誰の文章を読むかで人生が決まる
2026 MAR 28 0:00:56 am by 東 賢太郎
この業界に入って長いせいかいろいろなリレーションが折り重なって、ディズニーやネトフリに繋がるアメリカの連中とパートナー契約を結んでいる。ソナーは米国の売れっ子IPを単独で日本に持ってこれる。どこにお話しするかは僕の勝手だ。もちろん売上げ兆円単位の企業様にである。
証券マンというのは黒子であってどの業界の専門家でもない。しかし33業種おしなべて知ってるというのはけっこう利点だ。あとは英語だ。英語ができる人はごまんといるが、英語で株を売ったことがある人はまずいない。何語であれ株が売れれば売れないものはない。
それは未来を売ることである。先のことは誰も知らない。当の会社の社長だって知らない。だから「仮説」を売ることに他ならない。為替やゴールドと違って上場企業には会計監査を経て信頼できる内在的な価値を示すデータがあり、開示義務があるので一定範囲はほぼ入手できる。だから仮説構築力の勝負になる。
仮説構築は科学だ。例えば太陽に黒点が出る。長年観測して「その増減は11年周期」と仮説が立つ(なぜ仮説かというと理由がわからない)。来年はこうだろうと一応の根拠ある予測はできる。数学でいう帰納法である。しかし日本人で株式投資をそう理解している人は極めて少ないと思われる。
まず日本人は帰納法の使い手が少ない。だから大胆なイノベーションが起きにくいのかもしれない。使い手かどうかは仮説の矛盾(ハズレ)が出た時の反応でわかる。信者には事件だがそうでない人には「世の中そんなもん」で終わり。そういう人は万事にそんなもんで終わるから思考の経験値が累積しない。
投資で勝つ鉄則はないが負けないそれはある。ゼロにはできないから減らす。数は減らずとも度合いは減らせる。しかし「この方法」の欠点はいつ勝つか不明なことだ。だから運用者に「期間」の縛りをつける(IRRという)。 一部の運用者は経営者に対する株主権行使で期間を短縮する(アクティビストという)。
「この方法」のことをバリュー投資という。上場企業のデータ開示義務は100%ではない。その比率が低い企業の株はリスクが高い(仮説と結果の誤差の絶対値をリスクという)。経営者の能力は外部からは不明だ。不明なものは仮説値の計算には入れない。ということは0(ゼロ)と置くことになる。
能力0の人が経営すれば会社は潰れる。その結果の1株当たり資産(解散価値という)が高い株を買えば最も安全である。それより株価が安ければ全部買う(M&Aという)。経営力(グロースという)より資産(バリューという)を信じる。その優劣は定かではない。宗教とは呼べないので業界では投資哲学と呼ぶ。
大勝を狙うか不敗を狙うか。僕は後者である。本塁打を狙うと三振も増える。10対0でも1対0でも1勝。意味のない余分の9点を取る練習でアラを増やすのは愚者だ。0に抑える練習はアラを生まず1点取る確率は高い。受験も合格最低点を取ればいい。キープするには結果の誤差の少ない得意科目を磨く方が確率は高い。
皆さんの人生における所得の意味は何か。最低限、死ぬまで食うことだろう。労働はAIに任せて人類は遊んで暮らせると思い進化させたら逆にAIの奴隷、肥料になってしまった。映画MATRIXだ。そこで救世主が出てくる。いや出るはずだがそれは誰だとなる。聖書を信じると帰納法になる。
GAFA創業者全員が「大事なのは数学と哲学」とダボス会議で語った。日本の大卒でこの両方が得意と胸を張れる人が何%いるか。日本には数学者も哲学者も数は多いだろうが「1人で両方」のコンビネーションこそに何らかの価値がある。だから彼らはGAFAを生んだ。そう考えるのも仮説構築である。
それができる人はダボス会議にはたくさんいただろうが国民全体ではそうはいないだろう。「そういう思考回路を持ってるか否か」の差だ。そしてその回路のことを本稿では哲学と呼ぶのである(投資哲学のそれ)。「その有無」と、「ダボス会議出席者と国民との平均生涯年収の差」には高い相関関係があろう。
ではその回路を得るために何を勉強すればいいのだろう。数学と哲学だ。しかし日本にも微積ができてカントやヘーゲルを読んだ人はいくらもいるがGAFAは日本にない。だからコンビネーション仮説が重要だ。僕の理解ではブリッジをかけるのは経験とインテリジェンスだ。それを得るにはどうしたらいいか?
読書だ。文章を読まなくてはいけない。動画の時代になったが視覚情報はインテリジェンスの構築にはあまり影響しない。文章はロジックであり骨の髄まで入り込む。ショーペンハウエルは読書をすると馬鹿になると否定し、他人のロジックの模倣を戒めている。しかしそれは彼の頭脳が他人より高性能であるゆえだ。
僕が速いと思っているのはできる人の文章をたくさん読むことだ。その人の思考を模倣でなくシミュレートするのである。僕は例えば清少納言、夏目漱石、三島由紀夫、ラ・ロシュフコー(翻訳)がシミュレーターになって成長したと思っている。あくまで思考回路でコンテンツでなく、それはより文体になって現れる。
教育はある意味恐ろしいと思うが自分は法学部的人間で文体もそうだ。同門の三島のくっきりした文体に同じ臭いを感じる。ああいう人生にならないように清少納言姉さんが中和してくれてる。春とくればふつう桜だが、あけぼのとくる。それもロシュフコーのキレのいい辛口も、自分の哲学を育む経験値となってくる。
法学部的合理主義者なのに「春はあけぼの」が平気。ロジックはゼロ。なぜときかれても説明できない。ひらめきでもない。そう生まれついてるとしか思えない。春はあけぼの的人間なのであり、清少納言さんもそうだったということに過ぎないのだ。クラシックで好きな曲を探すのも同じ事をしている感じがする。
証券マンに戻ると、法学部的合理主義者には最もお勧めしない職業だ。朝に買った銘柄を午後売れということもあるのは相場というあばれ馬を乗りこなす術で、これは春はあけぼの的人間でないとできない。でも嘘を言ったわけでなく、正真正銘そういう人間だからだろう、お客様はみな分かって下さった。
ディズニーやネトフリという大型エンタメコンテンツの価値は理屈ではじけない。かつて扱ったこともないからこの仕事は老境に至ってのチャレンジだ。しかし春はあけぼのは僕の本来の姿かも知れず、いよいよそっちの本能全開で勝負できるときが来た。こう考えられるのが実は春はあけぼの人間の定義なのだろう。
今日健康診断でカルテの「71歳」を眺め、「先生これ誰のですかね」ときいてしまったが、理由はそこにあるかなと苦笑した。



