3泊4日で韓国行ってたもんで・・・
2026 SEP 12 0:00:10 am by 東 賢太郎
飛行機は7年乗ってない。元から嫌いなうえパニック障害ありで、よくそれで海外部門がつとまりましたねと不思議がられる。思えば証券界でそんな人間は見たことないし、むしろ好きな連中が多い。昔のパスポートを全部引っ張り出してみると、乗ってる乗ってる、全部のページに所狭しとイミグレーションのスタンプが押してあって気が遠くなり、数える気も失せた。最後はオーストラリアのケアンズだ。 10時間ぐらいかかるが、娘が一緒だったのと、ナイトフライトだから酔っ払って寝ちまえばいいと思い切ったのだった。
この度乗ったのは、野村証券のロンドン仲間との韓国旅行だった。ソウル、済州島だからフライト時間は短いものの3度も離着陸があり心やすくはない。仕事は立て込んでいるがこの仲間はことさらの戦友だ、楽しくないはずがない。よし飛行機は我慢して行こうと決意した。こういう場合、僕には問題が2つある。ひとつ目が荷造りだ。たった3泊なのにあれもこれも必要となって収拾がつかず、最後は必ず家内にお任せになるのだが、ロックした後もあれ忘れてないかこれあるかなと心配でならない。綺麗に整ったスーツケースは行った先で開くとめちゃくちゃになり、翌日戻そうとするが、何も増えていないにもかかわらず、入らないのである。
ふたつ目に集合時間というのがある。出発は羽田9:20だが万一の場合にそなえ7:30に来いとラインが来た。過去の習性からこれは僕を念頭に置いてると思われる。現地においても、ホテルの部屋で各自が休憩して昼食は何時、バスの出発は何時なんてのがガイドさんから伝達されるが、覚えてもすぐ忘れる。そこは長年のことだから心得ていて、手元にある適当な紙片に場所と時刻を書き留めるのが習慣化しているのだが、休憩中にいざそろそろとなって部屋でそれを探すと、紙片が見つからないのである。せっかく整えた荷物をまたひっくり返し、やがて思いもよらぬ所で発見して記された時間を見ると、たいがいが今でしょなのだ。
3泊4日のスケジュールで一番心配だったのは体重である。 79キロだったのがダイエットで74キロになってる。現地で出されたものは残すと失礼だし、それ以外のものは口にすまいと肝に銘じたがいきなりチョンボをしてしまった。朝7時半なんて早朝に出てくることは年に何回もなく頭がボーッとしており、ラウンジで「JAL名物です」と勧められたカレーをうっかり食べてしまった。機内に入ると大韓航空のビジネスは2-2-2でセミファーストのスペース感がなかなかよろしい。これで2時間、パニックは大丈夫そうだと安心すると、そういえばKALのビビンバは旨かったなとランチに注文し、完食してしまった。
もう10年近く行ってないインチョン空港にランディングした。何度ここに来たことか。色々あった。目の前に走馬灯とはこのことだ。ソウル市内で調印した契約書の不備を見つけ、作った韓国の弁護士の目の前でビリビリ破り、ビビった彼はここまで見送りに来たっけ。なんて野蛮な人間だったんだ、悪いことしたなぁ元気かなあいつと考えていた。空港のレイアウトはずいぶん変わっていて中国からの便も着いたり大混雑だ。やっとイミグレにたどり着いたと思ったら、「やばい入国カード書いてないぞ!」と前の仲間が騒ぎ出す。僕が書いてるはずない。おい参ったな、いらなくなったのかと思ってたよ、あるのも忘れてたよ、ペンねえか、まあいろいろ声はあったがまるで施設の爺さんの慰安旅行である。
到着口で何人かが出迎えてくれ、ミニバスに乗るとスハドンなるソルロンタンの店に着いた。何とランチだという。まいった。カレーにビビンバときて昼時にして3食目だ。ところが名店の威力はおそろしいもので食べられてしまうのである。蚕室(チャムシル)のロッテワールドタワーまでは半端でない渋滞で1時間半かかった。窓から眺めるソウルの街並み、人の群れ。ああ、一人当たりGDPで抜かれたんだなあと見えてしまう気持ちがうら寂しい。日本語ペラペラのガイドさんに「ロッテワールドタワーは123階建てになっております。ホテルはその中にあるシグニエル ソウルでございます。90階のお部屋をご用意しております」と言われ何も考えずにはいと言ったが、エレベーターに乗ってもなかなか到着しない。そうか池袋のサンシャインのてっぺんから30階も上なんだ。
部屋から外を見るとこんな感じで、こいつはその昔、マンハッタンでエンパイアステートビルから見てぞっとふるえあがった景色だ。高所恐怖症なんで。そうでない方にとって、このスケールのパノラマを体験できるホテルとなると、世界広しといえどそうはない。
お子ちゃま連れのファミリーにとっては、すぐ隣にディズニー風の遊園地であるロッテワールドがあるから最高だ。僕らも連れて行かれ、 7月にオープンしたアトラクション「ゴジラ x コング: THE RIDE」をご体験くださいということにあいなった。(帰国して探してみたがオフィシャルトレーラーはこういうもので、撮影厳禁らしく我々が体験したものとは違う)。
こいつはおすすめだ。アメリカで流行のイマーシブというやつで日本語では没入型エンタメなんて呼んでる。大人だって爺いだって「没入」できるが低学年の子にはちょっと怖いかなぐらいのところだ。学生時代にアナハイムで初めてスペースマウンテンに乗った時の怖さに似てる。ロッテワールドは入場料6700円とのこと。これも含めて乗り放題はリーズナブルだろう。
6時頃になって、いよいよこの日の4食目!である。国賓
をお連れするという三元ガーデンなる老舗は予約が取れないので有名らしい。高級な韓国料理は小皿の数がすごい。自分で注文しないので何が出たのかよくわからないが、野菜が多いので満腹にならない。僕は韓国料理は食べたことないものはほとんどないが、ここは食材も調理法も味付けも普通じゃない、とにかく何を食べても美味である。アックジョンにある。ソウルに行ってここで食べないのは意味がない。
この旅行に特別の理由も秘密もない。なんで招集がかかったかも知らない。幹事のKから「来れますか」と2か月前にラインが入っただけだ。入社年次の幅が8年ある8人。ロンドン会と名はついてるが利権があったりいやらしいサラリーマンの寄り合いみたいなものは微塵もない。全員がお互いを深く深く知っている。それも昨今がどうのではない、僕が30代の前半だったロンドンの1984年から90年あたり、同じ職場で日々ピリピリしながら早朝から夜中まで毎日100億円のノルマをこなしていた全盛期の野村證券トップの営業軍団だ。ということは証券界のトップであり、この8人こそマーヴェリックだと書いて反論できる者は1人もいない。たとえは古いが、V9巨人軍のレギュラーメンバーだけのOB会みたいなもの。ちなみに5人はその後上場企業役員、 2人は企業グループオーナーになっている。
翌日になった。済州島に移動する。日本はずっと雨の予報でたぶん台風の余波は韓国にも来るだろうからゴルフはだめだなと諦めていた。ところが、ソウルから1時間15分の大韓航空機で到着すると、何のことない快晴だ。プレイは明日の予定だったが天気が読めないから晴れてる今日やっちまおうと予定を変えてもらった。スカイヒルCCは米国のゴルフコーストップ100のうち
13のコースを設計したロバート・トレント・ジョーンズ・ジュニア設計の名門コースである。いきなり「今日やらせろ」なんて馬鹿野郎ものだが、それが難なくできてしまう。「世の中って不公平にできてるよな」、辛口ジョークのIさんが笑わせてくれる。それはよかったのだがここで僕は異変を察知する。パットが入らない。グリーンがどうの芝がどうのではない。18ホール中ワンパットはなんと1度きり、あとはほとんどスリーパットの111。こんなの人生初で、ははあ俺はガチャ目なんだと気がついた。右目はなんとなく曇っていて距離がおかしい。眼医者行けといわれるが行ってる。まあショットもめちゃくちゃだったから下手になってるだけかもしれないが、去り際にコースに「申し訳ありません」と頭を下げた。こういう時いつもそうする。高校球児だからグラウンドに入る時と出る時は礼をする。僕にはゴルフの神様と野球の神様がいるのだ。コースは何もしない。悪いのはいつもお前だよって言われる。
クラブハウスでもらったロッカーのナンバーが226だった。神様の啓示かな、気になるな。そう、これを書いてる今日は911だ。あの日、赤坂のチャイナクラブにいて、日本語カタコトの女の子がすっとんできて「飛行機がペンタゴンに落ちました」なんて言う。はっ?お前なに言ってんの?大丈夫か?でも周りの席もザワザワしだしたのですぐタクシー呼んで代沢の家に戻ると家内も大変よだ。226ってのはそんな感じか。そうか、これか、パット入んなかったの。ホールアウトして、ホテルは近いからシャワーはそっちでとなった。ロッカーめがけてつっ走った。なぜかというと、とにかく僕は幼稚園の頃から着替えや荷造りが遅いので有名だったのだ。人の2倍はかかる。手が不器用。どんくさい。ビリでなかったことはない。ロッカーの番号を忘れて騒ぎになるぐらいのことは日常茶飯事だが、それだけは助かった。226のおかげだ。
翌日も済州島はあっけらかんと晴れだった。日本は集中豪雨らしい。まあ俺は晴れ男だからねというと、俺も俺もである。これだけ傲慢な人が集まると雨も逃げるのだろう。「今日もやるか」。長老の超アクティブな提案は多数決で却下された。みんな足腰が疲れて観光の方がよかった。それではと準備してくれ、小学生の遠足みたいにミニバスに乗り込んだ。「済州島はあんまり台風来ないんですよ」とガイドさん。「そうか、じゃあ9月はまた来るべきだね」「カジノで勝てば旅費も出るからね」。証券マンは常にオプティミスティックだ。僕は海岸のテラスでワイン飲みながらぼーっとしてミステリーでも読んでたいな、一週間ぐらいと思ったが口にはしなかった。
バスは島の南側を東へ1時間ぐらい走る。お昼は地元のおばあちゃんがやってるカルチワンというローカルな郷土料理店だ。島の名物である太刀魚料理が売りだ。こいつは房総半島の方で釣ったことがある。「夜明け直前の15分ぐらいしか食いませんから」と言われ多少の釣果はあったが、確かに日の出とともにパッタリあたりが消えた。持って帰ったがさばけないのでもったいなかった。本場の塩焼きとご飯で食うと、ちょっと骨っぽいがうまい。あてのキムチが4種類も出てきて味が違うから飽きが来ない。赤くないやつが酸っぱくて格別においしい。乳酸菌発酵はまちがいなくお腹にもいいだろう。こういうのは都会でなく田舎の知恵であり、そこに来てリアルに味わえるなんて貴重な体験だ。ソウルの洗練に対する素朴。どっちがいいかなあ。
「済州民俗村」は昔の漁村を再現したものだ。そういや小学校のとき修学旅行で明治村ってのに行って、なんにも覚えてないが結構いいなと思った記憶だけある。そんな感じか。海が近いので海女さんがもぐって魚貝を取ってきて、人間のこやしを豚が食ってその豚をまた人間が食った。海のエネルギーを人と豚でリサイクルしたってわけだ。なんのてらいもない素朴さがいいなあと大好きになった。女性が強いんだろうけど、やさしそうだ。泥棒もいないらしい。島だからすぐ捕まるってのもあるが、そんな悪人いないんじゃないか。だって昔にここに生まれて育ったら悪だくみして人の富をかすめとろうなんて思わないよ。
日本もこうだったんだろうなとほのぼのした。韓国語は全然わかんないけど、語感やイントネーションはそっくり。ちらっと聞こえてきて、あれ日本人かな、と思うほかの外国語を僕は韓国語以外にひとつも知らない。写真の女性はお人形さんだろうけど、ぜったいにやさしいな。
島の最大の観光地はこれらしい。城山だ。韓国本土にも火山由来の地形はあるらしいがここは顕著だ。 5000年前に噴火でできて180m。登れるらしい。

ちょっと疲れてる。ガイドさんたちが気を利かしてくれて近くの広々したモダンな喫茶店にしけこんだ。 若者ばっかりで爺いの遠足が入ってくのは気が引けたが、お付きの皆さん、スケジュール外のことも交渉してくれたのか奥まった席にゆったりと陣取れたのである。コーヒーで30分ぐらいリラックスしただろうか、これからホテルの方に戻ってクルージングですという。
といっても大きめの幅でマストのついたヨットみたいので少しだけ沖に出る感じのようだ。風が強いのか、揺れが半端じゃない。波でせわしなく1m以上ギッコンバッタンあがったり下がったり。立っていたほうがマシ。膝を使ってスキーのスラロームでこぶをなめてる感じで揺れを吸収していると酔わない。座ったまんまで船と一緒に揺れてちゃダメです、そうした方がいいですよと声をかけるがみんないうことを聞かない。やがて船酔い組が出てきた。それ見たことか。やがて船は沖に出たんだろう、釣り竿が 5、6本出てきてみんなで糸を垂らす。おんなじようなことをミクロネシアのチューク島でやってオケラだったよな、餌もついてねーしここもそれだろ。
2、30分トライしたものの案の定である。すると我々が飽き飽きしてきた雰囲気を察したのだろう、船員のお兄ちゃんたちがやおら動き出し、まな板に包丁で何やら魚をさばき出した。あれ、彼らが釣ってくれたのかな?「どうぞ食べてください」。船室の中に入ると大皿に白身の刺身と醤油が用意されてるではないか。「これなに?」「ひらめです」長老がちょっと苦々しげに口を開いた。「東、スーパーで買ってきたやつだよ」
ひらめは美味だった。「あいつら手あらってねえからワサビたっぷりつけろよ」。先輩方は引いてしまったもんだから僕が半分ぐらい食った。乗り物酔いはしないし、少々のものを食べても平気。胃が強いんだろうな。
いよいよ最後の晩餐だ。済州島のもうひとつの名物、黒豚のサムギョプサルである。あまりにあれこれ我が儘で予定を変えたものだから、お店の予約はしてなかったらしい。この辺いちの人気店と聞くトンサドン西帰浦店に着いたが満員みたいだ。どうなるんだろう。しばらくして女主人にどうぞと招かれ中へ入ると、 奥まった部分のテーブルががら空きだ。「貸切ってくれたみたいですよ」とYがささやく。さすがにすごい政治力だ。着席するとすぐ、一辺が 20cm以上ある立方体の肉塊が運ばれてきて、これをお料理しますと見せられる。それを網の上に置き、サイコロに切り分けてくれる。同じ網の上にアワビとニンニクをつけたオイルも乗って熱々になり、それにひたして肉を食べる。至福の時とはこのことだ。
今回は贅沢をさせていただいた。時間をかけたのはゴルフだがそれがメインだったというわけでもなく、とにかく朝昼晩8人が揃ってあーだこーだやる。当時のもっと上の上司ネタなど大人気だ。「Xさんとアムス外交に行くとさ、ホテルの前に直行するのよ、でも部屋がひとつしか空いてなくてさ・・・」なんて具合で、えっ?あの泣く子も黙るXさんがですか!!なんて具合で大爆笑で盛り上がる。
みんな気持ちはあの頃だ。とにかく朝早くに課長が決めた100億円をその日の夕方までに全部売り切らないと家に帰れないのだ。皆様には何のことやらさっぱりわからないだろうが、シティーの並みいる機関投資家連中が血眼で巨大な日本株ポートフォリオを組み始めた時代だ、彼らに100億円の株式を売りさばくなど驚くほどのことでない時代だった。「今日はKのおかげで助かったな、早く帰って久しぶりに女房とメシ食おうぜ!」なんて涙ぐましいことになるわけだが、「全部売り切らないと帰れないんだよ」といくら口酸っぱく説明しても、一般の人である奥様方には誰も理解されてなかった。
各人の売り上げは営業場の奥にあるホワイトボードに都度都度に書き出される。今日誰がどの株をいくら売ったか一目瞭然なのだ。出来が悪いと「馬鹿野郎何やってんだ」と上司に万座で罵倒される。シティは狭いから訪問セールスもする。帰社すると「どうだった?」と注目される。電話セールスがうまくいって決まると、自分でホワイトボードに銘柄と株数を書き込みに行く。お昼までに何も出てない日などほっとする。お客さんは英国人だから18時には帰宅する。それまでにオケラだと針のむしろだ。そういう日が続いてしまう人はだいたい次の定期異動でロンドンからさよならだ。ノイローゼになってしまった人もいるし、半年で別の部署になんてこともある。プロ野球の一軍ベンチさながらであった。
ということで、昼間にワンショット100億級の注文を取れば満塁ホームランだ。夜の10時を過ぎてまだ残っていると全員がお客さんの自宅に電話をして買ってもらう。これはスクイズだ。とにかく何でもいいのでやり切れば全員が解放されて帰れる。だから最後の1点をもぎ取ったのが最年少だろうがなんだろうがヒーロー。サンキューベリーマッチで電話を置くやいなや全員がスタンディングオベーションだ。でも明日はまたゼロからやらなくてはいけない。これを毎日毎日、 5、6年も一丸となってやった。常に新しい情報を仕込まないとオックスブリッジ卒のお客さんに相手にされない。常に勉強だ。辛いこと8割、でもホームランを打ったりヒーローになったりで2割は格別に誇らしい快感も味わえる。
野村証券だからといって全社がこんなだと思ったら大間違いだ。国内の連中にこの話をしても誰もわからない。海外に出たことない奴は海外は遊ぶとこだと思ってる。そんな奴らと同じ土俵で評価されるのは不愉快極まりなかったが鍛えてもらったこっちは70になっても職があり奴らは年金生活者だ。元オーストラリア大使の山上信吾氏の著書を読んでいたらまったく同様のことが熱く語られている。外務省に入りながら大使に一度も出ず、本省キャリアだけで政治家に媚を売って事務次官になる奴が続出してる。これを馬鹿野郎と言ってる。わかるわかる。同じ気持ちで僕も飛び出してみずほ証券へ行った。当時の野村から見れば銀行系証券は野球なら独立リーグみたいなもんだ。でも「海外の奴」は国内に戻ってきたら国内の奴など根こそぎ押し倒せることを見せつけてやった。そのみずほ証券はいまや立派なプロ野球球団だ。実に痛快なことである。
以上が事実だから自慢でも何でもないし、ただのファクトだから自分史を書こうと思ったら書かざるをえない。こんな素晴らしい旅行をさせていただけるのも、ご指導ご鞭撻を頂いた大先輩がたのおかげである。いただいてるご恩の方がお返ししたよりずっと多いからもっともっとやらなくちゃいけない。人と人の関係は人の数だけあるが、僕は人との出会いに恵まれてたと思う。なぜならこんな人生を歩める能力なんか自分にはないからだ。ロンドンにいた頃はこれは実力だ、俺は能力あると疑ってもいなかった。あのまま勘違いしてたら人生終わってた。それに気づいたのは失敗して天狗の鼻をへし折られたからだ。失敗はチャレンジしたからあった。そしてチャレンジは自信があったからやったのである。「禍福はあざなえる縄のごとし」とはよくいったものだが、自信と失敗もまさに縄の如しだ。若者は自信過剰ぐらいでちょうどいい。
ではその逆だとどうなるか?なんにも自信のない人はなんにもチャレンジしないから失敗もしない。失敗しないことを是とする文化からは何も生まれない。「失敗したらどうするんですか?」「やってみないとわかんないだろ?」僕はそれで人生を渡ってきた。我が母校にこういう人物は少ない。当然だ、失敗しないほど勉強したから合格してる。そのかわり遊んでない。女も知らない。役人は金もない。そういうのが人生の損失を取り戻しにいくから裏金に手を染めハニトラに引っかかるのである。先日も、警察庁サイバー警察局サイバー捜査課長が捜査費をくすねて詐欺と背任、偽造有印私文書行使の容疑で東京地検に書類送検され懲戒免職になった。女に貢いだらしい。たった170万円で人生めちゃくちゃ。エリートの何が間違ってた?学生時代に思いっきり遊ばなかったことだよ。
楽しい時間は終わり、いよいよ成田にランディングした。雨だ。あれだこれだメールが入ってる。浦島太郎が帰ってきた。成田エクスプレスのチケットを買おうと列に並んだら、何国人だか知らないがヤンキーっぽい若いカップルが何をクレームしてるんだかいっこうに窓口を立ち去らない。おい、こっちは並んでるんだよ、あと10分で44分発が出ちまうんだ、逃すと1時間も待つんだよ。イライラする。窓口の若い女性がこれまたバカ丁寧に笑顔で対応なんかしちゃってる。ガイジンさんオモテナシのマニュアルでもあるのか上司の指導なのか、それ作ってる役人も外人の扱いなんかなんにも分かってねえんだよ、勘弁してくれよ、こんな奴らおとといおいでで蹴散らせよ。
本当にいい国だ。阿保の外人でもやさしく大目に見てくれる。俺に気があるのかぐらい思いっきり勘違いしてテイクアドバンテージするなんて当然だろ。人が食い殺されてるのに熊がかわいそうだって奴らと同じだ。オモテナシはやめろ。日本人は江戸時代から進化してない。カタナ捨ててチョンマゲ切って似合いもしない背広着てネクタイ締めてるだけだ。美しい日本を守ろうなんて頑張らなくても、100年たっても変わんねえから大丈夫だよ日本は。むしろ、こんなに俺たちが無理難題ふっかけて困らせてるのに、なんでブチ切れねえんだあの窓口の女?ってほうがいいかもしれない。不気味だからね。
世界のうまいもの(19)「鴻元食坊」のレバニラ炒め
2026 JUL 11 0:00:28 am by 東 賢太郎
レバーという食材が大の苦手でした。あのぐにゃっとした内臓の舌触りと生臭さがたまらずに泣いて嫌がったのですが、それでも食べなさいと母がめげずに何度も出してくる。半ばトラウマになってしまい、これだけは一生食べなくても悔いがないと目をつぶってむりやり水で胃に流し込んだものです。男子厨房に入らずの家で問答無用。出されたものを粛々といただく。母のルールに背向く選択肢はありませんでした。しかし無理もなかったのです。女の子と腕相撲やって負けるぐらいガリガリで虚弱な子だったのですから。
解放されたのは大学3年になって本郷西片に下宿をさせてもらってからです。台所なし。昼は生協か森川町食堂。夜も外食。最高でした。すぐ近くにあった大鵬という超庶民的なカウンターの町中華に通い詰め、ナベ振ってる職人肌のお兄ちゃんと仲良くなります。毎日好きなものを食える!フランス革命が勝ち取った自由というものの価値を知りました。そしてある日、ふと気づいたのです。選んでるつもりが実は同じものばっかり食べてることに。成長期にそのアンバランスがまずいからお袋はああしたのか。そのぐらいの物心はつく年齢でした。そうこうして半年ぐらい経ったでしょうか、今になっても覚えてるあの日が来ます。大事件だったのです。
中華料理といえば香港の 2年半で否応なくどっぷり浸かっており、もはや外国の料理とは思えない体になってます。立場上、仕事ではひと皿何万円なんで品が並びます。高級品は基本的には珍品です。だからといって毎日食べて喜ばしいかというとそういうものでもないわけです。僕は近場の町中華のてんや物であるラーメン、餃子、チャーハンで育ちました。だからB級C級の方が好きなんです。香港でも公務でない時に九龍あたりでカエルから蛇から屋台のC級メシまで何でも食べました。しかしどういうわけか肝心のレバニラは記憶にない。もう食べられるようにはなっていたので忌避したわけではありません。ひょっとしてあれはオリジナルは中国でも日本流の町中華アレンジなのだろうかという疑問は今になっても残っています。
家の近くの大岡山駅前に東京科学大学があります。東工大がこの名前になった時はちょっと気の毒かなという気がしましたが杞憂でした。今の世の中、工業大学ではなく科学大学です。日本を代表するサイエンスの学校ですから。そんなことを考えながら夕刻に一人でぶらぶらして、校門を出入りする学生さんたちを見ていると、だんだん年齢感覚がワープして勉強したいという気持ちに駆られます。ここで宇宙物理なんかやったら楽しいだろうなあ、下宿でもして2、3年どっぷりつかってなんて突拍子もない考えが浮かんで来るのです。このトシで何でと思われましょうが、シリウスやべテルギウスでなにが起きているんだろうという好奇心に10歳も70歳もない。それだけのことです。
勉強はずっと嫌いでしたが、実はそうではなく、興味ないことばかりやってきたというのが真相でした。興味のスイートスポットが何ミクロンぐらい極小の人間がそれ以外のものを専攻しても非常につらいわけです。ど真ん中にある音楽だって関心はエンジニアリング的な和声や対位法に行ってしまい、そこに「特質」がないと退屈な音楽ということになります。ところが極めてまれですが、「それがないのに面白い音楽」というものが存在し、「なぜ面白いのかエンジニアリングできない事実」に夢中にされられてしまうそれはワンダーランドかパラダイス、寝食を忘れちまう。僕にとってモーツァルトがまさにそれであります。学問にもしそれがあるとすれば宇宙物理だったかな・・・わかりにくいかもしれませんがそういう感じであります。
ある日、そんなことをつらつら考えながら大岡山駅から北に向かう商店街を歩いていたら、そうかこの辺にもアレあるかなと探す気になりました。ずっと行ってみるとえらいケバい「鴻元食坊」というのを見つけました。 60席ぐらいの大型店で町中華のイメージとはちょっと違うがまあいいか。
席について迷うことなく頼んだら、片言の日本語で「タッチパネルお願いします」と愛想なし。水もセルフ。最近はコンビニまでレジが無人になってきて、自信ないので有人の店にしか入らない僕として不如意ではありましたが、あれこれやって無事「注文する」にタッチしました。客は学生らしいグループが何組かワイワイやっており、親子連れがひと組、少し後からスーツを着た中年の男性がひとり。夕食時なのにそんなに流行ってるという感じでもありません。奥に目をやると厨房に中国人らしい料理人がふたり鍋を振ってます。日本人の街中華ではないな、こりゃダメかなとぜんぜん期待しませんでした、なにせ香港で食べられなかったという経験がありましたからね。しかも普通の店だと定食で千円はするのにここは880円です。商売柄、何でも数字で判断する癖がついてもいたのです。ところがどっこい、ひと口食べて、これは熱々のうちに全部平らげねばとうならされました。レバーという食材がこんなに旨かったとは。今さらながら母に申し訳なかったと懺悔の気持ちさえ発してきて、こんな料理を作れる人がいるのか、大事にしなきゃいけないと痛感しましたね。
昨今は政府レベルで中国とだんだん距離ができてしまったようです。そこにあれこれ口をはさむ気はありません、政治はあくまで政治であります。一方で、我々庶民には庶民の生活というものがあります。神山先生のような人は別格としても一般の方は住みにくくなってきてるんじゃないか。僕は香港に2年半いて日本人として嫌な思いをしたことは一度もないし、欧米の大衆のほうがよっぽど不愉快なことが多かったという経験があります。ですから愛国者ではありますが一概に外国人は出て行けみたいな運動には反対です。しかもこうして市井で我々の生活に深く溶け込んで貢献してくれてる人たちもたくさんいる。思いおこせばドイツではすでに90年代前半にクルド人移民問題は大きなニュースになっており、それが今の悲惨な事態に至ってます。ひとつボタンを掛け違えると根深い問題になってしまうのです。もともと外国人が多く英語さえ話せば寛容だったあのロンドンだって、生まれた男子の名前で1番多いのがモハメッドになったと、ここまでくると放置した政府に責任転化されるのかもしれません。でも繰り返しますが、あくまで政治は政治なんです。
食べ物の好き嫌いがなくなって僕は健康になりました。体も強くなりました。何が多くても足りなくてもいけません。過ぎたるは及ばざるがごとし。何事もいちばん大事なものはバランスです。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
ジャガーとテスラとビストロの美学
2026 JUN 7 10:10:37 am by 東 賢太郎
毎年5月に父母、親戚の墓参りで従妹夫婦と箱根に出向いている。運転は好きでも嫌いでもないが若いころはアメリカ西部を1700キロ走破したし、大阪時代はセリカを乗り回したし腕は悪くないと思っている。50年かすり傷一つなく無事故なのは、タバコ片手に大のクルマ好きで僕など足元にも及ばぬ名ドライバーだった母の遺伝である。海外赴任してからはロンドンのアウディでスタートしボルボに乗り換え、重い車が好きになった。ドイツ時代は社用車が銀色に輝くベンツ500で、どうしてもやりたくて自分でアウトバーンを時速240キロでぶっ飛ばしたし、スイス時代はもうひとランク上のベンツ600の運転があまりに心地よくて通勤まで自分でハンドルを握ってしまいドライバーに申し訳なかった。さすがに香港だけはこの世のものと思えぬグシャグシャな渋滞に恐怖を覚え、自分でやったら3日で事故るなと観念しドライバーにお任せした。
帰国して乗ったのがジャガーXLソブリンである。 2004年の中古にひと目惚れして買ったが、ジャガーならよいというわけではない。気に入ったのは同じXJでもその年まで製造されたモデルだけで、後年のは今に至るまで、何が悲しくてアレをこんな不細工な姿にモデルチェンジできるのかと不思議なほどどれもダメだからまさに一期一会というものである。前のオーナーはグループサウンズ「ワイルドワンズ」の加瀬邦彦氏ですよとディーラーが確か500万かそこらで売り込んだ。ほんとかどうかは知らないが、「想い出の渚」は好きだったから買った。特注のスピーカーがついてたからたぶんそうだったのだろう。
XLソブリンは1980年代初頭からのイギリスの首相専用車である。ダウニング街10番地に横付けされ、サッチャーもこれでご出勤だったはずだから高市さんは探し出されたらどうだろう。ウチのは当てられ事故で廃車になってしまったが返す返すも悔しい。ちなみに写真は去年に出ていた売り物で4.0-V8で走行距離17万キロの美品だ。日本に5千台しかなく、街の駐車場にはでかい(長い)しハイオクなうえ燃費はとても悪いがすぐ売れたろう。この美しいフォルムを前にすると魔力にしびれてそんな事はどうでもよくなるのである。レーシンググリーンにくっきりと映えるメタル部分の銀色はクリーミーで落ち着いた不思議に蠱惑的な光り具合で、これがまた他のどの車も格下に見えるほど高貴で筆舌に尽くしがたい。アクセルを踏んですぐの2.2トンの滑り出したるや、まるで応接室が油の上を移動しているような得も言えぬ質感である。一度でも味わうとぬきさし難いものがあって、これほど俺が乗るために作られたマシーンだと唸らせた車は他にない。
廃車という不幸がなかったらテスラ・モデルXを買うことはなかったから、これも出会いというものだ。2017年に買ったこいつは当時ファルコンウィングばかりが注目されたが、この車の真価は時速100キロ到達2. 7秒とランボルギーニより0.2秒速い常軌を逸した起動力なのである。ベンツ600と同じ車重2.5トンは低速だと重厚である。ところが、にもかかわらず、やや加速すると軽自動車みたいに従順に、意のままに操れる。空中をUFOがひょいひょいとあり得ないアジリティで移動するイメージであり、この物理法則を無視したのような意外感は全く予想外のもの。重力1/ 6の月面を滑走するが如しとしか表現が見つからぬ。東名で、どんなに飛ばしている車だろうが、アクセルの1-2センチのひと踏みで2、3秒でひょいと追い越せる快感はエンジン車では不可能で、それでいて普通に走ればどっしりと安定した7人乗りのファミリーカーというところがイーロン・マスクらしいコンセプトブレーカーなのだが、僕はそういう利便性とか革新性のうたい文句はどうでもよく、「運転というより操縦に近い即物的な快感」こそがこの常識破りの車に乗る喜びである。
さすがに高額であんまり売れなかったと見え、先日の車検でもう製造しないと聞いた。何年乗ってもEVは中古感があまり出ず、日本には800台ぐらいしかないからそのうちマニア向けの希少品になるだろう。EVの乗り心地は賛否両論だし、僕だってアナログ感満載のクラッチ付きエンジン車、特にあのひち面倒くさいものの替え難いメカ感にひたれるギアチェンへのノスタルジーはないではないのだが、この年齢になってこれを知ってしまうともう浮気する気がしない。オートパイロットに頼らなくても遠出の疲労感が格段に少ないからだ。車高が少し高いこともあるが、やはり従順に意のままに操れる安心感が大きく、スピードを出しても疲れないから箱根は実にあっという間である。
仙石原の翡翠が定宿になっている。この度はグルメの従妹が新しいフレンチを探してきていた。宿から徒歩の距離にある「オクトーブル」である。昼はフルコースの予約のみで夜はアラカルトというのは変わった趣向だ。温泉街は夕食は宿で取るのが普通であるという事情からだろうか。我々はディナーで訪れたが、趣味の良いこじんまりした店で堅苦しくない。フレンチとは言いながらイタリアンも適度に入ってそれはバラエティがあって結構。メニューもフランス語の仰々しいのがどんと出てくるわけでなく、ビストロであるから壁掛けの日本語である。ところが、これが細かいのだ。
まあ、どんと出てくるフランス語のメニューにはこのぐらい書いてあって不思議でもなんでもないのだが、牛ヒレ肉のロッシーニ風みたいな、もっともらしいが言ってる本人はロッシーニなど聴いたこともなく訳がわからんだろうと思わせてしまう浮ついた安物のフレンチっぽさとは無縁で、おおいに写実的、実用的であるのが良い。さらに、形容詞というか修飾語というか、品々の描写の細かさにはちょっとその辺のビストロとはわけがちがいまっせというシェフの気概がにじみ出てる気がしたのは、とにかく文字が丁寧できれいだというこれも即物的理由からだ。「これ、筆で書いたんですか」と尋ねると「いいえチョークです」という。なるほど同じものが後ろの壁にもあって、よく見比べると微妙に違うからコピーを貼り付けたものではない。すると、なにげなく、従妹の旦那がいみじくも看破したものだ。
「根岸の板書みたいだな」
これは強烈な大ヒットだった。高校は武蔵であるおないどしの彼は慶応の工学部だ。当時の駿台の名物講師陣、英語の伊藤、奥井、鈴木長十と並んで出てくる懐かしい名前が数学の根岸先生である。この人が解答を説明する板書の芸術品になぞらえるしかない美しさは半端でなく、きれいだなぁと感動した僕はその字体まで真似てノートを書いていたら突然に数学の偏差値が70になったという魔法使いのような方だったのである。
「まさるクン、いいこと言うなあ、料理も期待しちゃうよなあ」
図星だった。こんな板書をする人が手抜きなぞするはずないではないか。ビストロと称するほうが看板に偽りありだったのである。
「赤ワインで柔らかくしっとり煮込んだ足柄牛ホホ肉トリュフ風味のマッシュポテト添え」
におけるプレートの充実ぶりは、中央に鎮座するしっとりとろける絶品のホホ肉が主役であるわけだが、僕は添えられたポテトの中心部が明らかに意図を持って、しばしの時間を経た後まで相応の熱を保っていることに感嘆したものである。これはチューリヒで聴いた巨匠ゲオルグ・ショルティがエロイカの第2楽章で強奏するホルンの対旋律を奏でるチェロに鬼の形相で命を吹き込んでいたようなものと書いてまったく大げさでない。 7 、8品ほど注文しただろうか、どれも神は細部に宿るのひと言。すべてに細かい神経が行き届き、シェフのこだわりの代償が舌の喜びとなる。

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世界のうまいもの(18)熱海編
2025 JUN 22 2:02:19 am by 東 賢太郎
先月、神保町の歩道で蹴っつまづいて派手にころび、とっさに地面についた右手親指の先が折れ曲がるケガをしてしまった。地下鉄の入り口に近いなんでもない平らな歩道で、不可思議ですらある。多摩川の土手から落っこちてスネとヒジをざっくりやったのは去年。あれに比べればたいしたことないと高をくくっていたが一月半たってもまだ痛み、以来、利き手で物が握れず、字が書けず、歯が磨けず、ボタンが閉められず、フタが開けられず、背中が掻けずという困った事態になっている。そんな中、だいじょうぶかなと思ったが熱海までテスラを運転して行った。従妹の旦那に事業参画してもらうことになりいろいろ詰める必要があったからだ。従妹の友人で投資もしてくれているYご夫妻もいっしょである。
集合は婦人方ごひいきの御殿場アウトレットだった。何度か引き連れられて来てるが興味ない。仕方なしにつき合うが、ドルガバに入ったとたん、入り口にあった黄金色に輝くSORRENTO ラインストーン スニーカーに目が吸いついた。梶井基次郎が「檸檬」を書いた光景はこれだったんじゃないかと思うほど僕はキラキラには弱い。周囲はびっくりし、皆さんもそうかもしれないが、従妹だけは平然としたもので、ケンちゃん、それはおばちゃんの遺伝なの、だって光り物に目がなかったんだからとなる。手に取ってひっくり返しているとすぐ若い女性の店員さんが寄ってきた。さすがにお似合いですよのひと言は出ようもないんだろう、驚くべき想定外の爺さんにどうプッシュしていいものか迷ってる風情が初々しい。君、この辺の人?どっから?ときくと秋田だ。そうかい、じゃあ秋田美人だね、秋田弁は青森でわかるのときくとう~んたぶん無理ですねでこれは意外だ。そうか、どっちも行ったことないんでね、東北は田沢湖ぐらいでさ、あの~田沢湖って秋田なんですけど・・。完璧なボケ老人である。これいくら?17万です、そうか、すると上司らしいお兄ちゃんがすっ飛んできて11万になりますときた。僕は会社のデスクに飾りたくなったの、飾りにゃあちょっと高いなあといったがそれっきりだった。いい感じのオレンジもあった。まじめにいいと思った。いくなら両方だな、今度ねでバイバイした。
講談社のレポーターだった従妹のキャラで全員あっさりファーストネーム呼びとなり、男3人は同期という奇遇もおおいに手伝った。翌日の昼飯のことだ。並ぶ覚悟で予定していた評判上々である蕎麦あさ田が夜オンリーに変更になっておりがっかりだ。まあいいよ、行ってもたぶんカレー蕎麦だったしね俺は、もう時間も時間だからラーメン、餃子でいいよねと三々五々ブラっと歩くと
誰かが派手な門構えの中華を見つけた。おお、もう面倒だ、これにしようと扉を開けると「開店まで5分です」と中に入れてくれない。愛想のない店だ。ところが誰も外にいなかったのに席について10分もすると地元の常連さんと思しき客であっという間に満員となる。Y夫人がまず僕の糖尿スパイク予防ということで豆苗を注文してくれ、みなさん手当たり次第に餃子もワンタンメンも野菜そばも冷やし中華もチャーハンもたのむ。すると順番通りにほやほやの豆苗がやってきた。なんと、これが劇的に旨い。「香港の陸羽茶室以来のベストだ!」となり、店の内装まで香港に見えてくるではないか。すべて一級品だった。強くおすすめ。
次いで予定はバラ園のようだ。僕は花と木は5種類ぐらいしかいえない。階段がきつい。1時間1本だけど回覧バスがあるぞ、となって安心して喫茶室で待ち、5分前に停留所に戻るとバスは跡形もなく去っていた。なんだこれは?貼紙をみると、22人になると出発しますとあってあ~あだ。じゃあっちに行こうよとなって向かったのは思いもよらぬ熱海城なるものである。おい熱海なんかに殿様いたか?となるが、まあいいや。てっぺんまでエレベータで登ると港と初島を高所から一望できる。これがどういうことか実に心が洗われる。ここで飯食ったら圧巻だろうねなんていいながらワンフロアごとに展示物を見ていく流れのようだが、殿様のトの字も出てこないどころか頓智の絵文字やら春画やらばかりで、まったくもってしょうもない。1階に戻ると「建造昭和34年」とありなるほどだ。しかし、しょうもなければないほど非常に有難味を覚えた。バラ園のバスが来てたら登ることは一生な
かったことは100%確実であり、思い出ができた。夜はまたバラ園のところでイタメシらしい。新しいカジュアルなピッツェリアだがコースが質量とも気合が入ってる。熱海檸檬のパスタが絶品。さあいよいよ主菜だ、真鯛と富士山麓ポークか、けっこうあるなというところでY氏が突如としてピザが食べたいといいだし店員さんビックリ。こういうの、わがままジジイめと若いころは思ってたが、いざやってみるとこよなく楽しい。旅の醍醐味とさえいえる。どれどれとピザをひと切れ頂くと、これが生地まで絶妙に美味でふた切れ行ってしまうのである。結局、満腹のツケはポークにまわり、通常であればふた切れは残したものだが「豚に申しわけない」という気分がむくむくと巻き起こり完食した。血糖値もへったくれもない。シャンペン、そこそこのワインが入ってひとり1万は見まちがいかと思った。CODA ROSSA、味も雰囲気もいい店でおすすめだ。
宿泊はハーヴェスト。伊豆山の海辺でごちゃごちゃしておらず、落ち着ける。仕事のあれこれもできたし、終われば温泉でゆっくり和めたし文句なし。午前中は銀行振込でイライラしたが、午後にこういうところでひとりぼーっとできると生き返る。もうそろそろここに移住してビジネスやるかとまじめに思ったものだ。
帰りは老舗の釜鶴ひもの店であじ干物5枚セット、とびうお、真いわし、漁師飯、わさびのり、わさび漬け、くさやを土産に。これは昔から熱海観光の定番であろうが、海外に長くおって飢えていたもののひとつだから特別な感情がある。帰りは小田原で蕎麦の名店の予定だったが、従姉が車で爆睡して通り越してしまい、かわりにだるま料理店へ。明治からある料亭で結構だ。僕は地魚の鮨と鰺のたたきが食いたかったからだ。鰺は自分で船で出て釣ったもんだ。朝どれの真アジは東京のスーパーで売ってるのとは別な魚で、これを知ったらあんなのは臭くて食べられない。大満足だった。この素晴らしいメンバー全員の健康を祈る。
今回、予定通りいったのは見事なほどにほとんどなかったが、まさにビジネスもそういうものである。箱根でまったくの偶然から従妹夫に話し、彼はその役割に判で押したようにドンピシャなキャリアの人だったということが徐々に判明し、今回の熱海で話はほぼ固まった。きっと不測のことがいろいろ起きようが、今回の旅のことを思い出せばうまくいくだろう。
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ヨーロッパ金融界で12年暮らしたということ
2025 JAN 8 2:02:00 am by 東 賢太郎
本稿を箱根から始めるのは箱根が好きだからです。リタイアして住むなら軽井沢もいいのですが僕は温泉がプライオリティであり、東京23区の最南端に居を構えたのも東名が混まなければ箱根に1時間でいけるからであり、なにより両親が眠りいずれ自分もという地が御殿場なのでやっぱり箱根なのです。食事も良い店がありますが、仙石原のアルベルゴ・バンブーはこの手の所が好きな方にはおすすめです。ドラマのロケ地にもなったらしくご趣味によっては華美と見る向きもありましょうが、どうせ欧風にやるなら大理石までこだわったこれぐらいやらないと意味ないですね。シェフがかわったらしく料理、ワインは大変結構。この日は伊豆の鹿肉をいただきました。長いことこういう洋館で食事してきたので落ち着くわけですが欲をいえば一度ここで給仕されてひとりっきりで食事したい。おいしい料理は会話より鑑賞する空間と集中が必要なのです。ここで音楽を流せといわれれば僕はテレマンの「ターフェル・ムジーク第1集」第4曲 トリオ・ソナタ 変ホ長調を選びます。イタリアンでドイツのバロックになりますが重めのバッハ、躍動のヘンデルよりテレマン。まさにそのプロが書いた食卓を邪魔せぬ質の高い音楽です。欧州の王侯に国籍はありません、あるのはこういうもの、いうなればテレマン的なものです。
クラシック音楽という趣味の素地はありましたがそれだけでヨーロッパ社会に受け入れられることはありません。日本を代表する証券会社に入り、国際派インベストメントバンカーとなって金融界に深く入りこめたことが幸運でした。なぜならそこは顧客も富豪で業者もターフェル・ムジークで食事を当たり前のようにするアッパー(上流階級)の世界であり、趣味と調和してしまったからです。
振りだしはロンドンです。初めて行ったのは28才のアメリカ留学中で、トラファルガー広場からの景色に圧倒されたのが強烈な第一印象でした。これぞ大英帝国!軍事力、財力、歴史、科学、文化、芸術、ライオンまで強そうだ・・七つの海を支配した国の威容と品格は戦さが強いだけのバーバリアンとは一線を画しており、その後に訪れたどの国も遠く及ぶものではありません。いま写真を見ながら当時の残像が不意に蘇ってしまい、万感の思いがこみ上げて涙が出てました。もう一度行きたいなあ。やっぱり僕はお世話になった英国が忘れられないのです。
欧州の都市はどこもそうですが中世がそのまま同居しています。タモリの「ここに江戸時代の痕跡が残ってますね」なんて視点で見るならロンドンは丸ごと痕跡であって、昔から物価もホテル代もとても高いのですが、それは都市自体が博物館であり何を買ってもすべてに入場料、拝観料が乗っている。だから大英博物館もナショナル・ギャラリーもタダなのだと理解すれば辻褄が合いますね。それでも観光客が押し寄せ、物価が市場原理でプライシングされているという意味で資本主義を構造的に体現した都市なのです。
我が家は留学を終えて直接移り住んだので肌感覚での英米比較ができました。フィラデルフィアはアメリカ独立宣言が採択された誇り高い古都ですが、重厚な威容と厚みという点でロンドンと比較にならない差を感じました。写真の金融街シティのバンク駅周辺あたりはフォロ・ロマーノの往時かくありきの幻想を懐くほどではありませんか。まあ僕は古いもの好きだから割り引かなくてはいけませんが。
ロンドンでは京都の寺社仏閣と異なり古い建物が現在もビジネスの舞台です。代表的な日本企業が続々とインフォメーションミーティング(IR)に来るのですが、会場によく使ったブッチャーズホールは10世紀の肉屋ギルドの本拠でした。ランチタイムに我々がシティの運用会社のお歴々を集め、社長さんが業績などをプレゼンするのですが、ロンドンの序列では下っ端の僕が通訳です。米語とちがう英語が通じているか不安でしたがそれが欧州デビューであり、これから俺もシティの一員になるのかという武者震いの場でした。
6年後にロンドンを去って東京に戻るとき寂しかったものはゴルフ場、カジノなど多くありますが、食べ物というとホイーラーズのドーバーソウル、ハロッズのブルースティルトンとサヴォイホテルのこれでしょう。日本でもスコーンは知られていますが、それに主眼があるというわけでなく、大量に皿に盛ってアンパンみたいに振る舞うものでもありません。アフタヌーンティーという様式の中の食材であってジャムとクリームと紅茶の好みのブレンドを楽しみ、サンドウィッチで口直しをしながら他愛のないおしゃべりでゆったりと夕刻を迎える。そんなものです。暇でゆとりのある人のための3時のおやつであり田園で食しても都会的。モーツァルトのディベルティメントのような軽く華やぐ気持ちにしてくれるものです。
「おいしい料理は鑑賞する空間と集中が必要」と書きましたが、アフタヌーンティーでは職人的に凝ったおいしさというものは重要ではありません。上流階級の方々がどう思ってるかは聞いたことがありませんが、僕レベルの者にとっては、手をかけてめんどうくさいシチュエーションを丹念にしつらえてもらい、3時のおやつごときで至福と思える俺はなんて幸せだろうと思える自分がいるかどうかなんです。いないときはだめです、特別に旨いものでもないし。それが「泰然自若」(composed)という精神状態で、余裕なのはお金でも時間でもありません。そういうところが英国っぽいなあと思えるようになれば心から楽しめます。ちなみに箱根の富士屋ホテルでは似たものが供されますがお値段はたしか6千円ぐらいです。
次は初めて社長職に就いたフランクフルトです。会場で好きだったのはシュロスホテル・クロンベルクですね。去る12月23日に100歳で亡くなられたシュレジンガー元ドイツ連邦銀行総裁とここで食事しました。当時総裁はたしか退任された翌年で70才。今の自分ぐらいだったというのだから感無量です。イギリスのヴィクトリア女王の娘であるヴィクトリア皇太后が、ドイツの皇帝でプロイセン王である亡き夫フリードリヒ3世を記念して建てた誠に素晴らしいホテルで、郊外のタウナス丘陵に位置しゴルフ場がついてます。我が家は隣町のケーニッヒシュタインにあり、ドストエフスキーがカジノ狂いしてすってんってんになったバートホンブルグも隣の温泉町です。
タウナス丘陵はロスチャイルド家の別荘、メンデルスゾーンの姉ファニーの邸宅(弟はそこに1年逗留してヴァイオリン協奏曲ホ短調を書いた)もあり、住民の平均収入がドイツで最も高い地域ということを後になって知りましたから期せずして田園調布か芦屋のような所に住んでしまったようです。当時、ドイツでも「世界の」で認識された日本の証券会社の39才の若僧と連銀総裁が飯を食ってくれるわけですから現法の社長宅は必然的にそういうものという理解で、次に引っ越したフランクフルト市内の家のお隣さんも親ぐらいの年齢のウエスト・ランデスバンクの頭取でした。現地採用の社員はそれを社格として見ます。東京の外資系トップの住居と同様です。
次のチューリヒでは多い時は週に2,3件ある日本企業の起債調印式を社長がホストします。初日は昼夜と会食で翌日はアルプス観光にご案内し、お好きな方はオペラやカジノと、この2年半は証券マンというより接遇のプロでありました。楽なようですが肉体労働ですから実に大変で、体重が一気に増えました。よく使った湖畔のホテル・ボーオーラックは世界の王侯貴族、俳優、アーティストの定宿であり、近くの大聖堂にステンドグラスの名作を遺したマルク・シャガールが愛し、リヒャルト・ワーグナーがフランツ・リストの伴奏でワルキューレ第1幕を初めて披露した場所です。じっくり往時のムードに浸りたい所なのですが残念ながら仕事場でしたね。
最初に住んだ家はチューリヒ湖をのぞむ丘陵でゴルフ場付きクアハウスホテルのザ・ドルダー・グランドの近郊であるフルンテルンにあり、チューリヒにたびたび滞在しトーンハレのこけら落としを指揮したブラームスが毎朝好んで森を散策したあたりです。ウサギを飼ったり動物園がすぐ近くで子供達には格好の住まいでしたが契約満了のためキュスナハトという湖畔の丘からアルプスをのぞむ家に移りました。千坪近い庭付きの邸宅でかつて住んだ家でも最上級でしたが、最大の収穫は庭でゴルフの寄せがうまくなったことでしたね。
キュスナハトは心理学者フロイドの友人で精神科医のカール・ユングが亡くなるまで診療所を持ち、「ヴェニスに死す」のトーマス・マン、ロックンロールの女王で女優のティナ・ターナーが住んでいました。そして、庭越しに毎日のように眺めていた湖の対岸の街がリシュリコンです。ブラームスはそこの丘陵にある家(左)に1874年に数か月滞在しています。湖を見渡す我が家と似たロケーションで、21年を費やした交響曲第1番の完成は1876年ですから2年前にそこで書いていたのは第4楽章でしょうか。あのアルペンホルンはこの景色から着想したのかと想像すると何とも幸せな気分になります。彼と住居の趣味がとても似ていたというのはブラームス好きの秘密に思えてなりません。
キュスナハトの家には母を呼んで1か月ほど夏にのんびりしてもらい、それまで何百回も交響曲第1番をきいて愛した僕のヨーロッパ生活の最後の家がここだったことはまさに運命的と思います。ここに移って現地でのおつきあいも当初より格段にグレードアップしてスイス中央銀行のツヴァーレン総裁やUBSなど大銀行の幹部となり、日本企業をお連れして巨額の起債手数料と税金を落としてくれるノムラはスイス金融市場のお仲間と認めていただきました。総裁と奥様に母が来ていると伝えるとクランモンタナのご自宅に家族ごと呼んでいただき、歓待していただいた御恩は一生忘れません。
就職のときこんな素晴らしい12年が待ちうけているとは夢にも思いませんでした。しかも1992年にドイツに行けと言われた時は左遷と思いこみ、会社を辞めようと考えましたから大きな分かれ道でした。辞めなくてよかったし、海外にいたお陰で国内の証券不祥事や総会屋事件とは無縁で済みましたし、そこで生まれ育った3人の子供達にはヨーロッパという素敵な故郷をあげることができました。もうひとつ幸運だったのは、証券会社だから赴任先は国際金融市場がある先進国オンリーで、オペラハウスとオーケストラが必ずあったことです。昼間は交渉事のすったもんだで疲れきっても、夜にはクラシカルな世界で生き返り、何とか無事に乗り切ることができました。そして最後になにより、米国留学から始まった5か国への全行程で苦楽を共にし、見知らぬ外国で3度の出産と育児を立派に終えてくれた妻には尊敬と感謝しかありません。
仙石原のアルベルゴ・バンブーで想ったのはそんなとりとめのないことです。ここともうひとつホテル・ニューオータニのトゥール・ダルジャンは、たくさんありそうで実は多くないそんな気分にひたれる場所で時々行きたくなります。食事も含めどちらもおすすめですし、欧州旅行の折には真のトップトップである上掲ホテルに宿泊され、良き思い出を作られてみてはいかがでしょうか。
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東京証券取引所を訪問する
2024 JUN 6 6:06:44 am by 東 賢太郎
人形町でM&Aの交渉。ちょっと疲れた。せっかく来たので昔なつかしい芳味亭でランチをするかということになった。なにせここのビーフスチュー(シチューでない)はとろけるような柔らかさでデミグラスソースとの相性抜群、オンリーワンの旨さなのであるからご存じない方は一度は賞味されることをおすすめする。昭和8年、横浜のホテルニューグランドで洋食を学んだ近藤重晴氏が始めたらしい。洋風のおかずに白飯という「和」のスタイルが洋食なるものの原点だ。
欧州時代に会議で帰国した際はこの近く(箱崎)のロイヤルパークホテルが定宿だった。到着するといつも夜で、ひとり水天宮のあたりに出てラーメンをすすった。これが久しぶりで飢えておりご馳走だったが、なんとなく物寂しくもあった。数日のきつい日程を消化し、帰りはそこから目と鼻の先の出国ターミナルでパスポートコントロールと荷物検査を通り抜けて空港バスに乗る。夕方のフライトだと大体すいている。いつも運転士のすぐ後ろに陣取ったのは、幼時に電車でその席に座りたくて仕方なかった、その名残だろうか。やがてバスはするすると動き出して大きく右に旋回する。そのあたりの光景がいまでも高解像度カメラのビデオのようにくっきりと瞼に蘇る。やっと家に帰って家族の顔が見られるぞとほっとしたものだから、この光景だけが、まるでそこだけカットしたかのようにぽっかりと記憶に焼き付いているに相違ない。これを何十回やっただろう。お疲れさん、よく仕事したねと自分に言ってやりたい。
家といってもロンドンやフランクフルトやチューリヒなのだから考えればおかしなものである。普通はさあいよいよ外国だぞのモードに入るわけだが、完全に天地逆転の感覚ですごしていたわけだ。若かったロンドンの頃は空港に社用車の迎えなどない。ヒースローから大量の荷物を抱えてえっちらおっちらタクシーに乗っかって、運ちゃんと退屈な会話をしながら小一時間ゆられる。疲れ果てて家について、妻に迎えられるとどんなにほっとしたことか。子供達にすれば生まれた時から天地は逆だった。彼らの天地は日本で育った僕や妻とは物心ついた初めから逆なのだから、実は親はわかるようでわかってないということになかなか気づいてやれなかった。
人形町から日本橋方向に歩き、息子が行ったことないというので東京証券取引所に立ち寄ることにした。電子化されて立会場の面影は皆無、なにやらSF映画の宇宙ステーションみたいな光景になっている。ここで仕事をしたわけではないが、仕事のすべてはここに関わっていたのだ。僕は証券マンでも異例であって、ボンド(債券)を売った記憶がない。なぜかは覚えがない。動かないものはまったく興味がないから債券は石ころみたいに情熱がわかない。きっと売っても売れなかったのだろう。すなわち根っからのエクイティマンであり、株式が大好きであり、一枚の伝票で160億円の商いをしたことがあり、そうであることに誇りを持っている。そんな破格の注文も、すべてがこの場所で執行されたのである。
東証本館1階には「証券史料ホール」なるものがあり「我が国の証券市場の歴史に関する史料から特に歴史的に貴重な品々を選んで年代順に紹介されています」とある。
息子がガラスの展示ケースの中にこれを見つけた。東京株式取引所(東株)の創立証書である。
田中平八の直筆サインは初めて見た。感無量だ。写真を撮って息子に「ご先祖さまに恥ずかしくない仕事をしろよ」と言ったものだが、それは自分にかけた声でもあった。
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箱根ローストチキン
2024 MAY 15 15:15:58 pm by 東 賢太郎
妹夫婦、従妹夫婦と墓参りへ。とても和む。高校時代の愛猫チビが実は隣の猫だったという衝撃の過去が発覚。娘たちの激辛好きは長崎のばあちゃん由来だったことも判明。他愛ない話にいくらでも花が咲いてしまう。従妹は集英社出身の芸能・アート通、グルメ社交家だ。生粋の母方性格。学者系の父方とは見事なほど別人。見合い結婚ならではのハイブリッドである僕は三毛猫だなと痛感する。
夕食は千坪の敷地にある仙石原のイタリア風洋館「アルベルゴ バンブー」でとった。オーナー竹内氏が映画ゴッドファーザーの結婚式シーンをイメージしたという造りで「箱根ローストチキン」が名物。2年前に飲んだワインの記録が出てきたのは中々と思う。翌日は以前持っていた芦ノ湖一望の1800坪の土地を視察。まだ更地と確認する。レークサイドの箱根ホテルの庭でしばしビールでぼーっとしたが元箱根はそこらじゅう外人観光客だらけである。こっちはこういう洋風が落ち着くのだから妙なものだ。
うまいものは素材だ。良い素材はそのままでも調理してもうまいが、安物が調理で逸品になることはない(もしそうなら安物でなくなる)。居酒屋でわいわい干物をつつくのもいいが干物がまずくてはいけない。かたや、給仕の靴音が遠くから響くほどシーンとした空間でナイフの音をたてず舌平目を口に運ぶのはコンサートホールでピアニッシモに耳を澄ますのと変わらない。楽器の音もしかりだが、料理の味というのも三次元空間に存在するのである。
箱根翡翠は定宿、これも食事もみな従妹夫婦の手配だ。この手腕は野村スイスの名セクレタリーだったNさんを彷彿とさせ、世話になりっぱなしである。スイスではSF建てで起債する日本企業の接遇が社長の仕事で、社屋と同じほどユングフラウやツェルマットが仕事場だった。箱根は近いしそんな風に使える。白濁温泉に2時間ほどいて雑事をすっかり忘れた。頭のデトックスもたまには大事だ。
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世界のうまいもの(17)《蒸汽海鮮石鍋魚》
2024 MAR 8 7:07:49 am by 東 賢太郎
上海で知った貴州料理の石鍋魚に惚れこんでいて、どうしてもあれがもう一度食べたい。あるとすると池袋北口のガチ中華街だろうとネットで探すと、いかにもその感じの店を見つけた。蒸汽海鮮石鍋魚なるものを食わせる料理屋「食彩雲南」である(写真)。貴州ではなく、もっと南の雲南省だがまあいいかと足を運んだ。地図を見るとこの省はチベット、ミヤンマー、ラオス、ベトナムに接する。中国南方の内陸はまだ行ったことがないが、古来より少数民族がたくさんが住んでいてその数だけ文化がある。行ってみたい。貴州のあの鍋は確かミャオ族のだと聞いた気がするが、初めてだったにもかかわらず衝撃的なうまさで忘れられない。
屈託ない笑顔がなんとも魅力的だ。
雲南省はこちら。これもきれいだ。
中国人といっても北京や上海と違ってこういう暮らしの人々がいる。食文化だって我々がいわゆる「中華料理」と呼んでるものとは違う。
「食彩雲南」は大通りの角にある雑居ビルの8階だ。狭いエレベーターでやや怪しげといえないこともなく、店員の日本語もあやしく日本人客はいないのだが、中国人の若い女の子がひとりで来たりする。テーブルの真ん中に鍋型の穴が据え付けになっていて、そこにスープを満たして点火すると、尾頭つきの魚(淡水魚だろうか)をデンと横たえる。何が始まるかと思うと、草を編んだようなモンゴルのゲル風のでっかい蓋を鍋に被せる。すると、そこからもうもうと蒸気が立ち昇ってきて天井まで届くのである(写真はまだ序の口)。壮観だ。
出来あがりはこうなる。貴州と比べるとスープの色は似ているが味は違う。だがこれはこれで実に美味。見た目でひいてしまう人もいようが料理というのは食してみてナンボであり、視覚的楽しみもあるからお薦めである。少数民族は何十もあるようだが各々にこうしたプライドをかけた食文化があると思うと興味は尽きない。
これがシルクロードを辿って西へ行くと中央アジア、中東をとおってローマに至る。黄河 ・ 長江文明からメソポタミア文明を経由してギリシャ・ローマ文明へという気の遠くなるような距離と時間の長い道のりであり、そのものが人類史といっても良い。
日本列島発祥の人類は今のところ見つかっていないので、我々は誰もがいつかどこからか渡来しているはずだ。遺伝子はそれを覚えている。だから「好み」はルーツの刻印だろう。僕の好みはユーラシア大陸を楽しみながら突っ切ってギリシャ・ローマまで行く。そこの食と音楽に、えもいえぬ親和性を覚える。
世界の所々にまだ知らぬ美味があり、見知らぬ文化の人々が暮らしており、そして音楽がある。僕にとって、音楽への関心の根っこにあるのは無意識の中にあるそういうもの、つまり雲南省の白族の人々の写真を見れば蒸汽海鮮石鍋魚を食ってみたいなとなる気持ちと変わりがないようだ。
こうした精神で世界を観ている僕のような者にとって、政治をもって中国人が好きだ嫌いだという言説は誠に狭隘と評するしかなく、政治は政治家にやらせればよく、それをもって保守か否かを論ずるなど暇人の戯れとしか思えない。ミャオ族や白族の文化を尊重するのが多様化社会であって、白人のLGBTでチンイツにするのは単一化であって馬鹿でねえのというしかない。そういう連中は料理の味もわからんし、まして音楽などほど遠かろう。
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ニコラ・テスラと猫の法則
2024 FEB 16 18:18:10 pm by 東 賢太郎
昨年10月から急に多忙になったのはコロナが収まったせいもあった。勘定したところ、現在9つの仕事を同時にしている。そんなにできるのかと思われようが、数えないと気がつかないぐらい自然にできている。元気だからだ。元気を保つのに元気がいることを年をとったというらしいが、それもない。若返りのNMN注射が効いているとうそぶいているが単に大枚はたいて悔しいからだ。
医者は蛋白質を摂れという。池袋のガチ中華「魚火鍋 唇辣道」で白身魚鍋を食べたりするのは激辛好きなだけだが、これが旨いから元気は出る。雑居ビルの地下で中国語が飛び交う。香港の裏路地にありそうな店だ。魚がつるつると喉を通って蛋白質だけで腹いっぱい。すると何日かして太ももとお尻が太くなってる。まさかと思ったが事実だ。鍛えていた所だから補強は最優先と体が学習しているのか。
うちは猫が5匹いる。みな野良か保護猫だ。元気をくれる。可愛いいかといえばNoだ、僕にとって猫はそういう存在ではない。みな真剣に生きて嘘がなくて光ってる。真剣に生きる者には真剣に対峙する。これが礼節というものだろう。人の1日は猫の1週間。それだけ充実した時間を過ごさせてあげたい。
うちに来たのは何の縁だろうか。魂は光であって猫も人もない。飼っているも飼われているもない。ニコラ・テスラは「全ては光である」といった。電子と陽電子の消滅を彼は知らなかったが、宇宙も物質も魂も光だと見抜いた。人間も光らなくてはいけない。光るには元気がいる。光らなくなったら僕は仕事をやめる。
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唐の都、長安を旅して考えたこと
2023 JUL 29 7:07:53 am by 東 賢太郎
唐の都、長安。いい響きだ。いまは陝西省西安市になっているが、中国の京都、奈良であろう。司馬遼太郎の『空海の風景』は貪るように読んだが、いよいよ旅が長安までくると、街のこまごまを描写する司馬の筆のリアリティが少し鈍ってもどかしかった。何事も百聞は一見に如かずだ。やはりそこに立ってみて自分の五感で感じ取るしかない。あれは1998年のこと、香港からの出張で初めて西安に降り立った。三蔵法師ゆかりの大慈恩寺で大雁塔の前に立つと、遣唐使として派遣された阿倍仲麻呂や空海もここに立ってこの眩しい姿を仰ぎ見たに相違ないと思えてくる。自分にとってはペンシルベニア大学の校舎群がまばゆく、よし思いっきり勉強するぞと奮い立った若き日の青雲の志に重なる。しかしながらその一方で、なにやら見慣れぬ曲線を描く大雁塔の外縁の輪郭には異国を強く感じており、いとも不思議な感覚に迷いこんだことを覚えている。
西安の北東にある始皇帝の兵馬俑は圧巻である。写真の総勢は約6000人(桶狭間の信長軍勢の倍ぐらいだ)。2200年前の兵士ひとりひとりの顔が写実されているリアリズムには驚嘆しかない。そこまでさせた権力にも、しようと執着した執念にもだ。漢の時代に土中に埋もれて発見されたのは1974年。空海はこれを知らないが、彼が入唐した時点で1000年前の遺跡であった。東を向いているのは秦が当時の中国の最西端で敵は東だからとされる。不老不死の薬を求めて徐福を日本へ派遣し、子孫は秦氏になったという説は虚構とする否定派が多いが、来てないという証拠もない。証明されてないからなかったことに、という説は非科学的でしかない。
私見を述べる。現在シルクロードと呼ばれるユーラシア大陸の交易路網は西洋人のセンスで脚色されたコンセプトにすぎない側面もある。交流、交易は紀元前2世紀、つまり秦王朝の時代からあったのであり、人間も文物も混じり合っており、はるばるローマやペルシャから中国まで来る体力、気力、資産、技術、理由のあった異人と接していた秦国の人間が朝鮮半島、九州に足を延ばすことを躊躇したとも思えない。兵馬俑の人面も物語る。こんな微細な箇所まで強烈な執念で覆いつくす皇帝に薬を探してこいと命じられた徐福に逃げ道はなく、見つからなければ殺されるから戻ってこなかったのは納得でしかない。といって日本各地の徐福伝説を支持できるわけではない(そのどれかが正しかった可能性はある)、一行は来日してそのまま日本に土着し混血していったと思料する。
西安で食事を済ませて隣町の宝鶏市に向かった(下の地図)。当時は国道しかなく車を飛ばして2時間はかかったと思う(今は高速がある)。道はあっけらかんと一直線である。大学時代に、あまりに一直線で居眠りしかけて危なかったアリゾナ砂漠の道路を思い出していた。行けども行けども、道の両側は地平線の果てまでトウモロコシ畑である。うたた寝して目が覚めたらまだトウモロコシだ。「中国人はこんなに食うの?中華料理で見たことないけど」と運ちゃんに聞くと「豚のエサです」(笑)。宝鶏に着くと仕事だ。味の素みたいなグルタミン酸の調味料を作っている会社に増資を勧める。社長に工場を案内してもらった。ベルトコンベアが続々と白いものを流している。目を凝らすと首を絞めた鶏だった。
宝鶏は日本ではあんまり有名でないが、周王朝、秦王朝の発祥の地である。「岐山」がある(信長はここから「岐阜」の名をつけた)。古くは青銅器の発祥地であり、諸葛孔明が陣中に没した「五丈原の戦い」の舞台でもあり、太公望が釣りをしていた釣魚台もこのへんだ。三国志の頃に漢方薬(本草学)のバイブル『神農本草経』が書かれた地でもあった。戦国武将は中国史を学んでいたが、信長は安土城の天守の装飾絵を中国の故事にならったほどで、始皇帝を理想にしたかどうかはともかく両者は似たものを感じる。西安にあったはずの安房宮は完成せず、安土城は完成したが主は死んだ。歴史好きの方は西安とセットで訪問する価値のある処だ。
宝鶏から西は僕は未踏だが、甘粛省蘭州まで行くとイスラム系の回族が多い。始皇帝は目が青かったともいわれるが、これを知るとそうかなと思わないでもない。何をいまさらではあるが、西安(長安)はシルクロードの終点であり、中央アジア、ペルシャ、トルコを経てローマにつながっている。トウモロコシ畑の宝鶏~西安はマラソンならラストスパートの200キロだったのだ。中国の主要都市はだいたい訪問しているが、西安はもとより行きたかった場所であり強く心に残っている。たぶん春節の前だったのだろう、縁起物であるのと感動をとどめたいのとで、この丸っこいのを2個買った。
灯籠だ。でっかい。直径30センチはあってみな「本気ですか」と驚いたが本気に決まってる。家ではもっと驚かれたが、玄関に飾ってもらって満足だった。
西安、宝鶏を旅してみて、自分はなぜこんなにローマ好きで地中海好きでもあり、誰に教わったわけでもないのに狂信的西洋音楽マニアなんだろうと考えるようになっている。未踏のトルコ、中央アジアは文化も食べ物も興味津々で女性も綺麗に見え、料理はというといま熱烈にガチ中華にハマってる。幼時に鉄の匂いが好きだった趣味はレアだろう(線路と車輪に魅かれて小田急の線路に侵入していたが、鉄オタの息子によると僕は鉄オタとは呼べないらしい)。鉄といえばシルクでなくアイアンロードというのもあった。ヒッタイト発スキタイ(タタール)経由であり、技術を持った異人集団が出雲に来ると「たたら製鉄」と呼ばれた(タタラ場として「もののけ姫」にも登場)。出雲は何度か旅して惚れこんでしまい、コロナで頓挫したが映画の舞台にしようとタタラ場だった絲原家にお邪魔もした。なぜか磁石みたいに鉄に惹かれるのだ。地球上に存在する金やウランなど鉄より重い元素は中性子星合体によってつくられたものである可能性が高い(理化学研究所と京都大学)。鉄を通して僕の関心は宇宙へと広がっている。
結論として思う。こういうものはまぎれもなく本能だ。生まれてから後付けで覚えたわけでは全くない。DNAに書いてないと絶対にこうはならないと自信をもって言えるレベルに僕はある。両親はそんなことないから隔世遺伝ということになる。アズマはアズミでもあり海洋族安曇氏の説がある。神話時代から人種の坩堝(るつぼ)だった北九州から海流で出雲に土着し、さらに海流で能登にぶつかり安曇野、諏訪にも下った。父方は輪島だから可能性はある。性格は農耕型でも定着型でもなく、海洋族であって何の違和感もない。
いまはささやかに北池袋の「ガチ中華街」でもめぐっておれとDNAが命じている。そこで火焔山蘭州拉麺に行った。前述したイスラム系の回族が多い蘭州のラーメンだ。一番上の地図を見ると甘南蔵族(チベット)自治州、臨夏回族自治州(回族、チベット族、バオアン族、ドンシャン族、サラール族他の少数民族が居住)が蘭州の近郊で、そこだけでも人種の坩堝。父系遺伝子ハプログループDが相当な頻度で存在するのは日本とチベットおよびアンダマン諸島のみという興味深いデータがある。
西安では何種類か麺を食べた。名前は忘れたがゴムみたいに伸びるビャンビャン麺やら刀削麺だった。火焔山のラーメンも味の坩堝だ。イスラムは豚は食べないので牛肉麺であまり辛くはなく、パクチや香草(漢方と書いてあったと思う)が効いていてエキゾチックなスープだ。たかがラーメン1杯だが歴史と地理を知れば何倍も味わい深い。東京~西安の3倍ほど行けばシルクロードは走破できそうだがまあ池袋でやっとこう。
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