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我が家の引っ越しヒストリー(3)

2021 SEP 26 23:23:00 pm by 東 賢太郎

ロンドンに着任した。1984年、入社5年目の夏である。家が決まるまでホテルに逗留したが、テレビでロス五輪をやっていたのを覚えているから7~8月のことだったろう。

そんなのを見ている場合ではない。配属先のインスティテューショナル・セールス・デパートメント(機関投資家営業部)は海外はもちろん全野村の拠点の稼ぎ頭のひとつで、そうそうたる先輩方がしのぎを削るウルトラ激務の部署として名が轟いていたからだ。株式営業は経験していたが、それは梅田支店の国内リテールの話である。2年のブランクで留学ボケもしているだろう。ここは世界の金融ビジネスの頂点、お客は誰もが知る著名な金融機関や機関投資家なのだ、そのまんま通用するとは思えない。武者震いは大いにしたが、できるというほどの自信はなかった。

ロンドンの「ロイヤル・エクスチェンジ」(旧王立取引所)

ヒースロー空港にはK課長が出迎えて下さった。車で会社へ向かう道すがらあまり会話はなく、はっとするようなストレートな物言いが幾つかあった。推奨する銘柄の情報取得ルート云々の話だったと記憶するが「どうすれば?」ときくとお前アホかという視線で「自分で調べろよ」の一言が返ってきた。ここで生きるには自助しかないなと感じた。数日たってそれを話すと「おまえ、Kさんが迎えに来てくれるなんてありえねんだぞ」と別の先輩が諭してくれた。そりゃあこちとら実績もない新参者だ。K課長と1対1で会話できるのはそれが最初で最後だよという意味だったが、もっと深い意味があることがだんだんわかってきた。

当時のオフィスは上掲写真にほど近い、金融街シティの中心であるバンク駅の東に徒歩数分のグレースチャーチ・ストリートにあった(後にモニュメント、チープサイドに移る)。Kさんは課長である。外人を入れて20人ぐらいの部なのに課長が仕切ってる。車中で会話しながら凄いなあと感じていたが、そういう敬意なんて甘ちゃんなものが成り立つ世界でないことをその日に知ることになった。オフィスに着くなり営業場の全員が軍隊みたいに起立する。僕の紹介など数秒で終わり、「やるぞ」の号令で全員が狭い会議室になだれこむ。夕刻の反省会・営業会議のようだ。普段通りの激烈な “詰め” が眼前で始まって度肝を抜かれた。目を疑う営業数字の話ではない、Kさんの詰めのキツさである。朝は6時半に集合して東京本社株式部と会議のようだ。そこでその日の営業目標を決め、夜までかけてそれを必達する。これこそがロンドンの掟(おきて)だと知って震え上がった。トヨタをしのぐ経常利益5千億円、ノルマ証券と揶揄された野村の営業現場で楽な所はなかったろうが、トップをひた走るロンドンはまさに戦場、修羅場だったのだ。

オフィス前のレドンホール・マーケット

時は日本株ブームの発端だ。グローバル投資のメッカであるロンドンのシティは煮えたぎるほど熱かった。僕が野村に入社した79年の日経平均株価は6,000円、このころが1万円ぐらいである。そこから87年1月に2万円の大台を超え、その後の3年弱でほぼ倍になった。その最後が1989年12月29日、年末最後の取引となった大納会でつけた3万8915円の史上最高値だ。1984~90年だった僕の「ロンドン時代」はその上昇とシンクロしているからラッキーだったと言われれば本当にそうだ。ただ、お天気と一緒で、雨の日は全員に雨、晴れの日は全員に晴れである。ブラックマンデーを除けば「快晴続き」だったこの業界は参入者がごったがえし熾烈な競争が展開される。その好例がここで書くノムラロンドンだったと考えていただければと思う。なにせ、掟だから部の商売が目標に達しないと誰も帰れない。現地社員は帰すが日本人は9時10時はざら、時に深夜にもなり、そんな時刻に英国人の自宅に電話していいのかと仰天すると「ばか、相手はプロなんだよ。大事な話は聞きたい」が現場の常識だった。たしかに我々が相手にする顧客はファンド・マネージャーである。運用成績に出世がかかっている。寝ている間に東京市場で大事があれば知らなかったでは済まないのだ。3年後のブラックマンデーでまさにそれが起きた。お客さんが夜中の2時3時に我々のオフィスにやってきて保有株を売るか売らぬか決めた。彼らにとって我々は不可欠の情報源、羅針盤であり、野村はやりすぎだという声はなく、こちらが日々緊張感ある仕事につとめればそれなりの注文をいただけるというウインウイン関係にあった。

だから何もなくても夜9時10時はざらなのである。上がだらだらいるから帰れないとかサービス残業なんて悠長なものではない。課員は会議室に集められ、その日の反省と明日の営業計画をK課長を相手にひとりひとりプレゼンさせられるのである。この時間は地獄だ。言ったことは翌日 “実現” する必要があるから生半可なことは言えないが申告が少ないと「お客さんをつかんでない」と怒鳴られる。「万事、大きく有言実行」が掟なのだ。野村でなければこんな理不尽は通るるはずもなく今なら完全にブラック、同じ証券界でも他社とは決定的に違う。しかし、本稿の最後にその理由を書くが、これを叩きこまれたのは後々の僕の人生にものすごく大きな影響を与えたのだ。Kさんは意気と度胸の営業マンなどとはほど遠いインテリで、コロンビア大学MBAであり、当時日本人は数名しかいなかったCFA(米国証券アナリスト)取得者でもある上に頭が抜群に切れる。プレゼンにびしびし鋭いツッコミが入り、あ~う~となってしまうと全員の前でさらし者になり、人間の尊厳を瞬間蒸発させるほどボコボコに叩きのめされてしまうのだ。別に殴られるわけではないが、言葉でビジネスをする我々にとって言葉でねじ伏せられるショックは殴られるより大きいのだ。しかし、ツッコミは理が通っていた。それを論破できないなら同様に頭が切れるファンドマネージャーに納得されるはずもなく、従って、翌日に注文はいただけず、言ったことは未達になるのである。有言実行できない者は野村で生き残れない。だからKさんと戦うことは自分のためになると考えるしかなかった。

それはウォートンのクラス討議など子供のお遊びに思えるほど実弾実装の戦闘訓練だった。知識・経験で最高峰にあるKさんを納得させられれば世に怖いものはない。当時は日々飛んでくる彼の銃弾をよけるのに必死だっただけだがそれで力がついたのだろう、何を薦めても無反応で発注皆無だったお客さん達にだんだん認められてきた。そのひとりが前回書いたケンブリッジ大学ダブル首席でリード・ステンハウス社の日本株運用首席デイビッド・パターソンさんだったのだ。彼の頭脳は当然の如く難攻不落で、一見とっつきも悪く、ケンと呼んでもらうのに半年かかったが、そうなってからは商売をしてもらえるようになった。すると先輩方も初めて仲間と認めてくれる。上司のヨイショやソンタクで身が持つのではなく万事が顧客の評価ありきだから極めてまっとうな組織だと思った。

Kさんだけでなく先輩方は皆さん個性あふれるつわもので多士済々である。そこで会社の重要なアカウントであるクェート投資庁、ロスチャイルド、モルガンなどを担当させてもらえることが「一軍選手」「レギュラー」のあかしだ。そこに至るまで2、3年はかかったが、慣れ親しんだ野球チームに似た感覚だった。課は4つあったが部の予算は全員で達成するから誰がその日のヒーローであってもいい。僕のホームランで達成しても大先輩含めて皆が喜んでくれる。逆の日もある。この喜怒哀楽の共有を6年も真剣勝負でやっていたわけだから、当時のメンバーはお互いの実力を熟知しており、今でも結束は固く「ロンドン会」と称していっしょに旅行したりしている(http://「野村ロンドン会」直島旅行)。仲間なんてもんじゃない、まぎれもなく「戦友」。第2の人生で上場企業の社長、役員の座を射止めた人がこのメンバーから5人も輩出されているが、Kさんの薫陶だから全く不思議に思わない(http://僕にとってロンドン?戦場ですね)。僕もその一人だが、それより何より、ソナー・アドバイザーズ株式会社がこのメンバーに出資していただいてできたことこそが人生を決した。同社はまさに「ウォートンから直にロンドンに赴任しろ」というあの嬉しくない辞令が生んだ人脈からできた会社なのだ。

若い方々に申し上げたいが、人脈はこうやってほんの偶然からできる。しかし転校や転勤や友人の紹介や飲み会で出会ったなどという「偶然」は、後に大きな実が成ってから振り返れば「小さなきっかけだったよね」というだけの話であって、何事だって、あなたが両親のもとに生まれたことだって、「偶然」なのだ。「大きな実」が成るには「大きなわけ」があったのである。百万回飲み会に出て偶然を求めてもそれがなければ何も起きないだろう。あると信じて求め続ける蜃気楼の名前が「人脈」なのだ。もっとはっきり言おう、求めるべきは「困ったときに助け合う仲間」なのだ。「コネ」といってもいい。あなたが困った仲間を救える「何ものか」がないと、困ったときに助けてももらえない。助けてもらえない人脈など、お店から来るお義理の年賀状の束みたいなもの。何枚あっても意味がない。「もっと大きなわけ」の正体はその「何ものか」なのである。僕は行きたくなかったロンドンで文句を言わずに6年働き、仲間と経験を共有して自然にそれができた。要するに、与えられた仕事を一生懸命にやったのが良かった。恋なら偶然からそのまま実が成ることはあるが、仕事でそれはまずない。

赴任3年目の1987年、4番打者とはいわないがクリーンアップに入れるぐらいの数字を僕はあげられるようになっていた。パターソンさんやクロウさんのような贔屓筋ができたからに他ならない、すべてはお客さんのおかげで仕事は順調だった。しかし私生活では子供がなかなかできなかった。だからその年に妻からきいた吉報は嬉しく、そこでさっそく、イースト・フィンチリーを出て一軒家に引っ越そうということになる。3階建てのタウンハウスでは階段の上り下りが多くて不安だからだ。クルマも安全第一でボルボに買い換えた。そう言いつつ夏休みは1週間の地中海クルーズに行ってしまっているのだが、そのチケットはアドバイスが成功して利益が出た旅行代理店の経営者が送ってくださったのだった。苦労して築いたお客さんとの人間関係から返すこともできず、会社には買ったことにして行かせていただいたものだ。

コリント海峡を抜ける船上にて

ロンドン~ヴェニスはフライト。そこでラ・パルマというクルーズ船に人生初めて乗りこんでアドリア海を下り、両岸が船幅ぎりぎりに迫る(写真)コリント海峡をしずしずと進んでからアテネを見物してエーゲ海へ出る。魅惑的だ。世界史で習った地名が次々と眼前に現れてわくわくの連続である。トルコに近いロドス島の東岸リンドスまで行って神話を聞きながら巡ったアクロポリスの遺跡の光景は僕の中にラヴェルの「ダフニスとクロエ」を呼び起こし、なぜだかこの地への強烈な憧憬が湧き起こってしまい、また来るぞという気持になった。帰路で寄港したクロアチアのドゥブロヴニクの美しさは衝撃的で、ずっとそこにいたいと思った。数千人は乗っていた船に東洋人の姿は我々しかなく、2か月後に出産予定でお腹の大きい家内はとても目立った。毎日同じテーブルで食事する3組の英国人カップルの皆さんがやさしくしてくれ、素晴らしい時を過ごした。皆さんご主人がリタイアされたご褒美旅行だったが、今は僕がその年齢になっているのだ。

そうこうあって見つけたのがフィンチリー同様にロンドン北部郊外に位置する住宅地ヘンドン・セントラルのこの家だった(左から2番目、奥にそこそこの芝生のガーデンがある)。ミルヒル、ヘンドン、PLというよくプレーするゴルフ場が近いのが魅力だった。引っ越しは87年のはじめあたりまでにしたと思うが覚えてない。同じ都市内で移動したことは後のドイツ、スイス、香港でもあるが、この時は会社の事情でなく出産のためと目的がはっきりしていたから苦痛でなかったのだろう。写真はGoogleにある今の姿だがちっともかわっていないのが感動的でさえある。長女は同年10月に、次女は日本に帰国する直前の1990年5月に英国ロンドン市で生まれ、この家で産湯を使った

ロンドン2番目の家

長女が生まれる直前に、前述のブラックマンデーがあった。その前日にロンドンを季節外れの台風が襲っていて、早朝にクルマで出ようとすると家から見て左にあった大木が道をまたいで根こそぎ倒れていた。写真の向こうの方へは車が行けず手前側に戻ったものだ。そうしたらその昼にニューヨークで株が23%の暴落となり、翌日の日本も蜂の巣をつついたような騒ぎである。僕らは会社で徹夜した。そうしたドタバタの木曜日の朝、妻が陣痛を訴え入院する。やむなくいったん出社して午後に病院に駆けつけた。寝ておらずふらふらだったので病院にお願いして隣の病室のベッドで仮眠させてもらった。誰やら女性の大声で目覚めると看護師さんだ。「何やってんのよ早く早く」と腕をひっぱり、問答無用の出産立ち合いとなる。頭がくらくらして椅子に倒れ込み、ひたすら名前を考えていると看護師さんが笑顔で寄ってきてドーンと娘のだっこになった。この時の重みは今でも腕が覚えている。かけてくれたおめでとうの言葉は ”It’s your daughter.” だ。そうかまだ ” it ”  なのか、はやく名前をつけてあげなくてはと思った。次女、長男の時は東京、ロンドンにいて申し訳なかったが、名前はこれだというのを事前に考えて決定は速かった。長女も次女も義母が来英してくれ、2、3日で妻は退院してこの家で水入らずになった喜びは忘れられない。1990年6月に東京に転勤となってここを去るとき、名残惜しいので庭の出てすぐ左に木を植えてきた。今はどうなっているのだろう。

Kさんは部長になられてたしかその前年に東京に転勤された。僕はボコボコは免れたもののたくさん叱られた。当時は若くて無謀。ある時、Kさんに言われたちょっとしたことでこっちが切れ、掃除用具の入ったロッカーを蹴倒してしまった。それでもついぞ関係が悪くなることがなく、常務になられても変わらず遊んでもらい、僕がスイスの社長になった1997年2月にはふたりでダボス会議に出席して昼夜ともに勉強させていただきスキーまで楽しんだ。最後に品のないカネの話で申しわけないが、証券の世界に身を置いた人間でそれ以外の成功の尺度は国際的にないと思うので感謝をこめて書いておく。ロンドンで彼の指揮下で約3年「頑張った」というより「耐えた」が、だんだんと、「ここでKさんならどうするだろう」と考えるようになった。そうして86年ごろ、今だから書くが、スイスのSBCのロンドン現法が秘密裏に会おうと言ってきて年俸7千万円で来ないかと誘われた。当時31才で破格のオファーだが断った。87年ごろには僕個人のサービスに対してお客さんがくださる月間の売買手数料は2億円ぐらいになった。年間で約20億円、6年で少なくとも100億円は稼いだろうから、僕にかけたウォートンMBA取得費用が1億円としても野村證券は充分にペイしたはずだ。そしてこちらも野村を卒業して億単位もらえるようになったからウインーウイン関係だった。キャリアの最後になって総括するなら、証券マンとして尊敬し一番の影響を受けたのはKさんである。7年上にああいう人がいたのだから野村という会社も凄いと思うし、あれだけ日本人離れした能力の高い人が社長になっていれば今ごろどうなっていただろうとも思う。

写真をGoogleで調べていたらサウスフィールズ44番のこの家が売りに出ていて値段が85万ポンド(約1億3千万円)だった。郊外だから5%として家賃が月50~60万円ぐらいか。香港、ニューヨークほどではないがロンドンの家賃は高い。

(つづく)

我が家の引っ越しヒストリー(4)

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