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我が家の引っ越しヒストリー(2)

2021 SEP 25 0:00:57 am by 東 賢太郎

1984年の5月、大変にきつかった最後の期末試験と卒論をきりぬけ、全米トップのビジネススクールであるウォートン・スクールのMBA(経営学修士)を取得した。僕はこれを最終学歴として書くべき所に書き、誇りを持っている。政治家がどっかのMBAと履歴書に書いて学歴詐称を問われたケースがあったが、ばれるばれない以前の問題としてMBAというのは日本であんまり勉強もしてないような人が語学留学のノリで取れるような代物ではそもそもないのである。しかし僕も彼らを笑えないことがあった。最後のセメスターで、有名な最難関科目で日本人がこぞって敬遠するIntermediate Accounting(中級会計学)を軽い気持ちで “記念に” 選択してしまったことだ。これはすぐに心底後悔することになった。授業が始まってみると50人のクラスでCPA(公認会計士)が15人もいることがわかり、1割がfail(不可)になる相対評価だから焦った。これを落としたらMBAは取れないという絶体絶命状態だったから試験前の数日間は徹夜で猛勉強し、単位取得発表の前日はへろへろで足腰が立たないのに興奮して眠れもせず、学生生活であれほど恐ろしかったことはない。

ウォートン・スクールのロゴ

なんの自慢にもならないが僕は万事が集中力勝負の人間なので一夜漬けというか直前の追い込み学習は自信があり、大学ではノートを借してくれた友人より成績が良かったりした。それで楽してごまかしてきたが、東大法学部の最後の期末試験とウォートンのこれだけはそんな付け焼刃は木っ端みじんに吹き飛ばされた。いま思えば大馬鹿者というしかないが、単に、どちらも当時考えていたほど甘い学校ではなかったのである。東大では二日連続徹夜(まさに一睡もせず、飯もぬき)で死力の限りを尽くしたはよかったが、あろうことか本番前の朝に力尽きてこたつで寝てしまい、あやうく試験を寝過ごすところだった。あぶないぞと案じていた友達が下宿の窓に小石をぶつけて起こしてくれ、事なきを得た。ただ、たしかその晩だったスビャトスラフ・リヒテルのリサイタルは、東京文化会館まで這うようにして行くには行ったが、席に座った瞬間に熟睡したと思われ一曲も覚えていない。

教室のあるヴァンスホール

ウォートンの生活はどんなだったかと問われれば、人智を超えた巨大物量のアサインメント(宿題)に圧倒され続けた2年間だったと答えるしかない。教科書とバルクパック(副教材)を毎日500頁ぐらいは読まないと教室でついていけない(日本語でやってすら地獄の物量)。たまに挙手して発言しないとクラス・パー

ペン大のキャンパスにて

ティシペーション(クラス討議への参加)で加点されず、ゼロだと単位をくれない先生もいる。それを鉄砲玉のようなアメリカン・イングリッシュでぶちかまされるのだから、ついていくどころか初めの3か月は何を言っているかすらわからなかった。日本人は帰国子女の人も多かったが、こっちは突然に辞令が出てTOEFLとGmatは何とか最低点をパスした程度。受験英語ぐらいでは歯が立たなかったのだ。しかも法学部で習った日本の法律はMBAには屁の役にも立たず、逆にキモである経済学、会計学は大学でやってないのだから参った。集中するため図書館にひきこもり、午前零時の閉館とともにユニバーシティ・ポリスのパトカーに乗ってアパートまで送られたことも何度かある(当時はキャンパスも危険だった)。乗り越えられたのはひとえに火事場の一夜漬けに慣れていたおかげだ。まあMBAの目的には学問の修得だけでなく実際のビジネス現場での即決即断力や胆力の涵養もあろうからそれでよかったと思うことにしている。ちなみに英語は不思議なもので3か月でテレビCMを見ていたらバーンと聞き取れるようになった。3才位で日本のテレビニュースがある日突然バーンとわかったのを思い出し、そこから何とかキャッチアップできた。

タンホイザー

中級会計学の期末試験が終わると、スペイン、スイスに留学した同期がやってきて車でナイヤガラの滝からカナダのモントリオール、ケベック・シティまでドライブした。楽しかったが試験の合否の発表はまだで、気になって生きた心地がしない。ついに2月に合格とわかり、19単位が満了し、晴れてMBA取得が確定した。そうなると遊ぶことしか頭にない。すぐニューヨークへ行きメットで人生初オペラだった「タンホイザー」を聴き、ハーバードにいた東銀の伊藤 (現・一橋大学院教授)の家に泊めてもらって小澤征爾/ボストン響をきいた。母を呼んで3月はワシントンDCへ行きチェコ・フィル、メットでフランシスコ・アライザのモーツァルト「後宮」、4月末に最後のニューヨーク訪問をしてカーネギーホールでアルゲリッチ/デュトワ/モントリオール響でプロコフィエフ3番と幻想交響曲を堪能した。

さて4月に卒業だ。いよいよ東京に戻るぞと引っ越しの荷造りを始めた頃、人事部から部屋に電話が入った。荷物は東京でなくロンドンに送れと言う。頭が真っ白だ。夏休みに勉強はすっぽかして1か月渡欧し、まさか赴任しようとは思ってもいないのでロンドンで記念写真をとりまくってきたワタシなのだ。ショックであり嬉しさはかけらもなかった。しかし人生は分からないものだ、それが6年を過ごすことになるあの素晴らしい英国とのご縁の始まりだったとは。その地で僕は証券業務の何たるかを猛烈に怖い先輩方とウルトラ級に要求の厳しい顧客たちによって骨の髄まで叩きこまれ、人生における最重要の人脈ができ、何が出てきても怖いものがなくなって今がある。この赴任がなければ今の僕の生活は絶対にない。しかもそこでふたりの娘に恵まれ、素晴らしく奥が深い大都市ロンドンを家族で堪能したのだから会社に感謝するしかない。

世界一の教育システムで厳しく鍛えてくれたアメリカは大好きだったが、僕が覚えた英語(米語)はシティのバンカー曰く a sort of English(英語のようなもの)で、「キミ、治した方がいいよ」と訛りみたいに言われ、欧米とは一概にいうが「欧」と「米」には抜きさし難い都鄙観があることを知る。ガーシュインの「パリのアメリカ人」は自虐ネタである。文化面では大いに米国に満ち足りないものがあった僕にとって文化の香りにあふれた英国は砂漠のオアシスだった。一回り年長だが最後は友達になったお客さん(ファンド・マネージャー)のデビッド・パターソン氏とデビッド・クロウ氏は英国の伝統的保守本流のジェントルマンであり、株式運用はもとより、英国風オトナ流儀、アッパーのクイーンズ・イングリッシュ、そしてクラシック鑑賞における僕の師であり、気のおけないコンサートの友でもあった。

ご両人とは東京と京都の会社訪問のお供をした。クロウ氏と立ち寄った美しすぎる紅葉の東福寺や高台寺の旅館でのあれこれなど忘れられない思い出だし、ロンドンでは郊外の広大な別荘に家族で泊りがけで招待して下さり、ご夫妻と素敵なイングリッシュ・ガーデンで食事、お茶、テニスと楽しい時間を過ごした。パターソン氏はアイザック・ニュートン以来のケンブリッジ大学のダブル・トップ(二学部首席卒業)で、英国の頭脳といえる。ただ日本食が子供並みにダメで、京都の料亭で半ば無理やり食べさせたらついに日本食ファンになってくれた。転勤でお別れした3年後のある朝のことだ、僕が野村ドイツの社長になったという知らせをきいてロンドンの彼から突然の電話があった。「今日はいるか?」というや、電光石火でその日のお昼にフランクフルト国際空港までやって来てハグしてくれ、お祝いの本をくれてクイックランチをご一緒すると「会議なんで御免よ」と急いでロンドンに帰られた。こんな人、日本にいるだろうか。僕が英国ファンになったのはこういう深い深い事情があるのだ。

ロンドンで住んだのはイースト・フィンチリーという郊外の静かで小さな町だ。会社のあるバンク駅(シティ)まで地下鉄で40分ぐらいの駅(写真)で、そこから徒歩5分ほどの3階建ての庭付きのタウンハウスを家内と選んだ。米国は留学だけのつもりだったから東京からも生活に必要な荷物を送ったはずで、よく覚えてないが大変だったのだろう。

2010年に再訪した

建物の写真を見て気がついたが、どことなく壁面が最初のフェアファックス・アパートに似ているので気に入ったのかもしれない。さっそくタンノイの中型スピーカーを買い、ほどなくして流行りだした新フォーマットであるCDなるものを聴くためDenonのプレーヤーもそろえ、念願のアップライトピアノもその家にいる時に70万円ぐらいで買った。毎週末に都心に愛車アウディ(オンボロ中古だ)でくり出して必ずイタリアンか中華を食べ、ああフィラデルフィアではこれが恋しかったなあと感慨にふけり、妻とは別行動で僕はソーホーの中古レコード屋と、レ・ミゼラブルが長年かかっていたクイーンズ・シアターの対面の角にあった中古CD屋を漁っていた。僕の厖大なクラシックLP・CDコレクションはここから始まっている。

この家にはアメリカでバーンスタイン、チェリビダッケに会わせてくれたヴァイオリニストの古澤巌がコンクールのため来英して何日か泊まった。オランダのデルフト大学で講義した時に仲良くなった学生たちも、僕の母、家内の両親や親族も泊まった。一人前に所帯を持った気になった思い出の家だ。

1 Oakview Gardens(手前のドア)

事件もあった。空き巣が入ったのだ。1階にあったビデオプレーヤーを盗まれたが、警察の捜査で「侵入路は天井に近い横長の天窓で子供を使った」ことがわかった。なるほどお国物のシャーロック・ホームズみたいだなと思った。しかし痛かったのは機械ではない、挿入しっぱなしだったイングマール・ベルイマン監督の「魔笛」のビデオだ。お気に入りだったこれはロンドンで売っていなかったのである。この家もそうだが、周囲も中産階級のホームタウンというところで雰囲気はとても良かったが記憶があまりない。庭でときどき猫が来たかなというのと、隣の老婦人が「あなたブラームスの1番弾いてたわね」と言ってくれたぐらいだ。当時のピアノはとても下手であり、そういう意味だったかもしれない。覚えているのは、朝の暗いうちに妻に見送られて星を見あげながら駅まで歩いたことと、星を見あげながら日付の変わるころその道を戻って妻に出迎えられたことだけだ。ウォートンの拷問が終わったと思ったら一難去ってまた一難。全社に名が轟く鬼軍曹のK課長が率いる栄光のロンドン株式営業部は、「MBA?あんなのかわいいもんだったよ」と後に僕が語ることになる超絶的激務と人智の及ばぬ強烈プレッシャーがのしかかる “男の仕事場” だったのである。

 

一番手前が我が家

(つづく)

ウォートン留学中にこれがあった

米国人医師に救われた我が家の命脈

世界のうまいもの(その3)-フィラデルフィアのホーギー-

クラシック徒然草-チェリビダッケと古澤巌-

クラシック徒然草-フィラデルフィア管弦楽団の思い出-

我が家の引っ越しヒストリー(3)

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