYPO)がワルターの弟子であり独墺ものは実に素晴らしい。ベートーベンとブラームスは広く聴かれてほしい。(総合点 : 5)

 

クルト・ザンデルリンク / ドレスデン国立管弦楽団

sanderling2番の滋味あふれる表現は何度聴いても飽きず、いつまでも聴いていたい。DSKの木質の管弦のブレンドはブラームスに実にふさわしく、全楽章が理想的なテンポで揺るぎのない堅固な構成を見せる。この全集の1番がLP(独オイロディスク)で出たのが僕の高校の頃で、当時の日本の評論家に凡庸な指揮だと酷評されたのを記憶している。そうではないからこの録音が欧米で長く生き残っているのであって、何か奇天烈な個性がないと無能という評価はまったく音楽の本質と遠いものだ。ザンデルリンクは96年にチューリッヒでシューベルト9番の名演を聴いたが、やはりこういう語り口で感動的だった。ドイツ人がドイツ語でやったブラームスがどんなものか、まずそれを熟知するのがブラームスを味わう第一歩と思う。(総合点 : 5)

 

キリル・コンドラシン / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団 (29 Nov 1975、ライブ)

51S6Wz7A4ZL__SL500_僕のCD(右)は93年にドイツで買ったもの。指揮者晩年のアムス・ライブ・シリーズで全部が格別に素晴らしく、全部買っておいた判断に感謝している。2番は全体に速めで第2楽章などそっけなく聞こえるが、語るべきは語っている真打の落語のようなもの。コンドラシンがN響を振ったビデオを見ると特異な魔性を感じる男前の風貌で、ださいロシアの田舎もんのイメージが覆った。ACOをここまで自在に歌わせコントロールする磁力は納得だ。並録のシベリウス5番がこれまた魅力的でこのCDは大事にしている。セカンドチョイスとしてぜひ一聴してみて欲しい。(総合点 : 4)

 

(補遺、2月28日)

ダニエル・バレンボイム / シカゴ交響楽団

51NWRQBNYBLこのコンビの2番はフランクフルトのアルテ・オーパーで聴いたがあまり印象がない。これで聴き直すと、重量級だ。第1、4楽章第2主題はCSOの弓の圧の強い弦の合奏、このたっぷりした歌はききもの。第1楽章コーダ前のホルンソロのpp、そこからの滑らかな起伏は逸品だ。2番で非常に重要な金管アンサンブルも敢然とするところなし。うまい。第2楽章は彼のロマン的な表現がはまっており名演である。しかし終楽章のコーダの加速がいらないのだ。トロンボーンのソロなど全演奏でも特筆ものなのだが、どうしても趣味に合わない。(総合点:3.5)

 

(補遺、3月28日)

カルロ・マリア・ジュリーニ / ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団

51XCKSqLWZL79年12月11日、ドロシー・チャンドラー・パビリオンでのライブ。アンサンブルは荒っぽく、録音も高音がやせて弦が薄い。テンポのアップダウンが少ないのは上記盤VPOと同じだがライブのせいかこちらは熱気がある。同じオケでのDG録音はこれの約1年後になるがここから練り上げていったということだろう。ジュリーニ節は既に健在だがいかんせん音が悪い。終楽章コーダは大人の扱いで加速は少ないがティンパニが1発多くたたいたり最後は楽譜と違うので気になってしまう。(総合点:2)

 

(補遺、2018年8月26日)

サイモン・ラトル / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

youtubeのビデオですが、あまりに素晴らしいので。この第1楽章の出だし、すぐに惹きこまれ心がふるえる。深い呼吸は最高に素晴らしい。これぞ2番だ!第2楽章も弦も楽器奏者たちの歌ごころを引きだしてあまりなく第3楽章が室内楽アンサンブルのよう。指揮者は奏者たちの呼吸を合わせているだけだからだろう、終楽章第2主題への減速が実に自然だ。展開部最後の深い霧。堂々たるインテンポの終結。BPO音楽監督就任2年後である。ラトルを選んだ理由がわかる。(総合点:5+)

 

ヨーゼフ・クリップス / チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団

1960年5~6月 、トーンハレ (チューリッヒ)の録音。オケは好調で技術も音程も良く、弦が主体のアンサンブルが中心だが木管とVa、Vcの内声が希少なほどくっきりと聞こえ、しかしバランスを損なわない録音のセンスも良し。クリップスは活躍の場がウィーンで王道。昔は微温的と評されていたが、我々世代がこれぞブラームスと安心、納得する音楽をやってくれる。終楽章コーダだけが僕の賛同しかねる部分だが、これが好きな方はおられるだろう。(総合点:3)

 

カルロ・マリア・ジュリーニ / ロサンゼルス・フィルハーモニー管弦楽団

ジュリーニがLAPOとドイツ・グラモフォンに録音したベートーベン(5)、シューマン(3)、ドヴォルザーク(9)は評価が高く(9)、特にブラームス(1,2)は垂涎だった。ジュリーニ一流の遅めのテンポ。濃厚な時を刻んだ2番の第1楽章はブラームスの後期ロマン派的側面を意識させるのはいいが総じてVPO盤に書いたことになる。オケの魅力は落ち、fではバックの金管(特にホルンはうるさい)、ティンパニが弦とは浮いて聞こえるバランスもあまりブラームスには好ましくない。終楽章コーダはトランペットの信号音のところで速くなるが(VPO盤も)全く賛同できない(総合点:2)。

 

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ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(4)

 

 

 

 

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