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ダリウス・ミヨー 「男とその欲望」(L’homme et son désir)作品48

2015 NOV 13 1:01:21 am by 東 賢太郎

日本人は古来より月を見ています。暦は月齢だったしお月見をしたし。不思議なのは、江戸時代にいたるまで日本人は月を「何」だと思っていたかです。

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かぐや姫は月に帰るから作者は人が住める空の彼方の遠い場所という感覚はあったかもしれませんが、一般には月は毎日登ってくるもの、美しいもの、愛でるもの、詩的なもの(ポエム)として信仰や物語の対象ではあっても「物体」であると見たり考えたりした人はいなかったと思われます。

 

 

 

早くから月を物体と見た西洋とは受容のしかたが根本的に違います。

美しいもの⇒ポエム、という日本的な思考法(ステレオタイプな還元法)が西洋人に全くないわけではありませんが、彼らが五感で感知したものを認識し受容するプロセスというのは、

月はものである⇒もの⇒即物的な物体

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という回路がまずあって、地球と同じ球体と見立てて距離、大きさ、質量、軌道を計算し、なぜ落下してこないのかという謎を解きます。見かけの美醜はその回路とは別な経路で処理されて、ポエムになる場合もあるというものでしょう。僕が長年西洋に住み、西洋人とつきあったり著作物を読んだりして得た印象はそういうものです。

 

このことは音楽においても同様です。特にクラシック音楽を演奏、鑑賞する際に。それを僕はショパン演奏にいつも感じるのです。日本人ピアニストはショパン⇒ポエム、という回路で処理してないかという非常に深層心理的で根源的な問題です。

「雨だれ」「革命」「子犬」「別れ」「木枯らし」など、別に日本人が考えたわけではないがショパンがつけたわけでもない標題。月を見て「うさぎ」が頭に浮かんでくる思考回路にこうした標題が乗りやすいのは自明と思います。あの速いワルツを子犬を思い浮かべて弾くピアニストはいないでしょうが、潜在的に日本人の思考回路に潜む受容のくせというのは見えない所で演奏の骨格を決めてくるのではと僕は思っています。

あれは月を見て物体だとまず感じる西洋人が作った音楽なのです。ショパンに限らず作曲家がまず聴くのはピアノの即物的な音であって、それが物体としての月にあたります。それが聴き手にどう聞こえるか、美しいポエムとして受容されるかどうかということは彼にもはどうにもならない事後的、副次的なことで、まず物体として絶対の完成度があるかどうかこそ彼の関心事のはずです。

250px-Nagoyasyuちょっとややこしいですが、こういうのをsubstance(あるがままの物の実体、本質)と contingency(そこからの偶発的な派生事象)の関係と表現します。例えばニワトリは日本では「コケコッコー」と鳴きますが、アメリカでは「クック ア ドゥール ドゥ」、ドイツでは「キッキレキ」、フランスでは「コックェリコ」、インドでは「クックーローロー」です。近隣でも中国は「コーコーケー」など、韓国は「コッキョ クウクウ コーコ」だそうです。同じニワトリの声(substance)をきいてるのにcontingencyはこんなに違ってくるのです。

ショパンというニワトリがいざ鳴くぞという時にそれがコックェリコかキッキレキかは彼にとってはあずかり知らぬことで、ニワトリは*+@#%~~~としか鳴かないのです。

かように、21世紀の人がポエムを見出してくれたというのはショパンにとってはまったくの偶発事象でした。同時代人のシューマンが当時のドイツ人特有のロマン的、文学的コンテクストで自分を評価しているのを知って(それは非常に高評価でショパンにとって好意的なものであったにもかかわらず)、ショパンはそれを笑止であると唾棄していることからもそれが理解できます。彼に確固として「在った」のは、彼が鍵盤から選び取った音の組み合わせが即物的に彼を満足させたこと、それだけです。

僕がショパンを作曲家としては一目置くにしても演奏を聴くのが好きでない最大の理由は、contingencyを追っかけて(それしか見えてなくて、それがsubstanceだと思いこんでいて)、substanceが何だかわけのわからない演奏が横行しているからです。日本人のショパンの特徴はその一言に尽きます。

これをお聴き下さい。ダリウス・ミヨーの「男とその欲望」(L’homme et son désir, Op.48 )という作品で、知名度は大変に低いのですが大傑作であり僕は高く評価しているものです。ショパン⇒ポエムの方々はこの意味深なタイトルの音楽が何であり何を描こうとしているのか?と悩むことでしょう。 僕は初めてこれを聴いて音に衝撃を受けてしまい、題名など吹っ飛んでしまいました。

全ての演奏家の方に問いたいのですが、これがなぜ男とその欲望なのか?どうしてそれがこういう音になっているのか?一種の踏み絵のようなものかもしれません。

ストラヴィンスキーの「結婚」を想起させますが複調、ポリフォニーの重視など語法はまったく別物です。ミヨーはブラジル滞在経験があってそこでの印象を綴ったものとされますが、これが単なる風景画や絵日記でないことは明らかです。彼が綴ったものは即物的な音であり、トレードマークの複調の文法であり、断じてポエムではありません。音、語法が紡ぎ出すダイレクトな心象こそがこの曲のsubstanceであります。

そしてここからは僕の個人的領域に入ります。自分自身がリオデジャネイロで感じた心象風景にそのsubstanceが作用してある化学反応を起こし、僕だけの感興を生み出します。これがcontingencyです。いうまでもなくなんら普遍性のないプライベートなものであります。僕が演奏家としてそれを音にしたとしても、それはあまり人の心を打つものにはならないでしょう。赤の他人の記念写真やセックスを見たってそんなに面白いものでもないのです。

つまり、contingencyとは聴衆の占有物であって演奏家が依拠すべきよすがではありません。僕がショパンのバラードやマズルカを聴くのは、弾き手のパリやワルシャワで得た経験や知見や記念写真に関心を抱いたり真のショパン解釈をきかせてほしいからではありません。ショパンが書こうとピアノに向ったsubstanceを知りたいからです。そこに僕を感動させる根源があるのであり、それこそが普遍性、説得力のあるバラード、マズルカであることを、体験から知っているからです。そういう聴き手はそういう演奏を探しだし、吟味し、支持するのです。

演奏家がショパンにポエムを感じて何ら批判されるゆえんはないのですが、そのポエムがたまたまショパンも感じたものであって、したがって普遍性のある説得力を持つのだという蓋然性は、残念ながら甚だ低いものだろうというのが僕の持論です。外国人がどんなに感動と心を込めて弾いてみても、それはコケコッコーかもしれずクックリク~と聞こえているらしいポーランドの聴衆の心に響くかどうかは別な話なのです。韓国人、中国人がどうこの問題をクリアしてショパン・コンクールを制覇したのか、なぜ日本人にはできないのかはとても興味深いテーマであります。

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最後に余談ですが、この「男とその欲望」を書いたフランスの作曲家ダリウス・ミヨー(1892-1974)がバート・バカラックの先生なのです。非常に多様な様式を試みた多作家ですが、彼の和声感覚は独特で、複数の調性を並行させる複調による語法に真骨頂を見ます。交響曲第2番などこれに並ぶ傑作で彼の和声がオンリーワンである証明となっていますが、これも有名ではないのが不思議であります。

 

 

「雨にぬれても」のころ、まだ生きていたミヨーはそれを聴いてどう言ったんだろう?

「口笛で吹けるメロディを書いたからと言って、恥じる必要はまったくない」

「記憶に残るメロディをつくれる人間はめったにいない。そしてそれは本質的な才能なのだ」

若き生徒だったバカラックの演奏を聴いてそう言ったミヨーはその思いを新たにしたのではないでしょうか?

 

(こちらへどうぞ)

クラシック徒然草-ハヤシライス現象の日本-

ストラヴィンスキー バレエ・カンタータ 「結婚」

バート・バカラック「雨にぬれても」の魔力 

 

 

 

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