点と線(ヴェルディとゼッフィレリの場合)
2023 APR 15 11:11:26 am by 東 賢太郎
フランコ・ゼッフィレリ(1923-2019)についてそんなに知ってるわけでないが、我が世代にとってこの人といえばまず映画「ロミオとジュリエット」だろう。封切りは1968年だった。ヌードシーンがあるというので当時中学生の僕は手が出せず、観たのはずっと後だ(ビートルズのマッシュルームカットすら禁止の時代だった)。だからリアルタイムではあの甘い主題曲しか知らない。最初にロミオ役の出演依頼を受けたポール・マッカートニーは断ったそうだが正解だったかもしれない。主演のオリビア・ハッセーとレナード・ホワイティングが70才にもなって「あのヌードは児童虐待だった」と映画会社パラマウント・ピクチャーズを相手に数億ドルの損害賠償裁判を起こしたからである。ポールにそんな恥ずかしいことがおきなくてよかったが、そこまでしてカネはもういらなかっただろう。
対極の話がある。名前は伏せるが、日本の某大女優の私生活の話を聞いて驚いたのだ。「行くからよろしく」といわれて待ちかまえていた料亭の店主が、あまりに質素なので他の客に紛れて目の前に座っているのに気がつかない。なんと家では今でもまだブラウン管テレビをご覧になっている。若かりし頃を知る僕としては「あの頃」を大事にされているのだと思いたい。かたや、あの目を見張るほど可愛かったハッセーさんの変わり果てた裁判のイメージ。こんな郷愁にひたるのは日本人だけだとわかってはいるのだが・・。
エンタメ界における男女の性的なハチャメチャぶりはモーツァルトの昔からあって、不謹慎な僕などこの業界それなしでは華がないぐらいに思えてしまうのだが、これは動物である人間の本能の発露にすぎない。だからこそキリスト教が「汝姦淫するなかれ」と説く必要があったのだ。それを内に外に強制する教会という存在は不自由の権化であり、だからこそ、その禁断の呪縛から劇と音楽が解き放たれた喜びは絶大だった。シェークスピアはそれを敵対する家の男女の燃え上がるような恋、禁じられた恋の喜びに昇華させて見せ、ティーンエージャーの汚れなき純真さと、穢れきってしまった大人社会の相克が弱い者の死によって贖われる不条理を劇にした。こんな劇が現れ得たこと自体が、教会からの開放の喜びという二面性の象徴だったのだが。
ゼッフィレリはそこで画期的なロミオとジュリエット像を創造した。シェークスピアは二人が絶世の美男美女とは書いてないし、美醜に関わらず物語は成り立つだろうが、現代の読者は、この “空前の” 悲恋物語には “空前の美男美女” こそふさわしいというイルージョンを懐く。それは映画というフィクションが人類に与えた人工甘味料なのだ。ゼッフィレリはその効能を鋭敏に予知し、早々に具現化して当てたのだ。あのヴィジュアルの二人を配した大成功で、原作も音楽も及ばぬ映画のバーチャル世界がハチャメチャの深奥に踏み込んだ美の市民権までを擁立したかに見える。本作はさらに大きな潮流として「ヴィジュアル万能時代」の幕開けを呼び起こすのだが、この映画が人間にストレートに突き刺さる「視覚」を通して問いかけているのは「こんな美少年美少女がこんなひどい目にあっていいの?世の中まちがってない?」という脱キリスト教的で新鮮味すら加味された不条理なのだ。そこで生まれた感性が欧米ではBBCが報じたジャニー 喜多川みたいな方への歯止めをなくし、日本では戦国大名の頃からあったものが美女、イケメンなら少々のことをやらかしても許されてしまうおかしな社会的風土の方へ行ったと僕は思っている。「美人なら旦那が逮捕されても問題ない?またテレビに出る?そんなことはない!」という理由が「彼女はよく見るとそんなに美人じゃない」だったりして、まあ僕にはこんなものまったくどうでもいいが、奥深い仏の悟りなのか国ごと不条理なのか皆目見当もつかなくなっている。
そうした時代の方向性にとどめを刺したのが、イタリアのエンタメ界のドン、ルキノ・ヴィスコンティ(1906-76)がマーラー5番の耽美的な旋律にのせて美少年を刻印した『ベニスに死す』(1971年)だった。このヴィスコンティという男、父は北イタリア有数の貴族モドローネ公爵であり、自身も伯爵でバイセクシャルであった。僕の中ではそのどれもがロシアの地方貴族の出だったセルゲイ・ディアギレフと朧げに重なる。どちらも貧しい美少年美少女を集めて囲ってマイ社交界をつくり、富裕層を篭絡し、バレエ、演劇、オペラ、映画などエンタメ産業の装置を駆使して大衆にまでアピールし、人類に名作を残した。ヴィスコンティはパルチザンを匿う共産党員だったが視点は怜悧なネオレアリズモのインテリ貴族だったのに対し、ディアギレフはビジネスライクで世俗的な人たらしのイメージがあるが両人とも大いなる成功者であった。
対してゼッフィレリは大衆が求めるヴィジュアルに鋭敏なセンサーを持っている、ヴィスコンティに憧れて囲われていた美少年のひとりであった。双方別の相手と婚姻中であったお針子の母親と服のセールスマンの父親の間の情事によって婚外子として生まれ、やはりヴィスコンティの取り巻きだったココ・シャネル(1883-1971)とも親密だった。シャネルは露天商と洗濯婦の子に生まれ修道院で育った孤児だ。お互いを憎からず思う出自であったろうふたりの共通点はそこから欧米の社交界の頂点に上りつめたことだが、出生時に戸籍を記した役所のスペルミスを終世そのまま姓に使った点もそうだった。もう一人、ヴィスコンティの取り巻きだった女性がいる。ニューヨークのギリシャ移民の子マリア・カラス(1923 – 77)である。J・F・ケネディの未亡人ジャクリーンと結婚するまでの大富豪オナシスの愛人であり、やっぱりゼッフィレリと親密になり、映画「永遠のマリア・カラス」が生まれている。
ジュゼッペ・ヴェルディ(1813-1901)の両親は宿屋主と紡績工である。出生時の名を父がフランス語で書いたためフランス人として生まれた。彼の音楽については文字を書く資格を僕は有していない。アイーダという彼の代表作をロンドンで1度だけ接待のため観ているがその1度だけであり、幾つか見たと言ってもチケットをもらったかお付き合いの接待か、少なくとも勉強しようと半ば義務感から自分で買って行ったのはリゴレットと椿姫とイ・ロンバルディだけで、どれも半ば居眠りしているうちに終わり、もういいやで帰ってきたのである。
だから我ながら今回の新国立劇場のアイーダを観ようと思ったのは空前のことだった。なぜか?ゼッフィレリの演出だったからだ。いま何がしたいといって、古代エジプトにずっぽり浸ってみたい、もうこれしかない。だって現代の世にこんな異界のライブ体験なんて、ディズニーランドに行っても味わえないのである。なぜ浸りたいかって、理由はない。僕は時々発作的にこういうことがあってひとりでふらっとバンコクやウィーンに飛んだりしている。パニックが怖いから飛行機は嫌なのに、それをも打ち砕く衝動というものには勝てない。でも今回は行ったって仕方がない、クレオパトラが出てきそうな古代じゃないとだめだから。
かくして思いは遂げられた。
これがオペラの醍醐味とまではいわないが、これを味わわずに死んでしまうのはもったいないとなら自信を持っていえる。総勢300人と1頭(白馬)が舞台をうめつくし、歌い、踊り、駆け抜け、トランペットを吹き鳴らし、生き物のように蠢く。この第2幕を9列目から眼前に眺め、空気の揺動を感じ、すさまじい気に圧倒され、ロビーで過ごした第3幕までの25分の休憩時間というもの、尋常ならぬ感動でずっと涙が止まらなくて困った。人間、求めていた図星のものを手に入れるとこんなになるのだ。後ろの席から「ここで終わればいいのにね(笑)」の声が聞こえ、なるほどと思ったのだろう、思わず僕は「これだけで3万円でも安いね」とつぶやいた。冒涜ではない、クラシック史上もっとも稼いだ作曲家への正当な賛辞と思う。
ヴェルディが「ヴェリズモ・オペラ」を書いたとするなら真骨頂は第3,4幕であり、第2幕は運命の暗転と奈落に落ちる前の束の間の歓喜だ。そこに人間劇はないし当時の饗宴を目撃した者などいないのだからレリズモのしようもないわけで、空想をふくらませて思いっきりラダメスを高く持ち上げておいて、後半でつるべ落としにする。その悲劇に三角関係の女性がからみ、地下の獄中死という更なる悲劇への人間ドラマに迫真性が増すという寸法だろう。だから、所詮は空想である饗宴という飛び込み台は高ければ高いほど効果的だ。
しかしここまで思いっきり持ち上げてしまうと、逆に、ラダメスがなぜアムネリスをふってアイーダに走ったか納得性が毀損するなんてことを考えてしまう。軍の機密を漏らせば英雄といえど死刑になる、彼はそれを知っている、だからこそ普通の男なら王女アムネリスとねんごろにうまくやって安泰じゃないのと思うわけだ(と思うのが僕を含む普通の男だろう)。「いや英雄は愛に生きるのだ。普通の男じゃないのだ」というならせっかくのリアルな人間ドラマに旧態依然で黴臭い「神話」がかったものが混入する。レリズモなんて嘘じゃないのと冷めるのだ。ということは、アイーダがそんなにいいオンナだったのだという、雑念を消すほどには納得性のあるヴィジュアルが求められるという一点に配役、演出の成否がかかる(ちなみにこの日はこれも納得で満足だった)。
この問題はラ・ボエームで顕著にあると僕はいつも思ってしまう。だから大好きなこの曲はCDで音だけきくことが多く、サロメやジョコンダのソプラノがいくら大きくてもそれはない。肺病で死んでいくミミに痩身で可愛いソプラノ・リリコを選んでしまうと、音楽的には最も肝心である第1幕の二重唱がどうかという作品自体に潜む現実的制約に悩むのだ。聴き手側に視覚と聴覚の調整を強いるキャスティングが「ヴェリズモ・オペラ」になるのかどうかという問題だ。しかし、ゼッフィレリ流は精緻なフェークに作りこまれたレリズモである。大人の妥協に波紋を投げかけるのだ。だからきっと、時代と共にタイプが変わる「美女のアイーダ」という制約条件に永遠につきまとわれるだろう。「ロミオとジュリエット」で「ヴィジュアル万能時代」への道を開いたツケが回ったわけだが彼は謎を残してあの世に旅立ってしまった。このオペラは面白い題材だったろうし、彼自身、高く評価したのはスカラ座と新国のアイーダだったときく。感謝の気持ちで書いておくが、このアイーダは世界のどのオペラハウスと比べても遜色ない。指揮のカルロ・リッツィが東京フィルハーモニー交響楽団(素晴らしい!)から引き出した音はスカラ座で聴いたものと変わらない。歌はアムネリスのアイリーン・ロバーツが印象に残った。
では最後に、ヴェルディについてだ。作曲料としてかなり法外な金額(今の1億5千万円)と、それに加えてカイロ以外のすべての上演料まで請求している。凱旋行進曲に華を添えるアイーダ・トランペットまで特注して盛り上げたかった彼がゼッフィレリの第2幕演出に反対する理由はなかろう。国会議員にもなって統一後のイタリアで「名士」に列せられた彼を聖人化して、そうではないと反論される方は、
最盛期には約670ヘクタールの土地(東京ドームのおよそ143個分)を所有していた(中略)最晩年のヴェルディのポートレートは、「作曲家」というよりもほとんど「農場主」そのものである(平凡社『ヴェルディ―オペラ変革者の素顔と作品』加藤浩子、根井雅弘評)
という意見にも反論する必要がある。というよりも、それが事実なら問題だ、不純だしあってはならないなどと感じる感性があるとすればそれは金儲けを悪とする日本的共産主義思想の産物でしかなく、才能あるイタリア人にそんな極東の特殊な思想があるべきと希求すること自体が国際的には理解されないナンセンスだから苦労して反論する意味もあまりないと思う。ヴェルディこそ、百年前の先人モーツァルトがコックのテーブルで食事させられて怒り心頭に発したことへの仇討ちをした人物であり、著作権の概念がまだ未熟だった時代に作曲家という高度に知的な職業の本質的価値を、契約法を勉強することで自ら経済的に実証した最初の有能なビジネスマンだ。天が二物を与えることを信じたがらず、どういうわけかそれを認める者を批判さえする人は各所にいる。メジャーリーグの古手の野球ファンにもいるにはいたが、大谷の活躍がそれを蹴散らした。僕はヴェルディをそう評価しているし、それが作曲家としての名声を高めこそすれ、いささかも貶めるなどとは考えない。
ゼッフィレリがアイーダ第2幕で造り上げた究極の豪奢は蓋し空想のフェークなのだが、大衆が求めるヴィジュアルに鋭敏なセンサーを働かせた微細にリアルで見事なセットであるゆえに、僕には人間が生きるためには不要なゴミであるという反語的象徴のようにも思える。観客に見せるためでなく正気でここまでやったのだとすればもはや喜劇ですらある。「喜劇と悲劇は裏腹だ」。ゼッフィレリがそう訴えたならコミュニストのヴィスコンティに近かったかもしれない。しかし、彼が師から受け継いだレリズモはヴェルディにこそ忠実だった、と僕は思う。その理由を氏素性に求めるのは酷かもしれないが、名誉も金も哲学もあったヴィスコンティにはやりたくてもできないことをゼッフィレリもヴェルディもできたわけだ。それは「ヴィジュアル万能時代」のような世の流れを大衆から読み取ることだ。本稿を書きながら、筆の流れでそんな結論に行き着いた。しかし、新国のロビーでワインを飲みながら、第3幕までの25分の休憩時間ずっと涙が止まらなくて困った僕も、読み取られた側の大衆の一人なのだ。ヴェルディ、ゼッフィレリ万歳!
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