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シューベルト交響曲第5番の名演

2018 SEP 2 23:23:06 pm by 東 賢太郎

僕はこのシンフォニー全曲のバスをオケと一緒に歌うのが大好きだ。人生の愉悦のトップクラスのもののひとつだ。シューベルトの5番ほどチャーミングな交響曲というものをあげろといわれても答えに窮する。モーツァルトの29番ぐらいかもしれないが、しかしそこには決定的な違いがある。シューベルトの一部の音楽は聴きこむと心のある部位に永遠に纏わりついて耳から離れなくなる危険なものだ。音の麻薬なのである。一見晴朗なれど和声語法にはモーツァルトの長短調の交替を模しながらその短調部分に後期に通じる暗さと不気味さを潜みこませていることを見逃してはならない。企図してそうしたかどうか不明だが、僕はそれがシューベルトがもっていた生来の音楽嗜好であり、未だ病気ではなかったこの時期にも垣間見え、のちに病魔から逃れられない閉塞心理の中でまったく独自の世界にまで成長したものだと考えている。

この交響曲はシューベルトが書いた最も明るい曲群に属する傑作であり、前稿に書いた通り①モーツァルトの和声と書法をあえてそれとわかるように模しながら自らの和声語法に置換し②202年後の現代のコンサートレパートリーにモーツァルトの三大交響曲以前の交響曲とほぼ同等のプレゼンスを保持している、という2点を満たす音楽史上唯一の作品である。

ベートーベンの交響曲第1番作品21の方が16年先行して書かれた上にソナタ形式の構築力、主題の展開力に勝り②も満たすではないかという反論は十分にあり得て説得力があろうし、その前半に論駁の余地も認められないが、ベートーベンないしその他の同時代の作曲家に①を試行した作品は存在せず、シューベルト5番の独自の位置が揺らぐ理由はないことが前稿における一貫した主張である。

さらに加えるなら、仮にその反論が有効であるならば、それはシューベルトが19才で書いた交響曲がベートーベン30才の作品であった交響曲第1番作品21によって比肩され得るという証明を成立させることとなり、シューベルトにおいてあまり強調されることのなかった早熟性が過小評価され、その帰結として5番が若書きの作品として過小評価されるという負の連鎖を喚起していることも指摘されるべきであろう。

モーツァルト19才の代表作が「偽りの女庭師」、第3-5番のヴァイオリン協奏曲であり、19才のベートーベンに至っては作品1であるピアノ三重奏曲第1番変ホ長調(作曲地はボンと推定される)がまだ作曲もされていない事実を付議するならば、シューベルトの早熟性は後世において16才で弦楽八重奏曲変ホ長調作品20を書いたフェリックス・メンデルスゾーン、17才で交響曲ハ長調を書いたジョルジュ・ビゼーによってのみ比肩され、早期の学習能力において稀有の天才であったことは明白であろう。

この曲の緩徐楽章(第2楽章アンダンテ・コン・モート)はベートーベン1番のそれなどは数段凌ぐ傑作であり、モーツァルトのピアノソナタ第12番ヘ長調 K. 332の緩徐楽章の衣鉢を継ぐ僕の知る限り世界で唯一の音楽である。そのことは K. 332さながらの夢幻をさまよったこの楽章をひっそりと閉じるこの部分、最後から6小節目から2度繰り返すパッセージにわかる人にだけわかるように刻印されているのである。

シューベルトがいかにモーツァルトを愛したか、同じくK. 332を心から愛する僕はこれを知って涙した。あれをわかっている人がいる。ここを自作の緩徐楽章の終結に引用した人がもうひとりだけいる。ヨゼフ・ハイドンである。交響曲第92番「オックスフォード」のその部分、まずアマデウス・コードを木管でやってから「それ」は出てくる。

ベートーベンにとっては越えなくてはいけないものであったモーツァルトは、シューベルトには同化できるものであった。ピアニストの故・井上直幸氏がやはり K. 332の同じ部分で「モーツァルトはどうしてあそこにf# を書いたんだろう?」と語られているのを知って愕然としたのを思い出す。いかに多くのピアニストが漫然とあのf#のキーを押していることだろう?本物の演奏家とはこういうものだ。井上氏ならば5番のここをどう聴いたのだろう?感慨に耽らざるを得ない。

5番は構成がシンプルゆえにあっという間に虜にされてしまい、四六時中、勉強中、仕事中まで頭で響いて困った事があったが、この曲への愛情は40年間聴きつづけて揺らぐ気配もない。アマデウス・コードがはじまった瞬間から電流のように音楽が全身を流れ、脳細胞が動き出し、あらゆるパートを歌わざるを得ない衝動に駆られる。youtubeでこのビデオを発見した時に、この人ならわかってくれるかもしれないと嬉しくなった。グレン・グールド氏だ。

録音は先人たちの素晴らしい遺産がある。第1楽章アレグロのテンポが指揮者によってこれほど異なる曲もあまりなく、シューベルトの初期交響曲をどう捉えるかが人によって振れ幅があったことの反映であり、冒頭のテンポによって全曲へのアプローチが古典派寄りかロマン派寄りか大別されると考えて大きな間違いではないだろう。遅い代表格はブルーノ・ワルターで昭和時代の日本の評論家はこれを推すのが定番であった。

グールドのピアノのテンポと比べていただきたい。アレグロでは到底あり得ないこの尋常ならざる遅さは、渡米して専用オーケストラまで録音用にあつらえてもらえた晩年のワルターが辞世の心境で振ったから許された専売特許なのであって、ここでしか聞こえないものが緩徐楽章にあるのは認めるとしても、これほどパーソナルな表現をファーストチョイスに推すのは評論家の良心としてどうかと思う。それに従って僕は40年前にこれで5番を初めて聞き、退屈な曲と思って数年は無視していた。いま還暦の境地に至って虚心でワルター盤を聴き返してみたがやはりそう思うし、シューベルトはグールドのようにピアノを弾き、感興にひたって歌ってこれを書いたとしか思しかえない。だから当然の如くにアレグロなのであって、これを無視することはいかなる大指揮者であろうと僕は認めない。ワルターを神棚に祭っている人のための録音だ。

他に遅い指揮者はショルティ(ウィーンPO)、ベーム(ウィーンPO1954、ドレスデンSK、ベルリンPO)、バーンスタイン(ニューヨークPO)、シューリヒト(シュトゥットガルトRO)などだ。最初の5秒で戦意喪失して消しており先は聴いていない。指揮者の最大の仕事はテンポの決定で、そこで気が合わなければ30分も付き合うのは時間の無駄である。実演でそれに出あってしまうと逃げようがなく地獄なので僕はプログラムに5番があると行かない。

 

セルジュ・チェリビダッケ / シュトゥットガルト放送交響楽団

チェリビダッケおそるべし。冒頭からテンポが最高に素晴らしく(グールドとほぼ同じだ)、終楽章を閉じる和音を漸弱にするなど、ともすれば無機的になるこの放送オケを自在に操ってなる程と唸らせる。シューベルトがロマン派への架け橋になったことは異論ないが1816年時点でそうであるはずはなく、まして5番はモーツァルトを念頭に書かれているのである。よって冒頭のアレグロはこのテンポであることが当然であり、遅くする解釈は恣意だ。チェリビダッケはしかし第2楽章の深い森をブルックナーのように描いておりこれがまた見事である。軸足はどちらにあるか明確ではないが両端楽章をアレグロとしてロマンの歌を古典の額縁に収める解釈だろう。まったくもって知的でインテリジェンスに満ちた人であり、何も考えてない愚鈍な指揮者と並べて評することが憚られる。

 

イシュトヴァン・ケルテス / ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団

VPOは後にショルティ、ムーティとも録音し音質はそちらが良いが、演奏のクオリティはこちらが格段に上だ。ケルテスという指揮者はモーツァルトの愉悦感を巧みにリアライズする才能があったが惜しくも水難で夭折した。その資質が5番で活きるのは自然であり、これはまるでモーツァルトだ。第1楽章がやや遅く感じるものの全曲のテンポ設計も不自然なものがない。VPOが良く歌っているのも魅力でケルテスとの相性が良かったのかと感じる。

 

クラウディオ・アバド / ヨーロッパ室内管弦楽団

第1楽章アレグロが理想的で、これしかないという僕にとってはイデアとなるレベル。あでやかな木管にも溌溂とした弦にも自発性とデリカシーがあり音楽の喜びが漲っているもぎたてのレモンのような演奏だ。殊に全曲にわたってフルートの抜群のうまさは特筆もの。各楽器のピッチの見事さは聴いた限りで5番のベストである。このアプローチは必然的に失うものもあり第2楽章は室内楽的な完成度が高い分、コーダに至るドミナント半音上への彼岸の逡巡という感情的な暗い面は後退する。しかしその純な美しさは代え難く、終楽章の弦のアンサンブルの切れ味もまったくもって素晴らしい。アバドの傑作。

 

ロリン・マゼール / バイエルン放送交響楽団

なぜかマゼールはわが国で正当に評価されず才人に終わってしまった観があるがまったく不当だ。第1楽章のテンポは好適。これでなくては。ところが第2楽章は深い霧に包まれたロマンティックな世界となりシューマン、ブルックナーがシューベルトから受け取ったものの姿を見る。パッセージに不意にルバートがかかり驚かされ、終結部の転調は呼吸をひそめて万感の思いがこもる。中間楽章の重さから大交響曲の様相を呈するのは誠にユニークでそういう読み方があることを初めて知った。賛否は有ろうが僕は彼が5番に示す深い愛情に満ちたこのライブ録音に敬意を表したい。

 

スタニスラフ・スクロヴァチェフスキー / ミネアポリス交響楽団

先日ネットで買ったマーキュリーのBoxに入っていたCD。非常に素晴らしい。こんな掘り出し物が出てくると満足度は高い。Mr.Sのこの時期の演奏は例外なくピッチが良い。演奏のファンダメンタルズとしてあまりに当然のことであるが、「良い」と僕が特筆したくなるレベルのものは滅多にない。だからこの演奏は一緒に歌っていて無性に気持ちがいいのであって、ではそうではないものがあるかというと大いにある。プロが録音してるのだから悪いということはないがそれでも満点ではないという微妙な不満があって、そういうものはもうそれだけで歌う気が起きず、ということは僕には無用の長物になるということなのだ。肝心のテンポの不満もなし(速めだ)で両端楽章の弦のアンサンブルは筋肉質。古典寄りの解釈で音楽史の文脈に矛盾がないオーソドックスなものだが指揮者の知性の表れだ。それだけ?それ以外に何が要るだろう?

 

ヘルベルト・ブロムシュテット / シュターツカペレ・ドレスデン

この演奏は指揮者の立ち位置が古典派、ロマン派の中庸で明確でなく、第1楽章の指揮が微温的で訴求力に欠ける。指揮者をほめる部分は何もない。しかし第2楽章の短調部分の悲しさはロマン派寄りのアプローチが図らずもシューベルト自身が両時代の中間にいたことを知らされる。オーケストラの美質において追従を許さぬ価値を誇っている演奏であることは異論がなく、その点においてのみ一聴の価値がある。

 

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