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クラシック徒然草《カルメンの和声の秘密》

2020 SEP 22 14:14:39 pm by 東 賢太郎

前稿で1分で終わる「NTVスポーツ行進曲」のインパクトについて書きました。しかし、それをいうならこれを書かないわけにはまいりません。カルメン前奏曲です。主部はたった2分ですが、万人をノックアウトする物凄さ。僕はこれを中学の音楽の授業できいて「クラシックはすごい!」と衝撃を受け、この道にのめりこんだのです(もりや先生ありがとうございます)。

まずは聴きましょう。

この前奏曲にはベンチャーズやビートルズしか知らない耳には奇異に聞こえる部分がありました。そのころまだピアノが弾けません。ギター(これはマスターしていた)でさらうと考えられないコードが鳴っているのです。囲いの部分です。

中学生の僕に楽譜は読めません。しかしポップスのコード進行ならいくら珍品のビートルズのIf I FellやI Am The Walrusでも、Hard Day’s Nightの始めのジャ~ンも難なく耳で書き取れたので結構上級者だったでしょう。なぜならギターを通じて「バスを聴け」の大原則を発見していたからです。これは今でも音楽鑑賞に耳コピに、絶大な威力を発揮しています。ご興味ある方はこちらのレッスンをやってみてください(音楽の訓練を受けてなくても誰でもできます)。

クラシックは「する」ものである(4) -モーツァルト「クラリネット五重奏曲」-

ところが、無敵なはずの大原則がカルメン前奏曲には通じなかった。当時の僕は「うぬぬ、おぬしやるな・・・」と固まってしまうしかすべがなかったのです。イ長調の主題がそのまま4度上のニ長調になり、たった3拍でイ長調に戻す部分なのですが、トロンボーンとバスーンでよく聞こえるバスがいけない、奇矯だ、と思うのはコンマ何秒のことで、あっと驚く間もなく E7 になって、なに驚いてんの?とあざ笑うように A (ニ長調)に復帰してブンチャカ始まっているのです。野球をしていて「手が出なかった見逃し三振」というのは最高に悔しいのですが、ここは、140キロぐらい速い上にググっと予想外の変化もして「ストライク!」と言われる感じがする。気になって眠れません。

このおかげ、悔しさのおかげで、僕は楽譜が読めるようになったのです。

そこで何が起こったかというと、「どうしてだろう?この『変だ』という感覚はどこから来てるんだろう」と即物的に解明を試みたわけです。そこで実験道具である楽譜を買います。対象部位を特定します。バスが d → g#→c#と動くことをつきとめます。『変だ』の理由を探します。わかりました。d → g#が増四度だからが解答でした。こんなのポップスには出てこない「見たことない球」だったのです。g#→c#のほうは完全4度のあったりまえのもので、急にぎゅんと曲がってあとはまっすぐという変化球です。

となると、打席で「うわっ」とびっくりして手が出なかったのは g#に乗ってる和音だ、こいつが曲者だったとロジカルに追い詰めることができるのです。

正体見たり。こいつはワーグナーやブルックナーによく出てくる “g#,h,d,f#” で   E9 のバス e を取って g#に置換したもの。コード記号で簡略に書くとD⇒C#⇒E⇒Aでイ長調に帰る。Dを半音下げるのはまことに強引で、そこで間に緩衝材としてこの和音をはさんでいます。 Bm6 とも書けてしまうがそのおまけの 6 (g#)がバスに来てしまってトロンボーンとバスーンで我が物顔に鳴るから Bm6 とは別物の倍音を撒き散らしている、つまり、ビゼーはこれを「たった3拍でイ長調に戻す」舞台回しの大トリックの要諦としたと思います。その証拠は上掲のピアノ譜にありますので解説します。よ~くご覧ください。

これはビゼー自身の編曲ですが、この増四度を変だと聞いてしまう僕のような輩がいることを危惧し、イ長調が元々の設定なのだから本来は書く必要ない # をわざわざ g につけているのです。一瞬の浮気で転調しているニ長調は g に#はない。きっとアホな演奏者がいるだろうなあ、♮されかねないなあ、この#が本妻のイ長調復帰の狼煙になるんだよなあ・・。彼は初演直前になって「アタシ、カルメンよ、ちょっとぉ、こんな歌ばっかりじゃ見せどころないじゃないのよぉ」とごねるくそうるさいプリマドンナに13回も書き直しを余儀なくされ、イラディエルのハバネラ《 El Arreglito》なる作品をぱくって「ハバネラ(恋は野の鳥)」を書いてやりました(民謡と思っていたらしい)。そんなおおおらかな時代だから変位記号の見落としなんて平気にあったろうし、彼がマーラーやチャイコフスキーに並ぶ完全主義のmeticulous(超こまかい)人間であったことをうかがわせます。まあmeticulousでない大作曲家はいませんが。

後にカルメンは全曲が肌から浸みこみ、もはや血管を流れるに至っています。ぜんぶ音を諳んじているオペラはほかには魔笛とボエームしかありません。そこに至って、和声のマジックはここだけではないことがわかってきました。例えばジプシーの歌です。これは実に凄い。和声の万華鏡である。お聞きください。

余談ですがこのメッツォ、ギリシャ人のアグネス・バルツァですが、このプロダクションはメット(レヴァイン)とチューリヒ歌劇場(フリューベック・デ・ブルゴス)で観て強烈な演技と妖艶さに圧倒され、もう誰のを観ても物足りなくなってしまったのは困ったものです。

驚くのはここ、ラーラーラーラララララーです。

バスはずっとe (オスティナート)で、Eaug、A、D#、E、C#、F#m、B7となるのです。このビゼー版は C# のファ音が入ってないのが不思議ですが、僕がテキストにしている Schirmer Opera Score Edition (左)では入れてます。こういうところ、ビゼー版は一筆書きの風情で声部が薄いのでバスと短9度(または短2度)でぶつかるファは略したのか、あんまり気にせず勢いにまかせてスイスイ書いたのか。頭ではファが鳴っていたわけですね、なぜならオーケストラ・スコアでは第2ヴァイオリンがミ#を、チェロがファ♮を弾いているからです。ともあれ、この部分のコード・プログレッション、頭がくらくらします。バルツァのラーラーラーも男を酔わせて三半規管を狂わせますが、それ以前に彼の書いた尋常じゃない音符にくらくらの秘密があるのです。

例えば、出だしは並みの作曲家なら E なんです。ところがビゼーは曲の頭なのにシを半音上げてド(増三和音)にしちゃうわけです。なんという効果だろう!不条理に生きる女、カルメンの妖しい色香が匂い立ってくるではないですか。降参。このスコアはどこを弾いてもかような感じで唸るしかないのですが、前奏曲とこれはとりわけカタルシスが得られます。麻薬です。モーツァルト級の天才であったビゼーはこれを書いて36才で心臓発作であっけなく死んじまったのでなんだか一発屋みたいに見えますが、とんでもない。音楽史を俯瞰すると、ある日突然にぽこんと突然変異のように “あり得ない作品” が生まれるのですが、これはそうでしょう。まあ野球なら王、長嶋、金田、イチローみたいなもん。この人たち図抜けすぎていて「2世」といわれる存在が出てきませんが、魔笛、エロイカ、トリスタン、春の祭典もないのです。カルメンも後継がないですね、こういうオペラを作曲家なら誰だって書きたいはずだけど、やれば見え見えの猿真似になってしまうでしょうね。

ただし、ひとつだけ、アレキサンダー・ボロディンはカルメンを研究したかもしれないという仮説を書いておきます。猿真似にならんようにエキスだけ盗んだかもしれない。というのは、いろいろ発見があるんですが、例えばジプシーの歌を弾いていて、ある箇所がダッタン人の踊りの半音階和声進行に似ている(音というよりも指の動きがというのが深い)と思ったのです。オペラ「イーゴリ公」は未完で1887年の死の年まで書かれていました。カルメンのオペラコミークでの初演(1875年)は先進的すぎて成功しませんでしたが、同年のウィーン公演は当たりました。ワーグナーが称賛し、ブラームスは20回も観た(!)うえに「ビゼーを抱擁できるなら地の果てまででも行ってしまったろう」と言ったそうです(もう亡くなってたんですな。こういうところ好きだなあ、ブラームスさん)。その後数年のうちにロンドン、ニューヨーク、ザンクト・ペテルブルグなどで広く演奏され、全欧州で有名になったこのオペラをちょくちょくドイツ(イエナ大学など)に来ていたボロディンが聴かなかったと考えるのは無理があるでしょう。

ボロディンは交響曲第2番を1877年に完成しましたがその後もオーケストレーションなどを推敲しています。

ボロディン 交響曲第2番ロ短調

この稿に、

このチャーミングなメロディーが10小節目でいきなり半音下がる!!こんな転調は聴いたこともなく、一本背負いを食らったほどすごい衝撃です。

と書きましたが、さきほど、

D⇒C#⇒E⇒Aでイ長調に帰る。Dを半音下げるのはまことに強引で・・・

と書いたわけです。そして、交響曲第2番を締めくくる一撃は、ジプシーの歌の最後のドカンそのものであるのです。お確かめください

 

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