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クラシック徒然草-クレンペラーとモーツァルトのオペラ-

2015 JUN 12 2:02:01 am by 東 賢太郎

712C0XWlK2L._SL290_オットー・クレンペラー(Otto Klemperer, 1885年5月14日 – 1973年7月6日)という人は作曲家でもあり6つの交響曲、9つの弦楽四重奏曲、ミサ曲、オペラ、歌曲を書いていますが「それらの作品はほとんど省みられることはなく、評価の対象にすらなっていない」(wikipedia)ようです。トスカニーニやカラヤンがそうだったという話は聞きませんが、フルトヴェングラー、ワルターはやはり作品を残しています。作曲家の落ちこぼれが指揮者といっては失礼だが両方で成功したR・シュトラウスやマーラーもいるわけで、現実的にはそう見えます。

後述しますが僕は作曲家と演奏家は人種が違うと思っています。マニア(mania)であってもなくても演奏はできるが、マニアでないと作曲はできないと思うのです。マニアというのは辞書によると「躁状態」とか「信念や行動に対する不合理だが抑えがたい動機」なんてある。マニアックとは、そういうものを持った人のことです。

何とかキチとか何々オタクってのがそうです。前回ブログに大阪人のほうがマニア的資質の人が多いと書きましたが、虎キチはいても巨人キチはいませんよね。あるとするとG党ですが、キチの域には達してなくてちょっと冷めた趣味的、同好の士的な集団のように思います。

僕は生まれつきのマニア資質です。子供のころ、外で遊んでいて「夕方だから帰ろう」という子がいる。なんで?**ごっこが佳境に入ってるのに!と思うのは僕だけなんですね。みんな「帰ろ帰ろ」になってすぐ誰もいなくなっちゃう。

このこだわりのなさ、このあっさり感は、5時間でも10時間でもごっこをやっていたい者にとってつらいものでした。そういう子たちとは友達になれませんでした。そんな少年時代でしたから、高校でクラブに入って、死にそうだ、もう終わりたいと思うまで毎日一緒に野球をやってくれる仲間ができた時は本当に幸せでした。

だから同じように、朝から晩まで音楽やってる演奏家はマニアなんだろうと思ってました。ところがオーケストラのリハーサル時間が長いと組合が指揮者に文句を言ったなんて話もごろごろある。「仕事」なんですね、寂しいですね。デスクワークみたいに大過なく片付けて早く帰りたいということのようです。

そういう人はマニアでもオタクでもキチでもない、れっきとした普通の人です。オッフェンバックの歌劇「ホフマン物語」にオランピアというゼンマイ仕掛けの歌う人形が出てきますが、そういう話を聞くとオーケストラの面々がみんなオランピアに見えてくる。そこに生命を吹き込む指揮者という人が、だから必要なんでしょう。

ところが作曲家というのはマニアです。書きたいものは時間を忘れ、夜を徹してでも何千時間かけてでも書くのであって、モーツァルトがオペラを時給いくらで書いたり、自分用に別のアリアを足せといわれて残業代を要求したなんてことはないのです。あと1万円くれればもう5小節書いてもいいですよなんて人間ではありません。

だから組合活動に精を出すような演奏家と作曲家とは人種が違う。僕はマニアですから、音楽をやはりマニアである作曲家寄りに見ています。自分の心の声ですから正直に書きますが、声や楽器を大衆好みに派手に扱うだけの演奏家はどんな大家であろうと芸人と思ってしまう。芸人がいい悪いではなく、時給いくらの芸は心を打つことはないということです。

220px-Otto_Klempererもちろん演奏家にもマニアがたくさんいます。演奏することのマニアですね。オットー・クレンペラー(右)は代表格でしょう。知人が家を訪問すると彼は全裸で楽譜に向かっており、知人には構わずそのままの姿で楽譜を研究し続けていた逸話がWikipediaにあります。僕はクレンペラーのそういうところが好きで、彼がマニアックにこだわった部分がだいたい想像がつくと勝手に得心しております。それに直感的な共感があるからです。

ユダヤ人の彼はナチの排斥によってドイツ物を振れるドイツ人指揮者が枯渇した英国でEMIに登用され、だからドイツ物が評価され、その奇矯で偏屈で激しやすい性格と女グセの悪さにもかかわらずロンドンで敬愛されました。僕がロンドンにいたころも、年上の英国人のお客さんで音楽好きな人たちはみな彼をきいていて、大体がほめてましたね。

我が国ではフルトヴェングラーを賛美するような性質のファンがそのアンチとして崇めていることが多い音楽家という印象です。実演に接してではなくレコードだけでの偶像崇拝だから仕方ないのですが、彼は楽譜をドライにクリティカルに見る人でフルトヴェングラーと同じ座標軸で比べることのできない指揮者です。メンデルスゾーンの3番はエンディングを直してしまうし、恩師マーラーの1番や5番は批判もしていて、望めばEMIにいくらでも機会をもらえたでしょうが、2、4、7、大地、9番しか録音していません。ブルックナーは4番以降は全部残しているのに。

彼のベートーベンは不動、堅固、悠然、堂々、孤高などという日本語でその威容を形容されることが多いのですが、それは彼の特色というよりもベートーベンがそういう音楽なのであって、彼の楽譜の読み方が音楽のそういう側面に目が行く傾向のものだからです。そしてそれは僕としては共感できるベートーベンです。あの楽譜をそう読みたいという欲求が僕にも強くあるからです。

フルトヴェングラーのように全体の雰囲気が先にあって、その時の感興によって流動的に音楽が生成されていくアプローチは、はまった場合のインパクトは強いのですが、僕は楽譜の読みより芸を感じてしまう。芸人ですね、一流ですが。ワルターの読みは柔和です。浪漫的ですらある。ちょっと違いますね、曲によって。トスカニーニは直線的で筋肉質ですがドライではない。クレンペラーの方がずっとドライです。

ここでドライというのは無味乾燥ということではありません。ウェットな感情による味つけが僅少だという意味です。もちろん感情が動かない曲は演奏しないでしょう。しかしそれは曲が持っている力であって、それを増幅したり恣意的に加減しない。クレンペラーの楽譜の読みにはどの曲にも共通してそういうマニアックなディシプリンが感じられます。ペトルーシュカからエロイカまで。そしてその方法論がワークしないなら、それは振らないか、楽譜を改訂してしまう。解釈論としてそれを解決はしないのです。

それをお示しする格好の題材がモーツァルトのオペラであります。彼は「フィガロの結婚」、「ドン・ジョバンニ」、「コシ・ファン・トゥッテ」、「魔笛」を最晩年に録音しました。中でも圧倒的に不人気なのが「フィガロ」でありましょう。彼が神であった英国ですらそうでした。僕のお客さんのひとり、最も尊敬していたD・パターソン氏、彼はケンブリッジ大学首席の知の巨人でしたが、「あれはいかん、遅すぎる、彼は年取ってから腕の運動機能が落ちてたんだ」と残念そうにいってました。彼以外もみなさん一様に「フィガロらしくない」という。

たしかに、唖然とするほどテンポが遅く、管弦のアーティキュレーションに異常なこだわりを感じ、三重唱「Cosa sento!(なんということだ!)」のあの天才的和声がおどろおどろしく響く。こんな「怖いフィガロ」は英国ではあり得ないわけです。ひと山当てたかったモーツァルトは絶対にこんなテンポで指揮しなかったでしょう。しかしクレンペラーは交響曲なども録音していて、リンツの終楽章などはそこそこ速い。運動機能説には納得しかねるものを感じてました。

41XGHP7DPKLドン・ジョバンニの地獄落ちの場面をクレンペラー以上に迫真の恐怖でもって描いた人は後にも先にもありません。これぞ真打の呼び声高い名演であり、こちらの方は一転してクレンペラーを讃える人が少なくありません。しかし、ここでも彼はフィガロと「同じ読み」をしているだけでドン・ジョバンニに歩み寄ったのではない、ドン・ジョバンニがそういうオペラなだけです。

極めてシリアスにしかし立体的に響くオーケストラの強奏はブラスが不吉にとどろき、教会でまろやかにブレンドされたような「モーツァルト的」音響ではなく、現代音楽に適したクラリティを持っています。フィガロの録音と同じ音がしています。騎士長のフランツ・クラス、タイトル・ロールのニコライ・ギャウロフの重い声が決定的に効いているのですが、彼らを選んだクレンペラーの歌手を選び抜く眼のクオリティは高く、彼の読みに適した「素材」の選別に妥協がないと感じます。

おどろおどろしい演出なんかちっともしていない!効果はモーツァルトがちゃんと譜面に書いているだろ、という「読み」の底力です。モーツァルトの譜面とだけ向き合ってこういう風に読もうとする、世間一般の通念など歯牙にもかけぬマニアックぶりはただただ嬉しくなります。フルトヴェングラーやワルターとは比べ物にならない、「ドライでクリティカル」な眼です。お聞きください。

コシ・ファン・トゥッテは4作の最後に録音され(71年)やはり音楽はやや遅いテンポでごつごつしてます。ベートーベンのように響く部分もあります。アンサンブル・オペラですから重唱が命ですが、楽器の明瞭なアーティキュレーションと歌手の明瞭な発音が素晴らしくシンクロナイズして独特の「濃い」味になっています。フィガロもそうですが、音楽をすいすい水のように流すということがなくオケは常に彫りが深く立体的で、立派そのもの。

そして女性陣がマーガレット・プライス(フィオルディリージ)、イボンヌ・ミントン(ドラべラ)、ルチア・ポップ(デスピーナ)と僕の好みの人ばかり並べられ、もう抗しがたい。素晴らしい歌が聴けますからフィガロが耐えられない方もこれは大丈夫でしょう。この曲にしては軽さがない、まじめ過ぎ、フィデリオみたいなど批判は予想されますが、僕は筋や舞台にはさっぱり興味がないので、この音楽の栄養分だけで充分です

5184ryk-y2Lそして、「魔笛」です。4作のうちでは一番早い64年とはいえ最晩年であったこの録音が自身の最後の魔笛であることは明白だったでしょう。オーケストラパートの彫琢はここでさらに光輝を増し、「おれは鳥刺し」の第2ヴァイオリンなど一聴して耳がくぎづけになったことを鮮明に記憶しています。

いうまでもなく魔笛はドイツ語による音楽劇(ジングシュピール)です。レチタティーヴォではなくセリフで語られるその筋書きのばかばかしさは、この音楽がなかったら1年もたずに歴史の闇の中に消え去っただろうという代物です。クレンペラーはそのセリフをばっさり省いています。そんなものはこの奇跡のような音楽のまえではどうでもいい。まったく同感であります。

クレンペラーは自身の魔笛をこの世に残すにあたって、モーツァルトの書き残した楽譜に潜む彼の天才をえぐりだすことだけしか眼中になかった。そのまま劇場で上演することも眼中になかった。モーツァルトのため、後世のために、音楽の真実を刻印しておきたかったのだと思います。この魔笛を聴いてあのフィガロのテンポがわかり、今ではあの録音を心から楽しんで聴いています。フィガロはケッヘル番号で492ですが、491はあのピアノ協奏曲第24番です。

この歴史的録音は女声の勝利ともいえます。夜の女王にルチア・ポップ、パミーナにグンドラ・ヤノヴィッツ、そして驚くべきは野球なら8番、9番バッターである第一の侍女にエリザベート・シュワルツコップ(!)、第二の侍女にクリスタ・ルートヴィッヒ(!)という録音史上空前絶後の豪華さ。めまいがします。

かたや男声はニコライ・ゲッタのタミーノは善戦してますがワルター・ベリーのパパゲーノがやや弱く、非常に重要な重唱を歌う二人の武者は勘弁してくれというレベル。それを彼はあまり重視しなかったのは僕には不満ですが、にもかかわらず女性軍の壮絶なパワーによってこの録音は永遠の輝きを放っているのです。このポップの夜の女王のアリアを凌ぐものを僕は聴いたことがないし今後もないでしょう。三人の侍女のアンサンブルの美しさは天国もかくやの神品ものです。

とにかくピッチがいいわけです。音楽の基礎の基礎、基本の基本です。でもできない人が多い。一人でもだめだとアンサンブルは台無しです。その他のああだこうだなんてこれができないなら言っても何の意味もないんです。そこに彼がこだわったからそうなったのは明白でしょう。ポップとヤノヴィッツとシュワルツコップとルートヴィッヒを選んでもってきた。できる人だけを揃えた。彼は言葉の真の意味におけるマニアなんです。その魔笛です。

モーツァルトのこの4つのオペラはまぎれもなく人類最高峰の文化遺産であり、何度観たりきいたりしたかわかりませんが、きけばきくほど心に泉の如くこんこんとわきおこるのはモーツァルトへの感謝の気持ちのみです。

おそらくそう思っておられるモーツァルトファンは数多いでしょう。大事なものであるからこそ、人口に膾炙しないクレンペラーの録音、特にフィガロは異端にされてしまったのではないでしょうか。しかし、僕はこの4つの録音をきいて、クレンペラーもモーツァルトに感謝の念を強く抱いていた人であろうと信じております。

とくにクレンペラーのファンというわけではないのですが、彼が自分にとってとても大事な音楽家だと思っている理由がひとつだけあります。きっと5時間でも10時間でも**ごっこで一緒に遊んでくれる子だったろうという気がするからです。

 

モーツァルト「魔笛」断章 (私が最初のパミーナよ!)

 

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