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カテゴリー: クラシック音楽

フランス・バロックの精華ラモー讃(1)

2026 MAY 22 13:13:22 pm by 東 賢太郎

ラモー、リュリ、シャルパンティエ、クープランら17-8世紀のフランス古典音楽の巨匠の名は英国のグラモフォン誌では頻出する。ところが我が国では「古楽」で独伊英とひとくくり。国別のカテゴリー認識もなく、おかげでその代表格でJ.Sバッハの2歳年上であるジャン=フィリップ・ラモー(Jean-Philippe Rameau, 1683 – 1764)の音楽を知ったのは随分あとだ。ちなみに本稿の表題にはフランスにはバロックはないと言う反論がありえよう。その通りであり「バロック期のフランス音楽」とすべきところだが、便宜上のカテゴリーとしてフランス・バロックとさせていただくことにした。

まずはこのラモーの音楽をお聴きいただきたい。叙情悲劇「カストルとポルックス」第1幕第3場:前奏曲 – 伴奏付きアリア「悲しい小品」だ。

陶然とするしかない。バッハのG線上のアリアはバロックの美だがベルリオーズが絶賛したこのアリアはもはやロマン派の領域で、指揮者テオドール・クルレンツィスの鋭い読みがあるとはいえスコアにないものが出る道理はなく、僕はマーラーのアダージョの世界さえイメージしている。記憶の中で、フランスオペラというとベルリオーズ以後ぐらいしか浮かばないのは作品が劣るわけではなく、我々の方がクラシック音楽というものの受容の中で何らかの思い違いを犯している。ウィーンのハプスブルグ王朝と妍を競ったブルボン王朝のパリで、目線の高いモーツァルトが就職を願ったパリで、そんなはずはなかろう。

オペラの起源は16世紀末にギリシャ悲劇の復興を目指したルネッサンスの中心地フィレンツェにある。シンフォニーも出自はオペラの序曲であり、現代のクラシック音楽の父祖地はイタリアだと言って間違いではない(当時イタリアという国はなかったが)。だからプライドの高いフランス人も最優秀作曲者に与えた栄誉は「ローマ賞」となるわけで、オペラは日本で言うところの “舶来品” だった。舶来品というと素朴な人がプレミアム感を抱き、自慢したり敬意を持ったりする。これは都鄙感覚のなせる業だ。ヨーロッパのどこであれ、音楽の都はイタリアであり、あのモーツァルトですらウィーンにおけるポスト争いではイタリア人のサリエリに勝てなかった。ハプスブルグの貴族や役人たちが音楽においては自らを鄙(田舎)だと思っていたからだ。こういう何をもってしても抗い難いほど根深い先入観のことをpreconceptionというが、優位に出た場合は差別となり、劣位に出ればルサンチマンとなる。イタリア人でないヘンデルやグルックはイタリアで修行してルサンチマンを払いのけ、箔をつけてロンドンやパリで成功した。現代の日本人がアメリカでMBAを取って外資系に就職するようなものである。

Jean-Baptiste Lully

「カストルとポルックス」の属する叙情悲劇(tragédie lyrique)とは、ルイ14世の宮廷楽長および寵臣ジャン=バティスト・リュリ(Jean-Baptiste Lully, 1632 – 1687)がイタリア様式がフランス語には不似合いなためレチタティーヴォとアリアを融合したものである。この不似合問題はドビッシーのペレアスとメリザンドがシュプレヒシュティンメに近い理由という脈絡で語られることがあるが、 17世紀から認識されていたことだ。必ずしもエンディングは悲劇でないものにまで「悲劇」と銘打ったことに古代ギリシャ・ローマ文化の復元運動であったルネサンスが透けて見え、17世紀中葉にパリに既にその波が押し寄せていた事が政治史とは違った側面から分かる。

Jean-Philippe Rameau

リュリが亡くなった頃生まれたラモーはその形式を継いではいるが、ハーモニーを和声と呼び体系化した理論家でもあり(『和声論 Traité de l’harmonie 1722年』)、耳慣れぬ和声進行を伴うオペラ作法は急進的とみなされ、イタリア・オペラを愛好する保守派からは不自然・人為的と批判されたのである。マーラーのアダージョの世界さえイメージしてしまう深い和声進行のアリアは、当時の人が自然に受け入れるどころか奇怪とすら感じたかもしれず、その批判は故なきものとは思わない。芸術に進化論が当てはまるかどうか議論はあるが、春の祭典の初演やピカソのゲルニカのケースをあげるまでもなく、鬼面人を驚かす衝撃が土台となって新しい波が訪れる例はある。

そうである一方で、素朴に “舶来品” を崇拝し自国を卑下する輩はどこにもいる。その品が真の価値を持つならともかく、ウィーンにおけるモーツァルトのように宝がブランドだけの舶来品に負けてしまうような愚を犯すといずれ文化は停滞し、国ごと鄙(田舎)に落ちぶれてしまうものだ。ウィーンは違うと思われるかもしれないが、地元の人はシューベルトぐらいのもので、ハイドン、モーツァルト、ベートーベン、ブルックナー、J・シュトラウス、ブラームス、マーラ-、いずれも別の都市から新しい個性を持ち込んだ人であり、メイド・イン・ウィーンは化学反応の場ではあっても自ら栄えたわけではない。今も舶来品のシュトラウスのワルツを正月の売り物に商売する。ウィーンはそういう都市だ。

ラモー批判は、イタリアの歌劇団によるペルゴレージの「奥様女中」上演で火がつき、大勢のパリ知識人を巻き込んだ文化論争が起きた(ブフォン論争)。シンプルに楽しいこの作品を聴けばペルゴレージを含むナポリ楽派のオペラ様式がモーツァルトの初期オペラに強い影響を与えたことがわかる。

神中心の中世世界観から人間の理性や個性に目をやって重視する思想へ転換し、「ルネサンス以来のあらゆる知」を一つにまとめ近代的な知識体系として再編を企図する「百科全書派」と同じく広い意味で ”啓蒙の文脈” にいたルソー、ヴォルテール、ディドロ、ダランベールらが旧体制批判派の精神的基盤をつくり、あるいは急先鋒となった。この勢力が反王党派を成しフランス革命につながる。「知識を公開し、理性で社会を批判する」という姿勢が、旧体制への不満をもつ人々やブルジョワジーに大きな思想的武器を与えた過程は、かたや、まったく無体系ではあるが、日本においてSNSが政治の内幕を炙り出して変革しつつある現在と相似する点がある。

ヴォルテール

ちなみに、ブフォン論争が1752 – 54年、フランス革命が1789年であり、ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756 – 91)はその間を生きた。彼が母親とパリに滞在した1777 – 79年は革命のわずか10年前だ。国王・王妃が反逆罪で有罪判決を受け公開斬首されるという世界史上重大事件だ。モーツァルトが言及した記録はないが、パリ滞在中に死んだヴォルテールを意識した手紙を父に書き、メーソンに加入し、フィガロの結婚を書いた啓蒙思想側の彼は知っており、91年にメーソンオペラである魔笛を書く誘因になったろう。そちら側であり知名度のある彼を体制側のパリの貴族が雇わなかったのは理にかなう。赤狩りの影響で迫害された経験のあるレナード・バーンスタインは、ヴォルテールの作品「キャンディード」を音楽劇にした。無神論を伺わせるこの作品はモーツァルトがヴォルテールに対し批判的だった原因かもしれないが、書簡での言及は本音を偽装したとも考えられる。僕個人においては、ジョン・ロック、アイザック・ニュートン、フランシス・ベーコンを称賛したヴォルテール(Voltaire、本名フランソワ=マリー・アルエ: François-Marie Arouet 、1694 – 1778)は思想的に近く感じる人間だ。作曲者の指揮でロンドンで聴いた「キャンディード」も大好きである。同時に、それがおちょくった知の巨人ライプニッツには大いなる敬意を覚える者でもあるから複雑ではあるが(理神論)、それは現代社会が複雑に進化した結果である。

ジャン・ジャック・ルソー

大変に紆余曲折を経たが、ヴォルテールが台本を提供したオペラ「栄光の殿堂」の作曲家がジャン=フィリップ・ラモーであったことで話は振出しに戻る。ブフォン論争はフランス伝統オペラとイタリア・オペラブッファの対立だが、実質ラモーとルソーの戦いであり、ヴォルテールはラモーを擁護したということだ。僕はジュネーブの時計職人の息子で放浪生活から成り上がったルソーの人生には驚きと同時に強い共感を覚えるが、彼が寄って立とうとした音楽家としての才能においてはラモーとは比べるべくもなく、にもかかわらずラモーに食ってかかれると信じる社会契約論的な急進的平等論者の、あたかも軽薄な舶来品讃美者のごとき人間の薄さとその思慮の浅いpreconceptionには違和感しかない。しかし革命とはその種の人間が蜂起して起こす現象であって再帰性の保証はないにもかかわらずrevolution(旋回)と呼んで納得してしまうところに人類は思慮の浅い個体が支配的という事実を見る。revolutionは辞書をひけばもっともらしい訳語が並んでおり、日本的事情でひねりだした維新もそのひとつだが、最も近い日本語は「ガラガラポン」である。

ヴォルテールら啓蒙主義者を庇護したのはルイ15世の愛人(公的愛妾)で、政治的に無能であった王にかわる影の宰相、ポンパドール夫人だ。そこそこの教養ある女性だったことが結果論ではあるがあだとなり、サロンや宮廷を通じて貴族・官僚層と啓蒙思想家を結びつける仲介役となり百科全書派を太らせる原因となった。ヴォルテールが構想したオペラ「栄光の殿堂」は影の宰相に牛耳られるルイ15世に対し啓蒙主義的な名君たれと諭す筋置きで矛盾を内包しており、ヴェルサイユ宮殿での初演に宮廷は好意的ではなかった。1745年のことだ。革命への種が芽吹き始めた。

オペラ「栄光の殿堂」より

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我がふるさと神保町風物詩

2026 MAY 14 14:14:04 pm by 東 賢太郎

5月9日、土曜日の事。久しぶりに古本屋街を歩きたくなった。半蔵門線を降りて、神保町交差点に出ると、GW明けにしては心なしか日差しが強い。そういえば去年の事、やっぱりふらっとここへ来て、さあ帰ろうと地下鉄の入り口に向かっていると、階段でも何でもない平らな歩道で急につまずいて転び、ぶざまにひっくり返った。とっさについた右手の親指が逆向きに、爪の半分のところで折れ曲がってしまい、今でも自在に曲がりにくくなってしまった。あれ何月何日だったかなと日記をめくると、なんと本日、5月13日だった。

足が向いた理由は、久しぶりにレコード屋を覗きたくなったことと、駿台予備校時代にずいぶん通った洋食屋とかカレー屋が懐かしくなったからだ。靖国通りにあったディスクユニオンは消えていた。じゃあ御茶ノ水店に行こうとそこから裏路地に入り錦華公園にさしかかったとき、ふと気がかわって猿楽町方面に足が向いた。そこに東家の聖地があるからだ。明治17年に我が曾祖父・東由松(1952~1917)が能登の寒村から上京し現在の猿楽町2丁目に銭湯を作った。ボイラーの機械釜を初めて風呂釜に利用し「キカイ湯」と呼ばれ、絵師に壁に描かせた富士山の絵は、その後全国の銭湯のスタンダードになった。いまはビルなっている。

キカイ湯の目と鼻の先に、東京音楽大学発祥の地の石碑が建っている。わが国最古の私立音大で明治40年の創立だから曾祖父は存命中だ。錦華公園の隣にあったのが夏目漱石が通った錦華小学校で、「吾輩は猫である」の冒頭を刻んだ石碑がある。だからといってそれで僕がクラシック音楽好きになったり漱石ファンになったりしたわけではなく最近になって知った。ただ、こうしたものは神のみぞ知る人生の符牒と解釈している僕は運命論者なのだろう。

毎朝ぎゅーづめの総武線を水道橋駅で降り、東京ドームの反対側になる東京歯科大の前から白山通りを歩いて千代田区立一橋中学校に通っていた。当時、クラスに容姿の気になる女の子がおり、密かなマドンナとなっていた。彼女は地元の子であり、毎朝道の反対側の日大経済学部のちょっと先あたりから白山通りに現れた。ということは猿楽町あたりに家があったのであり、昭和46年まで営業していたキカイ湯を知らないはずがない。まだ猿楽町が自分の祖地とは知らず、女子に声をかける勇気も持ち合わせない子供であったから、お近づきにすらなれず誠に情けない思い出であるが、この方のお名前に曾祖父と同じ文字があるのだからこれも何かの符牒だったのかもしれない。

千代田区立神田一橋中学校 - 皆様の「時」の課外クラブ・は ...

ハイティーンで陸軍新兵として徴兵され散々な目にあった父だが、男子の徳育には軍隊調も辞さずの厳しさだった。かたや母はそれを嫌い、欧米調のリベラルな気風である成城学園が好みで小学校まではその気風で染まっていた。一転して一橋中に入れられた事は完全に父親路線に鞍替えさせられたことを意味した。キカイ湯は由松の長男が継ぎ、次男の我が祖父・憲次郎は人力車を企業化した秋葉大輔2代目と事業を起こしたが自動車の台頭と関東大震災で途絶えた。震災の翌年に本郷4丁目で生まれたのが父・由之助である(「由」は由松に由来)。父は男3女1の4人兄弟の次男で、服部精工舎に勤めた長男をのぞく一家は板橋の清水町に住んでいた。母屋と離れがあり、庭には池があるそこそこの木造家屋で、僕は昭和30年にその離れで生まれたのだ(賢太郎は祖父に由来)。写真のプレートを掲げた長男系の東堯氏と子息の実氏はそれぞれ東芝の副社長、常務取締役で日本色彩学会会長および東京理科大教授であり、次男系の父の兄弟もみな理系だ。だから僕も本来は東大なら理科一類に行くのが筋で文系にはおよそ縁遠く、色弱という理由でそっちになってしまった悔いは今でも残る。

ディスクユニオンに来たのは転んだ時以来だ。その折は何も買っていない。さすがに10,000枚も持っているともう隙間がなくなっているし、持っているものだって聴く時間があるかどうかわからないのだ。今回はしかし目当てがあった。フランスのピアニスト、マルセル・メイエの全集が欲しく、娘に買ってくれと頼んだのだがまだ買ってない。だから入店すると真っ先にピアニストのCDコーナーに行ったものだ。これがまた奇跡としか思えない。なんと17枚組のそれが棚に鎮座しているではないか!

それがこれだ。彼女の全スタジオ録音アルバムで、シャブリエ、ドビュッシー、ラヴェルはもちろん、クープラン、JSバッハ、スカルラッティ、モーツァルトがクラヴサンの如き軽妙なタッチで弾かれた絶品の嵐である。これほど欲しかったものがドンピシャで中古で手に入った経験は無い。しかし、去年もそうだったが、今回もそれしか触手が伸びるものはなく、唯一興味を引いたフランツ・クサヴァー・リヒターのレクイエム変ホ長調も購入した。彼の作品はもう1枚あったが、他を見ているうちに消えていた。この店の客層はなかなかだ。

駿河台へ下るとやたら外人が多い。中国人でなく白人である。聞くところによると、ガイドブックだかYouTubeだかで神保町が話題になってる。海外にも古書店はあるが、ここ靖国通りみたいにずらっと軒を連ねてとなると見たためしがない。早速、新装なった三省堂に入ってみた。この本屋は創業が明治11年でキカイ湯より3年早い。1階を通り抜けただけの印象に過ぎないことをお断りするが、今風、若向けにこだわったのかどこかダダっ広いだけの印象で味気ない。本屋の魅惑であるあの智の凝集感がなく、前のほうがまだよかった。

腹がへったので、反対側の天ぷら屋に入った。ここの天丼は昔から贔屓だ。この通りは「神田すずらん通り」といい何百回歩いたか知れない。一橋中学はこの通りを九段方面に突き抜けた交番の左手奥、集英社ビルの向こう側にある。スパルタ教育で名が通っていて校則がやたらときつかった。もちろん制服は詰め襟で、布製の肩掛けカバンは往路と復路で右左が決まっていた。所定の通学路以外を歩くことは厳禁で、復路での立寄りや買食いなど論外。見つかると生徒手帳を没収され体罰を喰らう。校則は無きに等しく自由放任主義の成城学園から来た僕は目が点であり、あらゆるお店がキラキラして見えたすずらん通りの魅惑には勝てず、教師の目を盗んで毎日のように立ち寄っていたのだ。勉強がゆるい学校からきつい学校に転校したのだからひとかどの向学心は出ていたが、それは教科書よりも文房具に向かっていた。万年筆が欲しかったのだが、アメリカ帰りの友達のお父さんにパーカーをいただいており、買ってもらえなかった。だから、三省堂の前にあるひときわ古風な出立ちの画材店「文房堂」にはぞっこんで、目がクラクラするほど眩い万年筆のショーケースの前にたたずんで、早く大人になりたいと願ったものだ。この店、外観は当時のままだ。創業明治20年。キカイ湯ができて3年後である。開国してまもなくに西洋画の立派な画材屋ができ音楽大学ができ文豪が学んだ。日本人の進取の気性と好奇心は凄まじい。神保町はそのスピリットの横溢した、わくわくする街だったことがよくわかる。今、百花繚乱の様相を呈する洋食屋、カレー屋はその文化の末裔であり、輸入書籍店やレコード屋もまた然りである。中学生の僕はその空気を毎日吸って感化され、やがて関心は西洋画ではなく西洋音楽に芽生えていったと思われる。

東京堂書店にぶらっと入った。三省堂と書店グランデとこれが御三家だった。東京堂はキカイ湯より6年遅く明治23年の創業である。僕はここが好きでずいぶん買っている。大きすぎず、小さすぎずでコンセプトがくっきりした感じがするからである。入店すると、すぐのところに大きめの台があり、新刊本が平積みになる。重厚感のある知的な書籍が多く、チャラいものは一切置いてない。このこだわりこそ書店というものである。店内が明るすぎないのも落ち着きがあって良い。売れ筋ばかり平積みにして、軽薄な音楽で売り上げを促進しようなんて姿勢の書店は潰れて当たり前である。書店はデパートではない。そのコンセプトでロングテールを武器とするネットに勝てるはずがない。概ね思想は左がかっているが、それは大学と表裏一体だ。僕は読書において左右なんて事は気にしない。旗幟不鮮明、無思想、商業主義なんてものよりよほどマシだからである。

古書店が生き残ってるのは各店のカラーがとても濃いからに相違ない。そこで「当たり」に出会えれば値段が少々張っても構わない人が多いということだ。ちなみに、マルセル・メイエのCDに出会った僕はそれと同じ感覚であり、まして、それが2000円位で買えたなんてお得感は格別のものがある。そういう商売は、どんなに生成AIが人間の職業を侵食しようと必ず生き残る。いや、その議論の対象は、商売のみならず、人間がそうなのだ。どんな職業が淘汰されるかという考え方も一理あるが、僕はそれ以前に、淘汰される人間とされない人間があると思っている。されるタイプの人間がこぞって選択する職業から消えていくという順番なのである。要するに、旗幟不鮮明、無思想、商業主義の人間は真っ先に淘汰されるのである。元より、僕自身、中学の頃まではそっちになる運命の人間だったと思う。おそらくは、田園風景に囲まれた世田谷の学校へ行っていたら、そのままだった。往復3時間もかかる通学はとても大変だったが、毎日、延々と書店街を練り歩き、古書店の紙の匂いに馴染み、智の殿堂の空気を吸っていなければ今のようにはなっていなかった。

去年の今日、どうしてここへ来て、けっつまずいて転んだのだろう?思えば、あれから半年というもの、見事なほどに良いことがなかったから明らかな凶兆だったのだ。それが11月になって、僕の大事な「猫」であったフクが天国に旅立ち、仕事は超常現象としか説明がつかないほど一気に形成逆転の威勢を宿してきたのである。そうして怪我から1年経ち、すべての状況は天地がひっくり返った位に好転した。本当に世の中というものはわからない。一寸先は闇だ。

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マイケル・ティルソン・トーマスの訃報(2)

2026 APR 30 13:13:04 pm by 東 賢太郎

興味あることには記録魔だ。理由はなく、そうしないと気が済まない。書いておいて報われたことはあまりないが、1万はくだらないレコードやCDはいつどこで何を買ったかトレースできるから時代時代のタグにはなる。おかげでさっき棚から取り出した1枚のレコードを眺めながら、ああこれか、そういえば行き先でちょっともめたよなあ、でも彼女のおかげでまとまった、今頃どうしてるかなあなんて、もしこれがなければ過去の闇に埋没していただろうメモリーがひょっこり頭をもたげてきた。

それがこれだ。

買ったのは1978年8月、日にちはパスポート見ないと分からないけど、バッファロー大学から日本人グループでツアーしたカナダのトロントで立ち寄った市内のレコード店(A&A RECORDS)で見つけた。ここにマイケル・ティルソン・トーマス(MTT)が現れる!

MTTの「カルミナ・ブラーナ」でショックをうけたのが1977年4月。MTTがボストン交響楽団を振ったドイツグラモフォン盤「春の祭典」を買ったのは1978年5月31日だ。録音されたのは1972年だから発売はその頃で、僕としては15枚目の春の祭典だから随分遅く、 恐らくなめていた。ところが買ってみるとこれまたカルミナと同じぐらいショックを受ける大変な演奏だったのだから彼の名前は焼きついた。前稿に「バッファロー大学のプログラムを選んだ理由に、MTTを生で聴けるかもしれないという期待があったのではないか」という仮説を書いた。ひょっとして語学研修なんかより実はそっちがメインだったんじゃないか?ところが想定外だったオケの夏季休暇であてが外れた。悔しさのあまりトロントでMTTのピアノ連弾の春の祭典を買った可能性は否定できない。もうここまで来れば、刑事コロンボに状況証拠で追い詰められた犯人みたいなものだ、下心がなかったという申し開きは通用しない、真面目な向学心だと期待してくれた父には申し訳なかったことになる。しかしだ、この経験がなかったら英会話はお粗末なままで、野村証券の留学選抜試験を通らなかった可能性は大いにある。ならばMTTサマサマだったじゃないか。結果オーライ。そういうことにしよう。僕のポジティブシンキングの資質は多分に父由来だ。今頃天国で笑ってるだろう。

トロントで買ったレコードだが、以下、ストラヴィンスキー研究家ローレンス・モートンのライナーノートから抄訳する。ここでMTTとラルフ・グリアソンが弾いているピアノ連弾版は、一般に知られるコンサートピース用に編まれたオケ版のピアノリダクションではなく、バレエマスターが振り付けを考案してダンサーのリハーサルを行うためのものだ。初の公開演奏はこの2人がロサンゼルスのマンデーイーブニングコンサートで1967年11月6日に行ったもので、ストラヴィンスキーはそれ以前にこの版がコンサートで弾かれた認識はなかった。とはいえ1913年に出版はされて存在は広く知られていたゆえ半世紀後に「初演」と銘打つのがはばかられるかもしれないが、「初録音」なら法的な正統性を主張できる。 春の祭典は1911年夏に着想され、翌年11月17日に完成しているが、ディアギレフのロシアバレー団はヨーロッパツアー中であり、 12月にベルリンでダンサーのリハーサルが始まり、このピアノ連弾スコアが、少なくともその主だった部分が使用されたと思われる。リハーサルはブダペスト、ウィーンで、そして翌年初めにロンドンで続けられた。ただそれ以前にこの連弾スコアは未完成の状態ではあったが友人の間で演奏されていた。そのひとり音楽評論家のルイ・ラロイはストラヴィンスキーとドビッシーの連弾を彼の自宅で1912年の初春に聴いている。公開演奏は1台のピアノで行われたが、当録音は下の写真を見て分かるようにストラヴィンスキーのリコメンデーションにより2台のピアノで行われた。交差する手の衝突を避けるためであり、また、第1部序奏のような4手に余る細かい音符は多重録音も行なっている。発売日が記載されていないが1978年に買っているのだから1967~ 1978年であることは間違いない。

4手盤は連弾、2台ピアノと多くの録音があるが、ボストン盤に通じるリズムの切れ味、パッセージのクラリティ、打鍵の強さが和声の味を消していない点でこの録音は未だに凌駕されておらず、当時ピエール・ブーレーズの弟子だったMTTの破格の才能を如実に刻印した宝物のような録音であり、ピアノが達者だけの人が腕自慢のショーピースとして春の祭典を選んだとしても、この曲の内奥に潜むマグマの凶暴なエネルギーや未知の星で起きている如き不可思議の神秘性をここまで描き出すのは困難だろう。

そして最後にいよいよボストン盤だ。 28歳の若僧の指揮という偏見はレコードに針を落とした瞬間に吹き飛んだ。 これは我が家の棚にある89種類の春の祭典のうちで、ブーレーズ・クリーブランド盤に並ぶ歴史的名盤と断言する。昨今は新しいサンフランシスコ響とのCBS盤の陰に隠れたような扱いだが、とんでもない。比べるべくもない。人間は若い頃にしかできないことというのが誰しもある。それに加え、間違いなく世界の名ホールの5本の指に入るボストン・シンフォニーホールのアコースティックを見事に捉えた録音はそれだけでも名品の名に値する。木管は水も滴るように艶やかに彩られ、ティンパニは皮の張りが見えるほど音程の良さを誇り、ブラスは混濁がなく非常に強靭だ。我が家のB&Wのダイヤモンドツィーターからくっきりと浮き出てくるブラッシーなホルンの咆哮は恐るべしで、何度聞いてもここまで耳目を驚かせつつスコアの正当性ある解釈の風格を漂わせる演奏は他にひとつもない。マイケル・ティルソン・トーマスさん、あなたはこれからも永遠に僕をエンターテインしてくださると同時に、あなたが天から授かっておられた稀有の才能によっていま僕がここでこうしていられる基盤を築くきっかけになって下さったという確信を持つに至っております。ありがとうございます。安らかにおやすみください。

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読響定期 エルガー「ゲロンティアスの夢」

2026 APR 29 12:12:18 pm by 東 賢太郎

指揮=アイヴァー・ボルトン
天使(メゾ・ソプラノ)=ベス・テイラー
ゲロンティアス(テノール)=トーマス・アトキンス
司祭/苦悶の天使(バリトン)=クリストファー・モルトマン
合唱=新国立劇場合唱団(合唱指揮=冨平恭平)

エルガー:オラトリオ「ゲロンティアスの夢」 作品38

面白かった。この曲を聴こうと試みたことがあるが、途中でわからずやめた。初めて演奏の場に立ち会ってみて、やはり音楽はライブでしか伝わらないものがあると得心した。こんな素晴らしい曲を知らずに来たことを恥じると同時に、新たな宝物を探し当てた喜びいっぱいで帰路についた。昨今はもう知ってるいわゆる名曲のコンサートはタダでも出かける気がしない。かつて充分きいてしまったし、演奏中にパラパラとプログラムをめくったり、わざわざピアニシモのところでキャンディの包装紙をパリパリむいたり、度外れたフライングブラボーをこれ見よがしにぶっ放すような人たちに囲まれて音楽鑑賞なんてのは僕はまっぴらごめんである。20世紀の巨匠たちの名演奏のストックが家にあるからそれで十分。だから知らない曲をやってくれる演奏会こそ行こうということになるが、読響定期に質量でまさるものはない。知名度の無い作品だとそういう人たちはまず来ないし、演奏家の皆さんもお初であれば準備も大変だろう。それで立派な成果を上げてくれればこちらも大いに讃えるしかない。ルーティンプログラムでは味わえない本当の創造の場に居合わせた幸福感は聴衆としては何度味わってもかえがたい喜びである。

エルガーがカソリックとは知らなかった。そうでないとこの曲を書くには至らない。なぜならこれは敬虔な男の魂が死の床から神の前での裁きを受け、煉獄に落ち着くまでの旅路を描いているからで、煉獄(purgatorium)はカソリックにしかない概念だからである。人間は死ぬと天国か地獄に行く。大罪を犯した者は地獄行きだが、そうでなければ天国に行く。しかし小さな罪は誰も犯しているので天国で神に同化する前に清める必要がある。それが煉獄で、死者のための贖罪であり、浄化ともいう。そういえばカソリック教会の腐敗の象徴とされた「免罪符」はこの贖罪効果があるというふれこみのお札を金銭目的で売りさばいたものだった。ちなみにリヒャルト・シュトラウスの「死と浄化(Verklärung)」をAIで調べるとこちらはひとりの芸術家が死の床にあり、苦悩・回想・闘争を経て、最終的に理想へと昇華することを描いたもので宗教的な意味はないようだ。

1900年に初演された「ゲロンティアスの夢」は英国の神学者、詩人であるジョン・ヘンリー・ニューマンの詩によるオラトリオだ。ゲロンティアスなる男が亡くなり魂となり、天使に導かれて天上に昇り、神を垣間見て煉獄に至る様が描かれる音楽である。このたび大いに感銘を受けたのは、ロマン派の後期以前に書かれたいかなる宗教音楽とも異なって、死者の鎮魂や残された者の慰撫でなく、毅然と死にゆく男の恐れと希望を内面から描いたことだ。宗教的外形を守りつつも視点は生身の心に注がれ、ゲロンティアスの目を通した神秘現象を垣間見るリアリズムを盛り込みつつも20世紀的な心理をナイフで切り裂くような尖った音楽でなく、ロマン派の残照をたっぷり残す話法で感動的に物語は進んでいく。

魂となってからの第二部冒頭はヴィオラによるブラームスのドッペル第2楽章と同じ音列でひっそりと開始する。弱音器をつけさらにpppで奏される弦楽合奏は、ゲロンティウスの目に映る天上の花園だろう、ただごとでない美しさを湛えるが、描くのは景色でなく彼の心象である。この神秘主義的な彩りこそ20世紀的であり、浄化の象徴である天使のメゾソプラノの清澄を遮る悪魔の威圧的な嘲笑の場面も合唱を有効に使うことで主人公の心の動揺から描かれる。そこから楽曲の頂点に至るオーケストラと合唱の対位法的な高揚、神の姿による法悦はゲロンティウスの心象風景に聴衆が合一するこのオラトリオの真の頂点である。 近頃海外のオペラを聞いておらず3人のソリストは知らない人達だったが、 一流どころでタイトルロールを張っているクラスであることに相違なく、また、エルガーのオーケストレーションに有機的に織り込まれている合唱パートで新国立劇場合唱団の担った役割はとても大きかった。アイヴァー・ボルトンは初めて聴いたが、読響の良さを引き出したと思う。今や日本のトップオーケストラはワールドクラスのレベルに十分達している。

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マイケル・ティルソン・トーマスの訃報(1)

2026 APR 27 9:09:07 am by 東 賢太郎

Michael Tilson Thomas 1977

いよいよマイケル・ティルソン・トーマス(MTT)も鬼籍に入ってしまった。どういう訳か、 11歳しか違わない同世代人だったのに僕は彼のライブに縁がなかった。だから本稿は「僕がなぜか聴かなかった名演奏家たち」というタイトルが本来ふさわしいのである。同時代というだけならそこまでは思わないが、先ほどウィキペディアを調べると、彼は1971年から1979年までバッファロー・フィルハーモニック管弦楽団の音楽監督を務めているからそういう思いが頭をもたげた。なぜなら、奇しくも僕は1978年8月の1ヶ月間、ニューヨーク州立大学バッファロー校語学研修プログラムに参加していたからだ(以下、バッファロー大学)。

大学4年のことである。就職準備すべき最中になぜ遊びに等しいそんなことを考えていたのか。その前年にまったくの無計画で1ヶ月アメリカ西海岸を放浪し、あまりの語学力の無さ(通じない)に危機感を覚えたのが大きい。人生にかかわりのある問題ではなかったが、子供の頃から父に「これからは英語ができないとダメだ。そういう時代になるぞ」と吹き込まれて育ったからそのままではいけないと思ったのだ。父は徴兵されながら鬼畜米英報道の嘘を見抜いていたわけで、それがなかったらこれもなかった。そこで、最初の渡米でロスで訪問させて頂いた父の同僚の支店長から「アメリカは西と東は別の国だ、東海岸に行かんと駄目だ」と教わり、東への強い関心が芽生えていた。法律は逆さに読もうがどうしようがドメスティックな話で、学科で興味を持ったのは世界の法律の礎となったローマ法だけと、その他は全く興味を持てず、何のため文Ⅰに入ったのか自己崩壊に近づいていたこともある。といって最終学年になって麻雀に明け暮れては先がない。アメリカに留学すべきだというあてどもない気持ちが湧き起こり、女の子にまざって水道橋のアテネフランセに通った。我が家は裕福な家庭ではない。廉価の方法はないかと探すうちどこかで米国留学渡航費無料という話を聞いて電話したら、それは虚偽ではなかったが宗教だった。世の中こんなものかと悟る。そこでさらに探してバッファロー大学語学研修なるものに行き当たったというのが顛末だった。初回は友人2人を誘って3人で渡米したが今回はそのつもりは全くなかった。遊びでなく修練のつもりだったからだ。

あの宗教は1回だけ説明を聞きに行ってみたが紛れもなくキリスト教の布教であり、東大生の1本釣りを狙っていたようで担当の女性がものすごく熱心だった。もし分かりましたと素直に渡米していたらどういう人生になっていたのだろう。クラシック音楽とキリスト教は切っても切れないから改宗してアメリカ本部の幹部にでもなってひょっとして面白い人生があったかもしれない。しかし我が家は浄土真宗でそっちはあまりに縁遠く、父は就職に関しては本道を外すなどもってのほかという保守的な銀行員だった。タダにつられて参加したら両親は即倒するだろうと心配したわけである。すべて話したら父はぽんとバッファローの100万を出してくれ、4年後に野村證券が本物の留学をさせてくれたあかつきに会社の持ち株で返済した。お金の価値は相対的なもの。必要な時は1円でも値千金の価値がある。この研修への参加で僕はひと皮もふた皮もむけ、後々に精神的にとてつもないインパクトを及ぼすことになる。

バッファローはニューヨークから北西に1時間ほどのフライトでナイアガラの滝に近い。行きすがら立ち寄ったマンハッタン。エンパイアステートビル、自由の女神、ロックフェラーセンター、誰もが初めて訪れて抱く驚愕!後に何回も行ってそんなものは日常になるのだが、この時に受けたお登りさんの洗礼は一生忘れないだろう。

マンハッタンの驚愕

ビデオで見慣れた今時の若者はへーで終わる事もあろうが、当時はそれなりの緊迫感と希少感があったものだ。なにやら、ここが世界のへそなんだ、ここで世界が動いているんだという感動が足元からじわじわと湧き起こり、そこに立っていることの不思議に足が震え、天空を見上げては圧倒され、「西と東は別の国」の教えを噛み締めた。ウォールストリートはここにある。深層心理の中で証券界でグローバルに活躍することを志そうと思い立つ動機のひとつになったのかもしれない。さらに脳裏に浮かんだのは「山本五十六はエンパイアステートビルもワシントンブリッジも見ていた。君はこれを見てこの国と戦争しようと思うか?」という小説だか映画だったかのくだりだ。軍も総理官邸も閣僚も、いやおそらく天皇陛下だってお分かりになっていたのではないだろうか。にもかかわらず日本特有の「空気」なるものが許さなかった。反対すれば2・26みたいに暗殺。やったところで軍事裁判で死刑。軍人は東京裁判という名のアメリカのリベンジで、本当に気の毒だったが現にそうなったのである。政治家や官僚はなるもんじゃないなと思ったが、幸いもとより向いてない。先祖ができたことをやれば俺もできるだろうと、母方の商人の血筋に従う気持ちが固まったのはこの時である。

初出時のジャケット

MTTの「カルミナブラーナ」(写真)と「春の祭典」は東大時代に衝撃を受けた2大レコードで、我が人生におけるメルクマール的存在といって過言ではない。購入日を調べるとカルミナが1977年4月29日、春の祭典が1978年5月31日であり、バッファロー大学滞在時には当然ながら彼の名前も焼き付いていたのである。したがってここから以下のような推論を展開することになる。もしかしてこのプログラムを選んだ理由のひとつとしてMTTを聴けるかもしれないという期待があったのではないかという仮説だ。そのつもりで行ってみたが叶わなかったのではないか。オーケストラは夏季休暇があるという慣行を当時は知らなかったからだ。やむなく、「キツネの酸っぱいブドウ」で脳が記憶を消去した。したがって、先ほど発見したもろもろの顛末も、あたかも今起きたニュースのように感受できたのかもしれない。さらに事実がある。図書館で見つけたシューマン交響曲第1番、ストラヴィンスキー火の鳥1911年オリジナルバージョンのピアノ二手リダクションスコア、および、春の祭典の2台ピアノスコアを多大な情熱と時間とコストを投入してフォトコピーし、ニューヨークではストコフスキーがヒューストン交響楽団を指揮したカルミナブラーナのLPを買って帰っていることだ。MTTを聴けなかった認知的不協和が残っており、コピーと買い物によって溜飲を下げたとすれば内容からして辻褄が合う。そうだとすると、我が人生を大きく変えたこの語学研修参加への決断にはマイケル・ティルソン・トーマスとその2枚のレコードの存在が関わっていたことになる。

University at Buffalo,
The State University of New York

バッファローでの1ヶ月は今となっては夢のような青春のページェントだ。参加者は男女合わせて10数名だったろうか、大学生が多かったが大学の先生もおられ、どこから来られた人であろうと少々年齢の上下はあろうと、ここでは同じ穴のムジナで皆さんすぐに仲良くなり、ナイアガラやトロントへ小旅行したりソフトボールをやったり楽しい日々を送った。皆さんその後はお元気でご活躍だろうか。その小さなコミュニティの中でも、いかに自分が狭い環境で生きてきたかを知り、目が覚めることが多く、すべてが目新しいアメリカの生活の中で日本人の団結こそ大事だということを学んだ。何より、正規の学生ではないが雰囲気だけは存分に味わえたバッファロー大学というノーベル賞学者や宇宙飛行士を輩出している素晴らしい環境だ。好きなことをいくら目指してもよく、その気になればいくらでもサポートが得られ、大学にそれを実現する素晴らしい環境があり、前を向き上を目指す人たちばかりと暮らすことができる。突拍子もないアイデアを持ちかけても真剣に取り合ってくれ、「いや~そうは言っても」なんてくだらない常識論のご託を並べる者などいない。もちろんお金が必要だが、前を向き上を目指せばそれも入ってくるだろう。これが自由主義か!教科書で習った干らびた概念ではない、日々歩き回ってそこら中で吸い込む空気が自由の香りに満ちている、そういうアトモスフィアを総称してそう呼ぶということなのである。なんて素晴らしい国だろう。いや、これこそがヨーロッパ人が血を流して勝ち取った自由というものの真の姿なのだ。すべての人間が享受すべきものだ。これを知っただけで受験勉強の何百倍ものことを体得し、いよいよ本当のアメリカ留学をしてみたいと考えるようになった。その後に想いは叶い、コロラド大学に1ヶ月、ペンシルベニア大学に2年籍を置いた。3つの大学にお世話になったわけだが、大学は警察もある自治の場だ。バッファロー大学で根源的、直感的に得た「自由」への感慨は形こそ個性をまとってはいるがどの大学にも共通して存在し、今に至るまで微塵も変わらずその指し示す通りの道筋をたどって現在地にやってきたというソリッドな実感がある。

留学ために野村證券を選んだわけではないし、行きたいなどとわがままを言える甘い会社でもなかったし、「思う一念岩をも通す」だったのだろうと格言でも持ち出さないと説明がつかない結末となった。まさかクラスで目立ちもしなかった凡庸な自分にこんな人生が用意されていたと誰が想像しただろう。答えはクリアだ。これこそが父の投資の成果だったのである。父はお堅い銀行員のくせに株式投資が好きだったが、 一番成功した投資は僕のあそこの100万円だったねと言っても異論はないと思う。投資は惜しんではいけない。惜しむ人は日本という自由主義国家に生まれた特権のオプションを行使せず、真の自分を知らずに人生を終えることになるかもしれない。ということは不幸にも絶対主義国家に生まれてしまった人と変わらない。あまりにもったいないのではないだろうか。

MTTは後にサンフランシスコ交響楽団の音楽監督になるが、このオーケストラは前年の西海岸旅行の野犬騒動で死にかける事になった楽団だ。もちろん楽団のせいではないが、指揮したウィリアム・スタインバーグの方が翌年亡くなった。スタインバーグはグスタフ・マーラーの弟子だったオットー・クレンペラーの弟子であり、あの日の演目がマーラーの1番で、ティンパニ奏者の横で体験したこの震撼すべき素晴らしい演奏を僕は一生忘れることはない。マーラーもクレンペラーもスタインバーグもユダヤ系であり、やはりそうであるMTTも生涯最も力を入れた作曲家はマーラーだった。彼は1988年からロンドン交響楽団の首席指揮者になっており、僕は1990年までいたから2年重なっていたはずだが聴いていないのはプログラムに当時あんまり馴染んでなかったマーラーが多かったためかもしれない。

カール・オルフ「カルミナ・ブラーナ」

マイケル・ティルソン・トーマス指揮クリーブランド管弦楽団

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ハチャトリアン 「剣の舞」

2026 APR 18 12:12:39 pm by 東 賢太郎

僕の半世紀にわたるクラシック遍歴はユーチューブにアップしたこの1枚のレコードから始まりました。

いきなり襲いかかってきた凶暴な音楽に一撃でぶちのめされ、それまでは女のやるもんだと思い込んでたクラシックのイメージが粉々に砕け散りました。それが「剣の舞」でした。自分にとってはビッグバンみたいなものだった歴史的な音がこうして聞ける。まさにレコードです。父に欲しいとねだったのはボロディンだったんですがこんなことになろうとは・・・

ハチャトリアンのスコアはPetrucchiにありません。でもシンセでつくった記憶がある。おかしいなと本棚を探してみると日本楽譜出版社のガイーヌ第1組曲がありました。第1曲「剣の舞」の冒頭余白に17Nov91~と書き込みがありこれはロンドンから帰国してドイツに赴任するまで東京本社にいた時になります。のめり込んでいたのがわかります。完成は24Apr94でフランクフルトです。スコアを全部弾くのに2年5か月かかってます。仕事しながらなので。

そのころ第2組曲のスコアを買ってます。印字はロシア語でMockba(モスクワ)1970とあり、”SOVIET COMPOSER” と国家管理を明記され、下の方に「ドイツ連邦共和国とスカンジナビアの版権をハンス・シコルスキー音楽出版社に与える」許可印が押してあります。これが必要なのでストラヴィンスキーは西側で印税を得るために1911年に「火の鳥」の組曲版を作ったのです。

ハチャトゥリアン

剣の舞。今でも血沸き肉躍る名曲です。どうしても自分で演奏したかったんです。ところが2分半ぐらいの曲なのに録音は難儀でした。中間部でアルトサックスとチェロのソロが妖艶なメロディを奏でますが、4拍子がここは3拍子になり、ティンパニは4拍子音型のままであり拍子の頭がわからなくなってきて、裏打ちリズムのタンバリンと弦を何度もやり直しました。この曲の命はまさにその「裏打ち」で、追い立てられるような焦燥感を煽られるうちに強烈なビートがだんだん快感になってくる最もロックに近いところにあるクラシックのひとつでしょう。これがウルトラ男性的であるゆえに、中間部の中央アジア的にしなやかで翳りのある女性の出現が猛烈にエロティックで一種の麻薬効果すら帯びている。何百回も聴いてますが飽きることがありません。スコアの見かけは春の祭典そっくりです。この音楽は戦いの場ではなくめでたい結婚式のパーティーの「民俗舞踊の盛大な祝祭」の1曲となっており踊るのはクルド人です。

マイバージョンで重視したのは中間部が終わって冒頭に戻る直前のドラムです。スネアとティンパニを凶暴にぶっ叩かないといけない。ほとんどの録音は問題があって不満で、ラザレフやスヴェトラーノフは強烈ですがスコアを変えている。ゲルギエフは最速だがやりすぎ。オーマンディは意外にダサい。パーヴォ・イェルビ指揮フランス放送響は都会的に洗練された優れた演奏ですが野性味に欠け僕には物足りません。さすがなのは作曲者がウィーンフィルを振ったこの演奏です。オケはこなれてませんが重量感は魅力(ロンドン響との旧盤は2分32秒のテンポで冴えません)。

ちなみに冒頭にご紹介したアーサー・フィードラー指揮ボストンポップス盤は問題個所も秀逸で文句なし。こういうホンモノで入門するのは大事と思います。フィードラーは作曲家の解釈を尊重しており、演奏は2分20秒と1秒遅いだけ。ボストン・シンフォニーホールの音響も最高です。

次のも2分20秒。ピエール・カオ指揮ルクセンブルグ放送交響楽団の演奏です。こちらは問題箇所のパンチはもう少し欲しいですがビートの推進力が抜群に素晴らしい。このルクセンブルグの指揮者をご存知の方はほとんどおられないと思いますが、ルイ・ド・フロマンのアシスタントでキャリアを積み、だいぶ昔ですがアメリカでブラームス3番の廉価カセットを買って印象に残っています。

次もいい、問題個所はスコア通りこうこなくては。エフレム・クルツ指揮ニューヨーク・フィル、1947年の録音。同楽団初演が前年だからアメリカ人がこの曲を初めて聞いたあたりの演奏です。

次はアルメニア国立アカデミーバレエ団がサンクトペテルブルクのマリンスキー劇場で演じたもの。最後にテンポを落としますが、作曲者は結尾をディミニュエンドにしたかったと語っているのでこれもありでしょうか。いやド迫力です。これが観られるなら行きたいですね。

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田部京子のシューベルト

2026 APR 4 13:13:15 pm by 東 賢太郎

昨年からブラームスのドイツレクイエムに没頭し、後期のピアノ曲を味わい、先日ブログにしたインテルメッツォ作品118の2は鋭意練習中である。といって、素人の分際であるからご披露できる代物になることなどないだろうが、ピアノを弾いていると何にもまして集中でき雑念とおさらばできる。こういうのを精神衛生上よいというのだろうが、その点きわめて鈍感である僕は精神衛生が悪かったという記憶があまりなく、平穏に過ごしたいわけでもなく、この世のものと思われないほど美しいものに接し、それが自分の指先から流れ出る贅沢というのは何物にも代えがたいというだけのことだ。

作品118の2は弾き終えてもずっと頭に残り、ひと晩寝て起きると、エルガーのニムロッドに姿を変えていたりする。僕には時々あることだが、睡眠中に、無意識が記憶のプールの中から似たものを検索して拾ってきたのだ。可笑しなものだが、それを覚醒してる意識のほうが、なるほど、ちょっと似てるねとまるで他人に教わったように受け止めるのだ。たしかに、これがまた何といい曲だろうという感嘆を伴って。

それほど難しくはない。あの日に母を見送ったこれを、できればいちど教会のオルガンで弾いてみたいものだ。

暗譜してしまったのはシューベルト即興曲集 第3番 D 899 Op.90-3 変ト長調だ。彼の晩年の作品は地獄の深淵を覗くものを秘めているが、これもそのひとつだ。しかし、それあるゆえに、夢うつつのような主部の天上的な美しさは尋常ではなく、生きていることがいかなる奇跡であるかを教えてくれる。いたたまれぬ精神の中からこれを紡ぎ出して人類に与えてくれたシューベルトの魂が32年で燃え尽きてしまった不条理は、キリスト教徒ならイエスの死に喩えることさえできるのではないか。我々日本人としては、深い含蓄に富む日本語である有り難きこと、すなわち、魂の真底からの感謝を捧げる格別のものという感興がいつも浮遊している。彼の音楽というものは、単に楽譜を真摯に読み込んで音にしましたというものは歌曲であれ交響曲であれ心の奥底には響かないという意味で誰のものとも異なっている。

シューベルトと言えば、田部京子さんを思い出す。ドイツ時代にお会いし、ご自身がその前年に録音されたピアノ・ソナタ第21番変ロ長調D960のCDを家に送ってくださった。当時、 39歳だった僕はまだこの深淵な作品の真髄に触れるには若すぎ、その後何人ものピアニストの演奏でやっとそこに近づいたのである。先日、このCDを取り出してみて、 27歳でこの演奏を成し遂げた彼女の才能に今更ながら賛辞を送るしかなく、 32年も経ってこれを書いている自分の音楽的成熟の牛歩の如き遅さが嫌になる。東京芸大付属高校在学中に第53回日本音楽コンクールに最年少優勝、芸大を経てベルリン芸術大学および同大学院を首席卒業という経歴からして不思議なことではないのか、その世界の事情は計りようがないが、たおやかな神経の通った内省的なタッチがまさにシューベルトである。即興曲を弾いてみたことで、死を間近にした彼が言いたかったことが見えるようになり、やっと感知できたことだ。

即興曲と同様にこのソナタにも暗く淀む低音のトリルが出てくる。不吉な軋りの短2度も出てくる。これらをどう読み、どう扱うかはその人の至ってプライベートな感性による秘匿された領域に属するのであり、同時代人であるが形式論理から大きな逸脱は許されないベートーベンのソナタと比べることができず、といって、ロマン派であるシューマンやブラームスの方が自由度が高いというわけでもないという、音楽史の時系列から見て非常に個性的な世界観の中に聳え立つ孤高の傑作群のひとつである。つまり、超絶技巧を持ついかなる高名なピアニストといえどもシューベルトのいくつかの作品はふれない方が無難なのであり、この特質は時代ではなく人間の本質に根ざしているからおそらく永遠に変わることはなく、他のジャンルの音楽と交配することもなく、クラシックと呼ばれる檻に囲まれた中でもまた特別であるひとつの領域に収まり続けるであろう。

皮肉なものだが、これほど本質的なものがやがて来るロマン派という豊穣の波に押し隠され、半世紀以上も忘れられてしまう。後期ピアノソナタはブラームスの時代は一般的なレパートリーではなく、そうなったのは20世紀のシュナーベルやケンプの時代からといっていい。シューベルトはその意味で孤高ではあったが、人間というものの皮相な軽薄さを映し出す鏡でもあったことの方がいっそう重要である。僕は一部の著名なクラシックのメロディがポップス化することに否定的な人間だ。それは保守的な思想からくる来る品格などの高邁な意識からではない。聴衆の頭数を一時的に増やすかもしれないが、同時に、音楽の本質を知る流儀を徐々に後退させ、結局は本物の聴衆の数を減らしてしまうからだ。数学がとっつきにくいという理由で文科省が円周率3.14を3にしたところがかえって数学の平均点を下げたという間抜けな現象がそれを象徴している。いくら取り込んだところでポップはポップでしかない。シューベルトという人はもしかしてそれを望んだのかと思わないでもないが、病魔に阻まれてそうなれなかった。だからこそあの音楽が生まれたのである。若い頃は社交的であったベートーベンその人がまさにその典型である。シューベルトが彼を師と仰いだのは音楽性の領域からというよりもむしろそのためだろうと考えるのは、たとえばピアノ・ソナタ 第18番ト長調D.894の第2楽章に師のソナタ18番の冒頭が、第3楽章には悲愴ソナタの終楽章がオマージュのようにひっそりと、しかしそれを知る者にははっきりと現れる、僕はそれが彼の共感の根源であり、そこにシューベルトの音楽の本質があることを暗に示唆していると感じるからだ。

田部は暗部を無用におどろおどろしくなく、全てを悟った諦念のごとく響かせ、それでも生きられるかもしれない灯火への命の希求を澄み切った空に解き放つ。ただ、そのことは珍しい事ではない。近世の理性・個人・科学を重視し後期ロマン派の洗礼を受けてからのシューベルト像、すなわち、本人はつとめて悲しみも怒りもあきらめてもいない風を装うのだが、指先から抑えきれず流れ出てしまう陰惨な運命への慄き、慟哭に聴く者は深い悲しみを覚えて心を揺さぶられるというナラティブで解釈するピアニストはいちいち指摘するまでもなく数多いるのである。端的に言おう、スピロヘータが梅毒の因で治癒できることを知る我々と、なに故に体中に不気味な斑点が現れるのかすら知る由もないシューベルトの戦慄は似て非なるものだ。例えばCDが出た時に話題となったアファナシエフだが、ここまで病魔の姿を抉り出すと僕はシューベルトの肉声とは異質なものを観てしまう。あれは肉体の奥底から響いてくる黄泉の声への本能のおののきであって、その姿は見えず、あれ俺は何を恐れているのだろうという自らの声なのだ。

田部の演奏が今も新鮮なのは、おそらくナラティブからやや距離を置き、純粋に、自らの心の耳で聴き取った音を磨き抜くことで、期せずしてナイーブなシューベルトの肉声に寄り添っているからだ。そしてソナタのフォルムは実に美しく守られている。ユーチューブのインタビューだったか、彼女はシューベルトの音は天から降ってくるという意味のことを述べていたが、まさに、いわば実証主義的に、それに耳をすまして聴き入る沈黙のプロセスがあったように感じる。ベートーベンという人は、そうして聞き取った天の音を彼一流の建築的構造物に仕立て上げ、我々はそれを見上げて息をのむという鑑賞になるが、シューベルトは徹頭徹尾、歌の人であり、交響曲であれソナタであれ形式論理の入れ物に盛り込んでもそれはあまり本質ではない。といって壊してもいけない。その微妙で繊細なバランスの中に陰と陽のもう1つのバランスを入れ込まなくてはいけないという条件を満たす所に高い集中力をもって立ってこそ満足な演奏が生まれるのである。田部がそういう意識を持っているかどうかは存じないが、結果として、それは達成されている。前述のようにそれは極めてプライベートな感性の領域における産物であり、教えたり教わったりというものではなく、老成すればできるというものでもない。できる人だけがシューベルト弾きと言われる、定義するならそういう性質のものである。

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イリアーヌ・イリアス 『夢そよぐ風』

2026 MAR 31 7:07:27 am by 東 賢太郎

たった一度しか行ってないのに脳髄に衝撃を受けて人格まで変えたかと思われる国があります。ブラジルです。 いちぶ始終はといわれても夢のようで細かいことはあんまり覚えてません(2016年のブログにある程度書いてます)。

リオデジャネイロまでバンクーバー経由で24時間。タクシーで着いた宿はシーザーパレスと書いてますが、AIで調べるとCaesar Park Rio de Janeiroだったようで、あの「イパネマの娘」のイパネマビーチに面してる高層のホテルでした。

ビーチに出るとトップレスの女の子が100人か200人かどわーっといて目が点になります。きいてみるとカー二バルの前の週だったんですね、国中から女の子が集まってたらしく、あんな絶景、人生でそう拝めるもんじゃない。今となるとあれはコパカバーナビーチだったかな、どっちかな、まだ36歳でしたからね、僕も連れの後輩も絶句してしまいましてね、ホワンとした記憶しかないんです。

このホワンは「イパネマの娘」のサビのふわふわ感みたいです。ちょっといかれてるけどセクシーな、心のもやもやを優しく癒してくれるボサノバのあの魅惑的なコードはこういう土地からじゃないと出てこない。なんせ2月でしたからね、前の日までスーツで底冷えのする大手町歩いてたんですから目が覚めたら乙姫様の真夏の極楽にいましたってなもんで、同じ惑星の出来事とは思えません。地球の裏側まで一気に飛んでこういう経験された方はわかって頂けるでしょう。

こっちが接待されたんですね、ディナーの後はナイトクラブに連れていかれて、ブラジルの夜は長いことを知りました。当時インフレは300%と経済はボロボロで、アメリカ人が「ブラジルの経済は夜成長する」とジョークネタにしてましたからね。食事は何だったか覚えてませんからいまいちだったんでしょう。ナイトクラブのブラスとパーカッションがバリバリのラテンバンドは迫力満点で、音楽がどうのというより空気を変えちまう。 音楽は耳じゃなく体で味わう。直撃する心地よさというか、いやあいいな、ずっと浸っていたいなという快感です。

そこがどんな感じだったか、どこかに書いたなと思ってましたが意外なところにありました。

R・シュトラウス 歌劇「サロメ」より「7つのヴェールの踊り」

酒が弱いのは損ですね、綺麗な子に囲まれてたのにすっかり酔っぱらっちまってぷっつんです。そうそう、彼女たちはポルトガル語オンリーで英語も通じないんでどうにもなりませんわね。とにかく竜宮城の浦島太郎状態。ブラジルの男を嫉妬しましたね、同じ人生なら金も名誉もいらねえや、こっちの方が断然いいなと確信したものです。まあニューヨークもパリもこういうとこはありますからね、日本の男は残業は減ったかもしれないけどド真面目に生きてますよね、ホント、小学校から塾通って受験受験で遊びを知らず、社会に出たからって生き様はそう変わりませんわね。僕は大いに遊んじゃった部類ですが、それでもブラジルで目が点でしたからね、若い男性の皆さんは30代までに世界の野郎どもを見て回って男を磨いた方がいいですね。

サンパウロはまあまあ、ブラジリアはいまいちでしたね。まあ役所はそっちなんで仕事だから仕方ないんですが普通の真面目な都市でした。カーニバル直前のリオのど迫力は格別に凄まじく、そこで自分のラテン的な気質に目覚めたんです。革命でしたね。この翌年にドイツに赴任することになりましたが、ヨーロッパではフランスも好きだけどイタリア、スペイン、ポルトガルはもっとラテンが濃いんで惹かれてまして、欧州滞在中に何回も行きましたしね、女性もブリュンヒルデよりもカルメンやヴィオレッタみたいなほうがいいですね。

以前にも書きましたがイリアーヌ・イリアスさんが好きなんで、疲れたとき癒しにきいてます。これはボサノバなのかジャズなのか知りませんが、ボサノバテーストはありますね。特に変わったことは起きないんですが、おしゃれで品格があって心のひだに寄り添って心地よい、誠に上質なエンターテインメントですね、浸っていると本当に自分はボサノバが好きなんだなあと思い知ります。脳髄に衝撃を受けてますからね。

アルバム『夢そよぐ風』(Dreamer)です。

この人の声、なんとなく母に似てる気がします。何度きいても素敵です。

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ブラームス 「6つの小品」から間奏曲イ長調 Op.118-2

2026 MAR 19 21:21:36 pm by 東 賢太郎

1896年5月クララの葬儀後

時は1893年。チャイコフスキーの悲愴、ドヴォルザークの新世界が初演された年だ。次々と知人が世を去って気落ちしていた61歳のブラームスは「6つの小品」というそっけない名称の曲集を編み、クララに献呈した。そして「小さな作品の中に驚くほど豊かな感情が詰まっている」と賞賛の手紙をもらうのである。そしてクララは3年後に世を去り、次の年に彼も後を追った。写真のブラームスより8歳も年上であることにいささかのショックを受けている今日この頃だが、年の功と言うありがたい言葉もあって、クララが褒めた作品に見逃していた多くのことに気づき、ついにこれから述べるある確信に至ったのである。

それが「6つの小品」の間奏曲イ長調Op.118-2だ。Andante teneramente(歩くような速さで、愛情を持って優しく)と曲頭に記され、僕も愛情を抱いた。というより、どうしてこの曲が心に染み渡って感動を残すのだろうということが長年気になっていた。AIはまだこの手の疑問は解決してくれない。それなら自分で弾いてみるしかないということになり、終結の1つ前の小節で現れる、低いミに乗った D の和音がその一因ということをつきとめた。そしてそれがシューマンの「トロイメライ」の最後の小節にある、ドに乗った Gm に似ていることも気づいた。両者は並行調という違いこそあれ、ドミナントを経てトニックに解決する機能と効果は同じだ。何の得にもならないこういうことをするのは僕の抜き差しならない習性だ。幼稚園のとき、お絵かきで茶碗か何かを茶色に塗ったらきれいな緑色ねと先生に言われ、以来、何事も自分の手で実証しないと信じられなくなった。最近になってそういうのを実証主義ということを知ったが、そんな大層なものではなくひねくれ者になっただけだ。

40歳のクララ

トロイメライ(夢)なら「愛情を持って」という標語になじむだろう。5,6分の小品にdolceが6個、espress.が4個もあるのも尋常でないが許されるだろう。胸に秘めたクララとの大切な思い出を老境の眼で俯瞰した回顧録のようなもので、しかし、それはセピア色の写真ではなく穏やかな原色を留めており、間奏曲(Intermezzo)という曖昧なジャンル、他作品と混ぜた曲集としてカムフラージュしたが、実は渾身の作品であって、世間に公にし歴史に残すことになる初めての(そして最後になるであろう)「赤裸々なラブレター」であったと解釈しても大きく外れてはいないのではないかと考えるに至ったのである。

この曲がクララへの愛を込めたプレゼントだと考える人は数多おられるが、 61歳の還暦の爺さんが74歳の婦人に満を持してそんなものを贈る意味がどこにあろう。誕生日は毎年あるし、何かのお祝いやお礼ならここまで感情が込められるのも不自然だ。可能性があるとすると、1890年、57歳になり意欲の衰えを感じ作曲を断念しようと決心して遺書を書き、手稿を整理し始めたことだ。その過程でクララを思い出し、ふたりだけが知る「共に過ごした時間」の回顧録として書いたのではないかと思うのだ。それにしてもなぜその時にという疑問は残るがそれはわかっていない。何か大きな動機があったが、「愛を込めたプレゼント」ぐらいでぼかしてもらわなくてはいけないものだったのだろう。ラブレターと書いたが、それは虚飾も含めて相手に好いてもらう目的の書簡であり、もう虚飾はいらないふたりである。ほら、あの時こういうことがあったよねで充分なのだ。語っているうちに熱くなるのが押さえられなくなるとリタルダンドして鎮める。そのいじらしいほどの起伏のいちいちを譜面から感じ取ってクララは「驚くほど豊かな感情が」と精一杯に控えめな賛辞を返したのである。なんという素敵な大人たちだろう。

音楽はミレファーの凹型音型で、憧れを湛えつつひっそりと開始する。本稿はこれが「クララ」であろうという仮説に立つ。一方、シューマンが「クララ」に比定したとされるピアノ協奏曲イ短調の冒頭主題ミーレードドー(C-H-A-A)においては、シューマンのお遊びによって彼女はダヴィッド同盟員キアリーナ(Chiarina)なのだ。そんな稚気に付き合ってくれる懐の深い、しかも美人で天才ピアニストである女性に2人の男が夢中になったのを僕はとてもよく分かる気がする。ブラームスは3/4拍子の3拍目に「クラ」がくる「弱起」で入る(シューマンは1拍目の「強起」)。そして二度目の「クララ」(ミレドー)はバスから4オクターブ離れたドに、万感をこめ高々と7度飛翔する(2-3小節目)。これはアナグラムの類ではなく彼女への「呼びかけ」であって8回繰り返す。歌ってみれば深い愛情がこもっている。ちなみに僕は昔の猫たちの名前で歌っている。

第4小節からは少し登っては元に引き戻される凸型(山型)の音型を延々と続ける。むなしく、力なく、満ち足りず、それでもまた登る。哀感と心の痛みが仄かに色調を変えていく様はこの曲の醍醐味であり人気の所以だろう。たくさんの表情を伝える標語が小節間の「その箇所」に挿入され気分の移ろいを象徴するが、ブラームスはテンポ変化ひとつとってもその指示に「エコノミー」な性格の人物で、大概の作品はそれをせずとも音楽で語るのが通例だ。Op.118-2はそれを必要としていること自体が異質な作品であることを物語っている。

顕著なのがハ長調に転じてからだ。ソプラノにシューマンPC冒頭の付点音符付きリズム(クララ)が現れると弱起が強起に転じ、legatoになり、後期ロマン派風の和声を伴って再びクララ、クララ・・の「呼びかけ」の凹型音型で熱を帯びて3回駆け登ってゆき、4回目のシューマンPC再現とともにフォルテで強拍の頂点で爆発するが、急にしぼんで下降音型のespress.(感情をこめて)となり、ミレファー(クララ)の呼びかけは隠れるように低音部に移行し(ニ長調)、次いでdim.で音量を落としつつ薄暗いニ短調に転じ、calando(遅く弱く沈んで)で静まるのである。ここまで、低音部のクララは4回繰り返して蠢く。お気づきになる方はいらっしゃるだろうかこの部分は、非常に意味深長である(トリスタン前奏曲を想起)。すると、不意に、ソプラノにシドラーの凸型音型が天使の声のような dolce(甘く)で現れ、教会の天窓に陽光が差しこんだような救済がやってくる(これはクララへの呼びかけの “鏡像” だ)。そしてそれをF#m-D-Bmと予定調和的コード進行が伴奏してうたかたの心の安楽に向かうが、cresc.um poco animato(より強く、やや活気を持って)のこの音型は弱起に戻っており、二度現れるシューマンPC(クララ)リズムで強起に戻り、テンポは止まるようなlentoに落ち、A-B-A形式の最初のAをイ長調で静かに終える。

嬰ハ音を引っ張って続くBは三層構造となっており、クララは一度も現れない。平行調(嬰へ短調)でメランコリックな凸型音型の旋律が喪失の悲しみを切々と歌い、旋律の1拍2分割と伴奏の3分割が交差(ラフマニノフPC2番Mov2の書法を想起)して葛藤に苛まれ、やがて減速して沈静するとpiù lento(今までより遅く、弱音ペダル)で嬰ヘ長調の夢見るようなlegatoとなる。あたりまえの強起3拍子で一時の安らぎを見せるが長くは続かず、減速して pp になると葛藤の音型が影のようによぎり、さらに減速してフェルマータで嬰ハの7の和音にて夢は休止する。すると元のテンポで3声部対位法によるメランコリー旋律が中声部、上声部の順で現れ嵐のような激情となり、メンデルスゾーンの「ヴェネツィアの舟歌」を思わせる葛藤が狂おし気に熱を帯び、やがて諦観に似た dolce の和音に鎮まる。そして曲頭に戻り、最初の部分に少々の変奏を加えたAが繰り返され、深い感動とともに静かに消える。

 

ジュリアス・カッチェン(pf)

近年、ロマンティックに傾くあまり甘さに陥ってしまう演奏が増えている。あくまでブラームスの音楽である。アンコールに弾くならそれもいいが、 6つの小品というフレームに納めた意図は一定の節度と慎ましさを示唆しており、そうであるからdolceが6個、espress.が4個も書き込まれる必要があったのだ。カッチェンは日本ではブラームスのスペシャリストの扱いで技巧派のふれ込みであったが、多分にレコードを売らんとする空疎なセールスピッチの影響であって、そういう人はブラームスのスペシャリストにならないし、技巧派だからそうなれるわけでもないという2つの点において的外れな看板である。モスクワとワルシャワの音楽院教授だった祖父母から高度なメカニックを授かった、研ぎ澄まされた感性を持つ哲学者(ハバフォード大学哲学科を3年で首席卒業)と言うべきだろう。ユダヤ系であるとともにそうした資質の持ち主だからブラームスの音楽に引きこまれたと考えるなら何の違和感もない。

 

ペーター・レーゼル(pf)

終戦の年にドレスデンで生まれ、ドレスデン音楽大学を経てソ連にわたってレフ・オボーリンに師事したレーゼルがドイツ・シャルプラッテン(DS)に1972-1973年に録音したOp.118は第5曲が絶品である。是非全曲をお聴きいただきたい。西側レーベルに登場のなかった旧東独の音楽家はクルト・マズアら少数を除いて欧米で知名度がなく、DSが消えて音源が西側に売られ廉価盤で出たためアーティストまでそのイメージの影響を受けたことは否定できない。まったくのお門違いというしかない。第2曲の鎮静した佇まいは実に素晴らしく、必要最小限の情感を加えて音楽を呼吸させ、ブラームスの意図を格調高く紡ぎ出すさまがドレスデン・ルカ教会の音響に乗って伝わってくる。至福の時だ。

 

ウイルヘルム・バックハウス(pf)

やや速めに聞こえる。楽譜を見ていると、しかし、ブラームス自身もこのぐらいのテンポだったかと思えてくる。ハ長調、ヘ長調で色調が変わり、クララ、クララ・・の駆け登りに切迫感があらわれ、低音部になったクララの蠢きがニ短調に辿り着く心の道筋にも気づく。Bのテンポも速めで焦燥と哀訴があるが、嬰ヘ長調でぐっと歩みが落ち、大きな段差に気づく。クララと2人で森を歩く桃源郷にやって来たのだ。全曲の重心がここに置かれていることを知る。そして曲尾の p は強めに弾いている。この曲には一貫している特有の語感のようなものがあって、メロディーが高音にポンと放たれると一瞬とどまって間をとって降りてくる。まるで真上に投げたボールが空中でしばし止まるように。バックハウスを聴いているとそれがうまく決まらないと様にならないことが分かるのだから、おそらく作曲者もそう弾いていたのではないかという説得力を感じる。この人にはベートーベンならベートーべンのそれがある。1884年生まれのピアニストの録音が良い音で残っている。何とありがたいことだろう。ブラームスその人からキャンディーをもらった子の演奏に畏敬すべきものがたくさんあるとすれば、これからのピアニストは温故知新という言葉をじっくりとかみしめたらいい。

 

ピョートル・アンデルシェフスキ(pf)

もう一人、どうしても挙げねばならない。昨年11月27日にサントリーホールの読響定期でアンコールにこれを弾いたポーランドのこの人だ。当日はあまりの素晴らしさに言葉もなく、自分で弾こうというきっかけになったのだから大層なインパクトをいただいた(読響定期 アンデルシェフスキに感動)。いま思い起こしても白昼夢のようで、演奏会でこういう印象が残ったことはかつてないのではないか。「天使の声のような」と本稿にしたためた dolce、嬰ヘ長調のこれしかないだろうというテンポ、Aに戻るしびれるほど絶妙な間、そしてトロイメライのDの根っこのミが pp だが深々ときこえる。バックハウスより1分も長いが、ここにはまさしく新しいブラームスが生まれている。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

マタイ受難曲におけるバッハ雑感

2026 MAR 8 8:08:18 am by 東 賢太郎

まずは本稿のきっかけとなった読響第656回定期演奏会への所感を述べる。

2026 3. 5〈木〉 19:00  サントリーホール

指揮=鈴木優人
福音史家(テノール)=ザッカリー・ワイルダー
イエス(バス)=ドミニク・ヴェルナー
ソプラノ=森麻季
カウンターテナー=クリント・ファン・デア・リンデ
合唱=バッハ・コレギウム・ジャパン
児童合唱=東京少年少女合唱隊

鈴木優人によるこれがききたくて定期を買ったといって過言ではない。結果はその甲斐があった。メンデルスゾーン版は初めて。通奏低音はなんとチェロとコントラバスのソロが和弦で奏し、オルガンは音色を加えバスの効果も良かった。木管群の音色がまったく目新しい。左右に分離した合唱と管弦楽の位相も効果的であり、解説によるとバッハはSt.トーマス教会の左翼バルコニーにそれを配し、右翼にコラール用の小合唱を乗せ3チャンネル・サウンドにしたようだがその意図が明確に出たかもしれない。この配置、音色ならではの人数で引き締まった合唱が活き、緊密なアンサンブルによる新鮮なマタイを聴かせていただき感謝しかない。今回が今期最終回になったが、全て聴きごたえがあった。来季も継続させていただく。

さてここからはマタイ受難曲への雑感である。まず断言するが、これが人類史上指折りの大名曲であることは疑いもない。僕はカール・リヒター指揮ミュンヘンバッハ合唱団の1958年のアルヒーフ録音が入門だがこれは当時のスタンダードであったからそうなっただけで、贅沢は承知だが、男性陣は文句なしに素晴らしいのものの女性の方がバッハとしては今ひとつ趣味に合わない。リヒター恐るべしと思ったのはこれでなくロ短調ミサだ。冒頭の一撃でのけぞった。その印象のままマタイに入ったものだから、性格の異なるこの曲の真価にたどり着くのに時間を要した。ミサと違い、ここには福音史家の語る人間の汚さおぞましさを浮き彫りにしたストーリーがあるが聖書世界の知識が欠けていた。なじみのない方はまずそれを理解しておくのが入門の第一歩であり、要点を簡略に記しておこう。

この曲のストーリーをひとことで言えば、「事実上の冤罪事件」である。イエス・キリストの刑死はA.D.30年ごろで実話だ。ローマ皇帝は初代元首アウグストゥスの養子ティベリウスで、カエサル暗殺から74年後でしかなく史実として残っていて不思議はないが、皇帝と違いイエスはまだ表舞台の要衝にある人物でなかったから子細な部分の確証は無い。死刑執行したポンティウス・ピラトゥス(ピラトとも)はローマ帝国のユダヤ属州の総督で、現代日本なら県知事というところである。ユダヤ王を称した咎でキリストの死刑を欲したのはしかしユダヤの民であり、弟子のユダが裏切り、ユダヤ法では死刑にできないためローマ法でピラトゥスが裁けとなったのである。ピラトゥスは有罪を確信してはおらずその葛藤の場面を見ると、メディアがたきつけて誘導した世論が軍部を無謀な対米英戦へと突き進ませた昭和16年を思い出さずにはいられない。

ちなみに、そこでイエスが12人の使徒と共にしたのが「最後の晩餐」である。これも人類史上指折りの名画であるレオナルド・ダ・ヴィンチの絵はミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ修道院の食堂の壁に描かれており、そこからまた奥に壁があるこの風景はそこに立ってみるといささかトリッキーであり、科学者でもあったダ・ヴィンチらしいなと合点が行くのだ。

欧米の大都市をうろついて、美術の教科書に載っているような世界中の名画というものはほとんど観てきたが悲しかなたいていは忘れてる。建築はもとより絵画や彫刻というものはただ知ってる程度でそこに立ってみてもだめなのだ。これがモナリザか、ゲルニカか、ヴィーナスの誕生かで済んできてしまった。ところが幸い「最後の晩餐」は昨日のようによく覚えているのだ。なぜなら延々長蛇の列を散々並ばされこの場所に行き着いたら、解説のイヤホンは来ないし15分で追い出されるしで係員の女性が不手際であり、ユダの裏切りを知っていたイエスも穏やかじゃなかったろうなと妙にシンクロした気分で眺めたことで格別に記憶に残っているのである。今となるとありがたかったと思っているのだからこれも世の中の不条理であろう。

結局、イエスは抗わず「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉を残して十字架にかかり、天変地異が起きて皆がイエスが神の子だったことを知り、その死をもって民衆が救われるというのが受難の筋立てである。イエスは予言通り3日後に実は復活するのであり、それが新約聖書に基づくキリスト教の最大のイベントなのだが、マタイ受難曲の終了の時点では(聴衆を含めて)誰もそれを知らない事になっている建て付けなのである。しかるに、割り切って考えれば、この裏切りと怒りと冤罪による不条理に満ちた法廷ドラマをもって、この時点で、聴く者の胸を締め付けて涙を流させ悲しみの底に叩き落とすことこそが復活への最大のお膳立てとなる。それがマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの4つの受難曲なるものの位置づけである。

問題は、シュッツやテレマンなど多くの作曲家が受難曲を書いているが、泣かせるという点においてバッハのマタイは出色であることだ。とにかくキリスト教徒でない僕が終わるといつも涙を抑えきれないのだから、ルター派(ルーテル)プロテスタント教会の布教活動においてこの楽曲が甚大なインパクトを有する事は間違いない。ところが現実は、バッハの死後、約1世紀にわたって演奏されることなく世間から忘れ去られていたのである。 弱冠20歳のメンデルスゾーンがこれを「発掘」した時の気持ちを推察する。彼はユダヤ人だがイエスも死刑を求めた群衆もそうであり、そして、作曲当時の世間は愚衆の集まりだったということなのである。しかし1829年のベルリンでの蘇演はドイツにバッハ熱を呼び覚まし4年間で6ヶ所で上演された。そこでメンデルスゾーンはあらためて改訂を加えたバージョンで、初演の地トーマス教会で演奏を試みたのである。1941年のことだった。

この日もサントリーホールからの帰り道、どうしてこんなに悲しんだろうと考えていた。2時間に及ぶ大曲ではあるが、技法的には簡素なバロック音楽である。感情の抑揚を和声や大オーケストラの表現力によって自在に喚起できるワーグナーの如きロマン派楽曲ではないのだからという部分に人類史上指折りの大名曲である秘密があるのだ。しかしそれは技法や計略という次元のものではない。キリストの受難物語のことを英語でパッション(passion)というが、この語は情熱、恋情、色情という意味もある。何かを希求する強烈な想いというものである。なぜ同じストーリーを語る福音史家が違うだけのヨハネとマタイがその点において違うのかは、読響の解説によるなら、マタイにおいてはイエスの神性を明確にするため周囲の「人間模様」が色濃く描かれたことにあろう。

すなわち、愚衆、裏切り者、悪代官なる神性なき者どもが神の子を殺し、普通はそこで勧善懲悪の原理が働いて悪がこらしめられてめでたしめでたしで終わるのである。ところが、この物語においては、悪までもが救われてしまうという驚くべき強靭な逆転のロジックが展開され、神の御心の情け深さが強烈に印象づけられる。後世の神学者はユダの裏切りをイエスは知っていながらあえて自分を殺させ、諸人を救済させたのだという説まで唱える。この他利性こそ拝まれる見返りであり、常人にはない文字通りの「有難さ」であり、宗教の本質である。メンデルスゾーンが解説風のチェンバロ伴奏によるレチタティーヴォを排し管弦楽の一様の伴奏でストーリーに流れと一貫性を持たせたのは、オーケストラの流れに「人間模様」を載せてパッションをよりくっきりと浮き彫りにする意図だったのではないかと思われる。

メンデルスゾーンの才能については何度も書いており、彼自身も聖書に影響を受けて作曲した2つの大規模なオラトリオ「パウロ」「エリア」があるがこれはバッハを知ったゆえのものというべきであろう。いかなるものであれ作品というものは創造した者の仮の姿である。その人物の精神肉体のありようがそうであるから、そうした作品が生み出されるのである。トートロジーに聞こえようが、モーツァルトはきっと彼の作品のような人であり、ブルックナーもバルトークもポール・マッカートニーも、ワーグナーもバッハも、またそうなのだ。

ドラマで言うなら大河ドラマばかりのワーグナーはどういう人物だったろう。台本から音楽から劇場まで俺様の物を創ってしまうあの唯我独尊で無尽蔵であるエネルギーはどこから出てきたのだろう。作曲家に男として多情系、多産系の人は少なく生涯妻子なしの人すら散見されるが、彼は難しい自作を演奏して世の中に広めてくれたハンス・フォン・ビューローという恩人であり自身の信奉者でもある男の女房を寝取って3人も子供を作っている。ニーベルングの指輪という巨大で魁偉な作品はそういう男からしか出てこないと思わせるに十分である。そしてバッハである。2人の夫人に20人子供をもうけたパワーにはこうべを垂れるしかないが、指摘したいのはそのアウトプット力ではない。理詰めで頑固で冷たい男ではなく妻を熱く愛する男であったことだ。彼の作品が数学的だのと理屈を説く人があるが、そういう事も出来る熱い男はいるのであり、バッハもまたそうだという証拠なのである。マタイ受難曲が人類史上指折りの大名曲になったのは、何らかの理由で彼が作曲に全身全霊を投じた人間くさくて止めどもない情動に重たい理由があり、彼の心の強靭な振動が、歌う者、弾く者、聴く者の心を強く打ち震わせるからなのだ。

最後にいくつかの録音の事を少し書いてみる。リヒターが世の中のイチ押しだったころ並び称されていたのがメンゲルベルク盤だ。このようなアプローチの演奏が出てくるのはバッハの作曲における情動がバロックを突き抜けてロマン派とでも言うべき領域に達しているからである。好きな人が多いのは理解するが、ここまでやられると僕はついていけない。ちなみに彼のチャイコフスキーの悲愴も往年のファンには人気だったが、僕はベタベタのポルタメントなど体質的にまったく不適格で第2楽章でドロップアウトしてしまった。

クレンペラーは筆頭におすすめできる。フィッシャー・ディスカウ、ピーター・ピアーズ、エリザベート・シュワルツコップ、クリスタ・ルートヴィヒ、ニコライ・ゲッタ、ワルター・ベリーとくれば、現在WBCで戦っている侍ジャパンの先発ラインアップみたいなものである。スタイルとしては最も重厚でシリアスなマタイであり、宗教音楽としては正統派ではないが、バッハが封じ込めた情動そのものが尋常でないのだから僕はこれに些かも違和感を感じない。その理由はクレンペラーのモーツァルトのオペラの稿に書いたことと重なるのでご興味のある方はそちらをお読みいただきたい。

カラヤンはこちらも負けじと当時の彼の歌劇録音のオールスターキャストによるが、徹頭徹尾カラヤン流であることが好悪を分かつ。音楽としての美しさならトップかもしれないが良くも悪くもオペラティックであり、その割にドラマを感じず、どす黒い物が無い。終曲も慟哭ではなくオペラのエンディング風で芝居がかっておりこれではフルートの短2度の軋みが意味を持って聞こえない。申し訳ないがこれは僕は泣けない演奏である。僕は決してアンチカラヤンではなく、ザルツブルグ音楽祭で1983年に聴いた絶美の「ばらの騎士」などもう一生出会えるものでないことを確信する。要はそれとマタイは違う音楽だということに尽きる。

よく取り出すのはヘルマン・シェルヘン指揮ウィーン国立歌劇場管弦楽団のCDだ。 1958年録音のリヒター盤より5年早い1953年のモノラルでスター歌手は皆無。シェルヘンはハンス・ロスバウトと並んで19世紀生まれの現代音楽の泰斗でありピエロ・リュネールをシェーンベルグと共に演奏して回っていた人でありバッハのイメージは薄いかもしれないが、僕は1つのコンサートで両者作品をカップリングしても違和感がない(娘さんによるとシェルヘンはマタイはマーラー7番と組ませるのがふさわしい作品だと述べていた)。バッハは精神的にバロックの縛りを脱しロマン派にワープできた人だったが、シェルヘンはロマン派の縛りを脱し新ウィーン学派の作曲家らと共に道を歩んだ人で、一切の虚飾なく物語の核心を抉った素晴らしい演奏は昨今の形とテクニックだけのピリオド演奏などより数段モダンである。本物の音楽家とはこういうものだ。マタイを愛する方に一聴をお勧めしたい。

(ご参考)

ブラームス4番とマタイ受難曲

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