どうして慶応ボーイばっかりになったの?
2025 AUG 9 14:14:49 pm by 東 賢太郎
結婚式で娘が「このテーブル、慶応ボーイばっかりだよ」という。数えてみた。ソナー・アドバイザーズの役職員、主要パートナー16人中12人。なるほど75%が慶応ってのは尋常じゃないし、加えて娘までそうだ。人物評価だからえり好みは一切してない。相性ということなら、こちとら幼稚園から小6まで少年ケニヤみたいに野っぱらを駆け回って育った成城っ子だ。不勉強がバレて怒った親父に受けさせられた慶応もなにも、どこか忘れたが受けたのは全部落ちた。こんな不まじめなガキだったひとは社員にはひとりもいない。
自分の縁でないなら先祖しかない。資料が見つかったので調べた。祖父が福沢諭吉が存命中の明治32年(1899年)に信州の飯田中学から慶応義塾予科に入り、明治38年に卒業して三井物産に入社し、10年後に上海支社長になり、喧嘩して飛び出して王子製紙の役員になっている。長崎の祖母とは遠隔地結婚だった。田中平八つながりだろうか伊奈出身の製紙王・藤原銀次郎がメンターであり、藤原は諭吉の門下生だったから慶応との縁はきわめて濃厚だ。卒業生というだけならどうということもないが、野球という訳語ができたころに野球部で米国遠征までしていたのは時代が時代で光る。
祖父のキャリアを意識したわけではないが、僕も野球を真剣にやり、米国の野球大会でMVP、遠隔地結婚、最初の会社で香港社長、そして飛び出して別の会社の役員になった。野球は自然に始め、神戸の妻とは全くの偶然で、米国の野球もたまたま、香港への転勤なんか寝耳に水で勘弁してくれ状態だったし、別な会社に移ろうなど社内の誰ひとり想像もしない超右派の社員だった。しかし、思いもよらぬ運命の流れでこうなって、すべてが終わってから眺めてみると、祖父が背後にいて導きでもしないとこうはならないだろうという驚くべきシンクロぶりだ。
この因縁を仲介したのは母だ。物静かで優しい人だったが、どんな嘘も見ぬかれて絶対にごまかせなかった。よくお化けを見ており霊感も強かった。慶応が東大より上と信じており「無用な浪人はやめて頂戴」だった。それは無視したが就職だけは頑強に「官僚と銀行員だけはやめてね、あなたは向いてないのよ」と銀行員の父をさしおいて就職先の選択に釘をさされ、これは効いた。女学校しか出てないし就職経験もないのになぜわかったんだろう、まさしく、そっちだったら絶対に出世しなかった自信がある。田中平八の存在を知らされたのは証券会社に決めてからで、やっぱり血なんだろうか結果的に水を得た魚のチョイスだった。母の話が潜在意識に刷り込まれ、霊感のパワーで祖父と交信してシンクロしてしまったなんてこともあるかと本気で思っている。
祖父の記憶はない。72才で天国へ旅立った時、まだ2才だったからだ。ひとつだけ親戚の間の伝説があって、お通夜の日のこと、仏さまになった祖父の枕もとで叔父たちにけしかけられ、刀を振り回して赤胴鈴之助を歌うと座が明るくなり、ケン坊、お爺ちゃん喜んでるぞ!と一同が号泣したときく。ほんとに喜んだのかもしれない。そんな豪気で自由闊達な気風の家だったことをいまは僕が誇りにして守っており、作ったソナーも15年目になる。慶応ボーイばっかりなのはその元祖の呼び寄せだったんだ、きっと。叔父、叔母たち、そして両親も、誰もいなくなった。そしてあと2年だ、僕が爺ちゃんの歳になるのは。
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