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モーツァルト「魔笛」断章(驚異の55小節)

2019 NOV 20 10:10:44 am by 東 賢太郎

過去に書いたブログを時々読んでみると、もうこういうのは書けないという物が多い。しかし変わらぬ情熱が湧いてくるのはモーツァルトがテーマの時だ。どうしてこんなに彼が好きなんだろう?自分の心の深奥、深層心理にあるものは意外に自分で知らないというがそういうことなんだろうか?

何度もウィーンに行ってモーツァルトの聖地巡礼をしたのは韓流ロケ地ツアーのおば様たちとおんなじか。僕は好みの人物の史跡にもお墓にも参る。しかし、ベートーベンもブラームスも、彼らの音楽を愛好していることに関してはモーツァルトに劣らないのに、それほどの情熱で巡礼をしていない。他のすべての作曲家も同様で、終焉の地で絶句して涙までしたという人はモーツァルトだけだ。

先日上野で聴いたので今は頭が魔笛漬けであり、寝ても覚めてもオペラのどこかが脳内でアトランダムに鳴っている。そこでピアノで第1幕、第2幕を全部やってしまう衝動に駆られた。ドラッグなのだ。難所は右手だけでどんどん進む。完全に “魔笛界” の住人となり、パミーナを救うぞとタミーノの気持ちとなり、三人の侍女と一緒にパパゲーノをからかったりする。昔は退屈してた僧侶との問答も、弾いてみるとモーツァルトがタミーノの心の変化に絶妙に寄り添っているではないか。そうやって出てくる音のいちいちを感じ取っていくと、凍りつくような異界の景色に出くわす。

たとえば第2幕の最初のアリアである「O Isis und Osiris」のここ、ザラストロの歌うこんなシンプルな譜面からなんて音がするんだろう!

これは王様であるザラストロが初めて登場した場面の名刺代わりの重要な歌で、基本的にバスが和声を誘導する。神殿が彼の支配する空間であることを暗示するように書かれているのである。写真の楽譜は男声合唱によるリフレーンの部分で、3小節で長7度が2つ、長2度が1つある凝りまくった見事な4声体だ。僕が「4」と指の数字を書いたファ・ソ#・ド・ミの増三和音+長7度がサブドミナント(F)に移行する倚音として実に妖しい神秘的な音を発し、ザラストロの神殿がただならぬ場所であるというムードを醸成する。倚音に経過的に、当時として想像できない不協和な音を乗せるのはジュピターのMov2、僕がハイドンの98番が引用してることを豊洲シビックセンターのピアノでお聞かせした箇所のちょっと先にもある。凄い。こういう音を書くからモーツァルトは異次元の人なのである。

このアリアはヘ長調がハ長調に転調するように見えるが、わずか55小節内の出来事であり、僕には両者が二極的(バイポーラ)に混在するように聴こえる。楽譜の4小節目でG7⇒Cと明確にハ長調に終止するからだ。そうなってしまうと、ここからどうやって主調ヘ長調に戻すかが見ものだが、楽譜の5小節目からザラストロの歌はD7からト短調に飛んで高音で朗々と悲壮感をたぎらせ、諭すように降下をはじめる。ここの和音はC7なので、耳は当たり前のFが続くことを予期する。並の作曲家ならこれでめでたしめでたしのヘ長調回帰になろうが、モーツァルトの耳はそんな陳腐なことはしない。

ユニゾンで半音低いラ♭でFm(へ短調)に、半ば強引にサプライズを仕掛けるのである。インパクトは絶大で音楽の景色がぱっと変わる。ザラストロ様の意のままに喜劇は悲劇になる、不届き者は成敗してつかわすぞ!ラ♭ひとつで聴き手を圧して絶対権力者のパワーを記憶に焼きつけてしまうこの劇場感覚はもう天才としか形容のしようもない。しかもこれが第2幕のエンディングで、ザラストロに「逃亡を企てたパミーナを捕まえました」と得意げに訴えるモノスタトスに「では褒美をやろう」と鞭打ちを食らわすシーンの心理的布石になっているのだから開いた口が塞がらない。

まだある。ラ♭に伴奏和音はついていないが、Fを予想していた聞き手の耳にはFmとして届く。次にその第5音を半音上げたD♭7が続いてハ長調に戻す。モーツァルトはドミナントの半音上の7の和音⇒ドミナント⇒トニックという連結を方程式のように多用していて、例えばピアノ協奏曲第24番Mov3でハ短調のトニックに対しA♭7⇒Gを頻出させる。これをナポリ6度と呼ぶが、原則としてトニックは短調である。そこでFm(へ短調)を噛ませてトニックに見立てD♭7⇒Cの方程式でハ長調とし、するとそれはドミナントとしてワークするのだからその7th(C7)を経て、その理屈でいうならばヘ短調に戻るべきところを(そうであっても聴感上おかしくはないのは弾いて実験してみればわかるが)、ヘ長調に戻るのだ。ここは再度些かの強引さを感じるが、ザラストロの怖さが解けた様に聞こえ、慈悲ある名君の風情を醸し出す方へと劇のベクトルが向かうことで納得してしまう。そして、とどめとして、彷徨ってきた調性を主調の上にくさびを打つために、これを今度はヘ長調で繰り返す。完璧だ。

驚異の55小節を言葉と屁理屈でなぞったけれど、このスコアを超高速で書いていたモーツァルトが楽理を考えてそうしたわけではないだろう。驚くべき和声構造の小宇宙が形成されているが、天衣無縫だ。かようなものは魔笛のスコアの随所に見られる。細部に神が宿っている。

 

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Categories:______モーツァルト

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