Sonar Members Club No.1

カテゴリー: クラシック音楽

N響定期ネーメ・ヤルヴィのフランク、サン・サーンス

2019 MAY 22 22:22:20 pm by 東 賢太郎

イベール/モーツァルトへのオマージュ

フランク/交響曲 ニ短調

サン・サーンス/交響曲 第3番 ハ短調 作品78

 

イベールは初耳。軽妙。フランクはかつて知るうちで最速である。パレーより速い。いまこのテンポで振る度胸のある指揮者がいるだろうか。甚だ疑問だ。有無を言わせぬ奔流であり、転調の明滅に目が眩む風にフランクは書いているのであり、遅いとムード音楽に堕落する。指揮はミクロで振っている。チェロは指揮台の下(!)に棒が行く。大家然で細部はおまかせ、ではまったくない。棒の動きは大きくはなくキューが速く明確。キューがいらぬ部分は体で指揮。見ているだけで出てくる音の質がわかる。この大御所にして眼力によるマイクロマネージメントができる。日本の大企業経営者は見習った方がいい。

サン=サーンス。こういうものを聴くと曲を見直すしかない。餓鬼の酒と馬鹿にしていたら、きゅっと冷えた辛口大吟醸ではないか。いや、参りました。こっちも大きなうねりだがスローな部分でオルガン(鈴木優人)をいい具合に混ぜる。重低音がホールの空気を揺るがし、オーケストラを従者とし、楽器の王として君臨する。コーダは世界を制覇したナポレオンの如し。このオッさん凄いな、押しても引いても微動だにせんなと感じ入ったのは、シベリウス2番の時もおんなじものが残ったからだ。ムラヴィンスキー直伝。ヨーロッパの伝統筋金入りだ。つくづく思う、我が国は伝統を大切にしなきゃ。

ブルックナー 交響曲第2番ハ短調

2019 MAY 21 23:23:55 pm by 東 賢太郎

このところ自宅のオーディオルームでブルックナーが定番で、いまこんなに幸せになれることはない。他の作曲家は気にしないが、ブルックナーには録音の良さが必須であって、部屋の空気ごと教会のアコースティックのように広々と深々と包みこんで欲しい。10年のあいだ同じ部屋で同じ装置を聴いているのは飽きっぽい僕にとって異例のことで、アンプやスピーカーを替えてみようと思わないのはブルックナーサウンドで満足できているのがひとつの要因だ。

ブルックナーの交響曲で最も関心をそそられるのは2番である。好きなのは5番であり次いで最後の3つになるが、「関心」ということだとそうなる。そもそも素人にスコアなんかいらないが、耳で聞いていてあれっと思った時に英語の辞書を引く感じでその箇所の音符を探して好奇心を満たす程度の需要は僕にはある。ブルックナーということでいうなら、引いた回数がたぶん一番多いのは2番だという気がする。何故かはわからないが、それはとりもなおさず大好きな曲であり、面白い音がするからだ。2番が好きなファンはけっこう多いのではと思う。

アントン・ブルックナーはオーストリアはリンツ郊外の村アンスフェルデンの学校長の息子として教会でオルガン弾きとして修業を積み、当然のごとく敬虔なカソリック信者であり、都会の啓蒙思想やフランス革命の精神とは無縁の育ちの人である。19世紀人ながら18世紀的な環境に身を浸したまま大人になったというわけだが、それを田舎の野人というカリカチュアで見ては彼の音楽の本質はわからない。その育ち故、都会的で俗世間的なオペラに関心を持たず教会音楽からスタートして、純粋培養のごとく交響曲に行きついたという点が重要であり、その点で同時期のシンフォニストであるマーラーとは対照的な人物である。

彼を「培養」したバロック様式の教会というと、僕にとってのイメージだが、一般には華美壮麗と表現されるものであるがどこか異国の幻惑に満ちたおどろおどろしさもあり(参考・ブルックナー 交響曲第8番ハ短調)、あそこに行くと、これは日本ならば弘法大師・空海の真言密教だなあと感じる。金剛峯寺で野宿して恐ろしい体験をしている(秀次事件(金剛峯寺、八幡山城、名護屋城にて))のであれと重なってしまう。少年時代に暗い教会で、ああいうムードの中で、ひとりオルガンを弾いていればどうなるのだろうという点で僕は音楽以前に彼の人間性に興味がある。ブルックナーは純粋培養された音楽家だから面白いのだ。

その趣味が煎じ詰められたのが交響曲である。2番はベートーベンを意識していた時期(1872年)の作品だ。Mov1の第1主題が同楽章およびMov4のコーダで回帰する形式はフランクが交響曲二短調、ブラームスがクラリネット五重奏曲で採っているが前者は16年後、後者は19年も後のことだ。ワーグナーのライトモチーフを範にしたのかベルリオーズの幻想交響曲から採ったのか、いずれにせよ2番は循環形式の先駆的作品であり、ブルックナーの頭の中には交響曲作法の実験精神が渦巻いていたと想像する。彼の技法が斬新だという側面から評価する人は稀だし、彼の人間性も、スマートなウィーン人の目で記述されれば野人となるのだ。そうして現代においてもその「上から目線」で演奏されれば2番は習作の一群に属する作品となり、聴衆もそう思うようになってしまう。拙稿はそうではないという立場からの趣味の表明である。

まずはフランク、ブラームスを持ち出した主題からだ。楽章をまたいだ使用、再現だが、2番におけるその「循環主題」はMov1冒頭のチェロによるこれである。

半音階2つから始まるメロディーは循環して各所に顔を出すが、現れるたびに暗色の憂いを撒き散らす性質のものだ。非常に粘着力があり、たまらなく耳に纏わりつく。この主題は半音階和声進行を生む豊穣な母体だが、ブルックナーはそこに自身の語法を見出しつつあった。明らかにワーグナー由来のものだが次の交響曲のトリスタンのように出典が顔を覗かせたりということはまだない。

これにトランペットの信号音が続く。これも楽章を通して忌まわしい耳鳴りのように鳴る。Mov4にも再現するからこれも大いに循環性があり、全曲を締めくくるコーダにも重要な役割を演じるのだから循環主題(的なもの)が2つあると解釈するべきだと僕は考える。

一旦パウゼとなり、歌謡性のある第2主題、スケルツォ風の第3主題が続くが第1主題ほどの存在感はない。後の交響曲でも採用される3主題構造のソナタ形式を横軸に、循環主題と信号音という縦軸の構造を交叉させるという試みで、冒頭の霧の如きトレモロから発してMov1は徐々にexpansiveに空間を広げていくように感じる。ブラームスが交響曲第1番を完成する4年前にそういう曲を書いたという事実は音楽史であまりにも過小評価されている。ブルックナーは自身が育った教会音楽のparadigmの中から和声と形式論をもって交響曲のdimensionを拡大した。この楽章はその好例であり、初期の曲と言っても48才の作品だ。ちなみにマーラーはそういうことをしていない。

Mov2はベートーベンの交響曲第2番、第9番のアダージョの雰囲気と歌謡性を漂わせつつワーグナーの影響下にある和声を綴る逸品だ。後期3曲の精神的成熟はないが美しさにおいて何ら劣るものでもなく、ブルックナーの楽想の源泉を観る観があって興味深い。後期では目立たないファゴットが重要な役目を負うのも古典派の残滓であるが、同時に朗々と響くホルンソロは当時斬新であり、シベリウスの7番のトロンボーンソロを強く想起させる。

Mov3のトリオ主題もベートーベンのエロイカMov1の第1主題の音型である。

そこに自身の第9交響曲でスケルツォ主題となるリズムがまずトランペットの信号音で、そしてコーダでティンパニが先導してテュッティで現れる。

Mov4はベートーベンの運命リズムでハ短調の主題が現れる。再現部でこの主題が現れる部分は運命交響曲そのものの観を呈する。

Mov1循環主題が回帰してしばらくすると木管ユニゾンでこういう場面がやってくる。この2小節目からの下降旋律は(楽章冒頭Vn1の主題由来)がこのページでショスタコーヴィチ交響曲第7番の戦争主題(バルトークがオケコンで揶揄した例のもの)を、TempoⅠ前後のフルート主題(第2主題に由来)がショスタコーヴィチ交響曲第5番のMov4、いったん静まって小太鼓が先導して冒頭主題が戻る直前の部分に引用されている気がしてならない。同曲のMov1にはブルックナー7番の引用と思える部分がある(ショスタコーヴィチ 交響曲第5番ニ短調 作品47)。

Mov4の再現部に向かう部分以降コーダまでは調性が浮遊しそこにパウゼが加わるものだから曲想が甚だつかみにくい。初版の初演が「演奏不可能」とされた理由はそれだろうと想像するし現代でもこの曲が初期の習作と等閑視されがちな一因にもなっていると思われる。

実験精神と書いたがブルックナーはこのころ、主題を展開し曲想を変転させる繋ぎのパッセージを研究していたかもしれない(彼はまだそれの自在な発想を条件反射化していない)。例えばMov4終盤の激した和声の上昇パッセージには幻想交響曲が聴こえるし、ベートーベン交響曲第9番Mov1のコーダは新しい素材が低弦とFgのppで始まるが、それを導く和音4つのカデンツ(507-8小節、511-2小節)は2番Mov4のコーダ直前にLangsamerでTr、Trbが吹く和音にほぼそのまま引用されている。それの直前の弦楽セクションのピッチカートだけのパッセージはシベリウス2番にエコーしていると思う。

2番からシベリウス、ショスタコーヴィチが聴こえてくるのは僕の耳のせいかもしれないが、こういう所が面白い。20世紀を代表するシンフォニストご両人がそのジャンルの先達ブルックナーを研究しなかったとは思えない。ブルックナーの語法が熟達した後期よりも、模索期間、実験期にあった2番のほうが耳をそばだてさせる物があったということは十分可能性があるように僕は感じている。

 

ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団

4番での1Vnの変更が納得できないカラヤンだがこの2番は最高。これだけ各楽章の主題、動機の意味を明晰に抉り出した演奏はない。トランペット信号音の扱い方、終楽章の運命主題再現部を聴いてもらえばわかる。既述通り僕は2番にベートーベンへの作曲家の意識の強い傾斜を観るが、カラヤンも同意見だったのかと思うほどやって欲しいことを軒並みやってくれている。本質を掴んだエンジニア的精密さと巨視的バランス感覚が両立した解釈は実に直截的で、棒が明確なのだろうBPOが最高のパフォーマンスで応えている。是非聴いていただきたい。1877年ノヴァーク版。

 

カルロ・マリア・ジュリーニ / ウィーン交響楽団

ジュリーニは7-9番しか振っていないが最初の録音はこの2番だった。カラヤンは2番を実演で振っていないがあれだけできた。ジュリーニは恐らく実演でもやっているだろうし、自家薬籠中の演奏がこの録音でも聴ける。2番が好きだったのだろうしご同慶の至りだ。指揮は確信に満ち、オーケストラも終楽章の和声の朧げなパッセージに至るまで「和声感」を明確に維持している。これがいかに困難なことか他の演奏ときき比べて頂けばわかる。さらにこの演奏の魅力として特筆すべきは聴衆なしのムジークフェラインザール の残響。誠に素晴らしい。こちらも1877年ノヴァーク版である。

 

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ヴァイグレ/読響のヘンツェ、ブルックナー9番

2019 MAY 16 23:23:24 pm by 東 賢太郎

《第10代常任指揮者就任披露演奏会》
指揮=セバスティアン・ヴァイグレ

ヘンツェ:7つのボレロ
ブルックナー:交響曲第9番 ニ短調 WAB.109

 

ヘンツェが良かった。自作自演の交響曲1-6番のCDは大事にしているし8番はブログにした。

ヘンツェ 交響曲第8番(1992/1993)

7つのボレロ」も atonal ではあるが、リズム(ボレロ)はもとより旋律も調性も構造もある「無調的調性音楽」に僕には聞こえる。どれもそうだが彼の曲は不思議と肉感のある機能和声ではない万華鏡の如き和声が魅力で、これを現代音楽としてとらえるなら悲しいことだ。同じく好きなメシアンには色彩と神性を感じるが、ヘンツェは肉体と森の昇華をイメージするからドイツ音楽の系譜にあると思うし、ボレロはドイツの立場から描いたラテン的ものが加わる。読響も一個の音響体として舞台に美しくソリッドな実在感を据えて演奏し、文句なしの悦楽だった。これを常任指揮者としてオープニングに持ってきたヴァイグレの趣味に賛同。

後半のブルックナー9番。この曲は02年にスクロヴァチェフスキがN響を振ったものが良かった。トルソである故にプロポーションのバランスがなかなか納得性が得にくく、それは演奏時間というよりも感情の起伏のバランスだ。ヴァイグレはそれを調和させて整える方向でなく、あるがままの、ある意味で当時前衛的でもあった音の軋みまで臆さず前面に出してsachlichに提示したと思料。非常に恐ろしいものを含んだスコアであることがわかった。トルソがトルソに聞こえる意味でもこのリアル感ある演奏は面白く、あえて後期ロマン派に寄せた緩い演奏よりはずっと良い。

 

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リヒテル/マゼールのブラームス2番について

2019 MAY 11 18:18:47 pm by 東 賢太郎

先日にご著書「物語として読む全訳論語」を送っていただいた弘前大学の山田教授から、

このところリヒテルのBOXを順に聴いてゐるのですが、ブラームスのピアノ協奏曲第2番に至り、「さういへば東氏がお好きだと仰つてたな」とおもひだしてブログを拝見すると、リヒテル/マゼール盤には言及してをられません。「いまひとつ印象にのこらなかつたのかな」とおもつた次第です。

とお言葉をいただきました。ありがとうございます。以下に、推薦盤として言及していない理由につき、改めて言及させていただきます。

そのカセットテープ

リヒテル/マゼールは実はなつかしい演奏です。82年に留学でアメリカに行ったのですが大量のLPは持っていけないのでカセットで我慢してたのです。フィラデルフィアのサム・グッディというレコード屋に2番のカセットはそれしかストックがなく、だからこの演奏に一時期ずいぶんお世話になりました。それなのになぜ漏れてるかというと、先生がお好きであれば申しわけないのですが、好きになれずにほかに乗り換えたということです。だから後にLPもCDも買ってないというレアものになってます。

理由ですが、パリ管に尽きます。この管の音は僕のブラームスのイメージとかけ離れてまして、冒頭のホルンからしてどうにも耐えられません。マゼールがMov2で煽っているヒステリックな弦の音も、Mov3のすかすかの弦楽合奏も論外です。巧拙やモチベーションの問題(以下に述べます)以前の問題として、ウィーンPO、ベルリンPOの演奏を前にしてこの当時のフランスのオーケストラによるブラームス、シューマン、ブルックナーというのは何か特別な理由でもあれば聞いてみようかという類です。EMIさん、何でよりによってこのソリストなのにフランスのオケなのという失望にはデジャヴがあって、60年録音のオイストラフ/クレンペラーのVn協もそう(フランス国立放送管)です(オイストラフは後にジョージ・セルとクリーブランド管で録音しなおしてます)。

それには政治的背景が関係していて、すこしご説明します。EMIは英Deccaがライバルでした(ビートルズはDeccaが落としてFMIが獲得)が、フランスではパテ・マルコニを傘下に持ってパリ音楽院管、パリ管、フランス国立放送管を占有しているEMIが優位にありました。クリュイタンス、ミュンシュというフランス語を母国語とする独仏レパートリーの両刀使いを擁し、前者にはベルリン・フィルで57-60年にドイツ本丸のベートーベン交響曲全集を録音させた。これはフランス知識人にとって快哉ものの気持ち良いイヴェントだったに違いありません。前述のオイストラフ/クレンペラーのVn協もその同類項でした。

アンドレ・マルロー

フランスはまだナチのパリ占領への忌まわしい記憶と怒りと屈辱が消えていませんでした。文化相のアンドレ・マルローはフランス国民のトラウマを払拭しプライドの象徴とするべく67年に国家の威信をかけてパリ管弦楽団を創設し、アルザス出身のドイツ系、シャルル・ミュンシュを初代音楽監督に据えます。そこに覚え愛でたいEMIが接近し、そのコンビでドイツ音楽代表としてブラームス交響曲第1番、フランス音楽代表としてベルリオーズの幻想交響曲を録音し(68年)、両者ともあっぱれの高評価を得ます。フランス政府のアドバルーンは理想の高さに達し、EMIも商業的に成功し、上々のプロジェクト・スタートアップでした。ミュンシュは70年の訪日まで決まっていたそうなので、69年のリヒテルとのブラームス2番も当然彼が指揮するはずでした。

ところが最悪の事態が発生します。ミュンシュが68年11月にパリ管との米国楽旅中にリッチモンドで心臓発作をおこし客死してしまったのです。文化省が計画修正で大わらわになったことは想像に難くなく、そこでどういう経緯でナチ党員だったヘルベルト・フォン・カラヤンを呼んだかは不明ですが、パリ管は彼の指揮でラヴェル、ドビッシー、フランクの録音(EMI)を残しており、リヒテル/マゼール盤が録音された69年10‐11月もカラヤンが音楽顧問として在任中でありました。ということは物事の筋からしてもレパートリーからしても、それはリヒテル/カラヤン盤だったはずなのです。

以下は僕の想像になりますが、そうならなかったのは、その前月の69年9月15-17日にベルリンでBPOを使ってEMIが録音したベートーベン三重協奏曲でのカラヤンとリヒテルの軋轢によることは衆目の一致するところでしょう。リヒテルは、

この写真がそれだ

「カラヤンが”これでよし”と終わろうとするから、私がやり直しを頼むと”一番大事な仕事がある!”・・・・写真撮影さ。我々はバカみたいにヘラヘラ笑ってる。おぞましい写真だ。見るに耐えない。」(ドキュメンタリーフィルム「リヒテル<謎>」)

と憤っており、さもなければこの翌月にその流れのまま両巨匠がパリでブラームスP協2番録音となったのが、リヒテルが拒絶し、指揮は急遽マゼールに切り替える条件で承諾したのだと思われます。フランス国家と英国EMIの「連合国軍」がパリ管を目玉に敵国ドイツ物レパートリーを席巻しつつ、ベルリン・フィルを凌駕して目にもの見せようぞというノルマンディー大作戦はこうして空中分解し、マルローも69年に文化相を辞任して事実上終焉しました。パリ管のその後の音楽監督を見れば、反ナチスのドイツ人(ドホナーニ、エッシェンバッハ)、ユダヤ人(ショルティ、バレンボイム、ビシュコフ)、北欧・英国人(ヤルヴィ、ハーディング)と、カラヤンがいたなど夢か幻かという180度の大方針転換を経て今に至っています。

69年録音のリヒテル/マゼール盤にマルロー大臣はもう関心はなかったでしょう。EMIは大物との契約金を回収しようとマネジメントは気合が入っていたでしょうが、おそらく、現場(オーケストラ、録音スタッフ)は指揮者がミュンシュ、カラヤン、マゼールとたらい回しになって白けていたのではないでしょうか。パリ管というのはフランス史上初のフルタイム有給制(要はサラリーマン)の管弦楽団です。マゼールがミュンシュの後任首席指揮者か、カラヤンの後任音楽顧問になるなら服従したでしょうが、それもない(後任はショルティ)ワンポイントリリーフですから忠誠心もなく、そういう先入観が入ることを割り引いても、このオーケストラ演奏はお仕事っぽく、慣れもない割に懸命さも感じません。リヒテルもMov4で完全主義の彼の正規録音としては考えられない和音つかみそこねがあり、スタッフも録り直しをさせずそのまま放置。使命感、責任感も愛情もなしです。

リヒテルの2番はこんなはずはないだろうとラインスドルフ盤もコンドラシン盤もCDで買ってみましたが、我がコレクション・リストをチェックしてみるとどちらも「無印」としてました(要は買って損したという意味です)。リヒテルはロンドンで聴いたシューベルト、プロコフィエフは見事でしたが、ことブラームス2番に関する限り性が合わないのかなと思いました。もちろんプロだからそれなりに聞き映えのする立派な演奏ではあるのですが、ゼルキン/セルやアラウ/ハイティンクやR・ハーザー/カラヤンと比べてどうかということで落選とさせていただきました。

ブラームス ピアノ協奏曲第2番変ロ長調 作品83

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クレンペラーのブルックナー8番について

2019 MAY 9 21:21:43 pm by 東 賢太郎

クレンペラーがニュー・フィルハーモニア管を振った最晩年のブルックナー8番というと、第4楽章の2か所のカットのせいで甚だ評判がよくない。ロンドン時代にお世話になった英国人ファンドマネージャーPさんはクレンペラーを高く評価していたが、あの録音にだけはやや辛口だった。1980年代のことだ。Pさんは僕より年齢は一回り上で、お客様というよりメンターであり、プライベートでは友人だった。エルガーのヴァイオリン協奏曲やら知らなかった曲はカセットにレコードを録音して教えてくれたりご自身の批評もくださった。第一次大戦前のドイツでキャリアの基盤を築いたユダヤ人であるクレンペラーを英国人がどう思っていたかということは思い返してみると興味深い。

数々の文春砲もののセックス・スキャンダルが知れ渡っているばかりでなく、クレンペラーは性格も相当変わった人だったらしい。敵も多かったそうだ。しかし、アイザック・ニュートン以来のケンブリッジ大学ダブルトップ(2学部首席)であったPさんのような英国人が支持していたのだ。「敵がいない者の取り柄は敵を作らないことだけだ」と言って。「同じユダヤ人でやはり敵が多かったマーラーがまず彼を認めたが恩人の交響曲を全部は認めなかったし、若きドイツ時代の十八番はカソリックのブルックナー8番だったんだよ」。この言葉を聞いて事の深さを知った。

問題のカットはショッキングなものだ。特に最初の方は、僕はそこが好きだから困ってしまうのだが、クレンペラーにとっては再現部への流れをシンプルにすることが大命題で、音楽的に素晴らしいだけにインパクトがありすぎる「無用の寄り道」だったと思う。2つ目もコーダにはいる脈絡において同じ判断をしたと考える。どのみちLPレコードで2枚組になるのだから録音上の制限時間の問題でないのは明白で、これはクレンペラー版として世に残すものだった。レコード(record、記録)とはそういうもので、エンタメの供給などではない。思索のステートメントを後世に残すものだ。「それが嫌なら他の指揮者を探せ」と録音は強行されたものの、商業的価値は低いと EMI 幹部は結論した。発売は断念され、このLPが世に出たのは彼の没後だった(売れなかったらしい)。天下の名門 EMI 相手に小物がそんな我が儘を通せるはずもない。日本の評論家はボロカスで何様だの扱いでありそうやって彼は敵を作ってきたのだろうが、そもそもブルックナー様やメンデルスゾーン様の楽譜を変えてしまう男の前に評論家もへったくれもない。僕はあのカットを支持することはできないが、クレンペラーという人間は支持する。

彼は曲を「それらしく」鳴らすプロではない。ブルックナーらしくといって、何がブルックナーなのか。NPOの録音に基本的にはノヴァーク版を採用したが、思い入れの殊更強かった8番のこれはシンバルを一発叩くかどうかというレベルの議論ではない。ノヴァークがクレジットできるならなぜ自分ができないかということだったと思う。例えば漱石を読んでいて、自分が「坊ちゃん」を朗読するならまず漱石はどうやっただろうと考える、解釈とはそういうことだ。聞けない以上は想像になるしかないが、それが「(楽譜を)読む」という行為である。「らしく」というのは読んでいる範疇にはない。万人にそう聞こえるだろうという表面づらをなでる欺瞞でしかなく、Pさんが看破したように八方美人は美人でもなんでもないのである。

クレンペラーが単に我が儘でそうしたのでないことは他のナンバーを聴けばわかる。4,5,6,7,9番において非常に意味深い、思考し尽くされた音楽が聴こえる。彼のモーツァルトのオペラの稿に書いたことだが、その演奏にリズム、ピッチ、アーティキュレーションを雰囲気で流したところは微塵もない。そのことと「モーツァルトらしく聞こえる」ことと、どっちが大事だときかれて後者と思う人は「他の指揮者を探せ」と本人の代わりにいいたい。そういう流儀でブルックナーをやるとこうなるのである。

 

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シューベルト 弦楽四重奏曲第15番ト長調D887作品161

2019 MAY 6 18:18:06 pm by 東 賢太郎

僕が一番好きなシューベルトのカルテットは第15番 ト長調 D887 作品161である。この驚くべき作品を何度聴いたことか。シューベルトはサリエリに作曲を習ったが、尋常でない和声の豊穣はどこからきたのだろう?どうして耳に纏わりつくんだろう?

「死と乙女」、「ロザムンデ」より演奏されず人気もない。「鱒」もそうだが、シューベルトは歌曲王だ、だから歌の引用があるといいね、分かり易いし覚えやすいし、そういうことなんだろうか、実にくだらない話でハイドンの交響曲にニックネームをつける下衆の精神またしかりだ。15番にはMov2以外は売りになるような旋律はなく、あるのは万華鏡のような絶美の和声!ベートーベンも辿り着かなかった、極めて特異な世界である。

Mov1は短い序奏があって、カルテットにあるまじき「ブルックナー開始」にびっくりする。そこが第1主題なのだが本題はそれではない。G、D⇒F、Cと短3度上がってサブドミナント(C)に行きつくコード進行、これだ。矢印のところは「上がって」というより「ぶっ飛んで」という感じである。

どうして僕がそれに反応してしまうかというと簡単、ビートルズ世代だからだ。マジカル・ミステリー・ツアーの冒頭、Roll up!  Roll up for the mystery tour! についてる E⇒G、A のコードがまさにそれなのである。

当時はピアノが弾けなかった。ギターのC、G、Fばかりみたいな未開な曲に辟易していた矢先に E⇒G の脳天直撃で目がくらくら、その洗礼がいつだったか記憶にないが日本リリースは68年だから中学時代だ。このアルバムは僕の中に革命を起こしたが、それは出だしの「E⇒Gショック」で始まったのだ。

どういうわけか、この転調に僕はブルー、藍色っぽい濃いめの青色を感じる。出てくると色がぱっと浮かぶ、例えばベートーベンのワルトシュタイン・ソナタ冒頭にも見える。譜面を見てみると C、G⇒B♭、F だ、ああまったくおんなじだとなる。ポール・マッカートニーもベートーベンもシューベルトも、みな曲のアタマで使ってる。ぶっ飛びが「つかみ」に使えると感じた作曲家魂であろうが、ビジネスのプレゼンでもお笑いネタでもそれが大事なのは同じだ、3人がこの和声変化に何らかの特別な効果を感じていたのは間違いないだろう。

シューベルトのカルテット第15番の和声の万華鏡はベートーベンの運命リズムの嵐に乗っている、基本的に。垣間見える後世の作曲家、シューマン、ブラームス、ブルックナー、頭の中がいろんな「色」でごちゃごちゃになる。Mov1の第2主題の後、ソドソドソミレド(静かになる)、これが出てこない、どっかで聴いたんだけど・・。ドーソーミーレドー。まてよ・・・

ブラームス 交響曲第3番ヘ長調 作品90

第15番の出版は1951年、ラインの作曲は1850年だ。矛盾する、おかしいな、そう思っていたらこのブログには書いてない重要なことを思いだした。シューマンは1839年にウィーンのシューベルト宅でハ長調交響曲D 944のスコアを発見して触発され41年に交響曲第1番を完成したが、このドーソーミーレドーはその第2楽章にはっきり出てくる(1Vn、Fl、木管で主題回帰する前、ト長調)。第15番は1826年の6月20日から30日の作曲で、ハ長調交響曲は1825年から26年にかけての作曲であると考えられている。つまり同じ時期に作曲されており、誰との委託も献呈もないからスコアはやはりウィーンのシューベルト宅にありシューマンはこっちも見ていたのではないか。第15番で激した感情を魔法のようにすっーっと収める場面で出てくるそれはシューマンでも似た使い方がされている。

Mov2は4つの即興曲作品90、D899の第1曲ハ短調(1827年作曲)だ、もうあまりにそのもので盗作でしょと笑ってしまうぐらい。Mov4の同名長短調の超短期パースペクティブの交代はもはや狂気の域に達しており、まともについていくとこっちも精神が物騒になる。同じころベートーベンはカルテットで人里知れぬ秘境へたどり着いていたがシューベルトはその道は行かず和声の魔宮の扉を開けていた。先述したMov1ブルックナー開始から主題が隆起していく様は音が大きくなるという単純なものではなく材質感が重くなって容量がふくらんでいく、これはまるで空間の expansion膨張)であり、それが和声の地平の expansion を伴って見たことのない時空を形成する、カルテットとして前代未聞の驚くべき音楽で、どうしてこれが交響曲に結実しなかったか不思議でならない。

想像だが管弦楽法(管楽器、ティンパニ)の制約から思うような転調が出来かねたのではないか。彼はウィーン楽友協会に認められようという意図から管弦楽フォーマットで公衆向け作品としてハ長調交響曲を書き、4本の弦でイマジネーションのまま自由な転調の飛翔ができるカルテットのフォーマットで本作を書いたのだと思う。どちらもアルペジオーネ・ソナタや同じ年の10月に作曲した幻想ソナタのような涅槃の響きがないのはなぜだろう。交響曲、カルテットというベートーベンの十八番のジャンルで彼は「最後の作品」を書き残そうと思ったのではないか。もちろん死を悟っていたからだ。恐れよりも運命に立ち向かう姿。2年後に31才で世を去ることになる若者の気持ちを誰が察し得よう?

演奏に50~60分を要するD887、D 944、D956はシューベルトの器楽曲における三大金字塔であるが、歌曲はもちろんのこと室内楽2作とピアノ曲が彼の魂を揺さぶったままの音楽だと僕は信じている。

15番は正確にリアライズしてもらわないと真価がわからない。誰のを聴けばよいといって、それをクリアしている演奏はあまり聴いたことがない(実演はまだ機会がない)という稀なる音楽だ。信じられないことだがMov1の1stVnの高音はほとんどの著名四重奏団の録音がピッチが不満だ(上がりきらない)。Mov4はアレグロ・アッサイのエッジの立ったリズムで変転する調性の像を結ばせないと何をやっているのか意味不明で崩壊状態になる。だから曲の真価が広まらない側面があろうが、そのギャップを埋めるのが拙ブログの目的だからyoutubeで聴ける以下を選んでみる。

 

アルテミス・カルテット

とりあえず、これかなというところ。物足りない部分もあるが「正確にリアライズしてもらわないと」という点で90点はつけられるから、もうそれだけで表彰してあげたいぐらい大変なことだ。交響曲だと書いた「ストラクチャー」はこれが一番よくわかる。

 

ウィーン・コンツェルトハウス弦楽四重奏団

なにこれ、へたじゃん、言ってることと矛盾してないか?と思われるだろう。確かに。このカルテットは1930年代、ワルターが振っていたころのウィーンフィルの2番手クラスメンバー(レギュラーはバリリ・カルテット)だ。音楽は演奏も難しいが聴くのも難しいのだ。アルテミスQのメカニックな冴えはかけらもないが、闇雲に下手と言うのとはわけが違う。和声のあやしい雲行きはきっちり抑え、4人が音楽を「身に着けて」いるオーラがひしひし伝わってくる。口は下手だが人間的に迫力あるプレゼンと同じ。何も言えない。

シューベルト交響曲第9番ハ長調D.944「ザ・グレート」

 

 

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シューベルト 4つの即興曲D899より変ト長調

2019 APR 30 2:02:08 am by 東 賢太郎

10連休。僕ら海外とビジネスする会社は関係ないが仕方ない。せっかくの時間だからピアノでも弾こうとなり、前からやりたかったシューベルトの4つの即興曲作品90の3番目、変ト長調アンダンテの譜面を置く。神のように美しい曲だ。ト長調じゃない、くぐもったようでほんのり暖かい変ト長調!いいなあ。聴いた音ほど一筋縄でいかないがまあ今日は大体のところでオッケー。

いままでラドゥ・ルプーを愛聴してきたがyoutubeにいろいろある。♭が6つもある譜読みはけっこう大変なので耳から覚えてしまおうということで片っ端から拝聴。印象に残ったのを以下に。

マリア・グリンベルク

メロディは絶妙なルバートで心から歌い、ピアノでこんなことができるのかと感嘆。中間部のドラマが48小節目のppでふっと天国のように音色が変わる。音楽を感じきっており、変転する調性や低音のトリルの深い意味がこれで初めてわかった。素晴らしいの一言。

 

クリフォード・カーゾン

うまい。テンポはグリンベルクよりやや速いがこちらがアンダンテかもしれない。フォルテピアノのイメージに近く、シューベルトが弾いたのはこういうものだったかと思わせる。

 

アルフレート・ブレンデル

美しい。ロンドンで何度かリサイタルを聴いたが pp のタッチの美しさが群を抜いていた。中間部の fz を激することなく弾いて全体にあっさりして深みはないが、このバランスの良さがブレンデルだ。

 

ウラディミール・ホロヴィッツ

バスの弾き方がホロヴィッツだ。ロマン派に聞こえてしまうのが賛否あろうがタッチのパレットの豊富さはやはり只者でない。

 

ヴィクトリア・ポストニコワ

ロジェストヴェンスキーの奥方である。これは凄い。心の歌がびしびし琴線に触れてくる。音符をきれいになぞっただけの演奏とは別次元であり本物の音楽だけが持つ無限のパワーここにありだ。シューベルトに聴かせてあげたい。グリンベルクもそうだが、ロシアン・ピアニズムの精華。

 

タチアナ・ニコライエワ

これはオーケストラだ。このテンポは遅すぎと思うがどうしたらこんなに深い低音が鳴るんだろうというニコライエワならではの芸。彼女のJSバッハ(平均律)もオーケストラだが僕は好きである。

 

グレゴリー・ソコロフ

いいテンポだ。ルバートも大きくなく古典的な佇まいがあるが中間部はドラマティックであるし14小節の pp に落とす感じも見事であり、シューベルトの意図はこうかなと思う。生半可な技術では到底できない至芸。

 

ミトリー・バシキーロフ

淡々と弾いているが詩情が深い。何も特別なことはないが名人芸だ。1955年のロン=ティボー国際コンクールピアノ部門にて最高位、娘はピアニストのエレーナ・バシュキロワでダニエル・バレンボイムの妻。

 

アンドレイ・ガブリロフ

この人はどうなってしまったんだろう?ムーティとやったチャイコフスキーやラフマニノフでテクニック屋みたいに思われたのだろうか、うますぎるのも不幸なものなのか。彼のバッハのフランス組曲は好きで聴いている。これもいい。独特な明るさ、清楚な透明感と暖か味があってテクニック屋などとは程遠い名手である。実に素晴らしい。

 

リリー・クラウス

聴いたことのないヴァージョンだ。やや速めのテンポでアルペジオがよく聞こえ川の流れのよう。起伏に富み自家薬籠中のものになっている。

 

ラース・フォークト

この人もドイツで何度か聴いたが最近は聞かない。ソフト・フォーカスで弾く主部が儚さを醸し出してロマンティックだ。そこはかとないルバートがそこで効いてくる。こういうのも悪くない。

 

カティア・ブニアティシヴィリ

ヴィジュアルに圧倒され、音だけ聴き返したが悪くない。東京で聴いたシューマンPCはばりばり弾くだけで幻滅だったが、この人は音の色彩にセンスがある。

 

シューベルト 「4つの即興曲」 (第1曲ハ短調) 作品90

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ワーグナーは音楽を麻薬にした男である

2019 APR 28 18:18:59 pm by 東 賢太郎

ワーグナーは信じ難いエネルギーで膨大な量の楽譜を残したが、あれだけ多産ということは種をたくさん撒いたということで、まあきれいに書くなら自己顕示欲の塊だった。彼はそこに真の意味における精力絶倫までくっついているのだからきわめてわかりやすい。押しも押されぬ音楽界の大王である。注意しなくてはいけないが、中途半端だとセクハラおやじになってしまう。ところが不思議なもので、あの域までやって大王になってしまうとオッケーどころか崇拝者まであらわれるのである。その世界、過ぎたるは及ぶが如しである。

古来、大王の崇拝者をワグネリアン(Wagnerian)と呼ぶ。英語だから男女はないが、ドイツ語だとヴァグネリアナー(Wagnerianer)で男性名詞である。すると、女性である場合は法則に則って in を語尾につけ、ヴァグネリアネリン(Wagnerianerin)ということに相なる。舌を噛みそうなのでどうでもいいが、男女のリスナーに共通していることが一つある。大王の人としての評価が低いことだ。立派な男だという声は聞いたことがない。唯我独尊、誇大妄想、ホラ吹き、借金まみれ、夜逃げ、踏み倒し、壮大なる浪費癖、王様をカモにして国家財政が危ないほどむしりまくる、女はかたっぱしから寝取る。彼に罪はないがヒットラーがワグネリアンになったから危険な音楽にもなってしまった。救いようもない。しかし、それでも彼は大王なのだ。

僕の評価を言おう。ワーグナーは音楽を麻薬にした最初の男だ。トリスタンとイゾルデに媚薬が出てくる。敵同士の二人はそれを飲んで惚れあってしまう。あのシーンはワーグナーの音楽の全部の象徴ともいえる。媚薬なんてもんじゃない、麻薬である。彼は富も名声も女も、すべて自らの指が生み出す麻薬で得たのだ。中毒になったバイエルン国王ルートヴィヒ2世は湖で変死した。音楽に狂って暗殺説まである王様はいない。若きヒットラーは食費を切り詰めてまでワーグナーを観に劇場に通った。中毒と戦ってやがて離反したニーチェ。トーマス・マンの中毒はセックスと死のどろどろとして三島由紀夫に伝染した。みんなそれなりに熱くてはまり症のある一癖二癖ある男だ。やっぱり男性名詞であることに意味があるんだろうか。

では作曲家は?サウンドをまねた者は数多いる。しかし中毒症状を発して病膏肓に入ったのはブルックナーでもマーラーでもR・シュトラウスでもない。ドビッシーだ。トリスタンなくしてドビッシーはないと断言する。他の者はすべて、それに比べればなんちゃってワグネリアンに過ぎない。ペレアス、海、遊戯のスコアを見ればわかる。僕はそれを、海をシンセで演奏して発見したのだ。ドビッシーがカネの亡者とは聞いたことがないが、女にはやはりめちゃくちゃだった。オカマ系ではない、ワーグナーと同系の、男性、オスそのものである。そうでなくてトリスタンなど書けるはずもないではないか、第一幕前奏曲は男のセックスすばりの克明極まりない描写であり、なぜフェミニストの先生がセクハラ告発しないのか不可解である。解決しない和声とは男の欲求が満たされないそのものずばりなのである。それに感応したドビッシーは、和声連結をまねたりワグナーチューバを使ってみたりの薄っぺらな表層ではない、音楽の根幹、本質で深く深くワグネリアンとなり、やはり男を迷わせ破滅させるメリザンドを解決しない和声で描く。そう、はっきり書こう、両者にとって同じことは、女は客体だということなのである。主体である女性にはわからない所があると思う。

ではヴァグネリアネリンはいないのだろうか?いやいや、いるではないか。しかも、大王に負けない女王である。コジマ・ワーグナーだ。最初の夫、大指揮者ハンス・フォン・ビューローからワーグナーが寝取ったことになってるがどうだろう。僕はコジマが自分からのイニシアチブで乗りかえたような気がしてならない。ビューローには申し訳ないが、音楽家として格が違いすぎた。もしそうならコジマは大王を食った大女王ではないか。ワーグナーの大言壮語はとどまることなく「俺のような世紀の天才にカネを出し惜しむような奴は馬鹿だ、後で後悔するぞ」といっている。ところが、コジマはそんな男を「謙虚で慎ましい」といっている。どういうことだろう?

彼女は本気でそう思っていたのだ。夫の没後も毀誉褒貶から名声を守り、バイロイト音楽祭を今の形に興隆させたワグネリアンの女神である。「慎ましい」、何に対して?もちろん夫の音楽のもっている本源的価値(intrinsic value)に対してだ、それ以外に何があろう。コジマはあのフランツ・リストの娘である。父リストは、誰も弾けず、価値は棚ざらしだったハンマークラヴィール・ソナタを弾いて世に認めさせた。ベートーベンの音楽は発見されるのに時間を要したが、娘はワーグナーの音楽にそれを嗅ぎ取った「違いの分かるオンナ」だったに違いない。「あなた、このスコア、百年後にはン億円で売れるわよ、間違いないわよ、それにしちゃちょっと謙虚すぎない?」と言ったかどうか知らないが、世間では大王様である夫の尻を叩いて、勇気を与え、安心も与えたのは彼女だ。男女の「創造的分業」の鏡である。本当に賢い女性は活動家になる必要はない、こういうことができてしまうし、それは絶対に女性しかできないのだ。

ワーグナーをバイロイト音楽祭やウィーン国立歌劇場やベルリン国立歌劇場やヘッセン州立歌劇場に観に行く。あれは「観に」という感じが近い。細部にまで耳を澄まして「聴きに行く」というよりも、「メタ」に五感が反応するものであって、僕的にはお正月に神社に昇殿参拝してドドドドンと太鼓がたたかれ、ご祈祷が始まり神職が祝詞(のりと)を読み、大麻でササ-ササーっとお祓いを受けてまたドドドドンで終わる、ああよかったねえというあの福々しい感じにトータルには近い。タンホイザーのヴェヌスのエロティックな場面とか、ラインの黄金の水中の乙女の場面とか、まずはヴィジュアルにおお~!となって忘れられないのもあるが、音楽は8割がた僕には祝詞みたいなものだ。しかし2割があまりに良すぎて麻薬であって、それを待つ苦行に耐えているからこそ「来た来た来た!!」となって薬効が倍加するのだから始末が悪い。

ちなみにモーツァルトに祝詞はなくて、徹頭徹尾、終始美しい。それはそれで難しいものだが、しかしドイツの田舎の歌劇場でモーツァルトは何とか聞けても、ワーグナーは無理だ。なぜかというと、人間、体のサイズというものだけはどうしようもない。ワーグナーにはアスリートの側面があるのだ。甲子園クラスのチームと当たってホームベースに整列すると、まずつぶやいたのは「おい、でかいな」だった。広島カープにミコライオという2メートルの投手がいたが、横浜の試合後にJRに乗って、隣にやけにでかいやつが立ってるなと思ったら彼だった。ヒゲが僕の頭の上にあった。あんなのが投げて打てっこないや。じゃあ音楽家はどうか?そんなことはないと思いきや、ワーグナーのオペラだけは別ジャンルだった。ソプラノが舞台にしずしずと出てくる。普通なら顔に目が行くが、しかし、違うのだワーグナーだけは。女性に失礼なので名前は書かないが、まず感じるのはやっぱり「おい、でかいな」だ。中肉中背だけのキャスティングなどあり得ない、東京ドームで少年野球を観るみたいになってしまう。

ブルックナー、マーラーに劣らぬオケのサイズだ。その大音量に負けず5時間も声を張りあげるとなると、ソプラノは巨山が聳えるようなマツコ・デラックスみたいな体格が必須であって、世界中探したってそうはいない。僕はコロラトゥーラの澄んだきれいでかわいい声のソプラノが好みだが、彼女らはワーグナーではお呼びでないのである。おおざっぱに言うならばモーツァルトで大事だといわれるものは聴く側には不要であって、委細構わず常人離れの大音声で客席を圧倒し、大向こうをうならせ、伴奏オーケストラもフルスロットルのアクとケレン味たっぷりでよろしい。そうでないワーグナーなど、僕はなに勘違いしてるの?としか思えないのだ。

レコードならショルティとカラヤンのリングがやっぱりすごい、こりゃあ500グラムのステーキを平らげるようなもんだ。4番バッター軍団はギャラも高いし大物はスケジュールも合わないから舞台上演は難しい、どうしても録音がベストということになるが、もし「リングを舞台で聴かせてやるよ指揮は誰がいいかね」なんて夢がかなうなら僕はロリン・マゼールを指名したい。彼は指揮界のアクとケレン味の大王である。そのせいだろう、日本では甚だ人気がないが彼の音楽力のファンダメンタルは破格だ。ヴァイオリニストでもあり、同業者の間で「ベートーベンの交響曲のスコアを記憶で書けるか?」と話題になった時、俺は無理だ、でもひょっとしてあいつならとマゼールで意見が一致したという逸話がある。

彼は歌なしのリングもやっているが、抜群に面白いのが1978年のこの録音だ。マゼールは脂ののった48才。カラヤンやクレンペラーが振ったフィルハーモニア管弦楽団はプライドが高く、ボケナスの指揮者など上から目線でコケにするつわものオケだが、完全に御してやりたい放題である。痛快この上なし。昭和のむかし、男ならなりたい三大職業が連合艦隊司令長官、プロ野球監督、オーケストラ指揮者だった。で、 指揮者なら?僕はワーグナーの麻薬を撒き散らして思いっきりあざとくやりたい。この「リエンツィ序曲」みたいに。

 

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読響定期(エルツとフラング、最高!)

2019 APR 18 10:10:14 am by 東 賢太郎

今日は行ってよかった!まずなんて見事なプログラム。そしてストラヴィンスキーのコンチェルトを弾いたヴィルデ・フラングの最高級の純度と暖かい木質感を兼ね備えた美音(アンコールのハイドン!)。この曲はプルチネルラや小管弦楽のための組曲の感じをヴァイオリン主役のディヴェルティメントに仕立てた風情の新古典主義時代の作品で大変に面白くフラングの名技と品格あるセンスに脱帽。トゥールの「幻影」は日本初演で作曲者臨席。コリオランとの関連は聴き取れなかったが何やら暗く重い影がよぎる曲だ。武満の「スター・アイル」は音楽の作りがさすが。メシアンのごとく荘重に開始するが、不協和な和声が何とも不思議に美しい。それにしても、どうしてだろうか、今日の読響の音は格別に良い。最後のシベリウス5番、これは特筆ものだ、かつて聴いたうちでベスト3に入る。オラリー・エルツというエストニアの指揮者、初めて聞く名だが只者でない。非常に活舌(アーティキュレーション)が明確で弦のごわごわまではっきり聞こえる。Mov1の主題の再現前のそれは pppp (!)まで音量を落としておいてコーダ前で fff まで行くが、このダイナミックレンジの最大量の変化にテンポの加速が絶妙に呼応。ここはなかなか良い演奏がない難所であり、かつての最高。完全にノックアウトを食らった。Mov2は透明でロマン派に傾斜しないのも好ましい。耳鳴りみたいに響く増4のファ#があまり鬱陶しくないのもユニーク。Mov3のハ長調に転調した部分、Cbの十六分音符のバチバチという弓音が通常以上に響きわたって驚くがこれも活舌の内なのだろう。Vnの pp からコーダに向けて徐々に木管が入るが、このあたりの楽器群のパースペクティヴ(遠近感)は舞台の奥行きの空間感覚まで表現の一部とした全く耳慣れぬものであり、唖然として印象に残った。読響・エルツでシベリウスを全部聴きたいなあ。今期は仕事と体型改善(ジム)でコンサートは時間がなく、迷ったが読響定期だけsubscribeする結果になった。

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タイガーとモーツァルトに見る「男の悲哀」

2019 APR 16 23:23:51 pm by 東 賢太郎

タイガー・ウッズのマスターズ制覇はニュースで知った。彼が例の事件で2年前に世界ランキング1199位まで落ちていたことも知ってこの復活劇は大変なことだと思ったのだが、こういうことがどのぐらい大変なことなのかは数字を見ないとわからない。僕の場合、世の中のことはどうしても「定量化」してわかりたい性分であって、「これは難しいことですよ」といわれても「どのぐらい?」が数字で返ってこないものは言った人の経験と主観に過ぎないわけで、僕は「難しくないかもしれない」と思って聞いている。

このケースでは、彼の後に1199位になった選手がいるわけで、ではその人がマスターズ制覇する確率はどのぐらいだろうかということを材料にして考えればいい。1199個の球が入っているガラガラポンの1個だけが赤玉とする。それが出れば優勝で賞金は2億3千万円だ。ランキング1-10位が赤玉を出す確率が5割、11-100位が3割、101-500位が1割5分、501-1199位が5分に調節できるガラガラポンということでどうだろう?この率は大体の方がご納得いただけるのではないか。すると最後の699人で5%だから、少し甘めに均等に割ったとしても1199位が優勝する確率は0.007%、10万回やって7回だ。1万回に1回もない。タイガーがやったことは、そのぐらい「大変なこと」だった。

しかし、こうやって数字を示しても、特に女性は「ふ~ん、タイガーってすごいのね」で終わりだ。何がすごいのかと思っていると「だって優勝でしょ!」だ。そんなことは最初からわかってるのであって、となると会話にならない。作戦を変えて、「そんな彼がなぜそこまで落ちたと思う?」と我慢して尋ねると卑近な人生模様の話になって会話が続くのである。僕も優しくなったもんだ。タイガーは勝利インタビューで「今までで一番ハードな勝利だった」「子供が自分の全盛期をネットでしか知らないことがモチベーションになった」と語っていたが、彼もマシーンでなく人の子だったとどこかほっとするところがある。2001年の全英で全盛期のプレーを見たが、まさにマシーンみたいに強かった。「でも、色々あって、彼は人間のプレーヤーになったんだね」なんて言うときれいに収まるのだ。

女性の前でその「色々あって」に深入りするのはちょっと憚られるが、熾烈な競争の中で20年近くランキング世界1位でいることがどういうものなのかは下種の勘繰りすらしようもない天上の話だ。だから何をしてもいいわけはないが、彼は女に狂ってドン・ジョヴァンニみたいに地獄に落ちてしまったわけで、このことに下種の僕としては「男の悲哀」をどうしても感じてしまうのだ。競走馬みたいに突っ走れと父に育てられ、親の期待どおりに走って1700億円も稼いで歴史に残るほどの大成功を遂げてみたら、自業自得とはいえ奥さんは去って行ってしまい、到達点には我が世の春なんてなかったのだろう、そこから薬、事故ときてゴルフのプライドまでズタズタになってしまう。

ジャンルは大きく変わるが、それとよく似た「男の悲哀」を僕はウォルフガング・アマデウス・モーツァルトの生涯に見てしまう。彼もまた父親がびしびし鍛えて育てた息子であることがタイガー・ウッズと共通しており、天与の才能もあって頂点に上りつめ、女性関係は死ぬまで華やかでそれが死因に関係しているという説もある。奥さんのコンスタンツェとは気持ちはつながっていて別れはしなかったが、最後は別居状態でいろいろあった。頂上にいる男はきっとつらいのだ。もちろん女の子だってスパルタ教育で突っ走ることはあるんだろうが、それで頂点を極めて男に狂って奈落の底に落ちましたなんて話は僕は知らないし、やっぱり、この悲哀は男に似合う。

モーツァルトは1788年あたりから極度に売れなくなって、ところが1791年の最後の年に、何が起こったのか突然ものすごい勢いで傑作を量産し、12月にころっと死んでしまった。この年のいっときの復活劇にはなんともいえない、どうしてか理由はわからないが深い深い哀感を覚えるのであって、ウィーンの彼の亡くなった場所に僕はまるで先祖の墓みたいに何度も詣でて手を合わせている。それにグッときて魔笛やクラリネット協奏曲を心から愛でている僕は、きっと世の女性とはぜんぜん違うところでモーツァルトのファンなのだ。彼の女性関係は後世がうまく葬ってむしろコンスタンツェが悪妻にされてしまっているが、葬れたのは彼女の尽力によるところもあるのだからその評価は気の毒だと思う。

タイガーも、メジャーでいくつ勝とうが、永遠に女性の敵なんだろう。でもあれだけの才能の男たちに女性が群がってくるのは動物の摂理としてどうしようもないと言ったら叱られるのだろうか。オスは本来メスに選ばれる存在だ。なんだかんだいって人間だけ動物の宿命を免れているわけではないんじゃないかと思わないでもない。女性が「かわいさ」で男に選ばれるよう教育されるのはハンディだとフェミニストの方は主張されるが、そうやって作られたかわいい女に群がって男も激烈な競争をくりひろげなくてはいけない。しかもその男だって能力を磨けと教育されるのであって、その結末を女性にシビアな目で選別されている。男と女は地球上に同数、いや、むしろ男の方が多く生まれるのだから、女がその気にならなければ男は確実に余るのである。

タイガーが軌道に戻ったのは子供がいたからだと思うにつけ、子供を産めない男は弱いと思う。1700億円稼いでも幸福な人生という一点においては実は弱者かもしれない。男は縄張りやカネや名誉を求める生き物だが、それをあれほど手中に収めても青い鳥は逃げるんだということを彼は教えてくれた。

 

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