我が家の引っ越しヒストリー(7)
2021 NOV 18 18:18:37 pm by 東 賢太郎
一枚の写真を見て、ガツンと殴られたような気がして、それにまつわるたくさんの記憶が怒涛のように蘇ることがある。ネットを検索していて発見したこれが、まさにそれだった。
この駐車場、フランクフルトのダウンタウンやや北に位置するBörse(証券取引所)の前にある。ぜんぜん変わってないぞ。
我が家は毎週土曜日のお昼前に、ここに車を停めていた。取引所といってもべつに仕事がらというわけではない、食事や買い物をするツァイル(銀座通りみたいなもの)に近いからだ。いつもここだった。いちど帰りに画面の左奥の窓口で清算したおりに、4,5枚買ったCDを袋ごと忘れてしまい出てこなかったことまで思い出してしまった。
いまは知らないが当時ドイツは日曜日はお店は全休で、土曜も午後2時で見事に閉店してしまう。ランチもおちおちしてられない。ロンドンも日曜はだめだったが土曜はゆるめで午後も開ける店があったのでショックだった。ある日のこと、靴を買おうとしてサイズが合わない。「在庫を見てきます」と奥に消えた女性店員がいつまでたっても戻ってこない。おかしいなと思い時計を見るとちょうど2時である。まさかと思ったが、「閉店です」と追い出されてしまって唖然とした。5時ジャストに帰るドクターXの大門未知子ばりなのである。だから買い物も早く早くと慌ただしい。いちど、果物屋であれこれ物色しているうちに雑踏に紛れて次女がいなくなってしまい本当に焦った。以来必ず手をつないだが次女はだっこが定番になった。
ここから5分も歩くと高級ブティック街のゲーテ・シュトラッセがあり、その先がハウプトヴァッヘだ。下の写真の真ん中の建物がそれ(中央警備所)で、自治自衛の都市国家時代に警備本部として建てられた。後方にドイツ銀、コメルツ銀などの本社ビルが立ち並び、現代と中世が共存している風景はこの都市の特色だが、週末まで仕事場の気分が抜けず鬱陶しい時もあった。
写真の左手にあるのがカタリーナ教会だ。1712年からゲオルク・フィリップ・テレマンがこの教会の楽長をつとめ、 1749年にヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテが洗礼を受け、1790年にレオポルド2世の戴冠式が行われた際に売り込みにやってきたウォルフガング・アマデウス・モーツァルトがここでオルガンを演奏している。
ハウプトヴァッへは現在はカフェになっており、歩き疲れてここで何度も「お茶」をした憩いの場所だ。
昼はツァイルを右に1ブロック入ったソウルという韓国料理店によく行った。ジンギスカンがおいしく、うちのように赤ん坊がいるのは珍しかったのかマダムが子供たちをかわいがってくれて贔屓にしていた。外国に住んだ人しかわからないだろうが和食にはいつも飢餓状態だ。当時のドイツは外国の食文化において甚だ後進国で、和食は “すしもと” という寿司屋を除くとしんどかったものだから中華、コリアン、タイ、インド料理というと砂漠のオアシス的存在だった。
その南にレーマー広場がある。ゲーテハウス(生家)とともに街の代名詞で観光客は欠かさずここへ連れて行かれる。
歴代の神聖ローマ皇帝の戴冠式は後方に見えるバルトロメウス大聖堂で行われ、手前の美しいファサードのレーマー(市庁舎)で祝宴が行われた。モーツァルトは公式には呼ばれていないから中に入ってないが、戴冠したレオポルド2世の晴れやかな行列がここを通るのを眺めていたに違いない。
休日のランチはたまにドイツ料理店にも行った。ビールがおいしいからだ。英語で「俺は関係ねえよ」は It’s none of my business. だがドイツでは Das ist nicht mein Bier.(それは私のビールではない)という。黒はドゥンケル、白はへレスといえばいい。代表料理である写真のシュバイネハクセ(豚の膝肉)は見かけほどゲテモノではなく、フライドポテト、ザワークラウトとビールのコンビでなかなかいける。
5月末~6月はシュパーゲル(白アスパラ)が出てきて、ラインガウの景色の良いレストランでランチをすると心からドイツに住んで良かったと感激する。肉の方が付け合わせであって、アスパラだけで満腹になるという幸福感は他では味わえないだろう。この場合はビールでなくワインがおすすめだ。ここに書いたクロスター・エバーバッハのトロッケンベーレンアウスレーゼは日本だと3,4万円するが、飲んでみれば納得する。人生一度は味わうに足る逸品である。
ドイツで一番感動したレストランはハイデルベルグ郊外のヒルシュホルンである。写真のお城の右下に見えるデッキのようなところで、まるで天空に浮かんだようなテーブルでネッカー川を見おろしながら食事する最高の贅沢である。高所恐怖症はあまりの景色の美しさに忘れる。ドイツ恐るべしだ。
フランクフルトの街の遠景はこんなものだ。高層ビルがそびえる欧州最大の金融街で、欧州中央銀行はここにある。手前がマイン川であり、マンハッタンにひっかけてマインハッタンだ。川は写真の左手に流れてゆき、隣町のヴィースバーデンでライン川に合流するのである。後方の丘陵に最初の家のあるケーニッヒシュタイン、右手のタワー(オイローパ塔)の近くに二番目の家があった。
仕事の話になるが、官庁はボン、商業はデュッセルドルフで商社はそっちにある。フランクフルトが金融のハブになったのはユダヤ人のゲットーがありロスチャイルド家がここで発祥したことと深い関係があることは前稿で書いた。その後、ユダヤ系富裕層の多くは写真後方の丘陵に居を構え、銀行家の御曹司フェリックス・メンデルスゾーンはそこでヴァイオリン協奏曲を書き、病気になった指揮者オットー・クレンペラーは湯治をしていた。
だから我々証券マンはフランクフルトにいる。ドイツの法制上銀行の形をとっているが、日本の銀行がドイツ銀行を差し置いて融資業で食うのは難しい。戦えるのは「日本企業の株式資金調達に関わる証券業」だった。だからノムラが強く、先輩方には生意気で申しわけなかったが30代の小僧が金融村でデカい顔ができたのだ。ちなみに、このように銀行が証券業を包含して経営する方式が、いまや死語となった「ユニバーサル・バンキング」であり、大蔵省(当時)が米国のグラス・スティーガル法による銀証分離行政を合体型に転換するモデルとなった。
94年に来独した元社長の田淵義久顧問(通称コタブチさん)と2泊でバート・クロイツナッハにゴルフにでかけた折、ホテルのサウナで「東、大蔵省のユニバーサル・バンキング案を潰す手はないか?」ときかれた。じっくり考えたが良い回答はできなかった。そうこうして5年ほど後、興銀、富士、第一勧銀が合併してみずほフィナンシャルグループとなり、傘下のいわゆる銀行系証券会社であるみずほ証券ができる。当時、そこにお世話になろうとは夢にも思わなかったが、バブルが弾けて3,4年たったこの頃に欧州、米国で予兆のあった後の金融界の激変、再編、合従連衡の波がこの5年ほど後に日本をも襲い、巡り巡って自分にも及んでいたのだという整理はつく。
まず当時のドイツだが、東西統一のごたごたとバブル崩壊による信用収縮が相まって不良債権処理の猛烈な嵐が襲っていた。ドイツ銀行は役員が2,30社の事業会社の顧問を兼任し全産業を支配したが、その体制で切り抜けるには銀行自体も体力がもたず、資本市場からの資金調達やM&Aを手掛ける投資銀行業務への進出が不可欠になっていた。そのために銀行はマーケット部門(証券業)の強化に走ったのだ。僕がスイスに行ってからだが、その動きを象徴する人事が97年にドイツ銀行から発表された。頭取に投資銀行部門出身のブロイヤー副頭取が就任したことだ。氏は温厚な方で僕がドイツ証券取引所会員になる時に推薦状をいただいたが、ロンドンでキャリアを積まれた英語族であり副頭取止まりというのが当時の常識だったのだ。
それと軌を一にしてもう一つの常識が崩れた。同行の取締役会の公用言語が英語になったことだ。証券業は英語ビジネスであり、ドイツ銀の証券部門にプロパーの人材が不足しており、外部から英米人を幹部に迎え入れるためプライドを捨てたのだ。「おい、四苦八苦したドイツ語口頭試問、あれは何だったんだよ?」と思ったわけだが、僕が95年にスイスに異動して引き継いだやはり英語族の後任者はBAKでの面接は英語でオッケーですぐに社長になれた。その波がいよいよドイツ金融界の頂点であるドイツ銀行まで及んだということだったのだ。実は僕自身も赴任してすぐ「来年から英語になるから心配ない」と前任者にいわれており、それで安心して遊んでしまった。それが1年たって「悪い、やっぱりドイツ語らしい」といわれてひっくり返ったという経緯があった。
2004年にみずほ証券が僕を株式引受部門長という幹部職で受け入れてくれたのは、ドイツと同じ方向に日本の金融庁が舵を切って銀証の垣根を低くする「ユニバーサル・バンキング構想」が不可逆的に始まっていたという背景があったからだと思う。採用して下さったみずほの横尾常務(後に社長)は現在は我がソナー・アドバイザーズ(株)の取締役会長であり、経産省の官民ファンドである産業革新投資機構(JIC)の代表取締役社長CEOでもある。人の出会いというのはまったくわからないものだ。野村の田淵さんは銀行系証券の進出を阻止したく、だから前述の質問があったわけだが、こちらは真っ只中にいたのに一晩考えても解決策が浮かばなかったのだから流れはもう止められなかったのだろうと思う。
僕はドイツ銀幹部に「最後は資本の勝負だから銀行が勝つぞ」と教わっていた。彼らが証券業進出に舵を切ることが英米人の立場からいえばユニバーサル・バンキングなのであり、英米といっても資本家はほとんどがユダヤ系である。どっちが勝っても負けがないポジションを取る人たちであり、もちろんそうなっていたから米国を使ってドイツ当局に圧力をかけ、特にスイスへは「ナチ・ゴールド」でいちゃもんをつけて半ば強引に金融市場を「開国」させた。まさに、下田にやってきた黒船と同じことを仕掛けたのである。株式業務にキャリアのある英米人にとっても、ドイツやスイスの大銀行が幹部として高給で雇ってくれるのだから悪かろうはずがない。だから僕はこの趨勢は「不可逆的」だという読みに賭け、みずほ証券に移籍させていただいた。リーマンショックで投資銀行は管理の名目でみな銀行傘下に組み入れられてしまい、ドイツ銀幹部が予想した通りの結末になった。ドイツに赴任しなければそんな深い理解はできていたはずもなく、みずほ移籍も恐らくなかったから人生の分岐点だった。
同銀はモルガン・グレンフェル(1989年)、バンカーズ・トラスト(1998年)を買収し、2005年までに収入の75%を投資銀行部門から出すようになった。第2次大戦中はナチスに融資しヒトラーの経済アーリア化に協力した銀行がユダヤビジネスに転換して成功したのだ。経営力もあったが、まさしく「最後は資本の勝負」でもあった。
写真はドイツ銀行本店のツインタワーで、最上階にはプールもあった。完成は1984年で新宿の高層ビルより遅く、40階建てで高くもないのだが、いま見ても美しく格好いいビルだ。毎月ここで日本企業のマルク債発行市場の情報交換をしていたが、引受部長のフォークト氏は渋めでウィットの利いた大人であり、いろいろなことを教わった。上組の400億円起債はその素地があったから恙なく消化できたともいえる。
一言付け加えておくが、資本があるといって銀行が勝ったわけではなく、当座をしのいだだけだ。邦銀に至っては何もやっておらず、メガが3つもある意味すら不明である。その陰で往年の輝きのかけらもない証券会社は言うに及ばずだ。
ドイツでの最後の年になる1995年2月、ドイツニュースダイジェストに僕の記事が載った。もう忘れていたが、アセットマネジメント子会社、営業部門を増強するなどしたので社員数は112名になっていたようだ。
読むのも恥ずかしいが、思いっきり肩に力が入っていて微笑ましい。いまなんか「一度会ってみたい人物」は米倉涼子だし、モットー / 座右の銘は「毎日楽しくやろう ♪ 」になってる。
39才でヴィースバーデンの音楽監督になったオットー・クレンペラーは晩年に『ここでの3年が人生最高の時だった』と語っている。37才からの3年をここで過ごした僕も全く同じ言葉を綴ることになるだろうが、そんな日がすでにこうして来ていることに少々戸惑わないでもない。
(つづく)
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