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ブラームス 「ドイツ・レクイエム」作品45 (その3)

2025 SEP 29 8:08:27 am by 東 賢太郎

ブラームスの生家

ヨハネス・ブラームスの伝記はドイツ語で読みたいが時間が足りない。バーデン=バーデンやハンブルグで買い求めた資料は訳文がなくまだ読破できていないが、ドイツ語原書の日本語訳、英米人による英語本、そして日本人による日本語本で手に入るものはほぼ読んだと思う。AIを使うとさらにわかる便利な時代になったが、それによってハンブルグ時代については一次資料が不足しており詳しくはわからないことも見えてきた。彼がエルベ河の埠頭に近いハンブルグのシュペック通り60番地のアパートの2階(写真)で生まれたことは書いた。1905年、そこを訪れた弟子のフローレンス・メイは、「階段を上り、ブラームス家が住んでいた狭い部屋にはいった私は当惑と落胆で震えた」と伝記に書いている。いまはビル街に記念碑だけがぽつんとある、その空漠としたよそよそしさは何だろう。151曲あったと伝わる初期作品を彼はほとんど破棄している。これが「厳しい自己批判」だけの仕業だったのだろうか。もし自分だったら?「家族にとって百万もの不愉快があったその時代を消したかった」こともあろうかと想像したりもするのである。

偉人の伝記がどう書かれるかは興味深いテーマだ。画家や彫刻家は作品が語るが、作曲家、作家、学者は作品、著書という「紙」が語る。演奏家の名技は聴いた人の書いた紙から想像する。モーツァルトは父子の膨大な書簡集が、ベートーベンは会話帳があるが、それもまた紙だ。つまり、当時の音楽家にとって紙というものは商品にもなり、書簡の場合は後世に残ってしまう可能性のある、すなわち「自分の人生をどう後世に残すか」に関わる自画像の一部でもあった。だから、望ましくないものは焼いてしまう。モーツァルトはその気使いをせずベーズレとの行為が周知になってしまったが、都合の悪いものは焼却処分したコンスタンツェがなぜかそれは焼かず大作曲家の自画像の一部とした。ブラームスはほとんどの書簡を自ら処分したとされる。だから残っているものは自ら認めた自画像なのだが、結婚の気持ちが冷めた後、クララが彼の書簡を処分してしまったのでそれは完全なものとは言えない。

残っているのは、冷める以前の両人の赤裸々なラブレターである。伝記をロマンティックに読む人は、どこからどう見ても熱いそれによって、満たされぬ結末となるクララとの恋を重く見る。しかし、彼女はというと結婚の気持ちが冷めた後、彼の書簡を処分してしまったのでそれは実は「上書き」されていたはずであり、伝記として客観性ある視点ではない可能性がある。一般に(と僕は思っているが)、別れた相手を男はいつまでもうじうじと覚えており、女はあっさり忘れる。当時の彼は二十歳そこそこの世慣れぬ若者であった。恩師シューマンの影をどうしても踏み越えられず、うじうじする結末になったわけだが、クララはアガーテに気が行った彼を見てあっさりと冷めた言葉を残している。彼は彼で、年月を経てからは当のクララの娘までという数々の女性に恋心を抱いた男でもあったことで、両人の関係はバランスが取れるところに落ち着いたのであろう。

結婚にふみきれなかったもう一つの理由は両親の関係にある。Paul Holmes著、BRAHMS his life and timesによると、落ちぶれてはいるが地方貴族の末裔だった母は上昇志向のある父にとって欠点を補って余りある存在だった。それが、恋仲だった同年輩の女性とのお似合いの結婚ではなくアンバランスな方を選択させた。その甲斐あって、同年に父はハンブルグの市民権を得ており、ヨハネスは自らの出自の証としてそれを誇らしいと語っているが(Max Kalbeck『Johannes Brahms』)、後にクララに「僕はハンブルグ市民でなく、小市民の息子だった」とも語った。実は小市民ですらないという真の出自へのアイロニーにも聞こえる。この “ルサンチマン” は根深かった 。ゆえに作曲家として頂点を極めることがレゾンデトル(自己存在認証)であるという道に入りこみ、抜き差しならない斯界の高みにまで登ってゆき、孤高の登山家のような人生に足を踏み入れてしまった。家庭には憧れた。しかしそれに足を縛られたり、連れ子の父親になるような重荷を負っては目的は成就できない。ゆえにアガーテは去り、クララは親友か母親かという存在にならざるを得なかったのである。

ひとことで括れば、彼は自分の出生に関わる複雑な認知的不協和を抱えて生きた人だったということになる(参考:マルクスとブラームスの自己同一性危機 | Sonar Members Club No.1)。自ら打ち建てた自画像どおりの大作曲家になった、そのことに僕は形容のできない尊敬の念を懐かずにおられず、そうするしかない生い立ちの中で究極の努力を重ねて最高の幸せを得たのだと信じたい。そのおかげで、我々は、複雑な感情の不協和の中に慎みと秩序がありながら、渋みと悲しみと淡いロマンの入り混じった、彼にしか書けない音楽を持つことができたのだから。『ブラームスをきく』というのは、なんという含みと味わいのある言葉だろう。フランソワーズ・サガンの小説「ブラームスはお好き?」は彼なくしては構想もされなかったろう。レクイエムを「ドイツの」ではなく『人間の』(menschliches)でも構わないと語った彼は、宗教的信念に関係なく、すべての生ける者に慰めを提供したいと願った。ドイツ・レクイエム第3稿では、彼自身がいみじくもその作曲にあたって採った「人間の」という立場の由来について、彼の家族に関わる視点から述べてみたい。

前稿にもふれたが、父ヨハン・ヤコブ(1806–1872)はハイデの宿屋の次男だ。ハイデという街はハンブルグの北105キロ(鉄道で1時間半)にあり、現代の人口2万と東京から見れば熱海(105キロ、人口3万)程の距離と規模である。漁師、大工の家系にして音楽を志し、両親は反対すると家出もしかねない情熱に負け音楽学校に学ばせている。19才でハンブルグに出て街頭や猥雑な酒場のバンドで演奏をした。この写真を見て、僕は自信家で弁舌に優れ、構想力・思索力よりも、野心に満ち、行動力、対人能力、発信力がある人物との印象を強く懐く。何で成功するかといえば機を見て敏なる商売人か。ヨハネスにその印象は薄いが、彼はその血を引いている。

19世紀のハンザ都市は中世の世襲身分である大市民が支配しており、流れ者であるヤコブはまず音楽家ギルドに所属し、コントラバス奏者として洒落た貴族サロンの六重奏団に加わり、軍楽隊のホルン奏者として上級歩兵に擬せられる地位になる。能力があった。だから息子の楽才を幼少にして見ぬき、友好関係を築いていた音楽人脈から最高の教師を選び息子の将来を託すことができた。商才はそこに発揮されたのである。そうした父の出自にまつわるプロフィールはヨハネスが作りあげた自身のイメージとは似つかぬものだが、だからこそ僕は大方の伝記が通説として語る彼の人物像に些かの違和感を懐くのだ。

E_Remenyi_and_J_Brahms

「ハンガリー舞曲集」は酒場で弾いていた父の系統の音楽だ。彼はエドゥアルト・レメーニにジプシー音楽を教わって20才でドイツ各地を演奏旅行する。港町ハンブルクはハンガリーからアメリカへわたる移民たちの拠点でアメリカ楽旅の出航地であり、レメーニもハンブルグに立ち寄り、ティーンエイジ最後のヨハネスと知り合い意気投合したのだ。レメーニはウィーン音楽院に学んだハンガリー系ユダヤ人で、コシュートの革命に加わった疑いで追い出され放浪楽師となった男だ。そのジプシー音楽はヨハネスの心をとらえた。ヨハン・シュトラウスのワルツなど、彼には父由来の大衆音楽、しかもユダヤ系のそれへの嗜好があった(シュトラウスもユダヤ人である)。音楽を生活の糧とする実利主義も父由来で、「ハンガリー舞曲集」の楽譜は大いに売れ、レメーニに盗作と訴訟されるに至ったが、幸いにして楽譜に「編曲」と記していたためヨハネスが勝訴している。ちなみに、ウィーンに出たのち、後進のドヴォルザークに目をかけたのは肉屋の子という下層の出自への共感もあると思われ、経済的援助も視野に入れ紹介した出版社ジムロックが同類の「スラブ舞曲集」を書かせヒットしている。人間ブラームスの素顔だ。

上掲のアパートで授かった三人の子供のうちヨハネスは二番目で、姉エリーゼ弟フリッツがいた。後に彼は「姉とは似た所がほとんどなく、弟とは付き合いがなかった」と語っている。偏頭痛もちで病弱だったエリーゼは音楽の教育は受けられなかったが、母は愛情をこめて「太った愚かな農民」と呼び、両親が別居してからはヨハネスが彼女の生計を助けた。夫を亡くしたクララと子を慰めるためヨハネスはライン地方からスイスへ旅をするが、同伴したのが姉エリーゼだ。40才で時計職人と結婚してもうけた子供は生まれてから数日後に死亡した。ウィーンに出て大作曲家になった弟を誇りに思い、送った200通もの愛情がこもった書簡はエリーゼが1892年に亡くなるとヨハネスに返却された。他のほとんどの書簡を処分した彼は、それだけは燃やさなかった。

フリッツは兄と公平に扱われ、父親はオーケストラ奏者にしようとハンブルク・フィルのコンサートマスターに学ばせたが挫折した。ヨハネスが終生感謝した名教師たち(オットー・コッセルとエドゥアルト・マルクセン)にピアノを習い、自身も教師にはなったがクララ・シューマンはテクニックはあるが演奏は退屈と評した。フリッツと姉は、昔の女と浮気した父を批判して母の味方についたが、ヨハネスはどちらの側でもなかった。母の没後に父が再婚した女性とも良好な関係を築き、フリッツが晩年に健康を害すると経済的な援助を惜しまなかった。人間ブラームスの真骨頂だ。

父ヤコブの性格は、たまたま泊まった雑貨屋の親類で裁縫師をして生計を立てていたヨハンナ・ヘンリカ・クリスティアーネ(1789-1865)に知り合って、わずか1週間でプロポーズしたことに見て取れる。この求愛はロマンス小説とは程遠く、クリスティアーネ自身が「年齢がちがいすぎるので信じられなかった」と亡くなる直前にヨハネスへの手紙で述懐している(筆者注:17才年上)。ベートーベンの伝記作家ヤン・スワフォードによる「彼女は小さく病弱で、片方の足が短く、魅惑的な青い目をしていたが顔は地味な41才の女性」との記述がある。写真を探してみたがこれしかないようであることからも、ヤコブとの運命の出会いがなければ、第2子が生まれていなければ、後世が知ることはない女性だった。敬虔なプロテスタントであり、粗末な家を鳥籠や草花や装飾で明るく彩り、才能ある料理人であり、明るく前向きな女性だった。特筆すべきは思慮深い読書家でもあり、当時の女性としては秀でた読み書きの力があったことだ。息子への書簡がそれを物語る。ヨハネスの楽曲にみる、どんなに熱を持っても常に趣味が良い情感、滋味、重厚で深みある精神性とロマンのバランスは母に由来しており、この母なくして彼が巨匠になることはなかったと僕は思っている。

1853年6月、二十歳になってレメーニと新天地を求める楽旅中の息子に送った「今あなたの生涯が本当に始まったのです。ハンブルグで一生懸命蒔いたものを刈り取るのです。あなたの時が来ました」という、他人の僕さえ打ち震える母の言葉は息子の人生を決定的なものにしたと確信する。二人は常に深い愛情の絆でつながっていた。ハンブルグで一生懸命蒔いたもの。それは彼にとって思い出したくもなく、ウィーンで通用するものでもなく、みな破棄してしまった作品なのだが、養分はヨハネスの中にたっぷり残っていた。それを刈り取って10年もたったとき、母が天に召された。弟フリッツから「私たちの母にもう一度会いたいなら、すぐに来てください」と電報がありハンブルグに急行したが、母は脳卒中ですでに亡くなっていた。ショックだった。その喪失感が「ドイツ・レクイエム」という大輪の花を咲かせることになり、シューマンが初対面で激賞したヨハネスの楽才を楽界に証明する最初の作品となった。このエピソードは、自分が就職するとき、それまで一度もその類いの会話をしたことがなかった母からまさに同じような言葉をもらったことと心の深い深い奥底で共鳴する。だからどんな辛い目に遭っても負けずに、強く乗り越えて来られたと思っている。

「ドイツ・レクイエム」第4楽章はこう歌う。

いかに愛すべきかな、なんじのいますところは、
万軍の主よ!
わが魂は求め慕う、
主の前庭を。
わが身と心は喜ぶ、
命の神の御前で。
幸いなるかな、なんじの家に住むものは、
なんじをつねに讃えまつるものは。

「なんじのいますところ」、それはフローレンス・メイが当惑と落胆で震えたハンブルグのシュペック通り60番地のアパートの2階である。「なんじの家に住むもの」、それはヨハネス自身である。

前稿に書いたように、僕はこの楽章の出だしを聴くと、物心ついてから中1まで住んだ和泉多摩川の団地の、日が燦々とさしこむ6畳の居間の光景が浮かんできて涙を抑えられない。母は草花や手芸で編んだ装飾や皮細工で彩ってくれ、小鳥と黒猫を飼ってくれ、そこはいつも明るく気持ちよく、幸せだった。ヨハネスがそのような思慕をもってこの楽章を書いたかどうかはわからないが、歌詞の選択からそうだったと確信する。それほど僕はこの音楽に反応してしまう。大曲の中で最も短いが、一番愛するのはこの楽章である。前から数えても後ろから数えても4つ目。7つある楽章のど真ん中に彼は母をすえたのである。

ダニエル・バレンボイム指揮シカゴ交響楽団。素晴らしい演奏だ。バレンボイムのロマン派というと、まだ彼が39~40才だったフィラデルフィアでのリストのロ短調ソナタが忘れられない。リストの代名詞である速くて名技的なところではない。ひそかに沈静していくコーダの漆黒の闇だ。弾き終わった彼は魂の抜け殻のようで、なんというピアニストかと思った。

ブラームス 「ドイツ・レクイエム」作品45 (その4)

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