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僕が聴いた名演奏家たち(マウリツィオ・ポリーニ)

2024 MAR 29 0:00:56 am by 東 賢太郎

なんということだ、とうとうポリーニまで亡くなってしまった。小澤征爾の逝去で1984年2月のボストン・シンフォニーホールでのプログラムを探し出し、そうだった、ここでシェーンベルクのピアノ協奏曲を初めて聞いたんだっけと思ったのがつい先月のことだ。そのソリストがポリーニであり、そういえば最近名前を聞かないなという気持ちが頭をよぎってはいたのだ。シェーンベルクの細かいことは記憶にないが、小澤の運動神経とポリーニの打鍵とリズムが拮抗した快演の印象だ。厳格な12音技法のスコアを暗譜して運動に落としこむ作業は演奏家にアーティストとしての感性以前に数理的な知性を要求する。ポリーニはその所有者であった。音楽が他の芸術と一線を画するのは数学と運動を内包する点だ。どちらも動物的快感をもたらす故に僕はクラシック音楽を愛好しているというと逆説的にきこえるかもしれないが、人間とはそういう動物だ。もし認知症になってもブラームスをきかせてね、きっと涙を流すからと家内に頼んでる。

こうしてポリーニの残像をたどる作業は特別の感慨をもってするしかない。彼の軌跡は自分のクラシック鑑賞のそれでもあるからだ。ドイツ・グラモフォン(DG)からまずストラヴィンスキー、プロコフィエフ、もう1枚がウェーベルン、 ブーレーズと衝撃のデビューを飾ったのがクラシックに馴染みだした1971年のことだった。衝撃は僕が受けたわけでなく、業界のキャッチコピーである。しかも、後で知ったがこれはデビュー盤ではなくEMIからショパン集が出ていたのだからいい加減なものである。それが日陰者であるならショパン・コンクール優勝はなんだったのかとなる。このロジックのなさは日本人だけでない、DGもそれで商売できたのだから世界人口の大半は、いや幾分かは知的な部類であるクラシックのリスナーでさえもがそうなのだろう。そこにAIのフェイク画像をぶちこめば資本主義は共産主義の恰好のツールになる。このロジックを理解している人の数はさらに少ない。少数の支配者につく方が得だから支配はさらに盤石になる。こうやってディープステートはできる。

2枚をどこで聴いたかは覚えてない。全部ではなくFM放送でもあったのではないか。ペトルーシュカはオーケストラ版で知っていたが「3章」というピアノ版は初耳であり、それ以外は一曲も知らなかった。レコ芸で話題の彼の名を覚えた程度で、春の祭典で僕をクラシックに引きずりこんだブーレーズのピアノ版のイメージだったがそれも自分の耳で判断したことではない。高校2年でクラシックはまったくの未熟者、ピアノソロは何を聞いてもさっぱり関心がなかった。それでも1973年に「ショパンのエチュード」が出てきた時の意外感はあった。ショパン・コンクール優勝者だぐらいは知っていたが、こっちは5歳でリアル感はなく価値も知らない。ただ、のちにこのレコードは、我が家のあまり多くはないショパンの一画に並ぶことにはなった。同時に、ポリーニとはいったい何者だろうと考えることになった。ブーレーズを弾く彼とショパンを弾く彼が同一人物であることがうまく整理できなかったからだ。このことは音楽に限らず、人間と社会の複雑な事情を観察するための訓練になった。彼は優勝直後にホ短調協奏曲を録音したがそこから「謎の沈黙」に入り、1968年のロンドンのクイーン・エリザベス・ホールのショパン・リサイタルでカムバックしてみせた折にLP2枚分のリサイタル盤をレコーディングし、再度3年のブランクとなりDGデビューに至る。そのキャズム(断層)を意図して作ったのか、単に意に適うレパートリー研鑽の時間だったのか、いずれにせよ彼の意志が為したことだ。19世紀の残照でなくアヴァン・ギャルドに分け入り、20世紀の大衆の求める “クラシック” ではない時代を押し進める。そうした指向性の持ち主という意味で彼はブーレーズの仲間であり、だからDGデビューに第2ソナタを選んだろうし、ブーレーズはフランス国の役人であったがポリーニは生粋の共産主義者だった。

ハーバードの友人がチケットを買ってくれこのプログラムを見たとき、まず思ったのはブラームスの第2協奏曲をやってほしかったなというない物ねだりだった。理由は後述する。しかしこの日のポリーニはルービンシュタインやホロヴィッツの末裔ではなく12音音楽の支持者であった。そのとき29歳だった僕は13歳年長のポリーニの多様性、多義性に人間の新しい在り方を見た。先週、ツェムリンスキーに夢中になっていてどうしても書きたい衝動に駆られていたのは、おそらくPCでシェーンベルクの協奏曲を流していたからで、そのままポリーニのレクイエムになった。シェーンベルクは12は好きだったが13は嫌いだった。トリスカイデカフォビア(数字の13の恐怖症)だったことは有名である。僕にもそれがあり、大学受験に際し、高いチャレンジへの象徴的逆説的攻撃的エネルギーとして忌避していた “4” にこだわったら落ちた。 “7” に変えたら受かったので信念はさらに強化されている。まったく馬鹿げたことだが否応なくロジカルに生まれているものをイロジカルでバランスして精神の均衡が保たれているように思う。1942年生まれのポリーニはボストンで42歳だ。シェーンベルクのピアノ協奏曲は1942年に作曲されて作品番号は42であり、7+6=13、7×6=42である。偶然にしては出来すぎだったと思わないでもない。

Boston Symphony Hall

ショパン・コンクール優勝はポリーニにとって満足な偉業だったろうが、一晩寝れば通過点でしかなかったのではないか。なぜそう考えるかは、彼の師匠カルロ・ヴィドゥッソ(Carlo Vidusso、1911-1978)がどんな人物だったかに言及する必要がある。ヴィドゥッソは並外れたテクニックと伝説的な読譜力に恵まれたヴィルトゥオーゾで、複雑な楽譜の運指の課題を即座に解くことができる異才だった。ワルター・ギーゼキングは列車に乗るときに渡された新作協奏曲をその足で着いた会場で弾いたらしいがそれは聴衆が誰も知らない曲だ。ヴィドゥッソはコンサートの直前に手を負傷したピアニストの代役に立ち、聴いたことはあったが弾くのは初めての協奏曲(つまり聴衆も知っている曲)の譜面を楽屋で読んでリハーサルなしで弾き、専門家もいた客席の誰一人気づかなかった。こんな人はフランツ・リストぐらいだ(新作だったイ短調協奏曲の譜面を持ってきたグリーグの眼前でそれを初見で完奏して驚かせた)。ヴィドゥッソもそれができ「スタジオ録音より初見の方がいい」とちょっとしたウィットを込めて称賛された。1956年のブゾーニ国際ピアノコンクールの作曲部門で応募作品の演奏者だった彼は14歳の弟子ポリーニを代役に推し、その役を完璧にこなした少年は一躍有名になった(イタリア語版wikipediaより)。

チリ出身のヴィドゥッソはショパン弾きではない。リストだ。「3つの演奏会用練習曲」から第2曲 「軽やかさ」(La leggierezza)をお聴きいただきたい。

ポリーニがこの師から学んだのはレパートリーではなく、その情緒的解釈でもない。継いだのは読譜力とそれを具現するメカニックであり、それが彼の固有の器を形成し、自らの資質に合った酒を盛った。そう考えればシェーンベルク、ブーレーズ、ノーノの録音の意図がわかる。

<シェーンベルク「ピアノ協奏曲」アバド/BPO、1988年9月録音>

そう書くと、技術偏重でうまいだけのピアニストにされる。現にヴィドゥッソはリヒテルやアラウと同世代だが名を成してはいない。コンクールを制覇したことでポリーニは師を超えたのだろうか?

3大コンクールの優勝者のうち私見ではあるがAAA(最高ランク)にまで昇りつめた人を見てみよう。過去18回ある「ショパン」はポリーニ、アルゲリッチ、ツィマーマン、12回の「チャイコフスキー」はアシュケナージ、ソコロフ、15回の「エリザベート」はギレリス、アシュケナージだけと36人中6人しかいない。つまりポリーニはコンクールで知名度は上げたが、AAAになったのはそのせいではない。つまり彼は元から師をはるかに超えるものを持っており、そこに師の技が加わったとみるのが自然だろう。

1歳違いのポリーニ、アルゲリッチはショパン・コンクール優勝が喧伝され一気に名が知れた。というより、1960年(第6回)、1965年(第7回)の両者の優勝によってコンクールの方が有名になった。両人ともそこで協奏曲1番ホ短調を弾いて話題になり、ポリーニはそれをスタジオ録音したがアルゲリッチはそれに3年を要した。そこで1966年にEMIから「ディヌ・リパッティ盤」なるものが出てくる。出所が怪しかったのだろう、1971年のイギリス盤には「指揮者とオーケストラの名前は不明だが、ソリストがリパッティであることは間違いない」という趣旨のメモが添えられ、そこから10年そういうことになったが、BBCが1981年にこの録音を放送するとリスナーがチェルニー・ステファンスカの1950年代初頭のスプラフォン録音との類似性を指摘して書き込み、テストの結果、これらは同一の録音であることが判明した。この事件はよく覚えている。リパッティの至高の精神性を讃えていた我が国の音楽評論界は沈黙し、さりとて第4回ショパン・コンクール覇者であるステファンスカが売れっ子になったわけでもないというイロジカルな結末となった。

ではポリーニの1番はどうだったのか。コンクール本選のライブ、これは一期一会の壮絶なもので、指の回りにオケがついていけてないほどの腕の冴えはルービンシュタインが唸ったのももっともだ。良い録音で残っていればと残念至極である。コンクールは1960年2月から3月にかけて行われ、彼は同年4月20、21日にパウル・クレツキ / フィルハーモニア管とEMIのアビイロード第1スタジオで録音している。コンクールの熱はなくあっさりして聞こえるが純音楽的に見事な演奏であり、これほど硬質な美を完璧に紡ぎだしたピアノはそうはない。ざわざわした群衆の人いきれにまみれたホールで興奮を待つ演奏ではなく、ヘッドホンで細部までじっと耳を凝らす質の演奏であり、クリスタルの如きピアニズムの冴えはまさしくそれに足る。そして18歳を包み込んでいるのが音楽を知り尽くしたポーランドの大家クレツキであり、この録音は数あるポリーニの遺産でも出色のものと思う。

これがありながらリパッティの愚を犯したEMIは何だったのか。おそらく1965年のアルゲリッチの出現だろう。レコードを大枚はたいて買っていた時代、聴衆は真剣に感動という対価を求め気合を込めて音楽をきいていたのだ。あっけなく音楽が無料で手に入ってしまう今は恵まれてはいるが過ぎたるは及ばざるがごとし。コストはかかっても皆がこぞって音楽を大切にしたあの時代のほうがよかったと僕は思うし、だからこそおきたリパッティ事件を批判する気にはならない。

深く曲想のロマンに寄り添って感極まった高音が冴えたと思えば要所では女豹が獲物に飛びかかるが如き怒涛のメリハリ。アルゲリッチのほうが面白いという意見に僕は抗うことはできないが、それはポリーニの資質にはないものだから言っても仕方ない。むしろ、ショパンの作品の中で、ポリーニの長所が万全に発揮される曲がエチュードだったということで、それはまさにグレン・グールドにおけるバッハに比定できる。この一枚はグールドのゴールドベルク変奏曲(旧盤)と同様にポリーニの揺るぎないアイコンになったといっていいだろう。

ショパン 練習曲集 (作品10、25)

ポリーニは、おそらくDGのニーズもあったのだろう、ショパンのソナタ、前奏曲、バラード、スケルツォ、ポロネーズ、ノクターン、即興曲、ワルツ、マズルカなどの主要曲も次々と録音した。ヴィドゥッソの弟子である彼は何でも弾ける。強みはルービンシュタインを唸らせた並外れたメカニックではあるが、もっと本質的な部分に踏み入れば、散文的なものより数理的なものだ。散文的であることがチャームになっているアルフレッド・コルトーやサンソン・フランソワのようなショパンを彼が弾くことは望めないし、ショパン本人がそういう人だったのだからどうしようもない。ではポリーニの本質に適った音楽は何だろう?

1977年の4月に農学部前の西片2丁目で下宿生活を始めたとき、熱愛していた音楽がブラームスの変ロ長調第2協奏曲だ。すでにゼルキン、バックハウス、リヒター・ハーザーのLPを持っていたが、2月に買ったアラウが最も気にいっていた。この強力なラインナップに侵入できたのは9月にFM放送をカセットに録音したアラウのシュトゥットガルトのライブ、そして10月にやはりFMを録音したポリーニ / アバド / VPOの1976年録音のレコードだった。ここでのポリーニは無双無敵だ。アバド / ベルリン・フィルとの再録音があるが、文句なしでVPOとの旧盤に軍配を上げる。強靭で正確無比な鋼のタッチ、魂を揺さぶるタメ、微塵の狂いもないぶ厚い和音のつかみ、深々と地の底まで轟く腰の重い低音、軽々と天空に飛翔する高音、第2楽章の熱狂のテンポ、人生の滋味と静謐にあふれる第3楽章、意気投合したアバドの若々しい指揮にこたえて、これぞブラームスの音で包み込む絶品のウィーン・フィル!昼も夜も深夜までも、何度熱中してこれを聴いたことだろう!ボストンで「ブラームスの第2協奏曲をやってほしかった」と思ったのはこれがあったからなのだ。

この演奏、さきほど聴き返したが、もう僕の魂に深く刻み込まれていてありとあらゆるリズム、ひと節、ホルンの音色にいたるまでがああそうだったといちいち確認され、腹の底まで腑に落ちて涙が出てくる。偉大な二人の音楽家、ポリー二とアバドに心から感謝したい。

物語は続編がある。その念願だったポリーニの第2協奏曲を聴くチャンスが同年、つまり冒頭のボストンの演奏会の年の4月にウォートンを卒業し、そのままロンドンに赴任した秋(9月)にやってきたのだ。ロイヤル・フェスティバル・ホールで指揮はクラウス・テンシュテット、オケはロンドン・フィルである。

なんと幸運だったと言いたいところだが、実は、どういうことかこの演奏会については何も覚えていない。なぜそうなのかすら覚えていない。この選曲で、このタイミングで、そんなことは、こと僕においては天地がひっくり返ってもあり得ないのだ。考えられる理由はただ一つ、当時、野村證券の稼ぎ頭だったロンドン拠点の営業課において入社5年目だった僕は新入りの下っ端であり、おっかない先輩方のもとで英語でシティでビジネスをするシビアさに面食らっていた。新規アカウントの開拓から東京への膨大な量の売買発注ファクシミリの正誤チェックというミスしたら首の仕事に至る、早朝から深夜までの卒倒するほど激烈な仕事で忙殺されていた。そんな中でもクラシックを聴く時間は削らなかった。いま、倉庫で長い眠りについていたこのプログラムを前にして本当によく頑張ったねと自分をほめてやりたい気持ちで胸が熱くなっている。長女が産まれる3年前、日々そんなであった僕を取り扱っていた家内はライオンを家で飼うより大変だったに違いない。深謝だ。

Royal Festival_Hall

ポリーニを聴く3度目の機会はそれから約1年がたった1985年の10月14日にやってきた。やはりロイヤル・フェスティバル・ホールでのリサイタルで、曲目はJ.S.バッハの生誕300周年を祝う「平均律クラヴィーア曲集第1巻全曲」であった。ポリーニは遠くにぽつんと見えたから一階席右奥だったと思う。これはかつて経験した最も重要な演奏会のひとつであり、音楽というものに限らず、あの日をもって人生が変わったとすら思わしめる重大なメッセージを頂いた。それがバッハの音楽から発したのかポリーニその人の強靭な精神に発したのかはわからない。弘法大師が修行中に洞窟で、海に昇る朝日が口に飛び込んで開眼したと語ったのはこんなものだったのだろうかという種の、他では一度もない何物かを僕は頂いたのだ。似たものはバレンボイムによるリストのロ短調ソナタ、リヒテルのプロコフィエフの一部にも感じたことはあったが、この日は全編にわたって身体が金縛りのようになり、帰宅の途に就いたウォータールー・ブリッジのとば口まで来ても言葉も出ない呆然自失のままであって、中古のアウディを走らせながらハンドルが切れなくなる恐怖があって初めて声が出て家内にそう言った。その場面が、映画「哀愁」の舞台となった暗い橋梁をのぞむ写真のように目に焼きついている。一台のピアノからあれだけの「気」が現れる。それは言葉ではない啓示になって自分でないものを生む。僕は授業を受けている何でもない日常のある時に、先生の板書の数式と文字がとても美しく見えた特別の瞬間に出会い、どういうわけかその日から突然に数学の難問がすらすら解けるようになった。あれは何だったのかいまだに不明だが、そういうものを啓示と呼ぶのだろう。ポリーニは平均律第1巻を2009年に録音している。彷彿とさせる演奏だが、もう啓示はない。あれ以来、平均律は僕にとって特別の音楽となり無闇には聴かない。幸い弾けない。グールド盤を何度か聴いたが、板書の数式に先生の顔が透けて見えるというのはいけない、そんなものではできるようにならない。よって最近はますます遠ざけるようになってきている。

ポリーニをきいた最後はボストンから10年の月日がたった1994年5月21日、ベルリンのフィルハーモニーで行われたベートーベンのソナタ全曲演奏会の一日だった。僕は人生で最初の管理職ポストである野村バンク・ドイツの社長に就任した翌年の39歳、ふりかえれば、息子が生まれ、人生で最も楽しく、最も希望に満ち、最も輝いていた年だった。勤務地のフランクフルトから1週間の休みを取ってベルリンに滞在し、家族を動物園に連れて行ったりしながら、これも一生ものだったブーレーズの「ダフニスとクロエ」(5月24日)も聴いている。そしてその翌月、6月28日に、もう一度ベルリンまで飛んであのカルロス・クライバーの伝説のブラームス4番を聴いた。それまでの5年、目の前が真っ暗になるほど辛いこと続きだったが耐えた、そのご褒美を神様が一気にくれたみたいな年であり、「禍福は糾える縄の如し」の諺がこれほど身に染みたことはない。

Philharmonie Berlin

プログラムが手元にないがメインは29番ハンマークラヴィール・ソナタであった。52歳でキャリアの絶頂だったポリーニを正面間近に見る席だ。この席であったからわかったことがある。ブラームスと同じ変ロ長調の和音が深いバスの ff に乗ってホールに響き渡ると、再び言葉にならない呪縛を受けた。当時の僕はこのソナタが何かを知っておらず、さしたる期待もなく聴いていた。さすがのポリーニも一筋縄でいかない。そう見えたがそうではなかった。おそらく、弾くだけなら流せるものを、彼は渾身の重みを込めて打鍵して音楽に立体感を造り込もうとしている。すると、巨大かつ適度に湿潤な音響空間であるフィルハーモニーに、なにやらパルテノン神殿の幻影でもあるかのような壮麗な建造物が現れる感じがして、かつてどこでも聴いたことのないもの、あえて比べるなら、1970年の大阪万国博覧会でドイツ館の天井の無数のスピーカーを音が疾走したシュトックハウゼンの電子音楽が現出した聴感による立体感を味わった。このソナタはシュトライヒャーとブロードウッドという楽器の進化過程に関わるが、問題はどのキーが弾ける弾けないではなく、進化によるサウンドの変化がベートーベンに与えた創造のモチベーションだ。それが何かを僕は知らなかったが、この体験は天才の宇宙空間的規模の三次元スケールの創造だったと確信している。それは音が10度まで集積する重層的展開によったり、主題変容の構造的ディメンションの拡大によったり、複合された主題の中から単音で別な主題を紡いだりする、モーツァルト以前では想像もつかない複雑な手法で楽譜に織り込まれている。3つ目の手法で第3楽章Adagio sostenutoに透かし彫りの如く聴きとれる4つの音列をブラームスが第4交響曲の冒頭主題にしていることは何度も書いたが、それはこの演奏から聞こえてきたのである。

ポリーニは米国でのインタビューでこう語っている。

「自分が関係を持ちたい作品、一生の関係を持ちたいと思う作品を選びます」「わたしはピアノの楽曲を知ることを真摯に考えます。だから自分が好きなものについて、非常に強い思いがあるんです。わたしがとても好きな曲は非常にたくさんあります。でもどれもが自分の人生のすべてを捧げたいというわけではないですから」

演奏会そしてレコードでのバッハ、ベートーベン、ブラームス、シェーンベルク。どれも僕の中に一生残る強いものだった。20世紀最高のピアニストへの最高の敬意と謝意をこめ、本稿を閉じることにしたい。

ご冥福をお祈りします

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クラシック徒然草-リストの「エステ荘の噴水」をどう鑑賞するか-

2015 AUG 5 13:13:56 pm by 東 賢太郎

今年の3月24日に南極で過去最高の可能性がある気温17・5度が観測されたそうですが、こう毎日暑いと東京もいずれデスバレーみたいになるのではないかと心配になります。ところが気象庁の統計を調べると今年7月の最高気温の月平均(東京)は30.1度で、1877年に31.0度、1894年に31.6度、1842年に31.9度なんてのがあり2004年の33.1度が過去40年の最高ですから、特に今年が暑いわけでもないようですね。

5~6才のころでしょうか、多摩川は小田急線のガード下あたりにボート乗り場があって、暑い夏の日はみんな川へ入って泳いでたんです。岸で足だけばしゃばしゃではなくて、海で泳ぐみたいに足が底に届かないところまでドボンとつかって、泳ぐすぐ前をボートが横切ったりして。おおらかでした。思えば僕が生まれたのは終戦からたった10年後のことだったんだと、こういう風物詩をとおして実感したりします。

夏は家から海パンはいて浮き輪を持って。そうして夕方になって、夕涼みで浴衣を着て縁日で金魚すくいしてかき氷を食べて・・・と当時の思い出がいろいろよみがえってきます。耳をつんざくみんみん蝉(せみ)の声、線香花火のぱちぱちはじける音、蚊取り線香のにおいなんかにかぶさってくるのが涼やかな風鈴の音色です。

あのチロリンチロリンが涼しい。当時はバナナですら贅沢でしたが、ときどき親が奮発してくれた冷えたスイカがおいしかったこと。そうこうして多摩川花火大会があってこれを団地の屋上で席取りしてわくわくして眺めて、夏の甲子園が終わって、やがてツクツクボウシのオーシーツクツクとともに夏は去っていくのです。

僕は寒いより暑い方が好きです。だから夏至が過ぎていよいよ夏は盛りになるのに日は徐々に短くなっているのを感じると寂しくなります。しかし日本はまだいい方で、ヨーロッパのそれは寂しいを通りこして喪失感ですね。英国では夏がいつ来たのかわからないうちに終わった年もありましたし、秋は短くて10月には寒くなり、あの長くて暗い冬が一気にやってくるのだから夏はいくら暑かろうと陽光を楽しもうという気になります。

風鈴は酷暑に一幅の涼をそえて風物詩となす日本人の細やかな感性の象徴のようで、海外で見たことはありません。ではヨーロッパで涼しげなものは何かというと、噴水なんです。日本人からすると高波はあり滝があり台風がありと水しぶきが上がる光景は日常ですが、欧州にはありません。欧州で初めて北フランスのドービルで海水浴をしましたが波がないのがひどくもの足りなかった。地中海は湖面のようです。川もスイスなど一部を除くと滔々と流れる大河のイメージです。

古代より貿易はエーゲ海、地中海を舞台とし、パリ、ロンドン、ローマなど大都市は川辺にできて水運が軍事や経済の命脈を握り、ローマ帝国は上下水道を整備することで都市を近代化、文明化したように、水を支配した者が富と権力を持ちました。だから貴族の別荘や庭園には豪華な噴水が競って造られ、アートであると同時に水の支配力を誇示する権力の象徴ともなったのだろうと僕は想像しています。レスピーギが描いた数々のローマの噴水、ベルサイユ宮殿、シェーンブルン宮殿しかりです。

ヨーロッパに12年住んで各地をめぐるうちに僕は噴水の魔力にとりつかれましたが、それは自然を支配したいという男の願望には違いないと思います。しかし、それが野蛮な腕力による征服ではなく、数学と測量と工学で自然を制覇する知恵と技術によるものであった。ここが決定的に違うのです。秀吉が土嚢を積み上げて川を堰き止めて城を水攻めにした。これは大軍団を率いてマスの武力で敵を圧倒するよりもはるかに近代的な智による武力で革新的ですが、そういう発想の原型は2000年も前のローマにもっと見事にあった。

ローマの水道橋を見たときに感じるふしぎに整然とした美は、建造物としてみるなら石を切り出し、運び、磨き、積み上げという技術が生んだ美でしょう。しかし僕はあれを見ると神のように緻密で整然とした知力の美を感じます。受験で数学に苦労して、うんうんうなってある日突然ぱっと目の前に現れた美、あれに近い。僕がローマ史にぞくぞくした魅力を感じるのはまさにそこであり、次の人生はローマ人に生まれ変わってあそこのあの頃の空気を吸ってみたいものだとまで思わせる魔力がそこにあります。

噴水はその究極のパワーを象徴したトレードマークです。あれは単に「きれい」なものではない。智により自然を支配した者は神に一歩近い人間であり、その神性が権力を正当化するという、ヨーロッパの、キリスト教社会の、すべての人間の精神の根底を貫くパラダイムのシンボルでもある。卑俗なことを書いて女性には申しわけないですが、小便のとき男しかわからない戦いがあります。飛距離です。精神の根底というのはすべての本能的なものまで集約されます。

Bruxelles_Manneken_Pisジュネーヴのレマン湖にあるジェ ド ーは毎秒50 リットルの水を140mも噴 き上げることができる。ああいう発想は絶対に男のものですね。ブリュッセルの小便小僧(右)は世界3大がっかりといわれるが、それは女性的な眼でしょう。僕からするとこの身長にしてこの飛距離は立派で敬意を覚えるし、それを敵軍に向かって放って兵を鼓舞した幼王だったり爆弾の導火線を消した少年だったりと、いずれにしても英雄視しているのだから、そんなしょぼいものであっていいはずがないのであって、現に男性の眼にはしょぼくないのです。これも噴水の一種であって、パワーの象徴であり、神に一歩近い人間がその神性を発揮して自分たちを救ってくれた、少年の形をした神として市民に愛されているのです。

音楽に話をうつしましょう。歴史に残っている作曲家で王や支配者だった者はひとりもいません。ブルジョアであった者すらほとんどおらず、我々がクラシック音楽と呼んでいるものはひとえにプロレタリアートが生んだものであるといってほぼ間違いないでしょう。ことは絵画や彫刻や文学でもほぼすべてのアートにおいて同じであり、貴族や権力者はその消費者であった(余談になりますが、末端とはいえ貴族の娘が書いた源氏物語や枕草子はそういう意味でも世界史上に異彩を放つアートであり、日本文化の個性の原型を観ます)。

以上、縷々書きましたことを心にお留めいただいたうえで、プロレタリアートの子が噴水という権力の権化に接してどう思ったか?そこに何を感じ取り、どう音に描こうと思ったか。水しぶきのきらきらした輝きという表面的なものなのか、その裏にある支配、神性という含意なのか?それともまったく別なものなのか?

かような問いかけを皆さんにしたうえで、今回は私見を書かずに皆さんの耳と感性でその答えを考え、探してみていただきたいと思います。噴水を音にしてえがいた、僕の知る限り最初の音楽(少なくとも最初の名曲)である、フランツ・リストエステ荘の噴水( Les jeux d’eaux à la Villa d’Este)」です。ホルヘ・ボレの素晴らしい演奏です。

いかがでしょう?音楽というのは文化ですから、その生まれた土壌や背景の歴史を知っていた方がよろしいですね。そういう知識はこういうものをお読みいただけばいいでしょう。巡礼の年 – Wikipedia ただ、こうした知識はインフォメーションにすぎず、この曲が1883年に出版され、巡礼の年という4部作の一部であり、印象派の技法の祖となったという風なことは知っていた方がベターですが、知ったからといってこの曲を好きになれたり深く理解できたりするものではないのです。

僕は上述のような長々とした脈絡のなかでこの曲を聴いております。インテリジェンスというと気どって聞こえるので本意ではないのですが、それにあたる日本語がなく、英語でもそれ以外に適切な単語がないのでやっぱりインテリジェンスなんですが、そういう自分なりの理解や解釈という脈絡のようなものを持って音楽を聴くということは、クラシックという古典芸能の場合はとても大事だと思います。

僕はこの曲を聴くといつも、幼い日にもぐった多摩川の冷たい水、涼しげな風鈴、花火、過ぎゆく夏、ローマへの憧れ、神性、権力・・・などといったもの、まさに駄文を連ねてきた雑多なものごとが頭をかけめぐります。それはもちろん僕だけのものであって皆さんの誰のものでもありません。

だから皆さんお一人お一人にそういうものがあるはずなのです。そういう意識を持たれて聴き進めていくうちに、「ぱっと目の前に現れた美」というのに気づかれる日が必ずやってきます。それは時間をかけて追い求めるに値するものであると信じております。本稿がそういう一助になれば幸いです。

(続きはこちらをどうぞ)

ラヴェル「水の戯れ(Jeux d’eau)」

 

 

 

 

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リスト メフィスト・ワルツ第1番 S.514

2015 JUN 21 18:18:32 pm by 東 賢太郎

「メフィスト・ワルツ第1番」はレーナウの「ファウスト」による2つのエピソード』という管弦楽曲の第2曲「村の居酒屋での踊り」という形もあります。どっちが原曲かですが、近年の研究よりピアノ版がオリジナルである可能性が指摘されている (Ben Arnold, The Liszt Companion, p128)そうです。

1856-61年ごろの作曲ですが、冒頭は当時の聴衆にとって事件だったでしょう。

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e→h→fis→cisと5度が重なって(ダフニスの冒頭そのもの!)、そこにaが乗るとc#がdに上がり、左手がe-h-fis、右手がd-a-eという2つの「5度の柱」が長2度のズレでぶつかる。この和音はバルトークに直系遺伝し、アクセントのビートをずらせばストラヴィンスキーを予言しています。

聴衆が失神し、リスト自身も演奏中に気絶することがあり、クララ・ヴィーク(後のクララ・シューマン)があまりの衝撃に号泣したというリストのピアノ演奏ですが、演奏技術だけでなくこうした革新的な音響の方も効いていたのではないでしょうか。壮絶としか表現のしようがないホロヴィッツの演奏でお聞きください。

この難曲を弾きこなしてまだ余裕がありさらに難しく編曲してしまっています。何でも初見ですぐ弾けたリストがやはりそうだったのですが、そのリストの曲に音符を加えるホロヴィッツがどれだけピアノが弾ける人だったか、これを聴くとわかります。

「弾ける」とは「うまい」ではありません。この譜面には上記の二人だけでなくチャイコフスキー、ラヴェル、コダーイ、ラフマニノフ、メシアンが見えてきます。まず音を出す前にそういうことが見えているかどうかです。

彼らに霊感を与えた何かはピアノ書法といってしまえばそれまでですが、書法に乗っかって伝播した楽興があるのです。ホロヴィッツほどタッチ、音の色、和音の色で聴き手の心の深いところにそれを伝えたピアニストは知りません。

例えば上の演奏で右手がクレッシェンドしてd-a-eをたたく部分。左手は抑えて一番上のeをffで強調します。eに悪魔の叫びのような色があり、あたりを不気味に支配するこれを聴くとほとんどのピアニストのeが埋もれて、単なる「和音」にきこえます。

メフィストフェレスは悪魔なのです。「悪魔が狂ったようにヴァイオリンを奏でる」音なので5度音程なのです。これが普通の和音にしか聞こえないピアニストがいくら腕まくりして達者に弾いても魂の入った音楽になろうはずもありません。

やがて始まる狂おしいダンス。「居酒屋で飲む農民たちを陶酔のなかに引き込む」のです。ホロヴィッツを聴くと他の演奏は楽譜をなぞったようにしか聞こえません。腕の格段の差もあるのですが、それ以前に読みの差を感じるのです。

名手数あれど、こんなピアノは彼しか弾けないのだということを知っていただくにはyoutubeにあるものを片っぱしからご自分で比べられるといいでしょう。一聴瞭然と思いますよ。

違う読みとしてそこから面白いと思うものを3つ選びました。

まずブラームスの大家であるジュリアス・カッツエンの演奏。おどろおどろしさはないがリストの速いパッセージの疾風のごとき軽みを見事に表現してます。

野島稔です。これは実にすばらしい。平均的日本人の蒸留水みたいなピアノをはるかに超越した洞察とテクニック。脱帽です。

若手代表。ケテヴァン・カルトヴェリシヴィリ(Ketevan Kartvelishvili)と読むんでしょうか?若鮎の如し。悪くないですね。有望音楽家の宝庫であるグルジア出身だそうです。

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