加計学園問題を注視すべき理由
2017 MAY 26 19:19:51 pm by 東 賢太郎
加計学園問題での文科省と官邸の騒動ですが、前事務次官のかような発言は前代未聞です。かつて官僚主導といわれた時代は政治家が役所の判断を忖度して意思決定したのでこういうことは起きなかったのだと思われ、「官邸主導」という政治力学に移行したことに起因するいち事象と理解しております。
官邸が国策運営の意思決定において前面に出だしたのは小泉内閣からと思われます。安倍内閣が同様に高い支持率を得てその路線にある。このことの是非がまず第一にことの本質ですが、安倍政権が盤石であるのは対立軸の野党が弱すぎる外的要素もあり、国民が全権をもって主導させたい現況にあるかどうかは疑問である。そのきわめて重要な前提をふまえた上で、あえて私見では、それは少なくとも非ではなく、是に近いだろうと考えます。
政治は全員が賛成するわけではない国策を「決める」のが仕事であって、速くて概ね正しい決断をするのであればそれがトップダウンでも合議制でもかまいません。世界情勢が急転している現状で意思決定の速度は必須ですから、三権分立が堅持されている限りにおいてはそれは行政府の組織論に過ぎず、官邸主導(=トップダウン)が一概にいかんという理屈は立たないと考えるからです。
ではトップが意思決定を下せば実行が速いかというと、ことはそう簡単ではなく、形式的に速いというのは危険なだけであるし、反対者は必ずいるし、稟議ではどこかで滞るし、酸いも甘いもかみ分けた中間管理職が「忖度」してくれることは思うに必要条件であります。
つまり国民的に「忖度」はいかんということになってるが、大企業で組織の長をやった人なら誰でもわかると思いますがそれなしにトップダウンなど絵空事なのです。また官僚は国民のために仕事をするのが建前ですが、会社員なら株主と上司どっちが大事ですかという質問と同じであり、人事権を実質掌握する官邸を見るな、赤を青というなといってもサラリーマンですから無理です。
結論を官邸が推した。それこそがトップダウンであり、文科省が忖度して意思決定を迅速にした。何もおかしくない。それを不当な圧力と批判するなら、本稿の冒頭に立ち返って「トップダウンはおかしい」とまず議論すべきなのです。誰もそれをしないのなら上司の普通の命令をパワハラだと騒ぐに等しい。
いずれにせよ、そのようなものは組織論であってそもそも加計学園問題とは関係ありません。また前事務次官が出会い系バーに通ったとか地位にしがみついたとか、それはそれで職務上の適格性の議論はあろうがそれなら官邸は事務次官にしなければよかったわけで、本件とは関係ありません。
すなわち、事の本質は、「なぜ加計学園だったのか」に尽きるのです。それとて安倍首相が加計孝太郎氏のお友達でさえなければ俎上に上がることもなく、本件は何の問題でもなかったでしょう。
国民は官僚を選挙できないし事務次官を選ぶ権限もありません。国会議員に選挙でゆだねてそれを代行してもらうしかないですから、議院内閣制とはいえ官邸主導政治の権力構造は大統領制に接近します。しかも、大統領権限は明文化されているが、議院内閣制の中では接近の度合いがルール化されていない。これが大きな問題なのです。
朴大統領は側近の不法な関与が発覚して失脚したがトランプ大統領は娘婿を側近においています。これはお友達以上に何かあるだろうと外見的には見えるわけですが、不法な「何か」がなければ問題ではないということです。大統領という個人の資質にそこまでは行政を委ねる仕組みであり、弾劾し暴挙は抑止する予防線がある。現実に朴は弾劾罷免され、ニクソンは訴追され辞任しました。
周知の通り日本国憲法に首相弾劾の定めはなく、辞めさせる方法は内閣不信任決議のみであるから、実は三権分立と言っても司法の関与がありません。しかも決議は衆議院本会議で出席過半数によるため与党議席数過半の現状でクビになる可能性は限りなくゼロに近い。つまり安倍政権はトランプ政権より法的には安定しており、やりたい放題に見える米国大統領よりもっとやりたい放題できるということを国民は自覚しておくべきです。
かような一党支配状況においても戦後の日本国が道を大きくは誤らずに来たのは、官僚が実質的に政策関与してきたからだと僕は考えております。政治家がぜんぶ馬鹿だとは言わないが、大臣とて著しく資質に欠ける者もおり選挙はポピュリズムの傾向を増している。それをポピュリズムの火元である国民にわかれというのは無意味だから官僚の資質というものは政治家の暴走への抑止力です。
官僚がぜんぶ賢いとは言わないが、人材プールとしての質の高さはまぎれもなく世界でトップレベルであり、これだけの人材がこぞって役所に入って安月給で徹夜で働いてくれるなど米国では考えられないことです。2014年の内閣人事局設置で官邸が官僚人事を実質的に全面掌握したことがプールの質的低下をもたらすか否かはまだ不明ですが、出世競争のルールが変わったのは明らかであり、志望者の質を左右する種が既に撒かれているのは事実でしょう。
では加計学園に「何か」はあったのか?国民の視点としてこれを国会で追及するのは当然のことである。しかし官邸に首根っこを押さえられた現役官僚は人質に等しい中でどこまで物証があがるかは甚だ疑問だ。そこで法的抑止力はない、マスコミも人質だ、野党は無能力だでは話にならない。この問題は日本国のガバナンスを揺るがしかねない重大事案として注視したいと思います。
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Categories:政治に思うこと
東 賢太郎
7/3/2017 | 4:47 AM Permalink
本稿を5月に母の病室で書いた時点では、こんなに国民的な大問題になるとは思っていなかった。それ以来新稿をアップしてないので、僕のブログを読みに来ていただいた大勢の方々はみな本稿からお読みになっただろう。いまも書いたことが正しいと思う。
原理原則として、議院内閣制において国民は内閣総理大臣に100%の授権をするわけでは全くない。首相は全国民による統一選挙で選ばれた大統領ではないからだ。一選挙区で選ばれたにすぎないひとりの国会議員に全国家権力を付託するなどあり得ないのであって、絶対多数政党の党首であることがそのみそぎになるなどという理屈も全く成り立たない。党首は国会議員だけの投票で選ばれるわけではないからだ。
これは議院内閣制の重大な欠陥であるが、大統領より強い総理大臣が生まれてしまう。一見そうは見えないからいけない。しかも我が国ではいったん選ばれてしまったら首相はおろか議員すら縛られる法律はザル法の政治資金規正法しかないと言って過言でなく、それを補完するオンブズマン制度のような監視機能もない。なったら勝ちであり、国会議員どころか都道府県の首長も議員も一緒なのは温泉視察の野々村議員や税金でパンツを買っていた舛添都知事を挙げるまでもない。
唯一の歯止めは国会だが、絶対少数の野党には権限はなく論戦で国民にアピールして次の選挙で民意に問うしかない。政権がそれを封じる手として、目下の政策運営にとって枢要であり質疑の焦点となりそうな省庁にはあえて頭の悪い大臣を据える「暖簾に手押し」戦略がある。「糠に釘」とも言う。攻撃する野党の方が馬鹿に見えるという孫子の兵法にもない妙手であるが、これが議院内閣制の重大な欠陥を覆い隠す光景は看過できない。
防衛省がまさにそれだが、安倍さんお気に入りとはいえここまで本当に頭が悪いと手の施しようもない、武官の方々がつくづく気の毒に思うし、軍隊の面従腹背ぶりは見ていて滑稽ですらあり僕の周囲では最近同情を超えて「あれは不愉快きわまりない」という声があがっている。国民、というか自分らまで舐めきっていると感じるらしく、あれなら蓮舫の方がまともに見えてきたという御仁まで現れて驚いている。僕の周囲のような層の連中は、僕自身も含めて安倍内閣をこれまで支持してきたわけで、この空気の変化が象徴するものが都議選で都民ファの順風になったろうし、今や小池新党が国政で反日でないまともな対抗勢力になるなら歓迎だと思っている。僕は基本的にブルジョア大嫌いのリベラルだ。
東 賢太郎
7/5/2017 | 3:49 PM Permalink
自民党の都議選大敗。公明党ロスもあるが、やはり「モリカケもみ消し」のイメージ悪さが致命傷である。何か隠している、悪事に違いないという疑念によって官邸は「悪代官」になった。日本人はそういうステレオタイプにいちど嵌ると修復は難しい傾向がある民族である。悪代官は悪い奴で奸計を隠してるのだから、菅官房長官が鉄面皮で説明を拒めば拒むほどそのイメージは倍加したのである。小池百合子が「情報開示が大事」と謳ってその弱みに見事つけこんだ。この洞察とケンカ、プレゼンの仕方は見事。海外のやくざ者と伍する実力がある。
モリカケで官邸は相手を「いかがわしい人」と印象操作したが、それを事務次官にやったのは決定的なダメージである。この驕りは修復不能だ。理由があってクビならともかく、人格・尊厳を傷つける仕打ちは事務次官になるのがどれだけのことか知ってる者から見ると、なんだこいつらお前は何様だとなる。本稿はその時点では抑えめに書いたが、要するにそういうことだ。前川をここぞとあることないことたたいてる連中は安倍のポチ、ヒラメ、コバンザメか雑魚のそれ狙いの奴らばっかりである。役所には入ったが出世は所詮だめでテレビ芸人になった奴が官僚のクズなんていってるのはお笑いだ。
書いた通り、トップダウンが悪いとは微塵も思わないし、官僚の忖度はそれがワークするための必要条件である。問題は、トップに「不浄」があるときにのみ発生するのである。本件はそれがあるかないかが本質である。お友達、お気に入り、奥方、別にけっこうだが何もないことを祈るのみだ。
東 賢太郎
7/8/2017 | 5:33 PM Permalink
「選挙戦の最中に(稲田朋美)防衛相をクビにしていれば、小池百合子都知事(が率いた都民ファーストの会)はあんなに勝っていない」(7月4日、野中広務・元自民党幹事長の発言)
僕がこれを会社の方のブログに投稿したのは3月17日だ。ここで切っておけば政権の傷はずっと浅かった。
http://sonaradvisers.co.jp/2017/03/17/1317/
8月3日に「内閣改造にまぶして膿だし」するようだ。この大臣殿には一抹の関心もないが、こんなのを本気で首相後継に考えてるのかどうかは重大な関心事だ。そうであるなら人を見る目が真正に欠落しているか、人事はネポティズム(縁故主義)でやるという危険人物であるか、どちらかであるという判定を下さざるを得なくなってしまう。どっちであっても、もうアウトという結論になる。
東 賢太郎
7/14/2017 | 5:04 AM Permalink
これを書いたのは今年の1月、トランプ大統領就任に対する我が国のマスコミの反応を見ての実感だった。
http://風紀委員を装って世論操作の愚/
この時点でトランプは米国マスコミの敵であり(今でもそうだが)、それを主たる情報源としている取材力を欠いた本邦マスコミが日本的な「いかがなものか」のスタンスを加味して報じていたのは今となれば万人のご納得の及ぶところであろう。
他国の政治家をたたいたところで何の国益もないのだからトランプに野次馬扱いされた米国の同胞へのエール、乃至は明日は我が身の危機意識というところ以外に比較的まともな動機を求めるのは困難であり、あるいは単なる「いかがなものか」のお祭りばやしに過ぎなかった可能性すら否定はできない。いずれのケースにしろ、トランプのツィッターが自家製瓦版であるとの認識のもとに言うが、それに反応する両国のマスコミは風紀委員どころか野次馬か瓦版であるかとの疑念を抱かせた一件であった。
しかし本稿の主役は他国の政治家ではない。これは国益に関わる一件である。
「一党一強体制における議院内閣制下で官邸主導政治の権力構造は大統領制に接近するが、本来が一強である大統領制にはストッパーが法的にビルトインされているが我が国にそれはない危険な支配構造である」という現況の法体系において、マスコミ(あらゆるプレス、報道)の立ち回り方は注視される。ただでさえストッパーが欠落する現況で憲法改正など論外であるというロジックは外見的にはメークセンスであろう。国防上必要である9条改正までスタックする可能性もあるし岸田外相まで今はすべきでないと明言している。
古今東西、強大な権力は多数の「犬(ポチ)」を飼育愛玩し「ヒラメ」と「コバンザメ」を大量発生させてその養殖場、培養器となるのが避けがたいことは世界の歴史を真面目に学んだ人には反論の余地はないと思われる。従って、時の権力者の愚を説いても人間の本性であるから根絶は不可能なのであって、安倍首相はこんなひどい、いや野党こそ無能だ云々の印象操作合戦は不毛である。まさに人間性悪説という前提で権力構造を規定するのが人類の叡智と妥協の産物と教わった歴史の重みを実感する光景なのであり、三権分立はその果実なのである。
立法府を制する一強の一党が、その支配する行政府をポチ、ヒラメ、コバンザメで固め、司法は弾劾、罷免に関与できない構造である我が国の現況に三権分立は存在しない、あるいは法的に変更手続きは経ていないが戦後の自民党一党支配のもとでそれを擬制に落とし込む余地があることを見抜いた小泉政権の官邸主導の方策が実質的に巧妙に疑似制度化されつつあるのが現況であると書いたほうが実態に近いであろうか。近世以降の世界の政治史に照らしても危機的な構造であるという指摘を原理原則の本質論から誰もしないのは不可思議ですらある。
しかもこの期に及んで、権力の番人を自称するマスコミの一部が本質論をぶつどころか実は行政府のポチであったという驚くべきケースが発覚してしまう。語るもおぞましいと思っておられる有権者は数知れないであろう。何度も書くが、いま国民が真剣に注視し議論して次の国政選挙で適否を問うべきは「危険な支配構造」を指摘して変革してくれる国会議員、ローメーカー(立法者)は誰かということなのである。支配と危険は裏腹であり国民国家に支配は必要悪であるが、人間である以上欠点なき支配者はいないのであって、さような者は国民が斬るシステムをビルトインすればいいのである。しかし国会議員が自分を斬る仕組みを作りたくはない、それも人間だ。
権力は生殺与奪権である人事を支配の要とする。長く行使すると人事は「ポチ、ヒラメ、コバンザメの家庭内品評会」と化する。自民党にいたがそれではなかった小池百合子の人気の一因は、都議会への大ナタと報酬半分カットの断行で身を切る改革ができる人材かもしれないと有権者が踏んだことにあるだろう。しかし小池とて権力である以上ポチ、ヒラメ、コバンザメの発生は避けられず、その忖度という潤滑油なくして大組織での政策実行は困難でもある。それを有権者は知っている。しかし身を切れる人ならば、かわいいポチとはいえ、切るべき事由のある時は切れるはずだ。それこそ有権者は注視するだろうし、それができなくなればあっけなく賞味期限切れとなろう。
同じことが安倍政権にもあてはまる、それがモリカケと大臣任免問題の要諦なのである。内閣改造のおためごかしで国民の目をだますのは無理だ。僕は安倍首相の昨年までの実績は、特に経済政策においては概ね高く評価しており、トランプ政権発足への行動力も複数のブログで絶賛してきた者である。いや、あまりに見事に国内のガバナンスを握り外交でもTPP交渉で主導権を握りかねないことに危惧の念を抱いたトランプ政権、CIAが甘利(実によくやっていた)を切りに来たとさえ思っている。それに加えて党内派閥のバランスが非常に微妙になってしまった。
首長として権力がある人かどうかは党内では重要だが、有権者はそこを見ているのではない、身を切れる人かどうかを見ているからである。そこを見誤ってほしくない。舛添都知事辞任はマスコミが報道し国民の声が高まって首長を斬った画期的な一件だった。そういうことがあり得るというのは、舛添氏にも気の毒な部分はあったし決して安定感、公平性のある手法ではないが、国民による権力監視において必須である「透明性」(ディスクロージャー)を高めるという重要な意義は認めなくてはならないと思う。ネット民の国政影響力は一部限定的な右翼だけと言われたが、どうもそうでもないと思われる今日この頃である。これこそ「うまくやってね」だ。
東 賢太郎
7/14/2017 | 10:52 PM Permalink
今日は東大のクラス会で赤門傍の伊藤国際学術研究センターのファカルティクラブへ。本郷3丁目界隈は見知らぬ店やビルが増えてるが雰囲気はあの頃のまんまでどこかほっとする。本郷といってもクラスというのは駒場の話であって法学部ではなく、文Ⅰ・文Ⅱいっしょの教養学部のまだみんな子供だったころの仲間だ。
還暦となっても約50%の25,6名出席という活況だったのはすごい。福岡と札幌からもかけつけてくれた。楽しかった。幹事の力だがクラスの結束もある方ではないか。福岡のNくん、40年ぶりだ。駿台で席が隣だったから長い付きあいだよなあ。もう孫が4人というAくん、実にうらやましいぞ。昔の僕の失言迷言の数々を一言一句覚えていたIくん、記憶力に感服。あまりに面白くて笑いころげた。みんなガキだったね。Sくん、総務省事務次官のお勤めご苦労様。僕は何も国に貢献してないがねと言ったら税金はいっぱい払ったろうと認めてくれたTくん。くそっ確かに払ったぞ、ありがとう。若き日の物故者2名は悲しかったがまだ幸いに老衰は出ていない。母を看取ったばかりであり「息できるだけで幸せだよ」「生きてる今が大事だよ」「もう俺は金もうけはどうでもいい」とスピーチしたが、明日が四十九日でまだ酒が飲めず二次会は失礼した。すみませんでした、来年はとことんつきあいます。
東 賢太郎
7/27/2017 | 9:17 PM Permalink
世の中けっこうこのブログに書いた方向に行っていて、投稿した5月26日時点ではまだなんでもなくて安部内閣支持率はたしか51%だった。ブログのタイトル「加計学園問題を注視すべき理由」に「すべき」を入れたのは、世の中があんまり注視しそうもないと感じていたからだ。そこから世情はその加計問題を起点に急転直下で、なんと僕が最も評価しなかった政治家2人、蓮舫氏と稲田氏も理由は知らないがW辞任になってしまった。それはきっと民意を受けて(気にして)のことだろうから、僕の独断流も世論の大勢からそんなにズレてなかったのかと安心もしている。
政治に特段の関心もないし情報もないし自民党も民進党もない、STAP細胞事件の折に書いた通りで(どうも後者はあれにニオイが似てきて)、僕はコピペ、パクリ、模倣、捏造、偽造、なりすましが生まれつき大嫌いであり、要は正直でない者はすべからく人の上に立つべきでない、まして国家の大計を語るなど論外であると思ってるだけだ。しかし、ウソつきに騙されるのは僕が書くまでもなく誰しも不愉快なものであって、今回の結末は自然のことわりだ。隠しても真相はやがて国民にばれてしまう。すると隠した魂胆そのものが悪のレッテルになる。ネット社会はそういうものだということを政治家も学んだ方がいい。