クラシック徒然草-三遊亭金馬とモーツァルト-
2015 MAY 20 0:00:24 am by 東 賢太郎
モーツァルトらしく弾くというのは「入ってしまえる」かどうか、それには四大元素が彼に合うかどうか、彼のユーモアを笑えるかどうかであって訓練して笑えるようになるものではないと書いた。
世に美しいモーツァルト演奏はいくらでもある。彼らは演奏のプロだから美しく弾けるのはもちろんだ。でもほとんどはモーツァルト耳にひっかからず素通りしてしまう。ぴんと来ないというか、面白くないのだ。
卑俗に例えれば、お笑い芸人がほかのお笑い芸人の物まねをしているのだが、ギャグのネタを笑えていないので形態模写だけになっている感じだ。似ているがつまらない。それをパクって彼の出し物にしても客が入らないという体のものだ。
芸というものが演じる人の持ち味とピタリと合致した興味深い例が落語にある。三代目三遊亭金馬の「居酒屋」だ。自身が酔人になって暴れた人にあらずしてこの縄のれんの酔客の味が出ようか。
酔客も小僧も声色に実に細かい神経が通って、要所で客席で聞きとれる発音、テンポに落とすなど、実は知的で心憎いコントロールが効いている。至芸と思う。
ショパンやドビッシーは素人が弾いてもショパンやドビッシーらしくなるという点で、酔っ払って暴れた経験がなくても小僧をいびれる。モーツァルトなる演目は「居酒屋」と似たものがあって、弾く者の本性にそれを演じる適性の固い芯がないとらしく響かない。
それが何故かというのも、コンピューター解析の及ばない人間精神の奥深いところでの化学反応だろう。 異質なのはモーツァルトの方であって、ほとんどの音楽は楽譜をちゃんと弾けばそれらしくなるし、ショパン、ドビッシーはその代表選手にすぎない。
僕が若い時の最高のモーツァルト体験のひとつはフィラデルフィアO.の定期演奏会に登場したラドゥ・ルプーの第17番の協奏曲だった。あのピアノを最前列の真近で聴いて、ああモーツァルトはこういう響きなんだと思った。
それまで幾枚かのレコードで知っていたピアノと似てない。そのポエティックな音の調合がどうやってできたのか、以来知ることはなかったが、このyoutubeを見て気がついたことがある。ルプーの19番である。
彼のフレージングは音価が均等でないのだ。テンポは変わらない。しかし楽譜通りの機械的な音符をなぞった部分はただのひとつもない。
例えば第1楽章でいよいよピアノの登場するところ。ターンターンタターンターンというシンプルなリズムの下線を引いたタタの音価が短くなっているのにお気づきだろうか。このフレージングがオーケストラにも伝播して独特の躍動を音楽に与える隠し味となっている。
音楽は直線的にサラサラと流れるのでなく、川の流れが水底の浅いところで遅くなるようにフレーズの自然な節目ごとに一塊のものとしてその都度に生命が吹き込まれる。音価のズレは全曲にわたって、そういう部分で現れるのだ。当時29才の若僧だった僕にそれは知る由もないが、これがあれっと思ったものの正体だったのではないかと思う。
ルプーの23番の第2楽章をじっくりお聴きいただきたい。音符の音価を守って弾くということがいかに非音楽的な行為かお分かりになると思う。単純明快に書かれたモーツァルトの譜面から生命の息吹を読み取ることがいかに重要か、そしてそれこそがモーツァルトらしい音楽を生み出すということを体で感じとっていただきたい。
音価を崩すのが目的でないのは言うまでもない。ルプーは酔人としての経験から 、縄のれんの酔客を演じるにそういう「口調」がふさわしいとしてその芸を選び取ったわけだ。それは金馬が「居酒屋」という出し物の面白さをえぐり出すために選び取った芸と変わらない。モーツァルトらしさは楽譜に書かれているのではない、達人の芸が生み出すものである。
(こちらもどうぞ)
クラシック徒然草《クレンペラーとモーツァルトのオペラ》
Categories:______モーツァルト, クラシック音楽