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カテゴリー: ______ビゼー

クラシック徒然草《カルメンの和声の秘密》

2020 SEP 22 14:14:39 pm by 東 賢太郎

前稿で1分で終わる「NTVスポーツ行進曲」のインパクトについて書きました。しかし、それをいうならこれを書かないわけにはまいりません。カルメン前奏曲です。主部はたった2分ですが、万人をノックアウトする物凄さ。僕はこれを中学の音楽の授業できいて「クラシックはすごい!」と衝撃を受け、この道にのめりこんだのです(もりや先生ありがとうございます)。

まずは聴きましょう。

この前奏曲にはベンチャーズやビートルズしか知らない耳には奇異に聞こえる部分がありました。そのころまだピアノが弾けません。ギター(これはマスターしていた)でさらうと考えられないコードが鳴っているのです。囲いの部分です。

中学生の僕に楽譜は読めません。しかしポップスのコード進行ならいくら珍品のビートルズのIf I FellやI Am The Walrusでも、Hard Day’s Nightの始めのジャ~ンも難なく耳で書き取れたので結構上級者だったでしょう。なぜならギターを通じて「バスを聴け」の大原則を発見していたからです。これは今でも音楽鑑賞に耳コピに、絶大な威力を発揮しています。ご興味ある方はこちらのレッスンをやってみてください(音楽の訓練を受けてなくても誰でもできます)。

クラシックは「する」ものである(4) -モーツァルト「クラリネット五重奏曲」-

ところが、無敵なはずの大原則がカルメン前奏曲には通じなかった。当時の僕は「うぬぬ、おぬしやるな・・・」と固まってしまうしかすべがなかったのです。イ長調の主題がそのまま4度上のニ長調になり、たった3拍でイ長調に戻す部分なのですが、トロンボーンとバスーンでよく聞こえるバスがいけない、奇矯だ、と思うのはコンマ何秒のことで、あっと驚く間もなく E7 になって、なに驚いてんの?とあざ笑うように A (ニ長調)に復帰してブンチャカ始まっているのです。野球をしていて「手が出なかった見逃し三振」というのは最高に悔しいのですが、ここは、140キロぐらい速い上にググっと予想外の変化もして「ストライク!」と言われる感じがする。気になって眠れません。

このおかげ、悔しさのおかげで、僕は楽譜が読めるようになったのです。

そこで何が起こったかというと、「どうしてだろう?この『変だ』という感覚はどこから来てるんだろう」と即物的に解明を試みたわけです。そこで実験道具である楽譜を買います。対象部位を特定します。バスが d → g#→c#と動くことをつきとめます。『変だ』の理由を探します。わかりました。d → g#が増四度だからが解答でした。こんなのポップスには出てこない「見たことない球」だったのです。g#→c#のほうは完全4度のあったりまえのもので、急にぎゅんと曲がってあとはまっすぐという変化球です。

となると、打席で「うわっ」とびっくりして手が出なかったのは g#に乗ってる和音だ、こいつが曲者だったとロジカルに追い詰めることができるのです。

正体見たり。こいつはワーグナーやブルックナーによく出てくる “g#,h,d,f#” で   E9 のバス e を取って g#に置換したもの。コード記号で簡略に書くとD⇒C#⇒E⇒Aでイ長調に帰る。Dを半音下げるのはまことに強引で、そこで間に緩衝材としてこの和音をはさんでいます。 Bm6 とも書けてしまうがそのおまけの 6 (g#)がバスに来てしまってトロンボーンとバスーンで我が物顔に鳴るから Bm6 とは別物の倍音を撒き散らしている、つまり、ビゼーはこれを「たった3拍でイ長調に戻す」舞台回しの大トリックの要諦としたと思います。その証拠は上掲のピアノ譜にありますので解説します。よ~くご覧ください。

これはビゼー自身の編曲ですが、この増四度を変だと聞いてしまう僕のような輩がいることを危惧し、イ長調が元々の設定なのだから本来は書く必要ない # をわざわざ g につけているのです。一瞬の浮気で転調しているニ長調は g に#はない。きっとアホな演奏者がいるだろうなあ、♮されかねないなあ、この#が本妻のイ長調復帰の狼煙になるんだよなあ・・。彼は初演直前になって「アタシ、カルメンよ、ちょっとぉ、こんな歌ばっかりじゃ見せどころないじゃないのよぉ」とごねるくそうるさいプリマドンナに13回も書き直しを余儀なくされ、イラディエルのハバネラ《 El Arreglito》なる作品をぱくって「ハバネラ(恋は野の鳥)」を書いてやりました(民謡と思っていたらしい)。そんなおおおらかな時代だから変位記号の見落としなんて平気にあったろうし、彼がマーラーやチャイコフスキーに並ぶ完全主義のmeticulous(超こまかい)人間であったことをうかがわせます。まあmeticulousでない大作曲家はいませんが。

後にカルメンは全曲が肌から浸みこみ、もはや血管を流れるに至っています。ぜんぶ音を諳んじているオペラはほかには魔笛とボエームしかありません。そこに至って、和声のマジックはここだけではないことがわかってきました。例えばジプシーの歌です。これは実に凄い。和声の万華鏡である。お聞きください。

余談ですがこのメッツォ、ギリシャ人のアグネス・バルツァですが、このプロダクションはメット(レヴァイン)とチューリヒ歌劇場(フリューベック・デ・ブルゴス)で観て強烈な演技と妖艶さに圧倒され、もう誰のを観ても物足りなくなってしまったのは困ったものです。

驚くのはここ、ラーラーラーラララララーです。

バスはずっとe (オスティナート)で、Eaug、A、D#、E、C#、F#m、B7となるのです。このビゼー版は C# のファ音が入ってないのが不思議ですが、僕がテキストにしている Schirmer Opera Score Edition (左)では入れてます。こういうところ、ビゼー版は一筆書きの風情で声部が薄いのでバスと短9度(または短2度)でぶつかるファは略したのか、あんまり気にせず勢いにまかせてスイスイ書いたのか。頭ではファが鳴っていたわけですね、なぜならオーケストラ・スコアでは第2ヴァイオリンがミ#を、チェロがファ♮を弾いているからです。ともあれ、この部分のコード・プログレッション、頭がくらくらします。バルツァのラーラーラーも男を酔わせて三半規管を狂わせますが、それ以前に彼の書いた尋常じゃない音符にくらくらの秘密があるのです。

例えば、出だしは並みの作曲家なら E なんです。ところがビゼーは曲の頭なのにシを半音上げてド(増三和音)にしちゃうわけです。なんという効果だろう!不条理に生きる女、カルメンの妖しい色香が匂い立ってくるではないですか。降参。このスコアはどこを弾いてもかような感じで唸るしかないのですが、前奏曲とこれはとりわけカタルシスが得られます。麻薬です。モーツァルト級の天才であったビゼーはこれを書いて36才で心臓発作であっけなく死んじまったのでなんだか一発屋みたいに見えますが、とんでもない。音楽史を俯瞰すると、ある日突然にぽこんと突然変異のように “あり得ない作品” が生まれるのですが、これはそうでしょう。まあ野球なら王、長嶋、金田、イチローみたいなもん。この人たち図抜けすぎていて「2世」といわれる存在が出てきませんが、魔笛、エロイカ、トリスタン、春の祭典もないのです。カルメンも後継がないですね、こういうオペラを作曲家なら誰だって書きたいはずだけど、やれば見え見えの猿真似になってしまうでしょうね。

ただし、ひとつだけ、アレキサンダー・ボロディンはカルメンを研究したかもしれないという仮説を書いておきます。猿真似にならんようにエキスだけ盗んだかもしれない。というのは、いろいろ発見があるんですが、例えばジプシーの歌を弾いていて、ある箇所がダッタン人の踊りの半音階和声進行に似ている(音というよりも指の動きがというのが深い)と思ったのです。オペラ「イーゴリ公」は未完で1887年の死の年まで書かれていました。カルメンのオペラコミークでの初演(1875年)は先進的すぎて成功しませんでしたが、同年のウィーン公演は当たりました。ワーグナーが称賛し、ブラームスは20回も観た(!)うえに「ビゼーを抱擁できるなら地の果てまででも行ってしまったろう」と言ったそうです(もう亡くなってたんですな。こういうところ好きだなあ、ブラームスさん)。その後数年のうちにロンドン、ニューヨーク、ザンクト・ペテルブルグなどで広く演奏され、全欧州で有名になったこのオペラをちょくちょくドイツ(イエナ大学など)に来ていたボロディンが聴かなかったと考えるのは無理があるでしょう。

ボロディンは交響曲第2番を1877年に完成しましたがその後もオーケストレーションなどを推敲しています。

ボロディン 交響曲第2番ロ短調

この稿に、

このチャーミングなメロディーが10小節目でいきなり半音下がる!!こんな転調は聴いたこともなく、一本背負いを食らったほどすごい衝撃です。

と書きましたが、さきほど、

D⇒C#⇒E⇒Aでイ長調に帰る。Dを半音下げるのはまことに強引で・・・

と書いたわけです。そして、交響曲第2番を締めくくる一撃は、ジプシーの歌の最後のドカンそのものであるのです。お確かめください

 

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カルメンが生き残った理由(今月のテーマ インテリジェンス)

2017 JAN 26 12:12:49 pm by 東 賢太郎

昨日は次女と新国立劇場のカルメンでした。何度聴いてもいいですね。ホセのマッシモ・ジョルダーノは演技力もあって後半はよかったかな、ミカエラの砂川涼子は健闘でした。オケの東京SOはいい音が出てましたね。前から4列目で美しい舞台も楽しみました。

娘たちは幼稚園のころからオペラやバレーへ連れて行ってるのですが、今もこうしてきいてくれるのはうれしいことです。彼女は魔笛、ヘンゼルとグレーテル、白鳥の湖、くるみ割り人形なんて子供向きから、ボエーム、コシ・ファン・トゥッテ、イエヌーファ、エレクトラなんて大人物まできいてます。ワーグナーは寝るだろうということで、ヴェルディは親父がきらいで外して申し訳なかったが、これからは自分の趣味で聴いてください。

さて子供の時にきいたのをどこまで覚えてるかというときっと忘れるんですね、筋もややこしいし長い曲だからとうぜんです。僕は初めてオペラを観たのはメトロポリタン歌劇場のタンホイザーだからもう27才でした。ところが先日に野村くんがプレートルのブログにくれたコメントで、一橋中学で音楽の授業でカルメンを全曲聴いたとありました。

car完全に忘れてましたが、家にカルメンの抜粋のEP盤(右)があって不思議に思っていたんです。なんで買ったのかなと。EPはごまんとあって、ベンチャーズ(小4)に始まってお袋が買ったと思われる渡哲也「くちなしの花」(73年、高3)なんかもある。中学ではまだLPは買っておらず、ひょっとして音楽の授業でcar1「前奏曲」が気に入って買ったんじゃないか?という気になってきたのです。僕はこの前奏曲が大好きでイ長調に0.3秒だけ出てくるつなぎのC#(!)、そしていきなりぶっ飛ぶCのコードは今でも頭をぐしゃぐしゃに錯乱させる効果があります。ボロディンがそうだったように、当時、転調には異様に反応してしまう子供だったです。

だんだんほんのりと思い出しつつあって、カルメン鑑賞は何回かの授業に分けていて、森谷先生の「今日は第2幕です、ここでホセがこうして」みたいな解説があったような。あれ中3の受験前じゃなかったのかなあ、なんとなくですが、勉強で疲れてて、とにかくぼーっとオペラ聞くだけって授業が続いて楽ちんで、先生親心だなあなんて勝手に思った気がするんです。

昨日は始まる前に娘にすじを教えて、これはリアリズムのはしりのオペラなんだ、おとぎ話じゃないからね、カルメンはひねたアバズレ感がないとね、エスカミーリォはホセを出しぬくイケメンじゃなきゃ変だろ、顔じゃないよ声だよ。それを通らない低いバスでやるの、なかなかいいのいないんだ。ミカエラはビゼーが中和剤で入れた役だ、何で入れたかわかるか?アバズレが主役なんてダメなの、当時のパリじゃあ。ソプラノふつう主役でしょ?カルメンはメッツォなの。ハバネラはね、初演の女が練習でごねたの、もっといいの書いてよって、それで他人のメロディーをパクったんだ、でも歌手のゴネ得はねモーツァルトでもしょっちゅうあったよなんてことを教えます。

そしていよいよ前奏曲の前に、「カルメンができたのは鹿鳴館より前のころだよ、そこから150年近くもどうして世界で大ヒットしたのか理由を考えながら聴きなさい」と伝えました。次女は外資系のマーケティング部門にいるのですが、何でも考えさせる題材にはなるのです。

帰りにショーペンハウエルの「馬鹿になるから本を読むな」も教えました。本は読んでいるようで結構だが、それは他人の頭で考えてもらっていることでもあるのだ。その結末だけ何万覚えても実社会では何の役にもたたんよ、数学の公式だけいくら丸暗記しても難しい問題は歯が立たなかっただろ?あれがどうやったら攻略できるかって、攻略本じゃなくね、自分の頭で考えるんだよ。しかも実社会の問題は正解がないんだよ、条件もその場その場で千差万別だ。自分の頭で考える訓練をしていないと解を導くなんざ到底無理だ。でもみんな解いた気になってんだ。そうやって人生ができていくの。いい方にも悪い方にも。

その解こそインテリジェンスなんだよ。それを導く能力があれば何しても食っていけるし勝ち抜けるよ、保証してやるさ。みんな口で言いたくないけどな、資本主義は食えた奴が勝ちなんさ。武士は食わねどの人はそれでいいけどな、口は左翼、財布は右翼ってのがいっぱいいるんだ。たいして食えてもいない奴の本なんか読んでどうすんの?捨てなさいそんなの。インフォメーションはど~でもいいの、ググればその場で出てくるでしょ、物知り博士なんか食えないんだよ、それこそ人工知能に一番早く食われるさ。学歴や職歴で食えると思ってる奴は考えなくなるからね、東大出てたってね、これから最もダメなタイプだ。

なんてことを言うわけです。過激すぎてブログに書けないことも多いので、でもそれが世の中のまぎれもない真実でもあるんで、まあボケる前になるべく教えとこうということです。カネを残すより知恵を残してやった方がいいですね、遺産は食いつぶしたら終わりだがそこからは自分で食えないと寂しい人生ですからね。

はい、カルメンが何で150年生き残ったかは解釈がいくつかあるよね。世界のどんな田舎へ行ってもオペラといえばカルメンぐらいは返ってくるね、凄いことだよね、じゃあどうして?

 

 
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ジョルジュ・プレートルの訃報

2017 JAN 9 3:03:39 am by 東 賢太郎

img_4cc4a846a588e0814797b713984c1063151842ジョルジュ・プレートルは大正13年うまれだ。親父と同い年だからどこかで聴いていたかなと記憶をたぐるが出てこない。僕はフランス語圏にはあんまりいなかったし、すれ違いだったようだ。

どういうわけか僕の世代では「おフランスもの」はクリュイタンス、ミュンシュ、マルティノンの御三家ということになっていて、ドビッシー、ラヴェルはこの3人以外をほめると素人か趣味が悪いと下に見る空気があった。「おフランス」は"中華思想"なのである。今だって、「ラヴェルはやっぱりクリュイタンスですね」の一言であなたはクラシック通だ。

「おフランス原理主義者」にいわせれば、ピエルネ、アンゲルブレシュト、デゾルミエール、ツィピーヌ、ロザンタルは保守本流だけど音が悪いよね、パレ―、モントゥーの方が良いものもあるけど英米のオケだからだめ、アンセルメ、デュトワはスイス人でしょとなってしまう。ブーレーズは異星人であり、フルネ、ブール、ボド、デルヴォー、フレモー、プラッソン、クリヴィヌ、ロンバールはセカンドライナーである。

ところがクリュイタンスはベルギー人、ミュンシュはドイツ人、マルティノンもドイツの血を引くのだが、そんなことは関係ない。最初の二人はパリ音楽院管弦楽団の、マルティノンはコンセール・ラムルーのシェフ。JISマーク認証すみだ。おそらくだが、パテ・マルコニを買収してフランスに地盤を持ったEMIがうまく3人をフランス・ブランドで売りこんだことと関係があるだろう。同じ英国のライバルであるDECCAはウィーン・フィルはものにしたがフランスは弱く、スイス人のアンセルメを起用するしかなかったから独壇場だった。

プレートルはそのEMIのアーティストであり、同社内に3人の強力な先輩がいてフランスのメジャーオケによるドビッシー、ラヴェル録音のおはちが回ってこなかったのか、その印象が僕にはまったくない。後に浮気はしたがクラシックはドイツ、イタリアのレパートリーが大黒柱なのだからそっちで勝負となればフランス人であることはあんまりメリットはなかっただろう。晩年にウィーンフィルを振ってドイツ物への適性を天下に見せたが、第一印象とはこわいものだ。

pretre高校3年の5月に大枚2千円を払ってラフマニノフの第3協奏曲のLP(左)を買ったがその指揮者がプレートルだった。ピアノのワイセンベルクは後にバーンスタインと同曲を再録するが、この若々しい演奏は今でも大好きでときどき聴いている。ブルガリアンとフレンチのラフマニノフ、なんて素敵だろう、ピアノが微細な音までクリアに粒だってべたべたせずオケ(CSO)もカラッと薄味なのだが、第3楽章の第2主題なんかすごくロマンティックだ。プレートルの名前はこれで一気に頭に刻み込まれた。

 

106彼を有名にした功績を最もたたえられるべきはマリア・カラスだろう。不世出のソプラノ歌手唯一のカルメンを共にした栄誉は永遠だがこの歴史的録音が発散するはちきれるような音楽の存在感も永遠だ。プレートルが並みの伴奏者ではなくビゼーのこめたパッションやエキゾティズムをえぐり出して歌手を乗せているのがわかる。バルツァ好きの僕だがカラス様はカラス様だ、よくぞここまでやる気にさせてくれたと感謝である。気に入って真珠とりも買ったがこれもいい味だ。

pretre1サン・サーンスの第3交響曲にはまっていた時期があるが、どういうわけかすっかり飽きてしまった。フランス人に交響曲は向いていないという思いを強くするのみで、ピアノスコアまであるし音源は22枚も買ってしまっているがもはや食指が動くのはプレートルの旧盤(64年)、クリヴィ―ヌ、バティスぐらいだ。モーリス・デュリュフレ(オルガン)とパリ音楽院管弦楽団なんて泣かせるぜ、このテの音は絶滅危惧種トキのようなものだ。こういうあやしくあぶないアンサンブルを録音する趣味はもう絶滅済みという意味でも懐古趣味をくすぐるし、サンテティエンヌ・デュ・モン教会の空間の音響がなんともいいのだ。第2楽章の敬虔な深みある残響は音楽の安物風情を忘れさせる。終わってみると立派な曲を聞いたと満足している演奏はこれだけだ。

dindyこちらもつまらない曲だがダンディの「海辺の詩」、「地中海の二部作」である。モンテカルロの田舎のオケからこんな鄙びたいい味を出す。オケをコントロールして振り回すのではなくふわっと宙に舞わせてほんのり色あいを出す。そうだね地中海の香りがする。この音でドビッシーを全部やってほしかった。

「おフランス」ものはその「いい味」というのがどうしても欲しい。というよりもそれがないのはクズだ。香水やワインのアロマのように五感に作用してなんらかの感情や夢想や情欲さえも喚起する、御三家のうちドビッシーでそれができた人はマルティノンだけだ。ドビッシーの管弦楽というのは意外にもいいものがないのである。

poulenqプレートルだったらというのはない物ねだりだが、その分、プーランクを残してくれた。このEMIの5枚組は主な声楽曲が入っている宝物だ。「人間の声」はデニス・デュヴァルとプレートルによってパリのオぺラ・コミークで初演されたが、それがプーランクを喜ばせたのがもっともだという感涙ものの名演である。

ガブリエル・タッキーノとのオーバード、P協、2台のP協(CD左)、オーセンティックとはこのことだ。作曲当時の息吹が伝わる。管弦楽曲集(CD右)は録音も鮮明でまったくもって素晴らしい演奏が楽しめる。プルチネルラみたいな「牝鹿(可愛い子ちゃん)」の軽妙、「フランス組曲」のブルゴーニュの空気(パリ管がどうしたんだというくらいうまい)、 「典型的動物」のけだるい夜気。あげればきりがない耳の愉悦の連続である。プレートルのプーランクは世界遺産級の至宝だ、知らない方はぜひ聴いていただきたい。

聴くことは能わなかったし意識したわけでもないがプレートルは僕のレコード棚のけっこう要所なところに陣取って存在感を発揮してしていた。知らず知らず影響を頂いた方であった。心からご冥福をお祈りしたい。

 

(こちらへどうぞ)

プーランク オルガン、弦楽とティンパニのための協奏曲 ト短調

 

クラシック徒然草-僕が聴いた名演奏家たち-

 

 

 

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2016年の演奏会・ベスト5

2016 DEC 31 21:21:43 pm by 東 賢太郎

今年は忙しくてN響、読響ともかなりすっぽかしてしまいました。行ったなかでのベスト5ですが、以下の通りです。

1位

加藤旭:合唱曲「くじらぐも」(メイク・ア・ウィッシュ演奏会)

2位

ビゼー:歌劇「カルメン」(C・デュトワ/N響)

3位

コルンゴルト:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品35(五嶋 みどり/カンブルラン/読響)

4位

ブラームス:ヴァイオリン・ソナタ第3番 (ユリア・フィッシャー/M・ヘルムへン)

5位

フィンジ:霊魂不滅の啓示 作品29(下野 竜也/読響)

 

以上どれもインパクトのある演奏でした。1位の「くじらぐも」ですが、この演奏会のすぐあとに16才の作曲家、加藤旭さんは亡くなりました。この日初めて、僕は真っ白な気持ちになって、音楽を愛する心は曲を通してまっすぐに聞き手の心に伝わることを教わりました。

僕の音楽を愛する心もつよいです。そのおかげで4年間こうしてブログを書き続けることができました。お読みいただいている皆様にも、その力で何かが届けばうれしいです。本年は思うところあって年初から4月まで執筆を休止しましたが、それでもアクセスが増えたのがやめられなかった理由でした。

愛情は死ぬまでつづくので、ブログもそれまで続くと思います。本年も拙文に貴重なお時間を割いていただき、本当にありがとうございました。よい年をお迎えください。

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デュトワ・N響のカルメンを聴く

2016 DEC 15 0:00:05 am by 東 賢太郎

carmen

このカルメンのために金曜から休暇で西表島に行くのを1日延期した。NHKホール前は青のイルミネーションで美しい。

ao

カルメンの舞台は海外で何度観たかわからない。なかでは二度真近に見て圧倒されたギリシャ人のアグネス・バルツァが強烈で、ビデオでも彼女のをくり返し見ているのだから、なにか意識の中でカルメンは実在の女でそれはバルツァなのだという困ったことになっている。

マリア・カラスがどうしてこれを舞台でやらなかったのかそういう芸能界的な部分は知らないがきっと適役だったろう。これを演じるには歌だけでなく全人格的なもの、ああこの女だったらやりそうだなあと男の五感に訴える「カルメンシータらしきもの」を備えていないと物足りないものがあるのである。

それはこのオペラのリブレットがカルメンとホセの生々しい愛憎、つまりloveとhateのアンビバレントな二面性を軸としたものだからだと僕は解釈している。

パリのオペラ・コミックでの初演は一般に失敗とされる。プレスがカルメン役のセレスティーヌ・ガッリ=マリーを「不道徳なアバズレ」「悪の化身」と評し、技術的にもオケ、合唱団が演奏不能とした箇所があったことから、当時のモラルや楽曲の常識を超えたものだったと思われる。劇場が懸念していたように裏切りと殺人というリアルな題材が保守的な聴衆に受け入れ難かったせいもあろう。

しかし失敗と思いこんだのは初演後3か月で死んでしまいそこから先を知らなかったビゼーであって、臨席したマスネとサンサーンスは好意的であったし当初から彼の他の作品よりは上演回数は多かった。カルメン並みの女はいくらもそのへんを闊歩していてモラルなど雲散霧消した現代にこの作品が好まれているのは、男女の生々しい愛憎ドラマがいつの世も関心事であるからだと思うのだ。

loveがhateに転化する最後の闘牛場の場面がクライマックスだ。歓声と前奏曲が遠くから鳴り響き不吉な運命のテーマと交差する、そこで純情一途の男が一世一代の決断をしたのが殺人だった。公序良俗にも法律にも反している話なのだが、ホセを死刑にしろという気に一向にならないのはカルメンが「悪女仕立て」だからだろう。吉良上野介を憎々しげに演じてくれないと忠臣蔵にならないのとまことに似ている。

彼女はロマ(ジプシー)であり社会の底辺で既存のレジームに同化できないはねっかえりだが、しかしだからといってそれだけで悪女といわれる道理もないのであって、どうしてそうなるかというと、その妖しい魅力のボルテージが異様に高くてホセが入れあげても仕方ないと思わせ、「悪い女だねえ」と満座にため息をつかせてしまう秘術を次々繰り出すからなのだ。

一例をあげよう。工場から女工たちがどっと出てきてカルメンが傷害事件を起こしたぞ、このアバズレをひっとらえろ!とスネガが命じる場面であざ笑うように歌う「Tra-la-la…」、この単純なEーAmの和声進行にのっかる妖艶な歌!メロディーが非和声音のd#に落っこちるぞくぞくする色っぽさ!

これだけじゃない、ハバネラ、セギディーリャ、ジプシーの歌、これでもかとウルトラ肉食系の妖しい歌に攻め込まれるホセなのである。いったい何なんだよこの女?この歌なに?(このビデオがアグネス・バルツァだ)

仕方ないんじゃないの?と男なら同情するしかない。だから否応もなく「悪い女だねえ」となるのである。

断っておくがそれは歌手の容姿、色香だけではない、ビゼーの書いたあまりに天才的な音楽によってである。頭や理屈や技術やもの真似ではできない真のインヴェンション!初演をきいたシャルル・グノーは俺の真似だ剽窃だと否定的だったが、たしかにビゼーが交響曲ハ長調の作曲などでグノーをメンターと仰いだ形跡はある。グノーは優れたメロディストだが時代の常識の範囲内で美しい音楽を書く達人だった。女中に私生児までいたビゼーの女遍歴は日本語世界ではあまり知られていないが、カルメンの音楽はそういう男にしか書けない毒の味がある。

さような観点でこのオペラを見ると、エスカミーリオとミカエラはベルリオーズの幻想交響曲の恋人のごときイデー・フィクス(固定楽想)付の単なるキャラクター、着ぐるみのような存在なのであって、それぞれがホセの嫉妬心、改心の念をかきたてる添え物である。主役はその両者の狭間で揺れ動く優柔不断なホセに見える。いや、そうであってこそ男のフラフラ、優柔不断が生んだ悲劇としてこのオペラに一本すじが通るのである。

ところが、実はホセには固定楽想もなければインパクトのある固有のアリアもない。彼は嫉妬心に駆られ、燃え立ってしまった恋心に悩み、訴え、怒り、母の待つ故郷に思いをはせもするのでいい歌をそこかしこで歌うのだが、それらの情はすべて他者に駆り立てられたもので何が彼の本質なのか明らかでない。ホセとはカルメンの妖気に篭絡される男という、朗々たる男の帝国であるテノールのアリアにはなじまない性質の役なのだと書いた方がいいだろう。

固有の歌、アリアは、したがって手を変え品を変えて強烈にセクシーな磁力を送り続けるカルメンという女が繰りだす秘術にだけ与えられているのである。彼女の歌だけが人間の地を丸出しで偽善の着色がない。カルメンを演じるメゾ・ソプラノ歌手というのはそういう生身のオーラを放っていないと様にならないのだ。カルメンがいなければこのオペラは観る意味もないが、困ったことに歌も容姿もロマらしい雰囲気も満点であるバルツァのような人がそんじょそこらにいるわけではないのである。

下が初演したセレスティーヌ・ガッリ=マリー(中段左から二人目)を含む歴代のカルメンである。容姿だけでもなかなかの面々だ。ちなみにマリーはこんな地味な歌いやよと文句をつけてあのハバネラを書かせ、ビゼーと関係があったともうわさされている。

variouscarmens

前置きが長くなった。結論としてこの日に聴いたケイト・アルドリッチという素材はバルツァ後継の有力候補と言っていいと思われるが、まだまだ普通の女が演じるアバズレだ。真のアバズレをえぐり出している超ド級の音楽に置いて行かれている部分がある。演技がいけないわけではない、バルツァだって6才からピアノをやってそこそこの家のお嬢だろうが演技であれができている。

長身のイケメンで押し出しが良く声量もあるマルセロ・プエンテのホセは当たりだった。純情路線でバルツァに丸め込まれていたカレーラスの記憶が強いが、非常にコンペティティブな所にいると思料。

ダルカンジェロのエスカミーリオはこれまたメットで観たサミュエル・レイミーが姿も声も一級品で比べてしまう。闘牛士の歌は彼のキャラクターソングだが曲調は大衆歌謡に近い(とにかくこのオペラには小難しい旋律や和声やフーガは皆無なのだ)。それだけにバスの朗々とした艶やかな低音がないとしょぼいものになってしまう。ダルカンジェロの声は合格だがプエンテのホセが恋には勝ってしまうかなあ。

ミカエラのシルヴィア・シュヴァルツは大いに好感を持った。なによりミカエラらしい雰囲気と声が誠に好ましい。アバズレと対極の恋を夢見る貞淑な乙女キャラクターであって、主役がメゾだからソプラノが愛らしく映える。当時のパリの女性に対する道徳観ではこういう要素が毒消しとして必要だったかもしれない。道徳はともかく、ミカエラがはまる声質のソプラノは僕はだいたい好きである。

他の声楽陣も合唱も不足はなく、12月のデュトワを楽しめた。欲を言えばN響がこの曲には「いい子」の草食系だ(きちんとまとまってはいたのだが・・・)。闘牛で血が流れカルメンも血を流すのだ、もっとスペインのラテンのどぎつくてワイルドで粗暴な熱がほしい。デュトワにはない物ねだりになるがレヴァインが振ったメットのオケは熱かった。それが舞台と相乗効果で火炎が立ちのぼるような忘れられない効果をあげた。優れた音楽とはそういうものだ。

 

(ご参考) ビゼー オペラ「カルメン」 (Bizet: Carmen)

 

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ビゼー 交響曲ハ長調

2016 DEC 9 10:10:00 am by 東 賢太郎

今日から娘たちと休暇の予定だったが気がついたらデュトワがN響でカルメンを振るではないか。これはどうしようもない、父だけ1日遅れの合流となった。

カルメンはビゼー最晩年35才の作品だが、そうはいっても36才で亡くなった人だ、還暦まで生きていればずいぶん若書きの作品であって、やはり35才でモーツァルトが書いた魔笛に匹敵する。僕の中ではカルメン、魔笛、ボエームが三大オペラで隅々まで全部覚えるほど聴いて血肉となっているが、それでいながら何度でも聴きたいし、聴くたびに感動するというのだから強烈なオーラを放つ究極の名曲としか書きようがない。

そのビゼーの真の意味での若書きが交響曲ハ長調である。これを書いたのがなんと17才、今なら高校2年というのは、メンデルスゾーンの「弦楽八重奏曲 変ホ長調 Op.20」が16才、『夏の夜の夢』序曲がやはり17才の作であると知った驚きにいささかも劣らない。天与の才があることを gifted というが、神様からギフトをもらって生まれてきた3羽ガラスというなら並みいる歴史的天才の中でもモーツァルト、メンデルスゾーン、ビゼーということになると思う。

なにせ3人とも苦学臭が皆無である。勉強でも東大には何の苦労もなく物凄くできる人がいて、何倍も時間をかけて刻苦勉励するガリ勉くんより点が良かったりするが、あれと同じだ。日本ハムの4番打者中田が大谷の打撃を見て「練習するのがあほらしくなる」と言ったがそういうことで、勉強でもそういう輩と競争するのは何の生産性もない。gift とはそういうものだ。

この3人に比べるとベートーベンやブラームスもガリ勉に見えてしまうので困る。神様の gift にも品目が各種あるということであって、苦しんでもあそこまでの高みに登れば100年や200年たっても余人の及ぶところではないのだが、彼らの17才は演奏家という人間の仕事では図抜けていたものの、作曲という創造主の仕事では3人に比してたいした成果がない。

ついでにもうひと種目挙げれば、美しい旋律を創るメロディーメーカーの才の3羽ガラスはモーツァルト、ヨハン・シュトラウス2世、ドヴォルザークだろう。あとの2人はブラームスが羨望の言葉を吐いたほどだが、またモーツァルトなの?といわれるとこれはもうどうしようもない、彼はあらゆる角度から本当の天才なのだから。

ビゼーのハ長調交響曲はハイドン、モーツァルトのシンプルさでメロディーは親しみ易く、こんなに形式的にも平明でわかりやすい交響曲はない。一度目で誰でも楽しめるし、二度目できっと覚えるし、三度も聞けば鼻歌でなぞれるだろう。へたな御託はご無用、ただ耳を傾けるだけでいい。

しかしこれが習作でそれなりのものということはない。僕は16種の音源を持っており何十回聴いても心地よく飽きない音楽である。両端楽章はallegroでシャンペンの泡立ちの爽やかさ、第2楽章adagioはオーボエが哀調のある旋律を歌うがムソルグスキー「展覧会の絵」のように絵画的でエキゾティックだ。中間部のフガートも美しい。楽章間のつり合いの良さ、色彩的なオーケストレーションの味の良さも逸品であり文句のつけ所なしだ。

第3楽章スケルツォもallegroであるが、いきなり決然とした強い主張のある主題が木管、第2ヴァイオリン、ヴィオラで提示される。何という小気味の良さ!

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これはフルートのパートだが、 ff からのコード進行がメンデルスゾーンの結婚行進曲とまったく同じであることにお気づきだろうか?飽きないのは細部にそれなりの隠し味が仕込まれているからであることがわかる。

このシンフォニーの最大の長所は巨視的に見たデッサン力とバランスの良さだろう。すべてに上品なセンスが感じられるのであって、ウィーン古典派の素材にパティシエが腕をふるった上質のフランス菓子を思わせる。

菓子と表現したいのは甘いという含意ではなくて、あまりクラシックを知らないご婦人が「好きな曲はビゼーのハ長調です」と言ったとしてちっとも不自然ではなく、ああなるほどと上品なイメージを自然に持つだろうということだ。「マーラーの6番です」ときたら僕は逃げるが。

 

レオポルド・ストコフスキー / ナショナル・フィルハーモニー管弦楽団

71oqpu7ak2l-_sl1500_指揮者95才、亡くなる直前の最後の録音とはとても思えぬ快演である。第1楽章からオーケストラはドイツ音楽のように重めの音を基調に揺るぎない骨格を形成するが木管はあでやかに花を添えフランスの華やぎも不足がない。第2楽章はロマン的だがやや速めで古典の枠組みを踏み外すことはない。スケルツォは僕にはほんの少し遅く感じる。しかしその不満も息もつかせぬテンポの終楽章で吹き飛んでしまうのである。これぞアレグロ・ヴィヴァーチェである!大指揮者のキャリアのエンディングを感じて称える気概があったのだろうか、オーケストラの技量と迫真の気迫もまさに素晴らしく、これを聴くと他の演奏は霞んでしまう。

 

ハイドン 交響曲第100番ト長調「軍隊」Hob. Ⅰ:100

マイナー6の和音は茶色である

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ソヒエフ指揮トゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団をきく

2015 FEB 21 22:22:24 pm by 東 賢太郎

N響できいて注目したトゥガン・ソヒエフを聴きたかった。プロは、

ドビュッシー : 牧神の午後への前奏曲

サン=サーンス : ヴァイオリン協奏曲 第3番 ロ短調 Op.61( Vn: ルノー・カプソン)

ムソルグスキー ( ラヴェル編曲 ) : 組曲 『 展覧会の絵 』

またまたサントリーホールであった。初めて聴いたオケだが、管楽器の音は昔のフランスの楽団とはずいぶん変わってユニバーサルなものに接近している。同じことは旧東独のオケやロシアにもいえるからフランスばかりではないが、僕らが若い頃にLPレコードで聴いたパリ音楽院のオケやドレスデン・シュターツ・カペッレの個性的な音色はもはや見事に消滅している。それを寂しいと思うのは古い人間だろうか。

失礼ながらパリはそうでもちょっと田舎のトゥールーズぐらいなら、という淡い期待は叶わなかった。だが、それはそれとして、牧神のフルート・ソロの柔らかい音はいきなり耳を惹きつけたから文句はない。まったりした質感が心地よいではないか。木管群はオーボエとピッコロ以外は全部女性だ。コンマスも美人の女性。こういう景色も悪くないが、やっぱり僕がヨーロッパに住んでいた頃はあんまり想定できないものだった。

特にうまいということもなく金管にミスもあったが、聞きすすむにつれオケ全体の特徴も冒頭のフルートと似て、弱音でふわっと立ち上がる時のまろやかな空気感が特徴だということがわかってくる。ソヒエフがそういう音造りをしていたのかもしれないが、カラヤンとベルリンフィルの音の立ち上がりを思い出した。

サン・サーンスは第2楽章がいいがトータルとしては僕は結局あまり夢中になれずに終わった曲だ。カプソンは音に芯がありながら柔らかく、音量も豊かで、ずっと聞いていたい魅力ある音色を持つ。アンコールはグルックの歌劇『オルフェオとエウリディーチェ』の精霊の踊りからクライスラーが抜粋した「メロディ」と呼ばれるもの。僕はこのオペラにモーツァルトの「魔笛」に通じるものをたくさん感じるが、この曲は第2幕でパミーナが歌うハ短調のアリア「「ああ、私にはわかる、消え失せてしまったことが」 (Ach, ich fühl’s)にそっくりだ(和声まで)。無伴奏で弾いたカプソンの音は和声を髣髴とさせる倍音豊かな美音で、これは聞きものだった。

展覧会の絵は一転して管楽器がカラフルな色彩を発散し、ああやっぱりフランスのオケだと思った。古城のサクソフォーンはとろけるように美しかったし、ソヒエフのメリハリある指揮はソロを中心としたアンサンブルを室内楽的にうまく目立たせながら弦は常にバランスよく鳴らし、リズムのばねは強靭な推進力を持つという独特な運動神経を感じるものでN響とのプロコフィエフと共通するもの。ただ音楽が対位法的でなく、彼の面白さが充分聴けたわけではない。

アンコールのオペラ『カルメン』から第3幕への間奏曲 、またまた絶美のフルートとハープの合奏はうれしい。この音楽、対旋律に回ってからのフルートの音選びなど、どうということなく聞き流してしまう部分なのだがいつ聴いても頭が下がる。そうそれしかありえないという音を辿っている。ビゼーの作曲の技は本当に凄い!この演奏は聞きものだった。最後はやはりカルメンの第1幕への前奏曲。これまた颯爽と速めのテンポで走る「弦の発音の良さ」に舌を巻く。うーん、これぞビゼー、これぞカルメンでなないか。聞き飽きた展覧会よりこっちを全部やって欲しかったかな。今度はソヒエフでカルメンを全曲聴いてみたくなってしまった。

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ドリーブ 歌劇 「ラクメ(Lakme)」

2014 OCT 16 11:11:57 am by 東 賢太郎

MI0003454807フランスオペラの名作とされるものは数は多くありませんがいくつか気を引くものがあります。フランスのソプラノに比較的好きな人が多いせいもあります。その一人がマディ・メスプレ(Mady Mesple、左)です。

この名コロラトゥーラのデビュー曲であり決定的な十八番であるのがレオ・ドリーブ(Leo  Delibes)の歌劇 「ラクメ」(Lakme)であります。僕はこの曲が大好きでひとには必ず聴きなさいと薦めるのですが、なかなか実演を聴く機会がありません。理由はおそらく単純で、ラクメ役に適当な歌手がそうはいないからでしょう。後で聴いていただく「鐘の歌」はいろいろなソプラノの録音を耳にする限り非常な難曲で、いったん音をはずしてしまうともう喜劇になってしまうリスクをはらんでいます。

Leo_Delibes

レオ・ドリーブ(1836-1891)はブラームス(33年生)、サンサーンス(同35)、ビゼー(同38)とほぼ同世代でフランス・バレエ音楽の父といわれます。それはコッペリア(Coppelia)、シルヴィア(Sylvia)というバレエのヒット作による命名でしょう。この2曲は非常に優れた音楽を含んでおりその命名に異存はありませんが、だからといってオペラを忘れても困るのです。

83年にパリのオペラ・コミックで初演されたラクメは、同じ劇場で75年に初演されたビゼーのカルメンの血を引いているように感じられてなりません。両者は、洗練された精妙な和声、カルタの歌の軽妙さ、旋律の強烈なエキゾティズムなど、ドイツにもイタリアにもないフランス音楽ならではの魅力を共有しています。僕にとって、ラクメは完全にカルメンのモードで聴ける名曲なのです。

ストーリーはイギリス統治下のインドでの英国人将校ジェラルドとヒンドゥー教高僧の娘ラクメの悲恋物語で、蝶々さんの元祖のようでもあり、女の死のお涙で終わるボエーム、トスカ、カルメンの系譜でもあるように思いますが、残念ながら陳腐であることは否定できません。この台本の出来が人気を損なっている面も否定できないでしょう。

この頃の欧州は63年のビゼーのオペラ「真珠とり」、88年のR・コルサコフのシェヘラザード、96年のサン・サーンスのピアノ協奏曲第5番「エジプト風」もそうですが、オリエント趣味が流行でありました。それも西洋人の目線で書かれたものですから多くの場合違和感はぬぐえませんが、それを割り引いてもこのラクメの音楽は魅力にあふれております。

第1幕の「花の二重唱」はCMにも使われ有名です。不思議な陶酔感をもたらす曲であり、ドリーブのただならぬメロディーメーカーの才能を感じます。ソプラノとメッツォのデュエット、美しいです。

そしてこのオペラのハイライトといえるのが第2幕の「鐘の歌」 (”Où va la jeune hindoue?”)です。フランスのリリック・コロラトゥーラの代表曲というとこれとオッフェンバックのホフマン物語のオランピアのアリア「生け垣に鳥たちが」となりましょう。

マディ・メスプレです。

メスプレの魅力、お分かりいただけたでしょうか。彼女の「鐘の歌」の落ち着きと安定感、音程の良さ、お見事です。僕が彼女を好きなのはその卓越した技術あってこそではありますが、その上で、彼女の声質に強く魅かれているのであります。理由はありませんが、彼女の地の声が好きなんだと思います。リリックで可愛いからかというとそうでもなく、例えばポップスでは声が低めのカレン・カーペンターも好きだしアニタ・ベーカーも好きです。

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この曲のおすすめCDとしてはメスプレのタイトルロール、アラン・ロンバール指揮パリ・オペラ・コミーク管弦楽団という圧倒的名演があります。ロンバールはあまり知られていませんがスマートでセンスの良い指揮をする人でオペラも非常にうまく、ストラスブール管弦楽団を率いたフランス物は僕は好きで集めています。このCDのオケも大変好ましい音がしています。

 

(こちらもどうぞ)

癒しの声、アニタ・ベーカー

 

 

 

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ビゼー「アルルの女」(Bizet: L’Arlésienne)

2013 OCT 20 17:17:51 pm by 東 賢太郎

音楽による地中海めぐり、フランス編の第2は有名なアルルの女です。

「アルルの女」(L’Arlésienne)はカルメンを書く前年にビゼー34歳で書いたドーデの「風車小屋便り」から取った戯曲への劇付随音楽です。後にオーケストラのための2つの組曲が編まれ、第1番はビゼー自身、第2番は友人のエルネスト・ギローによるもの。現在演奏されるのはほとんどこの組曲版の方です。アルルは下の地図の矢印の先、マルセイユの西、モンペリエの東に位置します。1983年、米国留学の夏休みにこの地図の西から東へドライブしましたがそれが初の南仏(プロヴァンス、コート・ダ・ジュール)体験で、アヴィニョン、アルル、エクサン・プロヴァンス、マルセイユと南下して地中海沿いをカンヌ、アンティーヴ、ニース、サン・ポール、モンテカルロ・・・と行きました。外国といえば米国しか知らなかった僕の眼にここの絶景、文化、気候、食事は衝撃であり、美意識の土台にどっしりと組込まれることとなり、地中海地方への変わらぬ愛着となってここに何度も足を運ぶこととなりました。

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「アルルの女」のあらすじはwikiからお借りしましょう。

「南フランス豪農の息子フレデリは、アルルの闘牛場で見かけた女性に心を奪われてしまった。フレデリにはヴィヴェットという許嫁がいるが、彼女の献身的な愛もフレデリを正気に戻すことはできない。日に日に衰えていく息子を見て、フレデリの母はアルルの女との結婚を許そうとする。それを伝え聞いたヴィヴェットがフレデリの幸せのためならと、身を退くことをフレデリの母に伝える。ヴィヴェットの真心を知ったフレデリは、アルルの女を忘れてヴィヴェットと結婚することを決意する。2人の結婚式の夜、牧童頭のミティフィオが現れて、今夜アルルの女と駆け落ちすることを伝える。物陰からそれを聞いたフレデリは嫉妬に狂い、祝いの踊りファランドールがにぎやかに踊られる中、機織り小屋の階上から身をおどらせて自ら命を絶つ。」

イタリアの作曲家フランチェスコ・チレアにも同名のオペラがあり、そこではアルルの女は牧童頭の元恋人の尻軽女とされていますが、いずれのリブレットでも彼女は名前が不明なのです(まったく関係ないのですが、つい僕はこっちも名前は最後まで不明だったウイリアム・アイリッシュの名作「幻の女」を思い出してしまいます)。

398-4efdd6f345c1d-642x396-3ともあれ男が嫉妬に狂って自殺するというのは「若きウエルテルの悩み」のフランス版本歌取りかもしれませんね。そういうえばカルメンも男の嫉妬が主題でしたが、嫉妬の結末はやっぱり決闘が王道なんじゃないでしょうか。どうも女を殺したり自殺したりというのは女々しいような気がするんですが、そういう迷える男に共感する美学が18-19世紀のヨーロッパにはあったんでしょうか。何といっても、あのナポレオン・ボナパルトがウエルテルを戦地で7回も読んだというのが驚きです。写真はアルルの円形闘技場です。

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ところでアルルにはフィンセント・ファン・ゴッホが住んでいましたね。 ゴッホはプロヴァンス地方の景色と色彩に魅かれてここに移り1888年2月~1889年5月の期間をゴーギャンと過ごしたのですが、徐々に精神を病んで例の「耳きり事件」を起こしたのです。右はアルルの「アングロワのはね橋」(1888年)です。ゴッホに色覚異常があったという説は真偽不明ですが、以前書きましたように、色弱cafe_terrace[1]である僕の眼に彼の絵はひときわ鮮烈な色彩の像を結ぶのはまぎれもない事実です。その強烈なインパクトはうまく表現できませんが、普通にミレーが好き、ルノワールが好きというのとはたぶん違っていて、昆虫の眼が蜜のある花を選び出すように僕の眼はゴッホの色彩をあらゆる絵画で最も美しいものとして感知するのです。僕にとってこんな画家は2人とおりません。右の「夜のカフェテラス」(1888年)は「アルルのフォラン広場」でこのカフェは現存します。おそらく僕の眼は彼の濃いブルーに強く反応していて、それと黄色系(と僕には見える) の強い対比の心地よさなど何時間見ていても飽きません。ゴッホの色彩だけは一瞥にして僕gogh24の脳髄の奥の奥に達し、心の中の暗い風景を根底から吹き飛ばしてしまうぐらいの破壊力をもっているのです。右の「収穫」(1888年)のような青黄の対比は僕がラヴェルやファリャやレスピーギの管弦楽法、和声に聴き取っているものに非常に近いと思います。ゴッホを知る前からたぶんこういう感覚が好きであり、ヨーロッパに11年半住んでますます好きになり、50年クラシック音楽を聴いてやはりますます好きになったというのが自gogh30分史だったのだと思います。そして僕がビゼーのカルメン、アルルの女の特に和声に聴いているものも、それに極めて近いものです。それはいつ聴いても新鮮であり、音楽の秘宝に満ちている。この「糸杉のある麦畑」(1889年)のように謎めいた均衡と流動があって、見る者の心もざわつくようなもの。静止している風景画ではない「時間価」を内包した4次元時空絵画なのです。音楽は時間が加わっていますが、ビゼーの音楽は同じメロディーに付けられた和声や対旋律が時々刻々と微妙な色彩変化を遂げていくという形で他の音楽にない「時間価」を内包しています。変奏ではなく同じメロディーのリピートですが、この糸杉の後ろの雲のように色調だけはどんどん変わる。オーケストレーションもそうです。あのジョージ・セルがビゼーの楽器法を高く評価しています。僕にはこの4次元時空性に耳をそばだてずにビゼーを聴くことも演奏することも評価することも考えられません。

ひとつその代表例をお示ししましょう。下の楽譜(ピアノ譜)をご覧ください。第2組曲の第4曲「ファランドール」で、冒頭のメロディーに付随する和声が刻々と変容を遂げ、ついにオレンジ色の部分の驚くべき色彩に行き着くのです。

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何に驚くかというと、ここはロ短調のドミナント(嬰へ長調)で来ていて13小節目でアルトのc#がc♮になる。つまりF#の曲にいきなり最も遠隔調であるC(ハ長調)を突き付けられるからです。ところが11-12小節目でバスがc#、h、a#、a♮と順次下降して13小節でdにドスンと落っこち、これがCを支えるので和音はそれを土台にDを経てあっという間に元へ戻る。ここは四分音符=130~140ぐらいの高速で通り過ぎるので、そんなすごい転調が行われていることに気づく人はまずいないでしょう。「驚くべき色彩」と書きましたが、せいぜい色彩の変化と思うぐらいです。ビゼーの天才はなめられません。

それでは、「アルルの女」を全曲お聴きください。両組曲は以下のように4つの曲から成り立っています。

< 第1組曲>  前奏曲、メヌエット、アダージェット、カリヨン

< 第2組曲>  パストラール、間奏曲、メヌエット、ファランドール

第2の方の「メヌエット」だけはギローがビゼーの他の作品(美しきパースの娘)転用したものですが。僕は中学時代にいっときこの8曲が毎日頭の中で鳴るほど夢中になりましたが、今聴きかえしてみると「アダージェット」の美しさは壮絶なものであります。マーラー5番のアダージョにまで血脈を感じます。

CDです。

 

イーゴリ・マルケヴィッチ /  コンセール・ラムルー管弦楽団

414GTJFN42L._SL500_AA300_マルケヴィッチ(1912-83)はバレエ・リュスのディアギレフに見いだされたロシア生まれの作曲家でストラヴィンスキー、プロコフィエフの同輩ということになり、バルトークは彼を「現代音楽では最も驚異的な人物」と評しています。ラムルーは決して一流のオケではありませんがマルケヴィッチが振ると黄金の輝きに変わる観があります。この演奏、録音は古いのですが昔のフランスオケの気品と色香が散りばめられて無類の説得力があり、例えばカルメン前奏曲は掃いて捨てるほどCDがありますがもうこれでなくてはというテンポ、間、音の張り、押し出しetcで文句なし。アルルの女も全部が名演です。うまいというよりも下衆な例えですが、カラオケにその曲の本物の歌手が現れて歌った感じで、ほかの人は霞んでしまう。オーセンティシティを感じされるオーラがあるとしか表現ができません。

 

アンドレ・クリュイタンス / パリ音楽院管弦楽団

61WeQm3cySL最も定評あるものでしょう。カルメンの組曲もスタンダードの名演といってよく、まずはこれを聴いておくのが王道。管楽器の独特の色香はラヴェルのコンチェルトでも絶対の魅力でしたが、ここでも前奏曲のクラリネット、バスーン、間奏曲のアルト・サクソフォーン、第2のメヌエットやのフルート、カリヨンの中間部の木管合奏、などふるいつきたくなるようなフランスの音色です。ただ残念なのは(このオケの弱点なのですが)弦がいまひとつ美しくなく、木管もピッチが時々怪しい。クリュイタンスという人は精緻な指揮をする人ではないということです。そういう減点はあるが、トータルに見れば魅力あるアルルの女といえるでしょう。

 

ビゼー 交響曲ハ長調

 

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ビゼー 歌劇「カルメン」(Bizet: Carmen)

2013 OCT 14 22:22:26 pm by 東 賢太郎

地中海音楽めぐり、スペイン編その3は泣く子も黙る名作「カルメン」でいきましょう。

georges-bizet-1838-1875-french-everett                             「カルメン」は1875年にフランス人のジョルジュ・ビゼーが書いたスペインを舞台とするオペラです。モーツァルト、ワーグナー、ヴェルディ、プッチーニ、ロッシーニは多くのヒット作を書いた強豪オペラ作曲家5人組です。そこにたった1本しかヒット作がなかったベートーベンを加えるのに異を唱えるクラシック音楽愛好家はいても、同じく1本だったビゼーの名を加えるのに反対の方は少ないのではないでしょうか。なぜならその1本はヒットでなく、逆転満塁サヨナラホームランなみに記憶に残るものだったからです。

ジョルジュ・ビゼー(Georges Bizet)は1838年にパリで生まれました。モーツァルトは「魔笛」を初演した3か月後に36歳で急逝しましたが、ビゼーも「カルメン」初演の3か月後に37歳で急逝しています。どちらの作品もあまりスタンダードでない「セリフ入り」(ジングシュピールとオペラ・コミック)であったのも数奇なものです。カルメンは主役がメゾ・ソプラノであり、王女や姫でなく女工という下層階級の女であるのも当時の型破りでした。ヴェリズモ・オペラの先駆と言っても過言ではないでしょう。ビゼーとモーツァルトを比べる人はあまり見かけませんが、その2曲の運命の符合はともかく、彼らは才能においても双璧であったと僕は信じております。

ビゼーの他の作品といえばオペラが「真珠とり」、それから劇付随音楽「アルルの女」と交響曲ハ長調の3曲が多くの愛好家の知る所でしょう。僕が2-3歳ごろ聴かされていた(はずの)親父のSPレコードに「真珠とりのタンゴ」なるものがありました。三つ子の記憶に今も残るほどの名旋律であって、それなのにどうして海女さんがタンゴを踊るんだろうと「真珠とり( Les Pêcheurs de perles)」のアリアを聴くまで思っておりました。しかしそのオペラもレアものの部類です。カルメン以外は現代ではどうしても軽めのレパートリーとなってしまい、カルメン一発屋というイメージになっているのです。

しかし、彼が17歳(高校2年ですね)で書いた交響曲ハ長調は、私見ではモーツァルトがその年齢で書いたどの曲より魅力的です。「高校生作曲オリンピック」があったとしてビゼーは僕の中では金メダリストかつ世界記録保持者であり、人類史上彼の金を脅かしたのはモーツァルトとメンデルスゾーンだけと思っております。根拠は以下の通り。

まず9歳でパリ音楽院に入学。ピアノ、オルガン、ソルフェージュ、フーガで一等賞を取っている。これは小学校3年生の少年がウルトラ飛び級でジュリアード音楽院に入り4科目で首席になったようなもの。19歳でローマ大賞を獲得。フランツ・リストが新作として書いて「これを弾けるのは私とハンス・フォン・ビューローしかいない」と豪語したピアノ曲を23歳のビゼーは一度聴いただけで演奏し、楽譜を渡されると完璧に演奏。リストに「私は間違っていた」と言わしめた。リスト自身がグリーグのピアノ協奏曲を初見で弾いた男。その彼の初見能力を上回っていたということになると、歴史上浮かぶ名はモーツァルトしかないでしょう。「カルメン」はドビッシー、サンサーンス、チャイコフスキーに絶賛され、ニーチェは20回も見たそうです。20回!わかりますね。一度憑りつかれるともう離れられない麻薬のような音楽です。

 

あらすじ

irpq6isUL7_carmen_couv                            第1幕

時は1820年頃、舞台はスペインのセヴィリャ。煙草工場の女工カルメンは喧嘩騒ぎを起こし牢に送られることになった。しかし護送を命じられた伍長ドン・ホセは、カルメンに誘惑されて彼女を逃がす。パスティアの酒場で落ち合おうといい残してカルメンは去る。

第2幕

1356881カルメンの色香に狂ったドン・ホセは、婚約者ミカエラを振り切ってカルメンと会うが、上司とのいさかいのためジプシーの密輸団に身を投じる。しかし、そのときすでにカルメンの心は闘牛士エスカミーリョに移っていた。

第3幕

ジプシー女たちがカードで占いをする。カルメンがやると不吉な暗示が出る。 密輸の見張りをするドン・ホセをミカエラが説得に来る。やってきた闘牛士エスカミーリとドン・ホセが決闘になる。カルメンの心を繋ぎとめようとすCarmen-Roberto-Alagna-and-Elina-Garanca-photo-by-Ken-Howard-4るドン・ホセだが、ミカエラから母の危篤を聞きカルメンに心を残しつつ密輸団を去る。

第4幕

闘牛場の前にエスカミーリョとその恋人になっているカルメンが現れる。エスカミーリョが闘牛場に入った後、1人でいるカルメンの前にドン・ホセが現れ、復縁を迫る。復縁しなければ殺すと脅すドン・ホセに対して、カルメンはそれならば殺すがいいと言い放ち、逆上したドン・ホセがカルメンを刺し殺す。

 

 

まずは前奏曲です。これを知らない人は少ないのではないでしょうか。

次にエスカミーリオの「闘牛士の歌」。これも人類史に残る名曲中の名曲であります。

エスカミーリオ役はカルメンが惚れるぐらいの男でなくてはいけません。この映像はいい感じです。そしていよいよカルメンの「ハバネラ」。真打ちマリア・カラスです。

この人、そのままカルメンであってもいい感じですね。そしてアンサンブルを一つ。第3幕の「カルタの3重唱」(カルメン、メルセデス、フラスキータ)です。

女性のトリオというと魔笛の3人の侍女を思い出します。こうして名場面をご紹介していると結局は全曲になってしまうぐらいこのオペラはすばらしい。もうひとつだけ、僕が大好きな場面をあげさせていただきましょう。

「お母さんのいる故郷へ一緒に帰りましょう」と必死にドン・ホセを説得する純情なミカエラは、メリメの原作には出てきません。原作はあまりに血なまぐさく、カルメンを含めたワルたちが凄惨にワルであり、劇場にそぐわないということで改作したそうです。そうしなければ第1幕、僕が大好きな「手紙のデュエット」(ミカエラ、ドン・ホセ)はなかった。僕はカルメンにあまり関心はないがミカエラは大好きなのです。ビゼーがこの役に書いた音楽の素晴らしいこと!お聴きください。

高松宮殿下記念 世界文化賞の音楽部門受賞で来日したプラシド・ドミンゴはもうすっかりお爺さんだったが、このドン・ホセは全盛期の姿で凛々しい。しかし、ブキャナンのミカエラはかわいいですね。僕だったら迷うことなく故郷に帰ってますが・・・。

この曲は初めの音符から最後の音符まで、奇跡の連続です。ビゼーの天才の宝石箱からこぼれ出た音符についてどんなに言葉を尽くしてもむなしいものがある。ひとたびあの前奏曲が始まってしまえば、アリアを立ち止まって味わうどころか次々に眼前をよぎる絶美妖艶を極める音楽の奔流に飲みこまれるしかなく、はっと気がつくとオペラは終わっている。そんな曲です。

 

ジョルジュ・プレートル / パリ・オペラ座管弦楽団      カルメン:マリア・カラス

51wGOUS1fuL._SL500_AA300_ドン・ホセ:ニコライ・ゲッダ
ミカエラ:アンドレア・ギオー
エスカミーリョ:ロベール・マサール
フラスキータ:ナディーヌ・ソートロー
メルセデス:ジャーヌ・ベルビエ
ダンカイロ:ジャン=ポール・ヴォーケラン
レメンダード:ジャック・プリュヴォス/モーリス・メヴスキ
モラレス:クロード・カル
スニガ:ジャック・マル
ルネ・デュクロ合唱団(コーラス・マスター:ジャン・ラフォルジュ)
ジャン・ぺノー児童合唱団

僕にとってのカルメンは実演ではアグネス・バルツァ、録音ではこのマリア・カラスです。カラスはこれを舞台で一度も歌っていません。フランコ・ゼッフィレッリ監督の映画「永遠のマリア・カラス」はフィクションですが、それをカルメンに設定したのはわかる気がしま5337033_e4e16355eb_mす。それほどこの役はカラスに合っており、このCDを聴くにつけなぜ歌わなかったのか不思議です。彼女の声質からしてメゾのこれは物足りなかったのでしょうか。もうひとつこのCDの魅力は、フランス人ソプラノであるアンドレア・ギオー(右・写真)のミカエラです。決して有名な歌手ではなく録音も多くないのですが、僕は彼女の声質が大好きです。それがこれまた大好きなミカエラにぴったりでありたまりません。ニコライ・ゲッタの人のよさそうなドン・ホセもいいですね。ロベール・マサールのエスカミーリョはやや軽い。いかにも性悪そうで存在感が抜群のカラスのカルメンが惚れこむほどの男には聞こえないですね。第3幕「カルタの三重唱」で不吉な運命を知ったカラスが歌う暗い情念は歌手というより役者の迫力です。こんなカルメンは聴いたことがない。にもかかわらず他の歌手はみんな軽めの声というのは対照的であり、この録音はオペラ「カルメン」を聴かせるよりマリア・カラスを浮き彫りにする意図があったと思わざるを得ません。全曲です。

 

もうひとつ挙げておきましょう。

 

ヘルベルト・フォン・カラヤン / ウィーン交響楽団

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カルメン:ジュリエッタ・シミオナート
ドン・ホセ:ニコライ・ゲッダ
エスカミーリオ:ミシェル・ルー
ミカエラ:ヒルデ・ギューデン
フラスキータ:グラツィエッラ・シュティ
他                     ウィーン国立歌劇場合唱団

(1954年10月8日、ウィーン、ムジーク・フェラインでのライブ)

 

カラヤンはRCA(63年、ウィーン・フィル)とDG(82年、ベルリン・フィル)の2種のスタジオ録音を残していますが、何といってもこのライブが最高です。カラスを聴いてしまうとシミオナートのカルメンは奔放、蓮っ葉という感じが薄く聴こえますが、こういう色気のほうがまともでしょうか。ゲッタはここでも健闘しています。ギューデンのミカエラはまあまあというところ。エスカミーリオのルーはちょっとスマートなフランス男という感じもするが音楽的には聴かせます。この演奏の白眉は歌手よりもカラヤンの指揮でしょう。脂の乗り切った46歳。若々しいテンポでぐいぐいとオーケストラをドライブし、歌手も含めた大きな一つのアンサンブルとしてまとめ上げる手腕は素晴らしいの一言です。それはトスカニーニのオペラ指揮にしか感じられないほどの求心力で、カラヤンがそのスタイルを目指していた頃の傑作といえるでしょう。オケも非常に気合が入っており、カラヤンとは信じられないアッチェレランドがかかったりしますが鋭敏に反応しています。録音はモノラルですが良好で、オーケストラピットがのぞけるぐらい舞台に近い席で聴いているようなライブ感にあふれています。カルメンが好きな方には一聴をお薦めいたします。

 

ビゼー「アルルの女」(Bizet: L’Arlésienne)

 

 

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