「もしもピアノが弾けたなら」は辞書になし
2024 OCT 22 12:12:14 pm by 東 賢太郎
西田敏行さんの「もしもピアノが弾けたなら」は、歌詞を調べると、「ピアノで思いを君に伝えたいが持ってないし聞かせる腕もない」という歌だったようだ。ようだというのは、そういうのがあったぐらいは知ってるが一度も聞いた記憶がない。その手のものにとんと興味ないのもあったが、題名をみて、無能が歌にまでなるのか、そんな暇があるなら練習すりゃいいじゃないかと思う性格だ。西田さんは女性にもてたろうが僕がさっぱりだったのは思えば当然のことだった。
ピアノはもっぱら妹がやるもので、当時の世界観として女子のお稽古事であった。だからそんな恥ずかしいものを習おうなど考えたこともない。そもそも学習塾もなにも、何かを習ったということがない。ところが中学あたりでクラシックに目覚めてきて、自分の聴いている面白い音が何かという科学者みたいに即物的な研究心がわき、天体観測をする際の全天恒星図あるいは鉱物標本、人体解剖図を持っていたのとまったく同系統のノリで悲愴交響曲のスコアを買った。暗号のようで何もわからない。「もしもピアノが弾けたなら」と思ったのはこの時だ。
そこから独学にのめりこむ。高校あたりでバッハのインヴェンション1番ハ長調とドビッシーのアラベスク1番が弾けていたから悪くはない。悲愴のスコアはちょっとはわかるようになった。芸大に行きたいなと思ったのはこのころだが両親はそういう考えはまるでなかった。ちなみに野球も受験もそうでゴルフも自己流でスコア75を出したからどれも同じぐらいのレベルまでは行った気がするが、独学の宿命でどれもいい趣味にすぎない。いま職業にしているスキルは証券会社にいたのだからきっと初めは習ったのだろうが、これもそんな記憶はないぐらいに自己流である。証券業は以上のジャンルに比べればまったくもって誰でもできる、西田の歌の主人公だってできるだろうから誰にだって教えられるし、いま仲間になっている40歳あたりの後継者たちを指導することは僕のライフワークだ。
いま、さらに「もしもピアノが弾けたなら」の心境になっている。基礎訓練をしてないから候補は平易な技術の曲に限られ、それでいて自分の耳を満足させるものとなるとさらに限定される。ラヴェルのマ・メール・ロア(二手版)はそのひとつだ。終曲は弾くだけならそう難儀ではないが、出だしのピアニッシモ、とくに2拍目のドミシレは魔法のような7度と9度の音量に絶妙のバランスが要求される。ラヴェルは、マーラーもそうだが、常人の目からすれば変質狂レベルの完全主義者だ。のっけからやり直しの連続で楽譜には何も書いてないが極めて難しいことは弾いた人はわかる。変質狂が書いてない、というか楽譜の記号でも文字でも書けないのだから、これが難しいなら俺の曲は弾くなということに違いない。人間が造った「世の中の最高級品」とはすべからくそういうものによって成り立っているのであって、宣伝やマーケティングやイメージ操作や裏取引をしないと需要のないものは100%間違いなくすべてガラクタである(みなさんたった今そこらじゅうで響いてる選挙演説をお聞きになったらいい)。クラシック音楽は最高級品の中でもトップ中のトップのひとつであって、だからそれがわかる人(理解ではない、アプリーシエイト)に300年も聴かれているのであり、真の喜びというのは神の如く細部に宿っているとつくづく思うのだ。「もしもクラシックがわかったなら」という人は300年たってもわからない、それをせずに死んだら人生もったいないと思うかどうかだけだ。ラヴェルがここぞという場所に絶妙に「置いた」宝石のような音たちのまきおこす奇跡!自分で演奏すれば何度でも好きなふうに味わうことができる天上の喜びだ。
シューベルトの即興曲D.899の第3番変ト長調もそう。何度弾いても飽きることのない6分ほどの白昼夢のような時間である。二分の二拍子を表す記号が2つ書いてあるから二分の四拍子で「出版時は調号が多いことに起因する譜読みの難しさなど、アマチュア演奏家への配慮から、半音上のト長調に移調され、拍子も2分の2拍子に変更されていた」(wikipedia)らしい。ラヴェルに書いたことはここにも当てはまり、弾きやすい調にすれば解決できると思うような類いの人はこれを弾くのはやめたほうがいい。当時の調弦は少なくともオーケストラの a は低く、それを現代ピアノでト長調なら全音近いアップであり狂気の沙汰だ。シューベルトのピアノ曲で変ト長調はこれしかなく何度聴いても弾いても変ト長調しかありえないと思う。速度はAndanteであり、二分音符で歩く速さだろうが、ピアニストにより幅がある。速いのがシュナーベルで、ロマン派ではないからそうなのだろうというのが私見ではある。彼はそれで旋律を歌って見事に呼吸しているが、それがどんなに難しいことかというと、野球をしたことがある者が大谷を見てなんで摺り足であんな打球が打てるんだろうと思う、その感じが近い。ある個所で、アルペジオのたった1音だけ、つまりほんの一瞬、何十分の1秒だけ短調が長調になるのはよく聞かないと気づかないがこういう仄かな明滅がシューベルトにはある。低音で出るまったくもって音楽理論の範疇外の非和声的、非対位法的なトリル、空しく何かを希求するばかりで報われないのがわかっているコーダのT-SD-Tの和声は最期の年のソナタ21番の冒頭主題にそっくりリフレーンしている。感じるのは死にほど近いシューベルトが心で聴いた「何ものか」である。ではそういうものをシュナーベルから聴けるかというと、残念ながら、あれだけのドイツ音楽の名手にしてそれは否なのだ。シューベルトの時代の人間の感性がロマン派を知ってしまった我々に想像もつぬそういうものだったのか、ではどういうテンポでどう弾くのか。僕は技術的問題で遅くしか弾けないが、それでいいのかどうかいまのところわからない。
これからハードルは高いが何事もできると信じないとできない。ベルガマスク組曲ぐらいはいきたい。モーツァルトはヘ長調とイ短調のソナタ、ベートーベンは悲愴、ブラームスは3つの間奏曲作品117。バッハは平均律、ロ短調とハ長調(フーガ)は頑張りたい。著名曲ばかりだが、ニコライ・チェレプニンの「漁師と魚の物語」なんてのもある。
来年70になるが、もうひとつ、仕事をなし遂げたあかつきには社会人講座かなにか東京大学で、それもできれば懐かしい駒場で勉強したい。当時、いくらでもできたのにしないで遊んでしまったのはまさしく若気の至り、後悔でしかない。物理や天文なんかを孫ぐらいの先生に習うなんてのはいいなあと思う、僕の辞書にはなかったから想像するだけでも楽しいことだ。
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