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カテゴリー: ______ルロイ・アンダーソン

ルロイ・アンダーソン 「紙やすりのバレエ」

2023 DEC 24 7:07:00 am by 東 賢太郎

「トランペット吹きの休日」と同じく1954年の作品だ。これも聞き覚えのある方はたくさんおられるだろう。紙やすり(サンドペーパー)まで楽器にするアンダーソン流であり、人懐っこい和声進行は彼のトレードマークでもある。

紙やすりのバレエ(Sandpaper Ballet)は1999年にサンフランシスコ・バレエ団のために制作され、同年にウォー・メモリアル・オペラ・ハウスで初演された。バレエ化は著名な振付家、演出家のマーク・モリスであった。アンダーソンの作品11曲を使い、そりすべりは序曲になったが同曲はタイトルにはなったが、この動画(スペイン)のようなメイン扱いではない。

ジョン・ケージの居間の音楽(Living Room Music、1940)と思想を一にした庶民版と思えないでもない。アンダーソンはハーバード大学でウォールター・ピストンの弟子であり、ピストンもケージもシェーンベルクの弟子だ。

Sandpaper Balletが初演されたウォー・メモリアル・オペラ・ハウスでサンフランシスコ講和条約(1951)が調印されたのは周知だ。

The War Memorial Opera House

同条約は吉田茂が調印した。外交官だった彼は親米、親英であり、統制派である東條英機首相が国家社会主義体制を構築していく中、反主流派の真崎・宇垣連立内閣を構想し「英米ト和平ノ手ヲ打ツベキ方針」と対米戦反対を真崎に伝達し、真崎も同意していた。吉田の意に反し近衛、東條の内閣となり真珠湾攻撃に至る。この経緯と戦後処理を鑑みるに、このオペラハウスには特別な思いを懐く。

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ルロイ・アンダーソン 「舞踏会の美女」

2022 DEC 24 11:11:21 am by 東 賢太郎

まあこういう感じかな

今年もあっという間にこの季節になってしまいました。恒例のルロイ・アンダーソン名曲シリーズ、まだまだ良い曲がたくさんあるんです。舞踏会の美女 (Belle of the ball)、タイトルからして蠱惑的!大好きでいつでもききたい曲です。いきなり弦のざわめきに乗ってホルンが高らかに麗人の登場を告げます。天井の高い舞踊会場。眩いばかりに煌めくシャンデリア。香水の匂い。着飾った人々を見おろしながら、大階段をしゃなりしゃなり降りてくる令嬢。目をつぶってきくと風景がありありと浮かんで、いつきいても音楽の力ってすごいなあと思うんですね。ちなみにこのホルンがトランペットじゃだめなんです。王様か王子様(男性)の登場になっちまう。こういう楽器選択の妙をベルリオーズ、リムスキー・コルサコフが管弦楽法(orchestration)として技法化してます。高校時代に関心があって米国の作曲家ウォルター・ピストン著「管弦楽法」を熟読しました。

何の役にも立ちませんでしたが、欧米の金融界で「あんた、そのビジネスをどう組み立てるつもりなの?」を ” How do you like to orchestrate your business? ” なんて言ったりして、このニュアンスがバチっとわかった程度の御利益はありました。別に orchestrate を使わなくてもいいんですが、教養がちらっと見えてカッコ良かったり無言のマウントになったりするんです。まあだいたい教養のない奴がなりすましで使うんですが、そんなことでビジネスの趨勢が決まったりもするんですよ、面白いですね、だってそれ使うこと自体がオーケストレーションなんですからね。

さっそくyoutubeを。

素晴らしい曲です。子供のころ、どこかで耳にしていた気がします。

ところでこの団体、Police Symphony Orchstraって書いてありますがポリス(警察)のオーケストラではないか、アンダーソンの曲は軍楽隊もやってるし。するってえとヴァイオリンのお姉さんも婦警さんか?

婦警さん。そういえば、ここで一気に “あの記憶” が・・・。

その昔、ニューヨークのマンハッタンでのこと。安ホテルの部屋で留守中に金を盗まれました。動揺して駆けこんだ近くの警察署。出てきた婦警さんは彼氏と喧嘩でもしたのか恐ろしく機嫌が悪くつっけんどん。「あん?ドロボウ?そんでケガは?」「ありません、空き巣です」「いくら?」「500ドルです」「あっそ、じゃここに500って書いてサインしてね」(しばし沈黙)「あのう、それで、捜査のほうは?」「あん?」「つまり犯人つかまえるとか」「兄ちゃん、あんた、命あっただけよかったよ」でおわり。

凄い所だ。あまりのあっけなさに心なしか涼やかな気持ちになったもんです。

しかし、このオーケストラの面々、どうも警察官の感じじゃない。おかしいと思って調べたらチェコにHorní Policeという町があって、そこの市民管弦楽団だからPolice交響楽団なのでした。調べると、この町、686人しか住んでない。ひょっとして、シンフォ二ー・オーケストラを持っている世界最小の町(村?)ではないか(まあ近隣の人もいるんだろうが・・・)。ワグナー・チューバはいるわエレキ・ベースはいるわ、本当に音楽を楽しんでる。ミュージカルな人間である僕としてはすぐ仲良くなれそうな皆さんだ。場所を調べたらプラハの北、ドレスデンのすぐ近くでした、なるほど、そうでしたか、さすがです。

チェコというと、ダボス会議で同じテーブルだった故ハヴェル大統領(熱い人だった)が同席していた米国高官(誰だったか忘れたが)に「お前たちが東欧をめちゃくちゃにした」とマジに食ってかかってた印象が強烈で、このチェコ人音楽家たちが米国のアンダーソンを喜々として演奏してるのが妙に思えないでもないのです。でもドヴォルザークはニューヨークで新世界を書いたのだし、それを言いだしたら被爆国の日本人もこれを演奏できなくなります。何国人が作ろうと、名曲は名曲。音楽が国際語というのはこのことですね。奏者の皆さんの楽興は胸に響きます。

舞踏会の美女は1951年、ルロイ・アンダーソンの油の乗りきった中期の作品で、代表作のひとつといっていいでしょう。彼はスウェーデン移民の郵便局員の子で、ボストン近郊で育ちピアノと音楽理論を学びます。ハーバード大学に入り作曲をウォルター・ピストン、ジョージ・エネスクに学び修士号を取得しますが、欧州の9か国語がペラペラという驚異的な語学力も持ち合わせており、1942年に米軍の防諜部隊で翻訳者および通訳としてアイスランドに配属され、終戦の1945年にはペンタゴンのスカンジナビア軍事情報局の責任者として国防総省に再配置されています。つまり、あまり知られてませんが、米国陸軍のインテリジェンス部門のエリートでもあったわけです。

去年書きました「シンコペイテッド・クロック」はペンタゴンのポストにある時に書かれています。それを軍部に許されていたなんて日本軍ではあり得んことですね。そして朝鮮戦争(1950-53)にも補助役として従軍しますが、その最中に書かれたのが舞踏会の美女だったということになります。戦争で殺し合いをしながら、どこからこんな優雅な音楽が出てくるのだろう?どの国のどの時代の誰を調べても、作曲家の頭脳というのは常人には計りしれないものです。

9か国語が頭に入っている彼が、欧州のあらゆるクラシック音楽を記憶していたのは当然のことでしょう。それでいて影響を受けたのはヨハン・シュトラウスなど軽めの音楽だったというのはピンと来ないのですが、少なくともそういう資質がある人だったわけで、学生時代は教会オルガニストからハーバード大学バンドの指揮者でダンスの伴奏までやっていた。それが(特に編曲の管弦楽法のうまさが)ボストン・ポップスの指揮者アーサー・フィードラーの目に留まって世に出て、結果として数々のミリオンセラーを飛ばしたのだからリッチにもなった。本望だったでしょう。ブルックナーとワーグナーもそうですが、彼とフィードラーの出会いも運命的です。人間、人とのご縁がいかに大事かわかります。

ボストン響の夏のエンタメ路線の音楽監督だったフィードラーとしては、軽めのポップスで人気を稼ぐ新曲が欲しかったわけです。レコードも売りたい。アンダーソンはぴったりの金の卵だったのです。これは興行師ザロモンがハイドンにロンドン・セットを書かせ、同じくディアギレフがストラヴィンスキーに3大バレエを書かせたのと同じ流れであり、芸術に資本主義が関与した成功事例といえましょう。アートに金儲けなんて関係ない、不純である。そんなことないでしょという反証ですね。公人はともかく、民間人である音楽家は関係ないです。思いっきり潤ってもらって人類の財産になる作品を残していただきたいですね。

アンダーソンに手本があったかというと、こちらも商業的に大成功したヨハン・シュトラウスの名がよく挙がります。ヒットメーカーとして意識はしたでしょう。当時のニューメディアだった78回転のレコードの片面収録時間に合わせて3分の曲を書いてますから商業的意図があったことは間違いありません。舞踏会の美女についていえば、これはまったくの私見ですが、こういう曲がイメージサンプルになったかなと考えてます。フランスのポップ系作曲家、ワルトトイフェルのスケーターズ・ワルツ (1882)です。

これはこれでいい曲なんです。なんたって、クラシック界の帝王カラヤンが英国の名門、フィルハーモニア管弦楽団で録音してますからね。でも彼がアンダーソンをやるなんてのは想像すらできません。欧州の保守本流にとってヨハン・シュトラウスはど真ん中ですが、敵国アメリカの田舎者のワルツなんてのはお呼びじゃないんです。こういう所、音楽にも政治はどうしても入ってくるんですね。だからこそ僕はアンダーソンを弁護したくなる。音楽の質の高さをです。19世紀のワルツに比べて近代的で知的な点をです。

舞踏会の美女もワルツなんですが、自作自演のテンポは速い。これじゃ踊れませんね。

でも、このテンポでこそ主部でチェロが弾いてる対旋律(和音を面白くしてるアルトのパートですね)が目立つんです。これぞルロイ・アンダーソンというトレードマークみたいな声部で(「そりすべり」にも顕著)、この1小節1音のパートが横の線として聞こえて欲しかったんじゃないかと想像してます。遅いとどうしてもそのラインがもたれるんです。ご覧のように指定は Allegro animatoで1小節 = 88であり、自作自演盤がまさにそれです。

つまりこのワルツはダンスを目的としてない観賞用なんです。いちおうズンチャッチャで三拍子を刻むが、もうそこから和声は2度、長7度を駆使して凝りまくったゴージャスな響きです。基本は旋律に縦の和声がつくだけの古典的な作りですが、そこにチェロの横のラインが対位法っぽく(ぜんぜん単純ですが非和声音を巧みに配合!)絡んで和声に含みや翳りを与える。これがニクい味を出すんです。譜面で右手の親指で弾く付点二分音符がそれですが、2小節ごとスラーがついていてこれをうまくレガートで繋げないとそれっぽくならずけっこう難しいです。この動きをバスが引き取って半音階進行するとチャイコフスキーっぽくなります。その辺を意識してオーケストラを聴いてみてください。

これぞ真打中の真打、アーサー・フィードラー指揮ボストン・ポップスの演奏です。テンポは作曲者と同じ2分36秒。まさに完璧です。

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ルロイ・アンダーソン「シンコペイテッド・クロック」

2021 DEC 16 0:00:10 am by 東 賢太郎

ルロイ・アンダーソンの曲は本当にいつどこで覚えたかわからない。家にレコードはなかったように思うが、すごく幼少の頃だという感じはある。クリスマスの銀座かデパートで家族でカレーでも食べてるBGMか何かだったというなら納得できる。

気がついたら知っていたというのはある意味不気味でもある。道で見かけた女性、どこかで会った気がするけど思い出せない。もと同級生?同僚?まさか彼女?、いやいや知らない。でもそんなはずないよ、だって知ってるんだから。ああわけわかんねえ。

この曲「シンコペーティッド・クロック」もそんな感じがする。でも、いい曲なんだ。サビの所が好きですね僕は。すごいですよ、なんせ子供のオーケストラでもサマになっちまうんだからさ。何ごとも、小難しくて効果が薄いというのが一番みっともないね。

チクタクいう時計やメトロノームを音楽にした人はいる。ハイドン、ベートーベンだ。でもタイプライターからサンドペーパーから馬のヒヒ~ンまでネタにしちまうアンダーソン先生ならおっしゃるだろう、「おい真似じゃないぜ、俺が曲にできないもんはないっちゅうことよ、まあ聞いてくれ」。ご本家の演奏だ。

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ルロイ・アンダーソン「トランペット吹きの休日」(2)

2020 DEC 7 18:18:19 pm by 東 賢太郎

彼はクリスマスソングの作曲家じゃあないですが、どういうわけかこの時期になると世間にお目見えです。アンダーソン・フリークなもんでどれも好きですが、今年のもやもやを吹っ飛ばそうとなるとやっぱりこれですね。

これをどこでいつ聴いたか?覚えてないですが、やっぱりCMだったような。クルマだったかなあ?あまりのカッコよさに一発でノックアウトでした。と同時に、中学まで住んでた家の空気まで思い出して感涙物の曲なのです。

では、前回にあげてないものを聴いてみましょう。youtubeにゴマンとありますが、良いのをみつくろいました。

まずは作曲者の指揮。脱兎のごとく飛び出すこのテンポ!最高ですね。これが正調中の正調であります。

 

そのDNAをひくアーサー・フィードラー指揮ボストン・ポップスです。ボストン交響楽団が主に夏にタングルウッドでポップスをやる時の名前ですが、アンダーソンはこっちに書いたのでこれが正調といえましょう。彼とボストン・ポップスの関係は、ヨハン・シュトラウスとウィーン・フィルにあたります。

 

そのボストン響のトランペット・セクションのリモート演奏です。こんな名門オケでも今年はこうなんですね。しかしうまい。

 

3人の音質とタンギングが揃うと快感です。スタッカート気味ですが実にうまい。ウエルナー・ミラー・オーケストラです。

 

これもほぼ同格ですね。カリフォルニア空軍バンドです。軍楽隊の定番で手慣れてます。リズムのつかみの良さはこれがトップです。

 

しかし我が軍も決して負けていない。派手さはないが盤石の安定感で実に頼もしいものです。自衛隊は目下コロナの看護師派遣でも頑張っていただいています。

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ルロイ・アンダーソン「タイプライター」

2019 DEC 10 1:01:24 am by 東 賢太郎

タイプライターというとビジネススクール時代は必需品というより友であった。学生は全員が持っており、提出する宿題、ペーパー、レポート、卒論はすべてタイプライターで打たなくてはならない。音を聞いただけで当時の “苦行” の日々が蘇り冷や汗が出る。同時並行に5科目履修している各科目の予習だけで約100ページ、つまりその5倍だから500ページの教科書を毎日読まなくてはならない。長編小説を毎日1つ英語で読むという感じで、ネイティブでも音を上げるほど大変な分量だった。それが月曜~木曜である。金曜は休みだが休む間など皆無で、金土日の3日間で復習と翌週の準備をしておかないととても授業のペースに追いつけない。そのうえでレポートの提出となれば、壊滅的に時間がない。僕は午前零時まで図書館づめで、夜の校内は危険なので大学警察のパトカーに乗せてもらって帰宅していた。家内と友人とでフィラデルフィア管弦楽団の定期会員になっていたが、そのような状況の中で金曜の午後2時からのマチネー・コンサートでつかの間の休息をアカデミー・オブ・ミュージックでとっていたことになる。

そんな拷問のような試練が2年間で履修すべき19科目においてあり、すべての中間、期末試験をパスして19単位を取得しないとMBA(経営学修士号)はもらえない。日本は入学が難しく卒業は簡単といわれるが東大法学部の26単位は非常に大変だ。しかしウォートンの19単位は、英語ということを割り引いても、もっと大変だった。9月~4月の2学期、夏季、9月~4月の2学期、と5つのタームがあって、アメリカ人は夏季はサマージョブに使うが英語のハンディがある日本人の選択は毎年例外なく5,5,2,5,2である。夏季に2の貯金をして最終学期を気楽にするのだ。しかしそれだと旅行ができない。僕は夏季の1か月はどうしてもヨーロッパへ行きたく、アメリカ人型の5,5,0,5,4とした。後で分かったことだがこれは僕の人生で最もリスキーなチャレンジだった。

言うまでもなく、この選択は最後の学期の「4」を1つでも落としたら卒業できず一生の赤恥となることを意味する。もちろん覚悟の上だったが、にもかかわらず2年目はチェロを買って習ったりしてお気楽なものだった。最後に履修した中級会計学(intermediate accounting) はウォートン名物の最難関科目であり、そんなのを取らなくてもいいのに妙なチャレンジ精神から取ってしまって、クラスで10%ぐらい落第するときいて初めてビビった。教室を見渡したら外国人は僕しかいない。しかも50人の米国人中14人がCPA(公認会計士)で絶体絶命であった。必死に勉強したが3月の期末試験は死ぬほど難しくて感触が悪く、結果発表までの1週間は生きた心地がしなかった。よくパスしたもんだと思う。

そんな苦労はしたが、夏をまるまるさぼったおかげでザルツブルグ音楽祭でカラヤンのばらの騎士やらスカラ座でマゼールの蝶々夫人が聴けてしまった。宝のような思い出だ。チェロは白鳥が弾けるようになっており、中級会計学は何も覚えていない。丸さぼりは正しい判断だったといえよう。後進のために書いておくが、そんなに苦労するMBAの学歴が日本において見合う価値があるかというと、それを詐称した芸能人がいたぐらいだから多少はあるのだろう。しかし、片言の英語ぐらいでばれないと思っていた方も方だが、それでダマせると思われていた方も方なのだ。畢竟、日本国においてはMBAですと名乗って仮にそれが厳然たる事実であっても、その程度にどうってことないのである。へ~英語ぺらぺらでっか、てなもんだ。

ウォートンは全米1位のビジネススクールだが、何のスキルが身につくかというと各人各様だろう。僕にとってビジネススクールは知識の習得より速読、速筆の特訓の場であり格好の虎の穴だった。同じ教室でハーバードやプリンストン出のエリート層のアメリカ人とディスカッションしたり競争したりして大したことないと白人コンプレックスが皆無になったという意味はあった。その後白人の部下をたくさん持って白人の世界で戦ったわけだが、ほかの業界は知らないが、金融の世界では位負けしたり舐められたりしたら負けでありやられてしまう。ぜんぜん上から目線でできたというのは有難かった。もとから一夜漬けは得意技であり、それに磨きがかかったのだから非常に有利な武器にもなった。よくブログが書けますねといわれるが、日本語ではあるが、速筆は役に立っている。

タイプライターが「友」だと書いたのはそういう深い意味がある。いまやワープロに、そしてパソコンにとって代わられ、若い人は見たことも聞いたこともないだろうがおおむね上掲の写真のような物体だ。触ったこともなかったのではじめは苦労したが、慣れてくるとカチカチ文字を刻む音が快感にもなった。ルロイ・アンダーソンが1950年に作曲した「タイプライター」をどこかで聞いたことがある人は多いはずだ。タイピストを管弦楽のソリストにしてしまうユーモア音楽で、お堅いクラシックに笑いを導入した画期的作品と思うが、ハイドンの交響曲第101番(時計)やベートーベンの同8番(メトロノーム)の末裔とも言えよう。ひょっとして当時の聴衆は彼らの交響曲を笑いを交えて楽しむ局面もあったのかと想像しながら聴くと楽しい。

ルロイ・アンダーソンの演奏が残っている。彼の指揮は概してテンポが速い。本来のリズミカルな魅力はこれでなくては出ないが、タイピストの名手はなかなかいないのだろう、現代版の演奏はどれも遅めだ。

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ルロイ・アンダーソン「忘れられし夢」

2017 NOV 11 0:00:06 am by 東 賢太郎

ルロイ・アンダーソンはアメリカのヨハン・シュトラウスと言われるが、僕はちがうと思う。父子共に宮廷舞踏会音楽監督だったシュトラウスはまだハプスブルグ家に取り入って名を成した、貴族社会に目線のある音楽家だった。アンダーソンは貴族の無い国で、ポピュリズムに徹しながら大衆にわかる音楽を書いて(ここだけは結果としてはシュトラウスと似るが)、しかし、そうなれば容易に消え去ってしまう音楽の本来持つ高貴さを断固失わせなかった人だ。

アメリカという国に希望の党は不要である。希望は政府がくれるものではなく人民が持っているからだ。移民だけの国。祖国より何かの光明があると信じてきた人たちの国である。今日より明日のほうが良くなるさ、と疑うことなく信じる。僕が1か月放浪し、1か月遊学し、そして2年学んで、骨の髄までしみ込んだのはその「信心の炎」であったと思う。

留学してすぐだったか、家内とフロリダに旅行してディズニーワールドに遊びに行った。ついでにマイアミからキー・ウエストまでいくぞと32本もある長い長い橋をわたって車をぶっ飛ばしたのだが、あるところで道がゆるやかな勾配をのぼっていってピークまで道路しか見えなくなった。道の先端にはブルーの空だ。てっぺんになって、すると、行く末の地球のかなたまで、広大で紺碧に光るサンゴ礁の海と一筋の白い橋が視界にどかんと開けた。

あの空にむかっていく、まるで飛行機になったみたいな、てっぺんのむこうに新婚の俺たちの素晴らしい未来が待ってるぞという無上の輝かしい気分こそ僕の人生のファンファーレだった。そして、あの空に映った目もくらむほど眩しい希望こそ、まぎれもない僕にとってのアメリカであった。

どうしてアンダーソンの曲を知ったのか好きになったのか、皆目記憶がないが、レコードではないからラジオだったのだろうか、昭和30年代初頭、そのぐらい幼いころである。家族で過ごした居間の陽だまりのあたたかさに親密にシンクロナイズしてくるのが心地よく、そういう家庭で愛情をそそいで育ててくれた両親に感謝の念がわきおこる、そんな音楽だ。

このビデオ、知らない人たちの思い出の写真なのだが、ただただ、Forgotten Dreams(忘れられし夢)という音楽にあまりにそぐわしくて感動する。

親族一同か親しい友人たちか、とにかくみな素晴らしい笑顔で楽しげで晴れやかで、心が和む。アメリカでホームステイしたこともあるが、こういう優しくて良い人たちだった。彼らと戦争をしたということなど考えたくない。

音楽って、ほんとうの役割はこういうことなんじゃないか。人のこころの善良で美しい部分をひき出してあげること、きれいな自分を本人にも見せてあげることだ。これを見て、聞いて、戦争をしたり人を殺したいと思うだろうか。自殺したいなんて思うだろうか。うちの親がくれたようなごく普通の愛情をもらえなかった子たちがきっと多くいるのだろう。いかにも不憫でならず、しかしそれでも、音楽はそういう子たちをきっと救ってあげることができる、人間に必ず備わっているはずの良心と希望というものを見せてあげられると僕は強く信じている。

 

ルロイ・アンダーソン 「そりすべり」 (Sleigh Ride)

 

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ルロイ・アンダーソン「トランペット吹きの子守歌」

2016 DEC 24 18:18:46 pm by 東 賢太郎

ここに書いた事情でルロイ・アンダーソンはみんなX’masの曲と思っていました。

フランク・シナトラの「ホワイト・クリスマス」

実は全然ちがうのですが、僕の中では「そりすべり」=クリスマスであって、そうなると幼時のすりこみというのはどうしようもないのであって、いまだにこれを聞くとツリーとかプレゼントとかが浮かんでしまうのです。

A Trumpeter’s Lullaby(トランペット吹きの子守歌)であります。こんな素晴らしい曲が初見で弾けるやさしさって、ある意味貴重じゃないでしょうか。そういうのがほとんどない僕にとって人類の文化遺産です。

leroy

それではみなさん、Merry Christmas!

Yahoo、Googleからお入りの皆様

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ルロイ・アンダーソン 「そりすべり」 (Sleigh Ride)(その3)

2015 DEC 8 0:00:59 am by 東 賢太郎

LA-Photo-42シベリウスのようなシリアスな曲をききながら僕がルロイ・アンダーソンを愛好するのはどうしてかというと、どっちも和声が抜群に面白いからです。和声フェチとして、シリアスかライトミュージックかは二の次。美人に国籍なし、です。

シベリウスの和声というとあまり語られていませんが、とても興味深い。彼の楽器はヴァイオリンですが交響曲のような構造のロジックを問う音楽ではやはりピアノで思考したのかなと思います。調性が自由なように聞こえるのはドイツ音楽の視点から予定調和的でない事件が数々おきるからですが、それが元のあるべき調に帰還する- ロジックがあるとはそういうことだ- その手続きは見事に計画されています。そのプロセスに僕はピアノ的なものを見ます。

一方のルロイ・アンダーソンはというと、これはまったくもってピアノ的であって、それ以外の楽器を逆さにしても「そりすべり」の転調なんかは出てこないでしょう。ビートルズが奇矯なコード進行を見つけたといっても、それはAとかB♭といった「コード」という名のもとに色彩のくっきりした三和音という原色に固まった和音の連結が風変りだということであって、中華料理のフルコースにフランス料理の一皿が供されてあれっと思ったという風情のものである。

ところが「そりすべり」の変ロ長調(B♭)が咄嗟にホ短調(Em7)に色が変わってしまうあの増4度のマジカルな転調は、B♭の主旋律の伴奏の最初の和音がb♭-aの長7度を含むという輪郭の「ぼかし」が下敷きにあって、しかも最初の2小節だけで2度のぶつかりが5つもあるのであって、原色に混じりの入った、ギターじゃ弾けない「固まってない和音」が前座にあるから奇矯に聞こえないという裏ワザでなりたっています。

しかも楽器法もうまくて、B♭にはスレイベル(鈴のシャンシャンシャン)が入っていてEm7で突然ウッドブロック(馬のパッカパッカ)が闖入し、耳をとらえてしまいます。調がぶっ飛んだ意外感がもっと意外な音で中和されます。Em7はD(ニ長調)の前座だったことがわかると今度はDm7に変化し、それがC(ハ長調)になったと思いきや、それをB♭へ回帰させるために曲頭の前奏がE♭(変ホ長調)を背景に現れる、ここのぶっ飛びも段差がありますが、今度はグロッケンシュピールが可愛らしく闖入して、またまた転調の意外感を消してしまう。しかもEm7のところから裏に入っていたチェロの魅惑的な対旋律がずっと並行してきて意外感なくE♭へいざなってくれる。う~ん、すごい、プロの技です。

この転調、ウルトラC級でドイツ音楽にもフランス音楽にも現れないレア物であり、この曲を「歌もの」にアレンジするとホ短調部分(歌詞でいうとGiddy-yap giddy-yap のところ)がどうしても浮いてしまいます。唐突すぎてポップスとしてサマにならないのです。だからみなここだけ子供の声にしたり、その段差を正当化すべく苦労してます。このアレンジはばっさり切り捨ててしまっています。この女性の太めの声であの転調はズッコケになるとアレンジャーが諦めたのでしょう、主部を半音ずつ上げていくという単調を避ける変化球で逃げています。これはこれで味はありますし、ひとつの解決策ですね。

どうしてそうかというと、声で歌うと伴奏和音の7度のぼかしが聞こえにくいのです。だからギター風に「固まった和音」でB♭からEm7にドスンと落っこちて、階段でころんで尻餅をついたようになってしまう。一方、伴奏が良くきこえるピアノやオーケストラだと「ぼかしの7度、2度」が作用して「にごり」を作って原色イメージが和らぎ、ソフトランディングができる。要はB♭のコードが明瞭でなく、中華料理が中華中華してないのでフレンチの一皿が闖入して驚きはしても、それなりにしっくりきてしまうという風情なのです。しかし、そうはいっても奇矯な転調だから強いインパクトを残すのであって、永遠のヒット曲になっている隠し味という所でしょう。

ピアノで弾いてみるとルロイ・アンダーソンの和声はこうしたマジックに満ちていることを発見しますが、こういう「当たり前に固まった和音」に「にごり」を入れて輪郭をぼかすようなことはギターの6弦で、しかも短2度のような近接音を出しにくい構造の楽器では困難です。ピアノのキーボードの利点をフル活用した作曲であり、ドビッシーが開拓した音の調合法の末裔でしょう。ちなみにアンダーソンの先祖はスェーデン人ですが、グリーグやシベリウスら北欧の人の非ドイツ的な和声感覚に僕は魅かれるものがあります。

andersonニューヨークの楽譜屋で見つけたこの楽譜は宝ものです。アンダーソン代表作25曲のピアノソロ譜です。Almost completeというのがぜんぜんそうじゃなくって、いい加減なおおらかさがアメリカらしいが、たしかにこの25でいいかというぐらい有名曲は入ってます。「そりすべり」はチェロの美しい対旋律がなかったり2手の限界はあるのですが、弾いていると無上に楽しい。ほんとうにいい曲だなあと感服するばかりであります。

 

「そりすべり」はいろんなアレンジが百花繚乱です。気に入ったものをいくつか。

アメイジング・グレイスを歌ったニュージーランドのヘイリー・ウェステンラの歌です。伴奏のギターの和音は手抜きですが、ピッチの合った器楽的な声で転調をうまくこなしているレアなケースです。ポップス的にあまり面白くはないが絶対音感がある彼女の転調の先読みは知性を感じます。好感度大。

カーペンターズ版です。70年代のアメリカの匂いがぷんぷんしますね。カレンの歌は群を抜いてうまい。どう転調してもぴたっとキーが合ってしまう。単に表面ずらでなく、ミとシの具合まで完璧に瞬時にアジャストしてます。この凄い音感とピッチ、どこにボールが来てもミートできるイチローみたいな天性の動物的感性を思わせます。

次、カメロン・カーペンターのオルガン。このひとりオーケストラ、驚異です。

ギターです。いいテンポですね、この人、音楽レベル高いです。

前回のTake 6のアレンジ。これもすばらしい!アカペラも含めて歌バージョンで増4度のホ短調への転調を音楽的にうまくのりきっているのはヘイリー・ウェステンラとカレン・カーペンターと彼らだけでした。この6人の和声感覚は世界最高レベルの洗練をみせています。

最後にアメリカ海兵隊バンド (The President’s Own United States Marine Chamber Orchestra)。うまい!やっぱりこれだ。ウィーン・フォルクス・オーパーのヨハン・シュトラウスです、参りました。

(こちらもどうぞ)

 

ルロイ・アンダーソン「トランペット吹きの休日」 (Leroy Anderson: Bugler’s Holiday)

ルロイ・アンダーソン 「そりすべり」 (Sleigh Ride)

ルロイ・アンダーソン「そりすべり」 (Sleigh Ride)(その2)

 

クラシック徒然草-冬に聴きたいクラシック-

2014 NOV 16 23:23:26 pm by 東 賢太郎

冬の音楽を考えながら、子供のころの真冬の景色を思い出していた。あの頃はずいぶん寒かった。泥道の水たまりはかちかちに凍ってつるつる滑った。それを石で割って遊ぶと手がしもやけでかゆくなった。団地の敷地に多摩川の土手から下りてきて、もうすっかり忘れていたが、そこがあたり一面の銀世界になっていて足がずぶずぶと雪に埋もれて歩けない。目をつぶっていたら、なんの前ぶれもなく突然に、そんな情景がありありとよみがえった。

ヨーロッパの冬は暗くて寒い。それをじっと耐えて春の喜びを待つ、その歓喜が名曲を生む。夏は日本みたいにむし暑くはなく、台風も来ない。楽しいヴァケイションの季節だ。そして収穫の秋がすぎてどんどん日が短くなる頃の寂しさは、それも芸術を生む。 ドイツでオクトーバー・フェストがありフランスでボジョレ・ヌーボーが出てくる。10-11月をこえるともう一気にクリスマス・モードだ。アメリカのクリスマスはそこらじゅうからL・アンダーソンの「そりすべり」がきこえてくるが、欧州は少しムードが違う。

思い出すのは家族を連れて出かけたにニュルンベルグだ。大変なにぎわいの巨大なクリスマス市場が有名で、ツリーの飾りをたくさん買ってソーセージ片手に熱々のグリューワインを一杯やり、地球儀なんかを子供たちに隠れて買った。当時はまだサンタさんが来ていたのだ。そこで観たわけではないのだがその思い出が強くてワーグナーの「ニュルンベルグの名歌手」は冬、バイロイト音楽祭で聴いたタンホイザーは夏、ヴィースバーデンのチクルスで聴いたリングは初夏という感覚になってしまった。

クリスマスの音楽で有名なのはヘンデルのオラトリオ「メサイア」だ。この曲はしかし、受難週に演奏しようと作曲され実際にダブリンで初演されたのは4月だ。クリスマスの曲ではなかった。内容がキリストの生誕、受難、復活だから時代を経てクリスマスものになったわけだが、そういうえばキリストの誕生日はわかっておらず、後から12月25日となったらしい。どうせなら一年で一番寒くて暗い頃にしておいてパーッと明るく祝おうという意図だったともきく。メサイアの明るさはそれにもってこいだ。となると、ドカンと騒いで一年をリセットする忘年会のノリで第九をきく我が国の風習も捨てたものではない。メサイアの成功を意識して書かれた、ハイドンのオラトリオ「天地創造」も冬の定番だ。

チャイコフスキーのバレエ「くるみ割り人形」、フンパーディンクの歌劇「ヘンゼルとグレーテル」はどちらも年末のオペラハウスで子供連れの定番で、フランクフルトでは毎年2人の娘を連れてヴィースバーデンまで聴きに行った懐かしの曲でもある。2005年末のウィーンでも両方きいたが、家族連れに混じっておじさん一人というのはもの悲しさがあった。ウイーンというと大晦日の国立歌劇場のJ・シュトラウスのオペレッタ「こうもり」から翌日元旦のューイヤー・コンサートになだれこむのが最高の贅沢だ。1996-7年、零下20度の厳寒の冬に経験させていただいたが、音楽と美食が一脈通ずるものがあると気づいたのはその時だ。

さて、音楽そのものが冬であるものというとそんなにはない。まず何よりシベリウスの交響詩「タピオラ」作品112だ。氷原に粉吹雪が舞う凍てつくような音楽である。同じくシベリウスの交響曲第3、4、5、6、7番はどれもいい。これぞ冬の音楽だ。僕はあんまり詩心がないので共感は薄いがシューベルトの歌曲「冬の旅」は男の心の冬である。チャイコフスキーの交響曲第1番ト短調作品13「冬の日の幻想」、26歳の若書きだが僕は好きで時々きいている。

次に、特に理由はないがなぜかこの時期になるとよくきく曲ということでご紹介したい。バルトーク「ヴァイオリン協奏曲第2番」プロコフィエフのバレエ音楽「ロメオとジュリエット」がある。どちらも音の肌触りが冬だ。ラヴェルの「マ・メール・ロワ」も初めてブーレーズ盤LPを買ったのが12月で寒い中よくきいたせいかもしれないが音の冷んやり感がこの時期だ。そしてモーツァルトのレクイエムを筆頭とする宗教曲の数々はこの時期の僕の定番だ。いまはある理由があってそれをやめているが。

そうして最後に、昔に両親が好きで家の中でよくかかっていたダークダックスの歌う山田耕筰「ペチカ」と中田喜直「雪の降る町を」が僕の冬の音楽の掉尾を飾るにふさわしい。寒い寒い日でも家の中はいつもあったかかった。実はさっき、これをきいていて子供のころの雪の日の情景がよみがえっだのだ。

 

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クラシック徒然草-小澤征爾さんの思い出-

2014 JAN 20 17:17:36 pm by 東 賢太郎

大学4年だった僕は半分遊び、半分英語の勉強でアメリカは東部のカナダに近くにあるバッファロー大学の夏季講習に参加した。別に何のためということもなく、最後の夏休みだしまったくの好奇心だった。ちょうどそのころ50をこえて外国銀行へ出た親父に英語だけはやっておけと口酸っぱく言われたのも影響したと思う。1か月ぐらいいたアメリカは楽しかった。渡米は2回目だったが最初は西海岸を車で1700km突っ走る無鉄砲旅行だけであり、東海岸、特にニューヨークへ行ってアメリカの大学を見てみたかった。その後にペンシルバニア大学で修士号を取ることになるなど夢にも思っていなかったが、この時にすでにそういう思いがあったから野村證券が企業派遣留学生に選んでくれたと思う。この時何も聞かずにポンと金を出してくれた親父のおかげだ。思えば他愛のない英語の授業をうけていたわけだが、まがりなりにも学生証をもらって米国の大学にいるというだけで気分がうきうきした。時間が無限のようにあったのだ、あの頃は。

今は知らないが当時の東大法学部生でそんなのに一人で参加する奴はまずいなかった。だからアメリカに興味を持ったあたりから僕はあそこの卒業生としては異色の道に進む定めになったと思う。学外の人と接することもあまりなかったので20人ぐらいいた他校生からは珍重はされるが敬遠もされるものだということを初めて知り、こちらから進んで飲みニュケーションに徹して仲良くしてもらった。こんなことでも証券業界に入るとやっておいてよかったと思えるようになる。みんなでナイヤガラの滝からトロントへ行ったり、ボストン、ニューヨークへも旅行した。もうすっかり溶け込んでいた。エンパイアステートビルやロックフェラーセンタービルに上ったのはそれが初めてだ。すべてがカルチャーショックだ。こんなのと戦争しちゃあいかん、凄いなあと思った。

ボストン郊外のタングルウッドでは小澤征爾さんとボストン交響楽団を聴いた。いま日経新聞で私の履歴書を連載されている。好きなことにものおじせず挑戦して勝ち抜かれた姿は実にすがすがしい。スクーターでやってきた何の実績もない日本人の若僧がブザンソン・コンクールで優勝してしまうのもすごいが、それをちゃんと認める欧米人もいいなと思う。それが誰か?ではなく能力だけを別個に評価する。実力はどうか?よりもそれが誰かを先に見てしまう日本とは大違いだ。日本が一番ダメなのはそれである。まじめに努力してどうしてもやりたいやらせろと言う若者に対して、日本はともかく、世界の門戸は開かれているのだということを教えてくれる。彼は英語もできずpieをパイとも読めずに外国へ飛び出していったのだ。もういいトシの僕ですらいま勇気をいただいているところだ。若い人は是が非でも小澤さんの私の履歴書を読むべきである。

さて、タングルウッドだ。ここは野外音楽堂でボストンSOがサマーコンサートをやっている。ボストン・ポップスという名でやっている。ちなみに「そりすべり」のルロイ・アンダーソンもそれを振っていた。その後継者が僕がクラシック入門したレコードの指揮者アーサー・フィードラーだ。だから一度は行ってみたい憧れの場所だったのだが何せ野外だから音響は良いはずもなく、こういうところでクラシック音楽をやってしまうのがいかにもアメリカだと思った。でもみんな寝っころがったりそれぞれの格好で楽しんでいる。何はともあれ音楽が好きな人たちが集まっているのはよくわかり、やがて気持ちよくその一員になった。曲目は後半が何だったか忘れたが、前半にチェコの名ピアニスト、ルドルフ・フィルクシュニーが出てきてモーツァルトの協奏曲24番をやった。フィルクシュニーは亡くなったが今でもCDを見つければ全部買うぐらい大好きなピアニストである。24番も当時から好きな曲であり嬉しかったが、どういうわけかピアノのキーがひとつおかしな音を出して、残念ながらそれが気になってしまうともう楽しめなかった。

小澤征爾さんを見かけたのは、その1か月が終わってボストンから日本へ帰る飛行機の中だった。トイレに立ったら通路側の座席によく似た人がいて、本を開いたまま眠っていた。エコノミークラスだしラフな格好だったのでまさかと思ったが、Tシャツに大きくBoston Symphony Orchestraと書いてあった。それで目を覚まされたときにおそるおそる話しかけてみたら、小澤さんだった。何を話したかよく覚えていないが、自己紹介したところこっちに来てみてどんなだったと逆にいろいろ聞かれた。音楽のことはあまり話さず先日のコンサートのこと、東京ではドヴォルジャック(そう発音された)のスターバト・マーテルをやる予定であれは有名でないがいい曲ですよなどだ。英語の辞書にサインをいただいた。それだけのことだが、23歳だった僕にとっては人生で初めてお話をさせていただいたビッグネームであり、偉いかたは謙虚なんだと心に焼きついた。結局その1か月何を特別にしたわけでもないが、若いときの外国の経験というのは学校の勉強より後々に残ると今になって思う。勉強はほったらかしだった劣等生のいいわけだが。

 

 

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