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野村證券元社長の酒巻さんとランチした件

2024 FEB 23 18:18:32 pm by 東 賢太郎

山本陽子さんが亡くなった。もと野村證券のOLだったことは社内では有名で、ずっと年上の方だが勝手に親近感は抱いており、「黒革の手帳」の悪女役でファンでもあった。つい先日に出演しておられた「徹子の部屋」がyoutubeで見られるが、お元気な姿からは想像もできない。ご冥福をお祈りしたい。

野村といえば、先週に酒巻英雄元社長とランチをした。もう書いてもいいだろう、酒巻さんは僕が入社してすぐ配属になった梅田支店の「S支店長」である。

どうして証券会社に入ったの?(その3)

どうして証券会社に入ったの?(その6)

店が騒然となった「T社のU社長事件」。買っていただいた公募株のことを話すと「トヨタの公募か、あったよなあ」と覚えておられる。「レコード事件」の顛末はご自身から語られ、「いよいよウチもこういう新人が入ってくる時代になった」と訓示されたそうだ。ご自身がN響会員だったのだから異例の存在の先駆けだったわけで、社長に就任されると社内誌にまずクラシックの趣味のことを書こうとなった。しかしその時間がなく、秘書室から僕にゴーストライターのご下命があり「あれが評判になっちゃってさ、日生の社長から飯を誘われたんだ」と後日談をうかがった。ゴーストといえば、元旦の日経新聞に掲載される毎年恒例の「経営者が選ぶ有望銘柄」で、U社長の欄も僕が書いていた。おおらかな時代だった。

田淵さん

おのずと昨年亡くなられた田淵義久さんの話になった。社長になって車の免許を取ったが日本では運転させてくれないからとドイツに来られた。もう顧問になられていたがそれが本音だったかどうかはわからない。三日三晩、郊外の温泉地やゴルフ場でいろんな話をされたからだ。翌年に再度来独され、スイスに転勤したらそっちにも来られた。いつも同行は秘書の寺田さん1人だけだ。一見すると豪放磊落だが物凄く頭が切れる。田淵さんと水入らずで10日も旅行し教えていただいたことは後進に残すべき財産としか言いようがない。野村を退社して何年目だったか、ある所でばったりお会いした。「お前なんで辞めたんだ」と怒られて背筋がぴんとした、それがお目にかかった最後だった。

酒巻さんが来られたのはもっと以前のロンドンだ。まだ役員でありこちらは平社員の下っ端だったが、週末に一泊で湖水地方まで僕の車でドライブした。「あれ楽しかったなあ、ありがとう」「とんでもないです、女房までご迷惑おかけしました」。連れて行ったのは結婚式の主賓をつとめていただいたからだ。そのロンドン時代。6年間駐在した最後の年に日経平均が史上最高値の3万8957円を記録した。万感の想いでそれを見とどけて僕は東京に異動した。そして今週、35年の日本株低迷期があったが、酒巻さんと再会してすぐに記録は更新された。

最高値更新瞬間の野村證券トレーディングルーム

ドイツ、スイスは酒巻さんは社長で余裕がなかったのだろう、のちに東京証券取引所社長、プロ野球コミッショナーを歴任される斉藤惇副社長が代理で来てくださった。債券畑だった斉藤さんの下で働いたことはないが今でも仲良くして相談にのっていただいている。そうこうしているうち事件がおきた。スイス在任中、97年初めのことだ。

お断りするが以下はすべて私見である。あれは株式時価総額で抜くという歴史的屈辱をもって米国の威信を揺るがせた勢いの根源、その本丸だった野村證券を潰し、日本の金融行政を大蔵省ごと屈服させて弱体化し、我が国の銀行・証券界にゴールドマン、モルスタ、メリルが侵略できる風穴を開けて1200兆円の個人金融資産に手を突っ込むべく米国のネオコンが仕組んだ事件だった(郵政民営化はその結末のひとつだ)。1996年11月、橋本総理より三塚大蔵大臣及び松浦法務大臣に対し、2001年までに我が国金融市場がニューヨーク、ロンドン並みの国際金融市場として復権することを目標として金融システム改革(いわゆる日本版ビッグバン)に取り組むよう指示が出た。これが宣戦布告の狼煙となって金融機関の統廃合、とりわけ大手銀行の合従連衡という大地殻変動が起きるのだが、ここだけは私見ではなく「大蔵省から引き継いだ情報」として金融庁のホームページに書いてある。

まず1997年の年初に東京地検特捜部によって総会屋事件が、翌年に大蔵省接待汚職事件(通称「ノーパンしゃぶしゃぶ事件」)が大々的に報道され、第一勧銀、証券大手4社に対する刑事事件へと展開し、大蔵大臣、日銀総裁が引責辞任し、財金分離と大蔵省解体の一要因となった。これが野村證券の内部告発で勃発したことで、同社だけに法人の処罰がなかったことは当時の僕は知らなかった。田淵さんがドイツ、スイスに来られたのは1994~96年だ。事件を予期させるような発言は何もなかったが大蔵省のユニバーサルバンキングへの転換画策についてだけは詳しく言及して危機感を述べられた。意見を求められたのでプロップ取引で自腹で儲けるゴールドマン型のインベストメントバンクはいわば銀証一体でグラス・スティーガル法は邪魔かもしれませんね、ドイツ銀もUBSもそれが競争力だし背後はハーバードで繋がる財務長官サマーズ、ルービンですね、でも日本は証取法の改正に手間取りますねという趣旨のことを述べたように記憶している。

ちなみに大蔵省接待汚職事件の一環として日本道路公団の外債発行幹事証券会社の選定に関わる野村の贈収賄が立件され、元副社長らの逮捕に至った。これが98年1月のことだ。大蔵OBの公団幹部は欧州にも来てチューリヒでのディナー主催の依頼が本社から舞い込んだが、それが前日に突然のことであった。僕は先約があり副社長が代行した。接待が賄賂に当たることの立件であるから社長の僕に東京地検への出頭要請が来たが、僕は20分間コーヒーを飲んだだけだったことを秘書と副社長が東京で供述してくれ、スイス拠点は債券引受業務はしないことから事なきを得たと聞いた。

酒巻さんのあと野村は東大法の鈴木さんを社長にしたが、たった48日で日テレ・氏家社長の従兄弟である氏家純一さんにかえた。読売に頼った。結果的に山一が犠牲になったが同社は社長が証券局長のクラスメートだから大丈夫と言っており、事はそんなレベルで片づく話でなかった。サマーズに円主導のアジア通貨バスケット構想を潰されたことはミスター円こと榊原英資大蔵省財務官(当時)から直接伺って、金融ビッグバンの美名のもとで法整備計略が着々と進行していることをうすうす知る立場にはあったがそれは香港にいた99年あたりのことだ。この大嵐の中で海外にいたことは運命だったとしかいいようがない。

氏家体制になり社内の空気が一変したのは当然だ。それが野村の生き残りの道だったからだ。「香港から日本に帰ってきたら僕の大好きだった野村じゃない感じがちょっとありました。本社で中途採用の面接官をしながら『いま学生だったら入社しないだろうな』という気がしたんです。もっというなら、受けても落ちるなと」。これは本音だ。そんな人間が新生野村で採用をするのはいかがなものか。笑って受けとめてくださった酒巻さんの懐の深さに救われた気分だが、日本にいてその「感じ」は日増しに強くなっており、結局僕は大蔵省のユニバーサルバンキングへの転換策にのって2004年にみずほ証券に移籍することになった。

田淵さんと酒巻さん

その重大な決断の是非はまだ自分の中では判明していない。是でもあり非でもあった。97年に通常の6月でなく12月にスイスから香港へ想定外の異動をしたことも含めてだ。僕は野村證券の幹部であったことはなく会社の内情を知っているわけでもあれこれ言える立場でもなかった。ただこの異動は自分はともかく家族にとってはあまりに過酷なことであり、日本を知らない長女は10才にして3つ目の外国の小学校に入ることとなった。僕自身、ストレス耐性はある方だが限界だったのだろうか、ある晩に初めてパニック障害を発症して自分が驚いた。500人の部下がいる立場で精神科の医者に行くわけにもいかず、それがまたストレスになって一時は最悪の事態になった。

過ぎたことはもういいが、何の因果で証券界に身を投じたのかいまになって自問している。鎖国か共産化でもしない限り証券業は日本人の幸福にとって不可欠な仕事であり、それなりに有能な人材が入ってきてはいるが大国に対する競争上のアドバンテージにするには程遠い。このままでは米国はおろかそのうち中国やインドにも劣後するようになるだろう。それを僕が目にすることはないだろうが、それで良しとするかどうかということだ。

別れ際に酒巻さんが「5月ごろ今度は僕が一席もうけるよ」といってくださり写真を撮った。45年前の梅田支店でこんなことになるなど誰が想像したろう。

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クラシックで寝ついた0歳児が69になったこと

2024 FEB 4 21:21:09 pm by 東 賢太郎

家内からメールがあった。

大森のおばあちゃんがお手伝いに来てくれて冷たいお水でオムツを洗ってくれたと生前話していました。今日は、あなたを産んで上手に育ててくれたママを思いだして一日過ごして下さい。夜寝なくて抱っこして小さな音でレコードをかけて聴かせていた事は知ってましたか?

はい、知りませんでした。おばあちゃんのことも(ごめんなさい)。

レコード。親父のSP(78回転盤)に相違ない。鬼畜米英の時代になんでそんなものを持っていたのかよくわからないが、とにかく好きだったんだろう。それを2,3歳ぐらいからきいていた記憶はあり、だからこうして一生の宝物になってるとは思っていた。

0歳児がクラシックで寝ついた。俄かに信じ難いが、長じて思いあたることはあった。大学時代の下宿でのことだ。勉強に疲れるとコタツで横になってヘッドホンで音楽をきき、そのまま寝てしまった。はっと目が覚めると朝であり、カセットテープがループになっていてシューマンの交響曲が耳元でがんがん鳴りっ放しでびっくりする。「それで熟睡なんだ」といっても誰も信じない。今でもパソコンで音楽つけっぱなしがある。目覚めはすっきり、原因不明だ。レム睡眠、ノンレム睡眠の比率がどうのとは無関係に僕の脳味噌はできているらしい。

最期の床で、好きだったチャイコフスキーの4番をどうしてもと思い、ヘッドホンできかせた。すると眠っていた母はぱっちりと目をあけた。言葉は話せず僕が誰かもあやしくなってはいたが、「うんうん、これだね」と、あたかもわかっていた頃の合点かのようにじっと目を見てうなづいてくれた。僕は驚き、あっ、良くなってるぞと喜んだ。

母を悪くいう人はまったくいないし想像もできない。まさに慈母であった。こういう両親の家に生まれたことを神に感謝する。

69才

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南米の空気とライル・メイズ・トリオ

2024 JAN 30 11:11:14 am by 東 賢太郎

ビジネスは流れというものがあって、今はいいように渦が巻いている。いろんな話があって、まあ自分のことだけ考えれば受けても受けなくても、どれとどれだけやってもいい。世間的にそう小さな話でもない。あと少しで69にもなるのだから無理してもろくなことはなく、他人様の迷惑になってもいけないというのが先にあるのは道徳心というより体力、気力との相談だ。ゴルフ場の受付で「年齢」欄に58と書きそうになり、一瞬、えっ俺はもうそんなトシかと思ったんだよなといったら「お前だいじょうぶか?来ちゃってるぞそれ」と笑われる。本当に58ぐらいの時にも、48ぐらいの時にもそう思ったし、あまりに来ちゃってないからそう思うのさということにしている。

こういう時、信じるのは直感だけだ。なぜならずっとそれで世を渡ってきて、まだ渡れており、そこには体力、気力との相談も自律的に含まれているからだ。やって良かったというケースもあるが、やらなくで正解だった方が多い。やったら即死のケースもあった。そうやって部長や役員だった会社を3度も辞めたし、今となってみるとあまりに大正解だったと考えるしかない。金融のホールセールビジネスというのは魑魅魍魎の巣窟である。魑魅は山の怪、魍魎は川の怪だから要はぜんぶ化け物であって、化かされた者は入ってきた本人がいけない。プロの麻雀大会だ、すってんてんにされても同情も救済もされない。

僕は経験も信じない。経験を信奉する者に最も欠けているのが経験なのだ。うまくいった失敗したというのはその時の環境要因が大半であって、それが違えば別の判断になるのは道理である。僕はピッチャーだから前の打者を打ち取ったタマで次打者もいけるなんて考えたこともない。直感というのは打者ごとに危険を察知する霊感のことで誰にもあるのかどうか、練習して身に着くかどうかは知らない。想定外の事態になっても大丈夫な神経のほうが大事かもしれない。ちなみに会社の資本勘定はその為にある。経営者はえてして経験から判断するが、えてして凶と出る。それで即倒産されては商取引の信用が崩壊するからBSにバッファーを載せる。経験は信用できないことを前提にしている。

直感は充分に寝て、心が冴えわたり、かつ、平静でないと働かない。そういう状態を作るのが実は難しい。個人的なことになってしまうが、僕の場合は36才の時に行ったブラジルの空気と情景を思い出すのがいい。際だって特別な記憶だ。歳と共に輝きを増してクラウン・ジュエルになってる。24時間もかけて地球の真裏の別世界まで行くなんて火星に行ってきましたぐらいのもんだ。格段にラグジュアリーだったヴァリグ航空のビジネスクラスであったとしても最早望めない自分がいる。そんな出張までさせてくれた野村證券の懐の深さに育てられた自分がこの程度。申しわけなさもあり、どうしてもあの時に帰ることになって幾分かの鼓舞も混じる。

僕がうまくいってきたのは多種多様な音楽が生み出す気分があるおかげだ。無意識に漢方薬にしてうまく使ってきた。ピンポイントにあの宝石を心象として蘇らせるものが大海を探せば必ずある。南米といえばボサノバで大好きだが、こういうシチュエーションで蘇らせたいのは心象であって風景ではない。それがある。ウィスコンシン生まれのアメリカ人のジャズだ。ブエノスアイレスでの録音というのがあるかもしれないが、ライル・メイズのピアノはその芳香に満ちていてこのシャワーを1時間浴びているだけでいい。

あの時、ブエノスアイレスもサンティアゴも行った。これを録音したオペラハウスは世界5大ホールに数える人が多い名劇場だが聞けなかった。仕事も面白かったし素晴らしい時を過ごしたのだから思い残しはない。

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後妻業-悪女の業をミステリーの系譜で辿る

2023 NOV 5 13:13:32 pm by 東 賢太郎

社会に出てすぐ営業にぶちこまれ、世の中、こんな連中が蠢いてこんなことをやってるのかと目から鱗の毎日を過ごした。1979年の大阪だ。社会勉強なんて甘ちょろい言葉は犬の餌にもならない。今ならどこの会社に就職しようとあんなことで何カ月も過ごさせてもらうなんてあり得ないし、研修にしたって強烈すぎる凄まじい体験を大企業の名刺を持って味わわせてくれるなんて想像を絶することに違いない。それでも一時はくじけて辞表を書こうと思ったのだから偉そうなことはいえないし、後に考えれば適当にごまかして営業向いてませんでも全然よかったのだが、そこまで真剣勝負でやって勝ち抜こうと考えていたことは馬鹿かもしれないが財産にはなった。

株を売るのだからカネのにおいのする所を探し出してこっちが近寄らないといけない。「社長の名刺を毎日百枚集めろ」がどう見てもできそうもないミッションである。上司は電話訪問しろと言ったが、まだるっこしいので飛び込み専門にした。達成さえすれば方法は問わないでしょとは言わなかったが、僕は大学受験をくぐりぬけるのにそのテーゼが骨の髄まで沁みこんでいて自信の持てない方法でやってできませんでしたという愚は犯したくなかった。会ってしまえば相手の身なりも顔も見える。何かはしゃべるし反応もわかる。そうやって毎日百人以上の見知らぬ大阪の人に名刺を渡して、あっという間に世間というものを覚えた。一見まともだが一皮むくと危なそうな輩もいたし、真正面から悪そうな連中もうようよいた。そんな人種に電話でアポが入るはずない。幸い、糞まじめな人間よりそういう方が面白いという風に生まれついていて、ぜんぜんどうということもなかった。

大阪の人は東京がきらいだが、全員が一様にそうかというとちがう。何かで連帯が必要になると「そやから東京もんはあかんで」と大阪側に心をとどめおくことを最低条件として、各々のレベルにおいて、東京がきらいなのだ。だから「あんたおもろいやっちゃ、東京もんやけど」でいい。そこが根っからの商人の街の良さであり、いくら頑張ってもそれ以上は行かないが商売はできる。何がおもろいか、その感性はわかるようでいまだによくはわからない。こっちがおもろいと思うと相手も思うようで、商売というフィールドでそういう人は得てして金を動かせることが多かった。こっちも動かせる。そうしてビジネスになる輪ができた気がする。金持ちと知り合うのが大事なのではない、あくまでこっちが動かせることが必須なのはお互い商人だから当然だ。

若かったから気晴らしにいろんな場所に出入りした。新地で飲む金なんかなく、せいぜいミナミか近場の十三とかの場末のホルモン屋や安い飲み屋だ。新宿のゴールデン街に増してディープで、兄ちゃん遊んでってやなんてのは儲かってまっかにほど近い軽いご挨拶である。看板にはBarなんて書いてるが女の子というか当時はおばちゃんだが、猫かぶってるアブなさ満載である。ヤバい所だなと思ったがそういうのの免疫は中学である程度の素地ができていたからよかった。我が中学は区立で入試もなく、地元のワルやらいろんなのがいた。ある日、鉄仮面みたいな国語教師が授業でいきなり黒板にでかでかと馬酔木と書いて、なんと読むか?とクラスで一番読めなさそうなSをあてた。はたきの柄みたいな棒でひっぱたく名物教師だからシーンとなったら「アシビです」とそいつが平然と読んで鉄仮面が動揺。「おお、S、お前どうしたんだ」と驚くと「ウチの隣のパブの名前です」で大爆笑だ。そういう話で盛り上がったりしておもろかった。

悪い女は嫌いじゃない。岩下志麻の極道の妻シリーズは愛好したし、松本清張の悪女物もドラマで全部見ている。「黒革の手帳」は1億8千万円を横領した銀行OLが銀座のおおママにのし上がる話だが米倉涼子の当たり役だ。黒い手帳にある「架空預金者名簿」で美容外科クリニック院長や予備校経営者の手練れの成り金を恐喝して銀座一のクラブ『ロダン』を買収する計画を練るが、逆にロダンの株主で政財界のフィクサーである大物総会屋に騙され、手下のヤクザに追われて逃げる。一丁前のM&Aだ。頭が切れて度胸も押し出しもあり思いっきりワルの女、そんなタマは現実にいそうもないが、米倉はいてもいいかな位にはよく演じている。彼女は「けものみち」、「わるいやつら」、「熱い空気」、「強き蟻」でもいい味を出してるが、男を手玉に取ってころがす女は並の極道より迫真性があるのは何故だろう。

悪女もいろいろだが後妻業は札付きのワルだ。黒川博行の「後妻業」は数々ドラマ化されている。資産家の老人を次々とたぶらかして結婚し、遺産をせしめる女の話だがこっちは社会にいくらもいるだろうというリアリティがある。現実に、男性4人に青酸化合物を飲ませ3人を殺害したとして死刑が確定した女もいるが、後妻業だったかどうかはともかく、55も年下の女を入籍した紀州のドンファンさんもいたから実需もあるというのがミソなのである。愛情は装っただけも犯罪さえなければ後妻業だけで有罪という法律はない。そんなのがあったら後妻の結婚は怖くてできなくなってしまう。いくら爺さんでも好きでない女性と結婚はしない。だからそこに明らかな詐欺がない限り、殺人の物証がなければバリバリの後妻業女でヤクザのヒモがいようがヤク漬けであろうが何でもないのが法の穴というか難しい所だ。単にひっかった方がスケベの馬鹿でしたねで終わりである。逆に富と権力ある女性を狙う逆玉ホストがこれからは流行る世かもしれない。

清張にも後妻業ものがある。「疑惑」だ。鬼塚球磨子という女が年上の酒造会社社長をたぶらかして結婚し、夫に多額の保険をかけて車ごと海に沈め、自分はスパナで窓を割って脱出して夫を殺害したと疑われる。捜査で悪態をつき「鬼クマ」と報道されるような女に社長は惚れこんでしまったが、球磨子は新宿のホステス時代にヤクザとつるんで詐欺・恐喝・傷害事件を起こした札付きのヤンキーで、社長の子供は嫌がって前妻の実家に逃げ、親にも縁を切られる。事故を起こした車の運転者は女だったとの目撃証言もあり、刑事も検事も球磨子の保険金殺人に絞り、日本中が報道を信じてそれを疑わないムードになった。ところが正義感ある球磨子の弁護士佐原は公判で目撃証言を覆えし、警察の検証の結果、フロントガラスは衝撃で割れるためスパナは不要だったことも判明する。そこから佐原は『なぜスパナが足元にあったのか』『なぜ夫の右の靴が脱げていたか』という物証から驚くべき真相を導き出すのだ。シャーロック・ホームズ以来の探偵小説の王道の醍醐味であり、正義の味方の手腕と頭脳に読者は快哉を叫ぶこと必至だ。

ところが本作品はそこがストレートではない。佐原弁護士は原作では男だがドラマ版では女(米倉)になっていて球磨子との女の闘いに書き換わっているが、清張のオリジナルは球磨子がとんでもない鬼女だと報道しまくった秋谷という男(新聞記者)の眼で書かれ、佐原が真相をあばいて球磨子が無罪放免になるとヤクザを率いてお礼参りに来ると恐れた秋谷が佐原を鉄パイプで襲う所であっさり終わるのである。このハードボイルドな後味は鮮烈だ。冤罪を覆すのは法の正義であり、ミステリー小説は万人が納得する勧善懲悪で閉じるのがセオリーだ。しかし清張は、球磨子が怒りに燃えて野に放たれることへの秋谷の恐怖で物語を閉じる。それは鉄パイプで新たな殺人が起きる前兆のようでもあり、もはや何が善で何が悪なのか混沌としている。世の現実はそのまま小説になるほど割り切れておらずこんなものかもしれないと思う。そんなとんでもない女に騙されて家庭どころか命まで失った酒造会社社長の救いようのない悲しさだけが見えない墓標のように残るのである。

清張はこの「疑惑」の元ネタが「別府3億円保険金殺人事件」だという巷の説を否定したが、それは読みが甘い。僕はジェームズ・M・ケインの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」がそれだろうと考えている。1934年作のこの名品を彼が知らなかったはずはない。カリフォルニアの流れ者の悪党が偶然立ち寄った安食堂で馬鹿だがセクシーな女房にひとめ惚れしてしまう。やがていい仲になった二人は旦那のギリシャ人を誘い出して車ごと崖から転落させて殺してしまう。正確には車中で殴り殺して転落死に偽装するのだが、自分たちも乗っており(「疑惑」とおんなじ)、旦那に多額の保険がかかっていたことから裁判で窮地に陥るが(おんなじ)、弁護士の巧みな手腕で(おんなじ)容疑を女房にのみかぶせて保険会社との取引で逃れて悪党が無罪になってしまう(おんなじ)。ここからは「疑惑」にはないが、今度は女房が本当に交通事故で死んでしまい、男は捜査されて旦那殺しの書類がみつかってそっちがバレたうえに女房殺しでも逮捕されてしまう。そっちは無罪になっても旦那殺しで死刑と告げられた男は「愛した女房を殺して死刑は耐えられない」と語り、旦那殺しの罪を選ぶ。

本作はハードボイルド小説の苦み走った不思議な味を覚えた最初の作品である。一気に読み終わってしばし茫然とし、他愛のない小市民の幸せを手に入れようと善良な市民を殺した浅はかで人間くさい悪党夫婦に同情している自分を発見したという意味で忘れられない作品である。大阪はミナミ。得体のしれぬ臭気が漂う真夏のがやがやと猥雑な薄暗い路地裏であやしい取引で小金を儲ける男ども女ども。それでも話しかけるとあっけないほど悪党の気はせず「兄ちゃんなんかええ話か?」と喰いついてくるあの人達。罪と罰ではなく人と欲だ。それ以来僕は欲をきれいごとで隠す人間は好きになれなくなった。

 

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ようすけ君はビッグバン理論より正しい

2023 OCT 23 8:08:25 am by 東 賢太郎

ジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡が133億光年のかなた、すなわちビッグバンからわずか5億年後という領域に大質量銀河を6つも発見した。

従来の宇宙論ではこの年代の宇宙には小さな赤ちゃん銀河しか存在しないはずでありビッグバン理論に修正が迫られるという驚天動地の事態が物理学、天文学の世界で起きている。

シロウトのドタ勘だが、全宇宙の原子が1点に集まっていたなんて信じ難い。そもそもなんでそんなものがあって、なんで爆発したんだ。てんびん座にあるメトシェラ星の年齢は144±8億年と計算されており、つまり、宇宙よりも古いということになる。ということは宇宙はもっと前からあったことになる。地球から最も近い星まで約4光年だが、現在もっとも速いボイジャーで行っても7万年かかる。ネアンデルタール人の宇宙飛行士を乗せれば着くころにはホモサピエンスに進化している。写真の銀河はその30億倍も遠い。行くのに2百兆年かかる。ビッグバン理論は修正すれば誤りでないかもしれないが計算は数学でする。そもそもどうしてそんな遠くでも数学がワークしてるんだろうという素朴な疑問がわく。

科学は突きつめると宗教に似てくる。数の単位も兆のずっと先は不可思議、無量大数だ。そこまで行くと仏教の世界に踏みこんだかと思うが、銀河系にある原子の数は1無量大数個と聞くとまた科学の世界に戻った気になる。畢竟、このふらふらした感じは人間の脳の処理限界に由来しているだろうが、処理を代替してくれる数学という言語も全宇宙的にユニバーサルかどうか証明はされていない。

数学的に証明できるということは “プログラム可能” ということだ。我々は三次元宇宙にいると思っているが、ブラックホールの研究を通じて、常識に反して、ある空間領域のエントロピー(情報量)は領域の体積ではなく表面積によって決まることがわかった(ホログラフィック原理)。さらにそれに時間という四次元要素を加味して過去、未来があると思っているが、それは脳の設計上の認識にすぎず、時間は存在せず過去、現在、未来は同時に存在しており(アカシックレコード)、五次元の仮想的な時空上の重力の理論は重力を含まない四次元の場の量子論と等価だ。つまり我々は五次元宇宙という極小の偶然性(量子ゆらぎ)が支配する並行した世界にいる(パラレル・ワールド仮説)。

この「重力を含まない4次元の場」は意味深だ。

物心がつくかつかないかの頃、僕はとても病弱で毎週のように熱を出して医者通いだったらしい。母がおぶっていたからまだ歩けない頃だ。リンゴを擦って食べさせてもらい、寝入る。すると必ず見るおそろしい夢があった。どこかに書いたと思ったらこんなところだ。

僕が聴いた名演奏家たち(アーリン・オジェ)

宇宙空間のようなところにぷかぷか浮かんでおり、何か、目には見えないが「重たいもの」を持たされている。とっても重い。見渡すと何人かの人も浮いている。そして僕は「それ」をどこか別なところへ運ばなくてはならないのだ。誰の声も命令も聞こえない。でも、厳然とその「義務」だけが僕にずっしりとのしかかっていて絶対君主の指し図みたいに逆らえないのだ。おかしなことだ。無重力の宇宙空間に「重たいもの」なんてあるはずないのに・・・。

そんなの無理だよ、僕にはできないよ!うなされて泣き叫んで、母の声で我に帰っていたそうだ。これ、「重力を含まない4次元の場」だったんじゃないか。僕は何かを背負ってこの世に生まれてきたんだろうか?ビートルズ(ポール・マッカートニー)のアビイ・ロードに「Carry That Weight」(あの重たいものを運べ)という曲がある。彼もひょっとして・・・。

ご存知の方もおられるかもしれないが、youtubeに「宇宙に行くこども」という番組があり、僕はかわいい語り手である「ようすけ君」の大ファンだ。彼は胎内記憶のある6才の男の子で、とても賢いなあと感心する。確信ある語り口に台本があるとも思えず聞き入るしかないし、お母さんもやさしくて癒されてしまう。

胎内記憶というのは3才ぐらいまではある子がけっこういるが、会話できる年ごろになると記憶が消えてしまうらしい。それでもようすけ君のように話せる子は世界中にいて、ほとんどが「お母さんを選んで空から降りてきた」という話をするそうだ。僕はそれは全然ないけれどあの夢は何度も見てはっきり覚えてる。その頃の記憶はそれ以外にはほとんどないのだから不思議なものだ。

スペイン人だったようすけ君は死んでからどこに行ってたんだろう?空のうえで神さまがたくさんいるところだ。神さまは彼の「魂ちゃん」にやさしく指導してくれたようだ。きっと仕事なんだろう。何のため?何百世代も生きさせて遺伝子の進化実験でもしてるのか?

数学?それ、神さまのパソコンのプログラムのことだよ、だって人が見てる宇宙はホログラムって名前の動画なんだよ、終わっちゃったらまた雲の上にぴゅーって行ってね、望遠鏡で見つけた新しいママのおなかにぴゅーって入るんだよ・・

ようすけ君、こんな感じかな?大人になったらまた教えてね。

これを書いたのは2017年だ。5月に母がいなくなって、どこへ行っちゃったんだろうとパソコンの前で考えてたときだ。

座右の書と宇宙の関係

 

この写真を撮るのに現人類は地球に出現してから500万年かかった。宇宙船に乗って写真の銀河に行き着くまでにその進化を4千万回できるが、それは気が遠くなるほど無理だろう。人類がそこへ行くことは想定されてない、つまり、我々とそことの間には越えられない透明な壁があるに等しいということだ。それがガラスであって、我々は金魚鉢の中で泳いでるお魚だとしても矛盾はない。

「この銀河はみんなCGなんだよ。きれいでしょ、宇宙っぽいでしょ。ときどきプログラムにバグが出てね、メトシェラ星みたいにバレちゃうんだけどね、まあ楽しんでちょーだい」

「光速?ああそれね、僕のパソコン画面の処理速度の限界なの。CGはその速さで『観測』はできるけどね、ちょっとモデルが古いんで133億年もかかっちゃう。でも死ぬとね、魂ちゃんは画面の外に出てぴゅーってここに来れるよ」(神さま)

 

 

 

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唐の都、長安を旅して考えたこと

2023 JUL 29 7:07:53 am by 東 賢太郎

唐の都、長安。いい響きだ。いまは陝西省西安市になっているが、中国の京都、奈良であろう。司馬遼太郎の『空海の風景』は貪るように読んだが、いよいよ旅が長安までくると、街のこまごまを描写する司馬の筆のリアリティが少し鈍ってもどかしかった。何事も百聞は一見に如かずだ。やはりそこに立ってみて自分の五感で感じ取るしかない。あれは1998年のこと、香港からの出張で初めて西安に降り立った。三蔵法師ゆかりの大慈恩寺で大雁塔の前に立つと、遣唐使として派遣された阿倍仲麻呂や空海もここに立ってこの眩しい姿を仰ぎ見たに相違ないと思えてくる。自分にとってはペンシルベニア大学の校舎群がまばゆく、よし思いっきり勉強するぞと奮い立った若き日の青雲の志に重なる。しかしながらその一方で、なにやら見慣れぬ曲線を描く大雁塔の外縁の輪郭には異国を強く感じており、いとも不思議な感覚に迷いこんだことを覚えている。

西安の北東にある始皇帝の兵馬俑は圧巻である。写真の総勢は約6000人(桶狭間の信長軍勢の倍ぐらいだ)。2200年前の兵士ひとりひとりの顔が写実されているリアリズムには驚嘆しかない。そこまでさせた権力にも、しようと執着した執念にもだ。漢の時代に土中に埋もれて発見されたのは1974年。空海はこれを知らないが、彼が入唐した時点で1000年前の遺跡であった。東を向いているのは秦が当時の中国の最西端で敵は東だからとされる。不老不死の薬を求めて徐福を日本へ派遣し、子孫は秦氏になったという説は虚構とする否定派が多いが、来てないという証拠もない。証明されてないからなかったことに、という説は非科学的でしかない。

私見を述べる。現在シルクロードと呼ばれるユーラシア大陸の交易路網は西洋人のセンスで脚色されたコンセプトにすぎない側面もある。交流、交易は紀元前2世紀、つまり秦王朝の時代からあったのであり、人間も文物も混じり合っており、はるばるローマやペルシャから中国まで来る体力、気力、資産、技術、理由のあった異人と接していた秦国の人間が朝鮮半島、九州に足を延ばすことを躊躇したとも思えない。兵馬俑の人面も物語る。こんな微細な箇所まで強烈な執念で覆いつくす皇帝に薬を探してこいと命じられた徐福に逃げ道はなく、見つからなければ殺されるから戻ってこなかったのは納得でしかない。といって日本各地の徐福伝説を支持できるわけではない(そのどれかが正しかった可能性はある)、一行は来日してそのまま日本に土着し混血していったと思料する。

西安で食事を済ませて隣町の宝鶏市に向かった(下の地図)。当時は国道しかなく車を飛ばして2時間はかかったと思う(今は高速がある)。道はあっけらかんと一直線である。大学時代に、あまりに一直線で居眠りしかけて危なかったアリゾナ砂漠の道路を思い出していた。行けども行けども、道の両側は地平線の果てまでトウモロコシ畑である。うたた寝して目が覚めたらまだトウモロコシだ。「中国人はこんなに食うの?中華料理で見たことないけど」と運ちゃんに聞くと「豚のエサです」(笑)。宝鶏に着くと仕事だ。味の素みたいなグルタミン酸の調味料を作っている会社に増資を勧める。社長に工場を案内してもらった。ベルトコンベアが続々と白いものを流している。目を凝らすと首を絞めた鶏だった。

宝鶏は日本ではあんまり有名でないが、周王朝、秦王朝の発祥の地である。「岐山」がある(信長はここから「岐阜」の名をつけた)。古くは青銅器の発祥地であり、諸葛孔明が陣中に没した「五丈原の戦い」の舞台でもあり、太公望が釣りをしていた釣魚台もこのへんだ。三国志の頃に漢方薬(本草学)のバイブル『神農本草経』が書かれた地でもあった。戦国武将は中国史を学んでいたが、信長は安土城の天守の装飾絵を中国の故事にならったほどで、始皇帝を理想にしたかどうかはともかく両者は似たものを感じる。西安にあったはずの安房宮は完成せず、安土城は完成したが主は死んだ。歴史好きの方は西安とセットで訪問する価値のある処だ。

宝鶏から西は僕は未踏だが、甘粛省蘭州まで行くとイスラム系の回族が多い。始皇帝は目が青かったともいわれるが、これを知るとそうかなと思わないでもない。何をいまさらではあるが、西安(長安)はシルクロードの終点であり、中央アジア、ペルシャ、トルコを経てローマにつながっている。トウモロコシ畑の宝鶏~西安はマラソンならラストスパートの200キロだったのだ。中国の主要都市はだいたい訪問しているが、西安はもとより行きたかった場所であり強く心に残っている。たぶん春節の前だったのだろう、縁起物であるのと感動をとどめたいのとで、この丸っこいのを2個買った。

灯籠だ。でっかい。直径30センチはあってみな「本気ですか」と驚いたが本気に決まってる。家ではもっと驚かれたが、玄関に飾ってもらって満足だった。

西安、宝鶏を旅してみて、自分はなぜこんなにローマ好きで地中海好きでもあり、誰に教わったわけでもないのに狂信的西洋音楽マニアなんだろうと考えるようになっている。未踏のトルコ、中央アジアは文化も食べ物も興味津々で女性も綺麗に見え、料理はというといま熱烈にガチ中華にハマってる。幼時に鉄の匂いが好きだった趣味はレアだろう(線路と車輪に魅かれて小田急の線路に侵入していたが、鉄オタの息子によると僕は鉄オタとは呼べないらしい)。鉄といえばシルクでなくアイアンロードというのもあった。ヒッタイト発スキタイ(タタール)経由であり、技術を持った異人集団が出雲に来ると「たたら製鉄」と呼ばれた(タタラ場として「もののけ姫」にも登場)。出雲は何度か旅して惚れこんでしまい、コロナで頓挫したが映画の舞台にしようとタタラ場だった絲原家にお邪魔もした。なぜか磁石みたいに鉄に惹かれるのだ。地球上に存在する金やウランなど鉄より重い元素は中性子星合体によってつくられたものである可能性が高い(理化学研究所と京都大学)。鉄を通して僕の関心は宇宙へと広がっている。

結論として思う。こういうものはまぎれもなく本能だ。生まれてから後付けで覚えたわけでは全くない。DNAに書いてないと絶対にこうはならないと自信をもって言えるレベルに僕はある。両親はそんなことないから隔世遺伝ということになる。アズマはアズミでもあり海洋族安曇氏の説がある。神話時代から人種の坩堝(るつぼ)だった北九州から海流で出雲に土着し、さらに海流で能登にぶつかり安曇野、諏訪にも下った。父方は輪島だから可能性はある。性格は農耕型でも定着型でもなく、海洋族であって何の違和感もない。

いまはささやかに北池袋の「ガチ中華街」でもめぐっておれとDNAが命じている。そこで火焔山蘭州拉麺に行った。前述したイスラム系の回族が多い蘭州のラーメンだ。一番上の地図を見ると甘南蔵族(チベット)自治州、臨夏回族自治州(回族、チベット族、バオアン族、ドンシャン族、サラール族他の少数民族が居住)が蘭州の近郊で、そこだけでも人種の坩堝。父系遺伝子ハプログループDが相当な頻度で存在するのは日本とチベットおよびアンダマン諸島のみという興味深いデータがある。

 

西安では何種類か麺を食べた。名前は忘れたがゴムみたいに伸びるビャンビャン麺やら刀削麺だった。火焔山のラーメンも味の坩堝だ。イスラムは豚は食べないので牛肉麺であまり辛くはなく、パクチや香草(漢方と書いてあったと思う)が効いていてエキゾチックなスープだ。たかがラーメン1杯だが歴史と地理を知れば何倍も味わい深い。東京~西安の3倍ほど行けばシルクロードは走破できそうだがまあ池袋でやっとこう。

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ふしぎな断捨離願望

2023 MAY 7 11:11:31 am by 東 賢太郎

近ごろ、とみにモノにこだわりがなくなってきた。人には断捨離派と捨てられない派がいる。後者の権化みたいだったのが変わってきたのだろうか。音楽もあんまりきいてないし、オーディオやらためこんだCDも誰かにあげちまっていいかもしれないし、家だって売り払って家内とどっか山奥に住むかなんて思ったりもする。もしそうなっても、持っていくのは猫ぐらいだ。

ないと困るものなど実はそんなにない。アメリカで初めて所帯を持った時、古道具屋でなけなしの100ドルで買った安物の金ぴか家具が誇らしかったりした。日本食はおあずけ。それでも新婚で楽しくカジノに行く蛮勇もあった。友人は留学が決まって彼女にプロポーズしたら「断られましてね」と笑う。ひとりで何もできない僕は切実だったが家内にはよくぞついて来てくれたと感謝しかない。

それから18年の月日がたって香港から帰国した。住んだのは世田谷の代田だった。家はというと海外の家具類に加えグランドピアノまで買ったからまことに狭隘である。しばらくすると家主が出てくれと言ってきた。会社も50才になると家賃補助が減るぞと通告してきた。暗に買えという。身の丈だった7~8千万の家を見て回ったが海外の社長公邸に住んだ者にはとうてい無理。悩ましかった。

いいと思ったのが思い出の地の駒場だった。しかし土地だけで1億越え。とても手が出ない。こんなに苦労してきて俺の価値はそんなもんか。悔しくて歯ぎしりした。これは会社を移る大きな後押しになり、仕事より家族を優先させた人生初の出来事でもあった。新しい会社でローンの上限が増え、代沢に100坪ぐらいの庭付きの借家が見つかった。車もジャガー。おおいに出世した気分である。

そこには満足して5年住み、満を持して建てたのが今の家だ。いまなら気絶しそうな額を銀行が貸してくれる。懸命に仕事して俺の価値はあがっていた。邸宅やら高級車やら、そういうものは実は元からあんまり興味ない。海外でさんざん苦労をかけた罪滅ぼしに家内にいい思いさせようと思っただけだ。5人いて猫もいまや5匹、この家はコロナで長いこと閉じこもっていて不都合なかった。

自分はいまもってティッシュ1枚がもったいないと思うしカルピスを飲んでコップに白いのが残るとまた水を入れて飲むし、買ってもらった新しいスニーカーを汚すのが嫌でなかなか履けない。外へ出ても、まあラーメン代の千円もあれば充分な男だ。社長と呼ばれるのも身にそぐわないし、東さんが身の丈にちょうどいいし、クラス会で女性軍の東クンには清々しい感動すら覚えたものだ。

よく考えると、同じ家に14年なんて初めてなのだ。海外ドサ周りで1,2年でころころ引っ越ししてた。大変だったが楽しみでもあった。時々夢に出る。外国の知らない街に赴任になって住み家を探してる。高台の豪邸を見つけてこれなら家内も満足してくれるだろうと目が覚める。畢竟、それが生き甲斐なんだろう。14年もしないと物足りない。そういう断捨離願望なのかもしれない。

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どうして証券会社に入ったの?(その11)

2023 MAY 5 7:07:11 am by 東 賢太郎

野村證券梅田支店に勤務していたある日のこと、突然かかってきた人事部の電話で米国留学の社命が下った。何の予兆もなく、不意のことであり、ただただびっくりして課長に小声で報告する。しばらくすると、隣の席の先輩が「俺のこと覚えといてくれよな」などと課の中でお祝いの声がかかるようになり、しだいに支店全体がざわざわとしだした。ところが僕はというと、もちろん嬉しくはあったが、「これは参ったな」と真っ青になっていたのである。留学の心配ではない。担当していたWさんの保有株がみんな下がっていて、お預かりしている資産に絶望的に大きな損が出ていたからだ。

Wさんとの出会いは劇的だった。転勤が決まった同じ課の先輩が「これお前にやるよ」と置き土産にくれた高額納税者の電話リスト。当時はそんなものがあったのだ。「毎日上から順番に電話するんだぞ」といわれ、まだ入社2年目で成績もぱっとしなかった僕は愚直にそうした。といっても1位は天下の T 薬品の会長さんだから本人が出るはずもなく、お手伝いさんにあしらわれて終わりなのである。電話営業はセンミツといわれ、千回かけて三回ぐらいしかうまくいかない。だから、ダイヤルを回しながら2番目のWさんと話せるなんてことはハナから期待してないのにそれをやってる自分が空しくなってきた頃だった。何度かけても体よく断られたその番号にかけると、相手の声色が違った。ご本人だった。「あんたツイてるわね。今日はお手伝いさんが風邪ひいて2人ともいないのよ」。気が動転して言葉が出ない。すると名前も言ってないのにこういう一言があった。「生年月日を言いなさい」。訳も分からず答えると、小さな声で「あらウチの息子と一緒だわ・・・」の独り言がきこえた。しばし沈黙があった。「あしたの2時にあんたのいる富国生命ビルの地下3階に来なさい」「はっ?」何が起きたのか、わけがわからない。「アルボラダって喫茶店があるでしょ、知ってるわね?」。知らなかったが、「はい知ってます!」と元気に答えると、もう電話は切れていた。

翌日は早朝から緊張でカチカチだった。もうすぐ2時になる。死刑執行の時間を待ってる囚人みたいな気分だ。キツネにつままれた気分はぬけてなかったが、きっと嘘ではないだろうと信じて階段を地下まで下り、恐る恐る喫茶アルボラダに入る。待ち構えていたのは妙齢で白髪のご婦人だ。オーナーのようだった。僕に一瞥をくれ、近づいてきて、「きのうのあんただね」と二言三言をかわしたことしか覚えていない。すると「一緒に来なさい」と目も合わせずに店をすたすた出ていく。どこに連れていかれるかと思いきや、わが支店の隣りに店を構えるY証券梅田支店の店頭である。驚いた。支店長とおぼしき人が平身低頭ですっ飛んでくる。「株券をぜんぶここに並べなさい」。彼にとっては悪夢だったろう。問答無用の命令にフロアが騒然となり、女子社員が総出でWさんの大量の株券を銘柄ごとにカウンターの上に並べた。隆々とそびえる山脈みたいだった。「あんた何やってんの、早く数えなさい」「はっ?」「これあんたに預けるのよ、早く持っていきなさい」。ライバル同士の証券会社の店頭でこんな受け渡しが行われたのは古今東西たぶん初めてだろう。僕は株券など触ったこともない。「ちょっとお待ちください」と外に出て野村に駆けこみ、助けを求めた。お前だいじょうぶか?そんな馬鹿なことあるわけないだろ?と、今度は野村側が騒然となった。総務課長がY証券と話し、どうやら本当だとなる。すると今度は我が社の女子社員5,6名ぐらいが駆り出され、鮮やかなグリーンの制服がカウンターにずらっと並んで株券を数え、1時間ぐらいして男の作業部隊がやってきてまるで引っ越し荷物みたいに隣へ運びこんだ。何だろう、これは夢かと、僕は茫然とその光景を眺めるだけだった。

株券は時価で5億円ぐらいあった。株式の新規顧客による入金は2,3百万円でも拍手された時代である。その金額は野村といえども大ニュースであり、全店に拡散されて営業の尻たたきに使われた。Wさんのおかげで僕は成績も評価も上がり、地獄みたいだった日々がちょっとは楽になった気がした。しかし甘ちゃんで相場の恐ろしさなど知らなかったし、会社の推奨銘柄をただ買えば儲かると思っていたのだからとんでもない大間違いを犯していたのだ。

5億円は半分ぐらいに減っていた。どこか遠くに逃げたかった。「すみません、僕、アメリカに留学することになりました」。この電話をするのがどれだけ怖かったか。Wさんはそれを聞くなり「あんた、なに言ってんのよ」と、当然のことだが猛烈な怒りをぶつけられた。受話器の向こうで息が荒く、興奮のあまり言葉が出ないようであり、しばし無言のままおられ、何か言いかけたがやめて、そのまま電話を切られてしまった。目の前が真っ暗になった。焦って何度もかけ直したが出られない。「何してんだ、こういう時はまず顔を出すんだ、ぐずぐずしてないですぐ芦屋に行ってこい!」。先輩の一喝で店を飛び出し、息を切らして坂を駆け登り、祈るような気持ちでお宅の呼び鈴を押した。何度も押した。だめだった。途方に暮れ、あたりを茫然と歩きまわっているうちに暗くなっていた。お宅に戻ってまた鳴らした。何もおきなかった。ショックで記憶が飛んでいるのか心神耗弱だったのか、最後の方はよく覚えてないが、電車がもうなくなっていて、タクシーで独身寮まで帰ったように思う。

翌朝、眠れなかったので真っ暗なうちにひとり出社し、ぽつんと席に座ってどうしようか思案に暮れていた。きのうお会いできなかった顛末を課長に伝えたら激怒されるだろう。Wさんは店の大事な大手顧客だ。お前の資産管理が甘いんだ馬鹿野郎、責任問題だ、留学なんかふざけんな取り消しだ。きっとそうなるんだろう。先輩たちが続々出社してくるが、僕の状況を察してか誰も声をかけてこない。やがて開店時刻となり、ガラガラと大きな音をたてて僕の席の背後のシャッターが開きだした。営業1課だから座席は端っこで、お客様の通用口のそばだったのだ。後ろから急に声がして心臓が止まるほどびっくりしたのはその時だ。「あんた、ちょっと来なさい」。振り返ると、そこにWさんがひとり立っておられたのである。支店長にクレームをしに来たのだろう。もうだめだ。ぶるぶると足が震えていた。

Wさんは、奥のほうにある商談用のブース(小部屋)につかつかと歩いていき、自ら入ると僕を反対側のソファに座らせてドアを閉めた。無言だった。席につかれると、ハンドバッグをあけている。茶封筒がでてきた。何が起きているのかわからずあっけに取られていると、Wさんはそれを僕に差し出して、ひとこと、「留学おめでとう」と言われたのだ。封筒は金一封だった。驚いて声も出ない僕の目をじっと見て、「いいね、あんたは野村の原君になるんだよ」。それだけ言い残して静かに去っていかれた。事態に茫然としてブースに残された僕はぼろぼろと大泣きし、出るに出られず、東はどこへ行ったと先輩方に探し出されるまでずっとそこにいた。原君とは、その年に新人で大活躍していた巨人軍の原辰徳選手のことである。

このことについて、僕はこれ以上の多くを語りたくない。梅田支店で数々の物語に出会っているが、これはそんなものでない、人生における最大級の事件であり、いまもってこれを書きながら涙が止まらないのである。これまで多くの知己に言葉で語ってもきたが、かならず、ブースの場面にくると感極まって声を詰まらせてしまう。そこまでのものを残したWさんとのご縁とは、なにか超自然的なものが理由あって結んでくれたとしか考えられない。これがなければその後の僕はないし、そもそも厳しい証券界で生きていけもしなかったろう。Wさんにいただいた言葉は、人間の尊厳、気高さ、優しさとはこういうものだよ、そういう人になりなさいといつも僕を暖かく包んでくれる。証券会社に入ることに大反対でしばらく口をきいてくれなかった父は、去年のちょうど今日、5月5日の今頃の時刻に病院で他界した。会いたがっていた祖父母と母と天界で楽しくやっているだろう。唯一の心残りはWさんのことが報告できていなかったことだったが、いまやっとそれを終えることができて、ちょっとほっとしている。

どうして証券会社に入ったの?(その1)

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クライン孝子さんの訃報を知って

2023 APR 29 15:15:40 pm by 東 賢太郎

クライン孝子さんにお会いしたのはフランクフルトにいた1993年のことだ。3回ほど夕食をご一緒した。こちらは70名のノムラ・ドイツ現法のトップに昇格したばかりの弱冠38才。(若さ✖地位) の値でいうなら人生最高のトップギアに入っていた。当時のドイツというとベルリンの壁崩壊そして東西統一という未曽有の事態のごたごたで国情は騒然、そこで経営の責任を負ったのだから未知の危険でいっぱいだった。しかし若さに勝るものはない。これって百年後の世界史の教科書に太字で載ること確実だなと意気揚々、経営もビジネスの怖さも何もわかっていない初心者マークのドライバーにすぎなかった。

どういう経緯でそうなったか記憶にない。とにかく孝子さんのお名前も著書も知らずに会食という段取りになった。仕事に直接の関係はない。ドイツの日本人社会で著名人であり、見聞を広めろという意味で誰かがセットしてくれたのだろう。実は気が重かった。僕は知識人の年上女性と聞いただけで苦手意識がある。何といってもドイツだ。気難しい方でドイツ語もできないでよくやってるわねなんて感じだったら早々に退散しようと身構えていた。ところが、あにはからんや、実に明るくやさしく気さくな方だったのである。聡明な知識人ということはすぐ分かったが、キンキンして冷たいインテリではなく人間味にあふれている。こういう人は男女を問わず奥が深いことは必定の理である。すぐに魅かれてしまい、きわめて初歩的な質問をしてもなんでも答えて下さり、しかも物言いがストレートなのでわかりやすいときている。ドイツ語漬けの日々で悶々としていた僕にとって後光がさして見えたものだ。

2度目の会食は自分からお願いしたと思う。仕事に慣れてもきており、だんだん舌も滑らかになり、「日本人とドイツ人」「日独の戦後復興政策の巧拙」「アメリカと欧州の背後にある権力構造」「日本国憲法」などについて議論させていただいた記憶がある。そこで教えてもらった話の数々は忘れたくとも忘れようがない衝撃的なものだ。昨今の日本メディアや言論界の、チャラくてうわべだけで反吐が出る人工甘味料みたいなものではない。口ばかりの人とは根っこから人品骨柄が違うからだ。自分で見ないと気がすまないとおっしゃるのはご性格なのだ。地に足のついたジャーナリストという生き方には共感があり、自分もこんな仕事があり得たかもという気持すら懐いた。だから孝子さんは当然のこととして「また聞き」の話はされない。「欧州ペンクラブってのがあるの。50人ぐらいで全員男性、全員ユダヤ系なのよ、すごいでしょ。主人がメンバーでね、必ずついていくのね、するとだんだん私も仲間に入れてもらっちゃってね、だからいま唯一の女性会員なのよ。で、女だから皆さん警戒しないでしょ、いろいろ深いこと教えてくれちゃうのよ」とお茶目に笑われ、「ローマクラブがあってね、ヨーロッパの大事なことは実はみんなそこで決まってる。ドイツの処分もイスラエルの建国もそこで決まったのよ、だからドイツは許されてるの」なんてことが次々に出てくる。それにひきかえニッポンは、という主題の数々のご著書、言論はそれが通奏低音となっているのだ。

生々しい話の一部はここに書いた。僕が世界情勢を見るうえで今でも考え方の骨格になっているし、この4年後に僕も自分の足でダボス会議に参加してみて、ジャーナリスト的な意味でも追認している。

私見”ディープステート”の正体

いま振り返ると実に感慨深い。ひとことで丸めれば、ドイツの政治はプライドの捨て方まで戦略的でしたたか。役者もしたたか。かたや日本は策すらなく役者もおぼこくて下手くそ。ワールドクラスの上級者の域に達した政治家は安倍晋三だけだったというのが確固たる事実だ。その証拠にだからこそ狙われたのであり、岸田首相は鉄のパンツの女みたいに永遠不滅かつ盤石の安心安全であり、だからこその国難であることを知識人はみな知っているにもかかわらず誰も何も言わず何もおきないという重層的な国難に日本国は陥っているのである。誰が救えるんだろうという問いの前に誰がなっても何もおきないという悲しい確信しか浮かんでこない。この悲哀は救い難く、僕はもはや政治を論じる気にさえならない。有権者の10%の得票で当選するなんて選挙は「鰯の頭も信心から」の詐欺師の宗教みたいなものであり、クルマに喩えるなら、我が国で大事にしてる民主主義などパンクを通り越してもはや大破し、廃車寸前であるとしか言いようもない。こんなくだらないものの滑った転んだをああだこうだ放映して飯を食ってる草野球の実況中継みたいな輩が業界と化して膨大に生息しているのは異形ですらある。いっそ、超一流の男であり外国人がひれ伏して黙る天下の大谷翔平さんが引退したら総理をお願いしたらいい。よほどシンプルに低コストで国民的信心が得られるのではないか。

そして3度目の、孝子さんとの最後の会食でのことを以下に書く。ありがたかったなと思うのは民間人だったことだ。あれから時がたってもうドイツの経営は手の内に入っており、特段の事情もなかった。もろもろ諸事のお話がしたかったので会食をお願いしたが、野村證券の株主も上司もそんな会食は趣味か遊びだろうなんてことは言わない。官僚は接待じゃないのかと痛くもない腹を探れられる。政治家も自腹ですなんて気を遣う。この自由度こそ民間の経営ポストの特権であろう。古来より人間、深い話を腹を割ってするのにそうした気のおけない会食の場は不可欠なのだ。証券業という仕事のおかげでものすごく若い頃からこういう場で人生の達人たちから本音の話を伺い、僕がどれほど人間として成長させていただいたかわからない。

この日、お酒もたっぷり入った僕は日本の国家プランにつき自説をぶった。とにかく気持ちよくしゃべらせてくれる。そうなると2時間でも3時間でもしゃべる。アメリカの留学体験、ロンドンでの勤務体験からこのままじゃ日本は駄目だ潰されるとああだこうだを延々と説き、酔っぱらいがくだを巻いたみたいだったろう。海外から長年日本を眺めるに、とてつもなくだらしない、主権国家とは言い難い、サンフランシスコ条約調印はなんだったのかみたいなことになる。だから教育、徳育はこうやれ、政治家かくあるべしから当然軍備の話もしたはずだ。青くさい書生論だったに相違ないが、本音をぶつけてみたかった。

孝子さんがそれになんとおっしゃったかは覚えがない。あまり反論も論評もなかったかもしれない。とにかく飽かずにじっくり目を見て真顔で聞いて下さった。普通の女性ならあくびの十回もするところだ。なんて素晴らしい。うんうん、そうだねみたいな感じが端々にあり、人生でこんなにウマが合う人に会ったのは初めてだという手ごたえだけが強く残った。そうしたら帰り際に、ひとこと、こう言われた。

「東さん、ワタシと共著で本を書かない?」

何ということだったろう。人生最大の悔いの一つはこれをお受けする勇気がなかったことだ。悲しいほど気が小さい。何度も拙稿に書いてきたが、サラリーマンになるなんてのは僕にとっては人生最低の消去法的選択だ、他に能がないからこんなものをやってると思っていた。それがちょっと良いポストを与えられると地位にしがみついてる自分がいたわけだ。妻帯者は留学させない決まりだった。選ばれてから結婚しますと言い出して人事部にルールを変えさせた攻めの自分はもういなかった。それどころかこんな奴がいるから日本は駄目だとさっき力説していた、お前がそれではないか。でも、もうできない。あの頃のキレはもう僕にはない。ブログを書きだしたのはいいジジイである57才だ。絶頂期の38才で何をぶち上げて孝子さんがそう思ってくれたのかは闇の中だ。それだけでも残したかったと切に思う。

海外から日本を見ていると右に寄る。そこが共通だったのだろうが、西部邁さんに近いというのもそうだ。歯がゆい日本かくあるべし。最高のインテリジェンスをもってしてもこの国は変わらん、もうあかん。そう思われたのだろうか。右翼でも何でもない。野球場で起立して「星条旗」を歌うアメリカ人と同じ、当たり前の愛国者ではないか。もういちど、孝子さんとは議論したかった。属国の日本。当時の何倍も、否、それを旗幟鮮明にしてしまうことにさえ恥も外聞も感じないのに一流国だといえてしまう意味不明の精神構造になり果てた今の日本を。かつては経済一流政治三流だったが経済も三流に向けて地盤沈下する我が国を。

いつかどこかでお会いできるだろうと甘く考えているうちに30年もたってしまった。僕は何をしてたんだろう。そしてきのう、この水島総氏のyoutubeチャンネルで悲しい知らせを知った。2週間ほど前に来日されてこんなにお元気だったのに・・・。

クライン孝子さん、多くの時間を下さって、たくさんのことを教えて下さって、感謝に堪えません。ほんとうにありがとうございます。教えは今も僕の中で脈々と生きていて、血肉となっています。心よりご冥福をお祈りします。

 

(追記)

さっき台所に行ったら本稿を見た家内が「クラインさん亡くなったのね、ドイツの家に彼女から電話があったのよ、お宅のご主人、選挙に立候補しないかしらって」と教えてくれた。知らなかった。そういう人生があっても面白かったかな。

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モリソン教授講演会と成城学園

2023 MAR 28 19:19:39 pm by 東 賢太郎

ここに来たのは恐らく56年ぶりだ。母校、成城学園の正門である。

それにしても変わってないなあ・・・幼稚園から小学校卒業までの7年間、ここを毎日毎日、雨の日も雪の日もてくてく歩いていたのだが、半世紀前の光景そっくりそのままだったのには大いに驚いた。夢で見たデジャヴというものはよくあるが、これは現実のそれなのだ。いや、これって、現実というか、前世のデジャヴだよと神様に言われればなるほどねと納得しかねない完成度にある。毎日現れるお月様が、56年前に見たのと同じものだろうかという感慨に似たものかもしれない。

今年に入って僕の周囲はいろいろ新しい波が起きつつあるが、これもその一つだろうか、東京芸大の音楽学博士、菊間史織様からプリンストン大学のサイモン・モリソン教授がご自身の講演において僕のブログを引用したいので許可が欲しい旨のご依頼があった。同講演は日本音楽学会の後援とのこと、同学会は音楽学関係では国内最大規模を誇り、日本学術会議にも登録された純粋にアカデミックな場であることから素人のブログ引用は不適ではないかと僕も一考し、また菊間様側でも教授にその指摘はされたようだが、「先生は論の流れでどうしても引用なさりたかったようで、それで東さんにご連絡させていただきました」とのことであり、承諾することとした。

教授のことは寡聞にして存じ上げなかったが、プロコフィエフ研究の世界的権威であるとお見受けした。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%83%A2%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%A2%E3%83%AA%E3%82%BD%E3%83%B3

僕の側ではというと、まず講演の場所が成城大学というのが大いに目を引いた。これが奇縁でなくて何だろう。こういうことでもなければもう二度と行かないのではという考えが頭を巡り、お招きを有難く受け、聴講もさせていただくことにあいなった。

成城学園前の駅についた。出てすぐ、自然に右の小路に足が向いたのは目当てのあの店があったからだ。2, 30m先の右側にひっそりと開いていた小さいレコード屋で、ベンチャーズのウォーク・ドント・ラン’64やペダルプッシャーがはいったEP盤を買ったのは10才の時だったか。もう店は跡形もないが、あの天にも昇るような嬉しさは鮮烈に残っている。このレコード、かけてみると全くの期待外れで大枚500円も払ったのがいまも悔しい。でも買うと決めるまでの「きっといいに違いない、それを味わえばどんなに幸せになれるだろうか」という一種無謀なワクワクたるや何物にも代えがたいものだったのだ。あの日を手始めに僕は世界中でクラシックのレコードやCDを1万枚も買い集めて家には専用の収納室まで作る羽目になり、いまだって、何事に対しても、仕事にだって、日々そういう期待に揺り動かされて生きてるではないか。

時間があるので、池の方へ下っていく坂へ向かって歩いた。昔はここは玉砂利だった気がするが舗装されている。かように構造物や建物こそ様子が違っているが、地形だけは何も変わっておらず、何となく覚えている坂の勾配の塩梅までそのまんまだ。そう、この池だ。こんなきれいでなく周囲は草ぼうぼうの湿地だったが、帰り道に先生の目を盗んで決まってここに寄り道し、泥だらけになりながらマッカ(アメリカザリガニのこと)を釣った。スルメでひっかけるのだが僕は腕前が良かった。バケツで3,4匹家に持ちかえって、エビみたいなもんだから母が喜ぶと思ったわけだが、これは食べられないのよと捨てられてがっくりだった。しばらく佇んでいると、帽子に半ズボンの悪ガキたちが奇声をあげながら足元を駆け抜けていく幻影を見た気がした。

テニスコートを超えて川沿いに初等科の方へゆっくり歩いていると、なんとなく背中が重い感じがしてきた。何だろう?しばらくはわからない。だんだん小学校へ渡る小橋が近づいてくる。そこで電光石火のひらめきがあった。そうだ、これはランドセルだ!そう、ここを歩いてたんだ、重たいランドセルを背負って。そういうものをしょっていたことすらまったく忘れていたが、それがやけにでっかくて真っ黒に光っていて皮の匂いがして、あけると教科書がどっさりおさまっていたぞというビジョンがくっきり浮かんでくる。肩掛けがずっしりと食いこんできたことを体が思い出していたのである。

なにやらキツネにつままれたようになっていた。1時半からまず澤柳記念講堂でプロコフィエフが日本で弾いた曲等のミニ・コンサートがあり、ソナタ第10番(断片)を初めてきいた。浜野与志男の演奏は含蓄に富んでおり、スクリャービンの投影、「束の間の幻影」のロシア的でない響きの洗練(ドビッシーの前奏曲を思わせる)の発見をもたらしてくれたことは特記したい。講堂は当時はたしか「母の館(かん)」と呼んでおり、色々行事があったし、嫌々やらされていたカブ・スカウトの点呼もたしかこの中庭あたりでやっていた。コンサートが終わるといよいよモリソン教授の講演だ。参加者は大学の大教室に移動し、オンライン参加もあった。教授が引用された我がブログはこれである。

プロコフィエフ ピアノ協奏曲第3番 ハ長調 作品26

2017年の8月に書いたもので、どういう動機で書いたかは覚えがない。母が亡くなったすぐ後であり、能を見た影響があったかもしれない。というのも「土蜘蛛」に言及しており、理論的なものはまったくふれておらず印象記だけになっていることが曲名タイトルにした稿では異例だからだ。

たぶん今なら僕はプロコフィエフは越後獅子をモデルにしたのではなく、エキゾチックにきこえた日本の陰旋法(都節)の音階から和声、旋律を再構築したと書くだろう。ブログは自分の思考史として残したく、時がたってからは手を入れないことにしているので以下本稿に付記しておく。

この音階は琴の調弦であり、作曲家が初めて見る楽器のチューニングに興味を持つのは誠に自然だと考える。

彼は日本に約2か月滞在した後、船でアメリカへ渡ったが、その地では成功できずパリへ行った。以前にディアギレフに『アラとロリー』をロシア風でないとケチをつけられた経緯があり、ロシア民謡さえ引用しない作風だからどんな語法をパリで確立するかには迷いがあった。ピアノ協奏曲第3番をブルターニュで、新妻リーナとのひと夏の滞在中に仕上げたのはそういう状況下であり、ドビッシーが交響詩「海」で東洋の音階を素材に、聴衆にそうと知られないように独自の語法を生んだことをモデルにしたのではないか。ドビッシーはペレアスの成功を断ち切ろうと新しい語法を模索する必要があり、プロコフィエフも、ロシア風で旋風を巻き起こしたストラヴィンスキーの二番煎じにならず、交響曲第2番のように前衛の角が立ちすぎても受けが悪いパリで成功しなくてはいけないという切羽詰まった共通点があったのである。ドビッシーは「海」をジャージー島、ディエップでエンマ・バルダックとの不倫旅行中に書いたが、どちらも英国海峡の海風の中で愛する女性と過ごしながら書かれた曲であることはとても興味深い。交響詩「海」における先人の非西洋的音階による語法構築はプロコフィエフが得意とする抽象的、概念的思考法(例えば20世紀の語法でハイドン風交響曲を書く)に難なくフィットしただろう。

ドビッシーの「海」は雅楽である

3番は第1,3楽章の全音階的主題に白鍵を、第2楽章の半音階的主題に黒鍵を多用してコントラストとしているが、ドビッシー「海」も同様に主題は第1,3楽章が全音階的、第2楽章は半音階的(かつ旋法的)だ。彼が「海」を模倣したと主張するわけではないが、抽象的、概念的思考法として方法論を試行した可能性を指摘したい。

例として3番の第2楽章第4変奏の伴奏和声をご覧いただきたい。

h-c-e-fis-(g)-hであり陰旋法(都節)である。京都のお茶屋遊びでなじんだ陰旋法の影響は第1,3楽章の白鍵旋律にも認められるが、第2楽章の黒鍵部分にもある。越後獅子のメモリーが混入したという単純なものではなく、プロコフィエフはその種の評価を許容する人でもなく、あたかもドビッシーがガムランや雅楽の影響を一聴してもそれと知れぬほどに抽象化し、発酵させ、消化して自己の語法にせしめた領域に至らんとする試みの一環であったのではなかいかと思料する。

以下、講演のテキストにあるモリソン教授が引用された僕のブログ部分である。

印象記的部分ばかりであり、こうして立派な英文に翻訳されると些か面はゆいものではあるが、本稿はそういうことをあまり書かない僕としてはレア物としての愛着を感じるもののひとつだったことは事実だ。よくぞ引用して下さったと膝を打つと同時に、その背景にはモリソン教授の我が国文化への深い造詣と素晴らしく柔軟で視野の広い精神があることを講演から感じた。本文に書いたように、越後獅子説はその正誤の検証以前に西欧では全く無視されており、wikipediaでも日本語版を除いて言及した言語はひとつもない。文献なきところ真実なしという姿勢からはそれが妥当ではあるが、クリエーターが自作につき常に真実を語るわけではない。妥当性に執着すれば証明しようがないゆえに証明されないだけであり、それが真実だというならば真実の定義は変更すべきであろう。

3番という楽曲はプロコフィエフの作品としてはentertainingな部類に属する音響によって構築されていると考えるが、その由来の一部は訪日前に萌芽のあった全音階的な白鍵による旋律の平明さ、一部が「(何らかの)日本による影響」であるという私見は凡そ教授の論考に合致している(その範疇である)と拝察させていただいた。ただ、後者を「象徴主義詩人コンスタンチン・バリモントが阿倍仲麻呂の和歌から日本的要素を取り去って宇宙的、普遍的な詩に再構築したのと同じことをプロコフィエフは音楽でした」として展開される「垂直的な詩」の概念、および、第3楽章セクションCの嬰ハ長調からホ長調への移行の分析は愚考の及ぶところではなく、非常にinspiringであった。このことで、この日の第1部で『束の間の幻影』(同曲タイトルはバリモントの詩行に由来)が演奏された意味が明かされ、プロコフィエフが3番をバリモントに捧げた意図が整合的に解明されるのである。これを知ったことで彼の楽曲への理解が深まったことを感謝申し上げたい。

この日、残念だったのは夕刻で門が閉まっていて初等科と幼稚園の敷地に入れなかったことだ。この地で勉強した覚えは実のところあまりないが、ありとあらゆる遊びの英知がここにはぎっしりある。だから僕は遊びの精神の延長でその後のすべてを乗り越えてこられたのである。それを涵養し伸ばしてくれるおそらく日本広しと言えども成城学園にしかない環境、そうであってこそ育まれるであろう真の意味での「自由な精神」という、僕を東賢太郎として成り立たせているもののルーツがまさしくここにあったことをこの日の散策で強く感じた。56年は束の間であったが、素晴らしい学校に入れてくれた両親に感謝あるのみだ。

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