メシアン「アーメンの幻影」(1943)
2022 FEB 4 18:18:39 pm by 東 賢太郎

メシアンが好きなのはタイのお寺と同じで理由はない。トゥーランガリラ交響曲の稿に書いたがワット・プラケーオ、ワット・ポー、アユタヤ遺跡に衝撃を受け麻薬のようにとりつかれてしまったからいけない。とにかく強烈な陽の光とお香の匂いが結びついてしまいどうしようもない。この魔力はローマの遺跡に匹敵しており、なにやら遺伝子レベルの親和性とすら想像してしまう。
バンコックは10回ぐらいは行ったろう。近辺に良いゴルフ場がたくさんあり、夏はとても暑いが初のハーフ36が出て何かと思い出深い地でもある。行けるものならいつでも行きたい。
メシアンとタイは関係ないが、日本は好きだったようだ。軽井沢でホトトギスをなど日本の鳥の声を採譜しているし「7つの俳諧」を作曲もしている。トゥーランガリラはサンスクリットで何物かインスピレーションはありそうだから広く東洋的なものと考えれば無縁ではないかもしれない。ピエール・ブーレーズは弟子だがトゥーランガリラ交響曲は嫌いだったようで、彼と東洋は縁がなさそうだ。ブーレーズがメシアンの楽曲分析の授業について語っている。題材は「マ・メール・ロワ」と「ペトルーシュカ」だったようだ。
もう一人の弟子ヤニス・クセナキスは「君は数学を知っている。なぜそれを作曲に応用しないのか」といわれ啓示を受けた。メシアンはブラウン運動からヒントを得た「非合理時価を互い違いにかける」というアイデアを使うなど、数学、カソリック神秘主義、色彩、鳥類、東洋、エロスという脈絡のない混合に開かれた感性の人で、まさにオンリーワンだ。非常に魅かれるものがある。
「アーメンの幻影」は1943年にフランス軍占領下のパリで書かれた。その環境でこういう音楽が出てくる。捕虜の身で書いた「世の終わりのための四重奏曲」もそうだが、ショスタコーヴィチのように暗い怒りの陰画にはならない。初演は第1ピアノをイヴォンヌ・ロリオ、第2をメシアンで5月10日にシャルパンティエ画廊で行われた。
以下の7曲から成る。
1.創造のアーメン
2.星たちと環を持った惑星のアーメン
3.イエスの苦悶のアーメン
4.欲望のアーメン
5.天使たち、聖者たちと鳥たちの歌のアーメン
6.審判のアーメン
7.成就のアーメン
驚くべき色彩に満ちた音の饗宴であり1949年作曲のトゥーランガリラ交響曲のピアノ版というイメージだ。第3曲の密集和音は同曲の第6楽章を想起させ、第4曲をメシアンは「肉体的方法で表現される」(淫らな)アーメンと言ったように、宗教的なしかつめらしさとは無縁の境地に遊べばウエザー・リポートのジャズ・フュージョンの魔界とかわらない。
第4曲のこの主題は何かに似ていると長らくひっかかっていた。
いくら考えても浮かばなかったが、先日の朝、家内が紅茶をもって起しに来てくれ、アールグレーの香りを嗅いだら突然ぱっと閃いた。これだった。
モーツァルトのピアノソナタ第12番 ヘ長調 K. 332 第2楽章の副主題である。彼はパリ音楽院で「モーツァルトの22のピアノ協奏曲」と題したアナリーゼの講義を行ったようにモーツァルトを深く研究しており、偶然ではないと考える。
初演した二人のオーセンティックな演奏が聴ける。
高橋 悠治、ピーター・ゼルキン盤は独特の緊張感と熱がある一期一会の演奏が素晴らしい。side2の始めの曲が上記譜面の「4.欲望のアーメン」である。
本日67才
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N響定期(メシアン/トゥランガリラ交響曲)
2019 JUN 20 0:00:05 am by 東 賢太郎

メシアン/トゥランガリラ交響曲
指揮:パーヴォ・ヤルヴィ
ピアノ:ロジェ・ムラロ
オンド・マルトノ:シンシア・ミラー
(サントリーホール)
この曲の僕のコンセプトはこうだ。ありがたい。1時間半座っていればワット・プラケーオにお参りした気分に浸れる。
これは極彩色の豪華一大絵巻であり、10楽章の巨大なエンタメだ。難しい御託とは無縁。パーヴォ・ヤルヴィの指揮、非常にプロフェッショナルにうまくまとめた。心から楽しませてもらった。シンシア・ミラーのオンド・マルトノ操作が良く見える席であり、昔は音響が苦手だったこの楽器、弾いてみたいなあと思ってしまったから人間は進化するものだ。いや、もっと現実的には第6楽章だ、これぞメシアンというこのピアノ弾いてみたい。ロジェ・ムラロは最高でありメシアンの音色を極めた絶品のピアノだった。あれほどこれを楽しそうに弾ける人はそうはいないだろう。読響とカンブルランのおかげでメシアン・イディオムが耳タコ状態になり、ほぼ覚えているトゥーランガリラも新しい喜びとともに聴いた。音楽の深さは絶大なものだ。
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読響定期・メシアン 歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」を聴く
2017 NOV 20 10:10:17 am by 東 賢太郎

帰りは冷えこんだ。いよいよ冬の到来を感じる日、午後2時に始まって終了は7時半、メシアン唯一のオペラはワーグナー並みの重量級だった。5時間半に休憩が35分ずつ2度あってそれは結構なことだが、集中していると空腹を覚える。ところが日曜のせいかサントリーホール周辺は店が休みであって軽食に温かいコーヒーというわけにいかない。コンビニのパンと缶コーヒーとなって現実に戻るのが残念だった。
2017年11月19日〈日〉 サントリーホール
指揮=シルヴァン・カンブルラン
天使=エメーケ・バラート(ソプラノ)
聖フランチェスコ=ヴァンサン・ル・テクシエ(バリトン)
重い皮膚病を患う人=ペーター・ブロンダー(テノール)
兄弟レオーネ=フィリップ・アディス(バリトン)
兄弟マッセオ=エド・ライオン(テノール)
兄弟エリア=ジャン=ノエル・ブリアン(テノール)
兄弟ベルナルド=妻屋秀和(バス)
兄弟シルヴェストロ=ジョン・ハオ(バス)
兄弟ルフィーノ=畠山茂(バス)
合唱=新国立劇場合唱団
びわ湖ホール声楽アンサンブル
(合唱指揮=冨平恭平)
メシアン:歌劇「アッシジの聖フランチェスコ」(演奏会形式/全曲日本初演)
今年の読響定期はこれに惹かれて買ったようなものだ。初演は1983年11月28日にパリのオペラ座で小澤征爾がしたと知って驚いた。このオペラの総譜となると大型の電話帳数冊という感じだろう。
というのは当時ちょうど僕は米国にいて小澤さんはまだボストン交響楽団で定期を振っていた。FM放送でブラームスの交響曲などをカセットに録音してあるので間違いない。それだけでも多忙だろうにメシアンにご指名を受けて歴史的大役までこなしていたとなると、責任の重さもさることながら物理的な作業量に気が遠くなる。日本村で「ハヤシライス」をやっているのとはけた違いの才能で、実際にこの難曲を初めて耳にしてみてあらためて彼は国宝級の人物と再確認した。
しかし彼は日本では第3,7,8曲のバージョンでしか演奏しておらず、ハヤシライスにはならない音楽と判断されたのだと思われる。それを全曲日本初演してくれたカンブルランには感謝しかないし、読響定期のサブスクライバーもそれを熱狂的に讃えた歴史的なイベントとなった。世界でもそうお目にはかかれず一生聴けないかもしれないものを逃すわけにはいかないし、4時間半どっぷりとメシアンの色彩に浸れるのは快楽、耳のご馳走以外の何物でもなかった。
合唱こみで240人の大オーケストラは珍しい楽器、特殊奏法、ハミングで耳慣れぬ音響の嵐だ。コントラバスが駒の下を弾いたり(何という奏法だろう?)、客席左右上方に設置されたオンド・マルトノの低音がコントラファゴットと交奏するなどは実に斬新な音であり、徹頭徹尾、終始にわたって極彩色の管弦楽法であり、春の祭典を初めて聴いた時の楽しさを味わったのは人生2度目といえる。
あたかもワーグナーのように人物ごとにライトモティーフがあり、数多現れる鳥は鳴き声の描写がそれである。人と自然が対等に調和しているのはフランチェスコの信心だから平仄が合っている。メシアンの最後の大作であって彼の語法の集大成の様相を呈し、他の曲もそうであるが非対位法的で明確な旋律と和声で成り立つ。初めて聴いても人のモティーフと主要な鳥の声は個性があって自然に覚えられてしまうという音楽だ。
唯一の女性である天使の歌だけは際立って三和音的であり、ゆっくりのテンポで長く歌うミの音にオケがA⇒F7の和音で伴奏するのが耳にまつわりついて離れない。天使の別な箇所で何度も聞こえるラ・シ・レ#・ソ#の和音は「キリストの昇天(L’Ascension )」の第1曲の出だしの音そのままで、あの曲のシチュエーションが逆にこれによって明確になる。重い皮膚病患者への接吻の終結部では、男の病が治癒した奇跡の歓喜がまさにトゥーランガリラ交響曲そのものだ。実に面白い。
歌はみな素晴らしかったが、フランチェスコ役のバリトン、ヴァンサン・ル・テクシエは圧巻であった。合唱団も不思議な音程のハミングはビロードのように滑らかな質感で見事。また、特筆すべきはカンブルランで、快速の部分の指揮棒を見ているだけで酔えた。変拍子のリズムの振り分けが驚くほど俊敏かつ明晰。まるでフェンシングを見るような動作は運動能力としても超一流である。指揮のプロフェッショナルが何たるかという極致を見た。
それに応えた読響も、これまたトップレベルのプロであると認識だ。ゴルフでもそうだが、片手シングルよりうまいとはわかっていてもどこがどうということまでは素人には気づきにくい。こうして「コース」が難しいとそれが大差になるということが現実にあって、それを思い起こしていた。団員の皆さんの意気込みも半端でなく、大変な技術の集団ということを見せてもらった。これは一生忘れない希少な体験であり、歴史的な場面に立ち会った感動でいっぱいである。
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メシアン 「世の終わりのための四重奏曲」
2017 FEB 17 0:00:23 am by 東 賢太郎

メシアンは常習性のある媚薬のようなもので、一度ハマるとぬけられません。彼は11才でパリ高等音楽院に入学し各科のプルミエプリ(首席)を総なめにした神童中の神童ですが、それは伝統作法下での評価です。ドビッシーもラヴェルも異端とされたり自らクラスを抜け出したり、旧来の流儀とは何らかの断絶があったのですがメシアンは徹底して彼の時代での優等生であった。優等生は秀才であって、だいたいがその評価にあぐらをかいて凡人で終わるのですが、彼はその殻を脱ぎ捨ててしまった。そこが凄いと思うのです。伝統作法下での作曲法の枠を打ち破って色彩、リズム、旋法、音価に新しい道を開いた、それは技法のための技法として理性でひねり出したというよりも感性に導かれた産物と感じられ、ドビッシーも彼の時代においてそうだったように、自分があるがまま自然に本能と直感に従って突き進んだ結果と感じられます。そうやって何か新しいことを「やっちまった」人を、後世は天才と呼ぶのだということならば、彼は稀代の秀才でもあった本当の天才だったのです。
「世の終わりのための四重奏曲」のピアノパートには伝統的な室内楽書法としてあたかもオーケストラのように他の楽器と主題によって対位法的に絡んで有機的に展開する部分はほとんどなく、対等の独奏楽器として、または単なる伴奏として和声付けの要素が目立ちます。それはこの曲だけでなくメシアンの音楽の匂い、クオリアそのものでもある際立った個性なのですが、ここにおいては付けている和声の魅惑が群を抜いています。この世のものと思われぬ神秘的な、尋常でない美しさであります。
常習性のある媚薬と書きましたが、その根源は和声にあるのです。これはどんなに強調してもしきれない重要かつシンプルな事実と思います。色彩、リズム、旋法、音価と理論体系にして彼は弟子に教えたがそれは神を見た教祖が一般人に説き理解させるための普遍化した経典であって、彼の頭脳の中では鳥の声もおそらく対位法でなく和声要素として響いており(この曲の第1曲はその驚くべき実例である)、ある一瞬の縦に切った音塊ではなく、横に急速に流れる音群全体が和声要素となる。それを彼は色彩という言葉で呼んでいると僕は解釈しています。彼は和声音楽の大家なのです。
とすると、彼の時代に、つまり同時代のライバルがドデカフォニーのセリーの技法を探求する時流の中で書いていた時代にそれで大家を成したというのは音楽史の流れの中で特別なことではないでしょうか。ストラヴィンスキーの三大バレエはれっきとした和声音楽ですが、しかも新奇であったから事件となり天才と騒がれた。それと同じことを30年も後にやってしまった、これは作曲をされている方だれしも特異な現象と認められるのではないでしょうか。ちなみに弟子のブーレーズもクセナキスも、はっきり和声を認識させる作法は踏襲できませんでした。
この四重奏曲は1940年に第二次世界大戦でドイツ軍の捕虜となり、ゲルリッツ収容所で書かれたいわく付きの曲です。ヴァイオリン、クラリネット、チェロ、ピアノの編成で数千人の捕虜を前に収容所で初演。メシアンのこの時のことを「私の作品がこれほどの集中と理解をもって聴かれたことはなかった」と語っていますが、そういう状況下で書いた方も書いた方、聴いた方も聴いた方であり、特異な環境で産み落とされた奇跡の産物と思います。
天地創造の6日間、安息の7日目、そして不変の平穏な8日目という8曲から成ります。天国へいざなうような神秘的、蠱惑的な音楽で、僕には深いこころの静寂と安定を与えてくれる不思議な精神作用を持った音楽であります。楽章にはキリスト教の神秘主義的な名称が与えられていますがこだわる必要はなく、モダンジャズが好きな方は違和感なく聞けるのではないでしょうか。メシアンの代表作の一つであり、クラシックのレパートリーとしてマスト・アイテムといってよい名曲中の名曲です。
第1曲「水晶の典礼」の鳥の歌とピアノの和音からいきなり異界に引きこまれます。メシアンの鳥はベートーベンやマーラーのそれとはちがい協和音にデフォルメされず実音記譜に近いものを高度に抽象化しています。楽音としてではなく無意識に(意識を切って)聴けばいいのです。何度聴いても鳥と和音の調和は天才的としか言いようなし。
第2曲「世の終わりを告げる天使のためのヴォカリーズ」ヴァイオリン、チェロの不思議なユニゾンは弦チェレの第3楽章を連想させます。やはり伴奏のピアノ和音が凄い。これぞメシアン。
第3曲「鳥たちの深淵」。クラリネットのソロです。速度記号レントで深々と歌い、やがて鳥の声に。静けさと緊張の支配する世界。僕はここに尺八の音像を聴きます。
第4曲「間奏曲」。ピアノが休み。この曲に現れる三和音的進行は別の色彩を放射します。クラリネットの鳥はクロウタドリでポール・マッカートニーのBlackbirdはこれのこと。
第5曲「イエスの永遠性への賛歌」で、チェロのモノローグがピアノの和音に乗って何かを歌いますがこの異様な美しさは一度聴いたら忘れ難い。チェロの独奏曲として最高のもののひとつ。
第6曲「7つのトランペットのための狂乱の踊り 」、トランペットは色彩を暗示する記号として。この曲はメシアンの旋法の特色が出ますが旋法そのものに匂いを感じ、もしオーケストラであったならどういう音彩がついたか想像してしまう。ずっとユニゾンですが楽器の組み合わせで色を変化させる、見事な変容の技法です。
第7曲「世の終わりを告げる天使のための虹の混乱」は再度チェロとピアノの二重奏で不思議な色気の和声が展開します。中間部で激しい曲想となりチェロのグリッサンドが異界を描く、そして今度はクラリネットが加わってまた静やかな虹色の不思議ちゃん世界に。これぞメシアンの媚薬です。そしてやってくる鳥と混乱。
第8曲「イエスの不滅性への賛歌」。ヴァイオリンとピアノによる天国への賛歌です。何と素晴らしい和声!これが天空に消え入る感動は巨大であります。マーラーの9番が好きな方はこれも共感されるのでは。この曲、Quatuor pour la Fin du Tempsでありend of time、つまり時の終わりです。収容所で終わる時とは何だったのか。「世」ではないだろう、「戦争」かもしれない、「今」かもしれない。慣習に従って標題は世としましたが・・・。
これを真に知り、学んだのはタッシ(TASHI)の演奏によってです。Piano : P.Serkin、Violin : I.Kavafian、Cello : F.Shelly、Clarinet : R.Stoltzmanという名手たちが1973年に、この曲を演奏するために結成したグループでこのLPは僕の大学時代に出てきた衝撃の1枚でした。TASHIはチベット語で吉兆の意味。end of timeの次に来るものを示唆している洒落たネーミングでしたね。
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メシアン「8つの前奏曲」と「おお、聖なる饗宴よ」
2017 FEB 2 11:11:07 am by 東 賢太郎

僕がメシアンに興味を持ったのは音と色彩の共感覚への関心からです。以前にブラームスのクラリネット・クインテットの稿で書いたものですが、
「僕の色覚が他の人と共有されていないのであくまで自分が知っている色としての話になるが、レ(D)の音(これをブラームスのヴァイオリン協奏曲の出だしの音と覚えている)はオレンジ色、 ミ♭(E♭)の音(これをシューマンのラインの始めの音と覚えている)は青緑色のような気がする。こういうのを共感覚と呼ぶらしいが、12音のうちこの2音しかないからそういうものではないだろう。ただニ長調、変ホ長調にはその色がついて見える。 ニ長調の並行調であるロ短調を主調とするこの五重奏曲はクラリネットの質感(クオリア、これも赤色系の暖色だ)によってオレンジ色が増幅されて感じる。それがこの曲特有の粘着質のコード・プログレッションのクオリアを増幅して、こちらの気分と体調によっては誠に強い効果を及ぼしてくる。第2楽章はところどころで鳥肌が立っては消え、平静な鑑賞ということがかなわないことがある」
ということがあって、僕はこの五重奏を名曲と思いながらどこか敬遠してしまっているのです。「コード・プログレッションのクオリア」というのは非常に強い心理作用があって、正月に整理していた書庫から大昔に自分で作曲した楽譜が出てきて、書いたことも完全に忘れていたのを弾いてみると「強い作用」がある。そういう、ある意味客観的に、まったく恥ずかしい話なのですが和声の化学変化の発見メモとして自画自賛の心理になっています。
メシアンが子供のころクリスマスにもらったドビッシーの「ペレアスとメリザンド」のスコアをボロボロになるまで読み込んだのは有名ですが、このスコアは僕も尋常ならざる何ものかを感じており、このビデオでメシアンはオペラ冒頭主題を二カ所弾いて最初を「灰色がかった紫」、二つ目は「青みがかったオレンジ」といっています。貴重な証言です。
青緑色の変ホ長調の曲を僕は異常に好きであり、モーツァルトが39番をニ長調で書いていたらどうだったろうと思いますが、恐らくそういう理由で半音低い古楽器のオレンジの39番は忌避しているわけで、同じ評価はしなかったかなと思います。ブリュッヘンは同曲の尊敬できる解釈者でしたが、それが理由で実演をあんまり集中して聞けなかったのが残念でした。
「トゥーランガリラ」、「彼方の閃光」になぜ妖しい魅力を感じるかというと色彩の嵐を感じるからです。前者の生々しいライブをロンドンで聴いて「脳に電極をさしこまれて色を見る感じ」とつぶやき、先輩が「おい、こわいな」と漏らしたのを覚えています。そうとしか表現できない感覚があって、そういう音楽はメシアン以外にいまだに出会っていないのです。
彼の発想の根源にドビッシーがあるのが興味深い。プレリュードⅠ・Ⅱ巻は万華鏡のような色彩の嵐ですが、その脈絡でメシアンを聴く、つまり三和音の耳を断ち切って空虚な頭で色だけを追うとだんだん違う世界が見えてきます。少々の慣れはいるのですが、とにかく聴き込めばいい。ここへ至ると豊穣な果実が得られるのは驚くばかりです。
ブーレーズはメシアンの弟子でその色彩を受け継ぎますがルネ・レイボヴィッツが指揮したシェーンベルクの木管五重奏曲作品26を聴いて衝撃をうけセリーに入っていきます。両者が合体してル・マルトー・サン・メートルができた。アフリカ、ガムラン、日本のスパイスが混入するのもドビッシー、メシアンの末裔ゆえですが高等数学をやった感性で独自の異界の色彩へと進みます。
末裔が出たのは彼らの色彩を技法化するメソドロジーに普遍性があったからです。それをお示しするのが以下の若書きの2作品であります。
メシアンがプレリュードのスコアからくみ取った色彩、彼が受け取った「強い作用」の痕跡はまずこの20才の作である「ピアノのための8つの前奏曲」に残っています。第1曲にはペレアスが聞こえるのが興味深い。
もうひとつ、ドビッシー夜想曲に「楽器」として女声が使用されるように声のクオリアは両者の和声表現に好適に思えますが、代表作にそれほどは使われなかったのも面白い点です。ドビッシーの歌曲とペレアスは音韻(フランス語)と一体化した独自のものですが彼自身それ以上は踏み込まずシェーンベルグがピエロで画期的な新領域を開きました。
メシアンがペレアスの詩的コンテクスト、音韻にどこまで反応したかはフランス語がわからない僕には不明ですが、オルガンを楽器とした点で違う道を行った彼には声はピアノ、打楽器と同様に単色の楽器であり、神性の領域ではむしろ不要だったと推察しております。
29才の作である「おお、聖なる饗宴よ」(1937)はドビッシー「シャルル・ドルレアンの3つの歌」の豊饒な和声の世界がエコーしてきこえます。メシアンの和声感覚の個性が声だときわだって感知できるのは非常に興味深く思います。
この2作はパリで進化した「色彩の系譜」の原点に当たるものとして注目しております。ここからセリー、偶然性等の技法の進化に囚われず色彩を極める作法が出なかったのは不思議なことです。それだけメシアンの天才が抜きんでていたということでしょうが、キリスト教の神の法則の支配に必ずしも服さない日本人、たとえば武満がそれに近かったでしょうが、その系譜が栄える可能性を十分感じます。まだ美しい音楽がそれで書けそうな気がするからです。
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メシアン「彼方の閃光」を聴く(カンブルラン/ 読響)
2017 FEB 1 1:01:07 am by 東 賢太郎

メシアンに凝ったのは大学3年、上野の文化会館音楽資料室で近現代のLPを片っ端からあさったときだ。春の祭典の完全記憶からクラシックに本格参入し、しばしモーツァルトより近現代がずっと優先の時期がつづき、ストラヴィンスキー、バルトークに始まってベルグ、シェーンベルク、ウエーベルンを経ていよいよメシアンに行き着き、資料室でトゥーランガリラと世の終わりのための四重奏曲の妖しい魅力にはまってしまった。下宿のこたつで彼のオルガン曲をヘッドホンで聞きながら寝ると眠りが深いという妙な事態に至ったりもした。僕のクラシック歴はちょっと変である。
後年、真夏にまばゆい純金色の妖艶で極彩色の輝きを放つバンコックの寺院に行くと何の前ぶれもなく「アーメンの幻影」が頭にシャワーのように降って来て、これは何だと仰天した破壊的な記憶がある。2010年にパリに行ったとき、ふとその衝撃がやけに懐かしくなって、メシアンがオルガニストだったひと気のないサントリニテ教会の暗い空間にしのびこんで1時間ほど一人で黙とうした。あの空間の、真夏なのにひんやりと冷たい空気の震えに肌で覚えたソノリティ、あれがメシアンの質感、クオリアなんだと確信した。
メシアンの音のクオリアの要素はオルガンと鳥と打楽器である。管弦楽はそれを模しているしピアノ曲であってもその絶妙な配合で成っているといって過言でない。メシアンを聴くとはその色彩を肌で感じながら頭はからっぽで瞑想するということだ。11楽章の「彼方の閃光 」のオーケストレーションも、トゥーランガリラより線へのフォーカスは減じているが、同様に3つの配合で比率が違うだけだ。彼方の閃光は金管合奏の「キリストの昇天」の和声で始まり鳥およびオルガンの祈りにより比重を置く。
隣の人がずっとおやすみで時折いびきが響いたが、実に不思議なもので、この音楽はそれをも自然に飲み込んで流れるのだ。エメラルド寺院で横臥の姿勢で仏像に祈る人々の姿が幻視でうかび、サントリニテの空間にこつーんと響き渡る靴音を思い出す。思考を無にしてあの世に解き放つような、異界の接点のような、初演までに彼岸に旅立ったメシアンがおそらく最期に見ていた世界ではないか。
終曲「キリスト、天国の栄光」で弦が玄妙な和音を延々と奏で続ける。天国への川の流れであり太陽の淡い光彩のゆらぎでもあり、時間の流れがおそい。あたかも旋律がきこえるかのように流れるが、和声の脈絡は希薄であって意識はよりどころを失って虚空をさまよう。弦楽合奏が pp に消え入る最後まで密かにシャラシャラと鳴る金属打楽器が「世の終わり・・」の高音部にちりばめられたピアノのようだ。ああやばい、またバンコック行きたくなった。
カンブルランのこれが聴きたいがために読響の定期を買った。はたして、よかった。オーケストラも好演、貴重な機会に深謝である。
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メシアン トゥーランガリラ交響曲
2015 JUL 6 13:13:53 pm by 東 賢太郎

行った場所で好きなところはどこかと問われれば、バンコックのワット・プラケーオ(エメラルド寺院)は筆頭格だ。初回は95年ごろで、スイス時代にアジア株式業務の会議でタイに行ったおりに寄ったが、その時の衝撃はあまりに強烈で忘れるということがない。
タイというのは不思議な国で、時間がゆっくり流れている。どうしてそう感じるのかなといつも思うが、理解が及ばない。ワット・プラケーオはその権化のようなことろで、あそこは磁場のせいで時空が曲がっていて時計が遅く進むんだよなどと説かれれば信じてしまいそうだ。
確実に覚えているだけでも5回は訪れているが、たぶんもっとだ。なにしろ強烈な陽ざしでいつも頭は虚ろだから覚えてない。黄金に輝く巨大な仏塔、無数の極彩色のガラス片が陽光を反射してきらめく寺院の壁面、奇怪なガルダの像など視界に入るものすべてが「異界」で、意識が飛んでしまう。
西洋の(キリスト教の)教会だって、巨大な空間、光と闇、ステンドグラスの色、香のにおい、オルガンの音響など五感に訴える充分な異界ではあるのだが、それでもまだ現世とアナログ的につながる延長にある。一方で、ワット・プラケーオの異界ぶりは凄まじい。幽界や異星の光景のような超常的なものではなく、人や鳥や火のモチーフやら我々がなんでもなく地上で目にするものをパーツとしていながら、突出して霊妙で野趣に満ちたミステリアスな空間を形成している。それらが醸し出す一種のオーラがあたりの空気をつつみ、まったりしたゆるい時間のながれに溶けこんで、黄色に熱く眩しい太陽と完璧な調和をみせている。
金、青、赤、黄、朱しか僕にはわからないが、それでも痛烈に眼につきささるどぎつい原色の嵐。それを台風一過みたいに建物という建物の内と外にぶちまけたような広大な寺の敷地内の光景は、しかし、トータルに見るならいっこうにけばけばしさを感じない。実に不思議だ。この寺の歴史については読んだと思うが詳しくは忘れてしまった。色と形のオーラに脳が麻痺して思考停止になっていて、残るのは漠然とした輪郭の信仰心のようなものだけだ。日本の倍は強かろうという陽光のせいだろうか、そういえば京都の寺社仏閣も創建当初は朱色だったと聞いたことがある。この色彩が伝播したのかもしれない。ここの方がずっとインドに近いのだから。
右が本堂のエメラルド仏(プラ・ケーオ)である。この仏体の奪い合いで戦争になった。正面の祭壇の高い位置に鎮座し、仏を見上げる暗い床には何十人もの人が香をたいて座り、平伏し、寝そべり、祈りながら静かな時を過ごす。僕はこの特別の空間に満ちた密度の濃い粘着質の時間にひたるのが快感で一人で行って1時間もいたことがある(いや、時計は見てないから2時間だったのかもしれない)。ああいう麻薬的、蠱惑的状態を瞑想というのだろうか、一期一会の体験だった。こころが空白な分だけ感覚は冴える。そこで耳に響いていた音楽、まずシャワーのごとく降ってきて僕を驚かせたのはオリヴィエ・メシアンの「アーメンの幻視」であり、そして、そこからわんわん鳴り響いたのがトゥーランガリラ交響曲である。
この部分だ。第6楽章 愛のまどろみの庭 Jardin du Sommeil d’Amourである。理屈はいらないので、写真を見ながら(光景を想像して)ゆったりと、自分の体重を感じないぐらいリラックスした気持ちで聞いてみていただきたい。
この地が東洋のタイ国であること、この曲がカトリックと深く結びついたものであることは、僕が感じ取ったものの前では本質的なことではない。Turangalîlaはサンスクリット語を合成した言葉であり、「愛の歌」や「喜びの聖歌」、「時間」、「運動」、「リズム」、「生命」、「死」などの意味があるとされる(トゥーランガリラ交響曲 – Wikipedia)。
メシアンの作曲概念で重要とされる「移調の限られた旋法」と「非可逆リズム」について僕は充分に理解していないが、メシアンは、これを聴く者は移調が限られている不可能性の魅力に囚われ、その調的遍在性がカトリック思想における「神の遍在性」と結びついて、「神学的な虹をもたらす」としているから、けだしこの曲はカトリックの教義や神性そのものを描出したものではないだろう。
東洋哲学的な概念の「森羅万象」とその部分を成す人間の根源的本性である「愛」というものを表層に二軸として置き、宇宙の存在、人間の存在を聴く者の感性に浮かび上がらせることをもって唯一無二の造物主(キリスト)の存在を感知せしめるという構想から成った音楽と思う。従って確固たる西洋音楽ではある。ビートルズのアルバムでジョージ・ハリソンがシタールを使ったナンバーが、そう聞こえるかどうかはともかく東洋になりきろうとしているのとはまったく違う。
しかしながら、旋法・リズムという構成パーツの内在的な作用が神の遍在性を感知させるという「構造面」だけでは語りきれない非西洋的な要素をこの交響曲が色濃く持っているのも事実であり、メシアンがどういう発端でそれを着想したかは知らないが、R・コルサコフやラヴェルがオリエンタリズムの香りとしてシェラザードを持ち出してきたのとは次元の異なる、もうすこし思想的要素に踏みこんだものであり、マーラーが大地の歌で試みた文学的要素の関わるアプローチよりも身体的だ。西洋人が嗅いだ東洋の香りでなく、西洋人が合体を図った東洋であり、だがその彼のいる天空にはキリストがいる。
構成パーツがインド音楽のリズムパターンであったりする。ピアノは鳥の声を模す。無調でありながら調性(嬰へ長調)が混在する。旋律と伴奏和音というホモフォニックな作りである。個々は明確な三和音であるF#,B,Bm,F#,C,F#,Bという和声連鎖が音列として通奏低音の如く頻出する。これらの特徴は上記の「人や鳥や火のモチーフやら我々がなんでもなく地上で目にするものをパーツとしていながら、突出して霊妙で野趣に満ちたミステリアスな空間を形成している」というワット・プラケーオの個性と見事に共鳴している。
この曲は20世紀に書かれた管弦楽曲として、破壊的な革命効果を音楽史に及ぼしたという点において春の祭典と天下を二分する重要な作品だろう。ストラヴィンスキーのこの革命的作品に触発されて書かれたと思われる諸作品、バルトークの「中国の不思議な役人」、プロコフィエフの「スキタイ組曲」等は、上記の表現を借りれば「充分な異界ではあるのだが、それでもまだ現世とアナログ的につながる延長にある」と思う。
トゥーランガリラ交響曲を初めてライブで聴いたのは85年ロンドンのロイヤル・フェスティバル・ホールでエサ・ペッカ・サロネンがフィルハーモニアを振ったものだ。僕はオンド・マルトノ恐怖症で楽しめてなかった。しかし頭の中にかつてない鮮烈な色彩がはねるのを感じたので興味を持ち、サロネンのCDは買った。これは今もって僕の持つ同曲の最高の演奏かつ最高の録音のひとつである。
覚えやすさが突出して霊妙で野趣に満ちてミステリアスなことによるのが春の祭典と双璧だ。これは最も有名で一度聴いてもう忘れるのは無理という第5楽章 星たちの血の喜悦 Joie du Sang des Étoiles。耳に残ることこの上なしだ。
打楽器が12種類も出てくるが(奏者は8人)、春の祭典で主役級のティンパニを欠く。そこに両曲の性格の根本的相違を見る。祭典のオケは弦に至るまで打楽器的であるのに対し、こちらはオケ全体が旋律的であり、その性質をオンド・マルトノが補強している。弦は徹底して愛を歌いピアノは鳥の声で森羅万象を象徴する。上掲の第6楽章がその典型だが複調ではいるピアノが楽園の蓮の花にやってくる小鳥のようだ。
全曲をチョン・ミュン・フン指揮フランス放送管弦楽団で。チョンはメシアンに可愛がられた。トゥーランガリラ交響曲の改訂版をメシアン立会いのもとで録音したのは彼である。最後の嬰へ長調の無限につづくとも思われる長さなどオンリーワンの確信で振っている見事な演奏だ。
こちらは愛聴しているモーリス・ラ・ルー指揮フランス国立放送管弦楽団の演奏。イヴォンヌ・ロリオのピアノ、ジョアンヌ・ロリオのオンド・マルトノで、これも名演である。
5年前にパリに行ったおり、サントリニテ教会(Église de la Sainte–Trinité de Paris)にお参りした。オペラ座の正面を右に入ると左の角にカフェがあるが、その上の部屋に住んでいたのがロッシーニである。その角を左折して、遠くに真正面に見えるのがそれだ。ロッシーニの葬式はそこでやった。
これがその内部だ。メシアンは1933年から亡くなる1992年までこの教会のオルガニストだった。ここに彼の有名な即興演奏が流れた。異界からトゥーランガ・リラに迫ってみたが、この傑作への僕の愛情の印しであるとご容赦いただきたい。最後にここに戻しておくのが礼儀というものだろう。
サントリニテ教会におけるメシアン自演の「キリストの昇天」
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ブーレーズ作品私論(読響定期 グザヴィエ・ロト を聴いて)
2015 JUL 5 1:01:59 am by 東 賢太郎

7月1日・サントリーホールにて
指揮=フランソワ=グザヴィエ・ロト
ヴァイオリン=郷古 廉
ブーレーズ:「ノタシオン」から第1、7、4、3、2番
ベルク:ヴァイオリン協奏曲「ある天使の思い出に」
ハイドン:十字架上のキリストの最後の7つの言葉(管弦楽版)
野球のブログが先になってしまいましたがとても面白いプロでした。
ブーレーズ同曲のライブは初めてです。「ノタシオン」は「12のノタシオン」として1945年に書かれたピアノ曲を自らオーケストラ作品に編曲したもので、原曲のテクスチュアは簡素ですがオケ版は18型4管、ハープ3台、打楽器奏者9人の大編成になっています。
通常は(たとえばラヴェルのケースなど)見られないことですが、ブーレーズはWork in Progress(進行中の作品)という概念の持ち主で「一連の限定された可能性に焦点を当てた大きな『集合』に対する際立った偏愛がある」としていますから管弦楽版は進行の末の作品と考えてよいのかもしれません。
僕はブーレーズは「プリ・スロン・プリ(Pli selon Pli)」が好きですがこれがWork in Progressの作品であります。いっときの着想を永遠にコメモレートするのが作曲ではなくいわば作曲家と共に変化する音楽という概念です。僕はこれに共感があります。アインシュタインが過去・現在・未来の区別は不可能というように人間と時間の関係とはそういうものだからです。
ノタシオンの管弦楽編曲は現在5曲。1番は特にメシアンの響きを感じますね。パウル・ベッカーが「オーケストラの音楽史」に書いてますが、フランスの管弦楽がオルガンであり「言葉から発した大気のようなハーモニーを包み込む」という質感を感じます。7番(レント)の弦と木管の含む倍音はドビッシーの「遊戯」冒頭の響きを想起します。
ベルクのヴァイオリン協奏曲、この音楽は無調ですが5度が支配しほのかに協和音が現れます。あちらの世界とのはざまの幽界を浮遊する暗示のようで、ヴァイオリンがあまりヴァイオリンらしく鳴ってしまうのは好みません。郷古 廉は無機的な響きに傾きすぎずオケとうまくバランスしていました。良かったです。
この協奏曲、調性的12音音楽といえシェーンベルクの浄夜などとともに前世紀の香りを残したもので、作曲の動機(アルマという少女の死)とともにロマンティックに鑑賞される傾向があるようですが、僕はブーレーズとズッカーマンの録音を音楽として純粋に聴いているだけで特別な関心をひくものはありません。浄夜はカラヤンのライブも聞きましたが、もっとありません。シェーンベルクもベルクも、もっと凄い音楽があるからです。
休憩後はハイドンです。これもライブは初でした。ティンパニは古楽器でしたが弦はヴィヴラートがあったようでアンサンブル(ピッチ)はほんの少しですが甘いかなという部分あり。これが委嘱されたスペインのカディス大聖堂は行きましたがハイドンの音楽とイメージが親和するような風土の場所ではなく、彼がグローバルな売れっ子だったと感服した記憶があります。できれば教会で一度聴いてみたくなりました。
指揮者のロトのプログラミングは高く評価します。前半の無調に対比してハイドンの最もストイックな部類に属する音楽をぶつけるアイデアは斬新ですね。ハイドンはシリアスに聴かれるべきと僕は思っていますから非常に共感します。
彼は20世紀の曲をオリジナル楽器で演奏し最近人気のようで、ストラヴィンスキー(火の鳥)を買ってみましたが、まあ手馴れてうまいねという程度でありました。初演の時にどう聞こえたかは興味深いですが、そういう関心と芸術としてのインパクトは全然別物です。ブーレーズ(NYPO)と比較して論じようというインセンティブがわくものではありませんでした。
(追記、16年1月16日、ご参考ディスク)
ピエール・ブーレーズ「プリ・スロン・プリ」
ハリーナ・ルコムシュカ(Sp) BBC交響楽団 (1969年)
ピエール・ブーレーズ ザ・コンプリート・ソニー・クラシカル・アルバム・コレクション67枚組は宝石のようですが、その16枚目がこれです。第4曲のハリーナ・ルコムシュカの歌唱、急速なパッセージのソルフェージュ能力が凄い。彼女の声質と独奏楽器群の音彩の混合は完璧でまったく独自の宇宙を構築しています。終曲の砕け散ったステンドグラスのような音群のきらめきと変化値を微分したかのような音価と音量の増減によるリズム細胞。不協和な音の組合せの美を創造して時間支配の元に集積するとこうなるという強烈な主張であり、これを美という概念で感知するかどうかは人それぞれでしょうが、それがどうあれこの時間・色彩感覚でスコアを読み解いたのがあの火の鳥であり春の祭典だったのです。ブーレーズ芸術の底流に存在する血脈の原点を浮き彫りにした名盤であり、3種ある同曲の1番目の録音であるこれがその音楽的な発想の原形を最もクリアに浮き彫りにしていると思います。
ピエール・ブーレーズ 「ル・マルトー・サン・メートル」
エリザベス・ローレンス(mezzo-sop)、アンサンブル・アンテルコンタンポラン
9曲のセットである同曲は曲順を1-9とすると{1,3,7}{2,4,6,8}{5,9}に三分類され、個々のグループに12音技法から派生した固有の作曲原理が適用されていることがレフ・コブリャコフの精密な分析で明らかになっています。総体として厳格な12音原理のもとに細部では自由、無秩序から固有の美を練り上げるというこの時点のブーレーズの美学はドビッシー、ウエーベルン、メシアンの美学と共鳴するのであり、それを断ちきったシュトックハウゼン、ベリオ、ノーノとは一線を画するとコブリャコフは著書「A World of Harmony 」で述べている。興味深いことに、例えばグループⅠの作曲原理は(3 5 2 1 10 11 9 0 8 4 7 6)の12音(セリー)を細分した(2 1 10 11) 、(9 0)の要素を定義し、それらの加数、乗数で2次的音列を複合し、
(2 1 10 11) + (9 0) = ((2+9) (1+9) (10+9) (11+9) (2+0) (1+0) (10+0) (11+0)) = (11 10 7 8 2 1 10 11)
のように新たな音列を組成する。その原理がピッチだけに適用されるのではなく音価、音量、音色という次元にまで適用が拡張されて異なるディメンションに至るというのがこの曲の個性でありますがメカニックな方法であることに変わりはなく、その結果として立ち現れる音楽において、それまでの12音音楽にないaesthetic(美学)を確立したことこそがこの曲の真価だったわけです。聴き手が感知する無秩序はあたかもフィボナッチ数がシンプルな秩序で一見無秩序の数列を生むがごとしであります。これの審美性は数学を美しいと感知することに似ます。ブーレーズは自ら自作の作曲原理を明かすことはせず、むしろ聴き手がそれを知ることを拒絶したかったかのようです。しかし原理の解明はともかく聴き手の感性がそこに至らないこと、この美の構築原理がより高次の原理を生む(到達する)ことがなかったことから12音技法(ドデカフォニー)は壁に当たり、創始者シェーンベルグの弟子だったジョン・ケージがぶち壊してしまう。僕自身、12音は絶対音感(に近いもの)がないと美の感知は困難と思うし全人類がそうなることはあり得ないので和声音楽を凌駕することは宇宙人の侵略でもない限りないと思うのです。しかし、そうではあっても、ル・マルトー・サン・メートルは美しい音楽と思うし、その方法論でブーレーズが読み解き音像化した春の祭典があれだけの美を発散するのです。ある数学的原理(数学は神の言語であるという意味において)がaestheticを醸成して人を感動させる、それは必ずモーツァルトの魔笛にもベートーベンのエロイカにもある宇宙の真理であり、それは人間の知能には解明されていないだけで「在る(sein)」。僕はそれを真理と固く信じる者です。これが1955年僕の生年の作であり、僕が大好きでドイツ駐在時代に二度家族と滞在しブーレーズが亡くなったバーデン・バーデン初演であったことは親近感を覚えます。
上記盤がyoutubeに見つからないのでこれで。
ピエール・ブーレーズ ストリュクチュール(構造)第2巻 (1961)
これも特に好きな曲の一つです。ピアノ・ソナタ第2番(1948)、ストリュクチュール(構造)第1巻(52)のをさらに純化させたような書法であり、プリ・スロン・プリ(62)の裸の音響組成を2台ピアノで具現化した観があります。コンタルスキー兄弟盤が大変すばらしい。
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シェーンベルク 「月に憑かれたピエロ」
2015 FEB 7 12:12:17 pm by 東 賢太郎

この曲は「ピエロ・リュネール」とも呼ばれる。初めて聴いたのは大学2年の秋に買った、やっぱりブーレーズのレコード(右)だった(ドメーヌ・ミュジカル・アンサンブルによるコロンビア盤)。20世紀音楽を仕込まれた先生はブーレーズをおいてほかにない。実はこのLPで僕が夢中になったのは「室内交響曲第1番作品9」だ。冒頭、4度の積み重ねのホルンの和音で開始し15人の奏者によるぞくぞくする凝縮されたアンサンブルがつやつやした響きで展開する。ブラームスやショスタコーヴィチが聞こえるようになったのはずっと後だが、未熟な耳ながらストラヴィンスキー三大バレエは完璧に聞き覚えていた当時の僕にこの曲は刺激的だった。
さてピエロ・リュネールだ。こっちはよくわからなかった。これの劇的、詩的な側面はさっぱり興味がなく(wikipedia等をお読みいただきたい、なんともおどろおどろしい詩だ)僕の文学面の弱さが出てしまった。ただ春の祭典でも第2部序奏(ここはシェーンベルグ的だ)に痺れていた当時の嗜好からして音に違和感というものはなかったように思う。
ピエロは印象主義に対抗する表現主義といわれるが、1910年に火の鳥、11年にペトルーシュカ、青ひげ公の城、12年にこれ(ピエロ)とアルテンベルク歌曲集とダフニスとクロエ、13年に春の祭典と遊戯(ドビッシー)と西洋近代音楽はこの3年間に大爆発を遂げているのであり、それらの傑作は同時代の息吹を内包している(下記ベルクのヴォツェックは1914年に着手された)。
アーノルド・シェーンベルグはハンガリー人の靴屋の父、チェコ人の母(どちらもユダヤ人)のもとにウィーンで生まれた。8才でヴァイオリンを習ったがチェロは独学。15才で父を亡くして地元の銀行に勤めた。今なら貧しくて中卒で地銀に入った少年が夜に独学で音楽を勉強してこうなってしまったということで、人は環境より遺伝子なのだとつくづく思う。
第一次世界大戦中オーストリア軍に入隊したが、「本当に君が、あの耳障りな音楽を書いたシェーンベルクなのか?」と尋ねた上官に「はい、ほかにシェーンベルクのなり手がないもんで、僕が自分で引き受けることにしたんです」と答えた。彼は晩年にバッハ、J・シュトラウス、ブラームスの編曲をするなど調性への憧憬を見せていると解釈する人もいる。僕も賛成でありピエロの最後にそれを感じることができる。
ピエロについてはこういう指摘がある。興味深い。
「シェーンベルクは、数秘術に凝っていたので、7音から成る動機を作品全体に適用し、一方で演奏者数は指揮者を含めて7名としている。作品21に含まれる曲数が21であり、1912年に作曲を始めた日付が5月の12日であった。ほかに本作の鍵となる数字が3と13である。各詩は13行から成るのに対して、各詩の第1行は3回登場し、あたかも第7行や第13行であるかのように繰り返される(wikipedia)」。彼は作品番号を作曲年の西暦の下二けたと揃える意識があったという指摘もレナード・バーンスタインがしている(完全には合っていないが)。これが数秘術なのか「数フェチ」なのかは不明だが、数字に強いこだわりがあったことは疑いがないだろう。弟子のアルバン・ベルクは23という数字にこだわったが、23は僕の野村でのセールスコードであり僕のこだわりの数字でもある。子供が23日に生まれ、自宅は23番地だったので、迷わず買った。
またアントン・ブルックナーは「数フェチ」であり、物の数を数える癖があった。僕もそれであり、物心ついて以来登りながら階段を必ず数えている。もちろん今でもそうで、13になりそうになると2段跳びして12にする。会議はまず人数を数えることから始まる。コンサートでは必ず舞台の人数を数え、会場の客数を推定する。口癖のある人と話すとそれが何回出るか数える。コンクリート道路の線から線まで絶対に4歩にならないように歩いている。朝は目覚ましが鳴ってから7数えて起き、顔を洗うのも7回、etc。何十年もやっていて、完全に無意識下のことだ。
作曲家は音程、音符数、小節数にこだわったりの名前を音名化してアナグラムにしたりする人が結構いる。バッハ、シューマン、ショスタコーヴィチ、バルトークなどだ。それが主題労作、変奏の原主題に特別の個性を持たせたものと考えるならベートーベン、ブラームスもそうで、論理的、建築学的に音を構築(compose)する作曲法だからそういうことが意味を持つのであって、その先にシェーンベルクが位置するのは自然だ。
前回、ショパンが嫌だと書いたが、composeする哲学が違う。論理でなく感覚によっている。もっといえば指先感覚かもしれない。昔気質のドイツ音楽ファンは得てしてショパンは女の音楽と下に見ていたが、僕はそういうことでも偏見でもなく非論理的なものが肌に合わない。「数字」を感じない。彼はバッハを尊敬していたそうで音を物理的客体として把握する思考領域がないとそうはならないだろうから、それがあったということだろう。それでいてああいう音楽になるというのは摩訶不思議だ。
無調音楽というのは主題を構成する個々の音の隠されたトーナリティ(調性)を倍音から聴き取れる(推定できる)ようになると面白い。バーンスタインはシェーンベルクに別な惑星の空気を感じるとしながら12音技法にも隠された調性があるとしているが、音の組み合わせとしての調性がなくとも個々の独立した音素材には倍音を発する楽音として調性が含有されているのではないだろうか。だからこそ各音を「平等」に「民主的に」扱おうという12音に行きついたのだと僕は思っている。
それに気づくと、今度はそこに「非楽音の声」が入っても総体として音楽と認識される事実を発見する。耳のパラドックスだ。声は左脳が聴いているはずだが、無調を受容する過程で既に左右のバランスがチューニングされているのかもしれない。その声(歌ではない)がシュプレッヒシュティンメ(Sprechstimme)といわれるもので「音程がない歌のような話し声」(あるいは、話し声のような歌)であり、ドビッシーの「ペレアスとメリザンド」にその萌芽がある。
それが「月に憑かれたピエロ」(第1-3部)で初めて明確に確立し、ストラヴィンスキー「3つの日本の抒情詩」、ラヴェル「マラルメの三つの詩」、ブーレーズの「ル・マルトー・サン・メートル」に影響を与えた。この曲は1912年10月16日に初演されたのだが「月に酔う」の伴奏は同じく12年作曲のアルバン・ベルク「アルテンベルク歌曲集」の第1曲「 魂よ、お前はいかに美しいことか」の管弦楽を思い出さずにはいられない。先生と弟子の作曲の前後関係の詳細は分からないが非常に興味のある所である。まずはアルテンベルク歌曲集第1曲からお聴きいただきたい。
ちなみにアバドはこの曲を十八番にしていてロンドン交響楽団とやった名録音(DG)は僕の愛聴盤であり、このビデオもいいがDG盤のマーガレット・プライスの歌はさらに素晴らしい。
さて次に本題の「月に憑かれたピエロ」である。これはシェーンベルクが12音を始める前の作品である。
その第1部、
- 月に酔う Mondestrunken
- コロンビーナ Colombine
- 伊達男 Der Dandy
- 蒼ざめた洗濯女 Eine blasse Wäscherin
- ショパンのワルツ Valse de Chopin
- 聖女 Madonna
- 病める月 Der kranke Mond
をグレン・グールドが指揮しながら伴奏している録音がある(ビデオは1-5)。第1部だけなのが残念だがこのピアノが大変にききもので彼がどれほどこの曲を愛しているかが如実にわかる。先ほどのアルテンベルクと聴き比べていただきたい。
全曲はこちら。あんまりとんがってない解釈だがシノーポリとドレスデン・シュターツカペレの演奏が美しい。僕はこれが好きで、ピエロ・リュネールのこういう要素とペレアスが融合してプーランクの「人間の声」という大傑作につながったと思っている。
グールドのシェーンベルグは大変に見事である。これだけ作品23を美しく弾いている例を僕は他には思い当たらない。各音の倍音が発するトーナリティを認識して和音を鳴らしている気配があるのは上述の僕の考えを裏書きしているように思うが。この「倍音認識」はピエール・ブーレーズにも感じられ、それが例の春の祭典CBS盤の第1部序奏の木管にあるのだ。あの演奏が特異な音彩を発する原因はまぎれもなくそこにある。そういう音響を生み出しているこのふたりの耳の鋭敏さは驚異的で、等しく20世紀音楽の演奏史に大きな足跡を残したことは疑いがない。グールドのバッハが特異であるのは、このシェーンベルクで明らかになる彼のトーナリティへの独特の感性に一因があると思う。彼の弾く平均律とシェーンベルクの作品23は同質の美感を共有している。この音感でモーツァルトをやっても音楽の方が受容できないのであって、それに飽きたらず曲をいじってしまっているのではないか。彼がショパンを嫌って弾かなかったのはまったくもって当然なことだ。何故か第3ソナタだけ録音があるが、どこかバッハのようでもある。
(補遺です、16年1月17日~)
アルバン・ベルク 歌劇「ヴォツェック」
ピエール・ブーレーズ / パリ・オペラ座管弦楽団&合唱団
僕の真のベルク初体験は94年、アムステルダムで聴いたオランダ国立オペラによる歌劇「ヴォツェック」だった。陰惨な内容の物語と音楽のインパクトは強烈で記憶に焼きついた。そして右のブーレーズ盤だ。クレンペラーの魔笛でパパゲーノを演じた美声のワルター・ベリーのタイトルロールがブーレーズらしい。歌手の音程のコントロール、冷徹なオケ演奏で血の匂いはうすく彼の青ひげ公やペレアスと似た印象を残すが、リングを振っても変わらぬ一流の個性と思う。パリ・オペラ座管弦楽団&合唱団を振ったブーレーズの音が聴けるのは実に貴重で魅力が尽きない。そんなに上手いオケという記憶がないが彼の手にかかるとこんなに精妙な音が出てしまう!指揮者の耳の良さがいかに実効があるものかわかる。66年パリでこれとメシアンの「われ死者の復活を待ち望む」「天の都市の色彩」がCBS録音のスタートで第3弾がドビッシー「海」だった。僕にとっては記念碑的録音だ。
アルバン・ベルク 「ルル組曲」/ 歌曲集「ワイン」
ジュディス・ブレーゲン(Sp:ルル)、ジェシー・ノーマン(Sp:ワイン)ピエール・ブーレーズ / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団
これはブーレーズがNYPOを振った一連のディスクのうちでも火の鳥、ペトルーシュカ、ダフニス、マンダリン、ラヴェル集に並ぶ名盤である。それらと同様、新盤(VPO)より良い。濡れたように光彩を放つオケ、完璧なピッチ、鋭利なダイナミズム、精密微細にクリアに音響をとらえた録音!細身のプレーゲンの声も見事なピッチの楽器として計算されており(それだけに悲鳴が衝撃的だ)素晴らしいとしか言いようがない。一転、ワインでのノーマンの全てを包み込む馥郁たる声はどうだ。音色に対するブーレーズの作曲コンセプトすらうかがわせる恐るべき先鋭なセンスであり、極限までマイクロスコーピックな時間支配にこちらの精神も金縛りになる。
アントン・ウェーベルン 作品番号付き作品全集(Op1~31)
ピエール・ブーレーズ / ロンドン交響楽団他
これも僕の愛聴盤だ。ブーレーズはそのシェーンベルク論のなかで「演奏は様式の理解が足りないのではなく、技術不足によって破壊される」と述べているがそれはウェーベルンにおいてさらに言えるだろう。作品18、ハリーナ・ルコムシュカ(ソプラノ)のギター、クラリネットとの「合奏」は驚異的であり、完璧なピッチが音楽の基本であることが無調音楽でも根本原理であることを明確に示す。作品15のフルート、クラリネット、トランペット、ハープ、ヴィオラとソプラノの音の綾は究極の美しさだ。これはJ.S.バッハやベートーベンの美といささかも変わらず、そう聞こえない演奏は技術不足によって破壊されているのである。
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