シュレーカー 舞踏音楽「皇女の誕生日」
2021 MAY 18 13:13:38 pm by 東 賢太郎
フランツ・シュレーカー(1878 – 1934)の「皇女の誕生日」(Der Geburtstag der Infantin)をご存じの方は多くはないだろう。舞踏(パントマイム)の付帯音楽で、難解な現代曲ではなくチャーミングな和声音楽でありわかりやすい。しかも文化史、音楽史においても非常に興味深い背景がある作品であり、ぜひ広く知られてほしい。シュレーカーはイーゴル・ストラヴィンスキー(1882 – 1971)の同時代人である。出世作になった同曲の初演は1908年6月27日だ。この年はやはり出世作だった「火の鳥」の2年前、ドビッシーでいうなら「子供の領分」発表の年だ。シュレーカーは1900年ウイーン音楽院を卒業してまず合唱団の指揮者となりシェーンベルクの「グレの歌」の初演者にもなった。それだけで運も実力もあったことが覗えるが、彼はそこで満足せず、作曲家として独り立ちを志していた。しかしウィーンという激戦区はそう甘くはない。自作の演奏機会はほとんど与えられず、作曲にとりかかったオペラ《はるかなる響き(Der ferne Klang)》も中々完成に至らなかった。そこに画家グスタフ・クリムトのサークルが主催した総合芸術展(Kunstschau Wien 1908)の杮落とし演目として、同曲の作曲委嘱が来たのは僥倖だった。彼は「持ってる男」だったのであり、自身も人生の分岐点だったと後に述懐している。それもそのはず、Kunstschau Wien 1908はフランツ・ヨーゼフ1世の治世60周年の国家的な記念式典で、クリムトもあの有名な「接吻」をそこで発表したイベントだったからだ。
「皇女の誕生日」はパントマイム(無言劇)である。その原本はイギリスの作家オスカー・ワイルド(1854-1900)がこの絵画から着想した童話であった。
どなたもご覧になったことがあるだろう、ベラスケスの代表作「ラス・メニーナス」(Las Meninas、女官たち)である。「女官たち」というタイトルからしてお付きの女官、侍女、目付役、2人のこびとと1匹の犬が主題、主役なのだ。なぜかということをこれから述べるが、それは本稿の主題、主役でもある。そして、それを見抜いて後世に告げたベラスケスの慧眼と勇気に心からの敬意を表する僕の気持でもある。
マドリッドのプラド美術館でこの巨大な絵の前に立った時のことを覚えている。まことに不思議な絵だ。主役たちは画家目線の絵であるかのように位置取りをしてポーズをとって描かれている。この5人だけなら普通の絵だ。ところがよく見ると画家は鑑賞者に正対してこちらを眺めており、さらに奥には壁に掛かっている鏡があって、鑑賞者自身が映るはずの位置にあるのにフェリペ4世とマリアナ王妃が映っている。心理的シュルレアリズムとでも呼びたい幻視感覚にとらわれる傑作と思う。原寸大(約2×3m)でのそのインパクトはリアルだ。モナリザの実物をみたほうがいいですよという気はないが、これはその価値がある。光を浴びる前列の主役たちが本来の絵であり、画家と喪服の王女と目付け役が光の当たらない中列に意味ありげにたたずみ、謎めいた後列にまた採光があるという3層構造になっているわけだが、ストーリー性を感じさせる。非常にわけアリの、何か、言ってはいけないことを伝えたげな絵なのである。
皇女は中央で着飾るフェリペ4世の5才の娘、マルガリータ王女(1651 – 1673)である。右側には2人のこびとと犬がいる。犬を踏んでいるのは階級の象徴だろう。この描写にある、いわばあっけらかんとした残酷さは絶対王政のパラダイムの範疇として我々は理解、看過しているわけで、モーツァルトの歌劇に出てくる黒人、ムーア人の扱いもまたしかりである。それをBLM(ブラック・ライブズ・マター)が標的にしないのは、近代に至る禊(みそぎ)としてフランス革命があって、そこで貴族、宗教権力の横暴は殲滅され、自由、平等、博愛の時代になった、だからそれは差別なる概念が存在しない昔の話で今や文化の一部なのだという世界共通の認識が底流にあるからだろう。
ほんとうにそうだろうか。革命から200年たった現代になってもさような人間の卑しさというものは些かも消えておらず、陰湿な差別やいじめが横行しているではないか。そのことは中間地点だった100年前のオスカー・ワイルドの時代においてももちろん同じであって、彼の次男は父親の伝記の中で「この絵の小王女の顔の意地の悪い冷たい表情に、父は鋭い衝撃を受けた」と書き記している。フランス革命は絶対王政こそ打倒したが、ここが重要だが、打倒した側の人間まで含めて、人間の心の闇にまで光を照らして浄化することはできなかったし、永遠にできないのかもしれない。それに気づいたことで、ワイルドは童話として「皇女の誕生日」を書いたと僕は理解している。
小王女の顔に意地の悪い冷たさを見て取る作家の感性はナイフのように鋭利だ。顔は雄弁だ。思い出すことがある。名古屋出入国在留管理局の施設で収容中に体調を崩し、医師の指摘があったのに点滴も打ってもらえず放置されて亡くなったスリランカ人女性ウィシュマ・サンダマリさんの写真を見て、なぜかはまったくわからないが、この人は本当にやさしい人にちがいないと感じた。そういうことは滅多にない。入管法改正の是非とは全く違う、法の執行と管理の問題であり人道上の問題で、なぜこの人が命を落とさなければならなかったかを法律が弁明することはない。公表されなければ承知しようがないが、人道的にアウシュヴィッツ並みだろうと怒りを覚えるしかない。これこそがフランス革命でも何ら変わらなかった人間の本質であり、この事件こそが僕にこのブログを書かせている。
ベラスケスの小王女の顔は僕も好かない。美醜のことではない。5才にして人として勘違いした萌芽がすでにあるからだ。銀のスプーンをくわえてこうなったなら被害者だという寛大な見方もあろうが、そうした勘違いが130余年塵と積もると、加害者であろうが被害者であろうが有無を言わさずコンコルド広場に首がころがってしまう。王室にとってもお姫様にとっても、勘違いの放置は得策ではなかった。それが歴史であり、歴史は人間の本質の鏡である。斬首した方に絶対の正義があったかというとそう言いきれないものも相当あるが、理屈に関わらずやってしまうのが人間という生き物ということだ。勘違いには勘違いが、残酷には残酷が口をあけて待ちかまえている。小王女マルガリータはその後15才でオーストリア・ハプスブルク家のレオポルト1世と結婚し、ウィーンに輿入れする。同様の駒だったマリー・アントワネットが刑死するのはその123年後だ。
以上を踏まえたうえでお読みいただきたいが、ワイルドの童話「皇女の誕生日」の粗筋はこういうものだ。
せむしのこびとが野原で遊んでいると、スペイン王家の廷臣たちに捕われ、王女の12歳の誕生日のプレゼントとして、おもちゃ代わりにスペイン宮廷に連れて行かれる。こびとは姫君にきれいな衣裳を着せられ、得意になって踊って見せるが、森の中で育ったこびとは鏡を見たことがなく、かなしいかな、周りが自分の不恰好さを嗤っていることに気付かない。そのうち自分が姫君に愛されているとすら信じ込む始末である。だが姫君の姿を捜して王宮に迷い込むうち、初めて鏡というもの見る。そしてそれが自分の醜い姿を映し出しているという現実を悟るや、そのまま心臓発作で悶死してしまう。それを見て王女はこう吐き捨てる。「これからさき、あたしのところへ遊びにくるものは、心臓のないものにしてね」。
「鏡」が「ラス・メニーナス」との重要な接点になっていることにお気づきだろう。こびとが見た己の姿は、絵の前に立った鑑賞者の目に映ったフェリペ4世とマリアナ王妃の姿である。王女は何事もなかったかのように舞台を去る。こびとは単なる遊び道具だ。これがベラスケスの絵の前列の実相である。いたいけない皇女は「女官たち」に世話され支えられているが、それは憎悪や死と隣り合わせの薄っぺらな安全であり、後列の父親、母親の権威によって庇護されているにすぎない。その権威がなくなれば娘の運命など藻屑である。中列右に立つ王女マルセラ・デ・ウリョーアが喪服を着ていることがその暗示で、暗闇から画家はそれをナイフのように鋭利な眼で描いているという構図だ。立場の弱い人間を見下して軽蔑する人間は、そのことで自分の心も蝕ばまれていく。宮廷ではそのように育つしかなく、「心」が発達しない。つまり、ワイルドが絵に読み取ったのはこびとの悲劇を触媒として浮き彫りにされた皇女の悲劇であり、そのことは差別の概念すらなかった(こびとは犬よりは上だで万人が収まってしまった)17世紀の鑑賞者は理解できない。しかしベラスケスだけは見抜いており、いずれ理解するであろう後世の人間に向けて発信したのではないか。それは18世紀のフランスで革命となって的中し、19世紀のワイルドは気づいた。21世紀の我々のうちの何人がそれに気づくのだろう。
この童話につけられたシュレーカーの「皇女の誕生日」は、音楽、絵画、文学、ダンスが “真の意味で” 融合した一例である。1908年6月27日の初演の舞台装置とコスチュームはベラスケス風で、ダンサーは当世ウィーンで一世を風靡していたグレーテ・ヴィーゼンタール(Grete Wiesenthal、1885 – 1970)と姉のエルザである。グレーテはウィーン王立歌劇場のバレエ団に数年間在籍し、指揮者だったグスタフ・マーラーによってオーベールの歌劇「ポルティチの唖娘」の主役フェネッラ(聾啞の設定なのでバレリーナが演じる)に抜擢されるまで出世をしたが、心のこもらぬ旧習だらけのバレエ界に嫌気がさして飛び出してしまう。そこで自ら創案したのがウィーンっ子の心であるシューベルト、ベートーベン、ランナー、J・シュトラウスのワルツに「ソロ」で踊る新機軸だ。髪を括らず、波打つドレスを着て、野性味ある俊敏性、優美で妖艶なエクスタシーを盛り込んだ独自のダンスは「キャバレー・フリーダーマウス(こうもり)」で披露されると瞬く間にブレークした。そしてクリムトが気に入ったのだ。彼の趣味からも納得できる。その様はこのようであった(ベルタを加えた3姉妹)。
この写真、ジュリー・アンドリュースの「サウンド・オブ・ミュージック」みたいだ。グレーテのスタイルはベルリン、アメリカでも好評を得たが特に独墺のバレエに影響を与えたそうで、クラシックより大衆に近いミュージカルに現れているのかもしれない。舞台ばかりでなく野外でも演じたのは、聴衆との垣根を取り払い、音楽はもちろん周囲の自然にまで感応したダンスをグレーテが求めたからだ。そのエネルギッシュな斬新さは大衆のみならず作家フーゴ・フォン・ホフマンスタールの創作にも刺激を与え、その代表作「ナクソス島のアリアドネ」(1912)初演で創作ダンスを踊り(音楽は言うまでもなくR・シュトラウス)、翌年春にはディアギレフのロシアバレエ団と契約している。その年、1913年の5月29日に初演されたのが「春の祭典」だった。彼女が起用された形跡はないが、リブレットをホフマンスタールが書き、ニジンスキー、グレーテ・ヴィーゼンタール、そしてイダ・ルービンシュタイン(1885-1960、ラヴェルにボレロを委嘱)が踊る案が検討されたという。
「皇女の誕生日」を僕が初めて耳にしたのは大学時代、レコードは高価で見知らぬ作品に投資する余力は皆目なく、上野の図書館で近現代音楽を渉猟していた時だ。冒頭部「輪舞」のにぎにぎしさに即座に思い浮かべた音楽はペトルーシュカだった。「皇女」にもパペットが出てくるし、主人公が女にふられて死ぬストーリーもエコーを感じた。「皇女」はヴィーゼンタール姉妹がキャバレーで踊るワルツでなく、既述のように総合芸術展(Kunstschau Wien 1908)という公的な色彩の場で新曲を委嘱して踊るデビュー公演であり、同様のプランをパリでと画策してたディアギレフはここで彼女に目をつけたと思われる。スコアは翌年ウィーンのUniversal Editionから出版されたから、1910年の8月から主にスイスでペトルーシュカを作曲していたストラヴィンスキーがその脈絡で知っていても不思議ではない。思えば彼の3大バレエは「魔王カッチェイの死」、「ペトルーシュカの死」、「選ばれし生贄の乙女の死」と死が連鎖しており、皇女における「こびとの死」にもつながる。
「皇女の誕生日」はロマン主義の上品な残り香のある美しい歌、息つく間もなく七変化する万華鏡の如き和声(拡張された調性)、宝石箱をひっくり返したように七色に光り輝くオーケストレーションを特色とするまぎれもなく最高の資質の作曲家による最上質の音楽である。和声については14才年長のR・シュトラウスとの関係が興味深い。マーラー9番第3楽章に似た部分があり、シベリウス6番そっくりの弦楽合奏部分は心の奥深くまで浸透してくる(両曲とも作曲はあと)。古典音楽+バレエという演目が新作の音楽を求めていく流れは、ロシアバレエ団の演目がチャイコフスキー、R・コルサコフやショパン(レ・シルフィード)などからパリにたむろす若手作曲家の新作に移行していくのと同様で、それがハプスブルグ王朝のウィーンとブルボン王朝のパリでシンクロして起こり、パリではストラヴィンスキー、ラヴェル、ファリャが、そしてウィーンではシュレーカーが掲題作を書いたのである。
「彼は何かに憑りつかれたように市電のなかでも人混みをかきわけながらも創作に没頭し、曲が次々と出来上がるたびに姉妹を訪れては弾いて聴かせ、彼女らが即座にダンスで応答することでインスピレーションをもらい、わずか10日でスコアを仕上げてしまった」。これはエルザ・ヴィーゼンタールの夫君の述懐だが、音楽と舞踊の結婚がうまくいった一例だ。この作品を起点にシュレーカーはオペラで成功をおさめ、ドイツで「リヒャルト・シュトラウスに次ぐオペラ作曲家」という評判を手に入れることになる。「持っていた」彼がナチスにより「退廃音楽」の烙印を押されて存在を抹消されかけたのはユダヤ系だったからである。命は奪われなかったが、芸術家としてはアウシュビッツに送られた。あまりの馬鹿気た理不尽に言葉もない。しかし、王女様の斬首事件と同様、理屈に関わらず残酷なことをやってしまうのが人間という生き物なのだ。幸い彼の音楽は復権しており、価値のわかる聴き手にとって大切な存在になっている。しかし実演においても録音においても価値に見合う取り組みがされているわけではない。それはむしろ聴き手の問題なのだ。
シュレーカーの本領はオペラである。「はるかなる響き」Der ferne Klang)、「烙印を押された人々」Die Gezeichneten)が代表作で書くべきことはたくさんあるが、ご存じない方にとっては親しみやすい「皇女の誕生日」から入るのは大変おすすめだ。モーツァルトの交響曲ほどの長さで充足感を与えてくれる。オスカー・ワイルドのストーリーが示唆する暗さや陰湿さはあまりない。作曲が踊りのイメージとタイアップして進んだことをうかがわせる点で興味深いものの、舞踊音楽としては中途半端な印象だ。場面を追いながら聴くのも一興だが、30才の天才のデビュー作として楽しめばよいと思う。ちなみに、曲想という意味ではないが、僕がこれを聴きたくなるのは、アーロン・コープランドの「アパラチアの春」でもいいかなと思う時だ。
当面のところ最高の演奏はローター・ツァグロセク(Lothar Zagrosek)がライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団を指揮したものだ。あらゆるフレーズや転調に心が寄っていて血が通い、錯綜してきこえる部分が混濁せず細部に至るまでのニュアンスに神経が通っているのがわかる。裏でppで鳴るトランペットの品格高い明滅など、並みの指揮者と格が違う。
アルトゥール・グリューバー指揮ハンブルグ交響楽団のVOX盤は演奏も録音も良い。ドイツのローカルオケのいい味が出ており、葦笛のようなオーボエ・ソロの旨味など聞きもの。曲のエッセンスをつかんだプロフェッショナルな指揮と思う。
このトロント大学交響楽団の演奏を僕はとても楽しみ、3回もくり返し聴かせてもらった。これを演目に選んだ指揮者のロレンツォ・グッケンハイム氏の慧眼と曲への愛情に深く敬意を表し、それに応えて見事な演奏をしているオーケストラに心からブラヴォーを送りたい。収録は2019年11月とコロナ前であるが客席も拍手もまばらで心が痛む。人間の最高の叡智のやりとりが芸術であって、僕は真の芸術は絶対王政のもとで育ったと考えるし、いまなら共産主義の方が育つかもしれないと、けっこう真面目に考えている。本稿の趣旨に反するように聞こえるかもしれないが微妙な論点だ。反していないことをご理解いただければ書いた甲斐があるが、共産主義ではグレーテ・ヴィーゼンタールは出てこないだろう。
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