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クラシック徒然草-モーツァルトを聴くということ-

2015 MAY 19 1:01:24 am by 東 賢太郎

良いモーツァルトいうのは難しい。世にこれだけ演奏があるのに心して耳を傾けようとなるものはそうあるわけではない。僕の場合「モーツァルト耳」があって、ぱっと聞いてそれにひっかかるかどうかだけが判断基準で、そうでなければ無用になる。

モーツァルト耳にちっとも理屈はないから文章にならない。40余年聴き続けているうちに勝手にできたもので、ハイドンやベートーベンがうまい人のモーツァルトがさっぱりというのは日常茶飯事。どうもモーツァルトは他とレシピが違うらしい。

CD20~30枚買って1つ当たればラッキーという程度で不経済だ。モーツァルトはだめという大家、大御所がいると思えば無名の学生さんが当たりだったりもするから予断を許さない。いわばハマりの役者でないとつとまらないハムレットみたいなところがある。

役者さんの評価はシェークスピアがハムレットをどうしたかったか、まず演出家のその解釈があって、そういう演技をしたかどうかで決まるだろう。同様にモーツァルトの音楽は彼がどうやりたかったかを演奏者が感じ取れるかがすべてと思う。そのことは、彼が「シンガーソングライター」であったピアノ曲では特に意味を持つだろう。

例えば、ピアノソナタ第12番K.332の第2楽章のピアノパートはベーシックなもの(A)と装飾的なもの(B)の二通りがある。これは示唆に富む事例だ。Aのように書いておくがBのように弾くのもいいよと言っている。誰がって?ほかならぬモーツァルトがだ。

この事実は何人をもってしても次の仮説を否定することを困難にするだろう。つまり、彼のピアノ譜というのは大胆にいってしまえばコード進行や大枠の対位法を記した備忘録か見取り図のようなもので、その上でインプロヴァイズ(即興演奏)することを暗黙の了解としたものだということを。

これをハムレットに当てはめよう。彼は「筋書きは変えないように、でもセリフの言い回しはお好きなように」といっているのだ。これを彼は実践している。オペラ魔笛の舞台でパパゲーノ役だったシカネーダーの歌をチェンバロで伴奏しながらいたずらを仕掛けているのだ。一言一句台本のまま正確にやれなんて程遠い、お遊び精神ありありなのだ。

つまり楽譜情報を正確に美しく音にリアライズしましたっていうのはモーツァルトではない。遊び盛りのいたずら猫と木彫りの猫の置物ぐらい違う。

僕が「モーツァルト耳」と書いたのは、本物の猫の方に反応する耳ということだ。これを言葉で表すとなると、致し方なく「モーツァルトらしいかどうか」ということになってしまう。なんだそれは?それを知りたいのにそれらしいかどうかと言われてもわからん、ということになるだろう。

それはこういうことだ。「モーツアルトらしい旋律やパッセージ」というものがある。これはたくさん聴けば誰でもわかるが偽作を聴くと特によくわかる。そこにはこれは彼じゃない、彼はこうは書かないぞとピンとくる部分があるからだ。

「オーボエ、クラリネット、ホルン、ファゴットと管弦楽のための協奏交響曲」という有名な偽作がある(k.297b)。この第3楽章は僕にとって明らかに他人のものという旋律で開始する。これが偽作に聞こえたらかなりの「モーツァルト耳」をお持ちだ。

それを裏返しに見ればいい。「モーツアルトらしい旋律やパッセージ」を感知できる感性こそがモーツアルトらしい演奏をする能力だ。問題はこれが勉強やコーチングで身につくかどうかだ。音大の先生には申し訳ないが、僕はそれに疑問を持っている。

簡単だ。「モーツァルトらしい旋律」をコンピューターで作れるか?そのぐらいは626曲のパターン類型化でできるかもしれない。しかしではピアノ協奏曲第28番が作れるか?それができる時代は来るかもしれないが、それはきっと人工知能が人間を支配するようなSF小説の描く時代で、僕らはもう生きてないだろう。

コンピューター言語に書けない。ということは人間の説明言語にもならない。どうやってモーツァルトらしい弾き方を教えるんだろう?長嶋のバッティング指導みたいにバーンと行く感じみたな擬態語になるのが関の山だろう。

モーツァルト弾きなるピアニストは「習った」のではなく、「自分でできた」のだと僕は思う。それはある種のユーモアを笑う人と笑わない人がいるようなものだ。「ねっ、このジョーク、こうこう、こういう理由で面白いんだよ」と他人が分からせれば腹から笑うようになるというものではないように。

ということで理屈は歯が立たないので説明はお手上げ。いきなりオカルトっぽくなるが「人間は血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の4つでできている」(ヒポクラテス)から、その4元素の比率が似た人は相性が合うとでも逃げるしかない。モーツァルトと友達になれそうか?そんな感じだ。

もちろん男、女は問わないが、主観で言わせていただくと女性の方が「入ってしまっている」ケースが多いように思うのはなぜか。特にソナタがそうだ。内田光子、リリー・クラウス、クララ・ハスキル、イングリット・ヘブラー、マリア・ジョアオ・ピリスなど、僕が好きなのは女性が多い。だめな人が少ない。しかし向いていそうなアルゲリッチが手を出さない。う~ん、やっぱり四大元素のせいなのか。

男性軍はエッシェンバッハ、バレンボイム、シフなど、グルダでさえも、どうも入りきれてない何かを感じる。頭で考えた感じとでもいおうか、なにか楽しめない。ホロヴィッツやリヒテルは、申し訳ないが違うと思う。

この内田光子のソナタk.309を聴いていただきたい。このリズムのはずみの愉悦感。タッチが嬉しがっていて、本能的にモーツァルトの領域に踏み入っている。解釈、テクニック云々の話ではない、モーツァルトをつき動かしてこの曲を書かせた喜びが内田さんの喜びに響いて同化している。彼が乗りうつってしまったみたいだ。

これはリリー・クラウスのピアノ協奏曲第12番。これもそう。入ってしまっている。モーツァルトのピアノはこうだったんだろうと感じる。バックのピエール・モントゥーもクラウスに引っ張られて同じりズムのはじけ方で追っかけている。それほど磁力のあるピアノだ。12番についてはこちらをどうぞ。モーツァルト ピアノ協奏曲第12番イ長調 K.414

ディヌ・リパッティの最後のリサイタル。ピアノソナタ第8番イ短調k.310は遊んでないモーツァルトだ。それがリパッティのテンペラメントに素晴らしく合っているかけがえのない演奏だが、それはモーツァルトという人にはそういう側面があったということを示すようにも思う。

 

 

 

 

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