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カテゴリー: クラシック音楽

僕が聴いた名演奏家たち(オーレル・二コレ)

2021 OCT 24 0:00:09 am by 東 賢太郎

フルートは不思議なことに、花形楽器の割に協奏曲が少ない。モーツァルト以後ドイツ語圏のメジャーな作曲家が書いていないからだ。19世紀半ばにベーム式ができるまでのメカニックな理由があるといわれるが、J.S.バッハは多用しているのだからそれでは理解できない。モーツァルトはフルートとトランペットを嫌いだと手紙に書いており、2曲書いたが2番はオーボエ協奏曲の転用だ。1番K.313は私見では2番より終楽章が落ちる。あんまり気乗りしてない。

オーレル・二コレを覚えたのはカール・リヒター / ミュンヘンバッハ管弦楽団のレコードである。当時リヒターのバッハはマタイ受難曲、ロ短調ミサなど宗教曲が神格化されており、気楽に聞ける「ブランデンブルグ協奏曲」、「管弦楽組曲」でもスリムで筋肉質な禁欲的なフォルムときりりと引き締まったスピード感ある愉悦感とが絶妙にバランスした名演と讃えられた。この評価は今でも通用する。二コレのフルートはアンサンブルの中でいぶし銀の艶を放っている。

バッハのソナタも素晴らしく、以来、二コレは好みのフルーティストとなり、あまりない協奏曲のジャンルでモーツァルトが大いに気になりすぐレコードを買った。ところが、これにがっかりするのである。リヒターの伴奏がまったくモーツァルト的でなくいただけない。もう2種あって、パウムガルトナー / ルツェルン祝祭管盤はオケが今一つで二コレもべストでない。ジンマン / コンセルトヘボウ管は回転数を間違えたかと思うほど速くついていけない。仕方なくフルートはベストであるリヒター盤を聴いているがエンディングはそっけない。

二コレとランパルを比較するなら、前者はシェリング、フルニエで、後者はスターン、ロストロポーヴィチである。どっちが良いということもない単なるお好みの問題である。前者派の僕ではあるが、モーツァルトはランパル / グシュルバウアー / ウィーン交響楽団盤に軍配をあげざるを得ない。指揮者の解釈やテンポはソリスト納得のものでもあろうから、ランパルの方がモーツァルトには向いていたことになる。クラシック音楽というものは人間の心の深層に発するもので、作る人は勿論、演奏する人の人間性と深くかかわっている。このことは、どちらかというと前者に属するハインツ・ホリガーのオーボエ協奏曲K. 314が、あらゆる観点から完璧ではあるがいまひとつ心にささっていないのと同様かもしれない。

Die Jahrhunderthalle、 Frankfurt am Main

いま一つ実像がつかめずにいた二コレを聴く機会が来た。フランクフルト2年目の1993年3月8日(月)、イェジー・マクシミウク / BBCスコットランド響とのニールセンの協奏曲である。場所はヤールフンダートハレ(写真)。このホール、巨大な無機的空間でまるで市民体育館だ。音響もひどく、多目的ホールのようだ。なぜこんなのを作るのか理解に苦しんだが、時がたつにつれだんだんわかってきた。このホールはフランクフルト郊外にあるがその場所の地名はヘキストだ。ホーホ(Hoch、高い)の最上級だから最も高い所という意味で、英語ならむしろ洒落てヒルトップにでもなろう。ここで創業したのがドイツ三大化学会社の一つヘキスト(Höchst AG)であり、同社は今は吸収合併されて消えたが当時はまだ工場もあった。この質実剛健なホールは同社が創立百周年式典のために建てた会場で4,800席もある。それは結構だが何もクラシックをそんな所でやることもないだろうと幻滅した。とても我が美感とは相いれないものだがこれもドイツというものなのである。

ヴィースバーデンのクアハウスは貴族仕様、こちらは市民仕様なのだ。聴衆に着飾った人など皆無でありフォワイエぐらいはあったのだろうが覚えてもいないからそれなりのものだったのだろう。クラシック音楽が市民様のお楽しみにもなって分化した歴史をこれほど如実に体感させてくれる場所はなかった。このホールと我がNHKホールというものはある一面で似たものがあるが、ここでは書かないようにしよう。ヨーロッパに住んでみてフランス革命というものの実相を知った場面は数々あるが、ここほど分かりやすかった処はない。ベートーベンをやるならそう違和感もないが、モーツァルトは毛頭その気分になれないのである。ところで当日のプログラムはショスタコーヴィチ、ニールセン、シベリウスである。これをわかる人は音楽通というより相当なインテリであるが、ポーランド人のマクシミウクによる見事な選曲だ。

さて本題の二コレのニールセンだ。同曲はイベールと並んでフルート協奏曲への渇望を満たす魅力的な作品である。2楽章でシンプルに室内楽的なオーケストラ伴奏で書かれ、モーツァルトが嫌ったフルートとトランペットをオケに参加させていないところに作曲者の知性を感じる。初演は1926年10月21日にパリのメゾン・ガヴォーで、ラヴェルとオネゲルが出席した。ニールセンが親しかったコペンハーゲン管楽五重奏団の奏者全員に協奏曲をという動機で書かれ、フルートだけに霊感を得てというわけではないようだ(結局フルートとクラリネットのみ完成して死去)。どうもよくわからない。コンチェルトというものの起源は、伝統的に管弦楽伴奏で歌手がアリアを歌う代わりに、弦や管のソロ楽器を舞台の前面にフィーチャーして歌わせるというものだ。コロラトゥーラを置き換えるならまずこれでなくてはという楽器だし、高音が通るので音量で負けることもないと思うのだ。

この日初めて聴いた二コレのフルートは中低音が肉厚で伸びて一種の木質感があり、オーケストラから過度に浮き出てこないイメージだったが、高音は朗々と鳴って地味という感じはなかった。おおむねレコードで聞き知ったあの音であった。楽器が違うと言えばそれまでだが、ロンドンで聴いたランパルとは別物である。ニールセンはマズア / ゲヴァントハウス管と録音(1984年)を残していて自家薬籠中というもの。前後のショスタコーヴィチ、シベリウスも楽しんだが二コレを聴けた喜びが格別だった。

 

 

僕が聴いた名演奏家たち(ジャン=ピエール・ランパル)

2021 OCT 21 19:19:20 pm by 東 賢太郎

ロンドン、フランクフルトでいかに仕事が大変であろうと足しげく演奏会に通ったのは体力があったからだ。夜は遅くまで会議か顧客ディナーか部下とカジノにくり出して午前様で土日はゴルフ。睡眠時間はおそらく4,5時間だった。そっちのことはみんな忘れてしまったが、音楽会の大半はそこそこ記憶があるから行ってよかったと思う。

それが良い音楽会だったからという理由からではない。当時の僕の年齢の皆さんに伝えたいのは、とにかく何でもいいから記憶に残ることを毎日しなさいということだ。それでも2,3年もすれば忘れるし、30年すればほぼ全部忘れる。例えば35才の1年間で何があったか?と問われて僕は幾つ思い出せるだろう。10個ぐらいの大きなイベントはすぐ出てくるが、そんなもの。いずれ皆さんもそうなるのだ。

ということはそれ以外の355日は生きてはいたがもう人生からデリートされて、あってもなくても一緒だ。これは悲しい。ところが音楽会はというと、自分の好みと意思でチケットを買ってイベントを作っているからプログラムを見て思い出せるのが多い。日々のルーティーンや受け身の行動でなく、能動的に決断して過ごした時間は覚えているものだということがわかる。これは幸せだなと思う。まあ明日死んでも構わないかなと思えるのは音楽がストックを増やしてくれたからだ。

たとえば1988年9月29日木曜日、ロイヤル・フィルハーモニーにフルートのジャン・ピエール・ランパル(1922 – 2000)が出てきて演目がモーツァルトのK.314となると、自分の好みと性格からして万難を排してロイヤル・フェスティバル・ホールに駆けつけたことは間違いない。しかしその前後のことは何一つ覚えていないのだから、もしこのチケットを買っていなければこの日はもう「なかったことに」となっていた。

ランパルはレコードでしか知らない雲の上の人だった。ただ当時の僕の中でフルートというとフルトヴェングラー時代のベルリン・フィル首席でありカール・リヒターのブランデンブルグ協奏曲など一連のバッハ録音で吹いているオーレル・二コレが格上であった。ランパルはジュネーブ国際コンクールで優勝してパリ・オペラ座管弦楽団の首席奏者を経てソリストとなるが、どうしてもフランス風のギャラントが持ち味という印象だった。

当日のK.314で覚えているのは、席はやや後ろだったがシンプルに音が大きいことだ。フルートの音がこんなに「通る」ものかと思った。ああ、ランパルだ、レコードで耳タコのリリー・ラスキーヌ、パイヤール室内管との「フルートとハープのための協奏曲K.299」で聴きなれたなつかしい音だと聞きほれていたらあっという間に終わってしまった。

ギャラントがいけないというのではない。その路線で今もって最高の座を譲らないのはプーランクのソナタ(ロベール・ヴェイロン=ラクロワ伴奏のエラート盤)だ。同曲にはプーランク本人とのビデオもある。

こういうものを見ると、ユージン・オーマンディーやレナード・バーンスタインと楽屋で話したこともそうだが、まるで世界史の教科書で覚えた人に会ってきたみたいなふわふわした幻視感を覚える。そんなことがあってよかったのか、誰か他の人の話しじゃないかと。

 

 

 

ヴォーン・ウイリアムズ 交響曲第5番ニ長調

2021 OCT 15 13:13:24 pm by 東 賢太郎

英国の陶器メーカー「ウェッジウッド」の創業者の孫は「進化論」のダーウィンである。そしてダーウィンのお姉さんの孫が作曲家ヴォーン・ウイリアムズである。3人は配偶者側の係累ではなく、血がつながっている。人は天から降ったのではないから必ず先祖に源がある。自分の長所短所がどこから来たか系図でたぐるのは楽しいが、しかしあまり実利はないだろう。環境変化への耐性を高めるため有性生殖によって偶然性を加えるのが遺伝子の生存戦略だという学説に立てば、自分のDNAの「素材」は系図でわかっても、その「ブレンド」は偶然の産物だからリバースエンジニアリング(分解して組成を逆に辿ること)をしても有意な結論を導かない(アインシュタインが解けなかった量子力学のジレンマと同じだ)。血中のFe(鉄)がどの超新星爆発でできたか知っても何も良いことは起きないように、先祖に偉人がいても出世に有利な能力が約束されているわけではない。親子の金メダリストやノーベル賞受賞者はおろかプロ野球選手すらあまりいないことでもそれはわかる。

とはいえ、それでは味気ない、先祖を敬う気持も薄れてしまうではないかと僕は思う。世襲ができず、個人の才能のみに出世が依存するジャンルにおいては同世代の「歴史的人物」が出る確率は「世界人口分の1」と考えていいだろう。当時の世界人口を30億人として、4世代で3人輩出したウェッジウッド家では凡そ “30億分の1の3乗” ぐらいの確率の現象が起きたことになる。もちろん、限りなくゼロに近い確率であっても偶然の範疇だと考えることはできるが、特別な遺伝的形質によってそうなったとする仮説だって主張できるだろう。それを証明するのは困難だが、否定する証明も困難だからだ。遺伝を主張する人にとって音楽におけるバッハ家は有力な事例ではあるが、環境や教育というバッハ家由来の外的な共通因子があったのだという反論はあり得る。しかし陶芸家、生物学者、作曲家という関連のない3ジャンルでとなるとそれは想定し難い。どちらの証明もあきらめるしかないだろう。

レイフ・ヴォーン・ウイリアムズ(1872 – 1958、以下VWと略す)に陶芸家、生物学者の才能が遺伝していなかったとしても、彼が作曲家として英国のみならず音楽史に特別の位置を占める存在であったことは誰も否定できない。現在でもコンサート・レパートリーに入る9曲の交響曲を残したシンフォニストであり、管弦楽、協奏曲、宗教曲もしかりであるからだ。中でも、最近になって僕は交響曲第5番二長調に深い愛情を感じるようになっている。理由はわからないが、きけばきくほど、日々の生活でささくれだった精神を癒してくれるこれほどの音楽はないと思うようになった。コロナでどこか隙間ができてしまった心が求める究極のスピリチュアル・ワールドのような音楽だからだろうか。

以下、全曲を俯瞰してみたい。

第1楽章(Preludio)

幕開けだ。チェロとコントラバスの低音(ハ)にニ長調のホルン信号が乗る。不安定な7thコードでの交響曲の開始は極めてユニークで耳に残る。

 { \new PianoStaff << \new Staff \relative c' { \clef treble \numericTimeSignature \time 4/4 \key g \major \tempo "Moderato" 4 = 80 r2 <fis d>4.\p( <e a,>8 | <fis d>4. <e a,>8 <fis d>2) } \new Staff \relative c { \clef bass \key g \major \numericTimeSignature \time 4/4 <c c,>1~ | <c c,>2. s4 } >> }

僕には暮れかかる荘厳な夕陽がうかんでくる。

ご覧のとおり、これはラヴェル「ダフニスとクロエ」冒頭のホルンパートの引用である(VWはラヴェルに学んだ)。

この印象的な幕開けシーンは楽章を通して影のようにつきまとい、そして全曲のコーダで回想される。

ヴァイオリンがイ短調の主題をひっそりと奏でる。

これは素朴な第1主題を導く萌芽だが、コダーイ「ハーリ・ヤーノシュ」の第3曲「歌」のしめくくりでクラリネットが吹く旋律そっくりだ。

民謡風の旋律は五音音階的でどこか東洋的でもあり日本人に親しみを感じさせるが、そこに4度と7度が多用されることで調性感覚が揺らぐという不思議感が全曲を覆っている。主題はあまり展開せず延々と川のように流れていき、ハ短調を経て不意にホ長調に転調する。どきっとするほどマジカルな瞬間である。やがて弦の無窮動風なパッセージに乗って木管、金管が交唱する部分のスコアリングはシベリウス的だ。それが終息すると冒頭の景色が静かに戻ってくるが音楽は変ロ長調に転じて再度高潮し、コーダではホルン信号が回帰して弦のヘ短調との複調になり(調性は曖昧である)、二長調とオーボエのファ♮音の不安な交差が第4楽章のD⇒Dmの転調を予言する。夕陽は仄かに滲む陰影の中に消えていく。絵画のようでありながら深く聴く者の心のひだに入りこみ、光の細密なグラデーションを伴いながら情動に寄り添ってくる。感知できる耳だけのために書かれた、まさしく最高級の音楽である。

第2楽章(Scherzo)

軽妙な筆致で、ホルスト「惑星」のスケルツォである「水星」を強く想起させる。民謡風の主題が現れるがこれもホルストに共通する趣味に思える。ちなみに両人はロンドン王立音楽大学の学友で(VWが2才年長)生涯にわたる親友であった。お互いの作品を語り批評し合う関係であり、教師より生徒のお互いから学ぶものがあったと述べている(VWはその後ケンブリッジ大学に進む)。

第3楽章(Romanza)

エルガー、ウォルトンのそれと共に英国で書かれた最高の緩徐楽章のひとつだ。5番は両大戦の狭間である1938~43年に書かれた。第1次大戦で友人、知人を多く失い、自身も戦場の銃声で耳が遠くなり晩年は聴覚に支障も出たVWは3番「田園交響曲」から一転して戦争を投影した破壊的な4番を書いた。その彼が英国の第2次大戦参戦の年に5番に着手し、バニヤンの『天路歴程』(プロテスタント世界で最も多く読まれた宗教書で「天の都」にたどり着くまでの旅の寓話)を音化しようとしたのにはそうした深い個人的な背景がある。人々に平和と安寧の心を届けようとした交響曲のこの楽章は全曲の核心となるもので、聞く者に深いスピリチュアルな瞑想と沈潜をもたらすのである。

弱音器つきの弦5部による静かな序奏(C-A-Gm)に続きイングリッシュ・ホルンの旋律が現れる。チャイコフスキー5番、ラフマニノフPC2、3番の緩徐楽章のスタイルである。

するとヴィオラに新しい主題が現れ、弦5部による素晴らしい対位法的展開をとげる。

この主題は第1楽章のイ短調主題を素材としていることがオーボエ、ホルンに受け継がれるにつれて次第に明らかになり、イングリッシュ・ホルンの主題とC-A-Gmの和声とが交叉し一体となりながら最後はイ長調で深々とした余韻を残して消える。

第4楽章(Passacaglia)

パッサカリア主題が冒頭のチェロに現れ、前楽章の気分を引き継いで次々と展開する。徐々に気分は高揚し、ここまでの音楽と様相の異なる金管によるファンファーレで熱を帯び祝典的になる。ここまでは主調のニ長調、3拍子が支配するが、それが突然にニ短調、4拍子に一変する場面は大変印象的だ。ここの木管の素晴らしい交叉には聞きほれるしかないが、そのパッサカリア主題が徐々に第1楽章に由来する形になってくる。この曲の1,3,4楽章が緊密な素材の連関で成り立っているという巨大な建築物の全容が荘厳に立ち現れてくる相貌はシベリウスの5番を思わせる。やがて全金管によるホルン信号の強奏でニ長調に回帰しモルダウ(スメタナ)を思わせる音型をくり返しながら再度ニ短調に落ち着く。やがて第1楽章幕開けの雰囲気となり、ハーリ・ヤーノシュ主題が静かに明確に出て荘厳な夕陽の光景がまた立ち昇ってくる。するとイ長調、ニ長調の曖昧でマジカルな転調をしながら祈りのような主題が重なりあい、ラヴェルのマ・メール・ロワの妖精の園(Le jardin féerique)の淡い光があたりを支配し始める。そして、全パートを2部に分けた透明な弦楽合奏の天使のような響きに導かれ、聞き手の心は静かに瞑想しながら天国に昇るのである。あらゆるクラシック音楽のうちでも最もメタフィジカルな領域に連れて行かれ、真に優れた音楽を聴いたという感動だけが残り恍惚とさせられる奇跡的なエンディングだと僕は思う。

Ralph Vaughan Williams

 

あまりに素晴らしい音楽ゆえ微細に描写してしまったが、ここまで好きな曲がそうたくさんあるわけでもないからご容赦いただきたい。VWはこの曲をシベリウスに献呈したが、わかる気がする。事前の了解はなかったが快く受け入れたられたという。僕はこれをシベリウスの6番と並ぶ名品と讃えたい。

 

録音は良いものがたくさんある。以下の2種をレファレンスとして聴きこんだ上で好きなものをみつけるのも人生の楽しみと思う。

 

エドリアン・ボールト / ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団

写真の値札は10マルクで、フランクフルトに着任してすぐの9月に買ったCD。ロンドンにいた6年はモーツァルト、ベートーベン、ブラームスを自分なりに「発見」した時期で、英国音楽を熱心に聴いてはいなかった。ところがドイツに行ってから徐々にそっちにも思いが向かった。耳が肥えてきたということか。ボールトはLPOと2種録音した(53、69年)がこれは古い方である。VWが初演してから10年後の演奏でコンセプトは自演に近く輪郭が明瞭で、他の演奏ではピンと来なかった5番の良さを一発でわからせてくれた僕にとっては記念碑的演奏だ。録音はモノラルだが細部のニュアンスまで拾っており鑑賞に全く問題はない。69年盤はステレオ録音という新メディアに価値があったのだろうが解釈に大きな違いはなく、ボールト64才での旧盤が秘める熱量と一筆書きのように自在な筆致は魅力的だ。

 

ジョン・バルビローリ/ フィルハーモニア管弦楽団

ボールト盤とは好き好きだが一点だけ指摘しておくと、第3楽章は曲想に添って抑揚とめりはりが大きく、弦のポルタメントに感情移入もあってロマン的なアプローチである。エルガーならこれで良いがこの楽章の標題は「ロマンス」ではあってもテーマであるバニヤンの信仰心と恋愛は関係なく、僕は違和感がある。難しいことをいわず純音楽的に楽しみたい人には、オケの技量が高くサウンドが骨太であるバルビローリはお薦めだ。

 

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バックス 交響曲第4番

2021 OCT 5 20:20:20 pm by 東 賢太郎

アイルランド

音楽をきいて昔の情景を思い出す事はあるが、その逆もある。ロンドンの家について書いていて、いま、そういうことが僕の中でおきている。英国の正式名称はUnited Kingdom of Great Britain and Northern Irelandでイングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドから成るのは周知だが、この4つのカントリーは風土も文化も気質もアクセントも違う。ことにアイルランドは人種もケルト人であり、歴史も言語もアングロサクソン人ときわめて違う。ストレートに言うなら後者によって征服された地であり、車で走ると道路標識には英語とケルト語で地名が併記されているが両者はまったく似ていない。米国の「マンハッタン」や「ミシシッピ」はインディアン語だし、「札幌」や「長万部」はアイヌ語で音韻は保持されている。それに気づいた車中で、同地の複雑な歴史とルサンチマンを垣間見た思いが走った。

日本人に有名なアイルランド系に人だけを列挙しても綺羅星のようだ。J.F.ケネディ、ロナルド・レーガン、ビル・クリントン、ジョー・バイデン、バラク・オバマ(母方)の米国大統領5人、ウォルト・ディズニー、コナン・ドイル、レイモンド・チャンドラー、クリント・イーストウッド、トム・クルーズ、グレース・ケリー、マーロン・ブランド、グレゴリー・ペック、バーナード・ショー、オスカー・ワイルド、ジェームズ・ゴールウェイ、 ジョン・マッケンロー、チェ・ゲバラ、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)あたりはご存じだろう。

ダブリンの街並み

この地に立ったのは数回。出張はたしか1、2度で、あとは遊び(もちろんゴルフ)である。ロイヤル・ダブリン、ポート・マーノック、キラニー、バリーブニオンなどの素晴らしくタフなコースが忘れ難い。ゴルフは国技のようなもので皆が愛しており、パスポート・コントロールで来た目的を聞かれたら「ゴルフ」と答えれば笑顔で一発で通してくれる。キラニーのホテルにパスポートを忘れてタクシーに乗ってしまい、1時間走ったあたりでそれに気がついたことがある。機転を利かしてタクシーを呼んでコーク空港まで届けてくれたホテルのお姉さんのおかげでフライトにぎりぎり飛び乗った。美人で賢くて本当にやさしい女性だった。ダブリンのギネス(パブのドラフト)は他国で飲むものとは別物で、これを樽ごと持って帰れないかなと思案したほどうまい。せめて近いものというなら缶は避けてビンにしたほうがいい。ウイスキーは3回醸造で独特のまったり感がある。僕はブッシュミルズ専門で「ブラックブッシュ」はお薦めだ(日本でも2500円ぐらいでお値打ち)。食事というと、コークの南方の海沿いにある町キンセールのフレンチの安さとクオリティは驚きだった。南部はフランスの影響が強いのである。そして下のブログのエピソードは長らくゴルフをやってきていちばん破格。大好きで心に残る。この時に偶然に内田光子がダブリンにやってきていて、素晴らしいシューベルトを堪能させてくれた。アイルランドには良い思い出しかない。

世にはゴルフという魔物が棲む(3)

Sir Arnold Bax(1883 – 1953)

アーノルド・バックスは生まれも育ちもロンドンで、王立音楽院(Royal Academy of Music)卒の英国の作曲家とされるが血筋はケルト系であり、結婚後にダブリン近郊に移住している。彼自身それを自覚して独自のイディオムによる作品を書いており、アイルランドの巨匠、とりわけ7曲の交響曲を書いたシンフォニストという評価が適当と思われる(彼が没した地は上掲地図の最南端、僕がパスポート事件を起こしたコークだ)。物心ついたらピアノが弾けていたという神童で難解な現代曲のスコアを読み解く能力が群を抜いていたが、恋多き男でミューズが複数おり、詩心もあり、小説、戯曲などものしてもいる。資産家に生まれ、若いころはロシア、ドイツに出かけ、英国の批評家によるとワーグナー、R.シュトラウス、ドビッシーの影響を受けたとされるが僕には痕跡は明白ではない。

ロンドンで買った交響曲全集

彼は生活のために作曲をする必要がなかった数少ない音楽家の一人である。その交響曲、交響詩、室内楽などは他人の眼を気にせず彼の内部から湧きおこった心の声であり、誰にも似ない真にオンリーワンの作品になっている。英国の交響曲というとエルガーでありV・ウィリアムズ、ウォルトンでありというのが我が国における相場で、バックスを挙げる(知る)人は極めて少数派であろう。しかし彼の作品をほとんど聴いている僕においては、”アイルランド” を取り去ってもこの7曲は秀逸な絶対音楽として味聴に足る素晴らしい作品であり、写真の全集(ブライデン・トンプソン指揮ロンドン・フィルハーモニック及びアルスター管弦楽団)は宝物になっている。

旋律は過度にクロマティックでなく民謡風のものもあり、しかも1921~1939年に書かれたにもかかわらず調性音楽なのだが、一聴して耳に心地よく響くものはない。これをブラックコーヒー、濃い目のストレートのアールグレー・ティーと書けばご理解いただけるかもしれない。ブルー・スティルトンをあえるか、アフタヌーンティーでスコーンと一緒か、当時僕はパイプも葉巻もやっていたが、ハイティーのスコッチの前にでもよかろうというイメージだ。バックスのほろ苦さは慣れるとだんだんそういう大人の楽しみに進化していく性質のものだ。シベリウスとも似てはいないが、愛好家には馴染んでいただけそうな気もする。

全7曲をお薦めしたいが、まずどれかひとつというなら最も外向的で順当な所ということで4番を標題曲にした。オーケストレーションも熟達した巨匠の技であり、北アイルランドのアルスター管弦楽団の演奏は録音も良好だからそれなりの装置で再生すれば非常に音楽的なサウンドが得られる。それに浸るだけでも僕には尽きぬ喜びだ。入念にスコアリングされた音楽の細部まで血肉とし、弦や木管の経過句のアジリティまで心から納得のゆく音化を実現した演奏という意味で、ウィーン・フィルのベートーベン、ドレスデンSKのR・シュトラウスに匹敵すると考える。

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ウォルトン 「チェロ協奏曲」(1957)

2021 SEP 30 11:11:06 am by 東 賢太郎

はっきり覚えている。「これ買っていいかな?」ときいた。CDをふくめ1万枚以上のコレクションのうちで、妻の許可を求めた唯一のレコードだ。幸いOKが出たのは新しい職場で必死に戦っているお駄賃の意味があったのだろうか、同時にモーツァルトのソプラノ・コンサートアリア全集も買わせてもらった。時はロンドン着任直後の1984~85年、場所は初めて行ったコヴェント・ガーデン歌劇場のレコードショップである。残念ながらオペラを聴いたわけではない。留学を終えても当初は一番下っ端でそんな高いチケットを買う余裕はなく、レコードがせいぜいだがそれも思い切ってというぐらい貧乏だった。この日は恐らくそれから至近距離のソーホーにあるチェン・チェン・ク(よく行った中華料理屋)あたりでエコノミーな夕食を済ませたと思われる。

チェリストのヨーヨーマは、どこだったか古澤巌とブラームスのドッペルを都響でやって親しみがあり、当時売出し中だった彼の演奏で愛好していたエルガーのコンチェルトを聴いてみたくなったのだ。デュプレ盤はやや音が古い。新しい録音を買ったばかりのタンノイのスピーカーで鳴らしたいという誘惑に負けたのもあった。とにかく家の棚にあるLP、CDのほとんどは、こうやって買った場面のストーリーを覚えているから中古屋に売るなんて僕にはできないのだ。

Sir William Walton(1902 – 1983)

ヨーヨーマのエルガーも悪くないが、感心したのはウォルトンのチェロ協奏曲だ。同曲はカセットで持っていたが、ちゃんと聴いたのはこのLPだ。ウォルトンは弦楽器のための協奏曲としてはすでにヴィオラ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲を作曲していたがこれは最後の作品だ。1956年の完成で、もう僕が生まれているからクラシック音楽としては新しい部類だ。チェロ協奏曲というフォーマットの曲は数多あるが演奏頻度が高いのはハイドン、シューマン、ドヴォルザーク、ラロ、サンサーンス、ショスタコーヴィチあたりで、モーツァルトやドイツ三大Bというメインストリームが書いていないのでヴァイオリンに比べてやや影が薄いのは否定できないだろう。

ところが英国となるとエルガー、デリアス、ブリス、スタンフォード、サリヴァン、ブリテン、ブリッジ、バックス、モーラン、ロイド、アーノルド、シンプソンとやけに豊穣である。シンフォニストがあまりおらず、ソナタ形式の作品に強みがあるわけでないのにこの現象は目を引く。英国人の感性に低音域のこの楽器が合ったのかもしれないが、独仏伊露のカバレッジの穴で英国の作曲家が存在感を出せるマーケティング的事情もあったかもしれないと思っている。各々それなりに面白い作品だがエルガーが英国製であることを問わずドヴォルザークに匹敵する傑作であることは誰も否定しないだろう。では英国作品の次点を挙げるとなると、僕はウォルトンに白羽の矢を立てることになる。

ウォルトンはヴァイオリン協奏曲をハイフェッツに献呈しており、ヴィオラ協奏曲の献呈は別人だが初演の独奏は作曲家パウル・ヒンデミットがしている。チェロ協奏曲を委嘱し献呈されたのは名チェリストのピアティゴルスキーだ。彼は当時として破格の3000ドルのコミッションを払ったから重鎮で売れっ子作曲家だったことがわかるが、ウォルトンは「私はプロの作曲家だから頼まれれば誰にどんな曲でも書く、だがもし米ドルで支払ってくれたらずっといい作品に仕上がるけどね」と語っている(wikipediaより)。サーの称号を戴く貴族にしてこのユーモアだ、英国のジェントルマンは懐が深い。

初演はピアティゴルスキーの独奏で1957年1月25日にシャルル・ミュンシュの指揮BSOでボストン・シンフォニーホールで行われ、英国初演も同年2月13日にマルコム・サージェント指揮BBC SOでロイヤル・フェスティバルホールで行っている。このビデオはその日または直後の録画と思われる。

あれこれ理屈はいらない、まず虚心坦懐に音に耳を傾けていただきたい。これがコヴェントガーデンで買ったLPからの転写だ。

この曲を作曲したころ、功成り名をあげたウォルトンは悠々自適の幸せな生活だった。というのも、かようなストーリーがあるからだ。

ウォルトンのイスキア島の家からの眺め

46才の頃、22才年上だった妻に先立たれ憔悴したウォルトンは出版社の気遣いで気晴らしの会合に出席するためアルゼンチンのブエノスアイレスに出向く。そこで知り合った24才年下の女性を見初めて再婚し、イタリアのナポリ湾の西部に浮かぶイスキア島で半年を過ごす。そして、ついには54才でロンドンの家を売り払って妻とその島に永住してしまうのである。そこで書いた作品は多くないがそのひとつがチェロ協奏曲だったのは幸福なことだ。チェレスタ、ヴィブラフォーン、シロフォン、ハープの醸し出す神秘的なサウンドは非常に魅力的だが初演を聴いた評論家には時代遅れと評されもした。しかしそれから65年たった今、当時の耳に古く聴こえたかどうかなど何の関係もない、良い曲がどうかだけが問題でありこれは後世にそのひとつとして伝わるクオリティの作品である。

サー・ウイリアム・ウォルトンは1983年にイスキア島に妻レディ・スザンナ・ウォルトンが造った著名なガーデンで亡くなり島に埋葬されたが、英国はその功績を讃えウエストミンスター寺院にエルガー、ヴォーンウィリアムズ、ブリテンと共に記念碑を設けている。享年80才だった。個人的には、イスキア島のような場所を見つけられたのがとてもうらやましい。

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ブリス 「色彩交響曲」(1921/1932)F. 106

2021 SEP 29 13:13:34 pm by 東 賢太郎

ロンドンのことを書いていたらこの交響曲のことが頭に浮かんだ。

まずは英国音楽について述べてみよう。ドイツ音楽やイタリアオペラに比べると日本ではあまり人気がない。誰でも知ってるメロディーとなるとエルガーの「愛の挨拶」や「威風堂々」、ホルスト「惑星」のジュピターぐらいだろう。ところがロックとなると景色がガラッと変わる。ビートルズ、ローリング・ストーンズ、クイーン、レッド・ツェッペリン、ピンク・フロイド、ディープ・パープルなど門外漢の僕すら聞いたことがある名前がずらりと並ぶ保守本流の国なのだ。

その理由を探るとひとつの文化論になろう。英国ロックの席巻は、植民地の米国が繁栄して英語が世界言語になったことと無縁でないと思う。第九や蝶々夫人を好きな人がみなドイツ語、イタリア語を理解しているわけではないが、イエスタデイやウイ・ウイル・ロック・ユーを英語で歌える人は多いだろう。音楽はやはり原初的には言葉と一体なのだと思う。そしてもうひとつはビートルズ、ストーンズという巨星が現れたことだ。それが英語という言語の伝播と相乗してロックのディファクトを形成したと思う。

英国のクラシックにもオペラはある。いやむしろ声楽はメインの存在であって、合唱曲、オラトリオ、歌曲に良い曲がたくさんある。だから明治政府の「お雇い外国人」の約5割は英国人であったのになぜ西洋音楽輸入はドイツ中心の器楽曲重視になったかは不思議ではある。想像だがクラシックでは英国にはドイツ3大Bに匹敵する人がなく、各界の「いいとこ取り」ができた政府が選ばなかったのだろう。英国自身もヘンデル、J.C.バッハ、ハイドンら「外タレ作曲家」を輸入してきた歴史もあるから訴求力がなかった、これは仕方がないことともいえる。

しかし英国のクラッシックには独特な魅力があるのだ。私見だがそれはこの国の気候風土と密接な関係があって、シベリウスの音楽がフィンランドのそれにとても親和性を感じさせるのと似たことだと思う。ではその気候風土はどんなものか?英国に住むと良い事もたくさんあるが、たいていの日本人はあの暗くて長い冬に参ってしまう、これぞその特色だ。雪が降るほど寒くはないがじとじと小雨が続き、陽の光を見るのは週に何度かというイメージで、僕も毎年9月ごろになるとああまたあの季節が来るのかと憂鬱になった。慣れるまではけっこうメンタルにくるので鬱病の人が増えるともきいたがよくわかる。

ちなみに推理小説はこういう所で出来るというのが持論だ。暗いから細工の効いた犯罪ができ、細工をリバースエンジニアリングすると犯人が特定できるという知的プロットの小説が書けるのだ。コナン・ドイルの出身地はエジンバラ、クロフツはダブリン、クリスティーはデヴォン、チェスタートンはロンドン、エドガー・アラン・ポーはボストンからロンドン。みんな緯度は樺太の中央よりも北の都市で冬が暗い。陽光がさんさんと降り注ぐイタリアやスペインにだって知能犯はいるだろうが、虫眼鏡とピンセットでその悪党を追い詰めて捕らえるシャーロック・ホームズよりも、痴情のもつれで恋人をブスッとやっちまったドン・ホセを逮捕はせずむしろ感情移入する方が南の国では受け、だからそれはオペラになる。ホームズはならないし、今後も多分ならないだろうと思うのだ。

英国音楽を聴いていると、やっぱりこういう難渋な旋律や和音はあそこに住まないと出てこないだろう、南国の人には書けないなと強く思わせるものがある。感情表現も回りくどい。オーソレミオなんて言わない。そういうメンタリティーを英語で reserved というが、慎み深く無口で誇大な表現を避けるのを良しとする文化だからだろう。それって日本人に近いといえないこともないから親しみやすいかというとそうではない。いいなと心から思うようになるには、英国で越冬しろとはいわないが行って肌で気候を感じてみて欲しい。できればレストランでハギスやブラック・プディングやキドニーパイを注文してみて欲しい。意外にいけるじゃないとなれるぐらいならもうその域にあることうけあいだ。

アーサー・ブリス

A Colour Symphony、色彩交響曲、何だそれは?と思ったが、そういうものの存在は日本にいる時から知っていた。実際に聴いたのはロンドンに行ってシャンドスのCDを買ってのことだ。作曲家アーサー・ブリス(1891 – 1975)の代表作だが彼の名さえ知っている日本人はごく少ないだろうし、本国でもこれを演奏会できくことはなかったからそう一般に知られているとも思えない。僕が関心を持ったのも、まずその第1~4楽章が順番に紫色、赤色、青色、緑色という標題だったからである。色が音楽になるのか?と思いきや、色そのものを描き出そうとしたのでなく、紋章学で色には象徴的な意味があることに着想したものだから、グスタフ・ホルストの「惑星」が星の物理や情景には関係なく神話から得たインスピレーションから書かれているのと同じだ。僕としてはちょっと物足りない。火星が戦争の星だなんて与太話はどうでもいい。できれば木星や海王星など、宇宙船でそこに行った驚くべき情景をイメージして誰か音楽にしてもらいたい。ベテルギウス、ベガ、プロキオン、スピカなんて恒星ならもっといい、ぞくぞくするなあ、絶対にCD買うけどなあ。でも色はどうなんだ、赤、紺、オレンジ、金、銀を眺めたイメージ。宇宙旅行ほど難しくない、作曲科の学生さん僕だったらやるよ、面白いと思うんだけど。

しかしだ、それはともかく、人間臭さや古典的感性での自然賛美から自立した星やら色やら抽象的、即物的な視点で大曲を書いてみようという精神が僕は好きだ。曲がりなりにもそこにはルネッサンス、啓蒙思想の香りを作曲に投影してみようという実験精神が感じられるのであり、さすが科学、哲学、民主主義の先進国だという心のあり様を見るのである。思えば倒幕を画策し薩長に最新兵器を提供してそれを成さしめた英国が「お雇い外国人」を5割も送りこんだのは自明であり、明治政府がそれに学んで日英同盟に進んだのは良かったし、しかし全面依存でなくドイツ、フランスの知恵も導入してバランスさせたのは賢明だった。洋学の輸入にもその痕跡を見る気がしている。

ブリスは1942~1944年のBBCのミュージック・ディレクターだった。サラリーマンだったわけではなく、前任のエドリアン・ボールトのリプレースだ。僕もよく聴いていたBBC Radio 3の前身の番組を作ったらしい。交響曲は本作だけで、オペラ、バレエ、室内楽、映画、舞台、ミリタリー、ファンファーレと手広い。本作も英国音楽の難渋さからは逃れていて(彼は英米のハーフだ)非常にわかりやすい、耳になじむ音楽と思う。特にオーケストレーションがカラフルであり、それで色彩交響曲でもいいぐらい。僕はむずかしい音楽がちょっとしんどいなという時にヴァーノン・ハンドリー指揮のアルスター管弦楽団のCDを聴いているが、この音響はなかなかゴージャスである。

 

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モーツァルト ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調K.364

2021 SEP 10 1:01:50 am by 東 賢太郎

(1)再び「偽作」か「真作」か

モーツァルトはパリで流行していた「協奏交響曲」というものを2つ完成したことになっている。どちらも現代のコンサート・レパートリーに定着しており、名手たちの録音もたくさんあって、クラシック・ファンなら知らぬ人がない。どちらもブログに取り上げ長文を費やすということだから、僕にとっても「おおいに気になる曲」であることは認めざるを得ない。しかし、その一つ、「協奏交響曲 変ホ長調、K.297b」の真偽について、僕は偽作派であることを表明した(http://モーツァルト Ob、Cl、Hr、Fgと管弦楽のための協奏交響曲 変ホ長調、K.297b)。特に第3楽章は、モーツァルトが書くとは到底信じ難いものを含む。

ではもう一つのほう、本稿の表題作である「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 変ホ長調、K.364」はどうだろうか。それが本稿のテーマとなる。結論から書こう。自筆譜が断片しかみつかっていないので確定的なことを述べるわけにはいかないが、自分の五感すべてをかけてK.364を真作と確信する。否、もしこれが偽作だったなら、「モーツァルトは2人いた、音楽史を書き直せ」と主張することになる。本物どころか何百回聞いても飽きぬ愛好曲の一つであり、もし「モーツァルトの曲は何を聞いたらいいですか?」と質問されれば、迷うことなくK.364をお薦めリストに入れるだろう。

ところが困ったことにK.364は正体が見えない。実在するという物的証拠がどうしても押さえられない。ちらっと見かけて心から気に入ってしまった女性を、探せども探せども名前はおろか年齢も住所も何もわからず、刑事みたいに聞き込みをしても誰も「そんな人は知りません」と答える。ウイリアム・アイリッシュの「幻の女」さながらだ。目を通した限り世界のどの学者の書物も出自の特定には無力であり、アラン・タイソンの五線紙鑑定の著書にだって姿すら出てこない。こうなるともはやお化けだ。好きになったことが罪みたいに思えてくる。

K.364は現在の通説では1779年夏~秋に作られたとされている。「ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロのための協奏交響曲 イ長調 K.Anh.104」の自筆譜の五線紙をアラン・タイソンが科学鑑定したところ「1779年7月に使い始めウィーンに移住するまで使い続けていた五線紙に書かれている」(著書146頁)ことが判明し、「両作品のタイトルおよび書法が似ているので同時期に書かれただろう」という三段論法が用いられている。つまり、「K.364も 協奏交響曲(Sinfonie Concertante) だ」、そして、「ヴィオラが半音高くチューニングされている」、従って、「作曲年は1779年夏~秋だろう」となっているわけである。

しかし疑問が2つある。まず、自筆譜が残っていないのになぜK.364のタイトルが Sinfonie Concertante だと断定できるのだろう?写譜の段階で第三者にそう書かれた可能性は否定できない。次にヴィオラの調弦だが、よりテンションの高い音を得られ、変ホ長調で弾いているヴァイオリンよりニ長調で開放弦を使うヴィオラのほうが倍音が共鳴する効果もあり、ヴィオラの名手でもあったモーツァルトが弾く前提で書いたパートだったとするのが定説だ。これは賛同するが、だからといって彼がそう思ったのが一時期だけだった保証はない。その三段論法はロジックとして脆弱である。

K.Anh.104のタイトルが Sinfonie Concertante であるのは事実だろうか?これは証拠があるのでお見せすることができる。検索したらK364の英語版Wikipediaに添付されていたが、貼った人が両曲を混同しているのだろう、もちろんご覧のとおり間違いである。

K.Anh.104 (320e)の自筆譜

ではK.Anh.104がどんな曲かお聴きいただきたい。トルソ(未完成)であり、51小節まで完成され、続く52小節から134小節までの独奏楽器による提示部はソロパートのみ完成している。

本作はアルフレート・アインシュタインが「完成すべき外的な動機が消えたために完成せずにおいたという事実の例も存在する。 そういう例の最も悲しむべきものは、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロとオーケストラのためのシンフォニア・コンチェルタンテ(K.Anh.104)である」と書いており、モーツァルテウムの働きかけで我が国の三枝成彰氏など現代の作曲家が補筆完成している。しかし、あくまで個人的な聴感上の印象だが、これとK364を同じ土俵で比較するのは僕には困難だ。「動機」が何だったのかはともかく(少なくとも「外的」だったようだが)モーツァルトの作品としてはまったく霊感がない。動機が消えたのでなくそもそも存在したとも思えず、それなりのものだから霊感を得て発展する兆しもでてこず、自然にスクラップとなったのではないかとしか思えない。霊感のない所が1小節もないK364と同時期に書かれたどころか、同じ人間が書いたことさえ信じ難いのが僕の直感なのである。

(2)K.364の自筆譜とレクイエムの関係

もうひとつささやかな疑問がある。K.364の初版はフランクフルトの隣り街であるオッフェンバッハ・アム・マインの音楽出版社ヨハン・アンドレによって1802年に出版されているが、どうして自筆譜(または写譜)がザルツブルグからそこまで渡ったのだろう?これは簡単に解けた。ヨハン・アンドレの息子アントンが1799年にウィーンに出向いて未亡人コンスタンツェからモーツァルトの音楽遺品を買い取ったからだ。フリーメーソンであったアンドレ家はモーツァルトと交際があった。遺品には「フィガロの結婚」、「魔笛」、弦楽四重奏曲集や弦楽五重奏曲集、複数のピアノ協奏曲に「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」の重要ナンバーを含む270以上の自筆譜も含まれていたことから余程コンスタンツェに信頼されていたのだろう。その中にK.364の自筆譜があり、フランクフルトおよび近郊が第二次大戦の連合軍空襲で壊滅した際に焼失または紛失したと解するのは自然である。そうであるならば、ヨハン・アンドレ1802年初版(Sinfonie Concertante)は真作のコピーという結論になる。

ただ、事はそう簡単ではなさそうだ。もし遺品として総譜が保管されていたなら、これだけの質の高い作品がウィーンで演奏された記録がないのは何故だろう。ウィーン定住後もザルツブルグ時代の作品は演目に入っている。ハフナー交響曲を初演したブルグ劇場の演奏会でポストホルン・セレナードK.320の第3,4楽章を演奏しているし、ピアノ協奏曲第10番K.365の写譜をモーツァルトは父に頼んで取り寄せ、管弦楽を補強して同年と翌年に2度演奏した記録が残っている。ザルツブルグでの演奏記録は父子同居で手紙がないから残っていないという理解もできるが、ウィーンで演奏したなら当初の彼の人気からして不評で黙殺されたとは思えず、父への手紙に言及がないのは不自然だ。つまり演奏していない可能性が高いのである。

K.364がそれらの作品よりも劣るとは、僕にはどうしても考えることができない。 Sinfonie Concertanteがウィーンでは流行りのスタイルでなく、自身がピアニストで売り出そうとした事情を勘案するにしても、総譜かパート譜がザルツブルグの父の手元にあれば取り寄せてでも披露する価値はあっただろうし、それで評判が良ければ容易に売って金に換えることもできただろう。モーツァルト家の経済事情からして完成品として売れる作品をしまいこんでおく余裕はない。ということは、ひとつの可能性だが、ザルツブルグで作曲したK.364の総譜は写譜をされることもなくどこかで誰かの手に売却されて渡っており、モーツァルト家に残っていたのは部分的なパート譜だけだったのではないか。だからコンスタンツェは完成品を持っておらず、さらにその一部が戦火を免れ断片として今に残ったのではないか。

ここで想起すべきは「レクイエム」だ。コンスタンツェは未完のレクイエムをジュスマイヤーに補筆させ、値を上げようとその事実を隠して依頼人(ウォルセグ伯爵)に売却した。依頼人は自作と偽って初演することが目的だったが、それをいいことに、コンスタンツェは手元に残っていた写譜を亡夫名でブライトコフ&ヘルテルに売却し、新聞広告でそれを知った伯爵が抗議するという騒動が1799年にあった。この年にレクイエムだけが同社に、それ以外の遺品は前述のとおりアントン・アンドレに売られていたのである。ということは、作曲家でもあったアンドレの手によってパート譜だけだったK.364においても同じ目的で補筆が行われた可能性は完全には否定できないだろう。

このことはモーツァルトの最晩年の作品の主に管弦楽パートにおいてジュスマイヤーら同業者、弟子の協力があったという説を思い出させる(「皇帝ティトの慈悲」やクラリネット協奏曲)。特に最後の年、1791年の驚くべき多作ぶりは画家ルーベンスのように「工房」の存在を想像させないでもない。同様に自筆譜がないクラリネット協奏曲はやはりアントン・アンドレとブライトコフ&ヘルテルによって(両社ともう一つの3社から同時に)死後に出版され、冒頭の弦楽器の書法がモーツァルト的でないという指摘もある。K.364の “自筆譜” の置かれていた環境も近似していることから、「真作と確信する」という僕の言葉も論拠は盤石でないことは認めざるを得ない。

(3)K.364はいつ書かれたか

K.364の作曲時期に戻ろう。通説に疑問を呈したが、それではいつなのだろう?学問的に追及するならエビデンス(証拠)が必要であることは言うまでもない。K.Anh.104しか論考を組み立てるに足る証拠が見つかっていない以上は冒頭の三段論法に依拠するしかないと考えるのは学問の常識であり、それが導いた結論を否定する以上、証拠に拘泥するならば真相に辿り着けないという観察をしたということになり、K.Anh.104は捨てるしかないという一見矛盾した結論に至るのも学問の常識である。それは新しいエビデンスによって証明されなければ永遠の仮説であり、説ですらないとされれば小説であっても仕方ない。そうやってモーツァルトの人生は魅力的な文学、エンターテインメントの題材を提供し、数多の優れた作家、文学者、評論家、クリエーターの手によって小説、映画、舞台が生まれた。それはそれで面白いのだろうが、個人的には別種の人たちの世界であり、僕が進んでいる道とは全然違う。僕が目指しているのは唯一無二の真実。“モーツァルトはどういう男だったのか” の真相解明以外の何物でもない。

モーツァルト研究には、誰にも否定できない一般の学術研究と様相を異にする側面がある。父子の手紙の存在のおかげで実証性を比較的担保できる利点があるが、手紙に嘘があると ”実証的に” 真実に到達できない欠点もある。父が嘘をつく理由はあまりないが、息子においてはその限りではないことは留意されるべきだ。例えばオンナ問題だ。アロイジアを手紙でほめ過ぎて魂胆を見抜かれた。だからコンスタンツェとの秘め事は隠蔽し手紙に書かない。噂でバレると、激怒した父への火消しの手紙が量産される。モーツァルトの手紙にはそういう「工作」もあって、犯人の自白だけで無罪判決が出るわけではないという側面があるのだ。本件におけるモーツァルトは22,3才の若い男だ。就職もカネも大事だが同じぐらいオンナも大事であり、父に隠蔽して書かないという “嘘” があることは読者の男性諸氏には同意していただけるのではないだろうか。

「出来があまりに違うK.Anh.104を証拠として採用することをやめる」という方法は「絶好調のモーツァルト節が全開である」ことを唯一の根拠とするが、証拠のない根拠は学問ではあり得ないから僕の中にある認知的不協和は消えない。しかし、そうであっても、「K.364のような作品が出来上がるには彼の性格から “特別な動機” がないといけない」という、僕の長年のモーツァルトとの付き合いから出た経験則みたいなものが雄弁にモノを言っており、不協和は何とか耐えられるから書こうという気になっている。ちなみにけっこう読まれているタイトルの

http://クラシック徒然草-モーツァルトの3大交響曲はなぜ書かれたか?-

もその経験則を根拠にしている。モーツァルトは天才だが出世欲も金銭欲も性欲もあるただの人間でもある。エビデンスは何もないけれど、人類史に残る交響曲を3曲もまとめて書くには「”特別な動機” 」がないと絶対にいけないのである。

指摘したいのはK.364の第3楽章はピアノ協奏曲第9番K.271(やはり変ホ長調)の第3楽章の気分そのものであることだ。9番は女流ピアニスト「ジュノーム嬢」のために書いたが、その女性はフランス人舞踏家ジャン=ジョルジュ・ノヴェール(1727 – 1810)の娘でピアニストのヴィクトワール・ジュナミ(Victoire Jenamy)であったことがわかっている。彼は格別に気に入ってたソプラノのナンシー・ストレースに熱の入った「どうしてあなたを忘れられようか」K.505を書き、「フィガロの結婚」のスザンナは創唱させた彼女のイメージを色濃く投影していると思われる。曲を書いてあげるほど気に入ると名品が仕上がってしまうわけで、彼にはそういう “特別な動機” が必要なのだ。

K.364には依頼された形跡もない。パリでの成果をコロレドに見せつけるためザルツブルグの宮廷楽団のために書いたという説もあるが、同地での評価など彼は眼中になかったろう。1779年当時に気になっていたのはむしろミュンヘンである。「イドメネオ」を初演する同地に器楽曲も持って行くために1780年にK.364を書いたのではないかというのが僕の仮説だ(後にプラハでフィガロを初演した際に交響曲第38番を携えて行ったように)。イドメネオにはフランス趣味の投影がある。グルックのアリアの引用をあえて使っているし、フランス様式のバレエの場面まで設けている。ミュンヘンの貴族にパリ仕込みを披露する意欲は満々だったということであり、フランス趣味そのもののスタイルで書かれた Sinfonie Concertante K.364 はTPOにぴったりではないか。

そしてピアノ協奏曲第9番の第3楽章には類のない特徴があることも指摘したい。プレストで全速力で走りだすのに、途中でフランスの宮廷舞踊風のメヌエットが挿入されてそれは止まる。それがパリのバレエマスターとして「舞踊界のシェイクスピア」と呼ばれたジュナミ嬢の父君ジャン=ジョルジュ・ノヴェールへの忖度だという説がある。父レオポルドも旧知だったノヴェールにはパリ滞在中に会って新曲(バレエ音楽「レ・プティ・リアン」)まで書いている(1778年4月5日の手紙:「彼の家で好きな時によく食事をさせてもらっています」)。アロイジアの件があったので娘ジュナミは手紙に登場しない(「ジュノメ夫人も当地にいます」だけ)。彼女への言及は一緒に何時間もピアノを弾いたはずにしては不自然なほどないが相手は既婚者なのだから当然だろう。第9番を思い出させる仕立てで気を引こうという意図があったのではないか。

そもそも大嫌いなコロレド大司教やザルツブルグの田舎貴族にパリ仕込みを披露しようというモチベーションはありそうもなく、パリ行を認めてもらった儀礼で必要だったならK.Anh.104 ぐらいのものしか書かない。彼はそういう人だ。 “特別な動機” はザルツブルグの外にあった(アインシュタイン)とするとパリかウィーンかミュンヘンしかない。パリでは夢破れており、ウィーンでは演奏していない。消去法でミュンヘンが残る。総譜が残っていない事実からして、当地で売却したのではないか(現にパリ時代にジュノームK.271を含む3曲を「売ってもいい」と書いている)。ザルツブルグに持ち帰るぐらいならそうしよう、演奏されればパリに評判が届くかもしれない(パリでは親しくしていたノヴェールがオペラの依頼を取り付けてくれる期待を強く持っていた。ノヴェールの弟子はミュンヘンにもいた)。そうして練習用に写譜したパート譜だけがモーツァルトの手元に残り、それがコンスタンツェがアントン・アンドレに売った遺品のバルクに入っていたというのが僕の推論である。

(4)第1楽章 アレグロ・マエストーソ

豊饒な和声の迷宮!入りこんだら目がくらくらするばかり、なんという凄い音楽なんだろう。次々に襲ってくる心地良い流れは何百回きいても「ああそう来るか」と新鮮で、脳髄に究極の快感を覚え、すべてを任せて陶酔にひたることになってしまう。この世の憂さなど吹き飛んで音楽の神に手を合わせている自分がいる。モーツァルトといえど、こんな幸せな音楽は他にない。ユリア・フィッシャーのビデオをご覧いただきたい。演奏家だって幸福の嵐なのだということがこれでわかる、僕は何度も観て喜びの涙を流した。

ちょっと頭を冷やしてみよう。ソロの2人はしばらくオケパートをなぞっている(当時の慣例として書かなくてもそうしたのをいちいち書いてあるところがちょっとねと感じる部分ではあるが)。2分14秒。ここからいよいよ2人が主役として登場する。普通のコンチェルトというものはオケの前奏がいったん盛り上がってから終止し、「さあどうぞ!」とばかりにソリストにお鉢が回る。ところがどうだ、前奏は続いたまま2人はミ♭のユニゾンを長く伸ばし、ずっとそこにいたかのように物陰からそーっと姿を見せる!この遊び心、センスの良さ!もうここでブラボーを叫びたいほど僕の頭は狂乱している。譜面にはクレッシェンドがないが、奏者は誰もがピアニッシモで息をひそめて入り、だんだん大きくする。書いてなくても生理的にそうなる。この曲の凄さはそういうところにある、流れに自らを委ねると自然にそうなってしまうという神の手のようなものが隠れているのだ。

さらに驚くべきはその主役登場にいたる舞台回しだ(1分29秒~)。ミ♭のオスティナート・バスの上で和声が半音階上昇でだんだん緊張していき、音は大きくなっていき、ほ~らほ~ら何かが起きるぞ~とくすぐられてこそばゆい感じがしてくる。その悪戯がわ~っと爆発して鎮まると、ちょっとおすまし顔で2人がこっそり登場してくるというニクすぎる仕掛けなのだ。ここを聴くといつもロッシーニはこれをうまいこと真似してるなあと思うが、もうひとつ似たものがある。チャイコフスキーの悲愴の第3楽章、行進曲テーマの1回目が全奏で出るお膳だてをするあそこだ、ティンパニが響くラのオスティナート・バスに乗っかった長い長いクレッシェンドの爆発が興奮を最高潮に引き上げるあれ。チャイコフスキーはモーツァルティアーナを書いたりイドメネオのバレエ曲を指揮したりと筋金入りのモーツァルティアンであり、影響はあり得ると思う。

なお、その悪戯が爆発したところ(1分49秒~)でバスに現れるトリルのついたパッセージは「協奏交響曲 変ホ長調、K.297b」第1楽章冒頭の主題を強く想起させる。どう見ても他人同士とは思えない。かたや偽作、こっちは真作?なんとも割り切れない。やはりK.297bはパリで作られており、ルグロに盗まれ、他人が改作したバージョンが20世紀になって出てきた。そしてモーツァルトの頭に残っていたそのパッセージはK.364にひょっこり顔を出した。そんなところではないだろうか。かようなパッセージ(主題の萌芽のような)を数えるとトゥッティに6つ、ソロが出てからさらに新しいものが6つ加わる。第1楽章は和声のみならず旋律の豊饒な迷宮でもある。この饒舌さはこの曲がパリ交響曲の系譜にあることを覗わせる。

(5)第2楽章 アンダンテ

第1楽章が幸せの極、そしてこの楽章は悲しみの極だ。このコントラストの大きさは何だろう。モーツァルトのハ短調。ピアノ・ソナタ第14番K.457、幻想曲 K.475、大ミサ曲 K.427、五重奏曲 K.406、セレナード 第12番 K.388、アダージョとフーガ K.546、フリーメイスンのための葬送音楽 K.477、パミーナのアリア、ピアノ協奏曲第24番K.491、独自の深淵を持った曲が並ぶ。この楽章は母の追想だ(http://モーツァルトの「レクイエム・ストリーム」)。奇跡的な和声の彷徨が魂を天国に導き、カデンツァで2人のソリストは号泣する。第80小節(下のビデオで18分25秒~)でソにG#が、次いでドにC#が乗ってきしむ所はピアノ協奏曲第24番K.491の幽玄な世界が顔をのぞかせ、終結の慕情はピアノ協奏曲第23番第2楽章コーダの夕焼けの中に沈む。弦楽六重奏版できくとブラームス弦楽六重奏第1番の第2楽章がきこえてくる(13分15秒~)

(6)第3楽章 プレスト

ピアノ協奏曲第9番K.271、同第10番K.365の終楽章と同じギャラントな “躁” 気分の音楽。どちらも変ホ長調でパリ旅行前、母がいた頃のザルツブルグを偲ぶ遊び心にあふれた曲であるが、243小節目(上の六重奏のビデオで26分55秒)で変ホ長調の音楽がオーボエのド、ファ#、ソを載せた3つの和音G#7-G#7-Gで停止して突然に変イ長調に転調するところは予想外だ。この「3つの和音の停止」は「魔笛」第1幕で気絶しているタミーノを3人の侍女が奪い合う「私が、私が、私が」(E♭7-E♭7-D)の和音に他ならない(下の「魔笛」のビデオの10分54秒)。そこから曲想がガラッと変わるところもまったく同じである。魔笛も♭3つ(変ホ長調-ハ短調)を基調とするオペラであり、この調性におけるモーツァルトの王国は和声、リズムがリンクしている。

以上、K.364の全曲を概観してみたが、楽曲分析的なものは鑑賞には重要でない。そうした魔法の限りを尽くしてモーツァルトは我々を陶酔させ、鼓舞し、歓喜の渦の中に開放してくれる。パリで人生のどん底を見た彼がここまで立ち直ったことに、僕は百万馬力のエネルギーをもらう。それは教科書や伝記をいくら読んだところで、言葉の力だけでは叶わない、まさに音楽のパワー恐るべしの超常現象みたいなものだ。それにしても、ザルツブルグ時代にこんな巨大な曲が忽然と現れるなんて、いったいぜんたい彼に何が起きていたんだろう・・・

(7)全曲演奏をふたつ

ジャン・ジャック・カントロフ(Vn)ウラディーミル・メンデルスゾーン(Va)レオポルド・ハーガー / オランダ室内管弦楽団

既述のようにこの曲のヴィオラがニ長調で記譜されているのは調弦を半音上げることでよりテンションの高い音を得るためだが、変ホ長調で弾いているヴァイオリンよりニ長調で開放弦を使うヴィオラのほうが倍音が共鳴する効果もあり、ヴァイオリンを包み込みつつ拮抗もする設計になっているからだ。名手であったモーツァルトがそのパートを弾くための工夫と思われ、なかなか満足できるヴィオラ演奏がないが、この録音のウラディーミル・メンデルスゾーンの素晴らしさは特筆ものだ。その効果を満喫させてくれる。録音も両ソロ楽器とオーケストラの弦、オーボエ、ホルンとのバランスが理想的で、倍音に至るまで聞こえるべきものが過不足なく聞こえ、安心してモーツァルトに没入できる。CDをオーディオ装置でじっくり聴くことをおすすめしたい。

 

スレーテン・クルスティチ(Vn)ヘルムート・ニコライ(Va)セルジュ‣チェリビダッケ / ミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団

ソリストはミュンヘン・フィルの首席奏者だがオケマンであり名技でばりばり弾く人たちではない。ライブの制約はあろうが、音程が甘くテンポも弛緩する第1楽章はだめだ。カーチス音楽院でチェリビダッケの講義とドビッシーのリハーサルをきいたが、彼はそういうものを一切許容する人ではなかったのにと思う。しかし、深い霧の中を彷徨っているような第2楽章をきくとモーツァルト演奏に求めているものは少し違うことがわかる。この味の濃さは無類の悲しさを醸し出しており僕がここに求めるコンセプトに近い。闇に沈み込むカデンツァで客席も息を潜めている。そして、一気に空気を換える速めの第3楽章。ソロも温まってきており終わり良ければ総て良しだ、しっかりとフルコースを食した満足感を与えてくれる。

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モーツァルトの「レクイエム・ストリーム」

2021 SEP 5 22:22:22 pm by 東 賢太郎

モーツァルトの母の肖像

1778年3~9月のパリへの就活の旅は悪夢であった。行きがけに寄ったアウグスブルグやマンハイムでは良い思いもしたけども、魑魅魍魎の住む大都会パリはそう甘くなかった。モーツァルト君は22才。うまく口説いたはずのアロイジア・ウェーバーちゃんにあっけなく裏切られ、手練れのパリ貴族どもにあしらわれ、屈辱的な扱いを受け、天才をもてはやされるどころか利用され、作曲能力の粋を尽くした作品は披露の場すらほとんど与えられず、本題である就職話は兆しすらなかった。ザルツブルグで吉報を心待ちにする父への手紙で体裁を取り繕う噓のネタすらない大失敗である。さらには、あろうことか、7月に最愛の母まで異郷で亡くしてしまうのだから、踏んだり蹴ったりここに極まれりだ。今の世では押しも押されぬ世紀の大天才とはいえ、リアル世界でのモーツァルトは本当に可哀想な男だったのである。

当時のパリは今の花のパリではない、その手の書物によると誠に不潔な街だったようだ。ベルサイユ宮殿でもトイレというものはなく、王族といえども携帯トイレ(おまる)で用を足しており、貴族女性の釣り鐘型のスカートはモードでもあったが排泄を容易に行うためのものでもあった。おまるの排泄物は従者が処理したが、一般家庭では2階3階の窓から下の路地に投げ捨てるのが常態で、道ではたまった汚物をよけて歩く必要があった。鼻も曲がる悪臭とばい菌、ウィルスの宝庫であったと思われ、ロンドンの街路に馬糞が落ちていても汚いと感じていた僕の衛生感覚などまったくお呼びでない。モーツァルト家のうんこ譚を現代の感覚で読んで彼はスカトロ趣味があったなどと考えるのは噴飯ものなのだ。

であるから、いま我々が直面しているコロナ事情を想像するまでもなく、街路で息をするだけで疫病の空気感染リスクが高かっただろう。モーツァルトは父との数々の演奏旅行で都会慣れしていたが、母は空気の澄んだザルツブルグの片田舎育ちの婦人である。パリの底冷えのする粗末な屋根裏部屋ですることもなく息子の帰りを待つ日々が夫への手紙に切々と綴られているが、フランス語もままならぬ彼女が周囲に相手にもされず極度の疲労とストレスで弱っていく姿は想像に難くない。そして、おそらくは何かに感染したのだろう(死に至った病名は不明である)6月の「息子も私も元気よ」という手紙を最後にザルツブルグの夫への交信も途絶える。瀉血をする当時の医療も絶望的であったが、夫の期待も空しく息子は就活に希望が見えず、それでもプライドをかけて戦っていた。病気の泣き言もいえなかったのだ。

パリ行きは旅先でやむをえぬ事情から突然に決まったのだ。マンハイムに半年もだらだら滞在してアロイジアにうつつを抜かしていた息子が「彼女とミュンヘンに行く」などと言いだし、怒り心頭に発した父が鉄槌を食らわせるために下した厳命が「パリへ行け」だったのである。しかし、昨今の教育ママでもあるまいし、妻に同行を命じる必要はなかったと思う。息子は22才の大人なのだ。しかしこいつは何をしでかすかわからない。行ったふりをしてアロイジアの尻を追っかけるかもしれない。スマホもない、メールもラインもない、月にせいぜい数回のとぎれとぎれの手紙の情報で想像をたくましくするしか手立てがないレオポルドのストレスも限界だったことは想像がつこう。なにせ馬車のレンタル料も、宿泊費用も、食費も、交際費も、郵便代ですら高く、一日一日が彼にとっては巨額の投資であった。失敗は許されない。息子の才能は確信できるが素行が悪い。糸の切れた凧(たこ)はどこに飛んでいくか知れない。だからママを同行させようとなった。もちろん見張り役としてである。

そんな不甲斐ない事情で為すすべなく母を失ってしまった。そのことはモーツァルト自身が痛いほどわかっている。すべては身から出た錆であったことを。アロイジアの件で父をうまく説得しようと手紙の文言に慎重に意匠を凝らして彼女の歌の才をほめたたえ、うまくいったつもりだった。しかし父はそう甘くはなかった。「お前は思いつきを信じこんで夢中になる癖がある」と一般論に立ち返って一刀両断に切り捨て、その娘の色香に狂っているだけで算盤勘定など何もないではないかと鋭く見抜いていることを知らしめている。その頭脳明晰かつ冷徹な父に母の死をどう伝え、どう申し開きをするんだ・・・。彼はとてつもなく悩んだに相違ない。そしてその結果が、まず知己の神父を通じて宗教の力を借りて心の準備をさせ、自分は「気丈を装って父にショックを与えないようにしている」という形態をとって(これ自体が噓とまではいわないが「装い」である)、身から出た錆の贖罪をしているというように僕には読める。例えは良くないが分かりやすくするために書くなら、殺人犯が警察に偽装の手紙を送るようなものだ。

しかし彼にとってそんなことは父親対策にすぎない。大好きだったお母さんと自分の関係には無縁の男、類のない優秀な教師であり、パトロンであり、すべてを綿密に管理する敏腕マネージャーである男が父親だ。報告義務は果たした。手紙を書き終えて、泣きながら気の遠くなるほど長い夜を過ごしたに違いないモーツァルトが書いた、気丈を装いきれなかった曲。それがイ短調ピアノソナタだったのである。この曲は「パリ交響曲」で1小節たりとも聴衆が喜ばない音符を書きたくなかった彼が、もっともパリで書きそうもない、書く必要すらない性質の音楽だ。 “商品” ではないとは誰しも想像がつくだろう。しかしそれにしてもどうしてこんなにおどろおどろしい “怖さ” を僕に浴びせかけてくるのだろう?長いこと謎のままにきていたが、ついに解けた。2017年5月に僕自身が母を亡くして、その年の暮れに立ち直って書いたのがこのブログである。本稿を書き始めるにあたって少し書き足したのでお読みいただければ幸いだ。

モーツァルト ピアノ・ソナタ イ短調 K.310

パリへは僕は何度も足を運んでるが、行っていない大事なところがあった。アンナ・マリア・ヴァルブルガ・モーツァルト(Anna Maria Walburga Mozart, 1720年12月25日 – 1778年7月3日)の葬儀を行ったパリ1区北部にあるサン・トゥシュタッシュ教会である。お母さんに手を合わせたのは2010年8月の真夏の日だった。外は酷暑なのにひんやりと乾いた暗がりの空気。そこはかとなく漂うお香のかおりが忘れられない(http://デュトワとN響のプーランクを聴く)。葬儀も7月の真夏のことだった。肌で感じた。ここに立ちすくみ、22才のモーツァルトは母の遺体の前で涙が枯れるまで泣いたのだ。無力な自分を呪い、こんな宿命を背負わせた父も神も呪ったに違いない。

何もかもがうまくいかず、失意のどん底で負け犬のようにザルツブルグへ帰ったモーツァルトの心に傷が残らなかったと信じるの難しいのではなかろうか。そして、そのすべての深因はこの父の訓戒に秘められた、治しても治しようのない彼の性格にあった。

「お前は思いつきを信じこんで夢中になる癖がある」

実はこれを白水社のモーツァルト書簡集で知った瞬間にぎょっとした。僕が父親に何度も言われた言葉だったからだ。大学を卒業して、それがぴったりの証券会社に行きたいといって律義で勤勉で誇り高い銀行マンであった父を嘆かせた時もこれを言われた。そして、何を隠そう、今でも同じことを家内に言われているわけである。彼もその癖が治らなかった。アロイジアとの交際で父の説得に失敗したが、実は本人の説得も失敗だったのである。そして後になって、今度は妹のコンスタンツェとできてしまい結婚したいと言いだす。「歌はうまいし、器量はちょっと落ちるが気立てのいい子です」とアロイジアでの失敗に学んでいない。これまた父は「お前は知らないだろうが、その姉妹の母親はやり手ババアで有名なんだ、やめとけ」と諭す。しかし、夢中になったらもう止まらないのがこの性格を持つ人間なのだ。嫌になるほどよくわかる。

僕自身も20才前後まで数々の大事な勝負に負け、ついに自信も失い、何のとりえもない人間というレッテルを自分自身に貼って生きていた。そしていまは、あれは昔のことさでのうのうと生きている。そのぐらいの年齢で挫折に打ちのめされるのも悪くないなんて適当なことを言ってもいる。理由なんかない、自分もそうだったから我田引水でそう信じたいだけかもしれない。ただ、冷静に冷徹に、こう思うのだ。人には2種類あって、そこで心が折れてしまう人もいれば、屈辱やトラウマを2段目のロケットの燃料にしてもっと高く飛ぼうとする人もいる。そういう他人を見てきたから事実だ。そしてモーツァルトも明らかに後者の人であった。だからだろうか、ザルツブルグへ帰ってきてから彼が気持ちをリバウンドさせて書いた幾つかの曲を聴くと、僕は心にバネが入ったかのように元気になるのだ。これも事実なのだ。ためしに味わってほしい、あなたがもしそれが必要な部類の人であるならば、事実だときっとわかるから。

2年半も大嫌いなザルツブルグで我慢して、ついにコロレド大司教と衝突してウィーンに出て行ってからのモーツァルトの作品は名曲の宝庫になるわけだが、それでもこの特別な2年半に作曲した音楽には無類のパッションと哀愁があって少し違う。パッションはどなたも理解されるだろう、それは2段ロケットへの点火があったからであり、逆境を乗り越えた心にこんこんと湧き出た命の泉のようなものだ。では哀愁のほうは何だろう。どこから来たのだろう。それを知りたい方は「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 K.364」の第2楽章をお聴きになればよい。下のビデオの演奏はダヴィッド・オイストラフがヴィオラ、息子のイーゴリがヴァイオリンを弾いた素晴らしいものだ。指揮しているユーディ・メニューインには1997年のダボス会議で会ったことがある。ヴァイオリン演奏ではなくスピーチをしたが全身これ音楽という感じの不思議なお爺ちゃんで、ここでも僕が言いたいK.364の核心をつかんでいることがわかる。

こういう音楽を前にしてあれこれ文字を連ねる気にはなりにくいが、僕には第2楽章がモーツァルトの書いた亡き母へのレクイエムに聞こえている。後世の我々に涙を見せてはいないが、音楽で慟哭している。ヘ長調のピアノソナタの第2楽章もそう、ポストホルン・セレナーデの第5楽章もそうだ。母のいないザルツブルグ。家の敷居をまたいで、運命の不条理に苛まれなかったはずがどこにあろうか。それがトラウマとなり、時おり心の片隅にふっと現れるその情念が生み出した楽曲たちが彼の作品群の中で「レクイエム・ストリーム」とでも呼べるひとつの流れを成している。表むきには見えず、そんな動機が彼の中にあったことさえ潜在意識に隠匿されて地下に隠れているが、枯れることのない確固とした水脈である。さらに、ウィーンで活躍する時代になって、楽章ではなく一個の作品として表に現れたのがピアノ協奏曲の第20番と24番だと僕は考えている。真相は不可知だ。しかし、そう考えると音楽史上の数々の謎に明快な説明が施されるのである。そうでないという例が一個現れるまで僕はこの自説を信奉するだろう。数学的帰納法によって。

古来よりモーツァルトの短調作品は別格の存在でひとの心をとりわけ動かしてきたとされる。僕は小林秀雄や吉田秀和のような文学者のそうしたセンチメンタルな意見が鬱陶しくて仕方なかったが、近頃はそれは本当だろうと思うようになってきている。数学的帰納法のほうが鬱陶しいという人もおられるから、そうご説明してもいい。ただ、大事なことは、短調であることが大事なのではないことだ。戴冠ミサ曲のように、長調なのに、澄んだ秋晴れの空のように悲しさを湛えた楽曲もある。短調というメカニックなシステムを経由しなくても、作曲家の心の在り様にその泉は湧いているからだ。ピアノ協奏曲第27番の第2楽章が長調でもどれほど悲しいかという感想に多くのモーツァルトファンは賛同して下さるだろう。こういう音楽が「レクイエム・ストリーム」の水脈から生まれ、聴き始めると言葉を失い、僕如きの卑小な存在は語るに及ばずという気持になってしまう。プッチーニのオペラの出来栄えを興奮のままに語りあうことならできようが、モーツァルトでそれをするとあれほど大きかった感動が雪の結晶のように儚く蒸発して消えてしまう。

ピアノ協奏曲第24番では悲しみが自分の死の形にまで昇華し、やがて父の死を予感する時が来る。その霊感に従って死を意味するニ短調で書いたドン・ジョヴァンニは「レクイエム・ストリーム」に属するオペラとなったが、父の訃報をザルツブルグから聞いてまず書いたのが「音楽の冗談」だったのは、それが書きかけであったことを割り引いても謎とされている。管弦楽編成が問題の2年半に書いたディベルティメントと同じであるこの作品はジャンルとしても同種に属しており、ザルツブルグ音楽界、楽団、楽師のパロディに他ならない。それを冗談音楽と見てしまうとわからなくなる。そうではない、父もその一員であり、彼に学び彼を超えてきた息子の回顧でもあるが、作曲という高度なエンジニアリング作業でプロ同士の会話が成り立った特別な父子の、エンジニアにしか理解できないエンジニアらしい贈り物であり、レオポルドが知ったらまんざらでもないと喜んだだろうというのが僕の印象である。息子も尋常でなかったが、手紙から否応なく感知される父のプラクティカルな能力、素養、思考力も常人の域をはるかに超えていたからだ。

ストリームはやがて完結する。それこそが、見知らぬ男から委嘱されて完成を見ずに残された「レクイエム ニ短調 K. 626」であったのだ。僕のモーツァルト物語も、いずれはそこを終点として歩を進めていくことになるだろう。

 

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ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(11)

2021 AUG 17 14:14:32 pm by 東 賢太郎

ヘルベルト・フォン・カラヤン / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団(1959)

このライブ演奏はカラヤン51才のものだ。3年前(1956年)にフルトヴェングラーの後を襲ってベルリン・フィルの終身首席指揮者兼芸術総監督に就任し、この前年にディオールのトップ・モデルだった3人目の妻エリエッテと結婚している。同年にウィーン・フィルと来日公演を行い、フィルハーモニア管と2番をEMIに録音、数年後にDGにBPOとの最初のブラームス交響曲集を録音する。人生の絶頂時であったことは想像に難くなく、オーケストラが新しいシェフに全幅の信頼で渾身の妙技を見せている。しかも素晴らしいことにフルトヴェングラー時代のBPOの音がする。Mov1は大きなうねりを作るが大仰な作為はまったくなく、なにより歌に満ちているのが最高だ。コーダの弦の高揚は誠に魅力的。Mov2でも弦の表情が濃く音楽は深く呼吸しテンポも呼応する。ポルタメントもかかるが自然で有機的。木管はfl、obの歌が印象的で超一流のオケの音を出している。この楽章は非常に秀逸。Mov3でも木管が活き、ブラームスの語法を骨の髄まで知り尽くした音楽家たちの合奏の喜びが伝わってくる。Mov4はこれでなくてはという素晴らしいテンポで始まる。再現部の第2主題の減速は命懸けで、その弦のコクの濃さはどうだ。コーダはギアチェンジの所でいっときの溜めを作り、熱を加えながら一気に走り抜ける。この解釈は生涯変わることなく、カラヤンという指揮者の音楽性の証明。これを会場で聴いたならその感動は、僕が94年にベルリンで聴いたカルロス・クライバーの4番に匹敵しただろうと想像する(総合点:5)。

 

リヴィウ国立フィルハーモニック交響楽団

ウクライナの西部の都市リヴィヴの国際指揮者ワークショップ。リヴィヴはポーランドの国境に近くロシアより西欧文化圏の一部だ。8人の指揮者(学生かプロの卵か?)がブラームスの交響曲4つを楽章を割り振って指揮。このビデオは2,4番である。ウクライナ最古のオケはプロフェッショナルに振った通り弾いている感じであり、なかでは4番のMov1チェン氏、Mov4レディンガー氏は中々であった。耳の肥えた本稿の読者の皆様には一興と思う。終わって見れば何やら尋常でないものが聳え立っていたという感興が残る。ブラームスは神だ。

 

アンドレス・オロスコ=エストラーダ / フランクフルト放送交響楽団

音楽の抑揚が曲想、分節ごとに変転し、第1楽章は歌わせようとすればするほど違和感がある。展開部のテンポのギアチェンジもなくもがなで音楽の本筋に入りこめない。木管も野放図に歌って管弦の音色の統一感に指揮者はまったく意を用いていない。第2楽章の弦のぶつぶつ切れるフレージングは興ざめで、トロンボーンの伴奏が漫然と鳴っていてうるさい。第3楽章は速めのテンポは結構だが主旋律も伴奏もぶつぶつ切れるフレージングなのはいったい何なのか、不可思議というしかなくこれほどレガートを感じない演奏も珍しい。終楽章のテンポは良い。リズムのエッジを効かせて進むのも悪くないが、ティンパニが無意味な爆音を轟かせてみたり、音色のコクがないために p の部分で音楽にすきま風が吹いており、弦の合奏は粗くどう見ても入念の練習を積んだと思えない。棒がドイツ的感性でないためオケが遊離しているのを何とか指揮技術でまとめましたという感じで、音楽が内側からこんこんと湧き出るエネルギーで燃えることがなく、コーダはオケのほうが馬なりにアッチェレランドして安物の空疎な盛り上げで終わる。こういうのを抑えるのが指揮者の仕事なのであって、上掲のカラヤンと比べるだけで失礼だが、雲泥の差である。プロっぽい外形を意味のない個性でアピールしようという指揮者に放送局のオケがそれなりにお仕事でつき合いましたという演奏で、上掲のワークショップのほうがよほど面白い。この指揮者がブラームスを振る意味がどこにあるのかさっぱり理解できないし、こんなものを愛でているドイツの聴衆も放送局も大丈夫だろうかと心配になる(総合点:0.5)。

 

to be continued、さらに加えます)

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モーツァルト ピアノソナタ ヘ長調 K. 332

2021 AUG 15 12:12:40 pm by 東 賢太郎

同年輩の皆さんそろって「近ごろ足がね」という話になる。たしかに僕も膝が良くないが、もっと気になるのは目だ。そこで眼科の先生が「黄斑変性防止に効果がある」というルテインと亜鉛の調合された米国の錠剤を飲んでいる。そのおかげなのか、多摩川を走ったらなんだか目が良く見えるではないか。近くも遠くもだ。もともと裸眼で1.2あるが、その見え方はまるで高校生だ。あまりの嬉しさに、家に帰るや「また野球やるぞ」と叫んで相手にされなかったが、一つご利益があった。楽譜が見えるのだ。モーツァルトのK.332を出してきて全部を通して弾けた。つっかえながらだが。

この曲はかつてパリ滞在ごろの作品とされていたが、もっと後のウィーン時代の作品というのが現在の定説だ。アラン・タイソン著 “MOZART, Studies of the Autograph Scores” はその根拠を与えた研究のひとつで、僕の愛読書だ。モーツァルトがザルツブルグでは10段、ウィーンでは12段の五線紙を使ったことはほぼ原則に近いと言ってよく、K.332にはご覧のとおり前者が使用されている。

K332第1楽章の自筆譜

それが旧学説の根拠だったが、タイソンは原則にも少数だが例外があり、ウィーンに定住してからでも10段譜を使った例があることを見つけた。K.330-332の3つのソナタが、より確かな根拠のある複数の “例外” の一部であるという仮定をたてることで、「1783年のザルツブルグ帰郷の際に書いたためにウィーンの12段譜ではなく当地の10段譜を使用したのだ」と推定している。ただウィーンへの帰路リンツで書いたことが確かなK.333とは紙が違っており、作曲年に絶対の根拠がないのはこの論証の弱みだ。1784年6月の手紙に「姉に送った3つのソナタ」を「アルタリア社が出版する」という記述があることからタイソンは作曲が帰郷前なら既に出版されていたろうし、帰郷中なら姉は写譜を持っていただろうから “送った” の記述はおかしいと指摘(同書232ページ)して、「1783年にザルツブルグで書いたが完成はしていなかった、あるいは写譜の時間がなかったのでは」という結論に帰着している。

彼はもうひとつ推理している。「ウィーンに戻ってから需要があるであろうピアノの生徒への教材としての用途も意識して書かれたのではないか」というものだ。この説については僭越ながら多少の応援をすることができる。モーツァルトのソナタは決してやさしくはないが、K.332はピアノを習ってない僕でも弾けるからである。自分の腕前を披露しようと勇んで乗り込んだモーツァルトがパリで教材を書く理由はなく、就職活動は完全に失敗したところにやってきた不慮の母の死で精神的にもそんな状態ではなかった。完成したのはショックを映し出している悲痛なイ短調ソナタだけだったという現在の定説には大いに納得感があろう(ご参考:モーツァルト ピアノ・ソナタ イ短調 K.310)。

K.332の第1楽章(Mov1と記述、以下同様)は饒舌だ。こんなに主題がてんこ盛りで現れるにぎやかな曲はモーツァルトといえども類がない。ソナタ形式の第1主題、第2主題を男と女に見立てる俗習に従うならこんな感じだ。パーティ会場。冒頭の第1主題(T1、以下同様)はややお堅いフォーマル姿の男だ。するとカジュアルな装いの女(T2)が絡む。すぐ喧嘩になってニ短調の嵐(T3)がくる。やがておさまり台風一過のように清澄なハ長調のT4が出る。二人は意気投合したのだ。そこでダンスをする(シンコペーションとピアノーフォルテの嵐、T5)。終わると二人はお休みする(T6)がまだ胸騒ぎ(シンコペート)が残っており、やおらトリルとアルペジオで興奮をあおるコーダ(T7)に流れ込む。なんともドラマチックでセクシーだ。このMov1の開始、第1主題がいきなり出てくる。最晩年の作品に交響曲第40番、クラリネット協奏曲があるが数は多くなく、K.330-332のどれもそうであるのはK.310の残照だろうか。特にK.332のインティメートナな雰囲気の主題による柔らかな幕開けは本人のどの作品よりもベートーベンのピアノソナタ第18番、28番に遺伝していると思う。

さて、長くなったが、以上がまだまだ「提示部」の話なのだ。T1が第1主題、第2主題は構造的には上述のようにT2ではなくT4と思われるが、主題が7つもあるのだから深く詮索してもあまり意味がない。この現象が交響曲第31番ニ長調k.297(300a)(いわゆるパリ交響曲)のMov1でも起こっていることは注目してよい(ご参考:モーツァルト「パリ交響曲」の問題個所)。K.332がパリ時代に分類されパリ・ソナタと呼ばれた旧学説にも様式的には一理あったと考えられる。たった93小節にこれだけのことが起き、息つく暇もない。弾いていて「これがモーツァルトだ!」と喜々とした気分になる。なる、というか、襲われると言った方がいい。彼のワールドにぐいぐい引きずり込まれてしまう。再現部はあっさりして7つのどれでもないT8で始まり、ダンスT5が再現する。T8はT7の変形、T5はT4の後段だから一応理屈に合わないことはないが。

Mov2は一転して、モーツァルトに語られ、泣かれる。彼は母を追想している。僕もそうなる。K.310は号泣だったが、ここでは声はない。冒頭(T1)変ロ長調がT1’で変ロ短調に暗転する。ここを弾く心持ちは半端なのものでない。母を追って黄泉の国を彷徨っていくと、在りし日への微笑みが訪れる(T2)。やがて悲しみが戻って楽章唯一の32分音符のパッセージが現れコーダで鎮まる。以上が提示部で展開部はなく再現部になる。モーツァルトは即興バージョンも記譜している(彼が実際にこうやって変奏していたという稀有なサンプルだ。でも意外に饒舌でなく品位を崩さない)。そちらのT1’にある64分音符の半音階上昇パッセージは彼の慟哭である。2度目のコーダでファに#がついてる、これと、T1の第3小節のシに♮がついている・・・分かっていただけるだろうか、これがモーツァルトなのだ。

ファに#がついている

Mov3は陽の極に戻る。無窮動風の疾走する主題T1がパウゼで止まり、ヘ長調のままの第2主題T2が左右のユニゾンに流れ込むあたりはベートーベンのソナタにエコーしている。展開部でT2がふっとハ短調になるところは魔笛のパパゲーノを予言している。再現部は想定外のハ短調で始まる。この楽章はベートーベンのピアノソナタ第25番のMov1に響いており、どちらもMov3はひっそりと消えるように終わる。そう、K.332を彼は愛奏したに違いない、私見ではMov1のごちゃごちゃを彼流に料理するとソナタ28番Mov1になる。ダンス(T5)は分離してMov2(生き生きと行進曲風に)になった。25番は「ソナチネ」と呼ぶように指定され、たった9分で終わる最短のソナタだが献呈者がないことから教材用でもあったと思われ、やはりそうであったK.332と全貌も類似するように思う。

ひとつ前のK.331がトルコ行進曲付きのイ長調でソナタ形式楽章がひとつもない「ソナタ」なのは周知だが、K.332もハイドンの模範的なソナタをはみ出している、しかし、Mov2をそれと認めるぐらい大まかな定義を許容するならば、K.332は逆に3楽章ともソナタ形式である。ベートーベンはピアノソナタで種々の実験を行ったがモーツァルトもそうだろうか。どうも彼にはそぐわしくないように思う。特にK.332は何かの理由で創作意欲が横溢し、一筆書きの如く一気に書かれたように見える。書かれた結実の天衣無縫の美に聞きほれながら、ザルツブルグを後にする彼を何がそこまで舞い上がらせたかに興味が至る。

心はウィーンに向かっていた。

晴れて父と姉にコンスタンツェを認めてもらった、いや認めてなくてもいいさ、それがどうしたんだ、もういいじゃないか息子の勤めは果たしたんだから。やっとウィーンに戻るんだ。妻と二人だけだ、僕は自由だ!スターになって豪邸に住むぞ。僕の演奏会がうけないはずがあるか。あの馬鹿で高慢なパリの貴族どもとは違う、ウィーンではもう僕は知られてるし貴族なんてみんな僕にひれ伏して客になるだけさ、弟子もたくさん取れるから生活は安泰だ、大ヒットの「後宮」があるしソナタの方も流行のトルコ風にしてやったからイチコロだよ。オペラを書くぞ、貴族を思いっきりおちょくった奴をさ。コケにしてやったクソ野郎のコロレード大司教、覚えてろよ、僕がいなくなってザルツブルグは大損だ、吠えづらかかしてやるからな。

 

リリー・クラウス(1956)

クラウス(Lili Kraus, 1903 – 1986)はバルトーク、コダーイに師事したハンガリー人で下記のシュナーベルの弟子でもある。モーツァルトを珠玉の美で綺麗に弾く人はいくらもいるが、よいタッチで弾ける人はあまりいない。この人は持っているものが格段に違う。変幻自在、曲想によってルバートし強弱も移ろうがタッチもそれに合わせてダイヤモンドの光輝のように色を変える。ステレオの68年盤もあるがこの曲は旧盤の方が良い。あらゆるモーツァルトの名盤の白眉としてモントゥー/BSOとのピアノ協奏曲第12番を僕は挙げるが、このK.322はそれに匹敵する。

 

アルトゥール・シュナーベル

シュナーベル(Artur Schnabel, 1882-1951)はブラームスに「将来最も恐るべき天才」と絶賛された。ベートーべン弾きのイメージがあるが彼のモーツァルトはどれも一級品で、テンポにはこれしかないという納得感がある。まとめにくいMov1が常に品格を保ち、細かな表情にクラウスの即興性はないが、ドイツの伝統にがっちりと根ざした盤石の安定のうえに玉を転がすようなタッチのMov3は決して機械的に陥らない。ニュアンスに富み、デリケートで奥深く人肌の情感のこもるMov2は最高の演奏の一つである。

 

グレン・グールド

先日に東京芸大ピアノ科卒で音大講師のH様からお手紙を頂戴し、グールドとリヒテルの本をいただいた。啓発されてK.332を聴いてみた(多分2回目だ)。Mov1の饒舌はグールドの手にかかるとアレグロのソナタになり、リズムの骨格が浮き上がり、バッハのイタリア組曲みたいに聴こえる。Mov2のテンポに奇異さはなく、グールドはモーツァルトへの敬意もあるのかな、もしあるならこれだろうと思った。発見だが全部が平凡ではない。不思議な硬質の透明感が支配し、2度目の変ロ短調は即興なしの版で遊びはなし、コーダの左手のファ#の所の聴感はまるでウェーベルンだ。Mov3はアレグロ・アッサイでなくプレストで疾風の如し。どうしても指の回りに耳が行ってしまうがこの速さだと長調、短調の移り変わりの効果がくっきり鮮明に伝わる。グールドの才能と個性はJ.S.バッハにおいて最高度の開花を示したことは何人も否定のしようがないが、それがモーツァルトという場においてもそうだったかは尚且つ疑問が氷解しない。しかし、これを聴くにつけ、さらにモーツァルトが弾いたのは音が長く保持されないハープシコードであることを考えると、このテンポを彼も支持した可能性はあるし、Mov1のフォルテとピアノの強烈な対比はむしろ本質を突いているとも思う。楽譜を読みこんでも自分で弾けない解答は選択できない。超人的な知性の人が宇宙レベルの超人モーツァルトにどう挑んだかという解答がここにあるわけだが、グールドの技術をもって見事に弾けたからそれに至ったということで、もしそれが万人の予想を裏切ってモーツァルトに支持されるものであったならという想像に耽っている。これだから音楽は面白い。H様、本当にありがとうございます。

クラシック徒然草-グレン・グールドのモーツァルト-

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