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神宮第二球場

2019 NOV 9 13:13:52 pm by 東 賢太郎

ラグビーをやっていた後輩に「生まれかわったらまたやるかい?」ときいたら、間髪入れずに「はい」ときた。「いえ、こんどは**を」なんてことであれば、ちょっと彼らしくないなと思っていたから安心した。

僕は飽きっぽい。中学のころ、学年のはじめに真新しい教科書を手にすると「よし、やるぞ」と固く誓ったものだが、ひと月ももったためしがない。高校になると、それじゃだめだと思い、誓いは「今年こそは」にかわってきた。それで二か月ぐらいはもつようにはなったが、二年生の夏あたりから「来年こそは」になった。最初から最後まで日々「やるぞ」が消えなかったのは野球だけだ。

つまり、高校には野球をしに行っていたのであり、ついでに教室にも寄っていた。親をふくめて誰も信用しないが、ほんとうなんだからしかたない。それで、人生を生き抜くためのインテリジェンスはグラウンドで学び、野球ができないうっぷん晴らしに仕事したというのが僕の人生である。当然、生まれかわったら、やることは野球しかない。

「親をふくめて」というのは母親はべつだ。ガリ勉嫌いで男の子は外で遊べと叩き出す「非教育ママ」だった。自分の父親は初代か2代目の慶応大学の野球部だ、息子の野球漬けはぜんぜん自然であり、かたや勉強にうるさい親父には「ちゃんとやってます」と虚偽報告をしてくれてたらしく、あとで親父に申しわけなくて勉強した。

九段高校はまだ東西いっしょだった東京都大会の第6シード校だった。入部して校庭の端から端までの声出し訓練からはじまり、万事きつかったが耐えた。そうしたら夏の甲子園大会地区予選に1年なのにベンチ入りを命じられた。軟式の草野球とはいえ大人たちを手玉にとっていた小僧だから驚きもなく、まあ当然と思うほどの天狗だった。15才で世の中なめていたわけだが、良くも悪くもそんな経験は他のことでは無理だ、ないよりはよかったかもしれない。

運悪く優勝候補の日大一高と当たった。神宮第二球場だった。どうせ登板はないと思い、正直のところ、高校球界No.1左腕でドラフト1位候補の保坂投手を見られてラッキーというお客さん気分だった。一塁側ベンチでまのあたりにした保坂は凄まじく、練習試合で打たなかったのを見たことない4番の桧前さんが浅い外野フライがやっとというのがショックだった。コールド負けだった。そのまま勝ち進んで出た甲子園の都城高戦で17三振を奪った破壊力あるストレートは衝撃で、後にも先にもボールに恐怖感をもったのはこのときだけだ。彼はその時2年で、翌年の東京都予選で日大鶴ヶ丘に10-0の6回コールド勝ちした際、18個のアウト中17個のアウトが三振だった。僕もそうだが、当時の高校生はスライダーやフォークやチェンジアップなんか投げない。直球とカーブだけである。それでこれ。いかにものすごいピッチャーだったかご想像つくだろうか。いまだって、そんな猪口才(ちょこざい)な小道具で三振とっても僕はちっとも尊敬しない。野茂とか大魔神は立派と思うが、これは美学なんで争い難いのであって、直球とカーブだけで三振を取りまくった金田正一、外木場義郎、そして保坂英二は僕の神である。

ところで、ベンチではマウンド上の保坂がやたらでっかく見えていて、さっきwikipediaを調べたらなんと168センチだ。驚いた。人間ってそういうもんなんだ。圧倒されると相手が大きく見えてしまうのだ。高校時代はやせていて立派な体格にあこがれたが、間違いなくあの保坂のイメージがあったと思う。あのぐらいでっかくないとあんな球は投げられないと。

そういえば50を過ぎてから「ご立派な体格で」といわれるようになった。そんなことは40代まで一度もいわれたことがない。要はデブという意味だが、ひょっとするとそうじゃないのかもしれない。俺も仕事の貫禄がついてでっかく見えるということか。じゃあ60代だ、もう何もこわいもんないな。15才で世の中なめた経験はいつもこういうふうにきいてくる。

神宮第二球場がなくなるそうで、最後の試合が昨日行われたらしい。

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