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高輪泉岳寺にて思う

2017 MAY 4 1:01:00 am by 東 賢太郎

豊洲でファツィオリを弾かせていただいた帰りに高輪の泉岳寺に立ち寄りました。先日、両国で吉良上野介邸に偶然行き当たったものですから、こっちも行っておかないとどこかバランスが悪いと感じていたのです。

ロンドン時代、同僚が会議で高輪に来るたびに浪士の墓に手を合わせに寄っていて不思議に思ってました。この日も参拝者はそこそこでしたが白人が多く、説明ビデオも英語版が終わるまで待たされました。外人といってもランチをした銀座が中国語で溢れるのとは雰囲気が違う。

私刑は目には目をのイスラム法でも認めませんから赤穂事件はどこの国でもれっきとした殺人罪であり、これを西洋人が正義と見るのかハーバードのマンデル先生にでも聞いてみたいものです。両藩の大名が死んで喧嘩両成敗で収まり良し。日本人は事件当時から正義派が多く、今でもそうでしょう。

感覚では正義なのに、私刑は幕府の法では不義。死者の数で1対47?こりゃないぜ、赤穂がかわいそうだというのが多くの人の思いかと思います。武士の名誉で切腹を許し情状酌量はするが巷の正義より公儀が上位であることを周知させる。心は同情しましたが徳川幕府の裁断は権力者としては是です。

4代将軍家綱の後継に公家を推す動きがあったほど将軍職は文官化しており、赤穂事件は武士の精神を称揚して見せる好機でもあった。5代綱吉は犬公方とされますが畜生の殺生禁止は結果的には太平の世を生んだし、側用人なる官房長官職を作ってすえた柳沢吉保がしたたかだったということでしょうか。

内匠頭は刃傷沙汰で何がおきるか知っていたのにやってしまい、討ち損じた。動機は不明。殺人の故意を自供しているから乱心とは思い難い状況がありながら即日切腹、開城、御取り潰し、親族にも係累が及ぶ。常識論としてはかなり軽率な殿であり、殿の失策を動機は知らずに家来が果たしたのを仇討ちと言うんだろうかという疑問は昔から挙げられています。仇討ちというのは当時は親族間のもので、殿のご無念を晴らすというのはこれが初の事例だったそうです。

吉良は抜刀しておらず内匠頭の一方的な攻撃(乱心)と主張し、理由の是非を明らかにせず武家諸法度による喧嘩両成敗とせず一方のみに死刑を命じて殺したのは幕府である。だから藩士が恨んだのが幕府なら道理であり、報復は力関係から無理なので赤穂城で抗議の切腹をすればこの事件はわかりやすかったのです。藩を挙げて殺したいほどの恨みが吉良にあったということに事後的にはなってしまっているわけで、それなら討ち損じなどあり得ない。自爆テロなのだから場所などわきまえず確実に殺せる瞬間を狙うべきだった。

現に家来たちは討入りで見事にそれをやり、一人の死者も出さずにスナイパーぶりを発揮したわけで、その殿にして何故?やはり乱心であろう、であれば喧嘩両成敗の理は立たず吉良は無罪だということになり浪士たちはテロリストになってしまう。どっちにころんでもおかしい。そこで彼が暗愚でないならば病気か?そういう説もありますが病気なら適切にケアしなかった大石の過失になってしまう。それも心情として困るので、後世は吉良の悪徳を並べ立てたのだろうかとも思うのです。

赤穂藩とともに接待役だった伊予藩も石高はそうかわらないが吉良に差し出した謝礼は浅野1両に対し100両だった。吉良は石高は少なく朝廷のコネで綱吉に重用されていることは周知でありました。鼻薬をけちられていじめれば朝廷の使者に無礼が生じてわが身に責任がふりかかるからそれはないという説もあるが、刃傷沙汰になっても無罪だった証拠があるのだからこの説は承服しがたい。狸おやじなのだから自らに火の粉がふりかからぬよう周到ないじめをした挙句、公然と無能扱いする手など百もあったろう。それに逆切れしたなら政治家としては無能ということになりましょう。

最大の失態は公家儀式を重んじ母の従一位に執心した綱吉が朝廷使者の面前で起きた不始末に激怒して「喧嘩か乱心か」の尋問を十分行わなかったことで、つまり武家諸法度という法律が厳格に適用されずに刑が執行されて「理が通らぬ」という不満が赤穂藩士はもちろん巷にも流布したことです。それが仇討ちか報復かという小さな理などふっ飛ばして、吉良暗殺という私刑やむなしの渦をつくってしまった。生類憐みの令(そんな法律はないが)なる135のお触れで殺生を禁じ太平の元禄を生んだ綱吉は賢いという評価もあるが、本件のお裁きはそうは見えない。

義士の遺品展示館に木刀があり「人を殺せば死ななくてはなりません」と彫られています。だから俺が持つのは人を斬れない木刀なのだという狂歌なのですが、「お犬様を斬っても死罪の世なのに」という暗黙の前提がこめられていて、この言葉はわが身の安全を装いながら吉良に向けられていたのだと感じました。わが殿を殺したあなたも死ぬんですよと。しかし、上述のように「理」がない。いやいや、そんなことはない、お裁きをした綱吉公がそれを下さっているではないかと、将軍まで批判している。私見ですが、そう読めてしまうのです。

英国人の同僚が何に感動してくれていたかは聞きそびれましたが、武士と騎士は共通点があるのかもしれません。いや「だから三権分立が必要なんだ。ジョン・ロックを見習うべきだった」と言ったかな(でもそれは無理だ、ロックが死んだのはちょうどこの事件のころだ)。さすがに特攻隊を称賛するわけにもいかないからこっちに来てるのか。この話を知って四十七士の墓前に参れば、日本人の見方がきっと変わるでしょう。たくさんの外人ツーリストの前で、どこか誇らしい気持ちになったことは事実です。

この精神を王政復古で天皇にむけさせたのが明治政府による日本国という概念で、そういうものはそれまではなかった。司馬遼太郎は「坂の上の雲」までが良き国であった史観ですが、明治からすでに国民は身分を問わず陛下の義士であることを強要されて対外戦争へと突き進んだのだから日露戦争の前も後もない。徳川時代が悪かったわけでも後進国だったわけでもない、僕はそう思います。

四十七士の墓前に線香をたむけながら、この事件はよくわからない、どこか釈然としないという思いと、日本が近隣国とは決定的に違う民族であることを赤穂事件によってもっと示すべきだという思いが交差します。吉良邸でも泉岳寺でも、手を合わせようというときにやおら雨がぱらつき始め、去るとあがりました。

(PS)

義士はこの隊列で吉良の首を両国から3時間ほど(約10キロ)を歩いて泉岳寺に運び、首を井戸で洗い内匠頭の墓前に据えて本懐を遂げた報告をした。クリックで拡大します。

僕はスナイパーしか使わない

 

 

 

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