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モーツァルトの「レクイエム・ストリーム」

2021 SEP 5 22:22:22 pm by 東 賢太郎

モーツァルトの母の肖像

1778年3~9月のパリへの就活の旅は悪夢であった。行きがけに寄ったアウグスブルグやマンハイムでは良い思いもしたけども、魑魅魍魎の住む大都会パリはそう甘くなかった。モーツァルト君は22才。うまく口説いたはずのアロイジア・ウェーバーちゃんにあっけなく裏切られ、手練れのパリ貴族どもにあしらわれ、屈辱的な扱いを受け、天才をもてはやされるどころか利用され、作曲能力の粋を尽くした作品は披露の場すらほとんど与えられず、本題である就職話は兆しすらなかった。ザルツブルグで吉報を心待ちにする父への手紙で体裁を取り繕う噓のネタすらない大失敗である。さらには、あろうことか、7月に最愛の母まで異郷で亡くしてしまうのだから、踏んだり蹴ったりここに極まれりだ。今の世では押しも押されぬ世紀の大天才とはいえ、リアル世界でのモーツァルトは本当に可哀想な男だったのである。

当時のパリは今の花のパリではない、その手の書物によると誠に不潔な街だったようだ。ベルサイユ宮殿でもトイレというものはなく、王族といえども携帯トイレ(おまる)で用を足しており、貴族女性の釣り鐘型のスカートはモードでもあったが排泄を容易に行うためのものでもあった。おまるの排泄物は従者が処理したが、一般家庭では2階3階の窓から下の路地に投げ捨てるのが常態で、道ではたまった汚物をよけて歩く必要があった。鼻も曲がる悪臭とばい菌、ウィルスの宝庫であったと思われ、ロンドンの街路に馬糞が落ちていても汚いと感じていた僕の衛生感覚などまったくお呼びでない。モーツァルト家のうんこ譚を現代の感覚で読んで彼はスカトロ趣味があったなどと考えるのは噴飯ものなのだ。

であるから、いま我々が直面しているコロナ事情を想像するまでもなく、街路で息をするだけで疫病の空気感染リスクが高かっただろう。モーツァルトは父との数々の演奏旅行で都会慣れしていたが、母は空気の澄んだザルツブルグの片田舎育ちの婦人である。パリの底冷えのする粗末な屋根裏部屋ですることもなく息子の帰りを待つ日々が夫への手紙に切々と綴られているが、フランス語もままならぬ彼女が周囲に相手にもされず極度の疲労とストレスで弱っていく姿は想像に難くない。そして、おそらくは何かに感染したのだろう(死に至った病名は不明である)6月の「息子も私も元気よ」という手紙を最後にザルツブルグの夫への交信も途絶える。瀉血をする当時の医療も絶望的であったが、夫の期待も空しく息子は就活に希望が見えず、それでもプライドをかけて戦っていた。病気の泣き言もいえなかったのだ。

パリ行きは旅先でやむをえぬ事情から突然に決まったのだ。マンハイムに半年もだらだら滞在してアロイジアにうつつを抜かしていた息子が「彼女とミュンヘンに行く」などと言いだし、怒り心頭に発した父が鉄槌を食らわせるために下した厳命が「パリへ行け」だったのである。しかし、昨今の教育ママでもあるまいし、妻に同行を命じる必要はなかったと思う。息子は22才の大人なのだ。しかしこいつは何をしでかすかわからない。行ったふりをしてアロイジアの尻を追っかけるかもしれない。スマホもない、メールもラインもない、月にせいぜい数回のとぎれとぎれの手紙の情報で想像をたくましくするしか手立てがないレオポルドのストレスも限界だったことは想像がつこう。なにせ馬車のレンタル料も、宿泊費用も、食費も、交際費も、郵便代ですら高く、一日一日が彼にとっては巨額の投資であった。失敗は許されない。息子の才能は確信できるが素行が悪い。糸の切れた凧(たこ)はどこに飛んでいくか知れない。だからママを同行させようとなった。もちろん見張り役としてである。

そんな不甲斐ない事情で為すすべなく母を失ってしまった。そのことはモーツァルト自身が痛いほどわかっている。すべては身から出た錆であったことを。アロイジアの件で父をうまく説得しようと手紙の文言に慎重に意匠を凝らして彼女の歌の才をほめたたえ、うまくいったつもりだった。しかし父はそう甘くはなかった。「お前は思いつきを信じこんで夢中になる癖がある」と一般論に立ち返って一刀両断に切り捨て、その娘の色香に狂っているだけで算盤勘定など何もないではないかと鋭く見抜いていることを知らしめている。その頭脳明晰かつ冷徹な父に母の死をどう伝え、どう申し開きをするんだ・・・。彼はとてつもなく悩んだに相違ない。そしてその結果が、まず知己の神父を通じて宗教の力を借りて心の準備をさせ、自分は「気丈を装って父にショックを与えないようにしている」という形態をとって(これ自体が噓とまではいわないが「装い」である)、身から出た錆の贖罪をしているというように僕には読める。例えは良くないが分かりやすくするために書くなら、殺人犯が警察に偽装の手紙を送るようなものだ。

しかし彼にとってそんなことは父親対策にすぎない。大好きだったお母さんと自分の関係には無縁の男、類のない優秀な教師であり、パトロンであり、すべてを綿密に管理する敏腕マネージャーである男が父親だ。報告義務は果たした。手紙を書き終えて、泣きながら気の遠くなるほど長い夜を過ごしたに違いないモーツァルトが書いた、気丈を装いきれなかった曲。それがイ短調ピアノソナタだったのである。この曲は「パリ交響曲」で1小節たりとも聴衆が喜ばない音符を書きたくなかった彼が、もっともパリで書きそうもない、書く必要すらない性質の音楽だ。 “商品” ではないとは誰しも想像がつくだろう。しかしそれにしてもどうしてこんなにおどろおどろしい “怖さ” を僕に浴びせかけてくるのだろう?長いこと謎のままにきていたが、ついに解けた。2017年5月に僕自身が母を亡くして、その年の暮れに立ち直って書いたのがこのブログである。本稿を書き始めるにあたって少し書き足したのでお読みいただければ幸いだ。

モーツァルト ピアノ・ソナタ イ短調 K.310

パリへは僕は何度も足を運んでるが、行っていない大事なところがあった。アンナ・マリア・ヴァルブルガ・モーツァルト(Anna Maria Walburga Mozart, 1720年12月25日 – 1778年7月3日)の葬儀を行ったパリ1区北部にあるサン・トゥシュタッシュ教会である。お母さんに手を合わせたのは2010年8月の真夏の日だった。外は酷暑なのにひんやりと乾いた暗がりの空気。そこはかとなく漂うお香のかおりが忘れられない(http://デュトワとN響のプーランクを聴く)。葬儀も7月の真夏のことだった。肌で感じた。ここに立ちすくみ、22才のモーツァルトは母の遺体の前で涙が枯れるまで泣いたのだ。無力な自分を呪い、こんな宿命を背負わせた父も神も呪ったに違いない。

何もかもがうまくいかず、失意のどん底で負け犬のようにザルツブルグへ帰ったモーツァルトの心に傷が残らなかったと信じるの難しいのではなかろうか。そして、そのすべての深因はこの父の訓戒に秘められた、治しても治しようのない彼の性格にあった。

「お前は思いつきを信じこんで夢中になる癖がある」

実はこれを白水社のモーツァルト書簡集で知った瞬間にぎょっとした。僕が父親に何度も言われた言葉だったからだ。大学を卒業して、それがぴったりの証券会社に行きたいといって律義で勤勉で誇り高い銀行マンであった父を嘆かせた時もこれを言われた。そして、何を隠そう、今でも同じことを家内に言われているわけである。彼もその癖が治らなかった。アロイジアとの交際で父の説得に失敗したが、実は本人の説得も失敗だったのである。そして後になって、今度は妹のコンスタンツェとできてしまい結婚したいと言いだす。「歌はうまいし、器量はちょっと落ちるが気立てのいい子です」とアロイジアでの失敗に学んでいない。これまた父は「お前は知らないだろうが、その姉妹の母親はやり手ババアで有名なんだ、やめとけ」と諭す。しかし、夢中になったらもう止まらないのがこの性格を持つ人間なのだ。嫌になるほどよくわかる。

僕自身も20才前後まで数々の大事な勝負に負け、ついに自信も失い、何のとりえもない人間というレッテルを自分自身に貼って生きていた。そしていまは、あれは昔のことさでのうのうと生きている。そのぐらいの年齢で挫折に打ちのめされるのも悪くないなんて適当なことを言ってもいる。理由なんかない、自分もそうだったから我田引水でそう信じたいだけかもしれない。ただ、冷静に冷徹に、こう思うのだ。人には2種類あって、そこで心が折れてしまう人もいれば、屈辱やトラウマを2段目のロケットの燃料にしてもっと高く飛ぼうとする人もいる。そういう他人を見てきたから事実だ。そしてモーツァルトも明らかに後者の人であった。だからだろうか、ザルツブルグへ帰ってきてから彼が気持ちをリバウンドさせて書いた幾つかの曲を聴くと、僕は心にバネが入ったかのように元気になるのだ。これも事実なのだ。ためしに味わってほしい、あなたがもしそれが必要な部類の人であるならば、事実だときっとわかるから。

2年半も大嫌いなザルツブルグで我慢して、ついにコロレド大司教と衝突してウィーンに出て行ってからのモーツァルトの作品は名曲の宝庫になるわけだが、それでもこの特別な2年半に作曲した音楽には無類のパッションと哀愁があって少し違う。パッションはどなたも理解されるだろう、それは2段ロケットへの点火があったからであり、逆境を乗り越えた心にこんこんと湧き出た命の泉のようなものだ。では哀愁のほうは何だろう。どこから来たのだろう。それを知りたい方は「ヴァイオリンとヴィオラのための協奏交響曲 K.364」の第2楽章をお聴きになればよい。下のビデオの演奏はダヴィッド・オイストラフがヴィオラ、息子のイーゴリがヴァイオリンを弾いた素晴らしいものだ。指揮しているユーディ・メニューインには1997年のダボス会議で会ったことがある。ヴァイオリン演奏ではなくスピーチをしたが全身これ音楽という感じの不思議なお爺ちゃんで、ここでも僕が言いたいK.364の核心をつかんでいることがわかる。

こういう音楽を前にしてあれこれ文字を連ねる気にはなりにくいが、僕には第2楽章がモーツァルトの書いた亡き母へのレクイエムに聞こえている。後世の我々に涙を見せてはいないが、音楽で慟哭している。ヘ長調のピアノソナタの第2楽章もそう、ポストホルン・セレナーデの第5楽章もそうだ。母のいないザルツブルグ。家の敷居をまたいで、運命の不条理に苛まれなかったはずがどこにあろうか。それがトラウマとなり、時おり心の片隅にふっと現れるその情念が生み出した楽曲たちが彼の作品群の中で「レクイエム・ストリーム」とでも呼べるひとつの流れを成している。表むきには見えず、そんな動機が彼の中にあったことさえ潜在意識に隠匿されて地下に隠れているが、枯れることのない確固とした水脈である。さらに、ウィーンで活躍する時代になって、楽章ではなく一個の作品として表に現れたのがピアノ協奏曲の第20番と24番だと僕は考えている。真相は不可知だ。しかし、そう考えると音楽史上の数々の謎に明快な説明が施されるのである。そうでないという例が一個現れるまで僕はこの自説を信奉するだろう。数学的帰納法によって。

古来よりモーツァルトの短調作品は別格の存在でひとの心をとりわけ動かしてきたとされる。僕は小林秀雄や吉田秀和のような文学者のそうしたセンチメンタルな意見が鬱陶しくて仕方なかったが、近頃はそれは本当だろうと思うようになってきている。数学的帰納法のほうが鬱陶しいという人もおられるから、そうご説明してもいい。ただ、大事なことは、短調であることが大事なのではないことだ。戴冠ミサ曲のように、長調なのに、澄んだ秋晴れの空のように悲しさを湛えた楽曲もある。短調というメカニックなシステムを経由しなくても、作曲家の心の在り様にその泉は湧いているからだ。ピアノ協奏曲第27番の第2楽章が長調でもどれほど悲しいかという感想に多くのモーツァルトファンは賛同して下さるだろう。こういう音楽が「レクイエム・ストリーム」の水脈から生まれ、聴き始めると言葉を失い、僕如きの卑小な存在は語るに及ばずという気持になってしまう。プッチーニのオペラの出来栄えを興奮のままに語りあうことならできようが、モーツァルトでそれをするとあれほど大きかった感動が雪の結晶のように儚く蒸発して消えてしまう。

ピアノ協奏曲第24番では悲しみが自分の死の形にまで昇華し、やがて父の死を予感する時が来る。その霊感に従って死を意味するニ短調で書いたドン・ジョヴァンニは「レクイエム・ストリーム」に属するオペラとなったが、父の訃報をザルツブルグから聞いてまず書いたのが「音楽の冗談」だったのは、それが書きかけであったことを割り引いても謎とされている。管弦楽編成が問題の2年半に書いたディベルティメントと同じであるこの作品はジャンルとしても同種に属しており、ザルツブルグ音楽界、楽団、楽師のパロディに他ならない。それを冗談音楽と見てしまうとわからなくなる。そうではない、父もその一員であり、彼に学び彼を超えてきた息子の回顧でもあるが、作曲という高度なエンジニアリング作業でプロ同士の会話が成り立った特別な父子の、エンジニアにしか理解できないエンジニアらしい贈り物であり、レオポルドが知ったらまんざらでもないと喜んだだろうというのが僕の印象である。息子も尋常でなかったが、手紙から否応なく感知される父のプラクティカルな能力、素養、思考力も常人の域をはるかに超えていたからだ。

ストリームはやがて完結する。それこそが、見知らぬ男から委嘱されて完成を見ずに残された「レクイエム ニ短調 K. 626」であったのだ。僕のモーツァルト物語も、いずれはそこを終点として歩を進めていくことになるだろう。

 

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