高市早苗さん ザラストロになってくれ!
2025 OCT 22 22:22:04 pm by 東 賢太郎
魔笛!27歳の僕を夢中にさせ、クラシックの世界に引きずりこんだオペラ。これを35歳の死の直前に超高速で書き上げたモーツァルト!この人そのものが壮大なワンダーランドである。その謎を解き明かそうと何度ウィーンの街を歩きまわったことだろう?秘密は魔笛の中にある。一緒に全曲を歌おう。モーツァルトに同期する。そこには人間と宇宙との完璧な合一という神秘がある。
音楽は僕にとって全人格的な存在である。モーツァルトというワンダーランドでおきること。それは生きていてそう何度も触れる機会のない超常現象だ。一切の思考を停止して身をゆだね、地球の重力をも振り切って、自分が宇宙の一部であるという「無」の境地になるとわかる。そして俗界に帰還すると、目はなぜか涙でいっぱいなのである。魔笛にドラマとしての悲劇性はない。勧善懲悪ものに見えるが、我々の心を熱くしてくれるのは底流に溢れかえっている人間愛なのだ。仏陀もキリストも宇宙は愛に満ちているという。涙はそこから来ている。
リッカルド・ムーティとスカラ座の演奏。こんな素敵な魔笛が手近に聞ける。余生をミラノで送ってもいいなとさえ思う。
ビデオの「2:41:10(2時間41分10秒)から終幕まで」を高市新総理誕生への祝意としたい。この個所を字幕とともにじっくりご鑑賞いただきたい。我が国に僥倖がやってくることをモーツァルトが予見していたかのようではないか。成り行きはこうだ。
夜陰に乗じて「シーシー、静かに静かに」と夜の女王を筆頭とする三人の侍女、モノスタトスの悪玉軍団が忍び足でお出ましだ。女王は別れた夫であるザラストロの軍団に締め出され、いざ復讐せんと神殿を襲撃に来たのだ。
ムーア人のモノスタトスは白い肌のパミーナを2度も犯そうとしたが失敗してる。それを知る女王は「あんた、襲撃に成功したら娘をあげるよ」と噓で釣っているが、彼女はタミーノ王子も「救出したら娘は永遠にあなたのものよ」と二股かけてそそのかしている大嘘つきの悪女なのだ。それでも長い物に巻かれる一同は「偉大なる夜の女王様~」と口をそろえて歌う。
思い起こしてほしい、2022年の7月を。そこで我々は夜の女王の支配下に入った。天空は特殊な電磁波によるアイアンドームですっぽり覆われ、外界の真実から遮断された。空に浮かぶ太陽も月も星もぜんぶ作り物に思えた。腐ったオールドメディアが見せるもの、聞かせるもの、すべてが女王軍団の垂れ流す嘘だ。真実が暴かれると「それ陰謀論だ」と新たな嘘がばらまかれた。民から税を搾り取り、外国に貢いでキックバックをもらう「おぬしもワルよのう」汚職が跋扈したが、いよいよその支配に終焉の時がやってきたようだ。
雷、滝のような恐ろしい音が響いてくる。そして強烈な天の鉄槌が下る。
あれ~~~「我らの力は打ち砕かれた」「永遠の夜に突き落とされる」・・・・
女王軍団は蹴散らされる
太陽の輝きが夜の闇を払う。正義を背負うザラストロ様の登場だ!
偽善者の悪の力を滅ぼす。入門を許された者たち、万歳。あなた方は夜を通り抜けた。強さが勝利を収め、美と叡智が永遠に讃えられる。
魔笛はこうして幕を閉じる。
18世紀のオペラだ。ムーア人は肌の色で堂々と差別されている。女は嘘をつく、男をたぶらかす、信用してはいけないとアンチのオンパレードだ。台本家のシカネーダーもモーツァルトも聴き手も当時の民衆も、誰もそれをおかしいと思ってなかった。つまり、夜の女王に正義があり、ザラストロをやっつけて大団円という筋書きはなかったのだ。
しかし、このオペラが書かれる11年前にある女性が世を去っていることを忘れてはならない。オーストリア女大公マリア・テレジアだ。モーツァルトは自分を乞食扱いして職をくれなかったこの女帝を呪った。階級社会で屈辱を味わい、貴族に尻を蹴られて追いだされた彼はドン・ジョバンニというプレイボーイ貴族を地獄へ引きずり落とす。その場面を描写するショッキングな音楽に、貴族この野郎の怨念が木霊する。
21世紀の東のさい果ての国で女性が王になった。天国のモーツァルトはマリア・テレジアを思い出すのだろうか?いや、銀のスプーンをくわえた生まれでない高市早苗を彼は応援するに違いない。人智を超越するひどさだった前任、前々任総理の醜怪な残像現象で、高市氏は何をしても評価されるだろう。しかしそんなものにかまけてはいけない。一気にやることをやり、総選挙をかまして単独安定多数になること。これで政権は10年もつづき、あなたは日本を救うだろう。「英国に必要なのは鉄の女よ」(What Britain needs is an iron lady)。自ら言ってのけたサッチャーは11年半やった。「私の批判者たちは、たとえ私がテムズ川の上を歩いて渡ったとしても、それは泳げないからだと言うでしょう」。このスピリットだ。日本人は望んでいる。国のため国民のため、正しいことを情け容赦なくやることを。楽しみでしかない。それであなたはザラストロになります。
女性指揮者の時代(ゾーイ・ゼニオディ)
2025 OCT 16 0:00:28 am by 東 賢太郎
大好きなシューマンの交響曲第3番「ライン」。僕はレコード、CD、カセットテープを56種類所有し、自分の手で全曲シンセ演奏・MIDI録音している同曲の揺るぎなきマニアであります。youtubeにあるのもくまなく聴いていますが、何度きいてもいいなあと幸福感に満たされてるのがこの演奏なんです。
指揮は Zoe Zeniodi(ゾーイ・ゼニオディ)というギリシャ人女性、演奏はマイアミ大学フロスト音楽学校のアマオケです。どちらも名前も聞いたことがありません。ドイツともラインとも何のゆかりもない所でこういう核心を突いた演奏が生まれる。音楽は面白いもんですね。日本で日本人がこれをやったって何の不思議もない。そのうえ、その昔、オケは女人禁制で、僕がロンドンにいたあたりまで楽員にさえ稀でしたね。チェコ・フィルだったかな、舞台は黒ずくめでドレスはハープしかいませんでしたよ。それがいまや指揮台ですからね、俺も年をとったなと感無量であります。
このビデオ見ると、何がいいって、まず指揮姿が美しいじゃないですか。ミューズも女神ですが、この人の流麗な動きは音楽そのものです。見とれます。ラインが好きなんだなあと、大切な楽節でのちょっとした笑顔に愛情がビンビン伝わってきます。細かい指示はなく大河の流れを振っている。その動きと表情のとおりにまぎれもないシューマンの音楽が紡ぎ出されてる。こりゃオケだってどんどんその気になって、終わってみると自分たちが奏でた素晴らしい音楽で全員が幸せになってます。それが聴衆を幸せにしないはずがありません。いい指揮ってこういうもんだと思います。
といってその「好き」の向かう先も大事なんです。水墨画みたいにスコアの版の選択も含め余計な虚飾も贅肉もまったくなし。シューマンのスコアの美を固く信じ、毅然としたもんです。しかもそれが清々しいばかりだ。灘の生一本、純米吟醸。ピュアでストレート。かたやそこらじゅうで蔓延してる、大衆に受けんかな売らんかなみたいなテンポも趣味も悪いくだらない下劣な演出。人工甘味料と防腐剤入りの安っぽいスイーツ。吐き気がします。こういうのは指揮者の氏素性であり人間性というものであって、男も女も人種もなく、それがある人はあるし、ない人が形だけまねたってサマにならず退屈なだけです。音楽はそれをさらけ出しちまう鏡でもあるんです。ゼニオディの趣味、共感しかありません。ホルンが音を外したり弦が乱れたりするけどそんなのはご愛嬌、ベルリン・フィルがカラヤンの棒で整然と完璧にやってますが、だからなんだってもんで蒸留水みたいで滓がない。軍隊の行進みたいな完全主義でラインをやっても意味ない、実につまんないですね、むしろ不純物があるぐらいでいいんです。この曲、いわゆるドイツの巨匠フルトヴェングラー、ベーム、ケンペらは録音がありません。誰でも手が出せるものではない特別な曲であり、彼らの芸は及ばないという自身の見識と思います。
「詩人の恋」。言葉がありません。音楽の魂にふれてます。シューマンもこう弾いたろうかと思うほど。深く深く感動いたしました。
2千人のホールでブラボーの絶叫が乱れ飛ぶ、あんなのとは別世界の、インティメートで音楽の最高の喜びを知る人だけのものです。職業ピアニストじゃない、本物のピアノ。最大180席のアテネ音楽院の「アリス・ガルフリス」コンサートホール、こういうものが毎日聴けるならしばらくいてもいいな。
アメリカの作曲家、故トーマス・スリーパーが指揮の師で、その作品を擁護しているようです。芭蕉の句の静寂と凝集。ゼニオディ、大変な才能です。
読者はご存じの通り僕はグローバリストが世界に押し付けてるジェンダー論の支持者ではまったくありません。でもこと音楽に関してはLGBT全部OK、大賛成です。女性の職業ピアニストというと、1805年生まれのファニー・メンデルスゾーンの時代はまだ難しく、1819年生まれのクララ・シューマンの時代あたりから、もしかして、当時リストぐらいしか満足に弾けなかったハンマークラヴィール・ソナタを弾いた彼女の出現が幕開けとなって、現代人は当然のようにいたもんだと思ってます。とんでもない。20世紀まで声楽にカストラートがいたように宗教的理由からもガラスの天井は厳然とあって、特に集団の支配者、いわば司祭である指揮のポストは保守的聴衆もオケ団員も女性を認めなかったんですね。
それは大いなる間違いです。時流だからではありません。音を出さずフィジカルなハンディ皆無である指揮にこそ、才能ある女性が進出して人類のために悪かろうはずがないからです。最近は読響定期で出会うことが増えており、その都度新しい才能に喝采しております。男はどうしようもなく退屈な人がままありますが、女性は見事にハズレがありません。天井を破るのは半端なことではなく、それだけの覚悟を持った人たちだからでしょうか。これからは指揮も女性の時代になりそうな予感がひしひしとしています。
ご参考
ブラームス 「ドイツ・レクイエム」作品45 (その5)
2025 OCT 12 16:16:03 pm by 東 賢太郎
目下、仕事の合間をぬいながらドイツ・レクイエム全曲ピアノで弾いてみようという無謀なプロジェクトを決行中だ。遅々としてやっと第3楽章まで来た。これと第6楽章にはフーガという難所がある。それにビビっては音楽の全貌が見えない。山は見上げるな登ってみよ、これは何事においても我がテーゼだ。登って作曲家を知る。ビジネスの成功には人を見る目を要するが、同じことだ。天才という後世がかぶせた仮面では姿は見えない。
今回はその第3楽章である。作曲は1866年の2~4月にバーデン=バーデンに近いカールスルーエでフーガまで、5月に演奏旅行のさなかにフーガを完成させている。前年2月に母が亡くなり、夏はバーデン=バーデン、秋からドイツ、スイスへ演奏旅行に出てチューリヒで医学者ビルロートと知り合ったわけだが、1866年夏にフルンテルンで第5楽章を書く直前に第3楽章を仕上げたことになる。
本稿では第3楽章のある音型につき仮説を述べたい。ハイドンの交響曲第98番でもそうだったが、作曲家は創造の秘密を明かすことはない。知的財産権の保護として音楽著作権の概念ができたのは1886年のベルヌ条約以降だが、ブラームスはシューマンの主題の引用で訴訟されるリスクは考えなかったろう。つまり盗作ではない引用は平安貴族の本歌取りに類し、原作者の利益を棄損するものではない。ただオリジナリティを競う音楽創造において自らそれを棄損する引用の価値はゼロだ。したがって、もしそれがあるなら、引用者には何かの事情があると考えるべきだというのが僕のスタンスである。
アントニン・ドヴォルザークの父親の生家は肉屋と宿屋を営んでいた。父は村で評判のツィターの名手で、後にズロニツェで飲食店を始めたが、生計が苦しく、アントニンは小学校を中退させられ肉屋の修業に出された。厳しい出自である。それに甘んじなかったのは彼の意志で、それを後世は才能と呼ぶ。1874年、ウィーンに出てきてオーストリア政府の国家奨学金に応募した33歳のスラブ人を、ウイーン楽友協会の音楽監督で審査員だったブラームスは楽界に紹介し激賞する。「彼はオペラ、交響曲、室内楽に器楽曲、あらゆる音楽を書いていて疑いもなく才能ある人物である」と貧しい彼を出版社ジムロックに紹介もした。ロベルト・シューマンが突然に家に現れた彼にしたように。人は出自の影響を抜けられない。アントニンのそれはブラームス自身の父親、階級、惨めなハンブルグ時代にダブルフォーカスしたろう。30代半ばでワーグナー派であったアントニンも反応する。絶対音楽への傾斜を見せ、交響曲第6番にヨハネスの2番の、第7番に3番の影が見えるという宗派替えは作曲家のドクトリン変換という重大事である(3番の初演にもアテンド)。そのことが民族、宗教の厚い障壁を越え、両人が根源的共感に至ったことと切り離して考えられないことは、ヨハネスと芸術観を共有する中産階級出身のクララ・シューマン、ヨーゼフ・ヨアヒムが、ヨハネスの激賞にさっぱり反応しなかったことに見て取れる。
もうひとつ注目すべきは、両人の共通の関心事、鉄道である。好んでそれで旅したブラームスの交響曲第2番終楽章はその心象風景とも語られ、かたやドヴォルザークはマニアのレベルにあり、下宿は列車の音が聞こえる所に探し、暇さえあれば駅に行き、機関車の型番、スペック、時刻はおろか駅員、運転士の名前まで記録し、線路の継ぎ目を渡るがたんがたんのリズムの変調で列車の故障を見ぬいた。女性にそういう人がいないわけではなかろうが、男性に圧倒的に多い、いわば理系的関心領域である。Oゲージの鉄道模型に耽溺して育ち小田急線の台車の種類を全記憶している僕自身まさにそれであり同慶の至りの感を禁じ得ない。両人はさぞ話がはずんだろう。アントニンはシューマン夫妻の長女マリーと同い年だ。彼が支援したくなった気持ちはよくわかる。
ブラームスとドヴォルザークは一般に作曲家としては別種とイメージされる。ブラームスが「彼の屑籠から交響曲が書ける」と羨んだからだ。しかし彼は「美しい旋律が良い交響曲を生むわけではないがね」を言ってない。マルクスゼンに習い、バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、ベートーベンの楽譜を独学した主題労作、変奏の技術に旋律素材のクレジットの余地は僅少である。それに習うドヴォルザークは49歳の大作レクイエムをバッハのロ短調ミサ第3曲の冒頭のF – Ges – Eの半音階的音列を素材として書いた。美しい旋律だけの人ではない。作曲する(compose)とはcom(一緒に)+pose(置く)だ。つまり、おもちゃの兵隊や鉄道模型をあれこれ並べて気に入る軍隊やジオラマを作る作業を「音」でやるという意味で音の建築に近く、対位法、和声法は構造建築工学に相当する理系的学習だ。ブラームスが「作品を寝かせ、それが1つの完成した芸術作品として仕上がるまで、音符の多過ぎ少な過ぎがなくなり、改善できる小節がなくなるまで何度も書き直す。それが美しくもあるかどうかは全く別の事だが、それは完璧であるに違いない」と述べたのはそういうことだ。
ブラームスになくドヴォルザークにはあった重い経験がひとつある。子供を持ったこと、そして失ったことだ。長女、次女、長男を亡くした精神世界はそれを直接の動機とするスターバト・マーテルのみならず、レクイエムにも深々と投影されている。儀式典礼用ではなくプライベートな動機に発している点においてドイツ・レクイエムに重なる。ドヴォルザークがこの作品をどう見たかはわからない。ヤナーチェクに語ったとされる「ブラームスは神を信じない」という言葉が真実なら敬虔なカソリックの彼には異質なものだったかもしれないが、自分と同年代で作曲された大作を看過したとは思えない。
第3楽章を弾いていてひっかかる部分があった。これだ。
どうしても、これにしか聴こえない。
耳でもそう思っていたが楽譜でみると音価までぴったり同じである。言うまでもなくチェロ協奏曲の主題だ。ドヴォルザークはこれをナイアガラ瀑布にて着想したという。職業上、世間にはそう言ったのだ。なぜなら米国で書いた作品は出版前にブラームスに送られ、彼が校訂しており、「チェロでこんな協奏曲が書けるなら自分も書いたのに」と唸らせた。つまり、これを見たことは確実だ。むしろブラームスに見せる前提で、原曲で「mein Leben」(わが命)と歌うこの主題(第7楽章にも現れる)を無言のメッセージにしたというのが僕の仮説である。
この協奏曲は望郷の歌だ。そして彼はかつて愛した女性(ヨセフィーナ・カウニッツ伯爵夫人)が重病との知らせをニューヨークで聞いていた。すべてを覚悟した彼は冒頭主題をドイツ・レクイエムに借り、第2楽章では彼女の好きだった主題(歌曲Lass’ mich allein)を歌い、そして、彼女の訃報をきくと、第3楽章に長いコーダを追悼としてつけ加えた。彼の妻アンナはヨセフィーナの妹だが、どれだけ姉を愛し、どれだけ幸福な時間を共に過ごしたかが涙をたたえて吐露されるのである。音楽は止まりそうになり、そして、何よりの証拠に、チェロのモノローグが “問題の主題” を静かに回想する。それは作曲時点からいずれ来る別れの日へ向けた、残された者への慰撫のレクイエムだったのだ。この協奏曲の主題が先住民インディアンや南部の黒人霊歌から採られたという米国の愛国者による愛すべき説を作曲家は否定している。ナイアガラ瀑布、あんなものはプラハにはない。故郷でもらっていた25倍もの瀑布並みの給料をくれた彼等への精一杯のリップサービスだったのだろう。
余談だが、ブラームスは「mein Leben」主題を愛してやまなかった別な主題から取ったのではないかと想像している。どなたもご存じのこれだ。
一度きくと頭にリフレーンする、クラシック音楽で最高のヴィオラ名旋律のひとつだ。彼はドヴォルザークの屑籠をひっくり返す必要はなかった。
第3楽章は、楽譜を見ながら音を聴いていただいたほうがいいと思う。サヴァリッシュ / ウィーン響、バリトン・ソロはフランツ・クラスだ。お示しした箇所は1分40秒である。その後も、フーガまで「mein Leben」主題が合唱に、オケ伴奏に再三現れることをご確認いただきたい(3分38秒でTimを伴って爆発)。
ドイツ・レクイエムの初演は3回行われた。1回目は1867年12月1日にウィーンで最初の3つの楽章だけ、2回目は1868年4月10日にブレーメンでブラームス自身の指揮で第5楽章を除く6楽章、3回目が1869年2月18日にカール・ライネッケ指揮ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団による7曲全曲である。
1回目の指揮者はシューベルト「未完成」および、ワーグナー「ニュルンベルグのマイスタージンガー」のウィーン初演を指揮したウィーン楽友協会合唱団の創始者ヨハン・ヘルベック(1831-1877)である。このビデオの合唱団であるWiener Singvereinがそれであり、ハンブルグ・フィル指揮者ポストの落選事件で翌1863年にブラームスが指揮者に就任したのがそれである。
1回目の初演は失敗だった。第3楽章でティンパニ奏者が楽譜の指示を読み間違え、フーガの持続二音(ペダル・ポイント)を強打して演奏を壊してしまい、聴衆は罵声を浴びせ、ブラームスの支持者ハンスリックまでもが「ペダル・ポイントはトンネルを通る列車の轟音のようだ」と皮肉なコメントをした(反対派の陰謀説もある)。
ピアノソロ+ティンパニという興味深いバージョンのビデオがある。バーデン・ヴュルテンベルク州立青少年合唱団は15歳から25歳の70人ほどが州内の学校合唱団、青少年合唱団、大学合唱団から集まり、ウィットサン休暇と秋の休暇中にそれぞれ1週間集まる。バーデン・ヴュルテンベルクの州都シュトゥットガルトはベンツ、ポルシェの本社があり、この曲ゆかりのバーデン=バーデン、カールスルーエもある。さすがご当地のアマチュア合唱団。立派な演奏である。
余談ながら、これで聴く限り終結部でティンパニが強打するが合唱がマスキングされることはない。初演の失敗はオーケストラの崩壊だったのではないか。とすると団員に予想外だったことになり、ティンパニストを巻き込んだワーグナー派の陰謀説もまんざらでもないと思ってしまう。
ブラームス 「ドイツ・レクイエム」作品45 (その4)
2025 OCT 4 11:11:34 am by 東 賢太郎
幼少のヨハネス・ブラームスが熱中するものがあった。ブリキのおもちゃの兵隊である(写真はイメージ)。並べて大隊を組成しては直し、飽くことなくまた組成し直す。母は「28才にもなって、大事そうに机にしまって鍵をかけてたのよ」と語った。この女性は男子の正しい育て方を知っていた。これが「作品を寝かせ、それが1つの完成した芸術作品として仕上がるまで、音符の多過ぎ少な過ぎがなくなり、改善できる小節がなくなるまで何度も書き直す。それが美しくもあるかどうかは全く別の事だが、それは完璧であるに違いない」(友人G. ヘンシェル作曲の歌曲に対する助言)という作曲への完全主義に通じている。そして、それがあの交響曲やドイツ・レクイエムという大輪の花を咲かせるのだ。
そうやって育てられた男子は多いのではないか。僕の場合は鉄道模型であった。事あるごとに父にせがんでちょっと大きめのOゲージを買ってもらい、毎日嬉々として居間から台所に至るまで家中に線路を敷き詰めて走らせた。重量感を欠くHOゲージは無用だった。実物の車両の連結器の横にある重量のトン表示を綿密にチェックするほど「質量」にこだわりがあったからだ。それを与えるため客車の内部にはビー玉や石ころをぎっしり詰めずっしりと重くした。電動ではなく手で走らせることにリアル感を覚え、何時間でも這いつくばって飽きることなくやった。足の踏み場もなかったが母に文句を言われたことは一度も無く、ただ、7時前になると「パパが帰ってくるよ、叱られるよ」と言われしぶしぶそれを片付ける。完璧さを求めるため何度でも何度でも線路をつなぎ直してた。これが僕を完全主義にした。
ヨハネスは7才で前述のピアノ教師オットー・コッセルについて鍛えられた。「一度だけサボった日は人生最悪でね、帰宅すると父にバレていてこっぴどく叩かれた」と回顧している。10才でベートーベンの五重奏とモーツァルトの四重奏を弾いた公演を聴いた興行師が「神童だ。アメリカツアーをぜひ。莫大な富がはいる」ともちかけた。契約金に目がくらんだ父は即決。本気になって母の小さなお店を損してまで売ってしまった。ヨハネスは後年に「親父は愛すべき昔の男でね、単純で世慣れしてなかったんだ」と愛情をこめて述懐した。
コッセルはというと、仰天し、やめるよう全力で父を説得したが、貧困を脱したい父はきかない。ここは自分のヨハネスの才能への確信を示すしかないと、自分
の師であった大家エドゥアルド・マルクスゼン(左)をひっぱり出した。これが効いて米国ツアーはキャンセルされ、ヨハネスは10才から18才までこのハンブルグ最高の教師につき、演奏技術と作曲技法に多大な教示を受け、ドイツ民謡と変奏曲への嗜好を継いだ。普通科の学校教育は受けたが音楽学校は不要だった。モーツァルトが父から学んだように二人の教師の教えをバッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーベン、シューベルト作品など古典の独学で高みへ導いたのであり、後年にその集大成であったピアノ協奏曲第二番をマルクスゼンに献呈したことで感謝が伺える。完全主義の彼は自己の才能を信じ、それを発見し、信じ、共有することができた父、マルクスゼン、そしてロベルト・シューマンを讃えたのである。
師弟関係はアップグレードされたが出費は嵩んだ。ヨハネスは家計を補うため13才で父の仕事に借りだされ、深夜まで酒場でダンス曲を弾く激務に疲労困憊し、心配
した両親は14才の夏にヨハネスを郊外の街ヴィンゼン(写真)にある父の知人ギーゼマン家に娘のピアノ教師として受け入れてもらう。この処置はヨハネスを救ったどころか、後年の趣味をも決定づける。温かく迎えられ、田園生活を楽しみつつ村の男声合唱団の指揮をして作曲、編曲をした幸福な日々はよほど心に深く残ったのだろう、後世までギーゼマンに深い感謝を述べ、合唱曲への止むことなき嗜好ができ、なによりこれが後年に夏のスイスやオーストリアの湖と森のある大自然の中で作曲する習慣になった(彼は23才まで海を見たことがない)。また、読書家の母の影響で文学に傾倒し、ギーゼマン家で後に作品33となる「マゲローネ」を娘と一緒に読んだ。その延長でハンブルグの運河の橋で売られる古書を収集して読み漁り、心を惹いた詩句、警句を書き綴った自選集のノートを「若きクライスラーの宝」と名づけた。15才だ。自らをなぞらえた楽士クライスラーはこれの登場人物である。
ヨハネスは終生ホフマンのグロテスクで不吉な世界に対する情熱を失わず、そこに潜むハイセンスな皮肉を愛好した。21才のとき(1854年2月27日)にシューマンが精神を病みライン川に投身自殺を図った直後に彼の主題を用いて「シューマンの主題による変奏曲」Op.9 )を書いた。この曲は意味深長で、前年に誕生日プレゼントとしてクララがロベルトに贈った同名曲の同じ主題(「色とりどりの小品 5つの音楽帳 第1曲 Op.99-4」)を「本歌取り」のごとく使用している。シューマンも “ムル” に心酔し、クライスレリアーナを書き、ダビッド同盟でオイゼビウスとフロレスタンに自己の内なる二面性を擬人化したが、ヨハネスはOp.9の各変奏にB(ブラームス)とKr(クライスラー)の符号をつけ、ムルの自伝に闖入するクライスラーのページに対応させており、それは自分に審判を下す「もうひとりの自分」(ドッペルゲンガー)の苛烈な箴言のように響く(第5、第6変奏)。
Bは{第4、第7、第8、第14、第16}、Krは{第5、第6、第9、第12、第13}
脳裏にクライスレリアーナが響かないだろうか。シューマンがクララ・ヴィークと狂ったような恋に落ちて書いた曲が。結婚を拒絶する父を慮ってクララが献呈を受けることを断ったほどダイレクトな狂気に満ちた恋情がオイゼビウスとフロレスタンに託される。21才のヨハネスはそれをB(自分)とKr(クライスラー)に置き換え、巧みな変奏技法で糊塗し、この作品をシェーンベルクは「ブラームスの最も完璧な作品」と讃えた。これが「ブリキのおもちゃの大隊」の結末でなくて何だろう。同年にこれと4曲のバラードを書いて以来、彼はOP.11のセレナーデ第1番(1858年)まで新作を書いていない。1854~1857年にピアノ協奏曲第1番を構想していたこともある。しかし、Op.9を出版した54年の11月にクララと Du で呼び合う熱い仲になっていたことこそが主因だ。シューマンの投身事件後、いよいよ「レクイエム的」なスケッチを書き始め、現在の第2楽章(「Denn alles Fleisch…」)、第4曲(「Wie lieblich…」)の動機がすでに部分的に存在していたとされるのは大変に興味深い。来たるべきシューマンの葬送とクララとの家庭・・・深層心理にあってもおかしくはなかろう。
その1954年6月11日にクララが生んだ末子フェリックス(左)がブラームスの子という説がある。仮にそうとすると受胎は前年9月頃で、初めてシューマン宅を訪れたのが8月だから否定派が多い。とすると、この子にクララがユダヤ人メンデルスゾーンの名を与えたのはヨハネス由来でないのだからシューマンがそうだということにならないか。ともあれクララは「隣にいる可愛い我が子を見るにつけ、病気によって夫が愛するすべてから遠ざけられ、この子の存在も知らないなんて胸が張り裂ける」と手紙を書きつつ、家賃の安い地区に引っ越す計画を立てた。まるで新しい所帯を持つ決心をしたかのように。そしてヨハネスもそれを親身になって助け、まるで遺品整理をするかのようにシューマンの書斎を整理して楽譜や文献を読める喜びを友人アルベルト・ディートリヒに書き送っている。Op.9はここでクララに贈られるのである。ブラームスのクライスレリアーナ。意味深長だ。
ところが、もはや絶望の容態と思われたシューマンは小康状態を取り戻し、あろうことか、問題のOp.9を賞賛する謝辞がとどく。驚いたヨハネスは気まずげに謙虚な返信をし、病院に彼を訪問し、ピアノを弾いて聞かせる。 梅毒は症状が出たり消えたりを繰り返すが、細菌やウイルスが発見されていない当時の人はそんなことは知らない。やがて病状は再び悪化し、それを見届けたヨハネスは演奏旅行に出たクララに「君を死ぬほど愛してる。涙でこれ以上はいえない・・」と師への複雑な思いに抗いながら熱いラブレターを書くのだ。12月5日だ。クララがハンブルグで演奏会を開くと知るや汽車に乗って急行し、彼女を両親に紹介までしてしまう。結婚の意思表示でなくて何だろう。クララは両親とうまくいき、「素朴(simple)だがちゃんとした(respectable)人たちをどれほど家庭的と感じたか」と書いた。ここまではよかった。しかし彼の精神は恩人の回復を望む自分と、クララを得るため死を望む悪魔のドッペルゲンガーのとの闘いに苛まれていたのである。
二人はすぐ両親のもとを去り、デュッセルドルフへ戻ってしまう。生まれて初めてXmasをハンブルグで過ごさなかったことに両親は当惑し、師のマルクスゼンは激怒した。ヨハネスの頭にはシューマンがあった。人気者であるクララは演奏旅行を続けたが、ヨハネスはシューマンを訪ねてはピアノを聞かせ、散歩させ、作曲は停滞してしまっていた。神童の名声を犠牲にしたこの義侠心とさえ見える感情は父にも見せたものだ。ところがクララはそれを見かね、彼を自分とヨアヒムとの演奏ツアーに引っ張り出す。女性はドライというか、まるで母親だ。ダンツィヒではクララたちとの室内楽で思惑通りにうまくいった。そこでいよいよ一人でライプツィヒ、ハンブルグ、ブレーメンの演奏会のソリストとしてモーツァルト、ベートーベンの協奏曲を弾く旅に行って来いと送り出す。しかし、これが良かったのか悪かったのか、大ピアニストのルービンシュタインに凡庸だと酷評されてしまうのである。
とうとう彼は決定的な鬱状態に陥ってしまう。「愛しているが自己否定がある」と、まさにゲッティンゲンでアガーテに愛想をつかされるのと同様の言葉をクララに書いてしまい、彼女はここから先のヨハネスへの手紙を後に廃棄することになる。証拠物件がないのだから色々な見方があっていいだろうが、手紙1本でふってしまい痕跡を消したのだから四十女に振り回された22才の悲劇と見えないでもない。フェリックスは父親と同じハイデルベルグ大学に学び、ヴァイオリンを弾き詩を書いた。気をとめていたヨハネスは作品63-5「我が恋はみどり」、作品63-6「にわとこの木のあたりで」と作品86-5「沈潜」に付曲した。クララの日記によれば、作品63-5を1873年のクリスマスにクララの奏するピアノに合わせて当代最高のヴァイオリニスト・ヨアヒムが弾いた。「彼に何も告げず、私たちが弾き、歌い出しますと、フェリクスは誰の歌かと尋ね、自分の詩を見ると蒼白になりました。あの歌もそして終わりのピアノの部分もなんと美しいのでしょう!」
後のこと、結核を病んでおり、フェリックスの命が長くない事がわかっていたヨハネスはヴァイオリンのメロディを24小節作曲して、その楽譜をクララに送る(ヴァイオリン・ソナタ第1番第2楽章になる)。
「あなたが裏面の楽譜をゆっくりと演奏されるなら、私があなたとフェリックスのこと、彼のヴァイオリンのことをどれほど心底思っているのかをあなたに語ってくれる でしょう。でも彼のヴァイオリンは鳴り響くのを休んでいます―」
この手紙に対するクララの返事にはフェリックスが亡くなったと書いてあった。
24才の訃報にヨハネスは打撃を受けた。同年作曲のヴァイオリン・ソナタ第1番第1楽章第2主題(1分32秒)にエコーしているのは「ドイツ・レクイエム」第2楽章の中間部(変ト長調、第75小節~)であることを指摘したい。
この部分のレクイエムの歌詞はこうだ。
かく今は耐え忍べ、愛しき兄弟よ、
主の来たらんとするときまで。
視よ、農夫は待つなり、
地のとうとき実を。
また耐え忍ぶなり、
朝の雨と夕の雨を得るまで。
かく耐え忍べ。
(新約聖書 ヤコブの手紙 5:7)
これは死者を送るかのようなこの歌詞の後に続く。
肉はみな、草のごとく
人の光栄はみな
草の花のごとし。
草は枯れ
花は落つ。
「主の来たらんとするときまで耐え忍べ」という。死と戦っていたフェリックスに向けた祈りのようにも聴こえる。しかし、6年前の誕生日に贈られクララが好きだった第3楽章「雨の歌」冒頭のリズムが第1楽章冒頭にもなっているということは、亡くなってから書かれたのだ。レクイエムの引用なのだから・・・
その第2主題が初出したあたりで立ち昇る、差しこんだ眩い陽の光に胸が躍り、香しく若々しい、未来への夢に満ち満ちた情感。幾度耳にしても悲しい。クララはブラームスに宛てて「私の心はあなたへの感謝と感動に高鳴っております。そして心の中であなたの手を握ります」「このような音楽こそが、 私の魂の最も深く柔らかいところを震わせま す!」と書き、この作品を(フェリックスのいる)天国に持って行きたいと語った。
ドイツ・レクイエムの第1、2楽章は28歳(1861年)に書かれた。第2楽章が形になり始めたのは母が亡くなった1865年から。67年にウィーンで第1〜3曲の初演をしたが失敗。翌年、ブレーメン大聖堂にて6楽章版(第1〜4、6、7)を演奏して大成功をおさめ、この演奏の後、ブラームスは母を思ってもう1曲を追加することを決意。それが前稿にしたチューリヒ(フルンテルン)で書いた第5楽章で、全7曲の現行版が完成し1869年に出版された。人間的体験と完全主義の合体が、この大名曲を生んでくれたことを音楽の神様に感謝しなくてはならない。
第2楽章はティンパニが運命リズムを刻む葬送曲で始まる。中間部の変ト長調、第75小節、天国の響きにどう転換するかは聴きどころだ。僕は古楽器オケが好きでないが、この曲は2台ピアノ、各パート1楽器のオケでも十分に聴けるので気にならない。モンテヴェルディ合唱団は非常に強力である。
62年録音の旧盤。若きサヴァリッシュがウィーン響を振る。ティンパニを強打し、質感はバッハ、ベートーベン路線の鉄のように堅牢で筋肉質な造りだ。ウイルマ・リップ、フランツ・クラスも立派なもの。全曲おすすめしたい。魂を癒すレクイエムが完全主義者ブラームスの書いた音楽であることを雄弁に物語る。耳ざわりの良いきれいな音を出そうなどという気は全くない。熱い。ウィーン楽友協会合唱団は粗さがあるが、初演当時はこういうものだったかと感じるものがあり興味深い。ライブで聴いたら打ちのめされていたろう。
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ブラームス 「ドイツ・レクイエム」作品45 (その3)
2025 SEP 29 8:08:27 am by 東 賢太郎
ヨハネス・ブラームスの伝記はドイツ語で読みたいが時間が足りない。バーデン=バーデンやハンブルグで買い求めた資料は訳文がなくまだ読破できていないが、ドイツ語原書の日本語訳、英米人による英語本、そして日本人による日本語本で手に入るものはほぼ読んだと思う。AIを使うとさらにわかる便利な時代になったが、それによってハンブルグ時代については一次資料が不足しており詳しくはわからないことも見えてきた。彼がエルベ河の埠頭に近いハンブルグのシュペック通り60番地のアパートの2階(写真)で生まれたことは書いた。1905年、そこを訪れた弟子のフローレンス・メイは、「階段を上り、ブラームス家が住んでいた狭い部屋にはいった私は当惑と落胆で震えた」と伝記に書いている。いまはビル街に記念碑だけがぽつんとある、その空漠としたよそよそしさは何だろう。151曲あったと伝わる初期作品を彼はほとんど破棄している。これが「厳しい自己批判」だけの仕業だったのだろうか。もし自分だったら?「家族にとって百万もの不愉快があったその時代を消したかった」こともあろうかと想像したりもするのである。
偉人の伝記がどう書かれるかは興味深いテーマだ。画家や彫刻家は作品が語るが、作曲家、作家、学者は作品、著書という「紙」が語る。演奏家の名技は聴いた人の書いた紙から想像する。モーツァルトは父子の膨大な書簡集が、ベートーベンは会話帳があるが、それもまた
紙だ。つまり、当時の音楽家にとって紙というものは商品にもなり、書簡の場合は後世に残ってしまう可能性のある、すなわち「自分の人生をどう後世に残すか」に関わる自画像の一部でもあった。だから、望ましくないものは焼いてしまう。モーツァルトはその気使いをせずベーズレとの行為が周知になってしまったが、都合の悪いものは焼却処分したコンスタンツェがなぜかそれは焼かず大作曲家の自画像の一部とした。ブラームスはほとんどの書簡を自ら処分したとされる。だから残っているものは自ら認めた自画像なのだが、結婚の気持ちが冷めた後、クララが彼の書簡を処分してしまったのでそれは完全なものとは言えない。
残っているのは、冷める以前の両人の赤裸々なラブレターである。伝記をロマンティックに読む人は、どこからどう見ても熱いそれによって、満たされぬ結末となるクララとの恋を重く見る。しかし、彼女はというと結婚の気持ちが冷めた後、彼の書簡を処分してしまったのでそれは実は「上書き」されていたはずであり、伝記として客観性ある視点ではない可能性がある。一般に(と僕は思っているが)、別れた相手を男はいつまでもうじうじと覚えており、女はあっさり忘れる。当時の彼は二十歳そこそこの世慣れぬ若者であった。恩師シューマンの影をどうしても踏み越えられず、うじうじする結末になったわけだが、クララはアガーテに気が行った彼を見てあっさりと冷めた言葉を残している。彼は彼で、年月を経てからは当のクララの娘までという数々の女性に恋心を抱いた男でもあったことで、両人の関係はバランスが取れるところに落ち着いたのであろう。
結婚にふみきれなかったもう一つの理由は両親の関係にある。Paul Holmes著、BRAHMS his life and timesによると、落ちぶれてはいるが地方貴族の末裔だった母は上昇志向のある父にとって欠点を補って余りある存在だった。それが、恋仲だった同年輩の女性とのお似合いの結婚ではなくアンバランスな方を選択させた。その甲斐あって、同年に父はハンブルグの市民権を得ており、ヨハネスは自らの出自の証としてそれを誇らしいと語っているが(Max Kalbeck『Johannes Brahms』)、後にクララに「僕はハンブルグ市民でなく、小市民の息子だった」とも語った。実は小市民ですらないという真の出自へのアイロニーにも聞こえる。この “ルサンチマン” は根深かった 。ゆえに作曲家として頂点を極めることがレゾンデトル(自己存在認証)であるという道に入りこみ、抜き差しならない斯界の高みにまで登ってゆき、孤高の登山家のような人生に足を踏み入れてしまった。家庭には憧れた。しかしそれに足を縛られたり、連れ子の父親になるような重荷を負っては目的は成就できない。ゆえにアガーテは去り、クララは親友か母親かという存在にならざるを得なかったのである。
ひとことで括れば、彼は自分の出生に関わる複雑な認知的不協和を抱えて生きた人だったということになる(参考:マルクスとブラームスの自己同一性危機 | Sonar Members Club No.1)。自ら打ち建てた自画像どおりの大作曲家になった、そのことに僕は形容のできない尊敬の念を懐かずにおられず、そうするしかない生い立ちの中で究極の努力を重ねて最高の幸せを得たのだと信じたい。そのおかげで、我々は、複雑な感情の不協和の中に慎みと秩序がありながら、渋みと悲しみと淡いロマンの入り混じった、彼にしか書けない音楽を持つことができたのだから。『ブラームスをきく』というのは、なんという含みと味わいのある言葉だろう。フランソワーズ・サガンの小説「ブラームスはお好き?」は彼なくしては構想もされなかったろう。レクイエムを「ドイツの」ではなく『人間の』(menschliches)でも構わないと語った彼は、宗教的信念に関係なく、すべての生ける者に慰めを提供したいと願った。ドイツ・レクイエム第3稿では、彼自身がいみじくもその作曲にあたって採った「人間の」という立場の由来について、彼の家族に関わる視点から述べてみたい。
前稿にもふれたが、父ヨハン・ヤコブ(1806–1872)はハイデの宿屋の次男だ。ハイデという街はハンブルグの北105キロ(鉄道で1時間半)にあり、現代の人口2万と東京から見れば熱海(105キロ、人口3万)程の距離と規模である。漁師、大工の家系にして音楽を志し、両親は反対すると家出もしかねない情熱に負け音楽学校に学ばせている。19才でハンブルグに出て街頭や猥雑な酒場のバンドで演奏をした。この写真を見て、僕は自信家で弁舌に優れ、構想力・思索力よりも、野心に満ち、行動力、対人能力、発信力がある人物との印象を強く懐く。何で成功するかといえば機を見て敏なる商売人か。ヨハネスにその印象は薄いが、彼はその血を引いている。
19世紀のハンザ都市は中世の世襲身分である大市民が支配しており、流れ者であるヤコブはまず音楽家ギルドに所属し、コントラバス奏者として洒落た貴族サロンの六重奏団に加わり、軍楽隊のホルン奏者として上級歩兵に擬せられる地位になる。能力があった。だから息子の楽才を幼少にして見ぬき、友好関係を築いていた音楽人脈から最高の教師を選び息子の将来を託すことができた。商才はそこに発揮されたのである。そうした父の出自にまつわるプロフィールはヨハネスが作りあげた自身のイメージとは似つかぬものだが、だからこそ僕は大方の伝記が通説として語る彼の人物像に些かの違和感を懐くのだ。
「ハンガリー舞曲集」は酒場で弾いていた父の系統の音楽だ。彼はエドゥアルト・レメーニにジプシー音楽を教わって20才でドイツ各地を演奏旅行する。港町ハンブルクはハンガリーからアメリカへわたる移民たちの拠点でアメリカ楽旅の出航地であり、レメーニもハンブルグに立ち寄り、ティーンエイジ最後のヨハネスと知り合い意気投合したのだ。レメーニはウィーン音楽院に学んだハンガリー系ユダヤ人で、コシュートの革命に加わった疑いで追い出され放浪楽師となった男だ。そのジプシー音楽はヨハネスの心をとらえた。ヨハン・シュトラウスのワルツなど、彼には父由来の大衆音楽、しかもユダヤ系のそれへの嗜好があった(シュトラウスもユダヤ人である)。音楽を生活の糧とする実利主義も父由来で、「ハンガリー舞曲集」の楽譜は大いに売れ、レメーニに盗作と訴訟されるに至ったが、幸いにして楽譜に「編曲」と記していたためヨハネスが勝訴している。ちなみに、ウィーンに出たのち、後進のドヴォルザークに目をかけたのは肉屋の子という下層の出自への共感もあると思われ、経済的援助も視野に入れ紹介した出版社ジムロックが同類の「スラブ舞曲集」を書かせヒットしている。人間ブラームスの素顔だ。
上掲のアパートで授かった三人の子供のうちヨハネスは二番目で、姉エリーゼ、弟フリッツがいた。後に彼は「姉とは似た所がほとんどなく、弟とは付き合いがなかった」と語っている。偏頭痛もちで病弱だったエリーゼは音楽の教育は受けられなかったが、母は愛情をこめて「太った愚かな農民」と呼び、両親が別居してからはヨハネスが彼女の生計を助けた。夫を亡くしたクララと子を慰めるためヨハネスはライン地方からスイスへ旅をするが、同伴したのが姉エリーゼだ。40才で時計職人と結婚してもうけた子供は生まれてから数日後に死亡した。ウィーンに出て大作曲家になった弟を誇りに思い、送った200通もの愛情がこもった書簡はエリーゼが1892年に亡くなるとヨハネスに返却された。他のほとんどの書簡を処分した彼は、それだけは燃やさなかった。
フリッツは兄と公平に扱われ、父親はオーケストラ奏者にしようとハンブルク・フィルのコンサートマスターに学ばせたが挫折した。ヨハネスが終生感謝した名教師たち(オットー・コッセルとエドゥアルト・マルクセン)にピアノを習い、自身も教師にはなったがクララ・シューマンはテクニックはあるが演奏は退屈と評した。フリッツと姉は、昔の女と浮気した父を批判して母の味方についたが、ヨハネスはどちらの側でもなかった。母の没後に父が再婚した女性とも良好な関係を築き、フリッツが晩年に健康を害すると経済的な援助を惜しまなかった。人間ブラームスの真骨頂だ。
父ヤコブの性格は、たまたま泊まった雑貨屋の親類で裁縫師をして生計を立てていたヨハンナ・ヘンリカ・クリスティアーネ(1789-1865)に知り合って、わずか1週間でプロポーズしたことに見て取れる。この求愛はロマンス小説とは程遠く、クリスティアーネ自身が「年齢がちがいすぎるので信じられなかった」と亡くなる直前にヨハネスへの手紙で述懐している(筆者注:17才年上)。ベートーベンの伝記作家ヤン・スワフォードによる「彼女は小さく病弱で、片方の足が短く、魅惑的な青い目をしていたが顔は地味な41才の女性」との記述がある。写真を探してみたがこれしかないようであることからも、ヤコブとの運命の出会いがなければ、第2子が生まれていなければ、後世が知ることはない女性だった。敬虔なプロテスタントであり、粗末な家を鳥籠や草花や装飾で明るく彩り、才能ある料理人であり、明るく前向きな女性だった。特筆すべきは思慮深い読書家でもあり、当時の女性としては秀でた読み書きの力があったことだ。息子への書簡がそれを物語る。ヨハネスの楽曲にみる、どんなに熱を持っても常に趣味が良い情感、滋味、重厚で深みある精神性とロマンのバランスは母に由来しており、この母なくして彼が巨匠になることはなかったと僕は思っている。
1853年6月、二十歳になってレメーニと新天地を求める楽旅中の息子に送った「今あなたの生涯が本当に始まったのです。ハンブルグで一生懸命蒔いたものを刈り取るのです。あなたの時が来ました」という、他人の僕さえ打ち震える母の言葉は息子の人生を決定的なものにしたと確信する。二人は常に深い愛情の絆でつながっていた。ハンブルグで一生懸命蒔いたもの。それは彼にとって思い出したくもなく、ウィーンで通用するものでもなく、みな破棄してしまった作品なのだが、養分はヨハネスの中にたっぷり残っていた。それを刈り取って10年もたったとき、母が天に召された。弟フリッツから「私たちの母にもう一度会いたいなら、すぐに来てください」と電報がありハンブルグに急行したが、母は脳卒中ですでに亡くなっていた。ショックだった。その喪失感が「ドイツ・レクイエム」という大輪の花を咲かせることになり、シューマンが初対面で激賞したヨハネスの楽才を楽界に証明する最初の作品となった。このエピソードは、自分が就職するとき、それまで一度もその類いの会話をしたことがなかった母からまさに同じような言葉をもらったことと心の深い深い奥底で共鳴する。だからどんな辛い目に遭っても負けずに、強く乗り越えて来られたと思っている。
「ドイツ・レクイエム」第4楽章はこう歌う。
いかに愛すべきかな、なんじのいますところは、
万軍の主よ!
わが魂は求め慕う、
主の前庭を。
わが身と心は喜ぶ、
命の神の御前で。
幸いなるかな、なんじの家に住むものは、
なんじをつねに讃えまつるものは。
「なんじのいますところ」、それはフローレンス・メイが当惑と落胆で震えたハンブルグのシュペック通り60番地のアパートの2階である。「なんじの家に住むもの」、それはヨハネス自身である。
前稿に書いたように、僕はこの楽章の出だしを聴くと、物心ついてから中1まで住んだ和泉多摩川の団地の、日が燦々とさしこむ6畳の居間の光景が浮かんできて涙を抑えられない。母は草花や手芸で編んだ装飾や皮細工で彩ってくれ、小鳥と黒猫を飼ってくれ、そこはいつも明るく気持ちよく、幸せだった。ヨハネスがそのような思慕をもってこの楽章を書いたかどうかはわからないが、歌詞の選択からそうだったと確信する。それほど僕はこの音楽に反応してしまう。大曲の中で最も短いが、一番愛するのはこの楽章である。前から数えても後ろから数えても4つ目。7つある楽章のど真ん中に彼は母をすえたのである。
ダニエル・バレンボイム指揮シカゴ交響楽団。素晴らしい演奏だ。バレンボイムのロマン派というと、まだ彼が39~40才だったフィラデルフィアでのリストのロ短調ソナタが忘れられない。リストの代名詞である速くて名技的なところではない。ひそかに沈静していくコーダの漆黒の闇だ。弾き終わった彼は魂の抜け殻のようで、なんというピアニストかと思った。
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読響定期 マーラー交響曲第7番 ホ短調
2025 SEP 27 13:13:11 pm by 東 賢太郎
第651回定期演奏会
2025 9.25〈木〉 19:00 サントリーホール
指揮=ケント・ナガノ
マーラー:交響曲第7番 ホ短調 「夜の歌」
15分前にあわただしく席についてプログラムを開く。まいった。同じことが7年前にもあった。そしてこれを書いた。2018 FEB 11とある。ここまでクラシック音楽をボロカスに書いたのは我ながらさすがに珍しい。
この日の7番、ひとことで言おう、大変な名演であった。帰りぎわ、興奮冷めやらぬ中、「この曲は大嫌いで今日初めていいと思いました」とD氏に語る。ケント・ナガノは欧州で機会がなかったように思う。なにかきいたろうか思い出せない。
巨大な交響詩というマインドでのぞんだのも良かったかもしれない。存外面白い。楽器はギター、カウベルまで色々出てくるし場外のシアターピース効果もありゴージャスなもの。そういうものこそ、「だから何だ」と思っていた。その路線でこの水準まで達したのは人類史でマーラーとR・シュトラウスしかいないことはこれだけのオーケストラ演奏でないとわからず、ザルツブルグでカラヤンとウィーンフィルで聴いた「ばらの騎士」以来か。管弦楽法の綾は9番を予見し、並の演奏だとそれらがごった煮で散漫になる。なによりまず筋がぴんと通って強い説得力がある指揮が圧倒的だ。オケの底力を解き放った、これだけのものは中々接するものではない、浅薄な世の中に久々に黒光りするホンモノが現われて安堵すらもたらす域に在る。読響も素晴らしい。日本が誇るワールドクラスのオーケストラである。
もうひとつ、出だしから、あれっと思うことがあった。耳が良く聴こえる。そういえば上掲のN響のあたり、読響の「バルトーク青髭公」で耳に異変があった。高音の ff で鼓膜がびりびりいう感じがあり危機を覚えたが、読み返すとその稿に言及はない。よほど怖かったと思料。 2017 APR 16とあり、母が亡くなるひと月前だ。何かが起きていた。それ以上の悪化はなかったがそのままだったんだろう、それが常態化し、忘れていたと思われる。上掲の7番はそのさなかだった。
ところが、この日、サントリーホールでこんないい音は初めてだとびっくりしたのだ。オーディオなら2段階ほどグレードアップしたかの如し。読響が素晴らしい演奏をしたことは相違ないけれど、どうもそれだけではない、各セクションに鮮やかな色彩があり、古びた油絵を洗浄したかのようだ。
もしかしてだが、3月から使用している某医療器具のせいかもしれない。そいつは水を細かく分解し血液をサラサラにするから末端の毛細血管が蘇生する効能がある。鼓膜のあたりでそういうことがあったのか・・。
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ブラームス 「ドイツ・レクイエム」作品45 (その2)
2025 SEP 18 1:01:37 am by 東 賢太郎
ドイツ・レクイエムについて書こうと思い立ったのはなぜか。深いという言葉の真の意味において、まさしく海のように深い音楽を彼は33歳(写真)で書いたからだ。こっちはといえばたいした悩みもなくロンドンで毎日暴れまわっていた。もし33歳同士で彼と会っていたら?話す言葉もないだろう。万一ひと声かけるなら、「重たい人生を来られましたね」だろうか。万人の心をわしづかみにする感情が、およそ人間が到達できる究極の美の結晶としてドイツ・レクイエムには封じ込められている。そのただならぬ感情の由来を知れば、なぜ彼が「人間の」レクイエムを書いたのか、一端が垣間見える。それを記しておこうということだ。
音楽でも絵画でも彫刻でもそうなのだが、「わかる」「わからない」という人が多い。これはまったくもっておかしい。その昔、「違いがわかる男のゴールドブレンド、ダバダ~」なんてCMが一世を風靡した。それでコーヒーが売れてたのは「違いがわかる男」がシブくて女にモテたからではない。きっとモテるんだろうとモテない男が買ったからだ。”それ” が何かは問わない日本特有のアバウトさがすごい。選挙もそうで、芸人の才があって台本を読む演技がうまく、もっともらしい演説パフォーマンスをすれば壮絶な馬鹿でも総理大臣になっちゃう。インスタントの違いなんかわかってどうすんだと笑ってた「違いがわかる男」たちはそんなものは買わず、やがてCMは消えた。
近ごろ、AIを使った三次元の体験型アートが流行っていて、それを没入型(イマーシブ)という。アートというものはそうやって没入できるかどうかがすべてであって、算数や英語みたいにわかるものではない。例えばクラシック音楽というものを僕はそこそこ知っていると思うが、本当に好きなものは50曲ぐらいしかない。ということは7、8割ぐらいは没入してない。するに値しないのではなく僕個人がそうできている。それがヴェルディであったりマーラーであったりするのだから「音楽をわかっていない」という声はあって当然だが、その「わかる」を僕は否定している。
好きな50曲については音を覚えている。没入するとそうなる。そのプロセスは、例えば、ドイツ・レクイエムは、58ページあるピアノ版スコアをつっかえつっかえでも自分の手で弾いてみようと思っている。こうした行為が没入の結果だ。これを昔から今に至るまで延々とやっており、ピアノという楽器は僕にとってはショパンを弾くためでなくそのためにある。仕事しながらよくそんな暇がありましたねと言われるが、没入と時間は関係ない。
きのう初めの3ページ、讃美歌みたいな譜面を弾いた。あの心が吸い寄せられる合唱はいきなり没入をさそうが、それが自分の指先から出るともはや忘我である。そして、やがて理性が戻る。譜面づらは交響曲第1番冒頭だ。この時期、頭の中では両曲のレシピが混在していたことを知る。ヘ長調にesが入って金縛りになる。Ⅰー Ⅰ⁷ー Ⅳの和声はモーツァルトPC23番冒頭だ。他人のレシピも混ざっていた発見にさらに没入が加速する。すなわち、この作業は没入がトリガーで連鎖するのであり、その他のすべての没入しないものに踏み入ることは僕は皆無だから、時間の問題はエコノミカルに対処できていたと思う。
この作業をもう少し一般化しよう。パルテノン神殿でエンタシスの柱廊を見て、しばし没入の時がやってきた。やがて理性が戻り、これが法隆寺にやってきたのか!ならば、あの直径比と観測者の位置関係が抽象的な美の原理にのっとっているんだろう。ならそれは何だろう?という疑問がどこからか降ってきた。誰でも計れる数値だから知られているはずだ。でもなぜそれが「美」になるんだろうというと、なぜ円周率が π なんだろうという不可思議に匹敵する。そういう好奇心が美学(aesthetics)という哲学となったと思われ、本を読んだが、日本語の哲学書はわからない。好きな曲のスコアを見て湧き起こるのがこの好奇心というだけで十分だ。一文のゼニにもならないが、これを抱くことこそ生きている証拠であり、綺麗な女性を見たときに感じるものに近い。ということはこれが沸き起こらなくなったら人生終わりである。
以前に書いたが、CJキムという韓国の女流ピアニストは「没入」を明言して実践していると思われる、僕の知る限り唯一の演奏家だ。じゃあフルトヴェングラーはどうなんだと思われるかもしれないが、彼は我々よりはベートーベンに近いが同時代人でなく百年も後の人だ。同じドイツの巨匠だから正調だと思いこむのはダバダ~のコーヒーを信じて買うのとあんまりかわらない。キムはベートーベンのピアノソナタ全集を録音するにあたって、作曲家の人生に関心を持ち、楽譜を読み込む以前にLudwig van Beethovenなる人物の生きた時代背景や関連資料を読みこみ、生身の彼が生きたさまざまな場面での感情を知り、想像し、「彼と出会ったかのような感覚」を持つ状態になってから録音したという。
これが演奏家としてあらまほしき姿と思う。楽譜は完全ではない。ブラームスのヴァイオリン・ソナタ3番の tranquillo なる “妙な” 指示をクララは「卵の上を歩くようなものよ」と語り、ブラームス自身が大幅に減速して弾いたの見て「つま先立ちで歩いたね」とニッコリ顔を見合わせたことをシューマンの娘たちが証言している。楽譜に減速しろとは書いてないのだから楽譜の遵守が演奏ではなく、そのとおりに再現するための技術が音楽演奏の主人というわけでもない。クララは彼をよく知っている。だから音楽も知っている。技術は「それ」を具象化する家来にすぎない。
クラシック音楽を演奏するという行為は、技術云々の以前に、作曲家の魂を呼び覚ます、いわば恐山の巫女のような、当事者同士以外には不可侵である精神的領域がまずあって、鑑賞する側においても、呼び醒まされた魂がどんなものかを最低限は知る状態にあるのが望ましい。CJキムはのっけからバックハウスみたいに弾こうとは思っていない。それを完璧にすればコンクールで優勝するかもしれないが、よくできたコピーに価値はない。そこで、彼女は作曲家と出会ったイマーシブ状態に身を置いて、出てきたものを素直に音にする試みをしたと思われる。とてもクリエイティブな発想だ。リスクはある。同様のイメージを抱いておらず、ただ無条件にバックハウスが正しいと思い込んでいる聴衆には響かない。現に我が国では評論家が「もう少しベートーベンを勉強した方が良い」などというコメントをしていた。老木である。
ブラームスは恩人シューマンの遺品である作曲計画リストに「ドイツ・レクイエム」を見つけ、その実現にとりかかる。カソリックのラテン語の定型によらないレクイエムだ。作曲は母の死を契機に完成へと向かう。『マタイによる福音書』のSelig sind, die da Leid tragen(悲しむ者は幸いなり)で始まる第1楽章は死者への弔いではなく、残され、祝福された(Selig)者への生きる希望だ。悲しみに溢れ、クラリネット、トランペット、ヴァイオリンを欠いて葬儀のようにしめやかなのに、不思議と心が暗くはならない。こんな音楽を書いた者はブラームスしかいない。それが33歳。モーツァルトはクラリネット五重奏曲 イ長調 K. 581を書き、シューベルトはもう亡くなっていた。この二人がもっと生きていたら何が生まれたか、幸いなるかな64歳まで生きたブラームスが空想のよすがを与えてくれたようにも思う。
第1楽章をチェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルハーモニーでお聴きいただきたい。Zemlich langsam(かなり遅く)。こうした音楽に彼の本領は発揮される。ライブでソプラノ・パートがいまひとつだが音楽の深い呼吸と大きなうねりによる魂の吸引力はさすがである。
この楽章はバッハのカンタータ第27番「たれぞ知らん、我が終わりの近づけるを」との関係が指摘される。
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ブラームス 「ドイツ・レクイエム」作品45 (その1)
2025 SEP 15 8:08:59 am by 東 賢太郎
僕にとってモーツァルトと共に大事な作曲家がブラームスである。欧州に住むあいだ四六時中流したのは彼の音楽で、長女は言葉より先に彼の交響曲を覚えてしまった。いま、当時から読んだ大量の書物をあれこれひっくり返して本稿にとりかかり、傍らで「ドイツ・レクイエム」をくりかえし流している。週末は「こんな上等な生活はない」と妻にいいながら昼食をすませ、また書斎に戻って5、6時間も浸る。ドイツ、スイスにいた30~40代もゴルフのない休日はそんなものだったが、ブラームスでも当時は交響曲に没入していて400枚もレコード、CDが集まってしまっていたのだ。ドイツ・レクイエムはブラームス30代の作品、交響曲は40~50代の作品だ。トシとってなんで逆行したんだろう?これが本稿に向かう動機だった。
ドイツ・レクイエム作曲中にブラームスが滞在した丘の上の村であるフルンテルン(Fluntern)に我が家は一年間住んでいた(写真はその家)。チューリヒの街と湖を見下ろす高台にある。トラム(いわゆる市電)の走る道をもう少しのぼると、終点に有名な動物園があって、右側にあるドルダーグランドホテル方面が彼が散策を楽しんだ森だろう。トラムはいかにもスイス風だ。登山鉄道みたいな勾配とカーブをキイキイ摩擦音をたてて走るが、その音がまだ耳に残っている。坂を下りきったあたりにブラームスの親友で外科医のビルロートが外科医長だったチューリヒ大学、そしてアインシュタイン、レントゲン、シュレディンガーと凄い物理学者が卒業したチューリヒ工科大学があり、その先がチューリヒ中央駅だ。会社はそこからリマト川を湖に向かってすぐである。この行き帰りのドライブはなかなかスリリングで愉快であり、はじめのうちはドライバーさんにごめんねとことわってセルフで運転していた。チューリヒは国際的には金融都市のイメージが強いが、アカデミックな雰囲気とハイレベルな文化と抜群に美しい自然環境が融合したリッチで素敵な40万人ほどの街であり、ずっとここに勤めてもいいなと思っていた。
家は自分で選んだわけではなく、たまたま前任の社長宅だった。フルンテルンは人口7千ほどの小さな地区だからずいぶんピンポイントなご縁であり、そんな所でドイツ・レクイエムの筆が進んだという事実は、この名曲に浸りきって生きている僕としてはなんとも感慨深い。社員150名。スイスフラン債の引受母店に辞令が出てフランクフルトから引っ越したのが1995年5月だったが、これは人生でふりかえると後に役員になったよりうれしく、最も思い出の深い異動だった。まだ40才、息子は1才だった。この家の契約は1年で切れ、我が家はキュスナハトに引っ越してさらに1年半を過ごすが、その家から眺めたチューリヒ湖の対岸の街リシュリコンでは交響曲第1番の第4楽章が書かれた。スイスにいた2年半、ブラームスばかり聴いていたのは偶然ではなかったかもしれない。
1868年に完成した「ドイツ・レクイエム」は自らを世に出してくれた恩人ロベルト・シューマンが1856年7月に逝去したことが創造の源泉であることは間違いない。1857年頃から着想し、1861年に最初の2つの楽章を書いたブラームスは、翌62年9月にいよいよウィーンに出ていく。ピアノ四重奏曲ト短調が認められ、高名なハンスリックが褒めて名声を得た。ここで前稿に述べた、ハンブルグ・フィルの指揮者ポストの落選事件がおきる。翌63年のことだ。両親のいるハンブルグに定住を望んでいたが、故郷は定職も家族も与えず、階級の根深さは彼を傷つけ、落胆させた。5年前に創立されたウィーン・ジングアカデミーが指揮者ポストをオファーし、彼はそれを受け、ハンブルグを捨てた。30才だ。丸々20代を放浪生活し、54才で亡くなるまでウィーンの住人となり、つまり終生を旅人として生きた。その結果、1865年、そばにいられなかった母の臨終に間に合わず、衝撃を受けることとなったのである。
そこで彼はフルンテルンにやってきたのだ。1866年、33才の夏だ。母の死を契機にドイツ・レクイエム完成に向けた試みが開始する。その詳細はわかっていないがさまざまな部分をここで書き、そのひとつ、第5楽章「Ihr haben nun Traurigkeit」は1868年9月7日に自身と父親の立ち会いのもと、フリードリヒ・ヘーガー、コントラルトのアイダ・スーター・ウェーバー、チューリヒ混声合唱団とともに即興でリハーサルされた。ヘーガーはチューリヒ・トーンハレ管弦楽団の創設指揮者であり、テオドール・キルヒナー(作曲家)、リーター・ビーダーマン(楽譜出版者)、テオドール・ビルロート(アマチュア音楽家の外科医)と彼を囲む愛好家サークルがあったことがここを選んだ背景ではないだろうか。
特に生涯の友となるビルロートは才能あるアマチュアピアニスト兼ヴァイオリニストで、1865年、新進気鋭の作曲家兼ピアニストであるブラームスがチューリヒでシューマンのピアノ協奏曲と自身の作品を演奏したときに知り合った。家で定期的に弦楽四重奏を演奏して多くの音楽的洞察を共有し、何回かのイタリア旅行を共に楽しみ、室内楽作品の多くの初演前の試演リハーサルに音楽家として参加した彼にブラームスは最初の2つの弦楽四重奏曲(Op.51)を捧げている。本職は胃癌切除手術に世界で初めて成功した重要な外科医で、現代の腹部外科の創始者と見なされ、1860年にチューリヒ大学の臨床外科長および病院の院長となった。二分野で傑出した人物だったが、科学と音楽が対立しているとは決して見なさず、むしろ補完し合うものだと考えた。厳格な対位法や変奏の技法に数学的ロジックすら感じさせるブラームスは、「あらゆることに興味を持って積極的に吸収する人柄で、その話は心から湧き出るものでしたから、年をとっても少年のように輝いていました。あるときはビルロートに聞かされた手術の話を私たち全員に微に入り細を穿って解説しました」(シューマンの娘オイゲーニエの回想)という人だったことから、科学者ビルロートと気が合ったと思われる。異能同士が敬意を懐いて惹かれあうのは自然であり、さらに、ビルロートが学んだのがゲッティンゲン大学で、そこでアガーテに恋したブラームスには奇遇で話を盛り上げたに相違ない。そして、ビルロートは1867年にチューリヒの職を辞し、ウィーン大学の教授に就任するのである。ブラームスにとってどれほど心強かったかは想像に難くないだろう。
会社にほど近い湖畔に聳える音楽の殿堂 “チューリヒ・トーンハレ” は1895年10月に完成したが、そのオープニングの指揮台に迎えられたのが最晩年のブラームスだった(左はその前年のスケッチ)。僕は業務の引継ぎに忙殺されて音楽どころではない日々を送っていたが、ひと段落した10月にやっとトーンハレの門をくぐる暇ができた。そこで勇躍と買ったチケットは偶然にも創設百周年記念演奏会であり、作曲者が振った「勝利の歌」で始まり、ベートーベン第九で閉じた(指揮は同年に着任したデイヴィッド・ジンマン)。後にここで聴いた記憶に残るコンサートにクルト・ザンデルリンクのシューベルト9番、ゲオルグ・ショルティの英雄 / マーラー第10番のアダージョ、および1997年7月のマーラー5番があった。後者はショルティ最後(亡くなる8週間ほど前)の演奏会で忘れ難い。
今回はフルンテルンで完成された第5楽章「Ihr haben nun Traurigkeit」をお聴きいただきたい。ソプラノ独唱が初めて現れ、最後に合唱で母が歌われる。このソロは全曲の中央で出来を左右する重要なものだが満足するものがほとんどなく、未だにこのエリザベート・シュヴァルツコップを上回るものがない。クレンペラーが只者でないのは晩年のモーツァルトのオペラを聴けばわかる。魔笛の声楽アンサンブルの音の良さ、特にルチア・ポップを夜の女王に起用した慧眼は恐るべしだ。クレンペラー盤が人気を保持しているには相応の理由がある。
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マルクスとブラームスの自己同一性危機
2025 SEP 4 18:18:45 pm by 東 賢太郎
この本を読んだわけではないが、表紙に虚を突かれた。ゲットーは中世のユダヤ人強制居住地区のことだ。12年を欧州金融界で過ごすうえで僕は業界のドミナントな存在である彼等の歴史を知り仲良くならない手はないと思ったが、自然にウマが合う人が多いという意外な発見もした。ロスチャイルド家が住んだフランクフルトのゲットー跡地に立って複雑な気持ちに襲われ、屋久島で助けたイスラエルの女性がくれたユダヤ教のお守りを今も大事にしているのも偶然ではない。宗教として近しいわけではないが、無二の創造主を信じることでは同一であり、ヘブライ語聖書(キリスト教の旧約聖書)は史実と考えている。お前は何教徒かと問われれば先祖からの浄土真宗大谷派だが、仏陀も同じものを見たと解しており僕の中で矛盾はない。
左は1909年のニューヨークのゲットーだが、留学当時のハーレム(黒人街)もこんなものだった。ウエストサイド物語の舞台を思い出す。レナード・バーンスタインも、ジョージ・ガーシュインも、貧しいロシア系ユダヤ移民の子だ。ここを脱出して羽ばたこうという大志を抱いた若者の夢はブルジョアの子よりずっと大きかったにちがいない。この写真からざわざわと聞こえてくるのは生きんがための、人間くさい、生々しい喧噪であるが、僕にはそれがいささかも荒んだものに思えない。
ヨハネス・ブラームス(1833 – 1897)はハンブルグのエルベ河埠頭に近いシュペック通り60番地のアパートの2階で生まれた。僕はその写真を見て即座にゲットーを連想した。ヨハネスの父、ヨハン・ヤコブ・ブラームス(1806–1872)は東京と熱海ほどの距離にある町ハイデからハンブルグに19才で出てきて、ギャングや売春婦のたむろすバーで演奏した。ヤコブの父方の曽祖父は車大工、祖父は旅館、伯父は古物商・質屋だ。みなユダヤ人の典型的な職業である。ヤコブは旧約聖書の予言者の名で、ダビッド、ダニエル、ナタンと同様、ユダヤ人が個人的社会的に迫害を受けたこの時代にあえて誤解を受けてまでつける非ユダヤ人はいなかった(シーセル・ロス著「ユダヤ人の歴史」、みすず書房)。
自己同一性危機はアイデンティティ・クライシス(identity crisis)の訳語で、成人が自分が何者か見失うことを言う。ウィーンにおけるブラームスとワーグナーの対立は絶対音楽vs標題音楽の争いであって、音楽の様相としてアイデンティティは明快と見えるが、それだけで真相はわからない。1848年の三月革命(ウィーン体制崩壊)から1862年ビスマルクのプロイセン王国(第二帝国)を経て、いよいよヒトラーの第三帝国に至ってしまう「ドイツ統一」と「ドイツ的選民思想」というもの。その生成過程で、表向きは語られることがないユダヤ系を自覚していた両者が社会的に採らざるを得なかった立ち位置の相違が個性とあいまって対立の根っこになる。つまり、弁証法的唯物論でも持ち出さないと説明できそうもない背景が根底にある。ちなみにそれを説いたカール・マルクス(1818 – 1883)の家が代々ユダヤ教のラビであることも興味深い。彼の父は生地トリーアがプロイセン領になりユダヤ教徒が公職から排除されるようになったことを懸念して1816~7年にプロテスタントに改宗し、名前もヒルシェルからハインリヒに変えている。息子は「ユダヤ人問題によせて」(1843)を書き、フリードリヒ・エンゲルスとともに「共産党宣言」(1948)を著すに至るが、宗教的排除という生存の危機に至りかねない差別をヘーゲル哲学を使って経済格差と階級闘争に置換し、反キリスト教的な無神論にもっていったのは大いなる知見だ。
ザクセン王国ライプツィヒに生まれたリヒャルト・ワーグナー(1813 – 1883)にも自己同一性危機があったが、それは二重三重に屈折した彼なりのものだった。15才までリヒャルト・ガイヤーを名のったが、母の書簡を見つけてしまい、自分は法律上の父が存命中の、母と再婚相手の俳優ルートヴィヒ・ガイヤーの不義の子ではないかという疑念を持ち、ガイヤーはユダヤ人だと信じたことに発したからだ。ルートヴィヒ2世を手籠めにしてしまう政治的才覚の持主である。ビスマルクの庇護を得てプロテスタントを国教とするプロイセンに取り入ろうという野望には致命的な支障となり、絶対に公にするわけにはいかない。そこで非ユダヤ人の立ち位置を印象付けるため、世を騒がせるエッセイ「音楽におけるユダヤ性」(1850)を書いて反ユダヤ主義を大仰に演じてみせ、出生の秘密を糊塗してしまう。「パリでドイツ人であることは総じてきわめて不快である」「パリのユダヤ系ドイツ人はドイツ人の国民性を捨て去っており、銀行家はパリでは何でもできる」と書き、その餌食として徹底した攻撃の標的になったのが銀行家の息子であるマイヤベーア、メンデルスゾーンというユダヤ人作曲家だった。
ワーグナーは敵方の急先鋒だったユダヤ人評論家エドゥアルト・ハンスリックも嫌い、 “ベックメッサー” として自作で嘲る攻撃を仕掛ける。さらに、レメニー、ヨアヒムらユダヤ系音楽家と濃厚な関係を築いてウィーンに現れた新星で、おりしもハンスリックが激賞したヨハネス・ブラームス(左)を「ユダヤ楽師」とののしった。いっぽう故郷ハンブルグで定職を得て家庭を持つことを熱望していたブラームスはウィーンに執着はなく、おりから空席となったハンブルグ・フィルハーモニーの指揮者への指名を期待したが上級市民が彼の出自を理由に反対して叶わなかった(これがマルクスの父親が懸念した「ユダヤ教徒が公職から排除されること」の一例である)。ウィーンに居を置くことになり危険を感じた彼は、ドイツ音楽の堅牢な砦である “古典的型式” (絶対音楽)を身に纏う道に向かうが、これは彼がレクイエムの歌詞をルター派のドイツ語訳にして「ドイツ・レクイエム」と名づけたことと同様、「ドイツ統一」「ドイツ的選民思想」の流れから逸脱するすべはなかったためである。はからずもそのウィーンに一生住むことになったブラームスは、ワーグナーのような過激でも政治的でもない形で、ユダヤ髭を除けば自己非同一性の痕跡を一切見せることはなく、父ヤコブから受け継いだ歌謡へのユダヤ的嗜好(「ハンガリー舞曲集」に顕著)は作品番号のない「ドイツ民謡集」の作曲以外は封印する。この抑圧された心理と行動が、晩年のシニカルで内向的な性格と観察されるものの正体である。
かように、ブラームスにも父親ヨハン・ヤコブに起因する同一性危機が根深くあった。にもかかわらず父への愛情は殊に深く、浮気により姉と弟が母側についてもそれは変わらなかったところに僕は彼の人間性を見る。自分の才能を7才で認め、酒場でのなけなしの収入で家族を養いながらハンブルグ最高のピアノ教師につけてくれたこと、そして、レメーニとの楽旅で調律の低いピアノをその場で半音あげてベートーベンのヴァイオリン・ソナタの伴奏をした驚くべき実務能力、即興したジプシー音楽の譜面を売って金に換える才などが父に由来することを悟っていたからだろう。おちぶれてはいたが貴族の末裔だった母からは文学への造詣、深い思考力とロマン的な精神をもらい、終生強い心の絆でつながっていた。母が17才年上という夫婦のアンバランスは彼の女性関係に影を落とし、年齢と共に両親も溝ができ、父は扶養を放棄して家を出てしまう。
その翌年、母が亡くなる。ブラームスは衝撃を受け、それが「ドイツ・レクイエム」に投影される。これほど魂に安息を与えてくれる音楽は他にないと、いま僕は感じながらそれに浸って本稿を書いている。彼がかかえたコンプレックスにはささやかながら共感を覚える点が自分の家庭環境にはあった。富裕層子弟ばかりの小学校に団地っ子はおらず、誕生日のお祝いに呼ばれれば目をみはる豪邸ばかり。社宅である我が家は好きな子だけを招待しても手狭だった。妹と二人の高額な学費を支払って学業を支えてくれた勤勉な父の労苦も、富裕層出の母の気持ちも痛いほど察した。小鳥と猫を飼ってくれ、きれいな花や手芸品の装飾でいつも部屋を明るくしてくれていた母の姿が「ドイツ・レクイエム」の第4楽章のはじまりの数小節からありありと目に浮かんでくるし、父への敬意と感謝も消えないことはブラームスと同じだ。
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僕が聴いた名演奏家たち(山田一雄)
2025 AUG 6 21:21:18 pm by 東 賢太郎
いま自分の宇宙観(前稿)をまえにして、ひとつ仕事をなしとげた気がしています。それ以上に天上を知ることはないだろうし、もう九千以上のかたが読まれて新しい交信が生まれています。
音楽もまぎれもない「波動」です。音楽を聴くという行為も作曲家、演奏家との「波」(霊感)の交信と考えています。前稿で、
『(ブログで)「これを書こう」という衝動(こめる波動の振幅)が大きいとPVはより増える傾向があることがわかった』
と述べました。発信者(作曲家)が紙に記した情報(楽譜)にこめた衝動(こめる波動の振幅)が大きいとPVはより増える(感動は大きくなる)と読み替えれば同じことを言ってます。
良い音楽に接したときに心に巻き起こる嵐のような感動は他のものからは絶対に得られないものであり、そうとしか説明できないのです。正確には、演奏することがそれに当たるのですが、我々聴衆はそれができませんから演奏家にゆだね、そこからスピリットをいただいているわけです。
宇宙で最も完璧な音楽は何だろう?何十年も前から僕の答えは決まっています。モーツァルトの交響曲第41番ハ長調K.551 ≪ジュピター≫ です。完璧なんだけど、一か所だけ修正しています。ここです(第二楽章コーダ)。
これを見るとモーツァルトも人間なんだとほっとした気になります。でも、これによって逆に「一筆書き」なんだとわかり、かえって凄みが増していますね。さもなくば清書と思ったでしょう。
モーツァルトがこれにどれほどの「衝動」をこめたか。並々ならぬものがあったはずです。その理由はここに書いてある私見をご参考いただければと思います。
クラシック徒然草-モーツァルトの3大交響曲はなぜ書かれたか?- | Sonar Members Club No.1
スコア全47頁を聴いた時の “感じ” 。「ハ長調の神の殿堂」です。そう感じる音楽はもう一曲あって、ワーグナーの名歌手第一幕前奏曲です。これのすばらしさも神品レベルですが、宇宙的なスケールとパルテノン神殿の如き絶対普遍の美の構造は一歩譲る。モーツァルトの天才はありとあらゆるところで語られ皆様も飽食気味でしょう。そこで殿堂に唯一迫ったワーグナーを引き合いに出すのですが、きっとワーグナー自身も認めると思うことは、すなわち、あらゆる大作曲家の中でモーツァルトの天才は図抜けて別格であることです。それが問答無用に証明されたのが交響曲第41番ハ長調K.551であり、神の中の神、すなわち「ジュピター(ユピテル)」に見立てた命名は大半が稚拙であるニックネームのうちでは最も的を得たものでしょう。これもお導きでしょうか、8年前、第二楽章を満員の豊洲シビックホールで弾かせていただきました。ピアノを大勢の前で弾くことはもうないでしょうから唯一無二、本当に特別な音楽になりました。
11年前、ここに幾つかおすすめ盤を書きましたが、
モーツァルト交響曲第41番ハ長調「ジュピター」K.551
いまはもっぱら山田一雄です。彼はたった一度、86年5月21日に英国人のお客様を東京にお連れしたおり、文化会館で東京交響楽団を振ったベートーベン7番を聴きました。今も記憶に残る名演でした。もっと聴きたかった。亡くなる9か月前、サントリーホールでN響とのジュピター、神のような演奏、モーツァルトが降臨してますね。最高です。誰のより好きです。
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