クラシック徒然草-ラヴェルと雪女 (ボレロ)-
2013 AUG 13 0:00:20 am by 東 賢太郎
ラヴェルを聴きたい。やっとそういう気分になった。その気分がやってくるのは僕の場合年中行事だ。いつもは春だが、今年はどういうわけかおとずれが遅かった。
ラヴェルはどこが好きかといって、よくわからない。どうして好きかというと、これもわからない。とにかくいい。高校時代にピアノ協奏曲やらダフニスやらをよく聴いたから、ほぼひと目ぼれだったろう。ウマが合ったということだろうか。ただ、ラヴェルとのおつきあいは、やっぱりウマが合っているブラームスなんかのとはずいぶん違う。というのは、ブラームスは人肌のぬくもりがあるがラヴェルの音楽はひんやりと冷たい。どんなに恋焦がれてもむこうは熱くならず一向に近寄ってもこない女性みたいな感じがする。ひょっとすると雪女かもしれない。いや、雪女がどんな姿かは知らないけれど、絶世の美女なのに人間の魂が、ハートが、なんともなく希薄という不思議な存在なのだ。
ボレロという曲がある。すごく小人数でしずしずと始まってずっとおんなじリズムとメロディーのくりかえしだ。あまりにおんなじなので、だんだん耳と意識がマヒしてくる。それがそのうち音がだんだん大きくなって、楽器の数も増えてきて、ふと気がつくと舞台は全員参加で音をはりあげている。そうして最後のところでキーがハ長調からホ長調に3つあがるとボルテージは一気にはね上がって、ついに金管の雄叫びがあがって雪崩のような大団円となる。客席はブラヴォーの嵐でものすごい興奮につつまれる。
ところがだ。このときいつも思うのだが、指揮者もオケも汗ぐらいはかいているが、どうもちょっと覚めているように見える。ベートーベンやマーラーを格闘して弾き終えたのと明らかに違う感じだ。ご本人たちがそう感じているかはともかく、スポーツを終えた感じ、中距離を走ってゴールインしたランナーを見ている感じに近いといったら言い過ぎだろうか。そういう雰囲気を察するとこっちも、なにか幻術にでもかかっていたような気がしてきて、そうして、ああ、あれは雪女だったんだということになるのだ。これをご覧いただきたい。
客席と舞台の温度差をお察しいただけるだろうか?リッカルド・ムーティー指揮のフィラデルフィア管弦楽団。僕が現地で2年間聴いていたコンビが85年に来日した時のものだ(youtubeからお借りしました)。このオケがのった時のすごさを見てしまっている僕として、これはずいぶん安全運転のテンポであり、名人たちが余裕しゃくしゃくで楽器のデモでもやっている風情である。ボレロとしてはかなりクールな、申し訳ないが平凡な部類の演奏といえる。非常に珍しいことにトロンボーンがとちっているが、こんなことは2年間でもほとんどなかったから貴重な映像だ(あそこは難所で有名なところ)。しかし、客席は興奮してしまう。雪女おそるべしだ。
ボレロというと、伝説がある。トスカニー二とラヴェルのケンカである。ボレロは1928年、ロシアの舞踏家イダ・ルビンシュテインの依頼で作曲された。トスカニーニはその2年後にニューヨーク・フィルハーモニーの欧州公演でこれをパリ・オペラ座で演奏したが、それを客席できいていたラヴェルは「速すぎる」と文句をつけ、トスカニーニは「あなたは自分の音楽がわかっていない。こうやるしかないんです!」とやり返した。すごいもんだ。トスカニーニは演奏に15分ぐらいかかるこのボレロを何回振っても1秒も狂わなかったそうだ。すごい。我が国では面白い試みとして大晦日の「東急ジルベスターコンサート」のカウントダウン曲として、過去18回中に4回これが使われた。曲の終了と同時に「新年おめでとう!」のはずだったが、4回やって2回は着地失敗している。
僕は浪人中によくお茶の水駅前の音楽喫茶で油を売っていたが、そこで衝撃を受けたのがトスカニーニのボレロだ。細かいことは忘れたが、ソ、ドとひっぱたくティンパニが腹に響いて、当時自分の家の装置からは絶対に出ない迫力に圧倒されたことをまじまじと覚えている。それがこれだ。
ラヴェルが怒るだけあってテンポは速い。だから演奏し慣れていないオケはかなり危ない。まずクラリネット。そしてトロンボーンはよれよれだ。しかし、これは吹きなれたフィラデルフィアの名手でもとちる。NBC交響楽団がヘタなはずはない。1939年録音だから作曲後11年ということもあるが、ラヴェルと口論してキレてしまったトスカニーニが37年までラヴェルを指揮しなかったから仕方ない。そして、これはよく聴いて欲しいが、テンポは非常によく動いている。調節しているとも思えないが、これで毎回同じタイミングになるのは神業だ。
最後に、雪女でも燃えることがあるという希少な演奏をみつけた。僕がカーチス音楽院でお会いする12年前のチェリビダッケだ。テンポはムーティとほぼ同じである。しかし、なんと若々しい!ホ長調になる寸前のすさまじい形相。あれでにらまれたらオーケストラも音で返すしかない。これをアップしてくれた人に感謝したい。
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花崎 洋 / 花崎 朋子
8/14/2013 | 8:45 AM Permalink
まさにトスカニーニの天才振り、自己藝術への信念の強さを物語るお話ですね。現在は持っていませんが、アナログレコード時代にラベル自身が振ったボレロを聴いたことがあります。想像通りにたいへん遅く、敢えて単調さを強調しているような、空虚感の漂う演奏でした。チェリビダッケは若い頃は、テンポの速い、切れ味の良い演奏も多かったですね。
東 賢太郎
8/14/2013 | 11:30 AM Permalink
トスカニーニは37年に改心し、ラヴェルを振り始めたのですがラヴェルはそれを聴くことなく亡くなってしまったそうです。「毎回1秒たがわず」、というのは証拠があるわけではないでしょうし歴史の誇張も混じっているのかもしれませんが、仮にそうとしても、テンポはそれしかないという指揮者の信念が演奏からも発言からも伝播していなければ出てこない誇張とも思います。
作曲者に向かって「あなたはテンポをわかっていない」とまで言った挙句にそのテンポがコロコロ変わるようであれば、トスカニーニはまず人間として評価されなかったでしょう。一度言った言葉の落とし前とはいえ作曲家は人生と名誉をかけて曲を作っているのであり、それは死んでしまったラヴェルのために必要なことでした。それを自分も死ぬまで守ってやり通したトスカニーニは男として立派だと思います。
以前書きましたが、晩年になって新人無名作曲家の曲のプローベであれこれ作曲家から注文をつけられて爆発を恐れた周囲に対し「この曲を一番知っているのは彼だろ?」と冷静だったという話はこの体験につながっているのではないでしょうか。
花崎 洋 / 花崎 朋子
8/15/2013 | 9:15 AM Permalink
はい、凡人の私からは想像も出来ないような「研ぎすまされた完璧な技量」(私はトスカニーニほどの技量の持ち主であれば、1秒違わずは本当だったと確信します)、「全く揺るがぬ信念」など、人間の格の違いを嫌というほど、感じますね。
東 賢太郎
8/15/2013 | 11:22 AM Permalink
僕は彼を人間として支持します。