Sonar Members Club No.1

カテゴリー: クラシック音楽

ユーミンのバックコーラスだったんです

2024 SEP 23 9:09:08 am by 東 賢太郎

ひょんなことで女性シンガーの方と話した。

「もうずっと前ですけど、いちおう80年代は ”夜のヒットパレード” の常連でした。○○○○ってバンドですけど・・」年恰好からきっと知ってると期待されたんだろうが「ああ、僕そのへん日本いなかったんです」「じゃ五輪真弓、中島みゆき、竹内まりあなんて・・」「うーん、たぶん知ってると思うけどあんまり」。要は興味ない。

こういうところ、少年時代から乗り物は電車、運動は野球、勉強は星、小説はミステリー、動物は猫ときまって今に至っている事実がある以上、何が身にふりかかろうとこの性格が修復される可能性はなかろう。男だから女性についてはそこまでストライクゾーンは狭くないが、部屋にポスターを貼ったことのある唯一の女性はアグネス・ラム(左)である。この人の笑顔はこうしてしげしげと眺めてみても、いまもって聖母マリア様にしか見えない。たぶん南方系だ。自分にそれがあるということなら起源は長崎のばあちゃんしかない。地中海、アドリア海、エーゲ海にビビッときて二度クルーズしたが、人類はアフリカから来たわけだしその頃の根強いDNAでもあるのだろうか。

一度だけ南国に住んだことがある。香港の2年半だ。異動は1997年の1月だった。雪深い極寒のチューリヒから家族を引き連れ降り立ったカイタック空港。一歩外に踏み出して直撃を食らった強烈な陽ざし、ぼわっと全身を包み込む熱くてねばっこい大気、スイスには絶対にない独特なアジアの匂い。500人もいる会社の社長になるのは気が重く、もともとそういうのに向いてないし研究室にでもこもって思いっきりオタクな仕事をするタチなのだ。ところがそんな緊張とストレスを吹っ飛ばすぐらいあの熱い土地は僕を一気に確実に元気にした。なにかはわからないが、いま思い起こしても図抜けた高揚感というか、コカインか何かを吸うとこうなるのだろうとしか喩えようのないワクワク感が自分を支配しているのに気づいてびっくりした。ヨーロッパは好きだし文化は性に合うしそれは些かも変わってないのだが、遺伝子の眠っていた部分に火がついて僕はいまこうなった。あれがなければそこまで25年もズブズブだった会社を相談もせず飛び出したり、起業してこの年までやろうなんてことはなかっただろう。

アメリカもヨーロッパも日本から見れば既にずいぶん北だ。あそこからもっと北に行こうなんて気はまったく起きなかったし、はっきりいうなら申しわけないが、飯はまずいわ、そもそも竜宮城が流氷のなかにあったら凍死しちまうし乙姫様もいなさそうだしってことで、要するに北方には危険を冒してでも略奪したい豊穣な富がある感じがしない。アレキサンダー大王の東方大遠征も英国人が東インド会社を作るに至ったのも、衝動の中に “これ” があったのではないか。だから東でなく南、それも旧知のアフリカではなく未到の東方における南、すなわちインド、極東を目ざしてやって来たのだ。浦島太郎は亀のおかげだが、竜宮城を求めて行くのは男の本能なのは精子と卵子を見ればわかる。そこを平等だジェンダーだと争うのは個人の自由で構わないが、宇宙の原理にかなった生き方をするのが自然で安心で幸せだというのは僕の幸福論の根底だ。

「最初はユーミンのバックコーラスだったんです」「へえ、僕はね、女性シンガーは彼女とカレン・カーペンター別格なんですよ」「そうですか、松任谷さんと来られて私のステージ聴いてくれたらしくて、電話でやってよって頼まれたんです」「あなたすごいね」「いろいろあって断ったんですけど、彼女のステージ見たら竜や本物の象まで出てきて、こりゃやるっきゃないって」「やってよかったんじゃないの、全国ツアーでしょ、じゃ一緒に食事したり」「ええ、でもツアーは今までの歌い方だと声潰すんでボイストレーナーつけたりダンスの練習まであって大変でした」「彼女はどんな人?」「普通ですよ、でもでっかい竜は中日ドラゴンズに寄贈してました(笑)。この前も原宿歩いてたらばったり会っちゃっておおって」「彼女、喉声で歌下手だって言われるけどね、実は音程いいんですね、ピアノやってるし当然ですね。曲が天才です、荒井由美だったころの」「音楽されるんですか」「しません」「なに聞かれますか」「クラシックだけです」

この方のご芳名は書きません、許可もらってないんで。

読響 第641回定期演奏会

2024 SEP 12 7:07:27 am by 東 賢太郎

9月5日にこういうものを聴いた。

指揮=マクシム・エメリャニチェフ
チェンバロ=マハン・エスファハニ

メンデルスゾーン:序曲「フィンガルの洞窟」作品26
スルンカ:チェンバロ協奏曲「スタンドスティル」(日本初演)
シューベルト:交響曲第8番 ハ長調 D944「グレイト」

二人の若い演奏家の嬉々とした音楽を楽しんだ。生年を見るとフルトヴェングラーやバックハウスのちょうど100才ほど下だ。1世紀たって演奏スタイルや聴衆の好みは変わるがメンデルスゾーンやシューベルトの音楽の本質は微動だにしていない。これから1世紀たってもしていないだろう。2、30年もすれば彼らは先人と同様の大家の列に加わっているだろうが、その若き日の一端をここに記しておくことは何がしかの意味があるかもしれない。

エスファハニが弾いた楽器は何だろうか実に心地よい音で、これならゴールドベルクで眠れるなと悟った。バッハは楽器指定がないから現代ピアノでも許されようが、この音を聴くとやっぱり別の流儀のものだ。スルンカはチェンバロの構造上の音価の制約に着目しているが、その楽器と音価をペダルでコントロールできる楽器では別物の音楽というべきだろう。同曲はチェンバロの機能の極限まで、弦をはじかないカタカタという極北の音響までをコンチェルトという古典的器に盛り込んだ意欲作だ。頭脳で作った即物感はあるものの、12音というデジタル情報で出来た音楽が甘い旋律となって人を酔わせるいかにもアナログ的な効果というものは、ゲノムにあるAGTC4種のデジタル記号から人間というどう見てもアナログ的な存在ができる現象に似ていると思っているのだからメンデルスゾーンのあのコンチェルトが彼の頭脳の産物であって違和感を持ついわれはない。エスファハニがアンコールで弾いた古典も見事でいつまでも聴いていたい嫋やかさだったが、スルンカで開陳した技術、技法の極北的理解は凄みすらあった。

エメリャニチェフはベルリンフィルに登場もして欧州楽壇の寵児らしい。オケは厳密に古楽器奏法かは知らないがアプローチはそれに近い。それでグレートを聴くのは初めてであった。12型でコントラバス4本だと聞きなれたピラミッド型のバランスより弦合奏に透明感が増し、2管編成ではあるが交響曲ではベートーベンが5番で初めて使用したトロンボーンを3本も使っており薄めの弦に対しとても目立つ。使用法も和声ばかりでなくバスラインをなぞったりする場面は極端にいうならトロンボーン協奏曲のようで、同様の印象をショパンの第2協奏曲で1本だけ投入されているバス・トロンボーンで懐いたことがある。両曲はほぼ作曲年代は同じである。

グレートが「グムンデン・ガスタイン交響曲」という説が有力になっているが、スイス時代に母と家族でそのグムンデンに一泊したことがある。ザルツ・カンマーグートの湖畔の愛らしい陶器の街であり、この曲にはその想い出とウィーン楽友協会アルヒーフでシューベルトが提出したそのスコアを眼前で見せてもらった想い出が交錯する。

グムンデン

エメリャニチェフの演奏がシューベルトの意図した音に近いなら新しい経験であったが、Mov1提示部の入りにかけてアッチェレランドがかかるなどロマン派由来と思われる解釈も混入し、博物館の指揮者というわけではない。溌溂とした生命感をえぐり出してみせ、同曲ではかつて覚えのない興奮、高潮で会場を沸かせたのは個性と評価する。この曲は死の兆しが見え隠れする内面世界が希薄で、それに満ちたゆえか放棄してしまった未完成交響曲とは対照的な陽性が支配する。形式的な対比としての短調主題はあるが病魔のおぞましさの陰はないのだからそれでよい。もちろん死の3年前の作曲だからなかったはずはなく、ベートーベンを意識し「大きなシンフォニーへの道を切拓かなくては」と芽生えた大義へのこだわりと気概がそれに蓋をして封じ込め、束の間の躁状態を生んだと思われる。彼はモーツァルト、ベートーベンの全国区的スター性はなくアマチュアと認識されていたから大規模管弦楽作品である大交響曲を権威の殿堂である楽友協会に提出し、受理されアルヒーフに保管されたいという願望があった。寿命が尽きることを悟っていた彼にとって謝礼は少額で演奏もされなかったことは大きな問題ではあるまい。ただ、僕が見た自筆スコアがそれなのだろうが、シューマンが発見しメンデルスゾーンに送って彼の指揮でゲヴァントハウスで初演がなされたそれは兄が管理する「シューベルト宅の机の上」にあったのだ。大規模への拡大の象徴が3本のトロンボーンであるが、この楽器は教会音楽においては死の象徴だ。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

僕が聴いた名演奏家たち(テオ・アダム)

2024 SEP 2 3:03:46 am by 東 賢太郎

オペラは劇でもある。だから配役の人物像はとりあえず役者(歌手)のイメージからできることになる。聴くだけの人としては万人がたぶん同じであり、どうやってその作品を知ったかという各人の自分史だから全部同じということはまずない。LPの時代はオペラのレコードは高価だったし、どれを買うかとなればいっぱしの投資であって、レコ芸の高崎保男さんの意見は大きかったから読者は似通った選択にはなったろう。個性が出るポイントはそこからで、じゃあ別な盤はどうだろうと浮気する好奇心にあかせてあれこれ録音を渉猟し、実演もきいたりして耳が肥え、フィガロや椿姫は誰々じゃないとだめだなんてことになってくる。

これはなにも難しいことでもお高くとまったことでもない、僕の親父が大石内蔵助は長谷川一夫、平清盛は仲代達矢だったし、僕は財前教授は田宮二郎であり、黒革の手帳の原口元子は米倉涼子、金田一耕助は古谷一行じゃないと感じ出ないよねなんて言って爺扱いされ、いまの子は紫式部はきっと吉高由里子なんだろうねってのとまったく同じである。僕は日本一仕事がきついと言われた会社にいて朝から晩まで狂ったように働いたが、幸いなことに7年間も海外の拠点長であったからレコードばかりでなく日本の金融機関の現法社長、要するに同じお立場にある経営者や現地のお客さんとの交流・情報交換、そして日本から来られるお顧客さんの接待などでいくらでもオペラハウスに行く機会を設けることができた。

その結果、僕のオペラレパートリーの人物像は今のものになった。例えばミレラ・フレーニがミミであり、ルチア・ポップが夜の女王で、エディット・マティスがツェルリーナ、ペーター・シュライヤーがフェルランド、ルチアーノ・パヴァロッティがネモリーノであり、ゲーナ・ディミトローヴァがジョコンダ、ヴァルトラウト・マイヤーがイゾルデ、アグネス・バルツァがカルメン、アンナ・トモワ=シントウが元帥夫人という風なものである。最後の5人はステージを観てのことだから贅沢なものだった。そして、決定打はスイトナー / DSKのレコードのザラストロである。どんな大歌手であれ、あの深々とどすが利いているが、それでも伸びやかで格調の高いテオ・アダムの低音と比べられる羽目になっている。

ドレスデン生まれのテオ・アダムの本拠はゼンパー・オーパーだ。ドレスデンというと、「ばらの騎士」が初演されたことよりも第二次大戦末期に英米軍の空襲で無差別爆撃で街の85%が破壊されたことが先に来てしまうのは不幸だ。市の調査結果は死者数25,000人とされるが、不思議なことに、連合軍側において死傷者であれば13万5千人に達するという説が根強く語られている。爆撃は1945年2月13日、14日であり、「東からドイツを攻めるソ連軍を空から手助けするため」という名目に対しては、殺戮を行った側である英国で「戦争の帰趨はほぼ決着しており戦略的に意味のない空襲だ」という批判があった。ひるがえって、ほぼ同時期3月10日の東京大空襲、半年も先である8月の原爆投下はいったい何だったのだろう。ポツダム宣言受諾への国内事情により、国家消滅、分割、永遠の占領・信託統治等の悪夢を無辜の国民の命の犠牲によって贖う結末に陥った経緯を日本人ならば頭に焼きつけておくべきであろう。

Theo Adam :1926.8.1-2019.1.10

ワーグナーが楽長をつとめ、リヒャルト・シュトラウスがそのオペラの大半を初演したこの劇場も瓦礫になるまで無残に破壊され、1985年2月の同じ日に再建された。その記念公演がハンス・フォンク指揮の「ばらの騎士」で、テオ・アダムはそこでオックス男爵を歌っている。ドレスデンのことを書こうとすると、まず僕にとって1994年は音楽人生の豊穣の年だったことから始めねばならない。フランクフルトのアルテ・オーパーでオーケストラ演奏会は定期会員になって毎週何かを聴いており、フランクフルト歌劇場はもちろん近郊の都市も車でアウトバーンを飛ばせばすぐなので、マインツ、ヴィースバーデン、ダルムシュタットで普段はあんまり食指が動かないイタリア物やロシア物のオペラを小まめに聴いた。大きなものだけをかいつまむと、ベルリンでブーレーズのダフニス、カルロス・クライバーのブラームス、ポリーニのベートーベン、シュベツィンゲンでジェルメッティのロッシーニ、ヴィースバーデンでオレグ・カエタニのリング全曲、ベルリン・ドイツ歌劇場でルチア・アリベルティのベッリーニ、ベルリン国立歌劇場でバレンボイムの「ワルキューレ」とペーター・シュナイダーのマイスタージンガー、8月はバイロイト音楽祭でルニクルズのタンホイザーを聴いて帰途にアイゼナッハのバッハ・ハウスに立ち寄り、翌月9月12日に憧れだったドレスデンに行き、この歌劇場で「さまよえるオランダ人」を聴いたのだった。社長を拝命して2年目で尋常でないほど忙しかったが幸い39歳で元気であり、ピアノの練習やシンセサイザーでの作曲も含め、この年に一気に吸収したことが僕の音楽人生の土台になっている。いずれにせよどこかのサラリーマンにはなったわけだが、野村でなければこんな恵まれたことはなかったろうし、とはいえ社内ではいろいろ不遇、不運なことが重なって、恐らくそれがなければドイツに赴任することはなかったとも思っている。陳腐ではあるが人生糾える縄の如しだ。

ゼンパー・オーパー

指揮者はハンス・E・ツィンマーでオランダ人役が写真のクレンペラー盤と同じテオ・アダムその人であるという信じ難い一夜となった。クレンペラーがフィルハーモニア管と残した唯一のワーグナー全曲スタジオ録音(写真のLPレコード)である同曲をゼンパー・オーパーでシュターツカペレ・ドレスデンで生で聴ける。夢のような話だったが、夢というのは叶わないから夢である。現実になってしまうとこういうものなのかと感じる経験はたくさんある。歌劇場の雰囲気はさすがのものだが、世界中のそれと比してどうというものでもない。肝心のアコースティックはいまいちであり指揮のせいかオケも僕の知るDSKではなかった。この楽団、フランクフルトでコリン・デービスのベートーベン1番だったか、あんまり乗ってない感じの時の音はだめだ。68才だから今の我が身とほぼ同じ高齢者のテオ・アダムを拝めたということに尽きるが、声は散々きいたあのバスであった。コヴェントガーデンでパヴァロッティを後ろの方の席で聴いて、あのレコードの声なんだけど頭のてっぺんからクリーミーな彼特有の高音がピアニシモで飛んできて耳元で囁いたような、およそ平時の現象として想像もつかないような、こういうのはロストロポーヴィチのチェロぐらいだなと感嘆した、そういうものではなかった。ステージで観たロストロやパヴァロッティはいわば超常的な天才であって何が出るかわからない。アダムはそういう人でなく、かっちりした芸風を守り、その中で常に通人を唸らせる最高のパフォーマンスを出せる人で、まさしく「宮廷歌手」の称号にふさわしい。僕はそうしたことができない自堕落な人間である故、ひときわ大きな敬意を懐く。このレコード(ドレスデン初演版)、いまの家で初めてかけてみたところ、装置とアコースティックのせいもあって当時のクレンペラーとして聴いたことがないほど音が良く、42才で全盛期のアダムの声はもちろんのこと圧倒的であり、微光の彼方に徐々に薄れつつある記憶の喜びを倍加してくれることを発見した。

テオ・アダムの声が焼きついてアイコン化しているレコードはオランダ人以外に幾つかある。ベームとヤノフスキの「ニーベルングの指輪」(ヴォータン)、同「フィデリオ」(ピツァロ)、カラヤンの「マイスタージンガー」(ハンス・ザックス)、スイトナーの「コシ・ファン・トゥッテ」(ドン・アルフォンゾ)、同 「ヘンゼルとグレーテル」(父)、ケーゲルの「パルシファル」(アンフォルタス)、カルロス・クライバーの「魔弾の射手」(カスパール)、ペーター・シュライヤーのモーツァルト「レクイエム」、サヴァリッシュのエリア、コンヴィチュニーの第九、マズアの第九、そしてマウエルスベルガーの「マタイ受難曲」(イエス)という綺羅星のようなレコード・CDに録音された彼の伸びやかで強靭なバス(バスバリトン)を聴き、僕は声楽というものの味わいを知った。

とりあえずつまみ食いで美味しいものをというならモーツァルトのアリア集だろう。彼の全盛期をスイトナー / ドレスデンSKのバックを得て良い音で記録したこのLPは宝物になっている。

堂々と厳格で格調高い。モーツァルトにしては遊び心に乏しいという声も聞こえようが、これぞ様式をはずさぬ千両役者、歌舞伎なら團十郎、菊五郎であろう。彼亡きあと世界に何人いるんだか、もう僕は知らない。

マズア / LGO黄金期の第九は懐かしい方も多いだろう。

2019年に92才で亡くなったのを存じ上げず5年も遅れてしまったが、ドイツオペラに導いてくれたことに感謝の気持ちしかない。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

何十年ぶりかの「新世界」との再会

2024 AUG 26 0:00:20 am by 東 賢太郎

気晴らしが必要で、ピアノ室にこもってあれこれ譜面をとりだした。すると、こんなのを買っていたのかという新世界交響曲の二手版があった。この曲、興味が失せて何十年にもなっていて、クラシック音楽は飽きがこないよと言いつつ実はくると諦めた何曲かのうちだった。

ところがだ。ざっと通してみると、これはこれでいい曲ではないかと思えてきた。完全に覚えたのは高1で、コロムビアから出ていたアンチェル盤(左)を買って夢中になった。さきほど聴きなおしたが、まったくもって素晴らしいの一言。数年前にサントリーホールで聴いたチェコ・フィルはこの味を失っていたが、こんなに木管やホルンが土臭くローカル色満点の音がしていたのだ。

とはいえ田舎風なわけではなく、アンサンブルは抜群の洗練ぶりでティンパニは雄弁。トゥッティは筋肉質であり、花を添える管楽器のピッチの良さたるや特筆ものだ。背景でそっと鳴っているだけなのに木管群の pp のハモリの美しさに耳が吸い寄せられ、金管はアメリカの楽団のようにばりばり突き出ずに ff でも全体に溶け込む。録音は年代なりの古さはあるが、見事なルドルフィヌムのホールトーンの中で残響が空間にふゎっと広がり、楽器音のタンギングの触感まで克明に拾っていて鑑賞には何ら支障なし。以上は共産時代の東欧のオーケストラ一般の特色でもあるが(ロシアは別種)、ドレスデン・シュターツカペッレ、ライプツィヒ・ゲヴァントハウス管と並んでチェコ・フィルハーモニーはAAAクラスであり、それでも各個の際立った味が濃厚にあって個人的には甲乙つけ難い。そのハイレベルな選択の中においてでも、アンチェル盤は「新世界はこういうものだ」と断言して反論はどこからも来ないだろう。

つまり優雅と機能美が高い次元で調和したのがこの新世界の魅力なのだが、僕はどういう風の吹き回しか一回目の東京五輪を小学生の時に見てびっくりした体操のチャスラフスカ、あの金メダルをとってチェコの花といわれた女性の演技を思い出している(これが録音されたのは1961年だからその3年前だ)。花であり鋼(はがね)でもある。女性が強そうだというのはソ連も東独もそうで共産国のイメージとなったが、共産主義をやめたら普通の女性になったように思う。オーケストラも1990年を境に以前の音が消えた。顕著だったのがソヴィエトで、レニングラード・フィルはムラヴィンスキーが亡くなって名前も ST.ペテルブルグ・フィルになって、以来あんな怜悧な音は一切きけなくなった。

Karel Ančerl
(1908 – 1973)

チェコ・フィルの常任指揮者はターリヒ、クーベリックから68年までアンチェルで、次いでノイマンが89年まで率いた。その伝統が93年にドイツ人のアルブレヒトになって途切れたのは大変に驚いた。彼は読響で聴いて良い指揮者と思ったが、それと伝統は違う。新世界で例をあげたらきりがないが、例えば、Mov2のいわゆる「家路」の「まどいせん」の処が和声を替えて3回出てくるが、僕は1度目が大好きであり、なつかしくてやさしい弦の包容力はアンチェルが最高だ。こういうものは表情づけとか思い入れの表現とかではなくシンプルに音のブレンド具合の問題で、誰がやっても音だけは鳴るのだが、京料理の板長が特に気合を入れてる風情でもないがちょっとした塩加減、昆布、鰹節の出汁の塩梅で旨味が俄然引き立つようなものであり、外国人シェフに即まかせられるようなものではなかろう。

ついでに書くが、マニアックな方には一つだけ指摘しておきたい。Mov4第1主題のティンパニは、スコアはE、H(ミとシ)だがコントラバスとチューバに引っ張られて後者がG(ソ)に聞こえ、耳がそう覚えてしまったことだ。Hを叩いていると思うが何度きいてもわからない。もしGでやったらそれはそれでいいんじゃないかと思わないでもなく、ままあるのだが一度疑問が生じてしまうと他の演奏を聴くたびにここが気になってしまう。まあこれは余計なことだ。

チェリビダッケに移る。新世界を振っていることは2017年に野村君がコメントをくれて知った(ドヴォルザーク「新世界」のテンポ)。録音嫌いで有名な指揮者で、メジャーレーベルに録音がないから彼の新世界はこのyoutubeのミュンヘン・フィルハーモニーの1991年のライブ演奏しか良い状態のものがない。全演奏を記録したサイトによると、ドヴォルザークはアンコールピースのスラブ舞曲等を除くとチェロ協奏曲と交響曲第7、9番(新世界)しか振っておらず、中でも9番は1945年から最晩年まで長期にわたってレパートリーになっている。8番がないのは不思議だが、彼は新世界にこだわっていたようだ。

7年前はそこまで認識してなかったが、このたび、まず、自分で弾いて思うところがあった。次いでフルトヴェングラーの著書「音楽を語る」を味読していろいろ知った影響があった。彼の言葉は重い。重すぎて初読の時はわかっていなかった。チェリビダッケのカーチス音楽院の講義もしかりで、10代の学生に語ったので言葉はやさしかったが20代だった僕はよくわかっておらず、フルトヴェングラーの大人向けの言葉で得心した。それは先日8月4日にこれを脱稿する契機になった(フルトヴェングラーとチェリビダッケ)。

ということで、アンチェル=「新世界はこういうもの」のアンチテーゼを見つけてしまった。ドヴォルザークはこの遅いテンポを意図しておらずAllegro con fuocoと記した。しかし、理性がいくら否定しても、作曲家も許容したかもしれないと思わされてしまうものをチェリビダッケの演奏は秘めている。このたび、心から楽しみ、2度きいた。アンチェルを覚えた人はヘッドホンで、良い音で、じっくり耳を傾けてみてほしい。フルトヴェングラーは同曲を振った記録はあるが録音せず、悲愴交響曲は録音はしたが悲劇の表現としてベートーベンに劣るとし、スラヴ音楽を高く評価しない言葉を残した。ドイツを不倶戴天の敵として殺し合いをしてきたロシア側のルサンチマンがちらりとのぞくが(プーチンがNATOの裏に見ているものもそれだ)、ルーマニア人のチェリビダッケにそれはなくむしろフルトヴェングラーが手を出さない空白地帯の両作品で強い自己主張ができた。

チェリビダッケの晩年のテンポは物議をかもしたが、これをきくと(あのブルックナーも)、ミュンヘン・フィルの本拠地ガスタイクの残響が関係あった可能性をどうしても指摘したくなる。Mov4曲頭。シ➡ド(二分休符)、シ➡ド(二分休符)。緊張をはらんだユニゾンの短2度の残響が空間を舞うのにご注目いただきたい。B(B-dur)の音列が上昇して、そのままトニックのホ短調になると予測させておいて、最後にぽんと、まったく不意を突いて想定外のE♭(Es-Dur)に停止する。誰もがあれっ?となるその一瞬の間。残響。ドヴォルザークは意図をもって次の小節の頭に四分休符を書き、「不意」のインパクトを聴衆にしかと刻印したかったと思う。ちなみに彼はMov1の第2主題、提示部ではフルートの1番に吹かせたのを再現部では2番に吹かせたり、ほんのひと節だけピッコロに持ち替えさせたり、細かい人である。

そして、チェリビダッケも細かい人である。ガスタイクの残響だと恐らく速いテンポの楽句は音がかぶる。テュッティの和声は濁る。それを回避し、かつ、ドヴォルザークの休符の意図を盛り込むとすればこのテンポになろう。そう考えれば理屈は通り、現に講義ではピアノに向い、2つの音の間隔を例にチェリビダッケは「曲に絶対のテンポはない、その場の音の響きによる」という趣旨の発言をした(フルトヴェングラーも同じことを述べている)。彼は、当然、聴き手にも細かく聞いてもらうことを想定している。残響のよく聞こえない装置や、ましてパソコンなどで聞けば「間延びしたテンポ」になる。それは聴き手のせいではなく、わかる設定になっていないのである。

チェリビダッケはこのテンポで、そうでなければ語れないことをたくさん語っている。即物的にいえば情報量が多い。そして、彼はそれを饒舌に散発的に提示はせず、意味深く感知させ、二重の意味で他の人にはない、まさしく “新世界” を見せてくれる。彼は「新奇なこと」をやろうとしたのでもボケたのでもない。描き出した情報はひとつの無駄もなく、いちいち懐かしい欧州の田園風景に包まれている心象風景を喚起することに貢献をさせ、ホールで耳を澄ませている人たちが「ああ、いいなあ」と微笑む麗しい空気を醸し出すことに専念している。これこそが、彼が講義で主張したこと、すなわち、「音楽は聴衆の心に生じたepiphenomena (随伴現象)」だということを如実に示している。演奏はそれを発生させる行為であり、演奏のテンポはそこの情報量で決まるとも言っている。音が鳴ってから聴衆の脳にそれが発生するまで間がある。だからテンポはそれに十分なものである必要があり、ホールの残響も情報の大事な一部なのである。

ドヴォルザークは米国で3年間ニューヨーク音楽院のディレクターを務め、ニューヨーク・フィルハーモニックから委嘱を受けてこれを書いた。先住民達の歌、黒人霊歌に興味を持って「両者は実質的に同じでありスコットランドの音楽と著しく類似している」「私は、この国の将来の音楽は、いわゆる黒人のメロディーに基づいている必要があると確信しています。これらは、米国で発展する真面目で独創的な作曲の学校の基礎となることができます。これらの美しく多様なテーマは、土壌の産物です。それらは米国の民謡であり、貴国の作曲家はそれらに目を向けなければなりません」と述べた。これも興味深い。彼はブラームスを師、先人と仰いでおり、ここにもドイツに対するスラヴのルサンチマンがあったかもしれないが、新興国のアメリカからは師と仰がれる関係だった。ハンガリー舞曲集を範としてスラヴ舞曲集を書いた彼は同じフレームワークにアメリカ音楽を積極的に取り入れることで師にとっての空白地帯で強い自己主張ができた点で先述の両指揮者の関係と相似したものがないだろうか(実際にブラームスはチェロ協奏曲には素直に羨望を吐露している)。

類似点が五音音階にあることは通説だが、「アメリカで聞き知った旋律を引用した」とする説は本人が明確に否定した。しかし、このことは少し考えればわかるのだ。作曲は高度に知的な作業である。そうでない人もいるがその作品は残らないという形でちゃんと歴史が審判する。ブラームス、コダーイ、バルトークの場合は民謡を意図的に素材とする作業と認識されるがドヴォルザークの場合はそれを意図した渡米ではないから、真実はどうあれアドホック(ad hoc、行き当たりの)に見られる。彼は既に勲章も名誉学位も得た大家であったが高給を提示されて音楽的に未開の国に来てしまったことに認知的不協和があったと思われ、その地で重要な最晩年の3年も費やせば自分史の締めくくりのシグナチャーピースになる交響曲、協奏曲を書くことは必要であり、それを残そうと身を削っていたはずだ。来てしまったゆえに妻の姉(自身の最愛だった人)の最期を見送れなかった罪の意識がチェロ協奏曲のコーダに彼女の好きだった歌曲の引用をわざわざ書き加えるという形になっている。

つまり、知的な人の「引用」とはそういうものだ。それが現世の特別な人への秘められた暗号だったり、後世へのダイイングメッセージのような意図がいずれ分かるという特殊な場合でない限り、常に試験で満点を狙っている人にカンニングを指摘するようなものだ。だから、その説というものは、はいそうですと本人が認めるはずもないことぐらいもわからない、要するに非常に知的でない人たちが発したものであるか、ドヴォルザークの招聘元だったサーバー夫人なる人物が夢見ていた、アメリカにおける国民楽派的なスタイルの音楽の確立が成功したと歴史に刻みたい人たちの言説かと推察せざるを得ない。ドヴォルザークにとっても、プラハ音楽院の給料の25倍ももらえる仕事なのだから、何らかの貢献の痕跡は残す必要があっただろう。

そういう仮定の下で、彼がアメリカの素材とスコットランドの音楽に「実質的に同じ」要素を見つけ、ハプスブルグの支配下でスラヴ舞曲集を書いた彼の民族意識はその素材に何分かの愛情をこめることを可能とし、教える立場にあった自らが国民学派的米国音楽の範にすべしと意図したのが新世界の作曲動機のひとつとするのが私見だ。音階は和音をつくり、根源的な効果、即ち、なぜ長調が明るく短調が暗いのかという神様しか理由を知らない効果と同等の物を含む。日本でスコットランド民謡が「蛍の光」になったからといって両民族に交流や類似点が多かったわけではないが、五音音階を「いいなあ」と思う感性はたまたま両者にあった。ドヴォルザークとアメリカのケースはそれであり、そこに郷愁も加わった。日本民謡を引用して交響曲を書くスコットランドの作曲家がいても構わないが、ドヴォルザークはそういう人ではなかったということだ。

米国で書いた弦楽四重奏曲第12番にもそれはあり、僕は五音音階丸出しの主題が非常に苦手で、実はこの曲を終わりまで聞いたことが一度もない。「アメリカ」というニックネームで著名だしコンサートにもよくかかるが、だめなものはだめで、3小節目のソーラドラからしていきなりいけない。ところが、チェロ協奏曲もMov1のあの朗々と歌う第2主題だって裸だとソーミーレドラドーソーの土俗的な五音音階丸出しなのに、ぞっこんに惚れているという大きな矛盾があるのだ。なぜかというと、単純だがここはこれ以外は絶対にありえないと断言したくなる極上のハーモニーがついていて、これが大作曲家は歴史に数多あれど、こればっかりは後にも先にもドヴォルザークにしか聞いたことのない真に天才的なものであって、始まると「高貴であるのに人懐っこい」という、もうどうしようもない魅力に圧倒されてしまうのだ。「私が屑籠に捨てた楽譜から交響曲が書ける」とブラームスが彼一流のシニシズムで褒めたドヴォルザークの才能ここにありという好例である。

では新世界はどうか。両端のソナタ楽章の外郭はホルン、トランペットが勇壮に吹きティンパニがリズムを絞めるという交響曲らしいもので、第2楽章と真ん中の緩やかな部分に五音音階が出てくる。僕は両端は好きだが真ん中に弦楽四重奏曲第12番と同様のリアクションがあり、だんだん縁遠くなってしまっていた。それを目覚めさせてくれたのがチェリビダッケだ。彼は五音音階のもっている暖かさ、人懐っこさは人類一般のものと抽象化し、ドヴォルザークはそこに民族意識だけではなく大西洋の向こうからの望郷の念もこめて作曲しており、もとより故郷や父母を思慕する気持ちというものは文化、人種を問わず、世界中の人の心を打つものと見立て、あえてチェコ色を排し、どこの国の人も「いいなあ」と思うバージョンをやってのけた。新世界は作曲された瞬間からインターナショナルな音楽だったが、ボヘミア情緒が濃厚である交響曲第8番はそれができなかったのではないかと考える。

それでは最後に、チェリビダッケの新世界の楽章を追ってみよう。Mov1第2主題の入りの涙が出るほどのやさしさ。コーダのティンパニ強奏は父性的な峻厳さと宇宙につながる立体感で背筋が伸び、この演奏がなよなよ美しいだけのものと一線を画すことを予感させる。Mov2冒頭の金管合奏。前稿を思い出していただきたい、トロンボーンの学生3人を立たせて歌わせた、そういう人でないとこんな音は出ない。「まどいせん」はアンチェルに匹敵するのを初めて見つけた。中間部のオーボエ。この遅さだと普通はだれるが弦合奏に移るとにわかに濃厚になるのは驚く。飽きて退屈だったここのスコアにこんな秘密の音楽が隠れていたのか。フルートの鳥。緻密なリズム、見事な対位法の綾。上品の極みのトランペット。カルテット。なんと素晴らしい弦!なぜ「止まる」のか僕はわかってなかった。これは息継ぎの間なのだ。人と自然。ゆっくり流れる極上の時間である。

Mov3は粗野なだけと思っていたが、普通は弦とティンパニしか聞こえない部分が木管の百花繚乱である。僕にとって半ば故郷であるドイツ、スイスの5月を思い出す。そして、きりっと彫琢されているのにずしっと腰が重いリズムのインパクトは並の指揮者とは全くの別物。その威力が全開になるのがMov4 だ。ホルンとトランペットの吹くこの主題、体制に抵抗する軍楽に聞こえないこともないが、何度聞いても音楽として格好良い。それにかまけてスポーティに駆け抜ける演奏が多い。チェリビダッケはそうしない。これだけ鳴らしてこの残響で音が混濁しない。結尾は通常はすいすい流れる水平面の音楽にティンパニが渾身の力で最後の審判の如き垂直の楔を打ち込む。勿論テンポはさらに落ちる。そして終局のホルンソロではほぼ止まりそうなところまで落ちる。そこに弦がユニゾンで第1主題を強く、レガートで再現し、くっきりと起承転結をつけて曲を閉じるのである。何十年ぶりかの新世界との再会だった。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

フルトヴェングラーとチェリビダッケ

2024 AUG 4 6:06:24 am by 東 賢太郎

チェリビダッケ(1912 – 1996)はこう語った。

音楽が美しいものと思うのは勘違いだ。音楽では真実が問題であり、美は疑似餌にすぎない。音楽を聴くということは人生や世界、あるいは宇宙の真相を垣間見ることである

 

その時(1984年)のチェリビダッケ

カーチス音楽院で出くわしたチェリビダッケは宇宙の真相を説くおっかない司祭みたいだった。ただ、巷のイメージである毒舌の独裁者であったのは学生オケのプローベだけで、壇上での一人語りの講義をする姿は真実、真相への敬虔な求道者だった。初めて来日した折、読響で「チューニングだけに数十分要した」と伝説になりいちいちwikipediaに記載される。それは、そういう処(国)だからこそそうなったということを理解しないと司祭の言説は辛辣なだけのアフォリズムに聞こえる危険があるだろう。カーチスで何時間も見た感じからすると、それは狂った調弦で宇宙の真相を説くナンセンスを説いたのであって、サッカー界の哲人だった日本代表監督イビチャ・オシムが「走るサッカー」なるくだらない記者の質問に「サッカーで走るのは当たり前だろ」と切り返したに似るのではないか。

フルトヴェングラー

これも巷のイメージだが、アポロ的な明晰を要求するチェリビダッケがなぜディオニソス的に思えるフルトヴェングラー(1886 – 1954)を崇拝したかが一見するとわからない。その対比は近代ドイツの美学思想のど真ん中にいたニーチェの、これもドイツ哲学由来の二項対立であり、その論法を哲学に疎い人が「フルトヴェングラーがベートーベンとワーグナーを共に賛美したのはなぜか」と考察するような場面でディオニソス的要素という言葉を用いるなら、それは知性を欠く記者の「走るサッカー」並の皮相のアナロジーである。フルトヴェングラーの父親はミュンヘン大学の考古学教授で古代ギリシア学の草分け的な学者だ。グレコ・ローマン文化にも深い造詣を持つに至った息子は、若い頃のフィレンツェ滞在でミケランジェロの彫刻に圧倒され、ニーチェ流にはアポロ的に分類される要素が色濃くある(くどいようだが、あまり意味はない)。先の稿で書いたブラームス、ワーグナーのマグマが噴き出るような鳴動は、あくまで彼の直感だろうが、ギリシャ神殿や彫刻のごとき数学的(幾何学的)均整が隠れている。チェリビダッケの感性に訴えるものがあったのだろう。蓋し、両者の音楽の根底には「宇宙の真相」に触れんとするものこそがあったのであり、我々も宇宙の一部であるから当然至極に共鳴してしまっている。そこに至る両者の膨大な知識と教養が二人なりの個性の中でバランスした結果であり、いとも自然にそれが成し遂げられているように思えるのは、彼らが巨匠や大指揮者であるからではなく哲学者であり、宇宙の真相は常にひとつしかないからだ。

カーチス音楽院でプローベがあったのはドビッシーの管弦楽のための映像から第2曲「イベリア」だ。オケはそこそこ仕上がっているかなと見えた。それがどんな風だったかというと、その4年前(1980年)の録音があった。どうにも言葉にはならないが、まさにこのテンポであり、「祭りの日の朝」(Le matin d’un jour de fête)のトロンボーンのトリオのppの難しい和声がひっかかりストップ。オケを止めて3人だけで吹けと数回やり直したがだめ、さらに起立して吹かされてもだめ。なぜできないんだと怒りだし、ついに、楽器を置いてあーと声で歌わされ、それだ、できるじゃないかとなった。全員がまだティーンの子たちだ。これを目のあたりにして満座が凍りついてしまう。がらんとした客席の前から3列目ぐらいでぽつんと一人だけ、チェリビダッケの右側すぐ後ろで聴いていた僕も、ステージの下手から登場しざまにおまえは誰だと言わんばかりに睨みつけられていたので何か言われるんじゃないかと凍った。弦がぐんぐん良くなったのはそれからだ。薄い和声が馥郁たる絹のカーテンみたいになった。高音のクラリネットソロのところに来てひやひやしたが見事に一回でクリアだった(中国人奏者だったと記憶する、いい度胸だ)。全奏の終結は、オーケストラはこんな凄い音がするのかと頭がくらくらした初めての経験だった。

この精妙で魔法のようなリズムと音色がどうやって産み出されたか、明かすべからざる秘密を見てしまった感じがする。あれはおそらく真相に迫るための彼の最良の方法であり、学生相手ならできようがベルリン・フィルでやれば反発を買うのは納得だ。楽員は同じ結果を得られるならドイツ精神を発揚させてくれるフルトヴェングラーの方法論を好んだのだろう。あのぴりぴりするプローベから生まれたカーネギー・ホールでの本番がどうなったのだろうと気になっていたら、ニューヨークの著名な音楽評論家ジョン・ロックウェルが

いままで25年間ニューヨークで聴いたコンサートで最高のものだった。しかも、それが学生オーケストラによる演奏会だったとは!

とのコラムを掲載したのを後に知った。これはそのへんの聴衆の評価ではない、ニューヨーク・フィルはもちろんのこと世界のトップ中のトップの指揮者、オーケストラが登場し、しのぎを削るあの都市で評論で飯を食ってるプロの評価である。かように、何事もプロであれアマであれ、「宇宙の真相」に迫らんとする者は救われる。しかし、日本でこんな評価を下せる評論家がいるだろうか?

PS

その時のことだ。

ジャン・フランセ「花時計 l’horloge de flore (1959) 」

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

三島の「憂国」と「トリスタン」の関係

2024 JUL 28 0:00:50 am by 東 賢太郎

次女が来たので寿司でも行くかと玉川高島屋に寄った。高校に上がった時にこのデパートができてね、田舎の河原で玉電の操車場だったこのあたりが一気に開けてニコタマになったんだ。鶴川からおばあちゃん運転の車で家族で食事に来てね、おじいちゃんに入学祝いに買ってもらったのがあのギターなんだよ。しっかりした楽器でね、今でもいい音が鳴るだろ。

こういうことはつとめて言っておかないと消えてしまう懸念がある。寿司屋の階にロイズという英国のアンティーク店があり、帰りにふらっと入ってみる。イタリアのランプや書棚など、あれとあれね、いくつかここで衝動買いしてるだろ、でも基本はお父さんはアメリカのドレクセル・ヘリテイジ派なんだ、書斎の革張りの両袖デスクもランプも、どっしりしたの20年も使ってるでしょ。

そう言いながらこのアメリカとイタリアにまたがる根本的に矛盾したテーストが何かというと、生来のものなのか、16年の西洋暮らしの結果なのかはとんと区別がつかなくなっている自分に気づくのである。実際、自覚した答えには今もって至っていないが、おそらく生まれつき両方があり、本来は別々のものだが、長い人生であれこれ見ているうちに互いの対立が解けてこうなったのだろうと想像は及ぶ。それを静的な融合と見るか動的な発展と見るか、はたまたそんなものは言葉の遊びでどっちでもいいじゃないかと思考を停止してしまうかだが、それだとドイツ人の哲学は永遠にわからない。となるとベートーベンの音楽の感動がどこからやってくるかもわからないのである。

さように自分が何かと考えると、三島由紀夫の「詩が一番、次が戯曲で、小説は告白に向かない、嘘だから」を思い出す。この言葉は啓示的だ。そのいずれによっても告白する能力がない僕の場合、告白が表せるのは批評(critic)においてだ。その技巧ではなく精神を言っているが、これは自分を自分たらしめた最も根源的な力であろう。しかも、最も辛辣な批評の対象は常に自分であって情け容赦ないから、学業も運動も趣味も独学(self-teaching)が最も効率的だったのだ。しかしteacherである自分が元来アメリカ派なのかイタリア派なのか迷うといけない。そのteacherを劣悪であると批評する自分が現れるからだ。だから、僕においては、言葉の遊びでどっちでもいいじゃないかと思考を停止することはあり得ず、やむなく弁証法的な人間として生きてくる面倒な羽目に陥っており、そのかわりそれは動的な発展であり進化であると無理やり思っているふしがある。

詩が一番。これは賛同する。40年近く前になるが、高台の上に聳えるアテネのパルテノン神殿に初めて登って、太いエンタシスの柱廊の間をぬって8月の強い陽ざしを浴びた刹那、西脇順三郎が昭和8年に発表したシュルレアリスム詩集「Ambarvalia」冒頭の著名な「天気」という詩、

(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとさゝやく
それは神の生誕の日。

がまったく不意に電気のように脳裏を走ったのを思い出す。高校の教科書にあったこれが好きだった。覆された宝石はジョン・キーツの「like an upturn’d gem」からとったと西脇が認めているらしく、それでも()で括ってぎゅっと閉じた空間の鮮烈は眼に焼きつく。ひっくり返された宝石箱、誰かも何語かも知れぬ言葉のざわめき、色と光と音の渾沌と無秩序が「それは神の生誕の日」の句によって “なにやら聖なるもの” に瞬時に一変する万華鏡の如し。回して覗くとオブジェがぴたりと静止し、あたかも何万年も前からそういう造形美が絶対の権威をもってこの世に普遍的に存在していたではないかの如くふるまう、それを言語で成し遂げているのは見事でしかない。神といいながら宗教の陰はまるでない(少なくとも高校時代にはそう読んだ)。それは無宗教とされて誰からも異存の出ない日本という風土の中でのふわふわした神なのだが、キリスト教徒やイスラム教徒はそうは読まないだろう。それでいいのだ、彼らは日本語でこの詩を読まないから。

作者はこれを「ギリシヤ的抒情詩」と呼んだが、確かにアテネのちょっと埃っぽい乾いた空気に似つかわしいのだが、僕にはすぐれて叙事的に思える。であるゆえに、この詩の創造過程に万が一にも多少の噓の要素があったとしても、できあがって独り歩きを始めた詩に噓はないと確信できるのだ。

フルトヴェングラーは語る。バッハは単一主題の作曲家である。悲劇的な主題を創造したがそれは叙事的であり、曲中でシェークスピアの人物の如く変化する主題を初めて使ったのはハイドン、進化させたのはベートーベンとしている(「音楽を語る」52頁)。そこでは二つの主題が互いに感じあい、啓発しあって二項対立の弁証法的発展を遂げ、曲はそうした “部分” から “全体” が形成される。これはドラマティックな方法ではあるが、ドラマ(悲劇)による悲惨な結末がもたらす、即ちアリストテレスのいう「悲劇的浄化」ほどの効果は純音楽からは得られないから悲劇的結末を持つ「トリスタン」「神々の黄昏」のような音楽作品は “楽劇” である必要があると説くのである。

これは音楽は言葉に従属すべきでないと述べたモーツァルトの思想とは正反対であって、長らく彼を至高の存在として信奉してきた僕には些かショッキングな言説であった。だが矛盾はないのだ。なぜならワーグナーの楽劇という思想は彼でなくベートーベンから生まれたからである。単一主題の作曲家といってもバッハの曲ではあらゆる発展の可能性が主題自身に含まれており、フーガの場合のように対旋律を置いているときでさえもすべてが同じ広がりの流れで示され、断固とした徹底さをもって予定された道を進んでいく。ベートーベンにそれはなく、複数ある主題の対立と融合とから初めて曲が発展している、そして、そのように作られた第九交響曲の音楽にふさわしいシラーの詩を後から見つけてきたことで、モーツァルトから遊離もないのである。

明治25年生まれの芥川龍之介はクラシックのレコードを所有しており、それで幼時からストラヴィンスキーの火の鳥やペトルーシュカを聴いて育った三男の也寸志は作曲家になった。三島由紀夫は三代続けて東大法学部という家系でみな役人になったのだから文学者にあまり似つかわしくはない。彼はニューヨーク滞在歴はあるが留学はしておらず、にもかかわらず、録音が残るその英語は非常に達者だ。内外に関わらず言語というものに精通し、図抜けて回転が速く記憶力に秀でた知性の人が、自己の論理回路に子細な神経を通わせてこそ到達できるレベルだ。音楽については「触れてくる芸術」として嫌い、音楽愛好家はマゾヒストであるとまで言ったのでどこまで精通したのかは不明だがそうであって不思議はなく、少なくともトリスタンは愛好したとされている。

なぜだろう。トリスタンとイゾルデは運命においては敵同士という二項対立であり、それが媚薬で惹かれあって生々流転の宿命をたどり、最後は二人ともに死を迎える。ドラマとしてはロメオとジュリエット同様に紛れもない悲劇なのだが、音楽がカルメンやボエームのように短調の悲痛な響きによってこれは悲劇だと告知することは一切ない。それどころか、先に逝ったトリスタンの傍らでイゾルデは長調である「愛の死(Isoldes Libestot)」を朗々と歌い上げ、至高の喜び!(hoechste Lust!)の言葉で全曲を感動的に締めくり、トリスタンに重なるように倒れ、息を引き取るのである。すなわち、生と死という二項対立が愛(Liebe)によって「悲劇的浄化」を遂げ、苦痛が喜びに変容し、二人は永遠の合一を許されたのである。

永遠の合一。この楽劇の揺るぎないテーマはそれである。歌劇場で客席について息をひそめるや、暗闇からうっすらと漏れきこえる前奏曲(Vorspiel)は、まさに艶めかしい ”濡れ場” の描写だ。それはこの楽劇が叙情的(lyrical)なお伽噺ではなく、すぐれて叙事的(narrative)であり、それまでの歌劇のいかなる観念にも属さぬという断固たる宣誓だ。演劇でいうならシラーを唯物論化したブレヒトを予見するものであり、映画なら冒頭の濡れ場が「愛の死」のクライマックスで聴衆の意識下でフラッシュバック (flashback) する現代性すら暗示する。その写実性が作曲時に進行中だったマティルデ・ヴェーゼンドンクとの不倫に由来するのは言うまでもないが、それを写実にできぬ抑圧から、既存の音楽のいかなる観念にも属さぬ「解決しない和声」という、これまた現代性を纏わせた。

これがヒントになったかどうか、定かなことは知らぬが、三島が二・二六事件を舞台に書いた「憂国」の青年将校武山信二と麗子はトリスタンとイゾルデであり、その含意は「潮騒」の久保新治と宮田初江いう無垢な男女がダフニスとクロエである寓意とは様相が大いに異なる。自身が監督、信二役で映画化した「憂国」はむしろ乃木希典将軍夫妻を思わせるのだが、将軍は明治天皇を追っての殉死、信二夫妻は賊軍にされた友への忠義の自決であり、今の世では不条理に感じるのはどちらも妻が後を追ったことだ。庶民はともかく国を背負う軍人にとって殉死も忠義も夫婦一体が道理の時代だったのだが、それにしても気の毒と思う。まして西洋人女性のイゾルデにそれはあるはずもなかったのに、やはり後を追っている。こちらは殉死でも忠義でもなく「愛」の死が彼女を動かした道理だったのであり、それがトリスタンが苦痛のない顔をして逝ったわけであり、二人が永遠の合一という至高の喜びへ至るプロセスだというドラマなのだ。「潮騒」にもダフニスとクロエにも命をも賭す道理というものはないが、憂国とトリスタンには彼我の差はあれど道理の支配という共通項は認められるのである。

三島は団藤重光教授による刑事訴訟法講義の「徹底した論理の進行」に魅惑されたという。わかる気がする。その文体は一見きらびやかで豊穣に見え、英語と同様に非常にうまいと思うわけだが、根っこに無駄と卑俗を嫌悪する東大法学部生っぽいものを感じる。あの学校の古色蒼然たる法文1号館25番教室は当時も今も同じであり、彼はどうしても等身大の平岡公威(きみたけ)氏と思ってしまう。虚弱でいじめられ、運動は苦手で兵役審査も並以下であり、強いコンプレックスのあった肉体を鍛錬で改造し、あらまほしき屈強の「三島由紀夫」という人物を演じた役者だったのではないかと。彼は蓋しイゾルデよりもっと死ぬ必要はなかったが、名優たりえぬ限界を悟ったことへの切々たる自己批評(critic)精神とノブレス・オブリージュ(noblesse oblige)を原動力とした自負心から、彼だけにとっての道理があったのではないか。そこで渾身の筆で自ら書き下ろした三島由紀夫主演の台本。その最後のページに至って、もはや愛と死は肉体から遊離して快楽も恐怖もなく客体化されており、そこにはただ「切腹」という文字だけが書いてあったのではないかと思えてならない。

もし彼が生きていたら、腐臭漂うと描写してすら陳腐に陥るほど劣化すさまじい、とてつもない場末で上映されている西部劇にも悖る安手の “劇場” と化した現在の暗憺たる世界の様相をどう描いたのだろう。間違いなく何者かの策略で撃ち殺され亡き者になっていたはずのドナルド・トランプ氏が、何の手違いか奇跡のごとく魔の手を逃れ、あれは神のご加護だったのだとされる。そうであって一向に構わないが、西脇順三郎が描いた、あたかも何万年も前からそういう造形美が絶対の権威をもってこの世に普遍的に存在していたと思わせてくれるような神の光臨、それを目のあたりにする奇跡というものを描けて賛美された時代はもう戻ってきそうもない。

いま地球は一神教であるグローバル教によって空が赤く、血の色に染め上げられている。それが昔ながらのブルーだと嘘の布教をする腐敗したメディアが巧妙にヴィジュアルに訴求する画像を撒き散らし、世界のテレビ受像機、スマホ、パソコンの類いを日々覗いている何十億人の者たちはその洗脳戦略によって空はいまだ青いと信じさせられており、その残像に脳を支配されている。誰かが耐えきれず「空は赤いぞ」と言えば「王様の耳はロバの耳」になってその者がyoutube等のオンラインメディアで私的に主催する番組が強制的にバン(閉鎖)されたりするのである。これが顕在化した契機は2020年のアメリカ大統領選におけるトランプ候補の言論封殺であった。政治とメディアがグルになった超法規的な言論統制が公然と行われたことからも、あの選挙がいかに操作されたものだったかが類推されよう。オンラインでの商売をするGAFAが必然とする越境ビジネスで各国の税務当局と徴税権を争った訴訟を想起されたい。これはB29が高射砲の届かぬ高度での飛行能力を得ることで安全に楽々と原爆を投下できたようなものだ。グローバル教の本質は各国の刑法も刑事訴訟法も裁けぬ強姦である。AIが越境洗脳の基幹ツールであり、生成AI半導体を牛耳るエヌビディアがあっという間に3兆ドルと世界一の株式時価総額(日本のGDPの8割)に躍り出たのはそのためだ。団藤重光教授の刑事訴訟法講義に啓発された三島はこれをどう評しただろう。かような指摘が陰謀論でなく確たる事実であると語れるのは、僕がグローバル教の総本山のひとつである米国のビジネススクールで骨の髄まで教育されているからなのだ。だから、経済的なことばかりを言えば、僕はフィラデルフィア、ニューヨークに根を張るその流派の思想に何の違和感もなく唱和、融和でき、現にそれが運用益をあげるという現世享楽的なエピキュリアンな結末を長らく享受している。日本の運命は商売には関係なく、独語でいい言葉があるがザッハリヒ(sachlich、事務的、即物的)に行動すれば食うのに何も困らない。

しかし僕は金もうけのためにこの世に生を受けた人間ではない。そこで「生来のものなのか、16年の西洋暮らしの結果なのかはとんと区別がつかなくなっている自分」という冒頭に提示した批評が内でむくむくと頭をもたげるのだ。渋沢栄一と袂を分かって伊藤ら長州のクーデターに組した先祖、天皇を奉じて陸軍で国を護ろうとした先祖、誰かは知らぬが京都の公卿だった先祖、そうした自分に脈々と流れる血は畢竟だれも争えないものなのであり、家康につながる父方祖母の濃い影響下で幼時をすごした三島の意識下の精神と共鳴はありそうにないと感じる。断固たる反一神教なら徳川時代の鎖国に戻るしかなく、むしろ国を滅ぼす。外務省がやってるふりを装おう賢明な妥協を探る努力は解がないのだから永遠に成就しない「アキレスと亀」であって、いっぽうで、学問習得の履歴からして賢明ですらない現在の政治家がグローバル教の手先になって進める世界同質化は国の滅亡を加速する。異質を堂々と宣言して共存による存在価値を世界に認めてもらうのが唯一の道であり、それを進めるベースは直接にせよ間接にせよ核保有しかない。非核三原則修正で米国の原潜を買うか、少なくとも借りれば必要条件は満たすからトランプとディールに持ち込むべきであり、9月の自民党総裁選はその交渉能力と腹のある人が選ばれないと国の存亡に関わる。くだらない政局でポストを回すなら紛れもない国賊としてまず自民党が潰されるべきである。

これまで何度も、メディアが撒き散す画像が虚偽であり、その戦略の源泉は共産主義に発し、ロシア革命を成功させたがソ連という国を滅ぼし、ギー・ドゥボールが卓越した著書「スペクタクルの社会」に活写したそれそのものであり、米国大統領、日本国首相は紙人形より軽いパペットでよく、むしろ神輿は軽めが好都合でさえあることを書いてきた。バイデンが賞味期限切れだ。「あたしがクビならうちのカミさんでいかがですか」とコロンボ刑事ならジョークを飛ばしそうだが、まじめな顔で “劇場” がバイデン夫人、オバマ夫人が民主党候補と世界に流すともっともらしいスペクタクルに化ける。そうなったかどうかではなく、それを現象として観察すべきなのだ。東京都知事ごときはうちのカミさんどころか “ゆるキャラ” でよく、すでにメディアの祭り上げで知名度だけはポケモン並みである小池氏においては、教養と知性の欠如が露見してしまう選挙期間中の露出や討論など有害無益と判断されたのだろう。いや、ひょっとすると、ワタクシ小池百合子は一神教の教祖様と市区町村長に強く請われて出馬してるんです、あんたら賤民の支持率なんて岸田さんと一緒で0%でよござんす、それより妙なことをおっしゃると「王様の耳はロバの耳」で厳罰に処されますわよ、青い空を赤と言ったりできないのが日本の常識ですわよね2年前の7月8日からオホホ、という新演出のスペクタクルを都民は見せられたやもしれぬ。うむむ、なんという奇っ怪、面妖な。

欧州各国では葦が「王様の耳はロバの耳」とつぶやき出して政権のバランスが激変してきている。イランでは王様が嫌がる政権が誕生した。トランプになれば・・・そう願うが敵もさるものだ。何といっても、4年前、僕も目撃した歴史的放送事故があった。テレビだったかオンライン番組だったか、バイデンが「我々は過去に類のない大規模な投票偽装の仕組みを既に用意している!」と力こぶをこめ、当選に自信のほどをぶちあげてしまったのだ。TPOを誤解してたんだね、気の毒だねと認知症が全米にバレた。そのバイデンを本当に当選させてしまった奇術師の如き連中だ、今回はどんな出し物が登場するか知れたものではない。そうなればなったで一市民は無力である。株も為替も動くから僕は経済的なことに徹してポジションを最適化するだけだ。「王様の耳はロバの耳」。日本の多くの葦たちが唱和するしか日本を救う道はない。かっぱらいと万引きと、どっちが罪が軽いですかというお笑いイベントになってしまった都知事選、本来なら投票率は激減だったはずがアップさせた石丸氏の健闘は一服の清涼剤ではあった(僕も投票した)。

「トリスタンとイゾルデ」に戻ろう。この音楽については既稿に譲るが、ここでは「憂国」に即して前奏曲と愛の死につき、これがセクシャルな観点で女性には申し分けないが想像を逞しくしてもらうしかないものであることにもう一度触れよう。ブラームスやブルックナーのような奥手な男にこういう皮膚感覚とマグマに満ちた音楽は書けないのである。ワーグナーはイケメンでもマッチョでもないが女性にもてた、これがなぜか、これは逆に男には不明だが、くどいほど雄弁で押しが強い大変なフェロモンのある男だったのだろう。

ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」

前奏曲のピアノ・リダクションで、音量が1小節目の ff から2小節目のmeno f(あまり強くなく)にふっと落ち、第1,2ヴァイオリンの波打つような上昇音型が交差する部分だ。ここで官能のスイッチが切り替わる。そして徐々に、延々と、フィニッシュの極点(ff)に向けて激していく。

ここの曲想の質的な変化に非常に官能的に反応しているのがカラヤン/BPOだ。こういう感覚的な読みができるのがこの人の強みで、人気は決して伊達ではない。それを5年前にはこんな婉曲な方法で書いた自分もまだまだであった。

数学とトリスタン前奏曲

menofでホルン(f)をやや抑えて、弦の音色を柔らかく変化させ絶妙の味を醸し出しているのが7か月後に世を去ることになるフルトヴェングラー/BPOの1954年4月27日のDG盤(前奏曲と愛の死)だ。この部分から身も世もないほど激して一直線に昇りつめるのではなく(それは楽譜から明らかに誤りだ)、潮の満ち干のごとく押しては引き、内側から渦を巻いてぐんぐん熱を帯び、秘められた論理構造に添って目くるめく高みに労せずして達していくという大人の音楽が聴ける。コンサートのライブであり愛の死に歌がないのが残念だが、頂点に至っての命がけのテンポ伸縮を聴けばそんな不満は吹っ飛んでしまう。もうフルトヴェングラーの秘芸とでも形容するしか言葉が見つからないトレジャーだ。

クナッパーツブッシュ盤はウィーン・フィルとの王道の横綱相撲で、黄泉の国から立ち上がるようにひっそり始まる曲頭のチェロの a音などぞくぞくものだ。ただ楽譜2小節目のmenofはほぼ無視で音色も変えず、ひたすらぐいぐい高揚してしまうのは大いに欲求不満に陥る。しかしこの演奏、愛の死に至ると様相は一変するからここに書かざるを得ない。一世を風靡したビルギット・二ルソンは贅沢な御託を垂れれば立派すぎて死の暗示に幾分欠ける(その点はライブで聴いたレナータ・スコットとヒルデガルト・ベーレンスが忘れられない)。だが、ないものねだりはよそう。圧倒的な歌唱はもう泣く子も黙るしかなく、指揮と歌が一体となって頂点に血を吹いたように燃えるこれを聴かずしてワーグナーを語らないでくれ、こんな成仏ができるなら「悲劇的浄化」もなにもいらない。音楽は麻薬だ。トリスタンとイゾルデは彼の芸術の最高峰であり、全曲完成後に「リヒャルト、お前は悪魔の申し子だ!」と叫んだワーグナーも、これを聴いて自分の中に棲む魔物に気づいたんじゃないか。三島がそれを見てしまった演奏は誰のだったんだろう?

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

僕の愛聴盤(6)フルトヴェングラーのブラームス1番

2024 JUL 23 22:22:29 pm by 東 賢太郎

数えるとブラームスの第1交響曲は棚に105種類ある。各5回は聴いており500時間で20日。ブラームスの交響曲4つで80日、つまり寝ずに飯も食わずにぶっ続けで3か月相当。同じぐらいハマった作曲家10人でトータル2.5年。15歳から真剣にきき始めたから実働54年、起きている時間が4分の3として少なくとも40年の6.25%をクラシックに充てた物証だ。1日1.5時間に当たる。高校時代、野球の部活が3時間、通学に往復3時間。勉強は本当に二の次だった。

そこまで洋物好きというのはもう嗜みや趣味ではない。何かある。魂は何度も輪廻してるらしいので、前世、地球のそっちの方角にいたことがあると信じている。実際に欧米に16年いて違和感なかったし、仕事も洋物、子供3人は日本生まれでない。日本が大好きなのは父母と家族が日本人だからである。他には音楽ならユーミンとHiFiセットだけ、あとは特定の和食と日本猫ぐらいだ。

クラシックで初めて魂を揺さぶられたのは?好んだのはブーレーズのレコードだが、それは音響の快楽でロックに近い。魂の奥底まで深く届いたのはブラームスの第1交響曲、フルトヴェングラーのレコードであった。1番を初めてきいたのは高2で買ったミュンシュ/パリ管だった。次いでカラヤン/ウィーン・フィルの話題の千円盤、ベイヌム/コンセルトヘボウ、ワルター/コロンビア響の順で、どれも名盤の誉れ高く選択は順当だったはずだが、いまいち心に響かなかった。

5枚目のフルトヴェングラー盤を買ったのは1976年6月2日だから大学2年だ。レコ芸が激賞していたからであり、これでだめならブラームスに縁がないという気持ちだった。

その現物がこれだ。

参りました。もう脳天をぶち抜かれたというか、そうだったのか、これがブラームス1番だったのかと世界観まで変わった。ここから1~4番の深みにはまっていきそのレコード、CDだけで400枚蒐集する羽目になってしまう。おまけの効果で、4曲がリトマス試験紙になって多くの指揮者の個性もわかるようになった。

フルトヴェングラーの音楽は造り物でない。彼が喜ばせたいのは自分で、自分にウソをつく者はない。だから何度振っても、ホールの事情やオーケストラという人間集団なりの成果の良し悪しはあるものの、基本は同じだ。では彼がブラームスの大家と思うかというと、2番、3番は全く駄目である。僕の魂には響かないというだけのことではあるが、こちらも造り物がない素の人間であり、その2曲ではそりが全然合わない。

そういうものを一概に「哲学」と呼べば哲学者に失礼だが他に言葉がない。フルトヴェングラーは作曲家として評価されたいと願っていた指揮もする哲学者である。その含意は一般に「真理を追究する人」であるが、宗教、科学にあらず真理が特定できない芸術というものにおいては、その究極は自分でしかない。自分の中に “客体化した真理” を見出し、それが大衆の役にも立つと信じて実証できる者だけが芸術家になれる。その場の効果を弄して大衆受けを追求する者はタキシードを着たピエロである。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

読響 第640回定期演奏会

2024 JUL 11 7:07:12 am by 東 賢太郎

日本語はどうもしっくりこないので原語で記す。

Subscription Concerts No. 640

Tuesday, 9 July 2024, 19:00 Suntory Hall

Conductor= KATHARINA WINCOR
Cello= JULIAN STECKEL

CONNESSON: ‘Celephaïs’ from “The Cities of Lovecraft”
YASHIRO: Cello Concerto
BRAHMS: Symphony No. 2 in D major, op. 73

 

フランスの作曲家ギヨーム・コネソン(Guillaume Connesson,1970年5月5日~)「ラヴクラフトの都市」から”セレファイス”(日本初演)を聴けたのは僥倖だった。調性音楽だが陳腐でなく新しく聞こえる。非常にカラフルでポップな音楽だが、そういう性格の作品の99%に漂う二級品の俗性がなく、いずれ「クラシック」になるだろう一種のオーラをそなえて生まれている。こういうものは人間と同じで、あるものにはある、ないものにはない、要はどうしようもない。いい物に出会えた。タイムマシンで20世紀初に旅し、当時の人の耳で「火の鳥」初演に立ち会っているようなわくわくした気分で聴いた。

コネソン初の管弦楽作品だ。彼のyoutubeインタビューによると、10代で読んだ米国の幻想小説家の作品に感銘を受け交響詩にしたが20余年も放置してきたオリジナルがあった。委嘱を受けそれに手を入れ、2017年に完成した作品だ。バロック風の極彩色のフレスコを意図したそうだがまさにそうなった。7年前にこんな曲が産まれたなんて、まだまだ世の中捨てたもんじゃない。

KATHARINA WINCOR(1995~)

矢代秋雄のチェロ協奏曲は水墨画の世界で、一転して色が淡い。音楽会はそれそのものが展示会としてのアートであって、プログラムのコントラストも指揮者の主張である。それを見事に演出した指揮者カタリーナ・ヴィンツォーの日本デビューは鮮烈だったとここに記しておきたい。いちいち「女性~」と形容するのを僕は好まないが、ことクラシックにおいては、力仕事でもないのに男社会だという理不尽が長らくあった。欧州で聴いていたころはウィーン、ベルリン、チェコのオーケストラの団員に女性を見かけるだけでおっと思ったものだが、ここ数年、楽員どころかシェフというのだからヒエラルキーの様相ががらりと変わっている。ガラスの天井を破ってのし上がってきたのだからむしろ女性であることは能力の証であろう。チェロのユリアン・シュテッケルも良かった。腕前もさることながら楽器の良さ(何だろう?)もインパクトがあった。管弦楽はフランス風だがチェロは京都の石庭にいるような、広々と沈静した音空間を生み出した。アンコールのバッハ無伴奏も同じ音色なのだが、矢代の世界でもぴたりとはまるのは奏者の芸の深さだ。

上記2曲に入念なリハーサルを積んだろう、29才の指揮者のブラームスでヴィンツォーをどうこう評することはない。曲尾のテンポは気になるので僕はライブは敬遠気味だが、微妙にアップして持っていき、十分な熱量をもってアッチェレランドなく堂々と結んだ。いい音楽、指揮者に満足。同行の柏崎氏がブラ2をしっかり聴きこんでこられたのは敬服だ。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

父の日のちょっとした出来事

2024 JUN 19 7:07:09 am by 東 賢太郎

次女がロイヤルホスト行こうというので家族で行った。子供の頃ね、ステーキなんかめったに食べさせてもらえなくてね、ビフテキっていったんだよ。銀座の不二家でね、お爺ちゃんが機嫌がいいとチョコレートパフェとってくれて、帰りに銀色の筋が入った三角のキャンディー買ってもらってね、うれしかったね。

ジュースはバヤリースってのがあったけど安いんでオレンジの粉ジュースでね、底に粉が残るんでまた水足して飲んでたな。カルピスもそうやってた。バナナは台湾が高級であんまり出なかったよ、みかんかリンゴかスイカだな。キウイとかマンゴーとかパパイヤとか、そんなのはなかったんだ。

黒黒ハンバーグ定食にしたがそれだってご馳走だ。十分満足したが、食べなよというのでチョコレートパフェもとった。不二家のこれとアメリカ時代のビッグマックは高嶺の花だ。すっと背の高い巨大なパフェの頂上に位置する生クリーム部分にスプーンを入れると今でも誇らしさすら感じるものである。

そろそろ会計してくれという段になって、それは次女からのプレゼントだったことを知る。「そうだったんだ、休日はほとんど知らないんだよな」とばつが悪い。「お父さん、父の日は休みじゃないよ」という会話になる。パリのMBA様である彼女は会社でM&Aをやったらしく頼もしいもんだ。

映画で英国やドイツの街並みが出てくると、知らない場所なのに家族と過ごした記憶がフラッシュバックして思わず入り込んでしまう。そういう場面が脳裏にぎっしり詰まっていて、無限のように在るあんなことそんなことが蘇って心が動くのだ。なんて幸せな日々だったんだという感興とともに。

同じことが音楽でも起こる。ブラームスの6つの小品Op.118、亡くなる4年前に作曲された、彼の最後から2番目のピアノ曲だ。これを聴くとフランクフルトのゲーテ通りからツァイルという目抜き通り商店街に家族で歩いた週末の楽しい日々が瞼に浮かぶ。

そういえばフランクフルトでのこと、娘たちのピアノの先生が名ピアニスト、レオナルド・ホカンソン(1931 – 2003)の弟子ということで演奏会に連れて行ってくれた。アルトゥール・シュナーベルの最後の弟子の一人である。まるで昨日のことのようだが、あな恐ろしや、1994年だからもう30年も前になるのか。聴かせていただいたホカンソンのブラームスの第2ピアノ四重奏曲は実に味わい深く、終了後に楽屋でお礼を述べブラームスについて意見を交わしたが緊張していて内容はあまり覚えてない。いただいたCD、ここにOp.118が入ってるのだが、裏表紙にしてくれたサインはyoutubeの背景になっている。そのイベントを永久に残して恩返しできたかもしれない。滋味深い素晴らしい演奏だ。

いま、このフランクフルト時代の部下たちが事業を助けてくれている。次のチューリヒ、その次の香港でそういう交流はもうなく、やはり最初の店は特別だったのだろう、ドイツの空気を吸って仕事した部下たちは特別な存在だ。ドイツ語しか聞こえない中でどっぷり浸っていたバッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーベン、シューベルト、メンデルスゾーン、シューマン、ワーグナー、ブラームス、ブルックナー・・・これまた人生最高の至福の時だった。

次女の記憶は幼稚園に上がったドイツからだろう。活発な子だが歩いて疲れるとまっさきに回り込んで抱っこになり、ダウンタウンのがやがやしたイタリア食材屋だったか、はっと気づいたら雑踏に紛れてしばし姿が見えなくなって大騒ぎした。毎月彼女用には「めばえ」という雑誌を日本から取り寄せていて、帰宅して玄関でそれの入った紙袋をわたす。あけてそれを取り出した光輝く顔はフェルメールの絵みたい。子供たちのそれが励みで仕事をしていたような思いがある。

食事から戻る。坂道を下ると遠く先の多摩川あたりまで点々と街並みの光がきれいだ。もうここに住んで15年になる、早いなあというよりまさに矢の如しだ。ワインでけっこう酔ってる。しばし猫と遊んでから地下にこもってピアノを弾くのはよくあるパターンだ。いま譜面台にあるのは2つ。毎日さらっているシューベルト即興曲D899の変ト長調はうまくいかない。じゃあもうひとつのショパンのワルツ 第3番イ短調 Op. 34-2はどうだ。だめだ、音をはずす。練習をなめちゃいかんぞとふらつきながら3階の部屋までふーふーいって上がると階段のてっぺんにこれがあった。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

読響定期 ダン・タイ・ソンを聴く

2024 JUN 16 0:00:53 am by 東 賢太郎

指揮=セバスティアン・ヴァイグレ
ピアノ=ダン・タイ・ソン

ウェーベルン:夏風の中で
モーツァルト:ピアノ協奏曲第12番 イ長調 K. 414
シェーンベルク:交響詩「ペレアスとメリザンド」 作品5

 

音楽に割ける時間が少なくなっているのが悩ましい。ヴァイグレは先代のシルヴァン・カンブルラン同様にフランクフルト歌劇場で活躍した人だが、同劇場は思い出深い場所であり縁を感じる。フランス人カンブルランのメシアンは衝撃的だったが、東独で学びシュターツカペレ・ベルリンの首席ホルン奏者だったヴァイグレの新ウィーン学派はこれまた楽しみで、このシリーズには3月にヴォツェックがあってウェーベルン、シェーンベルク、ベルクが揃う。

この日はヴァイオリニストの前田秀氏とご一緒したが、予習されたとのことでペレアスのスコアを持参された。12音前、ポストマーラーの入り口に立つ作品である。メリザンドは男の本能を手玉に取る。僕も抗しがたいがフォーレ、ドビッシー、シェーンベルク、シベリウスもそうであり、シェーンベルクの回答がこの作品5だ。作品4「浄められた夜」同様に調性音楽で室内交響曲第1番作品9に向けて調性が希薄になる。その時期を横断して書かれたのが「グレの歌」でこれは作品番号なしだ。過去2度ライブを聴いたが春の祭典ができそうな大管弦楽で精密な音楽を構築している。独学の作曲家、おそるべし。ヴァイグレの指揮は主題の描き分けが明快で音は濁らず立体的に鳴り心から満足した。

キャリア官僚を勤められた前田氏はいまは客席よりステージにいる方が多いとのこと。米国の学者との交流、シベリウス5番を平均律で弾けという指揮者の指示など興味深い話を伺った。思えば氏とは2017年に豊洲シビックセンターで行った「さよならモーツァルト君」の演奏会で、ライブイマジン管弦楽団のコンマスをやっていただいたのがきっかけだ。ハイドンが98番にジュピターを引用してモーツァルトを追悼したというテーマだったが、そういえば、ピアノ協奏曲第12番はモーツァルトがヨハン・クリスティアン・バッハの訃報を知り、彼のオペラ「心の磁石」序曲の中間部を引用して追悼した曲だ。偶然だが何かのご縁だったのだろうか。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

▲TOPへ戻る

厳選動画のご紹介

SMCはこれからの人達を応援します。
様々な才能を動画にアップするNEXTYLEと提携して紹介しています。

ライフLife Documentary_banner
加地卓
金巻芳俊