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モーツァルト「戴冠ミサ曲」ハ長調 k.317

2017 DEC 26 1:01:16 am by 東 賢太郎

僕はこのミサがメシより好きである。クレド(Credo)にいたっては ”狂信的” に好きである。奇跡みたいなバス・パートを何百回歌ったろう、そのf#、g#、c# にいつも鳥肌がたっている。凄すぎる。キミは何者なんだ??

これを書いてるハイのモーツァルト君がイ短調ソナタ(K.310)を作った人だとは俄かには信じ難い。クレドは僕の脳みそをかき乱し、麻薬か何かみたいにハイにする。これが好きなら誰でも仲良しになれる。こんなのミサか?元気になっちまうじゃないか。おい、いえよ何があったんだ?

パリでお母さん亡くしてドツボだった。それなのに就活は不発、くたびれ損で散財までしちまった。ぼろぼろの負け犬だろ。そこで帰って来いと親父様の冷徹なる命令が下り、それでも一縷の望みをもってミュンヘンで道草くって熱愛するアロイジアちゃんに会いに行った。そしたら強烈なヒジテツをくらっちまうんだ。そこで泣きながら親父に手紙書いてたよな。こんなみじめな男は小説でもそうはないぜ。

そうしてとうとう大嫌いなザルツブルグに出戻ってきたのが1月15日だ。真っ暗だ。ところがミサができたのは3月23日だ。おい、2か月でどうしてこんなに元気なんだ?

 

わかってるさ。最愛のいとこ、ベーズレちゃんだ。この娘がよみがえらせたんだ。いとこちゃんをキミはミュンヘンに呼びよせていた。女神がいたからヒジテツをのりこえたんだ。そして彼女はザルツブルグにまでついて来てくれたんだ、心強かったろう!そしてこの神みたいなミサ曲が生まれたんだ。

 

 

息子たちが破棄してくれと望んだ恥ずかしいベーズレ書簡にそのいきさつが書いてあるのだ。それなのにコンスタンツェは破棄しなかった。なぜあえて後世に残したのだろう?しかし、よく考えてみよう、妻はもっといやだろうと思うのは日本人的な感覚かもしれない。まだ16歳だったコンスタンツェは嫉妬する立場にはなかっただろう。むしろ、書簡を残せば傷つくのは女性であるベーズレの方なのだ。それをしたのは何か理由があるのではないか?

ベーズレは結婚しなかった。だから守るものがないとは言えないが、得るものの方が大きいと考えたのではないか。夫の突然の死後、遺品を整理したコンスタンツェは悟ったのではないか。姉のアロイジアは歌曲を、自分はハ短調ミサを与えられた。ベーズレは何もない。ふったわけでもなく結婚したわけでもなく、でも人生の最大の難局を彼女のおかげでモーツァルトは乗りきって、次の一歩を踏み出した。それを手に入れたのは自分だったのだから。

フランツ・クサーヴァー・リヒター

このミサ曲が戴冠式と呼ばれるのは根拠が薄弱だ。僕は異論がある。モーツァルトはパリからの帰路にストラスブルグに寄った。「もし枢機卿が(僕がついたとき重病でしたが)亡くなっていたら、良い職が得られたかもしれませんね。なにしろ大聖堂の教会楽長リヒター氏は78歳ですから」(1778年10月26日)と父に書いた手紙の最後に「先週の日曜日、大聖堂で、リヒター氏の新しいミサ曲を聴きました。それは魅力的に書けていました」と記した。

モーツァルトが他人の作品をほめた例はきわめて少ない。そして「ストラスブルグはほとんど僕なしではすまない有様です(中略)みんなが僕を知っています」(同)とも書く。ここまでほめた街は他にプラハだけである。気があるのだ。魅力的なリヒターの曲をわかる聴衆がいるなら僕の曲も理解されるだろう。そして僕はもう有名なんだ。ワインを一日20本も飲んでるリヒターはそのうちくたばるだろう、後任になればどんなに喜ばれるかと父にほのめかしている。彼特有の大掛かりな希望的観測ではあるが、運良くそうなっても反対されないよう布石を打っているようにも見える。そして、僕は確信するが、その希望をもってミサを書こうと決めたのだ。

モーツァルトが聴いたというリヒター氏(フランツ・クサーヴァー・リヒター、1709–1789)のミサ曲は音源が見当たらずどれかわからないが、そのレクイエム変ホ長調を聴いてレベルの高さに驚いた。

このキリエを新しく楽譜が出てきたモーツァルトの作と言われてもわからないかもしれない。付点リズムはK.317のアニュス・デイの終結だ。ナポリ6度をはじめ和声法がそっくりである。彼がミヒャエル・ハイドンとともに、マンハイム楽派の重鎮であったリヒターの教会音楽を研究した可能性はあるのではないか。

K.317が書かれたのが1779年3月23日であることにご注目いただきたい。戴冠式は6月だ。彼の作曲の仕方からいって、6月下旬に演奏される曲を3ヵ月も前に書きあげておくことは考えられない。そうではない。これが書かれた真の理由は上記の手紙に重病だと書いてある枢機卿コンスタンティーヌ・ ド・ロアン(Louis César Constantin de Rohan)が3月11日に亡くなったことというのが僕の説だ。手紙にあるとおり「良い職が得られたかもしれませんね」とモーツァルトが思わない理由がどこにあろう。

ベーズレがザルツブルグを去ってアウグスブルグに帰ったのは5月初めである。彼女の滞在中に書かれた唯一にして最大の力作がK.317なのだ。彼女は何か役目を負っていたのではないか?翌年の5月にベーズレに「ベームの一座はもう行ってしまいましたか?(中略)今度はウルムに行くんですね?ああ、たしかなところを知らせてください」(5月10日書簡)とベーズレ書簡にしては珍しくまじめに書いている。

この手紙のふざけた意味深長な部分で「あなたの見え、かつ見えざる魅惑的美しさ」(visibilia und invisibilia)と書いているが、これはなんとミサ通常文のクレド(!)の一節である。つまりK.317の「歌詞」なのだ。これがベーズレに和歌の縁語のように通じたということは、このミサにふたりが思い出す何かがあるのだ。ピアノを弾いてふたりで歌ったりした情景すら浮かんでくる。ベームは彼の親しい歌芝居の芸人一座だ。アウグスブルグからウルムに向かう?するとそのすぐ先にあるのはストラスブルグではないか!彼はベーズレかベームに楽譜を託していたかもしれない。K.317は後任のストラスブルグ枢機卿に見せようと書かれたのだ。

イグナツ・プレイエル

K.317はリヒターの手に渡ったのだろうか?その記録はないが、モーツァルトにツキがなかったのはリヒターが大酒を飲みながらも1789年まで長生きしたことだ。彼はモーツァルト父子を知っていたが好きでなかったんだろう、アシスタントにはハイドンの弟子だったイグナツ・プレイエル(1757 – 1831)を指名し、リヒターの死後は後継者となった。ハイドンもモーツァルト君はどうだとは言わず、またも彼はふられたのだ。K.317をリヒターが見聴きしなかったのだろうか?そうかもしれないが、仮にしたとしてもどうだろう。彼が発した言葉はーキミは何者なんだ??-だったという気がしてしまう。先生、すばらしい曲ですね、でも僕はもっといいのが書けますよ。後にハイドン先生にも同じことを弦楽四重奏曲(ハイドンセット)と三大交響曲でやることになるモーツァルトだ。ヨイショもソンタクもできない、サラリーマンには向いてない奴なのである。

その後イグナツ・プレイエルはフランス革命の余波で教会での公演が公の演奏会と同様に廃止されたことからロンドンへ渡りヴィルヘルム・クラマー(Wilhelm Cramer)が組織する「プロフェッショナル・コンサート(Professional Concerts)」を率いた。すると、そこでザロモンに招聘されて「ロンドンセット」の交響曲12曲を書くことになる師匠のハイドンとライバルの位置づけになってしまうのであった。しかし彼は如才ない。「才能は半分でいいからもう少しうまく立ち回ってくれれば」とパリで周囲が嘆いたモーツァルトとはちがいプレイエルは師と友好関係を保って成功し、ハイドン同様に巨万の富を得てストラスブルグに帰った。そこで豪邸どころかお城を買ってしまったほどのお金を英国で得たのだ。さらにパリに出てピアノ製作会社まで起業する。それがショパンに愛されることになり、ドビッシー、ラヴェルやコルトーも弾いたプレイエル・ピアノの祖になるのである。

今年5月7日のライブ・イマジン演奏会のプログラムに「もしモーツァルトがロンドンに行ったら」というテーマで拙文をのせた。ロンドン中がフィガロを口笛で吹き、三大交響曲が大当たりしてビリオネアになったモーツァルトが脳裏に浮かぶからだ。彼ならストラスブルグでお城の主になり、ピアノ会社設立どころかパリオペラ座ぐらい買収してただろう。ハイドンさん、リヒターさん、どうして彼じゃないの?どうしてプレイエルだったの?

やっぱりーキミは何者なんだ??-ということか。上司やライバルをビビらせすぎたらいかんのだ。K.317の凄さはプロほどわかる。あのサリエリがフランツ2世の戴冠式(フランクフルト)でそれを指揮しているのが証拠だ。まあ1792年だからモーツァルトが死んだ後だが。これも理由の一部として「戴冠式」なんて名前がついてしまったのだから、根拠はまったく薄弱なのだ。

いとこちゃん、ベーズレことマリア・アンナ・テクラ・モーツァルト(Maria Anna Thekla Mozart、1758 –1841) は レオポルド・モーツァルトの弟の娘だ。その後1781年にアウグルブルグで再会したきり、ふたりが会うことはなかった。その3年後、教会の司祭の私生児を生んだ彼女は結婚することなく一生をバイロイトですごし、モーツァルトより50年長く生きてそこで亡くなった。

コンスタンツェは書簡を破棄せずに残すことで何を彼女にあげたかったのだろう?もし破棄されたら1778-9年のミュンヘン、ザルツブルグの出来事は歴史に埋もれていた。でも彼女のバイロイトの家にはモーツァルトが1778年にマンハイムから送ったポートレートが飾られていたのだ。そ・れ・な・ら・ば・だ、全部が明るみに出たって残してあげよう、だってそれでもう一つ大事なことが後世に明らかになるじゃないの。K.317は彼女のおかげで出来た、つまりこれは戴冠式ミサではない、ベーズレ・ミサなのだということが。

 

「さよならモーツァルト君」のプログラム・ノート

 

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