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ショスタコーヴィチ 交響曲第11番ト短調「1905年」作品103

2015 FEB 17 1:01:23 am by 東 賢太郎

250px-Dmitri1ヒットラーにしてもスターリンにしても国威発揚に音楽を使った。ムッソリーニにそういう話はないのはオペラでは戦闘モードが萎えてしまうからか。その点、ドイツ、ロシアの音楽はその適性があったのだろう。

スターリンはショスタコーヴィチ(1906-75)にベートーベンのような交響曲第9番を期待していた。1945年、おりしも第2次大戦は有利な戦局であり、その「第9」は5月の戦争終結記念式典に演奏されるかのタイミングで作曲が進み政府の期待も盛り上がった。しかしなぜか完成は遅れて8月となり、さらに困ったことに、壮大な交響曲ではなく軽妙洒脱な軽いタッチの曲だったのである。

肩すかしを食らい、自身を揶揄されたと解したスターリンは激怒し、ジダーノフ批判(中央委員会による前衛芸術の検閲統制)によってショスタコーヴィチは窮地に追いやられたとどこにも書いてある。窮地?そんな甘いものじゃない。ボスの怒りがバックにあるのだからジダーノフは何の言いがかりをつけてでも簡単に彼を殺すことができたということである。

僕がショスタコーヴィチの音楽の論評にいつも違和感を覚えるのはこの殺される恐怖にフォーカスの甘いものばかりだからだ。音楽をやったり愛したり研究したりする人々が権力闘争に疎いのかどうか僕は知らないが、会社の昇進、ポスト争い程度の話であれ大組織の中は血みどろの戦いなのである。他人に生殺与奪権を握られると怖い。まして生命の危険となれば、ソクラテスのような人間でもない限り泰然とできるほうがよほど不思議である。ピアノばかり弾いて育った彼がそんな生き地獄に耐性を持ち合わせていたとはとても思い難い。

フルシチョフのスターリン批判にこういう記述がある。

「1934年の第17回党大会で選出された中央委員・同候補139名のうち98名が処刑された。党大会の代議員全体1,966名のうち1,108名が同様の運命をたどった。彼らに科せられた反革命の罪状は、その大半が濡れ衣であった」

スターリンに「NO」を言うことは、すなわち「死」を意味したのである。34年にこれを目の当たりにした彼が翌年書いたのが問題作となった交響曲第4番であり、その初演は差し止めとなって2年後の37年に書かれたのがあの第5番なのである。濡れ衣であろうが何であろうが血の雨は簡単に降ったという彼の恐怖と正面から向き合わずに5番をどうのこうのと論評しても仕方ない。

「知られざるロシア・アバンギャルドの遺産」100年前を振り返る

ここに書いた先輩世代の非業の画家たちに比べ、同世代のムラヴィンスキー(1903-88)や息子世代のロストロポーヴィチ(1927-2007)らは世渡りをうまくやってポスト・スターリン世代の英雄になった。しかし彼ら演奏家は他人の作品を音にして聴く者を喜ばすエンターテイナーである。自分を喜ばそうとする者を普通は処刑などしない。しかしその作品のほう、つまり真実のステートメントを発しないと芸術家として生きていけない、畢竟、自分自身をさらけ出す運命にある画家や作曲家の「恐怖」は度合いが違ったと考える方が自然な視点と思う。

そのふたりだけでなく多くの演奏家たちが後世になって「ショスタコーヴィチの真実」を語ったり弁護したり主張したりしている。彼らの演奏がスタンダードとされ、その言葉が現代の論評のテキストの一角をになっている。しかし命をかけて自画像を公表している本人からすれば、安全な所にいた人たちがエールを送ってくれたところでスタンドの応援団みたいなものだったろう。外野席か内野席かの違いぐらいはあったかもしれないが、グラウンドで戦っている人にとっては同じことだ。同時代人のムラヴィンスキーは問題含みの4、9、13、14番だけは巧みに逃げて振らなかった。非難するのではない、彼だって殺されないために必死だったということだ。

だからそれから8年間もショスタコーヴィチは交響曲を書かなかった。そして1953年、ついにスターリンが死んだ。その年に満を持して発表した交響曲第10番はそれなりの大交響曲となり自信作でもあった。ところがこれまた賛否両論を巻き起こしてしまうのである。作曲中に宿敵は死んだ。自身の名を暗号化した「DSCH音形」が前半は現れず後半になって頻出する。それが隠蔽された彼なりの喜びであったかどうかはともかく、それがばれてそう解釈されてしまったかもしれない。ポスト・スターリン政権はそれを口実に自分を殺すかもしれない。

暗号化。これはシューマンが愛妻の名を織り込んだのとやっている行為は同じだが、そんなメルヘン世界とはほど遠い。メルヘンに見えるものがあったとすれば推理小説作家が犯人を見抜かれないようにちりばめるひっかけ(ミスディレクション)の類だと解釈してそう人が悪いと思われる道理もないだろう。なにせ本音を見抜かれたら待っているのは「粛清」なのである

しかし必ず後世が本音を発見してくれる。その時は自分も安全な所、つまりお墓のなかだ。ヴォルコフの証言にある「交響曲は私の墓碑銘である」という彼の言葉なるものは交響曲はダイイング・メッセージだよということであって、ヴォルコフの嘘であったとしてもそれなりに迫真性を感ずるものだ。

彼がその10番騒動の4年後に書いた第11番ト短調「1905年」作品103はソビエト連邦の最高栄誉である「レーニン賞」を与えられているのは注目されるべき事実である。その4年後にやはりロシア革命を題材として作曲された第12番はなんと「レーニン交響曲」とタイトルを付す計画であった。これは56年になされたニキータ・フルシチョフによる前掲のスターリン批判に呼応したものであることは疑いないだろう。そこで西欧は体制プロパガンダに堕落したとして作曲家の評価を下げてしまうのである。

第11番はロシアの共産主義運動の発端をなし、1917年のロシア革命のルーツともなった1905年の血の日曜日事件を描いた曲である。首都サンクトペテルブルグで行われた労働者によるロマノフ朝皇宮への平和的な請願行進に対して政府軍が発砲、数千人といわれる死傷者を出した惨事である。

余談だがこの事件は1月9日で、同年9月5日にロシアは日本との戦争に負ける。そして1917年のロシア革命でロマノフ朝は崩壊、第1次大戦に参戦はしたがドイツにこっぴどくやられる。それはそうだ、このとおり本丸がそれどころではなかったのだ。これはやはり日本に負けた清国が1911年に辛亥革命で崩壊したのとほぼ軌を一にする。日本は2つの共産主義大国を生む誘因となったといえる。

さらに余談になるが、先週ベラルーシでウクライナ停戦調停に出てきたロシア、ドイツ、フランスこそ、日清戦争の戦後処理で遼東半島の日本への割譲にいちゃもんをつけてきた(三国干渉)連中なのである。我々にはウクライナは遠いが、彼らにとって極東は近いのだ。我々はロシア史をもっと知る必要があるだろう。

交響曲第11番に戻る。この曲は無抵抗のまま殺された労働者への鎮魂とも、革命讃美の政権プロパガンダともいわれる。正反対の解釈であり両立はしない。ショスタコーヴィチの政治的立ち位置は当然ながら隠蔽されているのでどっちかという判断は誰もできない。

この曲のアトモスフェアを喚起する力は非常に大きい。第1楽章がハープと弦でそっと始まった刹那、冬のペテルブルク王宮前が忽然と眼前に現れる。こんなめざましい効果のある開始はなかなか思い当たらない。マーラーの1番の高いa音がピンと張った空気を漂わせるのが近いがあちらは清澄な森だ。こちらは血の匂いがする。

バルトークのピアノ協奏曲第2番第2楽章を思わせる静寂な神秘感があたりを覆うが、それは無慈悲で非人間的なもののメルクマールとして背景を支配しており、そこに低音のフルート重奏による聖歌のような虚ろな長調の旋律がぽっかり浮き出る。ふと人間的なものに出会った効果は絶大だが、深い悲しみをたたえているのが心に刺さる。

ミュートしたトランペット・ソロが遠くから響く。これは軍楽隊の合図のトランペットを即座に想起するが、吹いているメロディーは高音で半音階で徘徊する。これに僕はいつもチャイコフスキー4番の第1楽章で第1主題の現れる直前の所を思い出す。やがてやって来る凄惨な運命を暗示しているのも4番と似る。

第2楽章には1951年作曲の自作、無伴奏混声合唱曲「革命詩人による10の詩」作品88の第6曲「1月9日」が使われる。これだ。

この女声にまたカール・オルフの「カルミナ・ブラーナ」(1936年)の一節が聞こえてしまう。とんでもない、あれは「生」の、はたまた「性」の音楽だろう?でも聞こえるのだ。もっといえば第3楽章の最後に連打される最後の審判のようなトランペットとティンパニ、あれはホルストの惑星の「火星」(1916年)そのものだ。どちらもこの11番(1957年)よりはずっと前の曲だ。

この曲の第2楽章ほど群衆を銃撃で殺戮するシーンをリアルに描いた音楽はないだろう。銃撃が止んで急にあたりを支配する静寂はまことに残虐であり、映画音楽にすれば客を圧倒するリアリティに満ちている。セミョン・ビシュコフがBPOを振った素晴らしい演奏でこの楽章(15分23秒~)の銃撃部分をお聴きいただきたい。

あまりに生々しくて放送禁止になるかというレベルであり、撃っている方が「官軍」かというとロマノフ朝の軍なのだから微妙である。軍を含む政治体制をボルシェビキが乗っ取ったと見れば官軍ではある。レーニン賞が出ているのだから政権はそう解釈したに違いない。しかしこの残忍な楽章をはさみこんでいる静謐な第1,3楽章は、革命歌の引用というミスディレクションの迷彩の中で深い祈りの響きをたたえている。

私見では第4楽章は存在そのものが迷彩であり、この交響曲は第4番で犯したミスの補修であった第5番のレプリースであろう。

ロシア革命を賛美する。それはレーニンの肯定であり、レーニンが切ろうとして果たせなかったスターリンの否定であり、尊い革命への契機を提供した労働者たちへの鎮魂にもなるのである。そして何より、それが彼の身の安全を永年保証する護符になったことは言うまでもない。

ところがまだ裏がある。第4楽章の冒頭主題は革命歌「圧政者らよ、激怒せよ」である。交響曲の主題でこれほど無教養で野蛮であり、よって共産党独裁政権のテーマソングとして好適なものは類例がない。あえて同格をひとつあげよといわれれば5番終楽章の主題ということに相成ろう。それを意図して使っているショスタコーヴィチの計略を感じる。政府を嘲弄し、「体制翼賛になりすます偽計」の裏に入れ子構造の偽計を凝らしている。この手口は5番と同じだ。

では果たして、真実が体制翼賛でないなら「無抵抗のまま殺された労働者への鎮魂」なのだろうか。僕はどうもそんな単純なものではないような気がしてならない。

この曲に一貫して感じる作曲家の視線は「血の日曜日事件」を過ぎ去った歴史として眺めるものだ。血のにおいの残る広場に立って慟哭するという姿とは遠い。これを映画音楽と見下す人がいるが、それは言い過ぎだが大きく的外れではない。あえていうなら「ローマ三部作」でのレスピーギの視線が近いだろう。

第4楽章はひとしきりの銃撃と大暴れが続くと、粗暴なドラの一発で静かになりイングリッシュホルンが切々と慕情を歌う。この楽章のチープな戦場劇画風の雰囲気は三部作のうちで最も品格を欠く「ローマの祭り」そのものだ。彼は半世紀前の虐殺事件をコロッセウムでライオンと死闘した剣闘士を見るような目で眺めている。

この11番と、同じく表面は体制翼賛にきこえる12番は、10番騒動の始末と同時に本当に書きたかった13番「バビヤール」へつなぐための2本立ての間奏曲でもあった。13番は今話題のウクライナにいたユダヤ人をナチスが虐殺した事件を主題にし、ソ連にもある反ユダヤ主義を浮き彫りにする問題作である。12番の翌年に書かれたが、彼が2年連続で交響曲を発表したことはこれを除いて一度もない。そして案の定、13番は初演にかけてまたまた大問題を発生させるのである。

ちなみにやはり切れ者であったバルトークが管弦楽のための協奏曲で7番の第1楽章主題をパロディーにしている。対抗心とされ僕もそう信じていたが、米国に亡命して自由の身にはなったがアメリカンに囲まれ決して幸せではなかったバルトークは、7番の愚鈍な主題をあそこに挿入したショスタコーヴィチに何らかの共感もあったかもしれないと最近は思うようになっている。交響曲第13番第2楽章にはバルトークの「2台のピアノと打楽器のためのソナタ」第3楽章の旋律が引用返しされている。

ではそういう窮地にいなければ彼は何を書いたんだろう?

思い出すのは佐村河内のゴーストライター 新垣隆氏の言葉だ。調性音楽なんて書いたら業界から締め出されてもう生きていけません、だから実をいうと楽しんで書きましたと彼は言った。ショスタコーヴィチは「体制翼賛派である自分」という別人のゴーストライターとして、自分の墓碑銘である交響曲を最後はそれなりに楽しんで書いたのではないだろうか?死ぬまで嘘をばれずにつけば、あなたはそういう人として埋葬されるのだ。

ああいうことでもなければ書かなかった調性のある交響曲を作曲した新垣隆氏。同じくそういうことでもなければ書かれなかったショスタコーヴィチの5番や11番。彼が最後に書いた15番などは他人の作品の引用とパロディーだらけで、いまもってどういう曲なのかつかみかねる。その謎の仮面こそ彼が終生仕方なくつきとおした嘘の象徴ではないか。墓碑銘としてこんなに格好のものはないだろう?彼にそう問いかけられているような気がする。

録音については僕は10種類ぐらいしか知らない。この作曲家に関しては楽譜までひもといて探究してみようという微細な関心はあまりおきないからだ。そう思ってネットを見たら大勢のショスタコファンのかたが多くの演奏を語り、熱いメッセージを書き込んでおられる。日本のクラシックの聴き手は懐が深い。僕はコンドラシン、ハイティンク、バルシャイを好んでいるが色々な意見と聴き方がある。ぜひそちらをご覧いただきたい。

 

キリル・コンドラシン/ モスクワ・フィルハーモニー管弦楽団

すべてを見抜いているような深みのある第1,3楽章、震撼するほど鮮烈な虐殺シーンを描ききる第2楽章、一度聴いたら忘れない演奏でコンドラシン(1914-81)は墓碑銘を読み取っていたのだろうと思う。「プラウダ」批判で発表できなかった交響曲第4番を25年後に、そして2大問題作のもうひとつ13番を62年に初演し(ムラヴィンスキーは逃げた)、結局西側に亡命したがその3年後にアムステルダムで客死した。すぐにKGBに暗殺されたのではないかと噂がたった。そんな曲を書いた方が殺されなかったのが不思議である。

 

(こちらへどうぞ)

ショスタコーヴィチ 交響曲第4番 ハ短調 作品43(読響・カスプシクの名演を聴く)

ショスタコーヴィチ 交響曲第5番ニ短調 作品47

 

 

 

 

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