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孫文の亡命航路に見たもの

2026 MAR 2 17:17:03 pm by 東 賢太郎

仕事ができて関西に行った。若いころ大阪で2年半過ごしたから知らないわけではないのだけれど、久しぶりに来てみるとやっぱり新鮮だ。その昔、警察署の看板がひらがなで書いてあるのに度肝を抜かれたのがなつかしいが、何ごとも漢字でいかめしい東京流の裃(かみしも)を脱ぎ捨ててしまうと身も心も軽やかだ。

大坂は笑いをとってなんぼだ。そのカルチャーにはほど遠い自分が商売できたのは今となると不思議である。関西の人は総じてフレキシブルでストレートであり、こちらは何事も最短で目的を達成したい性格だから結果論的に波長が合ったのかもしれない。後に知ったがアメリカ人もビジネスではそうであり、大阪の洗礼はけっこう宝物だった。

関西というと大阪、京都、神戸、奈良に和歌山、滋賀ぐらいが入るのだろうか。東京人はどこも「関西弁」と思っているが、どの県の人にそう言っても「**と一緒にせんといて」と言われかねない。つまり大阪弁や京ことばはあっても関西弁なる言葉はない。そりゃ、それを言うなら天皇も関西人だし、日本史のテストに出る中身のたぶん半分以上はロケーション的には関西だから我々はえらそうなことはいえない。

今回は淡路島にも行った。恥ずかしながら人生初めてである。美しい明石海峡大橋を渡った対岸で会議をしながら、もっとお恥ずかしい話とあいなった。「渦潮の鳴門はどこですか?」と尋ねたのだ。一瞬間があり、「はあ、徳島やからずっと南やなあ・・」と気まずい沈黙が流れる。おかしいな、ここから東のはずなんだけど・・。僕は相当な方向音痴だ。だから見た目でなく、頭にある地図で判断してる。皆さん淡路淡路というので、いつしか「島」が抜け落ち、 四国のつもりでいたのである。「いやあ絶景ですな。まるで地中海だ」。瀬戸内海を眺めながら冷や汗をかいていた。

対岸の舞子公園に孫文記念館があるというので案内された。名称は「移情閣」で、大正4年に神戸の貿易商・呉錦堂が建てた八角堂がシンボルの別荘だ。神戸の華僑や豪商がここで孫文を囲んで昼食会をしたらしい。彼は孫子、孫権の末裔と伝わるが若い頃の写真を見るに、なかなかの面構えである。中華民国の初代国民党総理で、日清戦争の終結後に広州での武装蜂起を企てたが失敗し、日本に亡命したのを助けたのが頭山満と犬養毅で、孫文は「明治維新は中国革命の第一歩であり、中国革命は明治維新の第二歩である」との言葉を犬養毅へ送っている。ご一新をそういう性格のものととらえていたのは興味深い。

孫文は清朝打倒活動の必要上「1870年11月、ハワイのマウイ島生まれ」扱いでアメリカ国籍を取得し、革命資金を集める為に世界中を巡った。1905年にスエズ運河を通った際に、現地の多くのエジプト人が喜びながら「お前は日本人か」と聞かれ、日露戦争での日本の勝利がアラブ人ら有色人種の意識向上になっていくのを目の当たりにしている。孫文の思想の根源に日露戦争における日本の勝利があるといわれ、それが「大アジア主義」につらなるのだろう。中華思想でないならば、僕は東洋の王道、西洋の覇道を区分するこの考えに賛同する。

孫文はソ連をバックに第一次国共合作を仕掛けて失敗し、中国は国民党と共産党による長い内戦状態に突入した。昨今の日本でもはるかにマイナーな合作が試みられたが、水と油を混ぜてもドレッシングにはならない。後継の蒋介石が建てた中華民国が台湾であり、毛沢東を継ぎたい習近平が合作完成を目論む。孫文が存命ならどうするだろうと考えながら歩いていたら、彼の亡命航路の地図の前に来た。香港、上海、長崎、神戸、横浜、東京。どこも僕にとって深い地縁がある。ここへ来たのも何かあるのかなと思ってスマホを見ると、たったいま起きたイスラエルと米国のイラン攻撃のニュースが目に飛び込んできた。

Categories:______国内出張記, ______歴史に思う

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