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男の脳と女の脳

2015 DEC 22 0:00:36 am by 東 賢太郎

男という動物には生来に分類癖があるのであって、全部の男にあるとは思わないが、女にはあまり見られないからやっぱり男の属性の一部なのではないかと考えてしまう。何かを集めてしまう癖は、収集家、コレクターなどとお品良く呼ばれることもあるが、要は収集狂、マニア、オタクに他ならない。

収集というのは、実はまず分類がないといけない。トンボの標本を作ろうというのにオニヤンマとギンヤンマのちがいを正確に把握できていないということは、全くあり得ないことなのである。どんなに小さな差異でも見のがさず、それも個体差ではなく最大公約数として種としてちがうのだということでAがBと異なるトンボだと「分類」する。収集とはその結果を、トンボの遺体を箱の中にピンで差して留める行為にすぎない。それが人間であればこのようなことになるわけだ。

ロンドンの自然史博物館(Natural History Museum)は、その収集という行為の国家的集大成である。大英博物館(The British Museum )は他国からの略奪物、戦利品の壮大な展示館だが、ここでも分類という男性的ノウハウが存分に発揮されている。漢方薬は数千年にわたる人体実験に基づいた植物の生理学的効能の分類の集大成である。すべての科学(science)が分類、収集という脳細胞の働きを起因として発展してきたといって恐らく過言ではないだろう。分類は法則や理屈、理論の母である。

だから実験結果をごまかして自分の欲しい結論にジャンプしたり、コピペで論文査定をちょろまかして結果オーライを勝ち取ろうという精神は、「分類」の精神にのっけから根本原理もろとも抵触するのであり、その抵触を厭わず気持ちが悪いとも思わないというシンプルな事実ひとつをもってしても、それが詐欺的な行為か否かを論ずる以前に、サイエンスを語ったり研究したりするには最も不適格な脳細胞の持ち主であることを証明しているという確実無比な結論に至ることになるのである。

去年こういうブログを書いた。

クラシック徒然草-どうして女性のオーディオマニアがいないのか?-

書いたことをさらに進めると、女性には何であれ真の意味における収集狂がいないのではないかと思うようになった。リカちゃん人形を千体も集めて悦に入ってる女の子というのはちょっと不気味だが、いたとしても分類の結果というよりもキレい、カワイイの集大成ではないか。LPレコードやCDを1万枚も集めるのも不気味かもしれないが、僕はその1枚1枚がどう違っているかを明瞭な言語によって説明できるのだ。つまりそれは言語なきところに存立不可能である「分類」という行為から来ているのであって、たくさんあるのを眺めて言葉もなく悦に入る行為とは一線を画している。

mandara京都の東寺に弘法大師がしつらえた立体曼荼羅というのがある。仏像がたくさんあって、その数だけ有難味が増すという単純なものではなく配置が厳密に決まっている(右)。一体一体の役割が分類されている上に、空間配置として認識させる。ただ有難や有難やと拝むだけの脳細胞とは異なるものを空海は持っていた。せっかく嵯峨天皇に取入って気に入られ京都で重職についたのに、真言密教の宇宙の真理を悟り広めるために高野山の山奥に引っ越して引退してしまう。現世欲まるだしの恥ずかしい「コピペで論文査定をちょろまかして結果オーライを勝ち取ろうという精神」とは北極と南極、いや銀河系とアンドロメダ大星雲ほどちがう精神を見るのである。

先日ベトナムはハノイで訪ねたお寺でこういうものを見た。

vietnam

これが立体曼荼羅かどうかは知らないが配置に秩序があるそうだ。空海が行ったとは思わないので分類、空間配置という空海と共通した脳を持つ人による作業の結末なのだろう。この分類、空間配置こそ、大英博物館、自然史博物館を成さしめた脳細胞の働きに他ならない。

これが男性固有の分類脳という公約数の帰結だと書いたらセクハラで訴えられるのだろうか?女性読者には何卒お許しを願いたいが、このことは大作曲家や大数学者や大天文学者や大発明家や大哲学者に女性がいない(有意に少ない)ことと関係があるのかもしれない。精密な分類が得意でないのに数学や物理には強いという状況が想定しにくいことは感覚的にも理解しやすいのではないだろうか。

たとえば作曲というのは、12音音楽のセリー(順列なる数学的秩序が支配)という可能性を切り詰めた特殊な場合でさえも、2番目の音の選択肢は11個、3番目は10個ある。すなわち音の長さを度外視しても{12×11×10×・・・×2×1}個のサンプルを作り得て、その中から{(12×11×10×・・・×2×1)-1}個を捨て去る作業である。この作業は分類以外の何ものでもない。

「美しいメロディをつくる」とは女性的なイメージを伴うし、たしかにそこに繊細な感性は必要ではあるが、それ以前に音を分類して選び取る能力、つまり数学、物理のファンダメンタルでもある能力が必要だ。J.S.バッハの作曲にそれは顕著でありベートーベンやブラームスの主題労作の過程にも現れている。楽譜とはピッチを周波数変換することで数値のみで書くこともできる。絵画や小説とは異なり、理系的な要素を多分に含む。それを書くことも解析して読み取ることも男性の脳が得意とする領域の作業だ。

こうした作業が男の専有物であるかもしれないと考えるのは、能力においてどっちがまさるという次元の話とは全く無縁である。というのは、分類癖がないほうが望ましい作業というのが存在するからである。その最たるものが育児だ。子供は分類してはいけない。何人いても等しく愛情を注ぎ、序列はなく、夜中に泣きわめこうと何しようとそのことで遠ざけられたりはしない。

これを母性本能と呼ぶのは正鵠を得ており、その大家である男はいないか有意に少ないと思われる。本能(instinct)というからには動物にもあるのであり、動物の父親は母子と行動しない場合もあるから父性本能とはきいたことがないし、あったとしても人間特有の社会性から生まれていよう。一般化はしないが僕を含む一部の男は泣き叫ぶ赤子には無力であり、泣く子と地頭には・・・という諺を生む。分類したり理屈をこねたりしない女性の脳だけが子をやさしく包み込み、安心させなだめることができる。

そして我々男どもも、女性から生まれ、泣き叫んでも温かく包み込んでもらったのである。音楽を書くのは男でも、多くの男はそれを女のために書いている。

 

(追記、13 June17)

幼児の脳に、秩序はまだない(おそらく)。男は仕事で飲んだりしてふらふらになって帰宅して、家の中が無秩序でめちゃくちゃになっているのに耐えられない。たとえそれが幼い我が子の脳から出たものであっても。

幼児期に電車のおもちゃを部屋中に広げ、敷居をまたいで線路を台所や隣の部屋まで敷きつめるのが日課であった。お袋は「足の踏み場もないわね」といいつつ一度としてそれを咎めたことはなく、夕餉のころになると、「早く片付けなさい、そろそろ帰ってくるわよ」と親父の逆鱗にふれない目くばせをしていた。

思えばこういうことで、電車を微細に分類しつつもオタクに徹することなく、国境をまたいで世界に飛び出していく脳になった。長じて親父が怒った気持ちもわかるようになったが、守ってくれ、のびのびと好きなことをさせてくれたお袋の母性にかなうものはない。その作品が自分だと強く感じるようになった。

 

(こちらへどうぞ)

「女性はソクラテスより強いかもしれない」という一考察

 

 

 

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