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クラシック音楽と広東料理

2018 OCT 8 3:03:13 am by 東 賢太郎

あらゆる芸術において、万人に等しく感動を与える作品というのは存在しないでしょう。あるという誤解は、学校において美術や音楽の授業でそう思い込まされるから拡散しているだけであって、セザンヌやロートレックを観て何の感興も覚えない人はいるだろうし、僕自身がヴェルディやマーラーをもう一生聴けないがいいかと問われてもそうためらいもなくYesといえそうなこともあります。芸術作品は作者と鑑賞者の相性において存在価値が相対的に決まっているものだと思われ、教科書に載っていて幾百万人が名作とほめたたえていようと、自分が最大公約数の一部になる必要など何らない、そういう自由な感性の持ち主のためだけに実は存在していると言っていいほどだと考えます。

料理というものも、他人に食べさせようと誰かが食材を加工して作った場合はすべてがそうですが、一膳の茶漬けであっても調理する人の作品であります。だからそれをいただく側にとって、芸術においてと同じぐらい作者と感性が合うことが大切になるというのが私見であります。万人にとって美味しい料理というのは、極度の空腹状態で食欲を満たすことのみに目的がある場面を除けば存在せず、料理する側の舌の本能やセンスや美意識に共感し、塩っぱい、酸っぱいのような非常にベーシックな部分のいちいちが納得のいかない場合は美味しいと感じることは難しく、作者の美味の定義に賛同できるか否かを自問することがそれをいただくということの実体です。

僕は香港に2年半住んで、仕事がら中国主要都市をくまなく訪問しいろいろな中華料理を食してみました。この経験から僕の「食」に対する考え方は根底から覆えり、医食同源に加えて民食同源(食は土地の人柄をあらわす)という確信に至ることとなりました。例えば我々日本人は四季おりおりの食材に非常に恵まれた国に住むため「旬」にこだわれば美味は足りるという食の世界に古来より住んでおります。この感覚は世界的には少数派であり、精神構造にこの旬感覚が深く根差しているという日本人の感性は欧米人とも中国人とも異なるものです。

和食というと美味の源泉である「うまみ」の塩梅に料理人の繊細な舌が深く関与はするのですが、旬という自然の恵みは人為の及ばぬ生食でこそ生きるという審美性が共有されているため、和食ほどに生ものや生鮮食品が宮廷の膳にまでなる料理は文明国では珍しいと言えます。どこの誰だか知らぬ人が素手で握った生魚を素手でつまんで食うという、それだけ聞けば野蛮でしかない風習を持った民族がネクタイを締め、白人国ロシアを戦争で倒し、世界有数の高度経済成長国となってしまう不可思議の様を僕は白人国から十余年も俯瞰してきたわけですが、和食とは常時ある豊富な山海の幸、上等な水、清潔さを旨とする精神的風土の産物であって、そのものが文化というべきです。

ということは、我々以外の人類の食べる食事は加工(火が通り)され、洗練度が増すほどソース(調味料)に技巧が凝らされるという共通原理に則って進化してきたと考えて大きくは間違っていないというのが16年にわたる海外生活での発見であります。日本にも醤油という立派なソースがあるではないかと思われましょうが、料亭で繊細に味付けされた料理にそれをかけることはありません。多種多様な調味料が料理の多様性を生むという文化におけるソースと、むしろ多種多様な食材をモノクロに染める醤油とはベクトルが逆なのです。

加工法とソースの発展の行く末に君臨するのがフランス料理と中華料理であることはほぼ衆目の一致するところですが、先日のトゥール・ダルジャンのフル・コースの洗練は100%アプリエートしながらも、私見では中華料理に僅差での軍配をあげるのです。もちろん上述のごとく料理人(シェフ)との相性次第であることは論を待ちませんが。我が家にほど近かった上野毛の吉華が閉店してしまい、ここは親父さんと相性が良かったので残念なのです。フレンチが「誰にとっても美味」な絶対性、ユニバーサルなものを目指す料理であるなら、中華はマンツーマンの美味なる相対性が入り込むユルさがあるのが魅力です。

フレンチと我々が認識しているものはレストランなるパリ起源の特殊環境で味わう食味であって、ああいう著しく手の込んだものを一般家庭のフランス人が日々食べているわけではないのは我々にとっての料亭の懐石料理と同じです。だからC級のフレンチ食堂みたいなものは存在しない。フレンチはフランス革命によって料理ギルドが解体され市民階級に模倣され流布した宮廷料理が起源だからB、C級というものは定義矛盾なのです。その点は貴族の専有物だったがやはり市民革命によって民間の娯楽になっていった音楽が、パブやキャバレーのBGMにはならずクラシック音楽と呼ばれるジャンルになったのと似ています。

しかし中華はそうではなく、宮廷料理から農民食のB、C級まであったものが長い年月をかけて混合し選別、洗練されていったものです。地方ごとに言語、文化が異なるように食も各様でありますが、やはりそこには都鄙があって、私見では本流は「食在広州(食は広州にあり)」の広東料理(南菜)です。広州の街中の市場ではまさに四つ足は椅子以外は何でも食材で売られており猫までいたのはショックでした。だからC級の食堂では何を食っているのか知れぬ不気味さに満ち、宮廷のある北京でなく帝都に程遠かった地で食欲を満たすにとどまらず際限ない美味の探求が行われたという民衆のエネルギーの凄まじさが底流にある。その頂点にある広東料理なるものの奥深さは探求に足ると知れてくるのです。

僕にとってホンモノの広東料理を東京で味わうのは諦めに似たところがあります。食べたければ香港に行くしかなく、飲茶でもそのクラスの腸粉、襦米鶏、鼓汁蒸排骨がない、海鮮定番の白灼蝦(ゆでエビ)がないなどの渇望は仕方ありませんが、値段を気にしなければ「横浜聘珍樓」、都心ならウエスティン恵比寿の「龍天門」というところが気に入ってます。昨日は家族で龍天門でしたが「きぬがさ茸 干し貝柱 えのき茸入りスープ 」が絶品、「スジアラの強火蒸し 特製醬油」(香港でガルーパ)も本家のクオリティでした。

素晴らしかったのは「皮付き豚皮付きバラ煮込み」です。肉の美味と食感がまず絶妙であるのは良しとして、甘いソースのわきにひっそりとマッシュト・ポテト(と思われる)が添えてある(写真は違う)。これが口に広がる、それ自体はどうというものでもない風味のコンビネーションが予想外であって、うまい言葉が見つかりませんが、豚肉・ソースとは全く異質異次元の素材が完璧に一体化したアンサンブルとでも書くしかありません。

これを口にした瞬間に脳裏に浮かんだのがドビッシーのオーケストレーションです(即座にそう妻子に言ったが誰もわかってない)。「ペレアスとメリザンド」にも「管弦楽のための《映像》」にもある、真に独創的でマジカルな音色というもの、楽器の合成でいうなら例えば、交響詩「海」の第1楽章のコーダに入る直前の旋律を奏でるチェロ独奏とイングリッシュホルンのユニゾン(!)という恐るべき着想。あれですねこれは。このシェフはいいと感じる瞬間なのです。こういうことは中華と呼ばれるジャンルにおいては広東料理のみで起こると言って過言ではない。だから「奥深さは探求に足る」と書くものであります。

ただ、だからといって広東料理が中華を代表するわけでもなくそこは好き好きで、僕は四川も貴州も上海も大好きなのだからややこしい。唯一比肩するのがフランス(宮廷)料理になる点においてその他中華とは別物となるのが広東だということです。広東と音楽はそういう次元で明確に通じているように思いますし、ではどうして広東がそうなったのかというとそこは料理家にうかがってみたいことでよくわかりません。

そんな面倒なことを考えて飯を食ってるなんて変な奴だと思われてしまいそうですが、一膳の茶漬けのほうが美味と思うこともあるし広東、フレンチを無性に欲することもある。すべては好奇心です。中華、フレンチはもちろんカレー、コーヒー、塩、砂糖、香辛料の歴史本を読み、知るとまた食べたくなって、どうしてこんなに美味しいのかとまた歴史を読む。項羽、劉邦、ナポレオンがこれを食っていたかもしれないと思うとまた食べたくなる。際限なく入ってしまい、そういえばクラシック音楽もそうやって深みにはまったのだと思い出すのです。

 

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Categories:食べ物

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