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ドルが急騰!(日銀が指し値オペ予告)

2022 MAR 28 23:23:24 pm by 東 賢太郎

今朝のことだ。僕はディーリングルームの真ん中に座って業務の指揮をしている。国債の入札に異変がありディーラーたちがてんやわんやの大騒ぎなのだ。あちこちで怒号が飛び交い、僕も怒鳴っている。

「みんな落ち着け!」「指値を下げていいですか?」「構わん、下げろ」「どこまで行きますか?」「わからん。マルク債はだめだ、売っとけ」「了解です」「板を見せろ」・・・(そんなに厚くない、まずいな、へたすると暴落だな)

窓の外はビル街でどんよりと曇った空がうっとおしい。ここはドイツなんだ。しかしなぜ?なぜDM売りなんだ・・・?

ここで目が覚めた。額にうっすら冷や汗が浮かんでる。そりゃあ円買いしかないだろう、日銀が金利上げ容認?そんな馬鹿な、株が暴落だぞ・・・

飛びおきて円・ドルレートをチェックする。7時半過ぎだ、レートは122円20銭である。なんだ、何も起きてないじゃないか・・・

その時はそうだった・・・

ところが2時間半たって10時10分すぎ、日銀が指し値オペの実施を予告したと知る。当然、円・ドルレートに異変が起きるはずだ。そこからドルは17時ごろアスクで125円10銭まで急騰。現在も123円80銭あたりである。

円・ドルレート(2022年3月28日)15分足チャート

なんということか、僕がうなされていたちょうどその頃、日銀では異次元緩和の継続を意味するこの重大決定の発表に向け「てんやわんや」だったにちがいない。

お断りするが僕はこの発表は寝耳に水であり、なんらの関連情報すら知り得る立場にはない。マルクはもうないし、昔日、指揮官だった日々の夢はちょくちょく見ているからたまたまそれが出てきたんだろう。

それにしても、あまりのタイミングだ。

ドイツのころ、ブンデスバンクのアナリストに「日銀は公定歩合1%以下にすべきだ」と言われ、妙に耳に残った。まさかゼロになろうとは夢にも思わなかったが、それが今も頭にあって夢の舞台がドイツだったかも知れない。

お袋は霊感が強くて何度もお化けを見ている。お化けは見たことないが、僕は相場については何度かこういうことがある。去年、ドルが108円のころにほぼ全部の資産を「ドル建て」にしてしまう大博打を打ったわけだが、たまたま商品があっただけで理屈はない。あったのは、ドルは上がるはずという “不思議な確信” だけだ。

今年の2月2日に下のブログを書いた頃、まだロシアのウクライナ侵攻はおきてない。ただ、誰でもわかるようにやさしく書いたつもりだが、データを分析することで、そこそこのきれいな理屈はすでに立っていた。その通りのことが2か月後におきた、それだけのことだ。信じてくれた “ミセス・ワタナベ” は大儲けしたはずだ。いまディーリングルームの指揮官なら、「どこまで行きますか?」「わからん。円はだめだ、売っとけ」と答えるんだろう。

「有事の円」は終わった

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広島カープ、敵地で開幕カード三連勝

2022 MAR 28 13:13:30 pm by 東 賢太郎

中日ドラゴンズの立浪監督が「野球はケンカ」と言ったらしいが、その通りと思う。きのう巨人を最終回の2点で逆転した初勝利はその気迫だったのだろうが実は見ていない。広島・DeNAの終盤が凄いことになっていて目が離せなくなっていたからだ。大興奮の決着をむかえたら「はやくはやく、焼肉行くよ」ってことになっていて、おかげで前日に壮絶な相撲で高安を破った若隆景の優勝決定戦を忘れてしまった。昼間は甲子園があるし忙しいったらない。

14日目の若隆景は平幕優勝のかかる高安の強烈な突き押しに一気に土俵際に追い込まれたが、怒涛の逆襲で寄り切りで勝利した。やばい相撲だった。NPBの方もこの開幕3連戦は、7点差をひっくり返して阪神に勝ったヤクルト、6点差を逆転してオリックスを倒した西武と、同じようなことが起きた。男というのは動物界を見てもケンカに勝たないと子孫は残せない。暴力はいかんと言っても仕方ない、本能なんだから。さすがにヒトがそれじゃあまずいので、その代わりにスポーツがあるというのが僕の基本観だが、各地で壮絶なケンカが行われた。

大興奮と書いた広島・DeNAの第3戦。横浜スタジアムは改修して3万人の観衆で湧いている(この球場はこれで満員。そういえば焼肉屋もびっくりの大盛況で2年ぶりの満員だったが)。2連敗して今日こそはというDeNAファンの熱気のなか、4-4で迎えた8回裏、再起をかけた中崎が登板したのだが、先頭の牧に初球をあっさりホームランされてしまう。カープファンはこの球場の終盤に良い思い出がないし、もうだめか、中崎もツキがないなと思った人が多いだろう。

ところがそうでなかった。9回表、DeNAも再起をかけるストッパー山崎が出てきて、その初球。坂倉がひっぱたいた真正面のショートゴロを捕った大和がなんと足がもつれて尻もち。草野球のおじさんじゃあるまいし、あんなのは見たことない(ちなみに大和の守備は本来はうまい、打球が強かったんだろう)。ラッキー!そこで登場した代打・堂林。おい、何でドーちゃんなの?そうかバントか、でもそんなにうまくないだろ?そこで、明らかにサインの出てるバントを2球も空振りするのである。ツーシームとはいえ。坂倉の気迫が燃やしたせっかくの火が消えかける。なんだお前は、もう帰れ!追い込まれて苦しまぎれのバスターから何でもないショートゴロ。ああゲッツーだ、終わりだ。と思ったが、何が起きたのか、今度は二塁の牧の送球が遅れて1塁セーフである。

次の末包には代打・曾澤を送る。ツーシームは初見じゃ打てないからこれは順当。山崎のストレートは150キロ出てたし悪くない。押し込んでる。しかしツーシームは曲がりが早いのか見切られていて、当たり損ねのサードゴロだったが二死二塁となる。再度、ゲッツーじゃなくて良かった。ここで8番上本だ。当たってる。というよりオーラ、殺気がある。いま、いちばん何かやってくれそうな男だ。ちゃんととらえてセカンド牧の右に強めのゴロ。菊池なら難なくアウトだが、そうはいかず内野安打。これもラッキーだ。そこで迎える9番・長野。ストレートは全部ファウルし、ツーシームは見切って振らない。さすがの「圧」で四球をもぎとった、これがデカかった。二死満塁。嫌なものを感じたのだろう、三浦監督自らマウンドへ向かう。1番・西川。外野は1点もやらない前進守備。

習性でバッターの顔つきを見る。上本、長野、西川。緊張のサドンデスの局面だが、何かやったるぜという感じだ。打者は10回打って7回は失敗するんだが、逆に思えてくる。西川もストレートは遅れてた。だから捨ててたらしい。捕手(戸柱)は直球で押せばいいのに1-1から狙ってたツーシーム。落ちきらないのを拾われて前進のセンターを超える三塁打。この3点で勝負あり。マウンドに殺気が残ってたのか、7-5の2点差なのにクローザー栗林もちょっとおかしい。四球ふたつで一死一二塁としてしまい、佐野、牧、宮崎のクリーンアップを迎え、一発出ると逆転サヨナラという最悪事態となる。昔の悪夢がよぎる。結局、牧にタイムリーが出て1点差とされるが佐野、宮崎は内野フライで試合終了。手強かった。守備の差で勝って、勝ち星は心配した中崎についた。

たかがひと試合でこんなに人間ドラマがあるのだから野球は面白い。牧は守備がこれからだが打撃は本当にいい。去年、栗林がいたんで新人王をとれなかったが、そうでなければ満票で当確だったのが気の毒でならない。DeNAのクリーンアップ(佐野、牧、宮崎)の圧は巨人、ヤクルトなみだと思った。そこに外人ふたりが復帰して二番、六番に座ったら12球団最強である。しかしケガが多いのと、残念ながらピッチャーがいない。でも昨日の先発・坂本は初めて見たが良かったし、最下位予想してしまったが怖い存在である。

この3連戦、カープ打線は何やら気迫が違う。かつて見ないほど振りが鋭い。オープン戦でそう感じたのは小園と上本だけだったが、いまは全員だ。やっぱり「鈴木セイヤが抜けてだめだろう」と解説者が軒並み最下位予想して、この野郎と思ったのがあるんじゃないか。セイヤは数字はメジャー用にちゃんと帳尻合わせたけど、べつにいい所で打ってなかったからね、いなくても大丈夫。かえって全員が奮起してケンカが強くなってよかった。ホームランはあんまり出ないけどね、今年はピッチャーはそこそこ行けるんで、坂倉みたいに内野が尻もちつくぐらい強い打球を打ってれば何かが起きる。

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BIGBOSSはビジネススクールのケースになる

2022 MAR 27 12:12:58 pm by 東 賢太郎

プロ野球が始まると無性にワクワクします。もちろん僕はいつでも広島カープ中心なんですが、どのカードを見ても最高に楽しい。そこに今年は西室オーナーの日本ハムファイターズが球界の話題をかっさらってる、これ大歓迎です。パリーグの応援はロッテになるけど、個人的におおいにワクワクがあるのです。それを書きます。

西川、中田、太田、秋吉の大駒4枚流出を2軍で補うなんてのは飛車角落ちの将棋みたいなもんです。オーナーには悪いが、楽天球団ができた年にボロ負けしたあそこまでの戦力差とはいわないけれど、まあ甲子園でいえば大阪桐蔭と21世紀枠の高校ぐらいにはなっちゃったね。そこでド派手なパフォーマーで客寄せにはなる新庄監督をもってこよう、新球場のカネもかかるしってのはわかる。でもどうせパンダだろうとバカにしてたわけですね、僕も世間も。

ところが色々ニュースが出るにつけ、BIGBOSS、見かけ倒しでもないぞ、策も情熱もあって結構いいんじゃないの?となってきた。個人的には、野球に限らずですよ、今の沈滞した日本にはこういう型破りな男が必要じゃないかと思ってたところです。それも左翼の壊し屋じゃなくてね、伝統と礼儀はしっかり心得た上でですね、爺さんに気兼ねしなくていい立場で若者のリーダーになってという場を設定したのはとてもえらい。しかも、そのBIGBOSS、よく見るとしっかり合理的な野球をやってる。

えっ、合理的、ハチャメチャだろ?といわれてますが、そこは僕は野球経験者として感じるところがあるのです。彼はたぶん2年やる気でしょう。今年は自分が「うつけ者」を演じて風よけになって若手に思い切りやらせ、来年優勝と思ってるんじゃないか。オープン戦とはいえ、選手に監督やれなんてのはあり得ないですよ。それで勝てばお前いらんになるしね、実は勝つはずないと思ってる。だから打順もガラポンなんておどける。でも野村監督の下にいて彼自身が俺が監督ならってのはあったんだろう、そうやって選手たちにも当事者意識もたせようってことではないでしょうか。

ドラ8新人の開幕投手。これ、凄いことです。2年計画ならスター即製栽培しかないでしょう。期待に応えて2回ゼロに抑えた北山投手の度胸にも感服しましたが、彼は彼でチャンスをくれたビッグボスを一生尊敬するでしょう。そしてその気持、若手投手に伝染しますね、すると、それが成長促進剤になる。私事で恐縮ですがそう感じるんです、というのは僕の初先発は高1の秋季大会で相手はいま甲子園でベスト8の国学院久我山でした。9-0で負けたけど3回までゼロで抑え、これ、野球に限らず人生でどれほど自信になったかわからんです。起用してくださった監督はいまでも神です。

日ハムの現有戦力でどう勝つか?これ、毎日考えてる僕のビジネス戦略にそっくりなんです。そのまんまビジネススクールのケーススタディにしたいぐらいにいいテーマですねえ、将来に起業したい若者はそういう目線で日ハムのゲームを目を凝らして観たらいいね。義経のひよどり越え、信長の桶狭間、これは終わったことだけど、こっちでそれぐらいのことがあるんじゃないかと思えばワクワクするでしょ、そういうココロと想像力がないとね、勉強や知識だけじゃ起業なんかできませんよ。

新庄さんはもし優勝したらぜひ国会議員になって、次は日本国をガラポンで強くしてほしいですね。特権、利権にしがみつくだけの爺いや婆あには到底無理、もはや百害あって一利なしです。僕は人生かけて世界の金融の一線で戦ってきた戦士です。断言しますが、もう確実に世界はそういう時代になってます。時の流れに逆らっていれば国ごとだめになって不幸になるのは今の若者の皆さんです。

なぜ「平成は大没落の暗黒期」になったのか

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今年のプロ野球順位予想

2022 MAR 25 9:09:58 am by 東 賢太郎

いよいよ今日、プロ野球公式戦が開幕します。中島さんにならって僕の予想を公開します。ちなみに我が家は全員が順位とタイトルの予想を紙に書いて提出します(全部当てたら賞金)。去年はセパとも前年最下位の優勝で、両方当てた人はまずいなかったでしょう。プロは力が大差ないので「新加入の外人」と「ケガ」が2大攪乱要因です。こればっかりは誰もわかりません。例えば去年でいうと、全くの未知数だったオスナとサンタナが大当たりで主力に大きなケガ人が出なかったヤクルトが優勝、逆に外人が手薄で吉田がケガしたオリックスの優勝は中島監督の采配あっての勝利だったと思います。

 

セ・リーグ予想

  1.  広島
  2.  ヤクルト
  3.  阪神
  4.  巨人
  5.  中日
  6.  DeNA

 

パリーグ予想

  1.  ロッテ
  2.  西武
  3.  日ハム
  4.  オリックス
  5.  楽天
  6.  ソフトバンク

 

セ・リーグについて

広島は①去年は外人が大ハズレで日本人だけで戦った②5月にコロナで交流戦はボロボロの最下位だった(3勝12敗)③中継ぎが弱く逆転された、という体たらくで、それでも4位だった。①-③とも去年よりましで、これが鈴木の穴を埋める。特に③は中崎が復活し、森浦、島内、コルニエル、松本(新人)、矢崎にターリーが加わってクローザーが栗林。先発は大瀬良、森下、九里、床田、黒原(新人)、野村、遠藤、玉村、小林にアンダーソンが加入。この投手陣は12球団でも上位。問題は打撃ですが、新加入のマクブルーム(昨年の3Aホームラン王)が打てば鈴木の穴は完全に問題なし。ヤクルトは後ろの投手陣が疲れてるので12回制が裏目に。阪神はクローザーの穴は埋まらず、日ハムと対照的に監督がやめると宣言して盛り下げてるので減点。巨人は坂本がケガすると彼の穴埋めは誰もおらず岡本の打撃にも響く。中田は年を通しては打てない。両翼の外人はあまり脅威には見えず、投手は先発が手薄で菅野が勝てなければ最下位もある。中日は投手力がNo1だが打撃は迫力なく、外人はビシエドしかいない。DeNAは投打とも故障が不安(去年、ソト、オースチンの来日が遅れて泥沼の連敗)。

 

パリーグについて

2位だったロッテは佐々木朗希が10勝は積み増し、外人2人が健在ならいける。日ハムは前回の稿で「なんでこんなピッチャーがドラ8まで残ってたんだろう」と僕に書かしめた新人・北山(京都産業大)がなんと開幕投手でびっくりである。あえて書くが、僕はこのピッチャー、新人王候補とさえ思うが世評は全くそうでなく、かように現状の戦力分析はあてにならないのでビッグボスの眼力を信じたい。明日、ソフトバンクは千賀なので分が悪い。ならば誰も見たことない北山でスタートして打順一回りを抑えて替えてしまい、負けても相手に嫌~なものを残すという作戦か。野球界の常識、旧弊をぶち破らないと若手軍団に勝ち目はなく、これ、実は源義経も採った合理的戦略であるし、お客は最高に楽しい。新庄監督、歯車がかみ合えば勢いで優勝もありだ。オリックスは去年は中島采配の意外性で攪乱できたが今年は研究されてそれが消え、打線はマークがきつくなるので厳しいだろう。もともと投手はピカ一だが点が取れなくてドベのチームで、ケガ人が出るとそれに戻りかねない。ソフトバンクは、主力が年齢的にピークを越えており転換期だろう、今年のラインアップだと外人、抑えに往時の迫力がないので新戦力が出ないと夏以降が苦戦と予想。ただ監督力が未知数で良い方に出れば楽勝でAクラス。楽天は投手の厚みがある上に打撃は侮れないが、ここも同様にベテラン主体で故障が不安で監督力は落ちる。一方、西武は監督が折り紙つきでありドラ1,2位の左腕が大当たりで、若返るし左腕不足まで一気に解消。1位の隅田は世評通り星が読め、2位の佐藤隼輔(筑波大)はオープン戦を見る限り僕の予想をはるかに上回る好投手である。2人とも新人王候補で10+10=20勝しそう。野手は愛斗に注目。山川の復活次第で優勝があり得る。

以上、贔屓目ありで自信はまったくなしですが。皆さん、今年もプロ野球を楽しみましょう!

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パリというと思いだす名曲たち

2022 MAR 23 3:03:03 am by 東 賢太郎

正月に書きましたが、いま我が家はフランスでもちきりです。昨日、「パリ殺人案内」というサスペンスドラマを家族で観てまして、なかなか面白い。パリのオペラ座が舞台でカルメン歌手の母子が主役で、アリアのシーンが出てくるし、犯人の意外性もある。すっかり現代の設定と思って見てました。でも終わってみると、一ヶ所だけ変だった。「あいつは死んだぜ」と刑事が言った男の墓石に「~1889」と彫ってあったことで、「あれはどういう意味だったんだろうね?」と。まさかと思ってネットで調べると「19世紀を舞台にしたフランス2時間サスペンス」とあるではないですか。ぼーっと見てたんですね。でもこんなこと東京やニューヨークだったらあり得ない、これがヨーロッパです。

気分はすっかりパリになって、何度も行ったけど、ところで、あそこではどんなメロディーが脳裏に浮かんでいたんだっけ、ラヴェルかなドビッシーかなと、これは性分なんですね。仕事ということになってたけどそれは少しでほとんど遊びだったなあ、あそこで**、あそこで++・・・じっくり思い出します。出てきた曲はけっこう意外でした。その顔ぶれはこのようなものです。

フォーレ「ペレアスとメリザンド」よりシシリエンヌ

これ、たしかFMのクラシック番組のテーマ曲で(高校ぐらいだったかなあ)、なぜかパリというすり込みがあって、もうシャルル・ド・ゴール空港の例の白いトンネルをくぐっただけで出てきてました。

 

フランシス・レイ「白い恋人たち 」(1968年)

販売差止訴訟となった吉本興業のお菓子「面白い恋人」の元ネタはこれ(「白い変人」ってのもあった)。当時僕は中二。甘酸っぱい名曲にまだ見ぬパリを想っていましたっけ。不思議な転調を重ね、謎のホルンが強引に元に戻すのだけどこの不可解さがたまらず耳がクラシックを追っかけるようになってしまった記念碑的音楽でもあります。

 

サティ「ジュ・トゥ・ヴー」(あなたが欲しい)

いきなりミ・ソ・レとC9のコードで始まる斬新さ。パリ留学したバート・バカラックが名曲『Close to You』でそのまんまパクる(カーペンターズで大ヒット)。無理もない。ラヴェルもドビッシーもサティをパクってるんだから。

 

ポール・モーリア「恋はみずいろ」(1967年)

一橋中学でお世話になった音楽の森谷先生。あだ名はポール・モリヤでした。原曲はアンドレ・ポップなるイージーリスニングのフランス人らしいですが、モーリア先生のアレンジはいま聴くとチェンバロ、ハープの伴奏がちゃんとフレンチ・クラシックであり、オーボエ・ソロもお品がよろしいですね。他愛ない曲と思ってましたが、弾いてみるとバスが4度づつ3回上がる(a-d-g-c)なんてのが斬新だったんですね。

 

フランシス・レイ「パリのめぐり逢い」(1967年)

やっぱり僕はレイが好きだったんだと今わかりました。D♭M7-Csus7-C-BM7 - B♭sus7なんてコード進行は当時は高級すぎて不可知。しかし、おしゃれだ。ギターであれこれ試してついに秘密を解き明かしたわくわく感は忘れません。この時の「悔しいけどおしゃれだ」がそのままパリのイメージになったのでした。

 

シェルブールの雨傘(ミシェル・ルグラン)

戦争が引き裂いた恋人たちの悲劇というと、僕が断トツに愛する映画は『哀愁』(ウォータールー・ブリッジ)です。私事で恐縮ですが、突然に米国留学の社命が下ってまず頭をよぎったのは哀愁でした。もしも2年待っててくれと言って家内とどうなったか・・結局そのままロンドン赴任になって8年帰ってこなかったのだから・・。哀愁は今でも涙なくして観られません。対してパリの傘屋の娘はどうだろう。妊娠していてそれはないだろうなんて思うのは古い人間なんでしょうか。悲恋なのかどうかよくわからないのがフランス映画らしいといえばいえますが、ルグランの音楽は悲しいですね。そういえば「パリ殺人案内」の歌手の娘も冤罪で投獄された恋人の子を宿していて、どうなるか心配しましたが・・。

以上、パリ音楽めぐり、なぜかラヴェルもドビッシーも出てこないのでした。

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ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(12)

2022 MAR 21 18:18:26 pm by 東 賢太郎

ヨハネス・ヴィルトナー / フィルハーモニア・カッソヴィア

シューマンの序曲集(NAXOS)が大いに気に入った指揮者である。元ウィーン・フィルのVn奏者だったようで、そのブログ執筆時はブルックナー9番とウィンナ・ワルツ集ぐらいしか録音が見当たらなかったと記憶している。これを見つけて期待して聴いたが、だめだ。シューマンの稿では「普段着の演奏」を評価したが、オーケストラがここまで弱いと話にならない。ポーランド国立放送交響楽団が素晴らしかったということのようだ(総合点:2)。

 

レナード・バーンスタイン / ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団

バーンスタイン44才の1962年、初のアメリカ生まれの指揮者としてNYPOの音楽監督に就任して4年目の演奏だ。出来栄えはまことに素晴らしい。バーンスタインという人の真髄を知るに彼のハーバード大学における講義は必聴である(youtubeにある)。チョムスキーの言語学におけるPhonology(音韻論)とSyntax(構文)を音楽に当てはめた説明は目から鱗で、この講義は彼が20世紀の知の巨人の一人であることを示す。かような教養の土台の上に、イマジネーションを持った作曲家であり、さらに、傑出したエンターテイナー(指揮者)でもあった。彼の知性はいつも音楽への愛に包まれているので表には見えない。Mov1冒頭の春の陽だまりの暖かさ、第1主題を導く呼吸の深さ、木管に絡むホルンの明滅。すべてが室内楽的に最高のテンポとピッチと技術で提示され、展開部の声部の交叉は綿密だが理屈っぽさはかけらもなく自然だ。Mov2はティンパニの録音レベルが低く、VCのしなやかなフレージング、第2主題の歌は後年のVPO盤(DG)に一歩譲り、結尾のFgがやや先走るという微細なアンサンブルの乱れもあるが、NYPOのホルン・セクションのうまさは半端でなく録音の劣勢を補って余りある。Mov3のObはチャーミングだが弦楽部のテンポ(やや速い)を戻すフレーズなどに若さが感じられなくもない。Mov4のテンポは理想的だ。ティンパニの楔の打ち込みも良く、第2主題は情に溺れないが再現部のそれは感情の深みが出て十分な充足感をもたらす。コーダは減速の深みからTrpの信号まで少々加速するが興奮に煽られることなくTrbの下降音型は冒頭のアレグロであり、そのまま盤石のインテンポで堂々の終結を迎える。若きバーンスタインに指揮台でジャンプしてオケを駆り立てるイメージがあるとしたら誤りだ。知性がコントロールしながらブラームスの許容する範囲の情熱を内部からたぎらせる。バーンスタインはそれをclassically contained(古典的に抑制された)と別なスピーチで述べている。ここに聴く2番の「読み」にうけ狙いの軽薄さの類のものは皆無で、今なお保守派の正道の解釈であり、永遠にそうだろう。後にウィーン・フィルに受け入れられる素地はそこにあったと思われる。(総合点:5)

 

ロリン・マゼール / クリーブランド管弦楽団

1976年録音で僕の大学時代に1-4番が出たがあまり評判にならなかったと記憶している。ベーム初の1-4番がウィーン・フィルでほぼ同時期に出て話題をさらい押されてしまったと思われるが、細部まで貫徹したマゼールの意図を文句なしに秀逸なオケがリアライズした演奏は大変聴きごたえがある。我が国の世評ではマゼールの指揮に「あざとさ」を見る傾向があり、例えばMov2は弦にポルタメントをかけ、終結のティンパニを強めにして暗い谷間をのぞかせ、Mov3は曲想に合わせて微細なテンポの揺らぎを見せるような部分がそうだろう。しかし同じほど美点もあり、オケの透明感は類がなく、終楽章のallegroは快適でTr、ティンパニの合いの手などリズム要素が磨き抜かれ、当時はとてもモダンな解釈であった。Mov4コーダはバーンスタイン同様に最後の二分音符で減速、さらに、「ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(8)」の④を減速(!)という特異な解釈であり、興奮を煽る下品で安っぽい手管は微塵もなく終わる。好まない方もあろうが、dumb blonde(頭の空っぽな金髪)を思わせる何も考えてないアッチェレランド派(最近これがルーティン化しつつある)の対極に位置する(総合点:4.5)。

 

ブラームス交響曲第2番の聴き比べ(13)

 

 

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人間の相性は量子力学によって決まっている

2022 MAR 15 9:09:46 am by 東 賢太郎

人の相性というと一般にその人と「気が合う、合わない」ということである。合うというのは、2つの脳の相互作用に何らかの「同期」が測定されるということだと僕は経験的に考えている。その測定を僕らは言葉(音)、表情・行動(光)、匂い(分子)等の五感で行うが、判定するのは脳であり、脳内に形成されているシナプスの結合(回路)がプロセス(計算)した結果と思われる。

では僕の場合は実際にどうだったかというと、本当に(”かなり”)「気が合う」と思った人は67年生きてこの世に一人しかいない。これは、ある意味、非常に驚くべき計測結果である。彼は親族ではない。「彼も合うと思ったであろう」という予測に対して僕は高い確率を付与することができるが、確率でしかないのはもう会わなくなってしまったからで、ここで定義する「気が合う」が社会的に「仲良し」を必ずしも意味しないことを示していよう。

回路の形成は先天的、後天的の両方あるが、ある現象(”問題”)を入力した場合にどんな波長を発したかで僕は即物的に合う、合わないを判定しているだけで、遺伝(ア・プリオリなもの)は少なくとも関係はあっても決定的ではないと結論するしかない。もちろん性別、人種、年齢等それ以外のものは一切関係ない。

では合う、合わないを判定する回路はどう作動しているのだろう。観測はできないが、自分の脳は以下のように感じている。入力に対して起こると予測される自分の脳の反応と同じ反応が相手の脳にも起きる確率(同期率)が有意に高いだろうという予測が成り立つと、「合う」と判定されるのだ。反応の予測が立つということは、それを引き出すための説明がお互いに相当程度省けるということで、ツーと言えばカーという関係になり複雑な情報が正確にすぐ伝わる大きな利点があった。

ということは、たったひとりを除いて、67年間に知った全員が予測を有意な確率で裏切ったということを意味している。複雑な情報伝達の正確性は犠牲にならざるを得ない。お断りするが、そのことと社会的結びつき、おつきあいにおける選択とは関係がない(別次元)。両親もそうだし、妻もその意味でぜんぜん別な人だが結婚相手に選ばせていただいている。

以上、それが「非常に驚くべき計測結果」であるのは、計測方法(ロジック)が誤っているか、回路の同期率は一般に67年にひとり程度なのか、僕の回路固有の同期率の低さなのかであるが、以上のように「言葉」で表記できるということはそれは「実験で証明できる」ということではないだろうか。

というのは、例えば、「数学の問題を解く」という行為はその問題を等位に変換することで作題者が求める結論(”解答”と呼ぶ)に至るプロセスを言葉を補完して一切の論理矛盾なく表現することに他ならない。以上の6パラグラフで僕はそれをしたとするならば、それは「解ける」のではないかという問題提起だ。

いま僕は量子力学に興味がある。それを理解するレベルの数学の回路を脳に作っていないため、誰かが「言葉」で近似的に等位変換してくれたものを楽しんでいるに過ぎないが、例えばこれだ。

この「量子もつれ」を計測することにより、ブラックホール内部の現象(三次元)がその表面に(二次元で)記述されていることを示すホーキング博士の計算結果は、まさしく衝撃的だ。その式はこのビデオで示されている。

僕らが見ている(と思っている)三次元宇宙は実は二次元で書かれたもののスクリーンショットにすぎない。そんな馬鹿なとアインシュタインは言ったがそれが正しい(アインシュタインが間違っている)ことが数学的に証明されている、と説明されている。

ひとつわからないのは、二重スリット実験が光子で行われる必然性だ。光子でその現象が存在することは確実なのだろうが、光(映像)は観測者である人間の目がその知覚をもって「観測」としているからで、人間だって冒頭に書いたように五感すべてで知覚しているし、さらには、人間の五感のどれとも別な器官で観測する別な惑星の生物だったら「観測前は別な状態」という現象はどういう意味を成すのか。三次元トリック(?)にその生物はひっかからないのではないか。もしそうであれば、それは人間(あるいは光で観測する他生物)を想定して設計されたのではないか。とすると、その意志を持った何者か(造物主)の存在を想定する必要がどうしてもあり、その者は人間を少なくとも包含はしている生物を対象に造物したのではないかという疑問が僕の回路からは出てくるのだ。

ビデオで語られる、量子コンピューターが理論からでき能力が進化しつつある(マシーンが理論を追っている)という現実。大栗博士の研究の部分でビデオは「我々の時空で起きているすべての現象がそれを包む空間の表面に量子もつれで書かれている」「それに量子コンピューターの理論と共通する部分がある」「宇宙は数学的に閉じている可能性がある」と語っており、そして何よりも「物理学の最先端の研究をするためには新しい数学を作っていかなきゃいけない」という博士の言葉は数学が科学において何たるものかを如実に理解させてくれる。言葉なくして科学はなく、数学は言葉の一部なのだ。

「気が合う、合わない」を量子で読み解くことはできるだろうか?2020年のノーベル物理学賞受賞者ロジャー・ペンローズ博士の研究が参考になる。次のビデオでシナプス(回路)が説明されているが、ニューロンを作るマイクロチューブルの伸縮が観測前後で量子もつれ状態にあるというのが博士の仮説だ。

ご覧の通り、その脳を持つ人の行動は投資判断に至るまでシナプス(回路)次第という実験結果が示されており、それを継続的に観測することで我々はその人と「合う、合わない」という結論に至るのだが、そのプロセスには量子力学が関与している。つまり、主観的、感情的、本能的と考えられていた「人間の相性」というものは即物的に決まっているという命題が提示されており、そのことの「科学的正しさ」は暗号通貨の真偽がハッシュ関数という数学で証明されたブロックチェーンで担保されるのと同等と僕は理解した。

ということは、後天的にしか獲得できない「学習による回路の有無」は大きな要素になることが証明されたと結論して良い。だから、遺伝的に「合う」はずの両親や親戚一同がそのリストに入ってこないのだ。僕は数学が好きなのでその回路が一般人の平均よりはdevelopしているはずだが、同時に現実世界でのその使い方(アプリケーション)は個性があることを自覚しており、唯一気が合った彼も文系だが数学が非常に強くてその回路の運用方法に共通点があった。それをベースにした世界観が一致したということだったようだ。逆を解くと、そうでない人の脳とは合わないし、合わそうとしても壊滅的にどうしようもないというまったくシンプルなことだったのだ。しかし世の中はよくできたもので、夫婦も会社も、自分とは違う人と組んだ方がトータルではうまくいくのだ。量子力学もそこまでは及ばないのか、それも量子力学が決めたことなのかはよく知らないが。

見えている現実はすべてウソかもしれない

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新庄ビッグボスはあなどれない

2022 MAR 13 22:22:51 pm by 東 賢太郎

2月27日、名護で行われた日ハム・広島戦。ハムの今川優馬選手が放ったレフトへのホームランが物凄く印象に残っていた。たまたま彼が大学卒でドラフトにかからずJFEで2年プレーして昨年のドラフト会議を迎え、家族全員でハラハラ見守って6位で名前が呼ばれた瞬間お母さんが泣きじゃくっているビデオも見ていた。高校でホームラン2本の選手がこれ?信じ難い、そのぐらい「やばい」ホームランだった。

その彼が一昨日の広島戦でコルニエルと対戦。日本2位の165キロを記録した剛球投手で見ものである。打つかなと思ったら打った。スリーラン。文句なしのスイング。あっぱれとしか言いようがない。チームはここで一発欲しい、本人も狙ってる、構えを見て打ちそうだ、そういう時にちゃんと打つ。誰でもできることじゃない。すごく気になる男である。

今日の同じカード(マツダ)。0-0で引き分けだ、カープは投手が良かったが打線は実にショボい。つまらねえ試合だと思った9回2死、まったく期待しなかった上本が引っ張って快心のサヨナラ3ラン。度肝を抜かれる。そう思ったのは仕方ない、彼は一軍でたぶん一本も打ってない。狙ってはいなかったろうが、たかが一本されど一本であって、こういう所で打つってのはやはり誰でもできることじゃないのである。

そうしたらビッグボスの新庄監督がその上本を大きな拍手でたたえていた。カープファンへのサービスだろうが、野球選手として敵味方関係なく「そういうもの」もあったに違いないと胸が熱くなった。まさかの負けであれはなかなかできないと思う。負けた試合後に相手からナイスピッチと言われたことがあるが、これは本当に嬉しいもので、野球を愛する者同士の本音の言葉でずっしり重く一生ものだ、いまだにその場面まではっきり覚えている。

上本に打たれた望月をビッグボスは「俺がフォークを投げさせた」とちゃんとフォローしてる。彼は選手に監督させて1塁コーチャーをやったりもする。奇をてらってるのかと思ったが、僕も高校時代にサードコーチに立って試合が良く見えると思ったことがある。そういうことなんだろうか?新庄おそるべしだ。万波は顔つきが変わったし今日の先発の立野も良かった。清宮の瘦せ方も半端ないし盗塁をさせるとは!昨日最後に1回だけ投げた新人の北山(京都産業大)、いいねえ、なんでこんなピッチャーがドラ8まで残ってたんだろう。

さて、カープについては色々思う所がある。これは別稿にしよう。

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ゾロ目への愛着を哲学する

2022 MAR 7 19:19:58 pm by 東 賢太郎

“それ” がやって来るなと数日前に目星がついた。いよいよ昨日、それは明日のことだろうとおおよその予想が立った。そして昨晩、床に入る前には「早朝に違いない。もう二度とないから記念写真を撮るぞ」と、予想は確信に至っていた。

あと300

夜中にブログを読んでくれるのはほぼ外国の人だけだ。ページビューはそんなにない。あと300あるし大丈夫だと高をくくって寝た。こういうことはよくある。目覚まし時計だけでは危ないので僕は必ず家内に起こしてもらう。そして、昨日はそうしなかったのである。それはちゃんと来た。そして、予想通りに僕は寝過ごしていた。

7,777,777はラッキー7が7つという大魚中の大魚だった。次は7千7百7拾7万7千7百7拾7?うん、あの世でやろう。

ちなみに2022年は「同じ数字が3つある年号」だ。直近は1999、2000年であり1999年以前に生まれて生きてる人は今年が「人生3回目」になる。次は2111年、次の次は2122年になるから今年生まれの赤ちゃんは100才で「3回目」、来年生まれだと199才。3回目はけっこう大変なのだ。

ゾロ目への愛着。無一文のころラスベガスのカジノでスロットにハマったせいもあるが、多分に性格である。わかったことが2つある。ひとつ、ゾロ目嗜好はコレクター性格と同一である(しょうもないものを集める癖)。ふたつ、人間がいかに非合理的にものを決め、後付けで理屈をつけ、自己満足しているかである。

 

シェーンベルク 「月に憑かれたピエロ」

 

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ストラヴィンスキー 「詩篇交響曲」(1930)

2022 MAR 5 22:22:38 pm by 東 賢太郎

いつか天に昇る時、きこえる音はこんなかなと思っている曲がある。「詩篇交響曲」の第3楽章、ハレルヤだ。僕は宗教以前に「星の彼方に父がいる」(第九の歌詞。父か神かは問わない)を科学的に信じる者である。ストラヴィンスキーの信仰、精神世界に心が共振するのはそのためだろう。この曲は彼の作品の内で最も好きなもののひとつであり、ときに自分という存在を他者と相対化して見えにくくなってきた時に何より深い慰撫を与えてくれる大切な宝だ。

ストラヴィンスキーと2番目の妻ヴェラ(1939、パリ)

「詩篇交響曲」(Symphony of Psalmsは1930年にクーセヴィツキーよりボストン響創立50周年記念のため委嘱された合唱つきの交響曲で、彼の新古典主義時代の代表作の一つである(プロコフィエフ4番、ルーセル3番も同時に委嘱された作品だ)。ここで交響曲とは一種の外形的な標題であり、ストラヴィンスキーは「詩篇の歌唱を組み込んだ交響曲ではなく、私が交響化(symphonize)した詩篇の歌唱だ」と語っている。確かにこの曲ほど「歌」が感動をそそる彼の作品はない。ではなぜそう書いたのか?それを探るには、彼が晩年に告白した「信教における精神的危機」に触れねばならないだろう。

ストラヴィンスキーは1882年にサンクトペテルブルク近郊のロモノソフで、高名なバス歌手を父として裕福な家庭に生まれ、敬虔なロシア正教徒として育った。ロシア・バレエ団との三大バレエの成功でパリに移り住むとそこはいわば異教の地ではあったが、写真のような華やかなパリジェンヌやアーティストたち(彼の左がニジンスキー、右二人目がディアギレフ)に囲まれ、花の都で時代の寵児として扱われる煌びやかな日々は、ロシアの田舎から出てきた30才の若者にとって気分の悪いものではなかったろう。

ロシアバレエ団のメンバー、支援者と(1911年)

このころ、彼は夏はウクライナのウスティルーフで家族と過ごし、冬はスイスのクララン、モルジュでという生活を1914年まで送ったが、第一次大戦とロシア革命の勃発で祖国に帰る道を閉ざされる不幸に見舞われる。しかも、頼りのロシア・バレエ団からの著作権報酬もロシア政府がベルン条約を批准しなかったため支払われず、ディアギレフに契約違反だと詰め寄るが無駄だった(それがなくてもこの男は債務の踏み倒しで有名だった)。やむなくスイスの篤志家ウエルナー・ラインハルトの援助を受け危機を切り抜けたが、ロシア・バレエ団との関係は1920年の「プルチネルラ」で終わり、彼はスイスへ帰っている。

スイス(レマン湖畔)のモルジュの家(1915-17,兵士の物語、プルチネルラを作曲)

そんな物質的危機にあって家族を助けてくれたのはラインハルトやココ・シャネルというキリスト教徒だ。米国から手を差し伸べたのはロシア人だがユダヤ教徒であるクーセヴィツキーやストコフスキーだった。母国ではマルクス主義革命を成功させたレーニンがロシア正教会を徹底的に弾圧していた。彼が精神的にロシア正教から離れ “conversion”(改宗)という迷路に迷い込んだのは不思議でないだろう。彼はその頃の心境を最晩年にこう語った。「あの頃、ゴスペルや宗教書を通じて気持ちがキリスト教になびいていた。神学は見事に構成されたものだが、作曲における対位法以上のものではない。信心を売ってしまえば私は生きる理由が見つからなかった」。この精神的危機を救ったのは1924年にニースに移住して出会ったロシア正教の司祭だ。それを機に彼は元の宗教に戻り、1934年にはフランス国籍、後にハリウッドへ移住してアメリカ国籍を取るが、もはや改宗という選択はしなかった。

「詩篇交響曲」が書かれた1930年はロシア正教への信仰、すなわちロシア人としてのアイデンティティを取り戻した後だ。彼によればクーセヴィツキーの委嘱はお決まりの提案で、「管弦楽(合唱なし)のための大衆にわかる(popular)曲を」だったが、自らが何者であるかという根源的な問いへの答えを、ラテン語の詩篇を歌詞として信仰心を吐露するという形で提示するというかねてより温めていたプランを彼は頑として捨てなかった。このことへの理解と共感なくして譜面づらを撫でても同曲の正鵠を得た解釈とは程遠いが、それは敬虔な宗教心(僕個人的には「宇宙の創造主」を信じる確固たる科学精神であるが)を持つことが最大公約数であって、そのためにロシア正教徒である必要はないだろう。ちなみに本稿を構想し始めてから勃発し、期せずしてconcurrentなトピックとなってしまったロシアによるウクライナ侵攻だが、ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチンは無神論を掲げたソ連のKGB職員だったのであり、今ではロシア正教の信仰を受け入れている。その精神の軌跡はストラヴィンスキーと変わらない。彼が「侵略ではない」と主張する根拠の一つに2019年1月にキエフ府主教がモスクワ総主教庁から独立し、イスタンブールの総主教に帰属したことが指摘される。その真偽の解明、およびそれが単なる戦争の口実であったか否かの判断は後世の歴史家に委ねるしかないが、彼が全世界を敵に回して譲らぬほど「ロシア正教の信仰」が東スラブのアイデンティティと確信している可能性はある。仮にそうであるなら彼は無慈悲な暴君ではあっても領土的野心丸出しの帝国主義者ではなく、カネに身も心も売った悪魔でもない。それと戦争という殺人行為の善悪は別であり、その点において彼は西側が懸命にプロパガンダするような狂人ではない可能性はある。このこととストラヴィンスキーの詩篇交響曲の作曲動機を関連付けて論じることを忌み嫌う方も多くおられようが、「宗教とはそういうものだ」とお答えするしかない。芸術がいつもピュアであり、人間の悪の側面である暴力や穢れであるセックスから遠ざけておく存在だという主張は、日本人が子供に見せるべきだと思う絵本で描かれる熊や狼の猛獣がいつも笑顔であるようにあまりに牧歌的な現実回避であり、人間という善でも悪でもある者の精神活動に他ならない芸術の自己否定になり、やがてそれを衰退させるだろう。

そして、そのことについてもうひとつ、我々日本人の理解が及び難い事実を指摘しておくべきだろう。

ディアギレフ(左)とストラヴィンスキー

1920年の「プルチネルラ」で、ディアギレフとの関係も終わった(はずだ)。ロシア貴族の末裔であるこのインプレサリオはヴェニスで糖尿病の併発症で客死し、当地のサン・ミケーレ島にある墓地の “ロシア正教地区” に埋葬された。これが1929年8月19日のことであり、「詩篇交響曲」の作曲は翌1930年であることは重要だ。まず第3楽章がフランスのニース(彼がロシア正教を取り戻した地だ)で書かれ、指揮活動で中断があり、次いで夏に第2、第1楽章が彼の避暑地であったジュネーヴの南にあるタロワールのエシャヴィーヌ村で書かれた。作曲経緯の詳細は不明だが、歌詞は当初スラブ語であり後にラテン語に変えた。以上の事実から、筆者の仮説では、ストラヴィンスキーは第3楽章をディアギレフへのレクイエムとして既に構想していたが、偶然に舞い込んだクーセヴィツキーの委嘱にそれを充当する計画をたてた。米国向けにスラブ語歌詞を断念し、後年に、 その変節を「”popular”とは大衆が分かる音楽でなく、世界に普及していて誰でも理解するラテン語の歌詞であると解釈した」とやや苦しい正当化をロバート・クラフトに対して行っている。初演はボストン響に先立って欧州(ブラッセル)でエルネスト・アンセルメ(ディアギレフゆかりの指揮者)によって行われたこともそう考えれば平仄が合う。委嘱は作曲の単なる外形的な契機だったにすぎず、「詩篇交響曲」は(少なくとも第3楽章は)ロシア正教徒によるディアギレフへのレクイエムであり、クーセヴィツキーもそれに敬意を払ったというのが真相ではないだろうか。

このことを念頭に置けば、1971年にストラヴィンスキーが遺言を残し、ニューヨークの5番街920番地のアパートで亡くなったにもかかわらず、ヴェニスのディアギレフの墓の隣りに埋葬された意味が理解できるのである。父祖の地である祖国でなく、作曲家として大出世したフランスでも家族と日々を過ごしたスイスでもなく、大家として迎え入れてくれたアメリカ合衆国でもなく。シューベルトも遺志でベートーベンの隣りに永眠しているが、それは教科書が教えるように作曲家が同業の先達への、いわば職人としてのピュアな敬意からそうなったと理解して良いだろう。しかしディアギレフとストラヴィンスキーは同業者ではなく、発注者と職人、ビジネスマンとクリエーターという現世的でリアリスティックな関係である。それでいながらという事実の背面にはもっと直截的で複雑なものがあったと理解するしかない。クラフトとのTVインタビューでストラヴィンスキーは、

初めて会ったディアギレフはオスカー・ワイルド(注1)みたいな男で、とても優雅でシックで敷居がお高く、微笑みながらやさしく肩を叩いてキミの庇護者だよとにおわせるスタイルの人だった(注2)(参照:http://我が流儀の源はストラヴィンスキー

と皮肉とも嫌悪ともつかない笑みを浮かべながら述懐している。筆者は以下の注解を付した。

(注1)アイルランド出身の作家。ここでは「ホモの性癖が過ぎて投獄され梅毒で死んだあいつ」という意味で引用されていると思われる。ディアギレフもその道で著名(それを公言してはばからなかったことでも著名)。

(注2)ディアギレフとの縁で功成り名を遂げたものの、彼のニヤリとした表情には「あの食わせ者にはやられたよ」感が満載で、それ以上の関係を感じないでもない。ディアギレフは貴族で海千山千の起業家だ、10才下の若造をおだてて手玉に取るのはわけなかっただろう。

クラフトの語るストラヴィンスキーの埋葬(youtubeにある)は、4月の小雨まじりの曇天の日だった。サン・ミケーレ島に150のゴンドラが停泊し、参列者は半マイルも歩いてロシア正教地区の墓にたどり着いた。いよいよ納棺して遺族たちが花を投げ込んだそのときだった、墓石のIGOR STRAVINSKYの文字が目に入り、そこにさっと陽光がさしこんだそうだ。クラフトはキリスト教徒だが、その描写が宗教的であることが、仏教徒である僕にとっても非常に印象的である。1971年のソ連にロシア正教徒の安住の地はなく、その事情はディアギレフの亡くなった1929年も同じだ。そこに並んで、ストラヴィンスキーは神の祝福を受け永遠の安息を得た。彼にとって、三大バレエを作曲できたことも、それで世に出たことも、その後の人生のすべての起点はディアギレフとの出会いにあった。その終焉の地がイタリア国のヴェニスであったことは、この作曲家にとって自分のパスポートが何色かほど意味のないことだったろう。能力を引き出して最高の人生を恵んでくれた恩人を、彼は一面冷めた目でプラグマティックに見てはいたが、親でもできなかった「自分の才能を見抜いた」という “偉業” を成し遂げたその男の才能にこそ深い敬意を懐き、その運命の出会いと究極のアイデンティティを与えてくれた神に感謝する。そして、サン・ミケーレ島には祖国にはない “ロシア正教地区” があった。想像にはなるが、選択の理由はそれであったに違いないと僕は考えている。

松平頼暁は著書『現代音楽のパサージュ』の中で「20世紀音楽のほとんどのイディオムはすべてストラヴィンスキーの発案」と述べている(wikipedia)。ロバート・クラフトとの75才でのインタビュー(youtube)でも「自分は常に聴衆の先を行く意識を持った」と作曲姿勢を述懐しており、その鉄の意志を神が祝福した結果そうなったということだろう。ストラヴィンスキーが「詩篇交響曲」の各楽章で使用したイディオムは模倣されている。第1楽章はカール・オルフがカルミナ・ブラーナ(1936)で、第2楽章はオリビエ・メシアンがトゥーランガリラ交響曲(1949)で、第3楽章はレナード・バーンスタインがウエストサイド物語(1957)のクロージング・シーンで使用しているのはどなたの耳にもaudibleと思う。彼の「先を行く」姿勢が「カメレオン」と揶揄もされるが、「真似るのではなく “盗む” 」と言い切った考え方こそが際立った彼の個性であり、他の誰もそこまではできなかったから誰も「春の祭典」は書けなかったのである。

1910年のドビッシーの部屋(右がストラヴィンスキー)

彼の作品で「詩篇交響曲」ほど「歌」で出来たものはない。歌を人間の声に委ね、オーケストラからヴァイオリン、ヴィオラ、クラリネットという歌う楽器は省かれている。ピッコロ、フルート、オーボエは終楽章で天上界に差し込む光のような、雅楽の笙(しょう)、篳篥(ひちりき)、龍笛の如き効果を醸し出し、ティンパニは釣太鼓を思わせる。ストラヴィンスキーが雅楽を聴いたかどうかは定かでないが、1878年のパリ万博や1884年のロンドン衛生万博に雅楽の楽器や楽譜が出品され、フランスで誕生したジャポニスムの影響がクロード・ドビッシーの美術品収集に現れていることを考えると知った可能性はあるだろう(写真の後ろの壁に葛飾北斎の浮世絵『富嶽三十六景 神奈川沖浪裏』。ストラヴィンスキーはこの2年後に「日本の3つの抒情詩」を書いている)。「ドビッシーはパリ万博で五線譜に記された雅楽の笙(しょう)の和音を見て衝撃を受け、自身の作品に取り入れたと言われている」と mie238f さんのブログにある。採譜するとこうなるようだ(根音がメロディー)。

 

春の祭典第1部の「誘拐」「敵の部族の遊戯」のホルンのブロックコードの連続による旋律の進行はこれを思わせ、詩篇の第3楽章の速い部分(「春の祭典」的だ)につながる。また、詩篇の合唱パートには彼が高く評価した、16世紀に無調音楽を書いた作曲家カルロ・ジェズアルドの影響がある。

以下、楽章ごとに音楽を追ってみよう。

第1楽章

ホ短調の一撃で開始し、オーボエ、ファゴットが変ロ長調のアルペジオ風の旋律で応じる。ホルンがシ-ラ-ソ-ファ#の狭い音域の旋律を歌いピアノが打楽器的に伴奏するが、ホルンに独奏チェロをユニゾンで重ねる効果はめざましく、ドビッシーの発明である「海」第1楽章コーダ直前のイングリッシュ・ホルンと独奏チェロのユニゾンがモデルだろう。

そこに初めて声(アルト)が登場し、ミ、ファの短2度の2音だけから成る旋律(ホルンから派生)を歌い、やがて4声となるが、未だレ-ファの短3度の狭い音域の呪文のような歌であり、ホ短調の一撃で何度も中断しつつも伴奏に厚みが増していく(最高音域のオーボエが重なるのも耳をとらえる)。合唱は音域が広がり、金管が加わって転調し、音圧は最高潮となって輝かしいト長調で終わる。一貫してカルミナ・ブラーナ風でありここから着想された可能性は大だろう。

第2楽章

ド-ミ♭-シ-レの長七度上昇を含みド-レ♭、シ♭-シ♮と長七度の下降が2回あるオーボエの主題で開始する。これは八音音階(octatonic scale)で、オリヴィエ・メシアンの『わが音楽語法』(1944年)にいう「移調の限られた旋法」第2番にあたる。その完全5度上で第1フルート、第2フルートが原調、第2オーボエが5度上で同主題を重ね、バッハ風のフガートとなる。

主題の音列ド-ミ♭-シ-レは楽章を通して通奏低音のように現れ、第3楽章のハレルヤ主題(ド-レ-ミ♭)の萌芽となる。主題は低弦に移り(短3度上)、合唱が登場する。前楽章がアルカイックで呪術的ならこちらは痛切な悲歌だ。モーツァルトのレクイエムと言っていい。徐々に高潮し、主題が弔いのトロンボーンに出ると金管が加わり、高弦を欠く分はチェロがハイポジションで緊張感を与えつつ全楽器の素晴らしい対位法となる。やがて合唱だけが残って鎮まるが、突如ティンパニの強打で怒りの表情となりチューバが主題を轟かせる。やがて音楽は和声的となり、フルート、オーボエが高域で天使の響きを聴かせると怒りの潮は引いて静かに変ホ長調(E♭9)の清澄な和声で終わる。

第3楽章

信じ難いほど清冽で、心を絞めつけるようなAllelujaの祈りで幕を開ける。

男声のLau_da_teが厳かな読経のように低くゆったりと響き、女声が入ったそのとき、ティンパニが4拍目に「ミ♮」をたたく!この衝撃たるや言葉にならない。それに導かれて変ホ長調がDO_MI_NUMのハ長調に変位し、さんさんと陽光が降り注ぐ。ハイドン「天地創造」の末裔の音楽である。ハ長調、ハ短調が交叉してLau_da_teの読経がゆっくりと続き、再度DO_MI_NUMに落ち着く(和音C7)。

ファゴットとホルンの信号音から曲想が変わる。

トランペットに現れる g-b♭-a♭-c の音列は「春の祭典」の練習番号31から第3オーボエが吹くこれを想起させる(第3音が半音低い)。

ここからスコアは俄然「春の祭典」の様相を呈し、ソプラノとアルトが f でLau_da_teを歌う。次いでアルトとテノールが声をひそめて Laudate DOMINUM と歌う所からピアノ、ハープが低音の e-g の悪辣な短3度を響かせる。ティンパニを重ねず「祭典」との重複を巧妙に避けている印象がある。やがて音楽は静まり、残ったファゴットとコントラファゴットの変ロ音にフルートとオーボエのヘ長調が乗る所は「ウエストサイド物語」(Somewhereの死の暗示)を想起。そして二度目の Alleluja がやってくる。再びリズミックなセクションとなるが、ここのオーケストレーションも春の祭典➡ウエストサイドのブリッジとなっている。ヘ長調と嬰へ長調の複調で静まると、ソプラノに抒情的な歌が現れる。

4声の対位法で転調を重ねながら神秘的な和声の展開を遂げて最高潮に達すると、Molt meno mossoとなり変ホ長調の感動的な祈りの歌が静かに鳴り響く。

ここから終結の Laudate DOMINUMまで、ティンパニが弔いを厳かに告げ、オーボエ族5本、トランペット族5本、3分割したチェロのハイポジションが弱音で伴奏し天国の色彩を作り出す。そして灰色に沈みこんだ Lau_da_te を4度くり返し、バスの「ミ♮」が再び神のハ長調を導いて永遠の安息を求め虚空に消える。

人間が作った最も神の領域に近い音楽と思う。ストラヴィンスキー万歳。

 

レナード・バーンスタイン / ロンドン交響楽団、英国バッハ祝祭合唱団

バーンスタインが詩篇交響曲から得たインスピレーションをウエストサイド物語に注ぎ込んだことは間違いないと僕は信じている。せっかく彼とロンドンで話をしたのにそのことを尋ねなかったのは何という痛恨だろう。この演奏の録音は1972年。バーンスタインが同ミュージカルを書いてから15年たっているが、もう完全なクラシックになってしまった両作品がまだ近い距離にあったと感じる。それほど彼は熱い心で振っている。第3楽章は入魂で、祈りの歌がこんな感動をもって歌われた例はない。

このビデオは知らなかったが、ストラヴィンスキーの葬儀のビデオにバーンスタインが解説している。この後にコンサートがあったようでプログラムは春の祭典、カプリチオ、そして最後が詩篇交響曲であった。

ここでも詩篇を振っている(ワシントン・ナショナル交響楽団、1982年)。暗譜で指揮しておりこれを記憶していたこともわかる。バーンスタインにとって特別な作品だったようだ(1:03:4)

 

ピエール・ブーレーズ / ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、ベルリン放送合唱団

これを挙げたのは音程が良いからだ。何物も彼が振ると整理されてこうなるという見本のようなものだが、音を正確に聴きとらないとこの曲の真価はわからないだろう。ただし、エモーションの深さにおいてバーンスタインより落ちる。

 

シドニー大学音楽学部管弦楽団

指揮は先生だろうか、とても素晴らしい。

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