ジャン・フランセ「花時計 l’horloge de flore (1959) 」
2017 NOV 24 0:00:01 am by 東 賢太郎
この曲をFM放送でたまたま聴いたのはいつだったか、覚えはないが高校生だったのはまちがいない。すぐに趣味にあうと思った。オーボエが好きだったし、どこか妙薬のようにしみこむ和声のくすぐりで心が動くのを感じたからだ。「花時計」という曲名に興味をいだかなかったのは僕らしいが、フランスの作曲家ジャン・フランセ(左、Jean Françaix、1912-1997) も知らなかったからそれ以前だ。なぜか一目ぼれして急に特別の曲になったが、ほかにそんな経験はない。
曲名は、咲く時刻の異なる花を配置した「リンネの花時計」なるものだと知ったのはずっと後だ。こういうものだ。
午前3時:Galaant-de-Tour 毒イチゴ
午前5時:Cupidone bleau 青いカタナンチュ
午前10時:Cierge a grandes fleurs 大輪のアザミ
正午:Nyctantthe du Malabar マラバーのジャスミン
午後5時:Belle-de-Nuit ハシリドコロ
午後7時:Geranium triste 嘆きのゼラニウム
午後9時:Tilene noctiflore 夜咲く虫トリナデシコ
しかし花オンチでどれひとつ知らないし、分類学の父カール・フォン・リンネ(1707~1778)には敬意を表するがそんなめんどくさい時計を誰が使ったのかと思う。要はこの曲は7楽章から成るオーボエのためのお洒落なディヴェルティスマンで、4つ目がプーランクのP協に似とるなあなんてことの方が僕には余ほど大事だ。どこが毒イチゴか、この曲の和声も怪しくていいなあ。
FMで聴いたのがアンドレ・プレヴィンのだったことだけは覚えている。オーボイストは記憶がない。ところが後で知ったが、それは米国人のジョン・デ・ランシーだった。それどころか、フランセに曲を委嘱したのも彼じゃないか。デ・ランシーは終戦直後の1945年の夏、ドイツに米兵として駐留した折に、すでに大作曲家だったリヒャルト・シュトラウスに会い、あのオーボエ協奏曲を書かせた伝説の人だ。そのことはwikipediaに以下のようにある。
第二次世界大戦終戦直後の1945年に、スイスのチューリッヒ近郊で作曲された協奏曲である。この頃シュトラウスはバイエルン、ガルミッシュ=パルテンキルヒェンの山荘に滞在していたが、そこへアメリカ軍に従軍していたオーボエ奏者のジョン・デ・ランシー[1]が慰問に訪れた。デ・ランシーは「あなたの作品にはオーボエの素晴らしいソロが多く出てきますが、そのオーボエのための協奏曲を書くつもりはないのですか?」と問いかけたが、シュトラウスは「特にありません」と返答した。デ・ランシーが引き上げてしばらくした後、シュトラウスは気が変わり、同年の秋から移住したスイスでオーボエ協奏曲の作曲を始めた。ただシュトラウスはデ・ランシーの名前を正しく憶えておらず、「ピッツバーグ」も「シカゴ」と誤記している。
初演は翌年の1946年2月26日にチューリヒで、マルセル・サイエのオーボエ独奏、フォルクマール・アンドレーエの指揮、チューリッヒ・トーンハレ管弦楽団によって行われた。シュトラウスが独奏者に希望したデ・ランシーは曲の完成すら知らないまま既に除隊・帰国しており、後に行われたアメリカ初演でも、在籍していた楽団の都合で結局吹くことができなかった。その頃ピッツバーグ交響楽団の1番奏者からフィラデルフィア管弦楽団の2番奏者(1番は師であるマルセル・タビュトー)に移籍したばかりで、当時の演奏家ユニオンの規定では、2番奏者は所属する楽団と協奏曲を演奏する事は出来なかったのである。後にタビュトー引退後1番奏者になってから1度だけ演奏(指揮はユージン・オーマンディ)しており、更に晩年には指揮者なしの臨時編成オーケストラと録音している。
彼はその後、フィラデルフィア管弦楽団の主席オーボエ奏者となりオーマンディの名盤の多くは彼が吹いている。まさかそのフィラデルフィアで2年の留学生活をしようなど、高校時代は地味で成績もぱっとしない男であった僕は知る由もなかった。
「花時計」をフランセに委嘱して1961年に初演したのがデ・ランシーだったと知ったのはいっぱしの衝撃だった。というのはブログにした通り僕は留学中の1983年にチェリビダッケとバーンスタインのリハーサルをカーチス音楽院で聴いた。いまや大家であるヴァイオリニストの古澤巌さんが音楽院生で、校長に部外者の入館許可がもらえないかと面会を取りはからってくれたのだが、その校長こそがデ・ランシー先生だったからだ。
ビデオがあった。なつかしい、まさにこの人だ。John de Lancie(1921年7月26日 – 2002年5月17日)。シュトラウスのこともここで語っている。
もうセピア色の思い出だ。面会時間になって先生の部屋におそるおそる入る。背が高い方で威厳があって、紹介されて握手はしたがにこりともせず気難しそうである。いぶかしげにじっと黙って僕の目を見ておられ、あんまり得意な雰囲気じゃない。27才のガキだった僕はすっかり圧倒されてしまい、こりゃ入館は断られるぞとひるんでしまった。いくら紹介があるとはいえ、こっちは只の音楽好きだ。天下のカーチス音楽院に足を踏み入れる理由なんかあるわけがない。
しかしそんなチャンスはもうないから引き下がるわけにもいかない。しどろもどろでウォートンにいるんだけどと自己紹介し、えい、とにかく当たって砕けろだと「指揮を勉強したいんです」と言った。そうしたら気合が伝わったのかひとことオーケーが返ってきた。きっとそれが出まかせと見抜いていたろうし、じゃあ入試受けてねで終わったかもしれなかったが、やさしい方だったようだ。思えばその時点ではR・シュトラウスの話も、この人があの「花時計」の生みの親とも知らなかったのだ。
いまだったらそこから話を切り出すこともできようが、そういうのはむしろNOをくらいそうな感じもあったから何とも言えない。余計なことは考えず、若者は体当たりがいいのかもしれない。思えば24才だった彼もそれをやったし、その時言ったことはシュトラウス先生の作品を知ってます好きですじゃあなく、あなたのオーボエ協奏曲を吹きたい!どうして書かないんですか?だ。その気合が大作曲家を動かして本当に書かせてしまったんだろう。
時間を頂いてシュトラウスやフランセの話を聞くことだってできたと思うと、当時の自分の無知が悔やまれる。しかしこれがきっかけで自分も元気のよい若者にチャンスをあげる人になりたいと思うようになったし、デ・ランシー先生のご恩は僕の中でそういう形で生きていると思っている。
これがそのデ・ランシー / プレヴィン / ロンドン響の「花時計」だ。なつかしい。何てチャーミングな音楽、演奏だろう。それにしても、高校のころFM放送で聴くのは知らない曲ばかりだったのに、どうしてこれだけ覚えたんだろう。
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