バッハと数学に関する小論
2026 JAN 13 0:00:38 am by 東 賢太郎
読書をしているとちょっとした言葉が気になることがある。それをそのまま放っておくかどうかで語学力に大差が出る。もちろん日本語だってそうだが、それが外国語の場合、僕は語源まで調べたいのでラテン語辞典も持っている。そこまでしているのは僕ぐらいかなと思っていたが、今やAIが瞬く間に語源の組成まで教えてくれるのだから今からすぐに誰でもできる。いい世の中になったものだ。もしいま僕が受験生だったら勉強の仕方は革命的に変わっていただろう。
語源にこだわるようになったのは当時の必読本だった「試験に出る英単語」の影響だ。よく出るという謳い文句より、接頭語や語源で単語を分類して覚えればエコノミーという考え方が気に入ったのだ。のちにそれは英単語だけの話ではなく、「分類という頭の使い方」はすべての知的作業や学問のベースとなるという大事な発見に行き着いたのだから同書には感謝している。それに気づいてみれば子供の頃に読んだファーブル昆虫記やシートン動物記はまさにそれだったし、ダーウィンはフィンチのくちばしでそれをやって進化遺伝学を創造した事がわかる。文法でたとえるなら暗記は名詞、頭の使い方は動詞である。つまり「『何万個の英単語を暗記しても1つの文章にもならないから物知り博士やクイズ王にはなれるだろうが、インテリジェンスの涵養には何の役にもたたないよ』と言われても暗記だけの人はからっきし信じないが分類ができる人は信じる」というファクトまでわかる。後者の人は人間も分類しているからだ。
語源を探っていくとどんなメリットがあるのだろう?それをご説明しよう。たとえば英語のテースト(taste)は「味」だが、好み、趣味、美意識の意味にもなる。日本語の「味わい」もおおよそ同じ意味あいをカバーしており、 AIで調べると中国語も同様だ。つまり古来より東洋も西洋も味覚の比喩で抽象的な感覚を共有し、その選択の具合で人間の中身を評価したりしてきたのだ。こうしたことは試験には出ないが有益だ。言葉は人間の思考回路から生まれるからであり、その成り立ちのなりわいを調べれば人類の歴史がわかるという意味で文化的な遺跡であることが体感できる。試験に出る年号の暗記は僕もしたが10年でほとんど忘れ何の支障もない。言葉は遺跡だという学習から本稿が生まれたことは読了して頂けばご理解いただけると思う。どちらが生きるために重要かということはここでも明らかになる。
ラテン語で食通のことをhomo elegansという。homoは人であり、elegansはどなたもご存じの英語のエレガント(優雅な)の語源だが、そのまた語源はラテン語のēlēgō(吟味して選別する)で、分解すると ē-(外へ)+ legō(集める・読む・選ぶ)である。つまり「集めた中から外へ選び出す」というイメージでelection(選挙)もここからきている。要するにローマでは「選別された人」が食通と思われていたのである。セレブに置き換えれば現代日本でも同じと思われるかもしれないが、セレブは英語のcelebrity(セレブリティ)の略で著名人のことであり、金持ちの意味ではない。選別されたわけではなく相続や不動産や株で資産を得ただけの人はそもそもセレブでなく、概して真の意味での食通でもない場合が多いのである。
とすると、ラテン語のelegansというものがどういう意味か気にならないだろうか?なるという人は目がある。これが解答だ(Chat GPT)。
- 優雅な、上品な、立派な
- 好みのうるさい
- 識別力のある、教養のある
次にその子孫である英語のエレガントの意味だ(Weblio英和辞典)。
- 上品な、優雅な、しとやかな
- 気品の高い、高雅な(芸術・文学・文体など)
- 手際のよい、簡潔な、すっきりしている(思考・証明など)
- すてきな、すばらしい(主に米国で用いられる)
これを見比べて思い出すことがある。受験勉強で「大学への数学」にはまっていた頃、その界隈で理想とされたのが「エレガントな解法」なるものだった。エレガントといえばオシャレみたいなもので、女性や服装や髪型を言うものとしか思っていなかったから、解法なんて無機質な言葉を形容するのが不思議だった。それが難問を5行ぐらいでささっと解いて「お先に」と教室を出て行けるシンプルでスマートで無駄のない解き方を意味することを知るにはしばらく時間を要した。多くの複雑な問題は解き方が数通りあって、どれでも正解だが短くて速いに越した事はない。凡ミスのリスクが減り、検算もでき、問題数が多いほど合格に有利だからだが、僕の美学においてはそうした功利的なことより単にカッコいいからだった。そう、この「カッコいい」という語感が数学の「エレガント」であり、そう感じられるかどうかがセンスなのだ。僕はそろばんを習っておらず暗算ができないし、計算は遅くて下手な部類だ。しかしそれと数学力は別物だということは数学が苦手な人ほどわかっていない。
ここでラテン語のelegansの2.「好みのうるさい」に光が当たるのである。この意味は英語になると消えてしまっていることにご留意いただきたい。僕はダサい解き方で丸をもらっても嬉しくない。即ち、解き方の好みがうるさい。これはある意味で上級者の証しである。問題用紙を真っ黒にして膨大な計算をして腕力で解きましたってのはスマートさに欠け、泥と汗のにおいがプンプンする。それがどうにも性に合わない。そういう性格でないとなれないものなのかもしれないが、あくまでこれは受験数学の話だ。それ以上はやってない僕に語る資格はないが、最小の時間と労力で最大の効果を得ることこそ数学的と感じていたのであり、それを無視して数学の問題を解くこと自体が定義矛盾で気持ち悪かったのである。
ここで英語のエレガントの3.「手際のよい、簡潔な、すっきりしている(思考・証明など)」に光が当たる。英語は「好みのうるさい」が消えた代わりにこれが入っている。あくまでイメージだがとても英国人らしい思考の痕跡と思う。「腕力で解きましたってのはスマートでない」のスマートとはこのことだ。問題を手際よく簡潔に解く。スマホのスマートはまさしくこのニュアンスであり、多機能を複合するエレガントな解決法なのである。ガラケーでも充分に便利だったのにそれで満足しない「好みのうるさい」人たちがアメリカにいたわけだ。単なる便利さではない、その方が先進的で合理的でカッコいいというオシャレ感も大衆の心をがっちり掴み、企業収益で大差がついたのもスマートだった。優雅や教養は金にならないがカッコよさは万能なのだ。
僕の好みがうるさいのはこだわってる分野だけでそうでない分野はそもそも好みがない。だからその分も集中投下してうるささは2乗になり、世間様と平仄が合うことはまれだ。何々同好会とか友の会みたいなゆるい集団に参加するのは無理であり、人生所属したのは技を究めるガチの体育会だけだ。サラリーマンはそれ自体がだめであんまり所属感がなく、人事評価する上司にそれを見せる競技大会のようである飲み会やカラオケは苦痛であった。それで31年も続いたのは体育会時代と同じくガチで仕事して技があったゆえだ。負けない方法は勝つまでやめないことだ。負けてもそう信じられたのは自分のこだわった技が通じないはずはないと自信があったからだ。
その自信のルーツを探ると「数学のエレガント」に帰着するのだから受験勉強に没頭したことは重大な価値があったと思う。数学は宇宙の決め事を読み解く言語であり書いたのは神だ。そこに無駄はない。なぜなら人間とて半導体に余分な回路を作る者はいない。まして神がそんなことをするはずがない。だから必ず必要最小限かつ必要十分。人間はそれを美しいと感じるように造られている。それがエレガントの実体なのだ。この考え方は一神教的である。多神教の日本人は融通無限のあいまいを好み、ロジックという原理原則が世の中を支配しているという考え方は一般に嫌う。僕も多神教の親に育てられたが、決定的に宗旨がえをするきっかけは数学だ。それほど強烈なインパクトがあった。以来それが正しいと確信している。なぜならエレガントの魅力に憑りつかれて気がついたら偏差値が80になっていた。これを神の祝福というのかなと思ったわけだ。
ヨハン・セバスチャン・バッハの音楽が数学的だという人は結構いる。その質問を僕にした人も何人かいる。しかし、レオナルド・ダヴィンチやミケランジェロもそう言われることがあるが、遠近法が数学だと言われてもねという感じを禁じ得ない。バッハの作品には音楽的な理由からカノンやフーガなど様々な法則的なものが散りばめられている。オクターブ内の12の楽音は周波数が数値化できる物理量であるからその法則を音の長さや音程の距離のパターンとして計量化できるのは当たり前である。それを発見しようと思えば簡単なのも難しいのもあろうが、要はやろうと思うか思わないかということであり、そこからわかることは、バッハが自分の作曲技法の個性として法則性、パターン性を重視していたということである。それゆえに前奏曲とフーガの24のペアから成る平均律グラヴィーア曲集が2セットも書かれたわけだが、そこから得られる大伽藍の如き圧倒的な感動がフーガという技法に多くを負っていると言ってもそれほど誤りではないだろうが、数値で計量化できる規則性のある作曲法のためといえば疑問であり、ましてそれを数学と呼ぶかと聞かれればNOである。それが使われた理由、なぜその音をそこに書いたかはバッハがそれを音楽的と思ったからに他ならず、事実はそれ以上でも以下でもない。
数学美が埋め込まれているからバッハの作品は感動的なのだと言いたい人々の気持ちはわからないでもないが、それならあなたはブーレーズの作品にも同じほど感動しますかと聞きたい。僕はル・マルト・サン・メートルを時々聴くが、フィボナッチ数列であるひまわりの種の螺旋状の並びが僕を魅了しているかどうかは感知できない。ブーレーズは神の摂理の数字を封じ込めてあると公言しているがそれはどこのどれかは語っていない。アナリーゼできないほど巧妙に作られているのだろうが僕が魅力を感じているのは計量化できない音色だ。科学者でもあったレオナルド・ダヴィンチの絵にはひょっとしてあるのかもしれないが、バッハが数学者でもあったという話は聞かないし、数学者だったブーレーズやアンセルメがバッハ演奏に特に情熱を示したようにも思えない。
本稿を書きながら僕がバックでずっと流していたのはワンダ・ランドフスカ女史の平均律グラヴィーア曲集第1・2巻の全曲である。両曲集ともグールドの演奏は聴くたびに発見があるし、第2巻はタチアナ・ニコラーエワがイチオシなのだが、不承不承ながらただ一言リザベーションをここに書かざるを得ない。どちらも楽器はピアノなのだ。ランドフスカはハープシコードによるバッハ演奏の創始者でありゴルトベルク変奏曲をそれで初めて録音した人だ。ピアノによる演奏には批判的だった。それを覆したのがグールドだったわけだが、だからといって彼女の演奏の価値が色あせることは永遠にない。むしろ久々にこうやって腰を据えて味わってみるとこの演奏の魅力にはまったくもって抗い難いものを感じるのである。僕が古楽器を好きでないのは周知だが、それは懐古趣味だからでも弦楽器のノンビブラート奏法のせいでもなく、ひとえにロ長調のジュピターを聴かされるピッチのせいだ。A=440Hzの記憶との乖離という犠牲を払ってまでオーセンティシティに価値があるかというと僕は否定的だ。その興味深くはある知的な試みは博物館でやればいい。その不都合はこの録音にはない。楽器はエラールでバッハ演奏へのオーセンティシティの知識は僕にはないが、この素晴らしい演奏にバッハが喜ばないはずがないと確信できる、それだけで十分だ。
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