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カテゴリー: クラシック音楽

僕が聴いた名演奏家たち(ジャンルイジ・ジェルメッティ)

2023 FEB 2 1:01:07 am by 東 賢太郎

我が家が引っ越したフランクフルト➡チューリヒは南北に約300kmで東京~名古屋ほどの移動だった。かたや、モーツァルトのパリ就活旅行(ザルツブルグ➡パリ)は東西に約900km、東京~広島ぐらいのデコボコ道を馬車で進んだ大移動であり、さらにそれを往復となると気が遠くなる。この地図はその4都市の位置を示している。

この地図の中で我が家は5年暮らした(息子は生まれた)。モーツァルトもコンスタンツェも代々この地図中の家系だったわけで、同じ空間にいたと思うと感慨深い。アロイジア、コンスタンツェのウェーバー家はバーゼル近郊の黒い森の町が故郷だから彼女たちはほぼスイス人といってよく、そこはチューリヒから車であっという間だ。

出張は別として、フランクフルトから旅行をしたのは、ローテンブルグからミュンヘンに下るロマンティック街道、ストラスブールとその近郊のバーデン=バーデンは2度滞在し、ハイデルベルグは数回、バンベルグ、ニュルンベルグはX’masに、ザルツブルグは音楽祭など。ところが北は家族で行ったのはベルリンだけで今となると意外だ。どうしても南に足が向いてしまったが、プロイセンよりバイエルンが好きなのだということがこうしてふり返ってみると分かる。

そのひとつにシュベツィンゲンがある。マンハイムの近郊でハイデルベルグの南西10kmにある街で、プファルツ選帝侯の夏の宮殿と桜のある庭園が有名だ。「選帝侯」は神聖ローマ帝国の君主(ローマ王)に対する選挙権を有した諸侯でドイツに7人しかいない。他の帝国諸侯とは一線を画した数々の特権を有し、当然ながらリッチであった。マンハイムが音楽の都であったのは権力者がここにいたからで、シュベツィンゲンは王の別荘地だったのである。

7才のモーツァルトは1763年7月18日、父レオポルトと姉と共にシュヴェッツィゲンを訪れ、選帝侯が宮殿で開催した演奏会に登場して喝采を受けた。毎年その城内劇場(「ロココ劇場」)で行われる「シュベツィンゲン音楽祭」はクラシック音楽ファンには著名だ。ちなみにドイツ最大の美味のひとつシュパーゲル(白アスパラ)の栽培を始めたのはここであり、開催はドイツ中がアスパラに舌鼓を打つ4~6月である。

ドイツ圏の音楽祭は会場が分散する所がある。近場でやっていたラインガウ音楽祭がそうだし、ザルツブルグ音楽祭もしかりだ。ここもそうで主会場はロココ劇場だが宗教音楽はシュパイアー大聖堂で行われる。1994年はリヒテルが来ていたがそれは聞けず、5月6日に大聖堂のジャンルイジ・ジェルメッティ指揮シュトゥットガルト放送交響楽団によるロッシーニ「小荘厳ミサ曲(Petite messe solennelle)」を聴いた。僕は教会の音響が好きでリスニングルームは石壁にしている。典礼は何度か聴いたことがあったが演奏会は恐らくこれが初めてだったと思う。印象に強く残っている。「小」ではなく70分の大作。ロッシーニ最晩年の傑作で、同曲はジュリーニでロンドンでも聴いた。

シュパイアー大聖堂の内部

ジェルメッティ(Gianluigi Gelmetti, 1945年9月11日 – 2021年8月11日)は知らない方も多いだろう。僕もこの時に聴かなければそうだったと思うが、セルジュ・チェリビダッケ、フランコ・フェラーラ、ハンス・スワロフスキーの弟子で、指揮姿は無駄がなく美しい。歌、リズム、ニュアンスとも最高。当代イタリアを代表するロッシーニ指揮者としてアバド、サンティを継げる人だったと思う。ラテン系のレパートリーは水を得た魚だがドイツ物もシューベルトのグレート、ブルックナー6番がyoutubeにあり、ヘンツェの交響曲第7番を初演するなど現代の音楽にも適性が非常にある素晴らしい指揮者だった。シドニー交響楽団のシェフを最後に76才での訃報を最近になって知った。惜しい。1度しか聞けなかったことが痛恨の極みだ。

きかなくても彼のボエームがいいのはわかる。ああ劇場で体験したかった。

ローマ歌劇場の「ヴォツェック」をUPしていただいたのは嬉しい。ここではジョコンダを聴いたことがあるがこれは貴重だ。非常にいい。ジェルメッティの半端でない守備範囲をお分かりいただけるだろう。

春の祭典。見事な演奏。指揮が運動神経抜群なので手のうちに入ったオケが確信をもって弾けている。サントリーホールでこれを体験した方がうらやましい。

最後にラヴェルを。これまた極上、本当に素晴らしい。このCDは僕の宝物だ。買うかどうか迷ったが、ドイツのオケというのが気になったからだ。まったくの杞憂であった。冒頭の地図をもう一度見ていただけばシュトゥットガルトがほぼフランス文化圏でもあることがわかる。ラテン的なクラルテで硬質な響き、たっぷりと夢見るように歌う暖色の弦、涼やかに青白いフルート、きれいなアクセントで明滅する木管、流れるようにからまる油質の横糸、決然と刻むリズムで赤く熱していくアタッカ。これだけ多彩な絵の具を弄して描いたラヴェルはそうはない、まさしくセクシーだ。

5年前に同CDから「クープランの墓」だけ切り出していた。

これを墓碑としてお見送りすることになった。素晴らしい音楽を有難うございます。ご冥福をお祈りします。

 

 

 

コンスタンツェとアロイジアの蹉跌

2023 JAN 30 2:02:42 am by 東 賢太郎

マンハイムは僕が3年住んだフランクフルト・アム・マインからアウトバーンをぶっ飛ばせば30分ぐらいの南にある。この地図のなかで21才のモーツァルトは青春の蹉跌をたっぷりと味わっている。1777年に母と一緒にパリに向かう最中のことだ。まず父の故郷であるアウグスブルグで19才の従妹マリア・アンナ・テクラ・モーツァルトと意気投合し火遊びにふける。これは後にベーズレ書簡と呼ばれることになる恥ずかしい一連の手紙が残っていなければ闇の中だった(現に息子は廃棄を主張した)。父レオポルドの手紙はばっさり処分したコンスタンツェがなぜそうしなかったかは謎であり、それに対する僕の見解は「戴冠ミサk.317」の稿に書いた。

父の洞察力はシャーロック・ホームズのように鋭かった。そんな所で遊んでる場合かと檄を飛ばし、息子は後ろ髪をひかれながら従妹と別れて乗り込んだのがマンハイムだ。今はいち地方都市だが当時はプファルツ選帝侯の宮廷があり羽振りが良い街だった。宮廷はヨーロッパ最高の管弦楽団を所有して「マンハイム楽派」として後世に特筆されるほどハイレベルな音楽家たちが集結していた。頭領格のシュターミッツはボヘミア出身で父子とも楽団のバイオリニストをつとめ、ここで腕を磨いてパリに出た。モーツァルトはモッツ・ハルトでチェコ系という説があり、シュターミッツを範にレオポルドは子にバイオリンも仕込み、行先はパリという点からもその出世街道をイメージしていた可能性が大いにある。

しかもマンハイムはドイツ人がドイツ語でドイツ音楽をやる原点の都市だった。ロココから古典派への橋梁を成し、楽団に管楽器を入れて交響曲を量産し、ハイドンへの基盤を作った。ここ出身でストラスブール大聖堂の典礼音楽を仕切るフランツ・クサバー・リヒターのミサは私見ではモーツァルトと同格の質の高さで、帰途に寄ってそれを聴いた彼も暗にそれを認めており、老人でアル中のリヒターは長くないかもと冗談とも本音ともつかぬ手紙を書いている。つまり、イタリアぬきでべったりドイツであるマンハイムは彼が認められて何らおかしくない土壌だった。しかし、実力者のカンナビヒ家に歓待されはしたが、なぜかそうはならないのだ。何がいけなかったのだろう?

しかしモーツァルトはそんな危機感はそっちのけで写譜師ウエーバーの娘、16才のアロイジアに一目ぼれし、うつつを抜かしてしまうのだ。同業者仲間であるレオポルドからよろしくと頼まれていても、なんだこいつはになってしまうのは今も昔も変わらない。これがまずかったのだろう。そして彼女に歌わせるためレチタティーヴォとアリア「アルカンドロよ、私は告白しよう…どこより訪れるのか私は分からぬ」(K294)を書く。これは歌の形をしたラブレターだ。これを歌ってモーツァルトを喜ばせたアロイジアの歌唱力はそれだけのことはあったものだから、彼の中にはあらぬ妄想がむくむくとふくらんでしまう。

お父さん、彼女の歌は凄いんです、僕がアロイジアとユニットを組んでオペラを書けば王侯貴族の引く手あまたになり、巷でも大人気になります。モーツァルトはパリなど眼中になく父への手紙でそう訴え、結婚だけしたいのではない、我々にとって経済的にいいだけではない、ウェーバー家は生活に困窮しているので助けてもあげたいのだと論点をすり替え、困窮ぶりを父に印象付けるため子供は息子も入れて6人もいると嘘までついている(四姉妹で息子はいない。父はこの家族を知らなかったことがわかる)。

こういう趣旨の熱い手紙を送ってきた息子に対し、レオポルドの洞察は鋭かった。お前は夢中になると他が目に入らず、何もかもが「あばたもえくぼ」になり、世間の常識など吹っ飛ばしたとんでもないことをしでかすのだ。馬鹿なことを考えるんじゃない。そんな娘にうつつをぬかしてどうする、世の中はそう甘くないんだ。決めた通りに紹介状を持って早くパリに行け!

この父子のそれぞれの気持ちが僕はわかってしまう。小学校の頃、帰り道で毎日立ち寄っていたM君の家の広い庭。そこに地下室を作ろうと僕はひらめいたのだ。そしてM君とお母さんを説得し、2人して毎日放課後にスコップでせっせと穴を掘った。1mぐらいのところで放送作家のお父さんが心配になり、我が家に電話が入って大激震が走る。お前は馬鹿かと激怒した父が先方様に平謝りして計画は頓挫したが、僕の頭の中では地下室は内部まで完成していたのであり、いま誰にも文句をつけられない自分の家でその通り実現している。

モーツァルトが「アロイジアと結婚してユニットを組めば凄いことになる」と父に熱く書き送ったのは、だから僕には本気感満載としか見えない。「凄いこと」はおまけであって彼女が欲しいだけなのだが、とにかく大言壮語ではなく大真面目であることはアルカンドロのアリアの難しさを聞けばわかる。二人とも十分な実力はあった。でも十分に世間知らずだったのだ。こういう性格は死ななきゃ治らない。3人の親になった僕はそういう馬鹿息子を持った我が父の心配もレオポルド氏の危惧も理解できるようになってはいるが、実のところいまだにそれをしでかしかねないし、誰かがしでかしても責めることはないだろう。

結局のところマンハイムでもパリでも見合う仕事のオファーはなく、1778年2月をもって就活は失敗に終わる。フリーランスがなかった時代だ。オン・ディマンドの働き口はまだなく、ピアノや作曲の腕がいいぐらいで雇ってもらえるわけがない。貴族の家来になるのだからまず第一に「愛い奴」でないといけないのだ。しかし生意気なはね返り小僧だった彼はそもそも仕官は不適格で、だからこそザルツブルグを飛び出たわけであり、パリへ行けばいいという安易なものではなく、その後ウィーンへ行ってもやっぱりだめだった。

父が苦労して貯めた資金はパー。しかも母を旅先で亡くしてしまった衝撃は彼を苦しめ、眠れぬ夜が続いたろう。帰途で心の灯を求めマンハイムに寄るが、アロイジアは引っ越していた。心は乱れ、行き先のミュンヘンまで追いかける。彼女に会うことはできたが、パリで負け犬になった男は用なしで、すげなくふられてしまう。これだけ怒涛のように不幸に見舞われる人もそうはいない。もう俺なんか誰も見てない、誰にも愛されてないと泣いたろう。これは耳疾でそうなって遺書を書いたベートーベンのようにあからさまでないが、彼が珍しく父にそれを吐露した手紙の悲しさは胸を打つ。これだ。この時の心境がパパゲーノに投影されて、あの「1,2,3。。。」の首つりのシーンになったのだ。

アロイジア・ウェーバー

レオポルドの洞察力は後日のコンスタンツェとの結婚騒動においても発揮された。「そんなアバズレ女はやめとけ。母親は札付きのやり手婆あだ、ウィーン中で有名だぞ。みんながお前の噂をしてることを知らんのか」。この指摘は見ようによっては真実だけに父の書簡はコンスタンツェの検閲を通過することができなかったのだが、ベーズレ書簡がOKなのだからいいではないかと思うのだ。父の疑念はアロイジアの “結婚” の件に発していたと思われる。貧乏だった未亡人がなぜ大都会ウィーンの一等地で独身者向けの下宿屋オーナーの身分になれたのか?その金はどこから出たのか?松本清張の「聞かなかった場所」のような真相をコンスタンツェは隠したかったわけである。

ヨーゼフ・ランゲ

モーツァルトが初めてアロイジアに会った1777年ごろからウェーバー夫人は才能・器量とも上々のアロイジアの結婚相手を物色していたと思われる。それがウィーン宮廷俳優でバツイチ、3人の子持ちだったヨゼフ・ランゲという男だった。その妻はドイツ・オペラ劇場のプリマ・ドンナだったが病気がちで、2年後に肺炎で亡くなる。そこで3年越しの計画通りアロイジアが1780年に後妻におさまっている。劇場で前妻の後釜になれる利益もおいしかったが、ランゲが4フローリンの前払いと700ギルダーという終身年金を払ってそのころは寡婦だった母親の面倒も見る契約にサインしたことが決定打だった。

そんな上玉が現れたのだから就活旅行に失敗したモーツァルトがそでにされたのは誠にごもっともである。しかし後にウィーンにフリーランスとして出てきてヒット作を書き始めると母は態度を一変して自分の下宿屋に呼び込み、今度はアロイジアの妹(三女)コンスタンツェと巧みにくっつけることで、ランゲと同様に責任を取れ、契約書を書けと迫ったわけだ。これに烈火のごとく激怒したレオポルドは結婚を断固として認めず、シュテファン聖堂の結婚式にも現れず、ロンドンに行きたいので息子を預かってくれとのお願いも蹴り、モーツァルトも父の葬式に出なかった。この父子の円満で希望に満ちていた関係はこうして瓦解し、終焉した。その面だけを見ればたしかに悪い女に引っかかったと言えないでもないだろう。

この姉妹はその後どうなったか。アロイジアとランゲは1795年に離婚したと歴史はあっさり記しているが、これは驚くべきことだ。ウィーン生まれのランゲはバイエルン人であり、ランゲ家はモーツァルト家とも元からつきあいがあり、カソリックだろう。ウエーバー家も、コンスタンツェはモーツァルトとの婚姻はシュテファン大聖堂で挙げておりカソリックだ。なぜこの二人は離婚できたんだろう?なぜ誰も説明していないのだろう?そもそもしていたのは結婚ではなく「金銭授受権付の同棲」だったのではないだろうか。離婚ではなく「契約満了」だったとすると凄い話だが(1780~1795、ぴったり15年だ!)。

もうひとつアロイジアには不可解な謎がある。モーツァルトの庇護者だった皇帝ヨゼフ2世が彼女を嫌っており、何度か追放を試み、とうとう1788年にクビにしてウィーン宮廷歌劇場から追い出していることだ(皇帝の死後1790年に復帰)。この理由はいまだに不明とされており謎以外の何物でもないが、万が一私見の通りであり、それを神聖ローマ帝国皇帝であるヨゼフ2世が知ったとするなら、神に誓わない同棲婚しかも金が絡んでいるなど長期売春に等しく、劇場でしゃあしゃあと人前に顔など出すなということで納得がいく。アロイジアは母親の命令でランゲと関係を持ったのではなく、自分の意志でスターダムへの早道と選択したかもしれない。モーツァルトには本当に興味がなく、この二人は結ばれなくて良かったのかもしれない。

アロイジアは1829年7月、ザルツブルグで英国人ノヴェロ夫妻の訪問を受け、「モーツァルトの愛を拒んだことを悔やんでいる」と語ったという。そのころモーツァルトはすでにレジェンドだから、関わった女性は一人残らずそう言うだろう。上がった株を上がる前に買うべきだったと悔やむ人が99%を占めているのが世の中というものだ。買ったコンスタンツェは “持ってる女” だったというしかない。ランゲはその後に、おそらく契約金の要らなかった女中と再婚して1831年まで生きたが、彼は歴史に名をとどめている。アロイジアと結婚したことではない、画家でもあった彼の描いたモーツァルトの肖像画を知らないクラシックファンはいないだろうという意味でだ。コンスタンツェはこれを「彼の最高の肖像画」であると述べているが、ここで嘘をつく理由はないからそうなのだろう。

コンスタンツェは旦那の葬式にいなかった。これがひどい女だ、悪妻だとされる根拠の一つだが、いられない理由があったというのがモーツァルトの死の真相のヒントだ。葬式を無視するほど関係が冷えていたならその後にザルツブルグに住まなかっただろうし、故人の地元も歓迎しなかったろう。しかもその地で彼女は結婚に大反対され、その手紙を片っ端から廃棄した父レオポルドと同じ聖セバスチャン教会墓地に眠っており、墓碑の父の下はモーツァルトの母方の母、左上は姉ナンネルの子供、その下はコンスタンツェの叔母で「魔弾の射手」の作曲家ウエーバーの母だ。しかしこれではレオポルドを従えているようで、どうも僕は腑に落ちない。

ゲオルク・ニコラウス・フォン・ニッセン

デンマークの外交官でコンスタンツェが再婚したニッセンが最上位にあり、政治的なにおいがする。モーツァルトのメンター役で葬儀の一切を取り仕切ったスヴィーテン男爵もオランダの外交官であり1803年に亡くなっているが、ニッセンは在ウィーン臨時代理大使だった1797年にコンスタンツェと会い、翌年から同棲を始め、1809年に結婚している。その頃コンスタンツェは亡夫の楽譜や版権を使って出版社や国王から収入を得ており、借金は完済し終わったどころかひと財産を築いていた。彼女は悪妻で頭も悪いという人もいるが、これを見る限りやり手である。外国との交渉には外交官はうってつけでオンディマンドな男だったのである。スヴィーテンは年をとって役目は終わっていたし、もうウィーンに用はなくなった。夫妻がザルツブルグに定住したのは1820年で、3年後から伝記の執筆を始める。これがその後のすべての伝記のネタ本になるわけだ。

これはちょうどベートーベンが第九を構想していた頃であり、そのころにはモーツァルトはすでに押しも押されぬレジェンドだ。死因も墓地も不明のまま、すなわちウィーン宮廷の名誉は守られたまますべての秘密は闇に葬られた。伝記の執筆に当たってニッセンはナンネルからモーツァルトが記した400通に及ぶ手紙を預かったが、前述したが、コンスタンツェは自分を最後まで認めなかったレオポルドの書簡を大量に破棄した。それを「なかったこと」にした嘘の伝記を書いても異を唱える者はもう生きていないと踏んだのだろう、モーツァルテウムの設立に関わるなど天才の神格化を始める。おかしなことだ。天才はザルツブルグを見限って出ていったのだ。彼は不遇のパリ就活に出ていった時からこの街を捨てていた。帰って来るのに辟易していたから辞表を叩きつけてウィーンに逃亡したのであり、それを幇助したのが下宿屋のウェーバー家だったのである。

以上を俯瞰してわかったことは、コンスタンツェに悪意はなかったろうが、結果としてはウェーバー家がモーツァルト家を乗っ取った観があり、それを不快に思って別な墓所に入ったといわれるナンネルに共感する自分がいるということだ。ザルツブルグを愛していたであろうナンネルがそこにおらず、今日のいまだって天国で結婚を認めていないだろうレオポルドが、先に亡くなったことでまるで承服したかのようなあんな墓に入れられている。そしてコンスタンツェ-ニッセンの計略に糊塗された伝記と墓石に洗脳されたモーツァルティアンたちが長年にわたって築き上げた異を唱えるべからずの砦はポリコレの如しだ。僕がモーツァルトの伝記はおろか、事実とされていることも実は都市伝説だと信用していないことはこれまで縷々述べてきたとおりで、どこまでも真相を追いかけるつもりだ。

コンスタンツェ

コンスタンツェが浅はかで浪費家の悪妻だったという説は支持できない。モーツァルトは妻を手紙であまりほめておらず、そのことも「売れ残りを押しつけられたんだね気の毒に」と悪妻のイメージに寄与しているが、彼は同情されなくても十分にモテる男だった。そうではない、良くも悪くも賢い面を父に見せたくなかったのだ。「それ見ろ、世情に疎いお前はずる賢いウェーバー家にいいように騙されてるんだ」と火に油を注ぐのは目に見えていたからだ。僕はなんとなくだが彼はコンスタンツェを本当に愛していた気がする。ウィーンではアロイジアはもう昔の女で友達であって眼中にないのだ。浮名はたくさん流したが、それはそれこれはこれというのが彼の頭の中だ。だから姉妹もみんな好きで、長女のヨーゼファは最初の「夜の女王」を歌わせてあげているし、一番下のゾフィーは死の床にまでそばにいてくれている。本当にいい奴だったのだ、モーツァルトは。

コンスタンツェはスヴィーテンの庇護を得て(というより事の成り行きからうまく利用して)財を成し、彼のおかわりに同系統の能力を持つニッセンをつかまえた。ファンは外国に広がりつつあった(英国人が訪ねてくるほど)から通訳も必要で、執筆には筆力も要求された。充分な貢献をしたニッセンを貴族に列するよう計らってやったのは、自分に協力した功労者をスヴィーテン男爵と同列にしてねぎらったのだろうが、貴族を墓石のトップに置いて箔もつけたかった。これでモーツァルト家が下に来るのは仕方ないわねということになる。悪妻ではないが良妻でもなく、したたかなマネージャーの妻であったというのが僕の評価だ。モーツァルトにはそれがぴったりだった。彼女は音楽の才能はなかったが、母親のビジネスの才はしっかり受け継いでいたからである。

 

ハイドン 「戦時のミサ ハ長調」Hob.XXII:9

2023 JAN 22 16:16:30 pm by 東 賢太郎

フランツ・ヨゼフ・ハイドンへの興味は尽きない。音符も読めない車大工と料理女がつくった息子が音楽家になることはあろうが、その息子が死後に骨相学の信奉者によって頭蓋骨が盗まれるほど遺体に関心がもたれた天才だったなると、そんな人間は他には脳のスライスが科学者に研究対象として共有されたアインシュタインしか知らないのだから尋常な心持ちではおれない。その才能はどこから来たのだろう?なぜ埋もれていたのだろう?いや、それ以前に、才能とは一体何なんだろう?モーツァルトもベートーベンも、遺体が掘り返されて不思議でない天才ではある。しかし、彼らは、もっと言えばワーグナーもショパンもシューマンもブラームスもブルックナーもチャイコフスキーもだが、伝記を読む限り人としては普通でなかった。まあ天才だから。ところがハイドンはというと、僕が感知する限り、普通の「いい人」なのだ。

彼のアウトプットは、質×量を数値化すればあらゆるジャンルの天才の最大値に近いだろう。それでいて「いい人」で上司や同僚にお追従のひとつも言えなければ勤まらないサラリーマン人生を30余年も平穏に送って出世をし、お暇が出てロンドンで一旗揚げて富裕になっても「また帰って来てくれ」と雇用者が懇願し、そこで作った曲は慕われて国歌になってしまう。それなのに、彼には「頑張ってます感」があっけないほど漂っていないのだ。こんな人は見たことも聞いたこともない。ベートーベンやショパンやムソルグスキーの肖像画を思い浮かべていただきたい。天才は近寄りがたい圧があり、苦悩に満ち、人生に病み、あるいは浮き世は我関せずの目線を放っていたりするのが常なのだ。

Franz Joseph Haydn(1732 – 1809)

かたや、このハイドンさん、実はロココ調のレストランでソムリエのバイトしてておかしくない。「ワイン・リストはこちらでございます」「そうね、ブルゴーニュの明るめのこんな感じで予算こんなで3つ」なんて言うと気の利いたお薦めがすぐ出てきて、「年がねえ」なんて独り言に「お待ちください」とワインセラーにとんで行って「お客様、1本だけございました」なんて持ってくる。ハイドンさん、そんなひと世の中に絶対にいないんで、これ最大の賛辞なんで。でもこの感じじゃないと交響曲第96番は書けない、これも絶対に。じゃあいったい何なんだ?あなたは何者だったんだ?これぞ “Miracle” でなくてなんだろう。

1795年、2度目のロンドン滞在の最後の年に交響曲第102~104番の作曲を終えてウィーンに帰ったハイドンはもう交響曲の筆を折っていた。63才からの最後の時間を傾注したのはミサ曲とオラトリオの作曲である。

ニコラウス・エステルハージ侯爵

旅行中に新しく位についたエステルハージ侯爵ニコラウス2世の要請でエステルハージ家の楽長に再び就任し、妃の命名日に毎年ミサを書くことになる。それが後期六大ミサと呼ばれる6曲、《戦時のミサ》(1796),《ハイリゲミサ》 (1796),《ネルソン・ミサ》(1798),《テレジア・ミサ》 (1799),《天地創造ミサ》(1801),《ハルモニー・ミサ》 (1802)である。そして誰からの注文でもなく自主的に書かれたのが2つのオラトリオ、《天地創造》(1798),《四季》(1801)である。今の僕はテレジア・ミサを書いた頃の年齢で、ハイドンのこの豊穣の中にまだいることは一抹の安堵を与えてくれる。

《天地創造》作曲にはザロモンとスヴィーテンが深く関わっているが、ハイドンの内面に芽ばえた契機として考えられるのは、ウエストミンスター寺院でのヘンデル記念祭で《メサイア》を鑑賞し、エステルハージの小編成でなく大編成の楽団とコーラスで宗教音楽を書きたと思い立ったことだろう。僕もロンドンでメサイアを聴き圧倒的な感銘を受けたがモーツァルトもハイドンも受けたのだ。これを書いた5年前よりマタイ受難曲にはずっと目覚めているが、宗教的コンテクストと関係なくロックとして宗教音楽をきける我がスタンスは健在だ。

ヘンデル「メサイア」(Messiah)HWV.56

《戦時のミサ》はイタリア語でMissa in Tempore Belliで、ハイドンがスコアに記した曲名はこれだが、アニュス・デイでティンパニが活躍するため『太鼓ミサ』(Paukenmesse)とも呼ばれる。なぜ戦時かというと、ハプスブルク家がフランス革命戦争(イタリア戦役)で第一次対仏大同盟の一員としてナポレオン・ボナパルト率いるフランスと交戦し、大苦戦していたからだ。ウィーンに攻め込まれ敵軍の大砲が鳴り響いたのを模したのがそのティンパニであった。

ピアリスト教会の内部

初演は1796年12月26日にハイドンの指揮でウィーンのピアリスト教会にて行われた。ハイドンは完成したすべての楽譜の最後に「神に賛美を」という言葉を加えたほど信仰心が篤くTempore Belli(戦時下)の終息を神に祈るミサを書いたと考えるのが自然だが、ハンガリー国よりハプスブルグ家に忠誠を誓うエステルハージ家の家来としての立ち位置からの忖度がなかったとも言い切れないだろう。写真を見るに大きな教会ではなく管弦楽、合唱ともおそらく小編成で、現代の編成できくよりも相対的にティンパニの音量が大きく、Paukenmesse のニックネームがつくに至ったのではないか。

興味深いことに、ベートーベンはミサ・ソレムニスのアニュス・デイで、トランペットに軍楽隊のパッセージを吹かせ、フランス軍の太鼓であるティンパニを轟かせるというハイドンとまったく同様のことをしており、さらにはトロンボーンに誰もが出所のわかるパッセージを吹かせている。

ルドルフ大公

言うまでもなくこれはヘンデルのメサイア(ハレルヤ)であり、引用どころか堂々たるパクリのレベルだ。ハレルヤのこの旋律の歌詞は「そして彼は永遠に君臨する」(And he shall reign for ever and ever)である。献呈はオロモウツ大司教として即位したルドルフ大公だ。この人はしたがって聖職者になったわけだが、キャリアの当初、ベートーベンに弟子入りしたころまでは軍人だった。それを斟酌したパトロンへの精一杯の忖度だったのである。

メサイア全曲のフランス初演は1873年であり、モーツァルトが管弦楽に手を入れたとはいえ演奏はスヴィーテンのサークル内だけで、ミサ・ソレムニスが書かれた1823年当時のドイツの一般聴衆がこの引用に気づいたとは思えない。ピアノ・作曲の弟子でもあったルドルフ大公は、自身に献呈された皇帝協奏曲の試演で独奏者をつとめた程のスーパー・アマチュアであり、この「本歌取り」が通じたから忖度になったと推理する。

このことはベートーベンが先生であったハイドンの《戦時のミサ》のアニュス・デイを研究した痕跡であり、これまた興味深いことに、そこではトランペットでこれがフォルテでくっきりと鳴るのだ。

普通の耳しか持たない僕でさえ記憶に焼きついているこれが、第5交響曲を作曲前のベートーベンの脳裏にあったとして何ら不思議でないだろう。

ハイドンの《戦時のミサ》はそれよりもずっとリアルな「戦時」に書かれたから祈りがあると考えるが、この曲は自作を含む数々の影響から成り立っている。グロリアの冒頭は自作の交響曲第96番「奇跡」のMov1冒頭であり、クレドの開始部分は前出のハレルヤ「そして彼は永遠に君臨する」であり、さらに顕著なモーツァルトの影響というと、グロリアの「Qui tollis」は魔笛の「おおイシスとオシリスの神よ」、クレドの「Et incarnatus est」(ハ短調)はザラストロとパミーナの掛け合い、「et vitam」は「ザラストロ万歳」だ(ライオンが出てくるところ。両者ともハ長調であり、やはり同調のリンツ交響曲と同じリズムで終わる)。そしてベネディクトゥスの出だしはドン・ジョヴァンニである。

ハイドンがパクリだと書きたいのではない。彼は63年生きていろんな音楽が頭にあって、そのスープからいろんな味を引き出すことが作曲だったのだ。僕も60年クラシックを聴いていろんな音楽が頭にあって、そのいちいちが耳に入るものと共振するのを楽しむのが鑑賞になっている。《戦時のミサ》は104曲も歴史に残る交響曲を書いて、いや交響曲なるものを地球上に送り出した、その天才が教会音楽というフォーマットで産み落とした傑作だということを書きたい。

この曲は反戦を訴えたバーンスタインが得意としており、再録のバイエルン放送響との演奏が有名だが、僕は1973年に録音されたニューヨーク・フィルとのCBS盤の方を愛好している。この演奏が発散する熱量と気迫は尋常でないからで、何万とあろうスタジオ録音なるものでもこんなのはざらにない。録音がベトナム反戦運動のさなかであったことと決して無関係ではなかろうが(同年3月までにアメリカ軍はベトナムから撤退している)、スタジオではそういうものを出さないのが普通のプロだろう。彼はプロだが普通の人ではなかったのだ。

前から不思議に思っていたが彼は60年代の駆け出しのころからハイドンをやけにたくさん振っていた。派手好きなイメージを持っていたので違和感があった。いや、彼はハイドンが好きだったのだ。ハイドンは会ったことないがバーンスタインはある。そうか、彼も「いい人」だったっけ。

ベートーべン ヴァイオリンソナタ第5番ヘ長調 「春」Op.24

2023 JAN 13 23:23:31 pm by 東 賢太郎

先日、池袋のジュンク堂に立ち寄った。神山先生の帰りだ。渋谷Book1st、神保町三省堂、八重洲ブックセンターと大書店が次々に消えている昨今、本屋は僕のコックピットだからここだけは末永くお願いしたい。

しばし漢方のコーナーで嬉しいぐらいたくさんある書籍をあれこれ見ていたら、妙なるヴァイオリンの調べが不意に天から降ってきた。しばし金縛りで動けなくなってしまった。

誰が呼んだか「春」。ベートーベンの書いた最も美しいメロディーと思う。

降ってきたとき30~31才。交響曲第1番より後だ。すでに重い難聴に襲われており、自殺しようと遺書を書くのはその翌年だ。

内に住む悪魔と闘う。

シューベルト、シューマン、ブルックナー、ブラームス、みなそうであり、みなベートーベンを意識した人たちだ。僕も彼の音楽をそれぬきに聴くことはない。

それにしても最晩年のカラヤンがつくった彼の音楽、ああいう音響体をどういう言葉で描写したらよいものか。娯楽に流れると消えるもの。それは悪魔を見ないように自ら懸命に追い込んだ魂の気配だ。

モーツァルトの同作と同様まだジャンル名は「ヴァイオリンの助奏付きピアノソナタ」であったが5番は脇役のはずのヴァイオリンがいきなり楽譜の旋律を奏で、聴き手を百花繚乱の園に導きいれる点で、場違いな言葉ではあるが、僕にはショッキングである。スケルツォ入りの4楽章に初めてするなど「春」は大変な野心作だ。

遺書を書きながら野心もある。彼はすぐれて二項対立的な人で、プライベートには女性にその解決を求めたが得られず、それがすべからく音楽に向かった。この曲の「春」になる性質は女性なくして考えられないが、同時に、旧作(ピアノ協奏曲第1番)にもあった前衛的和声の意図的混迷はここでもMov1コーダ直前の両楽器の対位法的進行に現れる(大元はモーツァルトだが)。彼はアバンギャルドだった。それのほとんどは奇天烈に終わらず後世に継がれたが、いまもって不思議がたくさんあり興味が尽きない。

 

エリカ・モリーニ(Vn) / ルドルフ・フィルクシュニー(Pf)

モリー二の音は細めだが冒頭からめざましい。歌心と色香が匂いたち、一気に引き込まれてしまう。Mov1第2主題でのギアチェンジなどメリハリもある。フィルクシュニーの深い陰影のあるタッチがこれまた素晴らしく、僕は彼のモーツァルトをボストンで聴いたがそれを思い出す。何やら調律が特別に良いのではないかとすら聞こえ、Mov4の長短調の交叉はこれでこそ活きる。1961年録音。

 

アドルフ・ブッシュ / ルドルフ・ゼルキン

Mov1のテンポ。ハイフェッツ盤とこれが本来のアレグロと思う(こちらの完成度が上だ)。インテンポで遊びはないがドイツ流の王道だろう。ナチス独裁政治が確立した1933年の録音だが、90年たっても古びた感じがしない。

 

フリッツ・クライスラー / フランツ・ルップ

1935年録音。Mov1から川のように流麗。クライスラー一流のポルタメントを駆使して存分に歌う。Mov1第2主題の加速があり音楽は喜びに満ちる。リズムにエッジを欠くのでMov3の諧謔はいまひとつだがMov4には歌が戻る。機能性が売りの現代のヴァイオリンのアンチテーゼであり、19世紀のサロンで弾かれていたムードはこんなではなかったか。

 

クリスチャン・フェラス / ピエール・バルビゼ

こちらはフランスのコンビ。フェラスは華やかだが品格があるのが好み。テンポの揺れや間のとりかたは長年の息の合ったアンサンブル。Mov2のギャラントだが深みのある表情は随一と思う。

 

ジノ・フランチェスカッティ / ロベール・カサドシュ

こちらもフランス組だ。フランチェスカッティのヴィヴラートは19世紀の余韻たっぷりだが、たっぷりめのテンポにもかかわらず甘ったるい演奏とはきっぱりと一線を画している。それはカサドシュのクリアに引き締まって滋味深いニュアンスに富んだピアノあってのことだ。これが支えてこそヴァイオリンが雄弁に歌いきる。ラヴェルが結びつけたこのコンビが一世を風靡したのは異なる個性の相性の良さによる。ピアノだけ取ればこれとフィルクシュニーが双璧だろう。

 

ジョシュア・ベル / エマニュエル・アックス

youtebeにある米国人コンビのライブ。ベルはフランクフルトで聴いたシベリウスの協奏曲が衝撃の名演で今も忘れない。彼は当時25才で「末恐ろし」と思ったが、昨年55才でのこの演奏、Mov1で拍手が入ってしまうような場にもかかわらず実に素晴らしい。かかわらずというか、こうして聴衆がノッている、ビビッドに反応してくる場というものが作曲当時にはあったのだ。アックスのピアノがこれまたブラボーで、ベルと競奏したりなんら名技をひけらかすわけでもないが、安定した「大人の演奏」は最高の満足を与えてくれる。スタジオでアイコンとして残すべくする演奏も良いが、こうして音楽が生まれる場にいることも、これまた人生の贅沢である。旬であるこういう人たちのアートが「新譜」として出てこない世の中になってしまったことが実に恨めしい。Mov3、最後の1音までズレまくる(スケルツォとはこういうお遊びのことだ)、ベートーベンの聴衆は笑って湧いたに違いない!Mov4の不意の短調にも!これがポップスだった時代の情景が浮かんでくる。くそ真面目に上手に弾くだけの演奏と格が違うと言ったらいいか、そういうものも含めての “文化” なのだ。クラシックは、クラシックと呼ばれるようになって「古寺巡礼」になった。古寺だから価値があるという異質な価値観だ。そんなものは奈良、平安の時代に朱色や金色に塗られてぴかぴかの「新しい寺」だった頃にあろうはずもない。ベートーベンも草葉の陰でクラシックとなっている己にびっくりしてるだろう。その気になればこういう演奏に普段着であっさりふれることができたあのころの日々、なんて恵まれていたんだろう・・・。

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フランク「ヴァイオリン・ソナタ」再発見

2023 JAN 6 23:23:43 pm by 東 賢太郎

飯より好きな曲なのに気がつくとずいぶんご無沙汰ということがある。友達なら会えばすぐ戻る。ところが音楽の場合は、情熱が冷めたわけではないのに、いざ聴いてみるとまるで疲労して肩こりになったように心が固くなっていて、いまひとつその曲に入り込めずあっさり通り過ぎてしまうことがある。去年12月に東京芸術劇場で聴いたエリアフ・インバル / 都響のフランク交響曲ニ短調がそれだったらどうしようと思っていた。幸い徐々に心にしみ、じわりと漢方薬みたいに効いて感動した。

以来、とても深いフランクの世界をあれこれ渉猟することになって、youtubeには気に入っているペルルミュテールとパレナン四重奏団によるピアノ五重奏曲をアップさせてもらったりした。そして、そうこうしているうち、やっぱりここに帰ってきてしまうのだ。ヴァイオリン・ソナタイ長調である。ブラームス4番を我が命の音楽と書いたが、このソナタは魂に彫り込まれている。これに感動しなくなったら人間をやめてもいいぐらいだ。

レコード、CD はたくさんある。グリュミオー / セボック盤が圧倒的に素晴らしいが、もうひとつ、どうしてこれに気づかなかったのか不分明を恥じるほど揺さぶられた演奏がある。ナージャ・サレルノ・ソネンバーグ / セシル・リカド盤(EMI)である。

ローマ生まれのナージャは父親をなくし8才で母親と米国に移住した。それなりに富裕だったのだろうが、とはいえ母と幼い娘が気楽に安全に入って行けるほど米国社会は甘くない。カーティス音楽院でイヴァン・ガラミアン、ジュリアード音楽院でドロシー・ディレイという著名な教師に付いて学んでいる。才能がないのにコネだけでできるほど甘くないのも米国社会だ。彼女は奔放なスタイルの人で、教育の枠に収まりきれなかったという趣旨のことがバイオに書かれているが、そうだろうか。教師と生徒、感性の違いはあってもヴァイオリンを自在に弾きこなすハイレベルな訓練なくしてこのCDのような演奏ができるはずはなく、むしろ名教師直伝の技術という素材を自分流に使いこなすところまで個性を発揮した、それを教師は喜ばなかったかもしれないが、そこまで飛翔してしまえた彼女の才能を評価すべきだと僕は思う。

このCDを池袋にあったWaveで買った理由は記憶がない。ひょっとして日本で聴いたのだろうかレコ芸の評が良かったのか、それも覚えてない。CDはそのまま棚に埋もれていたのだから印象が薄かったのだろう。しかし、先ほど何十年ぶりかに取り出して、完全に虜になったのだ。いや、こんなフランクは知らない。グリュミオーの典雅としか言いようのない節度と気品とは違う。そういうものをこの人は求めておらず、そのかわり満ち溢れるような音楽への愛と歌がある。それが打ち震えるヴィヴラートに乗ってぐいぐい迫って来る。楽器はグァルネリの”Miss Beatrice Luytens, ex Cte de Sasserno” とwikiに書かれているが、その音だろうか弾き方だろうか、E線の高音部でもG線のハイポジションのような肉厚の音色である。フランコ・ベルギー派の特徴ともいえ、彼女が意識してそうしたかどうかはともかくフランクにはそぐわしい。

何度この録音をききかえしただろう。Mov1の冒頭主題の慈しみからして尋常でない。いきなりロマンの深い灰色の霧に放りこまれるが、旋律がオクターブ上がると予想もしない妖艶な色香がのってきて熱さが徐々に見えてくる。フレーズの感情の変転につれテンポが大きく揺らぎ、これが見事にツボにはまって心に入りこんでくる。すすり泣くような弱音から激情の嵐へのクレッシェンドで一気に高みに持っていかれると、もういけない。こんなヴァイオリンをいったい誰が弾いただろう。最高音でピッチがほんのわずかだけはずれるが、我関せず肉厚の美音で歌を朗々と歌い、まるで霊に口寄せする巫女のように世界に “入って” しまっている 感じだ。普段はそれで白けてしまう僕だが、なぜだか気にもならない。

ショパンを想起させる激情のMov2も音楽はいったん止まりかけ、Mov3のコーダに近づくや聞こえるか聞こえないかの命懸けのppになる。極限までテンポも落ちる。息をひそめた二人の入魂ぶりは凄まじい。だからMov4の主題が聞こえると、まるでシューマンのライン交響曲の終楽章の出だしみたいにほっとする。あまりに深かった幻想の闇から救い出されたように、慰撫するようにこの主題をpで弾いてくれる。やがて激するとテンポが上がり、最高音に渾身のヴィヴラートがかかり、コーダに向けてぐんぐん加速して曲を閉じる。僕はここのアッチェレランドには否定的で、おそらく初めてきいてそれが気に入らなかったと思う。しかし、これが年の功なのか、二人の20代の女性のパッションに打ちのめされてなのか、ここでは少しも嫌でない。

グリュミオーの禁欲性や翳りがなく、こんなに歌っていいのかと思うほど情熱とロマンにまかせてアクセルをふかしているように聞こえるかもしれないこの演奏を評価しない人も多いだろう。下に貼ったyoutubeのCDジャケットをご覧になれば、自由奔放ぶりにフォーカスして “じゃじゃ馬” と日本で評された路線でEMIも売り出そうとしていた風情が伺えよう(日本の保守的なクラシックファンに売れない写真だ)。しかし、演奏とは楽譜から奏者が汲みとった感情のプレゼンテーションであって、ことその一点に限っていうなら強い主張がないと何のためにそれをやっているのか自体が問われてしまうビジネスのそれとちっとも変わらない。正統派の解釈ではなくとも、奏者の人間性に打たれて納得する。ということはその音楽が秘めていて気がつかなかった大事なものを再発見させてもらったことになる。

この演奏、まるでライブのように彼女たちが一期一会で感じたものの発露であるように聞こえるし、それが魅力であることに異論もない。しかし、実は見事に計算された、いや、計算という言葉が無機的に響くなら、二人の奏者の琴線にふれるという所に達するまで入念に吟味し、試行し、よく考えぬかれたものだろう。そうでなければ達しない深い印象が、つまり偶然の産物なら2度目は得られないそれが何度聞いてもあるのは、この音楽の「歌」という本質に根ざすところまで熟考されているからに相違ない。じゃじゃ馬が気の向くままに好タイムを出したようにきこえるが、造りこまれた完成品である。同曲の前年に発表されたブラームスの第2ソナタをフィルアップしているのも偶然とは思えないように。

更に弁護しておこう。フランクはベルギー(ワロン)人でフランスに帰化しているからこの曲をフランス音楽と類型化するのは誤りだ。彼の父はドイツ系、母は生粋のドイツ人で母国語はドイツ語。没頭していたのはワーグナーのトリスタンなのだ(このソナタにも痕跡がある)。秘めているドイツロマン派源流の精神はフランクには根強いのだ。ナージャは思うにそれに共振するテンペラメントの持ち主で、このフランクは数多ある名演奏のうちでも最も「トリスタン寄り」のひとつであり、トリスタン好きの僕が共鳴してしかるべきものだった。ナージャと同い年のセシル・リカドはフィリピン出身だ。米国でラフマニノフをきいたが、ロマン的な音楽への資質は逸品(そうでなければルドルフ・ゼルキンの唯一の弟子にはなれなかったろう)。繊細、強靭を織り交ぜたタッチでナージャに心をぴたりと同期させ、しかもこの音楽に不可欠な格調と知性を加えている。それがあってこそヴァイオリンは自由にファンタジーを羽ばたかせ、静謐な部分では清楚とさえ感じる絶妙の音程に昇華を見せている。

このおふたり、この10年ほど名をきかない。お元気ならいいが。大御所ばかり呼びたがる日本だが、僕としてはこういう魅力ある天才肌のアーティストをぜひ生で聴きたい。

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今年の演奏会ベスト5

2022 DEC 28 23:23:43 pm by 東 賢太郎

コンサートというと2020年1月に行ったきりで3年もロスしましたが、今年は思い切って行きました。10月からのランキングにすぎませんが書いておきます。

 

1位 マケラ指揮パリ管(ドビッシー「海」)

2位 パスカル・ロジェのリサイタル(フォーレ、ラヴェル、ドビッシー)

3位 ティーレマン指揮ベルリン国立歌劇場管(ブラ1~4)

4位 インバル指揮都響(フランク交響曲ニ短調)

5位 インバル指揮都響(ブルックナー4番・第1稿)

(番外)マルティン・ヘルムヒェンのアンコール(シューマン「予言の鳥」)

 

パリ管ではたまたま隣席だった医師の先生と名演がきっかけで話しがはずみ、ロジェではイマジンの西村さんと久しぶりの音楽談話に花を咲かせました。そういうこともない3年だったのでとても楽しみました。

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ルロイ・アンダーソン 「舞踏会の美女」

2022 DEC 24 11:11:21 am by 東 賢太郎

まあこういう感じかな

今年もあっという間にこの季節になってしまいました。恒例のルロイ・アンダーソン名曲シリーズ、まだまだ良い曲がたくさんあるんです。舞踏会の美女 (Belle of the ball)、タイトルからして蠱惑的!大好きでいつでもききたい曲です。いきなり弦のざわめきに乗ってホルンが高らかに麗人の登場を告げます。天井の高い舞踊会場。眩いばかりに煌めくシャンデリア。香水の匂い。着飾った人々を見おろしながら、大階段をしゃなりしゃなり降りてくる令嬢。目をつぶってきくと風景がありありと浮かんで、いつきいても音楽の力ってすごいなあと思うんですね。ちなみにこのホルンがトランペットじゃだめなんです。王様か王子様(男性)の登場になっちまう。こういう楽器選択の妙をベルリオーズ、リムスキー・コルサコフが管弦楽法(orchestration)として技法化してます。高校時代に関心があって米国の作曲家ウォルター・ピストン著「管弦楽法」を熟読しました。

何の役にも立ちませんでしたが、欧米の金融界で「あんた、そのビジネスをどう組み立てるつもりなの?」を ” How do you like to orchestrate your business? ” なんて言ったりして、このニュアンスがバチっとわかった程度の御利益はありました。別に orchestrate を使わなくてもいいんですが、教養がちらっと見えてカッコ良かったり無言のマウントになったりするんです。まあだいたい教養のない奴がなりすましで使うんですが、そんなことでビジネスの趨勢が決まったりもするんですよ、面白いですね、だってそれ使うこと自体がオーケストレーションなんですからね。

さっそくyoutubeを。

素晴らしい曲です。子供のころ、どこかで耳にしていた気がします。

ところでこの団体、Police Symphony Orchstraって書いてありますがポリス(警察)のオーケストラではないか、アンダーソンの曲は軍楽隊もやってるし。するってえとヴァイオリンのお姉さんも婦警さんか?

婦警さん。そういえば、ここで一気に “あの記憶” が・・・。

その昔、ニューヨークのマンハッタンでのこと。安ホテルの部屋で留守中に金を盗まれました。動揺して駆けこんだ近くの警察署。出てきた婦警さんは彼氏と喧嘩でもしたのか恐ろしく機嫌が悪くつっけんどん。「あん?ドロボウ?そんでケガは?」「ありません、空き巣です」「いくら?」「500ドルです」「あっそ、じゃここに500って書いてサインしてね」(しばし沈黙)「あのう、それで、捜査のほうは?」「あん?」「つまり犯人つかまえるとか」「兄ちゃん、あんた、命あっただけよかったよ」でおわり。

凄い所だ。あまりのあっけなさに心なしか涼やかな気持ちになったもんです。

しかし、このオーケストラの面々、どうも警察官の感じじゃない。おかしいと思って調べたらチェコにHorní Policeという町があって、そこの市民管弦楽団だからPolice交響楽団なのでした。調べると、この町、686人しか住んでない。ひょっとして、シンフォ二ー・オーケストラを持っている世界最小の町(村?)ではないか(まあ近隣の人もいるんだろうが・・・)。ワグナー・チューバはいるわエレキ・ベースはいるわ、本当に音楽を楽しんでる。ミュージカルな人間である僕としてはすぐ仲良くなれそうな皆さんだ。場所を調べたらプラハの北、ドレスデンのすぐ近くでした、なるほど、そうでしたか、さすがです。

チェコというと、ダボス会議で同じテーブルだった故ハヴェル大統領(熱い人だった)が同席していた米国高官(誰だったか忘れたが)に「お前たちが東欧をめちゃくちゃにした」とマジに食ってかかってた印象が強烈で、このチェコ人音楽家たちが米国のアンダーソンを喜々として演奏してるのが妙に思えないでもないのです。でもドヴォルザークはニューヨークで新世界を書いたのだし、それを言いだしたら被爆国の日本人もこれを演奏できなくなります。何国人が作ろうと、名曲は名曲。音楽が国際語というのはこのことですね。奏者の皆さんの楽興は胸に響きます。

舞踏会の美女は1951年、ルロイ・アンダーソンの油の乗りきった中期の作品で、代表作のひとつといっていいでしょう。彼はスウェーデン移民の郵便局員の子で、ボストン近郊で育ちピアノと音楽理論を学びます。ハーバード大学に入り作曲をウォルター・ピストン、ジョージ・エネスクに学び修士号を取得しますが、欧州の9か国語がペラペラという驚異的な語学力も持ち合わせており、1942年に米軍の防諜部隊で翻訳者および通訳としてアイスランドに配属され、終戦の1945年にはペンタゴンのスカンジナビア軍事情報局の責任者として国防総省に再配置されています。つまり、あまり知られてませんが、米国陸軍のインテリジェンス部門のエリートでもあったわけです。

去年書きました「シンコペイテッド・クロック」はペンタゴンのポストにある時に書かれています。それを軍部に許されていたなんて日本軍ではあり得んことですね。そして朝鮮戦争(1950-53)にも補助役として従軍しますが、その最中に書かれたのが舞踏会の美女だったということになります。戦争で殺し合いをしながら、どこからこんな優雅な音楽が出てくるのだろう?どの国のどの時代の誰を調べても、作曲家の頭脳というのは常人には計りしれないものです。

9か国語が頭に入っている彼が、欧州のあらゆるクラシック音楽を記憶していたのは当然のことでしょう。それでいて影響を受けたのはヨハン・シュトラウスなど軽めの音楽だったというのはピンと来ないのですが、少なくともそういう資質がある人だったわけで、学生時代は教会オルガニストからハーバード大学バンドの指揮者でダンスの伴奏までやっていた。それが(特に編曲の管弦楽法のうまさが)ボストン・ポップスの指揮者アーサー・フィードラーの目に留まって世に出て、結果として数々のミリオンセラーを飛ばしたのだからリッチにもなった。本望だったでしょう。ブルックナーとワーグナーもそうですが、彼とフィードラーの出会いも運命的です。人間、人とのご縁がいかに大事かわかります。

ボストン響の夏のエンタメ路線の音楽監督だったフィードラーとしては、軽めのポップスで人気を稼ぐ新曲が欲しかったわけです。レコードも売りたい。アンダーソンはぴったりの金の卵だったのです。これは興行師ザロモンがハイドンにロンドン・セットを書かせ、同じくディアギレフがストラヴィンスキーに3大バレエを書かせたのと同じ流れであり、芸術に資本主義が関与した成功事例といえましょう。アートに金儲けなんて関係ない、不純である。そんなことないでしょという反証ですね。公人はともかく、民間人である音楽家は関係ないです。思いっきり潤ってもらって人類の財産になる作品を残していただきたいですね。

アンダーソンに手本があったかというと、こちらも商業的に大成功したヨハン・シュトラウスの名がよく挙がります。ヒットメーカーとして意識はしたでしょう。当時のニューメディアだった78回転のレコードの片面収録時間に合わせて3分の曲を書いてますから商業的意図があったことは間違いありません。舞踏会の美女についていえば、これはまったくの私見ですが、こういう曲がイメージサンプルになったかなと考えてます。フランスのポップ系作曲家、ワルトトイフェルのスケーターズ・ワルツ (1882)です。

これはこれでいい曲なんです。なんたって、クラシック界の帝王カラヤンが英国の名門、フィルハーモニア管弦楽団で録音してますからね。でも彼がアンダーソンをやるなんてのは想像すらできません。欧州の保守本流にとってヨハン・シュトラウスはど真ん中ですが、敵国アメリカの田舎者のワルツなんてのはお呼びじゃないんです。こういう所、音楽にも政治はどうしても入ってくるんですね。だからこそ僕はアンダーソンを弁護したくなる。音楽の質の高さをです。19世紀のワルツに比べて近代的で知的な点をです。

舞踏会の美女もワルツなんですが、自作自演のテンポは速い。これじゃ踊れませんね。

でも、このテンポでこそ主部でチェロが弾いてる対旋律(和音を面白くしてるアルトのパートですね)が目立つんです。これぞルロイ・アンダーソンというトレードマークみたいな声部で(「そりすべり」にも顕著)、この1小節1音のパートが横の線として聞こえて欲しかったんじゃないかと想像してます。遅いとどうしてもそのラインがもたれるんです。ご覧のように指定は Allegro animatoで1小節 = 88であり、自作自演盤がまさにそれです。

つまりこのワルツはダンスを目的としてない観賞用なんです。いちおうズンチャッチャで三拍子を刻むが、もうそこから和声は2度、長7度を駆使して凝りまくったゴージャスな響きです。基本は旋律に縦の和声がつくだけの古典的な作りですが、そこにチェロの横のラインが対位法っぽく(ぜんぜん単純ですが非和声音を巧みに配合!)絡んで和声に含みや翳りを与える。これがニクい味を出すんです。譜面で右手の親指で弾く付点二分音符がそれですが、2小節ごとスラーがついていてこれをうまくレガートで繋げないとそれっぽくならずけっこう難しいです。この動きをバスが引き取って半音階進行するとチャイコフスキーっぽくなります。その辺を意識してオーケストラを聴いてみてください。

これぞ真打中の真打、アーサー・フィードラー指揮ボストン・ポップスの演奏です。テンポは作曲者と同じ2分36秒。まさに完璧です。

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ブルックナー 交響曲第4番変ホ長調

2022 DEC 20 1:01:42 am by 東 賢太郎

ブルックナーがウィーンに出てきたのはオーストリア=ハンガリー帝国が成立した次の年(1868年)、つまり明治元年である。43才になる彼が最初に住んだのはウィーン中心部からドナウ川沿いに北に隣接する9区(アルザーグルント)だ。ここはウィーン大学がある文教地区で心理学者フロイトが住み、音楽に関してもシューベルトが生まれ、ベートーベンが亡くなり、シェーンベルクが住み、現在はフォルクス・オーパーがある。

Anton Bruckner(1824-96)

ブルックナーが住んでいたヴェーリンガー・シュトラッセ(Währinger Straße)41番地に立ち寄ってみたのは2005年のことだ。モーツァルト・イヤー(生誕250年)の直前の12月だった。次のそれとなると2041年(没後250年)だから僕は86才だ、生きてるかどうかもわからないじゃないか・・。ならば “思い立ったが吉日” だ、休みが取れる年末にふらっと行こうとなったのだから主眼はモーツァルトにあった。1991年の没後200年の騒動で彼に興味を持ったことがまずあった。亡くなったのは12月5日だから真冬にそこに立ってみたい。そしてドブリンガー(楽譜店)でレクイエムの自筆譜ファクシミリを買おう。決めたのはそれだけだ。ともあれ行き当たりばったりにウィーンを呼吸して気晴らしをしようというものだった。当時50才。こういう無鉄砲な所は若い頃と寸分変わってないが、今はもうそんな発想すら出ないから当時の気持ちを推し量るのも少々苦労する。

そういえばブルックナー氏も “思い立ったが吉日” の思いでひとりバイロイトへ旅立った。時は1873年、交響曲第2, 第3番の自筆スコアを携えてワーグナー宅に飛び込み外交をしかけたのだから偉い。このぐらいの営業精神をもちなさいと若者に諭したいものだが、氏はなんとこのとき50才手前だったのだ。応対に出たワーグナー夫人のコジマは、風采の上がらない彼を乞食と勘違いした。音楽祭の準備で多忙だったワーグナーも話をそこそこに追い返してしまう。ところが、置いていった楽譜を見てただちに思い直し、探し回ってとうとうバイロイト祝祭劇場工事現場に佇んでいた彼を見つけ出すのである。こうして、ブルックナーの伝記に必ず言及のある「ワーグナーへの交響曲第3番の献呈」が出世の糸口となる。なんと大器晩成の男だったのだろう。ウィーン大学で音楽理論の講義も始めることとなり、ヴェーリンガー・シュトラッセの家で彼が遅咲きの希望に燃えていたことは想像に難くない。

そこで撮ったこの写真、左手の建物の3階にそれはあった。交響曲第2, 第3番の初稿を書いたのもここであり、ワーグナーに認められた翌年の1874年1月2日に彼はここで交響曲第4番変ホ長調『ロマンティック』の初稿を書き始めたのだ。

この通りにはもうひとつ必見の音楽史跡がある。モーツァルトが3大交響曲を書いた家である(26番地)。次の写真の左手がそれのあった場所である。当時の建物ではないが構わない。ここで “それ” があったというのが大事なのだ。この道のこの辺にモーツァルトが立ち、馬車に乗ってブルグ劇場に出かけただろう。それをその場で感じる。そういうインプットが次の連想を生む。ウィーンには4, 5回は仕事でなく行ったが、そこかしこでベートーベンやブラームスを見かけている。それで彼らの音楽をきく。やっぱりね、そうだよねなんていう感覚がやってきて、理解できなかった曲ができるようになる。そんなことが何度あったか。

モーツァルト夫妻は1788年6月17日にトゥフラウベンからここに引っ越してきた。部屋は庭園に面していたようだが、1年前までの住居(フィガロハウス)と比べなんたる落ち武者ぶりだろう(ここに来たあたりからプフベルクに借金を申し込む手紙が始まる)。しかも入居してすぐの6月29日に長女が亡くなる不幸にまで見舞われている。しかし、そうした私生活は彼の作品には何ら投影されないのだ。6月26日に交響曲第39番が、そして7月25日に40番、8月10日に41番「ジュピター」がここで産声を上げた。看板の間に見える入口の上にかかっているプレートにそう書かれている。

コシ・ファン・トゥッテと大書されているが、一般にこのオペラは1789-90年に作曲されたとされ(初演は1790-01-26、ブルグ劇場)、夫妻は89年1月初めにこの家からユーデン・プラッツに引っ越しているから大半はそちらで書いたと考えるのが普通だ。ロンドンのプレートは信頼度が高くウィーンのはそうでもない印象があるが(Cdurに「フーガ付き」などと書いている所が何となくシロウトくさい。明らかに間違っているのを僕は見つけてもいる)、これが正しければコシは3大交響曲と同時期に構想されていたことになる(ご参考:クラシック徒然草-モーツァルトの3大交響曲はなぜ書かれたか?-)。

さらに現地を歩いてみて発見したことがある。二人の家はこんなに近い。右の赤丸がブルックナー(41番地)、左がモーツァルト(26番地)だ。ブルックナーがここを選んだのは教職に就くウィーン大学が近いからだろうが、それを知らなかったとは考えにくい。後述するが、モーツァルトはカソリックである。プロテスタントのベートーベン、ブラームスとは違った敬愛の情を同じカソリックのブルックナーが持っていたとして何ら不思議ではない。

さて、ブルックナーの交響曲第4番である。1874年の第1稿はこの赤丸で書かれた。一方で、おなじみの1878/80年稿(に基づくハース版またはノヴァーク版第2稿)はというと、1877年11月に引っ越したヘスガッセ(Heßgasse)2番のアパートの4階で改訂したものだ(第2稿)。そのロケーションは両赤丸の間を走るヴェーリンガー・シュトラッセを左上(南)に中心街に向かって進み、ウィーン大学の前あたりだ。ブルックナーは終生この通りを離れなかったことになる。

4番の第1稿は最初の家、第2稿は最後の家での作品ということになるわけだが、第1稿を初めてきいた時は驚いた。第3楽章は完全に別な曲ではないか。第4楽章も異なるバージョンが3つも作られた。改訂魔の彼とてこんなことは2度としていないから4番はよほど特異なシチュエーションに当たった曲だったのだ。では、いったい彼に何がおきたのだろうという疑問が湧き起こるのは自然なことで、以来、一般にはブルックナー入門曲とされる4番は僕にとって最も難解な謎の曲となった。

前述のとおり、こういう時、何はさておきそれが起きた場所に身を置いて佇んでみるのが我がポリシーである。刑事の「現場百回」みたいなものだが、単なる空想ではいけない、現場で感じたものから演繹的に思考することに経験的に価値を見出しているのだ。日本を出る前にヘスガッセ7番の同じ建物に「ホテル ド フランス」が入っていることを知り、勇躍そこに宿をとることに決めたのはそのためだ(安宿であり経済的にも助かった)。次の写真がその前景で、左下にホテルの小さなエントランスが見える。ブルックナーはこの建物の右側の最上階に住んで交響曲第6, 7, 8, 9番を書き、問題の4番の改定も行ったのである。


幸いホテルの最上階の部屋に泊まれた。下の写真は、その窓から上の写真を撮った大通り(Ring)を見ている。ブルックナーが毎日眺めていたのはこんな景色だったと思われる(ここは6階なので、対面の建物の最上階が彼の目線だが)。

当時エレベーターはなく、最晩年の1895年になると階段の昇降が苦しくなった。それをききつけた皇帝フランツ・ヨーゼフ1世からベルヴェデーレ宮殿の敷地内にある宮殿職員用の住居を賜与されたが、引っ越しから約1年3か月後の96年10月11日に9番を完成することなく亡くなっている。すなわち、そこに至るまでの後半生の大きな仕事はすべてヘスガッセで成し遂げたのである。

ヴェーリンガー・シュトラッセの8年が彼の交響曲創作における興隆期の第1波であり、ヘス・ガッセの18年が第2波であったとするなら、両波の狭間において全交響曲のうちで最大といえる改編を受けたのが第4番であったということになる。その尋常でない大きさを説明するには、彼の中に爆発的な「変わり目」をもたらす(おそらく外的な)何物かがあったと考えるべきだろう。彼は何に出あったのだろう?

第1, 2波の間に1年間だけ住んだ家がある。住所はオペルンリング1-5で建物は爆撃で破壊され現存しない(国立歌劇場の左隣りあたりだ)。ちょうどその頃、1876年8月13日に音楽界では歴史に残る大きなイベントがあった。第1回バイロイト音楽祭の開催である。ここで『ニーベルングの指環』の初演がハンス・リヒター指揮によって行われ、ルートヴィヒ2世、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世、ブラジル皇帝ペドロ2世が列席し、ブルックナー、リスト、チャイコフスキーらの音楽家も招待された。

ブルックナーはケンブリッジ大学の博士号がもらえるという詐欺にひっかかったように肩書や名誉にこだわる性格であり、純朴な人でもあったようだ。だから自作のお披露目に国王と皇帝が列席するというこのイベントは事件だったろう。その目線から旧作を眺め直す。一度は納得して上梓した作品は改訂を施さなくてはワーグナーに追いつけないという気持に駆られたのではないだろうか。彼は63年に『タンホイザー』、65年に『トリスタン』をきいてはいたが、この時が初演であった『ジークフリート』と『神々の黄昏』をふくめ4つの楽劇をまとめて体験するインパクトは甚大だったろう。

ではその「リングの衝撃」はブルックナーにどんな変化をもたらしただろう?ここでもう一度モーツァルトに立ちかえってみたい。作風の違う二人だが、ひとつだけ共通点がある。即興の達人であることだ。ブルックナーはパリではサンサーンス、フランクらオルガンの大家にフーガ即興演奏を披露して称賛され、1871年8月、ロンドン万博で開催されたオルガン国際競演会にオーストリア代表として招かれ、ロイヤル・アルバート・ホールとクリスタル・パレスで計10回の演奏を行った。これによってブルックナーのオルガン奏者としての名声は全ヨーロッパに伝わっていた。

教会オルガニストであるブルックナーにとって即興演奏は必須の職分でありお手の物だったが、そのクオリティがサンサーンスらに認められるレベルだったことが重要だ。パリで三位一体教会のオルガニストだったメシアンの即興演奏がyoutubeにあるが、譜面に落とした曲と言われてもわからない。モーツァルトもブルックナーも、同様のことが易々とできたのである。主題が時々刻々と変容して深い森に分け入り、時に静止し、その時々に特有の気分を喚起しながら先が読めない展開を見せるというブルックナーの作品の特徴はそこに由来している。それでいながらベートーベンを崇拝する彼は交響曲に伝統的な形式論理を導入し、和声法も対位法も理詰めの厳格さを逸脱しないのだ。

その頑迷さは即興性と矛盾してきこえるものだから彼の交響曲の第一印象は僕には妙なものであった。そのことはカソリック信仰の聖なる響きと田舎のダンスであるレントラーを並べてしまう階級的矛盾をも包含しており、彼が求め、後にナチスが利用することになる「ドイツ的なるもの」ができあがってゆく。ワーグナーもそれを希求はしたがカソリック的とは言い切れず深い信仰心は感じられない。しかしブルックナーの場合、それは若年のころからの生活の一部であり、信仰心あってこその独自のブルックナー・ワールドを築いているということであり、それに浸りきれるかどうかで好悪が分かれる人でもある。即興が何種類生まれようが田舎のダンスが幅をきかせようが、各々において形式論理は完成しており、彼のワールドにおいては矛盾は存在しない。

だから、ひとつの楽想が何通りにも有機的に発展、展開して「版」がいくつもできるのは彼にとって不自然でもなんでもなかったのだ。モーツァルトも演奏会で必ず即興演奏をしたが、もしそれらを譜面に書き取っていたならば後世は複数の「版」として扱っただろう(例・ピアノ・ソナタ 第12番 ヘ長調 K.332の第2楽章)。それと同様にブルックナーの改訂というものは、新たに湧き出る即興を書き取った素材をベースにした本人または弟子、学者たちによる楽曲の再構成という性質のものだ。両人ともカソリック信仰を持った教会オルガニストであったという共通点は音楽のつくりからは想像もできないが、僕はその視点から、ブルックナーがモーツァルトの家のそばに居を構えたというのも偶然ではなかった気がしている。

そして、そこに降ってきた「リングの衝撃」である。形式論理型ではなく、ライトモチーフを自由に展開させてゆく変幻自在型のワーグナーの作曲法はブルックナーにとって親和性があり、即興演奏の和声、対位法に格段の深みを与えた。交響曲第4番の第3, 4楽章の第2稿は、まさにそれなのだ。そして、その流れの終結点として、7, 8, 9番という後期ロマン派の頂点に君臨する最高傑作に結実したのだと僕は考えている。ブルックナーを論じるのにカソリック信仰は核心となるが、私見ではモーツァルトにおいてもしかりだ。モーツァルトの信仰心は希薄と見るのが日本だが、政治的動機があるフリーメーソン入会とそれは別だ。彼はミサを18曲も書いており、コロレド大司教のためのお仕事ではあったが手抜きはない。むしろ私見では彼の最高傑作ジャンルはオペラと並んで宗教曲である。カソリック協会のオルガニストたち、サンサーンス、フランク、メシアンらはポストに要求される即興演奏に長け、モーツァルト、ブルックナーはまぎれもなくその一員であったのだ。

そのことはあまり正面から論じられないが、ブラームスがブルックナーと対立したことにはワーグナーへの関わりや音楽の趣味以前にもっと深い理由がある。モーツァルトの葬儀はウィーン市のメジャーな教会であるシュテファン大聖堂、同様にブルックナーも聖カール教会で執り行われた(それが豪奢であったか否かはともかく)。ところがベートーベンの葬儀は膨大な数の参列者にもかかわらず三位一体教会(アルザー教会)という質素な教会で行われ、聖カール教会の前に住みそこに銅像まで建っているブラームスの葬儀の場はというと、観光案内に載ってもおらずよく探さないとわからない新興のエヴァンゲリスト教会である。このことと大衆にどれだけ愛されたかとは別問題であることは、人気では並ぶ者のなかったヨハン・シュトラウス二世の葬儀もブラームスと同じ教会で行われたことでわかる。音楽史は「大衆に愛された目線」重視のスタンスで書かれ、実相に触れたものは少ない。だから我々のイメージしているヨハン・シュトラウスやブラームスはそれとズレがあることは知らなくて仕方がないだろう。モーツァルトとブルックナーは信仰においては同じ精神世界の住人であったという実相はもっと知られてよいだろうが。

 

よく聴いているCDをいくつか挙げる。

ミヒャエル・ギーレン / SWR交響楽団バーデンバーデン‐フライブルグ

第1稿の魅力はヴェーリンガー・シュトラッセの家で遅咲きの希望に燃えたブルックナーの創意がストレートに伝わることだ。「リングの衝撃」前の2番、3番の脈絡から踊り出た原型の楽想が第2稿より露わな対位法的構造で見えるこの演奏が僕は大好きだ。先日に東京芸術劇場できいたインバル / 都響の演奏はその点を音楽的に完成度の高い独自の解釈にまで高めていてエポックメーキングだったが、ギーレン盤(ノヴァーク版)は一切のロマン派的な虚飾を削ぎ落してリズムの要素を浮き立たせるのが小気味よい。音程が良いので和声の推移がクリスタルのように明晰で美しく、終楽章の入りの楽想が現代的にきこえるなど、僕の趣味からは大変好ましい。

 

エリアフ・インバル / 東京都交響楽団

EXTONのスーパー・オーディオCD。第2稿(1878/80、ノヴァーク版)のライブ録音(2015/3/18、東京文化会館)である。この稿はギーレンの第1稿のアプローチは合わず、両者は異なる音楽である。インバルの指揮は第1稿の実演でもそうだったが pp の歌から ff の全奏まで管弦楽のバランスが実に素晴らしく、簡単なようでそれで満足する演奏は滅多にない。これでこそ第3楽章のスケルツォとトリオの対比が生きるのである。終楽章のコーダへの推移はすでに7, 8番のそれを予見しており「リングの衝撃」を悟らせるが、インバルのここへの持ち込みの設計は見事だ。このCDは録音の良さも相まって都響のベストフォームが刻まれ、やや録音の作り込みもあるのかもしれないが、これをブラインドで日本のオケと思う人はあまりいないだろう。第2稿で一番好きなものを挙げろと言われれば、僕はこれだ。

 

カール・ベーム / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

我が世代が最初になじんだ4番というとこれが多かったのではないか。第1稿などというものはレコード屋になく、もちろん第2稿(これはノヴァーク版)である。初めて買ったのはワルター/コロンビアSOのLPだったが、どこがロマンティックなんだと全くピンと来なかった。CD時代になってこれをきいてやっとわかった気になったが、クナッパーツブッシュの5番(ウィーン・フィル)のLPが千円の廉価版で出てそっちの方が面白かった。この度なつかしくきき返したが、1973年の録音当時のブルックナーというとアンサンブルもアバウトでありどこか鈍重だ。この重さをさすがVPO!と崇めていたわけだ、田舎もんだったよなあなどと自嘲の気分になる。しかしだ、ブルックナーは自作をVPOに演奏してもらいたくて不評な部分を改訂もしたからこの音を念頭においていたはずであり、聞き進むとその腰の重さがウィンナホルンの粘性のある音と相俟って4番のエッセンスかもという気がしてきて、終楽章コーダに至ってそれが確信になる。こうしてベームさんに説得されてしまうのだ。やっぱりこれは外せない名録音ということになるんだろう。

https://youtu.be/2bDHzugiOvA

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ベルリン国立歌劇場管弦楽団のブラームス

2022 DEC 13 1:01:56 am by 東 賢太郎

人の思いがぎゅっと詰まった物や場所には強い「気」があります。それが昔のことであっても・・。いままでそういう所に出向いて疲れてしまうことが何度かありました。例えばここに書きました7年前の安土城址がそれです(安土城跡の強力な気にあたる)。

僕にとっては音楽にもそれと同様に「気」の強い作品があります。モーツァルトのレクイエム、ベルクのヴォツェック、ムソルグスキーのボリス・ゴドノフ、J.S.バッハのフーガの技法、ワーグナーのトリスタンとイゾルデ、ドビッシーのペレアスとメリザンドと書けば凡そのイメージは掴んでいただけるでしょうか。シンフォニーではベートーベンの3,8番、ベルリオーズの幻想、ブルックナーの9番、シューマンの2番、シベリウスの6番、ストラヴィンスキーの詩篇あたりがそれです。満を持して扉を開く喜びも大いにあるのですが、生半可な気持ちで聴くと負けてしまいます。

年末にマラソンと称してベートーベン1~9番を全曲演奏という試みがありますが、なんと恐ろしい。考えただけでも拷問というか、とてもメンタルに耐えられません。3,8番だけ一日で聴くのでも回避したく、一体、この9曲はそういう音楽だったのだろうかと大層な企画力に感服するばかりです。それはベートーベンだけのことではありません、彼をアイドルとしていたブラームスが、重量級の「気」を満々と封じ込めた交響曲も同様です。2番の聴き比べをブログにしましたが、3番は途中で頓挫してます。次々きくうちに重たいものにあたってしまって危険に感じたからです。そういう音楽をブラームスは4つも書いたということなのです。チューリヒ時代にアーノンクールが全曲チクルスを二日に分けてやった折も、1,2番の日しか行く勇気はありませんでした。なにせ自宅でもレコードやCDを4曲通して聴いたことは一度もないのだから仕方ないことでした。

だから、このたびベルリン国立歌劇場管(SKB)がチクルスをするという話を耳にして、抗し難い魅力と勇気との葛藤がありました。当初のバレンボイムの名前、そしてウンター・デン・リンデンのオーケストラ・ピットからの音しか聞いたことのないSKBのブラームスはどういうことになるのだろうという好奇心がなければきっとパスだったでしょう。まあ一日で4つやりましょうだったら絶対に行きませんが、4夜かかるワーグナーのリングよりましだろうということで買うことに決めたのです。想像していたことですが、これはやはりピットのオーケストラであるウィーン国立歌劇場管弦楽団(ウィーン・フィル)がストラヴィンスキーをやるのとは一味も二味も違うものでした。ドイツ人がプライドをかけてやるお国物イベント。パリ管のドビッシーにも感じた良い意味でのナショナリズム。アートの世界にはそれを残して欲しい僕にとって、代役として同国のティーレマンがこの国宝級オーケストラを振ってくれることは有難いことでもあり、行って良かったという結末となりました。

第一夜の2,1番(演奏順)は1階の最後尾の方で、娘曰く「のだめ効果」(1番は若い人に人気がある、いいことです)。翌日、第二夜の3,4番は中央前から7列目と気分が変わったのも良かったかもしれません。ブラームスの管弦楽法は弦五部、木管、金管のどれもが一方的な主役でなく、中音域の内声が厚めで時に主役となり、各楽器が各所で好適な混合色でブレンドしながら曲想の微妙な変転に添ってグラデーションのように淡い移ろいを見せるのが特徴です。それでいて1番終楽章の朗々と響くホルンソロの旋律を受け取って吹くのがフルートソロだというあっと驚く効果をもりこむなど、20余年も考えぬいて建造した構築物ですから、まずオーケストラがべた塗りの一色では味が出ないしカラフル過ぎてもいけません。その管弦楽法の旨みとフレージングの味、強弱のメリハリ、ffとppの質、楽節の間(ま)、リズムの切れ味等々を程良いテンポとバランスできかせて初めて満足な演奏になるという難物です。特にテンポは細かい指示が書いてないので、どうとるかで指揮者の個性が如実に出ます。

だからでしょうか、各曲を百種類近くもっており多くの著名指揮者、オーケストラの実演もたくさんきいてますが、満足したのはほんの少数です。一例を挙げると、レヴァイン / シカゴ響の1,2番を気に入ってブログを書きましたが、理由はテンポの選択です。オケの技量は無敵のレベルですがそれではありません。だから3,4番はそれがあるのに物足りない。つまり、1,2番と3,4番の間には、僕の主観では断層が存在するのです。ただそれはオケの技量、テンポという要素で見た場合であって、要素は知れば知るほどたくさんあることに気づき、複雑にカットしたダイヤモンドのように多面的な輝きが出ることを更に知っていく。すると、これはあるけどそれがないという迷宮に立ち入って無限の楽しみが湧いてくる。これぞブラームスの魅力だと思っています。

もちろんあくまで僕の主観であって、どなたにもご自身のそれが開かれているわけです。それを求めていくのがクラシック音楽に浸る無上の喜びでもありますし、それを鏡にした自分探しであるとも考えています。それを50年した結果、僕が現況でたどり着いたものをざっと書きますと、フルトヴェングラーは1,4番は最高ですが2,3番はきかない。以下同様に、棚から取り出すものとして、トスカニーニは1,3番、ベーム、ラインスドルフ、ザンデルリンクは2,4番、ジュリーニ、クーベリックは3,4番、カラヤン、ミュンシュ、クレンペラーは1番、カイルベルト、ショルティ、ハイティンク、ドホナーニは2番、ライナー、ケンペ、スクロヴァチェフスキーは3番、ワルター、ヴァント、バーンスタイン、ヘルビッヒは4番、ざっとこんな具合で4曲とも最高という人はいません。挙げないものは聴きたくないのではありません、僕にはもう貪欲に渉猟する時間はなく、満足が約束されているおいしい料理をということにすぎません(カルロス・クライバー、クナッパーツブッシュの4番は別格)。

やけにうるさいことを書きましたがそれが心の真実であり、いっぽうで、僕はコンサートであれ録音であれ第九交響曲に不満足だったことは一度もないのです。それは楽曲のクオリティのせいということではなく、ブラームスは一筋縄ではいかないというご理解をいただければ結構です。年齢や座席や体調によっても好悪が変わりますから、これからも予期せずに変わるかもしれません。ちなみに僕は4番のMov1、4のコーダのテンポは、若い頃は加速のあるフルトヴェングラー派だったのが50才を超えたあたりからインテンポ派になりました。ごく自然にです。2番のMov4コーダもそうで、興味深いことにバレンボイムは51才でのシカゴ響との録音はフルトヴェングラーばりに加速しますが、晩年のSKBとのDG盤ではインテンポに変容しています。テンポはほんの一例です。各曲が抜きんでて個性的、多面的であり、どれも「古典的装い」が疑似的に施されているためオーケストラに求める音彩は似ているようにイメージされてしまうのですが、実は個々に異なっているというのが僕の懐いている感じです。交響曲4つでもそこまで分け入る価値のある ”深淵” であり、そこに協奏曲、室内楽、声楽曲、ピアノ曲もあるのですから宝の山です。

ティーレマンの指揮に触れましょう。2,4番はアッチェレランドがフルトヴェングラー流でした。彼の芸風は古き良きドイツを基礎に置く温故知新です。我が世代の聴衆にとって貴重でしょう。ティーレマンならではの個性は強弱(特に極限のpp)と楽節ごとのテンポの独自の緩急の彫琢に見事に結実しています(時にパウゼまである)。主旋律のフレージングも意外な部分でふっと弱音にするなど考えぬかれているのに自然にきこえるところが並みの指揮者ではないです。以前にやはりサントリーホールで聴いたウィーン・フィルとのモーツァルトにも感じたのですが、彼は独墺人が好ましいと感じる伝統的音楽文化を継承、体現する第一人者であり、ベームが去りカラヤンが去り、サヴァリッシュ、H・シュタイン、ザンデルリンクが去り、今やドイツ人ではないブロムシュテット、ドホナーニ、バレンボイムがどうかというところですから、SKDが心服して63才の自国のシェフの棒に献身したのも納得です。

そしてそのSKDはというと、ヴィオラ、チェロの倍音に富んだ中声部の充実(Vn配置は両翼型、右にVa、左にVc、Cb)、高雅でありながら燻んだ木質の管楽器、ppを可能にした木管(特にクラリネット)、木管群とホルンの合奏の滋味深い音の溶け合い、トロンボーン3人の和声の純正調での完璧なピッチ(!)など、ちょっと見ではわからない特筆ものの技術と個性が米国の楽団のようにこれ見よがしでなく「隠し味」で調合されているという具合です。全体として見るに東独のオケに顕著だったオルガンの如き音響体であって、トランペット、ティンパニが浮き出ず(4番mov3のトライアングルすら飛び出ない)、今どきはドレスデン・シュターツカペレ、バンベルグ響、チェコ・フィルぐらいではと思われる奥ゆかしい音でブラームスを楽しめる貴重な音楽体験でありました。

個人的には順番は3,1,4,2番。オケの特質から3番が良いのはお分かりいただけるでしょう。Mov2のあでやかな木管、Mov3の絹の如きVa、Vc、そしてそれらが極上のブレンドで激情の頂点から寂しげな諦めの沈静と肯定に至るグラデーションを見事に彩るアンサンブル。これはかつて聴いたうち、フランクフルトでミヒャエル・ギーレンが振った南西ドイツ放送響の3番に匹敵する名演で、こんな演奏がサントリーで聴けるとは想像だにしませんでした。次いで初日の1番、冒頭のティンパニと腹に響く低音が轟くや否や「ドイツ保守本流のブラームス」が怒涛のように押し寄せ、この感興はロンドンで聴いたカラヤン / ベルリン・フィルを思い起こさせるものです。2番でやや不満があった弦(Vn)のそれが消え、素晴らしい木管、金管の暖色系で柔らかい極上の美音、pで入ったMov4第1主題の弦のいぶし銀の合奏、展開部のドラマが f f から減速していって低弦とコントラファゴットだけに至るあの部分のツボにはまったうまさ、そして金管のコラールからコーダになだれ込む言わずもがなの興奮。帰宅しても胸に熱いものが残っている1番というのはそうあるものではありません。二夜の掉尾を飾った4番も、同曲への僕の情熱を何年ぶりかに呼び覚まさす熱演で、今も毎日ピアノでさらわずにいられないことになっています。

というわけで、人生初の4曲きき通しはブラームスの強烈な「気」に圧倒されつつも演奏がそのエネルギーをプラスにしてくれ、こうしてふり返ってみるとおいしい京料理を頂いたような至福だけが残っているのです。間近に見ていると個々の楽員の発する自信に満ちた気迫ある演奏もこれまた大変なパワーであって、かれこれ30年も前になる一緒に仕事をしたドイツ人社員達の集中力の高さを思い出したりもした二日間でした。まさしく、これぞお国の誇りというものでしょう。スタンディングオベーションで拍手が鳴りやまず、ドイツ音楽、ブラームスを愛する聴衆の方々と心を一つにして交歓する喜びもひとしおでありました。

(終演後の撮影は場内アナウンスで許可されていたので撮りました)

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ダニエル・バレンボイムの復活を祈る

2022 DEC 9 13:13:22 pm by 東 賢太郎

バレンボイムがベルリン国立歌劇場管弦楽団(Staatskapelle Berlin、以下SKB)を率いて来日し、サントリーホールでブラームスチクルスをやると聞いてこれは聴かねばと思った。バレンボイムというと、僕の場合、まずモーツァルトのP協全集で知った。20代でイギリス室内管を弾き振りしたこれは才能の嵐。あまり知られていないが22才のウィーン国立歌劇場管とのベートーベンP協3番もしかり。その3年後に、79才のクレンペラーが自身最後になるだろう全集録音のピアニストに選んだその萌芽がすでにある。

初めて実演をきいたのはリストのロ短調ソナタ(フィラデルフィア、1983)で、覚えているのは煌びやかな技巧よりも静寂な部分だ。当時41才。音楽の深い造りこみにこの人は指揮者だなと思った。その指揮者としてのブラームスは1994年5月にフランクフルトでシカゴ響と2、4番をやったが特に感心はしなかった。しかしワーグナーにおいて彼はその頃から指揮者として成熟しつつあったのだ。それをまざまざと知ったのはエルサレム、ポラツキを配したベルリン国立歌劇場におけるワルキューレ(1994年3月)である。その頃ドイツにいたので日本での彼の指揮者としての評価がどうだったかは知らないが、本物のワーグナーの音を僕が覚えたのはその前年8月のバイロイト音楽祭でのタンホイザーではなくこれだったことは書いておきたい。

そして、多くの日本のファンも体験されただろう、2007年のフランツ、マイヤー、パぺを配してのトリスタン(SKB、10月17日、NHKホール)の感銘は忘れ得ず、同年12月、そのために行ったわけではなく単に仕事に疲れたので息子を連れて遊山したミラノで同曲のスカラ座こけら落とし公演のチケットが入手できた(メルケルが臨席したもの)。真面目に生きてればこういうこともあるのかという、これは我が人生の最大の僥倖のひとつと言っていい。トリスタンというと長らくベーム、クライバーだったがこれ以来僕はバレンボイムになっている。

ただワーグナーとブラームスは違う。僕はバレンボイムの3種あるブルックナー(CSO、BPO、SKB)は愛好するがこれは筋からして自然なことだ。でもブラームスは依然?のままであり興味がある。しかも僕はオペラ以外でSKBを聴いていない。このオケはオトマール・スイトナーが振ったベートーベン、シューマン、シューベルト、ドヴォルザークのレコードが聞き物であり(モーツァルトだけはドレスデンSKに分があるが)、もう2度とないかもしれないこの機会を逃す手はないとなった。

ところがだ。バレンボイムが「演奏活動を休止」と発表され、来日できないと知りショックを受けた。まだ80才で老け込む年でないと思っていたが、神経に関わる深刻な病とのことで心配だ。彼のツイッターの結び文句、I am not only content but deeply fulfilled. が気になる・・。きっと復帰してくれると信じているがもうオペラはきけないのだろうか。2007年NHKホールでのもうひとつのプロだったドン・ジョバンニがこれまた涙が出るほど素晴らしく、モーツァルトをもっと聴きたいと思っていたのが叶わないのか。喪失感はあまりに大きい。

本稿は代役ティーレマンとSKDについて書くつもりだったがそれは次回にしたい。この公演はとても満足できたし、ブラームスを二日で4つ聴くという至福の体験も人生に残る格別の重みがあり、翌日になってもまだ心に熱いものがある。ちなみにそのティーレマンも肩痛でドレスデンSK定期公演とその後の欧州ツアーをキャンセルした上での来日だったらしい。

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