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目下の日本は非常に危機的

2023 NOV 10 18:18:11 pm by 東 賢太郎

1980年代、米国は経済覇権を脅かした日本企業の底力に本気で焦った。といっても30代以下の人には信じられないだろうが僕は1982~84年にウォートンスクールにいて教室でそれを体感している。大谷翔平の二刀流は野球の神様ベーブ・ルースを凌駕してしまったが米国人が怒った話はあまり聞かない。しかし、国ごと抜かれそうな勢いとなると笑顔で済ませられる話ではないのであって、その後、米国は円ドルレート切り上げ(1985年、プラザ合意)で対日貿易赤字解消への強烈な反撃を仕掛け、円は対ドルで約6割も高くなってしまった。輸出は大打撃を被ったが、それは逆に日本企業の土地担保借入によるドル建て購買力を6割増幅したということでもあり、米国の象徴であったコロンビア・ピクチャーズ、ロックフェラーセンタービル(左)等を買収するに至り、ついに、1989年に、国家経済力の象徴である株式時価総額で日本国が米国を上回った時、ウォールストリートでは真珠湾に喩える怒りの声さえあった。冗談じゃない、こっちは実力勝負で勝っただけだ。人為的な為替操作の方がよほど汚い、そのしっぺ返しじゃないか、三菱地所、ソニー、よくやったという快哉を叫ぶ気分は尖兵の我々にはあった。しかし、もしも他国が札びらで富士山を買ったらどうか、やり過ぎではないかという一抹の不安もよぎったことはよく覚えている。

米国は本気で焦り、そして怒った。そこで貿易摩擦訴訟に加えてBIS規制による日本の会計の弱点を突いた金融機能締め上げという手が打たれ(父ブッシュ政権)、1997年にサッチャー革命を模した金融ビッグバンなる号砲のもと金融システム改革法制定が強行された。これはFree、Fair、Globalの改革3原則が掲げられたことからも根底から異質だった日本市場を腕づくでこじ開け、米国ルールに従わせ、日系証券(つまり野村)をスキャンダルで崩壊させて米系証券を民営化に関与させる目論見の米国民主党クリントン政権の主導だったことは明らかである。世界最強の野村證券の最前線の指令官のひとりであった僕は当時香港の社長であり、人生で日系他証券を敵と思ったことなど一度もないが、まして米系ゴールドマン、メリル、モルスタなぞ来るなら来い、なんぼのもんだねと歯牙にもかけてなかった。

1990年代の国内は資産バブルがはじけ、野放図な担保金融が逆スパイラルとなって信用破綻連鎖となり上場企業が軒並み倒産しかねないという未曽有の事態だった。長銀、山一が破綻し、橋本内閣は膨大な不良債権処理で実質債務超過の銀行を統合すべく独禁法改正で戦前の純粋持株会社(ホールディングカンパニー)を復活させ、グラス・スティーガル法に基づく銀行・証券の垣根は事実上消えた。この大蔵省(当時)の動きを僕はドイツ、スイス時代に3度来欧された田淵義久前社長から直に聞いて知っていた。1992~2000年という業界受難の時期に海外にいなければ事態の巨視的な視点もなく、7年後に銀行側に移る決断をすることはなかったかもしれないと複雑な気分でもある。野村を裏切る気はなかったが必要とされておらず、必要としてくれたところに行っただけだが。

独禁法改正は金融界のみならず経済界全般に大きな影響をもたらすことになる。ホールディングカンパニーという新たな上位レイヤーにより不良債権処理はもちろん異業種のグループ化、経営責任や信用リスクの分離、財務・人事の分離、M&Aによる合従連衡、営業譲渡、ノンコア切り出し(カーブアウト)など特定部門の利害にとらわれない戦略的決定ができるメリットがあった。ただ、その米国流の制度は資本と経営の分離を組織化したメリットと引き換えに、現場と経営が近い日本的経営の強みを削ぐデメリットもあったことは指摘されるべきだ。ここで日本に仕込まれたのが「株主資本主義」だ。投資家は資本効率を求め、毎期の配当を求める。企業は長期に育てた戦略子会社であれ、目先が不採算であればホールディングカンパニーにより切り捨てられ、口をあけて待っている米系に飲み込まれる素地ができてしまった。

さらに、資本家ではないのだから支配者ではないホールディングカンパニーが、日本的人事風土の中に置かれることにより、配属される役職員の上下関係の色に容易に染まってしまった。現場と離れてニュートラルな判断を可能にする本来のメリットが、現場を知らない者が全社的経営判断を司る場という神棚に祭り上がり、そこのトップが全グループのCEOで、そこへの配属される者がエリートと見做され、必然的に人事・社内政治の達人と学校秀才の巣窟となって現場とは完全に乖離してしまう。これは明治憲法下で陸海軍の最高統帥機関となったあの「大本営」とそっくりで、統帥権のある天皇を資本家(株主総会)に置きかえたに等しい。

このホールディングカンパニーに米国ネオコンが資本を入れ、あるいは経営コンサルをし、それを通して指示、ルールに従わせるためのstrong manとして機能させた。そうすれば日本を代表する大企業グループを簡単に買収したり、民営化させたり、内部からコントロールすることが可能になる。strong manは英国の植民地支配の図式における現地の統治を委ねる現地人の怪力男の意味で、終戦後のCIAによる岸信介(自民党)、正力松太郎(読売新聞)がそれ。ゼレンスキー(ウクライナ)、ネタニエフ(イスラエル)もそれだ。strongの形容は稚拙に見えるが米国とディールして貢献するとThank you for strong support ! なんてくる。お前は俺の怪力男だ、頼むぜと誉めており、評価してカネもくれる。標的の大企業グループにそれを配し、宿主の脳を操る寄生生物のようにコントロールするわけである。構造改革でホールディングカンパニーを「脳」に仕立てれば一ヶ所に寄生すればいいから支配ツールとして最適だった。

かくして、支配される側から見れば、ホールディングカンパニーという箱は仕事は全くできないが社内政治だけうまい人事屋にとって米国ルール(株主資本主義など)を振りかざせば時流に合ったもっともらしい支配権と権威を得られる格好の装置となる。仕事の業績、人望、リーダーシップなど微塵もなく、バブル処理の空気に乗って過去を否定する者、つまり旧来基準における仕事のできない者がわざわざ選ばれるのは、元々出世しそうもない奴の方がコントロールが容易だからだ。人事権を振り回すだけがそういう悲しい者の唯一の権力のよりどころだから、今度はそれに取り入る特技のあるヨイショ野郎が大量にはびこるようになる。寄生虫の寄生虫みたいなものだ。そいつもまた悲しいほど無能なのだが次期社長になって同じことが連綿と続く。現場のまともで仕事ができる者たちはあほらしくてやる気が失せ、リーダーも士気を失って排除され、日本企業を確実に内側から弱体化する巧妙な時限装置がそうして仕掛けられ、作動を始めたのである。各社に激増したそういう無能な社長がどれだけ平成時代の大企業を没落させて米国資本の餌食になってきたか、サラリーマンだった方はお心当たりがあるのではないだろうか。

政治はどうか。経済だけは一流であった日本はバブルの後始末で無為の10年を浪費したとはいえ企業の底力が衰えたわけではなく、政治次第で復活の余地はまだ十分あった。ところが、もとより三流で社会党連立政権まで出現させた政治は頼りになるどころか経済にも増してダッチロールの末に米国の支配下に入り、政治家でないから想像にはなるが、首相官邸がまさしく企業におけるホールディングカンパニーと化したと仮定すると説明力のある展開を見せた。米国が都合の良い総理をコントロールして支配する策略がほぼ定着した、つまり、現在もまったくその延長線上である “ジャパン・ハンドリング” の原型は平成の初頭から橋本政権あたりにかけて、恐らく民主党のクリントン政権(1993~2001年)時代に成立したと思われる。日本国は頭のてっぺんからヨイショ野郎の巣窟と化してめめしく弱っちくなり、じっくり30年かけて茹でガエルにされることで普通の国になり下がったのである。これが政財界を蝕んだ「失われた30年」の正体だ。

9月2日の稿に、こう書いた。

(バイデン政権の支持がバックボーンである)岸田総理は米国のためにいい仕事をすればするほど日本国民のためにはならず、したがって、事の必然として政権支持率が下がる(注・時間と共に、予定調和的に、そうなっていることにどなたもお気づきだろう)。(中略)国民に何を言われようとバイデンからの評価は上がるのだから岸田政権は安泰だ。極論すれば支持率0%になっても選挙まではもつから、総理が再選を諦めれば怖いものはない。あと1年であらん限りの利権を固めれば人生の帳尻は十分すぎるほど合うだろう。

この稿は想像で書いたが、ほぼ事実であるように思える。なぜなら、その後2か月間に反証が何一つ出てこないからだ。

さらに想像をたくましくしよう。こんなものかもしれない。

世界の覇権国アメリカを維持するコストは膨大だ。「温暖化、SDGs? おい、お前馬鹿か?そんなもんじゃ目先のキャッシュ回らねえぞ。いくら赤字だと思ってんだボケ。もっと劇薬打てよ」。「了解しました。しょうがねえな、また戦争やれや。犬猿の仲の国や革命軍そそのかして仕掛けさせろ、そいつらにカネ貸して恩きせて武器を売れ、薬もワクチンもだ」。

まあこんなもんだろう。

予算上限にきてる米国はもう金は出ない。ウクライナもイスラエルも座礁し、ネオコンの覇権保持がかかる大統領選挙まであと1年。なりふり構わず不正選挙でも何でもやるっきゃない。日本には国民感情などお構いなしでLGBT法案みたいな噴飯物を押しつけてくる。「ちょっと待て、こんなの強引に国会通したら支持率暴落だぞ、へたしたら保守新党ができて自民は左翼扱いされちまうぞ」。「総理、お忘れですか、大丈夫なんです、ほら、伝家の宝刀を通したじゃないですか、ワタシの力で。LGBTの “T” ですよ!「ワタシ女性よ」でおっさんが女風呂オッケーなんです。世の中は言ったもん勝ちになったんです。だから『ワタシこそ保守よ』っていいまくります!」。

「おお、そうか、素晴らしく高度な理論だ!さすが弁護士の稲田くんだな、バイデンさんのお手伝いをすることが我が政権の生命維持装置だからな、もちろん君は将来の総理候補だって言っとくよ」。やれやれ、たまんないよ、長くやりたいんだけどね、長引けば長引くほど支持率ばんばん下がるだけじゃないか。木原くんの秘策で減税やってやるのに「減税クソメガネ」になってるじゃないか。いったいどうなってんだこの国は。

総裁選は来年9月だ、このまんま座して死を待つのも阿保らしい、自爆覚悟で解散するか。でも、どっちであれ、来年9月までに俺の政権が終わると劣勢のバイデンはまずいよな、次の総理が増税もウクライナ支援もいたしません!なんて言ったら絶対怒るよな。みんな40議席も減る選挙なんてまっぴらだ。俺の再選を握ってくれたら増税メガネはひきうけるぞ。こっちも続投でバイデンも勝って長期政権は確定だ、俺の十八番の人事戦略をくり出せば支持率なんかまた上がるよ。

その人事戦略で任命したんだろあいつ、名前も忘れたよ、税金滞納して4回も差し押さえ食ってるあれ、よりによって財務副大臣?こいつが俺から税金取ってるわけ?税金でメシ食ってんだろ、こいつ?なんか泥棒に追い銭してる気分になってくるわな、俺がいくら払ってると思ってんだよ、ふざけんな。こんなの任命しちゃう総理もね、もうちょっと頭のいい人にしてくんないかね。世界最強だった日本企業をぼろぼろにしたホールディングカンパニーとおんなじじゃないかこの政権は。

ここまで政治家が腐ると、国会という場は、「やってます」の迫真の演技が売りの役者衆による歌舞伎座みたいなものになる。「実は前からそうだったのがバレましたね、まあ我が国はずっと米国の準州みたいなもんだったんですが、このたびは改めてそれを自認したまでなんです」。「閣僚が賃上げ分を自主返納って、どうせ口だけだろ?」「口だけも何も台本ですからね、読んでるだけだろってご批判されましてもですね」「買春やるわ、収賄やるわ、秘書殴るわ、税金払わんわ」「ええ、たしかに、おっしゃるとおりでございます。ただ、かたき役って申しましてね、悪人が登場しないと舞台が盛りあがりませんもんでね、えっ、世襲議員はいかん?いやいや世襲は当然でございましょう、歌舞伎なんですから」。

 

ものすごく強かった阪神タイガース

2023 NOV 7 18:18:56 pm by 東 賢太郎

今年はディナー等であまり日本シリーズを見られず、見た日も疲れて半分居眠りであんまり記憶なし。仕事がいかに忙しかったか、きっと何年かしてそういう風に思い出すんだろうが、いい試合ばかりでもったいなかった。

どっちのファンでもないが、カープはこんな強い阪神とCSであそこまでよく競ったと思う。オリックスは個人的に世話になってるし中島監督のファンでもあるので勝って欲しかった。第6戦、これが見納めの山本由伸は目を皿にして見た。14奪三振。特にうるさい近本、中野、森下、大山の1~4番から7三振はモノが違うからきっとメジャーでも大成してくれるだろう。第7戦はもちろんしっかり見た。見るというのは僕は習性からピッチャー目線なんで配球とバッターの反応を無意識に見ているように思う。

宮城と青柳。まず青柳はサイドで球威満点だが荒れ球でパリーグにいない。最後にとっておいたことになるが目先を狂わせて3、4回ぐらいで伊藤将、これは素人でも分かった。岡田監督は青柳にこの球場でお前で今年が始まった、だから締めはお前だと伝えたらしいがうまいこと言う。そりゃやる気になる(第7戦はなかったかもしれないんだけどね、いい経営者だ)。で、彼が投げてるうちにノイジーの一発で3点入った。もうこれで安定した伊藤将で思うつぼ。オリックスは焦ったろう。宮城は次の回ゲッツーで終えたかと思ったがリクエストでセーフにひっくり返って森下。前打席で打たれており、一度ほっとしてるので危ないと見たか中島監督はそこで比嘉に替えた。これが森下、大山、ノイジーに打たれて珍しい作戦失敗で万事休す。結果は想定外のワンサイドで7-1だった。

阪神は強かった。去年岡田監督就任のニュースをきいたとき、オリ監督時代のイメージがあってなんとなく愚将っぽく、ああこりゃだめだまた昭和の野球に戻って阪神もアウトだなと舐めていた。

蓋を開けると彼はしたたかな知将だった。ああいうタイプの人は東京人にはそう見えないんだが、いやいやあれが大阪の怖さなんだ。

宮城は予想通り危なげなく立ち上がったが4回、打順二回り目にちょっとした場面があった。3番森下が宮城の絶対の決め球、右打者のインローのクロスファイヤを完璧なミートで三遊間突破。ヤマ張られた感があった。それでだろうか審判がやや広めだったせいか、4番大山は厳しめにいってぶつけてしまう。宮城にあるまじきミスで動揺を感じた。そこで5番ノイジ―。きのう山本の外角高め速球を流してホームラン。あそこは危ない。それを読んで決め球クロスファイヤに張ってるかもしれん。だからそこからスライダーを落とせばボテボテか三振と思った。森捕手がそう読んだかどうか、それが来た。失投でないとても低い球をノイジーはタイミングばっちりでレフトスタンドに。僕には「いらっしゃい」に見えた。事実上これで勝負あった。蟻の一穴は森下の痛烈な三遊間が宮城に与えたショックだったと僕は思う。第2戦でやられていたあの球を狙った阪神の勝ちだ。

このシリーズの岡田采配は森下あってのものだ。この男と最終戦に抜擢した青柳をノセたのが、もし岡田マジックがあるとすればそれだ。彼は言葉を選んでる。凄く重いだろう。データを見ると、森下は公式戦はプロの壁にあたってOPS.691だがシリーズのイメージは0.9ぐらいの感じだった。これとシーズン.859の大山が並ぶ3,4番は、両方1.0代だった3連覇中のカープの丸・鈴木誠也ぐらいの圧が相手投手にかかるだろうと思う。ところが5番ノイジーは.623だからプレッシャーが切れちまう。.837のサトテル5番でいいようなものだしそうした試合もあるし、何より第2戦の宮城にはサトテル5番(1安打)、6番ノイジー(無安打)で正解だった。なんで第7戦はノイジーだったんだろう。何かあったんだろう。そいつが打っちまうんだから岡田マジックだ。

森下というとたしか2020年だったか、こいつ凄いかもと思う事件があった。練習試合で中央大学が巨人の二軍に20-7で爆勝ちして、たまにアマが勝つぐらいはあるがこの点差は目を疑った。打線が半端ないということだ。そのスタメンの4番がDeNAの牧、2番が日ハムの五十幡だったのだが、3番が森下だったのである。その時ボコボコにされた二軍監督は阿部で、彼も中大だ。去年のドラフトは森下とりたかったんじゃないか。

そう、その去年のドラフト。ご記憶にある方も多いと思うが、一番人気は高校生の浅野翔吾(高松商)だった。1位指名は巨人・阪神が激突して原と岡田が壇上にあがって全国的に盛り上がり、原が派手なガッツポーズで雄叫びをあげたのである。そこでやむなく阪神が外れ1位で取ったのが森下だ。その男が日本シリーズで打ちまくって新人最多打点記録でその原辰徳をぬくというおまけ付きだ。大阪の皆さん、災い転じて福となした1年がかりの大逆転劇は痛快だっただろう。世の中こんなもんであり、ちょっと勝ちゃあいいってもんじゃない。若い皆さん、最後に笑った者が勝ちだよ、人生1度や2度負けたり失敗したぐらいでがっくりしちゃあいけないよ。

あの近本だってそうなんだ。根尾、藤原、小園で甲子園が湧いたあの年のドラフト。阪神は1位指名で藤原、次いで辰巳をはずしてがっくり、破れかぶれ感満載ではずれはずれの近本(大阪ガス)を取ったように見えた。TVで見ていた僕もそんな優れた選手と思わなかったし、なにせ会場の球団幹部は明らかに熱量が落ちていて、それをよそに近本が地元で胴上げされてたのが気の毒に見えてしまった。辰巳は楽天に決まったが社高校の2年後輩だ。近本が燃えたことは想像に難くない。あっぱれだ。

まだある。大山もそうだ。2016年は好投手が目白押し。田中正義が1位で5球団、さらには佐々木千隼がはずれ1位の5球団競合と異例の事態になったが、ふたを開けてみるとその2人が同年ドラフトの2大期待ハズレであり、かたや、阪神が金本の英断で1位指名したのは大山(白鷗大)だった。ところが足りてなかったピッチャーを当然指名すると思いこんでいた会場の阪神ファンから失望の声が響き渡った。悔しかった大山は今年リーグ優勝で涙した。

阪神が強かったのは投手陣といわれるが、現役ドラフトで儲けものの大竹が12勝もしたなんてフロックもある。決定的な作戦成功は後ろを固める近本がセンターで、ショートだった中野をセカンドに回し、ショートに木浪を固定して当たったことだと僕は思っている。この鉄壁のセンターライン・トライアングルはカープ3連覇時代のタナキクマルに近づきつつある。ただ要になる捕手が弱い。カープはOPS.893で恐怖の8番打者曾澤がいた。阪神は1年秋から履正社の正捕手だった坂本誠志郎がまだOPS.543で二軍並だが、化けると連覇の可能性が出てくる。

誰も触れないが、讃えたいのは最終回、岡田監督が功労賞の花道を用意して2死から登場させたクローザーの岩崎、ではない。その初球ストレートを狙いすまして、僕が見た右打者のホームランとして最上位かもしれない凄まじい音とミサイルみたいな弾道の一発を左翼5階席に突き刺したオリックスの4番、頓宮選手である。素晴らしい。これぞ男だ。いいものを2023年プロ野球の最後の最後に見せてくれてありがとう!

岡田監督、お見事でございます。訥々とした優勝監督インタビュー、良かったね。感動しました。「いやオリックスは強かったですよ」、この言葉、僕には腹にずっしりと重たく響いた。そして思った。これを岸田総理が言ったらどうだろう? 0.1秒後には吹かなくても飛んで虚空に消えてただろう。

 

後妻業-悪女の業をミステリーの系譜で辿る

2023 NOV 5 13:13:32 pm by 東 賢太郎

社会に出てすぐ営業にぶちこまれ、世の中、こんな連中が蠢いてこんなことをやってるのかと目から鱗の毎日を過ごした。1979年の大阪だ。社会勉強なんて甘ちょろい言葉は犬の餌にもならない。今ならどこの会社に就職しようとあんなことで何カ月も過ごさせてもらうなんてあり得ないし、研修にしたって強烈すぎる凄まじい体験を大企業の名刺を持って味わわせてくれるなんて想像を絶することに違いない。それでも一時はくじけて辞表を書こうと思ったのだから偉そうなことはいえないし、後に考えれば適当にごまかして営業向いてませんでも全然よかったのだが、そこまで真剣勝負でやって勝ち抜こうと考えていたことは馬鹿かもしれないが財産にはなった。

株を売るのだからカネのにおいのする所を探し出してこっちが近寄らないといけない。「社長の名刺を毎日百枚集めろ」がどう見てもできそうもないミッションである。上司は電話訪問しろと言ったが、まだるっこしいので飛び込み専門にした。達成さえすれば方法は問わないでしょとは言わなかったが、僕は大学受験をくぐりぬけるのにそのテーゼが骨の髄まで沁みこんでいて自信の持てない方法でやってできませんでしたという愚は犯したくなかった。会ってしまえば相手の身なりも顔も見える。何かはしゃべるし反応もわかる。そうやって毎日百人以上の見知らぬ大阪の人に名刺を渡して、あっという間に世間というものを覚えた。一見まともだが一皮むくと危なそうな輩もいたし、真正面から悪そうな連中もうようよいた。そんな人種に電話でアポが入るはずない。幸い、糞まじめな人間よりそういう方が面白いという風に生まれついていて、ぜんぜんどうということもなかった。

大阪の人は東京がきらいだが、全員が一様にそうかというとちがう。何かで連帯が必要になると「そやから東京もんはあかんで」と大阪側に心をとどめおくことを最低条件として、各々のレベルにおいて、東京がきらいなのだ。だから「あんたおもろいやっちゃ、東京もんやけど」でいい。そこが根っからの商人の街の良さであり、いくら頑張ってもそれ以上は行かないが商売はできる。何がおもろいか、その感性はわかるようでいまだによくはわからない。こっちがおもろいと思うと相手も思うようで、商売というフィールドでそういう人は得てして金を動かせることが多かった。こっちも動かせる。そうしてビジネスになる輪ができた気がする。金持ちと知り合うのが大事なのではない、あくまでこっちが動かせることが必須なのはお互い商人だから当然だ。

若かったから気晴らしにいろんな場所に出入りした。新地で飲む金なんかなく、せいぜいミナミか近場の十三とかの場末のホルモン屋や安い飲み屋だ。新宿のゴールデン街に増してディープで、兄ちゃん遊んでってやなんてのは儲かってまっかにほど近い軽いご挨拶である。看板にはBarなんて書いてるが女の子というか当時はおばちゃんだが、猫かぶってるアブなさ満載である。ヤバい所だなと思ったがそういうのの免疫は中学である程度の素地ができていたからよかった。我が中学は区立で入試もなく、地元のワルやらいろんなのがいた。ある日、鉄仮面みたいな国語教師が授業でいきなり黒板にでかでかと馬酔木と書いて、なんと読むか?とクラスで一番読めなさそうなSをあてた。はたきの柄みたいな棒でひっぱたく名物教師だからシーンとなったら「アシビです」とそいつが平然と読んで鉄仮面が動揺。「おお、S、お前どうしたんだ」と驚くと「ウチの隣のパブの名前です」で大爆笑だ。そういう話で盛り上がったりしておもろかった。

悪い女は嫌いじゃない。岩下志麻の極道の妻シリーズは愛好したし、松本清張の悪女物もドラマで全部見ている。「黒革の手帳」は1億8千万円を横領した銀行OLが銀座のおおママにのし上がる話だが米倉涼子の当たり役だ。黒い手帳にある「架空預金者名簿」で美容外科クリニック院長や予備校経営者の手練れの成り金を恐喝して銀座一のクラブ『ロダン』を買収する計画を練るが、逆にロダンの株主で政財界のフィクサーである大物総会屋に騙され、手下のヤクザに追われて逃げる。一丁前のM&Aだ。頭が切れて度胸も押し出しもあり思いっきりワルの女、そんなタマは現実にいそうもないが、米倉はいてもいいかな位にはよく演じている。彼女は「けものみち」、「わるいやつら」、「熱い空気」、「強き蟻」でもいい味を出してるが、男を手玉に取ってころがす女は並の極道より迫真性があるのは何故だろう。

悪女もいろいろだが後妻業は札付きのワルだ。黒川博行の「後妻業」は数々ドラマ化されている。資産家の老人を次々とたぶらかして結婚し、遺産をせしめる女の話だがこっちは社会にいくらもいるだろうというリアリティがある。現実に、男性4人に青酸化合物を飲ませ3人を殺害したとして死刑が確定した女もいるが、後妻業だったかどうかはともかく、55も年下の女を入籍した紀州のドンファンさんもいたから実需もあるというのがミソなのである。愛情は装っただけも犯罪さえなければ後妻業だけで有罪という法律はない。そんなのがあったら後妻の結婚は怖くてできなくなってしまう。いくら爺さんでも好きでない女性と結婚はしない。だからそこに明らかな詐欺がない限り、殺人の物証がなければバリバリの後妻業女でヤクザのヒモがいようがヤク漬けであろうが何でもないのが法の穴というか難しい所だ。単にひっかった方がスケベの馬鹿でしたねで終わりである。逆に富と権力ある女性を狙う逆玉ホストがこれからは流行る世かもしれない。

清張にも後妻業ものがある。「疑惑」だ。鬼塚球磨子という女が年上の酒造会社社長をたぶらかして結婚し、夫に多額の保険をかけて車ごと海に沈め、自分はスパナで窓を割って脱出して夫を殺害したと疑われる。捜査で悪態をつき「鬼クマ」と報道されるような女に社長は惚れこんでしまったが、球磨子は新宿のホステス時代にヤクザとつるんで詐欺・恐喝・傷害事件を起こした札付きのヤンキーで、社長の子供は嫌がって前妻の実家に逃げ、親にも縁を切られる。事故を起こした車の運転者は女だったとの目撃証言もあり、刑事も検事も球磨子の保険金殺人に絞り、日本中が報道を信じてそれを疑わないムードになった。ところが正義感ある球磨子の弁護士佐原は公判で目撃証言を覆えし、警察の検証の結果、フロントガラスは衝撃で割れるためスパナは不要だったことも判明する。そこから佐原は『なぜスパナが足元にあったのか』『なぜ夫の右の靴が脱げていたか』という物証から驚くべき真相を導き出すのだ。シャーロック・ホームズ以来の探偵小説の王道の醍醐味であり、正義の味方の手腕と頭脳に読者は快哉を叫ぶこと必至だ。

ところが本作品はそこがストレートではない。佐原弁護士は原作では男だがドラマ版では女(米倉)になっていて球磨子との女の闘いに書き換わっているが、清張のオリジナルは球磨子がとんでもない鬼女だと報道しまくった秋谷という男(新聞記者)の眼で書かれ、佐原が真相をあばいて球磨子が無罪放免になるとヤクザを率いてお礼参りに来ると恐れた秋谷が佐原を鉄パイプで襲う所であっさり終わるのである。このハードボイルドな後味は鮮烈だ。冤罪を覆すのは法の正義であり、ミステリー小説は万人が納得する勧善懲悪で閉じるのがセオリーだ。しかし清張は、球磨子が怒りに燃えて野に放たれることへの秋谷の恐怖で物語を閉じる。それは鉄パイプで新たな殺人が起きる前兆のようでもあり、もはや何が善で何が悪なのか混沌としている。世の現実はそのまま小説になるほど割り切れておらずこんなものかもしれないと思う。そんなとんでもない女に騙されて家庭どころか命まで失った酒造会社社長の救いようのない悲しさだけが見えない墓標のように残るのである。

清張はこの「疑惑」の元ネタが「別府3億円保険金殺人事件」だという巷の説を否定したが、それは読みが甘い。僕はジェームズ・M・ケインの「郵便配達は二度ベルを鳴らす」がそれだろうと考えている。1934年作のこの名品を彼が知らなかったはずはない。カリフォルニアの流れ者の悪党が偶然立ち寄った安食堂で馬鹿だがセクシーな女房にひとめ惚れしてしまう。やがていい仲になった二人は旦那のギリシャ人を誘い出して車ごと崖から転落させて殺してしまう。正確には車中で殴り殺して転落死に偽装するのだが、自分たちも乗っており(「疑惑」とおんなじ)、旦那に多額の保険がかかっていたことから裁判で窮地に陥るが(おんなじ)、弁護士の巧みな手腕で(おんなじ)容疑を女房にのみかぶせて保険会社との取引で逃れて悪党が無罪になってしまう(おんなじ)。ここからは「疑惑」にはないが、今度は女房が本当に交通事故で死んでしまい、男は捜査されて旦那殺しの書類がみつかってそっちがバレたうえに女房殺しでも逮捕されてしまう。そっちは無罪になっても旦那殺しで死刑と告げられた男は「愛した女房を殺して死刑は耐えられない」と語り、旦那殺しの罪を選ぶ。

本作はハードボイルド小説の苦み走った不思議な味を覚えた最初の作品である。一気に読み終わってしばし茫然とし、他愛のない小市民の幸せを手に入れようと善良な市民を殺した浅はかで人間くさい悪党夫婦に同情している自分を発見したという意味で忘れられない作品である。大阪はミナミ。得体のしれぬ臭気が漂う真夏のがやがやと猥雑な薄暗い路地裏であやしい取引で小金を儲ける男ども女ども。それでも話しかけるとあっけないほど悪党の気はせず「兄ちゃんなんかええ話か?」と喰いついてくるあの人達。罪と罰ではなく人と欲だ。それ以来僕は欲をきれいごとで隠す人間は好きになれなくなった。

 

 

公務員を就職先に選んだ東大経済学部生は9人

2023 NOV 3 17:17:21 pm by 東 賢太郎

「今年夏、東大が3月に卒業した学生の進路を公表すると、省庁の幹部に驚きが走った」「公務員を就職先に選んだ東大経済学部生が9人しかいなかった」「東大生のキャリア官僚離れは深刻だ」(朝日新聞デジタル、2023年10月7日)

コロナ前だが映画製作で東大生の子にきいたところ、官僚は最初の10年の下働きが無駄で、頑張って30才になるとスキルなしだから辞められなくなって、その割にリターンは読めない(政治家に嫌われてパーはリスク高すぎ)と言っていた。人気は理系は起業、文系はコンサルとファンドだそうだ。

この考え方は私学の人とそう変わらなくなっているのではないか。国立大だから国にというステレオタイプは消えつつあるんじゃないかという気がしてきた。国の方が民間より上だという空気が昔は大いにあったが個人的には何やら気張ってて田舎くさいなと思ってたし、父は国家派だったが母は商人派で、僕はその点は母方だった。

ジャック・アタリは近著で「11世紀から現在に至るまでの時代は商人が地政学、政治、価値観を支配する『商秩序』の時代であった」と書いている。我が国でも中世の国司は荘園を侵略し簒奪する側だったが、貨幣経済の浸透とともに商人が台頭を始めると楽市楽座で彼らを保護して領地に経済力を貯え、南蛮貿易で鉄砲をそろえて戦さを勝ち抜いた信長のような商人共生型近代国家スキームの武将が現れる。天性の商人だった秀吉は信長の中央集権的重商主義を進めたが、それを貧富の差が出ない地方分権的農本主義に180度転換した家康のスローガンが士農工商である。「士」(武士)が官僚であり、いまも日本人に根強い「官>民」という思想はそれをルーツとしている。

アタリという学者はディープステート(DS)のスポークスマンであり、DSは国家ではなく国家をまたぐから国際金融資本と呼ばれる商人(資本家)である。農本主義の士農工商とは天地真逆であり、両者が融和するはずがない。現在、岸田政権は米国の背後にいるDS(民主党左派)寄りであり中国共産党もDSに親和的であることから自民党保守は分裂的であり、そのどちらにも反駁する真の保守を標榜する新党に出現の余地を与えた。同党は日本で反DS的主張を展開する宿命ゆえ農本主義的に思える。現代の黒船DSを士農工商政策で制圧できるはずがなく、鎖国をめざすわけでもなかろうから本音は不明だ。当世の東大生はそうした空気を察知しているのではないかというのが私見である。

東大卒が減ってもプラクティショナー資質の優れた人はいるので採用を工夫すれば官僚の質が下がるとも思わない。東大法学部のようにドメスティックな学問専攻の人を中心に据えるのは士農工商由来の方針であり、DS服従に甘んじるならそれでいいが、DSに正面対峙して最善の選択が求められるGDP3~4位の国家としては危険だろう。心は日本人だがDSエリートを英語で論破できる資質の人こそ増やすべきだ(東大生はそういう訓練はされていない)。政治家も同様で、そういう官僚を使えるかという選別基準になれば親の七光りだけの議員は自然に国会から消えていくだろう。

しかし政治家のF先生の話を聞くと銀行は国会議員には金を貸してくれませんよというからそれも大変な職業なのだ。奥さんは心配だろう。僕は1億5千万借りたがサラリーマンだったからで今はもう無理である。人の仕事の価値は金で決まるわけでないが好きなことをやるには金が要る。DS業界ど真ん中でやってきた僕は仕事も趣味も満足できたからこのジョブを生んでくれたDSに感謝しなくてはいけないが、ではLGBT法案賛成かといえば大反対で怒っている。つまり政治信条と人生が一致せず、どっちか取れといわれれば人生なのだ。僕は政治家には向いてない。

ショパン ピアノソナタ第3番ロ短調 作品58(2)

2023 OCT 30 23:23:14 pm by 東 賢太郎

ピアノソナタ第3番の録音の幾つかについて書く。全曲の印象を雑駁に比べても意味のない感想文であるので、(1)で論じた第1楽章の要所を比較してピア二ストの個性を中心に記す。僕が人生でまず聴いたのはルービンシュタイン盤であった。ショパンはよくわからないからレコ芸の「決定盤」だか何だかをとりあえずとなったわけだが、覚えるにも至らずたぶん一、二度かけて終わってしまったと思う。それが何故だったか、ここで解明してみたい。

Mov1冒頭主題。ルービンシュタイン盤は音価がほぼ楽譜通りでルバートがなく、正確さという意味で模範的だ。例えば9回続く冒頭音型の前打音の4分、8分、16分音符の長さは正確で(アバウトな演奏が意外に多い)、第3小節は加速で音価を切り詰めない(後述のコチャルスキを参照)。想像になるが、ポーランドを代表するピアニストのショパンとしてルービンシュタインは後世に残す録音、それこそ決定盤を目的としていたのではないか。それでいて窮屈ではなく堂々ゆったりとゴージャスな弾きぶりであるのはさすがなのだが、第1副主題も左手の半音階を霞のようなレガートでなく楽譜通り律儀に弾いてしまう。するとそれが目立って和声感を出す右手のアルト声部が埋もれ、二声の現代音楽のように響く。続くブリッジ部分もその気分で聴いてしまい、次いで現れる第2主題は一転して和声感たっぷりの音楽なのだ。彼一流の澄んだ美音で旋律とロマンティックな和声が際立つのだからそのコントラストだるや甚大で、これが僕が迷子になった第一のポイントだ。美音の歌は彼の本領でまさに一級品なのだが、それに続く2つの副主題も本領発揮のまま同じ美音主義で一貫してしまう。一級品であるがゆえに一貫性が強く印象づいて構造上のメリハリがなくなり、美しいには美しいがやたらと主題が出てくる妙な曲だと僕はさらに迷子になり、結果として敬遠するに至っていたと思われる。ルービンシュタインの目的は見事に達成されており、第2主題でさえ5連符に至るまで音価は正確でルバートのようなエゴは終始控えめであり、音大の学生が模範にするという意味であるならまさにこれ、レコ芸が「決定盤」に選出するのも無理もないと心から納得するのだ。なぜなら、ショパンの楽譜にはそう書いてあるからだ。

ここはショパンの時代の楽譜がどういうものだったかを論じる場ではないのでやめるが、このルービンシュタイン盤を最後に挙げるラウル・コチャルスキの演奏とじっくり聴き比べていただけば、どういうものだったかを知ることは容易だろうし皆さんの耳は確実に肥える。断言するが僕が聴きたいのは後者であり、僕はそれに喜びを覚える人間に生まれついており、それを与えてくれるのは記譜された記号としての音楽でなく作曲家の頭に降った霊感としての音楽なのだ。お断りするが僕はルービンシュタインの音楽に異を唱えるどころか敬意を懐くものであり、彼のブラームス1番の緩徐楽章を母の葬儀で流したほどだ。そう、ブラームスならそれでいい、しかしショパンではだめなのだ。回りくどい説明になったが、それが僕がショパンを苦手としている最大の原因なのである。

ディヌ・リパッティ。冒頭は速めだが見事な陰影だ。何気なく聞こえるがこうして他と比べると初めて大変な技術の卓越があること知る。それがこれ見よがしになることなく気品の隠し味になっているのだから何と贅沢なことか。第1副主題、これに詩情を感じるのはこの演奏だけだ。第2主題は心からのルバートで清楚に歌い、第2副主題は軽めのタッチで天上の響き、第3副主題はdolceで清流のごとしだ。変幻自在なのだが恣意のあざとさではなく知性を感じる。こういうピアニストは彼以来いない。

アルフレッド・コルトーはショパンの弟子エミール・デコンブの弟子である。第2主題はルバートでこれでもかと粘りまくる。これぞコルトーの味であり、そういうものは楽譜には書けない。できないことはないがテンポ指示は微分係数の変化で記譜するしかないし、ショパンは記譜する気もなく良い音楽家なら当然そうするだろうという暗黙知があるから何も書いてないのである。ラフマニノフはもちろんそれを知っており、例えば、音が登っていくとテンポは遅くなり、下っていくと速くなる(まるで重力に従うように)という意味のことを語っている。コルトーのそこからの副主題2つの絶妙の弾き分けをご賞味いただきたい。ショパンはこうは書いてないが、だから正しいかどうかはわからないが、これが暗黙知なのだ。その是非は聴き手の暗黙知が評価する。第1主題再現の展開は激情と幻想味が加わりこれまた印象に残る。第2の再現はもはやラプソディックでタッチもテンポも変え、コーダ移行が自然だ。この解釈はショパン直伝の可能性もあるだろうが、誤解なきよう述べておくが、直伝であることに価値があるというこれまたそれを金科玉条の如く戴く流派があるが、それはそれで凝り固まれば新種の模範になる。それが何であれ教科書的模範に従うという時点で官僚のペーパーを丸読みする無能な政治家の国会答弁みたいなもので、霊感のかけらもない面白くない演奏である。

ニコライ・ルガンスキーは僕が敬愛するニコライエワの弟子である。ラフマニノフで剛腕のイメージがあるがそうではなく、師匠譲りのオーケストラのような響きは魅力がある。ルービンシュタインがだめな第1副主題の幻想味からしてインテリジェンスを感じる。第2主題はやや人工的だが甘ったるくせず第2、3副主題の弾き分けに神経が通っているのは構造について私見の視点に立っているからではないだろうか。

ケイト・リウ、2015年のショパン国際ピアノコンクール三次予選の演奏(3位入賞)。タッチや主題の造形に甘さはあるがこの人のように「もっていってくれる」資質のピアニストは貴重だ。第2主題の美しさはルービンシュタインに匹敵しそれだけでも大変な資質だが、残念ながら副主題のコントラストの読みが浅い。いまだったら深化しているのだろうか。

グレン・グールド。開始は鈍重だ。まるでベートーベンで第1副主題の左手半音階は皇帝を思い出すが、アルト声部を埋もれさせず3声に聞こえるのはさすがバッハの弾き手だ。ところが第2主題もその流儀なのか両手が同じ音量で弾かれて旋律に集中できず、付点音符、5連符がいい加減なのも不思議だ。第2,3副主題は、ひょっとすると彼もロジックが理解できないのか、これほど平板に弾かれた例もない。冒頭主題の再現は pであり、さらなる聞き物はそれが展開する場面で、ショパンの譜面はこう鳴るのかという実験的試みは非常に希少だ。ショパンは暗黙知を前提とするからこう弾かれるとは想定だにしておらず、このグールドが示してくれた楽譜通りの音がどう響くべきかという研究をすればショパンの暗黙知の正体がわかるというリバースエンジニアリング的課題を提示している。コーダの最後の f が mf でリタルダンドする意味はさっぱり分からないが、彼の関心事は教科書的模範への盲従というクラシックをつまらなくする愚の破壊だったと考えればこの演奏はとても面白い。

ブリジット・エンゲラー (1952 – 2012)はチュニジア出身のフランスのピアニスト。何度か来日していたらしいがまったく知らず、先日 youtubeで初めて知った。実に素晴らしい。すべての音に血が通っており、無用に激したり勢いで弾き飛ばす所が全くない。一聴すると何の変哲もないが、音楽を深く考証し咀嚼し、非常に高い技術をもって引き出した演奏だけが持つ説得力は只者でない。Mov1第3小節の加速。それを深いタッチで弾くことは難しいからかほとんどの人がしていないが、次のコチャルスキを聴けば僕はショパン直伝と信じたい(彼は苦もなく弾けた。そうでないと言い切る方が困難だろう)。エンゲラーはしていることにくだらないエゴがない。緩徐楽章は詩的であり、激するところは奔流になるが滑らかでうるさくならず、終楽章の最後の音まで引き込まれてなんという凄い曲かという感動しか残らない。大変な才能であり、こんなピアニストが若くして亡くなったのは世界の損失である。そう思い検索すると、なんとCDまで廃盤である。聞く方も聞く方だが業者も業者だ、まったく信じ難い。ネットオークションで探し出して彼女のDecca6枚組とハルモニアムンディのノクターン集を全部買った。

ラウル・コチャルスキ(1885-1948)の演奏は僕が本稿で縷々考察してきたことを音にしてくれていると感じる唯一の演奏だ。彼の師であるカロル・ミクリ(1821 – 1897)はショパンの弟子で、レッスンを受けた際の師のコメントを詳細にメモし、ショパン演奏に関する発言が伝記作家によってしばしば引用されている人だ。コチャルスキのテンポ、タッチ、フレージング、呼吸、間合い、指回りはもちろん楽譜になく即興に聞こえるが、些かの不自然も人為性もなく流れるように闊達だ。まるで自作を弾くジャズピアニストのように手の内に入っており譜面を見ている感じが全くない。ショパンはこう弾いたのではないかと膝を打つ部分が続出するが「きれいな音」を出そうとはしていないことは強調してもしきれない。「美しいショパン」「ロマンティックなショパン」などというものはチェリビダッケが唾棄している疑似餌である。

3つの副主題の達人の弾き分けに耳を凝らしていただきたい。前述したが第1の対旋律をこう弾ている人は誰もいない。これはレファレンス級の文化遺産で、何度もくり返し聴いて3番というソナタがやっとわかった気がしている。何という素晴らしい演奏だろう。現代のピアニストでこの流儀で弾く人はいないが、逆にこの通りやろうと思ってもできる人もいないだろう。譜面にない強弱やアジリティの融通無碍の変化は体の中から発してこないとこうはいかないからだ。コチャルスキはミクリから、ミクリはショパンからそれを継いだのだろうが伝統芸能の奥深さを見るしかない。

 

ショパン ピアノソナタ第3番 ロ短調 作品58(1)

ジョン・ケージ小論《 Fifty-Eightと4′33″》

2023 OCT 26 11:11:41 am by 東 賢太郎

(1)直島できいた心臓音の衝撃

4年前に瀬戸内海の直島に泊まった時に「心臓音のアーカイブ」を訪れた。『 心臓音の数だけ人の命があり、人生があり、一つとして同じものはありません。ハートルームで無数の心臓音に包まれていると、命の尊さ、儚さ、かけがえのなさに、自然と思いを巡らせていく・・』 というコンセプトでフランスの彫刻家クリスチャン・ボルタンスキーが2008年以降、世界中で集めた人々の心臓音を恒久的に保存し、聴くことができる小さな美術館である。もちろん、望めは誰でも自分の心臓音を登録できる。

心臓音のアーカイブ

幾人かのものを聴かせていただいたが、たしかに個人差はある。しかし僕を驚かせたのはそれではない、マイクロフォンで拡大された心臓音というもののたくましい雄々しさ、猛々しさであって、響きという静的な語感のふさわしいものではなく、嵐に大海がうねる波動を思わせたことだ。自分の中でこんな荒々しい作業が一刻の休みもなくおこなわれているだけでも俄かには信じ難いことであり、そのおかげで脳に血が回って意識の明かりが灯されているのだから生きているということはそれだけでも大変なことなのだ、しっかり生きなくてはと殊勝な気分すらしてきたものだ。

人体は音を出している。英語にはinner voiceという言葉があるが、良心と訳すのだから宗教的なコンテクストだろう。ハート(心臓)は即物的な器官であり、そんな善性のものでも、ロマンティックなものでもない。人間ドックで自分の胃や大腸の画像を見たとき、それは自分の一部分どころか得体のしれぬ赤い肉塊であって、他人のであっても見わけもつかない。それをあたかも僕の所有物であるかのごとく医者は語るのであり、それでいて、所有権者のはずの僕よりも医者はそれを知り尽くしているようにも語るのだ。その奇妙な感じ、経験者もおられよう。親にもらったものではあるが、親とて意図して製造したわけではなく、僕はせいぜいその管理者か保護者にすぎないというものでほんとうの所有者はわからない。親でも医者でもないなら、人智の及ばぬ天の彼方におられる全能の方であろうかという結論に漂着しても仕方ない感じがする。

ボルタンスキーの美術館は心臓音を展示するアートギャラリーであり、音というものに関心のある僕に衝撃を与えたカテゴリーキラーである。ちなみに直島はクオリティを世界に誇る総合造形芸術アイランドとして海外に著名である。島ごとが一個のオープンエア美術館といった風情であり、ボルタンスキーのような斯界の著名アーティストを自由に腕を振るわせる条件で参集してもらい、存分にその才能が発揮された展示物がそこかしこに点在するという夢のような場だ。ベネッセハウス様にお世話になったこのときの体験は、僕の造形アート理解の次元を飛躍的に変えてくれた(「野村ロンドン会」直島旅行)。

本稿をそれで書き起こすのは、まったくの偶然でyoutubeで発見したジョン・ケージの音楽をきいて、直島に遊んだゆったりした時間を思い出したからだ。そう、それはケージに似ているのだ。直島体験なかりせば僕はケージの音楽には無縁で終わっていたかもしれない。あそこでは、島の広大な敷地を生かして展示ホール内の残響まで周到に設計されていると感じた。それが周囲と一体になって生まれる空気感(アンビエンス)は残響にとりわけこだわりがある僕には忘れがたいものだった。そうした空気感というものはその場に立って五感で味わうしかなく、実は絵画や彫刻であっても、その「入れ物」である天井の高い美術館の空間と切っても切れないことはルーブルやメットに行った人はご存じだろう。

(2)無響室で聴こえるもの

残響とアンビエンスを正面から論じる音楽評論家は見たことがない。オーディオ評論家はいそうなものだがやっぱり見たことがない。木造家屋に住む日本人にとってそれは録音会場まかせのディファクトであって、レコードやCDの「録音評」の仕事であり、どんなオーディオ装置でそれをうまく鳴らすかという商売に持ちこまれてしまう。僕のようにリスニングルームを石造りにして自家で発生させようなどという人はまずいないし、業界としては困った変人扱いだろう。とんでもない。チェリビダッケはある曲のテンポ設定の質問にフルトヴェングラーが「それは音がどう響くかによる」と答えたのをきき、メトロノームの数字だけを元に決められたテンポ設定は無意味だと悟っている。残響とアンビエンスを重視しない人の演奏も音楽評論もダメなのだ。

僕はある会社の無響室に入れてもらって、残響ゼロの世界に絶句したことでそれを悟った。ジョン・ケージはハーバード大学で初めて無響室に入ったときの経験をこう語っている。「無音を聴こうとしたがそれは叶わず、二つの音を聴いた。一つは高く、一つは低かった。エンジニアにそのことを話すと、高いほうは神経系が働いている音で、低いほうは血液が流れている音だという答えだった。体内からの音を聴き、沈黙をつくろうとしてもできないこと、自分が死ぬまで音は鳴り、死後も鳴りつづけるだろうから音楽の未来は大丈夫と考えた」。ケージは体内の音を聞いたことで宇宙に無音はないとポジ・ネガ転換した発想を持った。僕は自分が発した声の変調に驚き、シーという耳鳴りを聞いたのを除けば、ここに閉じ込められたらという恐怖だけだった。真空の宇宙空間は無音だが、それは鼓膜が察知する波動がないというだけであり、体内に発する波動も脳は「音」と認識することをケージは発見した。脳が創り出しているものが「音」の正体ならば、宇宙の果てまで行こうが音はある。その命題は人体という小宇宙を起点とした宇宙観の転換にすぎないわけだが、それを考察する我々の脳も宇宙の一部だから正しいといえなくもない。

(3)遠い記憶

幼時に「ぷかぷかと宇宙に浮遊した」ときのことは前稿に書いたが、浮遊というとルネ・マグリットのこの著名な絵がある。しかし、こうではなかった。

もっと暗くて、心象はこんな質量感を伴う現実で、だから怖かったのであり、

こんな無重力感があった。あれは母の胎内にいたときのぷかぷかだよと言われればさもありなんという感じのものだ。でも、もしそうならば、あの重いものを移動させろ(Carry That Weight か?)という強烈な義務感は何だったのだろう?

その時の気分を思い出すものがないかと長らく探していた。あった。この音響が与えるイメージ、うなされていた時の「感じ」に似ている気がする。

これを聞きながら瞑想する。あの光景がゆっくりと心に満ちる。神が杖(つえ)をかざすと持続音の暗い霧に新たな音が一条の光のように差し込んで調和し、徐々に徐々に思いもしない色彩を帯びた和声が産声をあげてくるさまは天地創造の荘厳な神秘のようだ。

天が肉体に共鳴しているとしか表現のしようがなく、その理由はどこがどうという形では見当たらない。喩えるなら、気が合って一緒にいても飽きない人。何がそうさせているのかはわからない、単に、トータルに「合う」という言葉でしか伝えられない。それでもこれを僕は良い音楽と思う。

(4)カテゴリー・ブレーカー

作品は結果がすべてだ。偉い人の作品だ、少々退屈でも忖度しましょうなんてことはない。ということは、この曲がどのようなプロセスを経てこうなったか、どんな技法か、指揮者がコンクールで何位か、オーケストラがどこかのようなことはまったくどうでもよいことになる。そういうことを詮索したくなるのがクラシック音楽だが、それは作曲家名がクレジットされた楽譜があるからなのだ。楽譜はあって結構だが、モーツァルトは楽譜にした何倍もの音符を聴衆の前で放っていたのであり、それは聴けなかった我々の知らない評価の源泉があった。

彼の楽譜は自分にとっては備忘録であり、他人にとっては弾かせるための総譜でありパート譜であり、なによりプライドを持って生きるための名刺であり商品だった。死後に妻が生計のため換金する動産となったところから楽譜のセカンダリー市場が登場し、付加価値が発生する。それは作品の真実とは無縁である奏者や評論家のエゴを満たし食い扶持になる価値で作曲家とは何の関係もなく、モーツァルトが何者か知らないし知る知性も関心もない一般大衆に一時の見栄であるプレミア感を売るための膨大な手垢である。モーツァルトは知らないクラシック音楽という概念は、そうした泥にまみれた醜怪な雪だるまであって、そんなものが僕を感動させることはない。

小節線がなくて、ぽんと音符がひとつだけあって、あとは長さも強さも君たちが適当にやってくれなんて作曲家はそうしたクラシック界においては尊敬されないし、そんないい加減な曲を聞きたい聴衆もいないだろう。しかし、それでも良い曲だったねとなればいい。それが音楽の本質でなくて何だろう。モーツァルトの曲はそうやって生まれたし、ジャズのセッションみたいに、演奏家がやる気になって一期一会の音楽が生まれる場は今も生き生きと存在するのだ。充分に魅力があるし、いわゆるクラシック的な音楽の場においても、作曲家は演奏家に曲のコンセプトと霊感とインセンティブだけ与え、コーディネートする役になることが可能である。ジョン・ケージがしたことはそれだ。

その意味で彼はクラシックのカテゴリー・ブレーカーであった。ただ、10匹の犬を集めてオーケストラだと主張すれば通ってしまいかねない魔法が使えたという類の評価がされがちであり、それは彼の作品をこんなものは音楽でないと騒ぎ立てた連中の末裔が評価を否定できなくなって、辺境地の奇観に見立て、苦し紛れに与えた奇矯な間違いである。ブレークもなにも音楽の本質はいつも楽しみであり、弾き手や聴衆が良いと思うかどうかだけであり、意味もない権威にまみれたクラシックのカテゴリーなどはずっと後天的なものなのだ。ケージは絵空事でない真の音楽哲学を持った作曲家だが、理系的資質ゆえ空気を読まず、それに加えてアバウトな文系気質もあったという天与のバランスがあったからこそブレーカーに見える存在となれた。ケージの評価にはアバウトに過ぎようが、そうであったと仮定しなくてはできない革命を彼がなし遂げたという評価を僕がしていることは宣言しておきたい。

それでもアバウトに過ぎるならこう書こう。誰かさんが音楽をn個書いたらg個が良い曲だったとする。作曲家の評価はg/n(ヒット率)と良さの度合いq(品質)で決まるからq×g/nという確率であり、q×g/n=f(良さ)である。良さは物理的に不定形(定義困難)だが人の集合の属性の発現確率でのみ表せる。よって、作曲原理(三和音、無調、セリー、偶然etc)は変遷するが、作曲家の評価は確率で決まるという原理は不変である。このことは未来にもジョン・ケージが現れることを予言する。

(3)数学と音楽

この音楽のタイトルがFifty-Eightであるのは、なんたらというメインタイトルがあって副題が「58人の木管奏者のための」というスタイルをやめて、58をメインに持ってくるとルール化したからだ。同じ楽器数の2つ目の作品はその右肩に小数字でべき乗のように2とつける。この流儀のをナンバー・ピースと呼ぶ。彼は数学好きなキャラだろうが、いっぽうでキノコ研究に人生をかける人だ。作曲家なのに合理的でないと思うのはちがう。数学者にならないすべての人には数学の勉強は無駄だが、人生に膨大にある無駄に空費する時間を勉強時間以上に減らしてくれるから合理的な人は数学を勉強するのである。そうでない人がこんな音楽を書けるだろうか?

(3)分岐点だった「易の音楽」

John Cage (1912-1992)

ケージが量子力学を知っていたかは不明だ。1992年没だからたぶん我々ほどは知らない。量子力学が正しいことは高速演算速度を可能にする量子コンピューターが実現したことで大方のインテリの共有知になり、文科系の人でも宇宙は量子もつれ(quantum entanglement)が支配し、偶然が自然(ネイチャー)の属性なのだ程度は悟ったろう。ということは、科学には縁遠いことが許される音楽家の間でも変化が起きてしかるべきだ。それは偶然音楽(chance music)に後半生こだわり、数々の傑作を残したジョン・ケージの再発見だと予想する。彼の楽曲は誰も音楽を支配せぬアナキズムであり、演奏してみないと予想はつかず、同じ演奏は二度とない。この現象は「サイコロを振った」といえるが、それがありのままの宇宙のなりわいだということは誰も否定できなくなった。多くの僧侶や宗教家が「仏教と量子論は似ている」といっているが、原子論絶対の西洋科学では説明できないことを量子力学はよく説明し、仏教ともども非原子論的だという共通項があることは誰しも認めるだろう。

偶然音楽に移行する前、ケージは打楽器、プリペアド・ピアノによる複雑なリズム構造を持つ無調の音楽を書き、Living Room Musicのように演劇やダンスと組み合わせたり東洋思想と融合するなどフロントを拡大した。彼の楽器はピアノであり、全部がソロか室内楽でオーケストラという発想はなかった。偶然音楽の契機はあなたが運命をキャストできるとする中国の「易経」を知ったことだった。二進法、六十四卦等の規則性、および占術の偶然性の合体を見つけ、ピアノ独奏の「易の音楽」(Music of Changes、1951)を書く。六十四卦といういわば原理の如きものにピッチ、テンポ、強弱、長さを割り当て、投げたコインの結果にもとづいて作曲をする思想は作曲家の権威を破壊している。

(4)シェーンベルクとブーレーズ

「易の音楽」はセリー主義だったブーレーズのピアノ・ソナタ第2番 (1948)、第3番(1955-63)の間の作品だ。3年ほど先行した第2番をケージが意識しなかったとは考えにくい。一時は同志であったブーレーズは神の真理を自作に織りこむという行為の有用性を確信した人という意味で、十二音技法にそれを見ていたシェーンベルクと通じる。それはいわば信仰への確信であって、表面的な理解しかなかった日本で彼がブルックナーを演奏するなどと誰が想像したろう。しかし、彼がカソリック信仰に真理をみたというなら、ブーレーズにはプロテスタントのドイツ人指揮者よりずっと手掛ける根拠がある。

ケージは南カリフォルニア大学で2年師事したシェーンベルクに和声感覚の欠如を指摘され、「彼は作曲家ではありませんが、発明家であり、天才です」というレトリックで作曲は無理だと言われた。作曲家がサイコロを振って不確定である「易の音楽」は師の判断を無視するユーモラスな解答だったのではないか。ブーレーズは能力不足を東洋思想で埋めると批判した。鋭い指摘だ。ケージはコロンビア大学で鈴木大拙に学んだ禅思想に影響を受け、原子論に依拠するシェーンベルク、ブーレーズと袂を分かつ。東洋に接近した先駆者マーラー、ドビッシーの関心は音階で、旧来の美学の平面上にあり、宗教という精神的支柱まで寄ったのではない。ジョージ・ハリソンのシタールと変わらず、ドビッシーがきわだって成功したのは彼の図抜けた音響センスがガムランという異物を消化可能なまでに化学変化を加えたからである。

ユダヤ人のシェーンベルクとカソリックのブーレーズは信仰という行為を客体化した地平では理解しあえたが、ケージは演奏における古典的な偶然であった即興や通奏低音が人間の趣味性に関わると否定し、アーティストのエゴを廃し、それを認めるぐらいなら偶然という物事の混沌を受け入れることにした。つまりシェーンベルク、ブーレーズは神の摂理の全面的代弁者としての司祭であり、その権威は絶対に手放さなかったが、ケージはそれを「偶然の採用」までに留めることになる。父譲りの発明家気質、無響室での体験、ビジュアルアーティストとしての嗜好、20世紀の振付の巨匠マース・カニンガムの影響など、各々が脈絡があったとは思えない必然が混然一体となって彼の人生のchanceとなった。

数学者ブーレーズより数学的人間であるケージは易経の構造原理だけが関心事だった。構造は数学でありその採用は構造そのものに真理性なくしては人を説得しない。そこに自信がなかったのではないか。易経と原理でつながる禅思想への帰依はその答えだろう。「いくら観察してもさらにわからなくなる」と言ったキノコは、恐らく、彼にとって鈴木大拙師にも勝る宇宙の真理を説いてくれる存在であり、数学化できないから音楽化もできなかったが、わからないキノコを不確定の受容という形で音楽に取り入れたというのが私見である。因習的、常套的、世俗的を忌避し、誰がどう見ようが本質以外には目もくれぬケージの哲学者的な一本気には大いに共感を懐くものである。

(4)猫が演奏する「4分33秒」

晩年に近づくと、chanceは大規模編成の中に仕組まれるようになる。Fifty-Eightはリズム指定がなく「浸る」しかない。音の全身浴である。天空の波動も心臓音も耳鳴りもすべてそれである。これがアトモスフェール(atmosphère)だ。人またはものを囲んでいる独特で無形の性質のことで、そこにいて浸っているという感覚が音楽を聞くこと、生きていることである。ケージにはそれが音楽で、楽音はその一部にすぎず、楽音と非楽音には違いがなく、よって、楽音がなくとも音楽は成りたつという命題が論理的に導き出される。その実現が4′33″(「4分33秒」)という楽曲である。聴衆が感知するのは、音を出さないピアニストというオブジェ、4分33秒の時間内に鼓膜が察知する会場のすべての非楽音、および、自分の体内で察知したすべての波動(心臓音、血流音、耳鳴り等)というアトモスフェール。これは実に「直島的」だ。

4′33″はいうまでもなく猫でも演奏できる。怒った聴衆が「馬鹿にするな」と舞台に駆け登り、猫は逃げ、彼はショパンを弾き始め、場内が騒然となり、パトカーのサイレンが鳴って警官隊が闖入し、パーンという乾いた音を発して男を撃ち殺したとしよう。それが仕組まれた寸劇であっても現実であっても4′33″という作品は成り立っており、4分33秒が経過した瞬間に演奏は終了する。このコンセプトを音楽と呼ぶことに100%賛同したい。僕にとって「音楽」とは我が身と宇宙の波動の共振に他ならず、そうした寸劇も、それが喚起するだろう観客の驚きや悲鳴もすべてが波動である。この思想は直島でオブジェに瞑想して感じたもので、興味ある方はご訪問をお勧めしたい。

(5)神はサイコロを振る

スピリチュアルではあるが霊界の話ではなく我々の住む世界の現実であることを説明するには、少々物理の話題に触れねばならない。波動は質量のある原子が伝えるものと、それのない光子が伝えるものがあることは一般に知られるが、いずれであれ、我々が知覚して認識しないと心は共振はしない。アトモスフェールを厳密に分離するなら、それは無形のもので物質ではないから原子でも光子でもそれらの揺れでもなく、つまり音でも光でもなくて質量もない。いわば(霊的な)「感じ」や「第六感」、(良かったり悪かったりする)「雰囲気」、あるいは(心で読んだり読めなかったりするコンテクストでの)「空気」とでもいうものだ。それが人から人へなぜ伝わるのかは物理的に解明されていないし、個人的には猫との間でも通じるのを体感しているので人間由来のものでもない。これは(質量がないのだから)重力(空間のゆがみ)に服しない。

前稿に書いたが、「五次元の仮想的な時空上の重力の理論は重力を含まない四次元の場の量子論と等価」であって、我々は三次元世界を時間という仮想概念をもって観察して生きているが、それと量子力学が証明する極小の偶然性(量子ゆらぎ)がある世界(五次元世界)は同じものであり、したがって、我々は現実とパラレルの世界に行くことができ、それがどれになるかは意志でなく偶然が支配しているのである。これがアインシュタインが相対性理論でたどり着かなかった結論であり、神はサイコロを振るのだ。ならば作曲家が振って何が悪かろう。世界を4分33秒だけ切り取ったものが4′33″になっており、結果論として、面白かったねとなればそれは良い音楽だ。

(6)ケージとチェリビダッケ

誰もが人生を自分の意思で決めて生きていると思っているが、実は by chance(たまたま)で生きているのであり、そんなふらふらしたものが人生であり、ケージも自分の意思で「偶然の採用」をしただろうが、実は量子力学なる神の決めごとに従った決断だった。4分33秒間の沈黙を聞かせて世界的名声を得たが、この音楽についてたくさん語っているが彼の書いた音符を一度も聞いたことがない支持者もたくさん持った。Fifty-Eightはスコアが58段と音はたくさんある音楽であり、陰陽の対を成すような作品だ。猫が鍵盤を歩いた音とこれと何が違うかという議論を封じることはできないが、何を音楽として真剣に向き合うかという問いを喚起したことでのケージの業績は誰よりも大きい。

やはり東洋思想に開眼し、晩年には仏教に改宗して日本でも多く参禅を行なったセルジュ・チェリビダッケ(1912-1996)の発言はそのコンテクストで見るなら興味深く、ふたりは同じ音楽観だったわけではないが共通したものがある。チェリビダッケは「音楽は無であって理解ではなく体験されるものだ」とし、「音楽が美しいものと思うのは勘違いだ。音楽では真実が問題であり、美は擬似餌にすぎない」と言い切り、「音楽を聴くということは人生や世界、あるいは宇宙の真相を垣間見ることである」と語っている。傾聴に値する。あくまで彼は再現者であり創造者ケージと同じ次元では語れないものの、両人は音楽家である前に哲学者だ。僕はこういう人達の音楽を楽しみたい。

(7)ケージと自分

ケージに会ったことはないが、写真を見るに、きっとお茶目で優しくていい人だろうなという感じがする。感じというのは根拠がないアトモスフェールにすぎないが、ヒッピーみたいな写真もあるし、いちばん真面目に写っている左も大家然とした威圧感がまるでない。好奇心、ユーモア、気まぐれ、爆発的発想、権威破壊、官僚的なものへの嫌悪、アナキスト、理数系オタク、アイデア、創造力、実験、余裕、オシャレ無縁、浮かぶのはそんなイメージだ。猫好きがみなそうとまではいわないが猫と話せる人に悪い人はいない(僕の偏見)。そもそもアマチュアのキノコ研究家でニューヨーク菌類学会を設立し著作まである作曲家などどこにいよう。こうして書き連ねるに、自分とそこはかとない相似性を感じ、それとは何の関係もないがFifty-Eightが気に入ってしまったことで彼への関心が決定的になった。

プリペアド・ピアノの発明は単なる楽器の改変だけではない、既存楽器の音をどうマニアックに磨くかというおざなりの美学をぶちこわしたのであって、爆発的発想、権威破壊、官僚的なものへの嫌悪を僕は背後に見る。彼は大学の図書館で100人の学生が同じ本を読んでるのをみてショックを受け、書庫に行き、名前がZで始まる著者によって書かれた最初の本を読んでクラスで1番になったが、そういう大学は見限って退学した。僕は大学に入ってしまってから不幸にも法学に些かの興味もない自分を発見し、2度アメリカに長期漫遊し、安田講堂の卒業式にボロのジーパンで出席した恐らく今もって唯一の法学部生ではないかと思う。特に権威や官僚が嫌いなわけではない、もっと嫌いなものはいくらもあるが、何を着ようかとそういうつまらない準備に時間を空費するのが何より嫌いなのだ。

ケージは父親に「誰かが『できない』と言ったら、それはお前が何をすべきかを示している」といわれた。のちに作曲は「目的のない遊び」と語ったのはその教えに従って誰もできない実験をしていたからで、彼にはそれが「遊び」であり「人生に目覚める方法」だったと思われる。僕は父につまらない質問をすると「お前の頭はなんのためについてるんだ」と突き放され、やむなく人にきかず考えて実験する癖がつき、やがてそれが遊び感覚になってその延長で生きてきた。仕事も遊びだから嫌でなく、おかげで音楽の勉強ができた。

ケージは辞書でキノコ(mushroom)がmusicの前であることで興味を持ち、研究にのめりこんでそちらでも著名人になった。「Zで始まる著者」の本を読んだエピソードと重なる。無機的だが秩序ある動機だけで行動できる「メカニズムへの打算なき偏愛」と、「一期一会の偶然は特別なご縁」への理由なき厚い信仰心という矛盾する二面が縫合した人格は個性的であるが、まったく同じ二面を僕も持っており、科学絶対主義者でありながらスピリチュアリズムの信奉者でもあるが、真理は一つであるなら躊躇なく後者を採る。ケージがエリック・サティの音楽をキノコにたとえた関係性と同じ筋道でキノコは彼の音楽に何らかの投影を与えていると思われるが、作曲が遊びであるなら、作為や意図が介在しない最も美しい出来事であるキノコとの出会いを彼が上位に置いていて不思議ではない。

 

Fifty-Eightの実演(サンタンデールアルゼンチン財団)

ようすけ君はビッグバン理論より正しい

2023 OCT 23 8:08:25 am by 東 賢太郎

ジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡が133億光年のかなた、すなわちビッグバンからわずか5億年後という領域に大質量銀河を6つも発見した。

従来の宇宙論ではこの年代の宇宙には小さな赤ちゃん銀河しか存在しないはずでありビッグバン理論に修正が迫られるという驚天動地の事態が物理学、天文学の世界で起きている。

シロウトのドタ勘だが、全宇宙の原子が1点に集まっていたなんて信じ難い。そもそもなんでそんなものがあって、なんで爆発したんだ。てんびん座にあるメトシェラ星の年齢は144±8億年と計算されており、つまり、宇宙よりも古いということになる。ということは宇宙はもっと前からあったことになる。地球から最も近い星まで約4光年だが、現在もっとも速いボイジャーで行っても7万年かかる。ネアンデルタール人の宇宙飛行士を乗せれば着くころにはホモサピエンスに進化している。写真の銀河はその30億倍も遠い。行くのに2百兆年かかる。ビッグバン理論は修正すれば誤りでないかもしれないが計算は数学でする。そもそもどうしてそんな遠くでも数学がワークしてるんだろうという素朴な疑問がわく。

科学は突きつめると宗教に似てくる。数の単位も兆のずっと先は不可思議、無量大数だ。そこまで行くと仏教の世界に踏みこんだかと思うが、銀河系にある原子の数は1無量大数個と聞くとまた科学の世界に戻った気になる。畢竟、このふらふらした感じは人間の脳の処理限界に由来しているだろうが、処理を代替してくれる数学という言語も全宇宙的にユニバーサルかどうか証明はされていない。

数学的に証明できるということは “プログラム可能” ということだ。我々は三次元宇宙にいると思っているが、ブラックホールの研究を通じて、常識に反して、ある空間領域のエントロピー(情報量)は領域の体積ではなく表面積によって決まることがわかった(ホログラフィック原理)。さらにそれに時間という四次元要素を加味して過去、未来があると思っているが、それは脳の設計上の認識にすぎず、時間は存在せず過去、現在、未来は同時に存在しており(アカシックレコード)、五次元の仮想的な時空上の重力の理論は重力を含まない四次元の場の量子論と等価だ。つまり我々は五次元宇宙という極小の偶然性(量子ゆらぎ)が支配する並行した世界にいる(パラレル・ワールド仮説)。

この「重力を含まない4次元の場」は意味深だ。

物心がつくかつかないかの頃、僕はとても病弱で毎週のように熱を出して医者通いだったらしい。母がおぶっていたからまだ歩けない頃だ。リンゴを擦って食べさせてもらい、寝入る。すると必ず見るおそろしい夢があった。どこかに書いたと思ったらこんなところだ。

僕が聴いた名演奏家たち(アーリン・オジェ)

宇宙空間のようなところにぷかぷか浮かんでおり、何か、目には見えないが「重たいもの」を持たされている。とっても重い。見渡すと何人かの人も浮いている。そして僕は「それ」をどこか別なところへ運ばなくてはならないのだ。誰の声も命令も聞こえない。でも、厳然とその「義務」だけが僕にずっしりとのしかかっていて絶対君主の指し図みたいに逆らえないのだ。おかしなことだ。無重力の宇宙空間に「重たいもの」なんてあるはずないのに・・・。

そんなの無理だよ、僕にはできないよ!うなされて泣き叫んで、母の声で我に帰っていたそうだ。これ、「重力を含まない4次元の場」だったんじゃないか。僕は何かを背負ってこの世に生まれてきたんだろうか?ビートルズ(ポール・マッカートニー)のアビイ・ロードに「Carry That Weight」(あの重たいものを運べ)という曲がある。彼もひょっとして・・・。

ご存知の方もおられるかもしれないが、youtubeに「宇宙に行くこども」という番組があり、僕はかわいい語り手である「ようすけ君」の大ファンだ。彼は胎内記憶のある6才の男の子で、とても賢いなあと感心する。確信ある語り口に台本があるとも思えず聞き入るしかないし、お母さんもやさしくて癒されてしまう。

胎内記憶というのは3才ぐらいまではある子がけっこういるが、会話できる年ごろになると記憶が消えてしまうらしい。それでもようすけ君のように話せる子は世界中にいて、ほとんどが「お母さんを選んで空から降りてきた」という話をするそうだ。僕はそれは全然ないけれどあの夢は何度も見てはっきり覚えてる。その頃の記憶はそれ以外にはほとんどないのだから不思議なものだ。

スペイン人だったようすけ君は死んでからどこに行ってたんだろう?空のうえで神さまがたくさんいるところだ。神さまは彼の「魂ちゃん」にやさしく指導してくれたようだ。きっと仕事なんだろう。何のため?何百世代も生きさせて遺伝子の進化実験でもしてるのか?

数学?それ、神さまのパソコンのプログラムのことだよ、だって人が見てる宇宙はホログラムって名前の動画なんだよ、終わっちゃったらまた雲の上にぴゅーって行ってね、望遠鏡で見つけた新しいママのおなかにぴゅーって入るんだよ・・

ようすけ君、こんな感じかな?大人になったらまた教えてね。

これを書いたのは2017年だ。5月に母がいなくなって、どこへ行っちゃったんだろうとパソコンの前で考えてたときだ。

座右の書と宇宙の関係

 

この写真を撮るのに現人類は地球に出現してから500万年かかった。宇宙船に乗って写真の銀河に行き着くまでにその進化を4千万回できるが、それは気が遠くなるほど無理だろう。人類がそこへ行くことは想定されてない、つまり、我々とそことの間には越えられない透明な壁があるに等しいということだ。それがガラスであって、我々は金魚鉢の中で泳いでるお魚だとしても矛盾はない。

「この銀河はみんなCGなんだよ。きれいでしょ、宇宙っぽいでしょ。ときどきプログラムにバグが出てね、メトシェラ星みたいにバレちゃうんだけどね、まあ楽しんでちょーだい」

「光速?ああそれね、僕のパソコン画面の処理速度の限界なの。CGはその速さで『観測』はできるけどね、ちょっとモデルが古いんで133億年もかかっちゃう。でも死ぬとね、魂ちゃんは画面の外に出てぴゅーってここに来れるよ」(神さま)

 

 

 

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インフルエンサーが結託するのは法則である

2023 OCT 21 10:10:03 am by 東 賢太郎

この仕事をはじめて13年もたつと投資機会というのはおのずとやってくる。それをもたらしてくれる人たちがいるからで、彼らは取引先でも知り合いでも友人でもない。友人であっても結構だが、この場面においてはそういうありきたりのカテゴリーでくくれない人たちであるというのが味噌だ。「人脈」とは多分そういう場面で使うために発明された造語で中国語にはない。脈というからにはネットワークの意味だろうが、知り合った相手の人たちが「僕は君と会ったこともないが東の友達だからライン交換しよう」なんてことはまずない。それは人と人の心のつながりを電気的なウェッブのつながりで代替できないことを示しており、心が通じない知人を起点とした脈(ネットワーク)の広がりは自己満足に過ぎずそこから重要な果実が得られた経験は僕にはない。

大事なのは目の前にいる人ひとりひとりが自分と合う人かどうかだ。合う人は類は友を呼ぶで合う人を連れてきてくれる可能性があるしその経験はある。いま周囲でおつき合いしている人たちとどういう契機で出会ったかをチャート化すると面白いことがわかる。31年もしていた大企業サラリーマン時代の人(第0次)の名はほとんどなく、13年前に起業してからお会いした人(第1次)、彼らから紹介された人(第2次)、その人からまた紹介された人々(第3次、4次・・)がほとんどなのだ。第0次と意図的に縁を断ったわけではないが立場変われは人変わるだ。会社を辞めるとあれほど一緒に苦労した部下、同僚などが誰も来なくなり寂しいものだった。その人との縁は会社の名刺や肩書が取り持っていただけだったのであり、そういうものを人脈などと呼んで安心してはいけないことを身をもって知った。

投資機会の話をくれる人は各次にいるがほんの10人ほどだ。この10人が僕の生命線ということであり、31年もかけて築いた「人脈」は99%スクラップになってしまったが問題なかった。くり返すが意図してそうしたわけではなく、起業して必死にもがいた中で、求められもしなかったし必要もなかったから自然にそうなっただけだ。正直に「僕はハードボイルドな人間です」と初対面の人に臆面もなく言ってはいるが、そうでないと一人で生きていけなかったからであり、元からそういう人だったかどうかは忘れてしまったが、もしそうでなかったとしても戻ることはないだろう。なぜならハードボイルドな人生はけっこう適していて楽であり、実はそれは自然体の自分であり人生の99%を適してない場所で過ごしてきたかもしれないとも思えるからだ。証券業の仕事は苦でないし成果が出せる意味では天職と思うほどだが、それとこれとは違って、人間的には適してないが技術で手なずけてきたのだと思う。

ではその大事な10人はどういう人達なのだろう?彼らはそうすることで飯を食っているわけでは必ずしもない。10人ではない人が知人を紹介してくれ、その人は彼にとってはただの友人だが僕にとっては10人に入ったというケースもある。いい話を持っているがひとりでは完成できず僕が助けてウィンウィンになったことで10人に入ったというケースもある。かように千差万別なのだが、絶対の必要条件であるのは、彼らも僕も各々の世界の「インフルエンサー」であることだ。投資機会というものは誰でも確実にもうかりますよなんて顔はしていない。リスクやコストがあってその難関を突破できる者だけに「おいしい」のだが、そうするには何らかの形で「インフルエンス」ある者同士の結託が有効なのである。

このことは、さらに大きなスケールで地球上を覆っている原理と考えてもいい。つまり、なぜ米中の国家は水と油なのにウォールストリートと中国共産党は通じているのか、なぜ宗教で激しく対立するサウジアラビアがイスラエルに接近したのか、なぜプーチンは中国の一帯一路を絶賛したのか、という一見すると??という現象は「インフルエンス」ある者同士の結託が有効であり、場合によっては歴史的諍いを封印してでもその選択が生きるためには得策だということなのだ。そういうことが起きやすいのは国民国家(ネーションステート)と民族の不一致がある場合で、どちらの利害を優先するにせよ軍事はもちろん金や利権の分捕りあいにおいても「原理」なのである。金の流れを見れば歴史がわかると言う人がいるが、それもそのいちパーツに過ぎない。ささやかながら僕が一国一城の主として日々していることはそれのミニチュア版だといえないことはない。少なくとも体感としてナタニエフならどうする、習近平ならどうするとシミュレーションぐらいはできる気がしている。

いま投資機会が複数あって目まぐるしい。出歩いてるうちに気がついたら広島カープが3連敗でシーズンを終えていた。複数の案件はできないから選択する必要がある。持ちこむ人も忙しい。昨日は東京ドームホテルのディナーで巨大買収案件の錯綜した全貌を聴いたが、それを2時間でわかる人はいないと相手が思ってるから僕に来ると思われる。それにストレートに意見し、イスラエル問題の推理を述べた。彼はそれを聴くためにぎりぎりの2時間をくれた。大物だがそれを参考に行動するのだろうから生半可な話でなくインテリジェンスである。ビジネスに確実はないがそうした進言を何度もはずしたら彼は僕を見限るだろうし、それが当然だ。つまり友達ではなくお互いハードボイルドな関係であって、お金が商品である金融の人間関係というものは秀才だとか人柄の良さとかいう世間的な要素は不要であり、そう勘違いしてる人はインフルエンサーにはなれないだろう。

一昨日は中東の著名シンクタンク首席顧問の才媛、および慶応大学教授で政治家でもある先生とランチして大いに盛り上がり、ニューオータニのラウンジになだれこんで3人で昼間の二次会になった。顧問はウォートンMBAの銀時計で米国でトップという戦績が物凄い。中東の王族が評価して当然だ。しかし、はるか上の先輩という身分は有り難いのである。ホットな中東情勢をゼロからレクチャーして下さり、トランプはMBAじゃないから先輩じゃないよねということで意気投合もした。教授も国内外で政界、官界の交友が広く東大の助教授もつとめておられ、アカデミックな世界でもインフルエンサーであるというのは大変な異能と思う。凄い人たちとお知り合いになれて楽しかった。ちなみに顧問はワグネルの第1ヴァイオリンだったというので、実は僕はついでに仕事してたみたいなもんで株より音楽のほうが詳しいといったら、椿姫の出だし最高ですよねとなって困った。ヴェルディは一音符も覚えてない。でも筋は泣けるでしょというが僕は文学的じゃなく数理的でそういうのも弱い。言わなきゃよかったと思ったらじゃあシェラザードはどうですかとなって、それなら第1楽章は暗譜で弾けますと先輩の面目を偶然に保った。

できれば飛行機だけは乗りたくないが情勢次第では仕方ない。神山先生の「安神」が効いて閉所恐怖症は鳴りをひそめているし、どうもこの病気は忙しいとそこに意識が行かないから大丈夫の気もする。問題はどれをやるかだ。まだ判断材料が足りない。

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プロ野球、人生の記憶に残る3試合

2023 OCT 17 13:13:33 pm by 東 賢太郎

僕が野球の記事を書いてるのはすぐ忘れるからだ。東京ドームに出かけてずいぶんたくさん観たが、何を覚えてるかというなら、周囲で一斉に勢いよくオレンジタオルを振り回されてホコリがかなわんなが一番、前の席の女の子がいつも宮国のユニホームで渋いなあというのが二番だ。録画しておいてもみたことがない。要は、終わった試合というのは基本的にどうでもいいのだ。

それでも、一生忘れないという試合が2つある。まず第一は神宮の一塁側で息子と目撃した「七夕の奇跡」。広島が9回に5点差をひっくり返したこれはもはや球界の伝説になっている。

代打新井。「そうか新井さんがいたか!」「なんか打ちそうだな」とつぶやいた記憶がある。打った、入った、茫然。天を揺るがす大歓声。ベンチに戻った新井がはしゃいでない。あの試合はそういうものではなくなっていた。帰り道、地下鉄の中の言葉は「野球は怖いな」だ。あれから6年。小川投手はエースで健在だ。ノーノ―もやった。体も心も強靭な、本当に素晴らしいピッチャーである。

第二に、中村兄と博多に行ったおりに中島兄が手配してくれたオリックス戦だ。9回に4点差をひっくり返した柳田のサヨナラホームラン。まさかまさかという空気だったがやっぱり出てしまった。茫然。ペイペイドームを揺るがす大歓声に花火。打たれたクローザーの佐藤を心配してしまった。彼もその後は難なく立ち直っていたからさすがだったが、オリックスファンの故中村に勝ちを見せてあげたかった。

奇跡の逆転サヨナラホームラン

そして、昨日のパリーグCSファーストステージ第3戦、これはテレビ観戦だが人生三番目に来るだろう。この試合でセカンドステージ進出が決まる。ロッテ小島、ソフトバンク和田と両先発が好投して9回まで0-0の息詰まる展開。しかし10回表にロッテ5番手の沢村が打たれて3失点と予想外のことがまず起きる。万事休す。誰もがそう思った。ところがその裏、代打・角中が10球粘ってヒット。荻野はボテボテの内野安打。まさかとは思ったが次は藤岡。「ホームランないんだよなあ」とつぶやいたら同点3ラン。さらに岡がヒットで打席に安田。ライトはフェンスまで後退。右中間に2ベース。まさかとは思ったが岡が凄い走塁でセーフ。サヨナラ。

中島兄はじめすべてのホークスファンには悪夢だったろうし、仕事疲れで半分居眠りだった僕は仰天し、すぐにオーナー(ほんもの)にショートメールしたら「もうダメだと思ってたよ」と即返事。そしてホークスはすぐに藤本監督の退任、小久保二軍監督が昇格のニュースが出た。そのぐらいのことだった。藤岡は公式戦でホームラン1だ。なんということだろう。どうしてもピッチャーが心配になってしまうが、打たれた津森はマウンドで泣いていた。打った方が見事だったんで仕方ない、野球はこういうことがある。それにしても9回にフライを追って頭を打った三森は大丈夫だろうか。

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新井カープ「孫氏の兵法」でCSファイナルへ

2023 OCT 15 18:18:01 pm by 東 賢太郎

今日もよく勝った。

外へ出ていて7回、2-0を確認していた。帰ってみたら2-2だった。そして8回、先頭の1番菊池がさすがのヒット。2番野間はバントのサインだったが2つ見逃してツーストライク。空気悪くなる(上茶谷投手の低めが伸びていた)。サインが打てにかわってショートにボテボテ。内野安打。3番西川。今永からホームラン打ってる。解説者ふたり(山本浩二、野村謙二郎)とも「打たせるでしょう」。そこでバント。満場がだまされてびっくり。上茶谷もあわててサード野選。無死満塁。本当に新井の采配は素晴らしい。これぞまさしく孫子の兵法「兵は詭道なり」である

そこで代打でライト前に快心の決勝打を放った田中浩輔!今年のカープの躍進は峠を越したと誰もが思っていたこの男の復活が底力になった。それは4月に書いたこの稿にある。

点と線(田中広輔と小園海斗の場合)

投手起用にもインテリジェンスがある。

この試合先発の森下は公式戦後半は立ち上がりが悪く、バンテリンドームで観た中日戦では先頭から5連続ヒットを打たれていた。普通の監督なら第2戦は安定した九里で行くが、森下に「第2戦は彼しかいないでしょ」と公言して九里はロングリリーフに使った。プライドの高い森下の力をうまく引き出し、昨日はその九里が2回投げて抑えた。

森下は無失点でしのいできたが、6回先頭の新人林にあわやホームランの2ベースを打たれ1死3塁となると大道にすっぱりかえる。この交代は森下は屈辱だろうがここまで零封だから成功だ。打者は大田、牧。大道はいま島内と双璧の球威がある。大田を二飛に打ち取りタッチアップは封じ牧は右飛で無失点。その裏、きのう東を打つと燃えていたが不発でスタメンを外された末包を代打に出してもう一人の難敵左腕、今永からいきなりホームラン。空気を俄然変えた。カープの監督でこんなに采配が的中するケースはあまり記憶がない。

昨日も今日も高校野球みたいな緊迫のナイスゲームだ。DeNAもしぶとく強かった。打線の迫力はカープより上であるし東、今永はリーグ最高峰の左腕だった。9回先頭で代打に起用された41才の藤田。最後の打席になった。栗林のフォークを見事にすくって芯に当てた右飛。やられた、やばいと思った。さすがだ。

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