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カテゴリー: クラシックは「する」ものである

モーツァルト クラリネット五重奏曲 イ長調 K.581

2020 APR 23 0:00:16 am by 東 賢太郎

みなさん、Stay Homeお疲れさまです。こういうときはモーツァルトを聴きましょう。いいかもと思ってたまたま聴いてみたのが「クラリネット五重奏曲」(K.581)でした。最高の癒しになったのでこれを書こうと思いたちました。いま、心に澄みきった青空が広がり、ほのかに陽がさした気分なのです。

この曲についての賛辞は 「雲のない春の朝」(アーベルト)、「天空に燦然と輝いている作品」(オカール)、「まさしく最も洗練された室内楽作品」(アインシュタイン)と枚挙にいとまなしです。クラリネットと弦楽四重奏は相性が良く非常に魅力的な組み合わせと思いますが書いた人は少なく、著名なのはブラームスぐらい。まあこんな作品がいきなり現れてしまえばねと納得です。

これに限らずモーツァルトの作品でいつも感嘆するのはそのプロポーションの良さなのです。八頭身美人というかギリシャの彫刻というかですね、理屈じゃなく、メロディーも和音もリズムも光っているのですが、聞き終わって心に残るのは見事にバランスしたプロポーションの良さ。「何か尋常でない美しいものに触れた」という感銘と安らぎで胸騒ぎがしているという風です。この心地良さを知ってしまうともうぬけられません。

それがハイドンの作り上げたソナタ形式のような一種の「鋳型」によってもたらされているかというと、どうもそうではない。例えばオペラに鋳型はありませんが、モーツァルトだけはそれでも感じるのです。「魔笛」は筋書が錯綜しておよそまとまりがありません。それなのに、全部聴き終わってみるといつでも、絶世の美女のような、完璧な肢体のプロポーションのような調和を見てしまうという具合です。こういう印象を覚える作曲家はほかに知りません。

プロポーションと書きましたが、それは数字の比だろうという考え方が昔からあるようです。有名なのが「黄金比」で葉書や名刺の縦横がそれです。一方で「白銀比」というのもあり、紙の寸法のAシリーズはそれです。美に絶対はないように思います。プロポーションという単語の語源も pro-(前に)+ portion(分け前)であり、何かを分配する前に「いい塩梅だね」という感じでしょう。とするならば主観であり、時代や状況で変わるかもしれません。

バルトークは黄金比を楽譜に埋め込みました。プロポーションのもたらす固有の美に意を配ったのでしょう。では、モーツァルトの楽譜にもそうした(八頭身の「八」のような)数理が隠されているか。僕はそうではなく、エジプトのギザのピラミッドは空から見るとオリオン座の三ツ星に見えたり、底辺や高さが地球の大きさに関係しているといわれる、むしろそういうものではないかと感じます。何らかの均整が隠されているのですが、それはメタフィジカルなものです。

「クラリネット五重奏曲」(K.581)はそれを最も感じさせる音楽の一つと思います。なぜこの音楽がいきなり心をつかむのか、理屈は説明できないのですが、やっぱりこれかなあと思うのは矢印のところです。

柔和なレガートで、まるでうららかな春の小川の流れのように始まったソーミーレードーのメロディー。矢印のラで主調にもどってワンフレーズ落ちつくかと思いきや、想定外の短調の和音が来ます。えっと驚いて、川の流れは一瞬止まります。この哀感!一気にハートわしづかみです。この主題はすぐくりかえされますが、そっちでは主和音(長調)で予定調和的に終止します。これが冒頭だったら「つかみ」は弱かったと思いませんか。

「えっと一瞬驚いて時が止まった感じ」、これを理屈で言うとフレーズのお尻を平行調で持ち上げて止めた感じのこれを僕は日本語文法の「連体止め」になぞらえたくなります。

紫だちたる雲の 細くたなびき “たる”

であります。体言止めほど終止感が強くなく含みを残します。個人的には枕草子の清おばちゃんの決然たる物言いが大好きなのですが、パンチが効きすぎないのは体言止めのぼかし、余韻を使った押し引きが抜群にうまいからで、彼女は連体止めの達人なのです。ファンだから僕の文章も影響を受けていると思います。そして、その趣味で見るモーツァルトも平行調止めの達人であるのです。

最初の4小節でこのありさまです。K.581の驚くべきところはそのミクロが大構造に組み込まれてくるところで、楽譜の冒頭(第1主題)矢印の①平行調版と②主調版ふたつを絶妙に使い分け、提示部が①、②、展開部は①、再現部は②、コーダは①と、つまり1,2,1,2,1と数列になります。第3楽章第2トリオと第4楽章主題は形を変えますが冒頭で驚かせた①が回想されます。こういうのはピラミッドを天空から眺めないとわかりません。

第2楽章ラルゲットはイ長調から4度上(希望、天国の)ニ長調で始まる同じ調のクラリネット協奏曲と双生児です。天上界を羽の生えた天使のように浮遊する様はロマンティックとも違う不思議というより超常的な世界で、異界にさまよいこんだかと感じます。冒頭の雰囲気は同じニ長調のザラストロのアリア(これも異界)ですね。P協20番K.466の稿に書きましたが彼の音楽にはフィガロ前後からそういう「こわい」ものが混入します。フリーランスになって当座は有頂天でしたが敵も作りました。自分が壊れる恐怖といいますか、問題オペラを書きながら夢にうなされるようなぴりぴりしたものが鋭敏な芸術家の神経にふれていておかしくありません。

その事で思い起こすのですがアーティストの横尾忠則さんがこう述べています。

芸術の創造のルーツは、過去の歴史の文脈の中だけではなく、こうしたまだ見ぬ未来の時間の中にもすでにスタンバイして、その創造が芸術家の手によって、現実化されるのを待っているのです。だから芸術家が幻視者とか予言者と呼ばれる理由かも知れませんね。

僕は昨年、瀬戸内海の豊島で氏の「生と死」をテーマとする作品を観て感じるものがありましたが、芸術家の直観や霊感(インスピレーション)はときに超常的であり、鑑賞する人の99.99%は日常的です。

第3楽章は建築物のようにかっちりと構成された、ふわふわの前楽章と対極のごつごつ堅牢な世界です。ここは現実的です。ところが、二つあるトリオの第1は弦だけのイ短調に対し調性がB♭、F7まで飛びます。ハ短調に移調するとP協24番K.491の、僕が魂の体外離脱と信じてる第3楽章の和声関係とぴったり同じです。K.491はフィガロと並行して書かれ、K.581は三大交響曲の翌年で予約演奏会の会員がスヴィーテンひとりになってしまい、ベルリンへ売り込みに行ったりの困窮の中で書かれました。どちらも極度の不安の中だったでしょう。第2トリオは一転して牧歌的です。短調になるあたりはパパゲーノのアリアを予見しています。

第4楽章は終幕にふさわしい喜々とした舞曲風の楽想で、真ん中の2楽章の異界感を解きほぐします。それが6回変奏されますが、スタッカートではじけるような第4変奏の後にアダージョの第5が来ます。一度遅くしてコーダになだれ込むのはハイドン、ベートーベンのお家芸ですがモーツァルトはあまりない希少な例ですね(この雰囲気はブラームスが同じ編成の作品115でぱくっていて、しかし冒頭主題の生々しい回帰というパンチを強烈に効かしているので御一新にはなってます)。しめくくりの第6アレグロに入る前に5小節のブリッジが入るのはソリストのポン友シュタードラーにカデンツァの見せ場を与えたと思います。借金を踏み倒したり自筆譜を紛失したり(売った説あり)とヤンチャな奴ですが、彼なくしてこれなし。我々としてはええい何でも持ってけ、ありがとうシュタードラーであります。

ブルグ劇場

この曲に指定されたバセットクラリネットは当時は新奇でシュタードラーの専売特許的な楽器でしたからK.581は実験的作品でした。ウィーン音楽家協会(Tonkünstler-Societät)で1789年12月22に開催されたクリスマス・コンサート(ウィーン、ブルグ劇場)で初演されましたが、資料はありませんがモーツァルトも舞台に立ったと思われます(ヴィオラか?)。自分の予約演奏会が全く売れなくなるという想定外の事態に追い込まれそうなったのでしょう。当日は2年後に夜の女王を初演することになる義姉のマリア‣ホーファーも出演しており、モーツァルトとその仲間たちのコンサートだったようです。

第6変奏ですが、素晴らしく快活で元気の出る音楽です。中盤からヴィオラが八分音符でラの音を延々と刻むのはハイドンセット(ニ短調 K.421)を思わせますね(K.581は同曲と書法的には似た部分が多々あります)。この楽譜の5小節目からのクラリネットの下降音型にF#7、B、G7、A、F、B♭、E7、Aと和声が付きます。ここで第3楽章第1トリオの魔界のF、B♭が響きます(聴いただけではまずわかりません)。

同じ下降音型には今度はF#、 B、 G、A、 G7、A、 Eと平穏な和声が付くのです。このように同じパッセージの片方に魔界の和声を付ける例はプラハ交響曲の第2楽章にも非常に印象的な例があります。

以上俯瞰しましたが、こういう細部の意匠が隠し味になっていると知るのはあくまで天空からピラミッドを眺めた時だけなのです。それを知ったとて聴いているときはわかりませんし、その必要もございません。ただただ見事な霊的調和を感じさせて曲が閉じ、余韻を静かに味わい、ただただ溜め息をつけばいいのです。この曲のプロポーションの良さは数学的な比率を超越したメタフィジカルなものというしかなく、聴きこめばどなたでもそれを容易に感じるようになり、心はとけるほどやわらかになり、モーツァルトの虜になることでしょう。

演奏ですが、一般にはウィーン系の団体のもの、例えばアルフレート・プリンツとウィーン室内合奏団、あるいはレオポルト・ウラッハとウィーン・コンツェルトハウス四重奏団などが高く評価されています。古い録音ですが味があります。僕もかつてはそれらを聴いていたのですが、モーツァルトの時代に20世紀の「ウィーン風」があったわけでもなく、いまは純音楽的な視点でリチャード・ストルツマンとタッシの演奏になってます。これは僕が大学4年のときにニューヨークで買ったLPです。タッシのピーター・ゼルキンはこのころまだ若い兄ちゃんで、僕は親父の方をフィラデルフィアで聴きましたが、ピーターも2月に他界してしまいました。

この演奏、当時の日本の評論家は無視でした。ウィーン情緒がかけらもないからでしょう。モーツァルトといえばウィーン・フィル、カール・ベームという輩ばかりでしたね。でも97年の元旦にウィーンでウィーン・フィルの団員と食事しましたが最晩年に日本人が熱狂していたころのベーム爺さんの棒はよれよれでわからんかったと言ってました。ワインはペトリュスしか飲まんという、まあペトリュスはけっこうな品ですがね、それを薦めるのは普通のオジサンでもできるとも思うのです。

この演奏、テンポはたっぷりめでウィーン系があっさり聞こえますが、第2楽章の天使感や「こわい」と書いた箇所の深さ、第4楽章第3変奏のヴィオラの「泣き」がクリスピーにスタッカートを効かせた快速の第4変奏に移る見事さなどなど、当時若かった彼らが楽譜から読み取ったインスピレーションを感じ切って弾いています。各種手持ちのレコード、CDを聴きなおして見ましたが、コロナ疲れを癒してくれるのはこれでした。ご賞味あれ。

 

(この曲が歌えるようになりたい方はこちらをどうぞ)

 

クラシックは「する」ものである(4) -モーツァルト「クラリネット五重奏曲」-

 

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ファツィオリ体験記

2017 MAY 15 2:02:54 am by 東 賢太郎

この名器を初めて聴いたのはたしかニコライ・デミジェンコのショパンで、実物を目の前で味わったのはアルド・チッコリーニ(ベートーベン、ファリャ)でしたが、どちらも楽器の個性としてはそう印象的でもなく人気の理由がピンと来ていませんでした。ただ、最近にアンジェラ・ヒューイットの美しいバッハとラヴェルを聴いて少し関心が出ていたのです。

吉田さんから豊洲シビックセンターのファツィオリを予約したので練習に来ませんかとお誘いをいただきました。5月1日のことです。年産台数で数千のスタインウェイに対し130しかない希少品。もちろん喜び勇んで参上し、都内ではここしかない、舞台上に神々しく輝いて見える「コンサートグランド、モデルF278」に謁見したのです。そんな場所で弾いたことはありませんから、初めてマウンドに登ったときより緊張いたしました。

近くで見るとそんなに大きいという感じはなく、タッチは軽めです。座ってみると奏者に威圧感を与えないやさしさがあるなというのが第一印象でした。ホールへの音の抜けなのかピアノの性能なのか、とにかく中空にふわりと舞い上がる音響が気持ち良かったというだけで、何を弾いてるのかわからないままにあっという間に40分が過ぎ去ったのです。

やっぱりいいなと少しだけ腑に落ちたのは5月7日の本番直前、ゲネプロが終わってオケの皆さんが退出するどさくさにまぎれて、思いっきりラヴェルP協mov2とダフニスを鳴らしてみた時です。3千万円のフェラーリなんですが素人がアクセル踏んだって思い通りに反応してくれるイメージですね。「欲しいでしょ」と吉田さん。「うん、ホールごとね」、これ本音です。

田崎先生によると調律が特別であって、普通は高音に行くに従ってピッチを上げるがその上げ度合いが少ないからオケが合いにくいとのこと。それは全然わかりませんでしたが、そのせいなのかどうか、柔らかく響く3度がとろけて美しく、暖色でまろやかではあるがクリアに煌めくタッチも連続的に出ます。低音は太くよく響くが金属的に重たくはなく、上の音と絶妙にブレンドします。

一言でいえばまろやかにカラフル、典雅な落ち着きがあり、ボルドーよりブルゴーニュであり、僕的にはロマネ・コンティを初めて飲んだ時の感じ。音響的には倍音成分がやや多いように聴こえ、それをコントロールする腕があれば汲めども尽きぬ楽しみがありそうです。その分、素人には魅力を引き出すのは訓練を要するかな、ともあれ今の僕に至ってはまったくの猫に小判でありました。

しかし、このたびこの名器に触れさせていただいた体験は大きなものでした。ファツィオリと毛色は異なるものの、家の東独製August Försterも悪くないぞという気がしてきて、アップライトなので壁に斜めに置いて部屋の反響を取り入れて弾くとどこか大ホールで弾いたあの感じになるということを発見し、はまっています。

レクチャーの写真を送っていただいたのでここに貼っておきます。

 

機会をいただいたライヴ・イマジン西村さん、ピア二ストの吉田さんには感謝あるのみ、そして最後になりますが、指揮の田崎瑞博先生およびオーケストラの皆さま、最高の演奏会をありがとうございました。

 

(こちらへどうぞ)

モーツァルトに関わると妙なことが起きる

5月7日のコンサートのお知らせ

 

無人島の1枚?ピアノをください

 

 

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ブラームス交響曲第2番に挑戦

2015 MAR 30 11:11:56 am by 東 賢太郎

現在ブログのためにブラームス交響曲第2番の聴き比べをしていますが、記憶に頼って書いているわけではなく、書こうと思ったものは全曲いちいち聴きかえしています。いまやっと31種類の演奏についてコメントを書き終えたところなので、全曲を31回聴いたということです。

どんな音楽でも短期間に立て続けに31回聴けば飽きると思うのですが、やってみて驚くのはそういうことが全然ありません。それは僕が2番が大好きだということがあるのでしょうが、やっぱり曲が良くできているということに尽きるのではないでしょうか。

所有している2番は86 種類あり、LP、カセット、CD、SACDと異なるフォーマットで重複して持っている19枚を入れると105枚あります。実演はこれまで7回聴いており、重要な指揮者の解釈はほとんど耳にしたように思います。

この週末はピアノリダクションの楽譜で第1、2楽章を初めて通して弾いてみました。左手は和音だけにしたり難しい所は右手だけにする等いい加減ではありますが、耳だけではわかっていなかったことを発見でき勉強になりました。この曲は構造的にも和声的にも対位法的にも、本当に名曲なんですね。

趣向を変えてラヴェルのト長調ピアノ協奏曲の第2楽章も。一人ピアノだと中間の所は音が抜けますが最初と最後は一人でも充分で、これを弾くのは無上の喜びです。中間の複調的な所はバイオリン・ソナタにそっくりだなと、これも弾いてみて初めて気がついたことです。

あとひとつ、ベートーベンの悲愴ソナタの第2楽章。弾いているとベートーベンのバスや目立たない中声部の音の選び方のセンスの良さに気づきます。巨匠とか楽聖とかではなく、耳がいい、センスがいい人というイメージができます。

ブラームスの譜面は難しくていままで敬遠気味でしたが、2番を機にすこしチャレンジしてみようかなと思います。

 

指揮者は演奏する曲のスコアをまずピアノで弾かなくてはいけません。次に、それを科学的な眼で研究するのです。それを人生の中で時間をかけてすることで、解釈はおのずと、地面から泉がわくようにしみ出てくるのです。

リッカルド・ムーティ

 

ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(1)

 

 

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クラシックは「する」ものである(8)-「ニュルンベルグの名歌手」前奏曲ー

2014 AUG 18 20:20:44 pm by 東 賢太郎

私事で恐縮ですが、下の写真は1995年6月にライン川のほとり、ヴィースバーデン・ビープリッヒ(Wiesbaden-Biebrich)のヴィラ・ワーグナー(上)で撮ったものです。フランクフルトからチューリッヒに異動辞令が出た直後で、思い出深いドイツとお別れした折に家族5人で立ち寄りました。当時弱冠40歳、まだ髪も黒く細身でした。

3年間のドイツ滞在で、最もよく劇場で聴き、身近に思うようになった作曲家はリヒャルト・ワーグナーです。それまでも序曲集は好きでしたが、長大な楽劇(オペラ)全曲のほとんどは実演に接した経験がありませんでした。バイロイト音楽祭、フランクフルト歌劇場、ドレスデン・ゼンパーオーパー、ベルリン国立歌劇場、ベルリン・ドイツオペラ等でワーグナーの毒にどっぷりとつかり、ヴィースバーデン歌劇場ではリング・チクルスを堪能し、ドイツでワーグナーの神髄に触れさせてもらいました。だからドイツでの最後に、彼が滞在したヴィラにどうしてもワーグナー詣でをしたくなったのです。

bieblichvilla_wagner_2

 

ヴィラのこの銘板に「1862年にこの家でワーグナーがニュルンベルグのマイスタージンガー(名歌手)を作曲した」と書かれています。真ん中の、写真がここから見るライン川の風景です。滔々(とうとう)と水をたたえてゆっくりと流れるこの川、この景色なんです、ワーグナーがあの有名な「第1幕への前奏曲」を発想したのは!ここに立ってみて、あのハ長調の壮大な出だしを思いうかべてみて、ああ、確かにこれだなあと感動したことを覚えています。

 

 

この楽劇はフランクフルト、ベルリン、ロンドン、ニューヨークなどで聴き、LP、CD、DVDも何種類も持っていて、好きなことではトリスタンと双璧です。そのトリスタンがこれの前作に当たり半音階的で解決しない「トリスタン和声」で書かれたのに対し、この曲は全音階的で古典的であり好一対を成すというたたずまいがあります。全曲については機会を改めて書きたいと思います。

今回はこの「第1幕への前奏曲」のバス・パートに声またはピアノでご参加いただくことを目的としております。これを開いてください。

2.1.2Vorspiel (Act I)

Vorspiel (Act I)のComplete Scoreをクリックすると前奏曲の全曲スコアが出てきます。今回はスコアを読む練習ということで、それを使ってください。最初のページに楽器名が書いてありますね。それの「CONTRABASSE.」もしくは「BASS-TUBA」のパートをやっていただきたいのです。特におすすめは26ページの第2小節からです。ここは非常にわかりやすく、歌ってもピアノで弾いても最高に気持ちいいですよ。

ちなみのこのペトルッチ楽譜ライブラリーはまだコピーライトのある現代曲を除いてほとんど全部のクラシック音楽の楽譜が無料で入手できる便利なライブラリーです。

さて、声でもいいのですが、前回のブログに書きましたように僕のお薦めは「ピアノ」です。楽器をお持ちの方はぜひ、このバス・パートを左手で弾いて合奏してみて下さい(簡単ですから誰でもできます)。ひとつだけ注意点があるのですが、合わせる演奏は「イギリスのオーケストラ」にして下さい他の国のオケはピッチが高いのでピアノと合わず不快です。ロンドン交響楽団、ロンドン・フィルハーモニー、フィルハーモニア管弦楽団、BBC交響楽団など英国オケならどれでも大丈夫です。

 

ワーグナー 楽劇「トリスタンとイゾルデ」

 

 

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クラシックは「する」ものである(7)-ピアノについてー

2014 AUG 14 11:11:37 am by 東 賢太郎

写真 (17)

クラシックは「する」ものシリーズを書いていて、やはりどうしても最後はピアノという楽器の助けを借りたいという思いが出てまいります。それが「する」ことと「語る」ことの橋渡しになるからです。そこで今回は、ちょっと楽譜を忘れてお話しだけです。

 

 

ピアノができないとわからないという意味でないのはご理解賜りたいところです。なにより僕自身のピアノが初心者レベルなのですからそういうことを言える立場にないわけです。むしろ、一度もピアノを習ったことのない僕のような者ですら、クラシック好きであればピアノに触れているとあっと思うことがたくさん出てくるという妙なる経験をお伝えしたいのです。それは歌でオケに加わる合奏に加えてピアノで加わるという無限の喜びを手にすることになるからです。そしてそれは、ピアノ独奏曲を弾くよりもずっとやさしいからです。

先日、僕にとってクラシックのCDはカラオケであると書きました。それには例外があって、それこそがピアノ独奏曲なのです。これは口(くち)三味線で歌うことができないし、歌ってもつまらないでしょう。だから押し黙って聴くしかない。歌って踊ってが通用しない唯一のジャンルなのです。

そこに弦楽合奏が入る音楽とピアノ音楽との根本的な違いがあるようです。声と弦は親和性があり、打楽器であるピアノは声とははるかに異質なように思います。歌にピアノ伴奏がつく歌曲というジャンルはありますが歌を弦が伴奏する編成が発展しなかったのは、弦と同質性がある歌が引き立たないからではないでしょうか。

僕は楽器として多少は弾けるギター、チェロよりピアノに触れている時間が長く、といってピアノは完全独学なのでうまいはずはなく、うまくなる見込みもありません。一応の努力はしましたが通して初見でというとベートーベンのソナタ20番ト長調作品49-2がなんとかというのが現在の所です。この曲はソナチネですから、ちゃんと習っていれば小学校低学年ぐらいでしょうか。

ただ、こういうことを皆様にお薦めするわけではありませんが、何度か書いたように僕にとってのピアノは管弦楽曲のピアノ・リダクション譜で好きな部分を弾くという特別の用途があるのです。つまり音楽を分解して作曲家の頭に在った設計図を知ることには威力があります。ショスタコーヴィチは他人のオケ曲はピアノ譜を想像しながら聴いたそうですが、もちろんそんなことはできなませんが、その気持ちはわかる気がします。

ちなみにピアノを弾き始めたのは高校時代で、最初に弾けるようになったのはストラヴィンスキーの火の鳥の終曲です。そこが弾きたいから始めたという変わり種でした。そして目的を達してしまったのに慢心して基礎的なトレーニングはほとんど無視、バイエル、ツェルニー、クーラウ等は曲に全然興味がなくスキップ、ピアノ曲として初めて覚えたのは、ちゃんとした音楽に聞こえたバッハのハ長調のインヴェンションでした。

しかし色々な曲を知ってみると、オケ曲をピアノにしてしまうとスケルトン( 骸骨)状態になって失うものが多いことがわかってきました。また、音色からしても、ピアノは歌えないということは弦とは完全な別物になったということで、そうなるとさっぱり面白くない曲というのがあることも。しかし一方で、悲愴交響曲の終楽章のように、弦主体なのにピアノで弾いても「すごくいい」と納得する曲もあります。

リムスキーコルサコフの交響組曲「シェラザード」の第1楽章もいい例です。あの大海に漂う船のようなオケの感じがよく出るし、コーダは心が深く落ち着く。左手の分散和音によるコード進行が、あ、これはピアノで作った曲だなと手に取るようにわかるのです。意外に簡単だから経験者にはぜひお薦めします。オケの音を心でシミュレートしながら弾いていただけば、なぜ僕がそんなことに執心しているのかご理解いただけると思います。

つまりピアノ譜というスケルトンになっても名曲というのは名曲の価値をいささかも減じないばかりか、肉づきを欠く分だけごまかしがきかなくなります。歌の悦楽を喪失する代償に音にはぎりぎりの必然と集中力が込められ、オーケストラとは別種の美感と解像度が現れるのです。それはカラー写真を白黒にした方がくっきりと明暗が浮き出たように見えるのと似ているように思います。

825646760046ピアノ・リダクションが立派な別個の作品と聞こえる典型的な例がベートーベンの交響曲でしょう。シプリアン・カツァリスというピアニストが全9曲をピアノで弾いたCD(右)があり大変面白いものですが、僕はこれは立派なピアノ・ソナタだと思いました。ラヴェルの編曲した展覧会の絵を知ってから原曲を聴いた、その感じに近いでしょう。ソナタとして発想した曲を管弦楽化したといわれても違和感がなく、ベートーベンほど交響曲とピアノ・ソナタを写真のカラー・白黒の関係で書いた人はいないのではないかと思います。

彼はピアノという楽器が最も大きく進化した時代に生まれ、それと共に歩み、常にその時その時のピアノが与えてくれる最先端の機能を求めるソナタを書きました。よくいわれるように、楽器を壊すほど強い音をピアノに求めた最初の人ですし、それと同じ原理を楽器編成やダイナミズムの意図的な発揮という側面でオーケストラに求めた最初の人でもありました。同じように面白いことに、彼のピアノソナタの譜面を年代順に眺めると、メカニックな側面で逆に楽器の進化プロセスがおおよそ俯瞰できるのです。

そんなことがあるかと疑問に思われるかもしれません。別な例で見てみましょう。ミュージカルや宝塚は歌手の声をマイクロフォンで増幅しています。本格的な声楽家でなくても歌えるでしょう。歌というものが教会というよく響く場からオペラハウスに出た時代に、仮にですが、マイクロフォンが存在していたら?我々がカラオケを歌うような地声、喉声でも会場の隅々まで響き渡る。きっとそういう発声法の達人は出たでしょうが、我々はドミンゴやカラスのような歌手を聴く機会はなく、ヴェルディはトロヴァトーレや運命の力のようなオペラを発想しなかったのではないかと思います。

けだし、歌って踊っての申し子のようなミュージカルという音楽ジャンルは、クラシックの声楽の発声法を必要としない代わりに別種のフィジカルをそなえた歌手たちを前提としたもので、マイクという音響増幅器が産んだものです。歌手の体躯が大きな音響を産む楽器になることを求めず、そこは増幅器に機能集約する。CPU、メモリー機能を集約化してパソコンを身軽にしたクラウドコンピューティングと同じことです。いわゆる「音響」という、音楽を聴衆の鼓膜に伝えるメディアが音楽そのものを変質させる現象としてマクロ的に眺めるならば、それはハンマークラヴィールと呼ばれた音が増強された新しいピアノの出現がベートーベンをしてあの巨大なソナタを書かせたのと同質の現象でしょう。

管弦楽曲のピアノ・リダクション譜というものは、あたかも因数分解して最後に残った因数のようにその音楽の本質を他から区別する多くの情報を含んでいます。それをいろいろ知るようになると、現代の音楽は、ベートーベンにおけるピアノ譜というスケルトン(骨格)そのものの第一次成長期、そしてワーグナーを経てその骨格にオーケストラによる肉付きが増していく第二次成長期を経て進化したものであるという様子がよくわかるのです。ピアノの譜面を通して音楽を見ると、聴くだけの人間にも多くのことを学ばせてくれます。本で読んだ知識と違い、自分で体感したことというのは血肉となります。

そして、今回申し上げたかったことですが、それが「語る」ということにつながります。ピアノ曲は歌うことができないし、ピアノで歌の譜面を弾くこともあまり喜びをもたらすとは思えないのですが、「歌って踊って」は右脳が音楽を愛でる行為だとすれば、僕にとってピアノは左脳が愛でるための道具という位置づけにあります。そして、その両方の交わる所において、クラシックを聴こうと自分を動かしている衝動が何かあります。この左脳の出番があるという部分において、クラシックを「語る」という行為が成り立つし、こうしてブログを書くことにもなるわけです。

だから、あくまで僕のケースですが、「語る」ためにピアノに助けてもらっているということです。ハンマークラヴィールを弾けるようにはなれませんが、演奏家の方が「する」ために厳しい練習をされている、それとは別種の目的でピアノが活用されるということがあるということです。これは科学にたとえれば、宇宙のことを知るのに物理の知識が助けてくれるのと似ているかもしれません。何光年も離れた星に行きつくことはないのですが、そこで何が起きているかは、自分の理性が及ぶ範囲においてですが一応はわかるという意味でです。

聴いた音楽の感想を語るのに、ただ「良かった」、「感動した」ではつまらないのではないでしょうか。だからでしょう、ワインにテーストやアロマを語るためのヴォキャブラリーがあるように 、音楽にもそれは存在します。しかしワインの語彙は特徴を記憶し識別するためのものです。音楽にその必要はありません。音楽の聴き方というものは個人差があってしかるべきであり他人の感想に左右される必要はありません。あくまで自分がどう聴き、どう感じたかがすべてであり、それが他人と同じであることも他人に共感されることも必要ではありません。

ですから雑誌や新聞でCDや演奏会の批評家のコメントのようなものを読んでみて、その人固有の感じ方に面白いと思うことはあっても、自分が語るために役に立つということはないのです。あくまで他人の個人的意見にすぎません。一方、何か客観性のあることを語り合うという世界はもちろんあっていいでしょう。しかし、指揮者AとBで演奏時間がAが10秒長いのどうのという類の語りに何か自分の音楽鑑賞に関わる有意の価値があるとは僕には思えません。ではその曲のウンチクは?そういうことは今どきの世の中、wikipediaにいくらでも書いてあります。

ですから、僕はピアノを使って自分の頭と耳でその曲をよく知り、作曲家の脳みそに在ったものを自分なりに想像し、そこから彼が聴衆に与えようとした喜びを歌って踊ってのスタイルで享受し、その「体験録」を語るということをするのみです。それ以外に方法があるとは思いません。その喜びの源泉は必ず作品に内在しているものです。演奏家が超絶テクニックで無から有を産むようなことはありません。ですから作品に対する知見こそが語ることのベースであると考えています。仮に「今日の演奏」について何か語るとして、それは、それを何%引き出していたという語りで充分と思います。

皆様に楽譜をお示しして歌って下さい弾いて下さいとめんどうなことを申し上げているのは、ひとえに、喜びが作品に内在している事をご体感いただくためなのです。それなら娘のピアノを触ってみよう、スコアを見てみようなどと志される方がおられれば嬉しいことですし、もちろん歌うだけでもいいのです。僕ごときでできることですから音楽の専門的トレーニングはいりません。作品に対する知見を養うことが目的で、それは「する」ことでしか得られませんし、一度でも得てしまえばそれは一生にわたるその曲との深いつきあいの始まりになります。そこに秘められた財宝を手にされることになり、やがて皆さんは「語りたい人」になられると思います。

 

クラシックは「する」ものである(8)-「ニュルンベルグの名歌手」前奏曲ー

 

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クラシックは「する」ものである(5)-J.S.バッハ「G線上のアリア」ー

2014 AUG 6 13:13:46 pm by 東 賢太郎

第5回目です。ちょっとだけ中級コースに入ります。

バッハの管弦楽組曲第3番のアリア(いわゆる「G線上のアリア」)です。ゆっくりな曲なので格好の練習曲です。

有名な曲ですから音楽の教科書で多くの方がご存知でしょう。初心者用の入門曲と思っておられる方も多いかもしれません。

とんでもない。この曲をピアノ独奏でちゃんと弾くのは素人にはなかなか難しいです。そして歌ってみればその難しさがわかります。

まずは女性はソプラノ、男性はバスを歌ってください。バスはオクターヴをちゃんと取ってください。うまくいかなくても結構。あきらめないで何度も挑戦して下さい。譜面が音名で読めない場合は楽器で弾いて耳で覚えてください。

できた方、ではさらにアルトとテノールをいきましょう。

これはちょっとむずかしいかもしれません。じっくりゆっくり、しかし手を抜かずに正確にどうぞ。

テノール(ヴィオラ)のパートは「ハ音記号」なので音をひとつ上げて(シをドとして)読んでください。ドレミをレミファにするということです。音名で読める方はいいですが僕は始めはギブアップでピアノの助けを借りました。

アルト(第2ヴァイオリン)男性はオクターヴ低くてもOKです。特に臨時記号の#がつく所は音程に気をつけて下さい。テノールは原音どおり(裏声)で歌いましょう。

バッハの時代(バロック)の音楽は「通奏低音」(バッソ・コンティヌオ)といってバス(楽器は指定なし)の音に数字を振って、あたかもギターコードのように和音をつけました。

鍵盤楽器であれば左手でバス・ラインを弾いて右手で数字が示す和音を即興で入れたそうです(通奏低音の弾き方に関しては僕はまだ勉強不足なのでコメントを控えます)。

このアリアもソプラノ(第1ヴァイオリン)の旋律にバスがついていて、真ん中の2声があたかも即興であるかのごとく協奏しながら装飾的に和声を縫っていきます。

しかし譜面を見れば見るほど実はそうではなく、計算され尽くした音が大理石のように見事に配置され完璧な宇宙の調和を体現しているという様なのです。

後半で第2ヴァイオリンが半音ずつ上がっていき、最後にバスのe(ミ)に対してd#(レ#)の長7度で軋む部分など息をのむほどの美しさ。絶句するしかありません。

歌い終わってつぶやくのはバッハは凄いの一言です。この4声の糸が織りなす綾のすばらしさ、これにまさる天上の調べは考えがたく僕は娘の名に「綾」の字をつけました。

ぜひ真ん中の2声をじっくり練習なさってください。それでこの曲が完全に違って聴こえてきます。僕の経験です。漫然とお聴きになっていた時とは格段に違うものがそこに現れてきます。

 

ここまで修了された方はもうオーケストラ曲のチェロパート、ヴィオラパートをそこそこ歌える準備ができています。ただ音だけを聴いていたご自分とは別な自分を発見されることでしょう。「歌ったり踊ったり」の効用を一人でも多くの方に体験していただきたいと願っております。

 

クラシックは「する」ものである(6)ージュピター第4楽章ー

 

 

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クラシックは「する」ものである(4) -モーツァルト「クラリネット五重奏曲」-

2014 AUG 4 12:12:59 pm by 東 賢太郎

「歌うチェロパート」、僕が大好きなのはこれです。最高の音楽、最高のチェロパート、それも男性の地声(裏声でない)で自然に歌いやすい。3拍子揃ったモーツァルトのクラリネット五重奏曲の第1楽章です。ンーでもアーでも結構。なるべく大きくていい声で歌ってみて下さい(五つある一番下のパートです)。

どうです、簡単な割においしい音をやらせてもらえるでしょう?中間部は速くて難しいですが無視して結構ですよ。

 

では次に同曲の第3楽章にいきましょう。こっちはもっと易しくて楽しいですよ。

冒頭の9小節のメヌエット主題(下の楽譜)は弱起(四分音符ひとつ)で始まります。弱起とはドイツ語でアウフタクトといい、普通は強拍ではありません。しかしモーツァルトはここでそうしたくない。あえて曲頭の音に (フォルテ)と書いて強拍にしています。そして3小節目の2度目の弱起は (ピアノ)と書いて弱拍にしています。

どうして?

これは物語の伏線なんです。三拍子の頭(イチ、ニー、サンのイチ)にアクセントを置かない。いきなりサンから強く始めてびっくりさせる。弱起というのはドイツ語の歌だと前置詞やデア、ダスのような定冠詞にあてる音符であることが多いので、だからアクセントがない(フォルテでない)のです。

ここのようにいきなりアクセントがつくと、僕の語感では、これは命令形に聞こえます。いきなり「何かしろ」と言われてる。主張されて説得されてるような感じです。

皆さんがわかりやすいように、この楽章のイメージをちょっと寸劇風にしてみました。こういうことなんです。

いきなり強気で迫る男()が女に自信満々にプロポーズする(弦楽器は1拍お休み)。すると女()がやさしく「うれしいわ、でもわたし・・・」と小声で不安げに答える。すると男がまた大きな声で「君、何を心配してるんだ、大丈夫だよ」とそれを打ち消す。(男)と (女)の会話です。

ところが2つあるトリオ(中間部)の最初の方で女の悲しい身の上話しが始まり、「実はわたし・・・」よよと泣きくずれる女を男がそんなこと関係ないさと元気づけます。ここはクラリネットは居場所がなくなって沈黙します。

もう一度冒頭の会話が戻り、女の元気が少し戻ります。

そこでやってくる2つ目のトリオ。上機嫌なクラリネットの伴奏でついに2人は仲よくワルツを踊りはじめる。そして、もう一度冒頭の会話が。女はすっかり安心、2人はめでたくハッピーエンドに。うーん、このカップル、何なんでしょうね?

以上僕の創作ですが、「男」と「女」なのかはともかく、冒頭のメヌエット主題の中の対比、これが重要だからモーツァルトははっきりと f  と p  と書いてるんです。

moz clt qt

さてこの楽譜にやや細かいことですが重要な音があるんです。5小節目の青丸で囲ったd(レ)の音です。

この音が和音をE7というドミナントを7の和音(セブンスコード)にする唯一の音です。ヴィオラのe(ミ)に対してd(レ)を長2度音程でぶつけますが、その音をモーツァルトはわざわざチェロという低音楽器の高い音に割り振っています。

第2ヴァイオリンでもヴィオラでもいいのになぜそうしないのか?

この音はチェロとしては高い方で楽器の特性から必然的に「緊張感を孕んだ目立つ音」になり、ちょっと唐突感すらあります。ただでさえ緊張感のある長2度のぶつかり、それをチェロの高音域の音色の緊張感で倍加したいというのがモーツァルトの意図です。

「君!何を心配してるんだ、大丈夫だよ」、男の言葉はいきなり割って入って女をはっとさせ、たった4小節で安心させて曲が結ばれるのです。短いメヌエット旋律に仕掛けられたドラマ。モーツァルトの天才の秘密がこんなちょっとしたところにもあるんです。

だからこのd(レ)の音がアバウトになってしまうのは絶対にだめなんです。おわかりですね?ちょうど真ん中にあるこの音こそ旋律の頂点で、女をはっとさせ、わかったわともっていく大事な一声。

これが緊張感がなくふにゃっとしてたら?まして音がはずれてたら?

そうね、考えとくわ、でおしまい。プロポーズ失敗。

この楽章のチェロはマッチョでエネルギッシュなイケメンじゃなくてはいかんのです。そうじゃないのに女の方だってよよと泣きくずれたりせんし、楽章全体の寸劇が「なんのこっちゃ?」の茶番劇になってしまうのです。

だから僕たちこの曲を何百回も聴いている手練れの聴衆は、この「レ」がきれいに、しかも緊張感とつややかな張りをもって鳴ることを知っているし、当然に期待しています。だからそうでないと、ああこいつらだめだなという判断に即座になること必至です。

モーツァルトはこわいんです。

僕らは人に聴かせる必要はないのですが、クラシック音楽というのはそういう「ツボ」があって、そういうものを大事にするのが大事だということ、それが暗黙に了解できている「する人」と「聞く人」がいる、そういう場があると素晴らしい演奏というものが生まれます。そういう体験を僕は何度もしています。

それはこのブログに書いた「上級者同士のキャッチボール」に非常に近いものがあると思います(キャッチボールと挨拶)。

ところが、プロの演奏家といってもいろいろあって、この「レ」以前の問題で、女の「うれしいわ、でもわたし・・・」が充分にp にならないなど、のっけから話にならない人はいくらでもいます。いくら指が回ったり超絶技巧があっても、剛速球だけどノーコンのピッチャーみたいなもので・・・。

さて、シロウトの我々ですが、僕の言いたいことは「チェロを歌うというのはただ音を出すんじゃないですよ、作曲家が音にこめた魂、ツボ、カンどころをおさえて、味わいながら歌うことですよ」とお分かりいただけましたでしょうか?

歌ってくださいと僕が申し上げているのは、歌っているとそういうことが自然と分かるようになるからなんです。

そして、その経験の積み重ねこそが皆さんの「クラシックを聞く耳」を鍛えていきます。今ここに書いたことはすぐにわからなくても大丈夫です。歌っているうちにいずれわかる人はわかります。

予習おわり。では第3楽章をどうぞ。

低音のd(レ)はちょっと苦しい(僕はミまでしか出ない)。無視しましょう。こういうことはぜんぜんかまいません。この練習はオケを歌うためのものです。オケでは常にチェロにおいしいメロディーが来るわけではありません。来たときにつかまえればいい。その練習なのでダメな部分は気楽に飛ばしていただいて結構なのです。それでも、ここだ!という所だけはうまく乗っかれること。それが大事です。いずれ楽譜を見ないで自然に乗っかれるようになります。そうなったらしめたものです。練習で第2,4楽章もやってしまってください。

 

モーツァルトではチェロにサン・サーンスやボロディンみたいな息の長いメロディーが出てこないことにお気づきでしょうか。それが古典派とロマン派の違いです。古典派ではオケでもチェロとコントラバスが分離せずバスを担当しています。それが別れてチェロが独立してメロディーを与えられたのはモーツァルトでもキャリアの最後の方(例・ジュピター)あたりで、本格的にはベートーベンからです。

古典派のバスはそういう意味で単純なのですが、これを歌うことで、さきほど指摘した「レ」が大事ですよということとはまた違った学習効果が得られます。つまり和声というものをいかにバス(一番下の音)が作って支えているかを経験的に理解できるようになるのです

覚えておいていただきたいのですが、クラシック音楽というのは和声の流れがいろいろな気分や情景の変化を雄弁に物語る音楽です。英語を学ぶときに「イディオム」というのが出てきましたね。あれと同じで、ギヴとアップという単語があってそれぞれは「与える」、「上に」という意味ですが、ギヴアップというイディオムになると「諦める」という別の意味になります。

和声の連結(英語ではコード・プログレッションといいます)は和声のイディオムであって、C(ドミソ)の次にG(ソシレ)が来るかF(ドファラ)が来るかでまったく雰囲気(意味)が変わります。ドの音を長く伸ばして伴奏にC⇒F⇒CでもいいしC⇒Am⇒CでもいいしC⇒A♭⇒Cでもいいですが、全部気分が違いますね。

クラシックの作曲家はそういう和声連結をパートごとに横の線で行い(対位法といいます)、それを縦に見ると和声になっているという書き方をするのが基本なのです。大学のころ僕はこの対位法と和声法を受験のノリで勉強し、これぞ音楽の「文法」だ!と妙に納得した記憶があります。

バスがドミソのどの音になることもありますが、それを歌っていると連結のルールがよくわかるようになります。このルールに慣れると和声のイディオムの意味がよりよくわかるようになって、音楽の流れの大きな文脈がつかめるようになってきます。

ギターコードだとC⇒Gならバスもドからソに「ドスンと」落っこちますが、クラシックだとそのバスをチェロが弾いてドスンが来るとコントラストが強い。あえてコントラストを強調しているように聞こえてしまいます。ですからドがシに半音だけ下がるという解決が多々出てきます。

そのバス(ド)が半音下がるという動きが次々と継続していくと、例えばC、G、C7、F、Fm、C、G7、Cなんていうもっともらしい和声連結になります。これにメロディーを乗っければ「クラシックっぽい感じ」になるというのがお分かりでしょうか?こういう「階段を下りる(上る)バス」はチャイコフスキーが専売特許みたいに多用します。

モーツァルトだってやってますよ。先ほどの青丸の「レ」をもう一度ご覧下さい。E7のバスのレは唐突感がありますね。ところがそれがド、シ、ラ、ソと音階どおり階段を下りてくるとなーるほどそういうことだったのかとだんだんそれが消えます。最後はミ、ミ、ミ、ラ!と盤石の安定感でE7⇒Aで終了します。

かようにバスの動き方次第でいつもドからソになるギターとは違ったニュアンスのC⇒Gになります。同じC⇒Gというイディオムなのに違う意味、ギヴアップの例なら「あきらめる」ではない新たな意味が出てくるのです。だからクラシックの和声イディオムは実に多種多様で、そこから「転調」という調性の枝分かれの可能性が生まれます。

このクラシックの和声イディオムを機能和声といいます。おおざっぱに言いますと、それを行き着くところまで実験したのがワーグナーで、ブルックナー、ブラームス、マーラーという後期ロマン派の人たちが「使い尽くす」ところまで行きました。

ところがワーグナーがその機能和声という文法をぶち壊す実験もしていて、その実験台として書かれたのが「トリスタンとイゾルデ」です。そして、その実験から発想して和声連結に新たな進化の道を開いたのはブルックナー、ブラームス、マーラーではなくドビッシーです。

だからドビッシーまで行くと「クラシックの文法で書いてない」、いわば異国語になります。そしてクラシック以外の音楽ジャンルで、僕の知る限り機能和声的にできていない音楽はジャズだけです。

ジャズピアノの和声は感覚的ですが非常に洗練されています。ドビッシーを始祖としているかどうかは知りませんが、そうでない機能和声的な音楽はどうしたって強力なクラシックの引力圏につかまります。

そこから脱出するにはああなった、つまりドビッシーもそうなのですが、「バスが支配するロジックを捨てた」んです。ピアノが弾けなかったベルリオーズの音楽もそういう感じがあります。だから斬新になったかもしれません。

「トリスタンとイゾルデ」はバスを追っかけても無意味です。何の調性感ももたらしてくれません。ワーグナーはわざとそう書いたからです。それとドビッシーの掟(文法)破りは正確にいえば違うのですが、ぶち壊しの精神は似たものです。

彼らはバスというものの強力な磁場、引力圏から逃れようとした。つまり、逆説的ではありますが、機能和声音楽というのはバスが支配しているということです。バスというのは?室内楽のチェロパートのことであります。

ですから、バスを歌ってたどるということは、皆さんがふだん耳にしている音楽の99%である機能和声音楽をよく知り、よく味わって楽しむための最強の方法であると僕は信じています。

例えばですが、これが身につくと単純な曲のコードは一発でわかるようになります。このクラリネット五重奏曲のドリルを繰り返しやれば、その程度のことは簡単にできるようになりますよ。

 

さて次回はいよいよヨハン・セバスチャン・バッハの曲を使って、もう少し上級コースに進みましょう。バスでなくアルトとテノールのパートも歌っていただき、いよいよオーケストラスコアに至る下準備のトレーニングをいたします。

 

 

クラシックは「する」ものである(5)-J.S.バッハ「G線上のアリア」ー

(こちらもどうぞ)

モーツァルト クラリネット協奏曲 イ長調 K.622

 

 

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クラシックは「する」ものである(3)ーボロディン弦楽四重奏曲第2番ー

2014 AUG 3 12:12:14 pm by 東 賢太郎

 

サン・サーンスの白鳥と言えば思い出があります。

94年ごろでしょうか、フランクフルトにいた頃、SMCメンバーである二木君が野村ドイツの同僚で、拙宅にお招きして食事をしました。さんざんワインが回ったところで彼がピアノが弾けるとわかり、それはいいすぐやろうと地下に引っぱっていっていきなり伴奏頼むとその「白鳥」の譜面を渡しました。二木は覚えてないかもしれないが、あんまり知らないんですが・・・といいながらも初見でそれなりに弾いて(すごいね)、僕はというともちろんチェロを気持ちよく弾かせてもらいました。

でも歌うんでもいいんですよ。声よりチェロの方がちょっといい音が出るんで楽器を持つだけでなんですから。もちろん速いパッセージは歌は限界があります。だけど歌うことのできるチェロの名旋律はたくさんあるんです。たとえば、これも歌えますよ。裏声になるがこれが美しく歌えたら最高の気分になれます。ボロディンの弦楽四重奏曲第2番第3楽章「ノクターン」です(これも有名曲ですね)。

伴奏に回るところの低音部もしっかり楽譜を見て歌ってください。要はこのカルテットのチェリストになりきることです。

譜面が読めない?大丈夫です。音が取れなくても一番下のチェロパートを目で追えますよね。この曲はゆっくりだしそれがものすごくわかりやすいんです。チェロを聴き分けてそのメロディーを耳で覚えちゃってください。チェロだけ聴くんです。

目が不自由な音楽家の方は普通は点字の譜面で覚えるそうですがピアニストの辻井 伸行さんは右手と左手を別々に耳で聴いて覚えてしまう。楽譜は使わないそうです。そんな記憶力は普通の人にはないですが、この曲ぐらいなら誰でもできますね。

ちなみに、そうやってパートを聴き分ける練習をすれば必ず耳が良くなります。同時に鳴っている音の仕分け能力がつくんです。それに強くなれば交響曲のような複雑な曲を聴いても楽器の聴き分けができるようになります。

そうすると曲からの情報量がぐっと増えるから、いいことがあります。その曲がもっと楽しめる?そうですね、それもありますがそれだけではありません。増えた情報がマーカーとなって曲を早く覚えられるようになります。これが実はクラシックのレパートリーをどんどん増やしてくれる、つまり通になる近道なのです。

ワインだって日本酒の利き酒だって、飲んだものを覚えてないと次のと比べられませんね。覚えるには特徴をなるべくたくさん見つけておくのがいいですね。それと同じことです。カルテットのような、音の少ない曲から練習して、だんだんと編成を増やしていかれるとコツをつかむのに効果があるでしょう。

楽譜にアレルギーのある方もきっとおられると思います。でも所詮は記号だからパソコンの文字とキーボードの関係と同じです。恐れることはありません。楽譜を見ながら聴くと、情報量はますます増えますから、ますます早くますますたくさんの曲を覚えられるのです。そんなにご利益があるんです。チャレンジし甲斐があるではないですか。

次回は天下の大名曲、モーツァルトのクラリネット五重奏曲を使って、和声についてもう少しご説明をしましょう。

 

クラシックは「する」ものである(4) -モーツァルト「クラリネット五重奏曲」-

 

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クラシックは「する」ものである(2)ー放浪記ー

2014 AUG 3 1:01:15 am by 東 賢太郎

アメリカ留学中の楽しい思い出ですが、試験がすむと必ず「打ち上げパーティ」になります。普通はバーでやるんですが、ある時、なんとなく僕のアパートでやろうということになって日本人はもちろん、ケニア人、インド人、スイス人、メキシコ人、韓国人なんかが入り乱れてやってきました。うるさいことうるさいこと。我ながら、英語が下手くそで授業で疎外感を味わってる連中同志の憂さ晴らし大会でもありましたね。

家内が日本メシを振るまうわけですが、みんな独身でそれ目当てみたいなもんで、普段は犬のエサみたいなのしか食ってない連中だからそりゃあうまい。一気に平らげ、安バーボンが何本もころがってへべれけになってしまう。ケニア人は家内にカレーの作り方なんか教えてる。誰かがなんか歌いだすと僕は日本語でよーしやるぞーとどなっていきなりギター弾いてビートルズを歌う。そうするとくだ巻いてた奴らや半分寝てた奴らが寄ってきてレット・イット・ビーの大合唱になる。いっぱしのラ・ボエームでした。

大学時代はというと、六本木にニューヨーク・ニューヨークというディスコがあってよく出没してました。あのころは学校などご無沙汰で真正ヤンキー状態。ディスコから雀荘いってそのまま翌日も徹マンなんてのもざらでした。それで夏休みになると1か月ふらっとアメリカ行ってレンタカーで1800kmぐらいカリフォルニアを突っ走ったりで。ディスコというのはあれっきりですが昭和50年代が予感してたバブルの予兆みたいなもんで、夜中までへばるまで踊んですが、何であんなに夢中だったんでしょうね?とにかくあの腹に響く強烈なビートと耳をつんざく騒音みたいな音楽が良かった。若かったです。

ああいう歌って踊っては、音楽で人間と、じゃなく、音楽で音楽そのものとボディ・ランゲージしている感じですね。頭を迂回して体だけで音楽に反応してる。アフリカの原住民の太鼓がそんな感じじゃないでしょうか。理屈をこねる左脳はオフになってて、すっからかんになって感覚だけの右脳でやってる感じです。

面白いかどうかだけが音楽を音楽たらしめるエッセンスと前回書きました。そいつを決めるのは右脳です。それで終わってみて、今度は左脳がでてきて「右脳の奴、どうしてあんなに面白がったんだろう?」なんて理屈をこねだす。そこに「語る人」たちのウンチク話があると、なるほどと左脳は納得するんです。

そうか、そんな大天才の立派な曲なのか!ちょっと舟漕いだけどそれが理解できたオレもまんざらじゃない。そこで今度は自分がウンチクを友達に語ってみたりもする。そうやってウンチクは自己増殖していく。でもディスコの曲みたいに小難しいウンチクがないと、納得しないまま酔っぱらってそのまま忘れるんです。

ワインがそうですよね。82年はどういう気候でどうのこうので、だからボルドーは当たり年でその中でもペトリュスはもう何本も残ってなくって・・・はい、お客さん、だから100万円なんでございます。ウンチクの嵐です。それに値段がついてる。こんなの大学の時に渋谷でポン引きに騙されてボリまくられた暴力バーと変わらんじゃないか。ところがウンチクが乏しいワインはうまかったねえでおしまい。本当においしくてもすぐ忘れられちゃう。

だからウンチクは日々そこいら中で貯まってふくらんでいくし、ないものは永遠にない。その貯まりまくったほうを僕らはクラシック音楽って呼んでるんですよ、きっと。ワインだってイタリア(トスカーナ)のキャンティなんてたいしたことないけど伝統的に黒い鶏の紋章がついたのはキャンティ・クラシコなんて呼んで差別してる。クラシックになるとセレブ御用達感が出るんザーマスよ。

僕はワインだって「うまければいい」というリアリストです。ウンチクはどうでもいい。酒の値段というのはごまかしがないという定説がありますが、僕はちょっと異論がある。高い酒でまずいのはない、そういう意味なら(暴力バーの5000円のビールを除いて)ほぼ正しい。しかし、安くてもそこそこうまいものはあるのでそこは違う。

同じクラスの酒の値段は世界的にほぼ同じというなら、より正しい。その昔、英国の友人は世界最古の職業(**)と最古の酒(ワイン)にはその法則が当てはまると力説した。前者はちなみに世界どこでも200ドルというのが彼の豊富な知見から導かれた学説なのであった。まあどうでもいいが。

ウンチクが貯まった音楽はいい音楽だ。これはまあ正しいでしょう。しかし酒と一緒でリアリストの僕は、ウンチクなんかなくてもいい音楽はたくさんあるよと思ってます。「語る人」は得てして教養人である。教養人は左脳型が多く、歌って踊っての右脳型は少ない。よってディスコミュージックにはウンチクが貯まらない。明快ですな。

左脳型人種がウンチクで塗り固めてしまったクラシックには、実は右脳型、ディスコミュージック型の「歌って踊っての要素」というものが大いにあるのであって、それをそうやって楽しまなきゃもったいないですよ、というのが『クラシックは「する」ものである』シリーズのいいたいこと。同じなら阿呆なら踊らにゃソンソン、これです。

次回から、それの実践編をやります。皆様に「お歌」を歌って遊んでいただき、ちょっと楽譜も見ていただき、堂々たる本格的クラシックリスナーになっていただけることをお約束いたしましょう。

 

クラシックは「する」ものである(3)ーボロディン弦楽四重奏曲第2番ー

 

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クラシックは「する」ものである(1)

2014 AUG 2 2:02:05 am by 東 賢太郎

先日書いた クラシック音楽の虚構をぶち壊そう  はずいぶんたくさんの方にお読みいただいているようでありがたく存じます。

音楽はもともと歌ったり踊ったりするものだったという考え方、いかがですか?ブログを書きながら自分のクラシック音楽50年史をふりかえる日々ですが、やっぱり音楽は聞くだけじゃもったいない。三島由紀夫にマゾって言われちまうし、そんならサドでいってやろう、こっちから能動的に音楽に作用してやろうと思うのです。

小さい頃だからまったく記憶がありませんが、ラジオドラマ「赤胴鈴之助」の歌が好きでおもちゃの刀を振りまわして踊っていたらそれが親戚に知れわたり、とうとう祖父のお通夜でリクエストが出て故人の枕元でやったそうです。このとき2歳でまだしゃべれません。どうも性根から歌ったり踊ったりが大好き人間だったようです。

歌って踊ってはそのまま鉄人28号、鉄腕アトム、スーパージェッタ―、宇宙少年ソラン、少年探偵団、エイトマンへと行って、どれもTVに合わせて歌ってました。そしてその流れでベンチャーズのテケテケに行きましたが最初は「口(くち)ギター」。体が小さいのでウクレレを与えられましたが、テケテケらしくないというのでさんざんねだってギターを買ってもらいました。もちろんそれを弾くのも歌って踊っての延長です。その先にクラシックがくるわけですが、では小学校の音楽の成績はどうだったかというと通信簿は堂々の「クラス最低」、要はビリでありました。

これはいいわけがあって、母は妹にピアノを僕にヴァイオリンを習わせたのですが、耳元でキーキーいうのが生理的にだめで鳥肌が立ってしまうのです。おけいこを泣いてボイコットしてついに野球小僧に転身が許されました。そのトラウマでしょう、学校の音楽も大嫌いになり、唱歌はいやだし笛のピーピーはこれまた鳥肌が立つしで先生がピアノに向かったすきについに窓から脱走までしました。当時の風潮ですが音楽は「女のやるもの」であり、そんなのが好きだなんて野球仲間に言おうもんならコケにされそうな空気もありました。

ということで、僕の「歌って踊って」は文部省指導要領と一度もクロスオーバーすることなくクラシックに突入していきます。そのへんのことはこのブログに書いてあります( ベンチャーズとクラシック)。「女の芸事」の世界に入るのかいやだなという羞恥心がありましたっけ。ビートルズ、ベンチャーズの曲はべつに卒業したという感じでもなく今でも聴きますし、2歳からそこまでの「歌って踊って」路線がクラシックで途切れたかというと、ぜんぜんそんなことはありません。だけどテケテケと女の芸事はあまりにちがう。俺のクラシックはきっと変なんだ、異端児なんだというコンプレックスがいつもありました。

ところが長いことヨーロッパに住んでいて、そこの文化にどっぷりつかり、現地のいろんな方々と飲んだり食べたり話したりしていると、キリスト教徒である彼らの人生には教会へ行って賛美歌を歌うというのが当たり前のように組み込まれていることがわかったのです。もう赤ちゃんのころからそうしてる。僕も何度も教会に行ったことがありますが、牧師がなんだか長々としゃべって眠たくなると、ちょうどいい頃合いにオルガンが鳴って歌になる。するとそのへんに讃美歌集の楽譜が置いてあって、それを順繰りに回してくれてみんな難なく上手に歌うんです。そういうことが学校で教わるんではなくて生活の一部になっているんですね。

ヨーゼフ・ハイドンやフランツ・シューベルトは子供のころ、ウィーンのシュテファン教会の合唱隊、今でいうウィーン少年合唱団で歌ってました。意外に思っていたのですが、あの文化を知ってみるとなんでもない自然なことですね。教会で歌い家庭で親に楽器を習いそういうプライベートな空間の中で空気を吸うみたいに音楽を「する」。才能があれば有名な先生の弟子になってその道で食っていく。でもそういう職業音楽家を聞くアマチュアも、楽譜を見て初見ですんなり歌えるぐらいの「する人」だったんですね。

そういう経験をしてみると、「赤胴鈴之助」にはじまる僕の音楽ヒストリーも意外にヨーロッパ的には普通なんじゃないかと思うようになりました。オギャーと生まれると僕らは僕らなりに讃美歌の代わりにそこらへんにある音楽を覚えます。それは面白いから自然に覚えるんで、誰かに言われてそうなるんじゃないわけです。この「面白い」というのが音楽を音楽たらしめているエッセンスだと思います。そして、子供は面白そうなことは自分でやりたくなる。そうやって自然に「する人」になるのです。

クラシックを「する」、これは楽器で弾くよりもっと簡単な方法があります。歌うのです。僕は家では大声で歌い、手はたぶん指揮者より動いてます。完全に音楽と一心同体というか、本当に入ってしまったときはトランス状態といいますか。何を歌うか?交響曲や協奏曲や室内楽をです。ベートーベンやらブラームスやらの。パートはその時の気分でチェロだったりヴィオラだったり、裏声でホルンなんかも。フルート、トランペットは口笛ですが僕のは隣りの部屋にいた人が今のモーツァルトのレコード、口笛入ってるんですかとまじめにきいたぐらい音程とリズムに細心の注意を払ってます。

コンサートホールではこれができないのでつまらない。じっと聴いてるのは苦手です。もうここまできたらいつかオーケストラ1日借り切って僕の趣味のとおり皆さんに弾いていただくぐらいしかないですね。魔笛なんかやりたいですね。あれは全曲オケパートを歌えるオペラです。ただ難点はパパゲーノの首つりのところ、それからパ・パ・パ・・・なんですね、あそこに来るとどうしても泣いてしまう。トシで涙腺がゆるんだわけではなく、若い頃からあそこに弱いのです。モーツァルトの音楽が強いんですね。

こうやって僕はクラシックを「して」います(そのレパートリーを順次ブログにしています)。オーケストラ曲を歌うなんて変だとお思いでしょうか。そうじゃないというのは、僕はチェロを習ってわかりました。あの楽器は僕のトラウマになったヴァイオリンのキーキーが出ません。だから弾きながら気持ち良くて一緒に歌う。すると男の声域ちょうどぐらいなんです。なるほどそれならオケのチェロパートを歌ってみよう。そうやってこの道にたどり着いたわけです。

嘘だと思われたら、男性のみなさんは「裏声」で、女性の方はそのままで、サン・サーンスの白鳥、これを一緒に歌ってみてください。

どうです、できましたか。けっこう気持ちよくありませんか?男の方、高いd(レ)がきれいに出ましたでしょうか(僕の声はそれがギリギリです)。この音域のチェロ、音質は男の裏声そのものということがわかりますね。しかも、天下の名チェリスト、ピエール・フルニエと合奏!彼の微妙なポルタメント、フレージングの秘密までよくわかってしまう。こうやって音楽の先生が教えてくれたら窓から逃げなくてもよかったなあ。

クラシックは「する」ものである(2)ー放浪記ー

 

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