僕が聴いた名演奏家たち(アントン・ナヌート)
2026 JUL 1 0:00:50 am by 東 賢太郎
もう思い出すのも困難なぐらい久しぶりにチャイコフスキーの悲愴交響曲を聴いた。アントン・ナヌート指揮リュブリアナ放送交響楽団のCDである。何故これかというと理由がある。次の稿に書くが、あるCDでこの人の演奏に感服し、他のを聞いてみようと思ったのである。この悲愴はいつ買ったか記憶も記録もないが、CDケースに貼ってあるお店のタグにDM6.95とあるのでドイツだったことがわかる。
ナヌートというと僕はずっと後に、といっても今から13年も前になるが、紀尾井ホールでブラームスの4番を聴いている。東ドイツ消滅のどさくさに紛れた幽霊指揮者かと思っていたらそうでなかったことに、なんだか正直者に出会って心が洗われる気分がしたものだ。僕は普通は散々考えて思い入れを持ってレコードやCDを買う。だから1万枚以上あるそれぞれについて、全部ではないがおおよそのところは出会いのいきさつを覚えている。そうではない方だったのだから、あり得るのは、フランクフルトのオフィスで時々気分転換でお昼に自分でサンドイッチを買いに行った店になぜか置いてあった廉価版のCDで、450円だったから買ったのだろうということだ。
リュブリアナは、ナヌートの母国であるスロベニアの首都だが、おそらくこれが録音された頃はユーゴスラビア社会主義連邦共和国だったろう。演奏はと言うと、現代ならこういうものが商業化されることはあるまいと確信されるレベルで、オーケストラも録音もおおいにいまいちである。僕はこれをあんまり難しくはない統計学の本を読みながら聞いていた。意識はそっちに行っているのだけれど、気がつくとCDに合わせて歌っている自分がいる。木管のところはちゃんと口笛になって芸も細かかったりする。そっちに意識が行くと、ああオーケストラが下手だなぁ、ここは無用に重たいなぁとなる。さっき終わった。さんざん不服がおり重なったのに、ちゃんと感動してじんわりと鳥肌が立っている。名曲というのはリアライゼーションの巧拙に大きくは依存せず心に迫るように書かれているのだということを再認識したものだ。
じゃあもう1枚と、同じ指揮者のシューベルト8番とベートーベンの5番のCDを引っ張り出した。LP時代、運命/未完成の組み合わせは定番であり、うちのレコード棚にもたくさんある。レコード盤の収録時間の関係もあったのだろう、疑問にも思わず連続して鑑賞していたものだが、両曲合計して60分にも満たない収録はCDでは合理性がないばかりか、曲の本質に何の脈絡もないこの2曲をたて続けに聞くこと自体ほとんどナンセンスである。それをやってしまっているこのCDは時代の証言としてむしろ貴重ですらある。
かけてみると、驚くべきことに、演奏が良い。悲愴と同じオーケストラとは思えない。クレジットを見ると、なるほどこっちは「リュブリアナ交響楽団」である。”オブ•ユーゴスラビア” がくっついてるのは録音が1988年だからだ。最初に未完成。予想もしなかったが、これは一級品の演奏である。運命はさらに見事。何も足さず、何も引かず、強靭なリズムと推進力が骨格を成すヨーロッパの真髄の音楽が鳴っている。終わった。なんと素晴らしい!お読みの皆様全員に聞かせてさしあげたい。この人のシンフォニーには疲れ果てた人間の細胞を蘇らせ、精神を心の内側から照らし、満身にエネルギーをみなぎらせる何ものかがこもっている。それを必要としている時もあるのだが、現在のように仕事でクタクタで心身ともにダウンしているときはベートーヴェンは鬱陶しい。そう思って避けてきていたが、どうしてどうして元気にしていただいた。思ってるほど僕は疲れてないのかもしれないなと思った。
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マイケル・ティルソン・トーマスの訃報(2)
2026 APR 30 13:13:04 pm by 東 賢太郎
興味あることには記録魔だ。理由はなく、そうしないと気が済まない。書いておいて報われたことはあまりないが、1万はくだらないレコードやCDはいつどこで何を買ったかトレースできるから時代時代のタグにはなる。おかげでさっき棚から取り出した1枚のレコードを眺めながら、ああこれか、そういえば行き先でちょっともめたよなあ、でも彼女のおかげでまとまった、今頃どうしてるかなあなんて、もしこれがなければ過去の闇に埋没していただろうメモリーがひょっこり頭をもたげてきた。
それがこれだ。
買ったのは1978年8月、日にちはパスポート見ないと分からないけど、バッファロー大学から日本人グループでツアーしたカナダのトロントで立ち寄った市内のレコード店(A&A RECORDS)で見つけた。ここにマイケル・ティルソン・トーマス(MTT)が現れる!
MTTの「カルミナ・ブラーナ」でショックをうけたのが1977年4月。MTTがボストン交響楽団を振ったドイツグラモフォン盤「春の祭典」を買ったのは1978年5月31日だ。録音されたのは1972年だから発売はその頃で、僕としては15枚目の春の祭典だから随分遅く、 恐らくなめていた。ところが買ってみるとこれまたカルミナと同じぐらいショックを受ける大変な演奏だったのだから彼の名前は焼きついた。前稿に「バッファロー大学のプログラムを選んだ理由に、MTTを生で聴けるかもしれないという期待があったのではないか」という仮説を書いた。ひょっとして語学研修なんかより実はそっちがメインだったんじゃないか?ところが想定外だったオケの夏季休暇であてが外れた。悔しさのあまりトロントでMTTのピアノ連弾の春の祭典を買った可能性は否定できない。もうここまで来れば、刑事コロンボに状況証拠で追い詰められた犯人みたいなものだ、下心がなかったという申し開きは通用しない、真面目な向学心だと期待してくれた父には申し訳なかったことになる。しかしだ、この経験がなかったら英会話はお粗末なままで、野村証券の留学選抜試験を通らなかった可能性は大いにある。ならばMTTサマサマだったじゃないか。結果オーライ。そういうことにしよう。僕のポジティブシンキングの資質は多分に父由来だ。今頃天国で笑ってるだろう。
トロントで買ったレコードだが、以下、ストラヴィンスキー研究家ローレンス・モートンのライナーノートから抄訳する。ここでMTTとラルフ・グリアソンが弾いているピアノ連弾版は、一般に知られるコンサートピース用に編まれたオケ版のピアノリダクションではなく、バレエマスターが振り付けを考案してダンサーのリハーサルを行うためのものだ。初の公開演奏はこの2人がロサンゼルスのマンデーイーブニングコンサートで1967年11月6日に行ったもので、ストラヴィンスキーはそれ以前にこの版がコンサートで弾かれた認識はなかった。とはいえ1913年に出版はされて存在は広く知られていたゆえ半世紀後に「初演」と銘打つのがはばかられるかもしれないが、「初録音」なら法的な正統性を主張できる。 春の祭典は1911年夏に着想され、翌年11月17日に完成しているが、ディアギレフのロシアバレー団はヨーロッパツアー中であり、 12月にベルリンでダンサーのリハーサルが始まり、このピアノ連弾スコアが、少なくともその主だった部分が使用されたと思われる。リハーサルはブダペスト、ウィーンで、そして翌年初めにロンドンで続けられた。ただそれ以前にこの連弾スコアは未完成の状態ではあったが友人の間で演奏されていた。そのひとり音楽評論家のルイ・ラロイはストラヴィンスキーとドビッシーの連弾を彼の自宅で1912年の初春に聴いている。公開演奏は1台のピアノで行われたが、当録音は下の写真を見て分かるようにストラヴィンスキーのリコメンデーションにより2台のピアノで行われた。交差する手の衝突を避けるためであり、また、第1部序奏のような4手に余る細かい音符は多重録音も行なっている。発売日が記載されていないが1978年に買っているのだから1967~ 1978年であることは間違いない。
4手盤は連弾、2台ピアノと多くの録音があるが、ボストン盤に通じるリズムの切れ味、パッセージのクラリティ、打鍵の強さが和声の味を消していない点でこの録音は未だに凌駕されておらず、当時ピエール・ブーレーズの弟子だったMTTの破格の才能を如実に刻印した宝物のような録音であり、ピアノが達者だけの人が腕自慢のショーピースとして春の祭典を選んだとしても、この曲の内奥に潜むマグマの凶暴なエネルギーや未知の星で起きている如き不可思議の神秘性をここまで描き出すのは困難だろう。
そして最後にいよいよボストン盤だ。 28歳の若僧の指揮という偏見はレコードに針を落とした瞬間に吹き飛んだ。 これは我が家の棚にある89種類の春の祭典のうちで、ブーレーズ・クリーブランド盤に並ぶ歴史的名盤と断言する。昨今は新しいサンフランシスコ響とのCBS盤の陰に隠れたような扱いだが、とんでもない。比べるべくもない。人間は若い頃にしかできないことというのが誰しもある。それに加え、間違いなく世界の名ホールの5本の指に入るボストン・シンフォニーホールのアコースティックを見事に捉えた録音はそれだけでも名品の名に値する。木管は水も滴るように艶やかに彩られ、ティンパニは皮の張りが見えるほど音程の良さを誇り、ブラスは混濁がなく非常に強靭だ。我が家のB&Wのダイヤモンドツィーターからくっきりと浮き出てくるブラッシーなホルンの咆哮は恐るべしで、何度聞いてもここまで耳目を驚かせつつスコアの正当性ある解釈の風格を漂わせる演奏は他にひとつもない。マイケル・ティルソン・トーマスさん、あなたはこれからも永遠に僕をエンターテインしてくださると同時に、あなたが天から授かっておられた稀有の才能によっていま僕がここでこうしていられる基盤を築くきっかけになって下さったという確信を持つに至っております。ありがとうございます。安らかにおやすみください。
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僕が聴いた名演奏家たち(エミール・ギレリス)
2026 FEB 19 14:14:48 pm by 東 賢太郎
この人を「僕が聴いた名演奏家たち」に入れなかったのは、ギレリスがロイヤル・フェスティバル・ホールでの最後のコンサートで、満場を制してアンコールを弾いた、その気持ちと同じものが僕の中に根強く残っていたからです。スカルラッティを聴いて、やっといま、入れる時が来ました。まず彼のバイオグラフィーをご覧ください。
生誕:1916年10月19日 – ウクライナ、オデッサ
死去:1985年10月14日 – ロシア、モスクワ
エミール・グリゴリエヴィチ・ギレリスはソビエト連邦のピアニスト。オデッサで両親ともに音楽家というユダヤ系音楽家の家庭にサムイル・ヒレリスとして生まれた。6歳でヤコフ・トカチに師事し、ピアノを学び始めた。トカチは厳格な規律を重んじ、音階と練習曲を重んじる教師であり、ギレリスは後に、この厳格な訓練が自身の技術の基礎を築いたと述べている。1929年6月、ギレリスは12歳で初の公開演奏を行い、ベートーベン、スカルラッティ、ショパン、シューマンを演奏した。1930年、オデッサ音楽院に入学し、自身の人格形成に影響したと高く評価するベルタ・ラインバルトに師事した。1931年には、音楽院を訪れたアルトゥール・ルービンシュタインに認められ、その勧めで17歳で第1回全ソ連ピアノコンクールに参加し優勝した。
1935年に卒業後、モスクワに移り、1937年まで著名なピアノ教師ゲンリフ・ネイガウスに師事し、1936年にウィーン国際コンクールで第2位となり、翌年、21歳でイザイ国際音楽祭で優勝し、ミケランジェリやリンパニーらを破った。ギレリスは、西側諸国への渡航を許可された最初のソビエト音楽家だった。1944年12月30日、モスクワ音楽院大ホールで、プロコフィエフのピアノソナタ第8番を初演し、1947年からコンサートピアニストとしてヨーロッパツアーを行い、1955年にはフィラデルフィアでチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を演奏してアメリカデビューを果たした。1952年以降はモスクワ音楽院の教授を務め、晩年は祖国ロシアに留まって海外にはほとんど足を踏み入れず、1946年にはスターリン賞、1961年と1966年にはレーニン勲章、1962年にはレーニン賞を受賞した。
ギレリスは20世紀を代表するピアニストの一人として広く認められており、卓越した技術と洗練された音色で広く称賛されている。ドイツ=オーストリア音楽の中心的な古典派の解釈は彼のレパートリーの中核を成し、とりわけベートーベン、ブラームス、シューマンの作品がそうであったが、スカルラッティ、J.S.バッハ、さらにはドビッシー、バルトーク、プロコフィエフといった20世紀の音楽についても同様に啓発的であった。リストの作品も第一級であり、ハンガリー狂詩曲第6番やピアノソナタ ロ短調の録音は一部で古典的地位を獲得している。ドイツ・グラモフォンのためにベートーベンのピアノソナタの全集を完成させている最中の1985年にモスクワで健康診断を受けた後に亡くなった。ギレリスをよく知るリヒテルによると、検査を担当したロシア人医師によって彼は事故死したという。
以上、”Bach Cantatas Website” より筆者訳(一部加筆)
ギレリスの演奏の描写につきものなのが「鋼鉄のタッチ」です。彼のベートーベンやブラームスを聞けばそうかなとも思いますが、万事そうなのですが、こういうレッテルというのはそれについて学ぼうと思う人にとっては無用の先入観になってしまうことが多いです。ロシアピアニズムという言葉もあって、僕は比較的ロシア人ピアニストが好きなものですから調べたことはありますが、今もって意味がよく分かりません。ピアノ学習者でないからかもしれませんが、例えば、野球経験者ではありますからカープ野球という言葉を聞けばこんな感じかなぐらいはわかります。でもそれを文章でといわれてもできません。素人の戯れ事ではございますがピアニストをそういう角度から紋蹴り型で理解することは真面目な鑑賞者としては避けたほうがいいかなと考えています。ここはピアニストの方に教えていただきたいところであります。
ギレリスのファンは世界中にいくらでもおられますが、僕もそのはしくれとして録音はたくさん鑑賞している方だと思います。特にベートーベンの協奏曲はバックハウスと共に曲を知る教祖的存在でしたから、個人的なクラシック音楽受容史の中では重要なピアニストだったと言えます。 ちなみに1955年生まれの僕は1900年代初頭あたりに生まれた演奏家によってクラシック音楽を覚え、その方々はどんどん鬼籍に入られている。だからどんどん長くなっているそのリストがこれなんです。
ということは僕を含めてこの人たちを聴いたことのある人間もやがていなくなります。音楽評論家の吉田秀和さんがベルリンやパリで体験されたフルトヴェングラーの演奏のことを熱く語っている。あれを読んで僕はとてもうらやましいと思ったのです。なぜならあの指揮者は棒の動きだけでなくオーラで指揮していたと思うからです。人間の発するオーラというものは現実にあって、僕はスポーツやビジネスの場で何度もそれを体感しています。そしてそれはレコードやビデオ映像には入らないのです。クラシックばかりではありません、デビューしたての頃のビートルズが初めてアメリカへ行って、確かワシントンでやったコンサートのユーチューブがありますが、映像で見たってすごいものです。でもあそこで声の限りのキャー!!をとばし、涙まで流して失神しそうな女の子たちが受けたと思われる、人生にまで響くほどの衝撃は伝わってきません。演奏家のオーラとはそういうものです。
音楽鑑賞が文化なのかどうかは知りませんが、「趣味は?」と尋ねられるとそう答える人は多いです。クラシックかどうかはさておき、音楽が世界中の多くの人に楽しみや生きる喜びを与えているという意味で文化ではあり、クラシックと呼ばれているジャンルがすべての音楽の根っこにあることだけは間違いありません。ヨーロッパの、それも貴族やアッパークラスだけの楽しみであったクラシックがあまねく我々庶民のものとなったのは20世紀のレコードやラジオの発明に負う所が大きいでしょう。特に日本においてはレコードやCDの売り上げを見ても世界で特筆すべき関心の高まりを見せたのは事実です。ドイツに住んでいて驚いたのは、フルトヴェングラーやクラッパーツブッシュの名前はコンサートゴーアーでもあまり知らないんです。それも30年前の話だから今ではほとんどの人が知らないんじゃないですか。でも僕の世代の日本のクラシックファンでフルトヴェングラーを知らないなんて言おうもんならモグリだねってわけです。これってすごいことですよ、双葉山や尾上菊五郎よりドイツ人をよく知ってるんですからね僕なんか。
30年前から演奏会場に老人ばっかりでその兆候が現れていましたが、ドイツにおけるクラシック音楽鑑賞文化の退潮ぶりは顕著のようです。ドイツ語をしゃべっていたバッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツァルト、ベートーべンの国ですらそうなんです。当のドイツ人たちがそれでいいと思ってるのかどうか今の僕にはわかりませんが、日本語をしゃべっている人達がやっていた能や狂言や歌舞伎が現代の日本人が誰でも知ってるものかと言われればさもありなんかもしれません。日本では生き残っていると信じたいですが、クラシックの名旋律が耳障りの良いポップスになったり、ウィーン・フィルが来日すると演奏会のチケットが47, 000円もするという形でというなら心配もあります。先ほど「庶民」と書きましたが、オペラじゃないコンサートですよ、いくら円安とはいえ庶民の手の届くものではなくなってきているのかもしれません。
子供のころ、高島屋や三越に行くのは西洋の高級な文物を見に行く楽しみみたいなものがあって胸が躍ったものです。いまどき、デパートにそういう目的で行く人がいますか?デパートの総売上高は10兆円ぐらいありましたが昨今は半分の5兆円です。これを見ると、西洋の高級な文物としてチケットが売れている日本のクラシック界も明るくない気がしてならないのです。僕は証券マンであって音楽評論家でもレコード会社の手先でもありません。物を書いてお金を得なくてはいけない人間でもありません。人生に多大な喜びを与えてくれたクラシック音楽に限りない愛情を持ち、それを産んでくれた作曲家たちに限りない敬意と感謝の念を抱き、数えきれない感動体験を経て今僕の頭の中にあるものがボケて消える前に恩返しに残しておきたい、それだけのためにブログを書いています。だから公開する必要はないのですが、書き物である以上誰かに読んでもらうことを前提としています。それは1000年後の自分の子孫だろうという動機で14年前に始めましたが現在世界で5000人以上の方が毎日訪問して下さっているようであり、全員が音楽好きではないにしても何らかのご関心を抱いていただけるならそれはそれでいいことではないかと思います。
ギレリスの話に戻ります。 1つ年上のリヒテルと比べられますが、違う資質のピアニストですね。僕はリヒテルもロンドンで聴いてますが、暗がりにろうそくだけの舞台はなにやらフェルメールの絵みたいで強烈なオーラを発しており、プロコフィエフのソナタが信じ難いほどのレガートでプレストでひかれる。あれは忘れようがありません。でも二人はモスクワ音楽院卒業生でネイガウス門下だ。ロシアはクラシック音楽の受容では後進国ですからね、しかも共産主義だったからオリンピック選手と同様に幼少期から選別して特訓する独特のシステムがあったようです。作曲家は物書きもそうでしたが作品を厳しく検閲されました。しかしパフォーマーである演奏家は、まさに五輪選手と同じで国威発揚になりますからギレリスのように西洋に出してもらえる人がいたんです。リヒテルがそうはいかなかったのは父親がドイツのスパイだという容疑をかけられてスターリンに銃殺されてるからで、長らく西側では「幻のピアニスト」扱いでした。こういう経歴はレコードを売ろうとする資本家にとっては目玉商品になるんです。当初の録音はソ連のメロディアというレーベルで音が悪く、あまり好きでないイメージがついてしまいました。のちにドイツグラモフォンがラフマニノフの2番を出しましたが、ピアノのスタイルが好きでなくますます遠のきました。だからリヒテルの評価は実演で目から鱗の大転換をとげたのです。逆にEMIやCBSで割合良い音だったギレリスは馴染んでおり、それがロンドンのチャイコフスキーで静止してしまった。こうした巨人達と同じ時代を生きていたからこその “あるある” です。ギレリスは、演奏後に最大の賛辞を贈ろうとしたユージン・オーマンディを「リヒテルを聴くまで待ってください」と制したエピソードがリヒテルのウィキペディアに載ってますが、楽屋に押しかけてそのオーマンディと楽しく話した自分のことも、だんだん他人のことだったような感じがしてきている今日この頃であります。
僕が何十回も聴き込んで血肉となっているものをいくつか挙げておきましょう。こうしてブログにたくさんの演奏を紹介してまいりましたが、僕は1万枚ぐらい持っているレコードやCDやユーチューブで出会ったものの中で単に自分と趣味のあったもの、あるいは全く個人的な事情で僕の人生において大事な演奏だったねということになったものをご紹介しているに過ぎません。自分の経験として申し上げますが、世の中に絶対的な名盤なんてものはあったためしはないしこれからもないです。そんなことをうたっている本は全部嘘です。どうしても好きなあそこのつけ麺屋とか、できれば会ってみたい好きなタイプの女優さんとか、ご縁があって飼うことになって大好きになってるうちの4匹の猫とか、そんなものであります。
ベートーベン ピアノ協奏曲全集(ジョージ・セル指揮クリーブランド管弦楽団)
最も好きな全集はと聞かれればいまでもこれかも。レオン・フライシャーとの全集も甲乙つけ難く、その時の気分でということになる。
ベートーベン ピアノ協奏曲第1番(クルト・ザンデルリンク指揮レニングラード・フィルハーモニー)
こちらの全集も価値あり。1番は勢いあふれるこれが我が定番。
ベートーベン ピアノ・ソナタ「熱情」
全32曲の録音中に前述の事故死。しかし27曲ある。あらゆる音源の中で最高の建築美と優美の調和。この熱情も凄い。全曲を聴かずしてギレリスは語れない。
ブラームス ピアノ協奏曲第2番(オイゲン・ヨッフム指揮ベルリン・フィル)
ヨッフムとあいまって堅牢で重厚な2番。アラウ・ハイテンク盤が好みだがこれも時々聴く。
チャイコフスキー ピアノ協奏曲第1番 (ズビン・メータ指揮ニューヨーク・フィルハーモニー)
ライブ録音。チャイコフスキーは、リヒテルと違って西側諸国に出ることをスターリンに許された彼の看板レパートリーだった。だから最後のロンドンで取り上げたと想像する。
モーツァルト ピアノ・ソナタ第15番ヘ長調 K 533/494(プラハの春音楽祭、 24 May 1973)
鋼鉄でなくクリスタルのタッチでしょ。深遠で思索に富んだ幽玄なモーツァルト。こういうものにギレリスの本質がのぞく。
ラフマニノフ ピアノ協奏曲第3番(アンドレ・クリュイタンス指揮パリ音楽院管弦楽団)
54年スタジオ録音。ラヴェルのコンビの伴奏とはそそる。これは鋼鉄。ギレリスは最高のピアニストはという質問にラフマニノフと答えている。
グリーグ 「抒情小曲集」
全78曲から20曲。万華鏡の色彩。硬質なタッチ。心の襞に触れる哀感。淡い薄暮と黎明。最高級の芸術品。1974年、ベルリンイエス・キリスト教会。
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僕が聴いた名演奏家たち(山田一雄)
2025 AUG 6 21:21:18 pm by 東 賢太郎
いま自分の宇宙観(前稿)をまえにして、ひとつ仕事をなしとげた気がしています。それ以上に天上を知ることはないだろうし、もう九千以上のかたが読まれて新しい交信が生まれています。
音楽もまぎれもない「波動」です。音楽を聴くという行為も作曲家、演奏家との「波」(霊感)の交信と考えています。前稿で、
『(ブログで)「これを書こう」という衝動(こめる波動の振幅)が大きいとPVはより増える傾向があることがわかった』
と述べました。発信者(作曲家)が紙に記した情報(楽譜)にこめた衝動(こめる波動の振幅)が大きいとPVはより増える(感動は大きくなる)と読み替えれば同じことを言ってます。
良い音楽に接したときに心に巻き起こる嵐のような感動は他のものからは絶対に得られないものであり、そうとしか説明できないのです。正確には、演奏することがそれに当たるのですが、我々聴衆はそれができませんから演奏家にゆだね、そこからスピリットをいただいているわけです。
宇宙で最も完璧な音楽は何だろう?何十年も前から僕の答えは決まっています。モーツァルトの交響曲第41番ハ長調K.551 ≪ジュピター≫ です。完璧なんだけど、一か所だけ修正しています。ここです(第二楽章コーダ)。
これを見るとモーツァルトも人間なんだとほっとした気になります。でも、これによって逆に「一筆書き」なんだとわかり、かえって凄みが増していますね。さもなくば清書と思ったでしょう。
モーツァルトがこれにどれほどの「衝動」をこめたか。並々ならぬものがあったはずです。その理由はここに書いてある私見をご参考いただければと思います。
クラシック徒然草-モーツァルトの3大交響曲はなぜ書かれたか?- | Sonar Members Club No.1
スコア全47頁を聴いた時の “感じ” 。「ハ長調の神の殿堂」です。そう感じる音楽はもう一曲あって、ワーグナーの名歌手第一幕前奏曲です。これのすばらしさも神品レベルですが、宇宙的なスケールとパルテノン神殿の如き絶対普遍の美の構造は一歩譲る。モーツァルトの天才はありとあらゆるところで語られ皆様も飽食気味でしょう。そこで殿堂に唯一迫ったワーグナーを引き合いに出すのですが、きっとワーグナー自身も認めると思うことは、すなわち、あらゆる大作曲家の中でモーツァルトの天才は図抜けて別格であることです。それが問答無用に証明されたのが交響曲第41番ハ長調K.551であり、神の中の神、すなわち「ジュピター(ユピテル)」に見立てた命名は大半が稚拙であるニックネームのうちでは最も的を得たものでしょう。これもお導きでしょうか、8年前、第二楽章を満員の豊洲シビックホールで弾かせていただきました。ピアノを大勢の前で弾くことはもうないでしょうから唯一無二、本当に特別な音楽になりました。
11年前、ここに幾つかおすすめ盤を書きましたが、
モーツァルト交響曲第41番ハ長調「ジュピター」K.551
いまはもっぱら山田一雄です。彼はたった一度、86年5月21日に英国人のお客様を東京にお連れしたおり、文化会館で東京交響楽団を振ったベートーベン7番を聴きました。今も記憶に残る名演でした。もっと聴きたかった。亡くなる9か月前、サントリーホールでN響とのジュピター、神のような演奏、モーツァルトが降臨してますね。最高です。誰のより好きです。
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僕が聴いた名演奏家たち(アルフレート・ブレンデル)
2025 JUL 5 23:23:47 pm by 東 賢太郎
ブレンデルは我が世代のクラシックリスナーなら誰しもが若いころからお世話になった人だろう。1931年生まれの彼は20世紀を代表するピアニストの一人として活躍し、クレンペラーもそうなのだが当初は米国Voxからレコード(LP)が出
ていた。ベートーベンのピアノ独奏曲全曲を録音した最初のピアニストであり、ピアノソナタ全曲を3度録音している。日本で絶対の人気を誇るバックハウスが2度であり、だからなんだということかもしれないが、美学的なことをぬきにしても確実に欧州、米国で絶大な需要があったというわけだ。十八番はハイドン、モーツァルト、ベートーベン、シューベルトとされている。このレパートリーは彼の血脈の引き寄せでもあり、その証拠に彼はラテン系、スラブ系(特にショパン)には寄らなかった。欧米のクラシックリスナーはそれが多数派といえ、ちなみに米国でもシカゴはドイツ系が多い。それも血脈なのだから両者は引きあって当然、それゆえの需要なのだ。そうしたこととはまったく無縁である日本では彼を中庸の知性派と意味不明の言葉で評し、裏を返せば羽目を外さず凡庸で面白味がないと見る評論家が多かった。ロンドンではどうかとケンブリッジ主席の知の巨人に尋ねたところ、Well, he’s not tedious but discreet. とシンプルに答えられた。思慮深い。何に対してか?そりゃ作曲家だよと、いとも当たり前のごとく。
私見ではそれはなかんずく感情があてどもなく彷徨するシューベルトにあてはまると思うが、知の領域ではベートーベンのともすると無機質になる形式論理をあるべき姿に中和して提示するバランスに現れていた。彼が70年代にPhilipsのアーティストになったことは幸運だったろう。同社による芯があって暖色系で、丸みと光輝がブレンドした音は彼の芸術に親和性がある。80年代にDeccaも参入したが、僕においてはブレンデル=フィリップスは揺るぎようもない。
ドイツ系が多いズデーデン地方の生まれだからチェコ出身ということにはなろう。父はホテル経営者で、音楽への興味はレコードやラジオを通して育まれ、ザグレブ、グラーツと移住した末に第2次大戦終戦を迎え、16才で音楽教員の資格を取得するためにウィーンへ行くが正式なピアノのレッスンを受けたことはない。神童でもコンクール優勝者でもなく、技術は独学で磨き、作曲家、評論家、エッセイスト、詩人でもある。1931年という生年を見るとホロヴィッツ(1903)リヒテル(15)ギレリス(16)リパッティ(17)ミケランジェリ(20)に続く世代である。グルダ(30)グールド(32)アシュケナージ(32)あたりが近く、アルゲリッチ、バレンボイムは10才ほど下の1940年代になる。そして彼らが1955年である僕の10才ほど上になるわけだ。ちなみに以上名を挙げた人達で親が音楽に関わっていないのは数学者の娘であるアルゲリッチだけで、音楽家というものは歌舞伎のような家柄継承はないのに血統が明らかに関係していることはバッハの例が著名であり、ここでも明らかだ。両親までは才能が発現していないが突然に開花した例としてハンガリーの靴職人の家に生まれ、銀行員を経て独学で作曲の頂点に登りつめたシェーンベルクを想起させる。偶然かもしれないがブレンデルはレパートリーからは異質であるシェーンベルクの協奏曲を弾いている。
僕がウォートンでMBAを取ってそのままロンドン勤務を命じられたのは1984年4月だ。そのころブレンデルは50代半ばで、83年にライブ録音したベートーベンのピアノ協奏曲全集が話題になっていた。このLPは録音メディアがCDに切り替わる最終期のもので、85年8月、ロンドン郊外のイースト・フィンチリーに家内と居を構えた翌年に購入したが、正直のところ関心の的はRCA、Decca専属だったレヴァイン/シカゴSOがPhilips録音のベートーベンでどう響くかという、ブレンデルにも美学にも関係のないマニアックなものだった。僕は同社のオケ録音が好みでありワクワクして1番から聞いたが、Philips感は皆無のデッドなライブで、まあシカゴのホールもそんな程度なのだろうと米国のプアなホール事情を想像してしまい、まったくの期待外れで即刻レコード棚の飾りになってしまったのだ。フィラデルフィアの超デッドなホールでの2年間に心底辟易していた矢先でもあり、当時、ソフトが出始めて「CDの方が音が良い」とレコ芸(海外でも定期購読していた)が喧伝した挙句の洗脳もあった。前年4月まで留学生の安月給でピーピーだったのが5月のロンドン着任からはノーマルに戻り、音のよさげに見えるブラックのDenon製CDプレーヤーと、憧れだったお膝元タンノイのスターリンに切り替えたのもそのころだった。ブレンデルのせいではないのだが、当時、この5曲というとバックハウスやギレリスで事足りており、どうしてもこれでなくてはとは感じなかった。先ほど聴き返してわかった。ブレンデルはライブだからといって格別に燃える人ではない。コンサートホールでも十分にdiscreetなのだ。それなのにライブならではの微細なほつれはオケにはあり録音は好きでない。したがって何もいいことないよね、というのが当時の僕の結論だった。
それもあってか、僕はブレンデルのレコードをあまり持っていない。ヴァンガードのモーツァルト集、Voxの同2台ピアノ協奏曲(wクリーン)、Philipsはモーツァルトのピアノ協奏曲代20番・23番(マリナー)、ベートーベンのディアベッリ変奏曲、リストの巡礼の年・第2年イタリア、シューマン協奏曲(アバド/LSO)、ブラームス協奏曲1番(イッセルシュテット/ACO)で、CDに切り替わってからもバッハコレクション、ベートーベンのソナタ8、14、23、24、29、シューベルトの鱒/モーツァルトのピアノと管楽のための五重奏曲、シューマン協奏曲(ザンデルリンク/PO)だけだ。彼の美質をつかみかねていたわけであるが、それは無理もない。当時の僕の音楽への、とりわけピアノ曲への教養はまるでお粗末なものであったからだ。
ところがライブはけっこう聴いている。左はやはり85年、上掲のベートーベン全集を買う半年前の2月に行われたロイヤル・フェスティバ(RFH)でのリサイタルで、プログラムはハイドンのアンダンテと変奏曲ヘ短調、ソナタ52番、シューベルトのさすらい人幻想曲、ムソルグスキーの展覧会の絵だった。実はいま、本稿のために日付を確認して意外だった。もっと後年だと思っていた。細かいメモリーは飛んでいて、覚えてるのは展覧会の絵のどこだったか、たぶん挿入のプロムナードのエンディングと思うが、ブレンデルの記憶違いがあり、同じ小節を弾いたのに冷やりとしたぐらいだ。そのメモリーの生々しさからもっと後だと思っていた。当時、赴任から1年たったとはいえ、初めて働く海外拠点での膨大な作業量に気が遠くなる毎日であった。よくわかった。音楽どころではなかったのだ。
同年に録音されたハイドン52番だ。ブレンデルの真骨頂といえる素晴らしい知的なアプローチであり、これと同じものを聴いたはずだが猫に小判であった。
これは1987年12月でオールシューベルトのリサイタルだ(やはりRFH)。曲目は楽興の時、さすらい人、ソナタの15番、14番である。株式市場史に残る大暴落となったブラックマンデーの直後でありきれいに忘れてしまった。今なら垂涎のプログラムをブレンデルが弾くなんて夢のようだが、これが記憶に残ってないということは並の騒ぎではなかったのだろう。東京市場が開くのはロンドンの夜中だ。社員全員が明け方まで会社に残って本社への電話にかじりつき、お客さんも心配で相場を見にフロアに来てしまい、歴史に残る大混乱を経験した。思えば僕は天下のブレンデルによる「さすらい人幻想曲」を二度も目の前で聴いたのだ、ああもったいない!演奏会場、日にち不明の1987年のライブ演奏がyoutubeにあったのが救いだ。これだったと思いたい。
次は1989年7月のRFHだ。ブラックマンデーから2年。日経平均は持ちなおし、3万8千円の最高値に登りつめる直前、後にバブルと揶揄されることになる興奮と熱狂の最中にあったが、ロンドンではそんな世俗の喧騒とは無縁のオールモーツァルトプログラムがみやびに奏でられていたのである。演奏者にフィッシャー・ディースカウ、ブレンデル、ハインツ・ホリガーとネヴィル・マリナー / アカデミー室内管の名が見える。この演奏会は英国の哲学者イザイア・バーリンの80才の誕生日を祝うもので、誰かは知らねど、この贅沢の極みはよほど偉大な学者さんだったのだろう。白眉はブレンデルの協奏曲19番 K.459、ホリガーのオーボエ協奏曲 K.313、F・ディースカウのアリア「おお、娘よ、お前と別れる今」 K.513だ。まさしくモーツァルト祭りであり、名人たちによるフルコースを心底楽しんだことをよく覚えている。F・ディースカウもマリナーも、そしてブレンデルまで故人になってしまったが、ロンドンでのベスト10にはいる最高のコンサートだった。ブレンデルはもうひとつ、バービカンだったろうかリストの協奏曲第2番を聴いている(プログラムが見つからない)。ここでは終楽章のコーダ前でアクシデントがあった。フォルテで腕を振り上げたはずみに指でひっかけた眼鏡が客席まで宙を飛んでしまい、彼はレンズの厚さからして強度の近視だろうから音楽が止まるかとホールに緊張が走ったが、さすがである、ミスタッチのひとつもなく難なく最後まで弾ききって大喝采に包まれた。おまけだが、ミケランジェリがロンドンにやってきてバービカンでドビッシーとショパンを弾いたとき、前の席にいた男性が彼だった(前者だけ聴いて席を立ったが)。20世紀を代表するピアニストの一人だが、6年も同じ場所で、同じ時代の空気を吸っていたという愛着はひとしおだ。
ブレンデルをヴィルトゥオーゾと呼ぶ人はあまりいないだろう。規格外の新機軸や強い自我を盛り込むことは一切なく、作曲家が封じこめた楽興を無理、誇張なく紡ぎだし、初めて聞いた音楽なのにああそういうことかと自然になり行きが見通せ、身をまかせているうちに体の内から喜びを覚えてくるという風情であり、知的で穏健なのだ。知的というのは怜悧、冷たさではなく、タッチに切れ味や凄みを利かせることも劇的な感情の起伏で聴き手を引き回すこともないから穏健に聞こえ、面白みがないとした評論家もいた。形式のバランスはもちろん感情の起伏まで均整がとれているということだ。それは即興でなく理性で設計されてるのだが、そう聞こえないところが知的、インテリジェントなのである。彼の十八番はハイドン、モーツァルト、ベートーベン、シューベルトとされているのはその流儀が活きる楽曲だからで、僕はその4人各々にエッジをもったピアニストを好んではいるが、公約数として統一できるブレンデルの流儀は一家言ある個性的なものでなんらの優劣もない。中庸でないことに面白味を見出し、興奮してブラボーを連呼するのも結構だが、僕はストレス解消のために音楽を聴くことはない。
そこにシューマン、ブラームスを加えてもいい。ハイティンク/ACOとのブラームス2番は彼をヴィルトゥオーゾと呼ぶべき名演で同じ伴奏者のアラウ盤に並ぶ。シューマンではK・ザンデルリンク/POとのイ短調協奏曲を高く評価する。ああいい音楽を聞いたなあと静かな満足感で包みこんで体の芯まで熱くしてくれる。どちらもともに伴奏が素晴らしく、まさに名品とはこういうものだ。
最後になるが、所有している中で好んでいるのはリストの巡礼の年・第2年イタリアだ。冒頭からヨーロッパの春の大気が香る。ブレンデルが仄かに加える精妙
なアゴーギクは、楽譜をご覧になっていればわかるが音楽の時空を支配している。そこに投じられるふくよかな光彩を放つ和声がこの世のものとは思えぬ神の物語を掲示する。僕は西脇順三郎の『Ambarvalia』にある “天気” という詩を思い出す。
(覆された宝石)のような朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日
ドビッシー、ラヴェルはこの楽曲を知ったに違いなく、名技性ばかりに目が行くフランツ・リストの音楽の深みと斬新さを僕もこれで悟った。ブレンデルは詩人でもある。印象派を弾かないが、そう弾いている。それが知性でなくてなんだろう。こういうものをロンドンの畏友は discreet と語った。日本の音楽評論家が形容した「中庸の知性派」はあながち間違いではなかろう。知性派の聴き手が感知し、奥深い感銘を心に刻むメッセージはいつも中庸(golden mean)の姿かたちをしているからだ。写真はロンドンで入手した極上の84年のオランダプレス盤で、Philipsの美質が満点だ。中古レコード屋で見つけたら迷わず購入をおすすめする。
ブレンデルはもっと聴きたい。無尽蔵に教わることがあるだろう。それがご冥福をお祈りする僕なりの方法だ。
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僕が聴いた名演奏家たち(テオ・アダム)
2024 SEP 2 3:03:46 am by 東 賢太郎
オペラは劇でもある。だから配役の人物像はとりあえず役者(歌手)のイメージからできることになる。聴くだけの人としては万人がたぶん同じであり、どうやってその作品を知ったかという各人の自分史だから全部同じということはまずない。LPの時代はオペラのレコードは高価だったし、どれを買うかとなればいっぱしの投資であって、レコ芸の高崎保男さんの意見は大きかったから読者は似通った選択にはなったろう。個性が出るポイントはそこからで、じゃあ別な盤はどうだろうと浮気する好奇心にあかせてあれこれ録音を渉猟し、実演もきいたりして耳が肥え、フィガロや椿姫は誰々じゃないとだめだなんてことになってくる。
これはなにも難しいことでもお高くとまったことでもない、僕の親父が大石内蔵助は長谷川一夫、平清盛は仲代達矢だったし、僕は財前教授は田宮二郎であり、黒革の手帳の原口元子は米倉涼子、金田一耕助は古谷一行じゃないと感じ出ないよねなんて言って爺扱いされ、いまの子は紫式部はきっと吉高由里子なんだろうねってのとまったく同じである。僕は日本一仕事がきついと言われた会社にいて朝から晩まで狂ったように働いたが、幸いなことに7年間も海外の拠点長であったからレコードばかりでなく日本の金融機関の現法社長、要するに同じお立場にある経営者や現地のお客さんとの交流・情報交換、そして日本から来られるお顧客さんの接待などでいくらでもオペラハウスに行く機会を設けることができた。
その結果、僕のオペラレパートリーの人物像は今のものになった。例えばミレラ・フレーニがミミであり、ルチア・ポップが夜の女王で、エディット・マティスがツェルリーナ、ペーター・シュライヤーがフェルランド、ルチアーノ・パヴァロッティがネモリーノであり、ゲーナ・ディミトローヴァがジョコンダ、ヴァルトラウト・マイヤーがイゾルデ、アグネス・バルツァがカルメン、アンナ・トモワ=シントウが元帥夫人という風なものである。最後の5人はステージを観てのことだから贅沢なものだった。そして、決定打はスイトナー / DSKのレコードのザラストロである。どんな大歌手であれ、あの深々とどすが利いているが、それでも伸びやかで格調の高いテオ・アダムの低音と比べられる羽目になっている。
ドレスデン生まれのテオ・アダムの本拠はゼンパー・オーパーだ。ドレスデンというと、「ばらの騎士」が初演されたことよりも第二次大戦末期に英米軍の空襲で無差別爆撃で街の85%が破壊されたことが先に来てしまうのは不幸だ。市の調査結果は死者数25,000人とされるが、不思議なことに、連合軍側において死傷者であれば13万5千人に達するという説が根強く語られている。爆撃は1945年2月13日、14日であり、「東からドイツを攻めるソ連軍を空から手助けするため」という名目に対しては、殺戮を行った側である英国で「戦争の帰趨はほぼ決着しており戦略的に意味のない空襲だ」という批判があった。ひるがえって、ほぼ同時期3月10日の東京大空襲、半年も先である8月の原爆投下はいったい何だったのだろう。ポツダム宣言受諾への国内事情により、国家消滅、分割、永遠の占領・信託統治等の悪夢を無辜の国民の命の犠牲によって贖う結末に陥った経緯を日本人ならば頭に焼きつけておくべきであろう。
ワーグナーが楽長をつとめ、リヒャルト・シュトラウスがそのオペラの大半を初演したこの劇場も瓦礫になるまで無残に破壊され、1985年2月の同じ日に再建された。その記念公演がハンス・フォンク指揮の「ばらの騎士」で、テオ・アダムはそこでオックス男爵を歌っている。ドレスデンのことを書こうとすると、まず僕にとって1994年は音楽人生の豊穣の年だったことから始めねばならない。フランクフルトのアルテ・オーパーでオーケストラ演奏会は定期会員になって毎週何かを聴いており、フランクフルト歌劇場はもちろん近郊の都市も車でアウトバーンを飛ばせばすぐなので、マインツ、ヴィースバーデン、ダルムシュタットで普段はあんまり食指が動かないイタリア物やロシア物のオペラを小まめに聴いた。大きなものだけをかいつまむと、ベルリンでブーレーズのダフニス、カルロス・クライバーのブラームス、ポリーニのベートーベン、シュベツィンゲンでジェルメッティのロッシーニ、ヴィースバーデンでオレグ・カエタニのリング全曲、ベルリン・ドイツ歌劇場でルチア・アリベルティのベッリーニ、ベルリン国立歌劇場でバレンボイムの「ワルキューレ」とペーター・シュナイダーのマイスタージンガー、8月はバイロイト音楽祭でルニクルズのタンホイザーを聴いて帰途にアイゼナッハのバッハ・ハウスに立ち寄り、翌月9月12日に憧れだったドレスデンに行き、この歌劇場で「さまよえるオランダ人」を聴いたのだった。社長を拝命して2年目で尋常でないほど忙しかったが幸い39歳で元気であり、ピアノの練習やシンセサイザーでの作曲も含め、この年に一気に吸収したことが僕の音楽人生の土台になっている。いずれにせよどこかのサラリーマンにはなったわけだが、野村でなければこんな恵まれたことはなかったろうし、とはいえ社内ではいろいろ不遇、不運なことが重なって、恐らくそれがなければドイツに赴任することはなかったとも思っている。陳腐ではあるが人生糾える縄の如しだ。
指揮者はハンス・E・ツィンマーでオランダ人役が写真のクレンペラー盤と同じテオ・アダムその人であるという信じ難い一夜となった。クレンペラーがフィルハーモニア管と残した唯一のワーグナー全曲スタジオ録音(写真のLPレコード)である同曲をゼンパー・オーパーでシュターツカペレ・ドレスデンで生で聴ける。夢のような話だったが、夢というのは叶わないから夢である。現実になってしまうとこういうものなのかと感じる経験はたくさんある。歌劇場の雰囲気はさすがのものだが、世界中のそれと比してどうというものでもない。肝心のアコースティックはいまいちであり指揮のせいかオケも僕の知るDSKではなかった。この楽団、フランクフルトでコリン・デービスのベートーベン1番だったか、あんまり乗ってない感じの時の音はだめだ。68才だから今の我が身とほぼ同じ高齢者のテオ・アダムを拝めたということに尽きるが、声は散々きいたあのバスであった。コヴェントガーデンでパヴァロッティを後ろの方の席で聴いて、あのレコードの声なんだけど頭のてっぺんからクリーミーな彼特有の高音がピアニシモで飛んできて耳元で囁いたような、およそ平時の現象として想像もつかないような、こういうのはロストロポーヴィチのチェロぐらいだなと感嘆した、そういうものではなかった。ステージで観たロストロやパヴァロッティはいわば超常的な天才であって何が出るかわからない。アダムはそういう人でなく、かっちりした芸風を守り、その中で常に通人を唸らせる最高のパフォーマンスを出せる人で、まさしく「宮廷歌手」の称号にふさわしい。僕はそうしたことができない自堕落な人間である故、ひときわ大きな敬意を懐く。このレコード(ドレスデン初演版)、いまの家で初めてかけてみたところ、装置とアコースティックのせいもあって当時のクレンペラーとして聴いたことがないほど音が良く、42才で全盛期のアダムの声はもちろんのこと圧倒的であり、微光の彼方に徐々に薄れつつある記憶の喜びを倍加してくれることを発見した。
テオ・アダムの声が焼きついてアイコン化しているレコードはオランダ人以外に幾つかある。ベームとヤノフスキの「ニーベルングの指輪」(ヴォータン)、同「フィデリオ」(ピツァロ)、カラヤンの「マイスタージンガー」(ハンス・ザックス)、スイトナーの「コシ・ファン・トゥッテ」(ドン・アルフォンゾ)、同 「ヘンゼルとグレーテル」(父)、ケーゲルの「パルシファル」(アンフォルタス)、カルロス・クライバーの「魔弾の射手」(カスパール)、ペータ
ー・シュライヤーのモーツァルト「レクイエム」、サヴァリッシュのエリア、コンヴィチュニーの第九、マズアの第九、そしてマウエルスベルガーの「マタイ受難曲」(イエス)という綺羅星のようなレコード・CDに録音された彼の伸びやかで強靭なバス(バスバリトン)を聴き、僕は声楽というものの味わいを知った。
とりあえずつまみ食いで美味しいものをというならモーツァルトのアリア集だろう。彼の全盛期をスイトナー / ドレスデンSKのバックを得て良い音で記録したこのLPは宝物になっている。
堂々と厳格で格調高い。モーツァルトにしては遊び心に乏しいという声も聞こえようが、これぞ様式をはずさぬ千両役者、歌舞伎なら團十郎、菊五郎であろう。彼亡きあと世界に何人いるんだか、もう僕は知らない。
マズア / LGO黄金期の第九は懐かしい方も多いだろう。
2019年に92才で亡くなったのを存じ上げず5年も遅れてしまったが、ドイツオペラに導いてくれたことに感謝の気持ちしかない。
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僕が聴いた名演奏家たち(マウリツィオ・ポリーニ)
2024 MAR 29 0:00:56 am by 東 賢太郎
なんということだ、とうとうポリーニまで亡くなってしまった。小澤征爾の逝去で1984年2月のボストン・シンフォニーホールでのプログラムを探し出し、そうだった、ここでシェーンベルクのピアノ協奏曲を初めて聞いたんだっけと思ったのがつい先月のことだ。そのソリストがポリーニであり、そういえば最近名前を聞かないなという気持ちが頭をよぎってはいたのだ。シェーンベルクの細かいことは記憶にないが、小澤の運動神経とポリーニの打鍵とリズムが拮抗した快演の印象だ。厳格な12音技法のスコアを暗譜して運動に落としこむ作業は演奏家にアーティストとしての感性以前に数理的な知性を要求する。ポリーニはその所有者であった。音楽が他の芸術と一線を画するのは数学と運動を内包する点だ。どちらも動物的快感をもたらす故に僕はクラシック音楽を愛好しているというと逆説的にきこえるかもしれないが、人間とはそういう動物だ。もし認知症になってもブラームスをきかせてね、きっと涙を流すからと家内に頼んでる。
こうしてポリーニの残像をたどる作業は特別の感慨をもってするしかない。彼の軌跡は自分のクラシック鑑賞のそれでもあるからだ。ドイツ・グラモフォン(DG)からまずストラヴィンスキー、プロコフィエフ、もう1枚がウェーベルン、 ブーレーズと衝撃のデビューを飾ったのがクラシックに馴染みだした1971年のことだった。衝撃は僕が受けたわけでなく、業界のキャッチコピーである。しかも、後で知ったがこれはデビュー盤ではなくEMIからショパン集が出てい
たのだからいい加減なものである。それが日陰者であるならショパン・コンクール優勝はなんだったのかとなる。このロジックのなさは日本人だけでない、DGもそれで商売できたのだから世界人口の大半は、いや幾分かは知的な部類であるクラシックのリスナーでさえもがそうなのだろう。そこにAIのフェイク画像をぶちこめば資本主義は共産主義の恰好のツールになる。このロジックを理解している人の数はさらに少ない。少数の支配者につく方が得だから支配はさらに盤石になる。こうやってディープステートはできる。
2枚をどこで聴いたかは覚えてない。全部ではなくFM放送でもあったのではないか。ペトルーシュカはオーケストラ版で知っていたが「3章」というピアノ版は初耳であり、それ以外は一曲も知らなかった。レコ芸で話題の彼の名を覚えた程度で、春の祭典で僕をクラシックに引きずりこんだブーレーズのピアノ版のイメージだったがそれも自分の耳で判断したことではない。高校2年でクラシックはまったくの未熟者、ピ
アノソロは何を聞いてもさっぱり関心がなかった。それでも1973年に「ショパンのエチュード」が出てきた時の意外感はあった。ショパン・コンクール優勝者だぐらいは知っていたが、こっちは5歳でリアル感はなく価値も知らない。ただ、のちにこのレコードは、我が家のあまり多くはないショパンの一画に並ぶことにはなった。同時に、ポリーニとはいったい何者だろうと考えることになった。ブーレーズを弾く彼とショパンを弾く彼が同一人物であることがうまく整理できなかったからだ。このことは音楽に限らず、人間と社会の複雑な事情を観察するための訓練になった。彼は優勝直後にホ短調協奏曲を録音したがそこから「謎の沈黙」に入り、1968年のロンドンのクイーン・エリザベス・ホールのショパン・リサイタルでカムバックしてみせた折にLP2枚分のリサイタル盤をレコーディングし、再度3年のブランクとなりDGデビューに至る。そのキャズム(断層)を意図して作ったのか、単に意に適うレパートリー研鑽の時間だったのか、いずれにせよ彼の意志が為したことだ。19世紀の残照でなくアヴァン・ギャルドに分け入り、20世紀の大衆の求める “クラシック” ではない時代を押し進める。そうした指向性の持ち主という意味で彼はブーレーズの仲間であり、だからDGデビューに第2ソナタを選んだろうし、ブーレーズはフランス国の役人であったがポリーニは生粋の共産主義者だった。
ハーバードの友人がチケットを買ってくれこのプログラムを見たとき、まず思ったのはブラームスの第2協奏曲をやってほしかったなというない物ねだりだった。理由は後述する。しかしこの日のポリーニはルービンシュタインやホロヴィッツの末裔ではなく12音音楽の支持者であった。そのとき29歳だった僕は13歳年長のポリーニの多様性、多義性に人間の新しい在り方を見た。先週、ツェムリンスキーに夢中になっていてどうしても書きたい衝動に駆られていたのは、おそらくPCでシェーンベルクの協奏曲を流していたからで、そのままポリーニのレクイエムになった。シェーンベルクは12は好きだったが13は嫌いだった。トリスカイデカフォビア(数字の13の恐怖症)だったことは有名である。僕にもそれがあり、大学受験に際し、高いチャレンジへの象徴的逆説的攻撃的エネルギーとして忌避していた “4” にこだわったら落ちた。 “7” に変えたら受かったので信念はさらに強化されている。まったく馬鹿げたことだが否応なくロジカルに生まれているものをイロジカルでバランスして精神の均衡が保たれているように思う。1942年生まれのポリーニはボストンで42歳だ。シェーンベルクのピアノ協奏曲は1942年に作曲されて作品番号は42であり、7+6=13、7×6=42である。偶然にしては出来すぎだったと思わないでもない。
ショパン・コンクール優勝はポリーニにとって満足な偉業だったろうが、一晩寝れば通過点でしかなかったのではないか。なぜそう考えるかは、彼の師匠カルロ・ヴィドゥッソ(Carlo Vidusso、1911-1978)がどんな人物だったかに言及する必要がある。ヴィドゥッソは並外れたテクニックと伝説的な読譜力に恵まれたヴィルトゥオーゾで、複雑な楽譜の運指の課題を即座に解くことができる異才だった。ワルター・ギーゼキングは列車に乗るときに渡された新作協奏曲をその足で着いた会場で弾いたらしいがそれは聴衆が誰も知らない曲だ。ヴィドゥッソはコンサートの直前に手を負傷したピアニストの代役に立ち、聴いたことはあったが弾くのは初めての協奏曲(つまり聴衆も知っている曲)の譜面を楽屋で読んでリハーサルなしで弾き、専門家もいた客席の誰一人気づかなかった。こんな人はフランツ・リストぐらいだ(新作だったイ短調協奏曲の譜面を持ってきたグリーグの眼前でそれを初見で完奏して驚かせた)。ヴィドゥッソもそれができ「スタジオ録音より初見の方がいい」とちょっとしたウィットを込めて称賛された。1956年のブゾーニ国際ピアノコンクールの作曲部門で応募作品の演奏者だった彼は14歳の弟子ポリーニを代役に推し、その役を完璧にこなした少年は一躍有名になった(イタリア語版wikipediaより)。
チリ出身のヴィドゥッソはショパン弾きではない。リストだ。「3つの演奏会用練習曲」から第2曲 「軽やかさ」(La leggierezza)をお聴きいただきたい。
ポリーニがこの師から学んだのはレパートリーではなく、その情緒的解釈でもない。継いだのは読譜力とそれを具現するメカニックであり、それが彼の固有の器を形成し、自らの資質に合った酒を盛った。そう考えればシェーンベルク、ブーレーズ、ノーノの録音の意図がわかる。
<シェーンベルク「ピアノ協奏曲」アバド/BPO、1988年9月録音>
そう書くと、技術偏重でうまいだけのピアニストにされる。現にヴィドゥッソはリヒテルやアラウと同世代だが名を成してはいない。コンクールを制覇したことでポリーニは師を超えたのだろうか?
3大コンクールの優勝者のうち私見ではあるがAAA(最高ランク)にまで昇りつめた人を見てみよう。過去18回ある「ショパン」はポリーニ、アルゲリッチ、ツィマーマン、12回の「チャイコフスキー」はアシュケナージ、ソコロフ、15回の「エリザベート」はギレリス、アシュケナージだけと36人中6人しかいない。つまりポリーニはコンクールで知名度は上げたが、AAAになったのはそのせいではない。つまり彼は元から師をはるかに超えるものを持っており、そこに師の技が加わったとみるのが自然だろう。
1歳違いのポリーニ、アルゲリッチはショパン・コンクール優勝が喧伝され一気に名が知れた。というより、1960年(第6回)、1965年(第7回)の両者の優勝によってコンクールの方が有名になった。両人ともそこで協奏曲1番ホ短調を弾いて話題になり、ポリーニはそれをスタジオ録音したがアルゲリッチはそれに3年を要した。そこで1966年にEMIから「ディヌ・リパッティ盤」なるものが出てくる。出所が怪しかったのだろう、1971年のイギリス盤には「指揮者とオーケストラの名前は不明だが、ソリストがリパッティであることは間違いない」という趣旨のメモが添えられ、そこから10年そういうことになったが、BBCが1981年にこの録音を放送するとリスナーがチェルニー・ステファンスカの1950年代初頭のスプラフォン録音との類似性を指摘して書き込み、テストの結果、これらは同一の録音であることが判明した。この事件はよく覚えている。リパッティの至高の精神性を讃えていた我が国の音楽評論界は沈黙し、さりとて第4回ショパン・コンクール覇者であるステファンスカが売れっ子になったわけでもないというイロジカルな結末となった。
ではポリーニの1番はどうだったのか。コンクール本選のライブ、これは一期一会の壮絶なもので、指の回りにオケがついていけてないほどの腕の冴えはルービンシュタインが唸ったのももっともだ。良い録音で残っていればと残念至極である。コンクールは1960年2月から3月にかけて行われ、彼は同年4月20、21日にパウル・クレツキ / フィルハーモニア管とEMIのアビイロード第1スタジオで録音している。コンクールの熱はなくあっさりして聞こえるが純音楽的に見事な演奏であり、これほど硬質な美を完璧に紡ぎだしたピアノはそうはない。ざわざわした群衆の人いきれにまみれたホールで興奮を待つ演奏ではなく、ヘッドホンで細部までじっと耳を凝らす質の演奏であり、クリスタルの如きピアニズムの冴えはまさしくそれに足る。そして18歳を包み込んでいるのが音楽を知り尽くしたポーランドの大家クレツキであり、この録音は数あるポリーニの遺産でも出色のものと思う。
これがありながらリパッティの愚を犯したEMIは何だったのか。おそらく1965年のアルゲリッチの出現だろう。レコードを大枚はたいて買っていた時代、聴衆は真剣に感動という対価を求め気合を込めて音楽をきいていたのだ。あっけなく音楽が無料で手に入ってしまう今は恵まれてはいるが過ぎたるは及ばざるがごとし。コストはかかっても皆がこぞって音楽を大切にしたあの時代のほうがよかったと僕は思うし、だからこそおきたリパッティ事件を批判する気にはならない。
深く曲想のロマンに寄り添って感極まった高音が冴えたと思えば要所では女豹が獲物に飛びかかるが如き怒涛のメリハリ。アルゲリッチのほうが面白いという意見に僕は抗うことはできないが、それはポリーニの資質にはないものだから言っても仕方ない。むしろ、ショパンの作品の中で、ポリーニの長所が万全に発揮される曲がエチュードだったということで、それはまさにグレン・グールドにおけるバッハに比定できる。この一枚はグールドのゴールドベルク変奏曲(旧盤)と同様にポリーニの揺るぎないアイコンになったといっていいだろう。
ポリーニは、おそらくDGのニーズもあったのだろう、ショパンのソナタ、前奏曲、バラード、スケルツォ、ポロネーズ、ノクターン、即興曲、ワルツ、マズルカなどの主要曲も次々と録音した。ヴィドゥッソの弟子である彼は何でも弾ける。強みはルービンシュタインを唸らせた並外れたメカニックではあるが、もっと本質的な部分に踏み入れば、散文的なものより数理的なものだ。散文的であることがチャームになっているアルフレッド・コルトーやサンソン・フランソワのようなショパンを彼が弾くことは望めないし、ショパン本人がそういう人だったのだからどうしようもない。ではポリーニの本質に適った音楽は何だろう?
1977年の4月に農学部前の西片2丁目で下宿生活を始めたとき、熱愛していた音楽がブラームスの変ロ長調第2協奏曲だ。すでにゼルキン、バックハウス、リヒター・ハーザーのLPを持っていたが、2月に買ったアラウが最も気にいっていた。
この強力なラインナップに侵入できたのは9月にFM放送をカセットに録音したアラウのシュトゥットガルトのライブ、そして10月にやはりFMを録音したポリーニ / アバド / VPOの1976年録音のレコードだった。ここでのポリーニは無双無敵だ。アバド / ベルリン・フィルとの再録音があるが、文句なしでVPOとの旧盤に軍配を上げる。強靭で正確無比な鋼のタッチ、魂を揺さぶるタメ、微塵の狂いもないぶ厚い和音のつかみ、深々と地の底まで轟く腰の重い低音、軽々と天空に飛翔する高音、第2楽章の熱狂のテンポ、人生の滋味と静謐にあふれる第3楽章、意気投合したアバドの若々しい指揮にこたえて、これぞブラームスの音で包み込む絶品のウィーン・フィル!昼も夜も深夜までも、何度熱中してこれを聴いたことだろう!ボストンで「ブラームスの第2協奏曲をやってほしかった」と思ったのはこれがあったからなのだ。
この演奏、さきほど聴き返したが、もう僕の魂に深く刻み込まれていてありとあらゆるリズム、ひと節、ホルンの音色にいたるまでがああそうだったといちいち確認され、腹の底まで腑に落ちて涙が出てくる。偉大な二人の音楽家、ポリー二とアバドに心から感謝したい。
物語は続編がある。その念願だったポリーニの第2協奏曲を聴くチャンスが同年、つまり冒頭のボストンの演奏会の年の4月にウォートンを卒業し、そのままロンドンに赴任した秋(9月)にやってきたのだ。ロイヤル・フェスティバル・ホールで指揮はクラウス・テンシュテット、オケはロンドン・フィルである。
なんと幸運だったと言いたいところだが、実は、どういうことかこの演奏会については何も覚えていない。なぜそうなのかすら覚えていない。この選曲で、このタイミングで、そんなことは、こと僕においては天地がひっくり返ってもあり得ないのだ。考えられる理由はただ一つ、当時、野村證券の稼ぎ頭だったロンドン拠点の営業課において入社5年目だった僕は新入りの下っ端であり、おっかない先輩方のもとで英語でシティでビジネスをするシビアさに面食らっていた。新規アカウントの開拓から東京への膨大な量の売買発注ファクシミリの正誤チェックというミスしたら首の仕事に至る、早朝から深夜までの卒倒するほど激烈な仕事で忙殺されていた。そんな中でもクラシックを聴く時間は削らなかった。いま、倉庫で長い眠りについていたこのプログラムを前にして本当によく頑張ったねと自分をほめてやりたい気持ちで胸が熱くなっている。長女が産まれる3年前、日々そんなであった僕を取り扱っていた家内はライオンを家で飼うより大変だったに違いない。深謝だ。
ポリーニを聴く3度目の機会はそれから約1年がたった1985年の10月14日にやってきた。やはりロイヤル・フェスティバル・ホールでのリサイタルで、曲目はJ.S.バッハの生誕300周年を祝う「平均律クラヴィーア曲集第1巻全曲」であった。ポリーニは遠くにぽつんと見えたから一階席右奥だったと思う。これはかつて経験した最も重要な演奏会のひとつであり、音楽というものに限らず、あの日をもって人生が変わったとすら思わしめる重大なメッセージを頂いた。それがバッハの音楽から発したのかポリーニその人の強靭な精神に発したのかはわからない。弘法大師が修行中に洞窟で、海に昇る朝日が口に飛び込んで開眼したと語ったのはこんなものだったのだろうかという種の、他では一度もない何物かを僕は頂いたのだ。似たものはバレンボイムによるリストのロ短調ソナタ、リヒテルのプロコフィエフの一部にも感じたことはあったが、この日は全編にわたって身体が金縛りのようになり、帰宅の途に就いたウォータールー・ブリッジのとば口まで来ても言葉も出ない呆然自失のままであって、中古のアウディを走らせながらハンドルが切れなくなる恐怖があって初めて声が出て家内にそう言った。その場面が、映画「哀愁」の舞台となった暗い橋梁をのぞむ写真のように目に焼きついている。一台のピアノからあれだけの「気」が現れる。それは言葉ではない啓示になって自分でないものを生む。僕は授業を受けている何でもない日常のある時に、先生の板書の数式と文字がとても美しく見えた特別の瞬間に出会い、どういうわけかその日から突然に数学の難問がすらすら解けるようになった。あれは何だったのかいまだに不明だが、そういうものを啓示と呼ぶのだろう。ポリーニは平均律第1巻を2009年に録音している。彷彿とさせる演奏だが、もう啓示はない。あれ以来、平均律は僕にとって特別の音楽となり無闇には聴かない。幸い弾けない。グールド盤を何度か聴いたが、板書の数式に先生の顔が透けて見えるというのはいけない、そんなものではできるようにならない。よって最近はますます遠ざけるようになってきている。
ポリーニをきいた最後はボストンから10年の月日がたった1994年5月21日、ベルリンのフィルハーモニーで行われたベートーベンのソナタ全曲演奏会の一日だった。僕は人生で最初の管理職ポストである野村バンク・ドイツの社長に就任した翌年の39歳、ふりかえれば、息子が生まれ、人生で最も楽しく、最も希望に満ち、最も輝いていた年だった。勤務地のフランクフルトから1週間の休みを取ってベルリンに滞在し、家族を動物園に連れて行ったりしながら、これも一生ものだったブーレーズの「ダフニスとクロエ」(5月24日)も聴いている。そしてその翌月、6月28日に、もう一度ベルリンまで飛んであのカルロス・クライバーの伝説のブラームス4番を聴いた。それまでの5年、目の前が真っ暗になるほど辛いこと続きだったが耐えた、そのご褒美を神様が一気にくれたみたいな年であり、「禍福は糾える縄の如し」の諺がこれほど身に染みたことはない。
プログラムが手元にないがメインは29番ハンマークラヴィール・ソナタであった。52歳でキャリアの絶頂だったポリーニを正面間近に見る席だ。この席であったからわかったことがある。ブラームスと同じ変ロ長調の和音が深いバスの ff に乗ってホールに響き渡ると、再び言葉にならない呪縛を受けた。当時の僕はこのソナタが何かを知っておらず、さしたる期待もなく聴いていた。さすがのポリーニも一筋縄でいかない。そう見えたがそうではなかった。おそらく、弾くだけなら流せるものを、彼は渾身の重みを込めて打鍵して音楽に立体感を造り込もうとしている。すると、巨大かつ適度に湿潤な音響空間であるフィルハーモニーに、なにやらパルテノン神殿の幻影でもあるかのような壮麗な建造物が現れる感じがして、かつてどこでも聴いたことのないもの、あえて比べるなら、1970年の大阪万国博覧会でドイツ館の天井の無数のスピーカーを音が疾走したシュトックハウゼンの電子音楽が現出した聴感による立体感を味わった。このソナタはシュトライヒャーとブロードウッドという楽器の進化過程に関わるが、問題はどのキーが弾ける弾けないではなく、進化によるサウンドの変化がベートーベンに与えた創造のモチベーションだ。それが何かを僕は知らなかったが、この体験は天才の宇宙空間的規模の三次元スケールの創造だったと確信している。それは音が10度まで集積する重層的展開によったり、主題変容の構造的ディメンションの拡大によったり、複合された主題の中から単音で別な主題を紡いだりする、モーツァルト以前では想像もつかない複雑な手法で楽譜に織り込まれている。3つ目の手法で第3楽章Adagio sostenutoに透かし彫りの如く聴きとれる4つの音列をブラームスが第4交響曲の冒頭主題にしていることは何度も書いたが、それはこの演奏から聞こえてきたのである。
ポリーニは米国でのインタビューでこう語っている。
「自分が関係を持ちたい作品、一生の関係を持ちたいと思う作品を選びます」「わたしはピアノの楽曲を知ることを真摯に考えます。だから自分が好きなものについて、非常に強い思いがあるんです。わたしがとても好きな曲は非常にたくさんあります。でもどれもが自分の人生のすべてを捧げたいというわけではないですから」
演奏会そしてレコードでのバッハ、ベートーベン、ブラームス、シェーンベルク。どれも僕の中に一生残る強いものだった。20世紀最高のピアニストへの最高の敬意と謝意をこめ、本稿を閉じることにしたい。
ご冥福をお祈りします
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僕が聴いた名演奏家たち(小澤征爾)(3)
2024 FEB 14 2:02:47 am by 東 賢太郎
小澤は1973年にボストン交響楽団の音楽監督に就任した。これは当時でいうと38歳の日本人がIBMかGMの社長になったようなもので世界を驚かせた。シカゴ、トロント、サンフランシスコ、ロンドン、パリの楽団での活躍は(普通の日本人ならそれだけで勲章ものであるが)結果的に修行時代だったことになる。
言うまでもないがアメリカは徹底した競争社会で、だめなら1年でクビというドライな国である。交響楽団は都市の顔であり文化財でもあり、そのマネジメントはビジネスでもある。音楽監督になったのはなれる実力があったから、それ以外の何でもない当たり前のことだ。僕が偉業と体感するのはそのポストを29年保持したことのほうだ。
アメリカで学位を取った方はご承知のとおり、学生として卒業するだけでも尋常ならぬ勉強量だが、指揮者はいわば教壇に立つ側だ。生徒にあたるのが海千山千のボストン響楽員や我儘な著名ソリストであり、英語もままならぬ東洋人というと偏見どころか堂々と差別された時代である。綺麗ごとなどで済むはずがなく、測り知れないご苦労があったと拝察する。
ただボストン響はモントゥー、ミュンシュなど非アメリカ人がポストを占めてきた楽団で、小澤の次のレヴァインが初のアメリカ人だ。欧州コンプレックスがあってジョンやボブよりセイジの方がいいと言ってる人もいた。1962年にロス・フィルがインド人のズビン・メータを起用したのが時代の先鞭だったかもしれない。とはいえ、力がなければあっさりお払い箱の国である。
小澤のボストン時代のひとつのメルクマールが「グレの歌」であることに異論は多くないだろう。1979年4月、Deccaによるライブ録音で、オペラが弱点とされた評価は覆った。この作品を27歳で書いたシェーンベルクの才能を知ったのもこの録音だったが、初演を振ったシュレーカーを思わせる煌めくような管弦楽法の魅力は小澤/BSOの面目躍如。この曲はブーレーズよりも小澤が好みだ。トーヴェ役の故ジェシー・ノーマンはこの数年後にフィラデルフィアで聴いた。旬であった暗めの声はまさに圧倒的であり、これを聴くにつけ、ドイツ音楽への進出を企図してBSOのヴァイオリンの弓使いを変更させまでした小澤の視線の向こうにはカラヤンが、そしてバイロイトがあったかもしれないと思えてくる。
この演奏会のビデオがyoutubeにある。
ソロ歌手6人、8部の混成合唱団、オーケストラ160人、スコアは53段ある。これをこの場で暗譜で振るのはなかなかだ。猛勉強プラス度胸。これが並の人でない。指揮者の譜面台にスコアでなくシェーンベルクの顔写真が置かれている。守り神かもしれない。この演奏会への小澤の意を決したコミットメントを見る。
27歳。シェーンベルクがこの曲を書いた同じ年齢で小澤は「N響事件」に遭遇している。https://kadobun.jp/trial/7yvc7ck28ls8.html
大変な試練だったろうが、これがあっての「世界のオザワ」だったのだから万事塞翁が馬だ。おこがましいが、僕も欧米発の証券業を5カ国で16年やった。帰国して軋轢がなかったといえば嘘になる。音楽界のCAMIのようなマネジメント会社はないが売り込んでくれるヘッドハンターのおかげでポストをもらった。どこの業界も同じだ。問題はそこで何ができるか。小澤さんの人生には凄みを感じる。
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僕が聴いた名演奏家たち(小澤征爾)(2)
2024 FEB 12 19:19:01 pm by 東 賢太郎
最初期に買ったレコードのひとつが小澤征爾 / パリ管のチャイコフスキー4番だ。高校2年である。もちろんカネはない。オーマンディ盤が1500円で大いに迷ったものだが、なんのことない最後はジャケットで決めた(左)。弱冠35歳の日本人が天下のパリ管を従えている!カッコいい!このイメージはサブリミナルにすりこまれたと思う。そして、業界は違えど、僕も38歳でドイツ人70人を従えて写真みたいになった。2000円払った甲斐はあった。
EMIの音はあまり好みでないが、このLP、いま聴いても非常に音が良い(1970年10月22,23日, Paris, Salle Wagram)。録音をそう評するのも妙なのだが、なんというか折り目正しい品格がある。それはまず指揮がそうであって、若手の4番によくあるパターン、即ち、情に走って陰陽の起伏をつけて暴れまくり、悲しみの極でうちひしがれ、諦めから激情の大爆発までを描ききりました、ご苦労さん、という風情では全然ない。どこか視点が静的なのだ。爆発や沈静はスコアにまかせつつ、フレーズは息づき、デリケートな最高のセンスで歌い、情熱と気迫をこめて燃えるべきところは燃え、夢想するところは夢想して不足ないままに高い集中力でもって内奥に潜む隠された美を毅然と見据えている観がある。こんなに整っていながら満足感を与えてくれる4番はその後も聞いたことがない。
小澤が煽っているのは定番である終楽章のコーダだけで、それもロシアの指揮者がよくやる大仰で土俗的な感性とは程遠い。ああいうのは僕はだめだ、下品とまでは言わないが、聞いているこっちが恥ずかしくなる。チャイコフスキーもロシア人であり、そういう部分を持っていないことはないから何が4番のお薦めかと聞かれても好みの問題でしかない。ちなみに第3楽章も性急なテンポでスペクタクルにしようという体の浅知恵は微塵もなく、むしろ遅めであり、アンサンブルを音楽の美に十全に奉仕させることに意を用いている。この辺は日本人の節度と繊細で奥ゆかしい良さが出ているのではないかとも思うが、小澤は真摯にスコアを読み本質だけを大事にする音楽家なのだと思う。想像だが指揮技術に対してもしかりで、ミュンシュのパリ管は動的で縦線が揃うイメージが全くないが、小澤はそのアンチテーゼを目論んだのかと思ってしまうほど整然としたアンサンブルを重視しているように聞こえる。
アバウトになると目も当てられない4番で斎藤秀雄仕込みの技術の冴えを顕示したかもしれない。1970年というとサンフランシスコ響の音楽監督に就任した年だが、彼は欧州のポストに気があったのではないか。この4番はベルリン・フィルやシカゴ響に比べれば木管の音程や緻密なアンサンブルに注文はあるものの、パリ管のロシア音楽としては大いに魅力がある。現に僕はすぐ飽きる大暴れの演奏は二度ときかないがこれは時々取り出したい誘惑を覚える。ブザンソンでデビューした彼にとってパリでの評価は自信もあったろう。だからEMIも親和性のあるロシア物(1972年にこれも素晴らしい「火の鳥」をパリ管と録音)で売り出しを図ったと思われる。その証拠に彼のEMI録音にドイツ物はなく露仏米+東欧だ。当時、パリ管は奥方がフランス人モデルであるカラヤンが仕切っており、結局1972年にショルティを音楽監督に迎えた。結果として小澤はスタインバーグの後を襲って1973年にボストン響のポストを得るわけだが、DG所属となったことで肝心かなめのドイツ物が加わり音楽監督としての全レパートリーを手中にして29年の君臨ができた。彼は運も持っていた人だった。
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僕が聴いた名演奏家たち(小澤征爾)(1)
2024 FEB 11 11:11:38 am by 東 賢太郎
長いことご病気ときいていたが、とうとうこのタイトルを書かされる日がきてしまった。急な出張で京都に一泊し、2月9日に静岡に寄った。悲しいニュースを知ったのは帰りの新幹線が新横浜に着くころだ。2月6日というから東京は雪だった。ご自宅は成城らしいから同じ国分寺崖線のうえで我が家から遠くない。そういえば小澤さんも成城学園の先輩であり、田村正和さんはバスケットボール部だが彼はラグビー部だった。学校のあの景色が好きな人が多い。
最後にお姿を見たのはサントリーホールで、たしか2006年、ユンディ・リとのラヴェル、そしてチャイコフスキーか何かだったかと思う。あんまり覚えてないのは、僕にとって小澤さんというと、なんといってもあの若かりし頃のシカゴ響やトロント響とのシャープで運動神経抜群でエッジの立った快刀乱麻が強烈だからだ。僕自身、近現代物からクラシックの森に入っていった人間なのでどうしてもその辺のレパートリーに来てしまう。ウィーンに行ったあたりからの重鎮ぶりを知らないわけではないが、「世界の」がついていた頃の日の出の勢いがオーケストラに伝播してただのきれいごとでない音楽が生まれてしまう若々しい熱量というものは、本質的にそのままの形では大御所的になりにくいものがあった。僕はウィーンという街も歌劇場もウィーン・フィルハーモニーも大好きだが、政治と商売の “ウィーン” は嫌いだ。
はっきり目と耳に焼きついているのは1984年2月に本拠地ボストン・シンフォニー・ホールできいたシェーンベルクの協奏曲(Pf.マウリツィオ・ポリーニ)とR・シュトラウスの家庭交響曲だ。たぶんウォートンの期末試験が終わってのことだったのだろう、家内とハーバードの友人の家に遊びに行った折に幸運にも遭遇した二人の旬の競演は手に汗握った。小澤の手にかかると普通は混濁してしまう不協和音までが透明だ。彼はピーター・ゼルキン(CSO)と、ポリーニはアバド(BPO)とシェーンベルクの協奏曲を録音したが僕は断然前者を採る。シカゴ時代の小澤は無双無敵で、5年ほど後にジェームズ・レヴァインが同オケでやはり若々しいタクトをふるうが近現代物に関しては小澤を凌駕する者なしだ。
ルトスワフスキの「管弦楽のための協奏曲」(CSO)は見事な一例である。生まれてまだ16年の同曲のスコアから多彩な生命力と色彩をえぐりだす。それに米国最高峰のオーケストラが敏捷に雄弁に反応する。これを読譜力などという干からびた言葉で形容して何の意味があろう?
小澤征爾はバーンスタイン、ブーレーズが録音しなかったトゥーランガリラ交響曲を1967年に録音した。これの重みは増している。この曲、いまや春の祭典なみにポップスとなったが当時は現代音楽であり、その過程を僕はつぶさに見てきている。こういうことで、自分が「あの時代の生き証人」として未来の人に見られると感じるのは、プロコフィエフの権威であるプリンストン大学の学者さんに我がブログが引用されたからだ。書いておくのは意味があろう。トロント響はCSOよりアンサンブルが落ちるが小澤の若さ炸裂の前には些末な事実になってしまっているという意味でもこれは出色の演奏であると評しておく。今もってそれだけ規格外の指揮ということであり、立ち合ったメシアンがそれを気に入ったから32歳の日本人に北米初録音が託された。これが歴史だ。
かように小澤征爾の指揮は一言で形容するならinspiringである。なんたってメシアンまでinspireしたのである。この英単語は一週間前の2月3日に書いた前々稿(「若者に教えたいこと」を設けた理由) にまったくの偶然で書いているが、僕自身にとって人生のキーワードみたいに大事な言葉だ。いま、こうして若者・小澤征爾を聞き返し、またまた大いにinspireされ、改めて彼を好きになっている。
ベルリン・フィルハーモニーでのオルフ「カルミナ・ブラーナ」のビデオはだいぶ後年(1989年12月31日)だが、54歳でも若者だ。速めのテンポにBPOの奏者たちが乗せられ自発的に反応しており、全盛期のキャスリーン・バトルも気持ちよさそうに歌って楽員たちが聞き惚れている。それが理想の指揮でなくて何だろう。この曲の最高の演奏のひとつである。
軽めの急速部のテンポが速い。これは思慮のない効果狙いの無用な速さではなく音楽の生理的欲求と奏者の肉体的限界とのせめぎあいでぎりぎりのところに成り立つ究極のテンポであって、それを小澤は計算というよりも蓋し本能的に成し遂げている。奏者たちはその快感に引き込まれて火がつき、己の肉体の限界をも越えようかというパフォーマンスを発揮している。即ち、この演奏者あってこそのまさに一期一会であって聴衆には途轍もなくスリリングだ。
そうしたことまでが斎藤秀雄に習った指揮技術なのかどうかは素人に知る由もないが、とにかく技術なくしてコンクールで優勝するはずはない。ただ、僕が感じ入るのは、英語もできずスクーターで単身ブザンソンに乗りこんで、それでいきなり優勝した人だという事実だ。もぎとったその結果の方である。それこそが何物にも代えがたい彼の才能を雄弁に語っている。そもそも、成否はともあれ今も昔もそんなことをしようと企てる日本人が何人いるかということだ。それだけでもレアな人なのだ。技術は大勢に教えられる。しかし、inspiringであることは持って生まれた資質であって教えようがない。だから小澤征爾は他に出ようがない。そういうことだと僕は強く感じる。だから彼は指揮者に向いていて、だからそれになったのだろうし、大成もした。それが宿っている彼の音楽が聴く者の心を揺さぶるのはもっともなことなのだ。
(続く)
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