マーラー 交響曲第9番
2018 APR 22 23:23:54 pm by 東 賢太郎

マーラー9番というと、ロンドン時代にバービカンでクラウディオ・アバドのを聴いて感銘を受けた。87年1月のことだから31年も前だ。そこからカラヤン、ジュリーニ、クーベリック、ワルター、セル、バルビローリ、バーンスタイン、ノイマンを買っているから聴きこみはしたようだ。
第九の死の呪縛を大地の歌のフェイントでかわしたマーラーは、ついに正面から取り組むことになった9番を謳ったこれの終楽章をersterbend(死に絶えるように)と書いて終えた。そしてそのとおり、彼は聴くことなく亡くなった。
9番を書いていたころ、ニューヨーク・フィルの指揮に専念した彼は欧州を飛び回って7,8番の指揮で多忙でもあり、アルマとの関係は微妙になり、心身共に交響曲を作曲できたとは信じ難い状況にあった。そこで「狂ったように大急ぎで、あわただしく、ほとんど書きなぐられた」9番になにか秩序を求めても仕方ないと思っている。
この曲は形式論理が一見ありそうでなく、熱病にうかされたように散文的だ。緩-急-急-緩の4楽章をフランス風序曲に倣ったとする人がいるそうだが、この時のマーラーがこの重いテーマの狂ったような曲でそんなものに倣う必要がどこにあろう。理解不能の説である。チャイコフスキーの悲愴に倣ったのだと思う。だからersterbendであり緩-急-急-緩なのだ。彼がニューヨーク・フィル定期公演で振ったプログラムに悲愴を見つけてそれを確信した。
スコアを見て思い浮かべるのは曼荼羅、タペストリーだ。狂ったようにではなく、狂っている(特に第3楽章)が鳥瞰するとまとまった図柄に見えるという性質のものだ。だから、ここからは毎度のマーラー批判になるが、僕は人間の恣意ばかり感じて神性をいささかも感知せず、分析しようという意欲に着火しない。ピエール・ブーレーズが晩年にブルックナーを振ったのは何とか理解するがワーグナー、ましてマーラーに行ったのはわからない。ワーグナーの音楽は図抜けているが僕は彼のがなった朗読を聞きたいと思わないし、マーラーは楽器でそれをやっているとしか思えない。
マーラーはワーグナーと同じく鳥瞰的な天与の和声感覚、バランス感覚があり、ミクロの整合性には一向にこだわりがないのに終わってみるとまんまと強引な計略にはまっているという音楽を作ったが、しかし僕は神様は絶対に細部(ミクロ)で手は抜かないと思っているから、うまく書けている作曲技巧に敬意を表しつつも、人為的な押しつけがましさに辟易するぐらいならお付き合いはやめておこうと思うに至って久しい。
金曜にこういうプログラムを聴いたが、以上書いた心象が特に変わるものでもない。アイヴズは実演を初めて聞いた。前から苦手の最右翼だが、一音たりとも良いと思う音は感知しなかった。
指揮=シルヴァン・カンブルラン
アイヴズ:ニューイングランドの3つの場所
マーラー:交響曲 第9番 ニ長調
(サントリーホール)
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Categories:______マーラー

maeda
4/24/2018 | 3:17 PM Permalink
悲愴の3楽章は、かつての栄光ですが、マラ9の3楽章は、苦しみにのたうち回り混乱し疲労困憊する。人生の終着点を意識し過去を振り返って何を思うか、スメタナ、ブルックナー、ショスタコ・・・作曲家も人それぞれですね。
東 賢太郎
4/25/2018 | 1:59 PM Permalink
第3楽章が緩か急かはいろいろですが3を急にして4を緩という悲愴のインパクトは強いですね。でも田園というモデルがありました。喜びと悲しみで正反対ですがどちらもディファクトとなる傑作ですね。人生の終着点という意味では僕はエニグマが好きです。
maeda
4/26/2018 | 5:45 PM Permalink
意図的でないにせよ、ブルックナーの9番はアダージョで終わってしまいます。ご本人は、その後にテ・デウムを演奏してくれと仰っていたようですが、この3楽章はブルックナーが最期に到達した境地で、この後に何か聴きたい気になれないので、終楽章になってしまう訳ですが、マラ9の4楽章は、音が跳躍して始まる所など、ブルックナーを意識したような印象も受けます。
東 賢太郎
4/26/2018 | 7:09 PM Permalink
なるほど第1ヴァイオリンの跳躍ですね、似てると思ってましたがマーラーのオクターヴに対しブルックナーの短9度のほうが現代的で先鋭にきこえますね。
maeda
4/27/2018 | 8:31 PM Permalink
ブルックナーの最初の跳躍は、確か何かの解説でも短9度と書いてあったような気がしますが、和声的にはHの8度で一種の導音として半音高いCが出てくるという構造になっています。だから幹の部分はオクターブなのですね。半音高い音を引っ張ることでHに来たときに腑に落ちるのですが、すぐに更に半音低いAisに移行していきます。それによって半音進行が強調される効果があると思います。