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「ニーチェ」と「トランピズム」の結婚

2026 JAN 16 18:18:57 pm by 東 賢太郎

年末に箱根へ行って、外食をすませた帰りのことだ。冷たく澄み渡った大気の中に煌々と輝くオリオン座に呆然と見とれてしまった。子供のころ、暗くなると毎晩外へ出て白い息を吐きながら、あそこに行くとどんな景色だろうと空想した。冬休みに家族で行った天城高原ロッジから目撃した、まるで宝石をぶちまけたようにぎらぎら輝く星空は豪勢でまばゆく、半世紀以上前のその感動までもが蘇ってしまったのだ。春夏秋冬、北半球、南半球、夜空のどこを見渡してもベテルギウス、シリウス、プロキオンの作る「冬空の大三角形」界隈ほど華やいだ眺めはない。僕はこれを「天空の銀座」と呼びたい。それにしてもだ、写真をご覧になって、12個の明るめの星々が三ツ星、小三ツ星までお見事に、まるで誰かに造形されたかのように並んだこの天空の “絵柄” は、「自然の産物」にしては出来すぎと思われないだろうか?

仮に3個のビー玉を同時に無作為に頭上に放り投げてみたとしよう。地面に落ちたその3個が正三角形を描くまでに、あなたは何回それをくりかえす必要があるだろう?では今度は三ツ星みたいにまっすぐ等しい距離に整列するには?では6個を投げて大小三ツ星になってきれいに並ぶには?それではいよいよ、12個いっしょに投げて「天空の銀座」になるには??

ペルーにある「ナスカの地上絵」は紀元前500年から紀元500年の間にできたことがわかっているが、空から見ないとわからない巨大なサイズなので飛行場が近くにできる1920年頃まで見つからなかった。どう見ても動物や幾何学紋様にしか見えない絵柄が、それも1つ2つではなく、なんと723個も描かれていて、古代の住人がやったとすれば関わった人数も時間も膨大なものだ。ひとりではできないから指揮した者がいるはずだ。彼(彼女)は何と言って人々に命じ、飯を食わせたのだろう?これだけの大工事をやらせるには目的を示す必要があってそれは伊達や酔狂とは思えない。そこでドイツのマリア・ライヘという数学者はこの地に住んで一生を捧げ、それが何か、誰が何の目的で描いたかを研究したがいまだ解明されていない。空想をたくましくしてみよう。オリオン座と冬空の大三角形は何者かが人類に見せるために描いた「天空絵画」であって、AIによると紀元前500年も形はほぼ同じだった。地球上どこにいても1年間のトータルの半分は夜ということを我々は忘れてるが、電燈がない古代人の夜は長かった。当時のナスカ人は毎夜に現れるそれを神様のメッセージと畏敬し、地上にいる動物を模写して生贄にささげたのかもしれない。あるいは現代人がSETI計画で強力な電波を宇宙に向けて発信しているのと同じ発想だったかもしれない。

広い世界にはもっと想像力のたくましい人たちがいて、古代には地球外生命体が頻繁に地球を訪れており、ナスカ人は彼らと交流しており目印として地上絵を描いたと主張する。僕はそれをエーリヒ・フォン・デニケンの著書『未来の記憶』で知り、中学時代に夢中になって読みふけった。それとトロイの遺跡を予言して発掘したハインリッヒ・シュリーマンの『古代への情熱』は興奮した二大書物だ。ドーンと謎が提示されて解き明かしていくタイプの読み物といえばエラリー・クイーンにもはまっていたが、 60年前の「宇宙人」のミステリー度合はNo1だった。

膨大な人数と時間を投入して古代人が造ったものの、何と人々に命じ、飯を食わせたのか未だ不明な物がもう1つある。エジプトはギザのピラミッド群だ。クフ王らの墓とされるが構造上の謎が残る。 3つの配置がオリオンの座の三ツ星を模したという説は真偽不明だが、目印説を取ればナスカと同じ目的ということにはなろう。私見では地球外生命体Xが我々の知らない何らかの目的のため2つ建てて去った。のちにクフ王、カフラー王の墓に転用され、3つ目は再訪の目印にと三ツ星に比定する位置に人間だけで建造したが完成できずメンカウラー王の墓になった。1つ目にXは宇宙普遍の数理を埋め込み、後世の人類が自分の来訪を知るきっかけを刻印した。

ピラミッドの謎とは?円周率・黄金比・地球緯度の秘密に迫る

これは映画「コンタクト」でこと座α星ヴェガから自然のノイズではあり得ない人工的な信号である二進数で記述された素数列を送ってきて知的生命体であることが示されたのと同じことだ。

両著者とも若い頃は秀才のようでもなく、デニケンは逮捕歴までありメインストリームの知識人には受け入れられ難いハンディはあるものの、常人離れした想像力と行動力を発揮して僕のようなタイプの少年に血沸き肉踊る知的刺激をもたらす人生を送ったことは何人も否定できない。そうである以上、学会の保守本流から受けた「世を惑わす似非科学だ」、「素人発掘で遺跡を損壊した」等の批判は、後述するようにニーチェが「ルサンチマン」と定義した物(要は嫉妬)を含んでいる可能性も否定できないのであり、大哲学者によって「良い人生を送るためにはやめた方がいいよ」とばっさり切り捨てられているものの類であると僕は弁護したい。仮にメインストリームの批判が客観的に正しいものであるならばご両人はSF作家だったと理解すればよいのであって、そうであっても彼らに対する僕の尊敬はいささかも揺らぐものではない。先ほど、懐かしいデニケンさんがどうされているか、ウィキペディアで検索してみたらこの1月10日に亡くなっていた。本稿を書きたくなったのはこれまた虫の知らせだったのか・・。そういえばその日、歯が痛くなって注射を打たれたらもっと痛くなってうんうん唸っていたのだが・・。

デニケンの指摘通りナスカの地上絵は地球外生命体との交信の証だったとしよう。しかし、それでも、偶然にできるには気が遠くなるほど確率の低い天空絵画の謎は残る。誰もそんな主張をしないのは、恒星が巨大な質量を持って遥か遠くにある物体だと知っているからだ。しかしそれは本当だろうか?もっと言うなら、宇宙の果てまで137億光年というが、それも仮説から計算した紙の上の数字に過ぎない。物差しになっている光速はおよそ秒速30万kmだということが実験によって証明されているが、それより速く進む物体は存在しないという仮説の方は証明できない。シミュレーション仮説信奉者の僕としてはその数字はこの宇宙を創造した者(神としておこう)が使用したコンピュータの処理速度の上限値に過ぎないから実は任意の値であり、137億光年という宇宙のサイズも同様だ。

洞窟の比喩

宇宙そのものがシミュレートされた幻影に過ぎないから大きさも重さもなく、我々が見てるのはまさにプラネタリウムみたいなもので、オリオン座だろうがアンドロメダ大星雲だろうが「天空の銀座」だろうが、絵柄は子供でも好きに描けるのだ。やはり同説の信奉者であるイーロン・マスクはビデオゲームの進化を例に挙げてそれを説明し、我々が見ている宇宙が現実である確率は10億分の1だと言っているが、この考え方の原型はちょうどナスカの地上絵が描かれたころに活躍したギリシャの哲学者プラトンの「洞窟の比喩」にすでに見られる。

似たような驚きを別のところで覚えたデジャヴがある。人間ドックの内視鏡検査で目撃した、僕の目には艶やかなオレンジ色のように見えた肉塊、すなわち自分の胃袋の中を初めて見た時だ。

「これが食道です、ここから胃ですね・・はいここから十二指腸になります」

女性の医師が手慣れたバスガイドみたいに説明し、ほーっと観光客みたいに眺めていた。これって、渋谷のプラネタリウムで聞いていた「この明るい星がシリウスです、何光年先で大きさは太陽の何倍で、その右がベテルギウスです、赤いのは温度が低いからです」なんてのとおんなじだなと思いながら、そこはかとない違和感を感じていたものだ。何だか自宅の部屋の中を他人が詳しく知っていて解説されてるみたいじゃないか。胃袋の所有者は俺だよ、なんで彼女のほうが俺より知ってるんだ?

それは、僕が作ったものではなく、両親とて設計図を見て作ったわけでなく、母のお腹で自然の摂理に従ってできたからだ。摂理というのは宇宙の仕組みと同じく創造者である神が創ったものだ。 1つの受精卵からいろんな臓器が分化してできて、その1つが僕の胃袋になっているわけだが、医師だって医学書の著者の博士だってなぜそうなって、どんなプログラムがどうやって作動したのかは誰も知らない。医学というものの創世記からの経験的学習によって誰の胃袋もそうなっていることを学んでいるだけで、彼女はぼくの胃袋がかつて観察された天文学的な数の胃袋のone of themであり、そうでない確率は海岸の砂浜から砂粒ひとつを選び出す確率より低いという仮説に基づいて解説を述べているのである。それはプラネタリウムの解説者がベテルギウスのあれこれを観測による経験的学習によって知っているのとなんら変わらない。つまり僕も医師も、脳みそからほんの 40cmの距離にある胃袋のことを「550光年先の星のことぐらい知らない」のである。そんな人類が世の中をわかった気になって支配しているのだから、史上初めて核兵器が用いられた80年前以降の我々はいつ全滅してもおかしくないという危うい均衡の中で生きていると言って全く過言ではない。「人間は考える葦である」とパスカルはパンセに書いた。それから350年もの年月が経っても、考えたところで大したことはないと思うのは僕だけだろうか。

考える葦が何をしてきたか、いかに浅はかな考えの連続であったかは歴史が教えてくれる。自由平等博愛の精神があれば神がいなくても人間は立派な社会が作れる。そう考えてカソリックを否定したフランス革命は約50万の人を殺した。それを肯定したマルクスの共産主義革命は人類が資本主義者に搾取されない理想の世界が作れると考え約9,500万の人を殺した。前稿で、僕は自分自身がフランス革命と啓蒙思想にルーツのある「自由」を心から愛する根っからのリベラリストだと説いた。人殺しの理念にかぶれていると誤解されたくないので述べておくが、僕がマルキシストでないことは「神はいる」と信じていることから証明される(その神は創造主であって名前は無いが)。そこに信心が至る契機は宗教でなく数学で唯物論的思考をたどっているが、結論は論理で導かれたのではなく天から降ってきたものだ。

それでは、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ニーチェ(1844 – 1900)が「神は死んだ」(Gott ist tot)と言ったことに対し僕は批判的であるか。答えはYes and Noだ。ニーチェの言葉は、ルネサンスによる科学技術の発展で「神が世界を創った」「神が善悪を決めている」といった従来の考え方が説得力を失い、長らく西洋社会の基盤となってきたキリスト教的な道徳や価値観がその力を喪失したことへの暗喩だ。神、魂、徳、罪、彼岸、真理、永遠の命、理性、価値、権力、自我などの概念は、弱い人間たちが自己を正当化して言い訳をするための「嘘」であり、キリスト教が目標とする偽りの彼岸的な世界の象徴なのだと説く。それを背景で支えている心理が前述の「ルサンチマン」(Ressetiment、無力ゆえの「憎悪」「嫉妬」に基づく、弱者からの「復讐」の感情)であり、「強者は悪だ」として自分を納得させ、「能力の高さより善人であるべき」、「迫害に耐える事で天国に行ける」と救済しようとする。彼はこれを否定して強者(超人)になれと説き、だから神は死んだと警鐘を鳴らしたわけである。また、解釈とは価値、意味を創り出す行為で多様だから世界はどのようにも解釈される可能性がある無限に二義的なものであって、唯一の真実などというものはなく、どこまで追い求めても「人間の解釈」というファジーで恣意的なものがあるだけで意味がないと考えた。以上の2点につき、僕は強い共感を覚える人間である。ルサンチマンから逃げまくり、ウソを並べた煙幕に救いを求める人達にとっての神は死んでいるが、しかし、宇宙を創造した神は存在し、人類を見守ってくれていると僕は信じているのである。

ニーチェはそこで興味深い概念を提唱している。永劫回帰(えいごうかいき、Ewige Wiederholung)だ。彼はスイスの著名なスキーリゾートでもあるサンモリッツの少し南にあるシルヴァプラナ湖の森(写真)を歩いていて、その啓示が突然に降ってきたという。

シルヴァプラーナ観光ガイド~定番人気スポットを参考に自分にピッタリの観光プランを立てよう!|エクスペディア

永劫回帰とは?この世界は、全てのもの(崇高なものも卑小なものも)が、まったく同じように永遠にくり返されるとする考え方である。キリスト教は始まりである天地創造があり、終わりである神の国の到来があって、歴史はこの終点を目的として不可逆的に進行するが、ニーチェは永劫回帰する世界はループ状で始まりもなく終わりもなく、それ1個しか世界はないとする。イメージとして、箱根駅伝の最初の走者が1区を走りきり、さあ2区だと襷を渡そうとしたらまた1区のスタート地点だったという感じだろうか。少年サンデーの「伊賀の影丸」(横山光輝)で、敵を追いかけて豪雨の中を走れども走れども着いた先は「三島の宿」だったという、童心にも背筋がゾゾッっとしたシーンが目に焼きついてる(左がそれ)。余談だが僕はこの絵で三島という地名を覚え、この作品全巻を何度も熟読することで日本語すらも覚えた、いわば元祖アニメオタクである。影丸たちは敵の妖術にたぶらかされていたわけだが、実は70年生きてみると世の中というものは丸ごとそんな感じであって、目的地到着が無いのだから何度走っても途中にあった険しい坂道や危険な峡谷が戻ってきて消え去ることはない。だからそれらは自分で乗り越えるすべを開拓しなければ回避できる道は永遠にないのだ。ニーチェはこれを「ニヒリズムの極限形式」と呼んだ。キリスト教のように今まで最高価値だと信じていたものが実はそうではないと悟った時、人間が持つに至る世界観がニヒリズム(虚無主義)である。そこで人間は人生を諦めてしまう消極派か、自分で切り開こうと思う積極派か、そのどっちかを考える価値もないとする悟り派に分かれるが、ニーチェは究極の選択として積極派を推奨した。つまりここで彼はヘーゲルの弁証法をも否定したことになり、後世に大きな衝撃と影響を残したのである。

積極派こそが究極であるのは、人間は消極的に虚構に逃げこんで傷をなめあっても現実世界では何の救済も得られないからだ。したがって、これが重要なことだが、強い者への憎悪、嫉妬、復讐心をかきたてて人間をそこに追い込んでしまう「ルサンチマン」というものは苦悩、無限地獄の元凶とみなすべきなのである。嘘を垂れ流して「強者を憎め、妬め、復讐せよ」とする、耳障だけは良い「絶対的原理」を吹聴する者を拒絶せよ。そして、次々と生まれ出る真理の中で戯れ遊ぶ超人になれというのが彼の主張だ。この点においても僕はまったくもって同感だ。人間は、いくら頑張っても強い者を否定しても合理的な基礎を持つ普遍的な価値など手に入れることはできず、流転する価値、生存の前提となる価値を承認し続けなければならない、いわば自転車操業を続ける悲劇的な(かつ喜劇的な)存在である。もう笑うしかないぐらい今の自分を言い当てられた気がする。それでもくじけてしまわないのは、健康で生きることの喜びを肯定し続けられているからだと思う。

現状の日本国を俯瞰するに、そうした生き様を貫いている人の数は減ってきているような気がする。失われた30年なる失政を遠因とする慢性的デフレなのか、コロナ禍が社会の活力を蝕んで劣化させた結末なのか、戦争に端を発した輸入インフレの延焼による物価高なのか、その原因は一概に判断できないが、おそらくはそのどれもが相まった複合的現象として日本中に蔓延し、世の中を沈滞させてきたのだ。そしてその空気が俄かにより一層重くなり、日本国の天空に半透明のドームでもかぶせて暗くされたかと危機感を覚えるほどの変調を覚えるようになったのは3年半前に安倍元首相が暗殺されたその日からである。あの極めて不可解なのだが不可解でなかったかのように整然と始末されていった不可解な事件以来、それを本当にそう思っていないのだろうと見えるのに十分なほど無能である総理大臣たちの下で、無言の衝撃をうけた日本国は国としての生体反応が停滞し、国民は生活の先行きが見えない不安の中で五里霧中となり、近隣諸国の軍備拡張に無力のまま怯える日々という暗い洞穴にに落とし込まれてしまった。そして、あたかも次へ進む希望の道への一里塚であるかのようなもっともらしい体裁を伴って、オールドメディアは次から次へと以下のような「空虚言語」をばらまいていったのである。

夫婦別姓、LGBT、女系天皇、多文化共生、多様性、環境、SDGS、国際、平和、交流、生活、貧困、教育、福祉、慈善

いったいなにが起きていたんだろう?? ニーチェならこう答えるだろう。

『ルサンチマン』という毒薬がばらまかれたんだよ

「空虚言語」(Empty Word)というものがある。フランスの哲学者で精神科医のジャック・ラカンの用語で、安定した意味を持たない記号のことを指す。言葉に見えるが実は記号である。そのため意味は常に変化し文脈に依存し、対話型AIのハルシネーション(幻覚)の原因にもなる。人間は自己都合や邪悪な動機によっていくらでもハルシネーションを喚起できるので、「空虚言語」を並べてルサンチマンを巻き散し、解毒できる絶対的原理ですよとプロパガンダを吹聴することは一定の政治的効果を期待できよう。だから無能な政治家ほどそれに頼るのである。「これからは**の時代です!」など「空虚言語」を連呼するだけの政治家は自分の頭も空虚であることを開陳しており、政権奪取しようとは実は1ミリも考えていない万年野党は、年収4000万円で政治漫談を演じる芸人一座である。

ニーチェが「嘘」だとばっさり切り捨てた次のような言葉はラカン派精神分析においては「空虚言語」である。

神、魂、徳、罪、彼岸、真理、永遠の命、理性、価値、権力、自我

当時これらをルサンチマン解消の特効薬としてばらまいたキリスト教会こそが絶対的原理の吹聴者であり、永劫回帰するこの世に唯一の真実などというものは無いのだからそれはすベて嘘である。世界はどのようにも解釈される可能性がある無限に二義的なものであって、どこまで追い求めても「人間の解釈」というファジーで恣意的なものがあるだけという意味において、目的が自己利益の追求オンリー(今だけ金だけ自分だけ)の政治家にとって「空虚言語」は便利で親和性が高い。例えばどこから見ても堂々たる左翼でしかない政党が、一つだけもっと左翼の政党があることを盾にとって「我々は中道だ」といえば、「中道」というまるで絵にかいたような「空虚言語」が記号としての本来の役割を発揮してもっともらしく聞こえ、無知の国民を騙し、場合によっては対話型AIのハルシネーションまで誘発して害悪を増幅しかねない。そうした税金の無駄である政治家を駆逐するには「充満した言葉」(Full Word)のみで自己の定義を述べよと徹底して追い込み、悪手を封じればよいのである。

ことの危なさはアメリカ合衆国でも同じである。ドナルド・トランプは福音派のキリスト教徒だ。ニヒリストではないのだから彼がニーチェ哲学の信奉者である可能性は高くないかもしれない。しかしビジネス界における強者である彼がルサンチマンを抱く人間である可能性はほぼゼロであり、愛国者として国をもう一度強く豊かにしたいとMAGAをスローガンに掲げる意思の根源が福音派の教義にあったとしても、それはニーチェが否定した弱者救済のためのものではない。彼がDOGEを立ち上げ、「言葉遊びより常識が大事」「人間には男と女しかいない」と子供にも伝わる地に足の着いた言葉(Full Word)をもって絶滅に追いこもうとしている敵はアメリカ合衆国の内部に深く寄生してしまった、空虚言語を振りまわして世を惑わすグローバリストだ。暗殺者の銃弾が耳をかすめても何らひるむことない姿は、来世での救済など望まず命を捨ててでも現世で為すべきことを為すという強烈なコミットメントにおいて、意図しようがしまいが、彼はすでにニヒリズムに至っており、 ニーチェが生きておればその姿勢を肯定したのではないかと思うのである。まことに痛快な限りであり、我が国でも高市政権が斯様な政治改革をしてくれるだろう。

両人ともがまさしく超人 (Übermensch)なのである。トランプにおいては国連や国際法の存在というものは、彼に対する福音派ではなく、ニーチェに対するキリスト教教会の総本山の位置づけに既になっていると思われる。ということは、ベネズエラ襲撃において、彼は「神は死んだ」と宣言したのである。その是非をここで論じても仕方がない。絶対に避けねばならぬ事はただひとつ、キリスト教もニーチェも想定していない、人類が全滅する殺し合い(第3次世界大戦)の勃発である。彼がそれを理解し、神もその回避を望んでいると解釈していることを信じたいし、世界各地の小競り合いがそれに発展することを止められるのは彼が功罪合わせ飲んででも行使する軍事力しかないということもわかっているだろう。今我々がこうして生存しているということは、現在のループにおいて絶滅危機は起きていないことを示している。しかし前のループでそれはなかったのだろうか?人類はかつて二度三度滅亡していることが古代遺跡から分かると唱える論者もおり、ノアの箱舟がなければ実は一度滅亡していたのではなかったかと考える者もいる。トランプが人類の救世主なのか破滅の大魔王なのかは現時点においては誰にもわからない。おそらくトランプ自身もわからない。だから彼のここまでの行為の是非はニーチェの言う無限に二義的なものだと考えるのがフェアである。それを、何がしか頭を使った痕跡は一切無く一義的に「いかがなものか」とパブロフの犬のごとく騒ぎ立てている連中は何のルサンチマンに掻き立てられているのか知らないが、超人への途上にないことだけは間違いない。高市総理の解散権行使によって絶滅の危機に追い込まれる事が確定した政党の上層部が、政策の説明など一言も無いまま自己保身のため絵にかいたような野合を唱え、その唐突さを緩和しようとオールドメディアが子供でも嘘とわかる応援記事を書く。人生終わった爺いどもの気色悪い抱擁一色で高市・メローニの期待に満ちたハグはスルーで「なかったことに」で葬る。しかし、この偏向報道があまりに露骨だったことでかえって国民は気づいてしまった、軒下に潜んで蠢いている奇怪な害虫がまだ駆除できていないことを。このありさまが、あの2022年7月8日の、宇宙の常識を一掃する異様さであったシンクロ報道の既視感を鮮やかに呼び覚ますからだ。こういう連中に無垢の国民が騙されつづけ、政府が一刻も早く駆除の手を打たぬならば、実質的にニーチェ主義化したトランプは自助努力せぬ日本をいずれ見捨てるだろう。高市総理は切った舵のとおり冷徹果断にやり抜くことを日本国存続のために強く期待する。

ニーチェがラ・ロシュフコーとショーペンハウエルに影響を受けている事は興味深い。両人の書物は我が愛読書だからであり、何かが底流で通じているかもしれない。彼がワーグナーに一時傾倒したことはクラシックファンには周知だろう。その点に関しては、僕はニーチェ自身が作曲をたしなんで作品を残していることと同じぐらいは意味を感じる程度である。むしろ、ニーチェ思想が明治後期から大正にわたる日本の名だたる知識人に衝撃を与え、高山樗牛、夏目漱石、新渡戸稲造、和辻哲郎、阿部次郎、萩原朔太郎、芥川龍之介らに大ニーチェ論争を巻き起こさせ、何より僕がファンである夏目漱石が明治38年ごろ、『吾輩は猫である』執筆中に『ツァラトゥストラ』の英訳本と格闘していたことのほうがずっと重大である(左)。高山、和辻、阿部以外は哲学者でなく文人であるがニーチェに没頭して大論陣を張っている。知識人とはこういうものだ。現代の我々から見れば西洋の哲学や文学に関わる情報も造詣も未だ十分ではない時代にも関わらず、先人たちがそれほどのインテリジェンスを確立していたことを誇りに思う。東洋にそんな国は日本しかなかった。ちなみに芥川龍之介はストラヴィンスキーのレコードを持っていて、それを聴いて育った次男の也寸志は作曲家になった。漱石が同書を選んだ理由といえば 「神の死」「超人」「永劫回帰」が語られているからだろうか、「猫」の後半にその影響があるとされているが僕はまだよく理解できていない。

締めくくりにリヒャルト・シュトラウス作曲の『ツァラトゥストラかく語りき』を聴いてみよう。ウィキペディアのタイトルは「こう語った」になっているが僕はどうも文語調の「かく語りき」でないと収まりが悪い。演奏スタイルも1970年代にアナログのステレオのHiFi録音技術がピークを迎えることに合わせた豪華絢爛型、そして80年代になるとデジタル録音とCDという新メディアによって静謐な細部まで分解能の高い透明感を謳った演奏も出てきた。そのどちらもがメリットとなるように巧みに書かれているリヒャルト・シュトラウスのスコアの質の高さが時代を追って浮き彫りになってきたように思う。この曲及び英雄の生涯はフランクフルト歌劇場管弦楽団によって初演された。僕が同地に駐在していた頃の同歌劇場の音楽監督は読響でメシアンの秀逸な演奏を何度も聴かせてくれた現在世界最高クラスの指揮者シルヴァン・カンブルランで、現在の読響音楽監督セバスティアン・ヴァイグレも2003年まで同じポストにあったということで縁を感じる。

スタンリー・キューブリック監督が「2001年宇宙の旅」に使用したため冒頭部分2分ほどばかりが有名になってしまったが、全曲に渡って隙のない見事な音楽である。シュトラウス自身が1944年6月13日にウィーン・フィルハーモニーを振った録音は宝物だ。 80歳の誕生日を記念して1週間の放送スタジオコンサートが行われ、正規録音はないが家族がプライベートに録音した音源ではないかとされているのがこのビデオだ。何度かの復刻により音も鑑賞に耐え、作曲家の解釈が最も反映された演奏がVPOにより再現されている価値は何ものにも代えがたい。これを知れば豪華絢爛型の演奏スタイル、ましてやディズニーの伴奏音楽みたいな路線は本質をおよそついてないことがお分かりになろう。なおコメントにあるが、この演奏の3日後にスタジオから数マイルしか離れていない石油精製所が連合国の激しい空爆で殲滅されたという。そんな空気の中でこれだけの演奏ができてしまう音楽家たちには畏敬の念を覚えるしかない。

ステレオ録音でもう少し良い音でという方。ヘルベルト・フォン・カラヤンは記憶ちがいでなければ確かこの曲を3回録音している。ベルリン・フィルハーモニーとの2つは品格を伴っている純度の高いゴージャスな演奏である。そちらを好む方に何の異論もない。しかし、これは多分に趣味の問題ではあるが、僕はやはりリヒャルト・シュトラウスにおいてはウィーン・フィルハーモニーが本能的に持っている音楽の変転する流れやメリハリへのアジリティー(敏捷性)、および感度の高さと艶やかな音色がなければ物足りない。そこで、同じ趣味の方にはカラヤンのデッカ初録音である第1回目の演奏をおすすめしたい。これは日本では1973年の9月ごろに、カラヤン初の廉価盤として千円で発売されあっという間に売り切れになった一群の懐かしいLPの内の一枚でもある。ツァラトゥストラはこのレコードが2001年宇宙の旅に使われたものであるというふれ込みでシリーズの目玉扱いであり、買うかどうか最後まで迷ったが高校3年生で金が無く、ブラームスの交響曲第1番、ホルストの惑星、くるみ割り人形とペールギュントという当時に関心のあった曲の選択になってしまった。 1959年の録音であるがデッカ肝入りの素晴らしい音で、演奏は作為的な見栄や贅肉のないギュッと引き締まった魅力があり、今より音色に色気があった頃のウィーンフィルが香り高い音でシュトラウス直伝のニュアンスまで余すところなく伝えて文句なしだ。

 

 

バッハと数学に関する小論

2026 JAN 13 0:00:38 am by 東 賢太郎

読書をしているとちょっとした言葉が気になることがある。それをそのまま放っておくかどうかで語学力に大差が出る。もちろん日本語だってそうだが、それが外国語の場合、僕は語源まで調べたいのでラテン語辞典も持っている。そこまでしているのは僕ぐらいかなと思っていたが、今やAIが瞬く間に語源の組成まで教えてくれるのだから今からすぐに誰でもできる。いい世の中になったものだ。もしいま僕が受験生だったら勉強の仕方は革命的に変わっていただろう。

語源にこだわるようになったのは当時の必読本だった「試験に出る英単語」の影響だ。よく出るという謳い文句より、接頭語や語源で単語を分類して覚えればエコノミーという考え方が気に入ったのだ。のちにそれは英単語だけの話ではなく、「分類という頭の使い方」はすべての知的作業や学問のベースとなるという大事な発見に行き着いたのだから同書には感謝している。子供の頃に読んだファーブル昆虫記やシートン動物記はまさに分類だったし、ダーウィンはフィンチのくちばしでそれをやって進化遺伝学を創造した。文法でたとえるなら暗記は名詞、頭の使い方は動詞である。つまり「何万個の英単語を暗記しても1つの文章にもならないから物知り博士やクイズ王にはなれるだろうが、インテリジェンスの涵養には何の役にもたたないよ」ということだ。それを言っても暗記専門の人は信じない。分類ができる人は信じる。なぜなら人間も分類しているからだ。

語源を探っていくとどんなメリットがあるのだろう?それをご説明しよう。たとえば英語のテースト(taste)は「味」だが、好み、趣味、美意識の意味にもなる。日本語の「味わい」もおおよそ同じ意味あいをカバーしており、 AIで調べると中国語も同様だ。つまり古来より東洋も西洋も味覚の比喩で抽象的な感覚を共有し、その選択の具合で人間の中身を評価したりしてきたのだ。こうしたことは試験には出ないが有益だ。言葉は人間の思考回路から生まれるからであり、その成り立ちのなりわいを調べれば人類の歴史がわかるという意味で文化的な遺跡であることが体感できる。試験に出る年号の暗記は僕もしたが10年でほとんど忘れ何の支障もない。言葉は遺跡だという学習から本稿が生まれたことは読了して頂けばご理解いただけると思う。どちらが生きるために重要かということはここでも明らかになる。

ラテン語で食通のことをhomo elegansという。homoは人であり、elegansはどなたもご存じの英語のエレガント(優雅な)の語源だが、そのまた語源はラテン語のēlēgō(吟味して選別する)で、分解すると ē-(外へ)+ legō(集める・読む・選ぶ)である。つまり「集めた中から外へ選び出す」というイメージでelection(選挙)もここからきている。要するにローマでは「選別された人」が食通と思われていたのである。セレブに置き換えれば現代日本でも同じと思われるかもしれないが、セレブは英語のcelebrity(セレブリティ)の略で著名人のことであり、金持ちの意味ではない。選別されたわけではなく相続や不動産や株で資産を得ただけの人はそもそもセレブでなく、概して真の意味での食通でもない場合が多いのである。

とすると、ラテン語のelegansというものがどういう意味か気にならないだろうか?なるという人は目がある。これが解答だ(Chat GPT)。

  1.  優雅な、上品な、立派な
  2.  好みのうるさい
  3.  識別力のある、教養のある

 

次にその子孫である英語のエレガントの意味だ(Weblio英和辞典)。

  1.  上品な、優雅な、しとやかな
  2.  気品の高い、高雅な(芸術・文学・文体など)
  3.  手際のよい、簡潔な、すっきりしている(思考・証明など)
  4.  すてきな、すばらしい(主に米国で用いられる)

 

これを見比べて思い出すことがある。受験勉強で「大学への数学」にはまっていた頃、その界隈で理想とされたのが「エレガントな解法」なるものだった。エレガントといえばオシャレみたいなもので、女性や服装や髪型を言うものとしか思っていなかったから、解法なんて無機質な言葉を形容するのが不思議だった。それが難問を5行ぐらいでささっと解いて「お先に」と教室を出て行けるシンプルでスマートで無駄のない解き方を意味することを知るにはしばらく時間を要した。多くの複雑な問題は解き方が数通りあって、どれでも正解だが短くて速いに越した事はない。凡ミスのリスクが減り、検算もでき、問題数が多いほど合格に有利だからだが、僕の美学においてはそうした功利的なことより単にカッコいいからだった。そう、この「カッコいい」という語感が数学の「エレガント」であり、そう感じられるかどうかがセンスなのだ。僕はそろばんを習っておらず暗算ができないし、計算は遅くて下手な部類だ。しかしそれと数学力は別物だということは数学が苦手な人ほどわかっていない。

ここでラテン語のelegansの2.「好みのうるさい」に光が当たるのである。この意味は英語になると消えてしまっていることにご留意いただきたい。僕はダサい解き方で丸をもらっても嬉しくない。即ち、解き方の好みがうるさい。これはある意味で上級者の証しである。問題用紙を真っ黒にして膨大な計算をして腕力で解きましたってのはスマートさに欠け、泥と汗のにおいがプンプンする。それがどうにも性に合わない。そういう性格でないとなれないものなのかもしれないが、あくまでこれは受験数学の話だ。それ以上はやってない僕に語る資格はないが、最小の時間と労力で最大の効果を得ることこそ数学的と感じていたのであり、それを無視して数学の問題を解くこと自体が定義矛盾で気持ち悪かったのである。

ここで英語のエレガントの3.「手際のよい、簡潔な、すっきりしている(思考・証明など) 」に光が当たる。英語はラテン語にはあった「好みのうるさい」が消えた代わりに、これが入っている。あくまでイメージだがとても英国人らしい思考の痕跡と思う。「腕力で解きましたってのはスマートでない」のスマートとはこのことだ。問題を手際よく簡潔に解く。スマホのスマートはまさしくこのニュアンスであり、多機能を複合するエレガントな解決法なのである。ガラケーでも充分に便利だったのにそれで満足しない「好みのうるさい」人たちがアメリカにいたわけだ。単なる便利さではない、その方が先進的で合理的でカッコいいというオシャレ感も大衆の心をがっちり掴み、企業収益で大差がついたのもスマートだった。優雅や教養は金にならないがカッコよさは万能なのだ。

僕の好みがうるさいのはこだわってる分野だけでそうでない分野はそもそも好みがない。だからその分も集中投下してうるささは2乗になり、世間様と平仄が合うことはまれだ。何々同好会とか友の会みたいなゆるい集団に参加するのは無理であり、人生所属したのは技を究めるガチの体育会だけだ。サラリーマンはそれ自体がだめであんまり所属感がなく、人事評価する上司にそれをアピールする競技大会である飲み会やカラオケは苦痛であった。それでも31年も続いて役員にしてもらったのは体育会時代と同じくガチで仕事して技があったゆえだ。負けない方法は勝つまでやめないことだ。いくら負けてもそう信じられたのは自分のこだわった技が通じないはずはないと自信があったからだ。

その自信のルーツを探ると「数学のエレガント」に帰着するのだから受験勉強に没頭したことは重大な価値があったと思う。数学は宇宙の決め事を読み解く言語であり書いたのは神だ。そこに無駄はない。なぜなら人間とて半導体に余分な回路を作る者はいない。まして神がそんなことをするはずがない。だから必ず必要最小限かつ必要十分。人間はそれを美しいと感じるように造られている。それがエレガントの実体なのだ。この考え方は一神教的である。多神教の日本人は融通無碍のあいまいを好み、ロジックという原理原則が世の中を支配しているという考え方は一般に嫌う。僕も多神教の親に育てられたが、決定的に宗旨がえをするきっかけは数学だ。それほど強烈なインパクトがあった。以来それが正しいと確信している。なぜならエレガントの魅力に憑りつかれて気がついたら偏差値が80になっていた。理由不明。これを神の祝福というのかなと思ったわけだ。

ヨハン・セバスチャン・バッハの音楽が数学的だという人は結構いる。その質問を僕にした人も何人かいる。しかし、レオナルド・ダヴィンチやミケランジェロもそう言われることがあるが、遠近法が数学だと言われてもねという感じを禁じ得ない。バッハの作品には音楽的な理由からカノンやフーガなど様々な法則的なものが散りばめられている。オクターブ内の12の楽音は周波数が数値化できる物理量であるからその法則を音の長さや音程の距離のパターンとして計量化できるのは当たり前である。それを発見しようと思えば簡単なのも難しいのもあろうが、要はやろうと思うか思わないだけであり、そこからわかることはバッハが自分の作曲技法の個性として法則性、パターン性を重視していたということである。それゆえに前奏曲とフーガの24のペアから成る平均律グラヴィーア曲集が2セットも書かれたわけだ。そこから得られる大伽藍の如き圧倒的な感動がフーガという技法に多くを負っていると言ってもいいだろうが、数値で計量化できる規則性のためといえば疑問であり、ましてそれを数学と呼ぶかと聞かれればNOである。それが使われた理由、なぜその音をそこに書いたかはバッハがそれを音楽的と思ったからに他ならず、事実はそれ以上でも以下でもない。

数学美が埋め込まれているからバッハの作品は感動的なのだと言いたい人々の気持ちはわからないでもないが、それならあなたはブーレーズの作品にも同じほど感動しますかと問いたい。僕はル・マルト・サン・メートルを時々聴くが、フィボナッチ数列であるひまわりの種の螺旋状の並びが魅了しているかどうかはわからない。ブーレーズは神の摂理の数字を封じ込めてあると公言しているがそれはどこのどれかは語っていない。アナリーゼできないほど巧妙に作られているのだろうが僕が魅力を感じているのは計量化できない音色だ。科学者でもあったレオナルド・ダヴィンチの絵にはひょっとして数学の効用があるのかもしれないが、バッハが数学者でもあったという話は聞かないし、数学者だったブーレーズやアンセルメがバッハ演奏に特に情熱を示したようにも思えない。

本稿を書きながら僕がバックでずっと流していたのはワンダ・ランドフスカ女史の平均律グラヴィーア曲集第1・2巻の全曲である。両曲集ともグールドの演奏は聴くたびに発見があるし、第2巻はタチアナ・ニコラーエワがイチオシなのだが、不承不承ながらただ一言リザベーションをここに書かざるを得ない。どちらも楽器はピアノなのだ。ランドフスカはハープシコードによるバッハ演奏の創始者でありゴルトベルク変奏曲をそれで初めて録音した人だ。ピアノによる演奏には批判的だった。それを覆したのがグールドだったわけだが、だからといって彼女の演奏の価値が色あせることは永遠にない。むしろ久々にこうやって腰を据えて味わってみるとこの演奏の魅力にはまったくもって抗い難いものを感じるのである。僕が古楽器を好きでないのは周知だが、それは懐古趣味だからでも弦楽器のノンビブラート奏法のせいでもなく、ひとえにロ長調のジュピターを聴かされるピッチのせいだ。A=440Hzの記憶との乖離という犠牲を払ってまでオーセンティシティに価値があるかというと僕は否定的だ。その興味深くはある知的な試みは博物館でやればいい。その不都合はこの録音にはない。楽器はエラールでバッハ演奏へのオーセンティシティの知識は僕にはないが、この素晴らしい演奏にバッハが喜ばないはずがないと確信できる、それだけで十分だ。

 

 

 

『黒猫フクの人生観』 (第六話)

2026 JAN 10 19:19:53 pm by 東 賢太郎

第五話を書いてから少し経っちゃったけど僕は元気だよ。主人のブログを検索してたら僕の写真が出て来たんでせっかくだからそれを盗んじゃうことにしたんだ。どう?凛々しくてイケメンでしょ?いま自分で眺めてみると何だか不思議な気がするよ。だってこの頃はただの猫だったからね、撮られたのも覚えてないし、そもそも自分の顔だって知らないしなんにも分かってなかったんだからね、でも人間も赤ちゃんの時の自分の写真を見たらこんな気持ちがするのかな。別にお正月で忙しかったってわけじゃないんだ、猫界に正月はないからね。ちょっと心配だから主人をのぞいたり、いろいろ世の中のことを勉強するのが忙しかったかな。主人といったら元旦は相も変わらずだ。僕が東家に来た時に「もう10年ぐらいになるかな」とか言ってた心斎橋の割烹「鶴林 よしだ」のお節料理がでんとテーブルの真ん中にある。僕らは毎日同じものだって気にしないけどさ、人間が15年も同じもんってどうなんかね。たしか僕も田作りを一匹もらって食ったけど、味が濃くってあんまりおいしくなかったね。でも主人は「うまい、これは何度食ってもうまい、勝るものはない」とうなりながら新潟の大吟醸をちびちびやって早々に酔っ払ってる。だんだん羽目が外れてきて「インバウンド結構。でもこういう奥の院の楽しみは外人にはわかんねえよなあ」「**国なんて行ってみな、みんなうまそうに食ってるけどありゃ犬のメシだよ」なんて犬にまで侮辱的な発言しちゃったりしてる。主人はテスラXを真っ先に買ったり新しいもん好きのくせに妙に保守的なとこがあるんで許してやってほしいね。さて食べ終わったら奥さんとおなじみの神社へ初詣だ。ここは主人自慢の源氏の神様で、八幡太郎・義家、新羅三郎・義光の父親である源頼義が前九年の役で東北に向かうときに陣を張って戦勝祈願をし、帰路で神に勝利を報告し感謝して建てた八幡様というから相場を張ってる主人には守り神なんだね。ところがまずいことに、ここ数年おみくじは一度も大吉なしだったんだよ。それでお寺にハシゴしてそこでもおみくじを引いてね、それでも出なかったんだ。「いいのいいの、小吉中吉はアップサイドがあって夢がある、大吉は一見いいけどピークアウトなんだよ」なんて苦し紛れの言い訳してたくせに今年は一発で大吉を引き当てて「よーしいい事あるぞ」で、はしごはなしだ。理屈っぽいくせに身勝手でいい加減、僕達猫のほうがずっとまっすぐに生きてるよ。まあ人間って動物を見下して偉そうなこと言ってるけど所詮はそんなもんだよね。

そういえば、覚えてるかな、第五話に人間界の話として高市さんのことを書いたよね、あれっていま調べたら12月の23日のことだったよ。

『黒猫フクの人生観』 (第五話)

僕は元猫であるが彼女の応援団なんだ。なぜかって?自分が生まれた日本が大好きだからさ。そんなの当たり前でしょ、猫だってドイツに生まれりゃドイツが、ギリシャに生まれりゃギリシャが大好きなのさ、そこに理屈なんかないよね。それなのに日本は不思議な国でね、日本を貶めてダメにしたい日本人がそこいらじゅうにウヨウヨいるんだ、 なぜなんだ?僕には全然分からない。天国から見てるけどね、そんな国は世界に日本しかないよ。異常なことだよ。子どもの教育に良くないよ。猫にもわかるように説明してよ。だから僕は第五話に思いっきりこう書いたんだ。

「高市さん自民党の中の変な連中もついでに思いっきり蹴り出して、もう1月に解散しちゃったほうがいいね」

そうしたらビックリしたね、きのう、高市総理が1月23日召集予定の通常国会冒頭で衆議院を解散する検討に入ったと読売が報道したんだよ。永田町に激震が走り、天地がひっくり返ったみたいな大騒ぎ。野党どころか自民党の内部まで寝耳に水だとあわてまくってるじゃないか!他の新聞もスッパ抜かれて寝耳に水だったんだろうね、カッコ悪いね、ますます部数が減るね。ユーチューブの実力ある評論家さんたちも誰も何も報道してないんだからいかに極秘で動いてたかってことだよ。第五話に書いてるんだけどね、立憲民主・岡田議員が誘導した高市さんの発言で日中関係がおかしくなって「高市が悪い」と騒ぐ馬鹿がわんさか出てきてね、僕はめちゃくちゃ怒ってんだ。高市さんが言ったことはすでに決まってる当たり前のことで猫でもわかる。それを言わせておいて「あっ、言った言~った、いけないんだい~けないんだ、セ~ンセイにいってやろ」って騒ぎまくったクソ野郎ども、あれは高市事件じゃない、岡田事件だよ。僕が怒るの当然でしょ、だってそれがおきたのって何があろう11月7日のことでね、その日に僕は天国に旅立ったんだ、人生(猫生か)を汚された気がしてるんだ!ふざけんじゃねーぞ、この人倫にもとる卑怯で薄汚いマッチポンプ野郎めってことなんだ。だから高市さんには即刻解散してこいつらをぶち切って国会から締め出してほしかったのさ。実はね、天国で魂になると人間に強烈なテレパシーを送れるようになるんだよ。ホントさ、だから感受性の高い若い人はビビッドに反応してくれてね、なんてったって「立憲民主党の支持率ゼロ%」だよ。ゼロは1兆倍してもゼロだからね、こいつは日本政治史に刻まれる大事件だね。もちろん高市さん本人にも強いテレパシーを送ってたさ。届いてたんだね嬉しいよ。

さて、この2週間で僕が何をしてたかも説明しなくちゃいけないね。天国に来てかれこれ2か月になったけど、こっちは年末から大異変で大わらわだったんだ。何かって?日本から真っ黒ででっかいヒグマが大挙して天国に押し寄せて来ちゃったことさ。いくら神様の建物っていったってあんなでかい奴らが一気に来て受付に列ができちゃうと、そんなにスペースがあるわけじゃないんだ。間に挟まれて並んでるウサギやキツネなんて踏み潰されやしないかってビクビクもんだよ。ヒグマの大将は与作って名前の、そのイメージがぴったりの間抜け面で体も顔も態度もでかい奴でね、しかも北海道の山奥の密林しか知らない超田舎もんときてる。シティボーイたった僕たちからすればなるべく近づきたくないって言うかな、とても同じルールで暮らしている連中とは思えないんだ。ところが仲間がどんどん増えるんで尊大になってきてね、勢力拡大の野心がでてきちゃったんだろうね、周囲の動物たちにやたらと威張り散らして評判が悪いなんてもんじゃない。

もともと天国では熊の最大勢力はシロクマなんだ。ボスがトラゾーっていってね、こっちも負けないぐらい体もデカきゃ顔もヤバそうな奴さ。ヒグマは数が少なくて弱小だったんだ。それがいい勝負になってきて問題が起きた。僕たち猫が長年にわたって鳥やネズミを捕って餌場にしてきた山に目をつけたんだ。「おい、ここはもともと熊の山だ、俺らヒグマの先祖の領地だったんだ、お前らは出て行け」なんて根も葉もない言いがかりをつけだしやがったんだ。焦ったのは猫界でボスヅラしてるゴンベエだよ。真っ先に俺が話しつけるって与作んところへ乗り込んでいったらガオーって吼えられてしっぽ巻いて帰ってきちまった。次に乗り込んだのはちょっとは弁がたって猫界の弁護士と言われるシャムだ。ところがこいつは、何がどうなったんだか、シャケを一尾くわえて帰ってきちまったんだ。どうもあれは賄賂らしいぞってもっぱらのうわさだ。

そこで猫族の緊急会議が開かれたんだ。喧々諤々の議論?そんなのなくってね、あっさりと僕に「お前行って来い」っておハチが回ってくることになったんだよ。「なんで新米の僕なんだよ」って反論したんだけど、「フクよ、お前クロネコだろ、あいつらと色がおんなじだ。うまくやれよ」っておいおい理屈も何もないじゃないか、こいつら自分が行きたくないから屁理屈こねて新人に行かせようって魂胆なんだ、どこもかしこも宇宙までズルい奴に満ちあふれてる。だからふざけんな!ってね、大声で怒鳴る寸前さ、みよ子がささっと近寄ってきて「フクちゃん頑張ってね」ってウインクされちゃったんだ。それでビビッときてカッコつけて引き受けちまったんだよ。ああ男ってなんて情けないんだ。考えたら相手は300キロもあるでかいクマだよ、無理だよそんなの。夜遅くまで後悔したんだ。でもね、悩んでもしょうがねえやって寝ちまったんだ。そうしたらびっくりしたよ、みよ子がシロクマのトラゾーに言い寄られてる夢を見たんだ、「色がおんなじじゃないか」ってね。その瞬間、「クソッこの野郎」って叫んで目が覚めたんだ。なぜって、すごい名案がひらめいたんだよ。すぐにみよ子のところへ飛んで行って「トラゾーがきみに会いたがってる。でも1人じゃ危ないから僕がボディーガードでついてくよ」って言ったんだ。もちろんウソさ。でもそれが作戦なんだ。ドンピシャだったね。僕らを見るなりトラゾーくん、真っ白できれいなみよ子に鼻の下伸ばしてガードが甘くなった。そこで間髪入れずに奴の耳元でこうささやいたのさ。

「トラゾー兄貴、ここだけの話だけどね、ヒグマの与作が軍を作って君たちを襲撃しようと狙ってるぞ」

トラゾーは鼻で笑った。「知ってるだろ、俺らの食料はアザラシと魚だ。ヒグマはそんなもん興味ねえぞ」。「いやいや食い物の話じゃない。僕たち動物はみんな次は人間に生まれ変わりたいだろ、でもそんなに枠がないんだ。だから数が多くなった動物から先に人間になる権利がもらえる法律ができたんだよ」「そうか、じゃあ熊では俺達が1番多いから枠はたくさんもらえるな」「そこが甘いんだよ、いまヒグマは天国で激増中だ、日本で人間を襲って片っ端から銃で撃ち殺されてる」「俺達の方が先に来てるぜ」「後か先かより数が優先だ。だから奴らは君らの数をどんどん減らして一番になり、君らをさしおいて人間になろうって寸法さ」。トラゾーは僕のとなりで色目を駆使するみよ子の魔力で頭が混乱してる。しめしめ、うまくいった。「そうか、与作の野郎許せねえ!挨拶だって一度っきりでそれから何もねえ。どうも静かだと思ってたらそういうことだったんだな」「トラゾー兄貴、僕たち猫族はシロクマの味方だってことが分かってくれたかな」「オウ、合点がいったぜ」「それはよかった、じゃあ僕たちが時々あんたらの領地の水辺で魚捕ったりするけど大目に見てくれるよね」「そりゃもちろんだ。これからお前達の安全は俺が保証するぜ!」。

領地をヒグマにぶん取られたら猫族全員が生きるか死ぬかの瀬戸際に追い込まれるところだった。ゴンベエもシャムも泣いて喜んだ。「フク、お前すごいな、どうやってあのこわもてのトラゾーを丸め込んだんだ?」「いやいや僕じゃない、みよ子のお手柄だよ」。そう言ってみよ子に目をやると、大あくびをしながらひとりまったりと日向ぼっこしてる。そうか、こいつ、ずっととなりにいたけど何もわかってなかったんだ。なんともはや、天国の猫はお花畑ばっかりだ、僕がしっかりしないとやばいことになっちゃうぞ。ヒグマは手ごわいシロクマなんか襲うわけがない。ウソがバレたら今度はトラゾーが怒って僕らを襲うだろう。であれば打つ手はひとつしかない。トラゾーをそそのかしてヒグマを襲撃させるのである。

国際法を守らない人たちのリーグ戦と化した世界

2026 JAN 6 22:22:18 pm by 東 賢太郎

国際法を守らない人たちのリーグ戦で「守らないのはいかがなものか」と声高に言っていれば守ってもらえるというのはお花畑以前に矛盾ではないだろうか。国連憲章の遵守をと言いつつ安保理2か国が思いっきり守ってないのだからそもそも憲章自体が矛盾ではないだろうか。すでに世界はそういう時代に入っているというアメリカによる高らかな宣言が今回の作戦ではなかったか。

まっ先に思い出したのは本能寺の変だ。茶会を開く一瞬の心の隙に乗じて信長を易々と討ち取った点においてである。いかなる理由があれ戦争はいけない。しかしそう思わない相手が現れれば男は命を賭して戦わなくてはいけない。そこでその闘争精神だけを抽出し仮託したオリンピックというスポーツ大会ができた。競技者たちは殺し合いこそしないが真剣勝負であることには変わりない。

野球で速球が顔面や胸元をかすめて打者がのけぞる。怖い。ビビるとその投手は打てない。僕もした。日本では危険球というがアメリカのルールブックにはない。これがアメリカだ。やられたら審判にクレームする?道義に訴える?そんな女々しいことはしない。同じことを何食わぬ顔で平然と、もっとえげつなくやり返すのである。2回目3回目でついに乱闘。メジャーでおなじみのシーンだ。

今回のトランプ作戦、平然としたやり返しに見える。数時間前まで中国の特使と宮殿で会談をしていたところを急襲。アメリカを仮想敵とした中国製のレーダー網、ロシア製の迎撃ミサイルを封じ、ヘリで上陸した特殊部隊が宮殿に乗り込んで数分で大統領夫妻を生け捕り。トータル2時間。アメリカは本気を出すと凄い。スナイパーである。まさかここまでやるかという衝撃が世界を駆け抜けた。

これは斬首作戦である。 自軍は血を流さないからノーコストだ。中国・ロシア・イラン・北朝鮮は100マイルの豪速球が顔面をかすめてビビったろう。国際法を守らない人たちのリーグ戦で有効なのは国際法でも国連でもなく相手をビビらせ戦争させない事なのだ。国際法を守る国に理はあるが、正論を吐いて戦争が起きるより暴論であっても戦争が起きないほうが僕はありがたいと思っている。

彼が守りたかったのは裏庭の覇権。潰したかったのは人民元建てペトロマネーだ。中国は内政失敗で2000兆元を輪転機で擦る必要があり通貨価値は暴落し国家財政は破綻する。 600億ドル分の元借款をベネズエラに与え原油で返済させれば国内需要の4割をまかなえ人民元はペトロマネーとして価値を保持し基軸通貨になれる。地位を侵食された分だけドルは下落する。だからトランプは潰す。

ただでさえドルは他通貨に対して下落傾向にある。それは購買力のみならずヘゲモニーの失墜を招く。軍事大国として膨大な国家予算を賄うべく輪転機を回しまくって大赤字を積み上げてもドルの価値が毀損されないのは強力なヘゲモニーのおかげだ。その地位を中国に奪われればアメリカという覇権国家は終焉する。米国国債を売るぞと公言した日本人政治家が消されたのもそれが理由である。

最後に日本について。4月の訪中で習近平がどう出るかは分からないが中間選挙を控えたトランプの泣きどころは1200万tの小麦の輸入とレアアース供給の確約だ。ベネズエラで派手に俺の顔に泥を塗ってくれたね、でもあなたの選挙の為にその2つは飲んでやるよ。その代わり、G2として西半球・東半球を住み分けて統治しようではないかという着地を飲まない保証は何もない。

日本が見捨てられないために高市総理が何を訴えるかだ。アメリカが積極関与しない東半球で巨大な三角形を成す米中露の真ん中で終戦後の反共防波堤に値する存在となる。その役目を全うするから憲法9条改正と非核3原則廃止、そして旧同盟国の独伊と同様アメリカと核シェアリングを行う提案をできないだろうか。飲まないかもしれないが、飲む大統領はトランプしかないと思うのだが。

2026年の正月に初めて考えたこと

2026 JAN 4 9:09:21 am by 東 賢太郎

グーグル・アナリティックスによると僕の読者の約3分の1が18~34才であり、「92%が高市内閣を支持」かつ「立憲民主党の支持率0%」(産経新聞とFNN)という18~29才を含んでいます。だからかどうか、このところ1日の平均訪問者数は6千ぐらいと倍増で、日によっては1万を超えます。興味深いことです。本を出しませんかというお誘いが複数の出版社から来てます。中学から神保町を歩き回り本屋にまみれるカルチャーで育ったので魅力を感じる話ではあるのですが、やりだすとはまってしまい健康に悪そうです。誰の関与もなく時間的にも空間的にも経済的にも何ら制約のないブログが性にあっていそうです。その年齢層は日本の未来を背負う世代。伝え残したいことはたくさんあり、とりあえずは「若者に教えたいこと」というカテゴリーを読んでいただければと考えております。

60歳になった時はそう思わなかったのですが70になると心持ちが変わるものです。すこぶる健康で視力は裸眼で両方とも1.2ですから肉体的なものではありません。ひと言でいうと、万事に達成感が出てきてしまう。残すところわずかという思いが出てくるし、疲れもあきらめもあるんでしょう、だんだんそれを止められなくなってくるのです。 人間、何歳であれ、これでいいやと思ったら万事が終止符です。投資という仕事も元々好きでしたし、嫌だったのは猫型の不倶戴天の敵であるサラリーマンという耐え難い全体主義だけでした。今は独立してそれもないのでもう不足は何もありません。目的はやりたいことをやるのにお金の心配をするのが嫌なだけで、それ以上の面倒くさいことはやりたくない。だから子供が巣立ってしまえばお金も大きな家も不要で気楽です。そうして残るのは家内と2人だけになります。よくよく振り返ってみれば、すべては何もなかった2人から始まったことだったのです。以上、元旦からつらつら考えたことです。

時間はどんどん減りますからそっちの方がよっぽど大事だということが 60歳の時より切迫感を持って迫って来ているということなんです。何歳まで生きるか分かりませんがもし体を壊して仕事ができなくなって金がなくなったらという非常事態も考えました。僕は保険に入るより自分で稼ぐ方を選択してきましたから生命保険に入ってません。かつて想像したことすらありませんでしたが、そうすると家が保険であるという回答に行き着きます。身を粉にして働いて建てた家だから多大な時間を犠牲にしており、だからこその思い入れは大いにありますが、シンプルに時間を取り戻す方法が1つだけあって、それを忘れて家を売ればいい。そうして相続税を払わず全部家内と使い切って、取り戻した時間を好きな事に回す。事業には支障ありません。ボケ防止でできるほど甘い仕事ではありませんし、後継者を育てるといってもなかなか難しいものですが、それならもう少し一般的に、いわば誰でも経営できる事業スタイルに変えていくというソリューションがあります。

ところがです。では自分が本当にやりたいことは何かというと、こっちはこっちでなかなか悩ましいのです。ピアノが有力候補ですが譜読みが遅くて2~3時間で目が疲れ、このストレスは健康に良くない。音楽鑑賞だけならいいのですがそれは聞く前から確実に時間を食い、そこまでして聴きたいかとなるとだんだん音楽が絞られてきます。ゴルフは健康にいい。それは確実です。 50歳ぐらいまで熱中してましたし有力候補なんですが、全然やってないからひどいスコアなこと確実で、自己嫌悪に耐えられない恐怖を感じます。元に戻すにはピアノと同じぐらい大変かなと思うとなかなか難しい。つまり、何でもいいんですが、丸一日それで終わって問題ないものを探さなくてはいけません。今年はどうやらそういう年になりそうです。家内は何年か前から書道を習って有段者になっており立派なもんです。あなたもやったらと勧められますが、自分の字のあまりの美しくなさに常々ゾッとしており見たくもない。それの見せっこをするという世界で満足している自分はどうにも想像がつきません。

そうすると多くの高齢者とおんなじで旅行ぐらいしか思い浮かびませんが、たくさん家を空けるということになるとそもそも家が東京にあることが必要かという根本的な疑問も出てきます。東京の地政学的リスクを考えざるを得ない世の中になってきた国際情勢が背景にあります。なにせ日本の大都市に千発も核ミサイルを向けている隣国がある。いつぶっぱなすかわからない無法者のガンマニアが隣に住んでるみたいなもので実に恐ろしいと感じております。やるならまず東京はターゲットになるでしょう。もしも彼らに一抹の常識があるならという前提ですが、仲間は殺さないだろうから隣国の盟友である友好議連の方々には何月何日にぶち込むから逃げとけと通知が来ることが期待されます。ということはこの方々のフィジカルな動静を見ておればいい。必ず国外か田舎に逃げるはずです。だから友好議連は大事ですね、スパイとみなすかどうかは国家的問題としては重要ですが、我々市民が安全に生きていくためにはむしろindicatorとして役立つ存在じゃないでしょうか。歴史の教訓として、戦争になれば国家が我々を必ず守ってくれるという保証もないわけです。敗戦国になったからとはいえ東京大空襲で一晩で10万人も日本人を焼き殺した敵国の将軍に勲章をあげた国です。紅白にきのこ雲のお姉ちゃんが出る出ないなんてのは全く微細な話です。

皆さんは表面的なレッテルとしての保守だリベラルだというチープな議論で思考停止するのではなく、自分と家族が安全に子孫まで永続するために歴史を俯瞰し、自分にとって何が合理的な選択かを自分の頭で考えていかなくてはいけません。日本の右か左かという議論は愛国という要素が根っこに混在している点で欧米のどの国とも極めて異質だということをまず肝に銘じることです。それをあたかも欧米の概念であるかのごとく語り、国民の感情をコントロールしようとするのは完璧なる全体主義的欺瞞であり、左はもちろんそれを批判する右の人もやっていることです。それが保守、リベラルなる紅組白組みたいなレッテルであって、ちなみに保守というのは「何か旧来の物を守る」というのが文字どおりの意味ですが、言ってる人によって「旧来の物」は自分の都合で十人十色なのです。そんな連中が「私は保守です」と堂々と語ってる日本の国会は仮面舞踏会以外の何物でもないという赤裸々な事実を皆さんの目で見抜くことです。皆さん僕のブログを読まれれば保守だと思われるでしょう。しかし、よく読まれている方はお気づきと思います。僕が個人として政治に求めることは先進国として当たり前かつ最低限の行政サービスだけで、年金支給とか補助金行政とか国民皆保険ではありません。それは僕はいらないかわりに絶対必要なのは、個人の自由に対する国家の不干渉、あらゆる意味での全体主義の排除です。

つまり僕はフランス革命と啓蒙思想にルーツのある「自由」を心から愛する根っからのリベラリストであります。それも「法的に問題ない」が合言葉の日本リベラルの寄りどころである日本国憲法の基本的人権によってではありません。いかなる民主主義国家であれそれが存立基盤としての統一原理だからであり、全体主義国家がテクニカルな選挙で元首を選んだことにしても民主主義国家とは言わないということです。しかし本来そのモデルのはずだったアメリカ合衆国は往年の国力を失い道を逸れつつあります。これは西側諸国すべての安全保障にとって由々しき問題であり、米国の相対的に圧倒的な軍事力は健在であっても、それをファイナンスし続けるドルという通貨の信任は不安定になりつつあり、極東の安全保障も80年前は可能だったかもしれないことが現実的でなくなってきています。円ドルしか見ていない人はご存じないかもしれませんが昨年ドルは他通貨に対して下がり、その逃避先としてゴールドが上がったのです。弱いドルに連れ安した先進国通貨は円だけであり、しかもドルにすら割り負けているという惨状は歴史的に希少なほど酷かった石破政権に対する冷徹で正鵠を得た国際的評価です。不幸にしてその残骸を引き継ぐことになった高市政権に金利上げの余地は極めて限定的です。一刻も早い解散総選挙で政権運営のフリーハンド度合いを高め、円安はサナエノミクスへの海外からの投資需要喚起の好条件と考えればむしろ戦況を有利に運べる可能性があります。ピンチをチャンスに変えるのです。僕のパートナーである米国の知日派の富豪たちは口をそろえてそう言ってます。愚か極まりない権威主義者だった岸田、石破と違い高市は経済、ビジネスの知識もセンスもある政治家ではないかと期待されていることを最後に書いておきます。

ルロイ・アンダーソン The Waltzing Cat

2025 DEC 31 23:23:57 pm by 東 賢太郎

The Waltzing Cat(ワルツを踊る猫)、聞き覚えのある方が多いと思います。どこで覚えたのか、このユーチューブのようにトムとジェリーかなと調べますと、伴奏作曲者はスコット・ブラッドリーという人物でルロイ・アンダーソンとは関係ないですね。でもこのビデオはまるで伴奏音楽かのようです。

そういえば1969年に「黒猫のタンゴ」というのが流行りましたね。当時僕は中3かな、よく覚えてます。歌っていた皆川おさむさんが今年亡くなったそうです。

これ、イタリアの童謡「黒猫がほしかったのに」のカバーらしく、日本語のまま全世界でヒットしてレコードは400万枚売れたそうです。「上を向いて歩こう」はスキヤキの題名で1000万以上売れたらしいけども、以前にどこかに書きましたが、この曲は和声と旋法とリズムという音楽的構造に非常に光るものがあります。すごい曲なんです。ところが黒猫はなにせ4種類しかコードを使ってませんからね、ひょっとしてコード単価の世界記録かもしれないと思うほど単純きわまりない音楽で、それはそれで偉業です。この曲の世界的ヒットは、今世界を席巻しつつある日本のアニメブームの予兆だった気がします。文化というものが権力で生まれたためしはありません。西欧においては宗教が権力と一体だった時代が長らくありますが、そこにあった文化の母体は教会であって国家ではありません。教会と言ってもその空間の中ではなく、外に足を踏み出して聖書も忘れて色恋にまみれちまったいわば歌舞伎者の世界で花開いていったのが我々がクラシック音楽と呼んでいる物の大半です。だから一般には貴族趣味と思われていますが、実は権力の為に権力を持ちたい連中とは関係ないんですね、その干渉は百害あって一利なくプロコフィエフやストラヴィンスキーは逃れましたが、ガッツリ拉致されてしまったショスタコービッチはかわいそうでした。

音楽の発展がいかに権力と関係なかったかを示す象徴としてパリのモンマルトルに1897年まであったキャバレー「黒猫」(ル・シャ・ノワール、Le Chat noir) という文芸人のたまり場があります。初めてのピアノを置いた酒場でした。あそこらへんは税金が低い区画で、安酒飲ます居酒屋、キャバレー、ダンスバーみたいのがごちゃごちゃあったわけです。貴族の館っぽいおすましした上流階級のサロン、リストやショパンはそこで弾いていた人達ですが、そういう世界に対してちょっとお洒落でとんがった庶民の小金持ちが遊ぶ場所という新コンセプトの「黒猫」は繁盛したようです。ドビッシーも出入りして弾いたというから贅沢なものです。僕は気質的にそっちの方が好きですね。サティはそこのピアニストの1人で、無頓着な風来坊のイメージがありますが着る物だけは金をかけて気張っていたようです。

今そういうのがパリにあるのかどうか知りませんが、ムーラン・ルージュやリドに発展的解消しちまったとすれば残念ですが、それはそれでお上品なストリップという日本人にとっては摩訶不思議な空間が保持されてるという意味では遺伝子は引いてますね。ニューヨークもピアノバーがあるけれどあれはあっけらかんとあっぱれなアメリカンでちょっと違うんだよなぁ、例えば『ジュ・トゥ・ヴ』(Je te veux、お前が欲しい)が似合うっていいますかね、そうやって女性を口説こうが何でも結構なんだけども決して下品でもなくてっていう “モデストなドレスコード” である必要があるんですね。そういうのは何のことない京都のお茶屋さんの文化ですよ、赤穂浪士の大石内蔵助が通ってたぐらいだからこっちの方がずっと先輩なんでね、我々日本人は万事において世界に冠たるブランドを誇る民族だって事を忘れてはいけません。パリはパリならではの色気がありますけどね、僕が長らくヨーロッパに住んでクラシック音楽を聴きながら味わってきたのはそういう部分が大いにあります。ハプスブルグのウィーンにもミラノにもマドリッドにもあるし、ドイツの神聖ローマ帝国都市やハンザ同盟都市にもあるし、辺境だったプラハやブタペストにだってある。大都市ではロンドンだけ異質なんです、ヘンリー8世が本丸のキリスト教を離れちゃったのは大きかったですね、産業革命で金持ちにはなったけれど本丸の音楽家達を輸入する文化になっちゃった。まあそのおかげでヘンデルが出てきたしザロモンセットや第9も書かれたんですが、文学や科学や哲学ではそういうことは起きてないですね。音楽が宗教、王室といかに不即不離で歩んできたか物語ります。そして19世紀の末になってそれが市民のものになった象徴が「黒猫」なんです。その風土に生まれ育ったドビッシーが宗教とも王室とも関係なく完全に市民のものになった近代音楽、例えばメシアン、ブーレーズに橋渡しをする存在になった。だから音楽史を進化論的に見るなら彼はルネサンスの申し子なんです、ラヴェルは和声と音楽語法の革命をやりましたがフランス、バスク文化の中であってユニバーサルにはなってない。そこが評価の分かれるとこです。でもどっちかと言えば僕はラヴェル派かなあ。パリは何度も行ったし大好きなんですが、昨今は大量の移民で治安が大変なことになってるらしい。もう消えちゃった文化かもしれませんね。

サティ 『ジュ・トゥ・ヴ』。人間のミャオミャオです。

表題に戻りましょう。ルロイ・アンダーソンはアメリカのヨハン・シュトラウスといわれます。まあ言ってるのは文化の理解度が低いアメリカ人だけで、だから黒猫に対するピアノバーだよねと言われてしまえばそれまでです。ただその比喩が正鵠を得ていると言えないこともないのは、ユダヤ人だったシュトラウスは権力のしもべではなかったことです。シュトラウスのお葬式は、ブラームスもそうですが、シュテファン大聖堂ではなくこじんまりした異教徒の教会で行われましたからね。彼はお父さんの代からラデツキー将軍をたたえたりし、国家権力によいしょしながら生きのびてウィーンの大衆の心を掴んだという、日本だったらレコード大賞を取って紅白歌合戦に出たみたいな国民的芸能人だったんです。それを貴族っぽく「クラシック」に仕立て上げるしたたかなウィーンの権力者と商人たち。僕は商売柄たくさんのそういう連中に会いましたが、ハプスブルグの栄光と遺産をかさにきて実に金儲けが上手いんです。なにせいじめてたモーツァルトまで見事にそのネタに使っちゃいましたからね、僕もヨーロッパに住むまではすっかり騙されてました。それほど日本の西洋文化の受容ってのはお気楽で底が浅いんです、文科省もNHKもまんまとその手先に使われてるし小沢征爾がウィーンフィルの音楽監督にまでなっちゃう。表面的には名誉なことですよ、でもお公家さんみたいな日本の権力者が関与してくるとそんな程度でちょいちょいとごまかされ、金をふんだくられるんです。だからクラシックは何となく借り物の権威をまとった余所行きの浮ついた存在になって、よれよれのおじいちゃんになった西洋の巨匠の演奏を有難く拝聴しないといけない感じの世界になって、宝の山である名曲たちがいくら心ある聴衆の琴線に触れようと日本に根付かないんです。

The Waltzing Catがどういう経緯で書かれたかは調べましたがよく分かりません。でも愛らしくて品格もあって素晴らしい音楽ですね。アンダーソンのヴィオラ、チェロに弾かせる中声の魅力がここでも遺憾なく発揮されてますし、この滋味のある味つけは後世の誰もできてませんから大変な才能と思います。世界的猫ブーム、アニメであるトムとジェリーにつけてもおかしくない曲を書いたという2つの意味で、現代人の嗜好を75年も前に先取りしたといっていいでしょう。

作曲家の自作自演というのは結構残っていますが、ピアノだけでなく歌まで歌っているのはあまりないです。この曲は紛れもなく歌曲だったんです。アンダーソンがどんな人だったか貴重な映像をご覧ください。

“The Waltzing Cat” by Leroy Anderson © Woodbury Music Company LLC, SMP (ASCAP)

それでは皆様、よい年をお迎えください。

「猫科」に分類されるラヴェルとハスキル

2025 DEC 30 2:02:02 am by 東 賢太郎

夏目漱石が結婚し、英国留学から帰国して東京帝国大学の講師になった翌年の明治37年初夏、千駄木の家に子猫が迷い込んできた。黒猫だった。家に出入りしていた按摩のお婆さんが、「奥様、この猫は足の爪の先まで黒いので珍しい福猫でございます。飼っていれば家が繁盛いたしますよ」と伝えたことで飼われることになったが、名前はつかずにずっと「猫」のままだった。明治39年に本郷に引っ越した(西片のそこは僕が2年住んだ下宿の目と鼻の先だ)。「猫」は明治41年9月13日に病で5歳に満たない生涯を閉じ、漱石は彼を庭に葬って墓碑を立て、知人や門弟に死亡通知を出した。程なくして「吾輩は猫である」は文学誌『ホトトギス』に11回に分けて掲載され、彼の処女作の長編小説となる。かくして「猫」は人類史上最も重要な猫に列せられることとなったわけだ。

誠に結構なことだが、僕としてはとりわけ彼が黒猫であったことに誇りを覚えるものである。我が家のフクもしかりだからで、さらにその名も福猫由来と言いたいところだが、実は顔がぷっくりしたぷくちゃんに由来する。しかし、共に過ごした5年といえばあの忌まわしいコロナの厄災期にぴたりと重なっているのであり、我が家はワクチンを一本も打たずに事なきを得ているのだから守り神ではあった。しかも外出ままならぬその期間にビジネスでは次々と新たな出会いがあって、そのおかげでいま仕事が国内とアメリカで9つもある。数えてみると社員の3倍近い19名の国内外パートナーが実現に向けプロフィットシェアリングの形で協力してくれており、ソナーを中心にハブ・アンド・スポークスの事業モデルができてきた。 そのうち13名はフクの5年間にご縁ができたというのだから、まさに福の招き猫だったのである。

フク

思いおこせば小学校時分から一緒に暮らしてきた昔の猫たちも、みんな僕の中で生きている。おしりをポンポンしてひょいと肩に担ぎ上げた時の感じや、両手をお腹にまわして持ち上げたときの、あの猫この猫のボリューム感が、当時の東家の出来事や世情の思い出と共にまざまざと手のひらに蘇ってくるからだ。その度に僕は「ああ猫のいる星に生まれてよかったなあ」と神様に感謝を捧げるわけである。この性格はいかなる理由があろうと寸分も揺らぐことなき頑強なもので、すなわちどんなに美人だろうが金持ちだろうが、猫を捨てて猫嫌いの女性と暮らすという人生観は僕の中に100%存立の余地がなかったわけで、この点、確かめたわけではなかったけれど家内がそうでなかったのは幸いだった。

一般社団法人ペットフード協会のデータ(2024年)によれば、日本人は犬を約679万頭、猫を約915万頭飼っているそうだ。我が家は野良猫しか飼わないからデータ外だろうし、ペットショップの客になる気はないし、「犬も好きですが」という猫好きは別人種と認識している。ほとんどの飼育者というものは人間と動物を峻別し、ペットなる擬人化したコンセプトで認識し、優位に立つ人間の視点で共生を楽しむ人たちである。それを否定する気はないが、家内が指摘するように僕は猫の生まれ変わりの「猫科」に分類されるべきであり、自らを擬猫化した感覚で人間をやっており、すべての猫様に敬意を払って接しているという者である。そんな妙ちくりんな人はまずいないだろうし猫も些か驚いてはいよう。ヘミングウェイや伊丹十三の猫愛の底知れぬ深さについては知得しており、いくら畏敬しても足らないのだが、しかし彼らは愛犬家でもあるから僕としては準会員なのである。915万頭の飼い主さんのうち肝胆相照らすことができる方はきっとおられるとは思うが数える程度だろうし、それ以外の圧倒的大多数の愛猫家とは深いところで話は合わないだろうという半ば諦念の世界に長らく僕は住んでいる。

あらゆる芸術家は猫と相性が良さげに思えるが、では彼らの何%が我が身のようであるかというと怪しい。例えば猫と文学を結ぶ試みというと、真の天才ETAホフマンが1819~1821年に書いた『牡猫ムルの人生観』を始祖とする。現実に彼は「ムル」という名の牡猫を飼っており、同作の構成はカットバック手法のミステリーもかくやと思わせる驚くべき斬新さを誇る。これを書けたということはホフマンは少なくとも猫好きであったろうが、果たして自身が「猫科の動物」であったかとなると疑問である。また、同作と「吾輩は猫である」の関係はいろいろな識者が語っているが、ドイツ語ゆえ漱石が読んだかどうかは不明とされる。作中で婉曲に言及はしているので存在を知っていたことは確実であり、ホフマンがムルの逝去で人間並みの「死亡通知」を友人たちに送付した事実があることから、同じことをした漱石の行為が偶然であり模倣でなかった確率は非常に低いことを僕は断定する。しかも、関連した資料を一読するに漱石はホフマン同様に猫科でなかったばかりか、猫好きだったかどうかさえも怪しい人物の気がするのだ。作中の言及はいずれ模倣が発覚することを予見してのアリバイ作りであり、動機は異なれどハイドンが交響曲第98番にその当時は誰も知らぬジュピターを引用した意図に通底するものがあったというのが私見である。

いっぽう猫と音楽となると、結びつけ方はいろいろだ。ミュージカル「キャッツ(Cats)」はイギリスの詩人T・S・エリオットの『キャッツ – ポッサムおじさんの猫とつき合う法』なる興味深い作品を原作とする。アンドリュー・ロイド・ウェバーの音楽も楽しい。これを観て思い出したのは、成城学園初等科にいた時分、作曲家の芥川也寸志さんの娘さんが同じ桂組におられ、クラス担任だった北島春信先生の台本に芥川さんが作曲したミュージカル「子供の祭り」が歌の上手い子たちの出演、作曲者の指揮で演じられるという贅沢なイベントがあったことだ(記憶違いでなければ渋谷公会堂で)。生のオーケストラはこれが初めてであり、次々とくり広げられるきれいな歌やダンスに心がうきうきし、音楽の授業を嫌悪していたことを少々悔悛したものだ。この経験があるから、オペラと違いミュージカルというジャンルには遠いふるさとを見るような郷愁がある。Catsは素晴らしい。猫界の繁栄に貢献した事は間違いない。

ロッシーニが書いたことになってる『二匹の猫の滑稽な二重唱』は鳴き声の雰囲気をよく活写している。しかしこれこそがペットを擬人化し、優位に立つ人間の視点で共生を楽しむという趣向において、いわばトムとジェリーの古典音楽版であり、作曲者が猫科か否かという視点の解明とはなんら相いれない所に成立しているという点において漱石の猫の音楽版でもある。オペラ・コミックの路線と見れば十分に楽しめるが、それはロッシーニの世界ではないという矛盾をはらむのである。

この路線の親類とでもいうスタンスとして、標題をつけないショパンが何も語っていない音楽を「猫が突然鍵盤の上に飛び上がって走り回っている様を連想させる」として押しつけがましく猫のワルツと呼んでみたりする人がれっきとして存在するわけだが、僕は作品34-3にそんなものを微塵も連想しない。それは誰の連想なんだ、それとショパンと何の関係があるんだと、いかがわしい表題には作曲家の著作権を弁護したくなるばかりだ。のちにクラシックを深く学ぶにつれ、そうしたことどもは永遠に表層の部分だけに関わる種の人々がやり取りする稚拙な表象であったことを知るが、そうした理解不能な異人種の存在が子供時分の僕を長らく音楽室から遠ざける元凶だった事実も知ることになった。猫はおろか音楽までおぞましく擬人化する地平で素人や子供に親しんでもらおうというアイデアは、パンダに頼る田舎の動物園経営のようなもので、3歳の乳飲み子ならともかく真の聴衆を育成しない全くの愚策である。

猫科の音楽家はいないのだろうか?そんなことはない。仲良しだった女性ヴァイオリニストのエレーヌ・ジュルダン・モルランジュに「猫の鳴きまねの際立った才能がある」と高く評価されたモーリス・ラヴェル(左)はシャム猫2匹を飼い、オペラ「子供と魔法」で猫の二重唱を作曲した。家でエレーヌとそれをミャオミャオ歌っていると、心配そうな顔をしたシャム猫たちが集まってきたというからその腕前は本家のお墨付きを得たものである。しかし、猫の鳴きまねにおいてなら僕はラヴェルに負けない自信がある。彼は2匹だが僕は10匹の同棲経験があり、その各々の声色をいまでも鳴き分けることができるからである。そうした見地から作曲家の「猫度」を判定してみるならラヴェルは1位と言っていいだろう。理由は42歳の時に母親が亡くなってからの行動と経緯にある。結婚しなかった彼は重度のマザコンであり、 1人でいられず弟や友人の家を転々としていた。 その喪失感を体験している僕としては理解できるし、むしろよく4年も耐えたものだと同情もする。回復途上にあったわけでないことは、 3年後に友人に「日ごとに絶望が深くなっていく」と悲痛な手紙を出し、作曲中だったクープランの墓およびラ・ヴァルスを除くと実質的な新曲は生み出せていないことで想像がつく。現代ならおそらく抗鬱剤が投与されて救われたろうが当時はそれがない。ドツボの修羅場から逃れるべく、ついに4年目になってパリから50キロ離れたモンフォール・ラモリーに人生初めての一軒家を買って引っ越す。そしてその家に住んでいたのがミャオミャオのシャム猫一家だったのだ。その甲斐もあって彼はやがて渡米できるまで回復を見せ、結果として我々は『ボレロ』、『左手のためのピアノ協奏曲』、『ピアノ協奏曲 ト長調』などを持つことができたのだ。

「子供と魔法」猫の二重唱

ドビッシーが猫科だという人もいるが僕にはちょっとイメージがわかない。猫好きな人、猫的な人と猫科は生物学的に異なるのである。仕事柄もう世界中で何千人と握手をしているが、想像するに、ラヴェルの手は骨張って華奢だがドビッシーは肉厚でごつい感じがする。手は人物を語るが、猫科の感じがしない。ちなみに僕の手は男としては小さめでとても華奢だ。仲良しの某大企業経営者にその話をしたら、彼はプーチンとメドベージェフの両方と握手しており、メドくんが先で、しなっとして女性みたい、続くプーさんはゴツくてまさに熊だったと笑う。あいつを首相にした気持ちが分かったよとはまさに経営者の至言であろう。ドビッシーは確かに猫2匹と暮らしていたが、後に後妻エンマの影響か犬2匹に乗り換えている。いかなる理由があれ、猫科にこうしたことは起こりようがない。

写真を見て、あっ、この人は猫科だなと直感したのはクララ・ハスキルだ。猫を抱いているからではない、抱き方だ。この猫は、察するにスタジオ撮影用の借り物であるか、もしくは自分の猫だがカメラのフラッシュに怯えている。そこで右手に優しく手を添えて安心させている図である。このさりげない優雅な仕草には、単なる猫好きという程度ではない、猫科の人にしか発露できない深い愛情と共感がさりげなく現れ出ているのである。皆さんも例えば公式の食事の場での普段のほんのちょっとしたこと、ナイフ・フォークの置き方やお箸の作法やおちょこを口に持っていく動きなど、ほとんどの人が気づかない所で氏素性がはかられることはお聞きになったことがあろう。ハスキルが、こちらも猫科まるだしの男であるモーツァルトを十八番にしていたことはいとも自然なことだったのだ。素晴らしい録音がたくさん残っているが、僕が愛してやまないのはピアノ・ソナタ第2番ヘ長調K.280のドイチェ・グラモフォン盤である。K.488の第2楽章を彷彿とさせるシチリアーノをこんな見事なニュアンスと凛と澄ました清冽な音で弾ける人がいまのピアニストにいるだろうか。そして第3楽章に至っては音楽も弾き方もまるで猫であるという至芸を。猫同士にミャオミャオはいらない。

ソナー・メンバーズ・クラブのHPは http://sonarmc.com/wordpress/ をクリックして下さい。

ショパンコンクール2025に思ったこと

2025 DEC 26 0:00:55 am by 東 賢太郎

10年ぐらい前に結構ショパンを聴いた時期があって、ちょうどやっていたコンクールもそこそこ耳にした。前回はコロナ騒動でご無沙汰になり、今年は多忙ゆえ忘れていた。優勝のエリック・ルーは10年前に4位になって寸評を書いている。 ショパン・コンクール勝手流評価

ショパンというとポーランドのお国もののイメージがあるが、過去19回中ポーランド人優勝者は4人だけで、当初はソ連(ロシア)が多かったのはどちらもスラブ系の血ということを思わせる。昨今はそれが消え欧州勢も消え、今年はファイナリスト11人のうちジョージア、ポーランドの2人以外は血筋が東洋人というなかなか衝撃的な顔ぶれである。それがクラシック音楽を聴く正しいアプローチなのか否かはともかく、世界のコンクールにおいて血という要素が薄くなったのは事実だ。もちろん血と文化は必ずしも合致しない。先祖は日本人でもアメリカで生まれ育てば西欧人であり、僕自身、日系人の友達はそう思ってつき合っていた。しかし日本語を全く解さぬ彼らも日本食を好んで食べていたりする。血は争えぬという要素は生まれ育ちだけでは消えないのだ。僕は音楽というものは抽象的な知的肉体的能力だけではなく、食文化に通暁する側面を多分に持つ芸術だと考えている。それを捨て去っても立派な娯楽として成り立つが、僕はそれを面白いと感じないタイプの人間に属している。

日本が単一民族国家というのは嘘だが、鎖国をした260年の徳川時代にそこまで約1000年かけて蓄積、培養されてきた日本的なるものが坩堝で煮詰めたように凝集し、民族的混合が始まった明治時代以降も、それが日本文化だ、それに従うのが日本人だという形の集団的思考によってで新たな日本らしさが形成されていったと考えている。単一民族国家という嘘が流布したのはそこからで、それまでなかった国家というコンセプトを強固に形成するためその嘘が必要だったのである。相撲は古来よりあったが、大相撲という競技、興行という形を成したのはその過程においてだ。モンゴルにもある相撲は日本文化の象徴になった。したがって当然力士は日本人のみであるはずだった。その認識は今や瓦解し、モンゴル人の横綱が時代を牽引し、いよいよウクライナ人が優勝するに至った。それに反目しているのではない。この現象も日本文化なのであり、観衆として楽しんでいる我々もその一態様なのである。

しかし、そうならないことを願ってはいるが、横綱、大関、関脇、小結の全員が外国人になってしまった土俵を目にしたとき、自分はどう反応するだろう?これが日本文化なんだとすんなり受容できるだろうか。相撲は格闘技であり、技はメカニックなものであり、それに優れている者が横綱になればそれでいいだろう。その考え方は、音楽は抽象的な知的肉体的能力だ、パーフェクトにショパンの楽譜を弾きこなした者がコンクールに優勝すればいいという考え方に合致する。今政治の世界では世界中にグローバリズムの嵐が吹き荒れ、さような考え方が世界各国のあらゆる分野で固有の文化を否定し、時には蹂躙し、何国人がどこに移民しようと問題なく生きていける地球にしようという運動が正当化されつつある。

日本はそれでいいのかというと、少なくとも日本相撲協会は横綱審議会を設け、勝てばいいだけではない横綱という存在の日本文化的側面からの定義を崩していない。だから圧倒的戦績を誇った朝青龍や白鵬は横綱にはなれたが日本相撲協会のトップにはなれなかったのである。守るべきは興業でなく文化だという協会の決意だ。だから日本は保守的でダメなのだという批判はあるが、その牙城があるから日本は平安時代から他国に支配されず存続してきたという指摘もある。僕はサラリーマン生活を31年送りグローバリストにまみれて生きてきたが、しかし、国際社会の一員として融和して生きていくことよりも、日本が他国に支配されず存続していくことが何よりも大事と思っている。そのために必須なのは日本人の日本人による日本人であることの誇りであり、その根っこに日本文化という揺るぎ無き存在がある。これは法律によって侵食されない。法的に問題ないなどという小理屈でどうなるものではない。ちなみにLGBT理解法案可決によって自民党は、自身が想定だにしていなかった規模での大量の保守票を失い存亡の危機を伺わせる大惨敗を選挙で繰り返した。当たり前だ。文化を法律で侵食しようとしたからだ。賢明な日本人は理屈ではなく本能でその危険さを察知したのである。

ポーランドという国家の過酷な歴史を我々は世界史で学んでいる。ロシア、プロイセン、オーストリアの3国によって3度にわたり分割され、1795年には完全に国家が消滅し、ナポレオンによる一時の復活はあったが1815年のウィーン会議によって解体され、実質的にロシアの支配下に組み込まれ、ロシア革命勃発で民族自決権を得て独立はしたが第2次世界大戦が始まると再びドイツ、ソ連が侵攻して分割支配され、戦後はソ連の支援を受けた共産主義政権による社会主義国家となったのである。大量の血が流れた上でのこの悲劇だ。第2次大戦敗戦時のヘゲモニーを俯瞰すれば日本がそうなっていても不思議ではなかった。ならなかったのは、ガバナンス構造を壊すことはできても天皇を頂点とした質的に極めて特異な一枚岩である日本文化を壊すことは反共防波堤を必要としたGHQにはむしろリスクと判断されたからだ。

僕はヨーロッパに14年住んだがポーランドは行ってない。証券市場がなかったからだが、知ることといえばショパンぐらいでそのショパンも興味なかった。文化遺産なるものは戦争によるぶんどり合いの帰結であり、当然戦勝国に帰属する。観光客はそれを愛でに出かけるのであり、他国に支配される敗戦国はそれすら保有できず、後々の子孫に至るまでどこまでも悲惨なのだ。これを読む若者の皆さんはそのことを絶対に忘れてはいけない。インバウンドで世界から旅行者が日本に殺到するのは富士山や温泉のためばかりではない。我々の尊い先祖たちががっしりと国土に根を張り、幾度かの危機はあったものの他国に支配されず千年以上も存続した証としての、日本語、慣習、礼儀、道徳、思いやりをはじめとする雅びで重厚で奥深い日本文化あってこそなのである。その重みを知らず学ばず軽々にニグレクトする政治家が現れれば、核保有のない丸腰のままの日本は大いに危険である。

ショパンコンクールに話を戻そう。ワルシャワの国民的行事の舞台上に並ぶファイナリストの8割がアジア人という光景は、僕の感性からすれば異様としか表現のしようもない。このままで誇り高いポーランドの愛国者たちが耐えられるのか否かはそうした境遇の国に生まれていない僕には想像もつかない。ショパンはポーランド貴族の末裔の母とフランスから亡命した父を持つハーフでありポーランドで成人した、れっきとしたポーランド人である。音楽の語法にはポーランドの民謡や民族舞踊の影響が色濃く取り入れられ、愛国者であったことはまぎれもない事実と思われるが、結局はパリに去った。ヘンデルはロンドンで、ベートーベン、ブラームスはウィーンで、ワーグナーはヴェネチアでと異国の地で亡くなったし、ヨーロッパという世界では母国の土に帰ることが必ずしも愛国心の証しではないものの、ポーランドという特別な歴史を持つ国家でショパンという存在の重みは生半可なものではないと考えている。つまりショパンコンクールは多数の大作曲を生んだロシアにとってのチャイコフスキーコンクール、イタリアにとってのパガニーニコンクールとは重みが違い、演奏家の名を冠したコンクールの舞台が世界の俊英によって多国籍になることとは全く本質が異なるのである。

その反動なのかショパン自身の奏法の研究が進んでいると聞く。しかし彼自身の音源はなく、いくら発見しても楽譜は記号に過ぎない。たとえば第3次世界大戦が起きてビートルズを聴いたことのある人が全滅し、全音源も破壊されてしまい、残がいの中でバンド譜面が奇跡的に発見されたとしよう。そこからあの個性的なサウンドを再現する作業は、聖書の記述からバベルの塔の絵を描くに似る。描けと言われれば絵は画家の数だけできあがる。真偽は誰も判定できないが、選べと言われれば、絵である以上、ブリューゲルのような技術的に上手なものに収斂することになるだろう。人間の認知バイアスとはそういうものなのだ。コンクールも同様だ。本物のショパン演奏に近い保証はどこにもないが、ピアノ演奏である以上、技術的に上手に弾いた人が選ばれる可能性があるということだ。

僕はアルフレッド・コルトーのショパンが割合好きである。しかし上手に弾いたかどうかという認知バイアスがだんだん勝ってくると、レコードですらミスタッチが散見される彼がショパンコンクールに出たとしても優勝する可能性はゼロになろう(仮に彼の奏法がショパンに近いとしてもだ)。今年の審査員が「昨今は音楽のためでなく拍手のために弾く傾向がある」と苦言を呈しているが、蓋しこの言葉はそうした風潮を感じたなかで、コンテスタンテのみならず審査員に対しても向けられていると僕は解釈している。東洋人が強いのはクラシックの新興市場である中華圏の子女に対するピアノ演奏の訓練が最高度の域に達しつつあることと無関係でないだろう。今回2位になったカナダ国籍のケヴィン・チェンのエチュードは一昔前ならポリー二並みの評価を得たかもしれない。なにゆえに ”かもしれない” かというと、結果として得なかったからだ。ポリー二は2025年の今、もう現れないのである。彼のエチュードのレコードが出現したのは1972年。ニクソン大統領がスペースシャトル計画を発表したがアポロ計画は終了し、翌年に米軍のベトナムからの全面撤退を宣言する年でもある。人類が科学技術と軍事力で何でもできると確信していたピークの頃であり、ポーランド文化の香りより人間の極限の演奏技術の驚異を意識させるポリー二のエチュードは時代の風によっても讃えられたのだ。ウクライナとパレスチナの戦争のニュースで世界が気疲れしてしまった現代は、その風が吹いていない。ケヴィン・チェンの責任ではないのである。

優勝者エリック・ルーは10年前に書いた通りモーツァルトを弾かせたい出色の美質がある。それは静かな場面で抒情と哲学的な深みを漂わせる類のもので個人的に優勝に異議はないが、良くも悪くも拍手のために弾く傾向を是とする世では彼を選んだショパンコンクール側の姿勢の揺らぎを問う声があることは想像がつく。反対に拍手をとれる方向で期待値が高かったのがジョージアのデイビッド・フリクリだ。結果はルーが1位でフリクリは選外で、苦言は効いているのかなとも思う。ただ、フリクリを擁護するわけではないが、ショパン自身は華やかなドレスと香水の香りに身を包んだたくさんの女性に囲まれてパリのサロンで弾いたわけであり、哲学者よりはショーマンに近かっただろう。肺を病んだ最晩年の陰鬱な表情の写真は後世のショパンのイメージに大きな影響があると思うが、一生あの顔で生きてきたわけではない。

ショパン好きの皆様には申し訳ないが、彼の音楽には素晴らしい物がいくつかあるのだが、多くに見られるあのパラパラと散りばめられた装飾音符が僕は耐えられない。ブラームスの間奏曲やシューマンの詩人の恋の伴奏に見られる、なぜその場所にその音が置かれたかというロジックと無駄のなさを決定的に欠いているからだ。その名のとおり装飾にすぎず、彼ほどの耳の持ち主があれを書いたのはパリジェンヌたちの関心を買わんがためと思うしかない。コンサートでは聞こえにくいと言われ、彼がパリで演奏会を嫌った一因はそこにあるかとも思うが、それを取り去ればショパンという感じが失われるのは明白で、実は装飾ではなく実体だったのだという美学的矛盾に直面するのである。僕がコルトーに惹かれるのは、唯一彼だけがパラパラに「男の色気」という重大なメッセージを盛り込んでその矛盾を解決しているからだ。それは奏法、技術ではなく、そういう男だけができる女性を惹きつけ微笑ませるウィットに富んだ軽妙な話術やジョークのようなもので、家柄や教養や作法に隙はないが真面目が取り柄の秀才がまねても無理なのである。とすると、ショパン自身もそう弾いたのではないかという思いは断ちがたくなるのだ。

パリのサロンにデビューし、あのエチュードを書いたショパンは23歳だ。一年下のリストは超絶技巧で女性を失神させていた。ハタチそこそこの彼らは往時のビートルズやローリングストーンズのお兄ちゃんたちのようなものなのだ。ショパンがそうした側面から技法というアートに興味を抱いたかどうかはともかく、それがウィーンやパリで大向を唸らせる鍵であるという認識を持っていて不思議ではない。それがエチュードの作曲であり、リストへの献呈、挑戦であった。シューマンが同い年のショパンを絶賛しているのは評論精神によるということになっているが、評論はおりしものロマン主義の台頭で文学と融合した運動だ。浪漫主義的資質のシューマンが開祖の一人という意味でならその言説に異論はないが、後世に現れる富裕なインテリ市民階級で、音楽はできないが文章は書く者たちが評論家である。シューマンは真の意味での音楽の創造者でありそれではなかったが、指の怪我によりエチュードをかけるほどの技法のレベルにはなかった。リスト、ショパンを前にしたルサンチマンを僕は感じるし、ショパンはそっけない返信で、まあ君には無理だろうけどねと見下したニュアンスを漂わせている。

桑原志織

ドイツ時代に僕は軍隊ポロネーズと子犬のワルツを弾いて気持ちよかったが、以来ご無沙汰だ。聴く興味が失せるとともに指も忘れてしまう。今さらっているのはシューベルトやシューマンやブラームスというわけで、10年前にはあったショパンコンクールへの興味も並行して失せてしまったが、愛国心から、前回は躍進した日本人が今回はどうかには注目した。 桑原志織はオーソドックスなショパンで音はクリスタルのように美しく、パラパラの空疎さをあまり感じさせないソリッドなアプローチだ。バラード4番は見事で完成度が高いが、それだけに最後のコンチェルト第3楽章になぜかそれがなく、不可思議だ。指揮者のせいかもしれないが、これは彼女のテンポだったのだろうか。

もう1人、選外に終わった進藤実優だ。あまり見ない柔らかい手首から心地よいレガートを生み出し、粘りのあるフレージングと大きな波のうねりに高め、それが摂理として求めているまさにこれというテンポルバートと音量の振幅で音楽をゆりかごのようにドライブし聴き手に魔法をかける。音楽が奥底に秘めている作曲家の心の波動に共振しないとそういうことは起きないのだが、表面的には即興性と聞こえ、陳腐でカビの生えた解釈論にこだわる保守派には受けないこともある。指揮者ならフルトヴェングラーが、ピアニストならアルゲリッチがそうした資質の持ち主だが、教えて出来るものではないと思われ、頭や理性ではなく体中で咀嚼して自分のものにした人だけができる。聴衆への説得力は絶大で、そうした演奏家はいつの時代でも世界でも希少である。微細に精巧に作られてはいるが所詮は作り物でしたねという多くの演奏の中でおのずと異彩を放つことになり、いずれ彼女にはそういう時が訪れるだろう。

コンチェルト1番をぜひお聞きいただきたい。まず、いつも感じるのだがワルシャワ・フィルハーモニーは冒頭からがっくりとくるほど鈍重で冴えない。もっと緊張感のある音で入れと言いたくなるが、それをものともせずピアノはデリケートで冴え冴えとしてすばらしい。第1楽章。テンポをぐっと落としppに息をひそめた第2主題はどうだ。ここはショパンが書いた最高のページのひとつと僕は思っているが、それへの敬意に満ちた壊れそうなほど敏感なタッチに生命がこもっているのである。へたくそなホルンが乱すが、もうこの人が只者でないことを悟ってこっちも息をひそめるしかない。第2楽章。霧の中、 恋人と手をとって森の道を歩むインティメートな世界だ。別れることになる彼女をいかに愛していたか感じ入る。第3楽章。喜びの爆発。なんてカプリッチォな弾き方だろう。個性の塊だ。歓喜が快い律動になりこちらまで未来への期待が体中に満ちてくる感じがする。コーダに向かい弾むような波動はアップビートのグルーヴ感を呼び起こし、オーケストラに乗り移って全員を引っ張って頂点に至る。素晴らしいのひと言、この人は指揮者としても有能ではないか。微細なミスタッチは複数あり、杓子定規な減点があったのではないかと推察するが、コルトーの例と同様そんなものは大器の価値を些かも減じることはない。コンクール用の安全運転、完成度の高い退屈など犬も食わぬ。そのリスクを冒してでも聴衆に伝えんとする強いパッションは演奏という行為の本質を突いており100倍も価値がある。僕が審査員なら進藤実優が優勝。この演奏はアルゲリッチよりリパッティより好きだ、これからこの曲が恋しい時、真っ先に聴くことになるだろう。

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『黒猫フクの人生観』 (第五話)

2025 DEC 23 17:17:28 pm by 東 賢太郎

天国に来るとね、地球って地球儀みたいに見えるんだ。人工衛星からの景色みたいさ。すごく面白くてね、だから僕は天文学をずいぶん勉強したんだよ。そうそう、19日に地球に近づいた例の3Iアトラスだって地球を同じふうに見ていたんだ。あいつは銀河系の真ん中方面にある「いて座」あたりの恒星系の文明が70億年前に発射して、核融合エネルギーを使って東京-大阪間を10秒で移動する猛スピードで飛んできたんだ。そんな技術はまだ地球にないんだよ、だからいま世界中が競って研究してる。主人が知っている青色LEDでノーベル物理学賞を取った中村先生もその1人だって聞いてるよ。 70億年前って地球ができる30億年も前だけど、宇宙はそのまた70億年前からあるんだ、そんな文明があっても不思議でもなんでもないでしょ。宇宙人なんて言葉を使うと都市伝説に聞こえちゃうかもしれないけどね、137億年の宇宙の歴史の中で、文明は泡みたいにいくつも生まれては消え生まれては消えしてるんだ、地球文明もそのひとつってことだね。

3Iアトラスは前もって地球に強烈な電波信号を送ってきたんだ。これからそっちへ行くぞ、ちゃんと俺を観測してくれよってシグナルだね。なぜかっていうと人間に自分を観測させるためだよ。それで人間が何を学ぶかっていうことを彼らは調べに来てる、それが飛ばした目的なんだ。 1977年に信号を受信したアメリカの天文学者がWOW !って驚いてね、もちろんその反応も3Iアトラスは記録してる。主人はその時アメリカにいてそれを浴びてる、だからこの訪問者をずっと気にしていたんだね。それ以来こいつは双曲線軌道で地球にずーっと近づいて来て、19日から遠ざかり始めたってわけさ。NASAは何も発表せず平静なふりをしているけど内部では科学者たちは大騒ぎでね。だってこいつは表面に鉄がないのにニッケルがあったり、色を変えたり、尾っぽを太陽に向けて出したり、 1秒に40リットルも水を噴射したり、軌道を自分で変えたり、速度が速くなったり遅くなったりしたんだ。学者たちはありえねぇって発狂状態さ、だってどれも物理学を書き換えなきゃいけない話なんだからね。

地球を見てるとアメリカじゃあこの話はずいぶん盛り上がってたよ。ハーバード大学の宇宙物理学者アヴィ・ローヴ教授がユーチューブで解説してね、メディアも取りあげてたよ。でも日本のメディアはさっぱりでね、日本の猫として寂しいもんさ。 jaxaがまたロケット打ち上げを失敗しちまったし、こういうことに対する国民的な興味のなさは大丈夫かなって心配になるレベルだよ。だってロケットを飛ばす技術は米国、ロシア、中国はもちろん北朝鮮にだって大きく負けてるわけだからね、もう二等国に成り下がってるね。3Iアトラスが人工構造物かどうか、もしそうならいつどこで誰が何のために作ったのかなんて、もっと報道すればワクワクして調べたくなる子供がたくさんいるはずなんだけどね、日本人は優秀なんだから。でもメディアが報じなければ知る由も無いから子供の機会損失なんだよ。メディアが何やってるかといったら「高市おろし」ばっかりだ。本当にバカだねこいつら。私立文系だらけで数学や物理なんてわけわかんないんだろうね。こういうレベルの連中に電波の使用権を独占させておくことが国益になるのかどうか総務省は真剣に検討すべきだね。

それとは真逆の明るい話もあるよ。高市さんの人気がすごいって天国で話題もちきりなことだ。人気って言ってもね、日本のじゃない、世界のさ。フォーブスの「世界で最もパワフルな女性100人」のランキングって、ドイツのメルケル首相が長らく1位でね、今年は4位がイタリアのメローニ首相、5位がメキシコのシェインバウム大統領なんだけど、それを押さえて高市さんが3位に踊り出たんだよ。毎年トップ10に半分以上いる口から先に生まれたみたいなアメリカ人女性は全員高市さんより下なんだ。 1位2位は国際機関の女性だからね、政治家としては世界一さ、これがいかにすごいことかわかるかな、だって国としては日本は今年インドにGDP抜かれて世界第5位だからね。緊縮財政で足を引っ張られて落ち目の国なんだ。その劣勢をひっくり返して、もういちど日本を世界の真ん中で輝く国にしようとしている高市早苗さんを世界が評価しているってことなんだよ。ところがその足を引っ張って引きずり下ろそうっていう妙な奴等が日本の中にうようよいるんだ。何なんだこいつら、猫だった僕にはまったく分からないよ。だって日本の猫にはそんなの絶対いないからね。

そうなんだ、それやってんのがオールドメディアなんだよ。僕は地球を丸ごと見てるから気がついたんだ。でも日本のまともな国民はSNSでそれに気がついちゃってるみたいだね。「サナ活」見てごらんよ。交流サイトで高市首相の持ち物を買い求めたり、ゆかりの場所を訪れたりするってまるでアイドルだけど後援会じゃないよ、政治家の推し活ファンクラブだよ、そんなの前代未聞でしょ?それもやってるのは10代20代のキラキラした女の子たちなんだよ。驚いちゃうけどFNNの調査によると高市内閣の18~29歳の支持率はなんと92.4%!僕もここまでとは思ってなくて唖然としてるよ。なんせこの世代はテレビ、新聞なんか見てないSNS世代で、みんな愛国者ってのが絶対のバックボーンなのよ。いや、愛国なんて以前に10年、20年後に誰が自分を守ってくれるの?そもそも日本国は在るの?っていうぐらいの危機感があるんじゃないかな。ところが選挙の候補者をみれば永田町と利権しか頭にないジジイ、ババアばっかりだ。投票に行かなかったのわかるよね。それが岡田センセイのおかげで怒りに火がついて一気に覚醒してね、頼もしい高市ねえさん支持で政治にぐいぐい参加し始めた。存立危機発言事件は11月7日、命日に勃発したから僕の思い入れは半端じゃないんだ。この若者の動きはもう元に戻らないよ。でもなんたって大事なのは高市さんがそういうイメージを狙って作ったわけじゃないってことさ。まじめに勉強して働いて働いて働いて身をもって示す彼女にそんなチャラいところは微塵もないし、現実にガソリンも下がったし年収178万円の壁も結果だしてくれたしね。だから若者の信任も絶大なんだ。僕も主人もパフォーマンスだけの張りぼて政治屋が虫酸が走るくらい嫌いでね、だから高市さん応援しちゃうんだ。当たり前の日本人と日本猫で右翼でも何でもないけどさ。こういうオトナもたくさんいるからこれから選挙の景色はガラッと変わるよ。だって投票率は「サナ活世代」が3割ちょっと。全世代の最低だったんだ。それがこれだ。解散総選挙を宣言すれば大応援団として盛り上がること確実さ。これからの日本を背負っていくのはこの世代だからね、カレシといっしょに投票行くだけでもインパクト絶大。自民党の中の変な連中もついでに思いっきり蹴り出して、もう1月に解散しちゃったほうがいいね。

オールドメディアはこういうことに気がついてないんだろうね。だって虫酸が走られる側だからさ。ファンクラブっていうのはね、アイドルがけなされたり攻撃されたりいじめられたりすればするほど燃えるんだって。だから、けなせばけなすほど高市さんは支持率が上がっちゃうわけ。おかしいぞ、こんなはずないって焦りまくってますます口汚くけなすよね、するとますます上がっちゃう。こんなはずはない!って、論理破綻や見え見えのダブルスタンダードでどんどん言ってることが支離滅裂になってくる。核保有なんて官邸の誰かどころか石破総理が思いっきり言ってたじゃないか。石破は好きだけど高市は嫌いだからダメ?醜悪、不浄にもほどがあるね。姑息な印象操作の手口なんかもうネットでバレバレ、もはやお笑いネタなのにそれすら気がついてない。そこをSNSで冷静に逆襲されて狩り取られる。世の中おかしい、狂ってるって逆上しても、テレビも新聞も見てない人たちだから「ヌカにくぎ」ってわけさ。左派政党は世界中どこでもあるけどね、基本はみんな愛国なんだよ。それが日本だけ違うって、今までおとなしく黙ってた日本人にはだんだん「穢れ(ケガレ)」に見えてきてるわけ。神社へ行きゃ分かるよね、日本人は世界で一番ケガレを嫌う特別な民族なんだ。これわからないの日本人じゃない。「サナ活」がアイドル推し活とひとつだけ違うのは「お清め」の気持ちがこもってるってことだろうね。だからケガレをまき散らす人たちは政党ごと消えていくね。これってもう宿命っていうか、方程式みたいなもんでね、存立危機発言で国民的に著名な岡田センセイがちゃんとそうなってきたでしょ、オールドメディアもやればやるほどしっかり運命共同体になっていくから皆さん見ててごらんなさい。彼らはもう日本国民の味方じゃないってレッテルが背中にバッチリ貼られちまってるからね、もう気がついても遅いね。将棋なら詰みが見えてきたよ。この期に及んで「国民の感情をコントロールしなくてはいけない」なんて共産主義者みたいなことテレビで平然と言っちゃうんだから火事場にガソリン撒いて自分が火あぶりになるみたいなもんでね、どんどん消滅の日が早まってきてるってわけさ。

 

 

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死んだと思った東名高速の事故

2025 DEC 21 0:00:43 am by 東 賢太郎

3Iアトラス太陽に最接近 10月29日

フク亡くなる 11月7日

パソコン壊れる 11月14日

関係企業に事故 12月10日

東名高速で事故未遂 12月13日

3Iアトラス地球に最接近 12月19日

 

どうも太陽系外の妙な物体が接近してきてからろくなことがない。

12月13日は危なかった。追い越し車線を快調に飛ばしていたら、わりこんできたミニバンと前の車が接触し、そいつが中央分離帯にぶつかって大破して、すぐ後ろの僕の車も危なかった。すんでの所で急ブレーキ効かせてガラスが粉々になった前の車に突っ込まないように止まった。奇跡的だった。

止まった、よかったと安堵したら、東名の追い越し車線の最後尾に止まっていることに気がついた。後ろからトラックにつっこまれて即死・・・が頭をよぎった。

フクが見ていたな、命を助けてもらったな。

 

 

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