今でも残る43年前にセビリアで考えたこと
2026 SEP 22 13:13:53 pm by 東 賢太郎
先々週にスペインの夕焼けのブログを書きながらセビリアを思い出してました。もともとの支配者はゲルマン系の西ゴート王国でカトリック。それがウマイヤ朝に征服されイスラム支配が5世紀続き、それがまたカスティーリア王国に征服されてカトリックに。世界史であっさりとそう習って覚えたわけですが、それで大学には入れても実は何にもわかってませんよ。なぜなら僕がそういう教訓を得られたのは43年前、28歳にもなってそのセビリアにはじめて行った時のことだからです。その場にたたずんで、感ずるものをじっくり味わった記憶が血となり肉となる。本当だから若者はやってごらんなさい、その場でわからなくてもいずれわかります。わかったら財産です。旅行は投資です。金をケチってはいけません。
前の文明は上書きされ消えるのが世界史の常識です。どこへ行ってもそう。つわものどもは夢のあと。例外はありませんでした。ところが、セビリアでは人間も文化もが異教徒間であるにもかかわらず適度に混合し、滅んだはずの文明が遺伝子となって生きているのです。征服者が貧しかったわけでもないのにイスラム寺院の遺構がカトリック教会の一部になり、アラビア語で記されたギリシャ文明を組織的に翻訳し、エンタメは昔ながらの闘牛があると思えばロマも入ってきて土着していてフラメンコの聖地にもなった。実に異例中の異例の場所なのです。
残っている著名な一例としてグラナダのアルハンブラ宮殿があります。当時スペインは全く無知で、アランフェス協奏曲はここで書かれたと勘違いしていたくらい知識がなかったのですが、ひとつだけ、イスラムの城・宮殿なのにこれもレコンキスタで破壊しなかった。なぜだろうと思ったことだけ覚えてます。行ってみてその理由がどことなくわかる気がしたのです。
ここに立ってみた方は納得いただけると思うのですが、この水鏡、言ってみればただのプールです。それが巧みに配置された幾何学的な造作物の一部となると、頭がクラクラするほど、言葉を失うほど美しい。衝撃でした。
カスティーリャ王ペドロ1世もここに立ってみてきっとそう思ったんでしょう、セビリアに建てたスペイン王室の宮殿アルカサルもこうなった。
まあ僕の趣味ではごちゃごちゃした分、美しさは相当グレードダウンしてますが、異教の美意識を分け隔てなく認め、宮殿に取り入れてしまったスペイン人の本能に忠実なこだわりのなさ、フレキシビリティというものはユダヤ教徒にもイスラム教徒にもまずないです。スペイン人はその後に仕事でたくさん会いましたが個人的にはほとんど知りません。そういう気質なんでしょうか。万が一にもパレスチナ問題が片付いてどっちかの天下になってもアルカサルみたいなことは絶対に起きないでしょうね。
セビリアという都市ですが、コロンブス艦隊はここから出港して新大陸を発見し、しこたま金を儲けた。地球が丸いと証明されてない時代です。本能に忠実なこだわりのなさは蛮勇のもとにもなりますが、運さえ良ければ大発見や大成功のもとにもなるのです。後にマゼラン艦隊の出港地ともなり、大航海時代の拠点としてスペインが獲得した新大陸の富はまずセビリアに持ち込まれました。だからでしょう、アルカサルは血の匂いとともにカネの匂いも濃厚でした。
調べてみるとイスラム支配を殲滅し、新大陸で殺戮と強奪を繰り返して築き上げた富はやがて美意識につぎ込まれています。画家ではティツィアーノ、ルーベンス、ベラスケス、ゴヤ、音楽家ではドメニコ・スカルラッティ、ルイージ・ボッケリーニがこの宮廷の世話になってます。アートというものは性善説だけでは語れないのです。人間の愚かさ、残虐さ、強欲な性(さが)というおぞましき泥沼に咲いた蓮の花のようなものかもしれません。アートをする人は美意識だけ持てばいいですが、それを社会の中で健全に保持しようとする人は清濁併せ飲まなくてはなりません。
コロンブスという男はイタリアのジェノヴァ出身で、港に立派な像(写真)があります。前に立ってみて、こんな偉い奴だっけと複雑な思いがいたしました。1492年に最初に到達したイスパニョーラ島(現在のハイチとドミニカ共和国)だけで「虐殺・戦闘」「処刑」「奴隷化・強制労働」「飢餓」「病気」で50万人ぐらい殺された。キリスト教化の名目で罪の意識もなくです。もし日本人がしてたら慰安婦像みたいのが100万個も建ったでしょう。奴隷化・強制労働がカネになる味をしめるとアフリカ人が対象になりました。1549年に日本にやってきたフランシスコ・ザビエルはバスク人ですが(モーリス・ラヴェルの母親も)、信長のままで秀吉、家康がいなければ日本も危なかったかもしれません。
1853年。コロンブスが見つけてキリスト教徒に乗っ取られたアメリカ合衆国からマシュー・カルブレイス・ペリーという男が浦賀にやってきました。名目は日本を捕鯨船の寄港地とするためでしたが、一皮むけば牙をむくコロンブスと同じような荒くれた奴らです。僕はキリスト教には何の反感もありませんし、むしろそれが生んだクラシック音楽と共に育った人間ですが、教義が骨の髄まで染み込むと脳が誤作動してとんでもないことをしでかす「人間という動物」が危険だという論点は全く別です。この時、貿易・開国を強く迫ったハリスに返答するという重い外交判断を迫られた大老・井伊直弼の危機対応はやむを得ぬと思います。開国猛反対で即時攘夷派の水戸斉昭も、越前藩主松平春嶽あてに、「本当は開国しかないが私は攘夷派の頭目と攘夷派の人々に思われているため、開国と言えないので貴君らが開国を計らって欲しい」と手紙を書いている(wikipedia)。まあ僕には本音の吐露というより小ずるい逃げに見えますがね、政治の当事者たちにとってそれほどの難局だったということで最高権力者で逃げ場がなかった井伊直弼が一番大変だった。僕の頃の教科書には「戊午の密勅」の記載はなく知りませんでした。安政の大獄は孝明天皇が幕府より先に斉昭に詔勅を送り、朝廷の代理人としての幕府の立場が危うくなったからやむなく起きたと理解します。僕の先祖はこのとき起きた水戸天狗党の乱でばりばりの尊攘派、一橋慶喜押し派で薩長と通じ、幕府にひっ捕らえられて小伝馬町に投獄されてますから本当は井伊直弼をほめちゃいけないんですがね、会社のオフィスがホテルニューオータニで井伊家屋敷跡にあるもんで微妙な気持なんです。水戸斉昭が「キリスト教は危険」と看破していたことだけは特筆したいですがね。
コロンブスは航海日誌にこう書いています。
「彼らと友好を結ぶため、それにまた、彼らは力ではなく愛を持って接すれば、より速やかに解放され、我らの聖なる侵攻に帰依するとわかったので、彼らの何人かに赤いボンネット帽や首にかけるガラス玉の数珠といった安価な品をいくつか与えたところ、彼らはとても喜び、我々も驚くほど和やかな間柄になった。(中略)彼らは良き下僕になるに違いない。なぜなら私が見るに、彼らは私が話すことすべて、すぐに後について口にするからである。また、私は彼らは速やかにキリスト教徒になると信じる。なぜならいかなる宗派も持っていないように思われたからである」
1945年。今度はダグラス・マッカーサーというアメリカ人が日本に上陸しました。若いころ女にモテなかったことと、野球に熱中して成績が落ち野球をやめたことだけは親近感を持ちましたがあんまり好きになれない奴という印象です。コロンブスの日誌を読んでいたのかどうか、安価な品を与えれば日本人はとても喜び、驚くほど和やかな間柄になることを発見したが、キリスト教徒化はうまくいかなかったんです。だって現在にいたって、韓国人は31%も信者にしたのに日本人はたった1%ですからね、無理なんです。うまくいかない根源は天皇の存在だと気づき皇室にもそれを仕掛けたし、新憲法で地位を骨抜きの象徴天皇としたわけです。しかしながら、それでも天皇の神性を日本人の心から消せなかった。我々国民もなぜかと言われると厳密には分かりませんが、それが「歴史というものだ」とでも説明するしかなく、何ら合理性の見えないこの説明だけは歴史のないアメリカ人にはわからなかったのです。お分かりと存じますが、だから日本国が日本国であり続けるためには男系男子という2千年の歴史は変えてはいかんのです。それをああだこうだ言って変えろという人たちは、日本国が日本国であり続けて欲しくない人たちだと本性を見抜くリトマス試験紙のようなものです。いいですか、アメリカはこの度のイランとの戦争でまっさきにハメネイ師を殺しました。この人はイラン国民にとって当時の日本の天皇のような存在だからです。宗教だからアメリカはわかりやすかった、天皇は宗教の教祖でない訳のわからない存在なので、マッカーサーの意見もあって同じ扱いをしなかったんですね。ところが殺したのにイランは腰砕けにならなかった。これがトランプ最大の誤算だったのです。いまだにわかってないんですねアメリカは、自分たちがいかに歴史の重みを学んでないかということを。
ヨーロッパからの移民が作ったアメリカが覇権国家になったのは、ルネサンスと産業革命を起こし科学技術による圧倒的な殺傷力を持つ兵器を手にした優位性からです。次の優位性は生成AIがもたらし、それを手にした者が宇宙という新たな新大陸を支配することにもはや議論をさしはさむ余地はありません。宇宙からは容易に地球上のどこでもピンポイントに核攻撃できるので軍事力競争もそこで終了です。その地位がアメリカに保障されてはいないことをアメリカは知っており、ベセント財務長官が何立峰副首相に対し「米中AI対話」の設立を持ちかけたというニュースが昨日飛び込んできたのです。僕は2017年5月23日にこのブログで日本の教育に警鐘を鳴らしました。
優生学を信じているに違いないベセントらアメリカのエリート連中が真剣に中国を恐れている。日本に言ってきたのは「円が安い。金利上げろ」だけ(トランプに詰められたんだろ、ああくだらねえ)。中国への対話要請は科学技術競争のためでもキリスト教のためでもなく、種の保存の危機感のためです。 中国共産党の幹部がずらりと理系であり、日本はそれ自体が国家戦略上まったく無価値でしかない「文系思考」というものの産物であるところの「文系重視」という末期的トートロジーにはまりこんだまま身じろぎもせず(というよりそれを否定してしまうと自分の権威も権力もなくなる文系権力者がドミナントであるから)、ブログを書いてから9年たってツケがいよいよ来てしまいました(唯一の反応と思われたのは2021年度から早稲田大学政治経済学部が入試で数学I・Aを必修科目としたこと。志願者数が減るならそのこと自体が合格者の質は上がることを示唆します。僕のころ東大2次試験の倍率は2、3倍です。敬意を表します)。80年前にアメリカが恐れたのは日本でしたが、理にかなった戦略で中国がその座にとって代わりました。AIは受け身でしかない日本はこのままならもうお呼びでない。
こうなった原因はもうひとつあります。国民全体が「一億総中流の平等を良しとする共産主義的思想」の塊ですから、高学歴になっても金持ちに自動的になることは許さない。だから若年の役人は可愛そうなぐらい薄給です。若い頃クラス会で酒が入ると「なんでソープのオヤジが年収1億円で!」と怨嗟の声が結構まじめに上がった。なるほどそれが本音ならデフレ政策とったほうが気分いいわなあとも思いました。誰しも人間だし家族の幸せもあるし収入が大事なのは当然のことと思います。政治家、役人は外国に比べ地位、能力に見合う収入を得ていないと不満を抱えているのは口外しないだけで事実です。だから、身を滅ぼさない安全な手口でマネトラ、ハニトラ、お好みのメニューさえ用意されれば簡単に買収できてしまうのです。帝国海軍の幹部が英国にイギリス人名義の口座を作って賄賂をもらっていたシーメンス事件が良い例です。権力者の買収は低開発国の代名詞で国の恥ですから明治の昔から報道機関もグルになって秘匿し、日本を手籠めにしたい外国勢力はその低開発国性に容易につけ込めたのです(現在だってね)。ものすごく勉強しないと進めない道に進み、高級官僚になっても熾烈な出世競争があるわけですからマクロ的には国家トップの秀才たちを低賃金で雇えてる国が儲かっているということで納税者も帳尻はあっているのではないかと僕は思っています。ただしお気楽な世襲政治家にその温情は当てはまりませんが。
中国の理系重視は軍事力重視であり、米露と同様日本人をトラップする側です。スパイにだって仕立てます。だからスパイ防止法が必要なんです。それと人民元の基軸通貨化の両輪でアメリカを凌駕してヘゲモニーを奪うことが明確な目的になっているのです。そして、それは極めて正しいです。だからベセントは警戒しています。地方の金融機関にある天文学的な不動産貸し倒れ損失の隠蔽を続けおおせるうちに人民元を暴落させないだけの財政収支の取り繕いがうまくいけば中国人民は安心安全かつ世界平均以上は幸せに暮らせる可能性を手にします。アメリカのマネしてお札を刷りまくればいいんですから簡単です。文系ばっかりの日本の保守派は習近平はそのうち失脚するだろうなんて思ってる。とんでもないですよ。万一そうなっても次の主席が同じこと続けるだけです。理系は文系と違って答えは一つで属人的な遊びなどないんです。「AIで人類絶滅論」の現実味が出てきてオープンAI、アンソロピックなどが開発の自主規制を言い出しましたが、規制される奴が規制するなんて善人づらして嘘つき放題ということ。泥棒が市販する鍵のスペックを決めるようなもん。市場を安心させる嘘です。ましてや中国が本気で加わるなんて、あるわけないでしょそんなの。ディープシークは 7割ぐらいは追いついたと言われますが未上場だから情報開示義務がない。もう追いついてる可能性もある。アメリカがブレーキ踏んで自分がアクセル吹かせば勝てるなら千載一遇のチャンスでしょ。
日本に有能な理系人材が多くいることはノーベル賞の数で証明されています。問題は理系のいない政府がそれを国策に有効に使えず多くが企業まかせなことです。企業は政府ではなく株主のためにそれを使う。国のためを強要すれば株価が下がって技術力を失います。それもこれも、裏金キックバックやハニトラで釣られ、富と欲望への渇望を満たせば受験勉強に時間を費やした人生のバランスシートが均衡すると考える文系エリートが国を支配しているからです。そんな個人的なもんこれから国力の生命線を握る生成AI開発、宇宙進出技術開発にとって100%どうでもいいんです。それにつけこんでアメとムチで日本の支配層をいいようにくわえこんできたアメリカは、日本は中国の路線で中国と対抗できる能力を完全に失ってしまった国であることを知ってます。ならば日本人はどう扱おうか。簡単です。奴隷働きさせ、バブルのころ三公七民だった租税負担率を財務省を締めあげて五公五民で絞り取らせ、小さな幸せで満足させ、貯蓄はすべて米国債の購入に当てさせてドル紙幣を刷りまくってもドルの価値を支えるブタの貯金箱とする。邪心を催させぬようイラン同様核保有させない。そういうことです。今回訪米でトランプは高市の名前を覚えておらず、石破とおんなじ日本の総理大臣と呼びました。冷酷なもんです。トランプがどうなろうが変わりません。敵は中国だけじゃないんです。
欧米と金融商売を16年もやってるとかように人が悪くなるんですね。市場で戦って継続して利益を出すためにはウルトラ現実主義者、究極のリアリストでなくてはいけません。子どものときからその傾向はあるのですが、この期に及んではもう筋金入りです。もっと悪い人にもたくさん会いますし、そんなのに騙されてたら商売にならないから騙す側に回るしかないんです。43年前にセビリアの酒場みたいなレストランでディナーしながら楽しんだフラメンコショーは、予想とはだいぶ違うものでした。日本人が踊るのを見た記憶があって、あんなふうにスポーティで可愛らしいイメージかなと思ってましたがとんでもなかった。踊り子の女性たちが凄まじくたくましいのです。手を打ちながらオレオレ!なんて発する掛け声は野性味たけだけしくまるで男。まあ百歩譲ってカルメンのカスタネットの歌がこんなだったら様になるのかなと思った次第。ああこりゃいかん。 10万年ぐらい前に分化したのだろうか、チンパンジーほどは遠くはないのだろうが全くもって異人種であるのだなあと悟ることに相なったのです。とっても無礼に聞こえましょうが、向こうもおそらく東洋のチンケな我々を猿と思っているのでお互い様でありましょう。そうでもないと小さな島で50万人も殺したり原爆を落としたりはできないでしょうからね。
そうそうベートーべンが「君のあれね、楽譜見たよ、ブッファに才能あるね、これからもその道を行きなさい」とロッシーニをほめたあれが「セビリアの理髪師」だったんです。もっともそれはだいぶ後になってロッシーニが回想した話であって、本当に両人が会ったかどうかはわからないことになってます。ロッシーニは会ったといい、ベートーベンの秘書シンドラーはそれを否定してます。僕はシンドラーを嫉妬深い小物の詐欺師と思ってるのでロッシーニを信じてます。「セビリアの理髪師」はボーマルシェの戯曲でこれが前編、そして後編こそがあの「フィガロの結婚」。モーツァルトに繋がるんです。ベートーべンは「イタリアでモーツァルトは上演されているか」とロッシーニに質問してます。こいつがウィーンに住み着いたらヤバイと思ったかもしれませんね。
軽快でノリが良くたくさん笑える愉快なオペラです。彼はこれ3週間でさくっと作曲したんです。音楽には早熟で数々の女性歌手と浮名を流し39本のオペラを書いて今のカネで100億円ぐらい稼いで全欧州に名のとどろく巨匠になった。にもかかわらず37歳でオペラ界をさくっと自主引退し、後半生は趣味であるグルメに情熱をささげ「**アッラ・ロッシーニ」と命名された20~30はあるとされるフランス料理がいま世界中で食されているという真の傑物です。こういう名誉、カネ、女に満ち足りた男はね、小物の詐欺師とちがって「ベートーベンと会いました」なんて嘘をつく必要なんかないんです。これ人間の鉄則ですよ、だから僕は信用するんです。クラシックが堅苦しいと思っている人はイメージが変わると思いますよ。連休ですからお時間があればアバド、プライ、ベルガンツァの最高のキャストでどうぞ(日本語の字幕設定可)。
3泊4日で韓国行ってたもんで・・・
2026 SEP 12 0:00:10 am by 東 賢太郎
飛行機は7年乗ってない。元から嫌いなうえパニック障害ありで、よくそれで海外部門がつとまりましたねと不思議がられる。思えば証券界でそんな人間は見たことないし、むしろ好きな連中が多い。昔のパスポートを全部引っ張り出してみると、乗ってる乗ってる、全部のページに所狭しとイミグレーションのスタンプが押してあって気が遠くなり、数える気も失せた。最後はオーストラリアのケアンズだ。 10時間ぐらいかかるが、娘が一緒だったのと、ナイトフライトだから酔っ払って寝ちまえばいいと思い切ったのだった。
この度乗ったのは、野村証券のロンドン仲間との韓国旅行だった。ソウル、済州島だからフライト時間は短いものの3度も離着陸があり心やすくはない。仕事は立て込んでいるがこの仲間はことさらの戦友だ、楽しくないはずがない。よし飛行機は我慢して行こうと決意した。こういう場合、僕には問題が2つある。ひとつ目が荷造りだ。たった3泊なのにあれもこれも必要となって収拾がつかず、最後は必ず家内にお任せになるのだが、ロックした後もあれ忘れてないかこれあるかなと心配でならない。綺麗に整ったスーツケースは行った先で開くとめちゃくちゃになり、翌日戻そうとするが、何も増えていないにもかかわらず、入らないのである。
ふたつ目に集合時間というのがある。出発は羽田9:20だが万一の場合にそなえ7:30に来いとラインが来た。過去の習性からこれは僕を念頭に置いてると思われる。現地においても、ホテルの部屋で各自が休憩して昼食は何時、バスの出発は何時なんてのがガイドさんから伝達されるが、覚えてもすぐ忘れる。そこは長年のことだから心得ていて、手元にある適当な紙片に場所と時刻を書き留めるのが習慣化しているのだが、休憩中にいざそろそろとなって部屋でそれを探すと、紙片が見つからないのである。せっかく整えた荷物をまたひっくり返し、やがて思いもよらぬ所で発見して記された時間を見ると、たいがいが今でしょなのだ。
3泊4日のスケジュールで一番心配だったのは体重である。 79キロだったのがダイエットで74キロになってる。現地で出されたものは残すと失礼だし、それ以外のものは口にすまいと肝に銘じたがいきなりチョンボをしてしまった。朝7時半なんて早朝に出てくることは年に何回もなく頭がボーッとしており、ラウンジで「JAL名物です」と勧められたカレーをうっかり食べてしまった。機内に入ると大韓航空のビジネスは2-2-2でセミファーストのスペース感がなかなかよろしい。これで2時間、パニックは大丈夫そうだと安心すると、そういえばKALのビビンバは旨かったなとランチに注文し、完食してしまった。
もう10年近く行ってないインチョン空港にランディングした。何度ここに来たことか。色々あった。目の前に走馬灯とはこのことだ。ソウル市内で調印した契約書の不備を見つけ、作った韓国の弁護士の目の前でビリビリ破り、ビビった彼はここまで見送りに来たっけ。なんて野蛮な人間だったんだ、悪いことしたなぁ元気かなあいつと考えていた。空港のレイアウトはずいぶん変わっていて中国からの便も着いたり大混雑だ。やっとイミグレにたどり着いたと思ったら、「やばい入国カード書いてないぞ!」と前の仲間が騒ぎ出す。僕が書いてるはずない。おい参ったな、いらなくなったのかと思ってたよ、あるのも忘れてたよ、ペンねえか、まあいろいろ声はあったがまるで施設の爺さんの慰安旅行である。
到着口で何人かが出迎えてくれ、ミニバスに乗るとスハドンなるソルロンタンの店に着いた。何とランチだという。まいった。カレーにビビンバときて昼時にして3食目だ。ところが名店の威力はおそろしいもので食べられてしまうのである。蚕室(チャムシル)のロッテワールドタワーまでは半端でない渋滞で1時間半かかった。窓から眺めるソウルの街並み、人の群れ。ああ、一人当たりGDPで抜かれたんだなあと見えてしまう気持ちがうら寂しい。日本語ペラペラのガイドさんに「ロッテワールドタワーは123階建てになっております。ホテルはその中にあるシグニエル ソウルでございます。90階のお部屋をご用意しております」と言われ何も考えずにはいと言ったが、エレベーターに乗ってもなかなか到着しない。そうか池袋のサンシャインのてっぺんから30階も上なんだ。
部屋から外を見るとこんな感じで、こいつはその昔、マンハッタンでエンパイアステートビルから見てぞっとふるえあがった景色だ。高所恐怖症なんで。そうでない方にとって、このスケールのパノラマを体験できるホテルとなると、世界広しといえどそうはない。
お子ちゃま連れのファミリーにとっては、すぐ隣にディズニー風の遊園地であるロッテワールドがあるから最高だ。僕らも連れて行かれ、 7月にオープンしたアトラクション「ゴジラ x コング: THE RIDE」をご体験くださいということにあいなった。(帰国して探してみたがオフィシャルトレーラーはこういうもので、撮影厳禁らしく我々が体験したものとは違う)。
こいつはおすすめだ。アメリカで流行のイマーシブというやつで日本語では没入型エンタメなんて呼んでる。大人だって爺いだって「没入」できるが低学年の子にはちょっと怖いかなぐらいのところだ。学生時代にアナハイムで初めてスペースマウンテンに乗った時の怖さに似てる。ロッテワールドは入場料6700円とのこと。これも含めて乗り放題はリーズナブルだろう。
6時頃になって、いよいよこの日の4食目!である。国賓
をお連れするという三元ガーデンなる老舗は予約が取れないので有名らしい。高級な韓国料理は小皿の数がすごい。自分で注文しないので何が出たのかよくわからないが、野菜が多いので満腹にならない。僕は韓国料理は食べたことないものはほとんどないが、ここは食材も調理法も味付けも普通じゃない、とにかく何を食べても美味である。アックジョンにある。ソウルに行ってここで食べないのは意味がない。
この旅行に特別の理由も秘密もない。なんで招集がかかったかも知らない。幹事のKから「来れますか」と2か月前にラインが入っただけだ。入社年次の幅が8年ある8人。ロンドン会と名はついてるが利権があったりいやらしいサラリーマンの寄り合いみたいなものは微塵もない。全員がお互いを深く深く知っている。それも昨今がどうのではない、僕が30代の前半だったロンドンの1984年から90年あたり、同じ職場で日々ピリピリしながら早朝から夜中まで毎日100億円のノルマをこなしていた全盛期の野村證券トップの営業軍団だ。ということは証券界のトップであり、この8人こそマーヴェリックだと書いて反論できる者は1人もいない。たとえは古いが、V9巨人軍のレギュラーメンバーだけのOB会みたいなもの。ちなみに5人はその後上場企業役員、 2人は企業グループオーナーになっている。
翌日になった。済州島に移動する。日本はずっと雨の予報でたぶん台風の余波は韓国にも来るだろうからゴルフはだめだなと諦めていた。ところが、ソウルから1時間15分の大韓航空機で到着すると、何のことない快晴だ。プレイは明日の予定だったが天気が読めないから晴れてる今日やっちまおうと予定を変えてもらった。スカイヒルCCは米国のゴルフコーストップ100のうち
13のコースを設計したロバート・トレント・ジョーンズ・ジュニア設計の名門コースである。いきなり「今日やらせろ」なんて馬鹿野郎ものだが、それが難なくできてしまう。「世の中って不公平にできてるよな」、辛口ジョークのIさんが笑わせてくれる。それはよかったのだがここで僕は異変を察知する。パットが入らない。グリーンがどうの芝がどうのではない。18ホール中ワンパットはなんと1度きり、あとはほとんどスリーパットの111。こんなの人生初で、ははあ俺はガチャ目なんだと気がついた。右目はなんとなく曇っていて距離がおかしい。眼医者行けといわれるが行ってる。まあショットもめちゃくちゃだったから下手になってるだけかもしれないが、去り際にコースに「申し訳ありません」と頭を下げた。こういう時いつもそうする。高校球児だからグラウンドに入る時と出る時は礼をする。僕にはゴルフの神様と野球の神様がいるのだ。コースは何もしない。悪いのはいつもお前だよって言われる。
クラブハウスでもらったロッカーのナンバーが226だった。神様の啓示かな、気になるな。そう、これを書いてる今日は911だ。あの日、赤坂のチャイナクラブにいて、日本語カタコトの女の子がすっとんできて「飛行機がペンタゴンに落ちました」なんて言う。はっ?お前なに言ってんの?大丈夫か?でも周りの席もザワザワしだしたのですぐタクシー呼んで代沢の家に戻ると家内も大変よだ。226ってのはそんな感じか。そうか、これか、パット入んなかったの。ホールアウトして、ホテルは近いからシャワーはそっちでとなった。ロッカーめがけてつっ走った。なぜかというと、とにかく僕は幼稚園の頃から着替えや荷造りが遅いので有名だったのだ。人の2倍はかかる。手が不器用。どんくさい。ビリでなかったことはない。ロッカーの番号を忘れて騒ぎになるぐらいのことは日常茶飯事だが、それだけは助かった。226のおかげだ。
翌日も済州島はあっけらかんと晴れだった。日本は集中豪雨らしい。まあ俺は晴れ男だからねというと、俺も俺もである。これだけ傲慢な人が集まると雨も逃げるのだろう。「今日もやるか」。長老の超アクティブな提案は多数決で却下された。みんな足腰が疲れて観光の方がよかった。それではと準備してくれ、小学生の遠足みたいにミニバスに乗り込んだ。「済州島はあんまり台風来ないんですよ」とガイドさん。「そうか、じゃあ9月はまた来るべきだね」「カジノで勝てば旅費も出るからね」。証券マンは常にオプティミスティックだ。僕は海岸のテラスでワイン飲みながらぼーっとしてミステリーでも読んでたいな、一週間ぐらいと思ったが口にはしなかった。
バスは島の南側を東へ1時間ぐらい走る。お昼は地元のおばあちゃんがやってるカルチワンというローカルな郷土料理店だ。島の名物である太刀魚料理が売りだ。こいつは房総半島の方で釣ったことがある。「夜明け直前の15分ぐらいしか食いませんから」と言われ多少の釣果はあったが、確かに日の出とともにパッタリあたりが消えた。持って帰ったがさばけないのでもったいなかった。本場の塩焼きとご飯で食うと、ちょっと骨っぽいがうまい。あてのキムチが4種類も出てきて味が違うから飽きが来ない。赤くないやつが酸っぱくて格別においしい。乳酸菌発酵はまちがいなくお腹にもいいだろう。こういうのは都会でなく田舎の知恵であり、そこに来てリアルに味わえるなんて貴重な体験だ。ソウルの洗練に対する素朴。どっちがいいかなあ。
「済州民俗村」は昔の漁村を再現したものだ。そういや小学校のとき修学旅行で明治村ってのに行って、なんにも覚えてないが結構いいなと思った記憶だけある。そんな感じか。海が近いので海女さんがもぐって魚貝を取ってきて、人間のこやしを豚が食ってその豚をまた人間が食った。海のエネルギーを人と豚でリサイクルしたってわけだ。なんのてらいもない素朴さがいいなあと大好きになった。女性が強いんだろうけど、やさしそうだ。泥棒もいないらしい。島だからすぐ捕まるってのもあるが、そんな悪人いないんじゃないか。だって昔にここに生まれて育ったら悪だくみして人の富をかすめとろうなんて思わないよ。
日本もこうだったんだろうなとほのぼのした。韓国語は全然わかんないけど、語感やイントネーションはそっくり。ちらっと聞こえてきて、あれ日本人かな、と思うほかの外国語を僕は韓国語以外にひとつも知らない。写真の女性はお人形さんだろうけど、ぜったいにやさしいな。
島の最大の観光地はこれらしい。城山だ。韓国本土にも火山由来の地形はあるらしいがここは顕著だ。 5000年前に噴火でできて180m。登れるらしい。

ちょっと疲れてる。ガイドさんたちが気を利かしてくれて近くの広々したモダンな喫茶店にしけこんだ。 若者ばっかりで爺いの遠足が入ってくのは気が引けたが、お付きの皆さん、スケジュール外のことも交渉してくれたのか奥まった席にゆったりと陣取れたのである。コーヒーで30分ぐらいリラックスしただろうか、これからホテルの方に戻ってクルージングですという。
といっても大きめの幅でマストのついたヨットみたいので少しだけ沖に出る感じのようだ。風が強いのか、揺れが半端じゃない。波でせわしなく1m以上ギッコンバッタンあがったり下がったり。立っていたほうがマシ。膝を使ってスキーのスラロームでこぶをなめてる感じで揺れを吸収していると酔わない。座ったまんまで船と一緒に揺れてちゃダメです、そうした方がいいですよと声をかけるがみんないうことを聞かない。やがて船酔い組が出てきた。それ見たことか。やがて船は沖に出たんだろう、釣り竿が 5、6本出てきてみんなで糸を垂らす。おんなじようなことをミクロネシアのチューク島でやってオケラだったよな、餌もついてねーしここもそれだろ。
2、30分トライしたものの案の定である。すると我々が飽き飽きしてきた雰囲気を察したのだろう、船員のお兄ちゃんたちがやおら動き出し、まな板に包丁で何やら魚をさばき出した。あれ、彼らが釣ってくれたのかな?「どうぞ食べてください」。船室の中に入ると大皿に白身の刺身と醤油が用意されてるではないか。「これなに?」「ひらめです」長老がちょっと苦々しげに口を開いた。「東、スーパーで買ってきたやつだよ」
ひらめは美味だった。「あいつら手あらってねえからワサビたっぷりつけろよ」。先輩方は引いてしまったもんだから僕が半分ぐらい食った。乗り物酔いはしないし、少々のものを食べても平気。胃が強いんだろうな。
いよいよ最後の晩餐だ。済州島のもうひとつの名物、黒豚のサムギョプサルである。あまりにあれこれ我が儘で予定を変えたものだから、お店の予約はしてなかったらしい。この辺いちの人気店と聞くトンサドン西帰浦店に着いたが満員みたいだ。どうなるんだろう。しばらくして女主人にどうぞと招かれ中へ入ると、 奥まった部分のテーブルががら空きだ。「貸切ってくれたみたいですよ」とYがささやく。さすがにすごい政治力だ。着席するとすぐ、一辺が 20cm以上ある立方体の肉塊が運ばれてきて、これをお料理しますと見せられる。それを網の上に置き、サイコロに切り分けてくれる。同じ網の上にアワビとニンニクをつけたオイルも乗って熱々になり、それにひたして肉を食べる。至福の時とはこのことだ。
今回は贅沢をさせていただいた。時間をかけたのはゴルフだがそれがメインだったというわけでもなく、とにかく朝昼晩8人が揃ってあーだこーだやる。当時のもっと上の上司ネタなど大人気だ。「Xさんとアムス外交に行くとさ、ホテルの前に直行するのよ、でも部屋がひとつしか空いてなくてさ・・・」なんて具合で、えっ?あの泣く子も黙るXさんがですか!!なんて具合で大爆笑で盛り上がる。
みんな気持ちはあの頃だ。とにかく朝早くに課長が決めた100億円をその日の夕方までに全部売り切らないと家に帰れないのだ。皆様には何のことやらさっぱりわからないだろうが、シティーの並みいる機関投資家連中が血眼で巨大な日本株ポートフォリオを組み始めた時代だ、彼らに100億円の株式を売りさばくなど驚くほどのことでない時代だった。「今日はKのおかげで助かったな、早く帰って久しぶりに女房とメシ食おうぜ!」なんて涙ぐましいことになるわけだが、「全部売り切らないと帰れないんだよ」といくら口酸っぱく説明しても、一般の人である奥様方には誰も理解されてなかった。
各人の売り上げは営業場の奥にあるホワイトボードに都度都度に書き出される。今日誰がどの株をいくら売ったか一目瞭然なのだ。出来が悪いと「馬鹿野郎何やってんだ」と上司に万座で罵倒される。シティは狭いから訪問セールスもする。帰社すると「どうだった?」と注目される。電話セールスがうまくいって決まると、自分でホワイトボードに銘柄と株数を書き込みに行く。お昼までに何も出てない日などほっとする。お客さんは英国人だから18時には帰宅する。それまでにオケラだと針のむしろだ。そういう日が続いてしまう人はだいたい次の定期異動でロンドンからさよならだ。ノイローゼになってしまった人もいるし、半年で別の部署になんてこともある。プロ野球の一軍ベンチさながらであった。
ということで、昼間にワンショット100億級の注文を取れば満塁ホームランだ。夜の10時を過ぎてまだ残っていると全員がお客さんの自宅に電話をして買ってもらう。これはスクイズだ。とにかく何でもいいのでやり切れば全員が解放されて帰れる。だから最後の1点をもぎ取ったのが最年少だろうがなんだろうがヒーロー。サンキューベリーマッチで電話を置くやいなや全員がスタンディングオベーションだ。でも明日はまたゼロからやらなくてはいけない。これを毎日毎日、 5、6年も一丸となってやった。常に新しい情報を仕込まないとオックスブリッジ卒のお客さんに相手にされない。常に勉強だ。辛いこと8割、でもホームランを打ったりヒーローになったりで2割は格別に誇らしい快感も味わえる。
野村証券だからといって全社がこんなだと思ったら大間違いだ。国内の連中にこの話をしても誰もわからない。海外に出たことない奴は海外は遊ぶとこだと思ってる。そんな奴らと同じ土俵で評価されるのは不愉快極まりなかったが鍛えてもらったこっちは70になっても職があり奴らは年金生活者だ。元オーストラリア大使の山上信吾氏の著書を読んでいたらまったく同様のことが熱く語られている。外務省に入りながら大使に一度も出ず、本省キャリアだけで政治家に媚を売って事務次官になる奴が続出してる。これを馬鹿野郎と言ってる。わかるわかる。同じ気持ちで僕も飛び出してみずほ証券へ行った。当時の野村から見れば銀行系証券は野球なら独立リーグみたいなもんだ。でも「海外の奴」は国内に戻ってきたら国内の奴など根こそぎ押し倒せることを見せつけてやった。そのみずほ証券はいまや立派なプロ野球球団だ。実に痛快なことである。
以上が事実だから自慢でも何でもないし、ただのファクトだから自分史を書こうと思ったら書かざるをえない。こんな素晴らしい旅行をさせていただけるのも、ご指導ご鞭撻を頂いた大先輩がたのおかげである。いただいてるご恩の方がお返ししたよりずっと多いからもっともっとやらなくちゃいけない。人と人の関係は人の数だけあるが、僕は人との出会いに恵まれてたと思う。なぜならこんな人生を歩める能力なんか自分にはないからだ。ロンドンにいた頃はこれは実力だ、俺は能力あると疑ってもいなかった。あのまま勘違いしてたら人生終わってた。それに気づいたのは失敗して天狗の鼻をへし折られたからだ。失敗はチャレンジしたからあった。そしてチャレンジは自信があったからやったのである。「禍福はあざなえる縄のごとし」とはよくいったものだが、自信と失敗もまさに縄の如しだ。若者は自信過剰ぐらいでちょうどいい。
ではその逆だとどうなるか?なんにも自信のない人はなんにもチャレンジしないから失敗もしない。失敗しないことを是とする文化からは何も生まれない。「失敗したらどうするんですか?」「やってみないとわかんないだろ?」僕はそれで人生を渡ってきた。我が母校にこういう人物は少ない。当然だ、失敗しないほど勉強したから合格してる。そのかわり遊んでない。女も知らない。役人は金もない。そういうのが人生の損失を取り戻しにいくから裏金に手を染めハニトラに引っかかるのである。先日も、警察庁サイバー警察局サイバー捜査課長が捜査費をくすねて詐欺と背任、偽造有印私文書行使の容疑で東京地検に書類送検され懲戒免職になった。女に貢いだらしい。たった170万円で人生めちゃくちゃ。エリートの何が間違ってた?学生時代に思いっきり遊ばなかったことだよ。
楽しい時間は終わり、いよいよ成田にランディングした。雨だ。あれだこれだメールが入ってる。浦島太郎が帰ってきた。成田エクスプレスのチケットを買おうと列に並んだら、何国人だか知らないがヤンキーっぽい若いカップルが何をクレームしてるんだかいっこうに窓口を立ち去らない。おい、こっちは並んでるんだよ、あと10分で44分発が出ちまうんだ、逃すと1時間も待つんだよ。イライラする。窓口の若い女性がこれまたバカ丁寧に笑顔で対応なんかしちゃってる。ガイジンさんオモテナシのマニュアルでもあるのか上司の指導なのか、それ作ってる役人も外人の扱いなんかなんにも分かってねえんだよ、勘弁してくれよ、こんな奴らおとといおいでで蹴散らせよ。
本当にいい国だ。阿保の外人でもやさしく大目に見てくれる。俺に気があるのかぐらい思いっきり勘違いしてテイクアドバンテージするなんて当然だろ。人が食い殺されてるのに熊がかわいそうだって奴らと同じだ。オモテナシはやめろ。日本人は江戸時代から進化してない。カタナ捨ててチョンマゲ切って似合いもしない背広着てネクタイ締めてるだけだ。美しい日本を守ろうなんて頑張らなくても、100年たっても変わんねえから大丈夫だよ日本は。むしろ、こんなに俺たちが無理難題ふっかけて困らせてるのに、なんでブチ切れねえんだあの窓口の女?ってほうがいいかもしれない。不気味だからね。
ジャガーとテスラとビストロの美学
2026 JUN 7 10:10:37 am by 東 賢太郎
毎年5月に父母、親戚の墓参りで従妹夫婦と箱根に出向いている。運転は好きでも嫌いでもないが若いころはアメリカ西部を1700キロ走破したし、大阪時代はセリカを乗り回したし腕は悪くないと思っている。50年かすり傷一つなく無事故なのは、タバコ片手に大のクルマ好きで僕など足元にも及ばぬ名ドライバーだった母の遺伝である。海外赴任してからはロンドンのアウディでスタートしボルボに乗り換え、重い車が好きになった。ドイツ時代は社用車が銀色に輝くベンツ500で、どうしてもやりたくて自分でアウトバーンを時速240キロでぶっ飛ばしたし、スイス時代はもうひとランク上のベンツ600の運転があまりに心地よくて通勤まで自分でハンドルを握ってしまいドライバーに申し訳なかった。さすがに香港だけはこの世のものと思えぬグシャグシャな渋滞に恐怖を覚え、自分でやったら3日で事故るなと観念しドライバーにお任せした。
帰国して乗ったのがジャガーXLソブリンである。 2004年の中古にひと目惚れして買ったが、ジャガーならよいというわけではない。気に入ったのは同じXJでもその年まで製造されたモデルだけで、後年のは今に至るまで、何が悲しくてアレをこんな不細工な姿にモデルチェンジできるのかと不思議なほどどれもダメだからまさに一期一会というものである。前のオーナーはグループサウンズ「ワイルドワンズ」の加瀬邦彦氏ですよとディーラーが確か500万かそこらで売り込んだ。ほんとかどうかは知らないが、「想い出の渚」は好きだったから買った。特注のスピーカーがついてたからたぶんそうだったのだろう。
XLソブリンは1980年代初頭からのイギリスの首相専用車である。ダウニング街10番地に横付けされ、サッチャーもこれでご出勤だったはずだから高市さんは探し出されたらどうだろう。ウチのは当てられ事故で廃車になってしまったが返す返すも悔しい。ちなみに写真は去年に出ていた売り物で4.0-V8で走行距離17万キロの美品だ。日本に5千台しかなく、街の駐車場にはでかい(長い)しハイオクなうえ燃費はとても悪いがすぐ売れたろう。この美しいフォルムを前にすると魔力にしびれてそんな事はどうでもよくなるのである。レーシンググリーンにくっきりと映えるメタル部分の銀色はクリーミーで落ち着いた不思議に蠱惑的な光り具合で、これがまた他のどの車も格下に見えるほど高貴で筆舌に尽くしがたい。アクセルを踏んですぐの2.2トンの滑り出したるや、まるで応接室が油の上を移動しているような得も言えぬ質感である。一度でも味わうとぬきさし難いものがあって、これほど俺が乗るために作られたマシーンだと唸らせた車は他にない。
廃車という不幸がなかったらテスラ・モデルXを買うことはなかったから、これも出会いというものだ。2017年に買ったこいつは当時ファルコンウィングばかりが注目されたが、この車の真価は時速100キロ到達2. 7秒とランボルギーニより0.2秒速い常軌を逸した起動力なのである。ベンツ600と同じ車重2.5トンは低速だと重厚である。ところが、にもかかわらず、やや加速すると軽自動車みたいに従順に、意のままに操れる。空中をUFOがひょいひょいとあり得ないアジリティで移動するイメージであり、この物理法則を無視したのような意外感は全く予想外のもの。重力1/ 6の月面を滑走するが如しとしか表現が見つからぬ。東名で、どんなに飛ばしている車だろうが、アクセルの1-2センチのひと踏みで2、3秒でひょいと追い越せる快感はエンジン車では不可能で、それでいて普通に走ればどっしりと安定した7人乗りのファミリーカーというところがイーロン・マスクらしいコンセプトブレーカーなのだが、僕はそういう利便性とか革新性のうたい文句はどうでもよく、「運転というより操縦に近い即物的な快感」こそがこの常識破りの車に乗る喜びである。
さすがに高額であんまり売れなかったと見え、先日の車検でもう製造しないと聞いた。何年乗ってもEVは中古感があまり出ず、日本には800台ぐらいしかないからそのうちマニア向けの希少品になるだろう。EVの乗り心地は賛否両論だし、僕だってアナログ感満載のクラッチ付きエンジン車、特にあのひち面倒くさいものの替え難いメカ感にひたれるギアチェンへのノスタルジーはないではないのだが、この年齢になってこれを知ってしまうともう浮気する気がしない。オートパイロットに頼らなくても遠出の疲労感が格段に少ないからだ。車高が少し高いこともあるが、やはり従順に意のままに操れる安心感が大きく、スピードを出しても疲れないから箱根は実にあっという間である。
仙石原の翡翠が定宿になっている。この度はグルメの従妹が新しいフレンチを探してきていた。宿から徒歩の距離にある「オクトーブル」である。昼はフルコースの予約のみで夜はアラカルトというのは変わった趣向だ。温泉街は夕食は宿で取るのが普通であるという事情からだろうか。我々はディナーで訪れたが、趣味の良いこじんまりした店で堅苦しくない。フレンチとは言いながらイタリアンも適度に入ってそれはバラエティがあって結構。メニューもフランス語の仰々しいのがどんと出てくるわけでなく、ビストロであるから壁掛けの日本語である。ところが、これが細かいのだ。
まあ、どんと出てくるフランス語のメニューにはこのぐらい書いてあって不思議でもなんでもないのだが、牛ヒレ肉のロッシーニ風みたいな、もっともらしいが言ってる本人はロッシーニなど聴いたこともなく訳がわからんだろうと思わせてしまう浮ついた安物のフレンチっぽさとは無縁で、おおいに写実的、実用的であるのが良い。さらに、形容詞というか修飾語というか、品々の描写の細かさにはちょっとその辺のビストロとはわけがちがいまっせというシェフの気概がにじみ出てる気がしたのは、とにかく文字が丁寧できれいだというこれも即物的理由からだ。「これ、筆で書いたんですか」と尋ねると「いいえチョークです」という。なるほど同じものが後ろの壁にもあって、よく見比べると微妙に違うからコピーを貼り付けたものではない。すると、なにげなく、従妹の旦那がいみじくも看破したものだ。
「根岸の板書みたいだな」
これは強烈な大ヒットだった。高校は武蔵であるおないどしの彼は慶応の工学部だ。当時の駿台の名物講師陣、英語の伊藤、奥井、鈴木長十と並んで出てくる懐かしい名前が数学の根岸先生である。この人が解答を説明する板書の芸術品になぞらえるしかない美しさは半端でなく、きれいだなぁと感動した僕はその字体まで真似てノートを書いていたら突然に数学の偏差値が70になったという魔法使いのような方だったのである。
「まさるクン、いいこと言うなあ、料理も期待しちゃうよなあ」
図星だった。こんな板書をする人が手抜きなぞするはずないではないか。ビストロと称するほうが看板に偽りありだったのである。
「赤ワインで柔らかくしっとり煮込んだ足柄牛ホホ肉トリュフ風味のマッシュポテト添え」
におけるプレートの充実ぶりは、中央に鎮座するしっとりとろける絶品のホホ肉が主役であるわけだが、僕は添えられたポテトの中心部が明らかに意図を持って、しばしの時間を経た後まで相応の熱を保っていることに感嘆したものである。これはチューリヒで聴いた巨匠ゲオルグ・ショルティがエロイカの第2楽章で強奏するホルンの対旋律を奏でるチェロに鬼の形相で命を吹き込んでいたようなものと書いてまったく大げさでない。 7 、8品ほど注文しただろうか、どれも神は細部に宿るのひと言。すべてに細かい神経が行き届き、シェフのこだわりの代償が舌の喜びとなる。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
世界のうまいもの(18)熱海編
2025 JUN 22 2:02:19 am by 東 賢太郎
先月、神保町の歩道で蹴っつまづいて派手にころび、とっさに地面についた右手親指の先が折れ曲がるケガをしてしまった。地下鉄の入り口に近いなんでもない平らな歩道で、不可思議ですらある。多摩川の土手から落っこちてスネとヒジをざっくりやったのは去年。あれに比べればたいしたことないと高をくくっていたが一月半たってもまだ痛み、以来、利き手で物が握れず、字が書けず、歯が磨けず、ボタンが閉められず、フタが開けられず、背中が掻けずという困った事態になっている。そんな中、だいじょうぶかなと思ったが熱海までテスラを運転して行った。従妹の旦那に事業参画してもらうことになりいろいろ詰める必要があったからだ。従妹の友人で投資もしてくれているYご夫妻もいっしょである。
集合は婦人方ごひいきの御殿場アウトレットだった。何度か引き連れられて来てるが興味ない。仕方なしにつき合うが、ドルガバに入ったとたん、入り口にあった黄金色に輝くSORRENTO ラインストーン スニーカーに目が吸いついた。梶井基次郎が「檸檬」を書いた光景はこれだったんじゃないかと思うほど僕はキラキラには弱い。周囲はびっくりし、皆さんもそうかもしれないが、従妹だけは平然としたもので、ケンちゃん、それはおばちゃんの遺伝なの、だって光り物に目がなかったんだからとなる。手に取ってひっくり返しているとすぐ若い女性の店員さんが寄ってきた。さすがにお似合いですよのひと言は出ようもないんだろう、驚くべき想定外の爺さんにどうプッシュしていいものか迷ってる風情が初々しい。君、この辺の人?どっから?ときくと秋田だ。そうかい、じゃあ秋田美人だね、秋田弁は青森でわかるのときくとう~んたぶん無理ですねでこれは意外だ。そうか、どっちも行ったことないんでね、東北は田沢湖ぐらいでさ、あの~田沢湖って秋田なんですけど・・。完璧なボケ老人である。これいくら?17万です、そうか、すると上司らしいお兄ちゃんがすっ飛んできて11万になりますときた。僕は会社のデスクに飾りたくなったの、飾りにゃあちょっと高いなあといったがそれっきりだった。いい感じのオレンジもあった。まじめにいいと思った。いくなら両方だな、今度ねでバイバイした。
講談社のレポーターだった従妹のキャラで全員あっさりファーストネーム呼びとなり、男3人は同期という奇遇もおおいに手伝った。翌日の昼飯のことだ。並ぶ覚悟で予定していた評判上々である蕎麦あさ田が夜オンリーに変更になっておりがっかりだ。まあいいよ、行ってもたぶんカレー蕎麦だったしね俺は、もう時間も時間だからラーメン、餃子でいいよねと三々五々ブラっと歩くと
誰かが派手な門構えの中華を見つけた。おお、もう面倒だ、これにしようと扉を開けると「開店まで5分です」と中に入れてくれない。愛想のない店だ。ところが誰も外にいなかったのに席について10分もすると地元の常連さんと思しき客であっという間に満員となる。Y夫人がまず僕の糖尿スパイク予防ということで豆苗を注文してくれ、みなさん手当たり次第に餃子もワンタンメンも野菜そばも冷やし中華もチャーハンもたのむ。すると順番通りにほやほやの豆苗がやってきた。なんと、これが劇的に旨い。「香港の陸羽茶室以来のベストだ!」となり、店の内装まで香港に見えてくるではないか。すべて一級品だった。強くおすすめ。
次いで予定はバラ園のようだ。僕は花と木は5種類ぐらいしかいえない。階段がきつい。1時間1本だけど回覧バスがあるぞ、となって安心して喫茶室で待ち、5分前に停留所に戻るとバスは跡形もなく去っていた。なんだこれは?貼紙をみると、22人になると出発しますとあってあ~あだ。じゃあっちに行こうよとなって向かったのは思いもよらぬ熱海城なるものである。おい熱海なんかに殿様いたか?となるが、まあいいや。てっぺんまでエレベータで登ると港と初島を高所から一望できる。これがどういうことか実に心が洗われる。ここで飯食ったら圧巻だろうねなんていいながらワンフロアごとに展示物を見ていく流れのようだが、殿様のトの字も出てこないどころか頓智の絵文字やら春画やらばかりで、まったくもってしょうもない。1階に戻ると「建造昭和34年」とありなるほどだ。しかし、しょうもなければないほど非常に有難味を覚えた。バラ園のバスが来てたら登ることは一生な
かったことは100%確実であり、思い出ができた。夜はまたバラ園のところでイタメシらしい。新しいカジュアルなピッツェリアだがコースが質量とも気合が入ってる。熱海檸檬のパスタが絶品。さあいよいよ主菜だ、真鯛と富士山麓ポークか、けっこうあるなというところでY氏が突如としてピザが食べたいといいだし店員さんビックリ。こういうの、わがままジジイめと若いころは思ってたが、いざやってみるとこよなく楽しい。旅の醍醐味とさえいえる。どれどれとピザをひと切れ頂くと、これが生地まで絶妙に美味でふた切れ行ってしまうのである。結局、満腹のツケはポークにまわり、通常であればふた切れは残したものだが「豚に申しわけない」という気分がむくむくと巻き起こり完食した。血糖値もへったくれもない。シャンペン、そこそこのワインが入ってひとり1万は見まちがいかと思った。CODA ROSSA、味も雰囲気もいい店でおすすめだ。
宿泊はハーヴェスト。伊豆山の海辺でごちゃごちゃしておらず、落ち着ける。仕事のあれこれもできたし、終われば温泉でゆっくり和めたし文句なし。午前中は銀行振込でイライラしたが、午後にこういうところでひとりぼーっとできると生き返る。もうそろそろここに移住してビジネスやるかとまじめに思ったものだ。
帰りは老舗の釜鶴ひもの店であじ干物5枚セット、とびうお、真いわし、漁師飯、わさびのり、わさび漬け、くさやを土産に。これは昔から熱海観光の定番であろうが、海外に長くおって飢えていたもののひとつだから特別な感情がある。帰りは小田原で蕎麦の名店の予定だったが、従姉が車で爆睡して通り越してしまい、かわりにだるま料理店へ。明治からある料亭で結構だ。僕は地魚の鮨と鰺のたたきが食いたかったからだ。鰺は自分で船で出て釣ったもんだ。朝どれの真アジは東京のスーパーで売ってるのとは別な魚で、これを知ったらあんなのは臭くて食べられない。大満足だった。この素晴らしいメンバー全員の健康を祈る。
今回、予定通りいったのは見事なほどにほとんどなかったが、まさにビジネスもそういうものである。箱根でまったくの偶然から従妹夫に話し、彼はその役割に判で押したようにドンピシャなキャリアの人だったということが徐々に判明し、今回の熱海で話はほぼ固まった。きっと不測のことがいろいろ起きようが、今回の旅のことを思い出せばうまくいくだろう。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
箱根とバーデン=バーデンを結ぶ線
2025 MAY 20 0:00:46 am by 東 賢太郎
10年ぐらい前でしたか、最高顧問をさせていただいた上場企業の取締役会が箱根・宮ノ下温泉の吟遊で行われ、粋でいい会社だなと思ったものです。ところがいざ赴いてみると粋どころではなく、通常の本社会議室より自由な発想で大胆な意見が出た(言えた)せいか議論は白熱。革新派と保守派の対立は並々ならぬものがあったのですが、終わって部屋を出ればそこは温泉宿。会食の場はぎすぎすとならず役員に一体感すら出ていたのです。まあこんなことはオーナー企業しかできないでしょうが。
温泉地で重要会議というと、意外なものがありました。あんまり知られてないのですが、調べてみると面白い。それがなければ太平洋戦争はなかったかもしれない。そんな会議がドイツの温泉保養地バーデン=バーデンで行われていたのです。地図を見ていただくとわかりますが、フランクフルトとミュンヘンに近い。前者にはドイツ銀行が、後者にはシーメンスがあります。何やらきな臭い。

時は第一次世界大戦終結後の大正10年(1921)10月27日。陸軍士官学校16期の同期生で37、8才の親友同士である、歩兵第14連隊大隊長・岡村寧次、スイス公使館付武官・永田鉄山、ロシア大使館付武官・小畑敏四郎が陸軍を改造して長州閥を追い出し、総力戦を挑める体制を築くことを約したのです。これを「バーデン=バーデンの密約」といいます(翌日には1期下の東条英機も加わった)。日露戦争は薩摩である海軍の活躍で勝ち、長州の陸軍には危機感があったが藩閥という権力に甘える幹部は鈍い。この男たちは今流なら第一選抜で部長に昇進しようかというエリート中堅幹部です。藩閥支配をぶっ壊して人材登用し、自分ら薩長外の人間が動かそうと画策した。海軍長老の山本権兵衛内閣を総辞職に追い込んだシーメンス事件がちらつく。
ここからは空想です。バーデン=バーデンは海軍劣勢の好機に陸軍学閥エリートが軍内クーデターをおこし乗っ取る密約だったのではないか。東条総理を出すところまでうまくいった。巡洋戦艦「金剛」発注で英国から賄賂をもらっていたのがバレて叩かれた海軍は反攻の策を練った。そもそも陸軍が範としたドイツを裏切って日本国を第一次大戦で連合国側に着かせた実績もある(焦ったドイツのヴィルヘルム2世が海軍に賄賂を出したのがシーメンス事件だった)。英が米とつるんで劣勢の海軍をそそのかしたのが真珠湾だったのではないか。チャーチルとルーズベルト。手練れの両人なら考えて全然おかしくない(そもそも明治維新がそれだったのです)。戦さ慣れした薩長がやった日清・日露。学閥エリートが仕切った太平洋戦争。戦争屋にはちょろい相手だったと思うのは僕がビジネスマンだからでしょうか。
バーデン=バーデンというとクララ・シューマン、ブラームスが愛した街でフルトヴェングラー、ブーレーズ終焉の地でもありました。ドイツに赴任して、一にも二にも訪問してみたかったのがここで、当時、お気楽に生きていたのでそんなことがあった地とはつゆ知らず、劇場で魔笛を楽しんで、ブラームスハウスがこんな家に住みたいと目に焼きついて後にそういう家を建てました。帝国陸軍軍人にはどう見ても似合わない街だなあと、いまだって思うしかありません。しかし彼らはここに集結した。なぜここだったのだろう。その疑問も解ける気がするんですね。
彼らが投宿したのはホテル・ステファニーで、その密約から満州事変を引き起こした「一夕会」ができ、「国家総動員法」制定に至った。彼らが長州閥の代わりに陸軍幹部として擁立を謀ったのが真崎甚三郎・荒木貞夫・林銑十郎でした。やがて一夕会は対支戦争を唱える永田を中心とした統制派と、対ソ戦準備論を唱える小畑を中心とした皇道派に分裂し、永田は目の上のたんこぶとなった真崎を軍から追放しようと悪玉説を流布し、それを昭和天皇に上奏して教育総監から罷免することに成功した。これに激怒した皇道派の相沢三郎中佐が1935年8月12日白昼に永田鉄山を軍刀で殺害し、半年後の二・二六事件に至るのです。そして、その翌年の37年には日中戦争が勃発。さらに4年後に日米が開戦した。永田は際立って優秀な男で、もし生きていれば開戦を止められたかもしれないともいわれます。同感です。陸海の内輪もめにつけこむ英米の策謀、もしかして裏で買われていた国賊どもを冷静に見ぬけたのは彼しかいなかったかもしれないと思います。日本海軍はロンドンの銀行にイギリス人名義で秘密口座を持っていた。これは昔の話ではない。今だって十分にあり得るのです。
思えば僕も永田、東条らと同年代の37~42才にドイツ、スイスにおりました。ああ、あのころの俺か、そんな若僧が日本をぶっ壊す戦争を起しちまったのか。その密談が、帝国陸軍などとはまったく縁遠く美しいあのバーデン=バーデンのホテルで夜中1時まで続き、隣室の客からうるさいと言われて切り上げたのか。なんとも生々しいものです。彼らは翌日にフランクフルトに行き、僕が3年勤めたビルの向かいにあった高級ホテル、フランクフルター・ホフに宿泊しています。陸軍士官学校の秀才である彼等、税金留学のエリートであり、日清日露に勝利して舞い上がった山縣有朋を筆頭とする長州閥の爺さんたちが陸軍幹部では第一次世界大戦でバージョンアップした近代戦についていけず国難をまねくと語ったに違いない。それは正しかったけれど、内部闘争の挙句に皇道派の自爆で誤った方向に行き、根拠不明の海軍による日米開戦が勃発、不思議なことに東京裁判ではその海軍はほとんど処刑されず全部は東条と陸軍が悪かったことになった。海軍幹部とキーナン判事らが芸者をあげて飲んでいたという話もある。闇が深い。
我が赴任地だったフランクフルトおよびチューリヒの中途にバーデン=バーデンがあるのも奇縁です。何か霊感でも働いたのでしょうか、他ではそうした衝動はなかったのですがここでは何となくひらめいて油絵2点を買っています。どちらも思い入れがあります。これは皆さんにお見せするというより、子孫に絶対に売るんでねえぞという意味で載せてます。一回目がこれ。
これが二回目。
統制派が権力闘争に勝ったので陸軍は対支戦争、南進にのめりこみ、蔣介石の策謀で思いっきりアメリカを巻き込まれ抜き差しならなくなり、真珠湾、太平洋戦争、敗戦への道を進む。そして軍内政治に勝って総理大臣に登りつめた「バーデン=バーデンの密約」のひとり東条英機はA級戦犯として死刑。 負けて台湾軍司令官に左遷された陸軍大将・真崎もA級戦犯として新橋の第一ホテルで尋問の末に収監されましたが、権力の座になかったことが幸いしたのか真っ先に釈放されました。しかし二・二六事件が成功して総理大臣になっていたらそうはいかなかったろう。人間万事塞翁が馬です。
東京人にとってリゾートというと軽井沢、日光、箱根ということになる。どこも好きであり、最初の二つは帰国してまもないころ幼い息子を連れて歩き回ってます。奥日光の白濁湯の泉質は全く持って捨てがたい。ただ日光は家康、軽井沢はカナダ人宣教師が明治に開いた避暑地でどちらも新興で地政学的な意味はなく、箱根はというと日本書紀にある霊山で富士が近く、源平の合戦があり頼朝が敬い、東海道の交通の要衝で関所が置かれた。土地に「気」がありますね。駅伝の最高点近くにある箱根七湯のひとつ、白濁の芦之湯は奈良時代の記録があり、以来、皇室、文人墨客が宿泊、明治期には木戸孝允と西郷隆盛の会見が行われ、勝海舟・山岡鉄舟・副島種臣が逗留しております。会見は現存する松坂屋という旅館ですが何を話したのか。
今日は5月20日です。欧州では長い冬があけて一気に花が咲き誇り、ドイツでは白アスパラが旬。この時期だけはそれが肉に代わって主食のようになります。国中がぱっと明るくなった感じは日本の桜前線の頃のはなやぎのようで、だからモーツァルトもシューマンもR・シュトラウスも五月(Mai)を歌ったのです。12年そこに浸っていたので日本でもMai感が体に残っており浮き浮きします。箱根の5月はつつじです。
ビジネスの着想はそういう気持ちの時が旬です。良い種があってもその気でないと着床しないからで、半端な決断で手掛けると失敗します。着手を決めた某案件を持ってきてくれた仲間と3月からああだこうだやり「よし、やろう」になった。それがすぐ「やめとく」の朝令暮改で失望させてしまった。たくさんあってどれも重たいものだから整理がつかなくなっていたのです。有難いことで16年目のソナーには優良案件がそこそこ来ます。例えば今、あのウォルト・ディズニー様関連の投資案件を検討中でうれしい限りなのですが、わかったのは、もう僕ひとりの頭で選べなくなってきたということです。
そこで何人もの意見を聞き、某案件は「やっぱりやろう」になった。やるからには全力投球です。そこで週末に箱根に行って気持ちを切り替え、懸案の事柄を議論すべくテスラを飛ばすことになりました。10年前に最高顧問をさせていただいた上場企業の取締役会もかくやというもの。オフサイトでやると自由な発想で大胆な意見が出て、非常に実りの多い会議となりました。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
法要と究極のリラックス(箱根翡翠にて)
2023 MAY 15 7:07:45 am by 東 賢太郎
箱根は何度行ったろう。子供時分から数えるとずいぶんだ。父がとても富士山好きであり、富士五湖めぐりや浅間神社にお参りなどしてから伊豆に下って天城高原ロッジに泊まったり下田の民宿で海水浴をするなんてのが夏休みの定番だった。だから自然と僕も箱根・伊豆が好きになり、家族旅行というとだいたいこっち方面になるし、いっとき箱根神社の上の方に芦ノ湖を望む土地1600坪を持っていた。老後に住んでもいいかなと思ったからだが金がなくなり売ってしまった。
父はずっと前から自分が入る墓を富士山がまじかに望める処にしようと決めていたようだ。相談を受けたかどうか覚えがないが、そんなことを言っていた気もするわけだ。先祖代々の今戸の墓がもういっぱいであり、次男でもあるからそっちは兄にまかす、それもありなんだと。そのころ僕はまだ海外にいたしそんな先のことまで頭も回っておらず、どうせ気まぐれだろうと、ああそれでいいんじゃないのぐらいの生返事をしていたと思う。
連れてこられたのは2015年の暮れだった。強羅の桐谷旅館に泊まって大好きな白濁湯を堪能し、箱根美術館の絶美の日本庭園なんかのほうに興味をそそられていたのだが、とにかくこの墓地を見てくれと二人して車でやって来たのだ。その日は霧がかかっていて、墓石の前で父が後ろを振り返り「あの辺に富士山が良く見えるんだよ」と指さしたが何も見えなかった。あれが実は気まぐれでなく、そんな先のことでもなかった今となってみると、父とのその日のあれこれは感無量でしかない。
過日、父の一周忌、母の七回忌の法要をその富士霊園の墓前で親族と執り行った。昨年納骨式をした時も小雨で富士山は影も形もなかったが、今回こそは快晴で眼前にくっきりと雄大である。なるほどこれだったんだなと父の選択に合点がいった。敷地はゴルフ場になるほど広く、桜の三大名所でもあるようで、写真のレセプションのあたりはリゾートさながらだ。
毎年5月にここへ来るとなると、泊りは箱根、熱海、伊豆あたりになろう。温泉もゴルフ場もあるし、健康にも精神衛生にも好適なことはうけあいだ。父がそこまで考えたかどうか、自身が10年も施設に居て広々した土地に出たかったのもあろうが、きっと子孫のそれも慮ってくれたにちがいない。従妹の両親もここに眠っており、今回の宿は従妹夫妻がハーベストの「箱根翡翠」をとってくれていた。去年もそこだったが、気に入ったので今回はせっかくだから二泊しようということになったのだ。
おりしも僕はディールの真っ最中だ。寝ても覚めてもああでもないこうでもないと考え、計算してる。この作業は入り口から出口まで一気通貫の情報を経験という方程式にぶち込んで解くようなものである。入りと出と両方の経験を持った人はまずいないから自分ひとりで決めるしかなく、いま頭のCTスキャンをとったらきっと数字が写っているにちがいない。身体のほうも肩から足の先まで凝りまくってる。翡翠の温泉は強羅の白濁湯でサービスも和食のクオリティも箱根でトップクラス、とても有難い。
二日目は車で早雲山へ行ってみる。大涌谷に至るロープウエイは何度も乗っているがここで下車したことはない。駅舎が新しくなっており、白人観光客がそこかしこにいる。遠く海までのぞむ山肌に濃淡あるグラデーションを施す新緑のうねりが美しい。頬をさらさらなでる渇いたそよ風が心地良いなあと思い、都会生活だとそう出会えるものでないなと悟った。昼食は湯元まで降りてみようとなり、早川沿いの商店街をぶらぶら散策して蕎麦屋を探す。そんな何でもない時間もまた贅沢だ。宿に戻って湯につかること2時間。38度ぐらいだろうか、白濁のぬる湯が最高である。うつらうつらしていたらしく時計を見たら記憶が飛んでいた。
夜はなかなかとれないらしい ITOH DINING by NOB(下)を予約してくれていてステーキを堪能。しこたま飲んだのをものともせず、帰ってまた2時間湯につかる。竜宮城か何か極楽にいるような究極のリラックス、デトックスだ。貸し切り状態であり、またぬる湯で寝て命の洗濯をした。これでまたすっきりと気分よく仕事モードに戻れるだろう。何もかもアレンジしてくれた夫妻に深謝だ。
(母の日に)
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
神山先生に教わった「漢方」と「気」の秘密
2023 JAN 11 1:01:56 am by 東 賢太郎
漢方の大家で20年来の友である神山道元先生。僕はブログで帰化名を書いてきたが、先生の本名は「屠 文毅(と ぶんき)」だ。中国で800年の伝統がある道家龍門気功の第19代伝人(後継者)である。池袋の診療所も改装して一新し、患者さんはひっきりなしで大変喜ばしい。
だいたいの病はなんとかしてくれる。中国鍼(はり)の効果は数え切れぬほど経験済だが、丹田や足の脛(すね)などに服やズボンの上から打ってしまう技術はそんじょそこらの達人でない。一度、待合室で隣の患者さんと雑談したら鍼灸師だった。きのうは首が悪いねと頭を左右にひねられて隣にいた娘がバキバキの音にびっくりするが、いたって気持ちがいいのだ。彼には何より「病気を治してあげることが喜びだ」という強烈なオーラがある。我が家で食事したり上海の別荘で遊んだり、箱根の温泉に旅行したりでプライベートまで知っている。20年付き合っていればお互いに大変な時期もあったが、彼のオーラに翳りを感じたことは一度もない。会えばそれだけで治してくれる気がする太陽のような人だ。
昨年末に行ったおり、パニック障害は治る?ときいたら即座に「大丈夫、薬あるよ」ときた。びっくりだ。小粒の丸薬で袋に「安神」と書いてある。指示通りに毎日8粒飲んでたら最近ならなくなった。「先生、何でこれ効くの」なんて聞くだけ野暮、「治ればいいじゃない」で終わりだ。対症療法が必要な病気の場合はいち早く西洋医学に頼るべきだが、そうでない領域で漢方は強い。人間は本来の機能、免疫力が落ちると病気になり、元に戻せば健康だ。そのプロセスには「気」が関わると考えるのが東洋医学だ(だから投薬に鍼灸が加わる)。いっぽう、西洋医学はそういうものを「プラセボ効果」とみなし、ノイズとしてばっさり切り捨ててしまう。
この話を伺って、僕はある事を思い出した。音楽録音の再生におけるアナログとデジタルの関係だ。デジタルは音が鮮明になりHiFiに聞こえるが、アナログは自然で疲れないと多くの人が感じだしており、いまやCDの売上をLPがぬき返している。その原因はデジタルが「可聴域外の音」をカットしたからだとされている。聞こえない音域も実は音に影響していて、アナログにはあった「自然さ」が犠牲になっていたことに皆が気づきだしたのだ。
しかし、CDにはHiFiの他にも大きなメリットがあった。安価に大量生産でき、耐久性があって小さく軽く、大きな売上が期待できたことことは業界には魅力だった。工業製品だから合理性が問われ、聞こえない音まで再生するのはコストの無駄だとなる。そこで1枚のディスクの周波数幅は可聴域のみとなったのだが、西洋式の教育を受けた製造側の人にとっては自然な流れだったことは想像に難くない。それが普及するにつれ、HiFiとは裏腹のデジタル臭が気になるという声が消費者の間でこれも自然に現れ、アナログレコードへの回帰に火がついたというのが現状である。
このカットされてしまう「聞こえない音」から僕は「偽薬効果」(プラシボ効果)を連想したのだ。プラシボ効果とは「効き目がある」と信じることにより病気に対して精神的治癒力を発する効果のことで、デンプンを錠剤にした偽の薬でも効いてしまい、ある実験では30%の人に鎮痛効果があったとの報告もある。製薬会社が開発した新薬が万人に効く科学的効能(予見できる効き目)を測ることは厚労省の認可の過程で必須であり、そのためにはプラシボ効果は統計からカットするのが合理的ではある。しかし、臨床の場になれば患者が求めるのは科学的根拠ではなく病気が治ることだ。
アナログレコードが出す「聞こえない音」に価値があるように、「治りそうな気になった」ことで治ったならば、その「気」というものに価値を認めてもいいのではないかと思うのだ。西洋医学はプラシボのような患者ひとりひとりの主観や個性は排して、客観(物理)にだけ依存する。薬効の再現性を万人に保証するためであり、僕も仮に大病を患えば病院でそれを期待するだろう。ところが東洋医学ではひとりひとりの人の体が異なるのは必然であって、いわばテーラーメードで身体機能をあるべき所に戻してあげることが目的になる。命に係わる火急の事態で出番はないが、病気になりにくい抵抗力をつけたり、原因が特定できない病気、偏頭痛などとされてしまう慢性の痛みなどには試す価値がある。
僕は東洋医学がプラシボ依存だと言っているのではない。現に厚労相は200種以上の薬草を医薬品と認定している。ただ、外科手術がなく即効性に欠け、鍼灸、気功まで動員して健常体に戻すそのプロセスが西洋流に教育された我々には「非科学的」に見えることを指摘したいのだ。しかしよく考えよう。科学とはルネッサンスで19世紀ごろに神学から分かれて発したヨーロッパの概念であるから、非科学的という判断は漢方が発した数千年前の東洋にそれがなかったねということを言っているに過ぎない。にもかかわらず数千年も価値を認められていることの方がよほど重要だし、その科学も万能でないことは西洋人が認めている。だから「統合医療」なる両者を融合した概念が現れているのが現況で、先生は何度もドイツに呼ばれている。
そうは言っても、僕自身がとても西洋流に教育された人間だから、どうしても東洋医学を西洋的概念で理解したいという欲求が捨てきれないことは白状せねばならない。僕だけではない、漢方(中国では「中医学」というが)の発祥の地、中国ですら若年層は西洋医学にしか依存しない社会となって久しく、「そういえばお婆ちゃんが飲んでましたね」という認識になっている。そこで、僕が自分の納得のために、それを西洋の科学的概念だけで説明する疑似的な方法を編み出したのが、東洋医学は「ホメオスタシス(恒常性)」の増進だという考え方だった。僕は医師でないから間違っているかもしれないが、イメージとしてご理解いただければ充分と思う。
恒常性とは、例えば、体温を一定に保つとか、侵入した病原体をやっつける免疫が自分を攻撃しないようバランスを整えるなどのことだ。西洋医学はそれらのメカニズムを科学で解明して、個々の機能の不具合を調整する薬が日々開発されている。しかしホメオスタシスは手足を動かすように脳から指令を出してすることができない「自律的」な行為で、一ヶ所を薬で調整してもかえって体全体のバランスを崩さないかという心配が常にあるだろう。しかもその「総合バランスが取れた状態」こそが東洋医学の目ざすあるべき所なのだが、厄介なことにそれは個々人で違うのだ。
つまり、人体をパソコンに喩えるなら、西洋医学は故障したハードの修理は得意だがそれを稼働させるOS(基本ソフト)がまだ読めていない。東洋医学は、OSは読む必要はなく正常に作動させさえすればハードもうまく動くように “OS自体が書かれている” (ホメオスタシス)ということだ。正常に作動させる方法論が、植物アルカロイドの薬効と鍼灸、気功などの血流への効能を統合した経験的哲学として数千年以上も前に確立している。徳川家康はそれ(本草学といった)を学者顔負けに書物を読んで研究し、自ら調剤した漢方薬を病気の家臣に与え、自身も服用して当時としては長命の73才まで生きたことは有名だ。
「哲学」とあえて書いたが、それが効能ある「医学」になる過程で『気』という概念が用いられた。僕は血液、リンパ液、ホルモンなどの流体が体内をめぐるこ
とだというイメージで理解しているが、そこまで完全に即物的なものではなさそうであって、目に見えないし、科学的な計測もできない。だから西洋人は「可聴域外の音」といっしょで取り合わない。日本人だって一般には目で見えないものは信じないし、教養人とて西洋医学が認めていないものは眉唾だとなるのが普通だろう。しかし、困ったことに、僕は神山先生の施術と薬で病気があっという間に治った経験が何度かあるのだ。プラシボ効果も一部はあったかもしれないが、それも含めて医療であり、治せば名医であって文句をいう人は世界のどこにもいない。しかし、「なぜ治ったんだろう?」という疑問が残るのが西洋流教育の名残なのだ。「存在しないものが治した」というマジックを信じない僕は、「何か」が存在したのだと説明しないと気がすまない。そこでやむなく仮置きするのが『気』なのだというのが結論だ。これはおそらく間違っているが、先生のご著書を僕はそう推理して読んでついに腑におちるに至った。
すなわち、神山先生の手によってホメオスタシスが正常に作動したから僕は治してもらえたのであり、そのためには、彼の施術の中に目に見えないし計測もできないが「在るべきもの」があって、それが『気』であったのだという推理をするしかない。とてもおこがましいが、その考え方は、アインシュタインが理論と現実のギャップに困って、その場しのぎの項で相殺した「宇宙定数」のようなものかもしれない。そっちを理解してないのだからただの比喩未満の言い草にすぎないが、先生から発し、電流のように流れる何物かが存在するという感じをご想像いただければ幸いだ。
以上、先生との20年の会話から得た僕のつたない理解が各所に入っていることをお断りするが、生来の合理主義者である僕のような人間がどうやって先生の東洋医学に心服するようになったかを、圧倒的多数である西洋式教育信奉者の皆様方に少しでもお判りいただければという純粋な思いから書いた。大家だが敷居は高くない方なので、下記へ連絡され「東賢太郎のブログを見た」といわれれば快く看て下さるはずだ。本稿は宣伝ではないし、治癒を保証するものでもない。下記研究所と僕およびソナーは何らの資本関係、金銭的関係を持っていない。あるのは患者の一人として家族までいつも健康にしてくれる先生へのささやかな恩返しの気持ちだけである。
神山伝統文化医学研究所
〒171-0022
東京都豊島区南池袋3-8-3
池袋クラウンハイツ601
TEL:03-3971-4507
FAX:03-3971-8192
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
アート・ブレーキー「チュニジアの夜」
2020 OCT 14 1:01:07 am by 東 賢太郎
アート・ブレーキーとジャズ・メッセンジャーズはライブできいてます。ネットで調べると僕が留学中に彼がブルーノートかヴィレッジ・ヴァンガードで演奏したのは82年10月、83年2月だけでどっちもブルーノートでした。なぜ自分がニューヨークにいたのか記憶はないですが、2月は期末試験だからきいたのは82年の方だったでしょう。
血が騒ぐナンバーがいくつかありますがA Night In Tunisia(チュニジアの夜)は彼のドラムスがききものです。メル・テイラーは明らかにこれをパクってますね(ブレーキーはキャラヴァンもやってますが)。音の違うタムタムを乱れ打ちする土俗的な音は本能的に大好きで、春の祭典はいつもティンパニの音を追っかけてます。ブーレーズCBS盤を初めてきいてハマったのも、生贄の踊りの短三度のピッチが物凄く明瞭だったからです。
チュニジアは一度行きました。スイスにいた1996年の夏休みの地中海クルーズで首都チュニスに寄港しました。これがあるからこの航路を選択しました。そして憧れのカルタゴ遺跡を見ました。遺跡好きは筋金入りと自負しますが、掘ってみたいというのはなく、その地に立って歴史に思いをはせれば充分。至ってミーハーのレベルですが、そこで生活し、政治を行い、戦争をした人々と同じ目線になって時間を過ごせば「気」がチャージされます。地中海ではフォロ・ロマーノ、ポンペイ、クノッソス、リンドスなど何度でも行きたい場所です。ローマ史好きの方であればご理解いただけると思います。
カルタゴはフェニキア人の植民都市ですが、彼らは元々いまのレバノンのあたりにいたカナン人で、鉄器でメソポタミアを統一支配した凶暴なアッシリアの重税を調達するため富を求めて地中海を西へ向かいます。それが結果オーライで、貝紫(染料)とレバノン杉を貿易財として海洋商人として大成功し、アフリカ大陸を周回したり表音文字のアルファベットを作ったりと知恵も行動力も破格で、ハンニバルのような武勇の男も出ました。
僕はなぜかローマ人より彼らにシンパシーがあります。カルタゴは3度のポエニ戦争でローマ軍の手で灰燼に帰し、男は皆殺し、残った5万人は奴隷に売られた。しかし兵士でない富裕な商人には逃げおおせた者も多かったでしょう。約千年後に現れた海洋都市国家ヴェニスは末裔が作った説があるし、遥か後世にその遺伝子を持った者が欧米に散ってロンドン、パリ、ニューヨークなどで活躍したのではないでしょうか(現にカルロス・ゴーンがいます)。フェニキア、ポエニは自称でなく、歴史を書いたローマが記してそういうことになってる。日本人がジャパニーズと呼ばれるのと同じです。千年後に日本がカルタゴになってないことを祈りながらここを後にしました。
そこから船に戻る道すがらのことです。真夏で半端な暑さじゃなく、遺跡から下ってくる道も舗装してなくてやたら埃っぽい。平地に降りたあたりでは、なにやら人がごったがえした猥雑な通りに店が並んでいます。僕はそういう超ローカルなものに目がなく、左側の一番手前の屋台みたいな土産屋を冷かしました。黒人のオヤジがいいカモが来たと思ったんでしょう、「ヘイ!このドラムどうだ、いい音がするよ、安くしとくぜ」と太鼓をポンポン叩きながら売り込んできたのです。それが写真です。ご覧のとおり、安物の陶器にアバウトに革を張っただけのシロモノです。しかし意外に高めのピッチで悪くなく、それに関心を見せたのがいけなかった。
「どこから来た?日本?遠い国だな。10ドルでいいよ」とわけがわからない。「高い」「そんなことはない、お買い得だ」「いらん」「OK、じゃあいくらなら買うんだ?」手慣れたもんです。隣で家内が「そんなのスイスにどうやって持って帰るのよ、やめときなさい」と怒ってるし、断わるつもりで適当に「2ドル」と言ったらオヤジはがっかりの表情になり、「Jokin’!」とか何とかぐちゃぐちゃ文句を言いはじめた。そして数秒後にあっさりとまさかの2ドルになったのです。しまった、1ドルだったかと思ったが、そういう問題ではなかった。1週間のクルーズで荷物が山ほどあるうえに幼い子供が3人もいて、そこで結構デカいこいつをかかえて帰らざるを得なくなって、あきれた家内の非難ごうごうとあいなったのでした。でも、こんなもん日本で売ってないだろうし買う馬鹿もいないだろうし、今や愛着すらあって家宝に指定したいとすら思ってます。
こいつのお陰で楽しみができたという恩義もあります。脇に置いてムードを出しながら、地中海地図を見て古代オリエント世界を空想するのです。格好のエネルギーチャージであり、ストレス解消でもあります。大陸側のポルトガル、スペイン、フランス、イタリアの要所は車で、主な島とエーゲ海、アドリア海は2度のクルーズで、アフリカ側はモロッコ、そして今回のチュニジアへ行っており、空想はそこそこリアル感があります。
1年ほど前ですが、家でそういう事を話していたんでしょう、娘たちが3度目をプレゼントするよと言ってくれ喜んでいたのです。そうしたらクルーズ船は横浜のことがあって危ない存在になってしまった。困ったもんです。何故なら、数えきれないほど海外で旅行をして一部は行ったことさえ忘れてるのですが、ベスト1,2位は32才、41才で家族を連れて行った2度の地中海クルーズだった。はっきりと細かいことまで覚えてるのはあれしかないぐらい楽しかったからです。
「チュニジアの夜」をききながら決めました。もう一度行くぞ、マスクをして。
(おすすめ)
地中海にまつわるクラシック音楽はこちらにまとめました。音で旅行できますのでごゆっくりお楽しみください。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
我が流儀の源はストラヴィンスキー
2020 JAN 27 22:22:34 pm by 東 賢太郎
ストラヴィンスキーの門をくぐったことで我がクラシック遍歴は始まった。ベートーベンの第九交響曲より詩篇交響曲の方が歌えるという時期が長くあり、頭の中のライブラリーの分量ではモーツァルト作品に並ぶかもしれない。こういう聴き方を音楽の先生はきっと推奨しないのだろうが、これでいいのだということをストラヴィンスキーが語ったある言葉で得心した。音楽に限ったことでなく、人生全般、生き方そのものに関わる言葉としてだ。
それはこの本にある。弟子で指揮者のロバート・クラフトが師匠との日々を日記形式で綴ったドキュメントだ。
質問者「いったい現代音楽とは何でしょうか」
I・S「いわゆる現代音楽は私にはどうでもいいのです。私の様式が現代的かどうかですか。私の様式は私の様式で、ただそれだけです」
これを読んで背筋に電気が走った。何もわかってない子供だから、ストラヴィンスキーは男として格好いいとシンプルに惚れこんでしまった。
高校生あたりから漠然と「格好いい人生を送りたい」という稚気に満ちた願望があった。何になりたいでもなく、自分なりに格好いいと想像する姿、それが、
「あっしにゃあ関りのねえこって・・・」
だった。これは当時流行っていた木枯し紋次郎のニヒルな名セリフである。それとストラヴィンスキーと何の関係があるんだ?それは脳内でこうつながる。
「現代音楽?あっしにゃあ関りのねえこって・・・」
他人が何をしているかなんて俺にゃぜんぜん関係ないぜ。そうだよな、世間体を気にしたり、八方美人で人に関わってたりしたら春の祭典は書けねえ。そう思った。中村敦夫は今風なイケメンではない。泥臭い。そういう顔じゃないとあのハードボイルド、ニヒリズムは出ない。誰が見ても素敵、カッコいいを目指しちゃいけない、そういう顔つきからは格好いいものは出てこないんじゃないか。
ストラヴィンスキーは音楽の渡世人だった。作風が転々としてカメレオンなんて揶揄もされた。しかしどれも彼の様式なのだ。もし三大バレエみたいな曲を一生書いてたら、それはそれで更なる金字塔を打ち建てたには違いない。しかし渡世人は安住しないのだ。誰にも世話にならず面倒かけず、風の吹くまま気の向くまま、どうせこの世にゃ俺ひとり・・・。彼の顔もタダものじゃない。
春の祭典は聴衆を暴徒に変え、警官隊まで出動させた。音だけの力で。これが音で人の心を動かす作曲を商売とする者にどれほどの脅威か。格好いいとはこういうことなのである。それほどの革命的な創造をしながら、しかし、彼は次々と違う響きに関心を寄せていく。成功なんかポイっと捨てちまって、どんなに求められても二度とそこには戻ってこない。うわべだけのカッコよさを求めて生きてるような薄っぺらな男にそんなことは逆立ちしてもできない。書く音楽以前に、自身が勇気に満ちたプログレッシブな人間なのだ。渡世の道は花園かもしれないが無間地獄かもしれない。地獄であっても、もがいて這い出せればそれが幸福だ。何が幸いするかわからないから世の中は面白い。こんな格好いい人生があろうかと思う。僕にとって、一つの成功に安住する人はすべからく、つまらない人だ。
若い時にこうして電気が走ると一生痕跡が残る。これ以来、僕の生きる流儀はだんだんこういうものに収れんしていった。
・興味ないことはしない
・空気を読まない
・群れない
・人と同じことはしない
・つまらないことに1秒も使わない
この道に言い訳は落ちていない。結果がすべてであって、結果を出すための工夫を死に物狂いでするしかない。こうして僕はスナイパー主義になり、結果は出さないが懸命に群れて、周囲の空気を率先して読んで、人と違うことは積極的に避け、興味ないことを忠犬みたいに黙々とする「満員電車のっちまえ族」とは決定的に袂を分かつ人生を送ることになった。
75才のストラヴィンスキーがロバート・クラフトと対談しているビデオがある。
弟子の質問に師匠が答えていく図式だが、テレビのドキュメンタリー番組だからやらせっぽさ満点だ。ロバートはド真面目なインテリ青年で質問は台本通りであるのがバレバレだが、ストラヴィンスキーは母国語でない英語で喜々として答えている。しかし本音を言わず大人の会話に終始しているのはこの録画が後世に残ると知っているからだろう。曲をスタジオ録音する際に安全運転になるのと似て、表面づらはあまり面白くない。
そこで、まことに僭越ではあるが、愚生が時にチラッと垣間見えるストラヴィンスキーの笑み、表情の変化、語彙の選び方などを手掛かりとして、大先生の本音をこっそり盗み取って注釈してみたいと思う(英語が聞き取りにくくひょっとしてヒアリング・ミスがあるかもしれない。そんなアホなという部分は切にご訂正、ご笑納をお願いしたい)。
ではご覧いただきたい。
TVカメラ用のポーズをつけ、ピアノに向かって作曲中を装う彼は精一杯の演技でカメラの脇に待機していたロバートを呼び入れる。音符を書き込む姿はエンジニアのように見える。別室は建築士の事務所みたいだ。色鉛筆まで動員して几帳面に書きこまれた彼の巨大なスコアは設計図を髣髴とさせるが、そのイメージにフィットする。
ストラヴィンスキーはこんな事を言ってる。以下、注はすべて筆者による。
8才で始めたピアノで音階練習をしていて、音階というものは誰かが発明したのだと考え、それならば自分が創ってもいいだろうとオリジナルの音階を作った。14才でピアノを習った19才の女性教師が好きになってしまった(注1)。やがて師匠、友人となるリムスキー・コルサコフの弟子に和声法、対位法を習ったが死ぬほど退屈で(注2)、師匠に君は音楽院には行かずに自習しろと言われた(注3)。
注1・old maidは俗語でセクシャルに意味深。母親にバレた。
注2・この教師は知識はあるが音楽知らずのただの馬鹿と本音はナメ切っている
注3・耐えられなかったのは和声法で、対位法は関心あったと決然と言う。彼は古典を研究し、形式論理を重んじ、論理の進化で作風を転々とした。退屈で済ますわけにはいかず、あえて繕ったコメントと感じる。
初めて会ったディアギレフはオスカー・ワイルド(注4)みたいな男で、とても優雅でシックで敷居がお高く、微笑みながらやさしく肩を叩いてキミの庇護者だよとにおわせるスタイルの人だった(注5)。ディアギレフは火の鳥の契約をする前にショパンのオーケストレーションをしてくれと頼んできた。春の祭典の初演のスキャンダルを彼は(興業としては)喜んだが、それを巻きおこしたのは私の音楽であって彼のバレエではなかったから嫉妬もしていた。
注4・アイルランド出身の作家。ここでは「ホモの性癖が過ぎて投獄され梅毒で死んだあいつ」という意味で引用されていると思われる。ディアギレフもその道で著名。
注5・ディアギレフとの縁で功成り名を遂げたものの、彼のニヤリとした表情には「あの食わせ者にはやられたよ」感が満載で、それ以上の関係を感じないでもない。ディアギレフは貴族で海千山千の起業家だ、10才下の若造をおだてて手玉に取るのはわけなかっただろう。
私が指揮台に登るのは、どの指揮者よりも聴衆をうならせることができるからだ。私の父は当代一流の、あのシャリアピンに比肩される歌手である。私は偉大な解釈者の息子であり、彼の強烈な劇的表現の才能を受け継いで指揮をしている(注6)。
注6・指揮者としての自分を血筋で正当化している。作曲者なのだから解釈の正統性をなぜ謳わないのか不思議だが、彼はスイスに亡命したため1917年の十月革命で財産を没収され、ロシアがベルン条約加盟国でなかったためにパリでのロシア・バレエ団からのギャラ支払も拒否されてディアギレフと争っていた。だから三大バレエは人気を博したものの彼にはあまり印税をもたらさず生活は困窮した。すでにアンセルメ、モントゥーら著名指揮者のレパートリーとなっており、彼はチャレンジャーだったから血筋まで持ち出す心理になったのだろう。このインタビューはコロンビア・レコードが彼の自作自演盤を市場に出し始めたころに行われたから、彼は売上に敏感だったろう。ただ、結果としてレコードは売れて彼は「生きたレジェンド」になり、米国作曲作詞出版家協会(ASCAP)が彼の印税のランクを上げたため収入が3万5千ドルから7桁に近い6桁台に急上昇して大枚をつかんだ。
私が自作を指揮をすると専門の指揮者たちが怒るが、その理由は私の音楽(の解釈)についてではない、収入が減るからだ。競争(を仕掛けられた)と思うのだ。『ショパン』の稼ぎより『ルービンシュタインのショパン』の稼ぎの方が多くなくてはいけないのだよ、わかるだろう?(注7)まあ彼は友人だから悪くは言えないがね(注8)。
注7:俺の曲にただ乗りして稼ぐ奴らは許せんという意味。三大バレエは花のパリで初演から話題を巻き起こして興業的に当たっていたのだから、若くて金のない彼に「チクショー損した」感が大きかったのは当然だ。彼は創作過程について詳しいコメントを残していないが、想像するに三大バレエの時期はロシア革命、亡命、裏切りと重なる彼のトラウマでもあるだろう。
注8:ルービンシュタインに「ペトルーシュカからの三章」を書いて献呈しているための弁解。作曲家は経済的に不毛だったペトルーシュカを金にでき、ピアニストは『ルービンシュタインのストラヴィンスキー』を手に入れられるグッド・ディールだったとにおわせる。
演奏家は、トランペットならその奏者が、私のイマジネーション(注9)のとおりの音を出さなくてはいけない。音のイマジネーションを分かり易くするためにクラフトマンシップについて説明してください(注10)。(クラフトマンは)物を作る人だ。その物は独創的(発明的)でないといけないが(注11)。
注9:ロバートに「アゴン」のスコアの変拍子をひとしきり解説して見せた後、ストラヴィンスキーが創造の核心に触れだした。ロバートには「それはどこからどのように来るのですか?」と質問してほしかった。
注10:ところがロバートは(たぶん台本を消化するため)この一見もっともらしいが実はくだらない質問にすり替えてしまった。
注11:別の場所では、演奏家は作曲家が創った鐘を鳴らす鐘突き人だ、鐘は突けばちゃんと鳴るように創られていると述べている。質問の脈絡が不明のためストラヴィンスキーは鐘はそう造られるべきと苦し紛れに答えているわけだが、誠にもったいない機会損失であった。
彼(注12)はその知識を自己流儀で獲得していたが、音楽というものを習得してなかった。とても優れた耳と記憶力を持ってはいたがね、ロバート、君のようにね、でも君は作曲家じゃないが、彼は作曲家だ(注13)。
注12:前述の初めて和声法、対位法を習ったリムスキー・コルサコフの弟子。
注13:これを言うストラヴィンスキーは、自分はパフォーマーではなく創造者だ、作曲家は演奏家より上だという強いプライドを漂わせている。2日後に「アゴン」を指揮するロバートはその言葉に反応を見せない。パフォーマーに徹したことで評価されたのだろうが、世間の評価はピエール・ブーレーズが上だった。
音楽は音を聞くだけではアブストラクト(抽象)であり、振動を感じなくてはわからない。音楽は音のリアライゼーション(具現化)であり、それは人の心の働きである(注14)。哲学者ショーペンハウエルは「音楽はそれ自体が宇宙である」と言っている(注15)。
注14:鉛筆をくわえてその先をピアノにくっつけ、ベートーベンは耳が聞こえないからこうしていたと実演しているが、言いたかったのはこれだろう。アブストラクトでないものが彼にイマジネーションとして心の働きを喚起し、音として “聞こえて” おり、それを書きとるのがリアライゼーションと筆者は理解した。別なインタビューで彼は「最高の作品とはまさに妊娠している母親のように、心と耳で感じられるものだ」と語っている。
注15:ショーペンハウエルの音楽論の部分を書きとっている。彼が全編読んでいたかは不明。8才でオリジナルの音階を創造しようとしたストラヴィンスキーの心の作用は万物の根源に向かうという意味ですぐれて哲学的、科学的であるが、前掲書によると、死生観などは呪術的でもある。
以上。
ここでストラヴィンスキーが本当にやりたかったわけではないであろうパフォーマーの仕事ぶりを見てみよう。1959年にN響を指揮した火の鳥である。選曲も管弦楽法も聞きなれぬバージョンの組曲であり、その差異により、彼が著作権を持って課金できているはずのものだ。終曲のおしまい、ロ長調になる部分のぶつ切れは彼がそりが合わなくなっていたアンセルメ(彼はフル・ノート延ばす)へのプロテストかと感じないでもない。
ストラヴィンスキー夫妻とロバートはこの年行われた皇太子ご成婚にかけて来日し、兼高かおるが同行して京都、大阪、箱根、鎌倉、日光を旅した行程が詳細にロバートの上掲書に記されているが、ストラヴィンスキーのために2回のリハーサルをつけたこと以外は5月1日のこの演奏会にはまったく言及がない。彼らの意識の中ではその程度のものだったのだろう。
上掲ビデオのNBC番組については、ロバートの上掲書に記述がある。6月12,13日で、その5日あとが巨匠の75才の誕生日だった。
最晩年のロバート・クラフト(October 20, 1923 – November 10, 2015)が1971年にヴェニスで執り行われたストラヴィンスキーの葬儀の思い出を語っている。最後の一言に衝撃を受けた、まさに感動的だ。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。
世代はかわったと思った瞬間
2020 JAN 3 11:11:12 am by 東 賢太郎
2度目の屋久島で2日目に白谷雲水峡に登った。今回、僕はもともと山に入る予定はなかった。しかし5年前、還暦記念の縄文杉登山は途中で左ヒザを痛めて死ぬかと思う苦行だったが、白谷雲水峡のほうは楽勝だったという記憶がある。前日になって参加することに決めた。筋トレで脚力の数字は落ちてないし平気だろう。
それが甘かった。行ってみてわかったが、前回は「苔むす森」だけ見るショートカットのコースであり、だから楽だったのだ。この日ガイドさんが選んだのは弥生杉へ迂回して行くフルコースであり、もう遅い。同行した娘はすいすい行ったがこっちは体重がついに観測史上初の80キロになっていた。足元がけっこう危ない。沢を横切る前後の急斜面では何度かよろけて冷や汗をかく。帰りの下り道で踏み損ねてヒザが痛くなった。今度は右だった。
翌3日目、僕はいわさきホテルで仕事である。朝4時。大雨だ。天気予報は一日中雨だ。娘は縄文杉に挑戦することになっている。「こりゃ中止だろ。あれはトレッキングじゃない、登山だよ」と諫めたのだが、5時前に颯爽と出て行ってしまった。風も出ていて、大粒の雨がパラパラ音をたてて窓を打った。5年前のこの体験があるから気が気でない。何度もフロントに電話した。「ガイドさんから中止の連絡がありません」の一点張りだった。
しばしたってガイドではなく娘から、やけに軽快な「着いたよ」が着信した。なにっ、地の果ての縄文杉からラインか?そんな時代になったのか・・・想定外のことにびっくりして驚き方も想定外だった。時刻は10:48である。僕は散々な目に遭ってあそこに着いたのは12時頃だった。すぐ返信だ。「早いね、よかったね。おめでとう」。そして、僕が命からがら下山してふもとの登山口までたどり着いた17時ごろ、娘はケロッとしてホテルに帰ってきた。
「よかった」がお初に出た言葉だが、夕食のころになると「よく行った」になっていた。前の日に疲れてる。中止が当然と思った。自分からキャンセルもできた。まさに『よく行った』だ。あれが自分だったら行ったかなとしばし考えて、行ったなと思った。そうか、これがトシをとるということなのかと納得だ。世代はかわったんだ。
ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。


























