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カテゴリー: _____どうして証券会社に入ったの?

野村證券元社長の酒巻さんとランチした件

2024 FEB 23 18:18:32 pm by 東 賢太郎

山本陽子さんが亡くなった。もと野村證券のOLだったことは社内では有名で、ずっと年上の方だが勝手に親近感は抱いており、「黒革の手帳」の悪女役でファンでもあった。つい先日に出演しておられた「徹子の部屋」がyoutubeで見られるが、お元気な姿からは想像もできない。ご冥福をお祈りしたい。

野村といえば、先週に酒巻英雄元社長とランチをした。もう書いてもいいだろう、酒巻さんは僕が入社してすぐ配属になった梅田支店の「S支店長」である。

どうして証券会社に入ったの?(その3)

どうして証券会社に入ったの?(その6)

店が騒然となった「T社のU社長事件」。買っていただいた公募株のことを話すと「トヨタの公募か、あったよなあ」と覚えておられる。「レコード事件」の顛末はご自身から語られ、「いよいよウチもこういう新人が入ってくる時代になった」と訓示されたそうだ。ご自身がN響会員だったのだから異例の存在の先駆けだったわけで、社長に就任されると社内誌にまずクラシックの趣味のことを書こうとなった。しかしその時間がなく、秘書室から僕にゴーストライターのご下命があり「あれが評判になっちゃってさ、日生の社長から飯を誘われたんだ」と後日談をうかがった。ゴーストといえば、元旦の日経新聞に掲載される毎年恒例の「経営者が選ぶ有望銘柄」で、U社長の欄も僕が書いていた。おおらかな時代だった。

田淵さん

おのずと昨年亡くなられた田淵義久さんの話になった。社長になって車の免許を取ったが日本では運転させてくれないからとドイツに来られた。もう顧問になられていたがそれが本音だったかどうかはわからない。三日三晩、郊外の温泉地やゴルフ場でいろんな話をされたからだ。翌年に再度来独され、スイスに転勤したらそっちにも来られた。いつも同行は秘書の寺田さん1人だけだ。一見すると豪放磊落だが物凄く頭が切れる。田淵さんと水入らずで10日も旅行し教えていただいたことは後進に残すべき財産としか言いようがない。野村を退社して何年目だったか、ある所でばったりお会いした。「お前なんで辞めたんだ」と怒られて背筋がぴんとした、それがお目にかかった最後だった。

酒巻さんが来られたのはもっと以前のロンドンだ。まだ役員でありこちらは平社員の下っ端だったが、週末に一泊で湖水地方まで僕の車でドライブした。「あれ楽しかったなあ、ありがとう」「とんでもないです、女房までご迷惑おかけしました」。連れて行ったのは結婚式の主賓をつとめていただいたからだ。そのロンドン時代。6年間駐在した最後の年に日経平均が史上最高値の3万8957円を記録した。万感の想いでそれを見とどけて僕は東京に異動した。そして今週、35年の日本株低迷期があったが、酒巻さんと再会してすぐに記録は更新された。

最高値更新瞬間の野村證券トレーディングルーム

ドイツ、スイスは酒巻さんは社長で余裕がなかったのだろう、のちに東京証券取引所社長、プロ野球コミッショナーを歴任される斉藤惇副社長が代理で来てくださった。債券畑だった斉藤さんの下で働いたことはないが今でも仲良くして相談にのっていただいている。そうこうしているうち事件がおきた。スイス在任中、97年初めのことだ。

お断りするが以下はすべて私見である。あれは株式時価総額で抜くという歴史的屈辱をもって米国の威信を揺るがせた勢いの根源、その本丸だった野村證券を潰し、日本の金融行政を大蔵省ごと屈服させて弱体化し、我が国の銀行・証券界にゴールドマン、モルスタ、メリルが侵略できる風穴を開けて1200兆円の個人金融資産に手を突っ込むべく米国のネオコンが仕組んだ事件だった(郵政民営化はその結末のひとつだ)。1996年11月、橋本総理より三塚大蔵大臣及び松浦法務大臣に対し、2001年までに我が国金融市場がニューヨーク、ロンドン並みの国際金融市場として復権することを目標として金融システム改革(いわゆる日本版ビッグバン)に取り組むよう指示が出た。これが宣戦布告の狼煙となって金融機関の統廃合、とりわけ大手銀行の合従連衡という大地殻変動が起きるのだが、ここだけは私見ではなく「大蔵省から引き継いだ情報」として金融庁のホームページに書いてある。

まず1997年の年初に東京地検特捜部によって総会屋事件が、翌年に大蔵省接待汚職事件(通称「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」)が大々的に報道され、第一勧銀、証券大手4社に対する刑事事件へと展開し、大蔵大臣、日銀総裁が引責辞任し、財金分離と大蔵省解体の一要因となった。これが野村證券の内部告発で勃発したことで、同社だけに法人の処罰がなかったことは当時の僕は知らなかった。田淵さんがドイツ、スイスに来られたのは1994~96年だ。事件を予期させるような発言は何もなかったが大蔵省のユニバーサルバンキングへの転換画策についてだけは詳しく言及して危機感を述べられた。意見を求められたのでプロップ取引で自腹で儲けるゴールドマン型のインベストメントバンクはいわば銀証一体でグラス・スティーガル法は邪魔かもしれませんね、ドイツ銀もUBSもそれが競争力だし背後はハーバードで繋がる財務長官サマーズ、ルービンですね、でも日本は証取法の改正に手間取りますねという趣旨のことを述べたように記憶している。

ちなみに大蔵省接待汚職事件の一環として日本道路公団の外債発行幹事証券会社の選定に関わる野村の贈収賄が立件され、元副社長らの逮捕に至った。これが98年1月のことだ。大蔵OBの公団幹部は欧州にも来てチューリヒでのディナー主催の依頼が本社から舞い込んだが、それが前日に突然のことであった。僕は先約があり副社長が代行した。接待が賄賂に当たることの立件であるから社長の僕に東京地検への出頭要請が来たが、僕は20分間コーヒーを飲んだだけだったことを秘書と副社長が東京で供述してくれ、スイス拠点は債券引受業務はしないことから事なきを得たと聞いた。

酒巻さんのあと野村は東大法の鈴木さんを社長にしたが、たった48日で日テレ・氏家社長の従兄弟である氏家純一さんにかえた。読売に頼った。結果的に山一が犠牲になったが同社は社長が証券局長のクラスメートだから大丈夫と言っており、事はそんなレベルで片づく話でなかった。サマーズに円主導のアジア通貨バスケット構想を潰されたことはミスター円こと榊原英資大蔵省財務官(当時)から直接伺って、金融ビッグバンの美名のもとで法整備計略が着々と進行していることをうすうす知る立場にはあったがそれは香港にいた99年あたりのことだ。この大嵐の中で海外にいたことは運命だったとしかいいようがない。

氏家体制になり社内の空気が一変したのは当然だ。それが野村の生き残りの道だったからだ。「香港から日本に帰ってきたら僕の大好きだった野村じゃない感じがちょっとありました。本社で中途採用の面接官をしながら『いま学生だったら入社しないだろうな』という気がしたんです。もっというなら、受けても落ちるなと」。これは本音だ。そんな人間が新生野村で採用をするのはいかがなものか。笑って受けとめてくださった酒巻さんの懐の深さに救われた気分だが、日本にいてその「感じ」は日増しに強くなっており、結局僕は大蔵省のユニバーサルバンキングへの転換策にのって2004年にみずほ証券に移籍することになった。

田淵さんと酒巻さん

その重大な決断の是非はまだ自分の中では判明していない。是でもあり非でもあった。97年に通常の6月でなく12月にスイスから香港へ想定外の異動をしたことも含めてだ。僕は野村證券の幹部であったことはなく会社の内情を知っているわけでもあれこれ言える立場でもなかった。ただこの異動は自分はともかく家族にとってはあまりに過酷なことであり、日本を知らない長女は10才にして3つ目の外国の小学校に入ることとなった。僕自身、ストレス耐性はある方だが限界だったのだろうか、ある晩に初めてパニック障害を発症して自分が驚いた。500人の部下がいる立場で精神科の医者に行くわけにもいかず、それがまたストレスになって一時は最悪の事態になった。

過ぎたことはもういいが、何の因果で証券界に身を投じたのかいまになって自問している。鎖国か共産化でもしない限り証券業は日本人の幸福にとって不可欠な仕事であり、それなりに有能な人材が入ってきてはいるが大国に対する競争上のアドバンテージにするには程遠い。このままでは米国はおろかそのうち中国やインドにも劣後するようになるだろう。それを僕が目にすることはないだろうが、それで良しとするかどうかということだ。

別れ際に酒巻さんが「5月ごろ今度は僕が一席もうけるよ」といってくださり写真を撮った。45年前の梅田支店でこんなことになるなど誰が想像したろう。

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後妻業-悪女の業をミステリーの系譜で辿る

2023 NOV 5 13:13:32 pm by 東 賢太郎

社会に出てすぐ営業にぶちこまれ、世の中、こんな連中が蠢いてこんなことをやってるのかと目から鱗の毎日を過ごした。1979年の大阪だ。社会勉強なんて甘ちょろい言葉は犬の餌にもならない。今ならどこの会社に就職しようとあんなことで何カ月も過ごさせてもらうなんてあり得ないし、研修にしたって強烈すぎる凄まじい体験を大企業の名刺を持って味わわせてくれるなんて想像を絶することに違いない。それでも一時はくじけて辞表を書こうと思ったのだから偉そうなことはいえないし、後に考えれば適当にごまかして営業向いてませんでも全然よかったのだが、そこまで真剣勝負でやって勝ち抜こうと考えていたことは馬鹿かもしれないが財産にはなった。

株を売るのだからカネのにおいのする所を探し出してこっちが近寄らないといけない。「社長の名刺を毎日百枚集めろ」がどう見てもできそうもないミッションである。上司は電話訪問しろと言ったが、まだるっこしいので飛び込み専門にした。達成さえすれば方法は問わないでしょとは言わなかったが、僕は大学受験をくぐりぬけるのにそのテーゼが骨の髄まで沁みこんでいて自信の持てない方法でやってできませんでしたという愚は犯したくなかった。会ってしまえば相手の身なりも顔も見える。何かはしゃべるし反応もわかる。そうやって毎日百人以上の見知らぬ大阪の人に名刺を渡して、あっという間に世間というものを覚えた。一見まともだが一皮むくと危なそうな輩もいたし、真正面から悪そうな連中もうようよいた。そんな人種に電話でアポが入るはずない。幸い、糞まじめな人間よりそういう方が面白いという風に生まれついていて、ぜんぜんどうということもなかった。

大阪の人は東京がきらいだが、全員が一様にそうかというとちがう。何かで連帯が必要になると「そやから東京もんはあかんで」と大阪側に心をとどめおくことを最低条件として、各々のレベルにおいて、東京がきらいなのだ。だから「あんたおもろいやっちゃ、東京もんやけど」でいい。そこが根っからの商人の街の良さであり、いくら頑張ってもそれ以上は行かないが商売はできる。何がおもろいか、その感性はわかるようでいまだによくはわからない。こっちがおもろいと思うと相手も思うようで、商売というフィールドでそういう人は得てして金を動かせることが多かった。こっちも動かせる。そうしてビジネスになる輪ができた気がする。金持ちと知り合うのが大事なのではない、あくまでこっちが動かせることが必須なのはお互い商人だから当然だ。

若かったから気晴らしにいろんな場所に出入りした。新地で飲む金なんかなく、せいぜいミナミか近場の十三とかの場末のホルモン屋や安い飲み屋だ。新宿のゴールデン街に増してディープで、兄ちゃん遊んでってやなんてのは儲かってまっかにほど近い軽いご挨拶である。看板にはBarなんて書いてるが女の子というか当時はおばちゃんだが、猫かぶってるアブなさ満載である。ヤバい所だなと思ったがそういうのの免疫は中学である程度の素地ができていたからよかった。我が中学は区立で入試もなく、地元のワルやらいろんなのがいた。ある日、鉄仮面みたいな国語教師が授業でいきなり黒板にでかでかと馬酔木と書いて、なんと読むか?とクラスで一番読めなさそうなSをあてた。はたきの柄みたいな棒でひっぱたく名物教師だからシーンとなったら「アシビです」とそいつが平然と読んで鉄仮面が動揺。「おお、S、お前どうしたんだ」と驚くと「ウチの隣のパブの名前です」で大爆笑だ。そういう話で盛り上がったりしておもろかった。

悪い女は嫌いじゃない。岩下志麻の極道の妻シリーズは愛好したし、松本清張の悪女物もドラマで全部見ている。「黒革の手帳」は1億8千万円を横領した銀行OLが銀座のおおママにのし上がる話だが米倉涼子の当たり役だ。黒い手帳にある「架空預金者名簿」で美容外科クリニック院長や予備校経営者の手練れの成り金を恐喝して銀座一のクラブ『ロダン』を買収する計画を練るが、逆にロダンの株主で政財界のフィクサーである大物総会屋に騙され、手下のヤクザに追われて逃げる。一丁前のM&Aだ。頭が切れて度胸も押し出しもあり思いっきりワルの女、そんなタマは現実にいそうもないが、米倉はいてもいいかな位にはよく演じている。彼女は「けものみち」、「わるいやつら」、「熱い空気」、「強き蟻」でもいい味を出してるが、男を手玉に取ってころがす女は並の極道より迫真性があるのは何故だろう。

悪女もいろいろだが後妻業は札付きのワルだ。黒川博行の「後妻業」は数々ドラマ化されている。資産家の老人を次々とたぶらかして結婚し、遺産をせしめる女の話だがこっちは社会にいくらもいるだろうというリアリティがある。現実に、男性4人に青酸化合物を飲ませ3人を殺害したとして死刑が確定した女もいるが、後妻業だったかどうかはともかく、55も年下の女を入籍した紀州のドンファンさんもいたから実需もあるというのがミソなのである。愛情は装っただけも犯罪さえなければ後妻業だけで有罪という法律はない。そんなのがあったら後妻の結婚は怖くてできなくなってしまう。いくら爺さんでも好きでない女性と結婚はしない。だからそこに明らかな詐欺がない限り、殺人の物証がなければバリバリの後妻業女でヤクザのヒモがいようがヤク漬けであろうが何でもないのが法の穴というか難しい所だ。単にひっかった方がスケベの馬鹿でしたねで終わりである。逆に富と権力ある女性を狙う逆玉ホストがこれからは流行る世かもしれない。

清張にも後妻業ものがある。「疑惑」だ。鬼塚球磨子という女が年上の酒造会社社長をたぶらかして結婚し、夫に多額の保険をかけて車ごと海に沈め、自分はスパナで窓を割って脱出して夫を殺害したと疑われる。捜査で悪態をつき「鬼クマ」と報道されるような女に社長は惚れこんでしまったが、球磨子は新宿のホステス時代にヤクザとつるんで詐欺・恐喝・傷害事件を起こした札付きのヤンキーで、社長の子供は嫌がって前妻の実家に逃げ、親にも縁を切られる。事故を起こした車の運転者は女だったとの目撃証言もあり、刑事も検事も球磨子の保険金殺人に絞り、日本中が報道を信じてそれを疑わないムードになった。ところが正義感ある球磨子の弁護士佐原は公判で目撃証言を覆えし、警察の検証の結果、フロントガラスは衝撃で割れるためスパナは不要だったことも判明する。そこから佐原は『なぜスパナが足元にあったのか』『なぜ夫の右の靴が脱げていたか』という物証から驚くべき真相を導き出すのだ。シャーロック・ホームズ以来の探偵小説の王道の醍醐味であり、正義の味方の手腕と頭脳に読者は快哉を叫ぶこと必至だ。

ところが本作品はそこがストレートではない。佐原弁護士は原作では男だがドラマ版では女(米倉)になっていて球磨子との女の闘いに書き換わっているが、清張のオリジナルは球磨子がとんでもない鬼女だと報道しまくった秋谷という男(新聞記者)の眼で書かれ、佐原が真相をあばいて球磨子が無罪放免になるとヤクザを率いてお礼参りに来ると恐れた秋谷が佐原を鉄パイプで襲う所であっさり終わるのである。このハードボイルドな後味は鮮烈だ。冤罪を覆すのは法の正義であり、ミステリー小説は万人が納得する勧善懲悪で閉じるのがセオリーだ。しかし清張は、球磨子が怒りに燃えて野に放たれることへの秋谷の恐怖で物語を閉じる。それは鉄パイプで新たな殺人が起きる前兆のようでもあり、もはや何が善で何が悪なのか混沌としている。世の現実はそのまま小説になるほど割り切れておらずこんなものかもしれないと思う。そんなとんでもない女に騙されて家庭どころか命まで失った酒造会社社長の救いようのない悲しさだけが見えない墓標のように残るのである。

清張はこの「疑惑」の元ネタが「別府3億円保険金殺人事件」だという巷の説を否定したが、それは読みが甘い。僕はジェームズ・M・ケインの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」がそれだろうと考えている。1934年作のこの名品を彼が知らなかったはずはない。カリフォルニアの流れ者の悪党が偶然立ち寄った安食堂で馬鹿だがセクシーな女房にひとめ惚れしてしまう。やがていい仲になった二人は旦那のギリシャ人を誘い出して車ごと崖から転落させて殺してしまう。正確には車中で殴り殺して転落死に偽装するのだが、自分たちも乗っており(「疑惑」とおんなじ)、旦那に多額の保険がかかっていたことから裁判で窮地に陥るが(おんなじ)、弁護士の巧みな手腕で(おんなじ)容疑を女房にのみかぶせて保険会社との取引で逃れて悪党が無罪になってしまう(おんなじ)。ここからは「疑惑」にはないが、今度は女房が本当に交通事故で死んでしまい、男は捜査されて旦那殺しの書類がみつかってそっちがバレたうえに女房殺しでも逮捕されてしまう。そっちは無罪になっても旦那殺しで死刑と告げられた男は「愛した女房を殺して死刑は耐えられない」と語り、旦那殺しの罪を選ぶ。

本作はハードボイルド小説の苦み走った不思議な味を覚えた最初の作品である。一気に読み終わってしばし茫然とし、他愛のない小市民の幸せを手に入れようと善良な市民を殺した浅はかで人間くさい悪党夫婦に同情している自分を発見したという意味で忘れられない作品である。大阪はミナミ。得体のしれぬ臭気が漂う真夏のがやがやと猥雑な薄暗い路地裏であやしい取引で小金を儲ける男ども女ども。それでも話しかけるとあっけないほど悪党の気はせず「兄ちゃんなんかええ話か?」と喰いついてくるあの人達。罪と罰ではなく人と欲だ。それ以来僕は欲をきれいごとで隠す人間は好きになれなくなった。

 

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どうして証券会社に入ったの?(その11)

2023 MAY 5 7:07:11 am by 東 賢太郎

野村證券梅田支店に勤務していたある日のこと、突然かかってきた人事部の電話で米国留学の社命が下った。何の予兆もなく、不意のことであり、ただただびっくりして課長に小声で報告する。しばらくすると、隣の席の先輩が「俺のこと覚えといてくれよな」などと課の中でお祝いの声がかかるようになり、しだいに支店全体がざわざわとしだした。ところが僕はというと、もちろん嬉しくはあったが、「これは参ったな」と真っ青になっていたのである。留学の心配ではない。担当していたWさんの保有株がみんな下がっていて、お預かりしている資産に絶望的に大きな損が出ていたからだ。

Wさんとの出会いは劇的だった。転勤が決まった同じ課の先輩が「これお前にやるよ」と置き土産にくれた高額納税者の電話リスト。当時はそんなものがあったのだ。「毎日上から順番に電話するんだぞ」といわれ、まだ入社2年目で成績もぱっとしなかった僕は愚直にそうした。といっても1位は天下の T 薬品の会長さんだから本人が出るはずもなく、お手伝いさんにあしらわれて終わりなのである。電話営業はセンミツといわれ、千回かけて三回ぐらいしかうまくいかない。だから、ダイヤルを回しながら2番目のWさんと話せるなんてことはハナから期待してないのにそれをやってる自分が空しくなってきた頃だった。何度かけても体よく断られたその番号にかけると、相手の声色が違った。ご本人だった。「あんたツイてるわね。今日はお手伝いさんが風邪ひいて2人ともいないのよ」。気が動転して言葉が出ない。すると名前も言ってないのにこういう一言があった。「生年月日を言いなさい」。訳も分からず答えると、小さな声で「あらウチの息子と一緒だわ・・・」の独り言がきこえた。しばし沈黙があった。「あしたの2時にあんたのいる富国生命ビルの地下3階に来なさい」「はっ?」何が起きたのか、わけがわからない。「アルボラダって喫茶店があるでしょ、知ってるわね?」。知らなかったが、「はい知ってます!」と元気に答えると、もう電話は切れていた。

翌日は早朝から緊張でカチカチだった。もうすぐ2時になる。死刑執行の時間を待ってる囚人みたいな気分だ。キツネにつままれた気分はぬけてなかったが、きっと嘘ではないだろうと信じて階段を地下まで下り、恐る恐る喫茶アルボラダに入る。待ち構えていたのは妙齢で白髪のご婦人だ。オーナーのようだった。僕に一瞥をくれ、近づいてきて、「きのうのあんただね」と二言三言をかわしたことしか覚えていない。すると「一緒に来なさい」と目も合わせずに店をすたすた出ていく。どこに連れていかれるかと思いきや、わが支店の隣りに店を構えるY証券梅田支店の店頭である。驚いた。支店長とおぼしき人が平身低頭ですっ飛んでくる。「株券をぜんぶここに並べなさい」。彼にとっては悪夢だったろう。問答無用の命令にフロアが騒然となり、女子社員が総出でWさんの大量の株券を銘柄ごとにカウンターの上に並べた。隆々とそびえる山脈みたいだった。「あんた何やってんの、早く数えなさい」「はっ?」「これあんたに預けるのよ、早く持っていきなさい」。ライバル同士の証券会社の店頭でこんな受け渡しが行われたのは古今東西たぶん初めてだろう。僕は株券など触ったこともない。「ちょっとお待ちください」と外に出て野村に駆けこみ、助けを求めた。お前だいじょうぶか?そんな馬鹿なことあるわけないだろ?と、今度は野村側が騒然となった。総務課長がY証券と話し、どうやら本当だとなる。すると今度は我が社の女子社員5,6名ぐらいが駆り出され、鮮やかなグリーンの制服がカウンターにずらっと並んで株券を数え、1時間ぐらいして男の作業部隊がやってきてまるで引っ越し荷物みたいに隣へ運びこんだ。何だろう、これは夢かと、僕は茫然とその光景を眺めるだけだった。

株券は時価で5億円ぐらいあった。株式の新規顧客による入金は2,3百万円でも拍手された時代である。その金額は野村といえども大ニュースであり、全店に拡散されて営業の尻たたきに使われた。Wさんのおかげで僕は成績も評価も上がり、地獄みたいだった日々がちょっとは楽になった気がした。しかし甘ちゃんで相場の恐ろしさなど知らなかったし、会社の推奨銘柄をただ買えば儲かると思っていたのだからとんでもない大間違いを犯していたのだ。

5億円は半分ぐらいに減っていた。どこか遠くに逃げたかった。「すみません、僕、アメリカに留学することになりました」。この電話をするのがどれだけ怖かったか。Wさんはそれを聞くなり「あんた、なに言ってんのよ」と、当然のことだが猛烈な怒りをぶつけられた。受話器の向こうで息が荒く、興奮のあまり言葉が出ないようであり、しばし無言のままおられ、何か言いかけたがやめて、そのまま電話を切られてしまった。目の前が真っ暗になった。焦って何度もかけ直したが出られない。「何してんだ、こういう時はまず顔を出すんだ、ぐずぐずしてないですぐ芦屋に行ってこい!」。先輩の一喝で店を飛び出し、息を切らして坂を駆け登り、祈るような気持ちでお宅の呼び鈴を押した。何度も押した。だめだった。途方に暮れ、あたりを茫然と歩きまわっているうちに暗くなっていた。お宅に戻ってまた鳴らした。何もおきなかった。ショックで記憶が飛んでいるのか心神耗弱だったのか、最後の方はよく覚えてないが、電車がもうなくなっていて、タクシーで独身寮まで帰ったように思う。

翌朝、眠れなかったので真っ暗なうちにひとり出社し、ぽつんと席に座ってどうしようか思案に暮れていた。きのうお会いできなかった顛末を課長に伝えたら激怒されるだろう。Wさんは店の大事な大手顧客だ。お前の資産管理が甘いんだ馬鹿野郎、責任問題だ、留学なんかふざけんな取り消しだ。きっとそうなるんだろう。先輩たちが続々出社してくるが、僕の状況を察してか誰も声をかけてこない。やがて開店時刻となり、ガラガラと大きな音をたてて僕の席の背後のシャッターが開きだした。営業1課だから座席は端っこで、お客様の通用口のそばだったのだ。後ろから急に声がして心臓が止まるほどびっくりしたのはその時だ。「あんた、ちょっと来なさい」。振り返ると、そこにWさんがひとり立っておられたのである。支店長にクレームをしに来たのだろう。もうだめだ。ぶるぶると足が震えていた。

Wさんは、奥のほうにある商談用のブース(小部屋)につかつかと歩いていき、自ら入ると僕を反対側のソファに座らせてドアを閉めた。無言だった。席につかれると、ハンドバッグをあけている。茶封筒がでてきた。何が起きているのかわからずあっけに取られていると、Wさんはそれを僕に差し出して、ひとこと、「留学おめでとう」と言われたのだ。封筒は金一封だった。驚いて声も出ない僕の目をじっと見て、「いいね、あんたは野村の原君になるんだよ」。それだけ言い残して静かに去っていかれた。事態に茫然としてブースに残された僕はぼろぼろと大泣きし、出るに出られず、東はどこへ行ったと先輩方に探し出されるまでずっとそこにいた。原君とは、その年に新人で大活躍していた巨人軍の原辰徳選手のことである。

このことについて、僕はこれ以上の多くを語りたくない。梅田支店で数々の物語に出会っているが、これはそんなものでない、人生における最大級の事件であり、いまもってこれを書きながら涙が止まらないのである。これまで多くの知己に言葉で語ってもきたが、かならず、ブースの場面にくると感極まって声を詰まらせてしまう。そこまでのものを残したWさんとのご縁とは、なにか超自然的なものが理由あって結んでくれたとしか考えられない。これがなければその後の僕はないし、そもそも厳しい証券界で生きていけもしなかったろう。Wさんにいただいた言葉は、人間の尊厳、気高さ、優しさとはこういうものだよ、そういう人になりなさいといつも僕を暖かく包んでくれる。証券会社に入ることに大反対でしばらく口をきいてくれなかった父は、去年のちょうど今日、5月5日の今頃の時刻に病院で他界した。会いたがっていた祖父母と母と天界で楽しくやっているだろう。唯一の心残りはWさんのことが報告できていなかったことだったが、いまやっとそれを終えることができて、ちょっとほっとしている。

どうして証券会社に入ったの?(その1)

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どうして証券会社に入ったの?(その10)

2022 OCT 26 0:00:18 am by 東 賢太郎

久しぶりに1987年のアメリカ映画『ウォール街』を見ました。こいつは我々証券マンにとって、心底ガツンとくる名作です。そのころ僕はロンドンのシティで働いていました。やたらと周りにサスペンダーの奴が増えたと思ったらこの影響だったんですね。それほどマイケル・ダグラス演じる投資家のゴードン・ゲッコーはカッコよかった。この有名な “Greed is good” のシーンはその白眉です。

ビジネススクールでMBAになったらこんなプレゼンをしたい。そう思わない人は学校を間違えてます。なんだ、欲望礼賛じゃないか、そんな間違ったことを教えてるのかと思う方はアメリカという国も資本主義すらも間違えてます。場面はテルダー製紙会社の株主総会。ゲッコーはこう言い放っています。「ここにいる33人の副社長はひとり年俸20万ドルも会社からもらってるが、ぜんぶ足して3%しか株を持っていません」「株主の皆さんと同じ利害関係を負わぬ者たちが会社から甘い汁をむさぼり、損失をたれ流しているのです」「アメリカは双子の赤字に蝕まれ二流の国になってしまいましたが、コーポレート・アメリカはまさにこうやって凋落してしまったのです」「皆さん、いまするべきはこの官僚仕事だけの不適格者たちを会社から追い出し、会社再生のための私の買収提案に応じることです」(拍手)。会ったことはないが、ドナルド・トランプもウラジーミル・プーチンもこの手の男だと思いますよ。役人タイプは歯牙にもかけないでしょうし、部下はダメと見れば即 you’re fired(お前は首だ)です。トランプは「アベよりアソーのほうがいい、カネの匂いがする」といったみたいです。自分の鼻で生きてる連中を大統領にしても後ろから操れないですからね、だから民主党のロボットが必要で、トランプはマスコミまで総動員して選挙で消したんです。そういう男をファーストネームで呼んだぐらいで仲良くなったなんて、冗談も休み休みお願いしますよ。オリバー・ストーン監督はこのゲッコーを悪役に、かけだしの証券営業マンであるバド・フォックス(チャーリー・シーン)を善玉にしたハリウッド流の勧善懲悪物語に仕立てていますが、カッコ良すぎのゲッコーに憧れてウォール・ストリートをめざすエリートが増えたのは皮肉でした。僕はまさにこのころである1984年卒のウォートンMBAですからアメリカのど真ん中でこの空気にどっぷりつかっており、野村證券もそう育てるために2年間の社費留学をさせてくれたわけです。だからそれが三つ子の魂となっているのは必然のことで、SDGsの念仏を100万回耳元で唱えられようと、相場に勝つためのネタとして利用はしますが、そんなものに精神をおかされて迎合する気はさらさらありません。いま聞いてもゲッコーの発言はまったく正しいと思いますし、リアルの世界でも、日本の某社の株主総会で僕自身が社長に面と向かって「あなたは退任すべきだ」と論陣を張ってます(そうなった)。下のブログは第2次安倍政権がスタートする2013年に書いたものです。当時この古い映画のことは忘れてましたが、馬鹿みたいな経済政策を野放しにしていた民主党政権によほど辟易していたのでしょう、いま読んでみてゲッコーと同じことを言ってるのに我ながら驚きます。

若者の欲望が日本を救う

書きましたように、弱者救済のセーフティネットが社会に必要なことは当然です。しかし9割が弱者だというならそれはもはや弱者の正しい定義ではなく、体よく社会主義、共産主義を擦りこもうとしているにすぎません。9割は言い過ぎかもしれませんが、日本は平成からそれに近いことになってると感じます。だから、ゲッコーの指摘した理由が絵に描いたように災いして、コーポレート・ジャパンはおかしくなっているのです。それは若者の健全なGreed(欲望)の芽を、大人がポストに居座りたい Greed で摘んでしまった結果、若者に自分が弱者だと勘違いさせてしまい(若さこそ財産、そんなわけないだろう)、それを救うべき財政政策を政府がとるためのマネーを緊縮財政派が供給しなかったからです。罪は重いですね。このブログから9年たって我々が知ったことは、アベノミクスは日本国がデフレの底なし沼に沈むのを食い止めはしたが救ってはいないということです。20年かけてGreed を根絶やしにしておいて、あわててゼロ金利政策をとっても、投機はおきても投資はおきないんです。これだけ円安になればいずれもっとインフレになります。皆さんはそれに備えるべきです。これは運用ではなく資産防衛ですから必須です。国は平気の平左ですよ。保有する外貨準備に為替差益が発生する上に、インフレになれば国債乱発による借金の棒引きができますからね。損させられるのは国民で、為替差損分の「高率の税金」を新たに支払わされるのと同じことです。国債乱発を続けるとブタ積みの日銀当座預金がますます増え、短期金利の操作自由度をさらに失い、それにつけこんだ国債先物ショートがさらに増えます。買いオペを続けるしかなく日銀のBSはさらに悪化。金も原油も裏付けにない日銀券の価値は低いとコンセンサスができれば先物を狙われます。介入原資は無限だと言っても誰も信じないので、英国の二の舞にならない保証はないですね。相手は相場です。日本だけが騒ぐいかがわしげな「投機筋」なんてものは世界のどこにも存在しないのです。

映画に戻りましょう。当時、僕がシンパシーを持ったのは、中堅証券の営業マンであるバド・フォックスの方です。下のビデオで見るディーリングルームはゴールドマンやモルガンスタンレーではない、社員もトップスクール卒でない設定ですね。バドも平民の子ですが少しだけいい大学を出ていてエリート扱いされてる。それでも高額の報酬を得ようと激しい競争を生き残るため電話外交をしまくります。僕が「株式市場はタンザニアのサバンナだ」という意味はおわかりでしょう。バドは「いまに俺だって電話を受ける側になるぜ」とうそぶきます。そしてある日、狙っていた大物投資家ゲッコーの秘書にうまくとりいって、ついにボスの時間を5分もらいます。新米に2,3質問をしたゲッコーは「小金持ちにクズの株を売ってるお前ら証券セールスはカスだ、何の役にも立たねえから早く消えろ」と追い返そうとします。そこで苦しまぎれに語った父の勤める航空会社の情報がヒットして、幸運にもバドは気に入られるのです。

このへんのくだり、いま見てもワクワクするんです。僕自身が新人のかけだしだった梅田支店の営業マン時代が “笑ってしまうほど重なって” いて「あるある」の連続。この監督、なんで経験ないのにこんなリアルに図星の台本をものにしたんだろうと感動ものなんですが、あまりにいちいち細部まで僕の実体験と似ていて、盗作されたかもしれない(1980年だから僕の方が先ですー笑)。まさしく、まぎれもなく、大阪で僕はこのビデオのようなことを夢中になって2年半やっていたのです。

セールスたちが隠語で「巨象を狙う」と言ってます。大きな顧客の意味です。ちっとも失礼でありません。そんなので騒ぐ小物はそもそも大物でないんで会う価値がありません。最大の巨象がゲッコーで、「49回電話してきたのはお前か」とあいさつ代わりの第一声をかましてきます。僕は大阪市北区に巨大な白亜の本社を構える某一流上場企業のU社長にやっぱり秘書様のお導きで会えて(同じく5分!)、まさに「64回電話してきたのは君か」といわれました。瀬戸際の一言がうまくいって、初対面のその場で株を買ってもらったのもまったく同じ。いいことだけじゃない、バドは鉄砲屋にも引っかかってますが、僕もやられて極道の親分から2千万円の取り立てをしてます。バドの父親は航空会社の整備士で息子が証券マンになるのに反対しますが、僕の父は銀行員でもっと猛烈に反対しました。当時は証券会社は株屋と言われてましたが、父も株は好きだったし僕も好きだったし、反対したのは僕があまり外交的でなく身の回りのこともだらしないので潰されると思ったんでしょう、銀行に行けよその方が楽だよと言ったきり3日も口をきいてくれませんでした。でも僕は圧倒的に証券マンの方が向いていたんです。入社前はわかりませんでしたが、会社訪問のやりとりで直感的にそう思ったんです。物事、迷ったら、最初にいいと思ったのにすべきですよ。

梅田支店は地獄でしたが次々とラッキーがあって、銀行に入っていたら会えるはずのないU社長がお客さんになって、俺は凄い人間なんじゃないかと本気で真面目に勘違いしてました。ぜんぜんそうではなかったことは数々の失敗でのちに思い知らされて地に落ちるのですが、男はこういう輝かしい瞬間に出あうと一皮も二皮もむけるんです。2年半梅田支店でもまれて、もう完全に一騎当千の証券マンになってました。だからバドがゲッコーに信用され、食い込んでいく姿は何度見てもハートに響いて元気が出ます。これが当たったんでウォール街ものが続々出てきますがほとんどがチープなゾロ品ですね。それほど本作は図抜けてます。バドのように金持ちにしてもらったり彼女をあてがってもらったりは残念ながらなかったですが、仕事に対する最高の征服感はありました。たぶん、僕は金や地位よりもその登っていくプロセスが好きなんです。2年前まで株のかの字も知らなかった小僧がいっぱしに存在感出して全米1位のビジネススクールに留学に行った。もうあそこらへんで顔つきが変わってたでしょう。

ゴードン・ゲッコー役のマイケル・ダグラス

ゲッコーの実在のモデルはアイヴァン・ボウスキーです。ロスチャイルド出身で稀代の乗っ取り屋であり、全米を騒然とさせる謀略をつくした末に証取法違反で逮捕されますが、ウォール街にもシティにもこの手の奴はごろごろいます。ロンドンでは、メディア王の富豪で船上で怪死したロバート・マクスウェルと取引もしましたよ。ゲッコー並みの巨象でしたが商売は大したことなかった。こんなのにビビってたらでかい商売はできません。この映画を見た人はご想像がつくと思いますが、彼らにとって、くっついたり離れたりして相場で人を欺く計略をめぐらすなど息をするようなもの、大金を動かして儲けるマキアヴェリストの連中にそんなものは猫に鰹節より当たり前なんです。ゲッコーは何度も孫氏の兵法を引用してます。そういうインテリジェンスは戦争と同じ。それをいちいち陰謀だ、けしからんなんて、「何だお前?」ってなもん、アホらしくて相手にもされません。彼が言った相場に大事な3つのもの、poor、hungry、no emotion は至言です。poorでなくなっても必要。これがあれば大概は成功できます。でも、くりかえしますが、ゲッコーは言ってます。「アメリカの富の半分である5兆ドルは人口の1%が持ってる。しかもその3分の2は相続だよ。俺は3分の1の方だから毎日あくせく働いてる」。Greed のいらない3分の2が王族や貴族やアラブや中国の富豪とつるむのは必然なことがわかりますね、共通の目的が preservation(資産保全)なんでね。で、富豪でない人が Greed を奪われたら、シープルになるしかないですね。

“Greed is good” (欲望は善である)。いまどきアメリカですらこんなことを公然と言う人は少ないでしょう。80年代のアメリカはレーガノミクス全盛でした。減税、小さな政府、規制緩和、強いアメリカ。それは同時期の英国をリードしたサッチャリズムとも重なりますし、ドナルド・トランプにも共鳴してます。その成功の前提は Greed なんです。それが足りない国で減税しても何も起きず、税収が減るだけです。それで財源不足になると市場がはやして国債もポンドも売りまくられ、史上最短の45日で辞任になったのがトラス首相でした。彼女は気の毒でしたが会計士ですから相場を予見する程度のマーケットのキャリアすらなかった。しかし、あの地位になれば、それも含めて、前任のジョンソンもそうですが、プラクティショナーの小物だったということですね、悪いけど。そこで登場してきた新首相のリシ・スナクは英国初のインド系で、オックスフォード卒、スタンフォードMBA、ゴールドマン・サックスからヘッジ・ファンド経営者に転身した超エリート証券マンです。プラクティショナーかもしれないがマーケットで失敗はしないでしょう。アメリカもFRB議長のジェローム・パウエルはプリンストン卒で学者っぽいですが、大手投資ファンドであるカーライルの共同経営者を8年勤めた、いずれも僕にとっては同じにおいがする世界の人間です。ゲッコーは悪玉にされてSEC証券監視委員会に逮捕されましたが、世界はこうしてじわじわと為政者の方がその色になってきた感じがします。捕まる側が捕まえる側に。こうなると、わかる人にはおわかりでしょうが無限に儲けられる可能性が出てきます、インサイダー取引は株にしかないですからね。どうも、我々が気がつかないうちに泥棒と警官が入れ替わっているというか、何が正義かわからない気持ち悪い世界になってきていると思いませんか?日本国はよく知りませんがこの流れのなかで大丈夫なんですかね。少なくとも読者の皆さんは勉強して、感性を磨いて、騙されないようになさってください。

どうして証券会社に入ったの?(その11)

どうして証券会社に入ったの?(その1)

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東大生が注目する就職企業ランキングに驚く

2021 APR 3 11:11:35 am by 東 賢太郎

【東大生が注目する就職企業ランキング1位は?–2位アクセンチュア、3位ソニー】

オープンワークは3月23日、「就活生が選ぶ、就職注目企業ランキング(大学別編)」を運営する就職・転職のためのジョブマーケット・プラットフォーム「OpenWork」で発表した。

同サービス内で22卒の学生ユーザーが検索した企業を集計したもの。今回は、東京大学2,656名、京都大学1,762名、早稲田大学5,272名、慶應義塾大学4,453名、MARCH(明治大学・青山学院大学・立教大学・中央大学・法政大学)1万2,450名を対象にそれぞれランキングにした。

(以上、2021/03/23付のマイナビニュースをコピペ)

 

「検索数多い」=「就職注目企業」かどうかは知らないが今どきの世の中だからそうと仮定するなら、野村総研の1位はともかく野村證券の東大5位というのは信じ難い。驚異だ。僕の頃、野村證券は早慶が各々3,40人の会社で東大の同期は5人しかいなかった(1人はすぐやめた)。狭き門ではない、証券はいまの言葉ならブラックのイメージがあって(現に入るとそうだったが)非常に、極めて、東大生には人気がなかったのだ。「銀行から証券への時代になる」と口では言っていたが言ってるそばから信じてなかったし、駒場時代のクラスでも金融に行くとなるとほとんどが安全第一で世間体も良い銀行にという時代である。かくいう僕も銀行員の親父にそう説かれて羽交い絞めされかかっていた。それが今や銀行は20位に入ってもいない。おそらく本筋の官僚志望にもその傾向が出ていると思料する(とするなら、政治に起因する国家の質を揺るがす問題の可能性がある)。なぜなら官僚の母体である法学部の人気に異変が起きている。2019年の入試で開闢以来初めて文Ⅰ(法学部)と文Ⅱ(経済)で合格最高点も最低点も文Ⅱが上だったと聞いて仰天したが、そんなことは当時あり得ない。この事実は東大生の方が「変質」していると解釈する余地がある証左だろう。

本ブログは東大生がかなり読んでくれているそうなので、以下先輩の親心で書いておく。大事なメッセージはというと就職は人気で決めるなよに尽きる。君ら株なんかやったことないだろうが、経済現象を理解するに株ほどいい教材はないし、そんな経験すらないのがいっぱしに経済を語ってコンサルですなんていわれてもね、僕なら5秒で坊やおとといおいでになるね。学校で教えないことが実は一番大事でしたというのが日本の悲劇の根源なのよ。騙されたと思って小遣いで好きな銘柄を買ってごらん。ランダムではなくちゃんと理由を考えてね。誰もが「いいね」「安心感あるね」「時流だね」という銘柄は見事にすっ高値だという確率が高いことをやがて悟るだろう。むしろショート(空売り)した方がいいと。就職もまったくもって、そうなわけだ。これは会社の問題ではなく、より重要な意味で、「株価」(valuationという概念での株価)の問題なのだと書いてわかるだろうか。例えば “超優良企業” が株価1000円なら「買い」でも、2000円なら「売り」になる。これが相場というものだ。その間に会社は何も変わってないのにである。相場においては会社でなくvalueを買っている。これが腑に落ちない人は民間への就職はやめておいた方が無難だよ。value、valuationとは何か?こんなのはその辺の本にいくらも書いてあるから説明は省く。

しかし普通の人は(東大生でも)そんなことすら知らない。ウブでオボコいとしかいいようもない。政府はもっと知らない。だからニーサをやれば国民の株式保有が進むと思ってる。自分が株を持ってもいない役人の考えることだ、あまりの能天気に笑うしかないが、株がこんなに上がると株保有の有無で国民のディバイドが歴然としてしまうから笑える問題ではない。簡単に書けば、みんなが良いと思えば当たり前の需給関係の結末で相場は上がるわけだ。しかし相場という概念が脳にインプットされてないからそれを見てますます確信をこめて2000円でも高い”超優良企業” 株を3000円で買う人がいる。驚くべき現象と表現するしか僕にはすべがない。我が国の就職戦線はそうやって動いている。人気があるから?そういう100%イロジカルかつ非本質的な情報で大事なことを決めるのはインテリジェンスがない人間だけだ(はっきりいえばバカ)。僕はいたるところでそう書いたり言ったりしてきた。でもね、それで気がついたんだが人間ハタチにもなっちゃうと知らず知らず自分の思考回路が確立していて、そこからはみ出した意見は理解はしても取り入れなくなる。頭がいいとかえって間違って固まるからもう始末に負えない。教えても無駄なのだ。勉強は大秀才だったのにそういう人は驚くほどたくさんいるよ、昔の超優良企業にね。

株を買うとは株主になることだ。就職するとは社員になることだ。株主になっていい事がない会社に人生預けるか?株は損切りできるが人生はできないよ。つまり、10年後には株価が10倍ぐらいになってるだろうと思う会社に入りなさいということだ。10年前のGAFA、Teslaがまさにそうだ、実感としてわかるでしょ。もっと言えば、その会社の成長の原動力を学んで盗んで、自分で会社作って儲けなさい。そのぐらいの気概じゃないと中国人にいい所をぜんぶ持っていかれるぞ。中国の学生トップレベルの受験戦争は日本の比じゃない。北京大、清華大に入れないセカンドランクの高校生がハーバード、スタンフォードに行ってる(日本と逆だ)。米中対立でアメリカ留学できなくなったからそれがどんどん日本に来てる。親はみんな富裕層で、カネを持ったら次は教育であり、マンションをぽんと買ってやる。高田馬場に10ぐらいVIP中国人用の受験予備校があって大盛況だ。昼は数学やって夜は日本語をやる(我々の英語に相当、ハンディじゃない)。猛勉強してすでに東大に何人も合格してる。院や留学生じゃないよ、我々とおんなじ入試で正面突破だよ、中国語で受けられるからな、ちょろいと思ってるんじゃないか。

君たちが30ぐらいになるころ、断言するが、日本国内ですら最強のライバルは中国人エリートになる。当然だ。あと7,8年で中国はGDPでアメリカを抜く。その世の中でそうならない理由などあるはずがない。そこで彼らは英語、日本語、中国語の完璧なトリリンガルなのである。需要がないはずがない。アジアで日本人だけが優秀なんて思ったら大間違いである、英語、中国語はおろか日本語の読み書きもまともにできない日本人なんて需要はまったくない。だから僕はこれから日本在住の30代の中国人たちと戦略的業務提携をすることに決めた。そしてもっと若い中国人エリートをどんどん高給でスカウトする。つまり、すでに彼らは君たちのライバルなのだ。株価の予測なんて習ってないしできない?ジョークだろ、それはとてもまずい。僕の周囲にいる中国の若者にそんな子は一人もいない。株式に対する興味は凄まじく、日本の難関大学卒で日本語は敬語を完璧に使いこなすレベルであり、ビジネスは僕の門下にいる。ゼミみたいなもんだが題材は実際に金が動く投資であり億円単位の企業買収である。「君は僕が30の時より優秀だ」と言っているY君は親御さんがスコットランドにお城を持ってるが、彼はそんなのなんとも思ってない(ここが日本の金持ちのボンと決定的に違うのよ)。40のころ彼の資産は1000億円にはなってるだろう。

そもそも君らはハタチにもなって失敗を知らないうえに世間でとーだいせーってちやほやされて、ものすごくそういうことにオボコいのだ。だからそのノリで就職して世間に出て社内の手練れのワル(どこでもいっぱいいる自分だけかわいい狼みたいな奴らだ)にひっかかるといいように手足にこき使われてしまう。受験で鍛えてるから仕事早いし正確だし徹夜する耐久力もあるし、なによりド真面目だ。学力の著しく劣る国会議員のアンチョコ書かされて貴重な時間を空費する官僚の諸君など本当に気の毒でならない。そこまでしても人間は可愛くなければ往々にして使い捨てにされて終わる運命にあるのは昨今の某省の事例でお気づきだろう。東大卒はプライド高いし一般にあんまり可愛くない。下手すると他大卒からいじめにもあう。だから賢い者は戦略的忖度という策に走る。それは方便として間違っていない。ところがそれが諸刃の剣で、バカが上に来て下手に迎合でもすると想定外である便利屋の評価が固まってしまう。そうするとそのまんまトシとってスーパー総務課長代理みたいになって人生を終わるなんてこれまた気の毒な運命になる。企業は東大生を一応は幹部候補生として採るわけだが、うまく育たずハズレになっても構わない。仕事はリライアブルでステイブルで給料は安い中間管理職の存在はありがたいからである(役員が楽できるからだ)。それも見込んで一定数は必ず採用する構図が出来上がっている。別に頭がいいからではない。つまり実はそうなっちゃう人が多いということの裏返しでもあり、出れば安泰なんて時代は僕の頃ですらとっくに終わっていた。

東大卒の肩書は爺ちゃん婆ちゃんが鼻が高いと喜んでくれる程度のもんで何の足しにもならん。世の中は甘くないと心得ろ。ハズレになりたくなかったら三国志を熟読することをお薦めする。古今東西共通、人類永遠普遍の「修羅場の原理」が書いてあるよ。君たちのアンチテーゼの元東大生による本ブログは人生をかけて書いてきて2500タイトルぐらいにはなった。東西の証券ビジネス最前線で40年戦ってきた思考のエッセンスだ、くだらない本に2000円も払うよりはましと思うよ。ところで、検索数5位の野村證券だが、ニューヨークでヤクザな韓国人が運用してるファミリーオフィスでマージンコールがひっかかって2200億円の損失計上するらしい。ゴールドマンら米系はうまく逃げた。記事の情報しか知らないが、アルケゴス・キャピタル・マネジメントのこいつは昔タイガー・マネジメントにいて大博打を貼るので有名な手練れの男だ。所詮は証券業はヤクザな商売なんだ、アホなヤクザはケツの毛までむしられるだけだよ(こういう手合いは手数料はくれるが危ないから僕は絶対に商売しない)。しかしまあ野村ともあろうものがプライムブローカーなんてフェイクで安直な金融業もどきでこんな奴のクレジットとるとはなあ、いい会社というかずいぶんオボコい普通の会社になったもんだのう。勘違いの東大卒だらけになって沈没しないといいが。

 

情報と諜報の区別を知らない日本人

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印度カリー子さんと神保町の深い関係

2021 MAR 29 1:01:55 am by 東 賢太郎

ユーチューバーである印度カリー子さんの番組はとても人気らしく、娘がそれを見て作ったチキンカレーはなかなかだ。市販のルーではこういう味は出ないし、それをカレーと思って生きてきた世代からするといろいろ感慨深いことがある。

(1)キッチン南海

インド料理店というと今はそこかしこにあって不自由しないが、昭和40年辺りに家庭にない味のカレーとなると新宿の中村屋と神保町のキッチン南海の2つだった。南海は洋食屋だがカツカレーの元祖であり、においにつられていつもそれになってしまうから他のメニューは食ったことがない。神保町のすずらん通りは一橋中学の目と鼻の先でいつも好奇心で横目に眺めていたのが懐かしい。なにせ校則が厳しいので有名な学校で、制服で学校の目を盗んで入る勇気はなかったからあのなみなみと盛られた黒っぽい名品にはまって通ったのは後の駿台時代のことである。どうしても解けない数学の問題を考えながら、このスパイスはなにやら頭が冴えるなあ試験直前に食いたいものだと思った。コロナのせいかどうか、昨年に閉店と聞き驚いたが再開の報にほっとしている。

(2)新宿中村屋

新宿中村屋のほうはと調べると1901年創業の老舗で高野フルーツパーラーのとなりだ。どっちで食べたのか、子供心にチョコレートパフェやフルーツポンチの方が大事でありカレーはというと南海の病みつきになるインパクトに比べるならあんまり際立った印象はなかったように思う。ただ、ここでは「カリー」というのか、なんか変だなとは思った記憶がある。その疑問が解けたのは河出文庫の「インドカレー伝」を紐解いてのことだ。著者リジー・コリンガムによるとこの食べ物は18世紀あたりの東インド会社の現地駐在員だった英国人たちが香辛料のきいたベンガル料理の美味を忘れられず、インド人コックを連れ帰って作らせたことでロンドンで広まったものだ。だからインドにカレーという料理はなく、実はれっきとした「英国メシ」である。語源はポルトガル人が香辛料を呼んだカリル(Karil)であり、それが英語化してCurryになった(同書183ページ参照)。英国の発音はカァリィである。したがって、日本語のカタカナという極めてアバウトな表記法においては「カリー」が最も近似的だと結論されてしかるべきである(カリー子さんは正しくコリンガムの本の標題は失格ということになるが、日本ではカレーなのだから方便だ。ビートホーフェンじゃ誰もわからないからベートーベンになるのとおんなじ。ベンかヴェンかは目くそ鼻くそ。本稿もそれでいく)。中村屋は銀のソースポットで麗々しく供するのが当時はいかにもそれっぽくステキで、英国メシのルーツを正しく体現していたと評することができるがその割にライスは白米である。英国人はソーホーでこんな食い方はしない。印度式を和の食文化に同化させたはしりと言うのが正しい評価だろう。ほかにも、ハンバーグ、グラタン、ナポリターノなどの洋食メニューがあって、南海が洋食屋である源流のようなものでもあるかもしれない。クリームパン、中華まんじゅう、月餅までがメインストリームの売れ筋であって、そこまでくると戦前の輸入食材のごった煮の観がなきにしもあらずであり、親はファンだったが僕としてはカリーの本格感にやや不満があった。

(3)アジャンタ

こんなものだったらしい、覚えてないが

そこでいよいよ本場物となると、老舗中の老舗アジャンタの登場だ。創業は昭和29年。今は麹町にあるが以前は九段下にあって母校のすぐ近くだった。外観は高校生には敷居が高く、なにやら異国感があって謎めいた存在だった。いまだインドに行ったことはないが、九段にはインド大使館があったしここに連れていかれて恐る恐る味わったのが初のホンモノだったのだろう。その料理とお味だけは鮮烈に覚えているが、相手が誰だったかは申しわけないが忘れてしまった。「チキンカレー」と注文して何が来るかと思ったら骨付きが真ん中にごろんとあって、カレーは黄色くてやけにスープっぽい。なんだこれはと思ったが、口に含むと味も辛さも衝撃のうまさだった。たしか千円ぐらいで高くて二度と行けなかったが、それから半世紀たって九段から移転した麹町本店へ行ってみた。まだこんなに覚えているんだからと期待値が高すぎたんだろう、あの衝撃はもう訪れなかったが充分に一級品のお味ではあった。

(4)神田神保町

僕が大学の頃の神保町

外食のカレー文化はちょっと取りすました九段からすぐお隣のごちゃごちゃした神保町へ伝播していく。すると一気に庶民派の日本食になってしまうのだから実に面白い。神保町については以前も書いたが僕の庭であり心の故郷でもある。この地に満ちている内外文化のぎりぎり下品に陥らない「ちゃんぽんな感じ」は他所に類がない。それはあそこが200件近い古書店の街だからであり、それも古本屋でなく古書店であるという凛としたたたずまいがそうさせていると思われる。東洋系、西洋系、理系、文系の多様なジャンルに各店ごとの個性があって、学者が店主というわけでもなさそうなのに大変にアカデミックだ。後に諸国の大都市はほとんどめぐったが、ああいう街は世界のどこにもない。明治以来の外国の文物への渇望が渦巻くようで、それが役人や学者だけでなく庶民レベルでのことだから商売が成り立って古書店街が形成されたわけである。日本ってすごい国でしょ。外人を案内すると必ずここに連れてきたものだが、みんな納得してくれた。

神保町交差点からすぐの、今は新世界菜館が建っているあたりに洋書店があって、そこで春の祭典と火の鳥の指揮者サイズの管弦楽スコアを買った。ホンモノを手にした感動の瞬間である。高校生にとってなんて知的刺激に満ちた街だったんだろう。中・高とここのちゃんぽん文化にどっぷりつかって育ったので、野球に明け暮れて勉強はお留守だったが精神だけは乗り遅れないですんだ。そればかりか西洋は遠い所という感じがなくなっていたと思われ、それが後に海外勤務になる無意識の端緒だったのだろうかと思わないでもない。そう考えるようになったのはつい先日のことで、「行きたかったわけではないよ」と子供にいうと家内に「ちがうでしょ。だって留学したいから野村に行くって言ってたわよ」と直撃を食らったからだ。なに?そんなの記憶にございませんよ(株が好きだったからと思ってる)。言った言わないは家内に負ける。欧米に強烈に憧れちまったのは確かだ、そういうのもあったかもしれない。そうだとすると入社の動機はやや修正が迫られるから一大事だ。人生航路まで決めていたとなると神保町の影響力は破格で、「くびき」とでも呼ぶしかない。

(5)石丸電気

神保町のくびき。実に根深く強い。三つ子の魂なんてもんではない。今でもあのあたりを歩くと古書店が知の殿堂に見えてくる。僕には東大やペンシルベニア大の図書館よりそう見えるのである。そして三省堂から神田方面に10分も歩くと秋葉原で、そこには今はなきクラシック音楽の殿堂、石丸電気が鎮座していた。2号館の隣りのビルはいつも正露丸の匂いがぷ~んとたちこめており、もとより終戦後のバッタ屋街だったアキバなる場所柄からしてクラシック音楽にふさわしいとはお世辞にも思えないのであるが、でも、そうなのだ。それって、まるで神保町がカレー激戦区になったみたいなもんではないか。古書店街は輸入洋書のメッカでもある。火の鳥のスコアも洋書だ。ということは、プラットホームの神保町とコンテンツであるストラヴィンスキーのイメージがかけ離れていても問題ないのだ。アキバの電気屋がスピーカーやアンプを扱うのは自然で、ハード売り場にソフトがくっつくのもこれまた自然であり、しかもそこには膨大な数の輸入盤が並んでいた。石丸で買ったのはほとんどがそっちだったが、値段や音のこともあったがその辺の深層心理が働いたのかもしれない。国内盤の帯に「カラヤン入魂の第九」やら「フランスのエスプリ、クリュイタンス」なんてくさい言葉が躍るのがいかにもチープで、俺は中村屋でも南海でもない、アジャンタ派だぜというもんでせっせと輸入レコード、CD、レーザーディスクを買い集め、家に石丸の売り場みたいな部屋がひとつできてしまった。それも深淵を辿ると神保町の古書店の書架のたたずまいに似ていないでもない。やはりくびきに発していたのかと恐るべしの心境である。

(6)印度カリー子さん

印度カリー子さん

その威力はいまやカレー渉猟にまで達していて、普通のでは満足しない。漢方薬みたいな正露丸の薬味が混じっていてもいいとさえ思う。印度カリー子さんはスパイス料理研究家で東大院生でもあるらしく、肥満症とスパイスの関係についての研究もしていますとネットに紹介されている。youtubeの動画を拝見すると料理は実に手際よく無駄のない合理主義者のようであり、何事もこういうタイプの人に習うのが近道である。ヒマになったら弟子になってスパイス研究してみたいなと思わせるものがある。

(7)エチオピア・ビーフカリー

最近気にいってるのはエチオピア・カリーだ。エチオピアにカレーはたぶんないだろうが、たしか元はエチオピア・コーヒーのお店だったのが、出してみたら好評でそうなったときく。珈琲店がカレーに転身するのはアジャンタもそうで正統派ともいえよう。店では0辛から70辛まで選べるが、辛さが売りというよりスパイスの調合が独特で味がユニークでクセになることを評価したい。写真のビーフはまさに激辛だから苦手な人はマイルドな方をすすめる。場所は明大から三省堂へ下る途中の右側ですぐわかる。カリー子さんのご評価を伺ってみたいものだ。

 

学生街回想-いもやと鶴八の閉店-

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魅力ある株を探しだすことは最大の趣味

2020 SEP 13 1:01:11 am by 東 賢太郎

ソナーという社名はソナー探知機からとった。それは僕の最大の趣味が、魅力ある株を探しだすことだからだ。野村時代にドイツでSAP、香港で超大現代農業という株を見出し、どっちも株価は10倍になった。飲み屋で中国人のお姉さんに儲かりましたと感謝されたが、一介の証券マンが世間様のお役にたつなどその程度のものだ。中国人もアメリカ人も不労所得はいかんなどと辛気臭いことを言わないのは実にすがすがしい。労働は尊いものだという価値観が日本にはあるが、キリスト教国では労働は悪であって、だから早く帰宅するし休暇も1か月も取る。ドイツ人などその最たるものだ。別に日本の文化にケチをつける気はないが、だからといってお金に働いてもらうのがおかしいということはない。この妙な考え方がコロナ経済下で二極化批判のダシに使われるなら人生百年時代の日本国民の資産形成には絶望的な話だろう。

僕は勤勉実直でお堅い銀行員の息子である。「アリとキリギリス」や「小原庄助さん」の訓話で育ち、二宮尊徳は偉いと教わり、「学生の仕事は勉強だ」といわれて官僚養成所の学校に進んだ。労働が尊いと思うようにはならなかったが、食うために働いて自助努力するのは当然という価値観はできた。そこまでは親父の計画通りであったが、無計画にアメリカへ2度行って放浪し、本能に従って進路を勝手に決めた。計画からは180度ずれ、親不孝になってしまった。なぜあんなに熱病みたいにアメリカへ行きたかったのかは長らく謎だった。どういうわけか、ほんとうに忘れてしまったのである。ずっとベンチャーズの影響だろうと納得していたが、ちょっと動機としては弱いと思っていた。ところが先日、CS放送で刑事コロンボをやっていて、「これ、夢中になって見てたよなあ、こうやって犯行がバレるんだよなあ」となつかしく思い、いつごろだったかなとwikipediaでシリーズの初回放映日を調べてみたら、まさにあのころだ。そうか、これだ。

思い出した。成功者でセレブである犯人たちの大豪邸だ、それが頭に焼きついたのだ。やっと合点がいってくる。なるほど、だから最初に行ったのが西海岸だったのか。あれに憧れて渡米し、ハリウッドやビーチの豪邸を眺め、ああいう生活ができる富がほしいと思って帰ってきたのだった。劇的なカルチャーショックだったのは、アメリカのセレブに官僚やサラリーマン出身はいないことだ。会社を興した事業家であり、歌手やスターであり、スポーツ選手であり映画監督であり、弁護士や医者であり、何であれ才能で輝いて自営業で自由に生きてる連中だ。そうでなければMBAをとってウォールストリートでサラリーマンとして高給を取って元手と人脈を作って勝負するわけだが、これは才能がないほうの連中の道だ。

そういうことをカリフォルニアで現実に見知って、ウチに資産はないから自分で稼がなくてはいけないと思った。なんのため?ああいう家に住むためだ。男の人生最終の通信簿はどんな家に住めるかだと思うようになった。あんまり子孫の名誉にもならない話だが、僕はそんな動機でなんとなく進路が決まってしまったことは否定できない。菅さんが上京して段ボール工場で働きながら天下国家を動かす道を志したと聞くと恥ずかしくなる。しかもサラリーマンという一番なる気のないものになったわけで、その理由はといえば何の才能もなかったからだ。才能というのは先にあるのではない、やってから、あったねとなる。だから何もしなければないし、やってみないとあるかどうかは誰にもわからないのである、などと今になって慰めてもいるが。

最大の趣味が魅力ある株を探しだすことだと知ったのは野村證券に入ってからだが、日本のウォールストリートで富を作りたいのだから当然だろう。10倍になる投資というと株しかない。1、2割もうかるなどという話にはさっぱり興味がなく、30年も証券マンをやってきてお客さんに債券を売ったことは一度もない。こういう人間にとって、個人営業で大坂を駆け回った平社員時代は楽しかった。君は面白いやつだと、小僧が絶対に会う事もできない大物のお客さんたちにかわいがってもらったからだ。そこで株式投資を通して生活やお金への考え方や処世術をじっくり学ばせてもらい、実は素顔は名刺からは想像できない普通の人だという事もわかった。

役員や拠点長になりたくて頑張ったからサラリーマンはやっていたわけだが、その動機は出世すれば大いに給料が上がるからである。しかし、なってみるとそれでは足りない。トップになっても大したことはないだろう。すると、職務規定で株を買えないという本末転倒は人生のゴールに向かうにはナンセンスだったし、自己都合の退職はいずれ来るべきものだったと思う。起業が絶対だったわけではない。デイトレーダーでもよかったが、出資してくれる方が現れそれはなくなった。人様の資金を増やすとなるとひとりでは弱いからだ。そこでSくんに出会ったことは幸運だった。渋谷の中華料理屋で初めて会って、彼と会社をやろうと即決した。同じ趣味の持ち主だったからだ。

生命保険会社で運用キャリアをスタートしたSくんは儲かる株を探す求道者でありマイスターである。何時間語り合っても疲れない、そこが同じなのだ。こういう仕事はいい意味でオタクでないとできない。Sくんがやって資金は3倍になったがこれは偶然でも不労所得でもない、あらゆる経験と知恵を使って労働して出た利益である。だから報酬は相応に頂くしお客さんにご満足いただける。知恵の勝負で労働が見えにくい金融業は成功して顧客満足があってナンボだ。成功報酬なるものを成功率5割の人がもらう資格はない。一発屋がビギナーズ・ラックでもらえるものでもない。満足な結果を5年以上継続して出すのは統計的に至難とされる。彼は20年も出している。説明はいらない、それがすべてだ。

僕に彼の才能はない。ただ彼が異能の人だと見抜くことはできて、組む利があると判断した。彼のほうはデイトレーダーでも問題なく食えるが、なぜ僕と組んだかというとそのほうが利があるからだろう。彼の利と僕の利は中身は同じではないだろうが、会ったときに1+1が2以上になるとお互いが思ったということだ。パートナーシップ、成功するwin-win関係とはこういうもので、こと人に関しては直観、第一印象を大事にしている。見かけや服装ではない。話してみないとわからない。どんなに家柄や履歴書が立派でいいと思っても、僕は理屈ではなく決める。どうして自分がそうしたか自分にも説明はできないが、それに逆らわないことにしてきて失敗してないからそれでいい。

だいぶ後になって執行役員のKくん、Dくんが加わった。基幹の業務ラインが2つになって大臣がもう一人必要となり、経営全般に官房長官が必要になったからだ。僕はプロ野球のスカウティング以上に学歴を見ないが、結果的に慶応4人、東大2人になった。非常に満足なのは9人に重複がなく特技がクリアに違うことだ。僕自身もプレーヤーのひとりであり、名刺には社長兼CEOとあるが対外的にそういう “配役” を演じているということにすぎない。では対内的に指揮者かというと、9人が同じ曲をやることはまずないからそうでもなく、僕が指揮台に立っていると客席が埋まるという意味でだけ指揮者だ。

この「ゆるい」組織は気に入っている。全員がプロのプライドと時間を持てるし、貢献度に応じて利益配分を受けられる。なぜそうしたかというと単純で、若いころ自分がそういう会社に入りたかったからだ。こうすれば専門性の高い人のモチベーションとパフォーマンスは上がるし、求人においても他力本願のサラリーマンは来なくなり、自信のあるプロが寄ってくるのである。そして、ラッキーなことに、この組織はリモートワークになってもダメージがないことがだんだんわかってきた。むしろコストをセーブできるかもしれず、要は、コロナはあんまり関係ないという事だ。

魅力ある株を探しだすことは推理ゲームである。株がその他(債券、FX、仮想通貨、ゴールド、原油など)と違うのは対象が日本だけで3500銘柄あり、その個々に “ファンダメンタルズ” と呼ばれる企業業績のデータがあるからで、株価をモデル化するならば複雑な多変数回帰分析が必要だ。その他のほうは対象も変数も圧倒的に少ないから解析のインテリジェンスで優位性を持つことができず、結果的に長か半かのバクチに近くなってしまう。しかし、もっと重要な差異はというと、株価は企業価値そのものでありすべての経営者はそれを増加させようと人生を賭けて努力していることだ。円レートや金価格を高くしようと頑張っている人など世界のどこにも存在しないが、すべての企業には手金で勝負をかけたCEOがいる。つまり株価には常に上昇バイアスがかかっているといえる。参加する価値のあるゲームではないだろうか。

しかもゲームに勝てば運用益というお駄賃がもらえる。払ってくれるのは市場であり、相手は匿名性のあるリスクマネーだから恨まれることもない。短い人生で普通の人が資産を10倍にし得るのは株しかないし、いくら儲けても世間様にご迷惑にならないのも良さだろう。日経平均が上がっても株を持ってるのは富裕層だから庶民には関係ないなどという政治家がいるが、こういう人は浅知恵から株をバクチと思ってるのであり、払えるはずのない年金で国民をごまかしているのである。コロナが長引いて世界の政府は財政出動と異次元金融緩和を継続せざるを得ず、それは図らずも国家が株高政策を採ることを意味する。それを税金で行うのであれば庶民に小口でも株を持たせ、国家と利害の一致したポジションを取らせてあげるよう適切な投資教育を行うことが善政なのではないだろうか。

僕は自分の感性という探知機で見つけた企業の株とコールオプションをソナーという蔵にがっつり貯め込んできた。あと2年ぐらいでそれがIPOして何倍になるかは時の運だが、不発でも2倍だろうし10倍も夢でない。だから来年までワクワクドキドキして過ごせるわけで、これぞソナーを作ったご利益と天に感謝する。たぶんあと2、3発の「弾込め」をすれば後進に道を譲って後顧の憂いなき人生になろう。娘が健康を心配してくれて、お父さん仕事しすぎだよ、もういいから人生楽しんでと言ってくれる。ありがたいことだ。でも僕にとってこの仕事は労働ではなく最大の趣味なのだ。他は全部捨ててもこれだけは残るものであり、尊いとも思わないが嫌と思うこともなく、すでに理想郷であるショーペンハウエル的幸福に近づいているのだ。オーストラリアか屋久島の好きなホテルからリモート参加なんて形なら80になっても後進のお役ぐらいには立てるだろう。

ところで、証券ビジネスへと背中を押してくれたコロンボの豪邸だが、もう家はあるしあんなでかいのをいずれ家内と二人でとなると猫を増やさなくてはいけないだろう。そのためというわけではないが、先日に、野良だった4匹目のフクが来た。こいつは気が良いしオスの黒猫であることに大きな意義がある。福を呼んでくれそうだしクロが2匹で黒字経営と縁起もいい。そして何より、我が家は猫を入れると男女比が2:6と劣勢であったが盛り返すこともできるのである。

 

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キャリアハイの仕事は負けからやってくる

2019 JAN 13 14:14:20 pm by 東 賢太郎

大手町を歩いているとたまに呼び止められる。年末にまたそれがあった。みずほで部下だったS君だ。軽く近況を話しながら、彼と行った外交先やゴルフ接待のことなどを次々と思い出していた。彼だけじゃない、最近は銀行がお客様になったり、ご融資もいただいて助けてもらったり、商売のフロントでもメガの第一線でご活躍中のバンカーと一緒に仕事するようになっている。これは僕の人生の辞書には書いてないことだった。

就職のとき、親父が銀行員でどことなく反発があって銀行に就職という発想が持てなかった。母には「あなたは向いてないからね、銀行だけはやめてね」と懇願された。東大法学部には民間なら銀行という空気があって、それに対して付和雷同嫌いの性格が騒ぎだしていたし、そもそも勉強してないのだから受かりもしなかったろう。熱心に誘ってくださったのが三菱Gの名門会社で、10年目に1か月休暇で世界1周できるという雄大なお話に大いに気持ちが動いたが、お世話になっていたらどういう人生が待っていたのだろうといまでも一抹の後悔がある。

野村からみずほに転籍させていただいたのは2004年だ。そういう経緯があったから、入るのは証券会社とはいえガバナンスは銀行にあるという意識がかなりひっかかっていた。というのは、面接は、「銀行頭取からエクイティ引受元年にすると厳命が下っている、証券のその部門を率いてくれ」という話だったからだ。当時のみずほ証券は国内の株式引受で主幹事案件実績がゼロ。主幹事あたりまえの野村證券目線からすれば何もないに等しい。しかも株式業務といっても僕は引受部門の経験がない。それをやってくれというのだから人違いだと思い、はっきりそう申し上げたら返ってきた言葉が「東くん、僕は君のことをよく知っているんだ」だった。

これがY常務との人生初の出会いだったが、実に意味深かったことになる。49才で25年勤めた会社を辞めるのは大きな決断だったが、この30分の面接一回で腹が決まる。動機は仕事内容ではない、「士は己を知る者の為に死す」であった。その証拠に給与、タイトル等の移籍条件の話をするまえに「お世話になります」と電話した。実はその時点で別の銀行系から条件面でずっと上のオファーをもらっていたがお断りの電話を入れた。野村が嫌いになったわけではない。ただあのころ、ひとえに僕の力不足ゆえ、優秀な若手が次々と台頭して出番は確実に減っていた。要は出世競争に負けたわけだ。野球でいうならば「試合に出たい、必要としてくれる球団はないか」という気持ちを止めようがなかった。

母に、ごめん、銀行系に行くことになったと報告したら少し考えて僕の目をじっと見て、「うまくやってね」と言った。母の直観力は凄い。ごまかせたことは一度もない。これが最後の会話だった。いいわけになるが、積極的な気持ちで「行く」ということではなく、行かざるを得なくなってボートに乗った難民みたいなものだった。おそらく、気合が尋常ではなかったから使っていただけただけで、別に僕でなくてもいっぱしの証券マンなら誰でもよかったのではないか。いま思うとそれが時の利というものであって、そういう巡りあわせの瞬間にたまたま良い具合にそこに「居た」だけだ。人生は本当にわからない。

そこから2年が過ぎた。主幹事本数をゼロから16本とし、年度前半の実績で大和証券をぬいた。日本航空のグローバル・コーディネーター(国際主幹事)のトップ・レフトをかけて常連の野村證券、ゴールドマン・サックスとの三つ巴の激戦となり、ついにせり勝った。この戦いに証券マンとして持てるものすべてを投入したし、そんな場を与えていただいたことには身震いするほどの幸運を感じたし、勝てもしたから運もあった。我が業界、国内主幹事ゼロというのは国体でメダルがない選手ということであって、それが突然にオリンピックに出て金メダルを取ってしまったということに等しい。

しかし、そう甘くはない。そこから激烈な反撃にあった。ニューヨークのロードショーでJALのN社長に随行して成田を出発する直前だ、この期に及んでシ団を降りる(辞退する)という会社が出てきて社内は騒然となった。するとウチも考えると同調する所が現れ、ディールが中止に追い込まれるかもしれない異常事態に陥った。暗に「JAL様、主幹事のご選択間違ってませんか?」と数社がつるんだ揺さぶりだった。夜中の3時にホテルの社長の部屋に関係者が全員集合し、僕が東京へ電話して降りる宣言をした大手証券の役員とシビアな談判になった。

押されたら負けだ。幕末の薩長と同じじゃないか、敵は多勢でも天皇はこっちにおられるぞと腹をくくった。おどしすかしの応酬で最悪の事態は回避しながら説明会を開催し、ニューヨーク、ボストンの有力投資家をまわり、疲れ切って帰国のJFK空港ラウンジの椅子で熟睡していたらN社長が探しに来られてねぎらってくださった。帰ったら体重は5キロ減っていた。株主総会直後の増資の決定の仕方についても公然と批判が噴出した。日経新聞の社説で論説委員に連日ぼろ糞にたたかれたが、みずほの経営会議は歯牙にもかけず大成功とたたえてくれた。

もうひとつ、懐かしいのがある。テレビ東京のIPOだ。値決めで議論があって、調印式会場のディズニーシーの会議室でS社長になぜ3000円じゃないんだ(2900円を提案)と激怒されてしまった。当方には考えがあったが何かが至らなかったのだろう、役員でもない君が何様だと調印は見送りとなってしまい、同席の部下たちは凍りついた。翌日ねばった末ついにご理解いただき、公開初日は想定どおり盛況な売買で成功だった。後日の上場祝賀会でS社長が「君の言うとおりだった」と乾杯し女子アナをおおぜい呼んで囲んでくださった。

しかし初めからそううまく進んだわけではない。周囲も部下も銀行員で、仏教徒とキリシタンの会話である。野村では注文を取ることを「ペロを切る」と言い「切ってナンボ」と教える。営業行為というのは顧客によって千差万別の数々の障壁をクリアしないと成立しない。10個あるなら10個撃破してナンボだ。「9個クリアは自己評価で何点?」「90点です」「なに言ってんの、零点だよ」なんていう会話があってシーンとなる。超高学歴部隊でプレゼン資料の厚さを競うみたいな文化があり、下手すると100ページもあって目が点になる。「3ページにしろ」と返すとこんどは彼らの目が点になる。

言い訳も多い。「零点の生徒に言い訳の権利はない」とつっぱねる。最初の部門予算会議で「東君、大変だけど頼むよ」と言われ、数字を見たら120人もいるのに収益予算が16億円だ。誤植と思い「常務、これ一桁ちがってませんか?」と聞いたらまわりは凍った。いけない発言だったらしい。しかし、半年もするとだんだん皆さんの目の色が変わってきた。東芝の公募が取れてしまい頭取賞をいただいた。「零点」「3ページ」が効いたのか、見えないマグマのような力で部下たちが次々とペロを切った。実は優秀だったのだ。結局その年に予算の10倍ぐらいやってしまい、部門の空気は明らかに変わって勝てる軍団になっていた。証券マン人生で最もエキサイティングな思い出だ。

どうして御託ならべばかりだった部隊がああなったのか?おそらくこっちも引受は初心者だったからだ。そんな状態でプロだと迎えられ、尻に火がついていたのだから皆さんに僕の「一生懸命ぶり」が通じたのかなと思う。それでも重石の役みたいなものだからぶれたらいけない。どこへ出てもドンと構えるしかない。それを部下たちが自信をもって使いまくってくれた。大手町で声をかけてくれたS君もそのひとりだ。彼らの自信が顧客企業にハートで通じて、じゃあ初めてだけど一回みずほ証券にまかせてみようとかとなる。それがうまく片付く、もっと自信がつく、我が部もやらなくては、という好循環になったのだったと思う。

こうやって、僕は野村證券で育てていただいて、みずほ証券でキャリアハイの仕事をさせていただいた。どちらだけに恩義があるとは言い難く、両方がセットになってなるべくしてなったという感じだが、ひとつだけ間違いないことがある。「負け」が原動力になったことだ。僕は何が嫌いといって、負けることだ。50才にもなれば普通は残ったガソリンで10年持たせようと低燃費走行にはいるだろう。そこでハイオクを満タンにしてアクセル全開にするなんて、負けの悔しさがなければするはずもなかった。

さらには、その加速で時速200キロ出てなければ、5年後に今度は起業しようなどというターボエンジンが作動することもなく、今ごろは平平凡凡のリタイアに追い込まれて何もすることがなくなっていただろう。僕にとってそれは許せない最悪の事態であり、人生の負けなのだ。しかもその負けは挽回するチャンスはもうないから、事故で大破するようなもの。それも、時速10キロで路肩に乗り上げて動けなくなるみたいなもので、これぞ、まぎれもなく、僕の人生の辞書には書いてないことだった

望んでそれができたわけでも何を頑張ったわけでもない。たまたま難民になって負け犬のボートに乗って漂着して、そこに居ただけだ。ただ、若いころに普通の何倍もの苦労をしていたからどんな土地でも生き抜く自信と生命力だけはあった。それさえあればいい。居るだけでいいチャンスなど誰にもめぐってくる。つまり、逆境にあっても絶対にあきらめてはいけないということこそ金言なのだ。ただの負けというのはゲームの負けで実はチャージのことであり、あきらめるということは人生の負けでこっちは取り返しはつかない。やり続ける限り、小競り合いにいくら負けても負けたと思う必要はない。勝つまでやればいいだけだ。

 

(こちらへどうぞ)

どうして証券会社に入ったの?(その1)

 

 

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リオの鮮烈な思い出

2016 AUG 7 0:00:48 am by 東 賢太郎

リオ五輪の開会式の入場行進を見ていて、206の参加国のひとつに「難民」というのがあるのが時代だなあと思いました。世界が貧富のディバイドという難題に見舞われており、それが政治、宗教、国境問題、軍事対立そしてテロという形で表面化しています。そのどれもが個別独立の原因に発した別個の問題に見えますが、そうではなく、その根っこに横たわるのは貧困、飢餓というひとつの、しかし最も深刻な問題です。式典の前半はそれに周到に配慮したものと見ました。

華やかな会場を一歩出るとバリケードのような柵が囲っていて機関銃で武装したポリスが大勢張り込んでいる様子が画面に映しだされます。バッハ大会委員長の誇らしげなスピーチが人類の平和を謳い、聖火台の点火と見事なアトラクションに酔って放映が終わると、正午すぐに始まったニュースが今日8月6日は広島の原爆投下から71年となった日であることを伝える。黙とうの要請を広島市が送ったがそれは見送られたようですね。実に複雑な気持ちになったものでした。

3年前にこのブログを書きました

津坂さんの蛙鳴蝉噪(幸福度)を読んで

このブラジル出張がリオ・デ・ジャネイロでありました。1991年の2月初旬、まだ36才です。成田からバンクーバー経由で24時間かかりましたが、このとき搭乗したヴァリグ・ブラジル航空は実に快適で、ビジネスクラスなのに食事はファースト並みで立派なフィレステーキまで用意されてよく覚えてます。サービス良すぎたんでしょうね、2005年に倒産してしまいました。

リオには午後到着して、ホテルはたしかシーザー・パレスでした。フライト疲れと時差でふらふらでしたが、なんだかときめくものを感じて外を歩きました。2月(真夏)。カーニバル1週間前のざわざわ。まぶしい太陽。イパネマ・ビーチを歩くと渋谷の駅前みたいに若い女のコばっかりわんさかいる。それがみんな堂々たるトップレスで頭がくらくら。仕事柄40以上の国を訪問してますが、リオの衝撃をしのぐ経験は今もってありません。

インフレ率が300%と聞いており、まさかねと半信半疑でした。ところが同行の後輩が「ほんとですよ!」と大声をあげます。ホテルのショップでネクタイの値段をじっと見ながら「ほら昨日の値段から1%上がってるでしょ?」ほんとうだ。さすが証券マンは相場に目ざといとそっちも関心しましたが。しかしネクタイのプライスタグのお値段が株価みたいに上げ下げするなんて・・・定価販売に慣れた僕らは目が点でした。

財務省の高級官僚さんの2億ドルの借款返済への大物スタンス(要はケセラセラ)には2度目の衝撃をくらいます。役人が1200万人もいて民間より多く、今のギリシャみたいなもんでした。前年に620億米ドルと人類史上最大のデフォルト(要は国家破産)をした国の財務省です。馬鹿なことを聞くなと思ったんでしょうが、当時はこっちはあんまり事の深刻さがわかってなかったですね。

飲み屋で英語の通じるおっさんに「大インフレと不景気のわりにホームレスがいないね」と尋ねると、「あったかいからね、寝れればどこでもOKさ、食いもんはバナナもヤシの実もそこらじゅうに落ちてるよ」。なるほど今になってみればミクロネシアとおんなじだったんだ。国はぼろぼろで借金漬け、国民は衣食住足りてサッカーで幸せ。これはサンパウロ、ブラジリアへ行っても同じでした。

このあとアルゼンチン(ブエノスアイレス)、チリ(サンティアゴ)の財務省、企業も訪問して大旅行だった出張を終えました。この数奇な体験で僕の「国家観」は根本的に修正が加わることになりました。インフレを肌でイメージしましたし、国債なんていかにはかないモノかも痛感しました。数字だけで頭で理解してる人にはこの感じはわからないだろう。

当時は梅田支店、ロンドンと株を売る野蛮な営業の経験しかなく、スマートな国際金融業務などド素人もいいところ。そんなのが課長で赴任した国際金融部の皆さんは大変だったろうと申しわけない限りですが、その2年間で引受業務のイロハを習ったのはその後の人生で大きなプラスでした。この出張も経験して来いという部長の計らいだったと思います。野村證券はほんとうに懐の深い会社。ここに入らなければ今は絶対にありません。

 

(こちらもどうぞ)http://sonaradvisers.co.jp/2016/08/07/776/

 

 

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Harry氏が覚えていてくれる大事な半年

2015 NOV 8 18:18:56 pm by 東 賢太郎

Harry Saito氏とつきあったのが大学4年の半年間だけなのにそういう感じがせず、ずっと知っていたように思うのは不思議です。それだけ印象が強く残っていたということです。氏はその後、日本を代表するメーカーで海外と関わる部門で活躍され、僕の方も国際部門になりました。きっと海外への好奇心という気脈が通じたんでしょう。

思えばあの半年間は進路に迷ってとても不安定なときでした。国内の既得権でのうのうと食える大学に行ってるのにそれに興味がなく、どうしてもアメリカに行きたくなった。そこでアテネ・フランセという語学学校に通って彼と出会ったのです。大学にはいない海外に目が向いた若者と話すのは大きな喜びでした。

農耕民族は基本が内向きですから彼も僕もちょっとはじけてたんでしょう。クラシック音楽だって洋物だし、根っから西洋好きだった僕は西洋好きの人が好きでした。農耕民的なところは先天的に皆無の僕はきっととても変な学生で、それでもHarry氏がよく来てくれたのはうれしかった。持って生まれた嗜好、性格は変えられなかったからです。

というのは明治15年生まれの祖父が三井物産で上海勤務でグローバル派のはしりでした。「野球」という訳語ができたてのころ慶応の野球部員で米国遠征もした。はとこはケンブリッジに留学して慶応ラグビー部を作った人でした。官僚養成所の東大は眼中にない家で、今も僕はこの祖父の血を濃く継いでいると自分で思います。

子供のころ野球に明け暮れても母が叱らなかったのはそういうわけです。こっちはそれにかまけて勉強はそっちのけで、母が入れたかった慶応は入試に落ちました。大学は父方にならうことになって慶応は結局ご縁なしで終わってしまった。ところがそっちは理系ばかりなのに色弱で文系ということになってしまいそれも居心地が悪かった。

法律というのがどうにも性に合わず、関心のかけらも湧いてこないから仕方ありません。人の作ったものは興味ないんです。とうとう遊びほけて4年終わってしまい、民間に就職するしかないということになってしまいます。そこのいきさつはここに書きました。  どうして証券会社に入ったの?(その1)

親父は銀行員でしたが学者、研究者、教授など、証券会社など論外という家系です。ところが母は大ありだった。東京証券取引所の初代筆頭株主だった家で、その話はまだ知らない息子が証券屋を選んだ。するとあなたこれは血筋なのよと泣いて喜んで、そこで初めて先祖のことを話してくれたのです。乳母がいて姫で育った彼女のなかでは慶応が一番で東大は下に見ており、慶応を落ちた挙句に官庁や銀行に入るなんて言ったらどれだけがっかりしたか。

そのころの僕は人見知りもあり、つき合いも良くなく、いまだに人に思いを伝えるのはへたですからもっとへたでした。研究所にでもこもっている方が向いてましたし親父もそう思っていた。「ケンちゃん、証券会社なんて株屋だよ」「向いてないよ、やめときなさい」と頭から大反対です。何とも因果な家に生まれてしまいましたが、彼は僕がひいた母方の血の威力を知らなかったんです。

どうしてもアメリカに行きたくなった。不思議なもので、そう思っていると野村證券で米国に社費留学の道が開けます。そしてアメリカに行ってみると、理系の学者、研究者、教授がファイナンスや投資の最先端理論を研究しているではないですか。選んだ道は正しいぞという天の啓示のような自信と確信を僕はそこで初めて得たのです。法学部が失敗だったことも証券界を選んだこともそのためだったと。

Saito氏とお会いした大学4年の前半というのは、自分が振れている時期でした。父方の官立大学卒の人生でいくかどうか、そして、それを放棄して母方で行った。そうして、いかにも僕らしいサプライズに満ちた軌跡を描いて平穏に60才を迎えることができました。その大半は入れていただいた野村證券という素晴らしい会社のおかげですが、あの直前の半年に腹をくくらなかったら僕には野村の門をたたく勇気はなかったでしょう。

その人生の転換点だった半年。自分でも何を考えて何を言ったか忘れているそこをウィットネスしてくれるSaito氏はタイムマシンで現れた人であり、氏にとっても僕が同じくそういう存在なわけです。彼は当時の面影そのままに若々しいがこっちはけっこう老けこんでしまいました。しかし人の出会いとは本当に不思議です。それを大切にしないと自分の人生を見失ってしまう。昔の知己には機会あればひとりでも多くお会いしてみたいと思っています。

 
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