クセナキス 「プレアデス」(Pléiades,1979)
2017 FEB 14 12:12:14 pm by 東 賢太郎
会社にいたころ、金属関係の大手企業との会食がありました。話のなりゆきの思いつきで「ところで社長、金属ってなんですか?」とうかがったところ、しばしの間じっとお考えになられ、「それはいいご質問です」と周囲の役員さんに目をやり、結局みなさん「調べてお答えします」とあいなりました。
意外に定義が難しいというものがあります。音楽もそうかもしれません。空気の振動?そうですね、でも聞こえる音がぜんぶ音楽ではありません。音ではあるが、人の心になにか感動、感情を喚起するものです。しかしそう定義してもずいぶん漠然としてます。
皆さんこれを聞いてどう感じるでしょう?
NASAの衛星が録音した「地球の音楽」だそうです。地球内部を流れる電流と磁場の相互作用によって電波が発しており、そのゆらぎをスピーカーで人間の可聴域内の音に変換したものです。知らなければ雑音か風の音ですがその割には定常的で長い、しかも不規則だが微細な変化があります。
少なくとも僕には不快な音ではなく、これを1時間も聴いていると気分の変化があるかもしれないなとは感じます。我々の体は地球と同じ元素でできています。母なるものの発する声は僕らの脳に何らかの共振を起こしても不思議ではないように思います。それは物理現象ではなく、メタフィジックなものである「こころ」によってしかつかまえられないものとしてです。
モーツァルトの音楽といえど、物理的には空気の振動であります。それに感動するのは、僕らの「こころ」がそこに何かをつかまえるからです。その何かはたしかにモーツァルトが盛り込んだものですが、しかし、彼のこころも宇宙のどこかからそれを見つけ、共振を感じて拾ってきたに違いない。彼が地球の声のごときものをどこかで聴き取り、それを、いわば霊媒として人間の可聴域内の音に変換したものではないかと思うのです。
バルトークの弦チェレ第3楽章やピアノ協奏曲第2番第2楽章はきっとそういうものだろう、と思っています。ことに彼の曲で僕がそう感じるものをお聴きいただきます。皆さんはどうお感じになるでしょうか? ピアノ曲「戸外にて」(Sz81)より「夜の音楽」です。ぜひ、何も考えず空っぽになって、こころを開いて聞いてください。
シベリウスの交響詩「タピオラ」(作品112)は、極寒の吹雪の中を歩く森のイメージを強く喚起します。吹きつける風の音も聞こえます。楽器の楽音なのだから不思議ですが、作曲家が聞き取った森の音を霊媒となって管弦楽の音響に変換したといえるように思います。
そう考えてくると、一つの考えに至りませんか?
つまり、「地球の音楽」は音楽ではないけれど、作曲家がそこから得たエモーションを楽器や声の音に変換したならば、僕らはきっとそれを音楽と呼ぶんじゃないか?ということです。もしあなたがその音楽を聴いて感動したならば、その感動は作曲家が「地球の音楽」と共振したこころのふるえであり、だからあなたは作曲家を通じて地球と共振していることになります。
バルトークもシベリウスもそういう音楽を書いた。僕はブルックナーもそういう作曲家と考えています。いえ、モーツァルトだって、彼のこころに去来して彼の手を動かして楽譜に記された音楽は、やはり天空のどこかからやってきて、その源が尊いものだから我々のこころをゆさぶるのではないか。作曲家の能力とは上手にフーガを書くことではなくて、宇宙の音によく共振し、人間のわかる音に変換する能力ではないかと思います。
作曲することと演奏することはまったく別な行為であり、ブーレーズが語っていますが演奏はインタープリテーションつまりスコアというテキストの解釈であり有から有を生む行為、作曲はクリエーションという無から有を生む行為です。無の裏側には宇宙の秩序や均整があって美しい。その美を感知する霊媒能力がなければ作曲は出来ませんが、書かれた音符を音として美しく鳴らすことは訓練すれば誰でもそれなりにはできると思います。
つまり作曲家は神域に至れる特種能力者として人類に何人も現れていないが、演奏家の能力は人間界のみで完結可能であって、トップクラスといえど現れた人数ははるかに多い。聖書を書いた人と牧師の関係でしょう。僕が演奏会でする拍手の9割は作曲家にというのはそういう思想からであり、だから普通の人である演奏家が天才の労作をお気軽に改竄などするのは不届き者も甚だしいと不快に思うのもそこから来ています。
ギリシャの作曲家ヤニス・クセナキス(1922-2001)に6人の打楽器奏者のための「プレアデス」という興味深い作品があります。プレアデス星団(プレアデスせいだん、Pleiades )は、おうし座の散開星団(M45)で、これの和名が皆さんよくご存じの「すばる」であります(写真下)。
クセナキスはアテネ工科大学で数学と建築を専攻した変わり種の作曲家です。建築家としてはスイス人で「近代建築の三大巨匠」のひとりであるル・コルビュジエ(1887-1965)の弟子である。コルビュジエはレオナルド・ダ・ヴィンチの「人体図」における人体の寸法の数学的な比率と黄金比を基にモデュロールという建造物の基準寸法の数列を作りました。それが「美」のみなもとになるという考えです。我々は均整の取れた人体を見れば確かに「美しい」と感じます。その感情を喚起する「比率」(均整の秘密)を建築に応用した。そしてクセナキスはそれを音楽に応用したのです。
パリ音楽院でオリヴィエ・メシアンに師事したクセナキスは、数学で生み出されるグラフ図形から縦軸を音高、横軸を時間とした音響の変化を記す、コンピューターによる確率論、ブラウン運動を応用した音価技法などユニークな作曲理論を開発し、1971年の大阪万博では鉄鋼館で彼の音楽が流れました。数学が出てくるのは「美のみなもと」としてであり、ピエール・ブーレーズと共通するのですが、おそらくそれが故に二人は対立しました。
そういう難しいことは聞き流していただいて、クセナキスは「こころを開いて」いれば決して難しいものではないことを感じていただきたいと思います。こういう音楽が苦手だった方、メロディーも和音もないのにどう聞いていいかわからない、こんなものは音楽じゃないと思われる方、クセナキスが宇宙から聞き取ったもの、それを打楽器だけで可聴域に変換した「プレアデス」に耳を傾けてみてください。
僕はこれが、NASAの衛星が録音した「地球の音楽」にそう遠くないものに聞こえるのです。
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