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カテゴリー: クラシック音楽

シベリウスの7番はイエスタディである

2018 NOV 18 0:00:09 am by 東 賢太郎

シベリウスの神々しい7番は最も好きな交響曲の一つで、ロンドンで買ったこのスコアを持って新幹線によく乗った。全曲を記憶しているが、目視で正確にたどるのはとても難しいと思う。というのは、完全な和声音楽なのに精妙かつ意外感のある転調と非和声音がそこかしこに散りばめられていて、絶対音感のない素人耳は難所でどうしても迷子になってしまう。ところが悔しいことにそこがこの曲の魅力なのであって、正解にたどり着くまでくそっと繰り返す羽目になる。そうこう苦労しているうちに名古屋ぐらいにはあっという間についてしまうという寸法だ。

あのトロンボーン・ソロを導く感動的なヴィオラのメロディー、2度目にそれが出てくる2番の終楽章に似た部分から宇宙のこだまのような終結に至る部分は心で何度演奏しても飽きるということがない。いや、気に食わないへたくそな演奏なんかより自分のハートの中で鳴らした方が絶対にいい。

そうやってあのソロのところに来るとホルンでもいいなといつも思うのだが(ブラームスならそうしただろうか)やっぱりトロンボーンなんだとなる。草稿にはこのメロディーに “Aino” と書いてある。奥さんの名だ。彼は山荘の名もそうしたしシューマンと同じことをしている。確かにそれに値する素晴らしいメロディーで、誰も一度聴いたら忘れないだろう。僕は最初これがビートルズの「イエスタディ」だなと思った。

どこがというと最初の「レ」だ。これは楽理で倚音(いおん)というやつで、ポール・マッカートニーが歌う出だし、「イエス」がレで「タデー」が和声音のドに戻るが、このレもそうなのだ。どちらもいきなり倚音で始まるというのが強烈なインパクトで耳に残る。

ちなみに酒豪のシベリウスは7番を書いたころは毎日ウィスキーびたりで「音符を書く手を安定させるためだ」と主張していたらしい。ということは飲まないとペンがぶるぶる震えたわけでむしろアル中なわけだが、それでドがレに行っちまったんだろうか(笑)。ちなみにイエスタディのFの次のEm7は酔っぱらって弾き間違えたら「けっこういいじゃん」になったと知人に聞いた。

7番のこの倚音は、最後の最後でまた響き、またまた強烈なインパクトを与えてくれる。ピアノ譜でこうだ。

この最後のページは何度聴いても心奪われる。レ(倚音)⇒ドと「解決」したと思ったら今度は行き過ぎてシ(また倚音)になり、最後にとうとう運命の最終到達点のドに落ち着くわけである。この安堵感、すべての苦悩を超えて広大な宇宙の「在るべき所」に収まった収束感覚は絶対無比のものだ。こうしてシベリウスは交響曲の旅を終えたのであり、そこから33年も生きたがついに第8番は現れなかった。

 

オッコ・カム指揮ラハティ響のシベリウス5-7番を聴く

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N響B定期・ノセダのラフマニノフが最高

2018 NOV 15 1:01:26 am by 東 賢太郎

指揮:ジャナンドレア・ノセダ
チェロ:ナレク・アフナジャリャン

【曲目】 レスピーギ/リュートのための古風な舞曲とアリア 第1組曲
ハイドン/チェロ協奏曲 第1番 ハ長調 Hob.VIIb/1
ラフマニノフ/交響的舞曲 作品45

レスピーギは軽めのアプローチで弦がきれいだ。ハイドンを弾いたアルメニア生まれのアフナジャリャンは楽しめた。聴きながらハイドンの1番をロンドンでロストロポーヴィチで聴いたのを思い出した(あまりに軽々と巧みすぎてヴァイオリンのように聞こえた)が、バイオを見るとロストロの弟子だった。アンコールは奏者の声(歌)と交差する曲で面白かった。

前半も良かったが休憩後のラフマニノフが圧巻だった。この曲はオーマンディ/フィラデルフィア管に献呈され初演しており、僕は83年に当地(アカデミー・オブ・ミュージック)でアシュケナージの指揮で聴いた。もともと2台のピアノ用に書かれ作曲者とホロヴィッツで試演しており、そのバージョンもアルゲリッチとラビノヴィッチで聴いた。しかしノセダとN響はそのどれより良かった。

これだけN響から厚みあるリッチでフルボディの音を聞いたことがなく、ラフマニノフのオーケストレーションが格段に優れているとも思えず、どういうマジックだったのか、ソリッドに鳴る各パートの艶もカラーも見事だった。これはワールドクラスの演奏だと特筆大書したい。同曲はあまり関心をそそることもなく、はっきりいうと駄作の判を押してきたが、魅力の一端を初めて知った。イタリア人のノセダは初めて聴いたが、この演奏は大変にmemorableである。

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シベリウス 交響曲第7番ハ長調作品105

2018 NOV 12 22:22:11 pm by 東 賢太郎

悲愴交響曲を、僕がいろんな人の演奏にどういう気持ちを抱いたかをブログに記録しておこうと思って、週末にたくさん聴きました。しかしこれはなかなか辛い作業だった。あの曲には世を去ろうと決めた人の情念が籠っているからです。それが強い作用を及ぼしてくる。それにすっかり当てられてしまって「もう行きたい所なんかないし、欲しいものも何もない」と思わず家内に口走ったわけです。それは本音なんですが。

ソナーを立ちあげる前にかなりの不眠症になりました。かつてないことだしそもそも生来の閉所恐怖症だから危ないと思ったんでしょう、家内に心療内科に連れていかれた。女医さんが丁寧に対応して下さったのですが、何だったか仕事の質問をされてカチンと来てしまい診察中に席を立って出てきてしまいました。別の医師にかかり、彼はきっと年季でうまくやったんでしょう、なんとかという向精神薬をもらって帰った。それを飲むと病気かとさらに不眠になって絶ったら眠れるようになりました。

あの時そんな状態から救い出してくれたのはエロイカでした。しかしどうも今はそのムードでもない。いろいろ試してぴったり来たのは音楽ではなくて「星座表」なるアプリでした。これを息子に教わって時々眺めてる。面白いですよ、スマホを向けた方向の天空にある星座が実にリアルに出てくるのです。そこで夜に真下(地面)に向ける。当然ですがそこ(地球の反対側)には太陽がある(左)。この瞬間、不思議なことに、足元の地球が消失して宇宙空間をひとりでふわふわ浮遊する感覚に包まれるのです。嘘だと思ったらご自分でお試しください(無料アプリ)。

このふわふわ感は気持ちがいい。太陽の先にはしし座のレグルス、ふたご座のカストール、ポルックス、小犬座のプロキオンが見えて広大な宇宙の「立体図形感」に覆われるのですね。この「見えないけどある感」が五感を刺激してくる。自分の体内にある宇宙と共振してくる感じです。ふと思ったのですが、とても突拍子もない空想なのですが、この「包まれている」「共振している」という感じはお袋の胎内にいたときの感覚なんじゃないか?五感が覚えていてそれが甦ってるんじゃないか?などと妄想が膨らむのです。去年見送ったお袋もこの空間のどこかにいて、やがてまた会えるんだろう、そんな気になってきます。

この感覚にぴったりの音楽がないだろうか?ないものねだりかと思ったが、あるのです、ひとつだけ。ジャン・シベリウスの交響曲第7番。

僕は以前からシベリウスの音楽の奥底にフィンランドの自然だけではなくcosmic なもの、広大無辺、普遍、超自然なものを感じてきました。宇宙(space)とはその名のとおり空間です。とてつもなくでっかい。人間が自然(nature)と思ってるものでなく、人知を超えた、文字にも感覚にもならない、京の京乗ぐらいの数字(見えるどころか誰も想像すらつかない)、それを彼は自然から感知した、空海が洞窟で太陽を見たかのように。それを民にわかる文字(音符)で表した経典、彼の交響曲はそんな性質のものかもしれないと感じるのです。

交響曲第7番でもっとも有名な箇所というとトロンボーンのソロが出てくる場面です。ここの神懸かったご来光のような至福!どんな宗教であれ、天空から神が降臨する場面に聞こえる音楽はこれだと思うのです。ふわふわ浮かんでる宇宙空間で、ふるさとの青い地球の荘厳な姿に出あってもこれが聞こえるでしょうか。

シベリウスは7番に自分の過去の交響曲のエコーを響かせ、とりわけ5番と6番の音を色濃く漂わせています。交響曲第6番で彼はお別れの音楽を書きました(シベリウス 交響曲第6番ニ短調作品104)。そして最後の7番で邂逅(かいこう)の音楽を書いた。邂逅とは人と思いがけず巡り合うことです。誰だろう、初めて会う人かな、でも近づいてみると、よく知っている人だった‥と。

ハ長調のこの音楽では、ハ音(ド)の重力がほかの音を引っ張っています。トロンボーンも二音(レ)から神々しく降臨してきて低いハ音に降り立つのです。そして2度目のソロがやってきて、音楽は二音、そして長い長いロ音(シ)がハ音を周回しつつ、ついに半音あがってハ音の重力に収束して、盤石の安定感、充足感をもって曲を閉じる。なんと神秘的な終結でしょう。

 

昨日ここまで書いておりましたが、本日午後に従兄の訃報があり以上とします。

 

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チャイコフスキー交響曲第6番「悲愴」の聴き比べ(1)

2018 NOV 10 23:23:10 pm by 東 賢太郎

仕事は忙しいが順調でことさら悲しいこともない。こういう時の悲愴は心にどう響くのかわからないが、なにせ劇薬のような音楽だから苦しくなってしまうと聴けない。今でしょということで。

モーリス・アブラヴェネル / ユタ交響楽団

ナチを逃れて米国に亡命したアブラヴェネルはメットと契約した最年少指揮者(33才で)でクルト・ワイルの弟子である。自分が常駐できるオーケストラをモルモン教のユタ州ソルトレーク・シティに作って移住しそこで亡くなった。Voxのこの悲愴はVn、Vcの粘着性あるフレージングが特色で第1楽章第1主題1の遅さが象徴する。第2楽章中間部はティンパニが良いバランスできこえる。第三楽章マーチ主題は減速、コーダで激しく加速、僕はこの解釈はまったく支持しない。Vnは片側配置。全曲にわたってオンに録音された細部が克明に聞こえるのが非常に面白いのはプラスだがオケの技術のお里が知れてしまうのをどう評価するかはお好みだ。(総合点:2)

 

ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー / モスクワ放送交響楽団

1966年8月21日、ロイヤル・アルバートホール(プロムス)でのライブ。ここに書いた1972年の東京公演はこうだったのかと推測する演奏。人生初めて聴いたオーケストラの演奏会で何もわかるはずないが打ちのめされて帰宅したのがうっすらと記憶に・・・

僕が聴いた名演奏家たち(ゲンナジー・ロジェストヴェンスキー)

いま聴くと第1楽章展開部の爆発をはじめ金管とティンパニの「圧」が凄まじい。こういうのは技術、趣味の域でなく文化だ。第2楽章主部は最速の部類に属する。中間部で減速して曲想を対比しながら大きな起伏を作る。ここでこれほどティンパニ強打するのも珍しい(これが主部に戻るギアチェンジが難しいがうまい)。スケルツォのトゥッティへの盛り上げは強烈を超えて激烈だ。下手な芝居である減速は一切なしの直球勝負でコーダになだれ込み、興奮した聴衆から拍手が出る。それを掻き切って突入する終楽章の弦の静寂。こういうものは乗りに乗ったライヴでしか出ない質のものなのだ。終結前の壮絶な盛り上がりがどんどん力を失い、銅鑼、トロンボーンを経て、ついにブルーグレー色のG線でヴァイオリンが生への別れを告げる。これぞ悲愴だ。こんなに歓声のあがる音楽ではないのだけれど、プロムスを聞かれた方はお分かりになると思うが、聴衆にとって基本は愛国の場であるものの演目ご当地の演奏家には深い敬意がありオトナの英国人の良識の場でもある。この良識がザロモンをしてハイドンを呼び寄せ、ロンドンセットを書かしめた原動力なのである。この悲愴のアンサンブルがどうのこうの言っても始まらない、ロシアの演奏もそうだがこの聴衆の熱い受容も文化なのだ。東京の演奏がここまで激烈だったのか残念ながら記憶はないが、それで悲愴が病みつきになりクラシックが人生の一部となった。聴いた偶然が幸運だった(総合点:4.5)。

 

アンタール・ドラティ / ロンドン交響楽団

第1楽章、良いテンポのアレグロは弦のアンサンブルが上質。第2主題はたっぷり歌いこむ。提示部最後の最弱音はFgか。展開部の金管が入ると粗い。第2楽章は速く、中間部はインテンポのままでHrを強奏するが解せない。終楽章コーダとの近親関係を認めない解釈だが僕は反対だ。スケルツォは遅めで緊張感を欠く。マーチ全奏は減速、加速として2度目は加速、減速、加速だ。まったく理解不能である。終楽章コーダの意味も見当たらない(総合点:2)。

 

マリス・ヤンソンス / オスロ・フィルハーモニー管弦楽団

この時期のシャンドス録音に共通の傾向だが残響過多のホールで中央後方席の音響である。ロンドン時代の装置では良い音だと思っていたが実はそうではなかった。風呂場のラジオのようでうまくは聴こえるが低音のボディに欠け楽器の色もコクもアンサンブルの技量も情報量に劣る。mov2中間部はインテンポでどうということなし。mov3マーチはテンポをいじらず直進で納得だ。終楽章も粘りすぎず平均以上の出来だが大きな感銘は得られない(総合点:2)。

 

レナード・バーンスタイン / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団

1964年、若いころの録音。mov1アレグロの弦はアンサンブルが粗くこれがNYPかという水準だが第2主題は陶酔感いっぱいだ。バーンスタインは熱病にうかされたような音楽がうまい。展開部前半は快演だが後半へのギアチェンジは不要。mov2もVcがどうも上手でない。中間部はやや減速するが意味は感じず。mov3は微妙に遅めのテンポながらやはりスケルツォのアンサンブルが雑で微細な音程が甘い。マーチは1度目インテンポだが2度目でやや落とす。コーダでは一転凄い加速となりHrのミスをモノともせず突っ走る。終楽章第2主題、Hrのかぶせ方が巧みでHrあり頂点で熱狂しない。耽美的なのだ。コーダ。頂点から脱力して銅鑼に至るわずかの間の減衰感が見事で、トロンボーンの限界に至る最弱音でぐっと引き込まれ緊張が走る中、VnのG線が彼岸の世界をただようのだ。若気の演奏のようだがバーンスタインの才能を感じずにはいられない(総合点:4)。

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ブラームス交響曲第3番の聴き比べ(5)

2018 NOV 8 22:22:37 pm by 東 賢太郎

カール・ベーム / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

このDGの全集が出たのは大学の頃で1976年10月に買ってワクワクして聴いた。前年3月、ちょうど合格発表の前後にこのコンビが来日して1番をやり、TVにかじりついて観ていたのも懐かしい。後にCDでも入手して散々聴いたがやがて取り出すのは2,4番ばかりになった。3番はどうも感興がいまひとつだ。VPOの美音は聴けるが安全運転であり自発性が薄い。ヴィースバーデンで老いらくの恋に落ちていた男の情念はあまり感じず、美しいだけの3番は何を主張したいのか焦点が定まらない(総合点:3)。

 

ギュンター・ヴァント / 北ドイツ放送交響楽団 (1984、旧盤)

素晴らしい出だし。英語ならexpansive。なにかエネルギーが流れ出して広がり大きな希望を感知させる。それが微妙な和声の揺れでそこはかとない不安を織り交ぜてくる。この曲はこう始まらないといけない。第1楽章のテンポもこれだ。オケもベームのVPOとは大違いで楽興に乗り自発的(spontaneous)で筋肉質である。木管の質が高くOb.は特筆。第2楽章は誰より速いが全体のコンセプトの中では許容できてしまう。第3楽章はもう少し・・と感じるが耽溺しないのがこの頃のヴァントだ。終楽章のみがたっぷり目のテンポとなり内声の刻み、立体感ある金管のかぶせ方で堅固な骨格をかためる。大変立派な3番。(総合点:4.5)

 

フリッツ・ライナー / シカゴ交響楽団

エネルギッシュに開始するが第2主題で減速してロマンティックになる剛柔織り交ぜたアプローチ。剛毅な男の時に見せる翳りとやさしさがほろっとさせる高倉健モノの如きドラマがある。第2楽章、CSOの木管のとろけるようなうまさに感嘆。第3楽章は感傷を表には見せないニヒルさがいい。物足りない人はいるだろうが僕はブラームスにめろめろは似合わないと思っている。終楽章は鋼のようなリズムで剛毅が戻るが終結で深いロマンと安寧に包み込まれる。ライナーの強力な統率とCSOのアンサンブル力は人工的に聞こえるほどだがこれだけの水準の演奏は他で聴けない。まとまりのない演奏が多い難曲であり、あっさりし過ぎと感じる方が多いことも想像できるが、僕は3番のひとつの完成系と高く評価する(総合点:5)

 

エドゥアルド・ファン・ベイヌム / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

56年のモノラルだがあのホールの素晴らしいアコースティックは感じられる。それあってのブラームスがいかに映えるか。僕はそれが欲しくて今の部屋と装置をしつらえた。筋肉質なベイヌムのブラームスはどれも逸品である(問題はこれをどう再生するかだけ、できればLPが欲しいのだが)。これもライナーと同様女々しさがかけらもない純正の男節であり、終楽章の血管の浮き出るような金管の鳴らしっぷりは剛毅であり、それが何物かに鎮められて沈着な心持ちに落ちていく虚無的終結は僕の思う3番に誠にふさわしい。好きな演奏の一つだ(総合点:4.5)。

ブラームス交響曲第3番の聴き比べ(1)

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ラヴェル「ダフニスとクロエ」の聴き比べ(その2)

2018 OCT 29 9:09:34 am by 東 賢太郎

セルジュ・チェリビダッケ / ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

1987年6月のライブ。第1、第2組曲でもちろん合唱付きだ。デリカシーと精密さを生かしたチェリビダッケならではのマニアックな表現である。拝見した彼のカーチス音楽院でのリハーサルは魂のこもったピアニッシモにこだわりぬいていたがその指揮姿が目に浮かぶ。テンポは総じて遅めで、普通は聴こえない内声部まで浮き彫りになってくる部分もあって驚く。通向けの演奏である。

 

小澤征爾 / ボストン交響楽団

たしか就任直後の70年代に出た。ずいぶん録音マイクが近く現実の楽器が見えてしまう。好みの問題だが僕はぜんぜんポエムを感じない。せっかくの良いホールなのにもったいない。ヴァイオリンにかかるポルタメントは嫌いだ。夜明けなどここまで細部を見せなくてもいいだろうに、チェリビダッケは絵自体が細密画だがこっちは普通の油絵の拡大を見るようでそうする意味が全く感じられない。あくまで録音の問題なのだろうが。

 

ダニエル・バレンボイム / パリ管弦楽団

1982年の録音。オーケストラが特に高性能とはいえないがこれが当時のフランスのオケであって、アンサンブルがどことなくがさつに聞こえる部分もあるがなんとなくラヴェルになってしまっているのがむしろ懐かしい。やはり木管の魅力が大きいからだろう。DGがこのころ録音し始めたバレンボイムの指揮は日本では冷遇されていたが僕は当時から悪くないと思っていた。全員の踊りはあまり熱狂には至らないが。

 

ガリー・ベルティー二 / イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団(ライヴ)

Heliconレーベル。1974年のテル・アヴィヴでのライヴ録音である。第1組曲のみ。オケは好調で破綻もなし。2005年に亡くなったイスラエルの指揮者ベルティー二は97年にチューリヒ・トーンハレでブラームス4番を聴いてとても良かった記憶がある。このダフニスは音がとても生々しく通常のスタジオ録音と同列に語れないが、ここまで合唱が聞こえると逆に貴重であって珍しく、とても楽しんでしまった。

 

ウィルヘルム・メンゲルベルク / アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団

1938年の歴史的ライヴ録音。第2組曲。メンゲルベルクお得意のポルタメントが僕は苦手で、ベートーベンなどは気味が悪くて全部聞きとおす勇気が持てないまま来ている。ここでもそれが全開でロマン派音楽として描かれているが古典派ほどは気にならない。好きかといわれればNOだが、この時期にテンポは現代と違和感なく確立しており、ACOの技術とアンサンブルは問題なくハイレベルなのは驚くしかない。全員の踊りに入る直前に木管が早く入るミスがあるのがご愛敬だ。

 

ピエール・ブーレーズ / クリーブランド管弦楽団(CBS)

1970年4月3日録音。第2組曲。「夜明け」はギリシャではなく北フランスで徹頭徹尾クールだ。ブリテンの《ピーター・グライムズ》(4つの海の間奏曲)の夜明けに近い。黎明の凍ったように動かない灰色の空気が鳥の声のあたりで賑やかになるが、雰囲気を喚起しようという細工ではなくスコアを忠実に演奏するとそうなる。僕はシンセで膨大な時間をかけて全パートを弾いて第2組曲を作ったが、あれはどこまでスコアの情報量をMIDI録音でリアライズできるかという挑戦だった(36才だった)。ブーレーズは本物のオーケストラで同じことを企図したかのようでこれほど細密、精密な再現はこの録音の前にも後にもないという意味で成功している。本稿コメント欄でhachiro様が指摘された練習番号202の3小節前のクラリネットは指示通りの音高で吹かれているが、このパッセージは掛け合いを演じるピッコロ・クラリネット( Mi♭)と交互にppから徐々に音量を増してmfに至る途中に現れ、p(ピアノ)で吹く指示がある。クラリネットを吹ける方に伺いたいが赤枠内をpの音量で吹くことが可能かどうかだ。

というのは、本録音ではこれがmfに聞こえるのだ。故人に確かめようがないが、ブーレーズほどの完全主義者が許容したとはとても思えない(僕には耳障りである)。当録音のクラは練習番号158のヴィオラとのユニゾンが聞こえない程度に距離がありそれが赤枠の音量になるというのは、音高を採るなら音量は増えるという楽器の構造上のトレードオフではないか。だからそれがないピッコロ・クラリネット(pで吹ける)と掛け合いで書いたラヴェルのスコアリングミスと処理してpで吹くことが可能なオクターヴ下げなる手段が広まったのではないか。ブーレーズはここで音高を採ったが後の2つの録音はどちらも音量を採ったということならラヴェルのミスを証明していることになる。シンセの場合この1小節だけ音量操作ができる。懐かしく思い出した。

この録音は恐ろしくマニアックかつプロフェッショナルな演奏の記録であり、少し前の「春の祭典」をリアライズしたスピリットでやったダフニスだ。その方向性を助長する録音技師、プロデューサーがタッグになっており、完全無比を追求するあまりスコアのミスがミスとして記録されてしまった、そしてそれを修正しなかったとするなら底知れぬ凄みすら感じる。完成度は高く、これを聴くと、すぐ後のNYPOとの全曲録音はオケ及び庶民の趣味との妥協が見えないでもない。僕は若いころこの録音にあまり反応していなかったが、40年ぶりに聴きかえして目から(耳から)鱗の思いを味わった。こういうものがさっぱり受けなくなってしまった世の中と政治のポピュリズム化は底流でシンクロナイズしていないだろうか。

併録のラヴェル3曲は69年7月21日収録で、春の祭典(同7月28日収録)の前週ということで面白い。別稿にする。

 

ラヴェル「ダフニスとクロエ」の聴き比べ

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鈴木雅明/読響のメンデルスゾーンに感動

2018 OCT 28 10:10:46 am by 東 賢太郎

指揮=鈴木 雅明
ソプラノ=リディア・トイシャー
テノール=櫻田 亮
合唱=RIAS室内合唱団

J.M.クラウス:教会のためのシンフォニア ニ長調 VB146
モーツァルト:交響曲 第39番 変ホ長調 K.543
メンデルスゾーン:オラトリオ「キリスト」 作品97
メンデルスゾーン:詩篇第42番「鹿が谷の水を慕うように」 作品42

 

仕事の準備等で忙しくあまり眠れていない。だから読響は行くかどうか迷った(居眠りでは申し訳ないし)。結局行くには行ったが前半はだめ。意識が飛んでしまう。39番はモダンオケでピッチの恐怖はなかったもののアンティーク解釈は好きでない。ブリュッヘンのライブを聴いたが、読響もほぼ同サイズの編成でティンパニの位置まで同じだった。僕が39番の真価を初めて知ったのはフリッチャイ盤だ。あれがおふくろの味なんだから、ほんとうはこうなのよと言われてもどうしようもない。

睡魔に参ってしまい、15分の休憩でセイジョーイシイに駆けこんで高濃度カテキンのお茶を買って一気飲みした。カフェインぬきだったらなんのこっちゃと思ったがどうやら入ってたんだろう、目はパッチリしてきてひと安心。ぎりぎりで席に戻る。すると今度はトイレが心配になってくるという塩梅で、コンサートひとつにこんなに苦労するようになった。もうバイロイトなんてありえねえやと思いつつ指揮者の登場を待つ。

メンデルスゾーンの宗教曲というとエリヤが忘れ難い。フランクフルトの部下にドイツ人 H 氏がいて、博士だったのでDr.(ドクトル )Hと呼んでいたが、年上だった彼はクラシックが博学、博識だった。僕はほぼ無知に等しかった宗教音楽を彼に習った。エリヤを聞けといわれアルテ・オーパーに一緒に行ったのがきっかけだ。神々しい音楽だった。ドクトルぬきにキリスト教徒でない僕がバッハ、ヘンデルを含めて宗教音楽をいっぱしにわかるなんてどう考えても無理だった。

後半は楽しみだった。そして報われた。鈴木 雅明さんはバッハを何枚か持っていてみんな良かったが実演は初めてだ。なんとドイツ人が敬服してついて行っているぞ。僕にはわかる。そんな簡単な人たちじゃないのだ。ソプラノのリディア・トイシャーは美声だ(美人だしフィガロのスザンナを歌うビデオがyoutubeにあるが全曲聴きたくなる)。櫻田 亮のテノールも見事だ。眠気などすでにおさらばだった。そしてなによりRIAS室内合唱団!うまい、最高!

鈴木さんの指揮は人柄まで見て取れる気がする。音楽に奉仕する魂が音楽家の共感を呼んでいると感じた。聴く方だってそうだった。マリア・ジョアオ・ピリスのリサイタルを聴いて自分が何に感動して涙まで流しているのかわからない。音楽を聴いてそういうことは、長い記憶をたどってもあまりないと書いたが、鈴木さんのメンデルスゾーンに同じことを記すことになろうとは、行くかやめるかなどと迷っていたぐらいなのだから想像だにしなかった。

心の底から突き上げてくる感動。わけもなく涙が止まらなくなった。歌われた言葉ではない(なにせ読んでもいない)、音楽の力、歌の力としか考えられない。ドクトルHはメンデルスゾーンがナチスのせいでいまだに正当な評価を得られていない理由を説いた。ドイツでユダヤ人問題を正面から論じるのは現代でも重たいことなのだが、彼も僕も金融証券界という、あえてアーリア人的視界に立つならばユダヤ的業界の住人であった。だからだろう、彼とはミュンヘンのオクトーバーフェストでビアホールで乾杯しながらそんなことを話しても平気だった。

金貸しは非道、金利を徴収するのは肉を切り取ることという世で富裕な銀行家の息子だったメンデルスゾーンはキリスト教に改宗した。しかし彼が生きるためにアイデンティティまで売ったとは思えない。彼は深いバッハ信仰がありルター派になったが心のルーツはユダヤ教徒であり、旧約・新約両方の聖書に出てくる聖人エリヤを描いたのは深いわけがある。ドクトルHは熱かった。ナチスは同盟軍と教わっていた僕は、アンネ・フランクがフランクフルトから逃げて隠遁したアムステルダムの家を見て深く同情はしたが、彼のメンデルスゾーン講話でいよいよ憎むようになった。

そのような知識も信仰もなくとも、メンデルスゾーンの音楽は訴求力があると思う。彼の音楽は、今流に中国語でいうなら全球的であって、大方の聖書も読んでいない日本人がバッハのマタイ受難曲をあるべき姿として理解するのは至難であったとしても、エリヤは自然に耳から共感できる。今回の曲目、未完に終わったが完成していればエリヤ、聖パウロと並んで三大オラトリオを形成したはずであるオラトリオ「キリスト」作品97もそうだった。そうだ、キリストはユダヤ人なのだ。信仰はないのに涙があふれ出てくる。ドイツの保守本流の音楽でしかこういうことは起きないことを僕は知っている。どうしてかは知らないけれど。

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ブロムシュテットの田園(N響定期B)

2018 OCT 24 23:23:10 pm by 東 賢太郎

ブロムシュテットはもはや数少ない20世紀の巨匠で、彼のシベリウス全集は辛口の部類としては聞ける。なぜ辛口かというとロマンティシズムに耽溺しないからだ。ドイツ人のアルブレヒトを思い出すが、もっと歌わず内に内に凝集する音楽性だ。例えば彼がDSKと録音したシューベルトの未完成はその凝集感が良い方に出て峻厳な曲作りができている成功作と思う。

今日の曲目、ベートーベン田園はどうも彼のその音楽性がプラスに出ないように思う。これは好きずきであって、そのように演奏された田園に僕はあまり感銘を受けないということに過ぎないが。ステンハンメルの交響曲第2番では彼の両親の母国スウェーデンの作曲家ということでの登場なんだろう。1911年になってこういう曲を書いていたという人であり、それが音楽史上何か意味があるのかさっぱりわからないが、たぶんもう2度と聞く機会はないだろうということで聞いた。ぜんぜん理解できない曲だった。

ファンの方には申し訳ないが、ブロムシュテットのライブで感動したことはなく、今回もその確認になってよりその確信を深めたというだけだった。大指揮者と呼ぶ方に反論を唱える根拠はなんら持ち合わせないが、要するに気が合わないということに尽きるんでしょう。

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イリアーヌ・イリアス- Made in Brasil

2018 OCT 24 0:00:48 am by 東 賢太郎

どんな職業につくか、どこの会社に入るか。自分で決めたようで実はそうでもなかったように思うのです。運命といいますか。入ってしまって想定外のこと続きでしまったと思ったし、まじめに辞めようと考えたことは書きました。よかったのかどうなのかということですが、ほかの人生はやってないのでわかりません。

あれが良かった悪かったと昔をふりかえっても終わったことにそう意味があるとも思えません。単に、絶対に確かなことは、そういう昔があったから今があることです。だから、今がよろしければ結果オーライでそこまでのことは全部正解じゃないの?というのが僕の人生観です。

「あの時にああして失敗でした」という人がいたので「じゃあいま不幸せなの?」ときくと「いえ」という。「なら成功だったんでしょ?」となるのですね、誰でも。だから、いま、毎日を楽しく過ごしてああ幸せだと思ってしまえば人生は無敵なのです。オセロみたいに全部ひっくり返って「成功」になります。

ブラジルに行ったのはたった1度、たしか1991年の2月、真夏のリオのカーニバルの少し前でした。36才です。リオ、サン・パウロ、ブラジリアでしたが、正直のところ、これは凄いところに来てしまったと思った。人生観が北極と南極ぐらいひっくり返ります。

なにせ空気も大気も違うわけで、ビーチは見わたすかぎり美女美女。なんだここは??竜宮城の浦島太郎でした。そこで思ったのです。ああいい会社に入ったなあ。なんのことない、俺はなんで辞めようなんて思ったんだ、馬鹿じゃないか?人生こんなもんなんですね、だから少々苦しくてもめげてはいけません。

そこからも、もっともっとつらいことがあって、いや、やっぱり辞めといた方が良かったじゃないかと思ったことがあるからさらに馬鹿なもんです。でも辞めなかった。49になって遂に辞めて、今度は遅すぎたと後悔しました。でも、結果的にはそれがドンピシャのタイミングだったから、もう笑うしかありません。つまり、自分の浅知恵で「熟慮」なんかしても、結局今はなかったのです。

そういう愚かな自分をほんとうに愚かだなと笑いとばすことは今の僕にとってけっこういいストレス解消なんですね。今だって迷うことはいくらもありますが、そんなの明日の天気といっしょ、考えて晴れてくれるわけじゃないしとなってきます。健康なのはあんまり迷わないからでしょう。思えば、僕はブラジルで北極と南極ぐらいひっくり返ってこういう人間になったのです。

ブラジルで大蔵省と中央銀行へ行ってひっくり返った。それは書きました。今回は連れていかれたリオのクラブみたいなところで初めて聴いた音楽についてです。セクシーな褐色の肌をしたカリオカのお姉さんがピアノとバンドをバックに歌っていたあれはいったい何だったんだろう?

ボサ・ノヴァが素敵なのはクラシックには出てこないハーモニーなのです。ジャズかというと近いようでもあり、まあ僕はジャズの定義をよくわかってないからさし控えますが、完全な和声音楽なのに不思議な浮遊感があってとてつもなくオシャレ。そして、ここが大事なんですが、ポルトガル語がぜんぜんわからない。これがまたいいんです、意識もぶっとんで浮遊してしまう。つまり、あの竜宮城に戻るのです。

最高のリラックセーションになるアルバムがこれです。イリアーヌ・イリアスの ”Made in Brasil” であります。この人、ブラジル出身のジャズ・ピアニスト、ヴォーカリストでニューヨークで活躍。なんといってもジュリアード音楽院卒で音楽能力は筋金入りであり、バックにTake 6とロンドン・フィルハーモニーのストリングスを従えて洗練の極致。和声の最高の高級感。ジョビン、自作などが入ったこのアルバムのレベルの高さは凄いものです。みなさま、ぜひ竜宮城に遊んでください。

 

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ブルッフ ヴァイオリン協奏曲第1番ト短調 Op.26

2018 OCT 20 2:02:49 am by 東 賢太郎


もうあれから四半世紀。この季節になると、フランクフルトの休日に家族で歩いて森のレストランへ昼食に出かけていって、低く弱くなってきた陽の光が庭先に広がる草原を金色に照らしていた光景を思い出します。そしてときどきこれが聴きたくなる。マックス・ブルッフのヴァイオリン協奏曲ト短調です。

くせになる曲です。本稿のために聴きかえしましたが、冒頭のヴァイオリン独奏が頭にこびりついてしまって離れません。ブルッフは根っからのメロデイストでピアノでは書けないと自ら語っていますが、それにしてもこの曲のヴァイオリンは強力に粘着質であります。好悪でいうなら僕はこのコンチェルトの大ファンであり、メンデルスゾーンに劣らぬほど愛好しています。これに影響されてブラームスがあのヴァイオリン協奏曲を書いたというのも全く正鵠を得た逸話であって、第1楽章のソロ・ヴァイオリンの重奏や終楽章の出だしなどそれそのもの。何度聴いても心奪われる、僕にとって人生になくてはならない音楽であります。

これほどインパクトのある作品を書きながら彼が音楽史では等閑視され、リスト、ワーグナー、Rシュトラウスをこきおろしたごりごりの保守派ゆえ時代遅れになった一発屋と見られてしまうようですが、マーラーより9年も長く生き、ストラヴィンスキーが春の祭典を書いてから7年も生きていたにもかかわらず写真すらあまり残っていないとなると不思議なことです。

コル・ニドライのようなユダヤの題材による作品で成功を収めたためにユダヤ人の血を引くのではないかとされ、没後の1935年にナチス政府によって作品の上演禁止の憂き目にあいました。メンデルスゾーンはその作品の質に比して音楽史のページ数を割かれていませんが、同じ理由が等閑視の背景にあったという考えを否定するのは困難ではないでしょうか。

彼がユダヤ人であったかどうかにエモーショナルな関心を向ける人種に僕は属しておりませんが、コル・ニドライを書いたのは事実ですし、協奏曲ト短調のメロディの人懐っこさがひょっとしてユダヤ調から来ているかもしれないという感覚は否定しづらいものがあります。その調べはヴァイオリンの特性とあまりに見事に合体しており、まずこの楽器をこのように重音で強奏する、

これはブラームスの協奏曲でこうなります。

こういう表現がそれまでにあったかどうかは知りませんが、19世紀のヴァイオリン作品は前半はパガニーニ、シュポーアの、後半はヨーゼフ・ヨアヒムの奏法を範としたといわれ、この譜例は後者だったのではないでしょうか。ヨアヒムはユダヤ人であり、ヴァイオリンのユダヤ奏法をクラシックに定着させた人物とされます。ブルッフ、ブラームス両者の協奏曲のソロ・パートを校訂したのはそのヨアヒムでした。

ブルッフの最初の音楽教師はユダヤ人のフェルディナント・ヒラーでした。ヒラーはメンデルスゾーンの幼なじみでフンメルの弟子でありベートーベンの死に立ち合っています。1843-44年にゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者をし、翌年にロベルト・シューマンにピアノ協奏曲をに献呈されたドイツ音楽界保守本流の実力者で、後にケルンの音楽監督に就任しますが、この時の筆頭格の弟子がブルッフでした。

このヒラーが頑強な保守派であり、その伝統を引き継がせようとケルンの後任者に推薦したのがブルッフとブラームスでした(思惑ははずれ、革新派のフランツ・ヴュルナーがポストに就いた)。その両者の協奏曲に深く関与したのがこれまたユダヤ人のヨアヒムだった。しかしメンデルスゾーンの協奏曲もユダヤ人のフェルディナント・ダーフィトが校訂しており、ユダヤ奏法は楽器を熟知した効果的なものだったこと、ブルッフは師の推薦を得ようとして協奏曲もユダヤ調にしたかもしれないこと(師の影響でコル・ニドライを書いている)から、ナチスの制裁は(そもそもそんなものは不当ですが)見当はずれの根拠によっていた可能性もあります。

つまりこの協奏曲はそれで歴史の狭間に落ちる様な軽い作品ではありません。それなのにLP時代はメンデルスゾーンの「B面」である上にチャイコフスキーより売れなかったのか頻度において下の扱いである。協奏曲としての骨格が弱い?それは仕方ない。ブルッフは作曲時に26,7才であって、三大、四大、五大とほめたたえられるヴァイオリン協奏曲を書いた人で作曲時に35才以下だった人は彼以外にひとりもいません。むしろ最年少で拮抗していることがポジティブに語られるべきです。

Vorspiel、Adagio、Finaleというスコアにかかれたタイトルに伺えますが、これは当初は幻想曲として構想されたのであって、形式の熟達はないものねだりでしょう。むしろ、滔々と流れるドイツロマン派ど真ん中の和声シークエンスに支えられた歌、歌、歌は天与の才で、主題そのものにドイツロマン派の精華ともいうべき魅力があってヴァイオリンという楽器の特性にピッタリである点においてこんな見事な作品は思い当たりません。

第1楽章はティンパニのトレモロにはじまります。ほぼ同時に書かれていたグリーグのピアノ協奏曲と同様に20代半ばの作曲家に発想されたのも面白いものです。独奏が冒頭で提示する主題はト短調の音階をなぞって上昇しf#が強調されます。

ところが、トゥッティになるとf♮になるのです。これを聴くと僕はドヴォルザーク「新世界」の終楽章第1主題を思い出します。このメロディーが土くさく人懐っこい印象を与えるのは短調音階のシを半音下げた効果であります。

展開部のおしまいのところ、ここが大好きで何度聴いても手に汗にぎるのですが、ヴァイオリンが興奮をそそる和声の変転を速いスケールをアップダウンしてなぞり、ぐんぐんと音楽のテンションを高めていき、オーケストラのヴァイオリンが受けとって加熱してsfzで爆発するここ(下の楽譜)に至る流れのことです。協奏曲であろうがなかろうが、あらゆる音楽のうちでも一番カッコいいもののひとつと断言いたします。

第2楽章(Adagio、変ホ長調)にアタッカではいる、ここぞ幻想曲としてのメインステージであって、同じ入り方のメンデルスゾーンの緩徐楽章に匹敵するひょっとして唯一の音楽ではないでしょうか。旋律美はふるいつきたくなるばかりで、移ろう和声の深みはドイツ音楽の深奥のロマンである。ヴァイオリンソロが歌い始める主題はそのままオペラにしてテナーが切々と愛をうったえるとろけるようなアリアになります。思わずテンポが弛緩して時が止まり法悦の境地に導かれる。こういう旋律はベートーベンやブラームスには書けないのです。

オーケストラの絶美の ppでひっそり変ホ短調に心が翳って、ちょっと予期をはぐらした変ハ長調になる。再び気分が持ち直して、そこでそっと入るソロにフルートが晩秋の陽の光のように寄り添う恍惚のシーンあたりで、昨日、ふと何かが頭をよぎってびっくりしました。あれはなんだ?いくら考えてもわからない。でもどこかで聞いたことがある。一晩眠って、あっと思ったのは、それはドヴォルザークのチェロ協奏曲のある部分だったのです。またドヴォルザーク・・・。

ドヴォルザークがこれにインスパイアされたがどうか証拠はありませんが、ブラームスの友人で楽譜出版業者のジムロックはブラームスに推された新人ドヴォルザークの出版も(不承不承だが)しています。ジムロックはヨーゼフ・ヨアヒムとも親交があり、妻がジムロックと不貞をはたらいたと疑ったヨアヒムは、妻を擁護したブラームスと不仲になって、その仲直りのしるしに書いたのがドッペルだったのは有名です。ブルッフのV協の出版もそのジムロック社でした。ドヴォルザークがジムロックつながりで同曲のスコアをよく知った可能性は高いと思って不自然ではないでしょう。

ドイツロマン派の脈絡のあらゆる音楽美がこのAdagioにぎっしり詰まっているように思えてくるというのは驚くべきことです。終結はシューマンの交響曲「春」の第1楽章コーダ直前がきこえます。変ト長調からコーダに向かうあたりの秘儀はまさにメンデルスゾーンの再来ですが、おそらくここから霊感を得たブラームスも彼なりの薬がきいた極上のやり方で、緩徐楽章を痺れるような和声の迷宮で閉じています。我々はそれを知っているから、ブルッフを聴くとデジャヴが響く。しかしそれは実は逆であって、ブルッフがデジャヴになった人々が書いた曲を、我々は名曲と記憶しているのです。五大Vn協の最後のひとりに迷う程度の存在ではないという僕の思いはそういうことから発しています。

ケルンで生まれたブルッフはこれを書いたころコブレンツの音楽監督に就任するのですが、弱冠27才での出世はどんなにうれしかったろう。全くの私事で恐縮ですが、38才で人生初めて社長の名刺を持ったフランクフルトでの歓喜をどうしても重ねてしまいます。モーゼル川がライン川に合流する交通の要衝でワインの名産地。マインツ、ヴィースバーデンの下流域ラインラント=プファルツ州は仕事でボン、デュッセルドルフにアウトバーンを行きすがら往来した地域です。

コブレンツ遠景

そういえばこの曲を生んだラインの土壌、気候風土に触発されてで晩年のシューマンは3番の交響曲を書きましたが、精神を病んでいたシューマンをあそこまで明るくした何物かがここにはあるのです。それが就任の喜びとともにブルッフにも宿っていて、音楽は熱狂的な終楽章のAllegro energicoに入ります。Adagioの耽溺のロマンの深さがあまりに深く、いきなりト長調には行けない。だから終楽章は変ホ長調のまま始まり、やがてト長調にたどり着きます。天衣無縫の完成品で、知らぬ間に精神が充足しているというまことに幸福な音楽であります。

この協奏曲は前述の通りジムロック社に二束三文で売られましたがブルッフは自筆スコアを手元に置いていました。第1次大戦の混乱期に貧困に陥った彼は、親しくしていたデュオピアニストのストロ姉妹にスコアを託し、米国でそれを売ってくれと依頼したのです。ところが姉妹はそれをせず、売ったと偽ってその代金と思しき額を暴落した紙っぺらのドイツマルクでブルッフの家族に送りました。姉妹は結局それをスタンダードオイルの創業家に売り(おそらく高値で)、現在はニューヨークのモルガン・ライブラリー所蔵になっています。姉妹はブルッフに二台のピアノの協奏曲まで書いてもらって不義理な話ですが、ブルッフ自身もジムロックの権利を無視して二重売却したわけで怒るに怒れない立場でした。

この素晴らしい音楽をまだご存じない方は幸せです。よくご存じの方は以下の録音も旧知でしょうが、僕の好きなものはこの3つです。

 

ジノ・フランチェスカッティ / ディミトリ・ミトロプーロス / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団

まったくの空想です。ヨアヒムはヴィヴラートは抑え、ポルタメントを多用したようですがこのフランチェスカッティが遠からずにきこえます。Adagioを歌い上げるレガートなどもう肉感的、セクシーだ。中低音のふくよかさ、高音の輝かしさ。ヒステリックになることは一切なく万事が歌に浸りきる、これぞこの曲の神髄であり、個人的にはポルタメントは嫌いなのですが彼のは何ら品格を損なわず神技の域です。こんなヴァイオリンはホールで一度も聞いたことがなくもう絶滅したのでしょうか。人を幸福にするヴァイオリンですね。ミトロプーロスのNYPOの弦がソロに同調して見事でテンションが高く、上掲の楽譜に至る部分(4分57秒より)のテンポも高揚感も快感です。

 

アンネ・ゾフィー・ムター / ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

80年ごろこのLPが発売になってカラヤンというので評判になりましたが、いくら彼が選んだとはいえ17才の女の子の独奏というので無視してました。初めて聴いて恥じ入るしかありません。フランチェスカッティに肉薄するのはこれです。かすれる様なピアニシモを駆使した、なんてデリケートで妖艶なソロだろう。何だこれはというほど心のひだに触れてくる歌い口のうまさはおよそ女子高生の技でなし。アダージョの遅いテンポによる豊穣の時は天国です。クリティカルな耳でいうと第1,2楽章で高音がごく微妙にフラットなところがあるが、天国に酔っているのでそれがどうでもよくなってしまうというところにこの演奏の磁力がうかがえるという妙なほめ方になってしまいます。カラヤンの指揮の立派さは、これか、これが帝王と呼ばせた恰幅かと唸らせる見事さで、BPOの能力全開。最高です。

 

サルヴァトーレ・アッカルド / クルト・マズア / ライプツィッヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団

マズアはのちにヴェンゲロフとも録音してますが、どちらを取るかは好みでしょう。アッカルドのソロはやや明るめの音色で闊達。Adagioの淡い陽光も見事なグラデーションで描き、歌は過度の耽溺はせず高雅な品格を保ちます。上記2種がくどいと感じる方はスタンダードに近いこれがおすすめです。永く聴きこんできたことと、渋みのあるオーケストラの素晴らしさでこれを挙げていますが、第1楽章展開部の上掲楽譜の部分のカッコよさで、これは最高級のものです。

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